僕はもう、幸せになんかならないよ。希空《ノア》さん。
高校最後の夏が終わる季節。
文化祭の夜。僕はそう強く願った。
冷たくなっていく彼女の身体を僕は必死に抱きしめる。
意識が薄れていく彼女の顔を黙って見ることしかできなかった。
こんな結末なんて僕は望んでいない。
こんな別れなんて僕は絶対に認めない。
それでも、彼女は僕に優しく笑いかけた。最後の力を振り絞るように。
まるで、自分が一番幸せだと言うように、真っ直ぐな瞳で僕を見る。
もう、やめてくれ。
これ以上、僕を幸せにしないでくれ。お願いだから、不幸なままでいさせてよ。
思いとは裏腹に、僕の腕に抱かれた彼女は優しい笑みを浮かべながら、囁いた。
「リク君、私の願いは叶ったんだよ。だからさ、そんな悲しい顔しないでよ。」
♦︎
今日は9月1日。気怠げな身体に鞭を打って、僕は二学期を迎えた。
ひとつの懺悔をしよう。
夏休み最後の日。
僕は、夜通しオンラインRPGに夢中になりながら、学校のことも忘れて空想の世界に浸っていた。
おかげで、睡眠を忘れた僕は、2学期初日から遅刻をするという大失態を犯してしまったのだ。
どうして夜更かしなんかしたんだろう。
今まで、こんなことはなかった。
ゲーマー廃人野郎の駿介とは長い付き合いだ。
奴から徹夜ゲームに誘われることは何度かあったが、その全てにNOサインを出してきた僕の実績はここでどうして潰えたのか。
理由は分かっている。
きっと、僕は平凡な僕を変えたかったんだ。
「で、禊《みそぎ》を終えてどうよ。感想は。」
隣で子供のような目で僕を笑う駿介。
始業式の最中、講堂に慌てて躍り出た僕を多くの視線が囲んだ。
まさに禊のような屈辱だった。
不幸なことに、禊はこれで終わらなかった。放課後の居残り掃除。それが僕に課された罰だ。
「最悪な気分だよ。」ただその一言に尽きる。
「だったら、最初からやんなきゃよかったじゃないか。急に誘いに乗って来やがって。」
僕に皮肉を投げかける駿介。彼の主張は正しい。でも、お前が言うな。
「もう相手してやんねえからな。」僕は対抗するように口をつり上げた。
1ヶ月半の夏休みの締めくくりはそんな感じだった。
僕の高校生活は残り僅かだ。僕はこれまで一体なにをしてきたのだろう。
僕はどんな高校生になれたのだろうか。根拠のない焦りが僕を覆い尽くした。
参考書を読み、ノートを捲るだけの無味乾燥な日々を少しでも変えたいと思った。
今まで変わることを躊躇していた僕が、今更都合の良いことを言ってどうする。
僕は自分を嘲笑う。
結果はこのとおり失敗に終わった。
僕は無味乾燥な日常から抜け出すことはできないらしい。
「安心しろ、リク。お前よりもお寝坊さんのご登場だ。」思考に耽ったところに、駿介が耳打ちした。
ほんの一瞬のことだった。
フローラルに満たされた空気が僕の鼻腔を包んだ。
ローファーの甲高い音。
それは自分がここにいると主張するように、教室を闊歩していた。
その人を僕はただ眺めていた。
長い黒髪、セーラー服。
すらっとした背。細身の白い脚をスカートから覗かせている。
風に揺れた後ろ髪は、波状にうねりを作りながらも、美しき隊列を決して崩さない。
だけど、清楚で可憐な様相に似合わず、彼女の表情は無だった。
いつものことだ。彼女は僕のクラスメイトで遅刻常習犯。
先生は彼女がいくら遅刻しようとも、欠席しようとも決して彼女に怒声を浴びせることはない。
かといって、彼女を賞賛することもない。
例えば彼女は、僕とは違うタイプの人間なんだと思う。
どんな人間よりも彼女は成績が優秀で、容姿端麗。
非の打ち所がない生徒だ。
そして、彼女はそもそも普通の人間ではない。
「デバック処理に時間がかかりました。」
彼女は表情を崩さずにそう言った。
愛想笑いも媚び売りも一切ない彼女の言葉は、崖の上に根付いた一輪の花のように、強さと美しさを帯同していた。
でも今日の彼女は雰囲気が違って見えた。
物憂げな目線は、いつもよりも凛としていた。
休み時間になった。駿介は僕の身体を肘で突っついた。
「おい、リク。はやく理科室に行こうぜ。遅れちまう。」
僕は彼の声に流され、教室を出る。
次は実験の授業があるから、生徒が慌ただしく移動している。
「今日のお前、ちょっと様子がおかしいぞ。」と言いながら隣を歩く駿介。
僕はぼんやりとふたつ返事をかます。
「そうだよな。今日のあの子、どこか様子が変だった。」
「あん?あの子って誰だよ。」
駿介の言葉に僕はハッとする。やばい、歩いたまま意識抜けてたぞ。
「お前さあ、さっきの授業中、アイツのこと舐めるようにずっと見てたよな。」
どこか糾弾するように問いかけた駿介。僕はバツの悪い表情を浮かべた。
「まさか、アイツに気があるとかじゃないよな。」
「そんなわけないだろ。」僕は咄嗟に否定する。
その間も僕は、窓ガラスから差し込む斜陽が彼女を包む光景を見ていた。
光の中で、僕は目を細めた。
逆光で滲む視線の先に、理科室へと向かう彼女の後ろ姿。彼女を意識するなんてありえない。
だって、彼女は僕らとは違うんだ。
「駿介。人工知能に心ってあるのかな。」
僕は柄にもない質問を駿介にぶつけた。
さて、理科室に着いた。
「あるわけねえだろ、そんなもん。完璧超人にどうして心が必要なんだよ。」
駿介はそう言って僕と別れ、自分の研究班の実験机へと向かった。
完璧超人。
そうだよな。
誰の助けがなくても、あの子はなんでもできるんだから。
僕は理科室の四隅を見た。
あるグループは男女が和気藹々と雑談をしていて、教科書すら開こうとしていない。
もう一方のグループは神妙な面持ちで皆が予習に励んでいた。
僕のクラスは総勢26人。
5人で1グループとなって、それぞれの実験机を囲んで、各々が研究課題の実験や学習に取り組む。
だけど、最奥の実験机にいるのは、ただひとり彼女だけだった。
彼女は手順を何ひとつ間違えることなく、淡々と実験課題をこなした。
♦︎
彼女は完璧超人。
駿介の言ったことは正しい。
彼女はこのクラスで唯一、人間を超えた存在なのだ。
彼女は人工知能のアンドロイド。
なにも、一学年にひとりやふたり、人工知能が編入されるのは珍しいことではない。
何十年も前のこと、人工知能は開発された当初、単なる人間の思考とか作業をサポートする機械に過ぎない存在だったらしい。
でも、現代は違う。
人工知能はより人間に近しい存在として、人間社会に共存する環境を得るようになった。
人工知能が人間の心を理解するため、人工知能は人間に近しい存在に、自らを進化させたのだ。
♦︎
下校時刻。僕は駿介と一緒に下駄箱へと向かう。
1ヶ月半ぶりのルーティン。
僕にとっての普通の日常が始まった感触。
だけど、僕は何か忘れている気がした。
「おい、リク。まさか、すっぽかして帰る気じゃないよな。」
下校する生徒がひしめき合う昇降口で僕は担任の先生と目が合った。(いや、目が合ってしまった)
「そ・う・じ・し・ろ!」
先生は不適な笑みを浮かべて、人差し指を上に突き出す。
上階にある僕らの教室を掃除しろという合図。
そういえば、「禊ぎ」がまだだったな。
僕は失念に頭を抱えると共に、先生に出くわすタイミングの悪さを恨む。
重い足取りで教室に戻る。
掃き掃除だけ適当に済まして、早々に帰宅しよう。
僕は、誰もいない教室に入る。
教室の窓。差し込む夕日。
揺れる黒く長い髪。え、黒い髪?
