ああ、そんなこともあったなあ。目の前の女性の周りをくるくると囲んで踊る光の音符たちを五線譜にさらさらと写し取りながら、クラヴィアは思い返す。五十代くらいのこちらのマダムは、最近旦那が若い女の子に良い顔をしていることで不満が溜まっていて、ここに来ることにしたらしい。
「よし」
最後のきらめきを楽譜に落として、さっと全体を確認する。部屋の奥で積み重なった書類を片付けていたオレンジ色の頭に、できたよ、と声をかけると、ひょこんと顔を出した。
「おー了解、今度はどんな曲かなー。俺の予想はスローテンポでムーディな色気ある曲!」
「残念はずれ。アップテンポなロックだよ」
「んん、正反対じゃねえか。俺見る目ねえのかな」
お客のマダムに軽く挨拶をしながらリトが出てきて、軽口をたたき合う。
「じゃあ、弾きますね!」
ギターを構えてふっと息を吐いてから、リトは力強く弦を鳴らし始める。その音色は、出会った時と変わらない。アップテンポのロックでだって、あの頃のスローバラードと同じしなやかで優しい音。いつだって大切そうに音を扱う男だ。
ほわんほわん、と音明かりが生み出されて、マダムを包む。最後の音がジャーンと響けば、その光はふわっと明るくはじけて消えた。マダムは憑き物が取れたような顔をしていて、ありがとうねとお礼を言って帰って行った。
こんなことを初めて、もう一年近くになる。
出会ったあの日から、クラヴィアはリトの家で一緒に暮らしている。この家、広いから、となんだかリトは嬉しそうだった。
あのときの怪物は、あれ以来この街には現れていない。でも、世界各地で見られているみたいで、音獣と名付けられてたびたび紙面を騒がせていた。音使いのいない地域では、街一つがなくなってしまったこともあるらしい。いつどこで必要とされるかわからないからと、拠点を持たずに各地を転々とする、渡り音使いなんていうのも出てきたと聞いた。
とはいえ、過ぎてしまえば対岸の火事だ。落ち着きを取り戻したこの街で、リトとクラヴィアはほどなくして音使いの仕事をするようになった。二人一組で役割分担している音使いなんてほかに聞いたことがないけれど、それなりに上手くいっていると思う。
「うわっ」
玄関先に出ていたリトが突然叫んだので、クラヴィアはどうしたのと問いかける。リトは呆然とした様子でこちらを振り向いた。
「この前、怪我で落ち込んでたお兄さんに演奏聴いてもらったじゃん」
「ああ、あのお金持ちの」
「そう……その人から、なんか、すげぇもん届いた……お礼だって……」
リトの後ろを覗き込むと、
「えっ……」
「グランドピアノ……」
リトがわなわなと震える。
「俺はギターしか弾けねえんだけど!」
お前弾ける?と噛み付くような勢いで聞いてくるのに、楽器はできないってば、と肩をすくめる。
「だよなぁ……あのお客さんさ、きっと楽器の中で一番高そうだからって何も考えずに買ってるぜ……好意でくれたもの、返すに返せねえし、返したらもっとすごいものくれちゃいそうじゃん……えー……うちに置いておいていいんかな……」
リトは考えるのをやめた様子で、あのあたりに置いてくださーい、と運んできた人たちに頼み始めた。うち広くて良かった、とぶつぶつ言っている。
そう、二人の仕事はそれなりに上手くいっている。これだけ客に目をかけてもらえるくらいには。
それにしても。
「ピアノかあ」
クラヴィアはそっとため息をついた。
「あの、こんにちはー」
ド、ソ、レ、ラ。リトが試しに、と言って恐る恐るピアノの鍵盤を人差し指だけで押している音が細切れに響く。そんな、騒動が落ち着いて一息ついていた部屋に、透き通った高めの声が飛び込んできた。
「ん、お客さんかな」
俺出てくるわ、とリトが告げて、少ししてから、二人よりいくらか年下くらいの女の子を連れて戻って来る。腰丈ほどの長いブロンドヘアに、ざくろのような赤い目。目と同じ色のフレアなワンピースが年相応で可愛らしい。こんにちは、とクラヴィアが声をかけると、彼女は目を見張って固まってしまった。なんだろうこの反応は。
「どうかした?」
「あっ……いえ! お兄さんお綺麗なので、びっくりしちゃいました」
少女はにこっと笑う。首を傾げた拍子にその金糸がさら、とゆれた。
「えーなんだよ、クラヴィアも罪な男だな」
「クラヴィアさんって仰るんですね」
リトが茶化すと、少女はまた笑みを深くした。
「私、ノーテって言います。よろしくおねがいします」
そう言って、ぺこ、とお辞儀をする。この街には相も変わらずクラヴィアたちと同年代の人間がいないので、女の子特有の身のこなしがなんだか新鮮に思えた。
「ん、俺はリト。んで、さっきも言ったけど、こっちがクラヴィア。よろしくな!」
リトが人懐っこい笑顔で応える。この街でずっと育ってきたリトだから、同年代の女の子相手に少し焦ったりするのかなと思えば、特にそんなことはないらしい。そういえば、一緒に暮らし始めるまでは、時間がありあまっていて本なんかもよく読んだと言っていた。物語をよく読む人は、基本的に人の扱いが上手い。
「ノーテさんは、ここに音明かりで癒してもらいに来たってことでいいんだよな?」
「あ、えっと、そうですね」
ノーテは人差し指をあごにあてて、うーんと考えるような仕草をしながら言った。
「とりあえず、旅の疲れを癒してもらおうかな」
「そっか、了解。じゃぁ、クラヴィア、頼んだぜー」
「うん」
クラヴィアはいつものようにペンと五線紙を手に取った。
気持ちを一気に目の前の少女に集中させる。
午前に来たマダムと合わせて今日二度目だからか、普段よりも気力を使う気がした。
数秒して無事にきらきら回り始めた音符たちを、一音ずつ五線紙に写し取っていく。
「ん?」
ノーテが不思議そうに首を傾げた。
クラヴィアは書きあがった楽譜を一目してから、リトに手渡す。
「今度はどんな曲? カントリーミュージックとか?」
「はい、はずれ。クラシックだよ」
「また外れた……あれ、なんか今回短くねえ?」
「うん、でも終わりまで書いたはずなんだけど。ちょっと目が疲れてるのかも」
「へぇ、そんなことあんだ」
リトが楽譜を見ながら、ギターを手に取ると、ノーテはますます首を傾げた。
「あれ、クラヴィアさんは弾かないんですか?」
「ん、ああ、曲自体は俺が弾く。こいつ楽器はできねえんだよ」
親指でクラヴィアを指差しながら、リトはなんてことない様子で答える。
「で、俺は作曲が今はできねえから。二人一組の音使いとしてやってんだー」
それを聞いたノーテは、目を丸くして、ぱちぱちと瞬きする。二人一組の音使いなんて聞いたことがないんだろうな、とクラヴィアは思う。
音使いは社会的地位が高いから、作曲力を持っているのに楽器を弾かない人間は普通はいないし、作曲力を持っていないのに一介の音使いを凌ぐほどに奏力を磨いているような人間も、そう多くない。ましてそんな二人がめぐり合わなければならないとなれば、それはもはや天文学的数値の域だ。
そう考えると、ここでこうしているのが奇跡に思えてくるなあ、とクラヴィアはぼんやり噛み締めた。毎日リトの演奏を聴いて、曲を書いて、たまに酒場に顔を出して、ジュースで乾杯したりして。この街の人たちともすっかり顔なじみになった。曲を書けば喜んでくれる人がいる。とても穏やかで、幸せな日々を過ごしているという自覚があった。
「え、じゃあ、あっちにあるピアノは……?」
「ああ、あれはもらいもん! 俺らじゃ使ってやれねえってのにさー」
大変だったんだぜさっきまで、とリトがぐちぐち言っているのが聞こえて、クラヴィアはその意識をぐいとこちらに引き戻す。とりあえず弾いてあげたら、と促すと、リトはそれもそうだな、と言ってギターを構えた。
「まあ心配しないでくれよ。一応、腕にはそこそこ自信あるからさ」
ポーンポーン、とチューニングしながらのリトの言葉に、ノーテは、あ、はい、と戸惑ったように答えた。
リトの演奏が終わって光がはじけ消えると、ノーテはにこっと微笑んだ。
「ありがとうございます。二人一組って新鮮でしたけど、なかなか良い気持ちになりました」
「ん、よかった」
リトがニカッと笑い返す。ノーテの微笑みを花だとするなら、リトの笑顔は太陽みたいだ。ぽかぽかと暖かい空気のなか、クラヴィアは、ねえ、と声を出す。
「ノーテさんは、他の音使いにも演奏してもらったことがあるの?」
さっきから気になっていた。クラヴィアが楽譜を写し始めた時や、リトがギターを構えた時の反応からして、ノーテは音使いについてある程度の知識がある人に見えた。
「あ、はい、それもありますよ」
「それも?」
含んだ言い方に聞き返すと、ノーテはえへへと頬をかいて、実は、と語り始めた。リトとクラヴィアは、いったい何事だろうかとその身を乗り出す。
「実はわたしも、音使い、なんですよね」
騙すみたいなことしてごめんなさい、とこちらにウィンクしてみせたノーテの言葉に、リトが一拍置いて、はぁっ?と間抜けな声をあげた。
ひとまず落ちつこう、とクラヴィアが淹れた紅茶をリトがズズッと啜る。
「つまり……ノーテさんは渡りの音使いというやつで、世界各地に現れている音獣から守るために、音使いのいない土地を見廻っていて、この街もそうだと聞いたから来てみれば、音使いを名乗っているやつがいたから、どんな程度の実力か確かめにきた、と」
「はい、そんな感じです!」
「最初から話してくれたらよかったのに」
「あはは、お客さんのフリした方がいつも通りやってもらえるかなと思ってしまって」
あとはちょっと私の悪戯心がうずいちゃいました、とノーテは無邪気に笑う。無害そうな見た目して結構小悪魔だな、とリトが呆れ顔になった。
「旅をしてるって話だけれど、それなら出身はどのあたりなの? ……音使いなら、やっぱりコルド?」
「お、そーだよな、同郷出身かもしれねーんじゃん」
クラヴィアの言葉に、なぜかリトが心底楽しそうにわくわくした瞳を向けてくる。ノーテはそれにふふっと笑って答えた。
「残念ですけど、わたしはもっと西の方から来たんです。コルドには一度行ってみたいと思ってるんですけどね」
ご期待に添えなくてごめんなさい、と彼女はぱちんと手を合わせた。
「ああ、いや、別に。コルドは遠いしわりと涼しい土地だから、夏に行くといいかもね」
むしろ同郷でなくてよかった——頭の中でそう思いながら、顔では笑顔を作る。にしても、とクラヴィアは続ける。
「コルド以外の地域出身の音使いって、いるとは聞いていたけど初めて見たな。本当にいるんだね」
「えへへ、突然変異ってやつですかね。周りには他にこの力を持った人はいませんでしたよ」
最初はあの光ってみんな見えるものだと思ってたからびっくりしたんです、とノーテは語った。
「なあ、それってやっぱり生まれつき見えたってことか?」
リトが真剣な表情で聞いた。
「え、はい、そうですね。この力ってそういうものではないですか?」
「やっぱりそうかぁ」
リトがはぁぁ、とため息をつく。この男は、その『生まれついてのもの』という壁を越えようとしているんだよな、とクラヴィアは改めて思いを巡らせる。今二人一組というかたちでうまくいっているのだから、このままでもいいんじゃないかと正直思ってしまう。でも、リトの夢はそこでは止まらない。
少し、心がざわりと音を立てた。
「そういえば、ノーテさんは楽器は何を使ってんだ?」
クラヴィアがそんなことを思っているうちに、リトは大雑把に自分が音使いを目指していることをノーテに語り終わったようだ。気づけば、演奏聞きてぇな、と目をきらきらさせていた。さっきまであんなに大きなため息をついていたくせに、立ち直りの早いやつだ。でも、だからこそリトなんだろうな、とクラヴィアは心のざわめきを忘れて、ふっと笑った。
「私は、普段持ち歩いてるのはこれ、なんですけど」
ノーテが傍らに置いていた四角いケースから取り出したのは、一挺のヴァイオリンだった。大切に手入れされているものだと一目でわかる。少し赤みがかった華奢なボディが、彼女によく似合っていた。
「うわーめっちゃ綺麗! ヴァイオリンって弾くの難しいんじゃねえの!」
リトが声を上げる。同じ弦楽器とはいえ、ギターとヴァイオリンでは全く演奏方法が異なる。弦に弓を当てて音を奏でるヴァイオリンは、少しの力加減や角度の違いで、途端に音色が濁ってしまう。
「まあ、昔からやってましたから。でも、これは重要な時しか弾かないことにしてるんです。今替えの弦が手元になくて……」
手作りの弦で少し切れやすくて、とノーテは申し訳なさそうに告げた。
マジかぁ残念だな、と目に見えて落胆するリトに絆されたのか、彼女はさらに言葉を続けた。
「あの、私ひと通り楽器はどれも扱えるので……もしよかったら、あのピアノ、弾いたり、とか」
「マジで! あれも弾いてやらなきゃ可哀想だと思ってたんだー。頼むよ」
ノーテが指差したのは、例の何時間か前に届いたばかりのグランドピアノである。確かに一度も満足に弾かれずに埃をかぶっていくのでは、あのピアノも浮かばれないだろう。
「でも、一人で弾いても面白くないですから……」
ノーテはまた悪戯っ子のように笑った。
「リトさん、私とセッションしませんか?」
目で拍子を合わせて、二人は互いに弾き始める。
結論から言えば、二人のセッションは完璧だった。演奏したのは、コルドで作曲された有名なジャズの一曲。
ノーテのピアノが美しく冴え渡り、リトのギターとかけ合う。
即興のセッションならではのアドリブが、全体の良いアクセントになっていて心地よかった。
ノーテのピアノの音色は意外にも結構鋭くて、柔らかく包み込むようなリトのギターをガンガンと刺激した。時には挑発的ですらあるその音たちに、リトの演奏もまた影響されていく。互いに激しく音を追いかけ合っているかと思えば、優しく調和を響かせたりもする。
——ああ、相性がいいのかもしれない。
クラヴィアは純粋にそう思う。セッションして互いの演奏を高め合う、というのは、口で言うほど簡単なことではない。たとえどんなに優れた腕を持っている者同士だったとしても、曲に対する考えや表現の仕方が合わなければ、和音は崩れて音と音が喧嘩し始めてしまう。そうならないし、聞いている人にも心地よいと思わせるということは、この二人はきっと相性がいい。
ポローン、と最後の音が空気にとけていって、シンと静寂が落ちた。素晴らしい演奏は、得てしてその後の時間を止める。それは、聴いた者も、演奏した者も。どこからか聴こえる鳥の声だけが、のんびりと日常を感じさせた。
「……すげぇ」
リトのつぶやきが、止まった時を動かし始める。思わず漏れ出たようなそれは、静かな部屋にとてもよく響いた。
「あはは……なんだかとっても……良い演奏ができた気がします」
ノーテも圧倒されたように言葉を紡ぐ。
「ノーテさん、すごかったな! ヴァイオリンって言ってたけど……ピアノもめちゃくちゃ上手いじゃん」
俺、あの掛け合いのとこめっちゃ楽しくなって気分アガって、それでそれで、とリトが遅れてきた興奮を隠さず言葉を繰り出す。私も、とノーテも答えた。
「リトさんの音は……なんだか、心があったかく、なりますね」
噛みしめるように言われたそれが、印象的だった。
「俺さ、誰かとこんな風にセッションなんて初めてやったんだけどさ!」
リトが感情の勢いのままにドンと机を叩きながら言った。
「めちゃくちゃ楽しかった!」
「……私もです」
ノーテがえへへ、とはにかむ。
「この街にはそんなに長くいるつもりはなかったんですけど」
音使いさんは足りているみたいですし、と彼女は続ける。白くて細い腕で、ピアノの蓋をそっと閉じる。
「でも、リトさんと演奏したら、もうちょっと、この街にいたくなっちゃいました」
そう言って、ノーテは照れたように頬をかいた。
するとリトがはっと思いついたような顔をして、クラヴィアを振り返る。言いたいことはわかる。そうだね、この家は、広いよね。
ノーテとのセッションはきっと、とてもリトのためになる。今まで自分以外の奏でる音楽に、ほとんど触れてくることができなかった彼だから。
リトに向かってうなずこうとして、ふいに心に疑問がよぎった。あれ、自分は。
——自分はどうして、ここにいたんだっけ。
——どうして当たり前のように、ここに、いられたんだっけ。
クラヴィアは、突然浮かんだそれらの言葉を、かきけすように笑顔を作った。
「いいんじゃないかな」
そんな風に言えば、リトは大好きなものを与えられた子どもみたいな顔をした。そして一連のやりとりにきょとんとしているノーテの方に向き直る。
「ノーテさん!」
「はい?」
「あのさ……ここでしばらく一緒に音使いやらねぇ? 部屋はたくさん余ってるんだ」
そんでさ、うちのピアノももっと弾いてやってくれよ、とリトが笑いかけると、ノーテは驚いたような顔をする。
「え、いいんですか……?」
「いいって!」
なあ?とリトが振ってくるから、笑顔を貼り付けたままうなずく。
「仕事に関しては、僕たちもこのままやるけどね。でも、歓迎するよ」
だって、ここは、リトの家だから。
「な、ノーテさん、クラヴィアもこう言ってるし!」
「そこまで言っていただけるんでしたら……ぜひ」
よろしくお願いします、と彼女はにこっとしながら首を傾げてみせた。
「おう、よろしくな! ノーテさん」
「ふふ、呼び捨てでいいです。一緒に住むんなら、他人行儀なのも嫌ですから」
女の子らしい無邪気な笑みを浮かべるノーテの言葉に、リトがそれもそうかと言い直す。
「よろしく、ノーテ!」
「はい、よろしくおねがいします、リトさん」
「俺のこともリト、でいいけど?」
「いえ、たぶんリトさんたちの方が年上ですから。私はこのままでいいです」
ノーテが今度はクラヴィアの方を、赤い瞳でまっすぐに見てくる。
「クラヴィアさんも、よろしくおねがいします」
その瞳になんだか吸い込まれてしまいそうだった。
「よろしくね、ノーテ」
この時の自分がきちんと笑えていたのかはわからない。
「ん、じゃあ俺買い出し行ってくるなー!」
「いってらっしゃい」
「へへ、留守番よろしく」
リトがはにかむように笑って、出かけていく。
ノーテと一緒に暮らし始めて二週間が経った。ノーテは、音使いとしての仕事はできればヴァイオリンでしたいので、と言って、連日ヴァイオリンの弦に必要な資材を集めに出かけていて、あまり家にはいない。彼女が自らの手で作ると言っていた弦には、珍しい材料がたくさんいるらしい。
——気を、使わせているのかな。
店代わりにもなっている家の扉にかかる『休み』の札が、風で揺れてカタンと音を立てる。クラヴィアはそんな昼下がりの部屋で、一人ぼんやりとたそがれる。
