僕は機械少女に恋をする

 3時限目が終わり、昼休みに入った。
 僕は希空さんが眠る研究所から出ていき、そのままの足取りで登校する。
 教室を開けた途端、周りからは心配や不安の目線を向けられた。
 昨夜の襲撃事件は町内では大きなニュースになっていた。
 希空さんを刺した鈴音さんは逃走したところを警察に事情聴取され、逮捕されたらしい。
 僕が研究室にいた間に、緊急で校内説明会が行われていたようだ。

 僕が教室に入ると、重苦しい空気が立ち込めた。
 何人かの生徒に心配の目を向けられたが、僕はそれら全てに不躾な対応をしてしまう。
 僕はもう1人になりたかった。
 希空さんを守れなかった僕。後悔しても後悔しきれない、斬鬼の念から早く逃げ出したいと思った。

 今、僕はひとり机に突っ伏したまま、時間が過ぎるのをただ待った。

 『うわあ。今日のお弁当、ハンバーグじゃん! ちょっと分けてよ。』
 そう言って、僕の手製弁当をジーと見つめる希空さんはもういない。

 『文化祭の作戦会議をするよ!はーやーくー。』
 と言って、昼寝中の僕を強引にたたき起こす希空さんの姿はどこにもない。

 久しぶりに1人で過ごす昼休みはとても長く感じられた。
 肩に何かが触れた。コンコンと指で触られたような感触。
 ふと、感じた感触。希空さんが僕の背中を突っついて笑う顔が脳裏をよぎった。

 僕が振り返ると、そこに希空さんの姿はなかった。
 クラス委員の横峰君が僕の隣に立っていた。
 彼は怪訝な顔で僕に尋ねる。

 「クラス企画、どうしようか?こんな状況だし、もうメイド喫茶は難しいかな。」
 横峰君は、空白になった希空さんの席を見つめている。
 それから、僕に視線を戻す。
 視線が痛かった。目を背けたかった。
 もう何も考えたくない。
 早く、どっかに行ってくれよ。
 僕は横峯君の刈り上げた頭髪をじっと見ていた。
 ぼんやりした脳で、返答を考えているうちに時間は刻々と過ぎる。

 抜け殻のようになった僕を見かねて、横峰君は言った。
「分かった。僕が生徒会に言っておくよ。メイド喫茶は中止だって。君も文化祭を考えている余裕はないだろうし。」
 横峰君は僕が机に顔を伏せると、少し溜息を漏らしながら、「じゃあ、伝えてくるね。」と言って僕の席から去った。
 僕は何も言わなかった。
 僕の迷い、僕の沈黙によって、希空さんの夢を潰した。
 僕と希空さんで描いた文化祭は無くなってしまった。

 希空さんは文化祭のためにこの数週間を走り抜こうとした。
 その先に何があるか分からない。何を得るかさえも。
 それでも、僕は強い彼女を追いかけて、自分に自信を取り戻そうとしていたんだ。
 僕らの文化祭はもう無くなった。
 目指すべきものはもうない。

 きっと、悔しくなると思った。屋上で泣き叫びたくなるくらい、悲しくなると思った。

 でも、僕の感情は違かった。
 小峰君の諦めに満ちた言葉。

 中止という言葉を聞いた瞬間、僕は安堵してしまった。
 そして、大きな肩の荷が下りたことに、安心している自分がいたのだ。
 これが、本当の僕の気持ちなのだろうか。
 そうであれば、僕は最低な人間だと思う。

 仕方がなかった。
 僕1人でできることなんて、本当は何もないのだ。
 能力もない経験もない僕は、ただ強く生きる希空さんを見て、憧れていたのかもしれない。
 それに乗っかる僕は、愚かにも自分にもそんな可能性があるのだと、錯覚していたのかもしれない。
 でも、それは単なる幻想だったんだ。僕は何の成長もしていない、ただの無力な人畜無害だ。

 昼休みの終わり間際、僕は用を足しに廊下を出る。複数人のクラスメイトとすれ違ったが、挨拶はない。
 話をかけられることもない。勿論、僕からもだ。
 誰もが気まずそうな顔で、僕の横を通り過ぎる。

 廊下の前方に見知った人が2人見えた。隣り合って歩く生徒。
 目の前から向かってくるのは、駿介と園田さんだった。

 よく見ると、園田さんの目元は少し腫れていた。
 2人に向かって僕は伝えた。クラス企画を廃止としたことを。

 「お前が考えて出した結論なら、それで良いと思う。今はもう、文化祭どころじゃないしな。」
 駿介は静かにそう答えた。拒絶はなかった。認めてくれた。
 まあ、彼はいつだってそう言う奴だ。
 僕が何かを迷うときは煩く口出しするくせに、僕が何かを決めた時には何も言わない。
 静かに僕の言葉を受け止める。

 対して、隣で呆然と僕を見る園田さんは何も言わなかった。
 2人が通り過ぎていくのを待つ僕。
 僕は肩にのしかかった重りが取れていくような気分になった。
 プレッシャーとか重圧が僕の心を苦しめていたのだろう。ようやく解放されたのだ。
 こんな日を僕はずっと待ち望んでいたのだろう。
 
 平凡で無意味な日々が僕の古巣だ。
 僕はやっと、いつも通りの平穏な生活に戻ることができる。
 これでいいんだよ。これで。
 
 振り返ると、園田さんは僕を見てこう言った。

 「どうして、泣いてるの。リク君。」

 気づいていなかった。
 僕の頬には水滴がぽろぽろと落ちていた。
 拭うと、その水滴にはほのかな暖かみがあって、塩辛い。

 それは、紛れもなく、僕の涙だ。
 鼻水を啜る音。ぐしゃぐしゃになる視界。
 平凡な日常に戻るはずだった。僕が何食わぬ顔で、文化祭を諦める。
 そして、明日からは希空さんを思いながらも、無個性な生徒としての日々を送る。

 そうやって、全てがうまくいくはずだった。
 悲しかったことも全部、なかったことにできるはずだった。
 日常という真水で涙の塩を極限まで薄められれば、どんなに楽だったことだろうか。