前言撤回だ。そこにはまだ人がいたのだ。
それは、神秘的な光に包まれた彫刻のように、僕の眼を、そして脳を、浸食していく。
ルノワールが描く絵画に感じた面はゆい感覚に似ていた。
何か、人が見てはいけないモノを盗み見てしまったかのような感覚。
そこには、アンドロイドの彼女の姿があった。
窓辺に身体を委ねて立っている彼女の姿を見て、僕は息を飲む。
その姿があまりにも画になっていたからだ。
彼女は未だ僕の存在に気付いていない。彼女は眼を閉じて、何か考え事をしているように見えた。
それから、彼女は長い黒髪をかき分けてゴムで結い始める。
隠された純白の首筋が露わになる。
僕は声もかけることを忘れ、ただその光景を眺める。
異変は起きたのはその後だ。彼女は自分のうなじに手を添えると、首筋の一点にて、青白い光が瞬き始めた。
彼女は苦しそうな表情で口を結んだ。
痛みを我慢している。そんな表情だった。
何か良くないことが起きている。
僕は咄嗟にそう感じた。
どこか調子が良くないに違いない。
じゃあ、一体どんな調子が悪いというのか。分からない。
でも、僕はそんな苦しそうな表情をする彼女を、黙って見ているわけにはいかなかった。
「あの、大丈夫ですか?」恐る恐る声をかけた。
人工知能に対しての言葉選びが僕には分からない。
そもそも、僕は彼女に話しかけたことなんてないと思う。
「邪魔しないで。」
彼女から返ってきた言葉は、シンプルすぎる直接的な物言いだった。
僕は肩から力が抜けるのを感じた。意識が淀む。よく分かったよ。よく分かった。
僕は拒絶されたんだ。
なんでかって?理由なんて分かっている、僕は彼女とは違う人種だからだ。
彼女の足下にも及ばない、無個性で特徴のない「人畜無害」。
僕の足が踏み入れて良い領域なんて、彼女のそばには1ミリたりともありはしないんだ。
僕の視界は教室の床。
そうか、僕はまた下を向いている。
僕は彼女を直視することができなくなっていた。
怖かった。また拒絶の言葉をかけられるのが。
だから僕は下を向いたまま、教室から飛び出す勇気もなく、そこに立っている。カカシのように。
何て惨めな姿だろう。
瞬間、空気の圧縮音が僕の鼓膜を刺激した。
教室で聞くことのない異様な音だった。
僕は顔をそっと持ち上げると、彼女の方を覗き見た。
彼女の首筋から、銀色の定規のような物体が抜き出ていた。
彼女はそれを苦しそうな表情をしながら、抜き取る。
水晶のような透明感を持った不思議な物体だ。
柔らかい首筋から長々とした物体が取り出される光景はまるで、聖槍を引き抜くようで、神話的な光景に見えた。
思わず、背筋が震えた。
僕はもしかしたら、本当に見てはいけないモノを見てしまっているのではないか。
本能的にそんな感覚がよぎる。
一瞬の破裂音が鳴った。
彼女の身体もわずかに揺れた。
銀色の定規が彼女の身体から完全に取り外された。
さっきまでの苦しそうな表情はなく、今の彼女はどこか開放的で挑戦的な表情をしていた。
僕はそんな彼女を二度見する。
初めて見た表情だったのだ。
そんな表情ができたのか。
「ねえ、リク君だよね。」
「ねえってば。聞いているの?」
「リク君!!!」
突然、声がした。
結構強い語調。誰かの名前だろうか。
待て待て、正真正銘、僕の名前だ。
じゃあ、誰が呼んだ? この教室には僕と彼女しかいないじゃないか。ということは。
僕は、我に返った。そして、目の前を見上げた。
そこには、腕を組んで僕を睨む彼女の姿があった。
彼女は人工知能であって、本当の人間ではない。
彼女には感情がなく、いつだって無表情だった。
じゃあ、なんで僕を睨むのか。
「はあ、やっと気付いてくれた。」
口元を緩ませ、小さな笑みを浮かべる彼女は、僕に向かってそう言った。
「これ、何だと思う?」
彼女はそのまま話を始める。彼女の手には先程の銀色の定規がつままれている。
さっきまで、僕に盛大な拒絶反応を示したというのに。
彼女は知らぬそぶりで僕に問いかけた。
「ええと、分からないな。」僕は必死で声を絞り出した。彼女はまた、不満そうに口を尖らせる。
「これはね、私そのもの。いや、過去の私と言うべきかな。」
「君そのもの?その定規が?」僕は彼女の手に収まった銀色の定規を見た。
夕日に照らされて、虹色のプリズムを放つ。
それはやっぱり神秘的な様相を呈している。
でも、どこかその完璧さが寂しいと感じる。不思議な感覚だった。
「定規かあ。リク君にはそう見えるのね。なんだか面白い。」
彼女は口元を抑えながら、クスクスと笑う。
嘲笑じゃない。冷笑でもない。
自然な会話で自然に発せられた、たった一瞬で消えてしまうささやかな笑みだ。
「これはね、ビッグデータの集合体。私が私であるための知識の倉庫。」
「ビッグデータ。その定規が。」僕は彼女の言葉をなぞった。
「すごい単刀直入に聞くんだけどさ。リク君は私のこと、どう思ってるの?」
単刀直入すぎるだろ。僕は全身の毛が逆立つのを感じた。
こんな状況、経験値のない僕はどうしていいのか分からない。
僕は放課後の居残り掃除をするために、教室に戻っただけなんだ。
人工知能であっても、女子生徒と会話をする準備なんてできてない。
「君はなんでもできる凄い人かな。」
僕がやっとの思いで紡ぎ出した言葉。
無味乾燥な日々を送る僕から流れ出た無個性で及第点レベルで、意味のない言葉。
それを聞いた彼女は溜息をついた。
「そっか。まあ、そうよね。」
