人生の幸福の形を問うと、彼は恥ずかしげに顔を逸らして「子供が欲しい」と言った。
そんな彼を愛おしく思った。やっぱりこの人と一生を添い遂げたいと思った。だからひまりは彼の横顔に微笑みかけるように言った。
「いいよ。子供、作ろっか」
きっとひまりの頬も真っ赤に染まっていたのだろう。じわじわと血が昇って行く感覚が自分でも分かった。そんな表情の機微を、夜の闇が包み隠した。
彼は目を向こうにやったまま、顔を合わせようとしない。少し考えるように黙ってから、視線を窓の向こうに向けた。
今日は豪雨と共に雷の降る夜だった。町は光を失っていた。でも、そんな轟音すらかき消す愛が二人を覆っていた。
「うん、分かった」
しばらく間を空けて彼は小さく頷いた。いつもひまりを引っ張ってくれる姿とは異なる一面を覗かせた。
不意にこうして愛が深まっていくのだと実感した。
あの頃の自分には絶対に分からない。子供であることが嫌で、大人になることも怖かった。そんな自分が彼を見て、自分も子供が欲しいと思ったのだ。大分気が早いが親になった気でいた。
彼がいつまでも窓の外の雷雨を見ているから、じれったく思ってひまりの方から彼の首元に手を置いた。
じっと目を合わせる。
いつもは格好いい彼が、今は可愛く見えた。
そして、ゆっくりと唇を近づけた。
少し乾燥した唇。しかし確かな温もりを感じる。
幸せとは、今みたいな時間のことを言うのだろう。
あの問いの答えは未だよく分からないけれど、今が幸福であるとは思った。
部屋の窓から見える、向かいの家の女が嫌いだった。
見る度にむしゃくしゃした。喉元を掻きむしりたくなる。今では接点もないのに、無性に彼女を殺したくなるときがある。
彼女の名前は高木ひまり。俺とは四つ上だった。
通る者の目を惹くほどの美貌を持ち、尚且つ成績も優秀な女の子だった。
家が向かいのため、必然的に彼女の姿が視界に入った。それは記憶のある限りずっと昔から。幼稚園の頃、まだ自分の部屋も与えられていない頃にはよく遊んでいたし、小学校に上がってしばらくは、高木家にお邪魔させてもらったりもした。
彼女は高校三年生だ。きっと有名な大学を出て、超一流企業にでも就職するのだろう。
対して自分は、高校受験を間近に控えて学校にも通わず、家に引きこもったまま。一体どこで道を踏み違えたのだろうか。彼女のような幸せな人生とは言わずとも、世間一般的に言う「普通」の暮らしが出来ればそれでよかったのだ。
でも、この有様ではそんな普通の幸せさえ叶いそうにない。なら、細々と暮らしていけばいい。それでも別に死にやしないのだから。
いつまでも引きこもっていたら子供のまま成長できないとは知っている。しかし、大人にもなりたくなかった。
いつかは真っ当な大人に。あんな最低な大人にはなりたくないのだ。
子供であることを恐れ、大人になることを恐れた俺は、気づけばこの小さな部屋が聖域になっていた。
*
五歳の頃まで、俺には母親がいた。
話によると事故で無くなったらしい。それから俺は、親父の手で育てられてきた。母親を失った二人家族。それでもあの頃は幸せだったのかもしれない。
母の事はほとんど記憶に残っていないが、父から聞いた話と、仏壇に飾られている遺影でおおよその人物像は理解した。誰にでも手を差し伸べる、優しい女性だったらしい。
小学校に上がる頃には、親父も一人で育てることに慣れたようで、俺に構ってくれるようになった。
「翔太、何が欲しい?」それが口数の少ない父親の口癖だった。
彼はエリート街道を進み、国立大学の大学院を卒業してから地元に戻ってきて、電車で一時間かけて有名企業に通っていた。そこでも彼はエリート街道を進み、三十の若さにして管理職へと上り詰めた。金は潤沢にあった。同年代の平均年収の倍以上は稼ぐ、本当に選ばれた人間だった。