 「ああ、どうして僕は泣いているんだろうね。」
 鼻声になった声で、園田さんに決まりの悪い笑みを浮かべる。

 「希空ちゃんと過ごした日々を忘れられるわけない。リク君は楽しくなかった? もう全てを忘れても後悔はないの?」
 園田さんは真剣な眼差しで僕を見ながら、囁いた。
 隣にいる駿介は、僕が口を開く瞬間をじっと待っているように見えた。
 
 僕が馬鹿だった。
 希空さんの笑顔が、粘着性の強いものだって僕は最初から気づくべきだった。
 僕が記憶のカーテンを振り払おうとするたびに、花の溢れる匂いがした。
 長い黒髪が揺れた。揺れるスカートが僕の目を奪った。
 太陽のような笑顔が僕の空っぽな脳を満たした。

 希空さんと過ごした時間は無かった事になんてできない。できるわけないだろ。
 そう言いたかった。

 でも、僕らにはもう訪れることのない日々だとしたら、そんな日々を想起することは、きっと辛いことだと思う。
 もう辛いのは嫌だと思った。
 母さんを失った時の僕は心を失くしたような気分だった。
 また同じ悲しみを味わうなんて、嫌なんだ。

 「私はね、凄く悔しいよ。」
 僕は気がついた。頬に光る涙を浮かべていたのは、僕だけじゃなかった。
 袖口で瞼を拭きながら、園田さんは僕に目線を向ける。

 「こんなのってないよ! 希空ちゃんは何も悪いことなんかしてない! 私たちはただ、文化祭を楽しみたかっただけだったのに、どうして踏み潰されなくちゃいけないわけ? どうして私達が泣かなきゃいけないのよ!」
 園田さんが震える声で言葉を紡ぐ。
 園田さんの無念は痛いほどに感じた。
 でも、僕はその思いを晴らすための力も自信もない。
 だから、何も言うことができなかった。

 「もうこの話は終わりにする。それがリク君の願いなら、私はそうする。」
 落胆と消沈、そして侮蔑を交えた言葉だった。
 一発、僕の顔を殴って欲しかった。1割でも彼女の悔恨の念が晴れるなら、安い犠牲だ。
 園田さんは肩を震わせながらも、ひとり教室に戻った。

 最後に、園田さんは僕の方を振り返ると、悲しみを誤魔化すような態度で、一言を添えた。
 「ちゃんと忘れられたらいいね、お互い。」

♦︎

 今日の授業はなにひとつ耳に入らなかった。
 僕は先生が書いた黒板をよそに、目の前にある空席をただ見つめていた。
 時間は無為に過ぎていき、気付いたら放課後になった。

 本来であれば、放課後でクラス企画の準備や検討会を行うはずだった時間。
 クラス企画はメイド喫茶から休憩所へと変更になった。

 文化祭が1週間後に控える中、ほかのクラス企画を準備することは事実上不可能であると判断したためだ。
 休憩所であれば、椅子と机の用意さえあれば十分だ。
 だから、文化祭ですることなんて僕らにはなかった。

 僕は夕日の狭間に残された空虚な時間の中で教室に佇む僕。
 誰かと一緒に帰るのが怖かった。
 誰かと顔を合わせるのが怖かった。
 だから、僕は1人で教室にいる。

 すると、担任の先生が慌てるように教室に駆け込んだ。先生は僕を見ては表情を硬くする。
 「ついさっき、希空の退校手続きが決まった。」先生が告げた言葉。
 僕は胸のうちが軋むのを感じた。予想はしていたけど、僕らの別れが如実に事実となって表層化していくのは堪えた。

 「そうですか。」
 先生は肩を落とす僕を見て、目を細める。

 「それでな、辛いところ悪いんだが、希空の机に入った荷物を片付けておいてくれないか。」
 先生はそう言って段ボール箱を僕に差し出す。
 先生はどうやら昨夜の事件の件で緊急保護者会議に呼ばれているそうで、作業ができないらしい。

 同じ、実行委員だから大丈夫だろう、という理由により先生は僕を指名した。
 僕は段ボール箱を受け取って、小走りに去って行く先生を見る。
 断るタイミングを失ってしまった。

 僕はひとり溜息をついて、目の前の机と椅子に向き直った。
 夕日に照らされて黄金に輝く。誰もいない教室に僕はひとりだ。
 何てことはないはずだ。
 希空さんの机に押し込まれている教材とかノートとかを回収して、箱詰めしたら終了。
 
 僕は作業を開始した。
 おぼつかない手つきで、机の引き出しに詰め込まれた教科書を取り出していく。
 人工知能の女の子。
 完璧な高校生。
 そんな先入観は多少なりとも持っていた。

 だから、机に押し込まれていた教科書がシワになっていたり、ぐちゃぐちゃに押し込まれているレジュメ類を見て、僕は微笑した。

 結構ズボラなところもあったんだねと、僕は心の中で思う。
 隣で「うるさい」と言って、僕の肩を叩く希空さんの姿を想像してしまった。

 今更、希空さんの新たな一面を知ってどうするんだ。
 僕はまた1つ、2つと新しい彼女を知ってしまうようで、怖くなった。
 早く仕事を終わらせよう。
 そう思って、やや乱暴な手つきで机の中身を取り出していく。

 そのとき、一冊のノートが僕の手の平から転がり落ちる。
 それを手に取った。小さな手帳だった。
 手帳には、「私の日記」とボールペンで書いた文字。
 僕は希空さんが手帳を書いている光景を見た覚えはなかった。
 僕の心からわき起こった小さな興味。
 同時に、こんなものを見てどうすると心の声が僕を殺す。

 僕は反射的に、手帳を段ボール箱に押し込んだ。
 だけど、押し込んだ先の手は止まってしまった。
 これを捨ててしまったら、僕の中の希空さんが消えてしまうような気がした。
 希空さんがこの世界に残した痕跡が、失くなってしまうのが悔しくなった。
 希空さんを忘れたいと願う僕が、何と虫のいいことを考えるものだ。
 きっとこの手帳を持ち出してしまえば、僕はまた希空さんのことを思い出す。
 そして、彼女を忘れられなくなってしまうかもしれない。
 