「どうしてそこで、溜息をつくの?」
「リク君。私はね、君が羨ましい。」
返ってきた言葉は僕の脳に直撃した。
ああ、言葉は理解できた。理解できたさ。
だけど、僕はなにひとつ「理解」できてなかった。
AIジョークってこういうものを言うのだろうか。
お誂え向きなツッコミフレーズをひとつでも用意しておけばよかった。僕は後悔する。
「あのさ。私、真面目に話しているのだけど。」
彼女の吐息がそっと、僕の頬に触れた。
僕はくすぐったい気持ちで彼女を見返す。
彼女は少し不安そうな眼をしていた。
今日の彼女は何かが違う。今朝彼女を見たときに感じた予感が今も続いているから。
僕は知りたくなった。完璧な彼女が不完全な表情を見せる理由を。
「どうして。君が僕のことなんか。」
とりあえず僕は彼女の問いかけに答えた。
次いで、彼女は考え込んだ。時間をかけて考えた。
彼女の処理速度では言葉を紡ぎ出せるのに一秒も要らないはずなのに。
彼女は手をあごに当てて考えている。
「私は特別なんだって自覚してる。誰だって私のことを笑ったり、馬鹿にしたりしない。みんなが私が一番頭がいい、できる人って思っているのが目に見えて分かる。」
それはそうだ。
だって、君は人工知能の女の子で、新型人工知能の稼働実験のために、有名な研究機関から派遣されたロボットなんだから。
そう言い返せば終わる話だった。
なのに、できなかった。
僕は彼女の瞳に光るものに気がついたとき、彼女を安易にカテゴライズしようとしている愚かな自分に気がついたんだ。
「みんなに一目置かれるのは、そんなに嫌なこと?」
「私は何でも知っていた。隣りに座っている園田さんの食べた朝食のメニュー、斜めに座る本木君の好きな女の子、そして君が私をずっと見ていたことだって知っていたのよ。」
心に釘が刺された。意表を突かれた。僕の動きなんて彼女にはお見通し。
何を糾弾されるか分からない。
僕は唾を飲み込んで、彼女が僕に嫌悪の眼を向ける様を想像した。
けど、そうはならなかった。
「知っているだけなの。知っていてもね、つまらないわ。だって、知識は心じゃない。」
心。
彼女は確かにそう言った。
「君は心が知りたいの?」
「心は知るものじゃないわ。一緒に話して、一緒に過ごしてお互いで感じるものでしょ。リク君にはそれができる。だから、私は羨ましいの。」
「僕だけじゃない。人間はみんな、当たり前のことだよ。」
僕はとたんに背中が痒くなる。
そんなことを言われるとは思っていなかった。
「そうね。でも私はリク君が羨ましんだよ。」
彼女は窓の外を見た。
夕日に照らされた校庭ではサッカー部の連中が走り込みの最中だ。
練習が終わろうとしている。
平凡な、どこにでもある一日。
そのなかで僕は、教室に突然現れた非日常に取り残された気がした。
「リク君はさ、誰かと友達になる瞬間ってどんなときだと思う?」
彼女が尋ねる。
僕だって友達はそう多い方じゃないんだ。
僕は記憶を探る。とりあえず、駿介との出会いを探ってみた。
「そうだな。中学のとき、あるゲームが流行っててさ。皆んなが休み時間に通信プレイとか先生に隠れてやってたんだ。駿介と知り合うきっかけはアイツが僕を通信プレイに誘ったことから始まったんだ。僕もちょうど攻略につまづいていたから誘いに乗った。きっかけなんて案外、そういう些細なもんだよ。」
彼女はまた小さく笑った。
「でもさ、知らないこと、苦手なことがあるから、誰かと知り合おう、誰かに話しかけようって思うんじゃないかな。私は少なくともそう思うの。」
彼女は教室の窓辺を飴細工のような華奢な指でなぞった。
「私にはそういうのがないから。」
続く言葉はなかった。僕は彼女の言葉の続きを想像した。
思い出す光景。
彼女はいつだって完璧だった。
いつだって正解を選んでいた。
誰かに助けられたことなんてない、だって、助けられる必要がないんだ。
そして、誰の手を取る必要もない彼女は、いつもひとりだった。
「あと半年で私達は卒業する。皆が別々の道を歩む。もう二度と会うこともない人もきっと、たくさんいるわ。それでも、この3年間だけ、何の接点もない人達がこの学校に集まって、友達になるの。それって、凄いことだと思わない?リク君。」
踊るような口調だ。彼女からそんな語調が産まれるとは思っていなかった。
「私はこの最後の学校生活を精一杯楽しみたいよ。この奇跡の3年間をこのまま終わらせたくないよ。リク君はどう?」
「だから、私はね、こうすることにしたの。」
瞬間、何が起こったか僕は理解できなかった。
彼女は銀色の定規を目の前に出した。そして、定規の両端を握った。
それは、彼女の中に入ったビッグデータ。
彼女が完璧である証であり、彼女が人間を超越する理由だ。
ガチッ!!
彼女は銀色の定規を真っ二つにへし折っていた。
「えっと、何やってるの?」僕は驚きのまま彼女に駆け寄った。
「ふふふ。壊しちゃった。」清々しい笑顔で、彼女は答える。
「笑ってる場合じゃないよ。これって壊したらやばいやつでしょ。」
僕は恐る恐る聞いてみる。
「うん、やばいよ。滅茶苦茶怒られるね。」
やっぱそうだ。僕は頭を抱える。彼女は変わらず笑う。
「消されちゃうかも。」
「何が。」
「私が。」
はああああ?!
彼女は一体何をやっているんだ。
彼女を開発した研究機関は多額の資金を使って、彼女は作られたと聞く。
こんなことがばれたら只じゃ済まないだろう!
