部屋の窓から見える、向かいの家の女が嫌いだった。
見る度にむしゃくしゃした。喉元を掻きむしりたくなる。今では接点もないのに、無性に彼女を殺したくなるときがある。
彼女の名前は高木ひまり。俺とは四つ上だった。
通る者の目を惹くほどの美貌を持ち、尚且つ成績も優秀な女の子だった。
家が向かいのため、必然的に彼女の姿が視界に入った。それは記憶のある限りずっと昔から。幼稚園の頃、まだ自分の部屋も与えられていない頃にはよく遊んでいたし、小学校に上がってしばらくは、高木家にお邪魔させてもらったりもした。
彼女は高校三年生だ。きっと有名な大学を出て、超一流企業にでも就職するのだろう。
対して自分は、高校受験を間近に控えて学校にも通わず、家に引きこもったまま。一体どこで道を踏み違えたのだろうか。彼女のような幸せな人生とは言わずとも、世間一般的に言う「普通」の暮らしが出来ればそれでよかったのだ。
でも、この有様ではそんな普通の幸せさえ叶いそうにない。なら、細々と暮らしていけばいい。それでも別に死にやしないのだから。
いつまでも引きこもっていたら子供のまま成長できないとは知っている。しかし、大人にもなりたくなかった。
いつかは真っ当な大人に。あんな最低な大人にはなりたくないのだ。
子供であることを恐れ、大人になることを恐れた俺は、気づけばこの小さな部屋が聖域になっていた。
*
五歳の頃まで、俺には母親がいた。
話によると事故で無くなったらしい。それから俺は、親父の手で育てられてきた。母親を失った二人家族。それでもあの頃は幸せだったのかもしれない。
母の事はほとんど記憶に残っていないが、父から聞いた話と、仏壇に飾られている遺影でおおよその人物像は理解した。誰にでも手を差し伸べる、優しい女性だったらしい。
小学校に上がる頃には、親父も一人で育てることに慣れたようで、俺に構ってくれるようになった。
「翔太、何が欲しい?」それが口数の少ない父親の口癖だった。
彼はエリート街道を進み、国立大学の大学院を卒業してから地元に戻ってきて、電車で一時間かけて有名企業に通っていた。そこでも彼はエリート街道を進み、三十の若さにして管理職へと上り詰めた。金は潤沢にあった。同年代の平均年収の倍以上は稼ぐ、本当に選ばれた人間だった。
仕事においてきっと誰よりも優秀で、器用だったのだろう。
そんな親父は、俺が欲しがった全てを与えてくれた。金があるから食うには困らなかったし、将来は私立大学の医学部受験ですら平気だと言っていた。当時の俺からしてみれば理解のできないものだったが、成長した今ならその凄さがよくわかる。金だけはあったのだと。
何でも買い与えてくれる親父が大好きだった一方で、日に日に帰りの遅くなる親父が心配だった。授業参観さえ来ることのできない親父はきっと忙しいのだと言い聞かせた。
そして友達の多くない俺は、一人で過ごす時間が増えていった。
小学五年生になったとき、親父が帰ってこない理由が分かった。パチンコに通い詰めていたのだ。それが分かったのは、向かいの家の高木さんのお母さんに連れられて、高木ひまりと俺と三人で買い物に出た時だった。
パチンコ店の前を横切ったとき、ふと目に入ったのだ。それが馴染みのある車だったから、一目で分かった。
家に帰ってきた親父にそのことを問い詰めると、新たな事実が発覚した。数か月前に仕事を辞めていた。つまり親父は一日中パチンコ店に籠って、俺のことを一切見てこなかったということらしい。授業参観も、仕事をしていないのなら来られたはずなのだ。
その時、小学五年生の俺は思った。こんな大人にはなりなくない、と。
それから俺は、学校の同級生が眩しく見えた。彼らの無邪気な一言一言全てが俺の胸に突き刺さった。
そして一番俺の心を抉ったのは、高木ひまりだった。
どうしてあんなに幸せそうなのだろう。きっと、人生の中で苦労をしたことなんて無いのだろう。誰かを恨んだことも、恨まれたことも。十分な愛を注がれて育ったのだ。
まるで自分とはかけ離れた存在だと、その全てを遠ざけた。
問い詰めた次の日から、親父はパチンコに行くことは無くなった。しかしずっと家にいた。俺たち、二人とも。
俺は不登校になり、親父は引きこもり。
親父は酒とたばこに溺れて、延々とテレビの前でお菓子を食べては寝てを繰り返す。
次第に親父はご飯を作ることも無くなり、俺が自分の分だけを作るようになった。
しかし貯金だけはいくらでもあったから、細々と暮らせば、この先十年は働かずに生きていけた。
そんな健全とは程遠い少年期を、俺は過ごした。
そして時間を無駄に消費して、気づけば俺は二十歳になっていた。
相変わらずの生活だった。俺と親父は同じ家の中で暮らしているはずなのに、まるで互いに他人のように生活していた。