いつもノーテに対して、一定の距離感を保って、入らせないようにしている自覚はある。リトは気づいていないみたいだけれど、きっと彼女にもそれは伝わっていて。でも別に、彼女のことを嫌いとか、そういうわけではない。時々家にいるときにしているセッションは、間違いなくリトにとって良い刺激になっていると思うし、リト自身もノーテのことを気に入って、曲の解釈や弾き方についてなど、いろいろと話し込んでいることもあるみたいだった。なによりここはリトの家であって、自分は、言ってしまえば居候。リトのためになるなら、それでいい。
羨ましいのかもしれないな、と自嘲する。
ああやって、リトと音楽ができる彼女が。ああやって、ピアノを弾ける彼女が。
クラヴィアはおもむろにグランドピアノの蓋を開いた。ノーテが弾いているから、埃もつもらず、綺麗なものだ。
ポーン、と鍵盤を叩く。
ピアノはあたりまえのように、クラヴィアが叩いた通りに音を返した。
右手はこの白鍵、左手はこの黒鍵から、だったか。
静かに乗せて構えてみれば、ああ、やっぱり、覚えている。手が自然に動いて、たおやかな音たちがついてくる。鍵盤の上を、走ったり、歩いたり、踊ったり。思った通りの世界が、この手から生まれる。描いた通りの、色が描ける。流れるようなグリッサンド、とびはねて踊るピチカート、クレッシェンドで登りつめた先は優雅にレガートで、そうしたら今度は。
そこでぱた、と手を止める。
駄目だ、自分はもう弾かないと決めたのだから。自分にはリトのような、あんな暖かくて、優しい音楽は奏でられない。
ピアノの蓋を、静かに閉じた。
こんな風に、音使いと関わるつもりも、なかったのにな。
なんの因果か、あの日たまたまリトと一緒にいて、思わずあんなことをして、今ここにいる。引き止められたのが嬉しかった。一緒に暮らそうと言ってくれたのが、嬉しかった。必要としてもらえたことが、嬉しかった。
——結構弱いな、僕も。
クラヴィアは、はぁっとため息をついた。
ため息をついたその時、カタ、と響いた物音は、いつもなら気づかないくらいの微かな音だった。
だけどなぜかとても大きくクラヴィアの耳に届いたそれに振り返ると、そこには、材料集めから帰ってきていたのだろうノーテの姿があった。
クラヴィアの口から、あっと小さく声が漏れる。
「聴いてた、よね」
恐る恐る尋ねると、ノーテはこくん、と頷いた。彼女が開けた扉がキィィッと閉まる音がした。
「……ごめん、忘れて? 気の迷いだから……僕はもう楽器をするつもりは」
「クラヴィアさん」
クラヴィアの声をノーテが柔らかく遮った。辺りはとても、とても静かで、窓の外で、はらりと葉が落ちる音すら聞こえそうだった。
「……なに?」
「実は私もひとつ、嘘をついていました」
「え……?」
ふわりと微笑みながらされた突然の告白に戸惑う。ノーテはすっと人差し指を立てる。長くて細くて美しい指だ。ピアノを弾いている人の手だな、と場違いなことが頭をよぎった。
「……私、本当は西の出身なんかじゃないんです。クラヴィアさんと同じです。コルドから来たんです」
「コルド、から……?」
声が震える。身じろぎしたら、右手がピアノの縁にぶつかって、ジン、と鈍い痛みを感じた。
「はい」
ノーテはやっぱり微笑みを浮かべたままで、なんだか少し怖かった。あたりは相変わらず静かで、彼女の声はよく響いた。
「だから、クラヴィアさんのことも、最初から知っていました」
そう言って、ふっと天井を仰ぎながら少し目を眇める。
「天才ピアノ奏者クラヴィアって。有名、でしたもんね」
とん、とん、と一歩ずつ、彼女はピアノの方に近づいてくる。
「だから、少しでもあなたの演奏を聴けて、光栄です」
キィッと優しく蓋を開ける。
「私にとってあなたは、憧れ、でしたから」
ノーテの指によって、鍵盤からポーンと音が生み出される。
ド、ソ、レ、ラ。
リトの拙い叩き方とはまったく異なる慣れた手つきは、黒と白のその楽器から、濁りのない透き通った音を引き出す。
ついばむように鍵盤を叩いてからまた指を離したノーテは、クラヴィアの顔を覗き込んだ。
「……ねえ、クラヴィアさん。こんなところで何をやっているんですか? いったい、何がしたいんですか? 中途半端に演奏だけ人に任せて、自分は楽器ができないだなんて嘘ついて」
「僕は……」
「ピアノ。弾けなくなったわけじゃないんですね」
ノーテは俯いて、独り言のように呟いた。
「逃げてるだけなんだ。リトさんの夢を利用して、隠れ蓑にして」
そんなの、馬鹿にしてるのと一緒じゃないですか。鍵盤を見つめながら小さくそう言った彼女が、どんな表情をしているかはわからなかった。
「僕はただ……」
言いかけたその時、ガチャッと扉が開いた。
「たっだいまー、なんか果物屋のおっさんがりんごたくさんくれたからこれでなんか……あれ? なんかあった?」
大きめの紙袋を片手にばたばたと帰ってきたリトは、二人の緊迫した空気を感じ取ったのか、怪訝そうな顔をする。
「……いえ、なんでもないですよ。おかえりなさい。りんごならアップルパイとか作りたいですね!」
「お、いーな、アップルパイ。もうそれ夕飯にしちまうか!」
ノーテが瞬時にパッと笑顔を作って、リトと話し始める。クラヴィアも、おかえり、と軽く手をあげた。
——僕はただ、リトの役に立てるならと思って。
言えなかった言葉が、自分の中で嫌に響き渡って、ぐわんと世界が揺れる気がした。
リトとノーテがわいわいと盛り上がりながら作ったアップルパイは、なんだかぜんぜん甘くなかった。いつかの酒場で、リトと二人で飲んだりんごジュースの方が美味しかったなあ、とぼんやり思った。
それから、なんとなく寝付けなくて、ぐるぐるしているうちに夜が明けた。クラヴィアは小さく息をついて、先ほど淹れたコーヒーをこくん、と口にふくむ。なんでこんなに落ち着かないのか、自分でもよくわからなかった。マグカップをことん、と机に置きなおす。今日も外は晴れている。泣きたくなるくらい、青い空。
「んー、おはよ、クラヴィア。今日もノーテは外かー」
「そう、みたいだね」
トントンと聞こえた足音に振り返れば、起きたばかりらしいリトが、大きなあくびをしながら部屋に入ってきた。とろんとした瞳とまぬけに開かれた口がなんだか少し不細工で、なぜだかそれにひどく安心した。
ノーテは今日も朝早く、空が白み始めるころに起きてきて、居間でぼんやりとしているクラヴィアをちら、と一瞥したあと、何も言わずに出かけていった。
「あっ」
壁にかけられたカレンダーをぼんやりと見やっていたリトが声を上げたので、どうしたの?と声を掛ける。
「なあなあ今日さー、これからさー、ひさびさに親父のとこ行かねえ?」
眠そうな顔をしていたのに、いつのまにやらぱっと花が咲いたような笑顔である。
「親父って、あの酒場の? 僕はいいけど……朝から家あけちゃってお客さん来たらどうするの?」
「いーの、今日はやすみー! 店じまい!」
節をつけながらそう言うリトは、るんるんとなんだか楽しそうで、よくわからないけどクラヴィアもちょっと気分が上がった。
「よーっす、親父ィ! ひっさしぶりに、俺が来たぞー!」
「こんにちは」
カランカラン、とドアを開けて、意気揚々とリトが店に足を踏み入れる。勝手知ったる顔でカウンター席へと向かうので、クラヴィアも着いていく。前に来てから、一ヶ月近くは経っているか。
「おおー、リト! おめぇここんとこ全然顔見せねえでよぉ。この薄情もんが」
リトのことを息子のように可愛がっている酒場の親父は、口では乱暴なことを言いながらも嬉しそうだ。お前もひさしぶりだなぁ、とこちらにも声をかけてくれるので、クラヴィアは軽く頭を下げた。
「いつもの二つ、よろしく!」
リトはぴかぁっと音が聞こえてきそうなほどの輝く笑顔で、注文した。
「おぅなんだ、ご機嫌だな。良いことでもあったんか?」
へいへい、いつものな、と慣れた様子でグラスに氷を入れ始めた親父さんが尋ねる。
「ふふん、秘密」
リトは今度は悪戯っ子のような微笑みを見せた。
「なんでえ、隠し事か」
「いーからいーから。ほらーいつものまだー?」
「ったく。ひさびさだから配合忘れちまったよ。もうちょっと待ってろ」
「はーい」
気心の知れた者同士のテンポの良い会話にクラヴィアはぼんやりと耳を傾ける。
酒場の親父は、ぱらぱらとレシピのようなものをめくりながら、そんな白銀の彼に目を向けた。さすがに長年客商売をしているだけあって、場にいる者全員に目を配るのに慣れている。
「お前さんは逆に静かだな。元からこんなもんだったか?」
「んー……クラヴィア元気ねえ? 俺なんかする? なんかある?」
リトも心配そうに覗き込んでくるので、クラヴィアは急いで笑顔を作った。
「いや、大丈夫だよ。昨日ちょっとよくねむれなかっただけ」
「……そっか。俺にさ、できることあったら言ってよ、なんでも」
「……リトは、優しいよね……」
本当に心配そうに首をかしげて見せたリトに、つい漏らした言葉は彼の耳に届かなかったらしい。ごめん、なに?と聞き返すから、なんでもないよ、と誤魔化した。
「リトはさ」
久しぶりに来ても、やっぱりいつもと同じ味のりんごジュースをしっぽりと飲みながら、クラヴィアはそっと聞いてみる。太陽の光がほわほわと店内を暖めていた。夜には賑わうこの店も、この時間には穏やかなものだ。
「ノーテのこと、どう思ってる?」
「え? ノーテ?」
リトはちょっと不思議そうな顔をして、うーんと考え始めた。辺りには親父がグラスやお皿を洗う、カチャカチャという小さな音だけがささやかに響いていた。
なんつーか、とリトが言葉を紡ぎ出す。
「……仲間? 目標? ライバル? とか、そんな感じ、かな」
彼は、考え考え、言葉をつなげていく。
「俺の周りには、さ。今まであそこまで音楽できるやつなんて、いなかったし。俺は一人で練習してて、誰かと一緒に弾くなんてこと、なかったから」
リトの向こう側の窓からは陽が眩しく差していて、彼の顔を暖かく照らす。
「わくわくするし、すげえなって思うし、だからもっとやりてえなって」
リトの黄金の目は、太陽よりもきらきらと輝やいていた。
ざぁっと店の中を風が通り抜けて、クラヴィアの体を生ぬるく撫でていった。ねえ、じゃあ。
——じゃあ、僕は?
そんな言葉を、ジュースと一緒に飲み込んだ。甘さが控えめな親父特製ジュースはひんやりのどを通って行くのに、どこかざらざらと乾いた感覚が消えなかった。
「……あのさ」
そんなクラヴィアを尻目に、今度はリトが切り出した。
「クラヴィアは、もしかして、ノーテのこと、好きじゃねぇ? 一緒に暮らすの、嫌、だった?」
リトの髪が風でさらさらと揺れた。その素直な瞳は、クラヴィアのことも、正面からまっすぐに射抜いた。
「……どうして?」
少しだけ、声がうわずったのが自分でわかった。
「……ずっと、元気ねえ気が、するから。いつから?って思ったけど、ノーテが来てからじゃねえかなって、思って」
心底心配そうに見つめてくるから、わからなくなる。自分がまるで、価値がある、みたいな。
そんな風に、満たさないでほしかった。
——リトさんの夢を利用して。
ノーテの言った言葉が頭に響く。
こんな風に、優しくしてもらう資格なんて、最初からなかった。
そんなことない、リトの好きなようにすればいい。そういう言葉を、言おうと思って、言えなかった。言えない自分に、嫌気がさした。
やっぱり、もう一度、夢なんてみたら、駄目だったんだ。
そう、クラヴィアは思う。
ああ、なんだか、今度は風が、冷たいな。
*
静寂の中に、たった一つだけ、音がはじかれたみたいだった。ほんとうに、ひとしずくだけ。漆黒のその瞳から、すぅっと水滴が落ちていくのが、なんだかとても、ゆっくり見えた。いつのまにか、親父は洗い物を終えてどこかへ行っていて、店の中は寂然としている。あまりに静かに頬を伝うその涙に、瞳を濡らす彼自身は気づいていないらしいから、リトは戸惑う。戸惑いながらも、その雫を拭おうと手を伸ばせば、はっとした彼から、やめろ、とか細く返された。
「クラヴィア……?」
「ごめん、なんでも、ないから」
ほんとうに気にしないで。うつむいてさっと人差し指で頬をこすったクラヴィアにそう言われてしまえば、わかった、と言うことしかできなかった。
「なあ、クラヴィア。俺……」
言いかければ、クラヴィアがにこっと下手くそな微笑みを向けてくるから、言おうとした言葉が圧されて消えた。さっきまで店に差し込んでいた幾筋もの陽は、気づいたらもう翳っていた。
カタ、と音を立てて、親父が戻ってきた。食材を仕入れていたらしく、お前らなんか食うか?と聞いてくる。クラヴィアがそれに、そうだね、お腹すいてきたかも、と答えながらこちらを振り向いて、どうする?なんて、普通に聞くから、リトも、確かになんか食いてーな、と普通に返した。
リトは、親父の出してくれたサンドイッチをもふもふと頬張る。
「なんだァお前、今度は難しそうな顔しやがって。忙しい奴だな」
似合わねーぞ、と親父が頭をぼふんと叩いてくる。クラヴィアは、少しだけ外に出てくる、と言って居なくなってしまった。引き止める言葉は言えなかった。
「追いかけた方がよかったんかな……」
リトはべろーんとテーブルに伏せてしまう。
「なんだお前ら、なんか変な空気だなあとは思ったけどよ」
親父がグラスを拭きながら尋ねる。
「いや……なんか、泣かせた……」
「ハァ?」
突っ伏したままつぶやくと、親父が素っ頓狂な声を上げた。相変わらずどこかからクラシックが聞こえてきて、リトの耳にゆるりと響いた。
「……ッ、気にしないでって言われても、気になるだろ! だって泣くほどのことだったんじゃねえの!」
ガバリと顔を上げて大声を上げる。うるせぇ、と親父が耳を塞ぐ仕草をした。
なんで、なんも言ってくんねーの。とうつむいて小さく漏らせば、大きな手でガシガシと髪を掻き回された。
「やーめろよ、痛ぇ!」
うっとうしくて、その腕を強く払う。なのに、親父はめげずにまた大きな手を頭にぼすぼすと乗せてくる。
「おめぇがそんなこと言うようになるたァなあ」
恨みがましく見つめれば、なんだか楽しそうな顔を向けられた。
「どういう意味」
「そのまんまだよ。お前はいろんなやつとすぐ仲良くなるが……同年代の友達なんて、あいつが初めてだろ?」
親父がちょっと真面目な顔をするから、リトもきちんと座りなおして、話を聞く姿勢をとる。
「お前らくらいの歳っていうのはよ、誰にも言わねぇで、独りで考え込んで、独りで結論出して、独りで突っ走っちまうもんなのよ」
「……俺もそう見える?」
「あー、お前の場合はあれだな、お前が考え込む前に、周りが気づいて、さりげなく拾ってくれてんだ。ま、お前自身が根っから明るいってのもあるが」
感謝しとけよ、とこづかれるから、むむっと口をとがらせる。ま、でも、と親父が続けた。
「そういう風に自然と人から愛されんのは、お前の武器で、お前の魅力だ」
今度は優しく頭を撫ぜてくる手がくすぐったい。
「でもな、世の中お前みてぇな奴ばかりじゃねぇ」
親父は本当に優しく頭を撫で続ける。リトはうつむいて、考え込んだ。ぽふぽふと頭を叩かれる。
若者っつーのはどうしようもねえなぁ、と親父がひとりごちる。
「人は、誰かが隣で、手をつないで明かりを持って、歩く道を照らしてやんなきゃ、いつかやっていけなくなる。そういうもんだ。わかるか?」
「……わかる、ような気がする」
「じゃあお前がするべきことも、わかるな」
「……うん。サンキュな、親父」
「よし、これ飲んでけ」
「なにこれ」
「アップルサイダー。酒が飲めねえお前らのための新作だ」
親父がコトリ、とテーブルに置いてきたグラスの中では、小さな空気の球が一面に生まれては消えていて、それがとても綺麗だった。こくんと一口ふくむ。美味い、とつぶやけば、そりゃぁよかった、と親父が返した。
「……クラヴィアと一緒に飲みてえな」
「おう」
「俺、行ってくる」
「おう」
グラスの中身をぐびぐびと飲み干す。炭酸が喉にしみた。
店の扉をガチャンと開ければ、一陣の風が起こってリトの髪を揺らしていった。
「あいつ、どこまで行ったわけ……」
店の周りをひととおり探し終えて、リトは家へと帰ってきていた。家の中にもクラヴィアの姿はなくて、ちょっと泣きそうになる。
「どこ行っちまったんだよ……」
ピアノの椅子に腰掛けて、クラヴィアが行きそうな場所を、考えたけれど何も思いつかなかった。思いつけなかった。自分の無力さに情けなくなって、自分たちの関係の脆さに怖くなる。
窓の外を眺めれば、いつの間にか風が結構強くなっていて、このままだと雨も降ってきそうだった。
「……って、え?」
風が。
どんどん強くなる。どんどん、どんどん。木々が煽られてバサバサと荒れ狂う。そして途端に、大粒の雨がぼたぼたと落ちてきて、みるみるうちに外はまるで嵐のような風体になった。
「……やばくねえ?」
リトは独り言を漏らす。
バキィッと音を立てて、赤い稲妻が空を走ったのが見えた。家の窓がガタガタと風に揺れた。
と、その時、家のドアがバァンッと開け放たれる音がした。
クラヴィアかと思って振り向くと、そこには彼ではなく、はぁはぁと息を切らしたノーテが立っていた。
「ノーテか。おかえり、外すげぇ嵐みたいだな」
彼女もこの雨風に急いで帰ってきたのだろうと声をかけると、なにも言わず、濡れた体もそのままにこちらに駆け寄ってくる。
クラヴィア見なかったか、と聞こうとした言葉は思い切り遮られた。
「リトさん、大変なんです! 今すぐ来てください!」
「えっ……」
ガッっとリトの腕を両手でつかんで必死そうに言うノーテに、リトは面喰らう。
「なに、どういうことだよ」
「はやく!」
「俺はクラヴィアを探してて……」
「音獣が出たんです!」
ノーテの言葉に、一瞬息が止まった。
「この嵐もきっとそのせいです……だから、リトさん!」
ノーテが呼びかける。
「私ができたらよかったんですけど、やろうとしたらヴァイオリンの弦、切れちゃって……だから、今音獣を倒せる人は、リトさんしかいないんです。……たぶん」
「マジかよ……」
呆然とした言葉が口から零れ落ちる。はやく行かないと。この街を、この街にいる人たちを、助けないと。そんな考えが次々に生まれるけれど。けれどぼんやりとした頭はそれらを上手く捉えてはくれなかった。
「でも、クラヴィアがいないから、俺……」
「楽譜なら、私が書きます! やってみます!」
「ノーテ……」