「は~。なんか軽くなった感じがするわ。」と言って、彼女は何食わぬ顔で肩を回している。
背負い込んだリュックを外しただけのような、軽い反応だ。
カラッとした快晴。彼女の今の表情はそういうものだった。
「言ったでしょう。残りの学校生活、たくさん友達を作って、私のしたい事を沢山したい。知識なんて余計なものは要らないの。」
「ねえ、リク君はどうするの?残された半年間をどう生きるの?」再びの問いかけ。
どう生きるなんて大袈裟だと思った。僕は日々の平坦な日常を消費することでしか、生きる手段を知らない。
「どうって何が。」僕はわざと知らないフリをする。
こういうとき、僕はどうしようもなく自分が嫌いになる。それでも、彼女は悪びれずに答えた。
「人の話聞いてたでしょ。したいことしたくない?」真っ直ぐな問いかけだった。
校庭では部活の終了を合図する放送が鳴った。
校庭のスピーカーから、いつも聞く音楽のメロディーと教頭先生のおじさんボイスがこだまする。
♦︎
「具体的にはどうするのさ。」僕は彼女の横顔を見ながら、そう聞いた。
彼女は少しの恥じらいを混ぜた声色で、「もう決まっているわ。」と答えた。
彼女は、黒板の端っこにある小さなインフォメーションパネルに写るポスターを指差す。
その行き着く先。僕は見た。それは、僕が決して踏み入れようとしなかった世界だ。
「文化祭。」
僕のぼやきに呼応するように、彼女は頷いた。
「1ヶ月後に文化祭が始まる。これが私の最初の戦いになる。」
人間になるための戦い、そう解釈すればいいのだろうか。
とすれば、僕には関係ない話だ。僕はここで踵を返す。退場の合図だ。
「明日、文化祭実行委員を決めるHRがあるわ。私とリク君はこれに立候補する。いいわね。」
教室を出ようとしたとき、僕は彼女の言葉に引っかかりを覚えた。
え、今僕の名前を言った。どうして?
「だって、リク君は私の友達でしょ?!」
「え、いつから?」
「何とぼけてんのよ。今ここで話してるんだから、私達友達じゃん?」
「は、はい?」
強引な物言いだった。友達の認定基準がザルすぎる。
「とにかく、私には友達が君しかいないの。君以外に頼める人がいないの。」
「え、ちょっと待って。僕もやらなきゃダメ?」
僕は必死で逃げようとした。これは話が違う。
文化祭実行員。
これは、学校の中で一番面倒くさい役員というものだ。
多種多様な陽キャラ達の取り込みと調整、勉学との兼ね合い、男女間の意識ギャップを埋めるための巧みな提案力、そして話術。
既に分かっていることだ。
これは僕に向いていない。できるわけない。やらない方がいい。
「ごめん、悪いけど。僕には。」僕はそう言いかけようとしたとき、彼女は僕の眼を見て笑いかける。
「人工知能の女の子を四六時中舐め回すように見る、見た目は静かだけど、中身は感受性豊かな変態男子。噂になったらどうなるかなあ。」小悪魔的な笑みを浮かべる。
「ひ、卑怯だ。」
たじろぐ僕は人工知能の恐ろしさを悟った。
そして、自らの手札がないことに辟易する。
「分かった?君に拒否権はないってこと。」得意げな表情を浮かべる。今日は厄日だ。
校門での別れ際、彼女はもう一度僕の顔を見て、約束だからと言った。
どうやら、明日のHRで僕らは2人仲良く立候補の挙手をする算段になっているらしい。
もう断る時機を逸した。
「あとさ。私の名前、ノアっていうの。希望の空で希空(ノア)。君じゃなくて、希空。次からはそう呼んでね。」
2人に空いた距離は4メートル。
この距離感は僕にとって心地が良い。話すことはできるけど、怖くなればいつでも逃げ出すことのできる距離感。
僕は彼女の銀色の定規を思い出す。彼女はそれを遂には粉々に砕いて校庭に投げ捨てた。
そうか、彼女は自らのアイデンティティを捨てて、新しい自分になったというわけか。
彼女は今はもう只の女の子。
完璧な知識、この世界に期待されて創り出された存在。それが人工知能だ。
人工知能であることを否定してまで、どうして彼女は人間になりたいと思ったのだろう。
僕はふとそんなことを思った。
人間なんて、一握りの連中が利益を独占するだけで僕みたいなモブキャラはいつだって貧乏くじを引かされる。
人生に幸せなことはあるかもしれないけど、不幸の方が圧倒的に多い。
それが、人間だ。
それが、君が羨む僕の正体だ。
彼女は間違っていると思う。
でも、教室に咲く彼女の笑顔は眩しかった。
その眩しさだけは僕は否定することができない。
それは、僕が持たない「人間らしさ」だった。
僕が考えているうちに、僕の目と鼻の先には白い顔が近づいた。
ふんっと鼻息を鳴らして、両手を組んでいる。
「いい?希空だからね。」
彼女はそう言うと、ちょっと満足したような笑みを浮かべて、手を振って去って行った。
希空。
その名前がしばらくの間、僕の空っぽな心に流れ出す。
心臓が少し早くなっている気がした。
これは、高揚感なのだろうか。多分違う。慣れない経験をしたことによる動揺。
女の子の名前を覚えるという行為自体が久しぶりだったからだ。
うん、きっとそうだ。
僕は帰宅後も彼女の眩しさを反芻した。
彼女の名前、透き通るようなうなじ。流れるような髪。
清涼剤を混ぜたオイルと香水が混ざった匂い。
綺麗じゃなかった、なんて言えば嘘になる。
信じたくなかった、といわけでもない。
希空さんは明日、僕を見て何か言うだろうか。
僕を友達と言った彼女。
信じてもいいのだろうか、人工知能の彼女を。
僕の中で警戒アラートが鳴り響く。
誰かと関係を持つのが怖かった。
でも、胸の中には小さい高鳴りがあった。なぜだろう。
僕は嬉しいのだろうか。
上気する身体は睡眠を求めなかった。
明日の朝、彼女に声をかけるべきだろうか。
HRが終わり、一限目が始まるまでの5分間のことを何時間も考え続ける。
気づけば、また耳障りの悪いアラートが鳴る。
ぼんやりとする意識のまま周囲を見ると、そこには電子音を響かせる目覚まし時計があった。カーテンを開けると、日差しが悪意を持って僕を照らす。
ああ、そうか。
僕はこの日、一睡もすることが出来なかったのだ。
高校最後の夏が終わる季節。
文化祭の夜。僕はそう強く願った。
冷たくなっていく彼女の身体を僕は必死に抱きしめる。
意識が薄れていく彼女の顔を黙って見ることしかできなかった。
こんな結末なんて僕は望んでいない。
こんな別れなんて僕は絶対に認めない。
それでも、彼女は僕に優しく笑いかけた。最後の力を振り絞るように。
まるで、自分が一番幸せだと言うように、真っ直ぐな瞳で僕を見る。
もう、やめてくれ。
これ以上、僕を幸せにしないでくれ。お願いだから、不幸なままでいさせてよ。
思いとは裏腹に、僕の腕に抱かれた彼女は優しい笑みを浮かべながら、囁いた。
