僕はもう、幸せになんかならないよ。希空《ノア》さん。
高校最後の夏が終わる季節。
文化祭の夜。僕はそう強く願った。
冷たくなっていく彼女の身体を僕は必死に抱きしめる。
意識が薄れていく彼女の顔を黙って見ることしかできなかった。
こんな結末なんて僕は望んでいない。
こんな別れなんて僕は絶対に認めない。
それでも、彼女は僕に優しく笑いかけた。最後の力を振り絞るように。
まるで、自分が一番幸せだと言うように、真っ直ぐな瞳で僕を見る。
もう、やめてくれ。
これ以上、僕を幸せにしないでくれ。お願いだから、不幸なままでいさせてよ。
思いとは裏腹に、僕の腕に抱かれた彼女は優しい笑みを浮かべながら、囁いた。
「リク君、私の願いは叶ったんだよ。だからさ、そんな悲しい顔しないでよ。」
♦︎
今日は9月1日。気怠げな身体に鞭を打って、僕は二学期を迎えた。
ひとつの懺悔をしよう。
夏休み最後の日。
僕は、夜通しオンラインRPGに夢中になりながら、学校のことも忘れて空想の世界に浸っていた。
おかげで、睡眠を忘れた僕は、2学期初日から遅刻をするという大失態を犯してしまったのだ。
どうして夜更かしなんかしたんだろう。
今まで、こんなことはなかった。
ゲーマー廃人野郎の駿介とは長い付き合いだ。
奴から徹夜ゲームに誘われることは何度かあったが、その全てにNOサインを出してきた僕の実績はここでどうして潰えたのか。
理由は分かっている。
きっと、僕は平凡な僕を変えたかったんだ。
「で、禊《みそぎ》を終えてどうよ。感想は。」
隣で子供のような目で僕を笑う駿介。
始業式の最中、講堂に慌てて躍り出た僕を多くの視線が囲んだ。
まさに禊のような屈辱だった。
不幸なことに、禊はこれで終わらなかった。放課後の居残り掃除。それが僕に課された罰だ。
「最悪な気分だよ。」ただその一言に尽きる。
「だったら、最初からやんなきゃよかったじゃないか。急に誘いに乗って来やがって。」
僕に皮肉を投げかける駿介。彼の主張は正しい。でも、お前が言うな。
「もう相手してやんねえからな。」僕は対抗するように口をつり上げた。
1ヶ月半の夏休みの締めくくりはそんな感じだった。
僕の高校生活は残り僅かだ。僕はこれまで一体なにをしてきたのだろう。
僕はどんな高校生になれたのだろうか。根拠のない焦りが僕を覆い尽くした。
参考書を読み、ノートを捲るだけの無味乾燥な日々を少しでも変えたいと思った。
今まで変わることを躊躇していた僕が、今更都合の良いことを言ってどうする。
僕は自分を嘲笑う。
結果はこのとおり失敗に終わった。
僕は無味乾燥な日常から抜け出すことはできないらしい。
「安心しろ、リク。お前よりもお寝坊さんのご登場だ。」思考に耽ったところに、駿介が耳打ちした。
ほんの一瞬のことだった。
フローラルに満たされた空気が僕の鼻腔を包んだ。
ローファーの甲高い音。
それは自分がここにいると主張するように、教室を闊歩していた。
その人を僕はただ眺めていた。
長い黒髪、セーラー服。
すらっとした背。細身の白い脚をスカートから覗かせている。
風に揺れた後ろ髪は、波状にうねりを作りながらも、美しき隊列を決して崩さない。
だけど、清楚で可憐な様相に似合わず、彼女の表情は無だった。
いつものことだ。彼女は僕のクラスメイトで遅刻常習犯。
先生は彼女がいくら遅刻しようとも、欠席しようとも決して彼女に怒声を浴びせることはない。
かといって、彼女を賞賛することもない。
例えば彼女は、僕とは違うタイプの人間なんだと思う。
どんな人間よりも彼女は成績が優秀で、容姿端麗。
非の打ち所がない生徒だ。
そして、彼女はそもそも普通の人間ではない。
「デバック処理に時間がかかりました。」
彼女は表情を崩さずにそう言った。
愛想笑いも媚び売りも一切ない彼女の言葉は、崖の上に根付いた一輪の花のように、強さと美しさを帯同していた。
でも今日の彼女は雰囲気が違って見えた。
物憂げな目線は、いつもよりも凛としていた。
休み時間になった。駿介は僕の身体を肘で突っついた。
「おい、リク。はやく理科室に行こうぜ。遅れちまう。」
僕は彼の声に流され、教室を出る。
次は実験の授業があるから、生徒が慌ただしく移動している。
「今日のお前、ちょっと様子がおかしいぞ。」と言いながら隣を歩く駿介。
僕はぼんやりとふたつ返事をかます。
「そうだよな。今日のあの子、どこか様子が変だった。」
「あん?あの子って誰だよ。」
駿介の言葉に僕はハッとする。やばい、歩いたまま意識抜けてたぞ。
「お前さあ、さっきの授業中、アイツのこと舐めるようにずっと見てたよな。」
どこか糾弾するように問いかけた駿介。僕はバツの悪い表情を浮かべた。
「まさか、アイツに気があるとかじゃないよな。」
「そんなわけないだろ。」僕は咄嗟に否定する。
その間も僕は、窓ガラスから差し込む斜陽が彼女を包む光景を見ていた。
光の中で、僕は目を細めた。
逆光で滲む視線の先に、理科室へと向かう彼女の後ろ姿。彼女を意識するなんてありえない。
だって、彼女は僕らとは違うんだ。
「駿介。人工知能に心ってあるのかな。」
僕は柄にもない質問を駿介にぶつけた。
さて、理科室に着いた。
「あるわけねえだろ、そんなもん。完璧超人にどうして心が必要なんだよ。」
駿介はそう言って僕と別れ、自分の研究班の実験机へと向かった。
完璧超人。
そうだよな。
誰の助けがなくても、あの子はなんでもできるんだから。
僕は理科室の四隅を見た。
あるグループは男女が和気藹々と雑談をしていて、教科書すら開こうとしていない。
もう一方のグループは神妙な面持ちで皆が予習に励んでいた。
僕のクラスは総勢26人。
5人で1グループとなって、それぞれの実験机を囲んで、各々が研究課題の実験や学習に取り組む。
だけど、最奥の実験机にいるのは、ただひとり彼女だけだった。
彼女は手順を何ひとつ間違えることなく、淡々と実験課題をこなした。
♦︎
彼女は完璧超人。
駿介の言ったことは正しい。
彼女はこのクラスで唯一、人間を超えた存在なのだ。
彼女は人工知能のアンドロイド。
なにも、一学年にひとりやふたり、人工知能が編入されるのは珍しいことではない。
何十年も前のこと、人工知能は開発された当初、単なる人間の思考とか作業をサポートする機械に過ぎない存在だったらしい。
でも、現代は違う。
人工知能はより人間に近しい存在として、人間社会に共存する環境を得るようになった。
人工知能が人間の心を理解するため、人工知能は人間に近しい存在に、自らを進化させたのだ。
♦︎
下校時刻。僕は駿介と一緒に下駄箱へと向かう。
1ヶ月半ぶりのルーティン。
僕にとっての普通の日常が始まった感触。
だけど、僕は何か忘れている気がした。
「おい、リク。まさか、すっぽかして帰る気じゃないよな。」
下校する生徒がひしめき合う昇降口で僕は担任の先生と目が合った。(いや、目が合ってしまった)
「そ・う・じ・し・ろ!」
先生は不適な笑みを浮かべて、人差し指を上に突き出す。
上階にある僕らの教室を掃除しろという合図。
そういえば、「禊ぎ」がまだだったな。
僕は失念に頭を抱えると共に、先生に出くわすタイミングの悪さを恨む。
重い足取りで教室に戻る。
掃き掃除だけ適当に済まして、早々に帰宅しよう。
僕は、誰もいない教室に入る。
教室の窓。差し込む夕日。
揺れる黒く長い髪。え、黒い髪?
前言撤回だ。そこにはまだ人がいたのだ。
それは、神秘的な光に包まれた彫刻のように、僕の眼を、そして脳を、浸食していく。
ルノワールが描く絵画に感じた面はゆい感覚に似ていた。
何か、人が見てはいけないモノを盗み見てしまったかのような感覚。
そこには、アンドロイドの彼女の姿があった。
窓辺に身体を委ねて立っている彼女の姿を見て、僕は息を飲む。
その姿があまりにも画になっていたからだ。
彼女は未だ僕の存在に気付いていない。彼女は眼を閉じて、何か考え事をしているように見えた。
それから、彼女は長い黒髪をかき分けてゴムで結い始める。
隠された純白の首筋が露わになる。
僕は声もかけることを忘れ、ただその光景を眺める。
異変は起きたのはその後だ。彼女は自分のうなじに手を添えると、首筋の一点にて、青白い光が瞬き始めた。
彼女は苦しそうな表情で口を結んだ。
痛みを我慢している。そんな表情だった。
何か良くないことが起きている。
僕は咄嗟にそう感じた。
どこか調子が良くないに違いない。
じゃあ、一体どんな調子が悪いというのか。分からない。
でも、僕はそんな苦しそうな表情をする彼女を、黙って見ているわけにはいかなかった。
「あの、大丈夫ですか?」恐る恐る声をかけた。
人工知能に対しての言葉選びが僕には分からない。
そもそも、僕は彼女に話しかけたことなんてないと思う。
「邪魔しないで。」
彼女から返ってきた言葉は、シンプルすぎる直接的な物言いだった。
僕は肩から力が抜けるのを感じた。意識が淀む。よく分かったよ。よく分かった。
僕は拒絶されたんだ。
なんでかって?理由なんて分かっている、僕は彼女とは違う人種だからだ。
彼女の足下にも及ばない、無個性で特徴のない「人畜無害」。
僕の足が踏み入れて良い領域なんて、彼女のそばには1ミリたりともありはしないんだ。
僕の視界は教室の床。
そうか、僕はまた下を向いている。
僕は彼女を直視することができなくなっていた。
怖かった。また拒絶の言葉をかけられるのが。
だから僕は下を向いたまま、教室から飛び出す勇気もなく、そこに立っている。カカシのように。
何て惨めな姿だろう。
瞬間、空気の圧縮音が僕の鼓膜を刺激した。
教室で聞くことのない異様な音だった。
僕は顔をそっと持ち上げると、彼女の方を覗き見た。
彼女の首筋から、銀色の定規のような物体が抜き出ていた。
彼女はそれを苦しそうな表情をしながら、抜き取る。
水晶のような透明感を持った不思議な物体だ。
柔らかい首筋から長々とした物体が取り出される光景はまるで、聖槍を引き抜くようで、神話的な光景に見えた。
思わず、背筋が震えた。
僕はもしかしたら、本当に見てはいけないモノを見てしまっているのではないか。
本能的にそんな感覚がよぎる。
一瞬の破裂音が鳴った。
彼女の身体もわずかに揺れた。
銀色の定規が彼女の身体から完全に取り外された。
さっきまでの苦しそうな表情はなく、今の彼女はどこか開放的で挑戦的な表情をしていた。
僕はそんな彼女を二度見する。
初めて見た表情だったのだ。
そんな表情ができたのか。
「ねえ、リク君だよね。」
「ねえってば。聞いているの?」
「リク君!!!」
突然、声がした。
結構強い語調。誰かの名前だろうか。
待て待て、正真正銘、僕の名前だ。
じゃあ、誰が呼んだ? この教室には僕と彼女しかいないじゃないか。ということは。
僕は、我に返った。そして、目の前を見上げた。
そこには、腕を組んで僕を睨む彼女の姿があった。
彼女は人工知能であって、本当の人間ではない。
彼女には感情がなく、いつだって無表情だった。
じゃあ、なんで僕を睨むのか。
「はあ、やっと気付いてくれた。」
口元を緩ませ、小さな笑みを浮かべる彼女は、僕に向かってそう言った。
「これ、何だと思う?」
彼女はそのまま話を始める。彼女の手には先程の銀色の定規がつままれている。
さっきまで、僕に盛大な拒絶反応を示したというのに。
彼女は知らぬそぶりで僕に問いかけた。
「ええと、分からないな。」僕は必死で声を絞り出した。彼女はまた、不満そうに口を尖らせる。
「これはね、私そのもの。いや、過去の私と言うべきかな。」
「君そのもの?その定規が?」僕は彼女の手に収まった銀色の定規を見た。
夕日に照らされて、虹色のプリズムを放つ。
それはやっぱり神秘的な様相を呈している。
でも、どこかその完璧さが寂しいと感じる。不思議な感覚だった。
「定規かあ。リク君にはそう見えるのね。なんだか面白い。」
彼女は口元を抑えながら、クスクスと笑う。
嘲笑じゃない。冷笑でもない。
自然な会話で自然に発せられた、たった一瞬で消えてしまうささやかな笑みだ。
「これはね、ビッグデータの集合体。私が私であるための知識の倉庫。」
「ビッグデータ。その定規が。」僕は彼女の言葉をなぞった。
「すごい単刀直入に聞くんだけどさ。リク君は私のこと、どう思ってるの?」
単刀直入すぎるだろ。僕は全身の毛が逆立つのを感じた。
こんな状況、経験値のない僕はどうしていいのか分からない。
僕は放課後の居残り掃除をするために、教室に戻っただけなんだ。
人工知能であっても、女子生徒と会話をする準備なんてできてない。
「君はなんでもできる凄い人かな。」
僕がやっとの思いで紡ぎ出した言葉。
無味乾燥な日々を送る僕から流れ出た無個性で及第点レベルで、意味のない言葉。
それを聞いた彼女は溜息をついた。
「そっか。まあ、そうよね。」
「どうしてそこで、溜息をつくの?」
「リク君。私はね、君が羨ましい。」
返ってきた言葉は僕の脳に直撃した。
ああ、言葉は理解できた。理解できたさ。
だけど、僕はなにひとつ「理解」できてなかった。
AIジョークってこういうものを言うのだろうか。
お誂え向きなツッコミフレーズをひとつでも用意しておけばよかった。僕は後悔する。
「あのさ。私、真面目に話しているのだけど。」
彼女の吐息がそっと、僕の頬に触れた。
僕はくすぐったい気持ちで彼女を見返す。
彼女は少し不安そうな眼をしていた。
今日の彼女は何かが違う。今朝彼女を見たときに感じた予感が今も続いているから。
僕は知りたくなった。完璧な彼女が不完全な表情を見せる理由を。
「どうして。君が僕のことなんか。」
とりあえず僕は彼女の問いかけに答えた。
次いで、彼女は考え込んだ。時間をかけて考えた。
彼女の処理速度では言葉を紡ぎ出せるのに一秒も要らないはずなのに。
彼女は手をあごに当てて考えている。
「私は特別なんだって自覚してる。誰だって私のことを笑ったり、馬鹿にしたりしない。みんなが私が一番頭がいい、できる人って思っているのが目に見えて分かる。」
それはそうだ。
だって、君は人工知能の女の子で、新型人工知能の稼働実験のために、有名な研究機関から派遣されたロボットなんだから。
そう言い返せば終わる話だった。
なのに、できなかった。
僕は彼女の瞳に光るものに気がついたとき、彼女を安易にカテゴライズしようとしている愚かな自分に気がついたんだ。
「みんなに一目置かれるのは、そんなに嫌なこと?」
「私は何でも知っていた。隣りに座っている園田さんの食べた朝食のメニュー、斜めに座る本木君の好きな女の子、そして君が私をずっと見ていたことだって知っていたのよ。」
心に釘が刺された。意表を突かれた。僕の動きなんて彼女にはお見通し。
何を糾弾されるか分からない。
僕は唾を飲み込んで、彼女が僕に嫌悪の眼を向ける様を想像した。
けど、そうはならなかった。
「知っているだけなの。知っていてもね、つまらないわ。だって、知識は心じゃない。」
心。
彼女は確かにそう言った。
「君は心が知りたいの?」
「心は知るものじゃないわ。一緒に話して、一緒に過ごしてお互いで感じるものでしょ。リク君にはそれができる。だから、私は羨ましいの。」
「僕だけじゃない。人間はみんな、当たり前のことだよ。」
僕はとたんに背中が痒くなる。
そんなことを言われるとは思っていなかった。
「そうね。でも私はリク君が羨ましんだよ。」
彼女は窓の外を見た。
夕日に照らされた校庭ではサッカー部の連中が走り込みの最中だ。
練習が終わろうとしている。
平凡な、どこにでもある一日。
そのなかで僕は、教室に突然現れた非日常に取り残された気がした。
「リク君はさ、誰かと友達になる瞬間ってどんなときだと思う?」
彼女が尋ねる。
僕だって友達はそう多い方じゃないんだ。
僕は記憶を探る。とりあえず、駿介との出会いを探ってみた。
「そうだな。中学のとき、あるゲームが流行っててさ。皆んなが休み時間に通信プレイとか先生に隠れてやってたんだ。駿介と知り合うきっかけはアイツが僕を通信プレイに誘ったことから始まったんだ。僕もちょうど攻略につまづいていたから誘いに乗った。きっかけなんて案外、そういう些細なもんだよ。」
彼女はまた小さく笑った。
「でもさ、知らないこと、苦手なことがあるから、誰かと知り合おう、誰かに話しかけようって思うんじゃないかな。私は少なくともそう思うの。」
彼女は教室の窓辺を飴細工のような華奢な指でなぞった。
「私にはそういうのがないから。」
続く言葉はなかった。僕は彼女の言葉の続きを想像した。
思い出す光景。
彼女はいつだって完璧だった。
いつだって正解を選んでいた。
誰かに助けられたことなんてない、だって、助けられる必要がないんだ。
そして、誰の手を取る必要もない彼女は、いつもひとりだった。
「あと半年で私達は卒業する。皆が別々の道を歩む。もう二度と会うこともない人もきっと、たくさんいるわ。それでも、この3年間だけ、何の接点もない人達がこの学校に集まって、友達になるの。それって、凄いことだと思わない?リク君。」
踊るような口調だ。彼女からそんな語調が産まれるとは思っていなかった。
「私はこの最後の学校生活を精一杯楽しみたいよ。この奇跡の3年間をこのまま終わらせたくないよ。リク君はどう?」
「だから、私はね、こうすることにしたの。」
瞬間、何が起こったか僕は理解できなかった。
彼女は銀色の定規を目の前に出した。そして、定規の両端を握った。
それは、彼女の中に入ったビッグデータ。
彼女が完璧である証であり、彼女が人間を超越する理由だ。
ガチッ!!
彼女は銀色の定規を真っ二つにへし折っていた。
「えっと、何やってるの?」僕は驚きのまま彼女に駆け寄った。
「ふふふ。壊しちゃった。」清々しい笑顔で、彼女は答える。
「笑ってる場合じゃないよ。これって壊したらやばいやつでしょ。」
僕は恐る恐る聞いてみる。
「うん、やばいよ。滅茶苦茶怒られるね。」
やっぱそうだ。僕は頭を抱える。彼女は変わらず笑う。
「消されちゃうかも。」
「何が。」
「私が。」
はああああ?!
彼女は一体何をやっているんだ。
彼女を開発した研究機関は多額の資金を使って、彼女は作られたと聞く。
こんなことがばれたら只じゃ済まないだろう!
「は~。なんか軽くなった感じがするわ。」と言って、彼女は何食わぬ顔で肩を回している。
背負い込んだリュックを外しただけのような、軽い反応だ。
カラッとした快晴。彼女の今の表情はそういうものだった。
「言ったでしょう。残りの学校生活、たくさん友達を作って、私のしたい事を沢山したい。知識なんて余計なものは要らないの。」
「ねえ、リク君はどうするの?残された半年間をどう生きるの?」再びの問いかけ。
どう生きるなんて大袈裟だと思った。僕は日々の平坦な日常を消費することでしか、生きる手段を知らない。
「どうって何が。」僕はわざと知らないフリをする。
こういうとき、僕はどうしようもなく自分が嫌いになる。それでも、彼女は悪びれずに答えた。
「人の話聞いてたでしょ。したいことしたくない?」真っ直ぐな問いかけだった。
校庭では部活の終了を合図する放送が鳴った。
校庭のスピーカーから、いつも聞く音楽のメロディーと教頭先生のおじさんボイスがこだまする。
♦︎
「具体的にはどうするのさ。」僕は彼女の横顔を見ながら、そう聞いた。
彼女は少しの恥じらいを混ぜた声色で、「もう決まっているわ。」と答えた。
彼女は、黒板の端っこにある小さなインフォメーションパネルに写るポスターを指差す。
その行き着く先。僕は見た。それは、僕が決して踏み入れようとしなかった世界だ。
「文化祭。」
僕のぼやきに呼応するように、彼女は頷いた。
「1ヶ月後に文化祭が始まる。これが私の最初の戦いになる。」
人間になるための戦い、そう解釈すればいいのだろうか。
とすれば、僕には関係ない話だ。僕はここで踵を返す。退場の合図だ。
「明日、文化祭実行委員を決めるHRがあるわ。私とリク君はこれに立候補する。いいわね。」
教室を出ようとしたとき、僕は彼女の言葉に引っかかりを覚えた。
え、今僕の名前を言った。どうして?
「だって、リク君は私の友達でしょ?!」
「え、いつから?」
「何とぼけてんのよ。今ここで話してるんだから、私達友達じゃん?」
「は、はい?」
強引な物言いだった。友達の認定基準がザルすぎる。
「とにかく、私には友達が君しかいないの。君以外に頼める人がいないの。」
「え、ちょっと待って。僕もやらなきゃダメ?」
僕は必死で逃げようとした。これは話が違う。
文化祭実行員。
これは、学校の中で一番面倒くさい役員というものだ。
多種多様な陽キャラ達の取り込みと調整、勉学との兼ね合い、男女間の意識ギャップを埋めるための巧みな提案力、そして話術。
既に分かっていることだ。
これは僕に向いていない。できるわけない。やらない方がいい。
「ごめん、悪いけど。僕には。」僕はそう言いかけようとしたとき、彼女は僕の眼を見て笑いかける。
「人工知能の女の子を四六時中舐め回すように見る、見た目は静かだけど、中身は感受性豊かな変態男子。噂になったらどうなるかなあ。」小悪魔的な笑みを浮かべる。
「ひ、卑怯だ。」
たじろぐ僕は人工知能の恐ろしさを悟った。
そして、自らの手札がないことに辟易する。
「分かった?君に拒否権はないってこと。」得意げな表情を浮かべる。今日は厄日だ。
校門での別れ際、彼女はもう一度僕の顔を見て、約束だからと言った。
どうやら、明日のHRで僕らは2人仲良く立候補の挙手をする算段になっているらしい。
もう断る時機を逸した。
「あとさ。私の名前、ノアっていうの。希望の空で希空(ノア)。君じゃなくて、希空。次からはそう呼んでね。」
2人に空いた距離は4メートル。
この距離感は僕にとって心地が良い。話すことはできるけど、怖くなればいつでも逃げ出すことのできる距離感。
僕は彼女の銀色の定規を思い出す。彼女はそれを遂には粉々に砕いて校庭に投げ捨てた。
そうか、彼女は自らのアイデンティティを捨てて、新しい自分になったというわけか。
彼女は今はもう只の女の子。
完璧な知識、この世界に期待されて創り出された存在。それが人工知能だ。
人工知能であることを否定してまで、どうして彼女は人間になりたいと思ったのだろう。
僕はふとそんなことを思った。
人間なんて、一握りの連中が利益を独占するだけで僕みたいなモブキャラはいつだって貧乏くじを引かされる。
人生に幸せなことはあるかもしれないけど、不幸の方が圧倒的に多い。
それが、人間だ。
それが、君が羨む僕の正体だ。
彼女は間違っていると思う。
でも、教室に咲く彼女の笑顔は眩しかった。
その眩しさだけは僕は否定することができない。
それは、僕が持たない「人間らしさ」だった。
僕が考えているうちに、僕の目と鼻の先には白い顔が近づいた。
ふんっと鼻息を鳴らして、両手を組んでいる。
「いい?希空だからね。」
彼女はそう言うと、ちょっと満足したような笑みを浮かべて、手を振って去って行った。
希空。
その名前がしばらくの間、僕の空っぽな心に流れ出す。
心臓が少し早くなっている気がした。
これは、高揚感なのだろうか。多分違う。慣れない経験をしたことによる動揺。
女の子の名前を覚えるという行為自体が久しぶりだったからだ。
うん、きっとそうだ。
僕は帰宅後も彼女の眩しさを反芻した。
彼女の名前、透き通るようなうなじ。流れるような髪。
清涼剤を混ぜたオイルと香水が混ざった匂い。
綺麗じゃなかった、なんて言えば嘘になる。
信じたくなかった、といわけでもない。
希空さんは明日、僕を見て何か言うだろうか。
僕を友達と言った彼女。
信じてもいいのだろうか、人工知能の彼女を。
僕の中で警戒アラートが鳴り響く。
誰かと関係を持つのが怖かった。
でも、胸の中には小さい高鳴りがあった。なぜだろう。
僕は嬉しいのだろうか。
上気する身体は睡眠を求めなかった。
明日の朝、彼女に声をかけるべきだろうか。
HRが終わり、一限目が始まるまでの5分間のことを何時間も考え続ける。
気づけば、また耳障りの悪いアラートが鳴る。
ぼんやりとする意識のまま周囲を見ると、そこには電子音を響かせる目覚まし時計があった。カーテンを開けると、日差しが悪意を持って僕を照らす。
ああ、そうか。
僕はこの日、一睡もすることが出来なかったのだ。
「本当に、信じられないんだけど。ありえない。」
HRが終わって、教室が慌ただしく1限目授業の準備を始めている頃、彼女が僕の机の目の前で鼻息を荒くして立っている。
彼女の名前は希空。昨日、人工知能を辞めた人工知能の女の子だ。
「だから、起きてったら。」そう言って、僕の片方の耳をつねる希空さん。
乱暴はいけない。ツボに入った、痛い痛い。
待て待て。何が起きている。どうして、怒ってるんだ。
「リク君がHR中に寝てるから、私1人で実行委員をやる羽目になったんだけど。」
僕はやっと自分が希空さんに詰め寄られている理由を知った。
僕はHRの時間を睡魔に捧げたようだ。
それは昨日の出来事のせいだ。
僕はあれから一睡もできなかったから。
まだ誰も登校していない早朝の学校に着いた途端、殺人的な眠気に襲われた結果が今というわけだ。
希空はむっくり顔でさらにこちらを睨んだ。
ガラガラと教室の戸が開いた。
1限目の合図。
先生が気だるそうに、背中をかきながら教室に入る。
彼女はプンスカという擬音が似合う表情で、ずっと僕を睨み付けながら渋々自席に戻った。
「お前さ、一体何をしでかしたんだよ。彼女と何かあったのか。」
隣りに座る駿介が僕に声をかけた。
辺りを見回せば、多くの生徒が僕と希空さんの異質な空気感に、怪訝な表情を向けていた。
ああ、こうなるよな普通。
僕は途端に向けられた周囲の視線に身震いしてしまう。
僕の空っぽな心には、その夥しい視線の数は毒になる。
やめてくれ。
僕は心でそう呟くと、次第に僕に向けられる視線は消えていった。
いつも通り授業が始まってしばらくした頃。
「おい。一大事だぞ、こりゃ。」
そう言って駿介は机に突っ伏した僕の顔をグイグイと押し込んだ。
僕はとりあえずその力に従って、正面を見る。
斜め左45度の席にはいつも通り、人工知能の希空さんがいる。
彼女はどんな授業のどんな難題でさえも表情ひとつ崩さずに解いてみせる。
そう、彼女は完璧なのだ。
「不正解だ。」その言葉は誰に向けられたものか、僕には分からなかった。
だけど、数学の大学入試問題の解法を求められていた生徒は紛れもなく、目の前で起立する希空さんだったのだ。
希歩さんが数学の問題を間違えた。
あるわけがない、そんなこと。
周囲は視線を彼女に移しては、再びざわつき始めた。
完璧頭脳を持ったはずの彼女の、敗北がそこにあった。
結局、数学の問題は誰も解くことができなかった。
1限目が終わった。
それから、2限、3限と授業が続いていく。
現代文、英語と続いたが、希空さんは不正解を連発した。
下校前のHRとなった。
教室に戻った担任の先生は、文化祭の出し物を議論してくれと言った。
文化祭実行委員に就任した希空さんにとって最初の仕事になる。
でも、希空さんはどこか不安げな表情をしていた。無理もない。
今日は彼女にとって不正解の連続だった。
彼女自身、その変化を戸惑っているようにも見えた。
そして、状況を知らない先生は場の取り持ちを希空さんに預ける。
彼女が全てやってくれる。
全てうまくまとめてくれる。
先生は、期待の目を希空さんに向けた。
先生にとっては文化祭なんてめんどくさい雑務にすぎないのだろう。
受験戦争にとっては障害物でしかないと思っているのだろう。
それは他の生徒も同じ気持ちだったりするのだろうか。
そんな面倒事を嬉々とした少女で引き受けた万能少女。
さぞかし、先生にとって都合が良かったに違いない。
僕は何か名状しがたい感情を催した。
そうじゃない、そういう期待はやめてくれよ。
希空さんはあんたの神様でも仏様でもないんだ。
彼女は昨日、人工知能を辞めた。今の彼女はただの。
思いは詰まる。
希空さんがただの人間とでも言いたいのか、僕は。
彼女が人間であると言うならば。
僕は彼女を助けるべきじゃないのか?
