私がいろいろな思いを整理できなくても、時間は変わりなく過ぎる。

 次の日になってもまだ胸の中をもやもやとさせながら、いつも通り学校に続く坂をカイと並んで歩いていた。隣を歩くカイを、こっそり見る。

 さっきしたばかりなのに、また欠伸をした。今日も眠たそうだ。

 涼しげな目元にうっすらと滲んだ涙を、面倒くさそうに拭っている。スッとした鼻筋が綺麗で、思わず見惚れてしまう。朝日に照らされて、明るくブリーチされたカイの髪がキラリと光った。

「なんだよ」

 バレないように見ていたつもりなのに、カイは私の視線にすぐに気がつた。

「ううん。なんでもない」

「なんだよ。言えよ。……あ。もしかして見惚れてた? あまりにも俺がかっこいいから」

「うん」

 素直に頷いた私に、カイが目が覚めたような顔をした。

「あはは。冗談を言ったのに、変な奴」

 それからすぐに笑った。私を見るカイの目が、優しく細まる瞬間が好きだった。いつもクールで不愛想なくせに、カイは笑うと顔が優しくなる。少しだけハスキー犬に似ている。彼がこんな表情をすることがあるのを知ってる人は少ないと思う。


 校庭に向かうカイをいつも通り見送って、ロビーに向かう。ソファに座っているエリを見つけて、隣に座った。私を見てにっこりとエリが笑う。

『ナッちゃん、おはよう』

『あのね、エリ。話があるの』

 私はエリに、ルイからプロミスリングをもらったことを話した。だけど、プロムに誘われたことは言えていない。どうしてすぐ断らなかったんだろう。想定外のことが起こると、言葉が出なくなってしまうのをどうにかしたいと思うのに、なかなかうまくいかない

『私はそんなルイが好きなの!』

 私の話を聞いたエリは、そう言ってうっとりとした顔をした。

『プロミスリングいいなぁ。私も欲しいなぁ。ルイが好きだなぁ』

「呼んだ?」

 急に聞こえた声に顔を上げると目の前にルイがいた。

「日本語で僕の話をしてた? 何?」

「いや、あの……その……」

「もしかして、悪口?」

 日本語で会話をしていることですっかり油断していたエリを、揶揄うようにルイが覗き込む。エリの顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。今にも沸騰する音が聞こえてきそうだ。

 同じ学校に通っているのだ。あれだけ騒いでいれば、本人に聞こえることもあるだろう。
 彼らに日本語は通じないけれど、自分の名前を呼ばれてることぐらい理解出来る。自分の名前を呼ばれているのが聞こえたら、誰だって話の内容が気になる。

「ところで、今日ショッピングモールに二人は行くの? 僕も一緒に買い物していい? カイは行かないんだってさ」

「もちろんいいよ。ね? ナッちゃん」

 少しだけ赤みが引いた顔をあげたエリに向かって頷く。

「よかった。じゃあ、またあとで」

 ロビーから出ていくルイを、幸せいっぱいな顔でエリが見送る。なんだか羨ましい。ほんの少し前まで、私も毎日を楽しく笑いながら生活していたのに、なんだか急に調子が悪い。

「早く午後にならないかなぁ」

 教室に入るエリの後を追いながら、ちくちくとする胸の疼きには知らんぷりをする。




「全員が役になりきるまで授業は終わりません」

 授業の最初にそう先生は宣言した。今日の授業は英語で寸劇をする、というものだ。その授業内容に救われた。余計なことを考えずに済みそうだし、もし座学だったら私は何も聞かずに授業が終わっていただろう。
 午前中はずっと、毒リンゴを白雪姫に渡そうとする魔法使いのおばあさんになりきっていた。

「りんごはいらんかね。甘くておいしいリンゴだよ。ほら、おひとつどうぞ」

 白雪姫役だったエリに向かって、昼に食べるために持ってきたリンゴを差し出す。

『あはは。ナッちゃんったらいつまでやってるの?』

『楽しかったんだもん』

 リンゴを丸ごと齧りながら、窓の外に目を向ける。
 学校には、ショッピングモールに行く生徒だけ残っている。参加しない生徒は午前中だけで終わりだ。帰っていく生徒の中に、カイを見つけた。その隣には、エルザ。まるで恋人同士のように腕を組んで歩きながら校門を抜けていく二人を、じっと見つめる。

 いけない。また色々と考えてしまいそうだ。
 窓から視線を戻して、エリに向かって食べかけのリンゴを差し出す。

「ほら、白雪姫。どうぞ」

『リンゴに歯形がついてるよ!』

 涙を流して笑うエリの声を聞きながら、思考の波にのまれないように必死に抵抗する。送迎バスがクラクションを鳴らす音を合図に外に出て、バスに乗り込んだ。

『ねぇ、プロムについて何か調べた?』

 バスに乗り込んですぐ、エリが私の肩をつついた。

『学校のパソコンで調べてみようとしたけど、日本語のサイトは見れなかったよ』

 携帯電話がない生活をしている短期留学生の私たちには、学校のパソコン以外インターネットを使う方法がない。それが使えないとなると、もうお手上げだ。

『そうだよねぇ。私も同じことを試した』

 眉毛を八の字にして、エリが呟く。

『ねぇ、エリ。プロムって好きな人同士で行くの?』

『仲のいい友達同士でも行くことがあるみたいだよ。でも、好きな人同士で行く人が多いんじゃない? 正直、私も詳しくないんだ。ただ、ドレスアップしてエスコートしてもらってとかいうことしか知らないの』