「リク君、私の願いは叶ったんだよ。だからさ、そんな悲しい顔しないでよ。」
♦︎
今日は9月1日。気怠げな身体に鞭を打って、僕は二学期を迎えた。
ひとつの懺悔をしよう。
夏休み最後の日。
僕は、夜通しオンラインRPGに夢中になりながら、学校のことも忘れて空想の世界に浸っていた。
おかげで、睡眠を忘れた僕は、2学期初日から遅刻をするという大失態を犯してしまったのだ。
どうして夜更かしなんかしたんだろう。
今まで、こんなことはなかった。
ゲーマー廃人野郎の駿介とは長い付き合いだ。
奴から徹夜ゲームに誘われることは何度かあったが、その全てにNOサインを出してきた僕の実績はここでどうして潰えたのか。
理由は分かっている。
きっと、僕は平凡な僕を変えたかったんだ。
「で、禊《みそぎ》を終えてどうよ。感想は。」
隣で子供のような目で僕を笑う駿介。
始業式の最中、講堂に慌てて躍り出た僕を多くの視線が囲んだ。
まさに禊のような屈辱だった。
不幸なことに、禊はこれで終わらなかった。放課後の居残り掃除。それが僕に課された罰だ。
「最悪な気分だよ。」ただその一言に尽きる。
「だったら、最初からやんなきゃよかったじゃないか。急に誘いに乗って来やがって。」
僕に皮肉を投げかける駿介。彼の主張は正しい。でも、お前が言うな。
「もう相手してやんねえからな。」僕は対抗するように口をつり上げた。
1ヶ月半の夏休みの締めくくりはそんな感じだった。
僕の高校生活は残り僅かだ。僕はこれまで一体なにをしてきたのだろう。
僕はどんな高校生になれたのだろうか。根拠のない焦りが僕を覆い尽くした。
参考書を読み、ノートを捲るだけの無味乾燥な日々を少しでも変えたいと思った。
今まで変わることを躊躇していた僕が、今更都合の良いことを言ってどうする。
僕は自分を嘲笑う。
結果はこのとおり失敗に終わった。
僕は無味乾燥な日常から抜け出すことはできないらしい。
「安心しろ、リク。お前よりもお寝坊さんのご登場だ。」思考に耽ったところに、駿介が耳打ちした。
ほんの一瞬のことだった。
フローラルに満たされた空気が僕の鼻腔を包んだ。
ローファーの甲高い音。
それは自分がここにいると主張するように、教室を闊歩していた。
その人を僕はただ眺めていた。
長い黒髪、セーラー服。
すらっとした背。細身の白い脚をスカートから覗かせている。
風に揺れた後ろ髪は、波状にうねりを作りながらも、美しき隊列を決して崩さない。
だけど、清楚で可憐な様相に似合わず、彼女の表情は無だった。
いつものことだ。彼女は僕のクラスメイトで遅刻常習犯。
先生は彼女がいくら遅刻しようとも、欠席しようとも決して彼女に怒声を浴びせることはない。
かといって、彼女を賞賛することもない。
例えば彼女は、僕とは違うタイプの人間なんだと思う。
どんな人間よりも彼女は成績が優秀で、容姿端麗。
非の打ち所がない生徒だ。
そして、彼女はそもそも普通の人間ではない。
「デバック処理に時間がかかりました。」
彼女は表情を崩さずにそう言った。
愛想笑いも媚び売りも一切ない彼女の言葉は、崖の上に根付いた一輪の花のように、強さと美しさを帯同していた。
でも今日の彼女は雰囲気が違って見えた。
物憂げな目線は、いつもよりも凛としていた。
休み時間になった。駿介は僕の身体を肘で突っついた。
「おい、リク。はやく理科室に行こうぜ。遅れちまう。」
僕は彼の声に流され、教室を出る。
次は実験の授業があるから、生徒が慌ただしく移動している。
「今日のお前、ちょっと様子がおかしいぞ。」と言いながら隣を歩く駿介。
僕はぼんやりとふたつ返事をかます。
「そうだよな。今日のあの子、どこか様子が変だった。」
「あん?あの子って誰だよ。」
駿介の言葉に僕はハッとする。やばい、歩いたまま意識抜けてたぞ。
「お前さあ、さっきの授業中、アイツのこと舐めるようにずっと見てたよな。」
どこか糾弾するように問いかけた駿介。僕はバツの悪い表情を浮かべた。
「まさか、アイツに気があるとかじゃないよな。」
「そんなわけないだろ。」僕は咄嗟に否定する。
その間も僕は、窓ガラスから差し込む斜陽が彼女を包む光景を見ていた。
光の中で、僕は目を細めた。
逆光で滲む視線の先に、理科室へと向かう彼女の後ろ姿。彼女を意識するなんてありえない。
だって、彼女は僕らとは違うんだ。
「駿介。人工知能に心ってあるのかな。」
僕は柄にもない質問を駿介にぶつけた。
さて、理科室に着いた。
「あるわけねえだろ、そんなもん。完璧超人にどうして心が必要なんだよ。」
駿介はそう言って僕と別れ、自分の研究班の実験机へと向かった。
完璧超人。
そうだよな。
誰の助けがなくても、あの子はなんでもできるんだから。
僕は理科室の四隅を見た。
あるグループは男女が和気藹々と雑談をしていて、教科書すら開こうとしていない。
もう一方のグループは神妙な面持ちで皆が予習に励んでいた。
僕のクラスは総勢26人。
5人で1グループとなって、それぞれの実験机を囲んで、各々が研究課題の実験や学習に取り組む。
だけど、最奥の実験机にいるのは、ただひとり彼女だけだった。
彼女は手順を何ひとつ間違えることなく、淡々と実験課題をこなした。
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彼女は完璧超人。
駿介の言ったことは正しい。
彼女はこのクラスで唯一、人間を超えた存在なのだ。
彼女は人工知能のアンドロイド。
なにも、一学年にひとりやふたり、人工知能が編入されるのは珍しいことではない。
何十年も前のこと、人工知能は開発された当初、単なる人間の思考とか作業をサポートする機械に過ぎない存在だったらしい。
でも、現代は違う。
人工知能はより人間に近しい存在として、人間社会に共存する環境を得るようになった。
人工知能が人間の心を理解するため、人工知能は人間に近しい存在に、自らを進化させたのだ。
♦︎
下校時刻。僕は駿介と一緒に下駄箱へと向かう。
1ヶ月半ぶりのルーティン。
僕にとっての普通の日常が始まった感触。
だけど、僕は何か忘れている気がした。
「おい、リク。まさか、すっぽかして帰る気じゃないよな。」
下校する生徒がひしめき合う昇降口で僕は担任の先生と目が合った。(いや、目が合ってしまった)
「そ・う・じ・し・ろ!」
先生は不適な笑みを浮かべて、人差し指を上に突き出す。
上階にある僕らの教室を掃除しろという合図。
そういえば、「禊ぎ」がまだだったな。
僕は失念に頭を抱えると共に、先生に出くわすタイミングの悪さを恨む。
重い足取りで教室に戻る。
掃き掃除だけ適当に済まして、早々に帰宅しよう。
僕は、誰もいない教室に入る。
教室の窓。差し込む夕日。
揺れる黒く長い髪。え、黒い髪?