心の声がした。
そんなこと、できるわけないだろ。
僕は自分の弱さを自覚する。そして、不如意に現れた感情に蓋をした。
「えっと、文化祭の出し物を決めようと、思います。」
希空さんの声は弱々しく漏れた。
その言葉には天才らしさも、自信も、覇気もまるで感じられなかった。
むしろ、迷子になった少女が何をすればいいかもわからず、オドオドしているだけの光景に見えた。
希空は今、戦っている。
このクラスと戦っている。
そして、自分と戦っている。
昨日の約束。
僕は安易にもそれを反故にしてしまった。
僕は考えた。
考えた。
僕がここで助け船を出したら、どうなるか。
うまくいくわけない。
心が即答する。
そのとき、1人の女子生徒がわざとらしく机に鞄を広げる。
小麦色の肌に裾の短いスカート、声量も大きく威厳がある。いわゆる一軍女子に類する生徒だ。
「あのさ。長くなりそうだから、先に帰るね。」その女子生徒はスクールバッグを背負い込んで、希空さんの横を通過する。
「いいよね、先生。私、部活あるからさ。」背中で問いかける。
先生は頷いた。
これにより、ダムは決壊した。
一軍女子の退場を皮切りに、複数の生徒が帰り支度をそさくさと始める。
教室は鞄のファスナーや机、椅子をづらす音に満たされた。
喧噪と忙しない教室の中で、僕は希空さんの立つ教卓からは眼をそらしたまま。
そして、この状況に対して僕は何もできなかった。
教室には静寂が訪れる。
まだ教室に残るのは、僕と隣に駿介。タブレットをいじる先生。
それから、教壇に立つ希空さん。
彼女は俯いていたから表情は見えない。
「まあ、そういう行事は積極的にやる部類じゃないから。気にしないで、適当にやってくれれば問題ないさ。」
先生はそう言って、立ち去った。慰めのつもりか。
そんな言葉が慰めになるわけがない。
無意識に腹を立てる僕がいる。
同時に何もできなかった僕自身への自己嫌悪が深まっていくばかりだ。
ふと、目の前の教卓を見る。そこには、俯いたままじっとしている希空さんがいた。
「希空さん。」僕は声をかけた。
だけど、もう遅かった。
希空さんは教室を飛び出して走り出した。
「今日はもう帰ろう。」駿介が帰りの支度を始め、僕に合図する。
このまま帰ればいつもの平凡な日常に戻るのだろうな。
ゆるやかな水面でぷかぷかと浮かぶ僕。僕は今までそうしてきた。
本当にそれでいいのか。
彼女の友達になった僕に何の責任もないと言うのか。
きっと、期待してくれたのかもしれない。
僕が何か助けになってくれると。
だとしたら、僕は期待を裏切った。彼女に対して何もできなかった。
このままでいいのか、リク。
希空さんが昨日見せてくれた笑顔。
取り出したビッグデータ。
それらの記憶がフラッシュバックする。
考えるな。
考えたら、僕はきっと平穏を選ぶ。
変わろうとしている彼女に二度と近づくことはない。
「ごめん、駿介。先に帰っていて。」教室を駆け足で飛び出した。
足音はまだ聞こえる。早足で階段を上る音がした。
僕は自分の耳を頼りに、彼女の痕跡を求めていく。
音は次第に浮上した。そして駆け足になっていく。
僕は階段を駆け上る。僕が行き着いた先はただの行き止まり。
いや、ここから先は屋上だ。どうして屋上に。
僕は嫌な想像をしてしまい、首を左右に振るわせる。
屋上で飛び降り自殺。そんな馬鹿げたことはあるはずないと思う。
それでも、一抹の不安はべっとりと僕に張り付く。
息を上げながら、僕は錆びた鉄のドアノブに手をかける。
きっと、この扉の先に希空さんはいる。
僕はここで冷静になる。
僕は希空さんに会ったとして、彼女に何を話せば良い。
見て見ぬフリして何もしなかった弱虫のくせに。
人工知能であった頃の彼女は「孤高」を貫く人に見えた。
だけど、人工知能を辞めた彼女は「孤独」に見えてしまった。
僕はあの頃の孤独だった自分と今の彼女を重ね合わせているのだろうか。
僕って意外とお節介な性格だったんだな。
僕はドアノブをこじ開けた。
閃光。瞬き。収束。
光の束に包まれた僕はたじろいだ。
生暖かい空気の中に冷たい風が走る。
そして、目の前には君がいる。
彼女は何もない屋上に1人立っている。
それはまるで、この夕日と学校を彼女が独占しているようにも見えた。
希空は屋上の際に立ち、空に身体を預けている。
まるで、飛び立つ瞬間を待ち望むひな鳥のように。
だけど、彼女には翼がない。
僕は途端に彼女が怖くなった。
彼女が今にも屋上から飛び降り、自らの命を絶つのではないかと考えてしまった。
心臓がぐっと掴まれる。背中に嫌な汗が流れる。
「ちょっと待って。希空さん。」
喉に力を入れる。僕はか細い声を力一杯絞り出す。
風に揺れた黒髪が彼女の額を包む。
希空さんは僕の方を振り返った。
「死んじゃだめだ!」
僕は必死で叫んだ。
希空さんは僕をキョトンと見る。
「へ、なんの話?」希空さんは首を傾げて、ハテナマークを浮かべる。
と思ったら、彼女は表情を小悪魔のようなソレに変える。
何かを悟ったように。
そして僕の眼を見て、口元をおさえてクスクスと笑い始めた。
「はははは。リク君さ。私がそんなことするわけないじゃん。さすがに考えすぎだよ。」
肉体的疲労と精神的疲労が最高潮に達した僕は屋上のアスファルトに倒れ込んで、仰向けになる。
大の字で寝転び、汗だくになった僕の顔を見る。
それから、希空さんは微笑しながら、こう言ったのだ。
「リク君、もしかして私のこと好きなの?」
こいつ言いやがった。人の心配をコケにしやがった。
「心配して損した。僕は帰るよ。」捨て台詞を告げた。
居心地の悪い空間からすぐに立ち去ろうと思った。
「ごめんね。面倒なことに巻き込んじゃって。」
それは背中越しに響いた彼女の言葉。
「昨日の話はなかったことにしていいから。」と言葉は続いた。
そうか、それは好都合だ。僕も付き合いきれないと思っていたよ。
「私、昨日はどうかしてたみたい。初めて自分の眼で自分の世界を見ることができたから嬉しかったんだよね、きっと。」
そうだよ。君は正気じゃなかった。
僕も夏の残り香にやられて、おかしくなっていたよ。
だから、戻ろう。いつも通りの日常に。
君は完璧な人工知能で孤高の天才少女。
僕は無個性なモブキャラだ。僕らが関わり合うことなんてないんだ。
そう、これが一番しっくり来るだろう。
「けど、私は諦めないから!」
途端に、彼女は強い決意を叫んだ。
「たとえ1人でも、文化祭を最高のものにしてみせる。」
一体どこからそんな自信が出るんだか。
今日のHRでは何もできなかったというのに。
彼女は生まれたての赤ん坊のようだ。
この世界の陰湿で最悪なところを何も知らないから、そんな綺麗な眼でいられるんだ。
何かを成すには失敗のリスクが伴うし、失敗したら最悪だ。
「希空さんは何でもできるし、怖いもの知らずだ。僕の助けなんていらないと思うよ。」
僕は突き放すようにそう言った。
希空さんは僕のカッコ悪い捨て台詞を聞くと、言い返すでもなく沈黙した。
「初めての怖いと思ったの。」
希空さんは言葉を探した末に、そう答えた。
その言葉には、さっきまでの調子の良い語調はなかった。
「ビッグデータを壊した私には、できる事なんて何もなかった。今日の授業を見たでしょ。酷い有様だった。」
「それに、さっきの話し合いだって。私は自分がダメな子だって気付いた途端、自分の存在意義がなくなったようですごく怖くなった。」
「存在意義なんて贅沢な人間の悩みだ。僕みたいな凡人は流されるままに生きるだけだよ。」
僕は済ました顔でそう答える。
「リク君はさ、それでいいの?」僕を覗き込むように見る希空さん。
「生きてるだけで御の字なんだよ、人間なんて。」
僕の答えを聞くと、希空さんはクシャッとした笑顔を浮かべた。
「やっぱり凄いな、リク君って。」
人生に崇高な意味なんてない。
そして、人生は儚くて脆い。
だから、人生が今もこうして続いていることだけで凄いことだ。
僕はそんなつまらなくて平凡な人生観を語ったけど、これが不思議と彼女の琴線に触れたようだ。
「まあ、この言葉は母さんの受け売りなんだけど。」ボソリと呟く。
「へえ、そうなんだ。良いお母さんじゃん。」希空さんは僕から目を逸らし、遠くを見ながらそう言った。
僕が人生について考えるきっかけを機会を持ったのは、最初で最後、母さんだけだった。
周りには、やれ夢だの、価値だの、学歴だのと人生を飾り立てるための道具に躍起になっている奴もいる。
社会で有利に生きていくには大切なことであると、頭で分かっているけど、僕には考える余裕なんてなかった。
僕はまるっきり、あの頃から成長していない。
母さんと別れてからずっと、僕の時計は止まっているような気分だった。
置いていくのが嫌だった。先に行く自信がなかった。
生きてるだけで御の字。その言葉が僕の唯一の心の糧であった。
そして、僕を過去に縛り付けるための鎖でもあった。
校庭の土の匂いが風の乗って流れる。
下校する生徒の群れが校庭を埋め尽くしていた。
希空さんはそれを見下ろし、深く息を吸い込み、吐き出す。
僕の言葉を受け止めて反芻している彼女。
「げ、やば。」それから希空さんの呟き。
どうしたと聞けば、「先生と目が合った。」と彼女は言った。
屋上に乗っているのがばれた。
屋上は本来、立ち入り禁止だ。
希空さんは僕に近づくと、僕の手首を取る。
「行こう。リク君!」
ふと感じた暖かい感触。
同時に校庭から聞こえてくる生徒指導の先生の怒号。
僕は彼女の行く方向のままに、走り出す。
「逃げるって、どこに?!」
手首に伝わる感触を必死に押し殺すように、僕は大声で話した。
「玄関には先生がいるからダメね。とりあえずこっち、隠れよう。」
急な方向転換。
廊下から廊下へ、階段から階段へ。
縦横無尽に駆ける彼女。
そして、一反木綿のように彼女に引っ張られる僕。
彼女は教室へと入り込むと、入口側の壁に身体を密着させながらしゃがみ込む。
それから、僕に指差で合図する。
親指を下向きに突き刺す合図。
それはGo to hellだよ、希空さん。
多分、お前も隠れろ、と言っているのだろう。
後でハンドサインには気をつけるように注意しておこう。
「んな、無茶だ。」と言いながら、僕は彼女の行動を真似て教室の壁に密着するようにしゃがんでみる。
希空はそんな僕を見ながら、ああじゃないこうじゃないとブツブツ言っていた。
それから、痺れをきらして僕に言った。
「リク君、身長でかすぎ。頭隠れてないってば。」
言っておくが、僕の身長は男子高校生の平均値だ。
人工知能であればそのくらいの統計データは理解していて欲しいものだ。
僕は不服そうに希空さんを睨むと、階段からの足音が近づいてくるのを感じた。
先生がここまで来る。
「んん。リク君、見つかっちゃうよ。」
希空は不安げな顔で辺りをきょろきょろ見回す。
「あっ!あれだ。」何かを見つけたらしい。
彼女に連れられた先は、教室の後方にあった箒入れロッカー。
大人が入っても大丈夫な堅牢さと大きさを持つ。
かくれんぼに最適のギミックではあるのだが。
だけど、ここに入るのもなんか癪だ。
僕がそんなことを考えていると、容赦のなく希空さんは僕を両手で押し込んだ。
無理に押されて身体と箒がぶつかって痛い。
「身体でかすぎ。ちゃんと入って。」
希空さんは必死で僕を押し込む、押し込む。
「バカ。無理に押すなよ。」
そして、時間は無為に過ぎていく。階段を上る先生の足音が止まった。
僕らは呼応するように、動きを止める。先生の動向を耳を凝らして観察する。
すると、足音は平たんな道を歩き始めた。
音は残念ながら、近づいている。
隠れるなら今のタイミングしかない。
「ロッカーはなんとかするから、早く自分のところに隠れて。」
僕は小声で彼女にそう耳打ちすると、彼女は半開きのロッカーを尻目に自分の持ち場へと戻った。
僕はロッカーを閉め、上方の通気穴から希空さんを観察した。
そして、僕は絶望した。何故だって?
教室の内壁の窓は全てが解放されていたのだ。
希空さんが内壁に張り付いたとしても、その頭上を先生は容易に視認可能というわけだ。
まずった。最初にどうして窓を閉めておかなかったんだろう。
今から、閉めるか。
それはダメだ。
窓を閉める音で確実にばれる。
希空さんも僕と同じことに気付いたようだ。
彼女はひとりで周りをキョロキョロするばかりだ。
先生の足音は刻々と近づく。
他に隠れる場所はあるかと考えた。
教室の机はどれも隠れる大きさのものはない。
彼女は右往左往しながらも、僕の隠れるロッカーをちらちらと見ている。
ちょっと待て、君が見つかったとき、僕も一緒に道連れにする気じゃないだろうな。
まあ、彼女ならやりかねないだろう。
女の子と2人きりでいたという謂れのない噂が広まる光景を想像した。
いや、謂れがないわけじゃないけど、そんなことは御免だ。僕は諦念のため息をつく。
まず、ロッカーの隙間を目測で計算する。
1人が入るにはちょうどいい大きさ。でも、2人入ればどうか。
入れないことはない。
だけど、色々な問題が発生する。
具体的には言いづらい問題が発生するのだ。色々と。
僕の思考もオーバーヒートしそうだった。
でも、彼女が見つかったら確実に僕も見つかる。この状況をどうにかしないと。
ぐるぐるする脳内、僕はロッカーを開け、希空さんを見た。
「こっちへ!」僕は必死だった。彼女も必死だった。
これは僕らの社会的名誉を守るための戦いだ。
♦︎
「ったく、どこに行ったんだか。」と言いながら、僕らのいる教室を横切る先生。
その足音が無性にゆっくりに感じた。
はやくどっか行け!どっか行け!僕は強く念じた。
「眼、閉じててよ。」
ほぼ吐息になった声が隣から聞こえた。
そうだ。今はそういう状況だった。
「はい。」瞼を強くぎゅっと閉じる。
光のない世界。僕の視界は当然のことながら奪われる。
視界がなければ、僕はもう身動きひとつできなくなる。
思わず、何か触れてはいけないものに触れてしまいそうで怖い。
そのとき、僕は社会的に死ぬ。僕は校内の注目の的だ、最悪の意味で。
それから、僕は自分の行動が間違っていることに気づく。
待ってくれ、これは逆効果だ。
1秒、また1秒。
彼女の息づかいが鼓動と同時に伝わる。
ほのかに感じる暖かい風は全て、希空さんから出されたもので、小刻みに揺れる振動も希空さんのもの。
そう考えると、僕は全身が灼熱のマグマに貫かれたような感覚に落ちる。
視界が奪われたことで、嗅覚と触覚、聴覚が過敏になっていく。
せめて、触れてしまわないように気をつけよう。
それでも彼女と僕との間に空いた隙間はもう数センチ単位だ。
例えば腰回り、肩、太ももはあと少しで密着しそうで、彼女の肌から伝わる熱をかすかに感じている。
神様、僕は何か悪いことをしたでしょうか。
僕は今までの罪を懺悔した。
それでも、神は微笑まなかった。
代わりに、目の前の女の子が微笑んだ。
「ねえねえ、鼻息荒いよ。大丈夫?」
今日も厄日だった。
先生は諦めて職員室へと帰っていったので、僕らはロッカーから出ると、忍び足で昇降口から校庭へと抜け、念のために裏口を通って学校を出た。
とにかく疲れがどっと出た僕は、学校を出た途端、道端に座り込んでしまった。
僕を見かねた希空は近くにあった小さい公園へ僕を連れてく。僕はベンチに座る。
「お疲れ様、リク君。」僕の頬に電撃が走った。
希空さんが冷たいコーラ缶を僕の頬に押し当てて、勝ち気な笑みを浮かべている。
僕の疲労なんてお構いなしだ。
「いやあ、本当に焦ったね。」そう言って彼女は自分のコーラ缶を豪快に飲み干す。
気持ちいいほどの飲みっぷり。
「飲めるんだね。」僕のひとことに彼女は振り返る。
「いや、人工知能もコーラ飲んで大丈夫なんだなって思って。」
「まあね。最近のはさ、進化しているから。」軽いテンポで話す彼女。
良い意味でフランクなのだろうが、成績優秀な彼女のイメージが次第に崩れていくのも事実。
それに、僕にはまだあのときの感触が残っていた。
彼女から感じる息づかいと鼓動。僕はどうしてアンドロイドに振り回されているんだろう。
僕は雑念を振り払うように黒い炭酸飲料を無造作に飲み込んだ。
むせかえる程に強い炭酸が僕の胃の中を突いた。
「リク君、炭酸苦手なら言ってよ〜。もう。」無邪気な笑みは健在だった。
「うるさい。別に、苦手じゃないよ。」口を尖らせながら、僕は意地になって黒い液体を胃に流し込む。
ベンチに座り込む僕。
隣に座る希空さんは汗ひとつかかずに、涼しい表情で僕を見ている。
「わたし、まだ根に持ってるからね。」
口元を緩ませたまま、彼女はそう言った。
「実行委員のこと?」
僕がそう聞くと、彼女はぷいっとそっぽを向く。
「でもさ、どうして文化祭なんだよ。」
僕は話題の転換を図る。正直、僕は彼女の真意が知りたかった。
僕は自分が単に踊らされる存在になることにも許容しがたかった。
知りたかった。どうして僕とこうして一緒にいてくれるのか。
そして、この不思議な関係にも見切りをつけたかった。
「それは私にとっての出会いだったから、かな。」
彼女はそう答えると、黄金に染まる空を見つめた。
「出会いって。誰かとの出会いとか。」
僕の問いかけに彼女は首をかしげて考え込む。
それから、何かを思い出したように微笑む。にっこりと。
「んー、内緒。」
希空さんは唇に人差し指を添えてシーのポーズをとる。
「じゃあ、次はリク君の番だよ。」それは予期せぬ反転攻勢だった。
僕は重なる彼女の視線に吸い込まれそうになるのを抑えながら、目線を下げる。
「僕は文化祭に大した思い入れなんてないよ。僕には縁のない世界だ。」
俯きながら僕はそう答えた。これが僕の本心だった。
彼女が失望するかもしれない。
それでも、僕は本当の気持ちを言わないといけない。
これで終わりにすべきだと思ったから。彼女の目標に不釣り合いな僕は必要ない。
僕みたいな凡人が彼女の役に立つことはできそうにないし、足手まといだ。
僕の明確な否定の意思。
僕が人生に展望を持てず、目の前の学校行事にさえも夢中になれないつまらない人間だと知れば、きっと希空さんは失望するはずだ。
そうだ、思う存分失望してほしい。それで良いんだ。
「じゃあ、ちょうど良いじゃん。」
聞こえたのは、僕に対する拒絶とは真逆のものだった。
「私が君にとっての最高の思い出を作る!どうかな、楽しそうじゃん。」
続いた言葉はまさに傲慢極まりないものだった。
希空さんはベンチから立ち上がると、力一杯両腕を広げて世界を仰ぎ見た。
眩しすぎる。彼女は疑いのない瞳で僕を見つめている。
僕は無力で、自信もなくて日々を平穏に生きることしかできない人間。
対して、君は自ら荒波に飛び込まんとする勇気ある女の子だ。
釣り合うわけがない。釣り合うなんてありえないんだ。
「君と僕は違うんだ。悪いけど、僕は君の力になれない。」
「え、ちょっと待ってよ。どういうこと。」希空さんは呆然と僕を見つめる。
その瞳に僕は屈さないように、膝に力を込めて立ち上がる。
「誰は君みたいに文化祭に思い入れがあるわけじゃないし、僕は君の力になれる程強い人間じゃないんだよ。」
僕は叫ぶような声で、彼女にそう言い放っていた。ほぼ衝動的に。
「昨日はやってくれるって約束したじゃない。リク君。」
希空さんの声も大きくなっていた。
「約束したわけじゃない。君が強引に来るから、断るタイミングを逸しただけで。」
最悪の返答だと思った。
そうやって、自分の弱さを人のせいにするのが僕という人間なのだろう。
僕の答えを聞いた彼女は沈黙した。
それでもまだ、透き通るような瞳で僕を見つめ続ける。
僕はすぐにでも、この場所から立ち去りたくなった。
こんな僕のことでも、彼女は決して侮蔑の目を向けることはしなかった。
彼女は今も何か失意と憐憫を併せ持った表情でいるから、僕はもう彼女と一緒にいることが耐えられなくなった。
逃げ出したくなった。
「じゃあ、僕は帰るね。」その言葉に、彼女は黙って頷く。
これでよかったんだろう。
少なくとも彼女にこれ以上の失望を感じさせずにすむはずだ。
僕は鞄を持ってきびすを返す。
「明日、上野駅に10時。」
突然、彼女はそう言った。
脈絡なく放たれた言葉。
彼女の瞳は、今もまだ純粋に僕を見据えていた。
僕はこの問いかけに答えるべきだろうか。
僕は今、ひどく気持ち悪い表情をしているに違いない。
裏切りと罪悪感と諦念で塗り固められた凡人の表情だ。
僕はそんな表情を最後に希空さんに見せたくはなかった。
だから、僕はそのまま、彼女のもとを去った。
♦︎
今日は土曜日。
最初に言っておくと、僕は基本的に人混みが嫌いだ。
落ち着かないし、なにより皆が僕を馬鹿にして笑っているような感覚に襲われることもある。
そもそも、僕は休日に人の多いところに行ったりしない。
ましてや、都内でも有数の観光施設が建ち並ぶ上野駅に行くことなんて高校生になってからは一度もなかった。
そして、今日。
休日の上野駅の改札口に立っている。
希空さんに会うために。
どうして来てしまったのだろう。
僕の心の声が、馬鹿な僕自身を激しく糾弾した。
昨晩、僕は項垂れるようにベットに入ると、泥のように寝てしまった。
休日は決まって昼頃まで寝ているのだが、この日は平日用の目覚まし時計がついたままだった。
僕は7時に眼を覚ました。それから、小一時間、希空さんのことを考えていた。
流石に昨日の言動は失礼だったと思う。
だから、今日でキッパリと謝って、それで終わりにする。
僕は心の中で謝罪の言葉選びをしながら、彼女の到着を待つ。
「わ!来てくれたんだね。」
弾むような声がした。僕は下を向いた顔を前に向ける。
そこには、笑顔で僕を迎える希空さんがいた。
「希空さん。」
僕は彼女の表情を凝視する。
希空さんは頬に大きなえくぼを2つ作ると、そこに一杯の斜陽を溜め込んで笑う。
「おはよう、リク君!」
土曜日の太陽はコンクリートジャングルに照りかえり、いつも以上に眩しく感じた。
僕は失念していた。
休みの日ということは彼女の服装も当然制服ではないのだ。
「制服じゃない私がそんなに変かな。」
にやにや笑いながら、花柄があしらわれた紫色のワンピースをひらひらと揺らす希空さん。
制服とは違う、少し大人らしい落ち着きのある服装。
ロング丈のスカートの裾からは白くて細い足首が顔を覗かせている。
目のやり場に困った。
なにも露出が多い服装というわけではなかった。
むしろ今の方が落ち着いた服装であるはずなのに。
夏の残香を纏わせたような彼女の姿が僕にはくすぐったく感じた。
そもそも男女で休日に会う経験など皆無に等しかった。
だから、僕は狼狽えている。
僕は彼女を見て自然と頬が緩みそうになるのを抑えるために、いつも以上に歯を食いしばってみた。
「はははは。ちょっと待ってよ、リク君ってば。」
また、彼女は笑った。大人びた見た目でも、いつもの彼女だ。
「何で笑うんだよ。」
僕は途端にいじけた子供のようになってしまう。
「だってさ。私の私服姿を見て最初の反応がそれなんだもん。そりゃ、似合わないのは分かるけどさ。リク君ひどいなあ。」
希空さんは目尻に涙を浮かべながら、お腹を抱えて笑った。
僕は昨日の蛮行から、彼女に対する接し方を考えあぐねていた。
ぎこちない空気で満たされるのではないかと心配していた。
けど、僕のじめじめした不安を全て突風で吹き飛ばすかのように、彼女は笑っていた。
少し安心した。
直接言ったら、からかわれるだろうから、何も言わないけど。
「今日はね。君のお気に入りの場所に連れてってよ。」
希空さんは満面の笑みでそう言った。
「いや、僕は別に出かけようとは。」
今日の目的はあくまで昨日の謝罪。僕はそれを伝えようとするけど。
「さあ、時間は待ってくれないよ。行こう!行こう!」
希空さんは、またもや強引に僕の手を引っ張る。
電車の冷房で冷えていた手指に、彼女の暖かい感触が伝わる。
流されている自分に気がつく。
だけど、希空さんの手をもう一度振り解くことは気が引けてしまった。
僕はため息を漏らす。断るタイミングを失った。
「ねえ、どこでもいいからさ。君の行きたいところに連れてってよ。」
希空さんはそう言って、握る手をぶらぶらさせている。
自分から予定しておいて、ノープランだったとは。
なんだか、断る理由も考えるのがバカらしくなってくる。
例えば、僕がどうしようもなくつまらない所へ希空さんを案内して、早急に解散する手もあるわけだ。
悪知恵が働くところは僕の少ない長所のひとつだな、と勝手に感心する。
「言ったね。どこでも良いって言ったよね。」
僕がやけくそで行動を開始すると、希空さんは飛び跳ねるように、僕の側へ駆け寄った。
「よし、望むところだよ!リク君。」
躍動が長い丈のワンピースに伝わる。紫陽花が咲いたように、僕の視界へと広がる。
僕は彼女をあまり直視しないように、気をつけながら歩き出した。
上野駅から歩くこと10分程度。
彼女は木漏れ日と石畳に囲まれた公園の景色を子供のように楽しんでいる。
僕が一緒に出かける相手は駿介が殆どで、良い意味で僕と駿介は感受性に似通った面がある。
僕が面白いと思ったものは大体彼も面白いと思ってくれた。
だけど、希空さんは違う。
僕とはまるっきり違う感性を持っている。
僕が気にも止めなかったお地蔵さんの表情の違いとか、石畳に刻まれた東京都庁の紋様とか、色々な発見を拾ってくる。
きっと、目が2つ備わっていることは同じでも、そこから見える景色が僕とは違うのだろう。
彼女の視界に映る僕は一体どんな人物なのだろうか。ふと、そんなことを考える。
「着いた。」
僕は息を深く吸い込んだ。そして、一面に広がる蒼を見つめた。
不忍池。
そこは周囲2kmを囲む巨大な池。まあ、目新しい遊び場なんてない場所だ。
だけど、僕はこの池が嫌いじゃない。水と緑の調和、白鷺が蓮の葉を突く音。全てが控えめで、全てが美しい。
この池の本質は単なる大きさじゃないんだ。
「うわあ。滅茶苦茶大きいね。すごいや。」情緒を解することができない奴が隣にいた。
希空さんは両手を広げて、池のど真ん中で歓声をあげている。
初めて見るのだろうか。彼女はとにかく池の大きさに驚いているようだ。
僕はそんな彼女を尻目に、自ら悦に浸った。
ちょうど、大きな橋の近くにはベンチがあったので、僕はそこに腰を下ろして、鳥のさえずりを聞く。
僕は先ほどまでの喧噪から離れたかった。
静寂に身を委ねたかった。
そして、聴覚以外の感覚神経を遮断し、僕は風に身を委ねる。
「ねえ、リク君。」
耳元で吐息と一緒に声がした。
僕の身体中がもぞもぞっと掻き回されたような感覚に襲われて、不意に身震いした。
「っ?!希空さん。」眼を開けた。
すると、目と鼻の先には希空さんがいた。またもや、してやられた。
彼女は再び、僕に勝ち気な笑みを浮かべた。
もう何度も見た。
彼女の勝ち誇った顔。
僕はこの顔を見ると、正直むかつく。
「邪魔しないでくれるかな。自然を感じてたんだ、僕は。」
僕は半ば反抗するように言った。
「感じるって、そしたらどうして眼を瞑るのよ。こんなに綺麗なのに。」
希空さんは僕の気持ちを考えない。もう慣れていたけど。
「君には分からないだろうね。この池の真の魅力を分からない君にはね。」
口を尖らせる僕に、希空さんは頬を丸めて反撃する。
「ねえ、リク君のお気に入りはここだけなの。もっと他のところ行きたいな。行こうよお。」
「残念だけど、僕はここしか行くべき場所を知らない。あとはおひとりでご自由にどうぞ。」
すると、希空さんはさらにむくっと頬を膨らます。
まるで、ひまわりの種を喉に詰め込むハムスターのようだった。
可愛いとは言わない、意地でも。
「ふん。分かった。じゃあ、私1人で行ってやるわ。じゃあね、さようなら。」
そう言って、希空さんは紫のワンピースを翻した。
ひとりで大股で歩いている姿がどこかコミカルで滑稽にも見えた。
僕は彼女の後ろ姿を眺める。遠ざかっていく、彼女の陰。
曲がり角に行き着いたとき、彼女の陰は止まっていた。
そして、陰は次第にこちらへと近づいていく。
カツカツとヒールの足音を立てて、希空さんは僕の方へと再び近づいて来る。
そして、彼女は既に僕の目の前だ。膨れ顔は相変わらずだった。
「こういうときは、連れ戻すのが常識じゃん!」
「えっと、君は最初に言ったよね。今日は僕のお気に入りの場所に行くって。この池が僕のお気に入りなんだから、僕はここから動かないよ。」
「でもさあ、何時間も池にいたら飽きちゃうよ。せっかく、上野まで来たんだよ。」
次第に、希空さんは子供のように地団駄を踏み始めた。
とはいえ、僕は他の観光名所というものを知らない。
「じゃあ、希空さんが好きな場所に行けば良いじゃないか。」
僕がそう言うと、彼女は顔を少し俯かせる。
「だって、今日は君のことを知るための日だし。」
小声で彼女は何かを言った。けれど、それはうまく聞き取ることができなかった。
とにかく、彼女は不忍池に飽きているけど、僕は全くもって飽きていない。お互いの利害関係は完全に不一致だ。
ここで解散にしよう。僕はそう思った。
「良いこと思いついた。」
彼女は突然、日だまりのような表情で僕を見た。
嫌な予感がする。
「一応聞くよ。何を思いついたの?」
「私が君のお気に入りの場所を見つければいいのよ。」
突飛な言葉に僕は返す言葉を失う。
彼女は人の話を聞いていないのだろうか。
「だから、さっきも言ったように、僕はこの池しか知らないんだよ。」
「ちっ。ちっ。甘いね、リク君は。私がそんな考えなしの人間に見えるかね。」
希空さんは僕の目の前で人差し指を揺らしながら、得意げな表情を浮かべた。
「君がこれからお気に入りになる場所を探す。そうね、そうしましょう!」
それが彼女の提案。
「これはまた、天才的な発想だね。」
僕はやや皮肉を込めてそう言ったけど、希空さんはその言葉を真っ向から受け止めた。
褒められたと勘違いしたのか、彼女は胸を張って、鼻息をならしている。
「じゃあ、行こう!リク君。」
そう言って、彼女は両手を大きく振った。
「えっと、どこに行くの。」
僕はおそるおそる聞いてみた。
元気の塊のような声で、彼女は「行けるところ全部行ってみよ。」と言って、僕の右手を引っ張った。
ベンチから引きずり下ろされ、半ば強制的に僕は彼女と走り出す。
強い、痛い。希空さんの引っ張る腕の力が結構強い。反抗したら、腕がちぎれるかも。
そう思ったから、僕は降伏した。
それからは怒濤の勢いで、上野中の観光名所を回った。
動物園、神社、美術館に古舗洋食レストラン。
光のように駆ける彼女に僕は付いていくだけで精一杯だった。
レストランに僕と彼女はいる。時刻は14時。
遅めのお昼ご飯を終えて、食後に頼んだメロンソーダがテーブルへと運ばれた。
それは希空さんの注文だ。
その弾けるような炭酸と甘いアイスクリームを見た僕は、途端に喉が乾く。
希空さんは発泡するソーダをストローを使って吸い上げていく。
それでも、飲み足りないと感じた彼女は直接グラスに口を付けて、それを無造作に喉に流し込む。
「ぷはあ!!」グラスを片手に持ちながら、満足そうに眼を細めた彼女。
「飲み会のおっさんかよ。」
ご満悦の彼女を尻目に、僕は控えめにアイスコーヒーをストローで吸い上げる。
「だって、このメロンソーダ。すごい美味しいの。」
「美味しくても、もっと品のある飲み方をしても良いと思うのだけど。」