仕事においてきっと誰よりも優秀で、器用だったのだろう。
そんな親父は、俺が欲しがった全てを与えてくれた。金があるから食うには困らなかったし、将来は私立大学の医学部受験ですら平気だと言っていた。当時の俺からしてみれば理解のできないものだったが、成長した今ならその凄さがよくわかる。金だけはあったのだと。
何でも買い与えてくれる親父が大好きだった一方で、日に日に帰りの遅くなる親父が心配だった。授業参観さえ来ることのできない親父はきっと忙しいのだと言い聞かせた。
そして友達の多くない俺は、一人で過ごす時間が増えていった。
小学五年生になったとき、親父が帰ってこない理由が分かった。パチンコに通い詰めていたのだ。それが分かったのは、向かいの家の高木さんのお母さんに連れられて、高木ひまりと俺と三人で買い物に出た時だった。
パチンコ店の前を横切ったとき、ふと目に入ったのだ。それが馴染みのある車だったから、一目で分かった。
家に帰ってきた親父にそのことを問い詰めると、新たな事実が発覚した。数か月前に仕事を辞めていた。つまり親父は一日中パチンコ店に籠って、俺のことを一切見てこなかったということらしい。授業参観も、仕事をしていないのなら来られたはずなのだ。
その時、小学五年生の俺は思った。こんな大人にはなりなくない、と。
それから俺は、学校の同級生が眩しく見えた。彼らの無邪気な一言一言全てが俺の胸に突き刺さった。
そして一番俺の心を抉ったのは、高木ひまりだった。
どうしてあんなに幸せそうなのだろう。きっと、人生の中で苦労をしたことなんて無いのだろう。誰かを恨んだことも、恨まれたことも。十分な愛を注がれて育ったのだ。
まるで自分とはかけ離れた存在だと、その全てを遠ざけた。
問い詰めた次の日から、親父はパチンコに行くことは無くなった。しかしずっと家にいた。俺たち、二人とも。
俺は不登校になり、親父は引きこもり。
親父は酒とたばこに溺れて、延々とテレビの前でお菓子を食べては寝てを繰り返す。
次第に親父はご飯を作ることも無くなり、俺が自分の分だけを作るようになった。
しかし貯金だけはいくらでもあったから、細々と暮らせば、この先十年は働かずに生きていけた。
そんな健全とは程遠い少年期を、俺は過ごした。
そして時間を無駄に消費して、気づけば俺は二十歳になっていた。
相変わらずの生活だった。俺と親父は同じ家の中で暮らしているはずなのに、まるで互いに他人のように生活していた。
二〇二四年、十二月二十四日、クリスマスイヴのこと。
一生忘れられない日になった。
その日は低気圧の影響で例年以上の雪が降り、窓から見える景色をたった一日で白く染め上げた。ホワイトクリスマスではあるものの、度の過ぎた積雪だった。
交通機関に遅れが発生し、町の除雪も追いついていない。
親父はあんななので、仕方なく俺が家の前の除雪をした。流石に買い物に行けないのは困ったからだ。尽きた食料を買い足すために、重たい足を動かして一キロ先のスーパーまで歩いて向かう。
いつもならば、非日常の始まりである雪は好きだ。しかし今ばかりは、この膝下近くまである雪が嫌いになりそうだった。
一歩進むごとに雪がぎしぎしと踏みつぶされ、長靴の中に雪が入り込む。長靴は役割を果たせていない。暖かな靴の中は、侵入した雪によって急速に冷やされていく。どれだけ服を重ねようと、コートを着ていようと、足先が冷える事には敵わない。俺の体温をじりじりと奪っていく。
雪というものはふわりと浮きながら降り注ぐのに、いざ地面に積もればまるで岩のように重たくなる。一歩一歩に力を入れなければ、上手く歩くことができなかった。
いくら雪国とはいえ、ここまでの雪を体験したことは無かった。昨年と一昨年の暖冬が、雪の感覚を鈍らせたのだろう。その暖冬は異常気象のせいだという。ならば、この豪雪も異常気象のせいなのだろうか。