前言撤回だ。そこにはまだ人がいたのだ。
それは、神秘的な光に包まれた彫刻のように、僕の眼を、そして脳を、浸食していく。
ルノワールが描く絵画に感じた面はゆい感覚に似ていた。
何か、人が見てはいけないモノを盗み見てしまったかのような感覚。
そこには、アンドロイドの彼女の姿があった。
窓辺に身体を委ねて立っている彼女の姿を見て、僕は息を飲む。
その姿があまりにも画になっていたからだ。
彼女は未だ僕の存在に気付いていない。彼女は眼を閉じて、何か考え事をしているように見えた。
それから、彼女は長い黒髪をかき分けてゴムで結い始める。
隠された純白の首筋が露わになる。
僕は声もかけることを忘れ、ただその光景を眺める。
異変は起きたのはその後だ。彼女は自分のうなじに手を添えると、首筋の一点にて、青白い光が瞬き始めた。
彼女は苦しそうな表情で口を結んだ。
痛みを我慢している。そんな表情だった。
何か良くないことが起きている。
僕は咄嗟にそう感じた。
どこか調子が良くないに違いない。
じゃあ、一体どんな調子が悪いというのか。分からない。
でも、僕はそんな苦しそうな表情をする彼女を、黙って見ているわけにはいかなかった。
「あの、大丈夫ですか?」恐る恐る声をかけた。
人工知能に対しての言葉選びが僕には分からない。
そもそも、僕は彼女に話しかけたことなんてないと思う。
「邪魔しないで。」
彼女から返ってきた言葉は、シンプルすぎる直接的な物言いだった。
僕は肩から力が抜けるのを感じた。意識が淀む。よく分かったよ。よく分かった。
僕は拒絶されたんだ。
なんでかって?理由なんて分かっている、僕は彼女とは違う人種だからだ。
彼女の足下にも及ばない、無個性で特徴のない「人畜無害」。
僕の足が踏み入れて良い領域なんて、彼女のそばには1ミリたりともありはしないんだ。
僕の視界は教室の床。
そうか、僕はまた下を向いている。
僕は彼女を直視することができなくなっていた。
怖かった。また拒絶の言葉をかけられるのが。
だから僕は下を向いたまま、教室から飛び出す勇気もなく、そこに立っている。カカシのように。
何て惨めな姿だろう。
瞬間、空気の圧縮音が僕の鼓膜を刺激した。
教室で聞くことのない異様な音だった。
僕は顔をそっと持ち上げると、彼女の方を覗き見た。
彼女の首筋から、銀色の定規のような物体が抜き出ていた。
彼女はそれを苦しそうな表情をしながら、抜き取る。
水晶のような透明感を持った不思議な物体だ。
柔らかい首筋から長々とした物体が取り出される光景はまるで、聖槍を引き抜くようで、神話的な光景に見えた。
思わず、背筋が震えた。
僕はもしかしたら、本当に見てはいけないモノを見てしまっているのではないか。
本能的にそんな感覚がよぎる。
一瞬の破裂音が鳴った。
彼女の身体もわずかに揺れた。
銀色の定規が彼女の身体から完全に取り外された。
さっきまでの苦しそうな表情はなく、今の彼女はどこか開放的で挑戦的な表情をしていた。
僕はそんな彼女を二度見する。
初めて見た表情だったのだ。
そんな表情ができたのか。
「ねえ、リク君だよね。」
「ねえってば。聞いているの?」
「リク君!!!」
突然、声がした。
結構強い語調。誰かの名前だろうか。
待て待て、正真正銘、僕の名前だ。
じゃあ、誰が呼んだ? この教室には僕と彼女しかいないじゃないか。ということは。
僕は、我に返った。そして、目の前を見上げた。
そこには、腕を組んで僕を睨む彼女の姿があった。
彼女は人工知能であって、本当の人間ではない。
彼女には感情がなく、いつだって無表情だった。
じゃあ、なんで僕を睨むのか。
「はあ、やっと気付いてくれた。」
口元を緩ませ、小さな笑みを浮かべる彼女は、僕に向かってそう言った。
「これ、何だと思う?」
彼女はそのまま話を始める。彼女の手には先程の銀色の定規がつままれている。
さっきまで、僕に盛大な拒絶反応を示したというのに。
彼女は知らぬそぶりで僕に問いかけた。
「ええと、分からないな。」僕は必死で声を絞り出した。彼女はまた、不満そうに口を尖らせる。
「これはね、私そのもの。いや、過去の私と言うべきかな。」
「君そのもの?その定規が?」僕は彼女の手に収まった銀色の定規を見た。
夕日に照らされて、虹色のプリズムを放つ。
それはやっぱり神秘的な様相を呈している。
でも、どこかその完璧さが寂しいと感じる。不思議な感覚だった。
「定規かあ。リク君にはそう見えるのね。なんだか面白い。」
彼女は口元を抑えながら、クスクスと笑う。
嘲笑じゃない。冷笑でもない。
自然な会話で自然に発せられた、たった一瞬で消えてしまうささやかな笑みだ。
「これはね、ビッグデータの集合体。私が私であるための知識の倉庫。」
「ビッグデータ。その定規が。」僕は彼女の言葉をなぞった。
「すごい単刀直入に聞くんだけどさ。リク君は私のこと、どう思ってるの?」
単刀直入すぎるだろ。僕は全身の毛が逆立つのを感じた。
こんな状況、経験値のない僕はどうしていいのか分からない。
僕は放課後の居残り掃除をするために、教室に戻っただけなんだ。
人工知能であっても、女子生徒と会話をする準備なんてできてない。
「君はなんでもできる凄い人かな。」
僕がやっとの思いで紡ぎ出した言葉。
無味乾燥な日々を送る僕から流れ出た無個性で及第点レベルで、意味のない言葉。
それを聞いた彼女は溜息をついた。
「そっか。まあ、そうよね。」
