浜風が食べ終えた中でも、夕花姫は魚鍋をおいしくいただく。
「おいしいでしょう。本当に暁のつくる料理ってどれもおいしくって。もうちょっと時間があったら紐餅もつくれたんだけれど」
こねた小麦粉を揚げて糖蜜と絡ませたお菓子は、夕花姫もお気に入りのものだったが、つくるのに時間がかかるのだけは難点だった。
魚鍋のおいしさに満足したところで、「さて」と浜風は立ち上がった。
「姫君、できれば楽器をお借りしたいのだけれど」
「楽器? あなたの横笛は見事だったけれど、それじゃ駄目なのかしら?」
「もちろん横笛でもかまわないけれど、それは手慰みだから。せっかくこれだけおいしい料理を振る舞ってくれたのだから、ぜひとも暁にはお礼をしなくてはねえ」
そう言うので、夕花姫は浜風を伴って、蔵へと楽器を見繕いに行った。
都からやって来る貴族との宴会でくらいしか使われないため、楽器はほとんど新品同然で蔵に眠っていた。そもそも国司の屋敷を訪れる者たちはことごとく楽の才には恵まれなかったために、夕花姫自身もどのような楽器がいいものなのかがわからない。
楽器の多い場所に辿り着くと、夕花姫は琴を見つけ出して指さす。
「ええっと……琴とかは駄目かしら?」
「おや。姫君は楽器の腕は?」
「……もしちゃんと弾けたら連弾とかできたんでしょうけど、残念ね」
「そりゃ残念。もしよろしかったら、手ほどきをしようか?」
「あら、ごめんなさいね……私、どうにも楽器の覚えが悪いみたいなの」
ふたりでそう言い合いながら、琴を取り出した。
そのまま運んでいったら、気付けば人が集まっている。
浜風が手慰みで吹いていた笛の上手さに釣られて、女房たちやら使用人たちやらも集まっていた。国司も混ざっているようだ。
「おやおや、ここまで人が集まるとは思っていなかったんだけどねえ」
「そりゃあれだけ上手かったら、暁のために演奏するとなったら心引かれてやってくる人もいるでしょうね。それじゃあ、琴はここでいい?」
「うん。それじゃあ、これも手慰みだけれど」
そう言いながら、琴を床に置くと、その前に浜風は座った。
夕花姫はいそいそと暁の隣に座ると、暁は怪訝な顔で彼女を見た。
「人が集まってきましたね」
「当然でしょ、浜風の演奏会だったら人も集まるわ」
「……俺にはそれがわからないんです」
「えっ?」
夕花姫には、暁の言葉のほうが理解できなかった。
彼が演奏会を開いて、なにが不満なのか。そもそも、浜風以前から、都からやって来た貴族が楽器の腕を下手くそとは言えども披露する場はいくらでもあったのだ。そのことで暁は、いちいち暁が毒を吐いたこともなかった。
何故そこまで暁が浜風を警戒しているのか、夕花姫にはいまいちわからない。
「そもそも、あなたへのお礼でしょう? いちいち噛みつかないで」
「俺をだしに使われたのが気に食わないだけです」
「もうっ、すぐそういうことばっかり言うんだから!」
とうとう夕花姫が投げたところで、浜風の演奏がはじまった。
爪を付けた彼の指が、流れるように琴の弦を弾いていく。最初は雅やかな音色だなくらいだったが、その指の動きは、だんだんと早くなっていく。
ざざ、ざざざ、ざぁざぁ。
気付けばそれは、小国の波間をたゆたう泡を思わせるような、儚げな旋律を奏でていた。
夕花姫は、何故か浜風と出会ったばかりの洞窟のことを思い出した。
浜風が目覚める前は、端正な顔付きの人ということ以外は、特になにも思わなかったが。
彼は言動や立ち振る舞いが、明らかに小国の人間とは違うのだ。この国を生きる男は、もっと言動がところどころ荒々しくなるし、夕花姫に甘い年老いた国司ですら、ときおりそういうところを垣間見せるのだが、浜風は違う。
彼が何者なのか、そもそも都ではどういう人間だったのか、記憶を取り戻していない今ではなにもわからないが。彼が身分のある人間なんだろうということは、嫌でも想像がついた。