そうして歩いていると、だんだんと息が切れてきた。運動不足の俺にとって、たった一キロの道のりが雪道に変わることで大運動になっていた。
クリスマスだというのに町は薄暗く、普段以上に静かだった。しんしんと降る雪は視界を真っ白に染め、手前五十メートルほどまで視界を制限していたが、遠くで光るイルミネーションだけはよく見えた。何かの店かと思えば、ただの一軒家だった。
そんな幸せそうな景色を見て居たくなくて、視線を空に向ける。
白い空から白い雪が降り注いでいた。ため息をつくと、吐息が白く空気に溶け込んでいく。そんな白だけの世界が、頭上にはあった。
キラキラしたイルミネーションや、夢を運ぶサンタクロースは存在していない。
自分の全てを雪で染め上げて、全てなかったことには出来ないだろうか。そうしたら、また一からやり直せるのに。
誰も知らない土地で一人きり。大金なんて要らない。アルバイトでもしながら楽しいことを見つけて、日々の些細な幸せを生きがいにして、細々と暮らしていきたい。
ニ十歳の無職の男は、サンタクロースにそう願った。
たった一キロの道のりを一時間かけて辿り着いたスーパーは、外の大雪を忘れ、普段とは全く異なる様相を呈していた。
中ではよく耳にする定番クリスマスソングを、ベルで演奏したものが流れていた。
スーパーは、服屋や飲食店などがあるショッピングセンターの中にあった。田舎の中ではそれなりに大きな店舗だ。こんな大雪では誰も外に出ていないと高を括っていたが、実際に来てみれば、カップルや子供連れの夫婦などでごった返していた。
失敗したなとは思いながらも、人をかき分けながら食品売り場の方へと進んでいく。幸せそうな人を見ると気分が落ち込むので、できるだけ顔を伏せながら歩いた。
途中、通行人と何度も肩と肩がぶつかり、その度に訝しげな表情を向けられたが、そのどんよりとした俺の雰囲気を見ると、次第に憐れむ表情へと変わっていった。
浮浪者のように首元まで伸びた髪。くたびれたコートに、濡れた長靴。とてもクリスマスには似合わない格好だ。
クリスマスケーキ売り場を通りすぎ、おもちゃ売り場を通りすぎ、カップルの集う休憩スペースを通りすぎて、ようやく食品売り場へと辿り着く。
世間はクリスマスでも、俺の家にはクリスマスなんか訪れない。チキンやポテトには目もくれず、食パンとお茶、それから料理で使う卵や野菜なんかをまとめて購入した。
そうしてまた、一時間かけて家に戻ろうとした時、視界の横を見知った顔が通った。
金髪に染まっていたが、その顔を見ればすぐに分かった。高木ひまりだった。
彼女はテレビで見るモデルのような体型をしており、彼氏と思われる男性と腕を組んで、仲睦まじく歩いていた。彼女はカップルにまみれたこの場所で、一際輝いて見えた。きっと人生の中で、苦労なんてしたことはないのだろう。
そんな彼女から目を逸らすように、足早に立ち去る。
やっぱり幸せな人生を送っているのだと、嫉妬に似た、しかしどこかずれた感情を抱いた。
家に帰ると、親父の車が無かった。どうやら雪かきをして車を出したようだった。
それから玄関を開いて、冷蔵庫に購入したものを入れるためにキッチンへ向かう。相変わらず、顔をしかめたくなるような嫌な匂いがした。俺が小学五年生の頃から積み重ねたこの酒とたばこの匂いは、深く染み付いて取れない。
全て冷蔵庫に入れ終えた俺は、自室へ戻ろうとする。
すると、リビングが少しだけ片付いていることに気づいた。いつもは散乱している酒のボトルや缶が、今日は端に寄せられていた。
普段見せない足場が顔を覗かせていたため、気づくことが出来たのだが、親父がわざわざ片付けた理由が分からなかった。誰かを家に上げるわけでもないだろう。
しかし俺の知ったことではない。考えることをやめ、二リットルのペットボトルを片手に、二階にある自室に戻った。
