放課後、帰路へ急ぐ僕を、彼が引きとめる。どうしたのと返すと彼は何も言わないままその坊主頭に似合わないような深刻そうな顔を浮かべ。

「急だけど中野さんとなんかあった…?」

 この質問に僕は答えれなかった。

「いやぁ実は昨日部活終わりに教室に忘れ物して取り行ったんだ。外ももう真っ暗ででも教室に中野さんいたんだよ。あいつ部活もやってないのになんでこんな時間に、それに電気すらつけずって変に思ってたら俺見たんだよ。中野が一人でずっと泣いているとこ」

「俺も何がなんだかわからなくて、教室の電気つけちゃって。そのまま声かけたんだけど、咄嗟に逃げられちゃって………。それがずっと気にとどまった状態で最近仲良いお前ならなんか知ってるかなって」

「知らない」

 少し眉をしかめてしまい、普段より強くそれを否定した。

「桑原俺はお前良い奴だ。この前だって宿題やり忘れてもノート写させてくれてほんと助かってる。中野さん助けたってのもそうだ。俺あんとき凄くお前に尊敬した。いつも大人しいお前がそんな事したって普通に凄いことなんだと思う、男だと思った。でも女を泣かすのだけは辞めろよ、マジで。そんなのお前、男じゃないぞ」

 彼の初めて見るしかめるようなまるでどこかで見た表情や、声のトーン。そして意味深という懇親を込めるような言葉には僕は何も言い返せなかった。僕には尊敬される資格も存在しなかった。

「俺っていつも馬鹿だからさ。説得力とか全く伝わらないのかもしれない。だけどもこれだけは絶対を持って言える。女を泣かすのは何であろうダメなんだと思う。女子ってさ、気が強い人も多いけど、どうしても男には敵わない部分があると思うんだ。ほんと変な話、花とかそんなイメージ強いじゃん? だから優しくしないといけないと思うんだ」

「じゃあ俺、そろそろ行くわ、お前も一緒来る?」

 彼は部活のバッグを軽く振って僕を誘う。僕はそれに首を横へ動かす。すると彼は思ったよりも残念そうな表情を取った。

「そっか。じゃ頑張れ……俺のヒーロー」
 
 彼の最後の言葉も思考に閉ざされたまま、今度は家で晩飯の頃合いとなった。今日はやけに喉に通らない気が。弁

 これは思考に囚われているせいなのか。思考の渋滞とはこの事を指すのか。入り込ん事が一向に抜けきれない状態だった。

 兄や母が他愛ない会話をしながら食べている最中、僕は黙々と箸に詰まんだものを無理に喉に通らせる。父も母も一度来たクラスメイトが実は難病を抱えているなんて思うわけないだろう。誰ももうすぐ死ぬなんて思わないだろう。

 ご馳走様と言い立ち上がり食器を片した。そしてリビングの戸を開け自室へと先戻る。視界も空間からも、全てひと気を消したかった。

 でもこの少し溜まった嫌な空気を出そう。僕は小さく息を吸い、ため息を吐いた。

 部屋のドアノブに触れた瞬間、背後がかかる声。

「ちょっと出かける」

 何気もない一言だった。

 兄が夜に出かけるなんてそう多くない。そんな余裕を持つ兄を今だけ羨ましく感じる。兄は部屋に入る。そしてものの数秒、廊下へと出てきた。そこには季節外れの上下ジャージ姿で、両手はとある物でふさがる。
 
 兄が自室の前で見ている僕に近づき。

「はいこれお前の」

 片手に持った昔父が使ったフルフェイスヘルメットを当たり前のように渡される。まさかと思いなんでと問う、しかしながら兄は話を聞かず、先行くぞとだけ言い残され兄は本当に玄関へ向かった。

 すると今度は真後ろにあるリビングの戸が開く。

「あんたたち何してるの? 今から出かける気…?」

 眉を落としながら目を細め、心配そうな表情を浮かばす母に僕は誤解を解こうとしたが先越された。

「おうっ! ちょっと息子借りてくぞ!」

「もぉ。お父さんみたいな言い方しないで。あなたもちゃんと私の息子でしょ?」

 兄の冗談に母が酷くため息をついた。このやり取りを僕は何度も見たことある。父親の下らない口癖の一つ。よく僕や兄を連れ、出かける際母に言ってた。母はいつもそれにクスと笑うがこれほど酷くついたのは今日が初めてだ。