「……リトさん。前に聞かせてくれましたよね、リトさんの夢」
動き出せないリトにノーテが声音を落として問いかける。リトの夢。音楽で、人を幸せにすること。音楽で、人を助けること。
「私、リトさんの音楽、大好きです」
ノーテが少し微笑んでそう伝えてくる。
「今行かなくて、どうするんですか」
リトはふっと彼女から目をそらして、それからもう一度その瞳を見つめ直した。
「そう、だよな……ごめん、ノーテ、俺」
「いいんです、急ぎましょう」
ノーテは遮るようにそう言って踵を返し、ぱっとリトの腕をとって駆け出した。冷えているけれど迷いのないその手にひかれるがまま、リトも走り始めた。
家を出た瞬間、凄まじい風と雨と、なにか嫌な気配に襲われた。まだ日は沈んでいないとは思えないほど、あたりが薄暗い。一年前に感じたあの寒気が、背筋を駆け抜けて、ぶわりと鳥肌がたった。
いつもは活気のある街なのに、道行く人は誰もいなくて、みんな家や店の中に逃げ込んでいるらしかった。
暫く走ってから、ノーテが息を切らして立ち止まる。街の中心にある、ちょっとした広場だ。一番賑わっているはずの場所が、今はシンと静まり返っていて、異様な空気に満たされていた。
バキィッと大きな音を立てて、赤い稲妻が重たい鼠色の空を走る。
その光に照らされて、あの時と同じ、狼のようなシルエットが見えた。
真っ黒なペンで思いっきり塗りたくったような、ぐちゃぐちゃとした毛にしなやかな体躯。勢いよく突き立てれば、人一人くらい簡単に殺められそうな鋭い爪。
マグマのように滾る真っ赤な双眸に射抜かれた気がした。
ひ、とリトの喉から息がもれる。
こんなものと、自分は一年前に、対峙したのだったか。
黒紫の身体がぬるり、と一歩踏み出してくる。
自然と、足があとずさる。
一年前は、約束した少女を助けたくて。街を守りたくて。クラヴィアを、信じたくて。
今よりきっと、何も、知らなかったから。
耳をつんざくような音がしたと思えばそれは音獣の吠え声で、空気が大きく揺さぶられて、パリンパリンとあたり一面の窓という窓が割れ落ちた。中にいる人たちの悲鳴がここまで聞こえて来る。
「……リトさん」
ノーテが呼びかけて、リトの手をとった。
「私もいます、大丈夫です。やりましょう?」
リトより少しばかり背の低いノーテがこちらを見上げてくる。その声音はどこか、小さい子どもに言い聞かせる音色に似ていた。
ふわ、と言われるがままに頷こうとして、慌てて我に帰る。リトはふぅっと深呼吸して、あたりを見回した。
誰もいないように思えたこの空間にも、よく見渡してみれば、家の中から心配そうにこちらを伺う顔がたくさんあって、そのうちには知っている顔もあった。
——感謝しとけよ。
笑いながら親父が言った言葉が脳裏に浮かぶ。
そうだな、親父。そう小さく声に出した。
「……大丈夫そうですね」
そんなリトを見てノーテがほっと息を吐いてから、すぐさまキリッと音獣の方に向き直った。
「あとのことは、お願いしますね」
そう言いおいて、作曲しはじめる。リトには見えない光の世界が、作曲力を持つ彼女には見えている。
さらさらと、紙にペンを走らせる姿を見ながら、リトは心の中でつぶやいた。ごめんなクラヴィア、落ち着いたら、ゆっくり話してえよ。
*
「本当、駄目だな、僕は……」
リトを置いて、酒場から逃げてきたクラヴィアは、町外れの川辺に座り込んでいた。リトのいつもの練習場所である草原の、さらに先の方。ぼんやりと歩いていれば、ささやかな水音が聞こえて、気付いたらこんな場所まで入り込んでいた。たくさんの広葉樹が、あたり一帯を囲んでいる。日差しをやわらかくさえぎる緑たちが、外界のざわめきからもクラヴィアを匿ってくれているようで、居心地が良かった。ゆるやかに流れゆく水にひたりと指先を触れさせれば、その冷たさで頭もすこし冴えてくる気がした。
まばたきをした瞬間、すぅっと透明な雫が目からこぼれおちる。
慌ててぬぐったけれど、また新しい雫がいくつも生まれては流れ落ちてゆくから、終いには諦めて、流れるままにしておくことにした。
涙の感触を頬で感じながら、なんで泣いているんだろうとか、いったいこんなところで何をしているんだろうとか、そんなことを考えた。リトは今頃どうしてるだろう。きっと、困らせてしまっている。
いつのまに、こんなに世界が難しくなってしまったんだろうな。
「天才」などと呼ばれ始めたのはいつからだったか。
ごく普通の家に生まれた。父も母も音使いという音使いの家系だったけれど、コルドではそんな家はそこそこあって、特別にも思われなかったし、思っていなかった。父はチェロ、母はハープを弾いていて、小ぢんまりとしているけれど陽がたっぷり入る、小さな店を営んでいた。何の楽器がしたい?と聞かれた時にピアノを選んだのは、本当になんとなくだ。強いて言うなら、白と黒のはっきりした色合いと、重厚なのに繊細な佇まいに、目を惹きつけられたから。父も母も、クラヴィアの器用さや身に纏う雰囲気が、ピアノに似合っていると言ってくれた。
今思えば、他の楽器を選んでいたら、全く違う人生を歩んでいたかもしれない。それこそ、ギターなんかを選んでいたら、もっと普通の人生を送ってこれたのかもしれない。
しかしこれもまた、運命というやつだったんだろう。
音使い家系に生まれた者たちは、基本的には専用の学校でその術を学んでから世に出る。音使いの力のひとつである作曲力が顕現するのは十歳ごろ。それまでは、自分の決めた楽器に触れて、親しんで、もう一つの力である奏力の基礎固めをしておくというのが一般的で、クラヴィアも例に漏れず、そうして育った。
ピアノを弾くことは、本当に楽しかった。はじめのうちは、右手に集中すれば左手が、左手を気にかければ右手がおろそかになったものだけれど。でも自分の手で音が生まれては消えていくのが面白くて毎日ずっと触れていれば、クラヴィアの利口な指先は、いつのまにやらなめらかに鍵盤を叩けるようになっていた。ピアノは、単音しか出すことのできない楽器と違って、やろうと思えばいくらだって一人で旋律を重ねられて、和音を奏でることができる。同じ音色が織りなす繊細で美しい世界を、自分の指で細やかに作り出していける。自分の部屋に置かれたグランドピアノは、クラヴィアにとって、どんな遊びよりも魅力的だった。クラヴィアの紡ぐ繊細な世界は、人のささやかな心の機微を丁寧に掬いあげられるかもしれない、と。そう両親や教師は言ってきて、クラヴィアもそういう風に自分の音楽を活かせていけたらいいな、と漠然と、だけれど当たり前のように思っていた。
クラヴィアが普通とは違う、と気づいたのは周りの方だった。作曲力が現われた頃のことだ。音使いというのはもちろん音明かりの楽譜が見える人たちの集まりだから、人の楽譜も見られるし、楽譜を見れば、だいたいどの程度の作曲力の持ち主なのかはわかる。クラヴィアの作曲力は平々凡々で、町の身近な音使いとしてやっていくには及第点かというくらいだった。
音使いの力の上限は作曲力によって決まる。あとはどれだけ奏力を磨いて、その上限まで力を出せるようになるかだ。クラヴィアも、自分のポテンシャルの限界まで力を発揮できるように、せいぜい頑張ろうと励んでいたはずだった。
それが、ある時。
「お前、なんで……」
「こんなことがありえるのか……?」
そんな呆然とした友人や教師たちの言葉は、今でも忘れていない。
その日、クラヴィアは、限界を超えた。越えようとしたわけでもなく、なにか特別な思い入れがあったわけでもなく、いとも簡単に。
クラヴィアは、見えた楽譜の通りに弾いただけだ。弾き始めると、楽器も音明かりで光り出す。そこまではいつも通りだった。いや、もしかしたら、いつもよりちょっと機嫌が良かったとか、体調が絶好調だったとか、そういうことはあったかもしれないけれど。
気づいたらもう、ありえないほど眩しくて、手元が見えなくなるんじゃないかと思うほどに眩しくて。でも見えなくたって、クラヴィアの指は思った通りに鍵盤の上を踊って、華奢でたおやかな音の世界を紡ぎ上げていった。ただただ、音を追いかけるように手を走らせた。
演奏を終えて、はっと我に帰れば、周りにいた人たちはみんな唖然としていて。一人が、ありえない、とつぶやいたのを皮切りに、ざわめきが辺りを包んだ。クラヴィアが、彼の持つ作曲力では到底出せないはずの力を出して見せたのだということを、クラヴィア自身は、周りの言葉から知った。
この先のことはあまり思い出したくないな、と川べりに芽ぐんでいる草を指先で戯れにいじりながら、クラヴィアは思う。川の水でひんやりと湿り気を帯びた柔らかい感触が気持ちいい。
噂はあっという間にコルド中に広まった。最初の頃はまぐれだと言われた。なにかの気のせいだと勝手に納得された。イカサマを働いているのではないかと言う人もいた。だけど、何度も同じような演奏をするうちに、そんな声は聞こえなくなっていった。
そうすれば今度は、クラヴィアを悪く言う人と、稀代の天才だともてはやす人の二手に分かれ始めた。
「作曲力はそんなに高くないのにねぇ」
「何かの間違いではないんですか?」
「でもうちの息子が見たって」
「こんなの音使い史上初ですよ」
「どんな教育と環境であんな才能を」
「親御さんはいたって普通の音使いで……」
「あの子の何が特別だったんですかねえ」
「正直教えられることなんてないし、あんなの手に負えなくて」
「なんであんなやつが」
「世界中のどの音使いよりも優れた天才と言えるでしょうね」
「ものすごく練習したんでしょうね」
「生まれ持ってのセンスってあるんだろうな」
「天才様はいいよな」
きっと一生分の噂をされたと思う。なにもかもを、聞き飽きた。出歩くたびに、視線とざわめきがついてまわった。それなりにいたはずの友人たちも、気づけばクラヴィアのそばから離れていった。教師だって、純粋にクラヴィアを見てはくれなくなった。
最初はただ楽しんで遊ぶように弾いていたピアノを、いつしか弾かなければならない、と思うようになっていった。お前の価値はそこにしかないと、周りの声がそう言った。クラヴィアを嫌う声も、もてはやす声も、どっちだって、結局は同じだった。
あの時、学校には通い続けたけれど、それ以外はずっと自室にこもっていた。グランドピアノがまんなかに置いてある、ほどよく片付いた部屋。乾燥した空気のなかで、窓から覗く淡い水色をした高い空をぼんやり見やりながら、ポーンポーンと鍵盤を叩いた。
そんなクラヴィアを唯一純粋に心配し、穿った見方をせずに接してくれたのが両親だった。
「音楽はね、人を幸せにする力を持ってるんだよ」
父はそう言った。
「だからこうやって、音使いっていう仕事は何代も受け継がれて、ずっとこの世界に存在し続けてる」
「そのことが音使いの誇り、でしょ。もう聞き飽きたよ、父さん」
昔から聞かされた話を適当にいなそうとすれば、存外真剣な顔をされて驚いたのを覚えている。
「なに……?」
「……お前自身が音楽を楽しめないなら、音楽から幸せをもらえないなら、やめたっていいんだぞ」
その時の父の顔はただひたすらに心配の色を乗せていた。隣に座っていた母が頬に伸ばしてきた手はあたたかかった。
「音使いの家に生まれたからって、音使いにならなきゃいけないなんて決まりはないんだ」
——お前が毎日幸せに生きてくれればいい。
乾ききった心にその言葉はじんわり沁みこんで、またたく間に雫に変わって、目からあふれてこぼれおちていった。ぎゅっと抱きしめてくれる母の腕の力強さと、頭に置かれた父のぬくもりに、心が熱くなってまた泣いた。
それでもピアノを弾きたいと言ったのはクラヴィアだった。その魅力を、知っているから辞めたくなかった。それに、周りに言われる自分の力は、良い方向に使っていけるものであるはずだったから。音楽は、人を幸せにする力をもっている。「誰より優れた音使い」と言われるのなら、きっと「誰より人を幸せにできる音使い」であるはずだったから。だから続けようと思った。
部屋の窓を開け放って、毎日ピアノを弾き続けて、純粋に楽しむ気持ちもだんだんと取り戻していった。
噂もざわめきも、いつまでたっても消えなかったけれど、きっといつか優しい未来が見えるものだと思っていた。
その日は、吐く息が白く凍るような寒い日だった。いつもは別々に眠るけれど、その日だけは暖炉のある部屋で、家族三人揃って眠りについた。北から吹いてくる風が窓をガタガタと鳴らした。外があんまり寒いから、ふわふわと軽い羽毛布団の感触も、隣で身じろぐ父の背中も、すうすうと聞こえる母の寝息も、よけいにあったかく感じた。
「……クラヴィア……クラヴィア!」
クラヴィアを揺さぶり起こしたのは、はたして父だったか、母だったか。もうあまり覚えていない。起きた瞬間にクラヴィアを背に乗せたのは父だった。それは覚えている。
走る父の上から見えた世界は、一面に滾る赤だった。
この景色は、一生忘れられそうにない。
火をくべたままにしておいた暖炉が出火の原因だろう。けが人がいなくて幸いだった。そんな風に言われて、この事件は終わった。
暖炉があったのはクラヴィアたちが眠っていた部屋で、その部屋は焼け落ちることなく残っていて、だからこそクラヴィアも両親も生きている。それに反して、両親が店として使っていたスペースと、そのすぐ隣に位置していた、クラヴィアの部屋はほとんどが燃えてなくなっていた。だけれどその食い違いを、誰も深く追おうとはしなかった。
置いてあったものも、しまってあったものも、飾っていたものも、全部が消し去られた部屋に、真っ黒なグランドピアノだけが、その原型をとどめたまま燻っているのが、なんだかひどく怖かった。ギィィと嫌な音はするけれど、鍵盤の蓋を開けてしまえるのが恐ろしかった。こわばった指で白鍵を抑えれば、ボォンと鈍く濁った音が聴こえた。その音は、どこかとても遠くで鳴っているみたいで、繊細さも、気品さも、音楽の生むきらめきも、そこにはなかった。
しばらく親戚のもとで暮らすことになった。ピアノの無い家だった。両親は、愛していた店がなくなってしまったことに、きっと泣いていたけれど、クラヴィアにはそれを見せなかった。ただクラヴィアの頭を優しく撫でてくれた手が震えていた。
少し落ち着いてから、学校に顔を出した。同じようにピアノを弾く者たちのなかに、どこか歪んだ笑みを見つけて、その時たちまちすべてを察した。一瞬頭に血が上ったけれど、その熱は瞬くうちに勢いをなくした。
ああ、だって、結局。
——自分のせいだ。
そう思った。
実力別にクラス分けをされるこの学校で、クラヴィアとクラスメイトだった彼らは、必死に努力を重ねてきたものたちだったはずだ。自分がピアノなんてひいたから。音楽を純粋に高めていた彼らに道を違わせた。音楽を続けたいなんて言ったから。両親から大切な音楽をする場所を奪った。ピアノを弾き続けたりなんてしたから。たくさんの人の希望を、未来を黒く染めてしまった。
怒る資格なんてないと思った。泣く資格なんてないと思った。すべての原因は、自分だったから。
両親もクラヴィアも、あの炎のなかで助かったのは偶然だ。火の手は遠くにあったけれど、もしも異変に気づかず目覚めていなかったら、きっと今こうやって息をしてはいられなかっただろう。
どうして、自分のピアノで人を救えるなんて思ったんだろう。どうして楽しいなんて思ってしまったんだろう。自分のピアノは、むしろ、人を不幸にするばかりのものじゃないか。
それから、最低限のものだけ持って、コルドを出た。音楽から遠いところに行きたかった。両親は別れを泣いて惜しんだけれど、そうしたいならそれでいい、と言ってくれた。二人の涙を初めて見た。いつ帰ってくるの?という言葉に、そのうちね、と曖昧に笑った。自分と一緒にいてもきっと不幸にするだけだから、もう顔を見ることもないかもしれない。
今ごろ、どうしているのかな、とクラヴィアは遠い故郷に想いを馳せる。自分が望んだことだけれど、随分と離れたところまで来たものだ。旅の資金は、行く先々で働いて稼いだ。言葉もそのなかで覚えた。コルドから遠くなればなるほど、音楽を本気でする人も少なくなっていった。
黄緑に萌えている草のうえに、ぱたりと寝転ぶ。名前も知らない広葉樹の葉のあいだから、空が見えた。コルドよりもあたたかい場所に位置するこの街では、空を幾分低く感じる。そのことがなんでか怖くて、視界を塞ぐように両手をかざした。細長くて、左右によく開く指。指より短く揃えられる爪。コルドを出てから数年経った。だけどいつまでも、この手はピアノを弾く人の手の形をしている。
風が頬を撫でていく。流れた涙が空気に変わって、クラヴィアの体から熱を奪った。冷たい雫が目尻から耳へと伝って、髪に落ちる。木々のざわめきに混ざって街に住む人たちの声が遠く聴こえた。
空を鍵盤に見立てて、ちょっとだけ指を動かした。弾いてないから、許してほしい。音は全部、心の中だけで歌うから。だからどうか、許してほしい。リトに初めて書いた楽譜は、穏やかなバラードだった。長調だけれど繊細で、優しいけれど切ないあの曲は、きっとピアノにもよく合った。
無数の雫が空から降ってきた。すでに涙で濡れていた頬が、痛いくらいの雨に打たれて、もうこのまま、自分という存在も溶けてなくなってしまえばいいのに、なんてそんなことを思った。開けていると雨水が入って痛いから、だからそっと目を閉じた。
閉じた目をクラヴィアにまた開かせたのは、強い雷の音と、そのあとに広がった人々のざわめきの気配だった。この街は、にぎやかだけれど平和な街だ。治安もいいし、事件も少ない、明るい声の絶えない街だ。なんだか嫌な予感がして、重い体を起き上がらせる。ドク、ドク、と心臓が早鐘を打っているのがわかった。人々の慌てふためく恐怖の音色は、やむことのなく聞こえ続けていた。
——なにか、あったんだ。
クラヴィアは当然のごとくその発想に至る。この感覚に、背筋に伝わるこの寒気に、覚えがあった。こめかみを滴が伝う。雨か涙か、それとも冷や汗かもわからないそれを、冷たくなった手で拭う。
つい先ほどまでゆるやかに流れていた川が、雨で水量を増し、バシャバシャと汚い音をたてた。背の高い木に囲まれた場所だ。雷が落ちているならここも危ない。逃げるようにそんなことを考えた。
この寒気は、一年前に感じたそれだ。
ああでも、リトはきっとあの獣の元へ向かうんだろうな、と思ったら、クラヴィアも歩き始めていた。どうせ、こんな自分の生なんて、惜しいものでもなかったから。
嫌な気配を頼りにたどり着いたそこには誰もいないようだった。少なくとも、人と呼ばれる者は。