*
まず初めにカラスが鳴いた。
その次に遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
最後に呼応するように近所の犬が吠えた。
目を覚ますと外は真っ暗だった。
大粒の雪は相変わらず降り注いでいて、昼間より積雪が増えたように見える。
クリスマスイヴは終わったかと時計を見てみれば、全くそんなことは無く、短針は八を指していた。
どうやら長めの昼寝をしていたようだった。まだ覚めようとしない身体を無理やり起こして、伸びをする。それからテレビとコンシューマーゲームの電源を付ける。
引きこもりがすることと言えばネットゲームくらいしかない。俺も例外ではなく、一日をただゲームで消費している。そして今日もいつものように、惰性でゲームをしようとしていた、その時だった。
階段下から声がした。恐らくは親父が俺を呼んでいるのだろう。およそ一年ぶりに親父の声を聞いた気がした。
しかし残念なことに、ここからでは何を言っているかうまく聞き取れなかった。わざわざ立ち上がって親父の声を聞きにいくのも面倒なので、無視してやり過ごそうかと思ったが、どうしてかその時は重たい腰が上がった。
どうしてこんなことをしなければならないのだと、自分に何度も問うたが、不思議とその足が止まることはなかった。
階段を下る。やがて俺は階段下へと辿り着いた。
そこには親父がいた。白髪交じりで痩せ細っており、顔には疲れ果てたように皴が幾つも刻まれていた。
親父の顔を見るのが久々だったため、こんなに老けていたことを知らなかった。
親父も俺の顔を不思議そうな表情で見つめると、ぎこちない笑みを作って俺をリビングへと招いた。
親父の後をついていくと、リビングは昼間見た時よりも清掃されていた。匂いこそ酷いものの、この部屋ならばまぁ汚い済ませられる程度だった。いつもとは違う姿に、親父が何かするのではないかと警戒した。
冷蔵庫から小さな白い箱を取り出した親父は、俺の前まで持ってきて立ち止まった。
「さぁ、開けてごらん」
絞り出すように、微笑んで言った。
親父の声はそんな掠れていただろうかと記憶を巡らせたが、年に数回しか耳にしない親父の声は、俺の脳みそからは消去されていた。
ふと、親父が箱の下を右手で抑えるようにして、何かを隠しているのが見えた。
首元を掻くふりをして箱の下を覗くと、きらりと刃が光って見えた。それはいつも俺が料理に使用している包丁だった。
まさか俺のことを殺すつもりだろうか。あの包丁は「よく切れる包丁」の謳い文句で売られていたものだ。ブロック肉ですら滑らかに切れるのだから、人の首を断つことも容易にできるだろう。
俺はこの状況から、親父を抑える方法を考え始めた。しかし箱の中身を見てからでなければ、これからどう動くべきかが分からない。結局俺は親父に従って、箱を受け取り、テーブルの上にそっと置いた。持った限りでは、箱には少し重たいものが入っているようだった。
すると、隠すものが無くなり親父の包丁が露わになった。しかし右手に握ったまま、俺が箱を開けるのを待っている。
緊張しながら、ゆっくりと箱を開いた。
そこにはケーキがあった。
四号サイズで、大人二人が半分にするには丁度いいショートケーキ。縁取るように生クリームが盛り付けられており、中央には大きなイチゴが四つ、そしてその上に砂糖菓子で作られたサンタクロースがにっこりと微笑んで、「Merry Christmas」と書かれたクッキーを持っていた。
親父はケーキを見た感想を伺うように、俺に近寄った。
「どうかな?」
その問いに、身体に力がこもっていく。
歯を食いしばって、手のひらに爪を立てて、どうにかその感情を抑えようとした。しかし意志とは反対に、頭はそれに支配されていく。
何を今更。
どうして今なんだ?