「リク君分かってない!分かってないよ。こうやって、ぐいって一気に飲み込んだ方が、おいしさは倍になるのよ。」
謎理論を振りかざす、希空さん。
お気に召すままに、と僕は彼女の蛮行をしばらく見守っていた。
「外、滅茶苦茶暑かったね。」希空さんはそう言って、グラスを空にしては、おかわりを店員に注文している。
暑さを感じるのだろうか。汗ひとつかかないその人工人体で。
僕は疑問を心の奥にしまい込んだ。
彼女の表情が全て作り物だとしても、それをここで作り物だと認めてしまうことに気が引けたのだ。
それだけ、彼女は今日という日を楽しんでいるように思えた。
「あのさ。もうちょっと付き合える?」
希空さんはテーブルに身体を乗り出してそう言った。
今日の彼女は一段と強引で、積極的だ。
日が落ちて、少し涼しくなってきたから、僕は彼女にもう少し付き合うことにした。
彼女と僕はそれから10分程度歩き続けた。到着したのは、ガラス張りの背の高い建物。
希空さんはそれを見上げると、やや不安げな表情で内部へと進む。
都営音楽ホール。それは10年前に建設された演奏会場。
広々とした大理石のエントランスはラフな格好でいる僕らには不釣り合いに思えた。
「どうして、ここに。」
希空さんは屈託ない表情で答える。
「リク君に見せたいものがあるからだよ。」
促されるがままに、奥へと進む。
希空さんは重厚感のある黒い防音扉を開ける。
すると、そこには別世界にような仰々しい大ホールがあった。
「わあ、本当に貸切なんだ。」希空さんは妙な言葉を発した。
「貸切って、このホールを?」僕が聞き返す。
見れば、ホールには何百と席が設置されているが、その全てが空席だ。
希空さんはいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「ね!凄いでしょ。」
いやいや、凄いも何も、どういうことなのか僕には理解できない。
唖然とする僕を尻目に彼女は舞台袖に佇む黒服のスタッフに合図を送る。
「まあ、良いから。ここに座りなよ。」
そう言って、舞台の最前列の空席を指さす彼女。僕は渋々席につく。
講演のブザーが鳴った。もちろん、僕と希空さん以外の観客は誰もいない。
一瞬の静寂の中、僕は不安に包まれそうになったので、希空さんの横顔を見る。
「始まるよ!前向いて。」と言っては、彼女は大人しく正面を見据えるので、僕もそれに倣う。
途端にホールの照明は落とされた。
暗闇に包まれた世界の中で、舞台に一点の光が照らされた。
そこに現れたのは、黒いドレスを着た1人の女性だった。
その女性は瀟洒な佇まいで舞台中央に置かれたグランドピアノに近づく。
それから、僕と希空さんに軽く一礼した。
女性はゆっくりと座席に腰を下ろすと、細い指を鍵盤に押し当てる。
白く細やかな指先からは小川のような音色が奏でられた。
単調な旋律の中に、アルトとソプラノの調和があった。
ホールに彼女の旋律が響き渡る。
悲しい曲調の中に、生命を祝福する賛歌が込められているように感じた。
僕は終始、考えることも忘れて、旋律に身を委ねる。
音を聞きながら、自然と歌詞が頭に浮かぶ。
その曲は元々、昔のJポップ歌手グループが作った楽曲で、卒業式シーズンには定番の曲だ。
改めてピアノの旋律として聞くと、味わい深いものがある。
僕はこの曲を知っている。
そして、この旋律に聞き覚えがある。
だって、これは母さんが一度、僕のために奏でてくれた曲だから。
演奏が終わると、黒いドレスの女性は壇上から降りて、僕の目の前まで近づいてきた。
驚いた。
遠目では気づかなかったけど、その女性は僕よりもずっと背が低くて、若い。
中学生くらいに見えた。
「今日は、来て下さってありがとうございます。」女性は再び僕と希空さんに一礼した。
そして、少し恥ずかしげのある表情で彼女はこう言った。
「私は、律子先生の教え子でした。今の曲は私が先生に教わった曲のひとつです。」
その言葉に僕は思考を停止する。
律子先生。彼女は確かにそう言った。
それは、僕の母さんの名前だった。
これは偶然なのか。目の前のピアニストの少女は僕を見た。
「やっぱり。あなたは律子先生の息子さんなんですね。目元がそっくりです。」
心臓が掴まれた思いだった。血液が逆流したような気分にもなった。
僕の母親は、小学校の教師だった。
そして、目の前にいるピアニストの少女は小学校時代に母からピアノの指導を受けていた生徒だというのか。
僕は彼女に対してどんな表情をすれば良いのか分からない。
帰りたくなった。
僕は途端に踵を返そうとする。
ピアニストの少女に罪はないけど、僕はここにいるべきではない。
「待ってください!」
強い声でピアニストの少女は僕を呼び止める。
「この曲は、律子先生。いえ、あなたのお母さんから、あなたに聴かせて欲しいと頼まれました。だから、私はここに貴方を呼んだのです。」年下とは思えない決意と覚悟が詰まった声だった。
僕は言葉を反芻させる。
母さんが僕に。
そんなはずはない。
だって、母さんはもう既にこの世にいないのだ。
「私はあの時、律子先生が急用があると言って帰るまで、先生のピアノレッスンを受けていました。それは酷く雨が降っていた日でした。」
やめてくれ。それ以上は言わないでくれ。僕は心が引き絞られていく。呼吸を拒絶する体は硬直して何もできない。
「律子先生が亡くなったその日まで、私は先生と一緒にいたんですよ。」
♦︎ 4年前
これは、僕が中学2年生だったの頃の話だ。
「リクは本当に料理がうまいねえ。」
僕が適当に作った里芋の煮物とご飯を頬張りながら、嬉しそうに母さんは言った。
「あ、でも。砂糖がちょっと多いんじゃない? 私、糖尿病まっしぐらなレシピを教えた覚えはないんだけどな。」
物凄いスピードで里芋を頬張りながら、母さんは僕に苦言を呈する。言動がまるで一致していない。
「だって、母さんのレシピじゃ味が薄くて美味しくないよ。それに、教え方も下手。必要な説明も省くんだもん。」
母さんは僕の反論を聞いては、「見て覚えるのよ。甘ったれが。」と返答する。
母さんの職業は小学校の教師だ。
正直、そういうスタンスで人に物を教える仕事ができているのか、僕は息子の立場ながら変な不安を覚えた。
「まさか、私がちゃんと先生をやれてないんじゃないかとか思っちゃってるわけ。」
煮汁を啜りながら、母さんは詰め寄る。
「リク、あんた母さんを見くびりすぎ。ムカついたから皿洗いよろしく。」
僕はそんな母さんの要求に渋々頷くと、皿に洗剤をかける。
「やばい、もうこんな時間。リク、今日もご馳走様ね。じゃあ、行ってきます!」
母さんはそう言うと、カバンを背負い込んで玄関へと向かった。
それが、僕らの日常だった。
人工知能開発のエンジニアをしている父さんは、仕事の関係で出張が多く家にいることは殆どない。
だから、僕にとっての生活の殆どは母さんと過ごす日々が占めている。
学校が終わり、下校する僕。
家に帰るけど、母さんはまだいない。
小学校の教師というのは何かと忙しく、母さんはいつも夜遅くに帰る。
だから、食事は殆ど僕が自炊することにしていた。
生きるため、僕は自然と料理の知識が付いていった。
僕がいつも通り食器を洗っていると、玄関を開ける音がした。
母さんが帰ってきた。時刻は22時を回っていた。
母さんはリビングに入ると、椅子にカバンを置いて僕を一瞥した。
「おかえり、母さん。」
僕がそう言うと、母さんの調子はどこか変だった。
「ねえ、リク。あんた、靴どうしたの?どうして、体育館シューズで帰ってきたのよ。」
唐突な問いかけだった。僕は心が突かれた気分になる。
それでも何食わぬ顔をしていたけど。
「ああ、泥にはまって革靴を汚しちゃってさ。学校で洗って、乾かしておいたままなんだ。」
僕がそう言うと、母さんはギョロリと僕の目を見る。こわばる僕は顔を俯かせた。
「先週も革靴汚れちゃったの? その前も、体育館シューズで帰って来てたよね。」
「その時は軽く運動しててさ。間違えて履きっぱなしで帰っちゃったんだよ。」
「嘘。あんた帰宅部だし、運動なんてしないでしょ。」
母さんの言葉が怖い。いつもは優しい母さんなのに、今日の母さんは変だった。
「あんた、虐められてるの?」
母さんはただ一言、強くそう言った。
僕は心臓が飛び出しそうになった。
僕はこの家で、母さんと2人、平穏な時間を過ごせることが平穏な日常の全てだった。
だから、僕は勝手な自分の都合でこの空間を壊したくなかった。
僕が自分が虐めを受けていることを黙っていた理由だ。
「気にしないでよ、母さん。」
「それより、ご飯を食べよう。お腹減ったんじゃないの?」
僕は事態を収集するための策を見出せなかったから、不躾に話題の転換を図る。
母さんは席に着こうとしない。
代わりに、手に持ったスマホを思い切り壁に投げつけた。壁に穴が空いた。
「バカ言ってんじゃないわよ! 親にそんなことを隠したら、一体誰があんたを助けてあげられるの?」
母さんの怒号が静かな家屋に反響する。こんな大声を聞いたのは初めてだ。
そして、僕は何も言い返す言葉などなかった。
「ねえ、リク。母さんってそんなに頼りないかな。」
「最近、リクは母さんに我儘を言わなくなったけど、それは母さんのことを信じていないから、なのかな?」
感情を衝動的に吐き出した母さんはそのまま床に倒れ込んでは、背中を震わせている。
違う、そうじゃないんだ。
僕は、母さんが好きだ。
好きだから、心配をかけさせたくなかった。
好きだから、日常を壊したくなかった。
好きだから、我儘はやめた。我慢を貫くと決めた。
「僕は母さんに迷惑をかけたくないんだ。」
「あんたが生きているだけでね、私は一生分の幸せをもらってる。人間、健康に生きてるだけで御の字なのよ。だからねリク、私は迷惑だなんて1ミリも思ってないよ。」
泣き顔を腫らしながら、母さんは僕を見る。
人に迷惑をかけたくないと言っておいて実際のところ、僕は母さんを信じきれていないだけなんだって分かった。
分かってしまったから、悲しむ母さんを見るのは辛かった。
僕は何も言わずに、自分の寝室に引きこもって一夜を明かした。
翌朝、母さんは僕が起床するよりも先に家を出た。
食卓にはラップがかかったハムエッグが置き手紙と一緒に置かれていた。
「リクが疲れたら、母さんが力の出る料理を作る。作って欲しい時はいつでも言いなさい。」
ボールペンで書かれた文字をなぞりながら、僕は目尻から溢れる涙を止めることはできなかった。
母さんに謝りたい。今日は謝ろう。
僕はそう心に決めて学校を出た。
昼休み、僕はスマホで母さんに電話をかけてみた。
「母さん、今大丈夫?」
「ええ、軽くピアノのレッスン中だけど、休憩中だから気にしないで。どうしたの?」
僕はふわふわな思いを引き絞って、声を出した。
「今日は、母さんの料理が食べたいと思って。」
電話の向こうで一瞬の沈黙が流れる。
僕は固唾を飲んで返答を待つ。
母さんを相手に緊張するのも変な感じだった。
「いや、仕事が忙しいだろうし、無理しないで。」僕がそう言った時、電話の向こうで衝撃音がした。
「絶対作るから! 今日は早めに帰るから、家で待ってて!」
母さんの声は大きかった。
まるで、この機を逃さんとするかのように、僕の譲歩を遮った。
電話を切ると、ホッとする僕がいた。
一緒に夕食を食べるのも久しぶりだ。
昨日のことも、今夜、面と向かって謝ろう。
僕は午後の授業がいつも以上に焦ったく感じた。
昼から土砂降りの雨が降っていた。僕がなんとか家に帰ってからも、雨は続いた。
僕は雨音を聞きながら、母さんが玄関を開ける音を待った。
ただいまという声を待っていた。
午後8時を過ぎた時、電話が入った。
それは警察からの連絡だった。
大型トラックの運転手が居眠り運転によって信号無視し、母さんの乗る軽自動車に衝突した。大きな事故だった。
そして、警察の人はハッキリと僕に言った。
母さんが搬送先の病院で息を引き取ったということを。
♦︎
「そうか、君があの日に母さんのレッスンを受けていたんだね。」ピアニストの少女は静かに頷く。
「律子先生は言っていました。先生には自分よりもよっぽど頭のいい息子がいて、いつも自分を馬鹿にしてくるんだって。」
ピアニストの少女は少し頬を緩める。彼女にとっては懐かしい思い出なのだろう。
「先生が立派に指導をしているところをアピールしてはどうですかと私は律子先生に提案してみました。」
「すると、先生は私のピアノ演奏をその息子さんにも聴かせようかしらって冗談まじりに提案したんです。」
僕はピアニストの少女の笑みを受け止める。
僕の知らない、母さんの人生がそこにあった。
教師としての母さん。母親としての母さん。それら全てが満点ではなかったかもしれないけれど、それでも懸命に自分の人生を全うするために行動していた。
どうして、今更になってそんなことに気づくんだろう。僕は。
「最後に見た母さんの様子とか、覚えていたら教えてくれませんか。」僕は聞いてみる。
「放課後のレッスンはいつもより早く終わりました。律子先生は大事な用があるからと言って、駆け足で帰って行ったんです。」
「その時の母さん、悲しい顔をしてませんでした?」
「むしろ逆です。なんだか、遠足を前日に控えた子供みたいに楽しそうで、スキップで廊下を歩いたりしてたんです。いつも厳しい律子先生と同じ人には見えませんでした。きっと、大切な用事があったんだと思いますよ。」
僕は、彼女の言った最後の母さんを少し想像する。
最後の瞬間まで母さんが幸せだったかなんて、考えても仕方ない。
それでも、僕にとっての救いがここにはあった。
僕は、母さんが死んでしまう日まで、母さんと喧嘩をしていたことをずっと後悔していた。
好きだった。好きだったが故に、母さんを信じる覚悟を持てなかった自分をずっと責めていた。
この4年間は、そんな後悔に苦しめられる日々だった。
「ちゃんと、約束果たしましたよ。律子先生。」
ピアニストの少女は晴々とした顔で舞台を見上げてそう言った。
僕の瞼に大粒の水が溢れる。僕はそれを止める自信はなかった。
別に後悔が晴れたわけじゃない。自分に罪がないなんて思わない。
母さんが過去に縛られた僕を見て、泣いていいと言ってくれた気がした。
ピアニストの少女が心配そうにこちらを見る。
僕は構わず泣いた。流れる無尽蔵の涙を流し続けた。
その時、軽快な旋律が再び、館内に響き渡った。誰の演奏だろう。
僕は隣を見る。
驚くことに、希空さんはどこにも見えなかった。
どこに行ったのだろうか。
「ああ、結構お上手なんですね。」ピアニストの少女は微笑みながら、舞台上のグランドピアノを見た。
僕は目を疑う。
そこに座って、鍵盤を叩いていたのは希空さんだったのだ。
希空さんの伴奏は決して少女に並ぶものではなかった。
転調には失敗してるし、音にもムラがあって纏りがない。
それでも、ピアノを前にして一生懸命に弾く姿は、なんだかとても。
「格好いいですよね。」隣に座るピアニストの少女はそう言った。
「大切な人のために、ピアノを弾けるようになりたい。そう言って、彼女は1人で練習していたんですよ。」
ピアニストの少女は希空さんのピアノ練習をサポートしていたこともあったらしい。
僕は希空さんの違った一面を知った。
♦︎
帰り道。希空さんはゆっくり歩く僕の隣を追い抜かすことなく歩いた。
「ねえ、ビックリしたでしょ。私の演奏。」
得意げな表情で僕を見る。
「めちゃくちゃ下手だった。」
僕がそう言うと、やはり希空さんはむくれ顔になって僕を睨む。
「うう、リク君。もしかして、お母さんと比べてない? 私、いくら万能でも君のママにはならないからね!」
悪戯好きの啄木鳥に突かれたような気分になる。
「君にそんな役割は期待していないよ。それに、今じゃもうポンコツAIじゃないか。」
言ったな!と迫るような勢いで、僕の肩をポンポンと叩く希空さん。
僕は途端に走り出して、希空さんを置いて行く。
希空さんも負けじと、僕を追いかける。
希空さんは追いかけざまに、僕の顔にスマホを向けた。
それから数刻後、カシャという機械音とともに、僕の視界に閃光が走った。
「ベストな表情いただき!」顔をくしゃくしゃにしながら笑う希空さん。
僕の顔を撮ってどうしたいのか。
「リク君の自然な笑顔、やっと見れた気がするよ。」
そう言って、希空さんは撮った写真を満足そうに眺めた。
「なんていうかな、普段は仏頂面なんだけど、合間に見せるフワッてしたやつ。それが君の本物の笑顔なんだと思う。」
本物。
確かに僕は学校ではいかに波風を立てないようにということに注力して生きてきた。
その結果、僕は何時の日か、愛想笑いを愛想笑いとも疑わなくなっていった。
「私、好きだよ。」
途端に耳に入った言葉。
全ての文脈が抜けている。僕は一瞬頭が真っ白になる。
「だからさ、リク君のその自然な笑顔がね、私は好きなんだよ。」
♦︎
僕は微睡みの中から身体を起こす。どうやら、寝てしまったらしい。
今日は色々なことがあった。
すると、僕のスマホに軽快な電子音が鳴った。僕はスマホを取ると、そこには希空さんからのメッセージがあった。
【今日はお疲れ様。ちゃんと家に着いた?】
まるで、余計な心配をする母親のようだ。
【うん、帰ったよ】
僕は淡泊すぎるかなと思いつつも、文字をチャットに入力した。
僕が送信ボタンを押してから、返信が来るまでは30秒もかからなかった。
【今日は付き合ってくれてありがとね】それから20秒の空白、それからの連投。
【今日のピアノコンサート、私がどうやって手配したとかあまり気にならない?】
突然の問いかけに僕は返事に迷った。
きっと、今日の巡り合わせは偶然ではない。希空さんが事前に仕組んだのは想定できる。
【君は万能な人工知能だから、たいして驚かないよ。それに、僕を思ってやったことなのは伝わったから。】
僕は皮肉と少しの感謝を込める。
【今日はありがとう。明日からもよろしくね。】彼女からの返信。
明日からもよろしく。その言葉は僕の心に深く反響した。
この関係性がどこに行き着くかは分からない。
彼女は僕とまだ友達でいてくれることが分かった。それだけでも僕は嬉しかった。
【今度こそ、文化祭の打合せするからね。絶対に!居眠りしないこと!それじゃあ、また学校でね。おやすみなさい。】
今日の最後に彼女がくれたメッセージ。
そうだ、彼女にはやるべきことがある。
ひたむきに取り組む彼女のために、少しくらい何か手伝ってもいいのではないだろうか。
これは等価交換。
今日は僕の背中を押してくれたのだから、今度は彼女の背中を僕が押すべきだ。
僕は心の中に小さな決心を秘めたまま、スマホを眺める。今できることを考える。
とりあえず、直近の寝不足を今日中に解消することが僕にとっての急務だったので、僕は足早に入浴を済ませて、ベッドに包まった。
♦︎
翌日。クラスの朝HRが終わった。
教壇から下りる僕。
そして、隣には憎たらしい笑みを浮かべる希空さんの姿。
土曜日のこと。僕は彼女にお礼をしようと思った。
だけど、それは撤回する。前言撤回だ。
「リク君。これからもよろしくね。」
皮肉まじりのお礼を言った希空さんは肘で僕の脇腹を小突く。
よろしくね、その言葉の意味を僕は誤って認識していた。
「まったく、全てはお膳立てされていたとはね。」
僕は諦念に満ちた表情で彼女を見る。
「そういう言い方はやめてよ。私はリク君の実力を買ったんだよ。リク君には文化祭実行員になる資質があるって思ったの。」
笑みを崩さない希空さんは誇らしげに僕にグッドサインを送る。
「秘密裏に僕を実行委員に推薦だなんて、横暴すぎる。」
「まあ、1人でやるわけじゃないんだし、別にいいでしょ。」
「議論の進行、書記の仕事、君はどれかひとつでもやってくれたかい?」
僕の冷ややかな視線を受けて、希空さんは深々とお辞儀をした。
「いやはや、その節は誠に感謝しておりま~す。」
希空さんは目の前で手を合わせて僕にお辞儀する。
「一応言っとくけど、君の仏様になった覚えはないからね。」
そう言うと、希空さんは目をウルウルさせながら、僕を見る。
「企画書の提出期限が迫ってるんだもん。早めにお願い。」再び僕に手を合わせた。
僕は溜息をつく。
ただでさえ、クラスの雰囲気がまとまらない状況で、企画書など作れるわけがない。
「まずは、何をするか決めないと。」
僕の真っ当な提案に、彼女はむむむと考え込む。
「希空さんは文化祭でどんなことをしたいの?」
一限目授業まであと5分。希空さんに聞いてみる。
「うう。そう言われると難しいのよね。とにかく可愛くて楽しい!ってことがしたい。」
抽象的なイメージしか語れないのは、危機感がないからだ。希空さんはもっと焦るべきだ。
「企画書を書くには放課後のHRまでに結論を出さないと間に合わない。間に合わなければ、企画は中止だね。」
呆けている彼女に僕は現実を突きつけた。
僕を強引に実行委員にした以上、僕も言うべきことは言うさ。
「うう、分かってるよ、もう。」
膨れ顔で腕を組んだ希空さん。
そのまま不服そうな顔を崩さずに、彼女は僕に一冊のノートを差し出す。
「これは?」
きょとんとする僕に、突きつけるそれ。
希空さんは「それから、もうひとつお願いなんだけど」と言って、僕にノートを見せる。
嫌な予感、どうやら彼女に等価交換とか貸し借りという言葉はないらしい。
「宿題、分からなかったんだ!」
「だから。」
僕はあえてぶしつけに対応してみる。
「見て見て!私ともあろう超絶有能AIがこの白紙よ!誰か助けてくれる優しい人いないかな。」
彼女が見せたノートには、問題文が書いてあるだけのもの。
答えは何も埋まっていなかった。
そして、ノートの左下の欄外には苦悩の叫びがごとく、「SOS」の文字が鉛筆書きされている。
「ほら、ちゃんと答えられてるじゃないか。」僕はそのSOSの文字を指さしてそう言う。
希空さんは「それは答えじゃない!お手上げってことよ。」と僕にツッコミを入れる。
ツッコミしたいのは僕のほうなんだけど。
「いい加減、普通の人間になりたいってなら、自分で頑張ってみたらどうよ。」
「自分で考えて分からないから、聞いてるのよ。」
「じゃあ、他に教えてもらえる友達でも見つけることだな。」
希空さんの変わりぶりは多くの生徒の注目の的だ。
だからといって、彼女の周りに多くの友達がいるわけでもない。
相変わらず、彼女の話し相手は僕しかいない。
僕は少し心配になった。
余計なお世話かもしれないが、女友達の1人でもいたほうが、高校生活がぐんと楽になると思う。
特に、女子の学校社会は陰湿だ。
男友達しかいない女子なんてのは、女子軍団から陰口や嘲笑の対象となる。
今の彼女はその一歩手前。今の段階で手を打つべきだろう。
「私に友達なんてリク君しかいないもん。助けてよ!」
馬鹿正直な返答をしてきた希空さん。
友達扱いしてくれたことに少しの嬉しさがこみ上げてくるのをぐっとこらえながら、彼女の発言に辟易する。
「だったら、今から作れば良いじゃない。友達をさ。」
文化祭を頑張るにしろ、希空さんにはクラスからの信頼を勝ち取る必要がある。
そのための一歩、まずは1人の友達を作ることだ。
「それって絶対しないと、ダメかな。」泣きそうな瞳で聞いてくる。
これくらいでそんな顔するんじゃない。
「文化祭を成功させたいなら、まずは話せる友達を増やしてみなよ。」
「うう、分かった。分かったよう。」涙目のまま彼女のは自席に戻る。
休み時間はあと3分ある。ちょっと、彼女の様子を観察してみた。
希空さんの隣りに座る女子高生は園田恵。眼鏡姿が特徴的な真面目な人だ。
正直言って、今の快活な希空さんとの相性は良くなさそうだな。
僕は幸先が好転することを祈りながら、希空さんの後ろ姿を見守る。
すると、希空さんはちらっと僕の方を振り向いた。
どうすればいいか分からない。そんな顔をしてこっちを見ている。
安心しろ。僕も女友達の作り方なんて分からないよ。
僕はとりあえず不安げな彼女に親指を上げてグッドサインを送った。
受け取った彼女は舌打ちするように僕からそっぽを向いた。
「き、今日も良い天気だね。えへへ。」
なんと、希空さんのほうから声をかけた。彼女の声は少し震えていたけど、まずは第一関門クリアだ。
園田さんは驚いたような顔で隣の希空さんを見る。
そりゃそうだ、隣の席になって3ヶ月、禄に話してないんだから。
「希空さん、どうしたの?」
園田さんは、続く言葉もなくゴモゴモしている希空さんを目の前にし、困惑の表情を浮かべ始めた。
雲行きが良くない。
このままでは、希空さんはコミュ障によくある天気の話題にだけ明るい奴になってしまう。
早く、早く話題を振れ!
僕は静かなる念を彼女に送る。手の平を彼女の方に向けてハンドパワー。
「何してんだ、お前。」僕の隣であきれ顔の駿介がそう言った。
僕の念もむなしく希空さんは何も喋らない。
だけど、最後に頑張った。希空さんは決死で力を振り絞って、宿題ノートを園田さんに突き出す。
声をかけられないなら、物で示す戦法に出たというわけか。意外と考えるじゃないか。
園田さんはノートをまじまじと見つめる。
きっと、ノートの白紙状態を見れば、彼女が宿題の内容を教えて欲しいという意図は伝わるはずだ。
すると、園田さんは予想に反する行動をとった。
園田さんは口元をおさえて、困惑を浮かべる。
「ごめんね、気付いてあげられなくて。」
そう言って、園田さんは希空さんの袖口を持ち、彼女を教室外へと連れ出した。
授業は同時に始まった。
教室から抜け出した2人を呆然と見つめる先生。
何が起こったのか僕には理解できない。
10分くらい経ったころ、園田さんが帰ってきた。
希空さんはいなかった。
「どうかしたのか。」先生が問う。
「希空さんが体調不良だったので、保健室へ連れて行きました。」
初耳だった。少なくとも、僕と話していた時の希空さんに不自然な様子はなかった。
それだけに、何か突発的な異変があったのではと懸念する。
例えば、ビッグデータを壊したことにより、なんらかの不具合が発生したのではないか。
授業が終わった後、園田さんは僕に声をかけてきた。
「リク君って、希空さんの、えっと友達、だよね。」その問いかけに僕は首肯する。
「保健室にいるから、迎え行ってあげて。」と、園田さん。彼女は結構優しい子なのだろう。
「ところで、希空さんが体調不良だって、どうして分かったの。」僕は聞いてみた。
「だって彼女、ノートに大きな文字でSOSって書いてたんだもの。しかも顔色も悪い気がしたし。」
あちゃあ、そういうことか。行動が裏目に出た。ドンマイ、希空さん。
「実はね、園田さん。」僕はここまでの彼女の経緯を話す。
彼女が友達を欲しがっていることを説明した。
「そういうことだったのね。」呆気にとられる園田さん。
「顔色悪くてSOSメッセージ送っている奴の真意が友達募集中だなんて、誰も気がつかない。そう気に病まないでほしい。」
僕はそう言って、園田さんをフォローするけど、園田さんは何か落ち込んでいるように見えた。
「私、彼女に悪いことしちゃったかな。」
心配そうな表情でそう言う園田さん。
僕は微かに笑う。
「大丈夫。こんなことでへこたれる希空さんじゃないしね。次会ったときに、一声かけてあげて。」
僕は保健室にいる彼女を迎えに行く。
ガラガラと引き戸を開けると、消毒液の匂いに鼻腔が包まれた。
保健室の隅、希空さんが白い毛布に包まれてベッドにいた。
「おつかれさん。体調はどう。」僕はとりあえず聞いてみる。
「災難よ、どうしてこうなっちゃうのよぉ。」ベッドでうだうだしているのを僕は見下ろす。
「2限が始まるから、帰るよ。」
「園田さん、私のこと、変な子だと思ってるわ。きっと。」
肩を落とす希空さん。
「そうでもないよ。とりあえず、今度はちゃんと言葉で話しかけてみてよ。」
僕の言葉に頷く希空さん。
正直、園田さんがこの不器用な希空さんのことを嘲笑ったりしないだろうか心配だった。
しかし、園田さんは本気で彼女を心配してくれていたし、彼女の真意を知ったときも、嬉しさと謝罪の入り混じる表情をしていた。園田さんは信頼できる。彼女の良い友達になってくれるかもしれない。
僕はそっと胸をなで下ろした。
昼休みに入る頃には、2人は普通に日常会話ができるようになるまで打ち解けていた。
女子の適応能力って本当に高いよな、なんて思いながら僕は駿介と机を並べて弁当を食べている。
「ところでさ、先週はあの子とちゃんと話せたのか。」話題を振ったのは駿介だった。
先週の金曜日を思い出す。放課前のHRは空中分解して、取り残された僕と希空さん。
僕は駿介を置いて、走り出た希空さんを追いかけたんだったっけ。
「まあ、お前の顔見てれば分かるよ。上手くいったそうでなによりだ。」
駿介はオレンジジュースをストローで吸い上げながら、僕の顔をまじまじと見る。
「上手くいったって、何がだよ。」
ふふーんと笑う駿介。
「何がって、お前ら付き合ってるんじゃないのか?」
「「んなわけないでしょ!!」」2つの声が被った。
「おっと、知らないうちに仲良くなりやがって。」にやけ面が止まらない駿介。
僕は隣りに来た希空さんと目を合わせる。そして、また目をそらす。
「えっと、何か用?」
僕はご飯を掻き込みながら、視線を向けた。
「緊急事態が発生したの。昼食後に屋上に来て。」
彼女はそう言って僕の返答を待たずして、自席に戻った。
「ほら、早く行けよ。」僕を急かす駿介。
「言っておくけど、僕らはそういう関係じゃないんだ。」誤解を解くよう努める僕。
駿介は顔色ひとつ変えないで、「"今は”だろ」と僕の弁解を一蹴する。
僕と彼女。少なくとも僕はそういう関係を意識していないだろう。
変わりたい彼女。そんな彼女を見届けたいと思った。ただそれだけだ。
僕は昼食を食べ終えて、屋上へと移動した。
ドアを開けると、身体を揺らして楽しげな希空さん。
秋の微風が彼女の袖口とスカートの裾を揺らしたので、僕はふと目を背ける。
希空さんはニヒヒと歯を見せながら、スカートを抑える。何も見ていないぞ、僕は。
「大丈夫だよ。スパッツだから。」
「知らんがな。」僕は咄嗟にかぶりをふる。
「ほら。」くいっとスカートをあげる。希空さんの言うとおり、その中には黒色の短パンがあった。
「やっぱ、見たかったんだ。」そう言って、希空さんは口元を抑えて笑う。
違う、違う。これは罠だ。
僕は恥じらいと困惑と怒りの感情をミックスさせた。
「希空さん、用がないなら帰るね。」僕は踵を返そうと、彼女に背を向ける。
「からかってごめんってば。」
今度は遊びたがりの子猫のように僕の手を引っ張る。
僕は、嫌みな表情で振り向くと、そこには希空さんではない人影が見えた。
「めぐみん。こっちにおいで。」
希空さんはそう言って、屋上の貯水タンクの陰に隠れる女子生徒を呼んだ。
現れたのは、園田恵。希空さんの友達第2号となった女子生徒だ。
彼女はどこかバツの悪い顔で、手には大きめの紙袋をさげていた。
「私ね、びびっときちゃったの!」
開口一番、理性が興奮に追いついていない様子の希空さん。
すると、園田さんは紙袋を希空さんに預ける。
彼女が険しい顔をする原因は一体何なのか。
原因の殆どは、脳天気なロボット女子高生にあるようだが。
「見て! これ!」
そう言って、希空さんは袋の中を取り出した。
園田さんは目を覆った。
「じゃじゃん!」という即席のBGMを言いながら、希空さんはソレを僕に見せた。