 自分で自分を嘲笑する。僕は歪で、矛盾だらけで、そのくせ弱虫のどうしようもない奴だ。
 
♦︎

 帰り道。
 僕のポケットには不自然な温もりをずっと感じていた。ポケットから、それを手に取る。
 オレンジ色の皮表紙であしらわれた手帳。
 僕は自分の行動の浅慮さを嘆く。
 それでも、知りたいと思ってしまった、僕の知らない希空さんを。

 公園のベンチに座って、僕はその手帳を手に取る。
 思えば、この公園も彼女と一緒に過ごした場所だ。
 屋上にいるのがばれて、先生に追いかけられたときに逃げ込んだ場所。
 懐かしさと甘い香りが広がった、そんな気がした。

 僕は手帳を捲った。
 そこには、一日一日ごとに彼女の肉筆で出来事を書いていた。
 でも、その書き始めは2学期からだ。つまり、僕と彼女が出会った日。彼女がビッグデータを壊した日だ。
 そして、日記からは1枚の折り込まれた紙片が落ちた。
 僕はその紙片を拾い上げる。胸がざわついた。身体中の神経が逆立つように喚いた。

 【リク君へ】
 紙片の上欄にはそのように記されていた。希空さんの肉筆で。
 「どうして、こんなもの。」
 それは希空さんが僕に宛てた手紙のようであった。
 なぜ、彼女は手紙にしたためたのだろう。
 お喋りな彼女がどうして、手紙を書く必要があるのかと思う。
 
 同時に、僕は心臓が締まるように、苦しくなる。苦しさを堪えて、唇を噛みながら僕は紙片を広げる。

♦︎
 
 リク君がもし、この手紙を読んでいるのであれば、私はもう死んでしまっていると思います。
 私がいなくなったとき、私は今まで隠してきた思いを打ち明けようと思っていました。
 これはそのための手紙です。

 高校1年の頃、私には心がありませんでした。
 どこかに捨ててきてしまいました。
 いじめの身代わりとして、誰かからいじめられるために産まれた私でした。

 誰かの操り人形でしかない私。
 笑いたい時に笑えない私。
 泣きたいときに泣けない私。
 私は全ての私が嫌いでした。

 そして、道具のように扱われる日々が辛いだけなら、心に意味は無いと思いました。
 私はいつからか、心をどこかに忘れてしまいました。
 何も感じることの無いロボットになっていたのです。

 そんなとき、高校最初の文化祭。
 冷たい雨が降る中、私はリク君と出会いました。
 野ざらしの模擬店の片付けをしている私に対して、リク君は傘を差し出してくれました。

 リク君は私に傘を渡すと、そのまま文化祭の喧騒を抜けて帰ろうとしました。
 文化祭も大詰めの時間なのに、どうして帰るのだろうと思いました。

 理由を聞くと、リク君は自分には何かを楽しむ資格がないと答えました。

 正直言って、贅沢なことを考える人だと思いました。
 心があったら物凄く腹を立てていたと思います。
 楽しめる環境があるのに楽しまないリク君がどこか寂しく思いましたし、悔しくも思いました。

 私の気も知らないで、自分勝手なことを言わないで!
 ニヒルな自分に酔ってるクセに!
 厨二病こじらせてるんでしょ、どうせ。

 私は心の中で、そんなリク君に悪口を沢山言ってやったのです。
 結構、性格悪いでしょ?私。

 でも、私は知りたくなったのです。リク君という男の子の人生を。
 だから、私は人工知能の集合データを使ってリク君のことを調べてみました。
 彼が厨二病をこじらせた理由が知りたかったのです。

 昔のリク君を写した監視カメラログを見ました。
 それは、彼がまだ中学生だった頃、お母さんの葬式場にて立つ姿でした。
 突然の事故でした。周りの人間たちが泣き崩れる中、リク君はただひとり、涙を見せませんでした。
 リク君はただお母さんの棺を見つめ、拳を強く握っていました。

 私はリク君を侮っていました。
 悲しみを堪えて、前を向いている。
 辛い現実、悲惨な運命が起きても決して現実から目を逸らさず、逃げ出さない。
 そんな強さがリク君にはありました。

 辛くなって、辛いことから逃げたくて、心を捨てた私とは大違いです。

 私はリク君のことが凄く大嫌いになりました。リク君のことを考えると、弱い自分が頭をよぎるからです。

 傘をくれたあの日の感触がずっと忘れられなかった。早く忘れたいと思ったのに。
 冷たい雨の中で感じた彼の温かさが何よりも憎かった。

 だから、私はリク君とはもう会いたくないと思いました。
 それなのに、私はまた彼の過去を見てしまいました。

 どうしてでしょうね。
 別にリク君に気があるわけでもなかった。
 文化祭で彼と出会った時の彼は、私と目を合わせてくれなかった。
 それだけが何故か心残りだったのかな。

 私はまたデータの海に潜ります。
 お葬式を終えた中学時代のリク君。
 自分の部屋で1人になった彼は、顔を布団に押し付け、すすり泣いていました。
 まるで赤ん坊のように泣いていたのです。

 驚きました。私は勘違いをしていました。
 悲しくて、悔しくて、やり切れない中で自分を許すことも出来なくて。
 前を向くことなんてできないし、早く逃げてしまいたい。
 そんなぐちゃぐちゃの感情の中で、彼は全てを吐き出すように泣いていたのです。
 それでも、人前で泣かなかったのは、周りに心配をかけさせたくなかったからなのかな。

 リク君は強い人ではなくて、優しい人なんだと分かりました。

 彼は一体どれだけの悲しみを背負っているのだろう。
 心を失った私には想像することも、共有することもできませんでした。
 それでも、私は1人ですすり泣く彼を見ながら、彼の隣にいたいと思ってしまったのです。

