ざざん、ざん。ざん。
 浜辺を歩くと、いつもと同じく規則正しい波の音が聞こえてくる。
 寄せては返す波を眺め、波が陸に運んでくるものを眺めるのが、夕花姫(ゆうかひめ)にとってはなによりもの楽しみだった。

「おひいさん、見てみて! こんなにすごい貝が落ちてた!」

 そう言って夕花姫に、子供の顔の半分くらいの大きさの貝殻を見せてくるのは、漁師の子供のさちであった。それに夕花姫は破顔する。

「すごいわね、これだけ大きな貝殻を並べて紐を通したら、立派な首飾りになるわ」
「すごい!」

 さちはまだ年端もいかない童女ではあるが、夕花姫は明らかにそうじゃない。
 ぬばたまの髪は背中を覆うほどに真っ直ぐ長く伸び、小袿は杜若(かきつばた)に合わせている。たゆたう波を背景に歩く姿は、発光しているように見えるほどに美しい娘だが、その笑みを隠すこともない様は、さちよりも幼くも見える。本来だったら家族や連れの侍女以外に顔を出してはいけないような立場ではあるが、こうして屋敷を抜け出して浜辺まで出歩く癖がついていた。
 更に悪い癖はというと。

「あら、これは?」
「なんかね、流れ着いたんだよ。どこかの船がひっくり返って積み荷だけ流れてきたみたい」

 さちの説明に、夕花姫は目を輝かせた。
 彼女のもうひとつの悪癖は、面白いと思ったものはどんなものでも持ってきてしまうという拾い癖であった。
 流されてきたものをマジマジと見る。本来はつるんとしていたであろう重箱も、潮騒に揉まれてすっかりと表面が傷だらけになってしまっていた。
 その紐を解いて中身を覗いた夕花姫は、「まあ、もったいない……!」と叫んだ。
 中に入っていたのは巻物であった。それもこの辺りでは貴重な紙の巻物であった。潮風でなにもかもが傷みやすいこの国では、都と違って紙はなかなか手に入らず、父が都とやり取りするための手紙くらいでしか、ほとんど使われることもなかった。夕花姫の手習いも専ら木の短冊で行っている。
 広げてみると、それは本来ならば物語の写しだっただろうに、すっかりと墨が滲んでしまって、読み取ることも叶わなかった。

「まあ、本当にもったいないわ! なんとかして乾かしたら、半分くらいは読めないものかしら」
「おひいさん、これってそんなにすごいものなの?」
「すごいものなのよ! だってこの国だと都の流行りの物語なんて、滅多に読めないんですもの!」

 生乾きの巻物をひしっと抱き締める夕花姫を、さちは怪訝な顔で見た。
 この国では都の流行小説を読むのも、船が転覆せずに届いたとしても数か月経ってからでなければ目にすることも叶わないのだが、残念ながら漁師のほとんどは文字が読めず、物語の価値を夕花姫ほどにはわからない。
 そうしていたら、日焼けした子供が走ってきた。漁師の子供のげんたである。

「おひいさん、やばいよやばいよ、そろそろ来るよ!」
「あら……撒いたと思ったのに、もう見つかったの?」
「うん、居場所を聞かれたから、どうにか誤魔化したけど、でも探すの全然諦めてないから、もうそろそろ来るよう……」

 げんたは涙目になるので、夕花姫は生乾きのまま巻物を自分の小袿に挟んでから、ポンポンとげんたの頭を撫でた。

「大丈夫よ。げんたは怒られないわ。ただ私に少々口やかましいだけだけれど、あれも悪い奴ではないから」
「その漁師の子供に庇われている姫様は、なんなんですか」

 怜悧な声に、夕花姫は「ひいっ……!」と肩を跳ねさせた。
 直垂を着て腰に刀を佩いた青年は、夕花姫と年齢はそこまで変わらないように見えた。切れ長の瞳にきりりと引き締まった口元は凛々しい。もしも都の姫君であったら黄色い声を上げるだろうが、夕花姫からしてみれば見慣れた顔に過ぎない。
 国司の元で侍を務めている夕花姫の幼馴染、(あかつき)の最近の仕事は、専ら屋敷からの脱走癖のある夕花姫の捜索と保護であった。
 夕花姫は唇を尖らせる。