目の前にあるのは、黒い下地に白いレースがあしらわれた洒落た洋服だ。
とにかくヒラヒラが多くて、希空さんには似合わない服だろうなと思った。
「ねえ、ちゃんと分かってるの? この服が。」迫るように希空さんは僕に詰め寄る。
ヒラヒラが多い服。僕はそれ以上の感想をひねり出せないし、ただ黙っていた。
「メ・イ・ド・服だよ! リク君。」やや興奮気味に鼻息を荒くする希空さん。
続いて出た言葉に僕は顎が外れるかと思った。
「今年の文化祭はメイド喫茶に決めたわ!」
希空さんは、フリルスカートを満足げに眺めながら僕に同意を求める。
「ねえ、リク君もいいと思わない?メイドだよ。これ着たら凄く可愛いよ、きっと。」
隣の園田さんの悲しい視線を気にせず、希空さんは満面の笑みでそのメイド服を見つめた。
「とりあえず、教えて欲しいんだけどさ。これ、どうしたの?」
経緯を園田さんは説明した。
まとめると、このメイド服は園田さんのものらしい。
園田さんバイト先は駅前にあるメイド喫茶。今日は久しぶりの出勤日だった。
園田さんはクリーニングし終えたメイド服を学校まで持ってきていた。
勿論、メイド喫茶で働いていることは学校に秘密だ。
園田さんは大きめの紙袋に包んで、誰にもばれないようにそれをロッカーの中に隠していた。
そして昼休み。隣の席の希空さんが話しかけてきた。
「めぐみんって呼んでいいかな。」
彼女にとっての新しい友達。園田さんは正直、心を躍らせていた。
孤高の美女というイメージだった希空さん。友達になりたいと思っていたが、声をかける勇気がなかったそうで。
だけど、希空さんの距離の詰め方は常識を逸していた。
「ねえ、お友達になった証として、私達が隠している秘密、ひとつずつ言い合わない?」
「えええ。それってどういう意味。」
3限目の休み時間。希空さんのジェットコースターに乗ってしまった園田さん。災難だ。
「女の子にはひとつやふたつ、誰かに言えない秘密があるでしょ。」
希空さんの何が一番タチが悪いかって、それは無自覚な小悪魔だということだ。
悪意も打算もなく、ただ純粋な眼差しで、とんでもないことをするのだ。
「例えばさ、好きな男の子とか!」
途端に、園田さんは赤面して「そんな人、いないってば!」と手足をバタバタさせる。
そんな光景を見て面白くなった小悪、じゃない希空さんは自ら人工知能であることを辞めた経緯を話した。
「どうして、私にそんな大事なことを教えてくれるの。」園田さんは問いかける。
「だって、めぐみんは私の大事な友達だから。」
満面の笑みで返された言葉。園田さんは正直、ぐっと心が惹かれた。
私も秘密をひとつあげないと。そう思った園田さんは思いを決する。
ロッカーに隠していたメイド服を希空さんに見せた。
「これがね、私のバイト先。みんなには秘密だからね。」だが、言葉は遅かった。
園田さんの言葉を聞き終える前に、希空さんは僕の机に迫ってこう言った。
「緊急事態が発生したの!」
♦︎
虚ろな瞳で経緯を説明した園田さん。
なんか、うん。ドンマイ。
僕は園田さんに憐憫の情を向けざるをえない。
「それで、どうしてメイド喫茶をやりたいって思ったのさ。」
僕はとりあえず聞いてみる。
文化祭はクラスが一丸となって行う一大行事であるのだから、軽い気持ちはどうかと思う。
僕は一応、彼女に理由を問うてみる。
よくぞ聞いてくれた!と言わんばかりの得意げな表情を浮かべる希空さん。
「だって、すごく可愛いじゃない。」理由は滅茶苦茶軽かった。
「それだけで上手くいく程簡単じゃないと思うけど。」僕は忠告した。
それでも、彼女は期待に満ちた表情でメイド服を撫でる。
「リク君こそ、このメイド服の可愛らしさを舐めているわ。めぐみんがこれを着たらどうなると思う?」
すると、隣りに居た園田さんがぶるっと身震いした。マジで怖がっている。
「え、私。学校でこれを着るの?」恐る恐る聞く園田さん。
「え、ダメなの?」と疑問を呈する希空さん。
「希空ちゃんのお願いでもムリ!」と一蹴。
残念ながら、友達からの賛同は得られなかったようだ。
昼休みが終わり、授業が始まる。
ふと、希空さんの背中を眺めてみた。
よく見ると、彼女は背中を小刻みに震わせていた。
クスクスと笑う背中に僕はどこか安心めいた感情がこみ上げる。
友達ができた。そして、自分の進むべき方向に進もうとする彼女の背中が何だか少し頼もしく見えた。
授業は終わり、放課前のHRが始まる。文化祭実行委員会にとっての貴重な時間が与えられる。
実行委員になってしまった僕は重い腰を上げて、教壇に上る。
クラス企画の検討が終われば、次は企画書の作成、運営と準備計画。
するべきことをリスト化するとかなりある。
多忙な毎日が始まる。だからこそ、今日の検討会でクラス企画を決定してしまいたい。
というのに、教壇に立つのは僕1人だけ。希空さんは一体どこにいったのか。
クラス中から、早くHRを終わらせろという圧がかかる。
野球部の連中は既に白いユニフォームに着替えを終えていた。
わかった、わかった早く終わらせるよ。僕は企画の案を募った。
訪れたのは静寂。
誰も案を発表してくれるものはいなかった。
こちとら、企画が決まらない限り、君らを帰さないからな。
僕は顔を険しくし、意地を張り始めた。
すると、そのとき。
教室の引き戸を強く開ける音が響いた。
クラス中が注目した。いや、それは注目せざるをえなかった。
なぜならば、学校ではあり得ない「異質」がそこにあったからだ。
「待たせたわね。」
少年漫画を真似たような台詞を吐くと、その遅刻者は堂々とした足取りで教壇に上る。
誰もが息を飲んだ。誰もがその瞬間に心を奪われた。
メイド服に身を包んだ希空さんが教壇に立っている。
「遅れてごめんね。」
片目ウインクでメンゴのポーズをとる希空さん。
僕は返す言葉を失う。
フリルのミニスカートの下からは肌色と黒の対比が眩しいニーハイソックスが映える。
上半身はマシュマロのようにたわわな服装で、だけど、締まるところは締まっている。
これがメイド服か。
彼女とその服はまるで運命の出会いを果たしたかのようにベストマッチだった。
「それじゃあ、始めます。」切り出したのは希空さんだった。
全員が可憐なその姿に目を奪われている間、彼女はHR再開のゴングを鳴らした。
「見ての通り、今年のクラス企画はメイド喫茶にします!」
直球過ぎる提言だった。
希空さんは20人超の生徒の注目にも臆せず、堂々と言ってみせた。
それから数刻。静まりかえった教室、唖然とする生徒達。
そりゃそうなるだろ。僕は頭を抱える。
フォローなんて考えつかない。こんな状況は予想外だ。
すると、一部の生徒から響めきのような歓声があがる。主に男子生徒。
「ちょー、カワイイじゃん。」「俺も!賛成!メイド服最高です!」
思い思いの感想を口にする男子生徒たち。少しは遠慮というモノをわきまえたまえ。
すると、間髪入れずに女子生徒達が騒ぎ出す。
「うわあ。男子、キモいんだけど。」
「コスプレなんて気色悪い。これさあ、うちら何も楽しくなくない?」主に一軍女子の間では、不評なようだ。
僕は希空さんを見る。その表情にはまだ陰りはない。ここまでの反応はきっと彼女の想定範囲内という感じだ。
「勿論、男子諸君にも着てもらうからね!」と希空さんはつけ加える。
その一言で、男子生徒達の反応がくぐもった。おい、さっきまでの威勢はどうしたよ。
「え?まじかよ。女装とか誰得だよ。」
「女装。主従カップリング。なんて最高な響きなんですか。はい、絶対やります!じゅるり。」
どこかでヤバイの効果音がした。
少数の女子生徒が羨望の眼差しで男子の方を見ていた。
だがしかし、今日の希空さん。かなり切れている。
既に、男子生徒の大半、そして一部尖った趣向のある女子生徒を味方に引き入れた。
「希空さん!その服どこで買ったの?私も欲しいな~。」
「物販はどうするの?私、カップケーキくらいなら、よく家で作ってるよ。」
「希空ちゃんのメイドチェキを売り出せば、かなり儲かるんじゃね。」
「リク君と駿介君は絶対メイド服着てよね!!絶対だよ!」
おい、今の発言誰だ。
気付けば、クラス中が喧噪に包まれる。
それは先週の喧噪ではない。多くの生徒が彼女に関心をよせていた。
これから始まるであろう文化祭に思いを馳せる皆が思い思いのことを話すけど、まとまりなんて欠片もない。
けど、これは大きな進歩だ。
クラスが次第に1つの大きな目標に向かって突き進む感覚。
そしてなにより、この雰囲気を作ったのは、希空さんの頑張りがあったからこそだ。
僕は少し誇らしげな眼差しで、彼女を見る。
希空さんはひとりひとりの意見を聞きながら、こまめにメモを取った。
それから、クラス内で意見が固まり、クラス企画はメイド喫茶に決定した。
♦︎
希空さんは机に腰掛けながら、夕日を見つめる。
彼女と友達になって一週間が経った。それでも、僕はまだ彼女の多くを知らない。
美しい機械人形だと思っていた彼女は実際に話してみると、いじけたり、拗ねたり、落ち込んだり。
そんな子供っぽいところが多かった。
でも、この前のHRでは大胆な勇気を見せてくれた。
それから、彼女は次第に僕以外の誰かと会話をすることが増えていった。
寂しくもあるけど、それはやっぱり嬉しい。
僕は彼女の力になれているのかと自問自答してみる。
やっぱり、僕にはまだそんな強さはない。
自分のことで精一杯な僕がいつか、人の助けになれる日がくるのだろうか。
「ねえ、リク君。」夕日に照らされた希空さんは僕に話しかけた。
僕は机に突っ伏して、午後の睡魔の中にいた。
彼女の声が聞こえたので、ムクっと起き上がる。
「ごめん、起こしちゃったね。」
「どうしたの、希空さん。」眩しさに目をやられないように、僕は半目で彼女を見た。
彼女の口元が少し緩むのが見えた。
「リク君はさ、今が楽しい? 私と一緒にいて、楽しくやれてる?」
「何言ってるんだ。地獄に決まってるだろ。」と僕は率直な気持ちを答える。
「企画書は明日までに提出しないといけないし、人数分の衣装デザインに食品材料の調達目処も立ってない。それに明日は定期テストだ。正直、生きた心地がしない。」
僕のひねりだした声に笑う希空さん。
地道な作業が続くこの時間も彼女は眩しく笑うし、その声は教室中に反響する。
ああ、なんだかほんとうに眠くなってきたぞ。
気がつけば、僕はこの1週間どれくらい寝ただろうか。
企画書は8割方完成している。
いや、完成させたというべきだろう。
希空さんはクラス内での役割決め、折衝など。対人用務をけっこうこなしてくれた。
僕も頑張らなくちゃ。
そうやって、僕は無力な自分の身体に発破をかける。
頭を動かせ、身体を動かせ。
そうやって、僕は変わろうとしている彼女に追いつこうと必死になった。
格好悪いと思う。だって僕には明確な目標も夢もあるわけじゃないのに、ただ目の前を走る女の子についていくだけだ。
格好悪くても、やることはやりたい。
そして、僕は濁流のように押し寄せる疲れに流されるように、眠った。
「リク君。私はずっとね、君に会える時を待っていたんだよ。」
最後に声がした。多分、希空さんの声。
だけども、声のする方は遠く、僕は意識の混濁を彷徨う落ち葉のように流れ去っていく。
それからしばらくして、僕はまた目が覚めた。
「お寝坊さんのお目覚めだね。」かすかな声。
僕の首筋と耳が撫でられるような優しい声。
僕は現実に引き戻されて、咄嗟に目を開ける。
すると、僕の目と鼻の先には希空さんの顔があった。
「ぶっ!?」僕は驚きの余り、身体をのけぞって立ち上がる。
希空さんはそんな慌てふためく僕を見ては、不満そうな顔で睨む。
「目覚めた君の横顔を見つめる絶世の美女、何か不満なわけ?」
「君は遠慮というモノを勉強したほうがいいよ。」
彼女の小悪魔的な仕草はいつまで経っても慣れそうにない。
「えへへ。再びの地獄へようこそ、リク君。」にやりと笑う彼女。
気付けば僕の机の傍らには、夥しい数の付箋を付けられた企画書と予算申請書だ。
僕はそれを見て、血の気が引くのを感じたのと同時に、誰がやったのかと疑問に思う。
「それ、直せるところはチェックしてあるから、目を通しておいてね。生徒会の情報筋から聞いた話をもとに直しておいたから安心して。企画と予算を通すための必勝法を教えてくれたのよ!」
「もしかして、君1人でやってくれたのか。」
僕は書類をぱらぱらと捲りながら、その赤入れ、指摘に感服する。
予算の穴、実現可能性、安全リスク管理。
その全てにおいて抜け目のない企画書だ。
誰が見てもこの企画書は落ちない。
何故だかそんな自信がわいてくる程の完成度に仕上がっている。
「私だけじゃない。リク君が骨子を組立ててくれたから、できたんだよ。」
希空さんは再び僕を凝視しては近付く。
僕は彼女の瞳に吸い込まれそうになるが、必死にこらえた。
「そんなことはない。僕は何の役にも立ってないよ。」
自嘲気味に、そんな言葉をかける。
僕にないものを何でも持っている彼女。
最初は不器用だった彼女も、次第に自分という人間をモノにしている。
僕は無駄な自尊心を袖口に隠しながら、彼女のそんな姿を見つめる。
やっぱり眩しいよ君は。
「やめてよ。そういう表情。」
彼女はそう言った。
今の僕、そんなひどい表情をしているのだろうか。
「そうやって眩しそうに私を見ないでってば。」苛立ちを隠せない彼女の声が僕を突き飛ばす。
希空さんは真剣な表情で僕を見つめた。
「私はさ。君のおかげでここまで来れたと思ってる。君が私の背中を押してくれた、だから今の私がいるの。」
「そんな他人行儀されたら、悲しいじゃん。」
潤んだ瞳が僕を見る。僕は自らの愚かさを知る。
人間になりたい彼女をどこまでも人間扱いしてこなかったのは、きっと僕だ。
彼女と僕の間に引かれた一線。
その一線が決して飛び越えられない決定的なものだと、そう思い込んで。
僕は彼女を特別なモノと見ていた。
当の本人はきっとそんな関係なんか露も望んでいない。
僕と駿介の気の置けない関係を彼女は羨ましいと言った。
彼女の思いを僕は、元々分かっていたはずなのに。どうして、僕は。
後悔がこみ上げた。自分の至らなさに苛立った。
「ごめん、希空さん。」僕は率直にそう告げた。
「僕は君を侮っていたよ。」と言って、彼女と目を合わせる。
もう目を逸らすことはしない。
僕は僕自身の目で彼女を見るべきだと思った。
ふんと鼻を鳴らす希空さん。
僕はそんな彼女が何だか近い存在になったようで、もどかしくもある。
ここまで2人でやってきたことは事実だ。
まだ始まったばかりの僕らの反抗。
平凡に抗いたい僕と特別を辞めたい彼女の戦いは始まったばかりだ。
それはともかく、僕らは十分に健闘している。
ここまでの経過を称えるための労いがあってもいいのではないかと思った。何らかの形で希空さんに感謝を示したかった。
「明日の放課後、僕の家に来ないか。」
僕が何気なく放った言葉。
改めて聞けば、下心丸見えの男子のそれと何が違うのか。
僕は心の中で赤面する。
違う違う、そういう意味じゃなくてだ。
「リク君。なんか急に積極的だねえ。どしたどした。」
にやける希空さん。
希空さんはどこか得意げな表情で僕を見回す。
「勿論、駿介も一緒だ。それでもよければ。」
僕はきっぱりと言い放す、そして細い目で彼女の様子をうかがってみる。
「えー、2人でおうちデートじゃないのね。」彼女は残念そうに言う。
「冗談だよ。オッケー、楽しみにしてるね。」
あしらうような口調、軽快な足取りで彼女は教室から去る。
バイバイ、また明日。
子気味よいテンポで僕に手を振る希空さん。
僕は手を上げて、彼女を見送った。誰もいなくなった教室、なんだか寂しいと思った。
それでも、僕が誰もいない教室を寂しいと思うのは、彼女がいる教室が楽しいからなのだろうと思う。
僕の気持ちに彼女が占める割合が増えていく。
このまま彼女と進んだ先に何があるか。明日にならないと分からない。
こんな気持ちは正直、初めてだった。
僕は帰り支度を終えて、下駄箱のロッカーを開けた。
夕日の高度が低くなって、僕の視線を不愉快に照らし始めたので、僕はすぐに帰ろうと無造作に靴を取り出した。
すると、靴の中には一枚の紙切れが入っていた。
これは。
一枚の手の平サイズの紙は山折りにされていた。僕はその紙片を開けると。
【希空にこれ以上近づくな。死にたくなければ。】
「え、何だこれ。」咄嗟に紙片を胸ポケットにしまい込む。
昇降口の辺りを見回す。周りに人影はない。僕1人だ。
一呼吸置いて再びその紙片を見る。そして僕は思わず身震いしてしまう。
この紙片を持ち込んだ奴は、僕が希空さんと関わることを止めようとしているのか。
一体、どんな目的で。
希空さんが危ない目に遭っていないか心配になった。
スマホを見ると、希空さんからのチャットメールが受信されたので、僕は胸を撫で下ろす。
嫌な感覚だった。誰か分からないから、恐怖心を掻き立てる。
馬鹿だな、考えすぎだろ。
僕は心にそう言い聞かせた。胸に手を当てた。
そこから数刻置いて、僕の心臓は落ち着きを取り戻す。
とりあえず、今日は家に帰ろう。
♦︎
翌日の昼休み。
僕らのクラス企画「メイド喫茶」の企画書は満を持して生徒会へと提出され、正式に受理となった。
問題の指摘は特になく、注意事項としてコスプレによる過度な露出の禁止、食品衛生管理の徹底を言い渡されたのみ。
滑り出しとしては好調だと思う。
「今日は打ち上げだ! 楽しみ~。」生徒会室からの帰り。廊下を歩く僕と希空さん。
肩の荷がひとつ下りたことで開放的になっているように見える。
そんな彼女はいつもより僕との間を埋める空白の距離が近いようにも感じた。
油断すれば手が触れてしまいそうで、僕は落ち着かない。
いや、これは僕の自意識過剰かもしれないけど。
「次はメイド服の採寸、デザインだな。まずは、誰にメイド服を着せて、誰を控えに移すかの人選だ。」
僕は次から次へとやってくるタスクを彼女に淡々と伝えていく。
その度に彼女は苦虫を噛むような表情になって、さらには僕を睨んだ。
「もう。リク君!意地悪だあ。少しくらいは喜ばせてよ。ほら、今日は打ち上げでしょ」
僕の前に躍り出ては、そう不満を漏らす彼女。
「打ち上げじゃない。決起集会だ。これからの作戦と意気込みを共有するための会だ。」
「あ!めぐみんだ。お~い。」
僕の話を遮って、希空さんは前方に見える女子生徒に手を振る。
園田さんと希空さんは互いに喜びを分かち合うように肩を抱きあっていた。
女の子特有の感情表現。
一帯はシトラスの匂いが漂う小さなお花畑と化した。
「といわけだから、リク君、いいよね?」
気付けば、希空さんと園田さんは僕に期待の眼差しを向けている。
話に追いついていない僕は唖然としていた。
「ちゃんと話聞いてた?リク君。」僕を追い立てる希空さん。
「ゴメン、なんだっけ。」
「めぐみんも手伝ってくれたわけだしさ、一緒にリク君ちに行ってもいいよね? あと、駿介君も必ず連れてくるように。」
いつも通り快活な希空さん。
隣で恥ずかしげな表情で身体をもじもじさせている園田さん。
「園田さんも来てくれるなら、歓迎だよ。」
なんだか、賑やかな会合になりそうだ。
♦︎
「それじゃあ、企画書の合格を祝って!」
「「「「乾杯!!」」」」
カラフルに彩られた各人のグラスコップが軽快な音を鳴らす。
炭酸飲料のフレーバーの香りに包まれた空間で、僕らは初戦の勝利をねぎらった。
場所は僕の自宅。元より、僕1人が住むにしては広すぎる家なのだから、こういう日があっても良いと思う。
僕はひとり、キッチンに向かっている。
グツグツと煮込んでいるのは、食欲を刺激するスパイスが香るカレーだ。
母さんが死んでから、手料理を作ることなんて殆どなかった。
だけど、今日はみんなのために何かしたいと思った。
背伸びした僕の感情が、僕をキッチンへと導いた。
ルーを混ぜる僕の両手に力が入る。
ジャガイモの煮え具合をへらで突いて確認しながら、スパイスを小刻みに振りかける。
ガタン!
そのとき玄関から音がした。ドアが開けられた音。
誰かが外に出たのだろうか。僕の部屋は2階にある。
とすれば、階段を下りる音がするはずだ。
でも、階段から音はしなかった。
心の中に不可解なざわつきが巻き起こる。べたつく不快な感触。
僕はこの感覚を久しぶりに感じた。
ダイニングのドアは開けられた。
そこにいたのは、駿介でも園田さんでも希空さんでもなかった。
「やあ、久しぶりだね。元気か?」
目の前にいるのは僕が誰よりも憎んでいた人、そして切っても切れない縁で結ばれてしまった男。
「2年ぶりだね。父さん。」僕は冷淡な口調でそう告げた。
「年数まで覚えているのか、すごいな。」無関心なのか、感心してるのか。
眼鏡越しの表情からは何も読み取れない。そういうところが僕は昔から大嫌いだ。
「父さんは年数なんて関係ないだろうけどね、僕らはいつでも覚えてるんだよ。父さんに待たされた時間は。」
僕の棘のある言葉に気がつく父さん。それでも父さんは朗らかな表情を崩さない。
「良い匂いじゃないか。カレー、作ってるのか。」
父さんはキッチンへと無造作に近付いてくる。
逃げ場のない空間、僕は拒絶の表情を見せる。
それでも、父さんは僕へと近付いていった。そして僕の隣に立って鍋の中を見る。
「少し食べてもいいかな。久しぶりにリクの手料理が食べたい。」僕は反射的に舌打ちした。
黙る父さん。「どうした。」と僕に聞く。
何がどうしただ。
母さんが死んだ後も家を放っておいて、ある時には我が物顔で玄関を開けやがって。
どうして今更帰ってきたんだよ。
濁流のような感情が僕を包む。あふれ出る言葉、その全てを吐き出しそうになった。
「母さんの命日。いつか知ってるか、父さん。」押し殺した声。漏れ出すのを抑えられなかった。
父さんは反射する眼鏡の奥でどんな表情を浮かべたのか。
どうせ、母さんのことなんてどうだっていいんだろう。
「悪かった。でも、仕事が忙しくてね。」
「母さんの命日はいつなんだ? 聞いてるんだよ。」刺すような僕の口調。
僕自身ももうコントロールなんかできない。押し黙る父さん。
そうだ、どうせ分からないだろう。だから黙るんだ。
「リク、今日はどうしたんだ。調子が悪いのか。」
返ってきた言葉は僕の求めるそれとは正反対だった。
「今日だけ帰ってきて、父親面しないでくれよ。父さんは父親の義務を放棄してきたくせに。」
母さんが死んでから、父さんは変わった。逃げ出すように出張を言い訳に、家を留守にする。
その背中がだんだんと遠くなって、小さくなって、僕にとって両親という存在はなくなった。
父さんは黙して蓋が開いたままのカレー鍋を眺めている。
2年ぶりの再会、そして息子から罵声を浴びせられた。
それでも、父さんの表情には陰りも怒りの色もない。
「リク、父さんはな、お前と喧嘩するために帰ってきたんじゃないんだ。お前に久しぶりに会えて父さんは嬉しい。だからな、そう怒るな。」
型通りの台詞。型通りの所作。全てが洗練されていて、そして滑稽だ。
黙ってカレーを皿に盛り付ける僕。ご飯に対してルーの割合は少なめ。
そして、無造作に皿を父さんに差し出す。
「驚いた。よくできてるじゃないか。」
苛立ちを隠せない僕をよそに、父さんは無神経な言葉を並べた。
その言葉ひとつひとつが父さんの空白の2年間を物語る。
この一杯のカレーを作るまでの間に、僕がどれほどの空虚な日々を過ごし、不在の悲しみに耐えてきたのか、この男は想像もしていないのだろう。
父さんは何を求めて帰ってきたのだろう。
何をするために帰ってきたのだろう。都合のいい時だけ、現れるのは迷惑だ。
今のここにあるのは、伽藍洞になった冷たいリビングだけだというのに。
「今日は友達が来てるんだ。邪魔しないでくれ。」
僕はそう言って、残りのカレー鍋を持ち上げてリビングを出た。
気付けば、父さんのカレーは既に半分ほどにまで減っていた。
「母さんの味に似ていて、美味しいよ。リク。」僕がリビングを出る瞬間、父さんはそう言った。
父さんがどんな表情でその台詞を吐いたかは分からない。
僕はとにかくこの空間から抜け出したかった。
廊下はいつも以上に漆黒の闇だ。慣れているはずの家の間取り。
だけども、どうしてか自分の足下がぐらつく感覚に襲われる。
僕はドアの隙間から漏れる光と喧噪を頼りに歩を進める。
そして、僕は自室のドアを開ける。
「きゃっ、リク君!」
飛び上がるように驚く希空さんがそこにいた。
隣に座る園田さんはそんな希空さんの表情を見て何やらにやけている。
一方、駿介も同じように僕を見ては笑う。
「もう!足音立てずに来たから、分からなかったよ。」希空さんはご不満なようだ。
いや、待て。
今度から部屋に入るときには足音を立てるように意識しろということか。
「じゃあ、ちゃんとノックしてよ。」さらに過大な要求をしてきたぞ。
「なんで、自分の部屋にノックしないといけないのさ。」
至極真っ当な反論に、希空さんは口を尖らせて黙り込む。
「僕がいると、何か都合悪かった?」
園田さんがごまかすような笑いと一緒に「気にしないで!大丈夫」と答える。
それに対して、駿介は済ました顔つきで「希空さんって案外乙女なんだな。」と呟く。
はっ?!どういう意味?!と顔を振り向かせる希空さん。
駿介の涼しい顔をジトーと睨む。
2人の間に飛び交う火花のようなものの間で園田さんはニコニコと笑う。
楽しいならなによりだよ。
「ほら、熱いうちに食べちゃってくれ。」そう言って、鍋と食器を置いた。
3人の目の前に出来立てのカレーライスが顔を覗かせた。
「わあ!すごい!美味しそう。」園田さんが興奮を浮かべる。
希空さんはフォークを持ち、配膳が終わるのを焦ったそうに待つ。
涎が落ちそうになる希空さん。餌を目の前にして落ち着かない犬のそれに少し似ていた。
「ねえ、食べていい?いいよね?いただきます。」
全員の分を配膳し終わると、希空さんは我先へとカレーライスを掻き込む。
その瞬間、頬を倍以上に膨らませた彼女の満面の笑みが広がった。
「おいしい!」やや強引に飲み込んで、感嘆の声をあげる。
続いて、園田さんと駿介も食べ始めた。
僕は心の中で胸を撫でおろす。スパイスの調整がうまくいってよかった。
「うちのリクは料理が唯一の取り柄だからな、もっと褒めてやれ。機嫌が乗れば今度はスイーツビュッフェでもやってくれるさ。」駿介は得意げな表情で僕を見る。
「そんなことないもん。リク君の良いところは他にもいっぱいあるし。」
さっきから、妙に駿介に噛みつく希空さん。
対する駿介は希空の反応を意に返すこともなく、はははと高笑いする。
食事も終わり、文化祭準備に向けた方針を決める。僕が議題を進行させ、希空さんが思いつきで意見をぶつける。
そこからあら探しに続くあら探し。
担当するのは主に園田さんと駿介だ。
4人が集まって話し合えば、意見は案外よくまとまった。
「おい、リク。お前の番だぞ。」駿介の声、僕は薄れかけた意識を揺り起こす。
気づけば、僕らは企画会議ではなく、ババ抜きに興じている。
これも、みんなの士気高揚のために必要なことだよと、希空さんが妙に息巻いていたので、僕らは満腹感に満たされながら、トランプを広げた。
目の前で2枚のカードをかざす希空さん。
内1枚はジョーカー。絶体絶命な状況の彼女は僕を見ては、緊張した手つきでカードをおさえている。
僕はババを探るようにトランプを凝視する。
僕がカードに手を触れると、希空さんは泣きそうな顔になった。
そして引き抜いた。僕の勝ちだ。
「希空さん、分かりやすすぎだよ。」
希空さんは悔しい表情を露わにしながら、僕の肩をポカポカと叩く。
園田さんと駿介はそれを見て笑っている。
僕もつられて、一緒に笑みをこぼす。
久しぶりに開いたゲームキットに、低めの冷房温度。
その環境ひとつひとつが僕の初めての感情を刺激してゆく。
そうか、希空さん、駿介、園田さん。皆がいるから楽しんだ。
その結論はなんだかとても腑に落ちてしまった。
彼らといれば、トランプも最高の遊戯になった。
以前までの僕は、喜びの感情は特別なものだと思った。僕には馴染みのない遠い世界のことのように思っていた。
でも、それは違ったかもしれない。喜びだって楽しさだって、嬉しさだって。案外、身近に転がっているのかも。
♦︎
「遅くなってきたし。そろそろ、帰ろうか。」園田さんの声がした。
時計を見て僕は現実に引き戻された。
時刻は既に20時を回っていた。
さすがにこんな時間まで女子生徒を預かるわけにはいかない。
僕は食器を手早く片すと、お開きの合図をする。
「え~、もう終わりかあ。」と言って、希空さんはへの字に口を曲げる。
玄関へと向かう僕ら、そこに別の人影は現れた。
本当にタイミングが悪かった。
「おや、お帰りかな。」済ました顔で父さんがこちらを見る。
園田さんはそんな父親の姿に気付いて驚くと同時に、ペコリとお辞儀をした。
駿介も軽く一礼する。
対して、父さんは「リクの父です。いつも息子と仲良くしてくれてありがとう。」と朗らかな笑みを浮かべた。
父さんは父さんのフリをするのが上手かった。まるでその瞬間だけ。
遅れて階段を下りて、玄関へ辿り着いた希空さんも父さんに挨拶をした。
そのときだ。
父さんの表情は一変した。
笑顔は一変して、険しく睨む表情へと様変わりしていた。
無言のまま佇む父さん。
その瞳の向こうには希空さんを写しているような気がした。
気付けば、父さんの表情は穏やかなそれに戻った。
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ。」そう声をかけると、父さんはリビングへと帰っていく。
一瞬の違和感、僕はそれを見逃さなかった。
けど、ほかの皆は気付いていない。
「さすがに、女子だけじゃ危ないよな。」
隣で駿介が呟く。夜道に不審者が現れないとも限らない。
「じゃあ、僕と駿介で送ろう。4人で帰ろうか。」
そう言おうとしたときに、言葉は遮られる。
「私の家、西公園方向なんです。」園田さんの言葉。
「あれ、そうなんだ。希空ちゃんは同じ方向だっけ?」駿介は僕をちらちらと見ながら、夜風で身を震わせた。
「私は、駅前なんだ。だから反対方向だね。」
その瞬間、駿介がにやりと笑った気がした。
僕も駿介につれて身震いする。
夜風が冷たいからだろう。けど、理由はきっとそれだけじゃない。
「なんだよ。」僕を見る駿介。
「希空ちゃんは頼むわ。」駿介は嬉々とした表情で僕に言った。
そういうことかと後になって悟った僕。鈍い僕と狡猾な駿介。
「ああ、分かったよ。」僕は重い足取りで希空さんに近付く。
そもそも、どうして僕は緊張してるんだ。
もう彼女とは知り合って2週間が経つ。彼女の奔放なところもたまにバカなところももう慣れた。
それなのに、知り合った頃とは違う緊張感が僕の手先と脳みそを包んだ。
希空さんを見る。夜空に見る彼女の横顔はいつもよりも静かで、どこか寂しげなものに見えた。
「じゃあ、また明日。」
僕は園田さんと駿介に手を振って別々の方角を歩き出す。
少し足取りがおぼつかないのは内緒だ。対して駿介はどうか。
彼はいつだって平常心だし、いつだってスマートでイケてる奴なのだ。
足取りは威風堂々としており、すかさず園田さんを車道側から歩道側の道路へと促す。
こういう所作を少しでも駿介から伝授されておくべきだったと内心後悔する僕。
そんな僕はただ歩いていた、1人で。ん、1人で?