 リク君とは1回しか話したことがないのに、私って都合がいいよね。
 でもね、君が辛かった頃の私に優しくするから悪いんだよ。
 君が優しい人だから、私は守りたいと思ってしまったんだよ。
 君が私にとっての憧れになってしまったから、私はもう今までの私じゃいられなくなったんだよ。
 リク君の馬鹿。

 私はそれから、長い長い荒野を走り出しました。
 心の持たない私が、再び心を取り戻すための旅が始まったのです。

 大きな転機は高校3年のクラス替えでした。
 私はここでリク君と同じクラスになる事が出来ました!
 嘘でしょ、こんなことってある?
 リク君になんて話しかけようかな。
 私の秘密を知ったら、どんな反応をするかな。

 それでも、リク君に話しかけることは出来ませんでした。
 私に宿る人工知能としてのビッグデータが私が心を持つことを許しませんでした。
 私はいつだってみんなの前では無表情・無機質に振る舞うしかありませんでした。

 次に私はビッグデータを取り除こうと頑張りました。
 人工知能にとって命とも言える物でした。
 だけど、私には命よりも大事なモノを見つけた。だから、抗い続けました。

 私は心が欲しかった。
 リク君が悲しみに心を痛めた時、傍にいてあげたかった。
 一緒に泣いてあげたかった。

 そして、私は再びリク君と2人きりになりました。
 私が勇気を出して人工知能を辞めた日。
 私とリク君は晴れて友達になったのです。

 リク君と久しぶりに話して、気づいたことがあります。

 リク君は意気地無し。
 リク君は口下手で不器用。
 リク君は意地っ張り。
 リク君は根暗で影が薄い。

 そして、リク君は変わらず優しかった。

 屋上に1人逃げ込んだ私を追いかけてくれたよね。
 実はあのとき、私泣いてたんだ。
 自分のした事が恐くなってしまったの。
 間違ったことをしてしまったんじゃないかって疑っていたの。
 鈴音ちゃんのことを考えると、どうしてもやりきれない思いになった。
 私を勇気づけてくれて、ありがとうリク君。

 上野デート、一緒に回れて楽しかったよ。
 私のピアノどうだったかな? 
 下手だったよね。お母さんにはきっと敵わないよね。

 それでも私はね。リク君に聴かせてあげたかったんだ。
 人間は勇気を出せば、何でもできるんだってところを君に見せたかった。
 過去に追い詰められてしまったリク君に、未来を生きていいんだよって伝えたかった。

 私がメイド服を着たときに、可愛いってひとことも言ってくれなかったのは、今でも根に持ってるからね。

 一緒に、文化祭実行委員をやってくれたこと、凄く感謝してます。
 企画書の作成を頑張るリク君の背中がとても頼もしく見えました。

 リク君は私と一緒にいて楽しかった?疲れてないかな。
(疲れたに決まっている。僕を散々連れ回してくれたじゃないか。)

 今疲れたって言ったね。酷いなぁもう(笑)
(でも、勿論楽しかった。こんな気持ちになるのは生まれて初めてだった。)

 出来ることなら、一緒に笑いながら過ごしたかった。
 悲しいことがあった時は一緒に泣きたかった。
 でも、結局は笑う回数の方が多くて、そんな楽しい日常を、リク君と一緒にもっともっと過ごしたかったな。

 謝らなきゃいけないことも沢山あります。

 強引に君の腕を引っ張ってごめんね。
 お弁当のハンバーグ、勝手に食べちゃってごめんね。
 企画書の作成、全部任せちゃってごめんね。
 メロンソーダの飲み方、汚くてごめんね。
 突然、寂しい思いをさせてごめんね。
 なんだか、謝ることばかりでごめんね。

 私の命はそう長くないと思います。
 私は使命を捨てた人工知能ですから、不良品としていつかは棄てられます。

 だけど、今という時間をリク君と過ごした記憶は、私にとっての人生最高の宝物です。

 だから、お別れは怖くありません。
 きっと、リク君にはこれからも新しい出会いが沢山あります。
 きっと、今まで我慢してきた分の楽しいことが君を待ってます。
 だから、たくさんの経験をして、たくさんのモノを見て、たくさんの人とお話をして、リク君はそんな人生を歩んでください。
 不安になることなんてないからね。私がいなくてもリク君は大丈夫。
 私が保障します。

(勝手に保障するなよ。大丈夫なわけないじゃないか。自分勝手なことばかり、言わないでよ。希空さん。)

 だからほら、こんなところで泣いたら駄目だよ。
 格好悪い。
 男らしくない。
 意気地無し。
 泣き止まないんじゃ、嫌いになっちゃうよ?

 分からずやのリク君には特別に言うよ。
 私はね、リク君が好きなんだよ。

 大好き!

 大好きなんだよ!

 だからさ、もう私の事なんて忘れてね。私のために泣くのはもうやめてね。


 どうしよう、私もすごく泣きそうになってきたので手紙はここで終わりにします。
 長々とごめんね。読んでくれてありがとう。
 ちゃんとご飯食べてね。夜更かしはしないでね。
 めぐみんにもありがとうって伝えておいてね。

 それとどうか、ちゃんと幸せになってね。
 リク君。

♦︎

 心を持つことが許されなかった人工知能。ルールの外側に出るということは、ひいては自分自身の存在否定にもつながる。
 それでも、彼女は自ら修羅を進んだ。僕みたいな凡人のために。
 希空さんはやっぱり馬鹿だと思う。そして、彼女の想いに応えることができなかった僕は何倍も大馬鹿だ。

 「希空さん。」
 今の僕を希空さんが見れば、女の名前を繰り返し呼ぶなんて女々しいとか言って笑うのだろう。
 笑ってくれても構わない。君と一緒にいれるのなら、僕はなんと言われても構わない。