「一年ぶり、だなあ……」
音獣の背を遠くから目視する。寒気は相変わらずしたけれど、不思議と怖くはなかった。雨は冷たいし、風は強いけれど、なんだかすべてどうでもよかった。
「どこから湧いて出るのかな、君は……」
作曲力は、対象となる者を視界に収めてさえいれば、使うことができる。音獣がこちらに気づいていないうちに作曲してしまうつもりだった。リトはきっと来るだろうから、そうしたらこの楽譜を渡せばいい。いつの間にか持ち歩くようになっていた五線譜とペンを取り出しながら、そう考えた。ペンを構えて、音獣の背を見つめる。
作曲力を持つ者にとって、作曲は簡単だ。気持ちを込めて、視る。それだけだ。
びゅうと大きく風が吹き抜ける。
——それだけのはずなのに。
「え……」
光が、見えない。
風は変わらない世界を見つめ続けるクラヴィアの目を、パリ、と乾かしていった。
気のせいかと思って、ぎゅっと一度目を瞑る。だけれど結果は同じだった。
リトとノーテが広場に訪れるその時まで、いくら見つめても、まばゆく輝く音明かりたちがクラヴィアの見る世界に舞い降りてくれることはなかった。
ノーテが楽譜を書いているところを、茫然と見つめていた。リトがその楽譜を弾きこなすところを、ただ見つめていた。それはまるで、どこか別の世界の出来事のようだった。
いつも通りに優しくてあたたかくて、リトらしい演奏だった。聞いたことのないテイストのメロディーだった。だけど、リトの演奏の色は、いつだって、誰とだって、変わらない。
音明かりが大きくはじけて、音獣は動かない灰色の亡骸へと変わる。そこには先ほどまでの恐ろしさはもうなかった。
辺りを包む、一瞬の静寂。
急速に重たい雲が晴れて、空から陽が差す。地面に広がる水たまりいっぱいに、きらきらと光が反射して、青い空が映った。ギターを弾き終えたリトの髪からぽたりと水滴が落ちるのも、一息ついたノーテが壁にトンと背を預けるのも、全部がスローモーションのように見えた。上下を青に囲まれたなかに、まばゆいオレンジとルビーレッド。灰色にくすんだ亡骸が、彼らの鮮やかさをいっそう際立てて見せていた。
一枚の絵にして切り取りたくなるような、美しく、完成された世界だった。
ずっと握っていたペンが指のあいだから滑り落ちた。何の変哲もないそれは、水たまりのひとつに落ちて、美しかった水面を乱していく。ぽちゃん、という音は、思ったよりも辺りに響いた。
リトがふわっと顔を上げた。カチリ、と目が合う。反らしたいのに、なんでか反らせなかった。リトの口が、クラヴィア、と動いたのがわかったけれど、その声は聞こえなかった。リト、とつぶやこうとして、発することができたのは、「あ……」という意味のない音だけだった。
そんなふやけた自分の声が耳に届いた瞬間、どこか遠い世界の出来事のようだった目の前の景色が、ぐわんとクラヴィアに鮮やかに襲いかかってくる。突き抜けるように青い空も、水に照り返す太陽の光も、家の中から飛び出してきた街の人たちの明るい喧騒も、目をそらしてくれないリトの何か言いたげな顔も、こちらに気づいて駆け寄ってこようとするノーテの靴が立てる足音も、全部、全部うるさかった。目と耳から入ってくる色々が、頭にガンガンと響いた。奥歯をぎゅっと噛み締める。リトの視線を、身体ごと顔を背けて無理やり引き剥がした。痛い、と思った。何が痛いのかもわからないけど、でも確かに痛いと思った。地べたをぐちゃぐちゃに踏みしめて走り出そうとした。遠くに行きたかった。どこか遠くに。ああ、また逃げるのか。コルドから逃げてここにきたのに。そんな言葉が聞こえた気がしたけれど、ぶんと頭を振ってごまかした。駆け出した重い身体は、けれどすぐ前に進めなくなった。
掴まれた右腕がぐいと引っ張られて、身体の向きをひっくり返される。はぁはぁ、と息を切らして背を屈めたリトが、今度はクラヴィアの両腕をがしりと掴みなおした。息も整わないままに顔を上げ、こちらを見てくる彼の瞳は、少し揺れているような気がした。家五軒ほどはあった二人の距離を、数秒で一挙に詰めてきたらしい。リトが元いた場所では、ノーテが街の人たちに囲まれて困ったように笑みを浮かべているのが見えた。
「クラ、ヴィア……」
荒い息の合間に紡がれた声が、今度ははっきり聞こえた。思ったよりも弱々しい声だった。
「逃げんな、よ……」
まるで願うみたいに、そう言われた。逃げる、逃げている、そんなことはわかっている。リトの手を振り払いたくて身体をよじった。
「なぁ、なんかあったんじゃねえの? 俺なんかした? なぁ、頼むから……」
話して。小さくつぶやきながら、リトが俯く。こんな風に弱っているリトを見るのは初めてで、クラヴィアの身体から抵抗する力が抜けた。リトはそれに少しほっとした様子で、もう一度こちらに顔を向けてきた。
「……俺、そんなに頼りなかった? これだけ泣くようなこと、相談できないほど信頼されてなかった?」
真っ赤になったクラヴィアの目元を、リトの親指が撫でる。目、腫れてるじゃん、と彼はつぶやいた。
「どうして……?」
リトの指先から伝わる熱にあてられて、クラヴィアの口から言葉がこぼれ落ちる。ん?と優しい口調で続きを促される。
「どうして君は、そんなに僕によくしてくれるんだよ……」
「どうしてってそれは」
リトが言おうとした言葉を聞きたくなくて、さえぎった。頰に触れていたリトの右手をそっとどけて、クラヴィアは彼の目を見やる。
「僕は、君に優しくしてもらえるような人間じゃないよ」
だから、どうかこれ以上、綿のように柔らかくて、飴のように甘い言葉を聞かせないで。
クラヴィアはまた目を伏せた。
「僕は君から何をもらっても、もう、何も返せないから」
リトが、え?と声を出す。
「……さっきね、二人がここに来る前に、楽譜書こうとしてたんだ。でも、書けなかった。音明かりが、見えなかった。なんでかはわからないし治るのかも知らない。でも、リトにはもう、ノーテもいるから大丈夫だろ」
向かいにいる彼が、戸惑って身じろぎしたのを、空気の揺れで感じた。
あぁ、もういいか。全部告げて、ここからいなくなってしまえば、それで。それがきっと、一番楽なんだ。
空を仰いだら、やっぱり突き抜けるような青色をしていて、なんでか胸が締め付けられた。
ねえリト。僕は君に、大きな嘘をついていた。僕はピアノが弾ける。それもどうやら、かなり上手に。だけれどいろいろあって、辞めて、ここまで旅してきたんだ。
「僕は、音楽で人を救えるなんて嘘だと思ったんだ」
クラヴィアはぽつりと口に出す。リトは何も返さなかった。話がわからないなりに、聞いてくれようとしているみたいだった。そんな彼の態度に甘えるように、昔はピアノを弾いてて、とつぶやけば、驚くような息遣いが聞こえた。一度口から出てきてしまえば、繋がった気持ちがひきずられてきて、みるみる言葉がこぼれ落ちる。
「たとえ目の前の人を救えたとしてもその分だけ、救われない人も一緒に生まれるんじゃないかって。そう思うようなことがあったから。だから、僕は楽器をやめたし、この力も、こんな風に使っていくつもりなんてなかった。……コルドに全部、捨ててきたつもりだったんだ」
川べりでやっていたのと同じように、手を空にかざす。頭にぼんやり浮かんできたのは、故郷で弾いていたピアノではなくて、リトの家に今もドンと構えているそれだった。
「だけど、君を助けるためにこの力を使って、そうして君の音楽を聴いて……君と、君の創りだす世界なら、それができるのかもしれないって。その役に立てるなら、この能力も使っても良いかもしれないって。そう思った」
だからあの日、あの時から、この街に帰る場所をもらった。
「でも、ノーテに言われて気づいたんだ。それってなんて傲慢なことだったんだろう、なんて思い上がったことだったんだろうって。僕はきっと……無意識に、君のことを下に見てたんだ」
風が二人の間を吹き抜けていった。リトの方を見る。一言も発さない彼が、何を思っているかはわからない。
「僕は結局、君の音楽への想いを利用して、自分の居場所を作りたいだけ、だったんだよね。自分を必要としてくれる誰かを作って、安心したいだけだった」
自分勝手な寂しさを埋めさせていた。この男の、純粋な夢と想いにつけこんで。
「僕はそんな、自分が嫌いだ……なのに」
なのに、君のことを、
「手放したくないと、思うから。君に必要とされたいと、やっぱり思ってしまうから」
だから、
「そんな自分が、もっともっと」
——嫌いだ。
うつむいて息と一緒に吐いた言葉は、一瞬で空気にとけて消えてしまいそうだった。ノーテが来てから、作曲力を持つ人間であるという、リトにとっての自分の唯一絶対の価値がなくなって。もしかして必要とされなくなるかもしれないと思ったら、怖かった。そして同時に、作曲力を身につけることも、彼の夢の一つであるのに、それを素直に応援できなくなった自分がいることに、気づかずにはいられなかった。気がついたのに、やっぱりノーテのことを羨ましいと思って、その立ち位置に自分がなりたいと思って。どこまでも彼に必要とされたいと願って。そんな己が、浅ましくて、自分勝手で、嫌になった。
クラヴィアの雨に濡れた銀髪から、雫が伝って、二人の間に音も無く落ちていった。たくさんいるはずの周りの人たちの声はまったく聞こえてこなかった。クラヴィアとリトは、喧騒から隔絶されて、時の止まった、二人しかいない世界に、きっといた。
「……クラヴィアはさ」
リトが沈黙を破る。
「クラヴィアは、俺のこと嫌い?」
答えがわかっていて聞いている、そんな声音だった。静かな問いに、クラヴィアも黙ってかぶりを振る。
嫌いなわけがない。好きだから。だから、この手がしがらみになってほしくないんだ。
「じゃあ」
リトがクラヴィアの手をとって、目を合わせようとする。
「じゃあ、俺のことを好きなお前を、お前が嫌う必要がどこにあるんだよ」
クラヴィアは目を合わせない。
「俺は、お前が一緒にいて欲しいと思ってくれてるの、全然嫌だと思わねえし、むしろめちゃくちゃ嬉しいし、利用されてるとも思わねえし。俺だって、お前にもらってるものはたくさんあって、それは別に作曲力だけじゃ」
「……ッ駄目なんだよ!」
クラヴィアはリトの手を大きく振り払って、言い募る彼の言葉を遮った。勢いのままに言葉を吐き出す。
「君と、仲良くなればなるほど! 君を好きになればなるほど! 僕はまた! また……」
乾いたはずの涙がまたせりあがってきそうになるから、歯をくいしばった。
「僕は、また……っ」
「……音楽が、したくなるんだ」
リトの隣で、音楽をしているノーテを見てると、羨ましくてしょうがなかった。
「君のギターを聴いてると、もう一度、夢を見たくなる」
食いしばった歯の隙間から、小さく小さくつぶやいたその声が、リトにも届いているのかはわからない。
——ああ、でも駄目なんだ。
「でも、僕が音楽を始めてしまったら、ピアノを弾いてしまったら、きっと君から、音楽をする場所も、希望も、幸せも、奪ってしまう……あの時みたいに」
だからもう、君と僕とは、一緒にいない方がいい。クラヴィアは、へたりとその場にしゃがみこんだ。
「……お前が、どうしてそんな風に言うのかわからないけど」
リトはゆっくりと口を開いた。どっこいしょ、と言ってクラヴィアと真逆を向いて座る。背中と背中が触れて、あたたかかった。
「俺は、何があったって、音楽をやめることは絶対にしねえよ」
クラヴィアに聞かせるというよりも、自分自身に語りかけているようにも聞こえる、そんな声音だった。
「たとえ手が使えなくなったって、目が見えなくなったって、耳が聞こえなくなったって、俺はやっぱり音楽、するよ」
一言一言、噛み締めるようにリトは言葉を紡いでいく。
「俺にとって音楽は、人とのつながりだから」
彼の手が、雨に濡れてしまった愛用のギターを構えるのが見えた。トーン、と音を編み出す。
——なあ、お前、この曲、覚えてる?
そんな声が聞こえるような気がした。覚えてる。はじまりの音は、そう、ラ♭だった。
リトの操るギターから、懐かしいメロディが響き出す。
「俺がギターを始めた理由、親父から聞いたんだろ?」
なにも答えなかったけれど、リトは元から答えを期待していなかった様子で、そのまま言葉を続けていった。クラヴィアはリトの方を向くのをやめて、自分の膝に顔を埋める。
「だけど今は死んだ父さんのことだけじゃなくてさ。このギターのおかげで俺は、たくさんの人と繋がってこれたし、このギターが、音楽が、俺の前にいろんな人を連れてきてくれてたんだなーって。これからも、それはそうなんだろうなーって」
慣れた指は一年前と同じように、優しい一曲を奏でる。リトの落ち着いた声と、ギターのゆったりとした旋律が、まざり合って心地よかった。
「それに気づかせてくれたのが、この曲だったんだ」
お前が初めて俺にくれた曲、と笑うように言うから、なんだか胸が苦しくなった。
「俺さ、物心ついた時からずっと独りだった。同年代のやつすらこの街にはいないし、気にかけてくれる大人はいたけど、でも、やっぱり独りだった。だから、父さんの記憶の、ちっさなちっさなカケラを、大事にしながらずーっと来たんだよな」
ギターのなかに想い出を探している。酒場の親父はそう言っていた。
「俺、家族ってどんなものなのかって、ずっとわかんなくて。友達ってどんな感じなのかも、知らなくて。だからその分さ、こいつにすべてを注いできたし、注いでこれたのかもなと思うわけ」
帰ったらきちんと手入れしてやんねえとなぁ、とリトは独り言のように呟く。木と金属でできているギターという楽器は、本来は雨に濡らすなんてもってのほかだ。だけど、リト愛用のそのギターは、雨に濡れても負けずに、彼の世界を音に変え、力強く描き出している。
「お前さー、伝わってなかったっぽいけど……お前は正真正銘、俺の命の恩人で、初めての同年代の友達で、唯一の親友、なんだけど。これ以上の価値なんて、いる? お前と一緒に暮らし始めて、俺、家族ってこんな感じなんかなーなんて、思ってたりも、したんだよな」
朝起きたらおはようを言って、一緒にご飯を食べて、作ったものが不味かったら文句を言って喧嘩したりして、出かける時には一言かけて、好きそうなものを見つけたらつい買ってしまったりして。帰ってきたらただいまを言って、それにおかえりと返ってくる。そんな日々は、クラヴィアにとっては、かつて故郷では当たり前にあった毎日だったけれど。けれどリトにとっては、全く当たり前のものではなかったのかもしれない。そんなことに、初めて気づかされた。背中から伝わるこの温もりが、ただ彼の生来の優しさと明るさだけで構成されていたことを、クラヴィアは初めて知った。
「今までさ、ある意味自分のために弾いてたこいつを、今度はみんなのために弾きてぇなって、今は思ってて。俺と誰かをつなぐだけじゃなくて、誰かと誰かをつないでさ、俺が幸せをもらうためじゃなくて、誰かを幸せにするために弾きてぇなって」
ポロンポロン、と弦が音を立てて、曲は続いていく。この曲には、ピックを使った硬い音よりも指で弾く柔らかい音が合う。ピアノを弾きなれた手とはちがう、ギターを愛したリトの指先が音を紡ぐ。
「だけどさ、だからさ……俺が、俺のために、俺がしたいからそうする俺の気持ちっていうか、想いっていうか……うーん上手く言えねえけど……もしかしたらこれが、愛っていう、やつなのかな。今まで楽器に注いでた、俺の心のそういう部分をさ」
それを。
「親友として。家族、として。お前に使いたいなー、とか、勝手にそんなことを思ってたり、した、んだけど……ダメ?」
リトが振りむいたのが、クラヴィアにも背中越しに伝わった。
彼はクラヴィアが動かないのを見て、また前に向き直る。
もう曲は終わりのところだ。そう、グリッサンドで締める曲だった。この曲から、全ては始まったんだ。
リトが弦をトンと優しく叩いて最後の音を止めると、二人の間に沈黙が落ちた。
リトがギターを傍らに置くと、空気がふわりと動き出す。
彼は一瞬ののち、ふっと小さく笑った。
「俺さ、ずっと幸せでいるよ」
クラヴィアは思わず振りかえった。リトもこちらを向いていて、目があった。
また泣いてんの、と困ったような笑顔を向けられて、涙が出ていたことに気がつく。でもきっと、さっきまでの涙とは、ちがう涙だと思った。
「お前が何してこようと、何言ってこようと、全部笑い飛ばして幸せでいてやるよ。約束する」
俺を舐めんなよ、と彼は戯けたように言った。
「楽譜書けなくたっていいよ。なにもしてくれなくてもいいし、なんなら一日中寝てたっていい。なんだって、自由にしてくれていい」
リトは大げさなくらいにジェスチャーを交えて明るく語る。楽しそうに。
「……一日中寝てるのはリトの方だろ」
出した声は思ったよりも情けない涙声だった。
はは、それもそっか、とリトは笑う。
「音楽がやりたいなら、やったらいい」
その言葉に、息をのむ。
——なあ、だから。
呟くリトの、目が揺れた。
「俺の隣に、そのまま、いてくれねえかな……」
なあ、それだけで、いいよ。
頷いたら、ぽろりと目尻から雫が落ちた。
きっとこれが、最後の一滴だと思った。
「なあ、親父のとこ戻ってさ、夕飯、一緒に食べよ?」
しばらくして、リトがそう言った。青かった空は、すっかりオレンジ色に染まっていた。もうじき、白い月と銀の星が、さやかにきらめく夜が来る。
「そうそう、アップルサイダー飲もうぜ! 俺らのための新作なんだって」
気がついたら、周りには人がいなくなっていた。みんな、家に帰る時間だ。
「……炭酸ね。たまにはいいかも」
「ん、一杯しか飲んでないけど、美味しかったから。お前と、一緒に飲みたかったんだー」
ノーテにはお土産買って帰ろ!と元気よく笑う。
彼は、たんっと地面を軽やかに踏みしめて立ち上がった。
「ねえ、リト」
呼びかければ、当然のように振り返る。
「なに?」
「……サイダー飲みながらでいいからさ。僕の昔話を、聞いてくれる?」
そう問いかけたら、へら、と嬉しそうに笑った。
「当たり前じゃん!」
リトが差し出す手をとって、クラヴィアも力を込めて立ち上がる。
「なあ、でもさ」
「ん?」
「お前、覚えてないと思うけど」
「え? なにを?」
「お前が、ここに来た日。俺とお前が出会った日。ちょうど、一年前の今日だったから」
——だからさ、未来の話もしようよ。
せっかく今日店休みにしたんだから!と息巻く彼の顔は月に照らされていて、今まで見たどの表情よりも、輝いてみえた。