 母もやはり因縁に近い、心残りという物がある存在し今もそれに邪魔されているのだろう。

「すぐ帰っから! ほらグズグズしてねぇで、行くぞ」

 動かない僕を兄に袖から掴まれ、共に強引に急かされる。僕は聖徳太子のように左右から言葉が投げ入れられ、振り切る余地がなく靴を履いて首を回すと母の表情が大分落ち着き始めた。

「気を付けなさいね」

 その言葉挙句兄の後ろに乗せられ、夜の街をバイクで走らせた。誰かの後ろに乗るのはいつ以来だろうか。数年も前だ。兄がよく高校生の時買い物ついでに僕を乗せそのまま適当にこの周辺を走ったりもした。

 若干固いシートの感触も、兄の胴に回した腕も前より少し伸びていた。

 しかしよくよく思うと、一歩間違えれば落ちるというわずかな恐怖も存在し、信憑性にも欠ける。胴以外にも自分の腿を兄のわき腹に挟み、体勢を崩さないよう整えた。

「こんな時間にまでどこ行く気…?」

 ヘルメットに装着しているインカム越しで、一体どこへ向かってアクセルを捻っているのかわからない兄に訊いた。すると嫌な機械音と交じりながら返答された。

「お前がよく知ってるとこだ」

 いつもとやけに違う静かに落としてのトーン。これは機械音との接触で露となったでのか。疑いたくなるくらいまるで不機嫌さとも言えるその声に、僕は心辺りなんてものは何一つも存在しない。

 結局その会話だけが最初で最後となり、後は耳鳴りに近い風の音。そして辺りはもう繁華街を通り越した。

 都会でもなければ中心区以外は基本辺り薄暗く、人の存在も薄れる。そのせいかここだけ一気に治安というのが悪そうに見える。

 今となっては珍しい電球型の古い信号機。そしてその先には存在したのは河川敷だった。

 坂を下り侵入禁止という文字の看板を勝手に進行し砂利道に繋がる。振動が少し伝わりながら徐行し、停車した。

「ここがわかるか?」

 エンジンを切りライトが暗闇に消えた途端言った。どこなんてものはあの信号機でわかっていた。それでスモークで周辺は少し見えずらく、答えを見て答える為ヘルメットを外した。

「うん…わかるさ」

 霧のような視界から外れたここの景色僕は知っている。僕が初めてコレを乗った場所だ。

 辺り半面コンクリート、そしてあとは砂利と草が混じるこのただの河川敷という空き地。日中はまれにいる釣り人や、子供のたまり場とかでもある。

 ここに来たのは三年も前のある晩。母と父が、夜出かけ家で兄と留守番を頼まれた。中学二年だった僕は夜に外出なんてもってのほかで普段通り夜は寝ると考えていた。そんな時高校三年生だった兄は受験勉強に毎日ペンを持つ時期であった。しかし夜遅くまでやるのが日常でよく小腹を空かす。それでコンビニに行くよ言い出し、何故か僕も着いてくるよう付き合わされた。

 最初は荷物持ちだと思った。しかし、それは兄の嘘。一度ここに来て試しに乗せられた。自転車なんてものとは大きさも何もかもが違く、重量感溢れた重機として、最初はただただ恐怖心しかない、現実を覚えさせられた。

「いつ見てもここはいい。俺も昔よく父さんにここに連れられて釣りしに来たんだ。お前は外出るの好きじゃないからな。だからずっと俺を連れて出かけた。それで俺も一度乗ったんだ。ほんと息子になにさせてんだよなあの人って」