「これは……どういうつもりなんだ?」
「翔太が喜ぶと思って」
その一言で、俺の中の何かが崩れた。
十年前からの不満が身体を巡り、何もしてこなかった父親への怒りが身体を巡り、俺を育てることを見限った父親への怒りが身体中に回った。
――どうして今なんだ?
次の瞬間、俺は机に置かれたケーキを右手で薙ぎ払っていた。みちゃりと音がして、ケーキは地面に落下した。ケーキはひっくり返って虚しく潰れていた。
「翔太、喜ぶと思ったんだけどなぁ」
掠れた声で、心底悲しそうな表情をする。
今までに感じたことのない怒りが身体を支配した。まるで自分の身体ではなくなっていくような感覚に襲われた。
今までの全てを無かったことにするように、見るもの全てぐちゃぐちゃにしたい衝動に駆られた。
その間にも、親父は悲しげな表情で床落ちたケーキを見つめている。すると、しゃがみこんで、落ちたケーキを手で一つ一つ拾い始めた。そんなことをしたところで、まさか食べるわけでもあるまい。
「もうやめてくれよ……」
心からの声だった。しかし親父はやめようとしない。次第にその左手には、野球ボールほどの大きさのケーキだったものの塊ができていた。腕はクリームで汚れていく。憐れだった。
「やめろって、言ってんだろ!」
その手を薙ぎ払った。
怒りは俺の身体を、知らぬ間に動かしていた。
もう、止まらなかった。
気づいたときには目の前には、真っ赤に染まった生クリームが広がっていて、その手前には横たわって動かない親父がいた。ケーキは親父の下で潰れて広がっており、俺の手には包丁が握られている。
その状況は物語っていた。――怒りに任せて親父を殺めてしまった、と。
握られた包丁に目をやると、銀色の刃が真っ赤に染まっていた。
あぁ、俺はこれで親父を殺したんだ。
途端、穴の開いた風船のように怒りがすっと抜けていく。そうして冷静さを取り戻すと、自分の犯してしまったことの重大さに気が付いた。
なんてことをしてしまったのだろう。
もう一度親父だったものに目を向けると、先程よりも更に血の池が広がっていた。
「親父……?」
呼びかけても応答することはない。
次に考えたのは、自分の事だった。殺人をしてしまった。少年法はもう適応されないこと、死刑かもしれないこと、どうやって逃げようかということ、もし捕まったらどう言い訳しようかということ、死体をどこに隠そうかということ、警察はどうやって逮捕しているのかということ。
そして――その全ては俺が死ねば解決するということ。
簡単な事だった。この十年間の苦しみは、ただ俺が死ねば全て解決できたのだ。
金以外の全てに恵まれず、両親の愛を知らずに生きてきた。
次に生まれ変わるのならば、どんなに貧しくてもいいから、才能なんてなくていいから。両親がいて、ちゃんと愛を注いでくれて、それで真っ当に生きることのできる環境が欲しい。
首に包丁をあてて、サンタクロースに身の丈に合わないお願い事をした。
どうか、真っ当に人生を送れますように。
*
目が覚めるとそこは、眩い光に包まれた知らない場所だった。
長いこと目を瞑っていた気がした。周囲の音が遠く聞こえる。感覚が遠い。近くで女性が泣いて喜んでいることだけは分かった。振り返ってその声の主の顔を見ようとするが、うまく首を動かすことができない。
すると、唐突に身体がふわりと浮いた。声の主によって抱きかかえられたのだろう。
声の主はパーツの整った美しい女性で、しかしどこかで見たことのある顔だった。
目を合わせると、女性はぽろぽろと涙を零して幸せそうに笑った。その笑顔は今まで見た何よりも綺麗に見えて、誰にも穢されて欲しくないと思った。
するとまた、身体がふわりと浮いた。次はその女性の胸の中だった。そして優しく語り掛けた。
「産まれてきてくれてありがとう。向日葵のように元気に、誰よりも大きくて明るい女の子になってね。世界一可愛い私の子、ひまり」