「ひどいわ! 私、今日は食べ物をなにも拾ってないのよ!?」
「拾わないでください。一国の姫様が、拾い癖がついて漁師の子供と一緒に拾い食いしているなんて知られたら、普通に笑われます」
「一国の姫ってなにそれ! 私、全然姫扱いなんてされたことないわ!?」
「なにをおっしゃいますか、雨風を気にしない屋敷で寝起きできて、いい身なりをして食べ物に困らない生活のなにに不満がおありですか」
「そうかもしれないけれど! だってここ、なんにもないじゃない……!」

 そう夕花姫は、ぷぅーっと頬を膨らませて抗議した。
 漁師の子供たちはというと「またはじまった」という顔で夕花姫と暁のやり取りを眺めるばかりであった。

「またおひいさんと侍さん、言い合いはじまっちゃったね」
「おひいさん、この間拾った貝を食べてお腹壊しちゃったから、余計に過保護になってるんだよ。貝は当たるときは当たるし、当たらないときは当たらないから、拾わなければ問題ないって話でもないんだけど」
「でも侍さんもいい人だけどね。だっておひいさんが遊び足りないと判断したら、遠くで待ってるし。この間もおひいさんが干物づくり手伝ってくれてたの、遠くで待っているだけじゃなくって手伝いに来てくれたしね」
「屋敷に住んでる人は、もっと偉そうにしてるのかって思ってたけど、ふたりともちっとも偉そうじゃないもんね」

 さちとげんたがそう話している間も、夕花姫と暁の漫才は続いている。ところどころ物騒な会話が飛び交うが、さちやげんただけでなく、このふたりのことを知っている人間は誰ひとりとしてまともに取り合わない。よくある話なのだから。
 四方を海に囲まれた小国において、いくら貴族の姫と言っても都に住む者たちからしてみれば田舎者扱いは避けられないし、それがわかる程度には知識があるのだから、悩ましいところである。
 暁は溜息交じりに、夕花姫に言う。

「姫様、いい加減そろそろ落ち着いて屋敷にお戻りください。いくらここの海は荒れないとは言えど、海賊が現れたり、不法侵入者が現れることもあるんです。せめて俺の目の届く場所にいてくれなければ困ります」
「あら、そうは言っても私。生まれてこの方、海賊なんて見たこともないし、あの子たちに聞いても『知らない』って言われてるわよ?」
「そうかもしれませんが。万が一ってこともありますから。海が荒れないってことは、誰でも自由にこの国に出入りできるってことなのですから」
「うーん、そうかもしれないけど。でもここからじゃなかったら、海の向こうが見えないじゃない」

 そう言って、夕花姫は指を差す。
 彼女が指を差した方角には、海鳥がついーっと優美に空を飛んでいるのが見える。その向こう……本当に目を凝らさなければ見えないが、海の向こう側がわずかばかり見える。
 雲ひとつないときでもなければ、海の向こう側を拝むことなんてできない。
 夕花姫はこの国の国司の娘だ。父が国司を降りない限りはこの国から離れることはできないというのはわかっているし、波の音の聞こえない生活なんて考えたこともないが、それでも浜辺に打ち上げられるものを拾い上げるたびに、都からやってきた物語に目を通すたびに思うのだ。
 海の向こうには、いったいなにがあるのだろうと。
 そして都はいったいどんな場所なのだろうと。

「私、一度でいいから海を渡ってみたいの。もしもできるなら一度でいいから都に行ってみたいし、どんな場所なのか歩いてみたいの。物語をお腹いっぱい読んでみたいし、都の食べ物だってどんなものか食べてみたいわ」

 夕花姫は夢いっぱいにそう訴える。
 しかし暁は溜息交じりに、彼女の言葉を否定する。

「お言葉ですが、姫様。都は姫様が思っているほど平和な場所でも、物語に書かれているほど美しい場所でもないかもしれませんよ」
「あら。だって暁だってこの国から出たことないじゃない」

 暁は幼馴染なのだから、夕花姫と同じく海の向こうの様子を間近で見たことはないことを彼女は知っている。
 もっとも、彼は国司の元で働いているのだから、夕花姫よりも都の事情を聞くことは多いのだが。

「でも想像くらいは付きますよ。都では姫君は外を歩き回りません。悪漢が出て危ないからです。この平和な国しか知らない世間知らずが過ぎる姫様なんて、あっという間に攫われてしまいますよ」
「まあ! 私を脅しているつもり?」
「もうちょっと慎み深くしてくださいと申しているだけです」
「もう、意地悪意地悪意地悪っ! 私、いつだってなにもせずに逆らって屋敷を飛び出してなんていないわ! 稽古の時間が終わってからじゃないと出てこないもの!」
「……普通はそもそも、姫の嗜みを学んだあとに屋敷から飛び出すことなんて、しないんですよ」
「まあ! いつもいつもどうしてここまで口やかましいの! 暁は私の母様ではないでしょ!?」