街角の賑やかな酒場。
出会った場所に帰れば、もうすっかり顔馴染みになった親父が、おーよく来たなと笑って出迎えてくれた。
「よし」
最後のきらめきを楽譜に落として、さっと全体を確認する。部屋の奥で積み重なった書類を片付けていたオレンジ色の頭に、できたよ、と声をかけると、ひょこんと顔を出した。
「おー了解、今度はどんな曲かなー。俺の予想はスローテンポでムーディな色気ある曲!」
「残念はずれ。アップテンポなロックだよ」
「んん、正反対じゃねえか。俺見る目ねえのかな」
お客のマダムに軽く挨拶をしながらリトが出てきて、軽口をたたき合う。
「じゃあ、弾きますね!」
ギターを構えてふっと息を吐いてから、リトは力強く弦を鳴らし始める。その音色は、出会った時と変わらない。アップテンポのロックでだって、あの頃のスローバラードと同じしなやかで優しい音。いつだって大切そうに音を扱う男だ。
ほわんほわん、と音明かりが生み出されて、マダムを包む。最後の音がジャーンと響けば、その光はふわっと明るくはじけて消えた。マダムは憑き物が取れたような顔をしていて、ありがとうねとお礼を言って帰って行った。
こんなことを初めて、もう一年近くになる。
出会ったあの日から、クラヴィアはリトの家で一緒に暮らしている。この家、広いから、となんだかリトは嬉しそうだった。
あのときの怪物は、あれ以来この街には現れていない。でも、世界各地で見られているみたいで、音獣と名付けられてたびたび紙面を騒がせていた。音使いのいない地域では、街一つがなくなってしまったこともあるらしい。いつどこで必要とされるかわからないからと、拠点を持たずに各地を転々とする、渡り音使いなんていうのも出てきたと聞いた。
とはいえ、過ぎてしまえば対岸の火事だ。落ち着きを取り戻したこの街で、リトとクラヴィアはほどなくして音使いの仕事をするようになった。二人一組で役割分担している音使いなんてほかに聞いたことがないけれど、それなりに上手くいっていると思う。
「うわっ」
玄関先に出ていたリトが突然叫んだので、クラヴィアはどうしたのと問いかける。リトは呆然とした様子でこちらを振り向いた。
「この前、怪我で落ち込んでたお兄さんに演奏聴いてもらったじゃん」
「ああ、あのお金持ちの」
「そう……その人から、なんか、すげぇもん届いた……お礼だって……」
リトの後ろを覗き込むと、
「えっ……」
「グランドピアノ……」
リトがわなわなと震える。
「俺はギターしか弾けねえんだけど!」
お前弾ける?と噛み付くような勢いで聞いてくるのに、楽器はできないってば、と肩をすくめる。
「だよなぁ……あのお客さんさ、きっと楽器の中で一番高そうだからって何も考えずに買ってるぜ……好意でくれたもの、返すに返せねえし、返したらもっとすごいものくれちゃいそうじゃん……えー……うちに置いておいていいんかな……」
リトは考えるのをやめた様子で、あのあたりに置いてくださーい、と運んできた人たちに頼み始めた。うち広くて良かった、とぶつぶつ言っている。
そう、二人の仕事はそれなりに上手くいっている。これだけ客に目をかけてもらえるくらいには。
それにしても。
「ピアノかあ」
クラヴィアはそっとため息をついた。
「あの、こんにちはー」
ド、ソ、レ、ラ。リトが試しに、と言って恐る恐るピアノの鍵盤を人差し指だけで押している音が細切れに響く。そんな、騒動が落ち着いて一息ついていた部屋に、透き通った高めの声が飛び込んできた。
「ん、お客さんかな」
俺出てくるわ、とリトが告げて、少ししてから、二人よりいくらか年下くらいの女の子を連れて戻って来る。腰丈ほどの長いブロンドヘアに、ざくろのような赤い目。目と同じ色のフレアなワンピースが年相応で可愛らしい。こんにちは、とクラヴィアが声をかけると、彼女は目を見張って固まってしまった。なんだろうこの反応は。
「どうかした?」
「あっ……いえ! お兄さんお綺麗なので、びっくりしちゃいました」
少女はにこっと笑う。首を傾げた拍子にその金糸がさら、とゆれた。
「えーなんだよ、クラヴィアも罪な男だな」
「クラヴィアさんって仰るんですね」
リトが茶化すと、少女はまた笑みを深くした。
「私、ノーテって言います。よろしくおねがいします」
そう言って、ぺこ、とお辞儀をする。この街には相も変わらずクラヴィアたちと同年代の人間がいないので、女の子特有の身のこなしがなんだか新鮮に思えた。
「ん、俺はリト。んで、さっきも言ったけど、こっちがクラヴィア。よろしくな!」
リトが人懐っこい笑顔で応える。この街でずっと育ってきたリトだから、同年代の女の子相手に少し焦ったりするのかなと思えば、特にそんなことはないらしい。そういえば、一緒に暮らし始めるまでは、時間がありあまっていて本なんかもよく読んだと言っていた。物語をよく読む人は、基本的に人の扱いが上手い。
「ノーテさんは、ここに音明かりで癒してもらいに来たってことでいいんだよな?」
「あ、えっと、そうですね」
ノーテは人差し指をあごにあてて、うーんと考えるような仕草をしながら言った。
「とりあえず、旅の疲れを癒してもらおうかな」
「そっか、了解。じゃぁ、クラヴィア、頼んだぜー」
「うん」
クラヴィアはいつものようにペンと五線紙を手に取った。
気持ちを一気に目の前の少女に集中させる。
午前に来たマダムと合わせて今日二度目だからか、普段よりも気力を使う気がした。
数秒して無事にきらきら回り始めた音符たちを、一音ずつ五線紙に写し取っていく。
「ん?」
ノーテが不思議そうに首を傾げた。
クラヴィアは書きあがった楽譜を一目してから、リトに手渡す。
「今度はどんな曲? カントリーミュージックとか?」
「はい、はずれ。クラシックだよ」
「また外れた……あれ、なんか今回短くねえ?」
「うん、でも終わりまで書いたはずなんだけど。ちょっと目が疲れてるのかも」
「へぇ、そんなことあんだ」
リトが楽譜を見ながら、ギターを手に取ると、ノーテはますます首を傾げた。
「あれ、クラヴィアさんは弾かないんですか?」
「ん、ああ、曲自体は俺が弾く。こいつ楽器はできねえんだよ」
親指でクラヴィアを指差しながら、リトはなんてことない様子で答える。
「で、俺は作曲が今はできねえから。二人一組の音使いとしてやってんだー」
それを聞いたノーテは、目を丸くして、ぱちぱちと瞬きする。二人一組の音使いなんて聞いたことがないんだろうな、とクラヴィアは思う。
音使いは社会的地位が高いから、作曲力を持っているのに楽器を弾かない人間は普通はいないし、作曲力を持っていないのに一介の音使いを凌ぐほどに奏力を磨いているような人間も、そう多くない。ましてそんな二人がめぐり合わなければならないとなれば、それはもはや天文学的数値の域だ。
そう考えると、ここでこうしているのが奇跡に思えてくるなあ、とクラヴィアはぼんやり噛み締めた。毎日リトの演奏を聴いて、曲を書いて、たまに酒場に顔を出して、ジュースで乾杯したりして。この街の人たちともすっかり顔なじみになった。曲を書けば喜んでくれる人がいる。とても穏やかで、幸せな日々を過ごしているという自覚があった。
「え、じゃあ、あっちにあるピアノは……?」
「ああ、あれはもらいもん! 俺らじゃ使ってやれねえってのにさー」
大変だったんだぜさっきまで、とリトがぐちぐち言っているのが聞こえて、クラヴィアはその意識をぐいとこちらに引き戻す。とりあえず弾いてあげたら、と促すと、リトはそれもそうだな、と言ってギターを構えた。
「まあ心配しないでくれよ。一応、腕にはそこそこ自信あるからさ」
ポーンポーン、とチューニングしながらのリトの言葉に、ノーテは、あ、はい、と戸惑ったように答えた。
リトの演奏が終わって光がはじけ消えると、ノーテはにこっと微笑んだ。
「ありがとうございます。二人一組って新鮮でしたけど、なかなか良い気持ちになりました」
「ん、よかった」
リトがニカッと笑い返す。ノーテの微笑みを花だとするなら、リトの笑顔は太陽みたいだ。ぽかぽかと暖かい空気のなか、クラヴィアは、ねえ、と声を出す。
「ノーテさんは、他の音使いにも演奏してもらったことがあるの?」
さっきから気になっていた。クラヴィアが楽譜を写し始めた時や、リトがギターを構えた時の反応からして、ノーテは音使いについてある程度の知識がある人に見えた。
「あ、はい、それもありますよ」
「それも?」
含んだ言い方に聞き返すと、ノーテはえへへと頬をかいて、実は、と語り始めた。リトとクラヴィアは、いったい何事だろうかとその身を乗り出す。
「実はわたしも、音使い、なんですよね」
騙すみたいなことしてごめんなさい、とこちらにウィンクしてみせたノーテの言葉に、リトが一拍置いて、はぁっ?と間抜けな声をあげた。
ひとまず落ちつこう、とクラヴィアが淹れた紅茶をリトがズズッと啜る。
「つまり……ノーテさんは渡りの音使いというやつで、世界各地に現れている音獣から守るために、音使いのいない土地を見廻っていて、この街もそうだと聞いたから来てみれば、音使いを名乗っているやつがいたから、どんな程度の実力か確かめにきた、と」
「はい、そんな感じです!」
「最初から話してくれたらよかったのに」
「あはは、お客さんのフリした方がいつも通りやってもらえるかなと思ってしまって」
あとはちょっと私の悪戯心がうずいちゃいました、とノーテは無邪気に笑う。無害そうな見た目して結構小悪魔だな、とリトが呆れ顔になった。
「旅をしてるって話だけれど、それなら出身はどのあたりなの? ……音使いなら、やっぱりコルド?」
「お、そーだよな、同郷出身かもしれねーんじゃん」
クラヴィアの言葉に、なぜかリトが心底楽しそうにわくわくした瞳を向けてくる。ノーテはそれにふふっと笑って答えた。
「残念ですけど、わたしはもっと西の方から来たんです。コルドには一度行ってみたいと思ってるんですけどね」
ご期待に添えなくてごめんなさい、と彼女はぱちんと手を合わせた。
「ああ、いや、別に。コルドは遠いしわりと涼しい土地だから、夏に行くといいかもね」
むしろ同郷でなくてよかった——頭の中でそう思いながら、顔では笑顔を作る。にしても、とクラヴィアは続ける。
「コルド以外の地域出身の音使いって、いるとは聞いていたけど初めて見たな。本当にいるんだね」
「えへへ、突然変異ってやつですかね。周りには他にこの力を持った人はいませんでしたよ」
最初はあの光ってみんな見えるものだと思ってたからびっくりしたんです、とノーテは語った。
「なあ、それってやっぱり生まれつき見えたってことか?」
リトが真剣な表情で聞いた。
「え、はい、そうですね。この力ってそういうものではないですか?」
「やっぱりそうかぁ」
リトがはぁぁ、とため息をつく。この男は、その『生まれついてのもの』という壁を越えようとしているんだよな、とクラヴィアは改めて思いを巡らせる。今二人一組というかたちでうまくいっているのだから、このままでもいいんじゃないかと正直思ってしまう。でも、リトの夢はそこでは止まらない。
少し、心がざわりと音を立てた。
「そういえば、ノーテさんは楽器は何を使ってんだ?」
クラヴィアがそんなことを思っているうちに、リトは大雑把に自分が音使いを目指していることをノーテに語り終わったようだ。気づけば、演奏聞きてぇな、と目をきらきらさせていた。さっきまであんなに大きなため息をついていたくせに、立ち直りの早いやつだ。でも、だからこそリトなんだろうな、とクラヴィアは心のざわめきを忘れて、ふっと笑った。
「私は、普段持ち歩いてるのはこれ、なんですけど」
ノーテが傍らに置いていた四角いケースから取り出したのは、一挺のヴァイオリンだった。大切に手入れされているものだと一目でわかる。少し赤みがかった華奢なボディが、彼女によく似合っていた。
「うわーめっちゃ綺麗! ヴァイオリンって弾くの難しいんじゃねえの!」
リトが声を上げる。同じ弦楽器とはいえ、ギターとヴァイオリンでは全く演奏方法が異なる。弦に弓を当てて音を奏でるヴァイオリンは、少しの力加減や角度の違いで、途端に音色が濁ってしまう。
「まあ、昔からやってましたから。でも、これは重要な時しか弾かないことにしてるんです。今替えの弦が手元になくて……」
手作りの弦で少し切れやすくて、とノーテは申し訳なさそうに告げた。
マジかぁ残念だな、と目に見えて落胆するリトに絆されたのか、彼女はさらに言葉を続けた。
「あの、私ひと通り楽器はどれも扱えるので……もしよかったら、あのピアノ、弾いたり、とか」
「マジで! あれも弾いてやらなきゃ可哀想だと思ってたんだー。頼むよ」
ノーテが指差したのは、例の何時間か前に届いたばかりのグランドピアノである。確かに一度も満足に弾かれずに埃をかぶっていくのでは、あのピアノも浮かばれないだろう。
「でも、一人で弾いても面白くないですから……」
ノーテはまた悪戯っ子のように笑った。
「リトさん、私とセッションしませんか?」
目で拍子を合わせて、二人は互いに弾き始める。
結論から言えば、二人のセッションは完璧だった。演奏したのは、コルドで作曲された有名なジャズの一曲。
ノーテのピアノが美しく冴え渡り、リトのギターとかけ合う。
即興のセッションならではのアドリブが、全体の良いアクセントになっていて心地よかった。
ノーテのピアノの音色は意外にも結構鋭くて、柔らかく包み込むようなリトのギターをガンガンと刺激した。時には挑発的ですらあるその音たちに、リトの演奏もまた影響されていく。互いに激しく音を追いかけ合っているかと思えば、優しく調和を響かせたりもする。
——ああ、相性がいいのかもしれない。
クラヴィアは純粋にそう思う。セッションして互いの演奏を高め合う、というのは、口で言うほど簡単なことではない。たとえどんなに優れた腕を持っている者同士だったとしても、曲に対する考えや表現の仕方が合わなければ、和音は崩れて音と音が喧嘩し始めてしまう。そうならないし、聞いている人にも心地よいと思わせるということは、この二人はきっと相性がいい。
ポローン、と最後の音が空気にとけていって、シンと静寂が落ちた。素晴らしい演奏は、得てしてその後の時間を止める。それは、聴いた者も、演奏した者も。どこからか聴こえる鳥の声だけが、のんびりと日常を感じさせた。
「……すげぇ」
リトのつぶやきが、止まった時を動かし始める。思わず漏れ出たようなそれは、静かな部屋にとてもよく響いた。
「あはは……なんだかとっても……良い演奏ができた気がします」
ノーテも圧倒されたように言葉を紡ぐ。
「ノーテさん、すごかったな! ヴァイオリンって言ってたけど……ピアノもめちゃくちゃ上手いじゃん」
俺、あの掛け合いのとこめっちゃ楽しくなって気分アガって、それでそれで、とリトが遅れてきた興奮を隠さず言葉を繰り出す。私も、とノーテも答えた。
「リトさんの音は……なんだか、心があったかく、なりますね」
噛みしめるように言われたそれが、印象的だった。
「俺さ、誰かとこんな風にセッションなんて初めてやったんだけどさ!」
リトが感情の勢いのままにドンと机を叩きながら言った。
「めちゃくちゃ楽しかった!」
「……私もです」
ノーテがえへへ、とはにかむ。
「この街にはそんなに長くいるつもりはなかったんですけど」
音使いさんは足りているみたいですし、と彼女は続ける。白くて細い腕で、ピアノの蓋をそっと閉じる。
「でも、リトさんと演奏したら、もうちょっと、この街にいたくなっちゃいました」
そう言って、ノーテは照れたように頬をかいた。
するとリトがはっと思いついたような顔をして、クラヴィアを振り返る。言いたいことはわかる。そうだね、この家は、広いよね。
ノーテとのセッションはきっと、とてもリトのためになる。今まで自分以外の奏でる音楽に、ほとんど触れてくることができなかった彼だから。
リトに向かってうなずこうとして、ふいに心に疑問がよぎった。あれ、自分は。
——自分はどうして、ここにいたんだっけ。
——どうして当たり前のように、ここに、いられたんだっけ。
クラヴィアは、突然浮かんだそれらの言葉を、かきけすように笑顔を作った。
「いいんじゃないかな」
そんな風に言えば、リトは大好きなものを与えられた子どもみたいな顔をした。そして一連のやりとりにきょとんとしているノーテの方に向き直る。
「ノーテさん!」
「はい?」
「あのさ……ここでしばらく一緒に音使いやらねぇ? 部屋はたくさん余ってるんだ」
そんでさ、うちのピアノももっと弾いてやってくれよ、とリトが笑いかけると、ノーテは驚いたような顔をする。
「え、いいんですか……?」
「いいって!」
なあ?とリトが振ってくるから、笑顔を貼り付けたままうなずく。
「仕事に関しては、僕たちもこのままやるけどね。でも、歓迎するよ」
だって、ここは、リトの家だから。
「な、ノーテさん、クラヴィアもこう言ってるし!」
「そこまで言っていただけるんでしたら……ぜひ」
よろしくお願いします、と彼女はにこっとしながら首を傾げてみせた。
「おう、よろしくな! ノーテさん」
「ふふ、呼び捨てでいいです。一緒に住むんなら、他人行儀なのも嫌ですから」
女の子らしい無邪気な笑みを浮かべるノーテの言葉に、リトがそれもそうかと言い直す。
「よろしく、ノーテ!」
「はい、よろしくおねがいします、リトさん」
「俺のこともリト、でいいけど?」
「いえ、たぶんリトさんたちの方が年上ですから。私はこのままでいいです」
ノーテが今度はクラヴィアの方を、赤い瞳でまっすぐに見てくる。
「クラヴィアさんも、よろしくおねがいします」
その瞳になんだか吸い込まれてしまいそうだった。
「よろしくね、ノーテ」
この時の自分がきちんと笑えていたのかはわからない。
「ん、じゃあ俺買い出し行ってくるなー!」
「いってらっしゃい」
「へへ、留守番よろしく」
リトがはにかむように笑って、出かけていく。
ノーテと一緒に暮らし始めて二週間が経った。ノーテは、音使いとしての仕事はできればヴァイオリンでしたいので、と言って、連日ヴァイオリンの弦に必要な資材を集めに出かけていて、あまり家にはいない。彼女が自らの手で作ると言っていた弦には、珍しい材料がたくさんいるらしい。
——気を、使わせているのかな。
店代わりにもなっている家の扉にかかる『休み』の札が、風で揺れてカタンと音を立てる。クラヴィアはそんな昼下がりの部屋で、一人ぼんやりとたそがれる。