 重んじる兄の目にはここがまるでふるさとかのように映っているよう。懐かしを出しそれを小さな笑いとして生まれ、僕は素っ気なく横を向いた。

 彼女の真実を知ってしまい通常の心というのが奪われている。思考の中には常に彼女に支配されている。

 この鼓動の微妙な打つ速さも、だ。

 僕はかけたメットを再び取り、言った。

「そんな事を言いにわざわざここに来たの? 僕は明日も普通に学校あるんだ。昔話なんて十分。だからもう………」

「親父が――――……」

 僕の言動に入り込んできた兄の表情は懐かしを消すような真剣な顔だった。それよりも兄が父を親父と呼んだのは、今初めて聞き僕は自然と被る手の動きが止まった。

「………何で、これを残していったんだと思う…?」

「…捨てるのに困るからじゃないの。廃棄するのだって相当………」

「あほか、そんな安い理由なわけねぇだろ…!」

「…………!」

 胸に指ささるような強い言葉は吐かれたのは初めてだ。そのせいで僕は不意にも動揺してしまう。 

 すると兄は再び表情を穏やかに戻し共にタンクを手を置いた。そしてなでるかのように摩りながらそこにそっと、笑みを零し言葉まで零した。

「母さんもほとんど使ってないのに捨てろなんて一切言わない。大事にしてとか絶対壊さないでねなんていつも慎重な顔して心配かけてくれるんだ。それで夜になってたまに懐かしい顔しながら思い出すんだ。あの時はずっと楽しかったって」

「そう、なんだ」

 兄の今の表情が母のその時の顔だと想像できる。

「捨てたくないんだ。母さんも結婚する前は特に、これでいろんな街へ父さんに連れて行ってもらったって」

 そんな丹念に近い奥深さがコレに全て詰め込まれていたとは僕は何も知らなかった。17年生きてきた中で一度も見せたことがなかった、兄のその優しすぎる微笑にはどこか寂しげな感情が混じっているように見える。

 これには家族のメモリーケース。いわゆる初めも終わりも見てきた。そしてこれまで背負わせてもいた。そんなまるで父の形見かのような物母も捨てるわけにはいかない。鉄の塊でもこれは家族の一員として認められたんだ。

 今思い出した。小学次家族でキャンプに行った事を。アウトドアが好きな父が全て揃えたキャンプ道具を車へ積み車内隙間が減る中、父だけは一人、バイクで行った事がある。あの時は単なる趣味だからだと思っていた。しかし今思うと違う。趣味なんかでなく僕らが窮屈にならないよう一人多く家族のために動いたんだ。その後も長時間運転でも疲れた顔せず父のおかげでその日が楽しいと思えたんだ。

 父の事を思い返すと同時に僕の胸は、熱くなってくる。

「さっきの母さん、なんだかまだ思うような表情だったんだ。あれから約一年。父さんがいなくなってからずっと変わらない。あの人さえいなくならなければ何もかもが……」
 
 強く拳を握りしめ、歯を擦れる程、感情が出るのを堪えた。家族が変わったのは、全て父親の存在が消えたことだったのだから。これだけはどんなに思い返しても変わらない。変えられないんだ。

 母さんの冷めきるような顔も、僕はもう見飽きてしまう。すると兄がバイクから離れ、僕へと一歩だし寸前にまで来て、そして頭に手を触れた。

「お前は偉いな。いっつも家族をだけは隠れてでも気にかける。そんなとこ親父みたいだ」

 僕はその言葉に嬉しさは勝たなかった。

「重ねないでよ。僕は家族の中でも全くもって別物じゃないか。性格も何も似ついていない。それななのに、僕と父を重ねるのも比べるのも好まない」

「確かに親父はあの日家を出た。それは俺も後から知ったことだ。言いづらいとか言えなかったとかそんな理屈も勿論あった。だけど、それはまだ知らなかったんだ。親父はお前にだけ一番心配かけたくなかったんだよ」

 父が僕を一番気にかけていたとでもいうのか。あんな家族平等に同じ顔しか見せない人がそんな事するなんてありえない。

「母さんや俺なんかよりも。ずっと、ずっとお前だけを見て気にかけてた。ほんと羨ましいよ。俺はずっと父さんにかまってたのに。小さい時なんて手伝いいくつしたと思ってんだ? 好かれた素質を知りたいくらいだ」

 あんな顔の堀が深い凛々しい表情を持つ人柄だったのに、普段温厚でしかない。夕飯も亭主関白のような態度も取らず、手伝いなど、家族が揃ってからじゃないと一切手を触れなかった。

 口数の少ない僕を、兄程ではないがたまに絡んでくる。それは中学生になっても。でもいつの日か僕が思春期という時期を迎えたのか、普段変わらない態度を示していても、父は僕に絡んでくる事は度々減った。それは兄も母も同じ。変わらない様子のまま口を開く回数が大幅に減った。きっとそこから僕の知らない合間に亀裂というのが存在していたのだろう。