 夕花姫がぽこぽこと暁に胸板を叩いても、暁は動じることもなく、ただただ対応が素っ気ない。都の姫ほどでもないが、一応はやんごとなき身分の姫なのだから、痛いと思うほどの力がある訳ではない。
 暁は叩かれながらも、ただ「もう充分遊んだでしょう。帰りますよ」の一点張りであった。
 見かねたさちが、おずおずと夕花姫に言った。

「……おひいさん。侍さんもそうおっしゃっているし、帰ったら?」
「さちぃー、私を見捨てるのぉー?」
「見捨てるんじゃなくってね、おひいさんのお父さんも心配してるんじゃないの?」

 そう言われると、さすがの夕花姫もぐうの音も出ない。
 この国で一番偉い国司ではあるが、夕花姫からしてみれば優しい年老いた父である。
 おろおろとする父には、お転婆が過ぎる彼女も弱いのであった。
 観念したように、夕花姫は暁のほうに寄って、さちとげんたに手を振る。

「じゃあね、私そろそろ帰るから。また遊びましょうね」
「うん、おひいさん。さよなら」
「はい、さよなら」

 こうして、小袿の裾を揺らしながら、夕花姫は暁に連れられて帰っていった。
 ざざん、ざん、ざん。
 波の音を背に、屋敷へと帰っていく。
 これが夕花姫の日常であった。
 夕花姫は普段は、国司の屋敷の一室で過ごしていた。彼女付きの侍女はほとんどおらず、ときおり裁縫や歌、楽器の稽古を行うものがやってくるのみであった。
 苦手な裁縫で単衣をつくりながらも、これになんの意味があるんだろうかと夕花姫は思う。
 本来、彼女の年頃ならば婚約者のひとりやふたりいてもおかしくはないし、なんなら結婚していてもなにも間違ってはいないのだが、場所が場所である。四方を海に囲まれた場所まで派遣された国司くらいしか出会いがないのだが、都から派遣されてくることは滅多になく、あっても既婚者で都に妻子が待っているような人物ばかりだから、やはり出会いがなかった。
 都の姫君の真似事をしていて、出会いなんか本当にあるんだろうか、と夕花姫は思う。
 物語に書かれているような色恋にものすごく興味がある訳ではないが、年老いた父のことを思ったら、結婚して安心させたほうがいいんだろうかと考えることだってある。お転婆が過ぎる娘ではあるが、家族や身内には愛着があるのであった。
 裁縫でがたがたの単衣が出来上がり、こんなもの着れるんだろうか。むしろ布のほうが夕花姫に扱われて可哀想じゃないだろうか、というものができて絶句していたら、教えてくれた侍女がペコリと頭を下げた。

「それでは今日の稽古はここまでです。姫様、あとはごゆるりとおくつろぎくださいませ」
「え、ええ! ありがとう! 勉強になったわ」

 自分に時間を割いてくれた以上、お礼を言う。
 侍女は困ったように口元を袖で覆った。

「姫様、心にないことをわざわざおっしゃらずともよろしいんですよ?」
「ほ、本当だもの! 私に時間を割いてくれたのはあなたなんだから!」
「まあ」

 彼女が去って行ったのを見計らってから、夕花姫は「さて」と立ち上がった。
 上に引っ掛けた上着を脱ぐと、小袿姿でてくてくと庭へと降り立った。そのまま浜辺へと逃げ出したのである。いつもいつも暁が自分を見張っているのだから、どうせ抜け出したところでまた見つけ出して連れ戻すだろう。
 彼女はそのまんま牛車が通れる程度には整備された道を出て、歩きはじめた。
 潮風が吹いている。都からやって来る国司の中には、この風が生臭いと鼻白むものも多いが、長年このにおいを嗅いできた夕花姫にとっては、なじみ深いにおいであった。
 浜辺まで出てこれば、ちょうど漁師たちが船を出したばかりで、閑散としているようだった。手伝いの子供たちも、船が戻ってこない内は休み時間とばかりに、浜辺を駆けて遊んでいる。
 子供たちは、年頃にも関わらず同年代が護衛の暁くらいしかいない彼女にとっての、数少ない遊び相手であった。
 ちょうどこの間も遊んでくれたさちが、パッと顔を上げる。