僕は咄嗟に後ろを振り返ると、希空さんは数メートル後方で僕を見る。
ごめんごめん。
僕は慌てて彼女の歩調に合わせる。僕は失念していたのかもしれない。
僕を追い越していつでも小走りで僕を先導する彼女が僕のイメージ。
だけど今の彼女はそうじゃなかった。
思えば、僕の後ろを歩く彼女なんて見たことなかった。
僕よりも身長が低い希空さんの方が歩幅は短いのだから、こうなることは当然なんだ。
「足が短くてごめんなさいね。」頬を膨らませて希空さんは嫌味たらしくそう言った。
月の下、それから僕らは夜に響く鈴虫の鳴き声で満たされた空間で歩いた。
「ねぇ、陸くんはさ。恋をしたことってある?」
口火を切ったのは彼女だった。
それに、その話題は僕の心臓を早くさせる。
どうして今そんな話を。と僕は聞きたかったけど、聞けるはずもない。
答えることは容易い。だって、僕に恋愛経験なんて皆無だからだ。
面倒事を避けたいと言って人との関わりを最小限にしてきた僕にとっては別世界の話だった。
「ないけど。」僕は短く答える。言い訳のしようもないから。
希空さんは数拍置いた後に、そっかと言う。変わらず彼女の表情は静かで、なんだか調子が狂う。
「ねえ、気付いた?」また唐突に質問する希空さん。
「めぐみん、駿介君のことが好きなんだよ。」
途端に僕は噎せ返りそうになったので、必死で喉を押さえた。身体中から衝撃が巻き起こる。
「え、まじ?」
「まじだよ。」
まさか、園田さんが駿介を。
いや、駿介は良い奴だし、モテるタイプだ。
だけど、今まさに彼を好きな人が身近にいると考えるとなんだか心が痒くなった。
僕は園田さんと駿介が2人で帰る状況を想像する。
手をつないだりするのだろうか。どんな会話をするのだろう。
僕には想像できなかった。
「それで、駿介は知ってるの?」僕がそう聞くと。
「知ってるわけないじゃん。コクってないんだし。」
「駿介はきっと気付いてないよ。好きなら言った方がいい。」
僕の返答に希空さんはどっと肩を落として溜息をつく。
「さすがに、鈍くない?」
「まあ、男子ってそんなもんじゃないかな。」
「じゃあ、リク君はどうなの。」
「じゃあって。僕はそういう経験がないから分からないよ。」
「君が誰かの思いに気付いていないだけだとしたら。」
その言葉を聞いた時、なぜか彼女の瞳を見てしまった。
月光に輝く瞳。それは正直、美しいと思った。美しさに魅入られて、言葉を探す思考が一瞬停止する。
黙ってしまった。黙ったら、彼女の指摘を受け入れることになってしまう。
「そんなことあるわけない。」僕は必死でかぶりを振った。
「あーあ、君のことが好きな人は可哀想だな。一生、君は思いに気付いてくれないんだもんね。」
挑発的な口調になった。なんで怒られているんだ、僕は。
僕は園田さんが駿介に気があるなんて全く思いもしなかった。
部屋でカレーを食べているときも、文化祭について話し合っているときも一切そんなそぶりを見せていなかった。
「気持ちは分かるけどさ。言葉で言わなきゃ伝わらないよね。」
僕がそう言うと、何も言わずに僕を追い越して歩く希空さん。そしてぴたっと止まる。
「でもさ、仕草とか思いとかで、言葉にしなくても思いが伝わる関係っていうのも憧れちゃうな。私。」
「昔は人の命令にただ忠実なだけのロボットだった。目の前に大切な人がいてもさ、私の意志で抱きしめることなんてできなかったし、会いたいときに会いに行くことだってできなかった。」
続いて発された彼女の言葉。僕は返す言葉を失う。僕は失念していたのだ、人間と同じように見える彼女は人間ではないという当たり前のことを。
それは、彼女が「人間」になる前の話なのだろうか。
人工知能だった彼女にはきっと、心を持つことなど許されなかったのだろうか。
人を好きになることや誰かと友達になることも当然にできなかったのだろうか。
人間以上の知性を持っているのに、人間のような感情を持つことは許されない。
それは僕が思った以上に残酷な事なんだと思う。
僕らはそれから黙ったまま歩いている。僕は知りたいと思った。
今の彼女に「気持ち」があるのなら、彼女の思っていることを知りたいと思った。
僕は人の仕草やそぶりで思いを図るほど器用な生き方はできない。
だから、言葉を使うしかない。
「「あのさ。」」
言葉が被る。僕と希空さん。仕組まれたようなタイミングで言葉を重ねた。
僕と彼女はお互いを見合わせる。
「かぶったね。」
厳かな静寂を崩すように笑い出す彼女。僕も一緒に微笑んだ。
「じゃあ、リク君からどうぞ。」希空さんが僕に手を差し出して、先行を譲った。
君の思いが知りたい。なんてキザな台詞。やっぱり言えるわけもない。
「いや、なんでもないよ。大した話じゃない。」尻込みした僕はリスクの重圧に負けた。
僕は情けない人間だと思う。
「希空さんは?」僕の問いかけに彼女は頷く。
「ううん、いいの。私も大したことじゃないし。」
僕はそれから希空さんを直視することができなかった。
それからは再び沈黙の時間が2人を満たす。でも、最初の頃とは違う。
もどかしさを抱えた時間はひどく、居心地が悪くかった。
気付けば、駅に着いた。
もどかしさは虚空を漂ったまま、彼女と僕は改札にて足を止める。
「それじゃあ、帰るね。」
前髪を手ぐしでかき分けながら、彼女は僕に手を振る。改札を抜ける。
僕と彼女の距離が離れていく。
僕は隔たる距離を眺めるだけで、彼女にかける言葉を失った。
さよならとかまた明日とか、そんな簡単な言葉でいいはずなのに。僕は言えなかった。
そのとき、駅から大量の人がなだれ込んだ。
途端に仕事帰りのサラリーマン、OLで埋め尽くされた改札。
人混みの中で僕は溺れるように沈み込む。
希空さん。
僕は心でその名前を呼ぶ。
今日という日がこのまま終わってしまうのが勿体ないと思った。
だから、僕は彼女を探した。
軽快なメロディが響き渡った駅のホーム。
僕が人混みから抜け出したとき、列車は発車した。
そして、彼女はもうそこにはいなかった。
馬鹿みたいだ。明日になればまた会える。どうして今日にこだわったのだろうか。
僕は自分で自分を笑う。
駅前を歩いていると、ロータリー周辺には数台のワゴン車がひしめき合っている。
希空さんと一緒に歩いているときには気づきもしなかった。
ワゴン車の群れを見ると、その車体には黒インクや白インクで刺激的なフォントの文字が描かれていた。
【人工知能の支配を許すな】
【私達の仕事を返せ】
【奴等は人間じゃない、人類を脅かす兵器だ】
僕はそれを見て目を細めた。いつも見る光景ではある。
人工知能が社会的に普及したことで、職を追われた者も多かったのだろう。
人工知能そのものへ恨みを持つ人だって少なくない。
彼らの嫌悪の対象に希空さんはいるのだろうか。ふとそんなことを思う。
彼女は人工知能だ。でも、彼女は人間だ。
【人工知能は人間ではありません。彼らは計算と打算で狡猾にも我々の生活に浸透し、人間固有の価値観や権利を破壊しようとしています。皆さん、欺されてはいけません。】
リーダー格の男が声高に叫んでいた。
違う、あんた達は何も分かっていない。僕はそう反論した、心の中で。
希空さんの無邪気な笑顔は、睨む顔も、寂しそうな顔も全ては本物なんだ。それだけは言える。
【人工知能に心なんてありません。彼らの見せる表情は全てが偽物です。】
【決して、欺されないでください。骨抜きにされる前に関係を断ちましょう】
【私達は人間としての尊厳を取り戻さなければならない】
嫌悪を込めた声が駅前に響き渡る。
うるさい。うるさい。うるさい。
僕は不意にマグマのように激情に沸き立つ怒りに襲われた。
そして、目の前に立っている電柱に拳を突いた。怒りを咄嗟にぶつけた。
グチャッという音ともに、嫌な感覚と生暖かい感触が僕の腕を伝った。
ワゴン車の上に立った中年男性が僕を怪訝な表情で見る。
僕も目を合わせた。彼らを一発でも殴ったら、僕は罪に問われるのだろうか。
希空さんを踏みにじるような発言をする奴等を殴っても、それは犯罪なのだろうか。
希空さんは必死に生きている。計算も打算もない中で手探りで生きている。
彼らに、そんな彼女を貶める権利が果たしてあるのだろうか。真っ赤になった拳に力がこもる。
身体は無意識に彼らのほうへ進んでいく。
次第に、ワゴン車を囲む人々は異変に気づき始める。
少年がひとり、怒りの感情を露わにしてこちらを睨んでいるのだ。異様な警戒が伝わった。
いくらでも耐えられた。僕が中学にあがった頃、陰気だと言われて毎日を過ごした。靴を隠されたり、物を取られたりされて虐められたこともあった。
でも、別に苦痛じゃなかったんだ。それは僕が耐えればいい話だから。
僕自身が心の感受性をなくし、彼らの言動になにも感じなくなれば、僕はノーダメージ。
でも、これに関しては耐えられないよ。無理だ。
希空さんが侮辱されることは、友達として許さない。
集団からはもう数メートルもない位置まで来ていた。後もう少しで、誰かを殴ることのできる距離。
「リク君、やめて!」
僕の手は強い力で掴まれた。
そこには泣きそうな顔で僕を見る希空さんがいた。
「希空さん。」
どうして彼女がいるのか。希空さんは5分前の電車で帰ったはずなのに。
状況が飲み込めない僕。拳にこもった暴力的な感情は抜け、彼女のうるんだ瞳に吸い込まれる。
僕はしぶしぶ彼女の手に引かれて歩く。足早に駅を去る希空さん。
彼女の進む方向は駅とは正反対だった。
「どこへ行くの。」と僕は聞く。
「リク君の家だよ。」そう言って、希空さんは僕の手の甲を見る。
紅く滲んだ手は皮膚が爛れ、痛ましい状況になっている。
出血によって熱が帯びている。そこに、彼女の手の体温が伝わっていく。
僕は思わず、手を彼女から引っ込める。
「あ、ごめん。」
彼女は僕の反応を察したようで、少し身じろぎしてから向き直る。
「いや、そういう意味じゃなくて、父さんがびっくりするかもしれないから。」
僕はそう釈明する。なんでも、夜九時を回る時間に女の子を家に連れ出しているのを見られるのはよろしくないことだろう。
さすがに、うまい言い訳なんて思いつかなかった。
いや。事実、女の子を深夜に連れ回している僕は最低な奴なのだろう。
でも、正直に言ってしまうと、希空さんが来てくれて嬉しかった。
それからはまた沈黙が始まってしまう。
僕は、「近くに公園があるから、そこなら。」と言って、電灯が灯る広場を指差した。
僕たちは、近くにある薬局に寄って絆創膏と消毒液、そして2本のコーラを買ってから、公園へと向かった。
「さあ、手だして。」希空さんは暗闇の中でスマホの電灯を僕の手に照らす。
僕の手を見た希空さんは出血した箇所をまじまじと見つめている。なんだか心がむず痒い。
「うわあ、ずいぶんやったね。痛そう。」そう言って、笑いかける。
そして、容赦なく消毒液を大量に噴射した。
僕は叫び声をあげそうになるも、寸でのところで必死にこらえる。
「まだまだだな。我慢が足りないよ。」何様だと言いたくなる台詞を吐く希空さん。
消毒液の噴霧と僕の苦悶。これがあと何回続くのか分からないほど、続いた。
「これでおしまい。」希空さんの達成感溢れる声。僕の苦悶が終わった。
そのあとは白い布が優しく僕の紅い手を包んでくれた。すべて希空さんがやってくれた。
希空さんがいなければ今頃僕は駅前にいたあの人達に殴りかかっていただろう。
彼女があの場で止めてくれたこと。その意味を僕は改めて実感する。
僕は今の彼女に言うべき言葉があると思った。すると、希空さんが先に言葉を紡ぐ。
「私はリク君に会いたかったから、もう一度ここに来たの。だから感謝とかは要らないよ。それに、この傷は私を思ってくれた証なんでしょ。ありがとう、リク君。」
包帯の巻き具合を探りながら、彼女は俯いたまま答えた。
「ありがとう、希空さん。」
僕は端的に告げる。今の彼女に対してかけられる言葉の最大公約数がこの言葉だったから。
それから、彼女は再び駅の方へと歩き出す。僕は彼女の普段よりも短い歩幅に合わせて、ゆっくりと夜道を歩いた。
「リク君。私、こうして2人で歩いているとね、分かった気がするの。」
「何が分かったの?」僕がそう聞くと、希空さんは頭上にある星々を見上げながら言った。
「私は、リク君のことが好き。」
肌寒い風が僕の肌を突く。それでも僕は寒さなんて感じなかった。
心と頭には灼熱の炎が覆い尽くしたような気分だった。
希空さんの言った言葉があまりにも突飛だったからだ。
僕は希空さんと同じように夜空に浮かぶ星々を見た。
無数にある星はどれも輝きを放っていて、どれも僕の手には届かない。
彼女も同じだと思っていた。
完全無欠な人工知能だった彼女。
人間を目指して、突き進んだ彼女。全てが眩しくて、僕には届かない存在だと思っていた。
そんな彼女が僕のことを好きと言った。僕は思考を停止する。
「えっと、リク君はどうなのかな?」顔を覗き込むように僕を見る希空さん。
僕は意図して目を逸らす。こんな状況、どういう表情をすればいいのかも分からない。
すると、彼女は僕から少し離れたような気がした。数センチの距離が十センチになった。
僕は振り返る。
そして、後悔した。弱虫な僕の行動が、彼女を傷つけたのだと今更分かったのだ。
「ごめんね、急にこんなこと言われても困るよね。あはは、やっぱり人工知能が好きとかないよね。」
決まりの悪い笑みを浮かべながら、希空さんはぎこちない距離感で僕と2人で歩く。
ここで答えを出すべきだったのだろうか。
彼女が差し出した手を僕は掴む勇気がなかった。それに、僕は自分に自信を持てないから。
でも、このタイミングを逃したら、一生僕は僕を好きになれない気がした。
言葉を考えろ。
彼女に僕の率直な気持ちを伝えたい。伝えなければ。
僕は必死で心を震わせた。
「の、希空さん!」僕は声が裏返りそうになりながらも、彼女の名を呼んだ。
「は、はい!」希空さんは僕の大きな声にびっくりして、同じく裏返った声で返事をする。
目を丸くして僕を見る希空さん。彼女の吸い込まれそうな瞳を真っ直ぐ見ながら、僕は重い口を懸命に開いた。
「この文化祭が終わるときまで僕は今の関係でいたい。だから、それまで待っていてくれないかな。その時が来たら、僕は必ず答えを出すよ。」
それは希空さんの告白への答えになったのだろうか。自問自答する。
きっと、結論を先延ばしにしたにすぎないのだろう。でも、僕は今の僕ができるだけの、ありったけを伝えた。
希空さんの顔を見る。オレンジ色の暖色系の街灯に包まれた彼女はいつも通り、花のような笑顔を僕に向けた。
「ふふ、待ってるね。」
それから僕と希空さんは妙な空気感に包まれる。自然と頬が緩むのを抑える。
住宅街の暗闇を歩く2人、今の2人の歩く道を照らす光は月と星くらいなものだった。
ほんの少しだけど、小さな一歩を踏み出せた。そんな感覚が僕を満たす。
隣を歩く希空さんはどんな気持ちなんだろう。そんなことを想像する夜更かしの日。
しかし、浮遊するような僕ら2人だけの時間は突然に終わった。
「ねえ、今。ノアって言ったよね。」後ろからキーの高い少女の声がした。
僕は咄嗟に振り返ると、そこには黒のパーカーを着た女の子がいた。
背は希空さんよりも低く、体型もスリムに見える。
きっと、年齢は僕らと同じくらいだろう。
特徴的なのは、被さったパーカーフードの中に見える眼光だった。
少女のものとは思えないほどに、鋭利な刃物を向けるような目。
それは少なくとも親しい人に対して向けるものではない。
僕は一眼で、この少女は何かがおかしいと思った。
だけど、少女は警戒する僕を見ても、構わず僕らに近づいていく。
「鈴音ちゃん。」掠れたような声で、誰かの名前を呟いたのは希空さんだった。
希空さんは目の前のフードを被った少女をそう呼んだ。
そして、どこか苦しそうな表情で彼女を見ていた。
「久しぶりだね。希空ちゃん。」フードの少女がニヤリと笑みを浮かべる。
「ねえ、隣の男の人は誰?もしかして彼氏とかできちゃったの?」
立て続けに、軽口を叩くように話し始めるフードの少女。
だけど、その言葉ひとつには一片の親愛も感じられなかった。
「彼は私の友達だよ。」希空さんは静かに答える。太陽のような覇気は見る影もない。
「へえ、おめでとう。あんなに可哀想な思いをしたんだもんね、報われて当然だよね。希空ちゃん、よかったね。」
棘のある言葉は続く。僕は鈴音と呼ばれた彼女から感じる名状し難い嫌悪感に寒気を感じた。
「鈴音ちゃん、ごめん。」希空さんは突然、鈴音に対して頭を下げた。
僕はその行動の意味がわからなかった。
希空さんは泣きそうな表情で、鈴音を見た。
そして何度も、希空さんはごめんと言った。
「ねえ、希空ちゃん。聞きたいんだけどさ、今の希空ちゃんは幸せ?」
鈴音は無表情と嘲笑を織り交ぜた表情で、頭を下げる希空さんを見下ろしている。
希空さんは何も答えずに、俯いたままだ。
「ねえ、教えてよ。私の幸せを奪っておいて、幸せになるってどんな気持ちなの?」
僕はもう耐えられなかった。
心ない言葉に痛めている希空さんを見ていることも、目の前の無神経な人間も、僕は全てが絶られなかった。
「鈴音さん。君が希空さんと何があったのかは知らなけどさ、そういう言い方はないと思うよ。」
僕が思いがけず強く放った言葉。鈴音は僕の方をぎょろっと睨む。
僕は彼女から放たれた異様な気迫に気押されないように、必死で唇を噛む。
「リク君、いいの。この子は何も悪くない。私がね、私が全部悪いの。」
そう言って、背中を震わせて顔を袖に埋める希空さん。
拳を握りしめる僕の両手は途端に、行き場を失う。
希空さんが自分を責めている。
こんなに酷い言われ方をしているのに。僕は納得できなかった。
すると、鈴音は僕と希空さんを一瞥して、合点が言ったように相槌を打った。
「そっか、そっか。希空ちゃん、この男の子に言ってないんだね。自分の秘密をさ。」
鈴音の突き刺すような目線が虚空を泳ぐ。
「やめて。」か細い声が漏れた。それが希空さんの声だと分かるまでに僕は時間を要した。
希空さんは次第に憔悴しているように感じた。
それは、僕の知らない希空さんの過去。希空さんが隠したい過去があるというのだろうか。
「鈴音さん、もうやめてくれ。」
僕はうずくまる希空さんの前に立つ。鈴音と希空さんを遮る形で立つ。
すると、鈴音は不気味な高笑いを浮かべながら、再び僕を蛇のような目で睨む。
「希空ちゃんはさ、高校2年生まで私と同じクラスだったの。私は学校で酷いいじめを受けていた。それはもう、死にたくなるほどに酷いやつよ。」
「希空ちゃんはね、そんな最悪なクラスの中で、私を助けるために生まれてきてくれた人工知能なんだよ。」
それは、希空さんと鈴音の間のこと、僕の知らない希空さんの話だった。
希空さんは当初、鈴音のクラスで起こっていた虐め問題を解消するために生まれたアンドロイドだった。
そして、希空さんはクラスに編入してから、虐めを受けていた鈴音に代わって、虐めの対象となった。
水をかけられる、物を奪われる、暴力を振われる。
そんなくだらない虐めを受ける日々が、希空さんの日常を埋め尽くしていた。
だけど、鈴音はこれにより、自分が虐めの標的となることを免れた。
状況が変わったのは、高校3年生になった時。
希空さんは鈴音とは違うクラスになった。
本来は鈴音の身代わりとして生まれたはずのアンドロイドであるのだから、それは自らの使命に反する行為だった。
そして、身代わりを失った鈴音は再びクラスで虐めを受けるようになった。
「希空ちゃんは人工知能なんだよ。人間とは違う。人工知能には人間から与えられたお仕事がある。だよね、希空ちゃん。」
暗闇の中、鈴音は金切声を上げるように、叫んだ。
鈴音がこれまでにどんな境遇を歩んだのか、僕は想像できなかった。
自分が平穏に生きるために希空さんが必要だった。
そして、希空さんは突然自分の前から姿を消した。再び、彼女はいじめに苦しんだ。
そこに失意や憤りがあったのかもしれない。
僕が希空さんを取ったようで、許せない気持ちになるのかもしれない。
だけど、それは鈴音が希空さんを自分のための道具としか見ていないことの何よりの証左だ。
僕は負けたくないと思った。
希空さんと正面から向き合わず、彼女をただの道具として扱った鈴音を僕は認めるわけには行かない。
「希空ちゃん、教えてってば。人の幸せを奪っておいて、今がそんなに楽しいの?」
無慈悲で冷徹な表情で僕を見下す鈴音の態度は揺るがない。
震える声を振り絞って、希空さんは鈴音を見据えた。
そして、叫ぶように言った。
「高校3年の春、私は鈴音ちゃんと同じクラスになることを拒んだ。全ては私自身の意思。だから、鈴音ちゃんが言うこと、全部正しいの。私が何もかも投げ出したんだから。」
鼻水を啜りながら、泣きじゃくる希空さん。
「だからさ、希空ちゃんは人工知能なんだってば。人間じゃないの!希空ちゃんは一生、私のために動く道具なんだよ!」
弱々しく啜り泣く希空さん。そして、追い討ちをかける鈴音。
誰も幸せにならない、感情のぶつけ合いがそこにはあった。
痺れを切らした僕は鈴音さんの目の前に立った。
そして、僕は力を込めて、彼女の左頬に平手打ちをした。
乾いた破裂音がした。
同時に、鈴音は頬を押さえながら、呆然と立っている。
「え、何これ?」鈴音は目を丸くして僕を睨む。
「もう頭を冷やせよ!希空さんは君の道具じゃないんだ!彼女は僕らと何も変わらない。傷つく心を持った人なんだよ。」
鈴音は項垂れ、手足をだらんとさせている。まるでミイラのようにおぼつかない足取りだ。
「ははは。そうだよね、もう私の知っている希空ちゃんじゃなくなってるんだ。ちゃんと心を持って、泣いたり笑ったり、恋をしたりそんなことができる女の子になったんだね。希空ちゃんは。」
鈴音はそう言うと、懐の中へと手を埋めた。
「あたしには出来なかった事だよ。人間のあたしが出来なくて、どうしてロボットの希空ちゃんに出来るんだろうね。」
そして、鈴音が徐に取り出したのは月光の下で不気味に光るナイフだった。
「じゃあさ、希空ちゃんの大好きなリク君が死んじゃったら、どうなるのかな。人工知能でもちゃんと悲しむのかな。」
その刹那、ナイフを持った鈴音は僕に向かって突き進む。
僕と彼女との距離はもう3mにも満たない。
避けることも無理だと悟った時にはすでに、僕のワイシャツの繊維に刃先が触れている。
僕はここで死ぬのだろう。そう思った。
突然のことで何も考えられないままだ。
どれだけの後悔を残したまま死ぬのかさえも、分からない。
不幸はいつだって突然やってくるものだ。
「死にたくなければ、希空ちゃんに近づくな。そう警告したのに、君が従わないからだよ!」
虚空を裂くように、鈴音が僕の前に躍り出る。
咄嗟に聞き取った言葉、そうかあの手紙は君だったのか。
その時、僕の身体が強い力で飛ばされる。
僕が倒れるまでのわずかな間隙。かすかに見た光景。
そこには、僕を見て優しく笑う希空さんがいた。
♦︎
強い衝撃で頭を打った。
意識が朦朧とする中を、僕は手探りで歩く。
視界が次第に回復していく。
僕は目を擦って、すぐに希空さんを確認したかった。
彼女が無事であることを確認したかった。
「はあ、どういうことよ。これじゃ、私が馬鹿みたいじゃん。」
それはさっきまで聞いた鋭い声。鈴音の声だ。
駆ける足音が遠ざかっていく。同時に、鈴音の声も聞こえなくなっていった。
僕は必死で周りの状況を探る。
アスファルトに頭を打った衝撃で僕の意識はまだ朦朧としている。
「リ……ク、へいき?」
霞がかかった感覚の中で、透き通るような声が聞こえた。
紛れもなく、希空さんの声だ。
僕は声のする方へと、匍匐前進するように進む。
そこには、暖かい彼女の身体の感触があった。
視界は次第に戻っていく。
僕は、目の前の光景を見て、目を疑った。
全てが嘘であってほしいと願った。
「希空さん!希空さん!」必死に呼びかける声。
希空さんの身体はピクリとも動かなくなってしまった。
それは紛れもなく、さっきまで僕と会話をしていた希空さんだと言うのに。
希空さんの腹部には、銀色のナイフが刺さり、今も彼女の身体の裂け目から夥しい量の赤色の体液が流れ出ている。
「はあ、私って本当に…ついてない。」
倒れ込んだ希空さんは薄い意識の中で、そう言って軽く笑う。
「馬鹿!しゃべらないで。今すぐ助けを呼ぶから!」
僕は気が動転した。この光景全てが真夜中の悪夢であってほしいと強く願った。
それでも、彼女の身体は次第に重くなっていく。流れ出る彼女の体液は赤い絨毯を成していく。
全ての感覚が僕に現実であることを告げている。
僕が携帯電話を操作していると、彼女の手が重なった。
「私はね…。リク君と…お喋りを…してたいな。」
息も絶え絶えになる彼女を見て、僕は何も考えることができなかった。
「希空さん。大丈夫、大丈夫だから。」僕は彼女の手を必死で握る。
希空さんの身体は冷たくなっていく。ゆっくりだけど確実に体温が無へと向かう希空さんを見て、僕は本当に怖くなった。
やっと分かり合えたと思った。僕の背中を押してくれた彼女に僕はもっと近づきたいと思った。
なのに、どうしてこんなにも運命というものは無慈悲なんだろう。
目を閉じる希空さん。
僕は誰かに助けを求めるために、叫ぼうとする。
だけど恐怖のあまり、声を出すこともできなくなっていた。
身体も言うことを聞かなくなっていくのを感じた。
僕はもう何もできない。その無力感だけが僕の体を満たした。
項垂れる希空さんを見ているだけ、手も足も重くて、寒くて動かない。
これで何もかもが終わる。突然の悪意で僕と希空さんの関係は終わるのか。
そうか、人生ってこんなものだったよな。
頭に錨を乗せられたように、重くなる。
そして、僕はもう何もかも考えることができなくなってきた。
♦︎
目を覚ませば、そこは白い天井だった。
僕はいつもよりも重い身体を揺り動かして、辺りを見回す。
消毒液とオイルが混ざった匂いのする白い部屋。
学校の保健室のようであるけれど、そこには普段見ることのない大きなコンピューターや無数のディスプレイが置かれている。
「起きたか、リク。」
聞いたことのある声がした。僕の視線の先には眼鏡をかけた白衣を着た男性が僕を見下ろして立っている。
僕は瞼を擦りながら、部屋の明かりの順応しつつある眼で、その人を見る。
「父さん、どうして。」咄嗟に声が出た。
この見慣れない空間には、僕の父さんがいたのだ。
「希空さんは、どこにいるの。」僕は弱々しい声で彼女の名前を呼ぶ。
すると、父さんは含みのある表情を浮かべながら、僕に手を差し出す。
「立てるか。」僕は父さんの手を掴まずに、ベッドの手すりを使って体を起こした。
父さんは僕を一瞥しては振り返り、1人で歩いていく。僕は父さんの後を追う。
長い廊下を僕は進んだ。
白くて、埃ひとつない廊下を進むと、父さんはさらに奥の部屋へ入る。
部屋の中には、大きな窓があった。他の部屋と繋がった窓。
父さんは窓べに佇んで、その先にあるものを見つめている。
「リク。あそこにいるのが、お前が希空と呼んでいる人工知能だ。」
僕はその言葉を聞くと、途端に窓へと近づいた。希空さんに会えると信じて。
だけど、僕が見た光景は想像を絶するものだった。
窓の向こうには、大きなベッドがあってそこには希空さんが横たわっていた。
目を閉じている希空さんは、身体中に数10本、いや100本くらいのケーブルが繋がれていた。
まるで、配線がぐちゃぐちゃになってしまったデスクトップ型コンピューターみたいに、彼女の身体は非生物的な機械として、ここにあるように思えてしまったのだ。
「希空さん、希空さん。」僕はまた彼女の名前を弱々しい声で囁く。この窓を壊せば、希空さんの元へと行ける。
また、希空さんに会える。
僕は、窓を小刻みに叩く。だけど、それ以上のことはできなかった。
しようと思わなかった。
「自分にはできることはない。気づいたんだな、リク。」
僕の図星を突くように、隣で父さんがそう言った。
「その通りだよ、リク。彼女はもう目を覚ますことはない。もう死んだも同然なんだ。」
父さんは淡々と告げた。僕にとって、それは何よりも残酷な事実だった。
希空さんは、昨夜受けた襲撃によって、身体が負傷した。
だけど、彼女が目を覚さない理由はそれだけではなかった。
あくまで、希空さんの身体は作り物。損傷した部品は交換できる。
それでも、彼女の身体のどこかに隠された心だけは、もうどこかに消えてしまった。
今の彼女は心のない抜け殻であって、仮死状態に近いものなのだと言う。
「なら、せめて。彼女の側に居させてよ。」僕は喉を振り絞って、叫ぶように言った。
「無理だよ、リク。彼女は近々処分されることが決まった。行動履歴を走査したところ、彼女のデータリンクに重大な欠陥が見つかった、管理者に偽の情報を流して、彼女は自らの使命を放棄していたのが判明した。その意味がお前に分かるか、リク。」
鋭利な目線で僕を凝視する父さん。
僕は強がるように拳を握り締める。
僕と一緒にいたこと。
彼女が普通の人間になるべく行動したこと。
全ては、彼女の人工知能としての使命に反する行為だった。
彼女が生きた軌跡そのものが、彼女が死ぬ理由として十分だったのだ。
こんなこと、馬鹿げている。
「虐め問題が横行するクラスで、虐めの身代わりになる。そんな馬鹿げた使命のために、希空さんは生まれたんだ。でも、そんなのってないだろ。希空さんの傷ついた感情は一体、誰が庇ってくれたんだよ。」
「理由が何であれ、人工知能にとって使命を逸脱する行為は重罪だ。だから、彼女は処分される。これは決定事項だ。」
僕は言いようのない怒りが込み上がってきた。
無力であることは自覚している。人工知能の彼女に対して、平凡な僕が何かできるわけもない。
それでも、僕が彼女と過ごした日々は本物だった。彼女が僕に向けた笑顔は本物だった。
リク君、眠り姫になった私を見て、見惚れてたんでしょ。
希空さんは目を覚まし、僕をにやけ顔で見つめながら、そんなことを言ってくるのではないか。
そんな気さえした。
いや、絶対そうだ。希空さんはこんなところで、死んだりなんかしない。まだ、したいことがたくさんあるだろ。
希空さん、目を覚ましてよ!希空さん!