ぎゅっと抱きしめられたあと、もう一度顔を合わせた。応じるように声を出そうとすると、自分の口から「おぎゃあ」と間抜けな声が聞こえた。そして背中の向こうに『高木文乃』と書かれたネームプレートを見つけた。俺はその名前をよく知っていた。
高木文乃とは、高木ひまりの母親の名前だ。
自分の状況が少しだが理解できた。
ここは病院で、どうやら俺は、高木ひまりとして生まれ変わったらしい。
二〇〇〇年、一月十六日。高木ひまりは、この世に生を享けた。
生前、高木ひまりを羨んでいた。
その美貌があれば、その学力があれば、その運動能力があれば、その環境があれば、その才能があれば……。
恵まれていることを羨んだが、それと同時にひまりは恵まれ過ぎていたのだと思った。もしも自分が彼女だったら、きっと素晴らしい人生を送っていただろう。
しかしそれは過ぎた夢物語なのだ。
だから思った。
彼女のように幸福で満ち溢れていなくていいから、ただ普通の幸せをください、と。
しかしサンタクロースはあろうことか、願望よりも妄想を運んでくれた。高木ひまりとして、また初めから人生をやり直す機会をくれたのだった。
思ってもみない幸運だった。
やがてひまりは三歳になった。
生前の記憶は残っており、まだ自分が生まれる前の世界を堪能していた。しかし困ったことがあった。それは、自分が人殺しということだ。
怒涛の早さでことが進み、あの時は親父を殺したことに対して、自分の保身しか考えなかった。しかし今になって思う。確かに自分はこの手で親を殺したのだ、と。
母親が愛情を持って包み込むこの柔らかな手で、自分は親を刺し殺したのだ。そんな感情が、ひまりとして生きている中でも消えなかった。血に染まったこの手で母親の純粋な愛情に触れることが申し訳なくなり、その末に自分を嫌悪した。
言語はうまく発せられないものの、言葉だけは知っているため、両親はひまりを「天才」と呼んだ。実際親バカでも何でもなく、その年で知っているはずのない言葉だったため、このまま何事もなく人生を進めていけば、本当に天才になれたかもしれない。それどころか、この先起こる出来事も大体は知っているため、場合によっては金儲けができるし、預言者にもなれる。
ひまりは三歳にして、人生における大きすぎるアドバンテージを得た。
その一方で、年相応の子供らしく振舞うことは、ひまりのプライドを傷つけた。
きっとどこかで見下していたのだ。この先に待つ、「高木ひまり」として確約された人生の成功と、持ち合わせた生前の知識があれば、その辺りにいる子供たちよりずっと値打ちの高い人間になれると慢心していた。
しかしその考えこそが、自らの値打ちを下げるということに、その時のひまりはまだ気づいていなかった。
そのまま傲慢な人間として、ひまりは幼稚園に入学した。
*
幼稚園で、ひまりは天才的な頭脳を発揮する一方で「静かな子」と呼ばれた。周囲には誰も寄り付くことはなく、常に一人ぼっちだった。
叫んでは泣き喚くことを繰り返すしかできない子供たちと、一緒に居たくなかった。教室の隅でぼうっとして、一人でいることが何よりも気が楽だった。それは母親といる時よりも。
そうして過ごしていたある日の、年少クラスでの出来事だった。
その日もひまりは教室の隅で体育座りをして、将来の自分について妄想を広げていた。
「ね、ひまりちゃん。あーそーぼ」
視界に入り込んできたのは、首元まで伸びた髪を右耳上にピン留めした、活発そうな女の子だった。胸元の名札には平仮名で大きく「めぐみ」と書かれている。
「めぐみちゃん、ごめん。私、遊びたくないの」
子供らしい口調で、しかし冷たく答えた。
「えー。おままごと、たのしいよ。ひまりちゃんもやろうよ。ひまりちゃん、かわいいからママやらせてあげる」