「ああ、おひいさんこんにちは!」
「こんにちはー。今日はなにをしていたの?」
「宝探しをしてたの!」
「あら、宝探し? なにそれ」

 ここに住んでいる子供たちは、貝を見慣れ過ぎて、どんなに美しい貝殻でも拾って後生大事にする性分はない。この間のように転覆された船の中身を拾い集めることを、子供たちは「宝探し」と称していた。

「どうも昨日高波があったみたいで、面白いものがあれこれ打ち上げられているんだ」
「あらまあ……この辺りは平気だったの?」
「全然。この国で高波なんて、ほとんど影響ないもの」
「それもそうか」

 浜辺に波が打ち寄せてくることはあれども、高波で大事なものが流されることは不思議としてない。船が流されてしまったら仕事にならないし、灯台が水をかぶってしまっても困るというのに。ときおり海鳥が干しっぱなしにしていた魚の干物を持って行ってしまう以外では、干物が波で持って行かれてしまうことも、浜辺の近くに建っている漁師たちの家が流されてしまうことも、何故かなかった。
 都の人間であったら驚くようなことも、この国の日常ともなってしまったら、誰も不思議と思わなくなってしまうものである。
 さちは夕花姫に説明をする。

「だからさっきから、いろんなものが流されてるから、それを皆で集めているの」
「ふうん……面白そうね」
「おひいさんもする?」
「そうね、前は物語が流れ着いてたし、もしかしたら無事なものがあるかもしれないし」

 前に拾ってきたものは、ひと晩一生懸命干していたものの、とうとう文字が読めるまで回復することはなく、泣く泣く捨てる羽目になってしまった。
 無事な物語があればいいなと、夕花姫は思う。
 さちは「あるといいねえ」と頷いてくれて、ふたりで流されたものを拾いに行った。
 子供たちは打ち流されたものをあれこれと拾い集めている。
 大きな木箱には竹簡がたくさん積まれていた。こちらは紙よりも頑丈だが、残念ながら水を吸い過ぎて墨が薄くなってしまい、こちらも文字が読めそうになく、なにが書いてあるのかがわからない。積み荷も結構流されていて、中には錠でがっちりと閉められていて開けられそうもない箱まである。

「すごいわね、こんなにたくさん物が流されたのなんて初めて見た」
「うん。灯台の人も、昨晩の高波はすごかったって言ってたから」
「こんなにたくさん物が流されているんだったら、もっといろいろあるかもしれないわね……」

 ふたりで浜辺に打ち上げられたものを次から次へと眺めていたところで、だんだん砂浜から遠ざかり、干潮のときのみ見ることのできる洞穴まで辿り着いていた。そこでさちは「わあ!」と声を上げるのに、夕花姫も釣られて驚く。

「ちょっと、なあに? いきなり大声を上げて!」
「こんなとこまで舟が来てる!」

 それに夕花姫はなにをそこまで驚くのだろうと首を捻った。
 たしかに漁に使うのは舟だと全然人が乗れないからあまり使わないが、舟で沖釣りに行かないこともないので、全く使わない訳でもない。

「あらまあ、本当に。でもそれのなにに驚くの?」
「ここ、干潮のときじゃないと入れないんだよ!? こんなとこまで舟があるってことは、満潮のときに来たってことだよ」

 それもそうか、と夕花姫は思う。
 油断し過ぎて干潮のときに広くなった浜辺を歩き回っていたら、波が戻ってきて取り残され、暁が舟を漕いで助けに来て、屋敷に戻ってから夕餉の時刻まで説教されたことを思い出し、少しだけ震える。
 さちは続ける。

「誰か人が流されてるかもしれないんだよ! 舟、壊れてないもの!」
「はあ……さちすごいわね。たったこれだけで状況がわかるなんて」
「海賊かもしれないから……ちょっと大人呼んでくる! おひいさんは浜辺に戻ってて!」

 さちは慌てて引き返してしまったのを、夕花姫はポカンと眺めていた。
 暁に怒られるのも嫌だから、浜辺に戻って皆が拾い集めてきた宝物を眺めていようか。そう思ったものの。
 干潮のときのみ現れる洞窟から、風が通る音が聞こえてきて、夕花姫は驚いて振り返った。そして、その風がかすかに「うう……」とくぐもった声を拾ってきたのだ。