「だから樹生、お前はハズレなんかじゃない。もう悩むな。親父のことも全部。お前自身好きなようにしろ誰にも囚われるな。これが俺に言った父さんからの最後の伝言だ。しっかり耳で覚えてろ」

「…うん」

「ありがとな。ずっと気にかけててくれて。お前は正直父さんにすら興味ない人だと思ってたよ」

 僕はそれに小さく頷く。改めて父親との別れを告げたような感じだ。

「それと、あの件もだな、ほんと影でこそこそと世話しか焼かねぇ奴だなお前」

「どういう意味?」

「最近ずっと後ろめたい感じ出てるよな」

 突然と不意を突かれ、言葉がいくら探しても見つからない。きっとだ。

「俺のバ先、お前も知ってるだろ? 意外に近いって。そんでもって学校終わりの高校生がよく来るんだよ。今日たまたまその時間が被ってさ」

「で偶然和葉ちゃん来て、あの子俺が働いてる姿見てビックリしてたよ。でもこの前とは全く違ってななんて言えばいいか、元気ないというか、覇気が薄いって言うか。人間ってやっぱ目を見てわかるんだ。心情とかだったりって………」

 そんな水晶玉を操る占い師が言うような言葉だが、僕は胡散臭さも何も感じる事はなかった。

 その後兄はシフトの時間ももう終盤だったとのことで待ってもらい近くの公園で少し話したという。しかし悪気ない兄に自分の病気を打ち明けることもできず、ただ泣く事しかできなかった。その姿に兄も困惑する事しかできず彼女はずっと、僕の名を言いながら泣いていたという。ここまで全て、兄の口から出た言葉だ。

「お前は女を泣かすようなのじゃないのはわかる。でもどんな理由であれ女を泣かせたのは変わらない。そこをしっかり自覚しないとダメなんだ」

 兄の真剣さ誇る表情に僕は僅か逸らすことしかできなかった。兄にも言えるような事ではないからだ。今にも打ち明けそうな言葉を喉元限界まで来るが、どうにか引くよう抑え込む。


 その後、斜面上となった草原に二人寝そべった。上には満遍なく広がった闇に飲まれた空。鼓膜には、風で靡く四方広がる草が摩擦した音。その静かな夜風が服へと入り込み身体を涼ませる。短く伸びた草が首や袖から出た肌に触れ、チクという痛みを覚える。