自分勝手に物事を進めるめぐみに対して、ひまりは大人気なく腹が立った。しかしこんな風に話しかけられることは、それなりによくあることだ。さらに言えばあの時、怒りを鎮められなかったせいで、この手を血で汚した。昂る感情をぐっとこらえて、めぐみに対応する。
しかし、めぐみもしぶとかった。諦めようとはせずに何度も誘い、その度にひまりは断った。
同じやり取りを十回ほど繰り返した。するとめぐみは痺れを切らして、ひまりの腕を掴んで強引にままごとに連れて行こうとした。
それが引き金になった。
腕に触れられた瞬間、ひまりはめぐみの手を勢いよく振り払った。ひまりの爪が彼女の顎を掠め、左顎から口元にかけて赤く細い線を作る。じわりと血が滲んだ。
めぐみはひまりを恐怖で染まった瞳で見つめると、その後すぐに大声で泣き始めた。
こればかりは全て自分が悪いと思った。ひまりは謝ろうと、めぐみの元へ向かおうとするが、「こないで!」と叫ぶ。
周囲にいた他の園児から蔑みの目を向けられ、先生からも蔑みの目を向けられた。それ自体、特に思うところは無かったのだが、今の出来事でひまりには一つ理解したことがあった。
誰かに身体を触れられることに、極端に嫌悪を感じるということだった。
これまでは狭い家という空間で、両親とのみ接触していたため、それに気づくことは無かった。たまに訪れる親戚の付き合いでも、身体に触れられることには嫌悪を持たなかった。しかしめぐみに触れられたことで、唐突にその症状が現れた。
どうして今、発症したのかは分からないが、嫌悪を感じる理由だけは明確だった。――この汚れた手で誰かに触れたくない、触れられたくない。たった一人、人を殺しただけでひまりの人生観は大きく変わってしまった。
一体誰がこんな自分に近寄ろうというのか。園児からは避けられ、先生からは見放され、気づけばひまりは、本当の意味で孤立していった。
この期に及んでも自分が「高木ひまり」であるということで、ひまりは慢心していた。幸福に満ち溢れた未来を信じて止まなかった。
しかし父親が出ていったことによって、少しずつではあるが気付き始めた。自分の知る「高木ひまり」は、両親に溺愛されて成長するはずだったのだ。
今のひまりは、「高木ひまり」とは確かに異なる道を歩み始めていた。
その頃と同時期に、忘れていた事実に気が付いた。
次第に寒さが増してきて、初冬の訪れを感じる頃、離婚したばかりの母親と共に買い物に出かけていると、出会いたくない人物と出会った。
生前の親父だった。彼の姿を見ると、母親はひまりの手を引っ張って彼らの元へと連れていった。「行きたくない」と全力で抵抗したものの、子供の力では重荷にすらならなかった。
「こんにちは、秋村さん」
母親が声をかけると、その夫婦は振り返った。
「あー、こんにちは。文乃さん。こちら妻の陽子です」
「自分で挨拶するからいいですよ。秋村陽子です。これからよろしくお願いします」
礼儀正しく挨拶をしたのは、生前の母親だろう。写真を見て想像していた通りの物腰柔らかな印象で、目を惹くような容姿をしている訳ではないが、親父が結婚相手に選んだのも分かるくらいには、魅力に溢れている女性だった。
そしてふっくらとお腹が膨れていた。
詳しく知らなかった生前の母親の姿を見ることができて嬉しく思った反面、親父の顔は見る事すらできなかった。そんな姿に気づいたようで、母親は顔を逸らしたひまりを、強引に顔を合わさせようとする。
「ほら、ひまり。顔見なさい。達也さんに失礼でしょう」
親父の名前は達也だったかと思い出したが、今はそれどころではなかった。しかしまたも抵抗虚しく、ひまりは親父の顔を見させられた。ゆっくりと親父の顔を見上げる。
途端、猛烈に吐き気に襲われた。
逆流する胃液を喉に感じながら、親父の顔を見た。その向こうには、クリームと血で塗れたあの日の親父の姿が見えていた。自分の罪を突きつけられた気分だった。
すると親父はしゃがんで、視線を合わせるようにして言った。
「ひまりちゃんは、僕のことが嫌いなんだね」