「まさか……」

 さちが言っていた海賊、の言葉が頭を過る。
 暁が前に何度も口酸っぱく注意していたのだ。この国は何故かけしからも高波からも守られているが、逆に海賊がいつ舟を漕いで現れてもおかしくはないのだと。
 そのまま浜辺に引き返して、誰かいると訴えたほうがいいんだろうか。そう考えたものの。

「うう……」

 聞こえてくる声は、苦痛を伴っているように聞こえた。
 気付いたら夕花姫は、そのまま駆け出していた。もしこれをさちが見ていたら悲鳴を上げていただろうし、暁は「また後先考えずに」と説教をしていただろうが。
 もしかしたら海賊ではないのかもしれない。もしかしたら打ち流された船に乗っていた人が転覆した船から脱出する際に流されて、身動きが取れなくなっているのかもしれない。
 夕花姫は声の聞こえるほう、聞こえるほうへと走って行く。岩肌はお世辞にも走りやすいとは言い難く、何度も何度も滑りそうになりながらも、夕花姫はきょろきょろと視線をさまよわせる。
 潮のにおいが篭もり、陽の光の遠ざかるそこでも、不思議と夕花姫の目は利いた。きょろきょろと辺りを見回していて、ようやく見つけ出した。
 ぐっしょりと濡れた狩衣を着た男性が、倒れているのを。夕花姫はおずおずと彼の元に近付いて、頬をぺちぺちと叩く。

「ねえ、大丈夫?」
「うう……」

 おろおろとして、夕花姫は彼を見る。ぺたんと水を吸って髪が張り付いている頭に触れてみると、どうも大きくたんこぶができてしまっている。頭を大きく打ったのだろう。
 やがてこちらにドタドタと人が走ってきた。
 さちが呼んできた大人と一緒に、夕花姫を探していた暁も混じっていた。

「姫様、またこんなところで……!」
「説教はいいから。ねえ、暁。この人頭を打っているみたいなんだけれど、どうしよう?」

 動かせばいいのか、起こせばいいのかわからず、ひとまず倒れた人の傍で座って夕花姫は訴える。
 それを見て、暁はあからさまに鼻白んだ顔をしてみせたものの、すぐに顔を引き締めた。

「満潮になったらここは沈みますから、ひとまず安全な場所に連れて行きましょう。とりあえず洞窟の外に……」
「ねえ、漁師の家にはさすがに泊められないでしょう? うちに連れ帰ってもいい?」

 ますますもって暁は顔をしかめた。

「……犬猫ではないのですよ?」
「わかってるわよ、そんなこと。でもこの人起きないじゃない。舟から落ちたんでしょう多分。それにここよりも広いしちゃんと寝かしつけられるし。ねえ、いいでしょう?」

 暁はますます難色を示したものの、夕花姫も折れなかった。
 既に彼女の緋袴は、岩肌に残っている水分を吸って変色してしまっている。それを見た暁は、長く長く溜息をついた。

「……わかりました。ただしお父上には姫様が説明してください」
「わかったわ、ありがとう暁!」

 暁は夕花姫を立ち上がらせると、濡れた男性を担いで、そのまま屋敷へと歩いて行った。そこで夕花姫は「あれ?」と男性を見た。
 潮のにおいに混じって、甘い匂いがする。花や果物の匂いとも違うような気がする。それは暁が担いでいる男性からするものだとは、帰り際にようやく気が付いた。
 夕花姫が暁に頼んで男性を連れ帰ったところ、当然ながら国司邸は大騒ぎになってしまった。

「まあ、姫様が男子(おのこ)を連れ帰って?」
「洞穴で倒れてらしたと」
「まあ、謎めいた方ですのね……!」

 四方を海に囲まれた小さな国だ。噂話には飢えていた。夕花姫はなんだかなと思いながらも、暁に男性を「空き室に運んであげて」と伝えてから、急いで父の元へと向かった。
 日頃から早朝に仕事に出向き、昼間には帰ってきて部屋でゆっくりしているのがこの国の国司の生活であった。