 そんなのも気にならないほど、視界には闇に成果をもたらすにも関わらず、小さな星粒が見えた。

 兄がそのどれかを指し、掴み取るように言った。

「いつかさぁ親父がずっとやりたかった事、俺らで叶えね?」

「…生涯共にするなんて、暴落する恐れしかない」

「そんじゃ決まりな!」

 兄は咄嗟に自慢の身体能力を生かしての跳ね起きを混ぜながら言った。そんな姿に圧倒されるも隣の僕はできるわけもなく、普通に身体を起こした。

「今の会話の中で了承の意なんてあった?」

 そんな言葉にも兄は耳を貸さず、斜めから見上げるその横顔には、また空に向かって微笑んでいることが分かった。その空に向かって、息を吸い。

「いいな、お前が71になっても俺はずっとお前だけの兄貴だ。だから忘れんな…」

 突然のように話を変え言葉を進め首を降ろして兄は僕へと向く。その工芸ガラスのような透き通る目が僕の目に入った。

「恥じねぇ兄でいる。だからお前も恥じない弟であれ! 女を泣かすなんて、男が一番やっちゃいけねぇんだ。そこをお前ちゃんとしてこい。あの子はずっとお前を待ってるよ」

 月夜に照らされた兄の影が、僕にはまだ程遠く感じた。

 河川敷を出る頃には、既に人もさっきより少なくなってきていた。さっきよりも思う。夏の夜は寒い。

 そのせいでインカム越しで、品のないくしゃみを何回も鼓膜に響かされる時間。そのたびに僕は心臓がドキリとし、思わず振り落とされそうになる。

 それでも、兄という存在の大切さを17年渡り、やっと理解できたのかもしれない。

 体育館であった式典も終わり。終業式も残り担任からのホームルームとなった教室への帰り道。周囲からする、夏休みというワードで溢れた、絶えない雑音。

 その中に紛れる感じに、一人黙としながら歩いていると、後方から気軽に僕を呼ぶ声がした。

「……なぁ桑原、この後用事ない?」

 一瞬振り返ると、後ろの席事小田君だった。用事あると普通聞くのだが、用事ないなんて初めて聞かれた。

「…うん」

 戸惑いを隠せないまま遂、返事を出してしまう。すると彼は後ろ走りし、僕の前に回り出た。

 僕の答えにか、なんだか嬉しそうに口角上げ、笑顔を浮かべた。

「そかそか! 俺も今日ミーティングしかないから暇なんだ! せっかくだし夏だ! 遊ぼーぜ!」

 彼の脳内にも夏休みしかなく、非常に喜ばしく見える。

 そして僕はクラスの男子から初めての誘いを受ける。だが乗り気なんてものは微塵もあるわけなく、流れに逆らうよう、考えた途端。

「ホームルーム終わったら教室に残っててよ! 俺すぐ戻っから。じゃ頼んだわ!」

 強引に話を止める彼はそのまま前へと小走りした。

「…ちょっ、急に言われても」

 彼は引き留めようとした。手まで伸ばすも、野球で積んだ身体能力には逆らえず。僕の言葉も耳にする事なく込んだ廊下をすり抜けながら、先走って教室へ戻って行ってしまった。

 午前中で下校となり、担任からの注意事項も終え、次々と教室から人の存在も気配もなくなり、掛け時計の秒針が鼓膜に響くこととなった空き教室。僕は彼を待ちながら、時間つぶしという盲目で、この前買った小説を読んでいた。クラスメイトの秘密を知った僕のさよならまでの記録。

 今まで読んだこともないジャンルで、一文字頭に入れる中に、その人物がどうしてもとある人物と混合してしまい、上手く頭に入らない。

 時計の分針が半周をも上回る。彼は一向に来る気配がない。あんなおちゃらけな感じでも僕をからかうような人格ではないのはわかる。よく授業中にも寝てたり早弁をする生徒だから、何かしらいちゃもん付けられ説教でも受けられているのだろうか。

 読んでたページで区切りをつけ、購入時に付属したしおりを挟み、それを鞄へとしまった。

 そんな時だった――――――――――――。

 教室後方のドア、空く音がした。誰もいるはずもない廊下、からだった。

 それか僕が本の世界へと溶け込んで、気づいていなかったせいか。

 僕は勝手に約束され、挙句に遅すぎて待ちくたびれという事もあり、少々呆れ顔で振り向いてやった。やっと来たなんて小さいため息と混ぜながら呟く。しかし振り向いた直後の視界からは、そんな声も呆れ顔も一瞬にして吸い取られるように消えた。

 唖然のように口をポカンとするしかできなかった。教室のドアを開け入ってきたのは、小田君。彼でもなく、ましてや下校の遅い僕を注意にしに来た担任でもなく――――――彼女だった。

 それはいつもと違い少々困り顔というか、何やら警戒心という不信を抱くようなそんな表情で。

 その展開に動揺してしまい、どうもと改まって一瞥すると、彼女のまた改まって、どうもと返した。

「…どうしたの?」

「桑原君こそ………」

 お互いまだ目を合わせれるほどの状態ではなく、言葉に表すと決まづい。その感情が、身体からヒシヒシと伝わる。

 数秒経って言った。

「えっと…。これはどういう状況でとらえていいのでしょう」

 この場の状況に完全に動揺してしまう僕ら。視線を斜めへと逸らす姿は彼女もまた動揺してる。

「それはこっちが知りたい。どうして君が…?」

 僕はその場で端から端へと距離があるまま、向かって問いた。

「大事な話があるから教室に呼ばれたの……かんちゃんに」

 深刻そうな表情のまま言い、彼女はそれに警戒心を抱いていたことが分かった。

「奇遇だね、僕も君と同じ人物に用があった…………」

 なるほど…。これ以上喉元からを言葉を出す前に、この現状に把握した。

 さっきから怪しい風は、吹いていた。本を読んでいても外からする、数多い運動部の汗と涙の結晶が詰まったような掛け声。それなのに野球部だけ練習がオフというわけがあるのか。内の野球部はオフが少ないで有名なのに。