 この胸の熱さは。
 この胸の高鳴りは。
 この胸の痛みは。
 それは初めての感情で、死にたくなる程に僕の心の全てを奪った。

 「僕は希空さん、君に恋をしていたんだね。」

 遅すぎた自覚、すべてが手遅れだ。宙ぶらりんの想いは今も暖かい空気に揺られたまま。
 それでも僕はこの気持ちを否定したくはなかった。
 絶対に手放したくなかった。忘れることなんてありえない。
 辛くて苦しいこの感情こそが、僕の本物なのだから。

 僕は大粒の感情をひとつひとつ紙片に落としていく。行き場を無くした水滴は紙片を濃く染め上げる。

 僕は自分の足下を見る。
 頑丈なタイルで固められた何の変哲も無い床面だ。
 崩れることもなく、傾くこともない。

 安全な道しか進まなかった僕が、希空さんに対して何かしてあげられることがあるだろうか。

 僕は強くなりたい。強くなって、希空さんに胸を張ってありがとうと言える人間になりたい。
 前に進める人間になりたい
 僕は僕自身が誇れる自分になりたい。希空さんがそうやってみせたように。

 だから、僕は思った。
 心に小さい光が灯される。
 些細な光ではあるけれど、それは確実に僕の進むべきところを教えてくれる。
 
 僕は、希空さんの思い描いた「夢《文化祭》」を実現したい。

♦︎

 翌朝。HRが終わり、僕はクラスの喧噪に紛れながら、立ち向かう機会をうかがっている。
 僕は椅子から徐に立ち上がると、教壇に上がった。
 沸き上がってくる吐き気を抑えながら、僕は口火を切る。

 「文化祭では、メイド喫茶をしたいと思います!」
 僕が恐怖を押し殺して強く放った言葉。僕の戦いが始まった。

 「何言ってんの?あんた。」一軍女子達が僕に氷の表情を向ける。

 僕は蛇に睨まれた蛙のように、硬直しそうになる。
 ここで負けちゃだめだ。心に言い聞かせながら僕は話し始める。
 「高校生最後の文化祭が椅子と机を並べただけの休憩所なんて味気ない。そう思わない?」

 「思わねえよ。なに文化祭なんかに本気になってんだよ。」一軍女子から容赦ない言葉の応酬が僕を殴りつける。
 「あたしはさ、来週は地方大会控えてるし、これからは受験もあるの。分かるよね?」

 僕を否定する言葉が突き刺さる。どうやら付けいる隙は無いようだ。
 だけど、今日の僕はここで諦めるわけにはいかなかった。必死で言葉を紡いでいく。

 「それでも、このクラスで何か楽しいことをしたっていう思い出はあってもいいと思うんだ。僕たちは卒業したら別々の道を歩む。きっと、もう会うこともない人だっているかもしれない。」
 「だからさ、そんなバラバラだった僕達が同じ場所にいることは奇跡で、この奇跡の中で楽しいことをするのが僕たちが今しかできない特権なんじゃないのかな。」
 今すぐ逃げたいと思った。
 ただそこに立っているだけでも辛かった。
 でも、希空さんはきっと僕以上の痛みと覚悟で、この場所に立っていた。
 否定されても、そこに立ち続けた。

 「いい加減にしてよ!!」
 机を強く叩く音がした。同時に、園田さんの言葉は突如として、教室に響き渡った。
 今の彼女は顔が紅潮しており、剥き出しの感情を露わにしている。
 一眼で見て分かった。園田さんは激怒している。

 「もうやめるって決めたよね! どうして今更蒸し返すの。もう遅いんだよ。」
 槍のように鋭利な言葉が僕の表皮を無惨に突き破った。

 「自分がどれだけ馬鹿なこと言ってるって分かってる? リク君の言動でいったいどれくらいの人が迷惑するか想像できる?」
 「もういいじゃん。もう十分頑張ったじゃん。これ以上、無理しても辛いだけだよ。」
 園田さんは鼻水をすすりながら話を続ける。

 「私達に力なんてない。私達が頑張っても、希空ちゃんが帰ってくることはないんだよ。」
 力なく放たれたその言葉。
 園田さんはがくっと肩を落として座り込む。周りの女子生徒が彼女の肩を抱える。
 園田さんは興奮のあまり過呼吸になっていた。
 保健室に連れていかなきゃ。
 僕はそう思ったけど、足は硬直して動かなかった。

 僕を除けるように、誰かの手が伸びた。
 途端に飛び出してきたのは駿介だった。
 駿介は身体がぐったりと落ちた園田さんを抱きかかえると、すぐさま廊下へと飛び出していった。
 一目散に大切な人のところへ駆け寄るアイツはやっぱり格好良かった。

 園田さんと駿介が不在になった教室。
 皆から集まる視線。その視線の意味は分かる。退場を促す視線だ。

 だから、僕は教壇を降りた。
 同時に、先生が教室に入ってくる。
 何事も無かったかのように整然とする教室。僕の戦いはあえなく終わった。

 僕は何もつかみ取ることはできずに、大事な友達さえも傷つけてしまった。
 本当に最低な奴だよ、ほんと。 
 それからはいつも通り始まった日常。
 ただ、希空さんがいないだけで、それ以外は特に変わらない日常が僕の前を無慈悲に過ぎていく。

 昼休み、5限、HR。文化祭の話題が挙がることは無かった。
 皆があえて触れていないのか。それとも、関心が全くないのだろうか。僕は分からない。

 【見守っているよ。リク君。】

 ふと、そんな声が僕の脳内を反芻した。彼女からくれた言葉、そして笑顔。温もり。
 それら全てが僕に諦めることを許さない。
 せめて、彼女が期待した僕をこの文化祭までは演じていたいと思った。

 彼女から貰ったものは、小さいものじゃない。
 僕が彼女に向けた思いはちょっとした風で吹き飛ぶようなチンケなものじゃない。

 誰もいなくなった放課後、僕は人知れず教室に残る。
 誰に認めるもらえる保障もなかった。

 ここから始めよう。
 誰に認めてもらえないとしても、まずは自分から始めるんだ。
 自分だけは自分を認めたっていいじゃないか。

 僕はノートを机に広げる。
 それは希空さんが置いていった企画書のメモ書き。
 メイド服の寸法やデザイン画、企画運営の諸々を記載されたものだ。
 僕はそのノートの空白に図面を書く。
 手始めに、メイド喫茶の内装デザインを考えてみる。
 少ない脳みそを極限まで絞り出して考える。