片や小国の田舎貴族の姫。片や都の出世街道を進む貴族。
立場の差はどんなに運命的な出会いを成してもままならないことは、『源氏物語』ですら語られている。
夕花姫はようやく自覚したものの、同時に気付かなければよかったと後悔した。
彼女は叶わぬ恋をしている。浜風に対して。
身分や出自なんて、いくら貴族であったとしても指先ひとつでどうこうできるものでもあるまい。
夕花姫は胸がギシリと軋む音に気付かないふりをして、考えを切り替える。
彼が早く都に戻れるよう、記憶が取り戻せるよう協力し、早く初恋だったと思い出にしてしまわなかったら、やりきれない。
「姫様、袖で顔を拭ってください」
「え……?」
「……俺のための演奏会で、どうして姫様が泣くのですか」
暁の小声の指摘で、ようやく夕花姫は、自分の頬が濡れているということに気が付いた。目じりからは、ポロリポロリと涙が転がってきていたのだ。
夕花姫が必死で袖で顔をぬぐったところで、優しい余韻と胸の痛みを残して、浜風の演奏は終わりを迎えた。
「ああ、浜風様、素晴らしかったです!」
「本当に美しい音色で! 笛だけではなく、琴まで見事に弾かれるのですね!」
演奏会が終わった途端に、女房たちが感嘆の声を上げて浜風に寄ってくる。それを浜風はにこやかな顔で受け答える。
「全ては食事のお礼。そしてこの国の美しさと繁栄、そして姿を見せぬ者に対しての懇願……かな」
「姿を見せぬ者……ですか?」
「なにぶん、私は記憶を失ったばかりで、てんで思い出せませんからな」
そう言って浜風は柔和に笑う。それでたちまち女房たちが頬を染め上げるのだから、女の敵と思われても仕方がないが。残念ながらこの国に彼と全く同じことをできる人間は他にはいない。
浜風が女房たちと話を終える頃には、ようやく夕花姫も泣き止み、暁に「楽器を片付けてくるわね」と告げて、浜風と共に蔵に琴を片付けに向かった。
「やあ姫君、暁は喜んでくれたかな。私の演奏を」
「暁ってばへそ曲がりだから、素直には言わないけれど。でも本当にすごかったわ……! さっきの曲、どういうものなの? そんな音はひとつもなかったはずなのに、何故か瞼の裏に浜辺が広がったわ」
「あれは即興で弾いたものだよ。この国はいい国だからね、この国を思い返しながらつくったんだよ」
「本当にすごい……!」
夕花姫が琴を片付けながらはしゃぎ回るのを、浜風は苦笑を浮かべながら眺めて「ところで」と言葉を告げる。
「この国をもっと好きになりたいのだけれど、さっきの話、考えてくれたかな?」
「あ……羽衣伝説を探るって話?」
「そう。私の知っている限り、天女の話が根付いているのは珍しいからね。記憶を取り戻したら、この国を離れてしまうかもしれない、そのときの思い出を欲しいんだよ。協力してくれないかな?」
それに夕花姫は考え込む。
さんざん暁には反対されたものの、記憶を取り戻せない浜風の思い出づくりに協力するというのならば、別に怒られないかもしれない。
どっちみち彼は記憶を取り戻したらこの国を去る人。ならば夕花姫だって、彼との思い出が欲しかった。
「……いいわよ。でも私も本当に詳しい話は知らないから、まずは漁師に話を聞きに行くって感じでどうかしら?」
「ありがとう。頼もしいね、この国の民に慕われている姫君と探索ができるなんて」
浜風はいつものように、柔らかく笑う。その笑みを見て、夕花姫は顔に熱を持つことに気付く。
この人はずるい人だ。そう思ったものの、夕花姫はそれを誤魔化して、「そうでしょ!? 私にとっては、この国全体は庭みたいなものなんだから!」といつものように振る舞うことしかできなかった。
ただふたりっきりの秘密に、約束。逢瀬。なにもかもがはじめてで、夕花姫は浮足立ってしまっていた。
だからこそ、彼女は気が付かなかった。
蔵の外には人がいたということに。
いつものように暁が、彼女の護衛として廊下でふたりの会話を盗み聞いていたことを。