いつもノーテに対して、一定の距離感を保って、入らせないようにしている自覚はある。リトは気づいていないみたいだけれど、きっと彼女にもそれは伝わっていて。でも別に、彼女のことを嫌いとか、そういうわけではない。時々家にいるときにしているセッションは、間違いなくリトにとって良い刺激になっていると思うし、リト自身もノーテのことを気に入って、曲の解釈や弾き方についてなど、いろいろと話し込んでいることもあるみたいだった。なによりここはリトの家であって、自分は、言ってしまえば居候。リトのためになるなら、それでいい。
羨ましいのかもしれないな、と自嘲する。
ああやって、リトと音楽ができる彼女が。ああやって、ピアノを弾ける彼女が。
クラヴィアはおもむろにグランドピアノの蓋を開いた。ノーテが弾いているから、埃もつもらず、綺麗なものだ。
ポーン、と鍵盤を叩く。
ピアノはあたりまえのように、クラヴィアが叩いた通りに音を返した。
右手はこの白鍵、左手はこの黒鍵から、だったか。
静かに乗せて構えてみれば、ああ、やっぱり、覚えている。手が自然に動いて、たおやかな音たちがついてくる。鍵盤の上を、走ったり、歩いたり、踊ったり。思った通りの世界が、この手から生まれる。描いた通りの、色が描ける。流れるようなグリッサンド、とびはねて踊るピチカート、クレッシェンドで登りつめた先は優雅にレガートで、そうしたら今度は。
そこでぱた、と手を止める。
駄目だ、自分はもう弾かないと決めたのだから。自分にはリトのような、あんな暖かくて、優しい音楽は奏でられない。
ピアノの蓋を、静かに閉じた。
こんな風に、音使いと関わるつもりも、なかったのにな。
なんの因果か、あの日たまたまリトと一緒にいて、思わずあんなことをして、今ここにいる。引き止められたのが嬉しかった。一緒に暮らそうと言ってくれたのが、嬉しかった。必要としてもらえたことが、嬉しかった。
——結構弱いな、僕も。
クラヴィアは、はぁっとため息をついた。
ため息をついたその時、カタ、と響いた物音は、いつもなら気づかないくらいの微かな音だった。
だけどなぜかとても大きくクラヴィアの耳に届いたそれに振り返ると、そこには、材料集めから帰ってきていたのだろうノーテの姿があった。
クラヴィアの口から、あっと小さく声が漏れる。
「聴いてた、よね」
恐る恐る尋ねると、ノーテはこくん、と頷いた。彼女が開けた扉がキィィッと閉まる音がした。
「……ごめん、忘れて? 気の迷いだから……僕はもう楽器をするつもりは」
「クラヴィアさん」
クラヴィアの声をノーテが柔らかく遮った。辺りはとても、とても静かで、窓の外で、はらりと葉が落ちる音すら聞こえそうだった。
「……なに?」
「実は私もひとつ、嘘をついていました」
「え……?」
ふわりと微笑みながらされた突然の告白に戸惑う。ノーテはすっと人差し指を立てる。長くて細くて美しい指だ。ピアノを弾いている人の手だな、と場違いなことが頭をよぎった。
「……私、本当は西の出身なんかじゃないんです。クラヴィアさんと同じです。コルドから来たんです」
「コルド、から……?」
声が震える。身じろぎしたら、右手がピアノの縁にぶつかって、ジン、と鈍い痛みを感じた。
「はい」
ノーテはやっぱり微笑みを浮かべたままで、なんだか少し怖かった。あたりは相変わらず静かで、彼女の声はよく響いた。
「だから、クラヴィアさんのことも、最初から知っていました」
そう言って、ふっと天井を仰ぎながら少し目を眇める。
「天才ピアノ奏者クラヴィアって。有名、でしたもんね」
とん、とん、と一歩ずつ、彼女はピアノの方に近づいてくる。
「だから、少しでもあなたの演奏を聴けて、光栄です」
キィッと優しく蓋を開ける。
「私にとってあなたは、憧れ、でしたから」
ノーテの指によって、鍵盤からポーンと音が生み出される。
ド、ソ、レ、ラ。
リトの拙い叩き方とはまったく異なる慣れた手つきは、黒と白のその楽器から、濁りのない透き通った音を引き出す。
ついばむように鍵盤を叩いてからまた指を離したノーテは、クラヴィアの顔を覗き込んだ。
「……ねえ、クラヴィアさん。こんなところで何をやっているんですか? いったい、何がしたいんですか? 中途半端に演奏だけ人に任せて、自分は楽器ができないだなんて嘘ついて」
「僕は……」
「ピアノ。弾けなくなったわけじゃないんですね」
ノーテは俯いて、独り言のように呟いた。
「逃げてるだけなんだ。リトさんの夢を利用して、隠れ蓑にして」
そんなの、馬鹿にしてるのと一緒じゃないですか。鍵盤を見つめながら小さくそう言った彼女が、どんな表情をしているかはわからなかった。
「僕はただ……」
言いかけたその時、ガチャッと扉が開いた。
「たっだいまー、なんか果物屋のおっさんがりんごたくさんくれたからこれでなんか……あれ? なんかあった?」
大きめの紙袋を片手にばたばたと帰ってきたリトは、二人の緊迫した空気を感じ取ったのか、怪訝そうな顔をする。
「……いえ、なんでもないですよ。おかえりなさい。りんごならアップルパイとか作りたいですね!」
「お、いーな、アップルパイ。もうそれ夕飯にしちまうか!」
ノーテが瞬時にパッと笑顔を作って、リトと話し始める。クラヴィアも、おかえり、と軽く手をあげた。
——僕はただ、リトの役に立てるならと思って。
言えなかった言葉が、自分の中で嫌に響き渡って、ぐわんと世界が揺れる気がした。
リトとノーテがわいわいと盛り上がりながら作ったアップルパイは、なんだかぜんぜん甘くなかった。いつかの酒場で、リトと二人で飲んだりんごジュースの方が美味しかったなあ、とぼんやり思った。
それから、なんとなく寝付けなくて、ぐるぐるしているうちに夜が明けた。クラヴィアは小さく息をついて、先ほど淹れたコーヒーをこくん、と口にふくむ。なんでこんなに落ち着かないのか、自分でもよくわからなかった。マグカップをことん、と机に置きなおす。今日も外は晴れている。泣きたくなるくらい、青い空。
「んー、おはよ、クラヴィア。今日もノーテは外かー」
「そう、みたいだね」
トントンと聞こえた足音に振り返れば、起きたばかりらしいリトが、大きなあくびをしながら部屋に入ってきた。とろんとした瞳とまぬけに開かれた口がなんだか少し不細工で、なぜだかそれにひどく安心した。
ノーテは今日も朝早く、空が白み始めるころに起きてきて、居間でぼんやりとしているクラヴィアをちら、と一瞥したあと、何も言わずに出かけていった。
「あっ」
壁にかけられたカレンダーをぼんやりと見やっていたリトが声を上げたので、どうしたの?と声を掛ける。
「なあなあ今日さー、これからさー、ひさびさに親父のとこ行かねえ?」
眠そうな顔をしていたのに、いつのまにやらぱっと花が咲いたような笑顔である。
「親父って、あの酒場の? 僕はいいけど……朝から家あけちゃってお客さん来たらどうするの?」
「いーの、今日はやすみー! 店じまい!」
節をつけながらそう言うリトは、るんるんとなんだか楽しそうで、よくわからないけどクラヴィアもちょっと気分が上がった。
「よーっす、親父ィ! ひっさしぶりに、俺が来たぞー!」
「こんにちは」
カランカラン、とドアを開けて、意気揚々とリトが店に足を踏み入れる。勝手知ったる顔でカウンター席へと向かうので、クラヴィアも着いていく。前に来てから、一ヶ月近くは経っているか。
「おおー、リト! おめぇここんとこ全然顔見せねえでよぉ。この薄情もんが」
リトのことを息子のように可愛がっている酒場の親父は、口では乱暴なことを言いながらも嬉しそうだ。お前もひさしぶりだなぁ、とこちらにも声をかけてくれるので、クラヴィアは軽く頭を下げた。
「いつもの二つ、よろしく!」
リトはぴかぁっと音が聞こえてきそうなほどの輝く笑顔で、注文した。
「おぅなんだ、ご機嫌だな。良いことでもあったんか?」
へいへい、いつものな、と慣れた様子でグラスに氷を入れ始めた親父さんが尋ねる。
「ふふん、秘密」
リトは今度は悪戯っ子のような微笑みを見せた。
「なんでえ、隠し事か」
「いーからいーから。ほらーいつものまだー?」
「ったく。ひさびさだから配合忘れちまったよ。もうちょっと待ってろ」
「はーい」
気心の知れた者同士のテンポの良い会話にクラヴィアはぼんやりと耳を傾ける。
酒場の親父は、ぱらぱらとレシピのようなものをめくりながら、そんな白銀の彼に目を向けた。さすがに長年客商売をしているだけあって、場にいる者全員に目を配るのに慣れている。
「お前さんは逆に静かだな。元からこんなもんだったか?」
「んー……クラヴィア元気ねえ? 俺なんかする? なんかある?」
リトも心配そうに覗き込んでくるので、クラヴィアは急いで笑顔を作った。
「いや、大丈夫だよ。昨日ちょっとよくねむれなかっただけ」
「……そっか。俺にさ、できることあったら言ってよ、なんでも」
「……リトは、優しいよね……」
本当に心配そうに首をかしげて見せたリトに、つい漏らした言葉は彼の耳に届かなかったらしい。ごめん、なに?と聞き返すから、なんでもないよ、と誤魔化した。
「リトはさ」
久しぶりに来ても、やっぱりいつもと同じ味のりんごジュースをしっぽりと飲みながら、クラヴィアはそっと聞いてみる。太陽の光がほわほわと店内を暖めていた。夜には賑わうこの店も、この時間には穏やかなものだ。
「ノーテのこと、どう思ってる?」
「え? ノーテ?」
リトはちょっと不思議そうな顔をして、うーんと考え始めた。辺りには親父がグラスやお皿を洗う、カチャカチャという小さな音だけがささやかに響いていた。
なんつーか、とリトが言葉を紡ぎ出す。
「……仲間? 目標? ライバル? とか、そんな感じ、かな」
彼は、考え考え、言葉をつなげていく。
「俺の周りには、さ。今まであそこまで音楽できるやつなんて、いなかったし。俺は一人で練習してて、誰かと一緒に弾くなんてこと、なかったから」
リトの向こう側の窓からは陽が眩しく差していて、彼の顔を暖かく照らす。
「わくわくするし、すげえなって思うし、だからもっとやりてえなって」
リトの黄金の目は、太陽よりもきらきらと輝やいていた。
ざぁっと店の中を風が通り抜けて、クラヴィアの体を生ぬるく撫でていった。ねえ、じゃあ。
——じゃあ、僕は?
そんな言葉を、ジュースと一緒に飲み込んだ。甘さが控えめな親父特製ジュースはひんやりのどを通って行くのに、どこかざらざらと乾いた感覚が消えなかった。
「……あのさ」
そんなクラヴィアを尻目に、今度はリトが切り出した。
「クラヴィアは、もしかして、ノーテのこと、好きじゃねぇ? 一緒に暮らすの、嫌、だった?」
リトの髪が風でさらさらと揺れた。その素直な瞳は、クラヴィアのことも、正面からまっすぐに射抜いた。
「……どうして?」
少しだけ、声がうわずったのが自分でわかった。
「……ずっと、元気ねえ気が、するから。いつから?って思ったけど、ノーテが来てからじゃねえかなって、思って」
心底心配そうに見つめてくるから、わからなくなる。自分がまるで、価値がある、みたいな。
そんな風に、満たさないでほしかった。
——リトさんの夢を利用して。
ノーテの言った言葉が頭に響く。
こんな風に、優しくしてもらう資格なんて、最初からなかった。
そんなことない、リトの好きなようにすればいい。そういう言葉を、言おうと思って、言えなかった。言えない自分に、嫌気がさした。
やっぱり、もう一度、夢なんてみたら、駄目だったんだ。
そう、クラヴィアは思う。
ああ、なんだか、今度は風が、冷たいな。
*
静寂の中に、たった一つだけ、音がはじかれたみたいだった。ほんとうに、ひとしずくだけ。漆黒のその瞳から、すぅっと水滴が落ちていくのが、なんだかとても、ゆっくり見えた。いつのまにか、親父は洗い物を終えてどこかへ行っていて、店の中は寂然としている。あまりに静かに頬を伝うその涙に、瞳を濡らす彼自身は気づいていないらしいから、リトは戸惑う。戸惑いながらも、その雫を拭おうと手を伸ばせば、はっとした彼から、やめろ、とか細く返された。
「クラヴィア……?」
「ごめん、なんでも、ないから」
ほんとうに気にしないで。うつむいてさっと人差し指で頬をこすったクラヴィアにそう言われてしまえば、わかった、と言うことしかできなかった。
「なあ、クラヴィア。俺……」
言いかければ、クラヴィアがにこっと下手くそな微笑みを向けてくるから、言おうとした言葉が圧されて消えた。さっきまで店に差し込んでいた幾筋もの陽は、気づいたらもう翳っていた。
カタ、と音を立てて、親父が戻ってきた。食材を仕入れていたらしく、お前らなんか食うか?と聞いてくる。クラヴィアがそれに、そうだね、お腹すいてきたかも、と答えながらこちらを振り向いて、どうする?なんて、普通に聞くから、リトも、確かになんか食いてーな、と普通に返した。
リトは、親父の出してくれたサンドイッチをもふもふと頬張る。
「なんだァお前、今度は難しそうな顔しやがって。忙しい奴だな」
似合わねーぞ、と親父が頭をぼふんと叩いてくる。クラヴィアは、少しだけ外に出てくる、と言って居なくなってしまった。引き止める言葉は言えなかった。
「追いかけた方がよかったんかな……」
リトはべろーんとテーブルに伏せてしまう。
「なんだお前ら、なんか変な空気だなあとは思ったけどよ」
親父がグラスを拭きながら尋ねる。
「いや……なんか、泣かせた……」
「ハァ?」
突っ伏したままつぶやくと、親父が素っ頓狂な声を上げた。相変わらずどこかからクラシックが聞こえてきて、リトの耳にゆるりと響いた。
「……ッ、気にしないでって言われても、気になるだろ! だって泣くほどのことだったんじゃねえの!」
ガバリと顔を上げて大声を上げる。うるせぇ、と親父が耳を塞ぐ仕草をした。
なんで、なんも言ってくんねーの。とうつむいて小さく漏らせば、大きな手でガシガシと髪を掻き回された。
「やーめろよ、痛ぇ!」
うっとうしくて、その腕を強く払う。なのに、親父はめげずにまた大きな手を頭にぼすぼすと乗せてくる。
「おめぇがそんなこと言うようになるたァなあ」
恨みがましく見つめれば、なんだか楽しそうな顔を向けられた。
「どういう意味」
「そのまんまだよ。お前はいろんなやつとすぐ仲良くなるが……同年代の友達なんて、あいつが初めてだろ?」
親父がちょっと真面目な顔をするから、リトもきちんと座りなおして、話を聞く姿勢をとる。
「お前らくらいの歳っていうのはよ、誰にも言わねぇで、独りで考え込んで、独りで結論出して、独りで突っ走っちまうもんなのよ」
「……俺もそう見える?」
「あー、お前の場合はあれだな、お前が考え込む前に、周りが気づいて、さりげなく拾ってくれてんだ。ま、お前自身が根っから明るいってのもあるが」
感謝しとけよ、とこづかれるから、むむっと口をとがらせる。ま、でも、と親父が続けた。
「そういう風に自然と人から愛されんのは、お前の武器で、お前の魅力だ」
今度は優しく頭を撫ぜてくる手がくすぐったい。
「でもな、世の中お前みてぇな奴ばかりじゃねぇ」
親父は本当に優しく頭を撫で続ける。リトはうつむいて、考え込んだ。ぽふぽふと頭を叩かれる。
若者っつーのはどうしようもねえなぁ、と親父がひとりごちる。
「人は、誰かが隣で、手をつないで明かりを持って、歩く道を照らしてやんなきゃ、いつかやっていけなくなる。そういうもんだ。わかるか?」
「……わかる、ような気がする」
「じゃあお前がするべきことも、わかるな」
「……うん。サンキュな、親父」
「よし、これ飲んでけ」
「なにこれ」
「アップルサイダー。酒が飲めねえお前らのための新作だ」
親父がコトリ、とテーブルに置いてきたグラスの中では、小さな空気の球が一面に生まれては消えていて、それがとても綺麗だった。こくんと一口ふくむ。美味い、とつぶやけば、そりゃぁよかった、と親父が返した。
「……クラヴィアと一緒に飲みてえな」
「おう」
「俺、行ってくる」
「おう」
グラスの中身をぐびぐびと飲み干す。炭酸が喉にしみた。
店の扉をガチャンと開ければ、一陣の風が起こってリトの髪を揺らしていった。
「あいつ、どこまで行ったわけ……」
店の周りをひととおり探し終えて、リトは家へと帰ってきていた。家の中にもクラヴィアの姿はなくて、ちょっと泣きそうになる。
「どこ行っちまったんだよ……」
ピアノの椅子に腰掛けて、クラヴィアが行きそうな場所を、考えたけれど何も思いつかなかった。思いつけなかった。自分の無力さに情けなくなって、自分たちの関係の脆さに怖くなる。
窓の外を眺めれば、いつの間にか風が結構強くなっていて、このままだと雨も降ってきそうだった。
「……って、え?」
風が。
どんどん強くなる。どんどん、どんどん。木々が煽られてバサバサと荒れ狂う。そして途端に、大粒の雨がぼたぼたと落ちてきて、みるみるうちに外はまるで嵐のような風体になった。
「……やばくねえ?」
リトは独り言を漏らす。
バキィッと音を立てて、赤い稲妻が空を走ったのが見えた。家の窓がガタガタと風に揺れた。
と、その時、家のドアがバァンッと開け放たれる音がした。
クラヴィアかと思って振り向くと、そこには彼ではなく、はぁはぁと息を切らしたノーテが立っていた。
「ノーテか。おかえり、外すげぇ嵐みたいだな」
彼女もこの雨風に急いで帰ってきたのだろうと声をかけると、なにも言わず、濡れた体もそのままにこちらに駆け寄ってくる。
クラヴィア見なかったか、と聞こうとした言葉は思い切り遮られた。
「リトさん、大変なんです! 今すぐ来てください!」
「えっ……」
ガッっとリトの腕を両手でつかんで必死そうに言うノーテに、リトは面喰らう。
「なに、どういうことだよ」
「はやく!」
「俺はクラヴィアを探してて……」
「音獣が出たんです!」
ノーテの言葉に、一瞬息が止まった。
「この嵐もきっとそのせいです……だから、リトさん!」
ノーテが呼びかける。
「私ができたらよかったんですけど、やろうとしたらヴァイオリンの弦、切れちゃって……だから、今音獣を倒せる人は、リトさんしかいないんです。……たぶん」
「マジかよ……」
呆然とした言葉が口から零れ落ちる。はやく行かないと。この街を、この街にいる人たちを、助けないと。そんな考えが次々に生まれるけれど。けれどぼんやりとした頭はそれらを上手く捉えてはくれなかった。
「でも、クラヴィアがいないから、俺……」
「楽譜なら、私が書きます! やってみます!」
「ノーテ……」
「……リトさん。前に聞かせてくれましたよね、リトさんの夢」
動き出せないリトにノーテが声音を落として問いかける。リトの夢。音楽で、人を幸せにすること。音楽で、人を助けること。