 そして、時には黒板を使ってダイナミックな構想図を描く。
 それでも腑に落ちず、消す。
 また書く。
 そして、消す。

 その繰り返しで、時間は瞬間的に溶けていった。
 気付けば、夜19時を回っていた。守衛が僕の教室にやって来ては、帰るよう促される。

 僕は守衛に先導されながら、校門を出た。
 タイムリミットはあと1週間。
 希空さんが残したクラス企画を僕はやり遂げる。そう決めた。

 学校における年に1回のお祭りだ。折角なら、とびっきりに楽しいことをやりたい。
 希空さんはそう言って、僕の目の前を駆けていく。僕には追いつけない速さで、廊下を駆け出していく。

 数日後。
 完成させた内装デザインをもとに、パステルカラーのフェルトを使って装飾品を作った。
 慣れない工作作業で何度もカッターで指を切る。
 紅く滲んだ手は紙や布と擦れる度に、激痛が走った。
 歯を食いしばりながら、僕は作業を続けた。

 そもそも、上手くいく可能性なんてゼロに等しかった。
 僕1人が続けても意味はない。
 誰かが僕の声に賛同してくれることがなければ、僕の準備はすべて無駄となる。
 僕は泣きそうになりながらも、手を止めない。
 
 気づけば、文化祭まであと2日。
 僕は連日、1人で夜通しの準備作業を続けていた。

 連続した寝不足と疲れがここに来て祟ったのだろうか。
 僕の脇に挟んだ体温計は38.3という脅威の数値をたたき出している。
 茹で上がったように熱い身体を揺り動かしながら、ベッドから身体を起こして登校した。

 授業をやっとの思いで受け終わると、その後はハードな準備作業が待っている。
 だけど、貴重な最後の1日をベッドの上で無駄にする選択肢は、今の僕には残されていなかった。

 やらなくちゃ。
 誰もいない教室の中で、視界が揺らぐのを堪えながら、僕はダンボールを切る。
 これが終われば、次はペンキ塗りが控えている。
 頭がかち割れそうな程、痛くなる。僕は本当に自分が馬鹿げたことをしているんだと思った。

 できるわけがない。
 僕の脳裏で誰かが囁いた。

 でも、辞めるわけにはいかない。僕は嗚咽を漏らす。身体中が痛くて、汗がおびただしい程に流れている。
 スポーツドリンクを口に含ませると、僕は自分の両頬を引っぱたき、自分自身を叱咤する。
 しっかりしろ。

 そのとき、僕の指に激痛が走る。ダンボールを添えたはずの手にカッターが食い込んだのだ。
 痛みを噛みながら、濁流のように流れる朱を見つめる。
 血液は右手の上に何本も枝分かれしては、各々が大河を成す。
 その先には一枚の絆創膏が巻かれていた。
 これは、希空さんと2人で歩いた夜の日。希空さんが優しく僕に包帯を巻いてくれたところ。

 傷はかさぶたになったけど、僕はそれが何だか名残惜しかった。
 途端に、どうしようもない無力感が僕の肩にのしかかる。
 こんなところで、手を止めてる暇はないというのに。早く作業を終えないと、閉門時刻に間に合わない。
 守衛さんに怒られてしまえば、僕は教室の夜間利用を禁止されてしまうかもしれない。 

 動かさなきゃ、手を動かさなきゃ。僕は強くそう思っているのに、身体はどうしてもぴくりとも動かない。

 ただ、涙だけが頬を伝って、教室の床を塗らしていた。
 悔しいという感情、とてつもない疲労感が心を満たす。
 不甲斐ない僕でごめんね。希空さん。
 
 もう無理かもしれないと思った。
 目元から滴る水滴の数を数えている間に、僕は自信をひとつまたひとつと無くしていく。
 1人でできるなんて、僕はひどい思い上がりをしていたんだと気づく。
 
 煌煌と光る蛍光灯、僕を余所に動き続けるミシン。僕は瞬間的に我に返る。
 僕は目を開けて、辺りを見回す。身体は鉄よりも重く感じた。手先を針に近づけるだけでも、出血した皮膚から激痛が走る。
 
 「1人で無理してんじゃねえよ。声くらいかけろ。」

 声がした。
 後ろから聞こえてきた声、僕が振り返ろうとする間もなく、僕の右手には僕じゃない手の平が添えられていた。
 ソイツは呆れた口調で僕を見ていた。
 にしても、僕は少し安心してしまった。
 呆れながらも、いつだって僕を気遣ってくれるよな、お前は。

 「駿介。」

 僕はおぼろげな意識の中、彼の名を言った。僕の友達だ。
 途端に、僕の身体から力が抜ける。
 「あれ、どうしよう。身体が動かない。」もはや自分の身体じゃないみたいに、僕は椅子から転げ落ちる。 

 目覚めたとき、僕の視界には天井が広がっていた。蛍光灯が眩しい。僕は咄嗟に右手で光を遮る。
 すると、右手には見知らぬ絆創膏が貼ってあって、僕の流血は綺麗に塞がれていた。
 教室の隅で寝転がっていた僕。辺りを見回す。冷たい風が肌を突く。窓は開いていた。

 気付けば、教室の真ん中で駿介が、段ボールにピンク色のペンキを塗りたくっていた。
 どこか楽しげな雰囲気を醸し出すデザインだと思った。
 「良い色だね。」駿介をのぞき込んで僕は言った。
 「体調はどうだ?」と駿介。僕は大丈夫だよと答える。