「お父様」
「おや、夕花。どうかしたかな?」
「男性を拾ってきました」
「ぶっ……」

 彼女の拾いもの癖はよく知っている国司であったが、人間を拾ってきたのは初めてだった。

「元いた場所に返してきなさい」
「嫌ですね、お父様。犬猫ではないのですよ?」
「夕花は犬猫だってよく拾ってきているだろうが……!」

 子犬も子猫も、海鳥からしてみれば充分に餌なのだから、大きくなるまでは屋敷に置いていてもいいじゃないか、と夕花姫は思う。飼い主だって探し回ってから引き渡しているのだから、なにも考えずに拾ってきた覚えだってない。
 それはさておき、国司は夕花姫の拾いものにはなにかしら思うところがあるようだったが、彼女も引く訳にはいかなかった。どのみち干潮だったからよかったものの、このまま満潮になっても見て見ぬふりしていたら、彼だってどうなっていたのかわかったもんじゃないのだから。

「お父様。あの方、昨日の高波で流されてきた方らしくて、頭を大きく打ち付けておりました。びしょ濡れな上に怪我までなさっているんですから、こんな方を放っておくことのほうが無理ではないかと申します」
「そりゃそうなんだけどね!? 普通はそう思うけどね!? それでもそんなどこの馬の骨ともわからない者を屋敷に入れたら危険でしょう!?」
「お父様、口調が崩れております」
「ああ……失礼失礼」

 日頃は国司として威厳を守って国を治めている父ではあるが、夕花姫の巻き起こす騒動においては、おろおろとするただの父親に成り果ててしまうのであった。
 そもそもいくら拾い物癖があるとはいえども、男を拾ってきたことなんて前代未聞なのだから。
 しかし、親の心子知らず。
 夕花姫は国司が怯んだところで続ける。

「ですからお父様。あの方を置いておく許可をください。怪我を治したら元いた場所にお帰り願うよう伝えますが、怪我をなさっている方を放置しておくなんて、慈悲のないことはできません」
「……まあ、そうだね。それでその問題の人物は、気絶したままなのかな?」
「はい。今は暁が面倒を見てくださっています」
「まあ……暁がいるんだったら大丈夫だろうけどね。とりあえず様子を見に行ってみようか」
「はい」

 こうして、夕花姫は国司と一緒に、暁に任せた空き部屋へと向かっていった。
 気絶している彼は床の上に御座を敷いて横たわっていた。暁が用意してくれたらしい。
 暁は彼の近くで控えていたところで、パチンと夕花姫と目が合った。

「ありがとう、暁。まだ目が覚めないの?」
「姫様……国司様も」

 暁が頭を下げるのに、国司は「そのままでいいよ」とひと言伝えてから、夕花姫の拾ってきた男に視線を送る。

「彼が、問題の人物かな?」
「はい。念のため医者を呼び出しておりますが、まだおられません」
「なるほど」

 横たわっている男性をまじまじ見て、夕花姫は少しだけ顔が火照るのを感じた。
 今は目を閉じている、薄く息をする男性。
 髪は既に乾いているものの、烏の濡れ羽のようにしっとりとした艶を帯びている。目を閉じると睫毛は長いし、薄い唇の輪郭も整っている。
 ここを訪れる男性は、皆既婚者や年老いた者ばかりで、目の前の男性ほど夕花姫と釣り合う年頃の男性もいなければ、整った容姿の人間もいなかった。暁も他の者と比べればかなり顔が整ってはいるのだが、彼は性格や侍としての性分もあって、全体的に大味な上に、周りからはどうしても怖がられてしまっている。夕花姫くらいしか、彼に気安い女子はいなかった。
 夕花姫が横たわっている男性に見とれている中、暁は淡々と国司に報告する。

「この者は干潮のみ現れる洞窟で倒れていたんです。どうなさいますか?」
「ふうむ……干潮の……」

 彼が倒れていたことと干潮と、なにが関係あるのだろうと思う夕花姫だったが、男性の睫毛がふるふると震えたところで、我に返った。

「お父様、暁! 目が覚めたみたいです!」
「うう……」
「ねえ、あなた。どこからいらっしゃったの? 都から? 海を渡ってらしたの?」
「ん……」

 洞窟で聞いたくぐもった声よりも、かすかに漏れる声のほうが低くて甘い。その声に夕花姫はまたも頬に熱を持つ中。ようやく男性の目が開いた。
 綺麗な黒真珠のような目だった。最初は虚ろにさまよっていたそれは、傍で控えていた夕花姫と暁を捕らえ、唇を動かす。