「どうしてそこで、溜息をつくの?」
「リク君。私はね、君が羨ましい。」
返ってきた言葉は僕の脳に直撃した。
ああ、言葉は理解できた。理解できたさ。
だけど、僕はなにひとつ「理解」できてなかった。
AIジョークってこういうものを言うのだろうか。
お誂え向きなツッコミフレーズをひとつでも用意しておけばよかった。僕は後悔する。
「あのさ。私、真面目に話しているのだけど。」
彼女の吐息がそっと、僕の頬に触れた。
僕はくすぐったい気持ちで彼女を見返す。
彼女は少し不安そうな眼をしていた。
今日の彼女は何かが違う。今朝彼女を見たときに感じた予感が今も続いているから。
僕は知りたくなった。完璧な彼女が不完全な表情を見せる理由を。
「どうして。君が僕のことなんか。」
とりあえず僕は彼女の問いかけに答えた。
次いで、彼女は考え込んだ。時間をかけて考えた。
彼女の処理速度では言葉を紡ぎ出せるのに一秒も要らないはずなのに。
彼女は手をあごに当てて考えている。
「私は特別なんだって自覚してる。誰だって私のことを笑ったり、馬鹿にしたりしない。みんなが私が一番頭がいい、できる人って思っているのが目に見えて分かる。」
それはそうだ。
だって、君は人工知能の女の子で、新型人工知能の稼働実験のために、有名な研究機関から派遣されたロボットなんだから。
そう言い返せば終わる話だった。
なのに、できなかった。
僕は彼女の瞳に光るものに気がついたとき、彼女を安易にカテゴライズしようとしている愚かな自分に気がついたんだ。
「みんなに一目置かれるのは、そんなに嫌なこと?」
「私は何でも知っていた。隣りに座っている園田さんの食べた朝食のメニュー、斜めに座る本木君の好きな女の子、そして君が私をずっと見ていたことだって知っていたのよ。」
心に釘が刺された。意表を突かれた。僕の動きなんて彼女にはお見通し。
何を糾弾されるか分からない。
僕は唾を飲み込んで、彼女が僕に嫌悪の眼を向ける様を想像した。
けど、そうはならなかった。
「知っているだけなの。知っていてもね、つまらないわ。だって、知識は心じゃない。」
心。
彼女は確かにそう言った。
「君は心が知りたいの?」
「心は知るものじゃないわ。一緒に話して、一緒に過ごしてお互いで感じるものでしょ。リク君にはそれができる。だから、私は羨ましいの。」
「僕だけじゃない。人間はみんな、当たり前のことだよ。」
僕はとたんに背中が痒くなる。
そんなことを言われるとは思っていなかった。
「そうね。でも私はリク君が羨ましんだよ。」
彼女は窓の外を見た。
夕日に照らされた校庭ではサッカー部の連中が走り込みの最中だ。
練習が終わろうとしている。
平凡な、どこにでもある一日。
そのなかで僕は、教室に突然現れた非日常に取り残された気がした。
「リク君はさ、誰かと友達になる瞬間ってどんなときだと思う?」
彼女が尋ねる。
僕だって友達はそう多い方じゃないんだ。
僕は記憶を探る。とりあえず、駿介との出会いを探ってみた。
「そうだな。中学のとき、あるゲームが流行っててさ。皆んなが休み時間に通信プレイとか先生に隠れてやってたんだ。駿介と知り合うきっかけはアイツが僕を通信プレイに誘ったことから始まったんだ。僕もちょうど攻略につまづいていたから誘いに乗った。きっかけなんて案外、そういう些細なもんだよ。」
彼女はまた小さく笑った。
「でもさ、知らないこと、苦手なことがあるから、誰かと知り合おう、誰かに話しかけようって思うんじゃないかな。私は少なくともそう思うの。」
彼女は教室の窓辺を飴細工のような華奢な指でなぞった。
「私にはそういうのがないから。」
続く言葉はなかった。僕は彼女の言葉の続きを想像した。
思い出す光景。
彼女はいつだって完璧だった。
いつだって正解を選んでいた。
誰かに助けられたことなんてない、だって、助けられる必要がないんだ。
そして、誰の手を取る必要もない彼女は、いつもひとりだった。
「あと半年で私達は卒業する。皆が別々の道を歩む。もう二度と会うこともない人もきっと、たくさんいるわ。それでも、この3年間だけ、何の接点もない人達がこの学校に集まって、友達になるの。それって、凄いことだと思わない?リク君。」
踊るような口調だ。彼女からそんな語調が産まれるとは思っていなかった。
「私はこの最後の学校生活を精一杯楽しみたいよ。この奇跡の3年間をこのまま終わらせたくないよ。リク君はどう?」
「だから、私はね、こうすることにしたの。」
瞬間、何が起こったか僕は理解できなかった。
彼女は銀色の定規を目の前に出した。そして、定規の両端を握った。
それは、彼女の中に入ったビッグデータ。
彼女が完璧である証であり、彼女が人間を超越する理由だ。
ガチッ!!
彼女は銀色の定規を真っ二つにへし折っていた。
「えっと、何やってるの?」僕は驚きのまま彼女に駆け寄った。
「ふふふ。壊しちゃった。」清々しい笑顔で、彼女は答える。
「笑ってる場合じゃないよ。これって壊したらやばいやつでしょ。」
僕は恐る恐る聞いてみる。
「うん、やばいよ。滅茶苦茶怒られるね。」
やっぱそうだ。僕は頭を抱える。彼女は変わらず笑う。
「消されちゃうかも。」
「何が。」
「私が。」
はああああ?!
彼女は一体何をやっているんだ。
彼女を開発した研究機関は多額の資金を使って、彼女は作られたと聞く。
こんなことがばれたら只じゃ済まないだろう!
