夕花姫が浜風と名付けた男性は、物腰が柔和で、なによりもこの美貌だ。小国の大味な男たちしか知らない女房たちが、入れ替わり立ち替わり、なにかしら理由を付けて夕花姫が面倒を見る彼の元に足繁く通っては、彼に取り入ろうとするのを、夕花姫は変な顔で眺めていた。

「なあに、今まで私ひとりのときは、こんなに来たことなかったじゃない。男の人は暁だっているでしょうが」

 さすがに浜風の看病中に、こうも入れ替わり立ち替わりやってくると鬱陶しくなって、日課の稽古中に悲鳴を上げて苦情を言うと、女房のひとりは「いやいや姫様」と袖で口元を抑えて訴える。

「こんな薫りをしっかりと焚き込めたお方、もう現れないと思いますよ? いい男というものは既婚者か僧侶と相場が決まっておりますから」
「……そういうものなのかしら?」
「なにおっしゃっているのですか、姫様。一番あのお方とお近付きになれる立場なのはあなたではございませんか」
「そうなの?」

 女房の指摘で、夕花姫はきょとんとした顔をする。
 そもそも彼女は護衛として暁と一緒にいることが多い上に、彼とのことは女房たちにとやかく言われた覚えがないために、余計に意味がわからないという顔になる。
 しかし女房たちは密やかに袖で口元を隠しながら言う。

「だってあの方からしてみれば物珍しいでしょう。都では、姫様みたいな貴族の女性は、男の人に直接お会いしませんから」
「会わないと看病なんてできないでしょうが」
「そこが田舎と都の違いなのですよ」

 たしかに浜風のことは見とれてしまう夕花姫ではあるが、女房たちのその感覚だけはわからない、とただひたすらに首を傾げるのであった。
 裁縫の稽古を終えたあとは、ようやく暇をもてあそんでいただろう浜風のほうへと向かう。数日は寝込んでいたものの、打ち身で動けなくなっていた体もすっかりと癒え、夕花姫が部屋に遊びに行くと大概は柔和な顔で迎えてくれるようになった。
 彼は夕花姫が宛がった部屋で、笛を吹いていた。
 残念ながら、楽器を嗜むような人間はこの小国にはいない。せいぜい神社の催事で雅楽が聴けるくらいだ。でも神社で聴くそれよりも、音が伸びやかに聴こえて、夕花姫は驚いて彼の隣に座って、曲に耳を傾ける。
 曲を吹き終えた浜風は、優美な笑みを浮かべて夕花姫を見やった。

「稽古お疲れ様。忙しい身の上でしょうに、わざわざ私の元に足を運んでくださるとは、姫君の優しさ、嬉しいよ」
「まあ……私があなたを拾ったんですもの。最後まで責任を持つわ。でもそうね……その曲は都の曲?」
「さあ。私も懐に触れたら笛が入っていたので、潮水で駄目になってないか吹いてみたまで。都で覚えたのかどうかは、さすがに思い出せないかな」

 医者曰く、記憶喪失になった場合でも数日経ったら記憶が戻る場合と、全く戻らない場合とあるという。数日だけでは、浜風の記憶喪失が戻るものなのかわからないものなんだろうか。
 夕花姫はしおらしく頭を下げて謝る。

「あら……それはごめんなさいね。でもそうね。うちの屋敷にいても、なにもないから暇でしょう? お父様も今は職務で出かけてらっしゃるから、昼までは戻ってこないし。どうせなら、散歩に行かない?」
「散歩……?」
「あら、都では貴族は散歩しないものなの?」
「私の記憶にはないけれど……おそらく貴族は、特に姫君は外を出歩かないものだったかと思うよ。でも姫君が出歩いてくれなかったら私を見つけてくださらなかったから、君のその楽しみを奪うのはよくないと思うね」

 その会話に、夕花姫はふわふわとしたものが浮かんでは消えるのを感じた。
 夕花姫の脱走癖や拾い癖は、暁や国司はもちろんのこと、屋敷に仕える女房たちからもあまり面白いもののようには思われていなかった。初めて肯定されたために、少しだけ嬉しくなったのだ。
 浜風は笛を懐にしまい込むと、「でも」と首を傾げる。

「散歩って歩いて行くのかな?」
「そうねえ……都の人は散歩って歩かないものなの? 私はしょっちゅう歩き回っては暁に怒られているのだけれど。でもそうね。浜風は病み上がりだものね。頭も大きく打ち付けたばかりだし、むやみに歩き回ってはよくないわ。牛車を出してもらえないか、ちょっと頼んでみるわね」

 夕花姫はそう言って、廊下を走りはじめた。
 牛車の元に行こうとしたところで、ボスンとぶつかった。侍の暁の胸元にぶつかったのだ。鼻を思いっきりぶつけて、夕花姫は「もう…………!!」と声を上げる。

「姫様、ちゃんと前は見てください。それとどうしたんですか、こんなところまで走ってきて」
「あら。暁。あのね、浜風と一緒に牛車で散歩に出たいのだけれど、いいかしら?」
「牛車ですか……まあ牛車でしたら、姫様も危ない真似はなさらないでしょうが」
「失礼しちゃうわね。私がいつ、危ない真似をしたの」