「こ、こは……?」
「ここは小国よ。私は……」

 夕花姫が自己紹介しようとするよりも先に、暁に軽く口を抑えられた。夕花姫は目を白黒とさせる。

「ふぎゅ……ちょっと……なあに?」
「……ここは国司の屋敷。貴様はいったい何者だ? この格好……ただの旅人でもあるまい」

 彼の着ている着物は明らかに絹であり、庶民が着られるものではない。だからといって海賊にしてはひとりで舟に乗っていたのだから。海賊は大人数で押し入り強盗をするのが定番だったのだから、こんなにこそこそとした行動を取るとも考えにくい。よって彼は明らかに不審人物であった。
 暁の鋭い詰問に、男性は「んー……」と間延びした声を上げる。まろやかな声だった。
 やがて、男性は困ったように眉を下げた。
 そしてのそりと起き上がる。

「……済まないね。ちょっと思い出せないんだ」
「思い出せない? 嘘をつくな」
「そうは言われてもね……ここがどこの国なのかもわからなければ、私が何者なのかも思い出せないのだけれど。君は私のことをご存じかな?」

 男性の告白に、少しだけ暁は目を剥き、助けを求めるように国司を見た。
 国司は「ふむ……」と顎を撫で上げたあと、口を開いた。

「どうせ医者を呼んでいるのだから、診てもらおうじゃないか」

****

 暁が手配した医者は、おっとり刀でやってきた。
 男性の着衣を解き、あちこちを触り、最後に頭を見てから「ふむ……」と医者は唸り声を上げた。

「記憶喪失かと思われます」
「記憶喪失?」
「この方は頭を大きく打ち付けた跡がございました。稀に頭に強い衝撃を受けた方が、記憶を飛ばすことがございます。この方もそうなのでしょう」
「それって……元に戻るの?」

 夕花姫の問いかけに、医者は軽く首を振る。

「時と場合に寄ります。記憶が戻らない場合は生涯記憶を取り戻しませんし、何日か経って急に元に戻る場合がございます。呪いではございませんから、陰陽師などを手配してもどうしようもございませんよ」
「そうなのか……」
「体も確認しましたが、頭以外は特に打ち所がございません。頭が元に戻れば自ずと帰る場所もわかるでしょう」
「ありがとうございます」

 医者は念のためと打ち身に効く軟膏を置いて帰っていったが、頭に塗ってもいいものかどうかは、聞きそびれてしまった。
 暁は国司に「どうなさいますか?」と渋い顔を上げるのに、夕花姫は目を釣り上げる。

「ちょっと暁。まさか記憶喪失の人をここから追い出せなんていうんじゃないでしょうね?」
「落ち着いてください、姫様。この者は正体不明なのです。そんな身元不明で正体不明な者を、妙齢の姫様の傍に置いておける訳がないでしょう」
「そんな人でなしみたいなこと、できる訳がないでしょう!? なに言っているの!」

 ふたりの言い合いに、記憶喪失の張本人は、またも「んー……」とまろやかな声を上げる。

「私はどうすればいいのかな? 私もどうしてここにいるのか覚えていないし、そもそもここはどこなのかな? なにもわからないというのも困ったものだね」

 記憶喪失とは思えないほどに落ち着き払った声を上げる。
 それにますます、暁の態度は硬化していく。

「国司様、彼は速効叩き出すべきです」
「だから暁、犬猫ではない人を追い出せなんて言わないで!」
「ですが姫様。こやつは危険かもしれないのですよ?」
「記憶喪失に危険もへちまもある訳ないでしょう!?」
「腹芸なんて、貴族であったら誰でもするものですから」
「もう! あなたどうしてそんなに疑り深いの!」

 ふたりがギャーギャーと言い合いをするのを、国司は「まあまあ」と言って止める。

「たしかに困ったものだね、私も記憶喪失の者を預かるのは初めてだし、残念ながら彼が嘘をついているのかどうかさえもわかっていない」
「でしたら……」
「だが本当に記憶喪失の場合、彼を捨て置くのは犬猫にも劣るね。だから拾ってきた以上は夕花と暁、ふたりできちんと面倒を見なさい」
「お父様……!」

 夕花姫がパァーッッと笑顔を輝かせるのに対して、暁はどんどんと鼻白んでいく。
 一方、男性は困った顔で小首を傾げていた。

「おふたりに助けてもらうことになる訳だけれど……私はどう名乗ればいいものかな」
「私は、夕花。こちらは私の侍の暁。あなたの名前はそうね……浜風(はまかぜ)はどうかしら?」
「浜風」