僕は窓に張り付きながら、声にならない声を叫び続ける。だけど、何も変わることはなかった。
彼女が眠り姫だったとしても、僕は彼女に触れることさえできない。
だから、僕は彼女の元を去った。
3時限目が終わり、昼休みに入った。
僕は希空さんが眠る研究所から出ていき、そのままの足取りで登校する。
教室を開けた途端、周りからは心配や不安の目線を向けられた。
昨夜の襲撃事件は町内では大きなニュースになっていた。
希空さんを刺した鈴音さんは逃走したところを警察に事情聴取され、逮捕されたらしい。
僕が研究室にいた間に、緊急で校内説明会が行われていたようだ。
僕が教室に入ると、重苦しい空気が立ち込めた。
何人かの生徒に心配の目を向けられたが、僕はそれら全てに不躾な対応をしてしまう。
僕はもう1人になりたかった。
希空さんを守れなかった僕。後悔しても後悔しきれない、斬鬼の念から早く逃げ出したいと思った。
今、僕はひとり机に突っ伏したまま、時間が過ぎるのをただ待った。
『うわあ。今日のお弁当、ハンバーグじゃん! ちょっと分けてよ。』
そう言って、僕の手製弁当をジーと見つめる希空さんはもういない。
『文化祭の作戦会議をするよ!はーやーくー。』
と言って、昼寝中の僕を強引にたたき起こす希空さんの姿はどこにもない。
久しぶりに1人で過ごす昼休みはとても長く感じられた。
肩に何かが触れた。コンコンと指で触られたような感触。
ふと、感じた感触。希空さんが僕の背中を突っついて笑う顔が脳裏をよぎった。
僕が振り返ると、そこに希空さんの姿はなかった。
クラス委員の横峰君が僕の隣に立っていた。
彼は怪訝な顔で僕に尋ねる。
「クラス企画、どうしようか?こんな状況だし、もうメイド喫茶は難しいかな。」
横峰君は、空白になった希空さんの席を見つめている。
それから、僕に視線を戻す。
視線が痛かった。目を背けたかった。
もう何も考えたくない。
早く、どっかに行ってくれよ。
僕は横峯君の刈り上げた頭髪をじっと見ていた。
ぼんやりした脳で、返答を考えているうちに時間は刻々と過ぎる。
抜け殻のようになった僕を見かねて、横峰君は言った。
「分かった。僕が生徒会に言っておくよ。メイド喫茶は中止だって。君も文化祭を考えている余裕はないだろうし。」
横峰君は僕が机に顔を伏せると、少し溜息を漏らしながら、「じゃあ、伝えてくるね。」と言って僕の席から去った。
僕は何も言わなかった。
僕の迷い、僕の沈黙によって、希空さんの夢を潰した。
僕と希空さんで描いた文化祭は無くなってしまった。
希空さんは文化祭のためにこの数週間を走り抜こうとした。
その先に何があるか分からない。何を得るかさえも。
それでも、僕は強い彼女を追いかけて、自分に自信を取り戻そうとしていたんだ。
僕らの文化祭はもう無くなった。
目指すべきものはもうない。
きっと、悔しくなると思った。屋上で泣き叫びたくなるくらい、悲しくなると思った。
でも、僕の感情は違かった。
小峰君の諦めに満ちた言葉。
中止という言葉を聞いた瞬間、僕は安堵してしまった。
そして、大きな肩の荷が下りたことに、安心している自分がいたのだ。
これが、本当の僕の気持ちなのだろうか。
そうであれば、僕は最低な人間だと思う。
仕方がなかった。
僕1人でできることなんて、本当は何もないのだ。
能力もない経験もない僕は、ただ強く生きる希空さんを見て、憧れていたのかもしれない。
それに乗っかる僕は、愚かにも自分にもそんな可能性があるのだと、錯覚していたのかもしれない。
でも、それは単なる幻想だったんだ。僕は何の成長もしていない、ただの無力な人畜無害だ。
昼休みの終わり間際、僕は用を足しに廊下を出る。複数人のクラスメイトとすれ違ったが、挨拶はない。
話をかけられることもない。勿論、僕からもだ。
誰もが気まずそうな顔で、僕の横を通り過ぎる。
廊下の前方に見知った人が2人見えた。隣り合って歩く生徒。
目の前から向かってくるのは、駿介と園田さんだった。
よく見ると、園田さんの目元は少し腫れていた。
2人に向かって僕は伝えた。クラス企画を廃止としたことを。
「お前が考えて出した結論なら、それで良いと思う。今はもう、文化祭どころじゃないしな。」
駿介は静かにそう答えた。拒絶はなかった。認めてくれた。
まあ、彼はいつだってそう言う奴だ。
僕が何かを迷うときは煩く口出しするくせに、僕が何かを決めた時には何も言わない。
静かに僕の言葉を受け止める。
対して、隣で呆然と僕を見る園田さんは何も言わなかった。
2人が通り過ぎていくのを待つ僕。
僕は肩にのしかかった重りが取れていくような気分になった。
プレッシャーとか重圧が僕の心を苦しめていたのだろう。ようやく解放されたのだ。
こんな日を僕はずっと待ち望んでいたのだろう。
平凡で無意味な日々が僕の古巣だ。
僕はやっと、いつも通りの平穏な生活に戻ることができる。
これでいいんだよ。これで。
振り返ると、園田さんは僕を見てこう言った。
「どうして、泣いてるの。リク君。」
気づいていなかった。
僕の頬には水滴がぽろぽろと落ちていた。
拭うと、その水滴にはほのかな暖かみがあって、塩辛い。
それは、紛れもなく、僕の涙だ。
鼻水を啜る音。ぐしゃぐしゃになる視界。
平凡な日常に戻るはずだった。僕が何食わぬ顔で、文化祭を諦める。
そして、明日からは希空さんを思いながらも、無個性な生徒としての日々を送る。
そうやって、全てがうまくいくはずだった。
悲しかったことも全部、なかったことにできるはずだった。
日常という真水で涙の塩を極限まで薄められれば、どんなに楽だったことだろうか。
「ああ、どうして僕は泣いているんだろうね。」
鼻声になった声で、園田さんに決まりの悪い笑みを浮かべる。
「希空ちゃんと過ごした日々を忘れられるわけない。リク君は楽しくなかった? もう全てを忘れても後悔はないの?」
園田さんは真剣な眼差しで僕を見ながら、囁いた。
隣にいる駿介は、僕が口を開く瞬間をじっと待っているように見えた。
僕が馬鹿だった。
希空さんの笑顔が、粘着性の強いものだって僕は最初から気づくべきだった。
僕が記憶のカーテンを振り払おうとするたびに、花の溢れる匂いがした。
長い黒髪が揺れた。揺れるスカートが僕の目を奪った。
太陽のような笑顔が僕の空っぽな脳を満たした。
希空さんと過ごした時間は無かった事になんてできない。できるわけないだろ。
そう言いたかった。
でも、僕らにはもう訪れることのない日々だとしたら、そんな日々を想起することは、きっと辛いことだと思う。
もう辛いのは嫌だと思った。
母さんを失った時の僕は心を失くしたような気分だった。
また同じ悲しみを味わうなんて、嫌なんだ。
「私はね、凄く悔しいよ。」
僕は気がついた。頬に光る涙を浮かべていたのは、僕だけじゃなかった。
袖口で瞼を拭きながら、園田さんは僕に目線を向ける。
「こんなのってないよ! 希空ちゃんは何も悪いことなんかしてない! 私たちはただ、文化祭を楽しみたかっただけだったのに、どうして踏み潰されなくちゃいけないわけ? どうして私達が泣かなきゃいけないのよ!」
園田さんが震える声で言葉を紡ぐ。
園田さんの無念は痛いほどに感じた。
でも、僕はその思いを晴らすための力も自信もない。
だから、何も言うことができなかった。
「もうこの話は終わりにする。それがリク君の願いなら、私はそうする。」
落胆と消沈、そして侮蔑を交えた言葉だった。
一発、僕の顔を殴って欲しかった。1割でも彼女の悔恨の念が晴れるなら、安い犠牲だ。
園田さんは肩を震わせながらも、ひとり教室に戻った。
最後に、園田さんは僕の方を振り返ると、悲しみを誤魔化すような態度で、一言を添えた。
「ちゃんと忘れられたらいいね、お互い。」
♦︎
今日の授業はなにひとつ耳に入らなかった。
僕は先生が書いた黒板をよそに、目の前にある空席をただ見つめていた。
時間は無為に過ぎていき、気付いたら放課後になった。
本来であれば、放課後でクラス企画の準備や検討会を行うはずだった時間。
クラス企画はメイド喫茶から休憩所へと変更になった。
文化祭が1週間後に控える中、ほかのクラス企画を準備することは事実上不可能であると判断したためだ。
休憩所であれば、椅子と机の用意さえあれば十分だ。
だから、文化祭ですることなんて僕らにはなかった。
僕は夕日の狭間に残された空虚な時間の中で教室に佇む僕。
誰かと一緒に帰るのが怖かった。
誰かと顔を合わせるのが怖かった。
だから、僕は1人で教室にいる。
すると、担任の先生が慌てるように教室に駆け込んだ。先生は僕を見ては表情を硬くする。
「ついさっき、希空の退校手続きが決まった。」先生が告げた言葉。
僕は胸のうちが軋むのを感じた。予想はしていたけど、僕らの別れが如実に事実となって表層化していくのは堪えた。
「そうですか。」
先生は肩を落とす僕を見て、目を細める。
「それでな、辛いところ悪いんだが、希空の机に入った荷物を片付けておいてくれないか。」
先生はそう言って段ボール箱を僕に差し出す。
先生はどうやら昨夜の事件の件で緊急保護者会議に呼ばれているそうで、作業ができないらしい。
同じ、実行委員だから大丈夫だろう、という理由により先生は僕を指名した。
僕は段ボール箱を受け取って、小走りに去って行く先生を見る。
断るタイミングを失ってしまった。
僕はひとり溜息をついて、目の前の机と椅子に向き直った。
夕日に照らされて黄金に輝く。誰もいない教室に僕はひとりだ。
何てことはないはずだ。
希空さんの机に押し込まれている教材とかノートとかを回収して、箱詰めしたら終了。
僕は作業を開始した。
おぼつかない手つきで、机の引き出しに詰め込まれた教科書を取り出していく。
人工知能の女の子。
完璧な高校生。
そんな先入観は多少なりとも持っていた。
だから、机に押し込まれていた教科書がシワになっていたり、ぐちゃぐちゃに押し込まれているレジュメ類を見て、僕は微笑した。
結構ズボラなところもあったんだねと、僕は心の中で思う。
隣で「うるさい」と言って、僕の肩を叩く希空さんの姿を想像してしまった。
今更、希空さんの新たな一面を知ってどうするんだ。
僕はまた1つ、2つと新しい彼女を知ってしまうようで、怖くなった。
早く仕事を終わらせよう。
そう思って、やや乱暴な手つきで机の中身を取り出していく。
そのとき、一冊のノートが僕の手の平から転がり落ちる。
それを手に取った。小さな手帳だった。
手帳には、「私の日記」とボールペンで書いた文字。
僕は希空さんが手帳を書いている光景を見た覚えはなかった。
僕の心からわき起こった小さな興味。
同時に、こんなものを見てどうすると心の声が僕を殺す。
僕は反射的に、手帳を段ボール箱に押し込んだ。
だけど、押し込んだ先の手は止まってしまった。
これを捨ててしまったら、僕の中の希空さんが消えてしまうような気がした。
希空さんがこの世界に残した痕跡が、失くなってしまうのが悔しくなった。
希空さんを忘れたいと願う僕が、何と虫のいいことを考えるものだ。
きっとこの手帳を持ち出してしまえば、僕はまた希空さんのことを思い出す。
そして、彼女を忘れられなくなってしまうかもしれない。
自分で自分を嘲笑する。僕は歪で、矛盾だらけで、そのくせ弱虫のどうしようもない奴だ。
♦︎
帰り道。
僕のポケットには不自然な温もりをずっと感じていた。ポケットから、それを手に取る。
オレンジ色の皮表紙であしらわれた手帳。
僕は自分の行動の浅慮さを嘆く。
それでも、知りたいと思ってしまった、僕の知らない希空さんを。
公園のベンチに座って、僕はその手帳を手に取る。
思えば、この公園も彼女と一緒に過ごした場所だ。
屋上にいるのがばれて、先生に追いかけられたときに逃げ込んだ場所。
懐かしさと甘い香りが広がった、そんな気がした。
僕は手帳を捲った。
そこには、一日一日ごとに彼女の肉筆で出来事を書いていた。
でも、その書き始めは2学期からだ。つまり、僕と彼女が出会った日。彼女がビッグデータを壊した日だ。
そして、日記からは1枚の折り込まれた紙片が落ちた。
僕はその紙片を拾い上げる。胸がざわついた。身体中の神経が逆立つように喚いた。
【リク君へ】
紙片の上欄にはそのように記されていた。希空さんの肉筆で。
「どうして、こんなもの。」
それは希空さんが僕に宛てた手紙のようであった。
なぜ、彼女は手紙にしたためたのだろう。
お喋りな彼女がどうして、手紙を書く必要があるのかと思う。
同時に、僕は心臓が締まるように、苦しくなる。苦しさを堪えて、唇を噛みながら僕は紙片を広げる。
♦︎
リク君がもし、この手紙を読んでいるのであれば、私はもう死んでしまっていると思います。
私がいなくなったとき、私は今まで隠してきた思いを打ち明けようと思っていました。
これはそのための手紙です。
高校1年の頃、私には心がありませんでした。
どこかに捨ててきてしまいました。
いじめの身代わりとして、誰かからいじめられるために産まれた私でした。
誰かの操り人形でしかない私。
笑いたい時に笑えない私。
泣きたいときに泣けない私。
私は全ての私が嫌いでした。
そして、道具のように扱われる日々が辛いだけなら、心に意味は無いと思いました。
私はいつからか、心をどこかに忘れてしまいました。
何も感じることの無いロボットになっていたのです。
そんなとき、高校最初の文化祭。
冷たい雨が降る中、私はリク君と出会いました。
野ざらしの模擬店の片付けをしている私に対して、リク君は傘を差し出してくれました。
リク君は私に傘を渡すと、そのまま文化祭の喧騒を抜けて帰ろうとしました。
文化祭も大詰めの時間なのに、どうして帰るのだろうと思いました。
理由を聞くと、リク君は自分には何かを楽しむ資格がないと答えました。
正直言って、贅沢なことを考える人だと思いました。
心があったら物凄く腹を立てていたと思います。
楽しめる環境があるのに楽しまないリク君がどこか寂しく思いましたし、悔しくも思いました。
私の気も知らないで、自分勝手なことを言わないで!
ニヒルな自分に酔ってるクセに!
厨二病こじらせてるんでしょ、どうせ。
私は心の中で、そんなリク君に悪口を沢山言ってやったのです。
結構、性格悪いでしょ?私。
でも、私は知りたくなったのです。リク君という男の子の人生を。
だから、私は人工知能の集合データを使ってリク君のことを調べてみました。
彼が厨二病をこじらせた理由が知りたかったのです。
昔のリク君を写した監視カメラログを見ました。
それは、彼がまだ中学生だった頃、お母さんの葬式場にて立つ姿でした。
突然の事故でした。周りの人間たちが泣き崩れる中、リク君はただひとり、涙を見せませんでした。
リク君はただお母さんの棺を見つめ、拳を強く握っていました。
私はリク君を侮っていました。
悲しみを堪えて、前を向いている。
辛い現実、悲惨な運命が起きても決して現実から目を逸らさず、逃げ出さない。
そんな強さがリク君にはありました。
辛くなって、辛いことから逃げたくて、心を捨てた私とは大違いです。
私はリク君のことが凄く大嫌いになりました。リク君のことを考えると、弱い自分が頭をよぎるからです。
傘をくれたあの日の感触がずっと忘れられなかった。早く忘れたいと思ったのに。
冷たい雨の中で感じた彼の温かさが何よりも憎かった。
だから、私はリク君とはもう会いたくないと思いました。
それなのに、私はまた彼の過去を見てしまいました。
どうしてでしょうね。
別にリク君に気があるわけでもなかった。
文化祭で彼と出会った時の彼は、私と目を合わせてくれなかった。
それだけが何故か心残りだったのかな。
私はまたデータの海に潜ります。
お葬式を終えた中学時代のリク君。
自分の部屋で1人になった彼は、顔を布団に押し付け、すすり泣いていました。
まるで赤ん坊のように泣いていたのです。
驚きました。私は勘違いをしていました。
悲しくて、悔しくて、やり切れない中で自分を許すことも出来なくて。
前を向くことなんてできないし、早く逃げてしまいたい。
そんなぐちゃぐちゃの感情の中で、彼は全てを吐き出すように泣いていたのです。
それでも、人前で泣かなかったのは、周りに心配をかけさせたくなかったからなのかな。
リク君は強い人ではなくて、優しい人なんだと分かりました。
彼は一体どれだけの悲しみを背負っているのだろう。
心を失った私には想像することも、共有することもできませんでした。
それでも、私は1人ですすり泣く彼を見ながら、彼の隣にいたいと思ってしまったのです。
リク君とは1回しか話したことがないのに、私って都合がいいよね。
でもね、君が辛かった頃の私に優しくするから悪いんだよ。
君が優しい人だから、私は守りたいと思ってしまったんだよ。
君が私にとっての憧れになってしまったから、私はもう今までの私じゃいられなくなったんだよ。
リク君の馬鹿。
私はそれから、長い長い荒野を走り出しました。
心の持たない私が、再び心を取り戻すための旅が始まったのです。
大きな転機は高校3年のクラス替えでした。
私はここでリク君と同じクラスになる事が出来ました!
嘘でしょ、こんなことってある?
リク君になんて話しかけようかな。
私の秘密を知ったら、どんな反応をするかな。
それでも、リク君に話しかけることは出来ませんでした。
私に宿る人工知能としてのビッグデータが私が心を持つことを許しませんでした。
私はいつだってみんなの前では無表情・無機質に振る舞うしかありませんでした。
次に私はビッグデータを取り除こうと頑張りました。
人工知能にとって命とも言える物でした。
だけど、私には命よりも大事なモノを見つけた。だから、抗い続けました。
私は心が欲しかった。
リク君が悲しみに心を痛めた時、傍にいてあげたかった。
一緒に泣いてあげたかった。
そして、私は再びリク君と2人きりになりました。
私が勇気を出して人工知能を辞めた日。
私とリク君は晴れて友達になったのです。
リク君と久しぶりに話して、気づいたことがあります。
リク君は意気地無し。
リク君は口下手で不器用。
リク君は意地っ張り。
リク君は根暗で影が薄い。
そして、リク君は変わらず優しかった。
屋上に1人逃げ込んだ私を追いかけてくれたよね。
実はあのとき、私泣いてたんだ。
自分のした事が恐くなってしまったの。
間違ったことをしてしまったんじゃないかって疑っていたの。
鈴音ちゃんのことを考えると、どうしてもやりきれない思いになった。
私を勇気づけてくれて、ありがとうリク君。
上野デート、一緒に回れて楽しかったよ。
私のピアノどうだったかな?
下手だったよね。お母さんにはきっと敵わないよね。
それでも私はね。リク君に聴かせてあげたかったんだ。
人間は勇気を出せば、何でもできるんだってところを君に見せたかった。
過去に追い詰められてしまったリク君に、未来を生きていいんだよって伝えたかった。
私がメイド服を着たときに、可愛いってひとことも言ってくれなかったのは、今でも根に持ってるからね。
一緒に、文化祭実行委員をやってくれたこと、凄く感謝してます。
企画書の作成を頑張るリク君の背中がとても頼もしく見えました。
リク君は私と一緒にいて楽しかった?疲れてないかな。
(疲れたに決まっている。僕を散々連れ回してくれたじゃないか。)
今疲れたって言ったね。酷いなぁもう(笑)
(でも、勿論楽しかった。こんな気持ちになるのは生まれて初めてだった。)
出来ることなら、一緒に笑いながら過ごしたかった。
悲しいことがあった時は一緒に泣きたかった。
でも、結局は笑う回数の方が多くて、そんな楽しい日常を、リク君と一緒にもっともっと過ごしたかったな。
謝らなきゃいけないことも沢山あります。
強引に君の腕を引っ張ってごめんね。
お弁当のハンバーグ、勝手に食べちゃってごめんね。
企画書の作成、全部任せちゃってごめんね。
メロンソーダの飲み方、汚くてごめんね。
突然、寂しい思いをさせてごめんね。
なんだか、謝ることばかりでごめんね。
私の命はそう長くないと思います。
私は使命を捨てた人工知能ですから、不良品としていつかは棄てられます。
だけど、今という時間をリク君と過ごした記憶は、私にとっての人生最高の宝物です。
だから、お別れは怖くありません。
きっと、リク君にはこれからも新しい出会いが沢山あります。
きっと、今まで我慢してきた分の楽しいことが君を待ってます。
だから、たくさんの経験をして、たくさんのモノを見て、たくさんの人とお話をして、リク君はそんな人生を歩んでください。
不安になることなんてないからね。私がいなくてもリク君は大丈夫。
私が保障します。
(勝手に保障するなよ。大丈夫なわけないじゃないか。自分勝手なことばかり、言わないでよ。希空さん。)
だからほら、こんなところで泣いたら駄目だよ。
格好悪い。
男らしくない。
意気地無し。
泣き止まないんじゃ、嫌いになっちゃうよ?
分からずやのリク君には特別に言うよ。
私はね、リク君が好きなんだよ。
大好き!
大好きなんだよ!
だからさ、もう私の事なんて忘れてね。私のために泣くのはもうやめてね。
どうしよう、私もすごく泣きそうになってきたので手紙はここで終わりにします。
長々とごめんね。読んでくれてありがとう。
ちゃんとご飯食べてね。夜更かしはしないでね。
めぐみんにもありがとうって伝えておいてね。
それとどうか、ちゃんと幸せになってね。
リク君。
♦︎
心を持つことが許されなかった人工知能。ルールの外側に出るということは、ひいては自分自身の存在否定にもつながる。
それでも、彼女は自ら修羅を進んだ。僕みたいな凡人のために。
希空さんはやっぱり馬鹿だと思う。そして、彼女の想いに応えることができなかった僕は何倍も大馬鹿だ。
「希空さん。」
今の僕を希空さんが見れば、女の名前を繰り返し呼ぶなんて女々しいとか言って笑うのだろう。
笑ってくれても構わない。君と一緒にいれるのなら、僕はなんと言われても構わない。
この胸の熱さは。
この胸の高鳴りは。
この胸の痛みは。
それは初めての感情で、死にたくなる程に僕の心の全てを奪った。
「僕は希空さん、君に恋をしていたんだね。」
遅すぎた自覚、すべてが手遅れだ。宙ぶらりんの想いは今も暖かい空気に揺られたまま。
それでも僕はこの気持ちを否定したくはなかった。
絶対に手放したくなかった。忘れることなんてありえない。
辛くて苦しいこの感情こそが、僕の本物なのだから。
僕は大粒の感情をひとつひとつ紙片に落としていく。行き場を無くした水滴は紙片を濃く染め上げる。
僕は自分の足下を見る。
頑丈なタイルで固められた何の変哲も無い床面だ。
崩れることもなく、傾くこともない。
安全な道しか進まなかった僕が、希空さんに対して何かしてあげられることがあるだろうか。
僕は強くなりたい。強くなって、希空さんに胸を張ってありがとうと言える人間になりたい。
前に進める人間になりたい
僕は僕自身が誇れる自分になりたい。希空さんがそうやってみせたように。
だから、僕は思った。
心に小さい光が灯される。
些細な光ではあるけれど、それは確実に僕の進むべきところを教えてくれる。
僕は、希空さんの思い描いた「夢《文化祭》」を実現したい。
♦︎
翌朝。HRが終わり、僕はクラスの喧噪に紛れながら、立ち向かう機会をうかがっている。
僕は椅子から徐に立ち上がると、教壇に上がった。
沸き上がってくる吐き気を抑えながら、僕は口火を切る。
「文化祭では、メイド喫茶をしたいと思います!」
僕が恐怖を押し殺して強く放った言葉。僕の戦いが始まった。
「何言ってんの?あんた。」一軍女子達が僕に氷の表情を向ける。
僕は蛇に睨まれた蛙のように、硬直しそうになる。
ここで負けちゃだめだ。心に言い聞かせながら僕は話し始める。
「高校生最後の文化祭が椅子と机を並べただけの休憩所なんて味気ない。そう思わない?」
「思わねえよ。なに文化祭なんかに本気になってんだよ。」一軍女子から容赦ない言葉の応酬が僕を殴りつける。
「あたしはさ、来週は地方大会控えてるし、これからは受験もあるの。分かるよね?」
僕を否定する言葉が突き刺さる。どうやら付けいる隙は無いようだ。
だけど、今日の僕はここで諦めるわけにはいかなかった。必死で言葉を紡いでいく。
「それでも、このクラスで何か楽しいことをしたっていう思い出はあってもいいと思うんだ。僕たちは卒業したら別々の道を歩む。きっと、もう会うこともない人だっているかもしれない。」
「だからさ、そんなバラバラだった僕達が同じ場所にいることは奇跡で、この奇跡の中で楽しいことをするのが僕たちが今しかできない特権なんじゃないのかな。」
今すぐ逃げたいと思った。
ただそこに立っているだけでも辛かった。
でも、希空さんはきっと僕以上の痛みと覚悟で、この場所に立っていた。
否定されても、そこに立ち続けた。
「いい加減にしてよ!!」
机を強く叩く音がした。同時に、園田さんの言葉は突如として、教室に響き渡った。
今の彼女は顔が紅潮しており、剥き出しの感情を露わにしている。
一眼で見て分かった。園田さんは激怒している。
「もうやめるって決めたよね! どうして今更蒸し返すの。もう遅いんだよ。」
槍のように鋭利な言葉が僕の表皮を無惨に突き破った。
「自分がどれだけ馬鹿なこと言ってるって分かってる? リク君の言動でいったいどれくらいの人が迷惑するか想像できる?」
「もういいじゃん。もう十分頑張ったじゃん。これ以上、無理しても辛いだけだよ。」
園田さんは鼻水をすすりながら話を続ける。
「私達に力なんてない。私達が頑張っても、希空ちゃんが帰ってくることはないんだよ。」
力なく放たれたその言葉。
園田さんはがくっと肩を落として座り込む。周りの女子生徒が彼女の肩を抱える。
園田さんは興奮のあまり過呼吸になっていた。
保健室に連れていかなきゃ。
僕はそう思ったけど、足は硬直して動かなかった。
僕を除けるように、誰かの手が伸びた。
途端に飛び出してきたのは駿介だった。
駿介は身体がぐったりと落ちた園田さんを抱きかかえると、すぐさま廊下へと飛び出していった。
一目散に大切な人のところへ駆け寄るアイツはやっぱり格好良かった。
園田さんと駿介が不在になった教室。
皆から集まる視線。その視線の意味は分かる。退場を促す視線だ。
だから、僕は教壇を降りた。
同時に、先生が教室に入ってくる。
何事も無かったかのように整然とする教室。僕の戦いはあえなく終わった。
僕は何もつかみ取ることはできずに、大事な友達さえも傷つけてしまった。
本当に最低な奴だよ、ほんと。
それからはいつも通り始まった日常。
ただ、希空さんがいないだけで、それ以外は特に変わらない日常が僕の前を無慈悲に過ぎていく。
昼休み、5限、HR。文化祭の話題が挙がることは無かった。
皆があえて触れていないのか。それとも、関心が全くないのだろうか。僕は分からない。
【見守っているよ。リク君。】
ふと、そんな声が僕の脳内を反芻した。彼女からくれた言葉、そして笑顔。温もり。
それら全てが僕に諦めることを許さない。
せめて、彼女が期待した僕をこの文化祭までは演じていたいと思った。
彼女から貰ったものは、小さいものじゃない。
僕が彼女に向けた思いはちょっとした風で吹き飛ぶようなチンケなものじゃない。
誰もいなくなった放課後、僕は人知れず教室に残る。
誰に認めるもらえる保障もなかった。
ここから始めよう。
誰に認めてもらえないとしても、まずは自分から始めるんだ。
自分だけは自分を認めたっていいじゃないか。
僕はノートを机に広げる。
それは希空さんが置いていった企画書のメモ書き。
メイド服の寸法やデザイン画、企画運営の諸々を記載されたものだ。
僕はそのノートの空白に図面を書く。
手始めに、メイド喫茶の内装デザインを考えてみる。
少ない脳みそを極限まで絞り出して考える。
そして、時には黒板を使ってダイナミックな構想図を描く。
それでも腑に落ちず、消す。
また書く。
そして、消す。
その繰り返しで、時間は瞬間的に溶けていった。
気付けば、夜19時を回っていた。守衛が僕の教室にやって来ては、帰るよう促される。
僕は守衛に先導されながら、校門を出た。
タイムリミットはあと1週間。
希空さんが残したクラス企画を僕はやり遂げる。そう決めた。
学校における年に1回のお祭りだ。折角なら、とびっきりに楽しいことをやりたい。
希空さんはそう言って、僕の目の前を駆けていく。僕には追いつけない速さで、廊下を駆け出していく。
数日後。
完成させた内装デザインをもとに、パステルカラーのフェルトを使って装飾品を作った。
慣れない工作作業で何度もカッターで指を切る。
紅く滲んだ手は紙や布と擦れる度に、激痛が走った。
歯を食いしばりながら、僕は作業を続けた。
そもそも、上手くいく可能性なんてゼロに等しかった。
僕1人が続けても意味はない。
誰かが僕の声に賛同してくれることがなければ、僕の準備はすべて無駄となる。
僕は泣きそうになりながらも、手を止めない。
気づけば、文化祭まであと2日。
僕は連日、1人で夜通しの準備作業を続けていた。
連続した寝不足と疲れがここに来て祟ったのだろうか。
僕の脇に挟んだ体温計は38.3という脅威の数値をたたき出している。
茹で上がったように熱い身体を揺り動かしながら、ベッドから身体を起こして登校した。
授業をやっとの思いで受け終わると、その後はハードな準備作業が待っている。
だけど、貴重な最後の1日をベッドの上で無駄にする選択肢は、今の僕には残されていなかった。
やらなくちゃ。
誰もいない教室の中で、視界が揺らぐのを堪えながら、僕はダンボールを切る。
これが終われば、次はペンキ塗りが控えている。
頭がかち割れそうな程、痛くなる。僕は本当に自分が馬鹿げたことをしているんだと思った。
できるわけがない。
僕の脳裏で誰かが囁いた。
でも、辞めるわけにはいかない。僕は嗚咽を漏らす。身体中が痛くて、汗がおびただしい程に流れている。
スポーツドリンクを口に含ませると、僕は自分の両頬を引っぱたき、自分自身を叱咤する。
しっかりしろ。
そのとき、僕の指に激痛が走る。ダンボールを添えたはずの手にカッターが食い込んだのだ。
痛みを噛みながら、濁流のように流れる朱を見つめる。
血液は右手の上に何本も枝分かれしては、各々が大河を成す。
その先には一枚の絆創膏が巻かれていた。
これは、希空さんと2人で歩いた夜の日。希空さんが優しく僕に包帯を巻いてくれたところ。
傷はかさぶたになったけど、僕はそれが何だか名残惜しかった。
途端に、どうしようもない無力感が僕の肩にのしかかる。
こんなところで、手を止めてる暇はないというのに。早く作業を終えないと、閉門時刻に間に合わない。
守衛さんに怒られてしまえば、僕は教室の夜間利用を禁止されてしまうかもしれない。
動かさなきゃ、手を動かさなきゃ。僕は強くそう思っているのに、身体はどうしてもぴくりとも動かない。
ただ、涙だけが頬を伝って、教室の床を塗らしていた。
悔しいという感情、とてつもない疲労感が心を満たす。
不甲斐ない僕でごめんね。希空さん。
もう無理かもしれないと思った。
目元から滴る水滴の数を数えている間に、僕は自信をひとつまたひとつと無くしていく。
1人でできるなんて、僕はひどい思い上がりをしていたんだと気づく。
煌煌と光る蛍光灯、僕を余所に動き続けるミシン。僕は瞬間的に我に返る。
僕は目を開けて、辺りを見回す。身体は鉄よりも重く感じた。手先を針に近づけるだけでも、出血した皮膚から激痛が走る。
「1人で無理してんじゃねえよ。声くらいかけろ。」
声がした。
後ろから聞こえてきた声、僕が振り返ろうとする間もなく、僕の右手には僕じゃない手の平が添えられていた。
ソイツは呆れた口調で僕を見ていた。
にしても、僕は少し安心してしまった。
呆れながらも、いつだって僕を気遣ってくれるよな、お前は。
「駿介。」
僕はおぼろげな意識の中、彼の名を言った。僕の友達だ。
途端に、僕の身体から力が抜ける。
「あれ、どうしよう。身体が動かない。」もはや自分の身体じゃないみたいに、僕は椅子から転げ落ちる。
目覚めたとき、僕の視界には天井が広がっていた。蛍光灯が眩しい。僕は咄嗟に右手で光を遮る。
すると、右手には見知らぬ絆創膏が貼ってあって、僕の流血は綺麗に塞がれていた。
教室の隅で寝転がっていた僕。辺りを見回す。冷たい風が肌を突く。窓は開いていた。
気付けば、教室の真ん中で駿介が、段ボールにピンク色のペンキを塗りたくっていた。
どこか楽しげな雰囲気を醸し出すデザインだと思った。
「良い色だね。」駿介をのぞき込んで僕は言った。
「体調はどうだ?」と駿介。僕は大丈夫だよと答える。
懐かしい秋風に吹かれた。
「2人で夜まで教室に残ってると、中学の頃を思い出すな。」
駿介は手を休めることなく、僕に話しかける。僕は昔日に思いを馳せる。
「そうだね、2人で勉強会とか言って、残ってたよね。」
「実際に勉強なんてやった記憶ねえけどな。代わりに、モスハンの腕が上がったよな、お互い。」
僕に無邪気な笑顔を向ける駿介。特に夢中になる物もなく、帰宅部だった僕と駿介は下校時刻になっても帰らずに、教室に2人で残った。
残ってやっていたことといえば、当時流行っていたアクションゲームの通信プレイ。
僕らは先生に見つからないように、机の上に参考書を広げながら、こっそりとモスハンの集会所を何度も往復していた。
高校に入ってから、僕らは頻繁に遊ばなくなっていったけど、なんだかあのときの日々が蘇ったかのような気持ちになる。