****
ふつふつと脂の焦げるにおいが震える。
他の部屋は既に、明かりを落として眠りについているが、一番明かりが落ちるのが遅いのが、国司の住む部屋である。
国司は酒をお椀に注ぎながら、くいっと飲む。
この国の米はいい。その米でつくられた芳醇な味わいの酒を、暁に「お前も飲むかい?」と勧めるが、生真面目が過ぎる彼は「結構です」とだけ答えた。
夕花姫の侍である暁は、定期報告を国司に行っていた。
侍は貴族に侍るものだ。当然ながら、暁の本当に主は国司に他ならない。夕花姫の護衛を任されているのは、国司からの指示に寄るものであり、夕花姫もこれを理解している。
「……以上が、報告になります」
「そうか。困ったねえ。お前は斬る必要があると思うかい?」
国司は物騒な話を、本当に今日の朝餉の献立を聞くように尋ねる。夕花姫が薄々気付きつつも気付かぬふりを続けている、父の言動の切れ端である。もっとも、国司は歴代の人々と比べればかなりの穏健な性質なため、夕花姫にもわかりやすいほども表立ってそのような言動を取ることはないのだが。
国司の問いに暁はしばらく黙り込む。
「……俺には、もう少し監視が必要かと」
「そうかい。まあ、私もできれば穏便に済ませたいものだよ。斬ってしまったら、本当になにもかもおしまいなのだからねえ」
国司はそうしみじみとした口調で言いながら、酒を再び呷った。
斬れば終わる。人は簡単に命を落とす。それはいくら平和が過ぎて、混沌とした他所を知らない小国でも同じ話だ。
だからこそ、それは最終手段であるべきだと、ふたりはよく理解している。
「……そうですね」
暁は短く同意した。
国司はにこやかに続ける。
「私としてはね、お前に夕花を連れて逃げて欲しいのだけれど、いろいろと難しいから」
「この場の話とさせてください。俺もこのことは口外しませんから」
暁の感情を読み取る術のないような固い口調に、国司は満足げに頷いて、再び酒を呷った。
「こういうお前だからこそ、安心なのだけどね」
「おいしいでしょう。本当に暁のつくる料理ってどれもおいしくって。もうちょっと時間があったら紐餅もつくれたんだけれど」
こねた小麦粉を揚げて糖蜜と絡ませたお菓子は、夕花姫もお気に入りのものだったが、つくるのに時間がかかるのだけは難点だった。
魚鍋のおいしさに満足したところで、「さて」と浜風は立ち上がった。
「姫君、できれば楽器をお借りしたいのだけれど」
「楽器? あなたの横笛は見事だったけれど、それじゃ駄目なのかしら?」
「もちろん横笛でもかまわないけれど、それは手慰みだから。せっかくこれだけおいしい料理を振る舞ってくれたのだから、ぜひとも暁にはお礼をしなくてはねえ」
そう言うので、夕花姫は浜風を伴って、蔵へと楽器を見繕いに行った。
都からやって来る貴族との宴会でくらいしか使われないため、楽器はほとんど新品同然で蔵に眠っていた。そもそも国司の屋敷を訪れる者たちはことごとく楽の才には恵まれなかったために、夕花姫自身もどのような楽器がいいものなのかがわからない。
楽器の多い場所に辿り着くと、夕花姫は琴を見つけ出して指さす。
「ええっと……琴とかは駄目かしら?」
「おや。姫君は楽器の腕は?」
「……もしちゃんと弾けたら連弾とかできたんでしょうけど、残念ね」
「そりゃ残念。もしよろしかったら、手ほどきをしようか?」
「あら、ごめんなさいね……私、どうにも楽器の覚えが悪いみたいなの」
ふたりでそう言い合いながら、琴を取り出した。
そのまま運んでいったら、気付けば人が集まっている。
浜風が手慰みで吹いていた笛の上手さに釣られて、女房たちやら使用人たちやらも集まっていた。国司も混ざっているようだ。
「おやおや、ここまで人が集まるとは思っていなかったんだけどねえ」
「そりゃあれだけ上手かったら、暁のために演奏するとなったら心引かれてやってくる人もいるでしょうね。それじゃあ、琴はここでいい?」