 懐かしい秋風に吹かれた。
 「2人で夜まで教室に残ってると、中学の頃を思い出すな。」
 駿介は手を休めることなく、僕に話しかける。僕は昔日に思いを馳せる。

 「そうだね、2人で勉強会とか言って、残ってたよね。」
 「実際に勉強なんてやった記憶ねえけどな。代わりに、モスハンの腕が上がったよな、お互い。」
 僕に無邪気な笑顔を向ける駿介。特に夢中になる物もなく、帰宅部だった僕と駿介は下校時刻になっても帰らずに、教室に2人で残った。
 残ってやっていたことといえば、当時流行っていたアクションゲームの通信プレイ。
 僕らは先生に見つからないように、机の上に参考書を広げながら、こっそりとモスハンの集会所を何度も往復していた。
 高校に入ってから、僕らは頻繁に遊ばなくなっていったけど、なんだかあのときの日々が蘇ったかのような気持ちになる。

 「あのさ、ずっと疑問に思ってたことがあるんだ。」僕はそう言うと、駿介は背中を傾け、傾聴の合図を僕に送る。
 「駿介が放課後の補習に誘ってくれたのはさ、知っていたからだよね。」静かに告げる言葉、駿介は無反応だ。

 「中学のとき、僕はクラスの不良から虐められていた。そいつらとは通学路が一緒だったから、下校時間が被る僕はいつも物を取られたり暴力を振るわれたりされていた。そんな僕を助けようとしてくれたんだよね。」
 駿介はそうやって、いつも僕を守ってくれていた。
 僕以上に僕の心配をしてくれた。僕は弱かったから、駿介に支えられてここまで来れた。

 「そんなこと知らねえよ。俺は単にモスハンがやりたかっただけだよ。」口を尖らせ、ペンキを塗り続ける駿介。
 いつだって僕を助けてくれる親友に対して、弱いままの僕を見守ってくれたコイツに対して、僕は区切りを付ける必要がある。
 いつまでも守られてばっかじゃダメなんだ。

 「おっと、そろそろ頃合いだな。」駿介は時計を見てそう言った。時刻は20時半を回ろうとしていた。
 そういえば、今日は守衛の見回りが来ない。昨日は非番だったとしても、今日は出勤しているはずだ。何か変だ。

 僕は駿介を見た。
 大人びた細い塩顔の上で相変わらず、悪ガキのような笑みを浮かべている。
 中学生の頃と変わらない無邪気な笑みだ。
 「リク。終夜申請って知ってっか?」

♦︎
 終夜申請。
 それは文字通り、教室を夜通し使うと言う特権を得るための申請だ。
 文化祭前日に限り、生徒会とクラス委員が例外的に申請を認められていると聞いたことがある。

 どうして今その話をするのか。
 「横峰がやってくれたのさ。」軽快な口調で駿介は答えた。僕は耳を疑う。
 どうして、うちのクラス委員が申請をしたのか。一体何の理由で。

 「そりゃあ、メイド喫茶の準備するために決まってんだろうが。」
 僕は話が見えなかった。それなのに、駿介は僕が知っているという前提で話を続ける。ちょっと待って、説明が欲しい。

 「駿介、理解が追いつかないんだ。一体どういうことだ。」僕は苦笑いを浮かべる。
 終夜申請?どうして。僕は横峰君にはメイド喫茶はやらないと伝えた。
 生徒会室へ正式に企画中止を報告したはずだ。

 そのとき、廊下から夥しい足音が聞こえる。ありえないと思った。こんな夜に数人単位で生徒が校舎に残る事なんてあり得ない。比較的遅くまで音楽室で練習している吹奏楽部も既に下校していたはずなのに。

 「お、やってるじゃん!」
 「あたし、夜の学校初めてなんだよね。」
 「暗くてめっちゃ怖いんだけど。」
 「へへへ、誰かトイレで写真撮って来いよ。」
 「は?お前が1人で行ってこいよ。」
 「男子うるさい!時間ないから早く準備するよ!」
 ぞろぞろと生徒達の群れが僕らの教室へとやってくる。皆が思い思いに会話をしていた。
 これは一体何が起きているのか。教室に集まっているのは、僕の見知ったクラスメイト達だったのだ。

 「どうして、ここに。」僕は口をぽかんと開けて、皆を見た。

 皆、感心なんて無いと思っていた。
 僕なんて彼らには必要とされてないと思っていた。
 でも今、僕の目の前にはみんながいた。

 これじゃあ、僕が馬鹿みたいじゃないか。皆を信じられなかった僕が一番ダメじゃないか。
 両手で顔をおさえる僕。あふれ出る涙をこらえる。皆に泣いている姿は見せたくない。恥ずかしいから。

 「リク。お前ってさ、やっぱり馬鹿だよ。」駿介は笑いながら僕に囁く。
 うるさい。
 「みんなこのクラスが好きなんだ。だから、文化祭だって楽しいものにしたいって思うのはお前だけじゃないんだよ。」
 諭すような口調で、いつも上から目線。
 ほんと、うるさいんだよ。
 この前までは知らないふりをしていたくせに、僕の言葉に耳を貸さなかったくせに。

 それは僕のかりそめの言葉だ。
 僕が皆に言いたいのは、そんな言葉じゃない。
 言葉が身体中を駆け巡る感覚。
 感情をこのまま吐露してしまえば、きっと僕は瞳に溢れるものを止めることができないだろう。
 必死に、僕はみんなを馬鹿にする。卑下する。貶める。

 突然、僕の肩に暖かいものが宿った。
 駿介が僕の肩を抱え上げた。項垂れた僕を、駿介は支えてくれていた。
 そして、駿介は夜の教室に広がった人の輪を見ながら、僕に再び微笑んだ。

 「リク。お前は、ひとりじゃないんだよ。」
 
 それから、作業を手伝い始める生徒たち。
 友達じゃないと勝手に決めつけた。仲良くなれないと勝手に線引きしていた。
 僕は勝手に卑屈になって、勝手に皆に距離を作っていたんだ。