「あのさ、ずっと疑問に思ってたことがあるんだ。」僕はそう言うと、駿介は背中を傾け、傾聴の合図を僕に送る。
「駿介が放課後の補習に誘ってくれたのはさ、知っていたからだよね。」静かに告げる言葉、駿介は無反応だ。
「中学のとき、僕はクラスの不良から虐められていた。そいつらとは通学路が一緒だったから、下校時間が被る僕はいつも物を取られたり暴力を振るわれたりされていた。そんな僕を助けようとしてくれたんだよね。」
駿介はそうやって、いつも僕を守ってくれていた。
僕以上に僕の心配をしてくれた。僕は弱かったから、駿介に支えられてここまで来れた。
「そんなこと知らねえよ。俺は単にモスハンがやりたかっただけだよ。」口を尖らせ、ペンキを塗り続ける駿介。
いつだって僕を助けてくれる親友に対して、弱いままの僕を見守ってくれたコイツに対して、僕は区切りを付ける必要がある。
いつまでも守られてばっかじゃダメなんだ。
「おっと、そろそろ頃合いだな。」駿介は時計を見てそう言った。時刻は20時半を回ろうとしていた。
そういえば、今日は守衛の見回りが来ない。昨日は非番だったとしても、今日は出勤しているはずだ。何か変だ。
僕は駿介を見た。
大人びた細い塩顔の上で相変わらず、悪ガキのような笑みを浮かべている。
中学生の頃と変わらない無邪気な笑みだ。
「リク。終夜申請って知ってっか?」
♦︎
終夜申請。
それは文字通り、教室を夜通し使うと言う特権を得るための申請だ。
文化祭前日に限り、生徒会とクラス委員が例外的に申請を認められていると聞いたことがある。
どうして今その話をするのか。
「横峰がやってくれたのさ。」軽快な口調で駿介は答えた。僕は耳を疑う。
どうして、うちのクラス委員が申請をしたのか。一体何の理由で。
「そりゃあ、メイド喫茶の準備するために決まってんだろうが。」
僕は話が見えなかった。それなのに、駿介は僕が知っているという前提で話を続ける。ちょっと待って、説明が欲しい。
「駿介、理解が追いつかないんだ。一体どういうことだ。」僕は苦笑いを浮かべる。
終夜申請?どうして。僕は横峰君にはメイド喫茶はやらないと伝えた。
生徒会室へ正式に企画中止を報告したはずだ。
そのとき、廊下から夥しい足音が聞こえる。ありえないと思った。こんな夜に数人単位で生徒が校舎に残る事なんてあり得ない。比較的遅くまで音楽室で練習している吹奏楽部も既に下校していたはずなのに。
「お、やってるじゃん!」
「あたし、夜の学校初めてなんだよね。」
「暗くてめっちゃ怖いんだけど。」
「へへへ、誰かトイレで写真撮って来いよ。」
「は?お前が1人で行ってこいよ。」
「男子うるさい!時間ないから早く準備するよ!」
ぞろぞろと生徒達の群れが僕らの教室へとやってくる。皆が思い思いに会話をしていた。
これは一体何が起きているのか。教室に集まっているのは、僕の見知ったクラスメイト達だったのだ。
「どうして、ここに。」僕は口をぽかんと開けて、皆を見た。
皆、感心なんて無いと思っていた。
僕なんて彼らには必要とされてないと思っていた。
でも今、僕の目の前にはみんながいた。
これじゃあ、僕が馬鹿みたいじゃないか。皆を信じられなかった僕が一番ダメじゃないか。
両手で顔をおさえる僕。あふれ出る涙をこらえる。皆に泣いている姿は見せたくない。恥ずかしいから。
「リク。お前ってさ、やっぱり馬鹿だよ。」駿介は笑いながら僕に囁く。
うるさい。
「みんなこのクラスが好きなんだ。だから、文化祭だって楽しいものにしたいって思うのはお前だけじゃないんだよ。」
諭すような口調で、いつも上から目線。
ほんと、うるさいんだよ。
この前までは知らないふりをしていたくせに、僕の言葉に耳を貸さなかったくせに。
それは僕のかりそめの言葉だ。
僕が皆に言いたいのは、そんな言葉じゃない。
言葉が身体中を駆け巡る感覚。
感情をこのまま吐露してしまえば、きっと僕は瞳に溢れるものを止めることができないだろう。
必死に、僕はみんなを馬鹿にする。卑下する。貶める。
突然、僕の肩に暖かいものが宿った。
駿介が僕の肩を抱え上げた。項垂れた僕を、駿介は支えてくれていた。
そして、駿介は夜の教室に広がった人の輪を見ながら、僕に再び微笑んだ。
「リク。お前は、ひとりじゃないんだよ。」
それから、作業を手伝い始める生徒たち。
友達じゃないと勝手に決めつけた。仲良くなれないと勝手に線引きしていた。
僕は勝手に卑屈になって、勝手に皆に距離を作っていたんだ。
「ありがとう。」
今はその言葉しか思いつかなかった。
♦︎
文化祭当日、僕は3時間睡眠で得た僅かな活力で、ベッドから起き上がる。
大きく背伸びをすると、蓄積した疲労感とは裏腹に、なんだか清々しい気分にもなった。
とにかく早く学校に行こう。
僕は急いで制服に着替えると、プロテインバーを口に突っ込んで自宅を飛び出す。
晴天を仰ぎながら、走る。学校に着くと、そこには目を見張る光景が広がっていた。
【メイド喫茶 Our Class】と題された大きな看板が教室の外側に掲げられている。
周囲にはパステルカラーを基調とした広告。
入口にはタキシード姿の駿介が顔を出す。
「見ろよ、すげえだろ。」と言って、くしゃくしゃの笑顔を見せる。
教室へ入ると、学習机を並べた上に白色のランチョンマットを敷いて、上品さを演出。
調理場ではメイド服の園田さんがお菓子の仕込みをしているところだ。
園田さんは僕が来たのを見ると、恥ずかしそうに手を振ってくれた。
周りでは、メイド服を着た女子と男子が数人。女装男子も注目の的だ。
タキシードや和服を着ている生徒もちらほら。メイド服に抵抗がある生徒には結構好評だった。
皆が和気藹々と最後の準備を進めている。
机の上に乗って窓に装飾を取り付ける男子生徒と彼が落ちないように、心配そうな目線を向ける女子生徒。
これが皆の力なんだと思った。やっと、ここまで辿り着いたんだ。
僕は気づけば、みんなの輪に溶け込んで文化祭の最後の準備を始めている。
今までは、こんなに多くの人と会話をすることなんてなかった。僕の友達は駿介ひとりぐらいだったから。
僕は怖かったんだ。知り合いを増やしても、失う日が来ると知ってしまったから。
だけど、希空さんは違った。
たとえ、別れが来ることを知っていても、僕に話しかけてくれた。
僕を認めてくれた。
僕にたくさんの楽しいことを教えてくれた。
「リク君!シフト表できたから、みんなに配っておいて。」
フリルの可愛いメイド服を着た園田さんがコピー用紙を運んできて、僕へと手渡す。メイド喫茶の勤務割表だ。
だけど、僕はそれを見て怪訝な表情を浮かべた。その異変にすぐに気がついた。
「あれ、僕の名前がない。」
シフト表には僕の名前はなかった。実行委員として運営に気を配らなければならないのだから、僕が勤務シフトに組み込まれていないのはおかしい。
僕は園田さんにシフト表の作成ミスがないかと聞いてみた。だけど、園田さんは首を横に振る。ミスはないと言うのだ。
「じゃあ、どうして。」僕は不安げな声色になってしまう。
園田さんはメガネを持ち上げると、僕に穏やかな笑みを浮かべる。
「リク君には、他に大事なことがあると思うから。」
「園田さん…。」
園田さんの柔らかい表情の奥には真摯な眼差しがあった。僕は園田さんに向き直る。
「私はね、自分がずっと嫌いだった。根暗で陰キャラで、特にこれといった取り柄もなくてさ、人を好きになっても全然アプローチもできなくて。」
「何もできない私はただ、見ているだけだったの。」
「そんな私にさ、好きな人に思いを伝えることが、世界で最も愛おしいことなんだって彼女は自信満々に言うんだもの。最初、馬鹿だねって笑っちゃったよね。」
僕は園田さんの言葉に黙って頷く。そうだよな、希空さんはそういう言葉を平気で言う人だよ。
「でも、おかげで今がある。私は私が大好きな人に思いを伝えられたんだ。」
優しい口調の中に、貫かれた芯のようなモノを感じる。園田さんの表情はいつにも増して凛々しく、僕はそんな彼女と自分を重ね合わせる。
そうだ、僕たちは変わってしまった。変わらなくちゃって思った。
仕方ないじゃないか。
僕らの目の前を、超特急で駆けていく彼女を見て、僕らは思ってしまったんだ。
「格好良かったよね。真っ直ぐに生きる希空さんが。」
それは僕の口から紡がれた言葉。そして、園田さんはフリルスカートの裾をぎゅっと掴む。
「好きなんでしょ。希空ちゃんのこと。」途端に、崩した笑顔で僕を見る園田さん。
「うん、好きだよ。」
羞恥の念を押し殺して、僕も済ました顔で台詞を吐いてみた。
でも、赤々とした恥ずかしさを後から込み上がっていくので、必死に喉元を抑えた。
「じゃあ、早く思いを伝えないと。一生後悔することになるかもよ。」
僕はその提案にかぶりを振る。希空さんはもう目を覚さないのだから、僕は思いを伝えることはできない。
僕は首に諦念という文字をぶら下げていたのかもしれない。だから、園田さんは僕の目をまっすぐ見て言った。
「たとえ希空ちゃんが眠ったままだとして、君の声が彼女に届かないって保障はあるわけ?」
「希空ちゃんがもう帰ってこないことが、君の思いを言わない理由になるの?」
「リク君は希空ちゃんが好き。それはやっぱり、ちゃんと口にしないと勿体ないよ!」
まるで、向こうみずで考えなし。普段は大人しく堅実で、真面目な園田さんには似合わない言葉だった。
「私らしくないって思ったでしょ。」と言いながら、僕を見てまた笑う。
「そうだね、園田さんらしくないかも。だけど、希空さんならきっとそう言う気がする。」
その言葉は不思議と2人の中で腑に落ちたらしい。
一刻を置いて僕と園田さんは互いに吹っ切れたように笑い合った。
そのとき、僕のスマホに甲高い着信音が鳴った。僕は画面を開く。
そこには、「父さん」の文字があった。
僕は急に重くなった背中を伸ばし、スマホを耳元へと当てる。
耳障りな冷房音がノイズに混じって広がる。そして、声がした。
「リク。お前に報告がある。」
「希空さんのこと?」
「ああ、今日付けで希空の筐体処分が決まった。」
自転車は今にも壊れそうな軋み声を上げてチェーンを回転させている。
僕は必死にペダルを踏んで走る。
駅に着くと、僕は無心で改札を抜けた。
研究所がある和光駅までは20分くらいかかる。その間、僕は生きた心地のない時間を過ごした。
希空さんが今日、処分される。
その言葉は、彼女が人間ではなく、機械によって作られたモノであるという非情な事実をありありと僕に突きつけた。
そして、彼女がもう思い出の中の存在になってしまう。
僕は嫌だった。ここで終わってしまうのが嫌だった。
後悔はないって言えたらどれだけ楽だっただろうか。
前を向いて生きるよと言えたらどれだけ楽だっただろうか。
無理だよ。そんなこと無理に決まっている。
僕は胸を針に刺されるような思いの中、希空さんの笑顔をまた思い出してしまった。
だから僕は、学校を抜け出して彼女の眠る研究室へと向かっている。
園田さんは僕を優しく見送ってくれた。やるべきことをやれと一言を残して、駿介は僕に自転車を貸してくれた。
「クラスは任せて」とみんなが言ってくれた。
「頑張って」とみんなが言ってくれた。
僕は知らないうちに、沢山の味方を得た。全て大切にしたい大事なものだ。
文化祭も好調に進めることができた。みんなが年に1回しかない、この学校のお祭りを楽しんでくれている。
「でも、希空さんがいなきゃ意味ないじゃないか。君がいないとダメじゃないか。」
叶うはずのない願望が電車に揺られる。
僕は虚空の中を漂う。
和光駅に到着すると、僕は改札を抜けて駆け出した。
研究所まではそこまで遠くない。
汗がへばりつく。喉は水を欲している。僕は文化系だったから、こんなに走ると流石に疲れる。
身体が鉄のように重かった。口の中は塩の味がした。
それでも、僕の足取りは確実に、一歩ずつ、希空さんのもとへと向かっている。格好悪くても先へと進む。
研究所のエレベーターに入ると、記憶を頼りに希空さんの部屋があった4階ボタンを押す。
周りの研究員たちは息も絶え絶えな高校生を不審そうに見ていたけれど、僕は構うこともなかった。
彼女に会えれば僕はそれでいい。それで。
エレベーターが鈍重なブレーキ音を鳴らし、扉が開く。
僕はふらふらになりながらも、壁の手すりを頼りに前へと進む。
「どうしてまた、ここへ来た。お前にできることは何もないぞ。」目の前には白衣姿の父さんが立っていた。
呆然と僕を見る父さん。いつも以上に冷ややかな目線が僕を刺した。
それに、負けじと僕は歯を食いしばる。
「父さん、通してくれ。僕は希空さんに会いに来たんだ。」対抗して鋭く睨む。父さんは微動だにしなかった。
「ここにお前の居場所などない。帰れ、リク。」冷徹な表情を一瞥する。
それでも、僕は後ずさることはしなかった。それは乗り越えるべき壁だと思ったから。
僕は息を吸った。大きく背中を張った。
「希空さん!そこにいるんだろ!今すぐ君のところへ行くよ!だから待てって!」
僕は息を身体中から吐き出すように叫んだ。
自分でも突拍子もないことを言っているのは分かる。馬鹿なことを言っているだって、痛いほどに分かる。
僕は廊下の向こう側へ向かって走り出す。
父さんが僕を力づくで押さえ込む。
「リク!お前は自分がどれほど愚かなことをしているのか分かっているのか。」
父さんは全力で進む僕を前に、全力で僕を組み伏せる。
「僕はまだ、希空さんに何も伝えられてないんだよ! 馬鹿って言われたっていい。僕はもう後悔する人生は嫌なんだ!」
僕は格好悪い思いをそのままに吐き出した。体重をかけて前に進もうとする僕。
不意に身体に重力が奪われた感触を覚えた。
気がつけば、僕は身体が空中に浮かび、そのまま廊下に激突する。
ぐはっ!!
体中の酸素が奪われるように、僕の身体が不快感と鈍重な痛みに襲われる。
状況を理解しようとする前に、目の前の父さんは僕の右頬に拳を叩き込んだ。
「お前は何も分かってない。何も成長してない。今のお前はただ泣き喚くだけの子供だ。」
僕を殴った父さんの目は悲しそうだった。
初めて見る表情をしていた。
仏頂面だったり、仮面のような笑みを浮かべていた父さんの本当の表情がそこにあるような気がした。
「母さんの事故はもう繰り返したくない。」突然、父さんから発せられた言葉。
「どうして、母さんの話が出てくるんだよ。」瞬間的に、僕は心が煮えたぎるように感じた。
母さんは事故で死んだ。交差点を車で運転していた母さんは横から飛び出した大型トラックに追突された。
そして、母さんは死んだ。
「事故が起きたトラックには元々、自動運転用の人工知能が内蔵されていた。事故を起こすような危険な運転はしなかったし、運行時間管理に隙もない。人工知能による運転は完璧だったはずだった。」
「だが、母さんの事故があったとき、警察が自動運転装置の異常を調べた。」
それは僕にとって初耳だった。
事故の原因は運転手による居眠り運転と聞いていたから、自動運転用の人工知能が備わっていたなんてことは聞いたこともない。僕の戸惑いをよそに、父さんは告げる。
「鑑定の結果、自動運転機構を司った人工知能に障害はなかった。」
「だが、人工知能の思考ログを見たとき、この事故の全容が分かったんだ。事故発生直前の時刻、人工知能はマルチタスクで救命デバイスを起動していた。」
「救命デバイスって?」
「人間が心臓発作に陥ったときに、初期対応としてAEDを使用することがあるだろう。」
僕は公共機関とか街中に設置されたオレンジ色の箱を思い浮かべた。
僕は学校でもあの装置の操作訓練をしたことがある。心臓が止まった身体に電気ショックをあたえる装置だ。
「社会インフラ、自動運転。人間と関わり合うことの多い人工知能筐体には心臓発作を起こした人間に初期治療を行うAEDと同様の機能が備わっているものも多い。それが、救命デバイスだ。」
「つまり、その人工知能は事故が起きる直前にAEDを使おうとしたってこと?」僕の問いかけに父さんは頷く。
「そうだ。事故が起きる前に、人工知能はAEDを起動した。この意味がわかるか、リク。」
おかしいと思った。
どうして事故が起きる前なんだ。
トラックの運転手は事故によって死亡した。
AEDを使用するのは事故後であるはずなのに。
「もちろん内蔵時計に間違いはない。だから、事故の前に使っていたことに間違いはない。」
僕はなんだか怖くなった。何か知ってはいけないことを知るような気がした。
「トラックの運転手は事故が起きる直前、既に心臓発作で亡くなっていたんだ。」
僕は言葉が出なかった。居眠り運転での事故、世間ではそのように報道されていたはずなのに。
母さんを殺したと思っていた人間が実は、すでに死んでいた。
「この人工知能は運転制御という職務を放棄してまで、目の前の運転手に対して救命デバイスを使用した。自動運転を続行し、安全な場所まで避難する事が人工知能の使命であったし、そうすることは不可能ではなかったはずだ。」
その人工知能は自らの「使命」を犠牲にして、目の前の運転手を救おうと行動した、というのか。
人工知能は人間から課された「使命」を絶対視する。「使命」とは人工知能にとっての生きる意味。
それじゃあ、まるで。僕の思いを父さんの言葉が遮る。
「まるで、人間のようだ。大切な人を守りたいという情愛が使命を歪ませるのだ。」
「だから、人間が人工知能と特別な関係性になることは危険な行為だ。現に、希空はお前との関係性によって使命を放棄した。使命によって救われるはずだった人間を見捨てたんだ。その意味がお前には分かるな、リク。」
鈴音の恐怖に歪む顔を思い出した。手に持った銀色のナイフ、そしてアスファルトを染める赤色の液体を思い出した。
僕は咄嗟に胃液が込み上がる感触に襲われる。
「人工知能と関係を持つというはそういうことだ。お前は、そういう世界に足を踏み入れようとしている。何も分からない子供のくせに。」
「何も分かってないのは、父さんの方だよ。」
僕は塩辛い唇を拭って、再び父さんに向き直った。
「僕は世界や人々との関係を絶って、逃げるだけの日々だった。けれど、それじゃ何も変わらない。僕の望む世界を作るには僕自身が変わらないと始まらない。希空さんは僕にそう教えてくれた。」
「それに、僕は彼女がそばにいてくれれば、なんでもできる気がするんだ。だから、彼女が人間として生きることが罪ならば、僕は背負うよ。ずっとずっと、背負ってやる!」
父さんは僕の言葉を聞きながら、黙った。
途端に力が抜けたように、父さんは体を壁に寄りかける。
「ああ、そうか。やっぱり、りっちゃんの息子なんだな。お前は。」父さんはそう言って、静かに微笑んだ気がした。
「覚悟があるなら、お前が望むようにしたらいいさ。」
座り込んだ父さん。声はいつもよりも弱々しかったけど、優しい声だった。
僕は道を譲った父さんを見ながら、前を進み始める。
「父さん、たまには家に帰ってきてよ。また、カレーでも作るから。」
僕は歩きながら、小声でそう言った。
♦︎
閉じられたパールホワイトの部屋。
隅に置かれた大きなベッド。
そこには、ケーブルに繋がれていない希空さんが白い検査衣に包まれながら、横たわっていた。
僕は恍惚とした表情で、その曲線を眺めてしまう。綺麗な彼女に目を奪われてしまう。
それでも、彼女の目は閉じられたままだ。
飴細工のように細やかな黒髪を撫でる。真珠のような肌に触れる。
元気な彼女も、眠っている彼女も、変わらずに僕にとって愛おしい希空さんだった。
「希空さん、今日は文化祭だよ。驚くだろ、メイド喫茶完成したんだよ」
純白の頬は太陽の光を受けて輝きを増していく。だけど、希空さんは目覚めない。
「こんなところで寝てたら園田さんのメイド服姿、見損ねるよ。すごく似合ってるんだ。驚くよ、きっと。」
答える声はなかった。
希空さんが僕の話を聞いていたら、きっと「私より可愛いの?」とか聞いてくるんだろうね。
「でも、僕は希空さんのメイド服が一番好きだよ。」
身体の温度が若干上昇する感覚。
心を筆で弄られたようなゾワゾワとした感覚。
全てが懐かしくて愛おしい。
「やっと素直になったね、リク君。」
僕は耳を疑った。確かに声が聞こえたのだ。紛れもなく、希空さんの声だ。
「希空さん。」
僕は咄嗟に希空さんの顔を見る。
驚いた。信じられなかった。
希空さんは薄らと瞼を開け、僕を見ていたのだ。
「ごめんね、また寝坊しちゃったね、あたし。」
そう言って、どこか決まりの悪い表情を浮かべる希空さん。それから、いつも通りの笑顔に戻った。
まるで時間が巻き戻されたような感覚だった。
「希空さん、身体は大丈夫なの?」
「正直に言うとね、少し眠っていただけなの。もう身体は大丈夫なのに、気持ちだけが怖がっていたんだね。」
希空さんはまた顔をクシャって崩すように笑った。無邪気で破天荒で向こうみずな女の子に戻っていた。
「早く行こう。私たちの文化祭へ。」そう言って、希空さんは僕に手を差し出した。
♦︎
制服に着替えた彼女と2人きりの電車、何も話さなかった。
希空さんは、車窓から移り変わる虹色の景色を楽しそうに見ていた。
だから僕はそんな彼女を邪魔できなかった。
僕は希空さんのいない日々にどんなことがあったのか、彼女に伝えたかった。たくさん話したいことがあった。
だけど、僕は何よりも一番、彼女に言うべき言葉があると知っている。僕はやっと自分の気持ちに気づいた。
駅に着いた。
僕は気を引き絞り、彼女を自転車置き場まで案内する。
「2人乗りなんて、リク君結構大胆だね。」
ニヤニヤしながら、僕の心を見透かすような言葉をかける希空さん。
僕は動揺を隠すように、自転車のスタンドを勢いよく蹴り上げる。
「早く移動するにはこれしかなかったんだよ。文句言うなら、歩いて行くしかないよ。」
尖るような口調で答えてみると、希空さんは素直に荷台へと跨がる。
不意に、ぎゅっとした重みを感じた。
彼女1人分の重みが僕に妙な現実感を感じさせてくる。
希空さんとこんなに近くにいる。これは夢じゃないんだ。
そんな実感が僕の心をくすぐってきた。
「さあ、行くよ。つかまってて。」ペダルを蹴り上げ、自転車は疾走する。
同時に僕の背中に柔らかい圧力と温度が伝わる。
久しぶりの暖かさに僕は胸に込み上げる熱い感情を堪える。
「ねえ、私、重くない?」
彼女は不安げな口調でそう聞いてきたけど、自転車には大した重量感を感じない。
むしろ、彼女はとても軽いように感じた。僕はかぶりを振る。
「その間、なによ。」
「何って、なんでもないよ。」
じっと僕を睨む希空さん。ふーんと言って、なじるようのな言葉を風にのせる。
「気持ちいい。風になったみたい。」僕の緊張をよそに、希空さんは風を感じて歓声をあげる。
僕はそんな彼女に軽快な返答ひとつできなかった。
希空さんは続けて僕に話しかけた。
「ねえ、どうしてなの。」
発された希空さんの言葉は途端に色を変えたようだった。
恐る恐る手探りで言葉を探し当てるような、ぎこちなさを感じた。
「どうしてって。」僕は聞き返す。
僕のお腹にかかる力が強くなった気がした。
「どうして、私のことを迎えに来てくれたの。」
つまんない事を聞くなよ。僕は意外な彼女の質問に溜息を漏らす。理由なんてない。
あるのは僕の中にある思いだけだ。まだ伝えられていない思いだ。
「理由なんてないよ。希空さんは待ってくれるって思ったんだ。」
言葉足らずな返事をする。
彼女からの応答はない。
すると途端に、希空さんは僕の背中をぽんぽんと叩き始めた。
「あーあ、もうダメだ私。君が近くにいると安心しちゃう。甘えちゃう。駄目な子になっちゃう。」
それから、少し鼻にかかった声で、希空さんは言葉を続けた。
「嫌いならそう言っていいからね。下手に優しくされると私、勘違いしちゃうからさ。ほら、私って案外馬鹿だし、そういうの疎いのよ。」
正直、腹立たしく感じた。
僕が君を嫌い?
一体どうしてそんな話になるんだ。
それに、一番の原因は君にあるんだ。
君が僕を連れて走り出すから、僕は君のことしか見れなくなってしまった。
君のせいで、僕は君に恋をしてしまったんだよ。
「君のことが好きだから。理由はそれだけだよ。」
自転車の軋む音の中で僕の声が空中を漂う。
それは短い告白だった。
希空さんは黙ってしまった。
僕の背中に冷たいものが触れた。
僕は横断歩道で自転車を止めて、彼女の様子を伺う。
「やめてよ、こっち見ないでってば。」
降りかかる希空さんの言葉。
同時に、後ろを向こうとした僕の顔は彼女の手でグイグイ押し戻される。
「私は大丈夫だから、止まらないで。」
再び体温が伝わる。僕は黙って頷いて、ペダルを蹴る。
それからは5分程度の沈黙が続いた。
僕もどうしてかその静寂の時間を味わっていた。
体温だけが今の希空さんを感じられる唯一の感触で、僕は今感じているその温かさを覚えておきたいと思った。
「リク君。」
相変わらず震える声がした。僕は硬直する背中を動かして返事をする。
「ごめん、私。今すぐに答えを出せない。」
彼女から告げられた言葉、僕は脳天を棒で叩かれたような気分になる。
なんだか、僕は自分の言葉を取り消したい気分になった。
けれど、言葉はもう取り戻せない。
希空さんは相変わらず、顔を俯かせている。
あてもない後悔が汗に滲む。
「リク君、今はただ私の隣にいてくれないかな。」
吐息混じりに希空さんは答えた。
それは僕の冷えかけた心に陽光を照らすように優しかった。
「私はこの文化祭をリク君と最後までやりきりたい。だから、最後まで私に勇気をください。」
凜とした声。最後という言葉が気にかかった。
それでも僕はその言葉を聞くことのないまま、走り続けた。
自転車は坂道を高速で駆ける。
「隣にいるよ。約束する。」
追い風が弱い僕の背中を押してくれた。
ハンドルを持つ手が引き締まる。
校門が前方に見えた。文化祭用に設置された入場ゲートには沢山の人でいっぱいだ。
その光景は文字通り、お祭りそのものだった。
自転車を駐輪場に止める。
希空さんの手を取り、彼女を荷台兼座席から下ろすと、希空さんの流れるような黒髪が僕を撫でる。
身体全体が沸騰したような感覚に襲われながらも、僕は彼女の手を離さないように意識を集中させる。
「どうしてリク君が緊張してるのよ。」
屈託無く笑う希空さん。
彼女は男心というものが分からないのか、そんな不平を言ってみたくもなったけど、黙っておく。
「途中から準備投げ出しちゃったし、みんなに何て言われるかな。」
希空さんは校舎を歩きながら、僕に不安を吐露する。
自然と彼女の教室まで向かう足取りが重くなっていた。
「心配ないよ。さあ、早く行こう。」今度は僕が彼女の手をとって、走り出す。
♦︎
目の前に広がるのは、茶色いレンガ造りの壁。
いや、そう見えるように塗った段ボールを教室の外壁に敷き詰めたのだが。
そこはまるでヨーロッパ風の小洒落たカフェのようだ。
「すごい、これをリク君がやったの。」
希空さんはその光景に呆気にとられながら、感想を漏らした。
「いいや、希空さん。僕だけじゃないよ。」僕はそう答えた。
そのとき教室のドアが引かれる。
教室から小学生くらいの女の子が数人出てくる。
「みんな可愛かったね!」
「ねえ、あたしメイドさんからサイン貰ったよ、ほら!」
そう言って、手の甲にマジックペンで書かれたものを友達に自慢げに見せつけている。
そんな様子を僕と希空さんは微笑ましく見ているとき。
「希空ちゃん、希空ちゃんなの?」教室の扉からひとりのメイド服姿の女子生徒が出てきた。
黒い下地に白いレースで装飾されたシンプルなメイド服、スカートはロング丈で、歩く度にふわりと瀟洒な雰囲気が醸し出される。
小学生達を笑顔で見送った後、その人は僕らを見て呆然と立ち尽くしていた。
すると僕の隣に風が吹いた。
希空さんは僕が言葉を発する間もなく、その女子生徒のもとへ走り出す。
急接近した2人。
希空さんは迷わず、両手を広げて彼女をぎゅっと抱きしめた。
「めぐみん!」
メイド服にシワがつくことも気にせず、希空さんは力一杯に園田さんを抱きしめた。
「嘘じゃない。嘘じゃないんだよね。希空ちゃんなんだよね。」
園田さんも負けじと、希空さんの華奢な肢体を抱きしめた。
「私はちゃんとここにいる。ここにいるよ。」
泣きながら笑う希空さん。
「ううう。一体、どれだけ心配したと思ってるのよ!」
園田さんも同じく大粒の涙をこぼす。今まで溜め込んでいた寂しさや悲しみを全て吐き出しているように見えた。
異変を感じたクラスメイト達が続々と教室から出てくる。
どっと押し寄せるように、女子生徒数人が希空さんを囲う。
「ほんとごめんね。私、みんなをほったらかしにして。」
贖罪する希空さんは、皆の視線を伺った。
「ねえ、希空さん。謝らなくていいんだよ。」
ひとりの女子生徒が優しい声でそう言って、希空さんの手を引く。
「みんながメイド喫茶をやってみたいと思ったから、こうして形になった。」
他の生徒達も黙って頷く。
希空さんははっとした表情で皆を見る。
スカートがミニ丈のメイド服、純白のメイド服、蒼を基調とした中華風の給仕服、それに和服とかスーツとか。
皆の装いは様々だったけど、不思議と場違いな印象は抱かない。
「皆が楽しめる企画にしてくれたのは、リク君の提案があったからなんだよ。」
園田さんは俯かせた顔を上げて、毅然とした表情でそう言った。
風を感じるように、希空さんの視線が僕に移る。
「俺、希空ちゃんのメイド服も見たいっす。」男子生徒の一部顔ぶれが現れる。
タキシードやアニメキャラクターのコスプレをしている人もちらほらと。
「馬鹿!何出てきてんの!希空ちゃんをお迎えする間、あんたらに店番任してたんだから!」
ひとりの女子生徒が男子に向けて怒声を放つ。
「それにさ、コスプレするなら、ちゃんと相方の許可とってからでしょ。」
女子生徒はそう言って、僕の顔を一瞥する。
え?どういう意味だ。僕は考える。
だけど、僕の思考を追い越すように、多くの視線が刺さる。
「ねえ、リク君。希空ちゃんにメイド服着せてもいいかな?」問いかける女子生徒。
「違うから!そういうのじゃないから!」希空さんが慌てながら、そう答えた。
「え?あんたら、まだ付き合ってないの?」周りは虚を突かれたような反応を示す。
僕は再び、氷のように固まってしまう。
希空さんの顔をちょっと見る。
希空さんはぷいっと明後日の方角を向いてしまった。
「そういうのじゃない」
その言葉に僕は心の奥底で落ち込んだりしてみた。
気づけば希空さんは女子生徒たちによって、どこかへ連行されてしまった。
♦︎
僕と駿介はメイド服の給仕達が働く光景を見守りながら、教室の隅っこであぐらをかいていた。
「なあ、リク。もしかして、まだ告ってないのか。」隣で駿介がぼやく。
僕はあやうく咽せそうになる。急に、心臓に悪い言葉を言わないでくれ。
「告ったよ。」
僕は小さい声で短く答える。驚きの表情を見せる駿介。
「まじか!で、断られた?」
「いいや、まだ答えはもらってない。」
「うわあ、生殺しとか希空ちゃんも鬼畜だなあ。」
感心するように頷く駿介。
こっちの気が休まらないのも知らないで好き放題言う奴だ。
「で、もしダメだったらお前はどうするの?」
多分、いつも通りの関係に戻るだろう。
僕は希空さんを女の子として見る以前に、人として尊敬している。
彼女の前向きな姿勢を僕は好きになった。
そんな彼女を横でそっと見ているだけでもいい。
だから、彼女との関係はできるだけ続けていきたい。叶うならだけど。
「そりゃ無理だろ。」容赦ない言葉で僕の淡い望みはぶった切られる。
「男女に友人関係なんてねえんだよ。あるのは、恋人関係か他人かのどちらかだ。」
駿介は時々、僕が信じたくない冷たいリアルを的確に言語化してしまうときがある。
「まあ、ぶっちゃけ。そのほうがお前にとっては楽なんだと思うよ。」
「どういうこと?」
「人工知能の女の子と付き合うっていうのは普通のことじゃない。人とは違う道を選ぶということだ。」
「分かってるよ、それくらい。」
「支えられる自信はあるのかよ。」唐突に投げられた問いに対して、僕は拍子抜けな気分になった。
普通とは違う。その言葉の意味を僕はどれだけ具体的にイメージできているのだろうか。
「俺達が普通にできること全てがお前や希空ちゃんにとっての逆境になる。そういう道を進む覚悟はあるのかってことだ。」
駿介の投げかける視線が鋭いものに感じた。そうだな、その通りだ。
「正直に言って、俺は反対だった。お前が希空ちゃんを好きになったことには気づいてた。けど、内心では失敗してほしいと思ってたよ。あえてリスクを冒すお前が間違ってるって思ってた。」
駿介の気まずそうな顔を僕は初めて見た。
「ごめん。俺、最低なこと言ったな。」
言葉はそこで途切れる。
駿介は僕にとって親友だった。いつだって、僕を守ってくれた。
だから、最低なんてあり得ない。恥ずかしいことを言うけど、駿介は僕にとって兄のような存在だった。
「駿介は最高の友達だ。それは今もこれからも変わらない。」
重く苦しい雰囲気を壊すために僕は笑ってみる。
「お前もそんな風に笑えるようになったんだな。」
「駿介から見た僕って、そんなに根暗だったの?」
「中学の頃のリクは梅干しみたいな顔してた。」
咄嗟に、僕は自分の顔をスマホのインカメラで覗き込む。
「いやいやいやいや!さすがに!」顔面偏差値が中の下であることは認めよう。
でも、さすがにそれはないだろ。
「梅干しはないよ!」と僕が言うと、駿介は高笑いする。
思いっきり空気が爆ぜたように、笑った。
「ははは!だからさ、そうやって笑えるようになったじゃん!」