「うん。それじゃあ、これも手慰みだけれど」
そう言いながら、琴を床に置くと、その前に浜風は座った。
夕花姫はいそいそと暁の隣に座ると、暁は怪訝な顔で彼女を見た。
「人が集まってきましたね」
「当然でしょ、浜風の演奏会だったら人も集まるわ」
「……俺にはそれがわからないんです」
「えっ?」
夕花姫には、暁の言葉のほうが理解できなかった。
彼が演奏会を開いて、なにが不満なのか。そもそも、浜風以前から、都からやって来た貴族が楽器の腕を下手くそとは言えども披露する場はいくらでもあったのだ。そのことで暁は、いちいち暁が毒を吐いたこともなかった。
何故そこまで暁が浜風を警戒しているのか、夕花姫にはいまいちわからない。
「そもそも、あなたへのお礼でしょう? いちいち噛みつかないで」
「俺をだしに使われたのが気に食わないだけです」
「もうっ、すぐそういうことばっかり言うんだから!」
とうとう夕花姫が投げたところで、浜風の演奏がはじまった。
爪を付けた彼の指が、流れるように琴の弦を弾いていく。最初は雅やかな音色だなくらいだったが、その指の動きは、だんだんと早くなっていく。
ざざ、ざざざ、ざぁざぁ。
気付けばそれは、小国の波間をたゆたう泡を思わせるような、儚げな旋律を奏でていた。
夕花姫は、何故か浜風と出会ったばかりの洞窟のことを思い出した。
浜風が目覚める前は、端正な顔付きの人ということ以外は、特になにも思わなかったが。
彼は言動や立ち振る舞いが、明らかに小国の人間とは違うのだ。この国を生きる男は、もっと言動がところどころ荒々しくなるし、夕花姫に甘い年老いた国司ですら、ときおりそういうところを垣間見せるのだが、浜風は違う。
彼が何者なのか、そもそも都ではどういう人間だったのか、記憶を取り戻していない今ではなにもわからないが。彼が身分のある人間なんだろうということは、嫌でも想像がついた。
片や小国の田舎貴族の姫。片や都の出世街道を進む貴族。
立場の差はどんなに運命的な出会いを成してもままならないことは、『源氏物語』ですら語られている。
夕花姫はようやく自覚したものの、同時に気付かなければよかったと後悔した。
彼女は叶わぬ恋をしている。浜風に対して。
身分や出自なんて、いくら貴族であったとしても指先ひとつでどうこうできるものでもあるまい。
夕花姫は胸がギシリと軋む音に気付かないふりをして、考えを切り替える。
彼が早く都に戻れるよう、記憶が取り戻せるよう協力し、早く初恋だったと思い出にしてしまわなかったら、やりきれない。
「姫様、袖で顔を拭ってください」
「え……?」
「……俺のための演奏会で、どうして姫様が泣くのですか」
暁の小声の指摘で、ようやく夕花姫は、自分の頬が濡れているということに気が付いた。目じりからは、ポロリポロリと涙が転がってきていたのだ。
夕花姫が必死で袖で顔をぬぐったところで、優しい余韻と胸の痛みを残して、浜風の演奏は終わりを迎えた。
「ああ、浜風様、素晴らしかったです!」
「本当に美しい音色で! 笛だけではなく、琴まで見事に弾かれるのですね!」
演奏会が終わった途端に、女房たちが感嘆の声を上げて浜風に寄ってくる。それを浜風はにこやかな顔で受け答える。
「全ては食事のお礼。そしてこの国の美しさと繁栄、そして姿を見せぬ者に対しての懇願……かな」
「姿を見せぬ者……ですか?」
「なにぶん、私は記憶を失ったばかりで、てんで思い出せませんからな」
そう言って浜風は柔和に笑う。それでたちまち女房たちが頬を染め上げるのだから、女の敵と思われても仕方がないが。残念ながらこの国に彼と全く同じことをできる人間は他にはいない。
浜風が女房たちと話を終える頃には、ようやく夕花姫も泣き止み、暁に「楽器を片付けてくるわね」と告げて、浜風と共に蔵に琴を片付けに向かった。
「やあ姫君、暁は喜んでくれたかな。私の演奏を」