 ここ最近、プロムの話で盛り上がっている人達が多い。校内で男の子が女の子に申し込んでいる姿を見かけることも増えてきた。
 まだ少しプロムは先だが、早いに越したことはないらしい。それだけ準備に時間がかかるようだった

 日本にはない文化だ。まったく興味がないわけじゃない。
 ドレスアップするのは楽しそうだし、なんだか響きが素敵だ。
 でも、一緒に行く相手がいなければ何も始まらない。

 また脳裏に、カイの顔が浮かんだ。その幻想を、すぐにエリの声がかき消す。

『また他の留学生に聞いてみるよ。何かわかったら教えるね』

『うん。お願い』

 窓の外に視線を移して、流れる景色を見つめる。バスの揺れが心地よくてなんだか眠たくなってきた。堪え切れずに目を閉じると、ふわりとしたまどろみが私を包み込んだ。





 真っ暗な部屋の中、スポットライトに照らされて二つの影が見える。
 癖っ毛な金髪をキラキラさせながら座っているヒルダの隣に、小さな私が座っていた。

「プロムに行けるかなぁ。本当は行ってみたいって思っているの」

「ナツなら大丈夫」

「本当にそう思う?」

 猫のように甘える小さな私の頭を、ヒルダが優しく撫でている。

『行けるわけないだろ。お前なんかを誘ってくれる人がいるわけがない』

 ゾッとするほど冷たい声が、部屋に響き渡った。部屋の壁一面に、両親の顔が映る。

『すぐにお前は、また独りぼっちになる』

 ぐわんぐわんとエコーを何重にもかけたように、それは響いた。
 ひっと小さく悲鳴をあげて、小さな私は耳を塞いで目を閉じだ。怯える自分を見ていられなくて、思わず目を背けてしまう。

「しっかりして。ナツ」

「でも、怖いよ。きっとお父さんとお母さんの言う通りなんだ。ずっとそうだったもん」

 縮こまって震える小さな私をヒルダが優しく抱きしめた。

「ナツは、どんな自分でいたいの?」

「なにそれ。わからないよ」

「ちゃんと考えてみて。わかるはず」

 ヒルダが小さな私を抱きしめながら、少し離れた場所に立つ私の目を見た。

「自分がどうありたいのか考えるの。想像するのよ。それがわかったら、あとはそうなるように行動するだけ。ナツなら絶対にできるわ」

「でも、私……」

 思わず声に出した時、エレベーターが高い場所から低い場所にスーッと動くような感覚に襲われる。体に浮遊感を感じて大きく息を吸うのと同時に、目を開けた。



『大丈夫? なんだか、うなされてたみたい』

 初めてこの国に来た時と同じように、エリが心配そうな顔で私の顔を覗き込んでいる。

『うん。大丈夫』

『ならいいんだけど、無理しないでね。ほら、もうすぐ着くよ』

 落ち着かせるように深呼吸をしながら、エリが示す方を見る。大きなホタテ貝のような形をした近代的な建物が、野原にポツンと建っていた。
 近づくにつれて、その建物の大きさに驚く。まるで小さな町のようだ。

 バスから降りると、ルイが私たちを待っていた。

「何から見る? 僕は靴が見たいんだ」

「私、香水が見たいな。ナッちゃんは?」

 わくわくしている二人のテンションに、少し引いている自分に気が付いた。なんだか頭も痛い気がする。

「ごめん。少し具合が悪いから、二人で見てきて」

「えっ。やっぱり具合が悪いの? 先生に言う?」

「ううん。バスに酔っただけだから、少し休めば平気」

 出来損ないの笑顔を浮かべて、二人を見る。無理やり口角を上げようとしたせいで、口元が引きつっている。何度も大丈夫なのか確認する二人を、モールの入り口に向かって押した。

「本当に大丈夫。時間がなくなっちゃうから、行ってきて」

「じゃあ……行くね?」

「つらいなら、ちゃんと先生に言うんだよ」

 何度か私を気にしながら、二人はモールの中に消えていく。二人が見えなくなってから、大きく息を吐いた。じっとりと汗ばんだ手をデニムで拭いて、傍にあったベンチに座る。しばらくの間、私はベンチから動かずにカラフルな床のタイルと見つめ合っていた。





 ショッピングモールから家に戻った私は、すぐに猫足のバスタブにお湯を張った。日本から持ってきた温泉の素をいれて、ゆっくりと体を沈める。
 嗅ぎなれた匂いが充満したバスルーム。じんわりと体の芯が温まって、思わず吐息が漏れた。

 結局、集合時間ギリギリまで私はベンチに座り込んでいた。アウターを買わなければいけないことを思い出して、モールの入口に一番近い店で適当なものを一着だけ買った。

「これ、ナッちゃんにお土産」

「エリと選んだんだ」

 戻ってきた二人が、私にクッキーを買ってきたことに笑ってしまった。私もショッピングモールに行ったのに、お土産をもらうことになるなんて思っていなかった。
 この国で出会う人たちは、本当に私のことを放っておかない。

 湯船につかりながら、夢の中でヒルダに言われたことを、何度も頭の中で繰り返していた。

 私がどうありたいか、なんて考えたことがなかった。常に両親の顔色を伺いながら生活していた。そうしないと、生きていくことができなかったからだ。私がどうしたいかよりも、両親が望む自分であろうと必死に努力してきた。

 私は、どんな自分でいたいのだろう。

 ふと、足首にあるプロミスリングが目に入る。

 これからの生活が上手くいくように願いをかけた、とルイは言っていた。これが切れれば、その願いは叶うのだろうか。

 そのままお風呂のお湯が冷めるまで、私はモヤモヤとした気持ちと一緒に湯船に沈んでいた。