「間違ってたのは俺だったんだ。大事な人を失ってふさぎ込んでたお前を俺はほっとけなかった。何とかしねえとヤバイって思った。」
「だけど、お前はもうあの頃とは違う。変われてないは俺だけなんだ。弱いままのお前にしがみついて、お前が俺を頼るときをずっと待ってた。」
顔を赤らめることもなく、毅然とした態度でこそばゆい話をするのは駿介の凄いところだ。
そういう直接的な物言いに僕は信頼を寄せたのだ。
母を失い、父親にも会えなかった頃の僕は誰かの直接的な庇護を求めていた。
何も悩まなくていい、苦しまずに済むそんな関係性を求めていた。
虫の良い奴だけど、そうやって僕は悲しみから逃げていた。
「リク。お前は強くなったよ。だから胸張れよ。お前の強さが、希空ちゃんを支える日がいつか必ず来る。」
「僕は強くなんかないよ。駿介にはいつだって及ばない。」
僕は心の内に潜む弱音を少し吐露してみる。
「好きな女の子に思いを伝えた。男なら好きな女の手をつないでこその強さだ。胸張れよ、リク。」
ありがとう、駿介。
僕は胸が点火されたように熱くなる。
ここまで僕を支えてくれたのは紛れもなく、駿介だ。
「だからさ、ずっとこれからもよろしく。」
僕はそう言って、駿介を見る
すると、僕の頬はぐいっと押し込められる。
「馬鹿か、野郎の顔なんか見てる場合じゃねえだろ!」
僕は駿介の拳によって強制的に教室の入口を見た。
そこには、気恥ずかしげな笑みを浮かべて立つ、メイド姿の希空さんがいたのだ。
♦︎
「そんなにまじまじと見ないでよ。」
清廉なロングスカートも彼女に似合っていた。
僕は直視するまいと視線をずらすと、希空さんが強引に顔を覗き込ませる。
「似合ってないからって、ヒドイ!」頬を膨らませて僕を睨み付ける。
そんな光景を他の女子生徒達はクスクスと笑いながら見ている。居心地が悪い。
皆に見られている中で、「似合っている」なんて言えるわけないじゃないか。
他の生徒と一緒に接客をしている希空さんは、ただの文化祭を楽しむ女子高生だ。
「ご注文の品になります。」と言って、2人分のジュースを机に並べては、次の来客者に座席を案内する。
ずいぶん慣れた動きに見えた。と思ったのだが。
「あっ!危ない!」
大きな音が響く。
希空さんはスカートの裾で足をひっかけて転んだ。
やっぱりドジなところもあるらしい。
「いやあ、ロングスカートは慣れませんなあ。」苦笑いを浮かべながら頭を掻く希空さんを一瞥する。
頬が熱くなった。また可愛いと思ってしまったから。
♦︎
客の入りは好調だった。再現度の高いクオリティと多様性が同化したような空間がクチコミとして広がって、僕らのクラスは多くの人で賑わっていた。
忙しく回る現場を僕は縦横無尽に駆け回る。
注文を聞き、ドリンク担当へ合図して、さらに注文を聞く。
百回以上もその動作を繰り返す間、僕は何度、希空さんをちゃんと見れただろうか。
文化祭の時間は忙しさによって、高速で溶けていく。気づけば時間は午後3時を回っていた。
混雑した教室の中では、希空さんの姿はよく見えない。それはちょっと悲しくて嬉しくもある誤算だった。
束の間に与えられた休憩時間。
僕は熱気に包まれた教室を出ると、近くの非常階段に腰を下ろして一息を漏らす。
「ねえ、隣いい?」
軽快なリズムを踏むような足取りが聞こえる。そこには、希空さんがいた。
フローラルの香りが僕の鼻腔を包んだ。彼女を初めて意識したときにも、この匂いがした。
気がつけば、希空さんは制服に着替えていた。
プリーツスカートを揺らしながら、僕のそばに座る。
「忙しすぎて、ヘトヘトだよ。」
希空さんは笑いながら、パタパタと手のひらで頬を仰ぐ。
「あれ、希空さんも休憩なの?」
僕はそう聞くと、得意げな表情を浮かべた。
「店番はもういいから、2人で楽しんでって言われちゃった。」
僕はその言葉の意味を悟ると、また顔が赤くなりそうになる。
気が早い連中が多すぎるのだ。
「ねえ!リク君。私が行きたい場所当ててみてよ。当てられたら、一緒に回ってあげる。」
相変わらず、可憐な表情でそう言って、笑いかける。
妙な上から目線が鼻につく。それも彼女の可愛いところだけど。
「どうせ、お腹空いてるんでしょ。」僕は短く言うと、希空さんは目を丸くする。
「あたり。よく分かったじゃん。」
「だって、僕もお腹減ったから。」
僕が微笑を浮かべながらそう言うと、彼女はスカートを叩いて、立ち上がった。
そして、もう待ってられないと言わんばかりに、彼女の腹の虫も鳴き始めている。
「じゃあ、決まり! 食べに行こっか、リク君。」
♦︎
校内のど真ん中にはそれなりに大きな中庭がある。噴水とかベンチが置いてあって、この辺りには沢山の模擬店がひしめき合っていた。
生クリームの乗ったパンケーキ、小熊の形のベビーカステラ、キラキラのカップが人気のタピオカミルクティー等。
女の子らしい映えを発揮できるスイーツが立ち並ぶ中で僕と希空さんが選んだのは。
「ガッツリ豚骨。脂と野菜マシマシで!」
希空さんの軽快な号令とともにテーブルに運ばれたのは、希空さんの顔の2倍くらいの大きさのあるドンブリだった。
中には、もやしの塔と乳化した白金色のスープが顔をのぞかせている。
たくさんの湯気が立ち込める中、希空さんは夢中で麺を啜っていた。
「美味すぎるんだけど!何これ!」
驚嘆する希空さんを横目に、僕は火傷しないように気をつけながら、静かに麺を啜った。
「そんなゆっくり食べてたら、美味しさが逃げちゃうよ。」
「そんなに急いで食べたら、喉につっかえるよ。」
隣で小うるさい声が聞こえたので、軽く忠告をした後に、僕は一口分の麺を啜った。
「ゲホゲホッ!」
大仰に麺を啜って、隣で咳き込む希空さん。ほら、言わんこっちゃないだろ。
「ラーメンで窒息死なんて笑えないからね。」と言って、僕はナプキンを彼女に渡す。
「確かにその死に方は嫌だね。」
「どんな死に方も嫌だよ。」
「ははは、そりゃそうだ。仕方ないから、ゆっくり食べるよ。」
そう言った希空さんの横顔はどこか儚げだったのが、僕の心に引っかかる。
でも、一瞬で太陽のような笑顔に戻った。
またひとつ、この学校に来て初めて気がついたことがある。
食堂のメニューは、案外クオリティが高いこと。
学食に行ったのなんて入学式以来かもしれない。
僕は人と交わるのが怖かったから、昼食はもっぱら自席で食べるお弁当だった。
高校3年にもなって、僕は自分のいる学校のことを何も知らないのだと実感した。
「結構美味しかったね。また食べに行こうよ。」
隣でお腹を満足げに抑える少女は僕を見て、微笑みかける。
屈託なく笑う彼女の存在はまだちゃんとあって、僕は少し安心する。
なんだか、嫌な予感がした。
希空さんが遠くに行ってしまうような予感だった
でも、希空さんの笑顔が僕のそんな不安を吹き飛ばしてくれた。
「メガ盛りも美味しそうだよ、リク君。」
食堂の壁に掲げられたメニュー表を見ては、言葉を弾ませている。
僕は一体、卒業するまでにどれほどの初めてを経験できるのだろう。ふと、そんなことを思った。
「ねえねえ、次はお化け屋敷に行こうよ!」
物思いに耽っていた僕を希空さんが強引に起こす。
太陽のような笑顔はエネルギーを補充したようで、ご満悦だった。
僕は思った。
まずは、今日という日を楽しみたい。
そして、文化祭は僕らのゴールじゃない。
僕はここを始まりにしたい。
僕たちの関係性を進める、大事な大事なスタート地点にしたい。
もっと、希空さんと一緒にいたい。そして、彼女のことをもっと知りたい。
だから、僕は希空さんの腕を引く。戸惑うような視線を向ける希空さん。
僕はキョトンとする彼女に軽く微笑む。
「上野の時は散々連れ回されたから。今度は、僕が君を連れ回すよ。」
「リク君、体力ないからすぐバテちゃうんじゃないの?」
希空さんは僕の手を見つめながら、挑発するような口調で答えた。
「これまで希空さんの相手をしてたからね、ずいぶん鍛えられたんだ。だから、君が帰りたくなるまで僕は今日を遊び尽くすよ。」
僕はそう言って、彼女の手を引きながら、煌びやかな廊下を早足に歩き始める。
「帰りたいなんて思うわけないじゃん。」
小声でそんな言葉が聞こえた。僕には聞こえないようにボソリと言ったのだろう。でも聞こえている。
僕は表情が緩まないよう気をつけながら聞こえていないふりをする。
希空さんの腕を掴む僕の手は少し力が入る。迷子にならないように強く握る。嫌がられないように、絶妙な加減で。
僕ら2人は、2年生の教室でやっているお化け屋敷へと向かう。
♦︎
「ほら、コーラ。」太陽が沈みかけた空の下、僕と希空さんは校舎の屋上にいる。2人だけで。
希空さんは後夜祭で賑わう校庭を見下ろしていた。
僕がキンキンに冷えたコーラ缶を希空さんの腕に押しつける。
「ひやあっ!」弾けるように身を翻す希空さん。それから、缶を受け取ると不服な表情を浮かべる。
「んー!なんか今日のリク君、生意気だ!」
希空さんは不満げな表情で僕にそう言う。
「だって、希空さんが幽霊を苦手だなんて思ってなかったから。」
「学生が作るお化け屋敷なんてそんなに怖くないと思ってたんだもん。はいはい、認めます!油断してましたよ!」
希空さんは子供のようにジタバタさせながら、僕を睨んで頬を膨らませている。
「それにしてもさ、出口に手をかけた瞬間、私の肩を掴んで脅かしたよね!リク君!あれは絶対に許さないからね!!」
まあ、希空さんの怒りの理由は大凡僕にあるんだけど、僕は彼女の怒った顔も見慣れたし、愛おしいとさえ思ってしまう。
こんな瞬間がこれからも続く。
そう思えるだけでも、僕は一生分の幸せを貰ったような気分になった。
「お詫びに買ってきたんだ、冷たいうちに飲んでよ。」僕は微笑みながら、コーラ缶の蓋を開ける。
希空さんは意地を張って僕を見ない。
「さあ、そろそろだよ。」僕は、すっかり暗くなった空を仰いで立ち上がる。
爆破音とともに強烈な閃光が夜空を満たす。
僕はその雄大な輝きに息を飲む。
希空さんも同じだった。
圧倒的な美しさと爆音を前にして、まさに心を奪われてしまった。
後夜祭のクライマックス、打上花火が始まった。
僕らの祭りは終わりへと向かおうとしていた。
でも、素直に感動できない僕がいた。
僕の心は今も宙ぶらりん。
僕が自転車で伝えた告白の答えをまだ貰ってないからだ。
答えを急かしてはいけない、と心で思いつつも僕はこの悶々とした感情を早く吐き出してしまいたいと思った。
2発目が打ち上がる。綺麗な花火だ。
「あのさ、自転車で言ったこと。答えを聞いてもいいかな。」
言ってしまった。
希空さんの言葉を静かに待つ。静かに。
静寂が2人の関係性を留めるかのように、はやる気持ちとは裏腹の状況が僕の背中に重くのしかかる。
「ごめ……。」
彼女のふさがった口が少し開いた気がした。
僕は心臓を高鳴らせながらも、希空さんへ精一杯耳を傾ける。
その刹那、花火があがった。
一番大きなやつが、高らかに。
重厚な爆発音が僕ら2人の世界を包んでしまう。
希空さんがかすかに告げた言葉もかき消されてしまって、僕は聞き取ることができなかった。
「今、何て言ったの?」僕は打ち上げ花火の合間を縫って聞き返す。
「言えるわけないじゃん。」
彼女が震える声で告げた言葉。
僕は意味を捉えきることができなかった。
それでも希空さんは構わず、感情を吐き出すように言葉を続けた。
「言えるわけないじゃん! そんなこと!」
「希空さん?」僕は少し怪訝な表情で希空さんを見る。
僕は気がついてしまった。彼女は酷く震えていた。
彼女の身体とても小さくて細い。今にも折れてしまいそうな手が僕の手と重なる。
仄かに温かさを感じた。
寒空の下で燃えるマッチ棒のように、微かだけど、確かな温かさだった。
気づけば、希空さんは僕の手をぎゅっと握っていた。
希空さんは僕の耳元で囁く。
「好きだよ、リク君。」
花火が再び、夜空を照らす。
もう花火なんてどうでもよかった。
隣にいる希空さんを僕は見つめていた。
透き通るような青い瞳。夜空に溶け込み、流れる黒髪。純白の肌。
全てが僕と希空さんを中心にして回る銀河の中にいるように思えた。
夜空に咲いた黄金の花は希空さんの横顔を照らす。
僕は息を飲んだ。
そのとき、僕を見つめる希空さんの頬をひとつの雫が伝っていたから。
僕が動揺していると、希空さんは咄嗟にその雫をぬぐう。
けれど、頬にはさらに数滴の水が伝っていた。
彼女はなんとかそれら全てを受け止めようと試みるけど、袖はみるみると水分を溜め込んでいき、もう拭い取る程の余裕もなくなってしまう。
彼女はそんな濡れた頬を触りながら、唇を噛む。
「どうして泣いてるんだろね。あーあ、もう台無しだあ。」
打上花火が咲く度に、希空さんを伝う涙は量を増やしていく。
拭っても拭っても、もう間に合わない。
「ごめんね、リク君。ぐすっ。こんなときに、ぐちゃぐちゃな顔で。ぐすっ。」
鼻をすすりながら、希空さんは懸命に僕に話しかける。
それでも、彼女は僕の手をしっかり握り続けていた。
僕は泣いている彼女に、片方の手でハンカチを渡す。
「ゆっくりでいいから、涙拭いて。」
滝のように流れ出した希空さんの涙は次第に収まったようだった。
花火も終盤に近付いている。
僕らは屋上の隅に空いたスペースに腰掛けた。
すると、途端に希空さんは夜空に向かって叫ぶ。
「リク君なんて大っ嫌い!!!!」
花火の爆音に匹敵するくらいの大声で彼女は叫んだ。
それは前に言った言葉とは正反対の意味の言葉。
「ごめんね、リク君。これが私の本当の気持ちだから。」
そう言って、顔を俯かせる希空さん。
突き放すように彼女は僕を押しのけて屋上から去ろうとする。
「リク君って、どうしてこんな悪い女が好きなるんだろうね。ほんと見る目ないよ、君。」
背中を向けながら、彼女は肩を震わせている。
僕には分かった。今の彼女の言葉は本心ではない。
心のままに言葉を発する人間が、どうして、こんなにも小さい身体で悲しみに震えているのだろうか。
「私のこと嫌いになった?リク君。」力ない問いかけだった。
「嫌いになるわけないだろ。そのくらいで。」僕は力を込めて答える。
「馬鹿じゃないの?私は君とは違って、人工知能のロボットだよ?」
自嘲するような問いかけだった。
「僕は希空さんを好きになったんだ。希空さんがたまたま人工知能だったというだけのことだよ。」
僕は迷いなく答える。
「全然、理由になってない。説明になってないよ。君にこれ以上迷惑はかけたくないよ。」
それは一方的な否定だった。
「好きになるのに理由なんていらない。僕が君を好きになったのは理屈じゃないんだよ。」
「前に、心は知るものじゃなくて、感じるものって言ったのは君自身だったよね。」
僕は彼女の否定に対して、全面的な肯定で挑んだ。
僕に迷惑をかけるのが嫌? そういう段階はとっくに過ぎている。
僕らはもうここまで来ているんだから。
僕の声には、心には再び力がこもる。
「社会がなんなんだ、周りがなんだってんだ。僕は君のことが好きだ。悪いけど、すごい大好きだよ。」
「僕らは互いを助け合う。辛くても悔しくても、君が立ち止まったら、僕が君と一緒に傷を癒やす。再び立ち上がるまでずっとずっと、君の側にいるって僕は誓ってやる! たとえ、誰に祝福されなくても、誰かが僕らを攻撃したとしても、僕は君を一生守るって誓う!」
それは根拠のない口説き文句だった。歴戦のナンパ師だってこんな臭いセリフは言わない。
でも、僕の本心だ。
でも、僕らに宿った「本物の心」はそこにある。
そのとき、目の前の少女は力なく崩れた。
倒れ込む希空さんを抱きかかえると、僕と彼女との距離はもう殆どゼロに近い。
希空さんはぼんやりとした表情で、僕を見る。
さっきまでとは違う。力も無い弱々しい瞳だった。
「大丈夫?どこか調子悪い?」僕の質問に対して、希空さんは首を懸命に横に振った。
「大丈夫だから、少し目眩がしただけ。」
そう言いながら、僕の肩を掴んで彼女は何とか身体を起こす。
僕は彼女がいつ倒れてもいいように、背中に腕を回す。
「ごめんね。私はもうリク君と一緒にはいられない。」
僕の腕に身を預けながら、やや脱力した表情で希空さんはそう言った。
「どうしてだよ、希空さん。」
「これはね、そういう約束なの。私が今日ここにいる、そのために払った代償なの。」
それは希空さんから出た言葉。
一瞬、彼女の言葉が分からなかった。それから数刻、彼女の答えを反芻する。
「分からない、分からないよ希空さん。どうしてそんな悲しい顔をしているの。」
僕は泣きそうになるのを堪えながら、必死に呼びかけた。
朦朧とする希空さんの表情が次第に失われていくのが怖かった。
目を背けていた現実が物凄いスピードで追いかけてくる。そんな気がした。
朦朧とした意識を振り払うように、希空さんは口を開く。
「私の意識はね、もう死んでしまったはずだったの。もう消えてなくなったはずだったの。」
「何だかんだ充実した人生だった。だから、死んでも後悔はないかなって思った。でもね、ひとつだけやり残したことがあった。それは私の夢であって、私の生きる希望だった。もう叶うことはないって諦めていたけど。」
「そしたらね、外からリク君が私を呼ぶ声が聞こえたの。私はその声のする方を走った。また会いたいと思った。忘れかけた夢を思い出した。私の強い願いが最後に奇跡を起こした。天国の誰かがね、私が願いを叶える間だけ生きる時間をくれたの。」
僕は希空さんの言葉の意味を感じながら、恐怖心を覚えた。もう聞きたくなかった。現実が嫌だった。
全てが夢だと思いたかった。目を覚ませば、僕と希空さんが出会う前に戻っていて、僕たちは何も関係を持たないまま、卒業する。それでよかった。それ以上は望みたくなかった。
「お願いリク君、聞いて。私の願いはね。」
「嫌だ!願いなんて聞くもんか、絶対に聞くもんか!」
僕は子供みたいに駄々をこねる。そんな僕を見ながら、希空さんは力なく笑う。
「リク君を幸せにすること、それが私の願いなんだよ。」
希空さんの声は掠れそうになるほど、弱く、小さくなっていった。そして、倒れ込む。
そんな小さい彼女を、僕は胸の中で抱きしめる。強く抱きしめた。
鳥になってどこかに行ってしまいそうな気がしたから。
彼女の願いを知ってしまった。
そして、今の彼女は願いを叶えるまでの間、繋がれた命であるというなら。
「こんなことってないよ。嘘だろ、嘘だって言ってよ。希空さん!」
僕は自分が取り返しの付かないことをしたことに気づいてしまった。
僕が幸せになれば、彼女の命が終わる。
そんな残酷があっていいのだろうか。
「リク君、私の願いは叶ったんだよ。だからさ、そんな悲しい顔しないでよ。」
希空さんは僕の腕の中で、優しく笑いかける。違う、そうじゃない。
僕の求めているものは明確な否定だ。
全て冗談だよって、いつもの君みたいに憎たらしい笑顔で僕をからかってよ!
僕の淡い期待は、全て無惨にも打ち砕かれる。
「僕はもう幸せになんてならない!だからさ、君はずっと僕のそばにいてよ!」
もう好きだなんて言わない。
嬉しいだなんて言わない。
楽しい思いなんてしない。
一緒に遊んだりもしない。
「幸せなんて要らないから!もう何も要らないから!」
僕は無意識に声を張り上げて、僕の腕に包まれた少女に語りかける。
絶対に聞こえるように、聞き逃しなんて許さない。
君は僕を幸せにすることなんて許さない。
僕はその一心で、僕の最愛の人を拒絶する。
「ただ、僕の隣に居てよ!何もしなくていいから、僕のことを無視したって、蹴飛ばしたっていいよ。」
「バカ…だね、リク…君。それ…じゃ、す…きなひ…とに一緒にいる意味ない…よ。」
腕の中から消えそうな程小さい声が聞こえる。愛おしい声。僕の大好きな声。
でも、その全てが僕は憎かった。
僕が希空さんを愛おしいと思う度に、希空さんが「死」に近付く。
神様はどうして、こんな下らない願いで希空さんを振り回すんだ。
不公平だろ!馬鹿野郎!
心の中で叫んでも、彼女の灯火はだんだんと弱くなっていくように感じた。
少しずつ、希空さんは目を閉じる。
「希空さん!」僕は彼女の肩を叩いて必死に呼びかける。
どこかに彼女の意識が行ってしまわないように。
認めたくない。
だって、これからじゃないか。
告白して、付き合って、一緒にデートして。
お互いの知らないところをこれから沢山知っていくんだ。
文化祭が終われば、修学旅行がある。班別行動の時、僕はこっそり抜け出すんだ。
そして、京都駅の目立たないところで希空さんと落ち合う。2人で作った、2人だけの修学旅行の栞を持って歩き出す。
修学旅行が終われば、受験シーズンだ。
僕が図書室で勉強している時、君は時々消しゴムを飛ばしていたずらをしてくる。僕はそれでも勉強を続ける。
たまに、構ってあげる。ご飯は必ず一緒に食べる。合格祈願にも一緒に行く。
受験が終われば卒業式だ。僕の第二ボタンを希空さんに、僕は希空さんのスカーフを貰う。
遠距離恋愛になるからって希空さんが泣き出しちゃって、そんな彼女の隣で泣き止むまでそばに居る。
きっと、まだまだ楽しいことは沢山ある。今まで経験した悲しいことよりも沢山の楽しいことを2人で経験するんだろ。
ラーメンのメガ盛りだって、また食べよう。
今だって花火はこんなにも綺麗なんだよ。
それなのに、どうして眠っているの。希空さん。
もう届いていないかもしれない、手遅れなのかもしれない。
それでも、届くように叫ぶ。声が枯れても。
そのとき、希空さんの瞳がゆっくりと開かれる。声にならない微かな声がした。
僕は必死で耳を近づける。
「夢を見たよ。リク君。」
僕は涙が瞼から流れ出そうになるのに堪えながら、彼女に精一杯の笑みを浮かべる。
「どんな夢を見たの?」
「えっとねぇ。私がリク君にサプライズするの。仕事から疲れて帰ってきたリク君に、1枚の写真を渡すの。」
情けない泣き顔をさらしながら、僕は希空さんの夢の話を聞く。
彼女の消えてしまいそうな声が愛おしくて、悲しい。
「お医者さんで貰った、お腹の中を写した写真。そこにはね、小さな白い影があるの。」
「仕事から疲れて帰ってきたリク君にね、私はその写真を見せるの。するとね、リク君は家の中で思いっきりジャンプして子供みたいに喜んでさ。そしたら、リク君はジャンプした勢いで転んじゃうのよ。」
絞り出す声。少し笑い声がした気がした。
僕はもう耐えられなかった。今すぐ、この時を止めて欲しかった。
「私はね、リク君に言ったんだ。子供ができたのに、リク君が子供に戻っちゃダメでしょって。」
「それから、リク君は反省してね、私の大きくなったお腹を撫でてくれたんだ。2人で静かに、お腹の音聞いたりして、いつ生まれるかなあって話したりして、お腹が空いたらご飯を食べて。そんな夢。」
そこから先、希空さんの続く言葉はなかった。
彼女は眠り姫のように、穏やかな表情で僕の腕に埋もれている。
「隣りにいるって、約束したじゃないか。」無尽蔵の涙が僕の眼と鼻から流れ出る。
僕から滴り落ちる雫が彼女の頬を濡らす。
おとぎ話だったら、ここで眠り姫は奇跡の目覚めを果たすのだろう。
でも、希空さんの穏やかな表情が崩れることはなかった。
さようなら、希空さん。
そんな言葉を僕が言えるわけがない。
奇跡はいつか必ず起きるって信じてやる。
信じ続けて、いつか奇跡を実現してやる。
いつか、人間も人工知能も同じように生きられる世界を作って、僕らはまた一緒に過ごすんだ。
「希空さん。」
僕はどうしようもない程に弱々しい声で、彼女の名を呼んだ。
希空さんが目覚めたら、またちゃんとするから。
だから、今だけは弱い僕を許して欲しい。
泣き虫で無力な僕をどうか許してほしい。
外気温が低下するに従い、僕の身体は冷やされていく。
花火が終わった。生徒たちの歓声が終わった。
祭りの後の寂しげな夜空の下。
僕は、その小さな体が冷えてしまわないように、彼女を強く抱きしめた。
不機嫌な駆動音を鳴らしながら、車は螺旋状に連なる山道を進んでいた。
そこは岐阜県のとある山間地帯。
山々が人間と同居しているような場所で、僕は自然の風に揺られながら、山の頂上付近に設けられた建物を目指して車を走らせている。
きっかけは、探偵事務所からの数年ぶりの連絡だった。探している人に近しい人物について目撃情報があったという。
情報はそれだけだった。
でも、この数年間情報という情報がなかった。今回の話は僕にとって希望だった。
見込みが無くても良い。人違いであっても構わない。僕はとにかく、自分の眼で見て確かめるべきだと思った。
螺旋状の山道を抜けると、そこには開けた土地が見えた。木々が生い茂る中に、小さな白い建物。
「あれか。」
ついに目的地に到着した。僕は駐車場にて車のサイドブレーキを引く。
自分の手が震えていることにようやく気づいた。
積み重なった重圧が僕を苦しめる。目尻に水がたまったのでそれをハンカチで拭き上げると、施設の入口へと向かった。
受付を済ませて、アポイント先の担当者のもとへと進む。
「あら、遠くから大変だったでしょう。」
黒色のジャケットを着た白衣姿の女性が僕にそんな言葉をかけてくれた。
その人は自らを婦長と名乗った。瀟洒な中年の女性。
「お電話を受けてくれたのは、貴方ですか。」
女性は頷き、僕を別室へと促した。
壁には人間よりも背の高い窓が取り付けられている。そこから差し込む陽光に自然と心が洗われる気分になる。
「お気に召しましたか。」
婦長の女性は恍惚とする僕の顔を見て、微笑む。
「たくさんの不幸を経験した人達、これから不幸と立ち向かわねばならない人達。そんな方々を少しでも長くお支えするのが私達の仕事ですので。建物のレイアウトにも気を配るようにしているのです。」
「ここは終末医療を提供する場です。患者様の多くは余命幾ばくと宣告された方々です。」
死を予告された人々、自分の運命を受け入れられず苦しむ人々。ここはそんな人々が住まう終の場所だ。
「私は患者様に少しでも未来に希望を持って、最後の時を生き抜いて欲しい。仕事を続けて、30年近くになりますけど、その思いは捨てずにやってきました。今では、安楽死を推奨する病院ばかりが増えてしまって、私のような考えを持つ病院は見なくなってしまいましたけどね。」
そう言う婦長は笑っていたけど、言いようのない感情を隠しているような気もした。
ここまで、彼女はどれほどの悲しみと別れを経験したのだろう。僕は想像できない。
「私達は時代に取り残されたんです。もの凄い速さで変わってく時代にとって、私達はいらない存在なのかもしれないと何度も思いました。その度にこの病院に意味はあるのだろうかと問い続けていました。」
「けれど、1年前。とある新人の看護師がピアノを弾いたのです。ここの談話室にある、長く使われなくなったピアノです。」
僕は気づけば前のめりになって、婦長の話を聞いていた。
「驚きました。彼女の奏でる伴奏は、本当に素晴らしいものでした。仕事中の私も心を奪われて、すぐに談話室へと駆け込みました。すると、もっと驚くことが起きていたのです。」
「それは、なんです?」
僕が食い入るように聞く。婦長は口元を隠して優しく笑った。
「山田さんっていう筋ジストロフィーを患った患者様がおりました。症状がだいぶ進行していて、身体の筋肉を動かすことができなかった。いわゆる寝たきりの状態です。」
「彼は驚くことに、車いすの上で頭を上下に揺らしてリズムをとっていたのです。」
「私はこの歳になっても、人の可能性が限りないということに気づかされました。自分がまだ勉強不足だともひどく痛感しました。私達が何年かけて治療しても動かすことができなかった身体。それをあの新人さんの伴奏ひとつでどうにかしてしまったんですから。嬉しいけど、少し悔しかったですよ。」
僕は胸が熱くなるのを感じる。時は経ったという事実は分かっているけど、僕は彼女の面影を重ねてしまう。
「貴方もご存じの通り、その人は人間ではありません。でもね、私は人間か人工知能かなんて、正直どうでもいいんです。鍵盤に込められた旋律と思いが私には伝わりました。とても暖かい音でした。きっと、多くの人に愛されてここまで来た。そして、人の痛みが分かる子なんだと確信しました。」
昔日を懐かしむように、遠い目をする婦長。
「誰かを大切に思う気持ち、助けたいという気持ちに人間も人工知能も違いはありませんから。」
婦長は懐かしげな表情で、そう付け加えた。
「彼女がここに来るまでの話を聞かせてくれませんか。」僕が問いかけると、婦長は紅茶を注いで僕に渡す。
「彼女がここに迷い込んだときには、体は傷だらけで服もぼろぼろでした。私は当初、身寄りの無い子か家出した少女であると思いました。まずは暖かい紅茶をいれて、ふわふわの毛布で彼女を包んで、それから話を聞いてみたのです。」
「彼女は自分のことをアンドロイドだと言いました。ですが、過去の記憶も使命もその彼女には残されていませんでした。きっと、とても悲しい経験をしたのだと思います。彼女はそう言う意味で「家出」をした人工知能だったのかもしれません。」
「でも、婦長さんが彼女を引き取ってくれたんですよね。」
僕は温かい紅茶を口に含みながら、一瞥する。
「私はあの子の悲しい瞳が昔の私にそっくりだったことに気がつきました。絶望の中で必死にもがいて苦しむ彼女と昔の私が重なって見えたのです。進化を求め続けるあまり社会が手放してしまったものを私が取り戻そうと思いました。私は救いを求める人々の手を握るためにこの病棟を建てました。私は人を救うためにここにいる。ならば、救いを求める彼女を放っておく理由はありませんでした。」
「使命を失ったはぐれ者の人工知能達は通常、機関に処分されてしまう末路です。だからこそ私は、ここに行き場を失ったアンドロイド達の居場所を作りました。人間の都合で不幸な運命を背負った彼女たちが多くの人間と関わりながら、安らぎを得ることのできる空間です。」
「どんな過酷な運命が道を塞いでも、みんなが前を向いていられるように、私はまだここで看護師として働く彼女たちを見守っていきたいと思っています。」
婦長の言葉が僕の心に響き渡る。
「まあ、私の話なんかどうでもいいでしょう。これから2階で演奏会が始まります。行きましょう。」
そう言って、婦長がゆっくりと立ち上がると、僕に手招きする。
2階へ向かうと、既に演奏会は始まっていた。
そこには車いすに乗る患者達と白い服に身を包んだ看護師。
それに、ピアノを奏でているのも白衣姿の若い女性だった。流れるような黒髪が遠くからも、彼女の清廉さを表している。
演奏は格別だった。絶望へ向かう人を前向きにさせてくれるような、名状しがたい魅力があった。
「どうでした。あの娘、素晴らしい伴奏でしょう。」婦長が隣で嬉しそうに話す。
「ええ、とっても良かったです。」僕は微笑みで返す。
僕と婦長は談話室の最奥に置かれた小さなソファに並んで座っている。
「婦長はピアノは弾かないのですか。」
僕が軽くそう言ったら、婦長は恥ずかしそうな顔をして笑った。
「私は下手なんで。とても聴くに耐えませんもの。」
ふと懐かしさが込み上げて微笑する。
「ところで、あの娘とあなたは一体どんなご関係なのでしょう。最初に知り合いとお聞きしてましたが。」
婦長はふとそんな疑問を投げかけた。
婦長の優しげな言葉は、静かに流れる川の中にいるような心地になる。
「ごめんなさい。婦長さん。僕は嘘をつきました。」
「え? どういうことですか。彼女はあなたの知り合いではないのですか?」婦長は眼を丸くしてそう聞いた。
透き通るようなブルーの瞳。
それは、あの頃の教室で見たときから変わらない。
相変わらず、彼女は綺麗だ。
「婦長さん、僕は貴方に会いに来たんですよ。」
僕が喉を震わせながら答えると婦長は押し黙った。
「えっと、どういうことです?」
きょとんとする顔もなんだか懐かしかった。
皺を刻んだ僕の右手を彼女の左手に添える。
それから、あの頃のようにはにかむように笑ってみせる。
「久しぶりだね、希空さん。」
彼女の瞳が揺れた。
「嘘、リク君……。なの?」
青色の水晶体に僕を捉える彼女。
皺だらけになった顔を見ているけど、その瞳の裏には花火に映える「あの日の僕」がいた。
「いろいろ回り道をした。予定よりも遅くなってしまったけど、君を迎えに来たよ。」
僕の言葉に皺を重ねた希空さんの顔が綻ぶ。
言葉はそれ以上でなかった。希空さんはただただ僕の瞳を真っ直ぐと見つめていた。
「そんな、私はもうリク君の好きな可愛い子じゃないもの。」
「それでも、君は変わらない。僕の大好きな希空さんだよ。」
「もう恋なんてする歳じゃないわ。」
「恋に理由はいらない。そうだろ?」
「本当に、変わらないのね。リク君。」
僕は手を握った。
あの日の夜空の下、君のことを温めることができなかった分、僕は力強く、そして優しく、彼女の手を握った。
希空さんは咄嗟に俯く。
そして、思い切って僕の顔を見ると、その頬には涙が伝った。
「また恋をしてもいいかな、希空。」僕がそう言うと、希空さんは太陽のように微笑みかけた。
「ずっと、待ってたんだから。お帰りなさい、リク。」
長い時間がかかった。世界は変わらなかったかもしれない。
人工知能と人間が同じように生きるにはまだまだ時間がかかるかもしれない。
それでも僕は諦めなかった。
希空さんがどこかで生きていると信じて、僕はひたすら彼女を探し続けた。
そして、奇跡は起こった。希空さんに会えた。
この数十年、君と経験できなかったことがある。
君に伝えられなかった言葉がある。
君に見せたかったものがある。
君と行きたかった場所がある。
これからはじっくりと、少しずつ、時間をかけて一緒にいられたらと思う。
だからもう一度、僕は機械少女《希空》に恋をするんだ。
完