「私、リトさんの音楽、大好きです」
ノーテが少し微笑んでそう伝えてくる。
「今行かなくて、どうするんですか」
リトはふっと彼女から目をそらして、それからもう一度その瞳を見つめ直した。
「そう、だよな……ごめん、ノーテ、俺」
「いいんです、急ぎましょう」
ノーテは遮るようにそう言って踵を返し、ぱっとリトの腕をとって駆け出した。冷えているけれど迷いのないその手にひかれるがまま、リトも走り始めた。
家を出た瞬間、凄まじい風と雨と、なにか嫌な気配に襲われた。まだ日は沈んでいないとは思えないほど、あたりが薄暗い。一年前に感じたあの寒気が、背筋を駆け抜けて、ぶわりと鳥肌がたった。
いつもは活気のある街なのに、道行く人は誰もいなくて、みんな家や店の中に逃げ込んでいるらしかった。
暫く走ってから、ノーテが息を切らして立ち止まる。街の中心にある、ちょっとした広場だ。一番賑わっているはずの場所が、今はシンと静まり返っていて、異様な空気に満たされていた。
バキィッと大きな音を立てて、赤い稲妻が重たい鼠色の空を走る。
その光に照らされて、あの時と同じ、狼のようなシルエットが見えた。
真っ黒なペンで思いっきり塗りたくったような、ぐちゃぐちゃとした毛にしなやかな体躯。勢いよく突き立てれば、人一人くらい簡単に殺められそうな鋭い爪。
マグマのように滾る真っ赤な双眸に射抜かれた気がした。
ひ、とリトの喉から息がもれる。
こんなものと、自分は一年前に、対峙したのだったか。
黒紫の身体がぬるり、と一歩踏み出してくる。
自然と、足があとずさる。
一年前は、約束した少女を助けたくて。街を守りたくて。クラヴィアを、信じたくて。
今よりきっと、何も、知らなかったから。
耳をつんざくような音がしたと思えばそれは音獣の吠え声で、空気が大きく揺さぶられて、パリンパリンとあたり一面の窓という窓が割れ落ちた。中にいる人たちの悲鳴がここまで聞こえて来る。
「……リトさん」
ノーテが呼びかけて、リトの手をとった。
「私もいます、大丈夫です。やりましょう?」
リトより少しばかり背の低いノーテがこちらを見上げてくる。その声音はどこか、小さい子どもに言い聞かせる音色に似ていた。
ふわ、と言われるがままに頷こうとして、慌てて我に帰る。リトはふぅっと深呼吸して、あたりを見回した。
誰もいないように思えたこの空間にも、よく見渡してみれば、家の中から心配そうにこちらを伺う顔がたくさんあって、そのうちには知っている顔もあった。
——感謝しとけよ。
笑いながら親父が言った言葉が脳裏に浮かぶ。
そうだな、親父。そう小さく声に出した。
「……大丈夫そうですね」
そんなリトを見てノーテがほっと息を吐いてから、すぐさまキリッと音獣の方に向き直った。
「あとのことは、お願いしますね」
そう言いおいて、作曲しはじめる。リトには見えない光の世界が、作曲力を持つ彼女には見えている。
さらさらと、紙にペンを走らせる姿を見ながら、リトは心の中でつぶやいた。ごめんなクラヴィア、落ち着いたら、ゆっくり話してえよ。
*
「本当、駄目だな、僕は……」
リトを置いて、酒場から逃げてきたクラヴィアは、町外れの川辺に座り込んでいた。リトのいつもの練習場所である草原の、さらに先の方。ぼんやりと歩いていれば、ささやかな水音が聞こえて、気付いたらこんな場所まで入り込んでいた。たくさんの広葉樹が、あたり一帯を囲んでいる。日差しをやわらかくさえぎる緑たちが、外界のざわめきからもクラヴィアを匿ってくれているようで、居心地が良かった。ゆるやかに流れゆく水にひたりと指先を触れさせれば、その冷たさで頭もすこし冴えてくる気がした。
まばたきをした瞬間、すぅっと透明な雫が目からこぼれおちる。
慌ててぬぐったけれど、また新しい雫がいくつも生まれては流れ落ちてゆくから、終いには諦めて、流れるままにしておくことにした。
涙の感触を頬で感じながら、なんで泣いているんだろうとか、いったいこんなところで何をしているんだろうとか、そんなことを考えた。リトは今頃どうしてるだろう。きっと、困らせてしまっている。
いつのまに、こんなに世界が難しくなってしまったんだろうな。
「天才」などと呼ばれ始めたのはいつからだったか。
ごく普通の家に生まれた。父も母も音使いという音使いの家系だったけれど、コルドではそんな家はそこそこあって、特別にも思われなかったし、思っていなかった。父はチェロ、母はハープを弾いていて、小ぢんまりとしているけれど陽がたっぷり入る、小さな店を営んでいた。何の楽器がしたい?と聞かれた時にピアノを選んだのは、本当になんとなくだ。強いて言うなら、白と黒のはっきりした色合いと、重厚なのに繊細な佇まいに、目を惹きつけられたから。父も母も、クラヴィアの器用さや身に纏う雰囲気が、ピアノに似合っていると言ってくれた。
今思えば、他の楽器を選んでいたら、全く違う人生を歩んでいたかもしれない。それこそ、ギターなんかを選んでいたら、もっと普通の人生を送ってこれたのかもしれない。
しかしこれもまた、運命というやつだったんだろう。
音使い家系に生まれた者たちは、基本的には専用の学校でその術を学んでから世に出る。音使いの力のひとつである作曲力が顕現するのは十歳ごろ。それまでは、自分の決めた楽器に触れて、親しんで、もう一つの力である奏力の基礎固めをしておくというのが一般的で、クラヴィアも例に漏れず、そうして育った。
ピアノを弾くことは、本当に楽しかった。はじめのうちは、右手に集中すれば左手が、左手を気にかければ右手がおろそかになったものだけれど。でも自分の手で音が生まれては消えていくのが面白くて毎日ずっと触れていれば、クラヴィアの利口な指先は、いつのまにやらなめらかに鍵盤を叩けるようになっていた。ピアノは、単音しか出すことのできない楽器と違って、やろうと思えばいくらだって一人で旋律を重ねられて、和音を奏でることができる。同じ音色が織りなす繊細で美しい世界を、自分の指で細やかに作り出していける。自分の部屋に置かれたグランドピアノは、クラヴィアにとって、どんな遊びよりも魅力的だった。クラヴィアの紡ぐ繊細な世界は、人のささやかな心の機微を丁寧に掬いあげられるかもしれない、と。そう両親や教師は言ってきて、クラヴィアもそういう風に自分の音楽を活かせていけたらいいな、と漠然と、だけれど当たり前のように思っていた。
クラヴィアが普通とは違う、と気づいたのは周りの方だった。作曲力が現われた頃のことだ。音使いというのはもちろん音明かりの楽譜が見える人たちの集まりだから、人の楽譜も見られるし、楽譜を見れば、だいたいどの程度の作曲力の持ち主なのかはわかる。クラヴィアの作曲力は平々凡々で、町の身近な音使いとしてやっていくには及第点かというくらいだった。
音使いの力の上限は作曲力によって決まる。あとはどれだけ奏力を磨いて、その上限まで力を出せるようになるかだ。クラヴィアも、自分のポテンシャルの限界まで力を発揮できるように、せいぜい頑張ろうと励んでいたはずだった。
それが、ある時。
「お前、なんで……」
「こんなことがありえるのか……?」
そんな呆然とした友人や教師たちの言葉は、今でも忘れていない。
その日、クラヴィアは、限界を超えた。越えようとしたわけでもなく、なにか特別な思い入れがあったわけでもなく、いとも簡単に。
クラヴィアは、見えた楽譜の通りに弾いただけだ。弾き始めると、楽器も音明かりで光り出す。そこまではいつも通りだった。いや、もしかしたら、いつもよりちょっと機嫌が良かったとか、体調が絶好調だったとか、そういうことはあったかもしれないけれど。
気づいたらもう、ありえないほど眩しくて、手元が見えなくなるんじゃないかと思うほどに眩しくて。でも見えなくたって、クラヴィアの指は思った通りに鍵盤の上を踊って、華奢でたおやかな音の世界を紡ぎ上げていった。ただただ、音を追いかけるように手を走らせた。
演奏を終えて、はっと我に帰れば、周りにいた人たちはみんな唖然としていて。一人が、ありえない、とつぶやいたのを皮切りに、ざわめきが辺りを包んだ。クラヴィアが、彼の持つ作曲力では到底出せないはずの力を出して見せたのだということを、クラヴィア自身は、周りの言葉から知った。
この先のことはあまり思い出したくないな、と川べりに芽ぐんでいる草を指先で戯れにいじりながら、クラヴィアは思う。川の水でひんやりと湿り気を帯びた柔らかい感触が気持ちいい。
噂はあっという間にコルド中に広まった。最初の頃はまぐれだと言われた。なにかの気のせいだと勝手に納得された。イカサマを働いているのではないかと言う人もいた。だけど、何度も同じような演奏をするうちに、そんな声は聞こえなくなっていった。
そうすれば今度は、クラヴィアを悪く言う人と、稀代の天才だともてはやす人の二手に分かれ始めた。
「作曲力はそんなに高くないのにねぇ」
「何かの間違いではないんですか?」
「でもうちの息子が見たって」
「こんなの音使い史上初ですよ」
「どんな教育と環境であんな才能を」
「親御さんはいたって普通の音使いで……」
「あの子の何が特別だったんですかねえ」
「正直教えられることなんてないし、あんなの手に負えなくて」
「なんであんなやつが」
「世界中のどの音使いよりも優れた天才と言えるでしょうね」
「ものすごく練習したんでしょうね」
「生まれ持ってのセンスってあるんだろうな」
「天才様はいいよな」
きっと一生分の噂をされたと思う。なにもかもを、聞き飽きた。出歩くたびに、視線とざわめきがついてまわった。それなりにいたはずの友人たちも、気づけばクラヴィアのそばから離れていった。教師だって、純粋にクラヴィアを見てはくれなくなった。
最初はただ楽しんで遊ぶように弾いていたピアノを、いつしか弾かなければならない、と思うようになっていった。お前の価値はそこにしかないと、周りの声がそう言った。クラヴィアを嫌う声も、もてはやす声も、どっちだって、結局は同じだった。
あの時、学校には通い続けたけれど、それ以外はずっと自室にこもっていた。グランドピアノがまんなかに置いてある、ほどよく片付いた部屋。乾燥した空気のなかで、窓から覗く淡い水色をした高い空をぼんやり見やりながら、ポーンポーンと鍵盤を叩いた。
そんなクラヴィアを唯一純粋に心配し、穿った見方をせずに接してくれたのが両親だった。
「音楽はね、人を幸せにする力を持ってるんだよ」
父はそう言った。
「だからこうやって、音使いっていう仕事は何代も受け継がれて、ずっとこの世界に存在し続けてる」
「そのことが音使いの誇り、でしょ。もう聞き飽きたよ、父さん」
昔から聞かされた話を適当にいなそうとすれば、存外真剣な顔をされて驚いたのを覚えている。
「なに……?」
「……お前自身が音楽を楽しめないなら、音楽から幸せをもらえないなら、やめたっていいんだぞ」
その時の父の顔はただひたすらに心配の色を乗せていた。隣に座っていた母が頬に伸ばしてきた手はあたたかかった。
「音使いの家に生まれたからって、音使いにならなきゃいけないなんて決まりはないんだ」
——お前が毎日幸せに生きてくれればいい。
乾ききった心にその言葉はじんわり沁みこんで、またたく間に雫に変わって、目からあふれてこぼれおちていった。ぎゅっと抱きしめてくれる母の腕の力強さと、頭に置かれた父のぬくもりに、心が熱くなってまた泣いた。
それでもピアノを弾きたいと言ったのはクラヴィアだった。その魅力を、知っているから辞めたくなかった。それに、周りに言われる自分の力は、良い方向に使っていけるものであるはずだったから。音楽は、人を幸せにする力をもっている。「誰より優れた音使い」と言われるのなら、きっと「誰より人を幸せにできる音使い」であるはずだったから。だから続けようと思った。
部屋の窓を開け放って、毎日ピアノを弾き続けて、純粋に楽しむ気持ちもだんだんと取り戻していった。
噂もざわめきも、いつまでたっても消えなかったけれど、きっといつか優しい未来が見えるものだと思っていた。
その日は、吐く息が白く凍るような寒い日だった。いつもは別々に眠るけれど、その日だけは暖炉のある部屋で、家族三人揃って眠りについた。北から吹いてくる風が窓をガタガタと鳴らした。外があんまり寒いから、ふわふわと軽い羽毛布団の感触も、隣で身じろぐ父の背中も、すうすうと聞こえる母の寝息も、よけいにあったかく感じた。
「……クラヴィア……クラヴィア!」
クラヴィアを揺さぶり起こしたのは、はたして父だったか、母だったか。もうあまり覚えていない。起きた瞬間にクラヴィアを背に乗せたのは父だった。それは覚えている。
走る父の上から見えた世界は、一面に滾る赤だった。
この景色は、一生忘れられそうにない。
火をくべたままにしておいた暖炉が出火の原因だろう。けが人がいなくて幸いだった。そんな風に言われて、この事件は終わった。
暖炉があったのはクラヴィアたちが眠っていた部屋で、その部屋は焼け落ちることなく残っていて、だからこそクラヴィアも両親も生きている。それに反して、両親が店として使っていたスペースと、そのすぐ隣に位置していた、クラヴィアの部屋はほとんどが燃えてなくなっていた。だけれどその食い違いを、誰も深く追おうとはしなかった。
置いてあったものも、しまってあったものも、飾っていたものも、全部が消し去られた部屋に、真っ黒なグランドピアノだけが、その原型をとどめたまま燻っているのが、なんだかひどく怖かった。ギィィと嫌な音はするけれど、鍵盤の蓋を開けてしまえるのが恐ろしかった。こわばった指で白鍵を抑えれば、ボォンと鈍く濁った音が聴こえた。その音は、どこかとても遠くで鳴っているみたいで、繊細さも、気品さも、音楽の生むきらめきも、そこにはなかった。
しばらく親戚のもとで暮らすことになった。ピアノの無い家だった。両親は、愛していた店がなくなってしまったことに、きっと泣いていたけれど、クラヴィアにはそれを見せなかった。ただクラヴィアの頭を優しく撫でてくれた手が震えていた。
少し落ち着いてから、学校に顔を出した。同じようにピアノを弾く者たちのなかに、どこか歪んだ笑みを見つけて、その時たちまちすべてを察した。一瞬頭に血が上ったけれど、その熱は瞬くうちに勢いをなくした。
ああ、だって、結局。
——自分のせいだ。
そう思った。
実力別にクラス分けをされるこの学校で、クラヴィアとクラスメイトだった彼らは、必死に努力を重ねてきたものたちだったはずだ。自分がピアノなんてひいたから。音楽を純粋に高めていた彼らに道を違わせた。音楽を続けたいなんて言ったから。両親から大切な音楽をする場所を奪った。ピアノを弾き続けたりなんてしたから。たくさんの人の希望を、未来を黒く染めてしまった。
怒る資格なんてないと思った。泣く資格なんてないと思った。すべての原因は、自分だったから。
両親もクラヴィアも、あの炎のなかで助かったのは偶然だ。火の手は遠くにあったけれど、もしも異変に気づかず目覚めていなかったら、きっと今こうやって息をしてはいられなかっただろう。
どうして、自分のピアノで人を救えるなんて思ったんだろう。どうして楽しいなんて思ってしまったんだろう。自分のピアノは、むしろ、人を不幸にするばかりのものじゃないか。
それから、最低限のものだけ持って、コルドを出た。音楽から遠いところに行きたかった。両親は別れを泣いて惜しんだけれど、そうしたいならそれでいい、と言ってくれた。二人の涙を初めて見た。いつ帰ってくるの?という言葉に、そのうちね、と曖昧に笑った。自分と一緒にいてもきっと不幸にするだけだから、もう顔を見ることもないかもしれない。
今ごろ、どうしているのかな、とクラヴィアは遠い故郷に想いを馳せる。自分が望んだことだけれど、随分と離れたところまで来たものだ。旅の資金は、行く先々で働いて稼いだ。言葉もそのなかで覚えた。コルドから遠くなればなるほど、音楽を本気でする人も少なくなっていった。
黄緑に萌えている草のうえに、ぱたりと寝転ぶ。名前も知らない広葉樹の葉のあいだから、空が見えた。コルドよりもあたたかい場所に位置するこの街では、空を幾分低く感じる。そのことがなんでか怖くて、視界を塞ぐように両手をかざした。細長くて、左右によく開く指。指より短く揃えられる爪。コルドを出てから数年経った。だけどいつまでも、この手はピアノを弾く人の手の形をしている。
風が頬を撫でていく。流れた涙が空気に変わって、クラヴィアの体から熱を奪った。冷たい雫が目尻から耳へと伝って、髪に落ちる。木々のざわめきに混ざって街に住む人たちの声が遠く聴こえた。
空を鍵盤に見立てて、ちょっとだけ指を動かした。弾いてないから、許してほしい。音は全部、心の中だけで歌うから。だからどうか、許してほしい。リトに初めて書いた楽譜は、穏やかなバラードだった。長調だけれど繊細で、優しいけれど切ないあの曲は、きっとピアノにもよく合った。
無数の雫が空から降ってきた。すでに涙で濡れていた頬が、痛いくらいの雨に打たれて、もうこのまま、自分という存在も溶けてなくなってしまえばいいのに、なんてそんなことを思った。開けていると雨水が入って痛いから、だからそっと目を閉じた。
閉じた目をクラヴィアにまた開かせたのは、強い雷の音と、そのあとに広がった人々のざわめきの気配だった。この街は、にぎやかだけれど平和な街だ。治安もいいし、事件も少ない、明るい声の絶えない街だ。なんだか嫌な予感がして、重い体を起き上がらせる。ドク、ドク、と心臓が早鐘を打っているのがわかった。人々の慌てふためく恐怖の音色は、やむことのなく聞こえ続けていた。
——なにか、あったんだ。
クラヴィアは当然のごとくその発想に至る。この感覚に、背筋に伝わるこの寒気に、覚えがあった。こめかみを滴が伝う。雨か涙か、それとも冷や汗かもわからないそれを、冷たくなった手で拭う。
つい先ほどまでゆるやかに流れていた川が、雨で水量を増し、バシャバシャと汚い音をたてた。背の高い木に囲まれた場所だ。雷が落ちているならここも危ない。逃げるようにそんなことを考えた。
この寒気は、一年前に感じたそれだ。
ああでも、リトはきっとあの獣の元へ向かうんだろうな、と思ったら、クラヴィアも歩き始めていた。どうせ、こんな自分の生なんて、惜しいものでもなかったから。
嫌な気配を頼りにたどり着いたそこには誰もいないようだった。少なくとも、人と呼ばれる者は。
「一年ぶり、だなあ……」