 お互い少し沈黙してしまい、更なる空気の悪化の中、まさかと思い咄嗟に窓の外を見た。

 まるで思い描くように、野球部が次々とグラウンドに現れ、整備をしたり、素振りをしたりなど、練習をし始めている。

 その数ある坊主の中からと、筋繊維をちぎるほど開眼し、瞬き一切もせず全体を見渡していく。すると明らかにこっちに気づいている一人の少年を見つけた。

 間違いない、彼だ。数人グループとなってそれぞれペアでキャッチボールをし、こっちを向いているのにも関わらず相手が投げたボールは、彼に目掛けてきている。

 投げた本人も彼の予測しない行動にかなり焦り、彼に向け、罵声に近い多大なる一声を掛ける。僕も思わず声が出そうになった。

 危ない………!!! 

 ボールが彼の額に擦れる寸前、事後を見れず思わず目を瞑ってしまった。

 そして薄々開けていくと、なんとも彼は既に華麗にもそれをキャッチし、投げ返した。投げ返された相手も思わず、取り損ねる程の動揺だった。

 口がポカンとする中、僕に向かい、グッジョブというまるで球を投げてくるかのようだった。

 かっこが良い奴だ。普段とは想像が変わるほど違い、別人とも言える。僕は彼のギャップを知った。そしてようやく窓から彼女に目線を変えると、彼女は未だ悩むような表情を取り、口も一本線のように閉じていた。