そこには見たこともないほど、幸せそうな笑みを浮かべた親父がいた。
自分には向けなかったくせに。
「僕たちの子も、こんな可愛い子が生まれるのかな?」
「さて、どうでしょうね。多分、ひまりちゃんほど可愛くはないでしょうけど、私たちの子ですから、きっと世界で一番可愛いですよ」
秋村夫人は自らの大きく膨らんだお腹を、緩やかに撫でながら言った。
矛盾だらけの言葉だった。可愛くないと言っているのに、自分の子が一番可愛いなんて一体どういう意味なのだろう。その時のひまりには理解できなかった。
その言葉に、親父は「そうだね」と幸せそうに頷いた。
「あ、予定日はいつなんですか?」母親が訊く。
「クリスマスです。なんだかサンタクロースからの贈り物みたいですよね」
「ならきっと、とびっきり可愛い子供が生まれますよ」
そうだ。生前の誕生日は十二月二十四日だったのだ。十年ほど誰にも祝われなかったため、頭の中から抜けていた。
あの時持ってきた親父のクリスマスケーキにはクリスマスを祝う気なんかなくて、俺の誕生日を祝うためだったのだろう。
気づいたところで、もう何もできやしないが。
それからしばらく母親と秋村夫妻で、世間話をして盛り上がっていた。
楽しそうな秋村夫妻を見ると、罪悪感が湧いてくる。この先の未来を知っているから――その膨らんだお腹の中にいる「秋村翔太」が、二十年後、父親を殺して自分も自殺する未来にあると知っているから。
幸せそうな二人の顔を見ると、更に心が痛んだ。親父を手にかけたあの光景は、今でも忘れられない。どうしようもなく罪悪感に苛まれて、今すぐにこの場から立ち去りたかった。
母親の服の裾を強く引っ張って、帰ろうと促す。
「あぁ、ごめんね。ママ話し過ぎたね」
今だけは年相応の子供のように振舞った。どうしても帰りたかった。
「すみません。お先、失礼しますね」
母親は笑って頭を下げた後、ひまりの手を引いてその場から立ち去った。
その際、親父が「子供が生まれたら、うちの子と仲良くしてやってくれないか」と言った。その言葉がひまりの心を更に傷つけた。
帰り道、ひまりは母親の運転する車の後部座席に、チャイルドシートを装着して座っていた。
母親は運転をしながら、ひまりの様子をルームミラーでちらちらと確認している。その空気はどこか気まずさを含んでいる。
「ひまり?」
「なに?」
「ママね、ひまりが『帰ろう』って袖引っ張ってくれたの、凄い嬉しかった」
「……どうして?」
「ひまりはさ、あんま喋んなくて、塞ぎがちで、私には何を考えてるか分からない。そのくせに何でも一人で出来ちゃうから、ママは要らないんじゃないかって思ってたの。でもさっき、袖引っ張ってくれて、初めてわがままを言ってくれて、凄い嬉しかった。だからひまり、もっとわがままを言ってもいいんだよ。そのためにママがいるんだから」
優しく語り掛けてくれた母親に対して、ひまりは黙ったまま、返事をしなかった。
ルームミラーを見てみると、心なしか母親の瞳が潤んでいるような気がした。母親を傷つけないようにと気を付けていたが、その態度が逆に母親として傷つけていたのかもしれない。
「やっとママらしいことができたなぁ」
感慨深げに言った。その声は震えていて、ルームミラーにはあの日病院で見た笑顔が映し出されていた。
そんな母親を見て、本来訪れるはずだった幸せが自分のせいで消えているのだと痛感させられる。
自分のせいで母親が幸せになれない、それだけは避けなければならないと思った。
*
結局のところ、人間というものは外面ではなく内面なのだろう。
どれだけ優れた美貌を持ち合わせていようとも、どれだけ潤沢な財産を持っていようと、その人間の周りには誰も寄り付かなかった。
「秋村翔太」というどうしようもない人間は、例え生まれ変わろうとも根底にある性質は変わらないのだ。
二〇〇六年、四月。ひまりは小学校に入学した。