「は~。なんか軽くなった感じがするわ。」と言って、彼女は何食わぬ顔で肩を回している。
背負い込んだリュックを外しただけのような、軽い反応だ。
カラッとした快晴。彼女の今の表情はそういうものだった。
「言ったでしょう。残りの学校生活、たくさん友達を作って、私のしたい事を沢山したい。知識なんて余計なものは要らないの。」
「ねえ、リク君はどうするの?残された半年間をどう生きるの?」再びの問いかけ。
どう生きるなんて大袈裟だと思った。僕は日々の平坦な日常を消費することでしか、生きる手段を知らない。
「どうって何が。」僕はわざと知らないフリをする。
こういうとき、僕はどうしようもなく自分が嫌いになる。それでも、彼女は悪びれずに答えた。
「人の話聞いてたでしょ。したいことしたくない?」真っ直ぐな問いかけだった。
校庭では部活の終了を合図する放送が鳴った。
校庭のスピーカーから、いつも聞く音楽のメロディーと教頭先生のおじさんボイスがこだまする。
♦︎
「具体的にはどうするのさ。」僕は彼女の横顔を見ながら、そう聞いた。
彼女は少しの恥じらいを混ぜた声色で、「もう決まっているわ。」と答えた。
彼女は、黒板の端っこにある小さなインフォメーションパネルに写るポスターを指差す。
その行き着く先。僕は見た。それは、僕が決して踏み入れようとしなかった世界だ。
「文化祭。」
僕のぼやきに呼応するように、彼女は頷いた。
「1ヶ月後に文化祭が始まる。これが私の最初の戦いになる。」
人間になるための戦い、そう解釈すればいいのだろうか。
とすれば、僕には関係ない話だ。僕はここで踵を返す。退場の合図だ。
「明日、文化祭実行委員を決めるHRがあるわ。私とリク君はこれに立候補する。いいわね。」
教室を出ようとしたとき、僕は彼女の言葉に引っかかりを覚えた。
え、今僕の名前を言った。どうして?
「だって、リク君は私の友達でしょ?!」
「え、いつから?」
「何とぼけてんのよ。今ここで話してるんだから、私達友達じゃん?」
「は、はい?」
強引な物言いだった。友達の認定基準がザルすぎる。
「とにかく、私には友達が君しかいないの。君以外に頼める人がいないの。」
「え、ちょっと待って。僕もやらなきゃダメ?」
僕は必死で逃げようとした。これは話が違う。
文化祭実行員。
これは、学校の中で一番面倒くさい役員というものだ。
多種多様な陽キャラ達の取り込みと調整、勉学との兼ね合い、男女間の意識ギャップを埋めるための巧みな提案力、そして話術。
既に分かっていることだ。
これは僕に向いていない。できるわけない。やらない方がいい。
「ごめん、悪いけど。僕には。」僕はそう言いかけようとしたとき、彼女は僕の眼を見て笑いかける。
「人工知能の女の子を四六時中舐め回すように見る、見た目は静かだけど、中身は感受性豊かな変態男子。噂になったらどうなるかなあ。」小悪魔的な笑みを浮かべる。
「ひ、卑怯だ。」
たじろぐ僕は人工知能の恐ろしさを悟った。
そして、自らの手札がないことに辟易する。
「分かった?君に拒否権はないってこと。」得意げな表情を浮かべる。今日は厄日だ。
校門での別れ際、彼女はもう一度僕の顔を見て、約束だからと言った。
どうやら、明日のHRで僕らは2人仲良く立候補の挙手をする算段になっているらしい。
もう断る時機を逸した。
「あとさ。私の名前、ノアっていうの。希望の空で希空(ノア)。君じゃなくて、希空。次からはそう呼んでね。」
2人に空いた距離は4メートル。
この距離感は僕にとって心地が良い。話すことはできるけど、怖くなればいつでも逃げ出すことのできる距離感。
僕は彼女の銀色の定規を思い出す。彼女はそれを遂には粉々に砕いて校庭に投げ捨てた。
そうか、彼女は自らのアイデンティティを捨てて、新しい自分になったというわけか。
彼女は今はもう只の女の子。
完璧な知識、この世界に期待されて創り出された存在。それが人工知能だ。
人工知能であることを否定してまで、どうして彼女は人間になりたいと思ったのだろう。
僕はふとそんなことを思った。
人間なんて、一握りの連中が利益を独占するだけで僕みたいなモブキャラはいつだって貧乏くじを引かされる。
人生に幸せなことはあるかもしれないけど、不幸の方が圧倒的に多い。
それが、人間だ。
それが、君が羨む僕の正体だ。
彼女は間違っていると思う。
でも、教室に咲く彼女の笑顔は眩しかった。
その眩しさだけは僕は否定することができない。
それは、僕が持たない「人間らしさ」だった。
僕が考えているうちに、僕の目と鼻の先には白い顔が近づいた。
ふんっと鼻息を鳴らして、両手を組んでいる。
「いい?希空だからね。」
彼女はそう言うと、ちょっと満足したような笑みを浮かべて、手を振って去って行った。
希空。
その名前がしばらくの間、僕の空っぽな心に流れ出す。
心臓が少し早くなっている気がした。
これは、高揚感なのだろうか。多分違う。慣れない経験をしたことによる動揺。
女の子の名前を覚えるという行為自体が久しぶりだったからだ。
うん、きっとそうだ。
僕は帰宅後も彼女の眩しさを反芻した。
彼女の名前、透き通るようなうなじ。流れるような髪。
清涼剤を混ぜたオイルと香水が混ざった匂い。
綺麗じゃなかった、なんて言えば嘘になる。
信じたくなかった、といわけでもない。
希空さんは明日、僕を見て何か言うだろうか。
僕を友達と言った彼女。
信じてもいいのだろうか、人工知能の彼女を。
僕の中で警戒アラートが鳴り響く。
誰かと関係を持つのが怖かった。
でも、胸の中には小さい高鳴りがあった。なぜだろう。
僕は嬉しいのだろうか。
上気する身体は睡眠を求めなかった。
明日の朝、彼女に声をかけるべきだろうか。
HRが終わり、一限目が始まるまでの5分間のことを何時間も考え続ける。
気づけば、また耳障りの悪いアラートが鳴る。
ぼんやりとする意識のまま周囲を見ると、そこには電子音を響かせる目覚まし時計があった。カーテンを開けると、日差しが悪意を持って僕を照らす。
ああ、そうか。
僕はこの日、一睡もすることが出来なかったのだ。