 そして、突如ハッとなって拳を掌へと乗せた。

「つまり今の桑原君、実は中身がかんちゃんである! 上手く変装していると!」

 そう僕を指してきた。まるで推理ドラマかのような探偵の大場所。彼女の普段見てきた笑みを僕は久しぶりに見た。それがどれだけ気を楽にしてくれるか。

「どこぞのマジシャンだ。正真正銘僕さ」

 今はそのノリに付き合うのが優先だと感じ頬を摘まみ横へ伸ばし、化けの皮とは言わんが、それなりの事実を証明した。

 すると彼女は僕さを、ボクサーとわざと捉え、そんな真似るような動きを取ってから一人ケラケラと、教室の風を全て飲み込むよう笑いあげた。

「アハハー。君のノリツッコミも少しは上達したんだね!」

 彼女は大袈裟にも腹に手を抱え、おまけに遠目だかほんのり涙を浮かべそれを指で掬った。

「おかげ様で……」

「じゃあ私、かんちゃんいないなら帰るね、君もそろそろ帰った方が……」

 彼女が僕に背を向けた、廊下へと一歩踏んだ瞬間。

 待って!――――

 彼が僕にくれたチャンスを捨てるわけにはいなかった。

 僕の一声は、自分で驚くほど、大きく、少し喉が乾くような気がした。

 そして、教室から出て行く彼女の動きを、止める事ができた。

 彼女は振り向いてくれるも、笑みを浮かべつつ若干困り顔となっていた。

 小首を傾げる彼女に少々言葉を募る。


「僕が君を呼んだんだ」

 咄嗟に吐いた嘘に動揺なんてしていなかった。

「そうなの…?」

 彼女は再び警戒心抱く返事をされ少々焦るも、何も言わず頷いた。

「君と話しがしたい」

 すると彼女は突然のように黙り込み、軽く俯くよう履いているローファーを見だした。

「なんで……病気の私は、嫌なんじゃなかったの? 自分で言ったじゃん。もう関われないって」

「…」

 確かに言った。そう言った。完全なる図星で黙る事しかできなくなるも会話を止め。小さく息を吸った。

 あのさ………なんて息を吹くように始まり、自分がもろに見苦しく感じた。

「嘘ついてたんだ。僕も……」

 黙のままする彼女の頷きを見て、それに続けた。

「……前話したでしょ? 昔病院まで運んだ子がいたって」

 僕はこの二年溜まっていた全てを、今。彼女に打ち明け始めた。僕はもう思考を制御できていなかった。止まらないほど、次々口からは言葉が出る。

 その子を今も心のどこかで追っていることも。それを忘れたくて、降りたことも。

 そして、病気であると知った彼女とその子が僕にはどうしても重なってしまうことも。

 家族にすら言っていない、誰にも打ち明けるべきでない、云わば私情とも言える秘密を、彼女に。

 恥ずかしさも情けなさも、ここに全て置いていくよう吐き捨てていった。

 それにどれだけ時間を使っただろう。日がわずかにも傾くほどだったのだろうか。僕は少々声を立て続けていたからか若干喉がからき。いつのまにか瞼を落としてもいた。

 彼女を視界から遠ざけた。

 僕は僕に呆れた、そして彼女からも呆れられると思った。こんな過去に縛られ視感し現実というただ時間の草船に流されている男に。
  
 怖い―――――――肌が委縮し、無数の粒が出そうなほど。

 今の彼女の表情すら思考に入れたくないほど、だった。

 これほど人に恐怖を抱いたことはないだろう。叱られる怖さや、凶悪な人に立ちはだかるなんかよりも、今の中野和葉が何より怖く感じた。

 言い終えた僕は口を結び、これ以上何も言葉を発せれなかった。

 彼女の笑い声を聞くまでは。

 僕がようやく目を上げると彼女は、普段のように笑っていた。まるで数日溜め込んだかのように教室全体へ響き、僕のほうへと少し風を与えるような感じだった。そんな呆然とする僕に。

「過去を見ている事は悪い事ではないんだと思うよ。それほど大事に大切に想ってるってことだよさ!」

「私だって忘れたい過去たくさんあるもん。今でも時々考えちゃう事だってないこともないけど……。でもねそんな今の自分って、過去を超えれたからこそいるんだと思う。過去がないと、どうしても未来には辿りつけないからね」

 傍から聞いたらそんなの当たり前かのような彼女の言動が、僕にとってはどの偉人の言葉よりも脳に響いた。壁は昇るためにある。ハードルを飛ぶためにある。当たり前だった。

 過去という壁にいつまでも迫られながら僕は登ろうとしてもすぐ降り、勝手に聖域という閉ざされたのを造り、その中にいつまでも閉じこもっていたんだ。

 その部屋に。鍵をくれたのは、どうやら君のようだった。

 僕はもう一度彼女に謝り彼女もまた謝る。

 彼女はこれを仲直りと言った。

「ならここで約束! 私の病気を学校で知っているのは担任と他少ない教員たち。生徒では恐らく君意外知らないと思うからだから絶対公言禁止ね! かんちゃんにも。あっ! お兄さんにもね! まさか言ってたりしてないよね…?」

「もちろんしてないよ。今後もそれは継続していく」

「そかそかー。それなら良かった! あっ! それともう一つある」

「……君は調子良いとワガママになる癖が」

「ちょっ! 今大事な話だから、水を差さない!」

「ごめん」

 すると突然笑みを隠してまで真剣な表情を取る彼女。

 少し息を呑んだ。

 一間開け、何だか気恥ずかしそうな感じに出し、言った。

「私の事、間違っても好きにならないで」

「…」

 そんな改まる感じに尚且つ初々しさなんてものも漂うよう様子に、ただただ反応に困った。

「ちょっともー。何か言ってくれないと、物凄く恥ずかしいじゃん。私の緊張返してー」

「君は相当馬鹿なのかも」

「ムムっ、私は顔が広いその分モテるんですー!」

 彼女は僕の言動にケチをつける感じでムッとなって舌を出してきた。そんな彼女の姿を目で一周して言った。

「…君は細かい事でも目をつけて馬鹿にしてきたりそれほんとムカつくし、恩着せがましかったりも図々しくて意地汚いことも多い」

「ちょっとー。いくらなんでもそれは言い過ぎじゃない? 確かにそうかもしれないけどぉ……でもどうも受け入れ難いし、聞き流すわけにはいかないなぁ……」

「それでも君の顔立ちは本当に華やかなんだと思う。なんなら身なり、容姿すべても整っていると思うよ」

 曇りががる彼女に向かってなんとも自分らしくない言動を取った。しかしそれは本当だ。綺麗に潤いとツヤのある黒髪も、そのアーモンドのような左右対称した目元も。一本一本生命を象徴するしならかな指も。今まで人間をここまで凝視したことなんてないが僕にもこのくらい思える。