音獣の背を遠くから目視する。寒気は相変わらずしたけれど、不思議と怖くはなかった。雨は冷たいし、風は強いけれど、なんだかすべてどうでもよかった。
「どこから湧いて出るのかな、君は……」
作曲力は、対象となる者を視界に収めてさえいれば、使うことができる。音獣がこちらに気づいていないうちに作曲してしまうつもりだった。リトはきっと来るだろうから、そうしたらこの楽譜を渡せばいい。いつの間にか持ち歩くようになっていた五線譜とペンを取り出しながら、そう考えた。ペンを構えて、音獣の背を見つめる。
作曲力を持つ者にとって、作曲は簡単だ。気持ちを込めて、視る。それだけだ。
びゅうと大きく風が吹き抜ける。
——それだけのはずなのに。
「え……」
光が、見えない。
風は変わらない世界を見つめ続けるクラヴィアの目を、パリ、と乾かしていった。
気のせいかと思って、ぎゅっと一度目を瞑る。だけれど結果は同じだった。
リトとノーテが広場に訪れるその時まで、いくら見つめても、まばゆく輝く音明かりたちがクラヴィアの見る世界に舞い降りてくれることはなかった。
ノーテが楽譜を書いているところを、茫然と見つめていた。リトがその楽譜を弾きこなすところを、ただ見つめていた。それはまるで、どこか別の世界の出来事のようだった。
いつも通りに優しくてあたたかくて、リトらしい演奏だった。聞いたことのないテイストのメロディーだった。だけど、リトの演奏の色は、いつだって、誰とだって、変わらない。
音明かりが大きくはじけて、音獣は動かない灰色の亡骸へと変わる。そこには先ほどまでの恐ろしさはもうなかった。
辺りを包む、一瞬の静寂。
急速に重たい雲が晴れて、空から陽が差す。地面に広がる水たまりいっぱいに、きらきらと光が反射して、青い空が映った。ギターを弾き終えたリトの髪からぽたりと水滴が落ちるのも、一息ついたノーテが壁にトンと背を預けるのも、全部がスローモーションのように見えた。上下を青に囲まれたなかに、まばゆいオレンジとルビーレッド。灰色にくすんだ亡骸が、彼らの鮮やかさをいっそう際立てて見せていた。
一枚の絵にして切り取りたくなるような、美しく、完成された世界だった。
ずっと握っていたペンが指のあいだから滑り落ちた。何の変哲もないそれは、水たまりのひとつに落ちて、美しかった水面を乱していく。ぽちゃん、という音は、思ったよりも辺りに響いた。
リトがふわっと顔を上げた。カチリ、と目が合う。反らしたいのに、なんでか反らせなかった。リトの口が、クラヴィア、と動いたのがわかったけれど、その声は聞こえなかった。リト、とつぶやこうとして、発することができたのは、「あ……」という意味のない音だけだった。
そんなふやけた自分の声が耳に届いた瞬間、どこか遠い世界の出来事のようだった目の前の景色が、ぐわんとクラヴィアに鮮やかに襲いかかってくる。突き抜けるように青い空も、水に照り返す太陽の光も、家の中から飛び出してきた街の人たちの明るい喧騒も、目をそらしてくれないリトの何か言いたげな顔も、こちらに気づいて駆け寄ってこようとするノーテの靴が立てる足音も、全部、全部うるさかった。目と耳から入ってくる色々が、頭にガンガンと響いた。奥歯をぎゅっと噛み締める。リトの視線を、身体ごと顔を背けて無理やり引き剥がした。痛い、と思った。何が痛いのかもわからないけど、でも確かに痛いと思った。地べたをぐちゃぐちゃに踏みしめて走り出そうとした。遠くに行きたかった。どこか遠くに。ああ、また逃げるのか。コルドから逃げてここにきたのに。そんな言葉が聞こえた気がしたけれど、ぶんと頭を振ってごまかした。駆け出した重い身体は、けれどすぐ前に進めなくなった。
掴まれた右腕がぐいと引っ張られて、身体の向きをひっくり返される。はぁはぁ、と息を切らして背を屈めたリトが、今度はクラヴィアの両腕をがしりと掴みなおした。息も整わないままに顔を上げ、こちらを見てくる彼の瞳は、少し揺れているような気がした。家五軒ほどはあった二人の距離を、数秒で一挙に詰めてきたらしい。リトが元いた場所では、ノーテが街の人たちに囲まれて困ったように笑みを浮かべているのが見えた。
「クラ、ヴィア……」
荒い息の合間に紡がれた声が、今度ははっきり聞こえた。思ったよりも弱々しい声だった。
「逃げんな、よ……」
まるで願うみたいに、そう言われた。逃げる、逃げている、そんなことはわかっている。リトの手を振り払いたくて身体をよじった。
「なぁ、なんかあったんじゃねえの? 俺なんかした? なぁ、頼むから……」
話して。小さくつぶやきながら、リトが俯く。こんな風に弱っているリトを見るのは初めてで、クラヴィアの身体から抵抗する力が抜けた。リトはそれに少しほっとした様子で、もう一度こちらに顔を向けてきた。
「……俺、そんなに頼りなかった? これだけ泣くようなこと、相談できないほど信頼されてなかった?」
真っ赤になったクラヴィアの目元を、リトの親指が撫でる。目、腫れてるじゃん、と彼はつぶやいた。
「どうして……?」
リトの指先から伝わる熱にあてられて、クラヴィアの口から言葉がこぼれ落ちる。ん?と優しい口調で続きを促される。
「どうして君は、そんなに僕によくしてくれるんだよ……」
「どうしてってそれは」
リトが言おうとした言葉を聞きたくなくて、さえぎった。頰に触れていたリトの右手をそっとどけて、クラヴィアは彼の目を見やる。
「僕は、君に優しくしてもらえるような人間じゃないよ」
だから、どうかこれ以上、綿のように柔らかくて、飴のように甘い言葉を聞かせないで。
クラヴィアはまた目を伏せた。
「僕は君から何をもらっても、もう、何も返せないから」
リトが、え?と声を出す。
「……さっきね、二人がここに来る前に、楽譜書こうとしてたんだ。でも、書けなかった。音明かりが、見えなかった。なんでかはわからないし治るのかも知らない。でも、リトにはもう、ノーテもいるから大丈夫だろ」
向かいにいる彼が、戸惑って身じろぎしたのを、空気の揺れで感じた。
あぁ、もういいか。全部告げて、ここからいなくなってしまえば、それで。それがきっと、一番楽なんだ。
空を仰いだら、やっぱり突き抜けるような青色をしていて、なんでか胸が締め付けられた。
ねえリト。僕は君に、大きな嘘をついていた。僕はピアノが弾ける。それもどうやら、かなり上手に。だけれどいろいろあって、辞めて、ここまで旅してきたんだ。
「僕は、音楽で人を救えるなんて嘘だと思ったんだ」
クラヴィアはぽつりと口に出す。リトは何も返さなかった。話がわからないなりに、聞いてくれようとしているみたいだった。そんな彼の態度に甘えるように、昔はピアノを弾いてて、とつぶやけば、驚くような息遣いが聞こえた。一度口から出てきてしまえば、繋がった気持ちがひきずられてきて、みるみる言葉がこぼれ落ちる。
「たとえ目の前の人を救えたとしてもその分だけ、救われない人も一緒に生まれるんじゃないかって。そう思うようなことがあったから。だから、僕は楽器をやめたし、この力も、こんな風に使っていくつもりなんてなかった。……コルドに全部、捨ててきたつもりだったんだ」
川べりでやっていたのと同じように、手を空にかざす。頭にぼんやり浮かんできたのは、故郷で弾いていたピアノではなくて、リトの家に今もドンと構えているそれだった。
「だけど、君を助けるためにこの力を使って、そうして君の音楽を聴いて……君と、君の創りだす世界なら、それができるのかもしれないって。その役に立てるなら、この能力も使っても良いかもしれないって。そう思った」
だからあの日、あの時から、この街に帰る場所をもらった。
「でも、ノーテに言われて気づいたんだ。それってなんて傲慢なことだったんだろう、なんて思い上がったことだったんだろうって。僕はきっと……無意識に、君のことを下に見てたんだ」
風が二人の間を吹き抜けていった。リトの方を見る。一言も発さない彼が、何を思っているかはわからない。
「僕は結局、君の音楽への想いを利用して、自分の居場所を作りたいだけ、だったんだよね。自分を必要としてくれる誰かを作って、安心したいだけだった」
自分勝手な寂しさを埋めさせていた。この男の、純粋な夢と想いにつけこんで。
「僕はそんな、自分が嫌いだ……なのに」
なのに、君のことを、
「手放したくないと、思うから。君に必要とされたいと、やっぱり思ってしまうから」
だから、
「そんな自分が、もっともっと」
——嫌いだ。
うつむいて息と一緒に吐いた言葉は、一瞬で空気にとけて消えてしまいそうだった。ノーテが来てから、作曲力を持つ人間であるという、リトにとっての自分の唯一絶対の価値がなくなって。もしかして必要とされなくなるかもしれないと思ったら、怖かった。そして同時に、作曲力を身につけることも、彼の夢の一つであるのに、それを素直に応援できなくなった自分がいることに、気づかずにはいられなかった。気がついたのに、やっぱりノーテのことを羨ましいと思って、その立ち位置に自分がなりたいと思って。どこまでも彼に必要とされたいと願って。そんな己が、浅ましくて、自分勝手で、嫌になった。
クラヴィアの雨に濡れた銀髪から、雫が伝って、二人の間に音も無く落ちていった。たくさんいるはずの周りの人たちの声はまったく聞こえてこなかった。クラヴィアとリトは、喧騒から隔絶されて、時の止まった、二人しかいない世界に、きっといた。
「……クラヴィアはさ」
リトが沈黙を破る。
「クラヴィアは、俺のこと嫌い?」
答えがわかっていて聞いている、そんな声音だった。静かな問いに、クラヴィアも黙ってかぶりを振る。
嫌いなわけがない。好きだから。だから、この手がしがらみになってほしくないんだ。
「じゃあ」
リトがクラヴィアの手をとって、目を合わせようとする。
「じゃあ、俺のことを好きなお前を、お前が嫌う必要がどこにあるんだよ」
クラヴィアは目を合わせない。
「俺は、お前が一緒にいて欲しいと思ってくれてるの、全然嫌だと思わねえし、むしろめちゃくちゃ嬉しいし、利用されてるとも思わねえし。俺だって、お前にもらってるものはたくさんあって、それは別に作曲力だけじゃ」
「……ッ駄目なんだよ!」
クラヴィアはリトの手を大きく振り払って、言い募る彼の言葉を遮った。勢いのままに言葉を吐き出す。
「君と、仲良くなればなるほど! 君を好きになればなるほど! 僕はまた! また……」
乾いたはずの涙がまたせりあがってきそうになるから、歯をくいしばった。
「僕は、また……っ」
「……音楽が、したくなるんだ」
リトの隣で、音楽をしているノーテを見てると、羨ましくてしょうがなかった。
「君のギターを聴いてると、もう一度、夢を見たくなる」
食いしばった歯の隙間から、小さく小さくつぶやいたその声が、リトにも届いているのかはわからない。
——ああ、でも駄目なんだ。
「でも、僕が音楽を始めてしまったら、ピアノを弾いてしまったら、きっと君から、音楽をする場所も、希望も、幸せも、奪ってしまう……あの時みたいに」
だからもう、君と僕とは、一緒にいない方がいい。クラヴィアは、へたりとその場にしゃがみこんだ。
「……お前が、どうしてそんな風に言うのかわからないけど」
リトはゆっくりと口を開いた。どっこいしょ、と言ってクラヴィアと真逆を向いて座る。背中と背中が触れて、あたたかかった。
「俺は、何があったって、音楽をやめることは絶対にしねえよ」
クラヴィアに聞かせるというよりも、自分自身に語りかけているようにも聞こえる、そんな声音だった。
「たとえ手が使えなくなったって、目が見えなくなったって、耳が聞こえなくなったって、俺はやっぱり音楽、するよ」
一言一言、噛み締めるようにリトは言葉を紡いでいく。
「俺にとって音楽は、人とのつながりだから」
彼の手が、雨に濡れてしまった愛用のギターを構えるのが見えた。トーン、と音を編み出す。
——なあ、お前、この曲、覚えてる?
そんな声が聞こえるような気がした。覚えてる。はじまりの音は、そう、ラ♭だった。
リトの操るギターから、懐かしいメロディが響き出す。
「俺がギターを始めた理由、親父から聞いたんだろ?」
なにも答えなかったけれど、リトは元から答えを期待していなかった様子で、そのまま言葉を続けていった。クラヴィアはリトの方を向くのをやめて、自分の膝に顔を埋める。
「だけど今は死んだ父さんのことだけじゃなくてさ。このギターのおかげで俺は、たくさんの人と繋がってこれたし、このギターが、音楽が、俺の前にいろんな人を連れてきてくれてたんだなーって。これからも、それはそうなんだろうなーって」
慣れた指は一年前と同じように、優しい一曲を奏でる。リトの落ち着いた声と、ギターのゆったりとした旋律が、まざり合って心地よかった。
「それに気づかせてくれたのが、この曲だったんだ」
お前が初めて俺にくれた曲、と笑うように言うから、なんだか胸が苦しくなった。
「俺さ、物心ついた時からずっと独りだった。同年代のやつすらこの街にはいないし、気にかけてくれる大人はいたけど、でも、やっぱり独りだった。だから、父さんの記憶の、ちっさなちっさなカケラを、大事にしながらずーっと来たんだよな」
ギターのなかに想い出を探している。酒場の親父はそう言っていた。
「俺、家族ってどんなものなのかって、ずっとわかんなくて。友達ってどんな感じなのかも、知らなくて。だからその分さ、こいつにすべてを注いできたし、注いでこれたのかもなと思うわけ」
帰ったらきちんと手入れしてやんねえとなぁ、とリトは独り言のように呟く。木と金属でできているギターという楽器は、本来は雨に濡らすなんてもってのほかだ。だけど、リト愛用のそのギターは、雨に濡れても負けずに、彼の世界を音に変え、力強く描き出している。
「お前さー、伝わってなかったっぽいけど……お前は正真正銘、俺の命の恩人で、初めての同年代の友達で、唯一の親友、なんだけど。これ以上の価値なんて、いる? お前と一緒に暮らし始めて、俺、家族ってこんな感じなんかなーなんて、思ってたりも、したんだよな」
朝起きたらおはようを言って、一緒にご飯を食べて、作ったものが不味かったら文句を言って喧嘩したりして、出かける時には一言かけて、好きそうなものを見つけたらつい買ってしまったりして。帰ってきたらただいまを言って、それにおかえりと返ってくる。そんな日々は、クラヴィアにとっては、かつて故郷では当たり前にあった毎日だったけれど。けれどリトにとっては、全く当たり前のものではなかったのかもしれない。そんなことに、初めて気づかされた。背中から伝わるこの温もりが、ただ彼の生来の優しさと明るさだけで構成されていたことを、クラヴィアは初めて知った。
「今までさ、ある意味自分のために弾いてたこいつを、今度はみんなのために弾きてぇなって、今は思ってて。俺と誰かをつなぐだけじゃなくて、誰かと誰かをつないでさ、俺が幸せをもらうためじゃなくて、誰かを幸せにするために弾きてぇなって」
ポロンポロン、と弦が音を立てて、曲は続いていく。この曲には、ピックを使った硬い音よりも指で弾く柔らかい音が合う。ピアノを弾きなれた手とはちがう、ギターを愛したリトの指先が音を紡ぐ。
「だけどさ、だからさ……俺が、俺のために、俺がしたいからそうする俺の気持ちっていうか、想いっていうか……うーん上手く言えねえけど……もしかしたらこれが、愛っていう、やつなのかな。今まで楽器に注いでた、俺の心のそういう部分をさ」
それを。
「親友として。家族、として。お前に使いたいなー、とか、勝手にそんなことを思ってたり、した、んだけど……ダメ?」
リトが振りむいたのが、クラヴィアにも背中越しに伝わった。
彼はクラヴィアが動かないのを見て、また前に向き直る。
もう曲は終わりのところだ。そう、グリッサンドで締める曲だった。この曲から、全ては始まったんだ。
リトが弦をトンと優しく叩いて最後の音を止めると、二人の間に沈黙が落ちた。
リトがギターを傍らに置くと、空気がふわりと動き出す。
彼は一瞬ののち、ふっと小さく笑った。
「俺さ、ずっと幸せでいるよ」
クラヴィアは思わず振りかえった。リトもこちらを向いていて、目があった。
また泣いてんの、と困ったような笑顔を向けられて、涙が出ていたことに気がつく。でもきっと、さっきまでの涙とは、ちがう涙だと思った。
「お前が何してこようと、何言ってこようと、全部笑い飛ばして幸せでいてやるよ。約束する」
俺を舐めんなよ、と彼は戯けたように言った。
「楽譜書けなくたっていいよ。なにもしてくれなくてもいいし、なんなら一日中寝てたっていい。なんだって、自由にしてくれていい」
リトは大げさなくらいにジェスチャーを交えて明るく語る。楽しそうに。
「……一日中寝てるのはリトの方だろ」
出した声は思ったよりも情けない涙声だった。
はは、それもそっか、とリトは笑う。
「音楽がやりたいなら、やったらいい」
その言葉に、息をのむ。
——なあ、だから。
呟くリトの、目が揺れた。
「俺の隣に、そのまま、いてくれねえかな……」
なあ、それだけで、いいよ。
頷いたら、ぽろりと目尻から雫が落ちた。
きっとこれが、最後の一滴だと思った。
「なあ、親父のとこ戻ってさ、夕飯、一緒に食べよ?」
しばらくして、リトがそう言った。青かった空は、すっかりオレンジ色に染まっていた。もうじき、白い月と銀の星が、さやかにきらめく夜が来る。
「そうそう、アップルサイダー飲もうぜ! 俺らのための新作なんだって」
気がついたら、周りには人がいなくなっていた。みんな、家に帰る時間だ。
「……炭酸ね。たまにはいいかも」
「ん、一杯しか飲んでないけど、美味しかったから。お前と、一緒に飲みたかったんだー」
ノーテにはお土産買って帰ろ!と元気よく笑う。
彼は、たんっと地面を軽やかに踏みしめて立ち上がった。
「ねえ、リト」
呼びかければ、当然のように振り返る。
「なに?」
「……サイダー飲みながらでいいからさ。僕の昔話を、聞いてくれる?」
そう問いかけたら、へら、と嬉しそうに笑った。
「当たり前じゃん!」
リトが差し出す手をとって、クラヴィアも力を込めて立ち上がる。
「なあ、でもさ」
「ん?」
「お前、覚えてないと思うけど」
「え? なにを?」
「お前が、ここに来た日。俺とお前が出会った日。ちょうど、一年前の今日だったから」
——だからさ、未来の話もしようよ。
せっかく今日店休みにしたんだから!と息巻く彼の顔は月に照らされていて、今まで見たどの表情よりも、輝いてみえた。
街角の賑やかな酒場。
出会った場所に帰れば、もうすっかり顔馴染みになった親父が、おーよく来たなと笑って出迎えてくれた。