見る度にむしゃくしゃした。喉元を掻きむしりたくなる。今では接点もないのに、無性に彼女を殺したくなるときがある。
彼女の名前は高木ひまり。俺とは四つ上だった。
通る者の目を惹くほどの美貌を持ち、尚且つ成績も優秀な女の子だった。
家が向かいのため、必然的に彼女の姿が視界に入った。それは記憶のある限りずっと昔から。幼稚園の頃、まだ自分の部屋も与えられていない頃にはよく遊んでいたし、小学校に上がってしばらくは、高木家にお邪魔させてもらったりもした。
彼女は高校三年生だ。きっと有名な大学を出て、超一流企業にでも就職するのだろう。
対して自分は、高校受験を間近に控えて学校にも通わず、家に引きこもったまま。一体どこで道を踏み違えたのだろうか。彼女のような幸せな人生とは言わずとも、世間一般的に言う「普通」の暮らしが出来ればそれでよかったのだ。
でも、この有様ではそんな普通の幸せさえ叶いそうにない。なら、細々と暮らしていけばいい。それでも別に死にやしないのだから。
いつまでも引きこもっていたら子供のまま成長できないとは知っている。しかし、大人にもなりたくなかった。
いつかは真っ当な大人に。あんな最低な大人にはなりたくないのだ。
子供であることを恐れ、大人になることを恐れた俺は、気づけばこの小さな部屋が聖域になっていた。
*
五歳の頃まで、俺には母親がいた。
話によると事故で無くなったらしい。それから俺は、親父の手で育てられてきた。母親を失った二人家族。それでもあの頃は幸せだったのかもしれない。
母の事はほとんど記憶に残っていないが、父から聞いた話と、仏壇に飾られている遺影でおおよその人物像は理解した。誰にでも手を差し伸べる、優しい女性だったらしい。
小学校に上がる頃には、親父も一人で育てることに慣れたようで、俺に構ってくれるようになった。
「翔太、何が欲しい?」それが口数の少ない父親の口癖だった。
彼はエリート街道を進み、国立大学の大学院を卒業してから地元に戻ってきて、電車で一時間かけて有名企業に通っていた。そこでも彼はエリート街道を進み、三十の若さにして管理職へと上り詰めた。金は潤沢にあった。同年代の平均年収の倍以上は稼ぐ、本当に選ばれた人間だった。
仕事においてきっと誰よりも優秀で、器用だったのだろう。
そんな親父は、俺が欲しがった全てを与えてくれた。金があるから食うには困らなかったし、将来は私立大学の医学部受験ですら平気だと言っていた。当時の俺からしてみれば理解のできないものだったが、成長した今ならその凄さがよくわかる。金だけはあったのだと。
何でも買い与えてくれる親父が大好きだった一方で、日に日に帰りの遅くなる親父が心配だった。授業参観さえ来ることのできない親父はきっと忙しいのだと言い聞かせた。
そして友達の多くない俺は、一人で過ごす時間が増えていった。
小学五年生になったとき、親父が帰ってこない理由が分かった。パチンコに通い詰めていたのだ。それが分かったのは、向かいの家の高木さんのお母さんに連れられて、高木ひまりと俺と三人で買い物に出た時だった。
パチンコ店の前を横切ったとき、ふと目に入ったのだ。それが馴染みのある車だったから、一目で分かった。
家に帰ってきた親父にそのことを問い詰めると、新たな事実が発覚した。数か月前に仕事を辞めていた。つまり親父は一日中パチンコ店に籠って、俺のことを一切見てこなかったということらしい。授業参観も、仕事をしていないのなら来られたはずなのだ。
その時、小学五年生の俺は思った。こんな大人にはなりなくない、と。
それから俺は、学校の同級生が眩しく見えた。彼らの無邪気な一言一言全てが俺の胸に突き刺さった。
そして一番俺の心を抉ったのは、高木ひまりだった。
どうしてあんなに幸せそうなのだろう。きっと、人生の中で苦労をしたことなんて無いのだろう。誰かを恨んだことも、恨まれたことも。十分な愛を注がれて育ったのだ。
まるで自分とはかけ離れた存在だと、その全てを遠ざけた。
問い詰めた次の日から、親父はパチンコに行くことは無くなった。しかしずっと家にいた。俺たち、二人とも。
俺は不登校になり、親父は引きこもり。
親父は酒とたばこに溺れて、延々とテレビの前でお菓子を食べては寝てを繰り返す。
次第に親父はご飯を作ることも無くなり、俺が自分の分だけを作るようになった。
しかし貯金だけはいくらでもあったから、細々と暮らせば、この先十年は働かずに生きていけた。
そんな健全とは程遠い少年期を、俺は過ごした。
そして時間を無駄に消費して、気づけば俺は二十歳になっていた。
相変わらずの生活だった。俺と親父は同じ家の中で暮らしているはずなのに、まるで互いに他人のように生活していた。