「暁ってばへそ曲がりだから、素直には言わないけれど。でも本当にすごかったわ……! さっきの曲、どういうものなの? そんな音はひとつもなかったはずなのに、何故か瞼の裏に浜辺が広がったわ」
「あれは即興で弾いたものだよ。この国はいい国だからね、この国を思い返しながらつくったんだよ」
「本当にすごい……!」
夕花姫が琴を片付けながらはしゃぎ回るのを、浜風は苦笑を浮かべながら眺めて「ところで」と言葉を告げる。
「この国をもっと好きになりたいのだけれど、さっきの話、考えてくれたかな?」
「あ……羽衣伝説を探るって話?」
「そう。私の知っている限り、天女の話が根付いているのは珍しいからね。記憶を取り戻したら、この国を離れてしまうかもしれない、そのときの思い出を欲しいんだよ。協力してくれないかな?」
それに夕花姫は考え込む。
さんざん暁には反対されたものの、記憶を取り戻せない浜風の思い出づくりに協力するというのならば、別に怒られないかもしれない。
どっちみち彼は記憶を取り戻したらこの国を去る人。ならば夕花姫だって、彼との思い出が欲しかった。
「……いいわよ。でも私も本当に詳しい話は知らないから、まずは漁師に話を聞きに行くって感じでどうかしら?」
「ありがとう。頼もしいね、この国の民に慕われている姫君と探索ができるなんて」
浜風はいつものように、柔らかく笑う。その笑みを見て、夕花姫は顔に熱を持つことに気付く。
この人はずるい人だ。そう思ったものの、夕花姫はそれを誤魔化して、「そうでしょ!? 私にとっては、この国全体は庭みたいなものなんだから!」といつものように振る舞うことしかできなかった。
ただふたりっきりの秘密に、約束。逢瀬。なにもかもがはじめてで、夕花姫は浮足立ってしまっていた。
だからこそ、彼女は気が付かなかった。
蔵の外には人がいたということに。
いつものように暁が、彼女の護衛として廊下でふたりの会話を盗み聞いていたことを。
****
ふつふつと脂の焦げるにおいが震える。
他の部屋は既に、明かりを落として眠りについているが、一番明かりが落ちるのが遅いのが、国司の住む部屋である。
国司は酒をお椀に注ぎながら、くいっと飲む。
この国の米はいい。その米でつくられた芳醇な味わいの酒を、暁に「お前も飲むかい?」と勧めるが、生真面目が過ぎる彼は「結構です」とだけ答えた。
夕花姫の侍である暁は、定期報告を国司に行っていた。
侍は貴族に侍るものだ。当然ながら、暁の本当に主は国司に他ならない。夕花姫の護衛を任されているのは、国司からの指示に寄るものであり、夕花姫もこれを理解している。
「……以上が、報告になります」
「そうか。困ったねえ。お前は斬る必要があると思うかい?」
国司は物騒な話を、本当に今日の朝餉の献立を聞くように尋ねる。夕花姫が薄々気付きつつも気付かぬふりを続けている、父の言動の切れ端である。もっとも、国司は歴代の人々と比べればかなりの穏健な性質なため、夕花姫にもわかりやすいほども表立ってそのような言動を取ることはないのだが。
国司の問いに暁はしばらく黙り込む。
「……俺には、もう少し監視が必要かと」
「そうかい。まあ、私もできれば穏便に済ませたいものだよ。斬ってしまったら、本当になにもかもおしまいなのだからねえ」
国司はそうしみじみとした口調で言いながら、酒を再び呷った。
斬れば終わる。人は簡単に命を落とす。それはいくら平和が過ぎて、混沌とした他所を知らない小国でも同じ話だ。
だからこそ、それは最終手段であるべきだと、ふたりはよく理解している。
「……そうですね」
暁は短く同意した。
国司はにこやかに続ける。
「私としてはね、お前に夕花を連れて逃げて欲しいのだけれど、いろいろと難しいから」
「この場の話とさせてください。俺もこのことは口外しませんから」
暁の感情を読み取る術のないような固い口調に、国司は満足げに頷いて、再び酒を呷った。
「こういうお前だからこそ、安心なのだけどね」