 「ありがとう。」
 今はその言葉しか思いつかなかった。

♦︎
 文化祭当日、僕は3時間睡眠で得た僅かな活力で、ベッドから起き上がる。
 大きく背伸びをすると、蓄積した疲労感とは裏腹に、なんだか清々しい気分にもなった。
 とにかく早く学校に行こう。
 僕は急いで制服に着替えると、プロテインバーを口に突っ込んで自宅を飛び出す。
 晴天を仰ぎながら、走る。学校に着くと、そこには目を見張る光景が広がっていた。

 【メイド喫茶 Our Class】と題された大きな看板が教室の外側に掲げられている。
 周囲にはパステルカラーを基調とした広告。

 入口にはタキシード姿の駿介が顔を出す。
 「見ろよ、すげえだろ。」と言って、くしゃくしゃの笑顔を見せる。
 教室へ入ると、学習机を並べた上に白色のランチョンマットを敷いて、上品さを演出。
 調理場ではメイド服の園田さんがお菓子の仕込みをしているところだ。
 園田さんは僕が来たのを見ると、恥ずかしそうに手を振ってくれた。

 周りでは、メイド服を着た女子と男子が数人。女装男子も注目の的だ。
 タキシードや和服を着ている生徒もちらほら。メイド服に抵抗がある生徒には結構好評だった。
 皆が和気藹々と最後の準備を進めている。
 机の上に乗って窓に装飾を取り付ける男子生徒と彼が落ちないように、心配そうな目線を向ける女子生徒。

 これが皆の力なんだと思った。やっと、ここまで辿り着いたんだ。
 僕は気づけば、みんなの輪に溶け込んで文化祭の最後の準備を始めている。
 今までは、こんなに多くの人と会話をすることなんてなかった。僕の友達は駿介ひとりぐらいだったから。
 僕は怖かったんだ。知り合いを増やしても、失う日が来ると知ってしまったから。

 だけど、希空さんは違った。
 たとえ、別れが来ることを知っていても、僕に話しかけてくれた。
 僕を認めてくれた。
 僕にたくさんの楽しいことを教えてくれた。

 「リク君!シフト表できたから、みんなに配っておいて。」
 フリルの可愛いメイド服を着た園田さんがコピー用紙を運んできて、僕へと手渡す。メイド喫茶の勤務割表だ。
 だけど、僕はそれを見て怪訝な表情を浮かべた。その異変にすぐに気がついた。

 「あれ、僕の名前がない。」
 シフト表には僕の名前はなかった。実行委員として運営に気を配らなければならないのだから、僕が勤務シフトに組み込まれていないのはおかしい。
 僕は園田さんにシフト表の作成ミスがないかと聞いてみた。だけど、園田さんは首を横に振る。ミスはないと言うのだ。

 「じゃあ、どうして。」僕は不安げな声色になってしまう。
 園田さんはメガネを持ち上げると、僕に穏やかな笑みを浮かべる。

 「リク君には、他に大事なことがあると思うから。」
 「園田さん…。」
 園田さんの柔らかい表情の奥には真摯な眼差しがあった。僕は園田さんに向き直る。
 
 「私はね、自分がずっと嫌いだった。根暗で陰キャラで、特にこれといった取り柄もなくてさ、人を好きになっても全然アプローチもできなくて。」
 「何もできない私はただ、見ているだけだったの。」
 「そんな私にさ、好きな人に思いを伝えることが、世界で最も愛おしいことなんだって彼女は自信満々に言うんだもの。最初、馬鹿だねって笑っちゃったよね。」
 僕は園田さんの言葉に黙って頷く。そうだよな、希空さんはそういう言葉を平気で言う人だよ。
 「でも、おかげで今がある。私は私が大好きな人に思いを伝えられたんだ。」
 優しい口調の中に、貫かれた芯のようなモノを感じる。園田さんの表情はいつにも増して凛々しく、僕はそんな彼女と自分を重ね合わせる。

 そうだ、僕たちは変わってしまった。変わらなくちゃって思った。
 仕方ないじゃないか。
 僕らの目の前を、超特急で駆けていく彼女を見て、僕らは思ってしまったんだ。

 「格好良かったよね。真っ直ぐに生きる希空さんが。」
 それは僕の口から紡がれた言葉。そして、園田さんはフリルスカートの裾をぎゅっと掴む。

 「好きなんでしょ。希空ちゃんのこと。」途端に、崩した笑顔で僕を見る園田さん。
 
 「うん、好きだよ。」
 羞恥の念を押し殺して、僕も済ました顔で台詞を吐いてみた。
 でも、赤々とした恥ずかしさを後から込み上がっていくので、必死に喉元を抑えた。

 「じゃあ、早く思いを伝えないと。一生後悔することになるかもよ。」
 僕はその提案にかぶりを振る。希空さんはもう目を覚さないのだから、僕は思いを伝えることはできない。

 僕は首に諦念という文字をぶら下げていたのかもしれない。だから、園田さんは僕の目をまっすぐ見て言った。
 「たとえ希空ちゃんが眠ったままだとして、君の声が彼女に届かないって保障はあるわけ?」
 「希空ちゃんがもう帰ってこないことが、君の思いを言わない理由になるの?」
 「リク君は希空ちゃんが好き。それはやっぱり、ちゃんと口にしないと勿体ないよ!」

 まるで、向こうみずで考えなし。普段は大人しく堅実で、真面目な園田さんには似合わない言葉だった。
 
 「私らしくないって思ったでしょ。」と言いながら、僕を見てまた笑う。
 
 「そうだね、園田さんらしくないかも。だけど、希空さんならきっとそう言う気がする。」
 その言葉は不思議と2人の中で腑に落ちたらしい。
 一刻を置いて僕と園田さんは互いに吹っ切れたように笑い合った。

 そのとき、僕のスマホに甲高い着信音が鳴った。僕は画面を開く。
 そこには、「父さん」の文字があった。
 
 僕は急に重くなった背中を伸ばし、スマホを耳元へと当てる。
 耳障りな冷房音がノイズに混じって広がる。そして、声がした。
 
 「リク。お前に報告がある。」
 「希空さんのこと?」

 「ああ、今日付けで希空の筐体処分が決まった。」