 夕花姫のぶすくれた態度にも、暁は動じることはなく、淡々と説教をする。

「干潮のときにしか現れない洞穴に突撃するのの、いったいどこか危なくない真似なのですか。そうしなければ浜風を助けられなかったことは事実でしょうが、仮に潮が満ちはじめたら、姫様の服装ではまず溺死しておりました。そんなことになればお父上が嘆くでしょう」
「もう! お父様の名前を出すのは卑怯よ! 暁の意地悪!」

 暁の物言いに、夕花姫が頬を膨らませたら、暁は溜息をつきながら歩きはじめる。

「牛車の準備をすればいいのでしょう? 従者に頼んできます。その間に出かける準備をしてください」
「まあ! ありがとう、暁。大好き!」
「そういうことは軽々しくおっしゃらない」

 夕花姫の軽口を軽口で返して、暁が牛車の準備に向かったのを見計らって、夕花姫は浜風の元に引き返した。

「牛車を出してくれるんですって! 行きましょう。あなたにいろいろ案内したいの! 私の国を!」
「おやおや。とんでもなく熱烈な宣言だね。この国を訪れる者に、いつもこうして案内してあげているのかな。親切な姫君は」
「あら、私そんなに優しいことしないわよ?」

 夕花姫は髪を揺らしてそう言う。

「都からやって来る貴族は、大概はお父様のお知り合いか、都から派遣されてきた国司だしね。ほとんどの人たちはお父様とお酒を飲むだけで、国内を見て回ることもないわね。私はこの国が好きだけれど、都の方からしたらつまらないのかしら。よくわからないわ。でもあなたは違うわね?」
「そんなに私は他の者たちと違うのかな? 自分だとよくわからないのだけれど」
「ええ。型に嵌めた考えをなさらないもの。それってすっごく素敵なことだと思うわ。私、都の姫になりたい訳じゃないもの」

 そう言って夕花姫は笑った。
 発光しているかのような、彼女の笑みに、浜風は一瞬だけ目を細めて「それはそれは」と返したところで、暁がやってきた。

「姫様、牛車の準備ができたようです。浜風もどうぞ」
「あらっ! それじゃあ行きましょう」
「これはこれは。楽しみにしているよ」
「ええ! 私の国を、どうかあなたにも好きになて欲しいわ!」

 夕花姫が手を引っ張って浜風を連れて行くのを、暁は目を細めて睨んだが、なにも口にすることはなかった。
 こうして、ふたりは暁が準備させた牛車に乗り込むと、そのまま緩やかに屋敷から出発することとなったのである。

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 緩やかな坂道を登り終えると、そこから小国を一望できる。
 普段であったら夕花姫は歩いて出かけるところだが、牛車でのんびりと坂道を登るのも乙なものだと、初めて感じた。

「いい景色だね。田畑が荒れていない」

 まだ完全に坂道を登り切ってはいないが、それでも窓の簾を巻き上げれば、坂の下の荘園を見下ろすことができる。浜風はそこからの光景を興味深げに眺めていた。
 青々とした田畑が眺められる景色は、この季節の夕花姫のお気に入りであった。

「ええ、ここは土がいいんだってお父様がおっしゃってたわ。毎年豊作なのよ」
「それはすごいね……しかも驚いた。ここは海に囲まれた土地だから、もっと塩と戦っているのかと思っていたけれど」
「しおとたたかう? どうして?」

 浜風から聞いたことがない言葉が飛び出て、夕花姫はきょとんとする。浜風は柔和な口調で馬鹿にすることなく教えてくれた。

「塩害というものがあるんだよ。海からできる塩が田畑に撒かれると、田畑の作物は枯れてしまうことをそう呼ぶんだね。波が高かったり、嵐に海が巻き取られて雨として降り注いでしまったら、塩が各地に散らばってしまうんだよ。だから海に近い村では、基本的に田畑をつくったところで枯れてしまうからつくらない。だから四方を海に囲まれているこの国で、海の近くに田畑をつくっても枯れないというのはすごいことなんだよ」
「あらぁ……そうだったの?」

 夕花姫は少しだけびっくりして、暁のほうに話を向けてみた。普段から出歩いて、漁師の子とも田畑の子とも話をしている夕花姫だが、そんな話は初めて聞いた。
 自分が見ていないうちに、そんな大変なことが起こっていたんだろうか。
 暁は少しだけ目を見張ると、口を開いた。

「俺もその話は初耳です」
「へえ? ますます不思議な話だ。海の近くで塩害がないっていうのは、すごいことなんだよ」
「都では、そういう話はないのか?」
「そもそも都は海に面してはいないからねえ。私も記憶にはないのだけれど、海の近くでは田畑がないのが普通だったと思うから」

 都には海がなかったのか。
 夕花姫は未だかつてないくらいに、驚いた顔で浜風を見ていた。あるものが当たり前だと思っていたものがないというものほど、衝撃的なことはない。
 なによりも、浜風に指摘されるまで、ちっとも気にしたことはなかった。
 海は恵みをくれるものであり、そこで獲れる貝や魚、海藻はどれもおいしいものであった。まさか海が田畑を枯らす害悪の側面を持っているということを、言われるまでちっとも知らなかったのである。
 小国の田舎貴族と言われてもしょうがないと、少しだけ夕花姫はしゅんとうな垂れた。