 でも突然こんな事口にした自分でも凄く驚くし、むしろ情けなくもなった。するとだ、今のが思ったよりも効いてしまったか俯き、シュンとなってしまう彼女。しかし俯いたのはそれだけではなかった。

 頬に手を当て始め、しばし目が泳いだ。

「……急にそんな事言わないでよ。どうしようもなく照れちゃうじゃん……」

 普段とは違うまるで独り言に感じる声量控えめの声。冗談ではなく、本当に照れ顔が浮かび出し、描画進む事にどんどん顔が紅潮していく。きっと日に浮かぶ陽のせいではない。

 それを更に覆い隠すように手の内に秘めた。

 その少し、可愛らしくも見える様子に同情という屈することない。僕の言動は終わらるわけにはいかなく、まだ告げることが残っているから。

「だからって、僕までも君を好きになるのは流石にお門違いと言わない?」

 するとパッと顔から手を離し、急いで風を扇ぎ、顔の熱を冷ます彼女。

「うーん…。特に根拠とかないんだけどぉ。でもこんな哀愁漂うけど、いつ死んでもおかしくない僅かな女を好きになってしまったら、どしてもキツくなるじゃん? 私が逆の立場だったらそう考える」

「それじゃまるで、好きでもなければ、平然としていられるような………」

「君なら、そうじゃない?」

「いやそこまで、無気力なわけが…………………」

 小首を傾げつつ訊いてきた彼女は、まるでそうであってほしいと言わんばかり。願いを込めた意味での小さな微笑みを浮かべた。それが僕には、なんだか儚げな表情にも感じる。

 既にここまで関わりを持ち、そして彼女にはいつか万が一が起きる。そうなった時の僕の心情はどうだろうか。そんなこと今までも経験がない。親戚の葬式に参加した時も、その人物とは関わりが薄く悲という気持ちはあったがそれだけだった。それ以上持つのは違うのかと思った。

 辛いのは違いないだろう。それなのに、これ以上親密となると、どうなるかなんてその時にしかわからない。虚無感に襲われるだとか今は何もって深く考えたくないし、考える必要も、ない。

 彼女は今、生きているのだから。

「人間ってね、とても不思議な生き物なの。自分の都合でよく方向性をコロコロと変わるんだよ。それは恋でも同じ。いつ好きに傾くか、嫌いに傾くか。そんな天秤を常にみんな持っているんだよ。だからその結果なんて、誰もがわからないし、いつそうなるのかもわからない」

「…うん」

「君が私を好きになる可能性も、私が君を好きになる可能性も。お互いもって50:50(フィフティーフィフティ)なんだよ?」

 まるで一種の哲学かのような、どんな難しい公式よりも解けない気がする。それでも正しい道には近いのだと思う。

 僕はそれに少々、息苦しくも感じた。でも迷わず、

「ならないよ」

 即答した。

「うんっ、そうして」

 この瞬間が僕にとって長くも感じた。初めて彼女が活気ない声の返事を取った。

 これは彼女の頼みであり、奥を行けば意志なのだろう。だから僕はその約束を破らない。

 君を好きになんてならない。

 僕は覚悟と共に、荷を纏め、彼女の方へと向かった。

「君の行きたいところに行こう。僕が連れて行くよ」

「病気の私が重なるんじゃないの…?」

 背丈がそれほど変わらないのに、わざと少し膝を落とし下からのぞき込んで聞いてきた。そしてその控えめな言葉に、僕は小さく息を吐いた。これは溜息ではない。

「まさか。もう捨てたよ」

 すると彼女は一瞬驚くような表情を取ったが、すぐ笑みに戻った。

「これで君も前へ進めたね。うんうん。めでたしめでたし、よかったよかった」

「…うんっ」

 変わらない彼女の笑顔を見て今の僕はどんな表情だろうとふと思った。すると彼女が僕の顔が変だったか片眉上げた。

「大丈夫、私もこれで進めるから」

 心配をかけ同情をしているのか。彼女が何に進めたのかはわからないがそれでも問う事も何もせず、この溜まった空気を出す為、教室を出、お互い駅まで向かい、帰路した。夏休みを迎えるとともに僕は決めた。

 彼女にとってどれほどなく。そして有り余るほど充実にさせてあげたいと。


 過去を捨て、今を見る。

 
 これを胸に刻んだ。