 夕花姫の提案に、浜風と名前を賜った彼は、不思議そうに小首を傾げた。それに彼女は微笑む。

「あなたが助けを求める声が風に乗って聞こえたから、助けに行けたのよ。だから浜風。記憶が元に戻るまで、お世話させてちょうだいね」
「なんだかくすぐったいね、でも。うん。ありがとう」

 途端に浜風と名前をもらった彼が破顔した。夕花姫はますます顔がポポポと熱を持つのを感じた。
 暁は心底冷たい目で浜風を一瞥したあと、国司に「よろしいのですか?」と問うた。

「お前は夕花の侍だからね。どうか彼女の傍にいて目を離さないで欲しい。なに、いつものことだよ」
「……わかりました」

 こうして、夕花姫が初めて出会う麗しき公達(らしい)の浜風にときめいている中、静かに主従はやり取りを終えたのであった。
 夕花姫が浜風と名付けた男性は、物腰が柔和で、なによりもこの美貌だ。小国の大味な男たちしか知らない女房たちが、入れ替わり立ち替わり、なにかしら理由を付けて夕花姫が面倒を見る彼の元に足繁く通っては、彼に取り入ろうとするのを、夕花姫は変な顔で眺めていた。

「なあに、今まで私ひとりのときは、こんなに来たことなかったじゃない。男の人は暁だっているでしょうが」

 さすがに浜風の看病中に、こうも入れ替わり立ち替わりやってくると鬱陶しくなって、日課の稽古中に悲鳴を上げて苦情を言うと、女房のひとりは「いやいや姫様」と袖で口元を抑えて訴える。

「こんな薫りをしっかりと焚き込めたお方、もう現れないと思いますよ? いい男というものは既婚者か僧侶と相場が決まっておりますから」
「……そういうものなのかしら?」
「なにおっしゃっているのですか、姫様。一番あのお方とお近付きになれる立場なのはあなたではございませんか」
「そうなの?」

 女房の指摘で、夕花姫はきょとんとした顔をする。
 そもそも彼女は護衛として暁と一緒にいることが多い上に、彼とのことは女房たちにとやかく言われた覚えがないために、余計に意味がわからないという顔になる。
 しかし女房たちは密やかに袖で口元を隠しながら言う。

「だってあの方からしてみれば物珍しいでしょう。都では、姫様みたいな貴族の女性は、男の人に直接お会いしませんから」
「会わないと看病なんてできないでしょうが」
「そこが田舎と都の違いなのですよ」

 たしかに浜風のことは見とれてしまう夕花姫ではあるが、女房たちのその感覚だけはわからない、とただひたすらに首を傾げるのであった。
 裁縫の稽古を終えたあとは、ようやく暇をもてあそんでいただろう浜風のほうへと向かう。数日は寝込んでいたものの、打ち身で動けなくなっていた体もすっかりと癒え、夕花姫が部屋に遊びに行くと大概は柔和な顔で迎えてくれるようになった。
 彼は夕花姫が宛がった部屋で、笛を吹いていた。
 残念ながら、楽器を嗜むような人間はこの小国にはいない。せいぜい神社の催事で雅楽が聴けるくらいだ。でも神社で聴くそれよりも、音が伸びやかに聴こえて、夕花姫は驚いて彼の隣に座って、曲に耳を傾ける。
 曲を吹き終えた浜風は、優美な笑みを浮かべて夕花姫を見やった。

「稽古お疲れ様。忙しい身の上でしょうに、わざわざ私の元に足を運んでくださるとは、姫君の優しさ、嬉しいよ」
「まあ……私があなたを拾ったんですもの。最後まで責任を持つわ。でもそうね……その曲は都の曲?」
「さあ。私も懐に触れたら笛が入っていたので、潮水で駄目になってないか吹いてみたまで。都で覚えたのかどうかは、さすがに思い出せないかな」

 医者曰く、記憶喪失になった場合でも数日経ったら記憶が戻る場合と、全く戻らない場合とあるという。数日だけでは、浜風の記憶喪失が戻るものなのかわからないものなんだろうか。
 夕花姫はしおらしく頭を下げて謝る。

「あら……それはごめんなさいね。でもそうね。うちの屋敷にいても、なにもないから暇でしょう? お父様も今は職務で出かけてらっしゃるから、昼までは戻ってこないし。どうせなら、散歩に行かない?」
「散歩……?」
「あら、都では貴族は散歩しないものなの?」
「私の記憶にはないけれど……おそらく貴族は、特に姫君は外を出歩かないものだったかと思うよ。でも姫君が出歩いてくれなかったら私を見つけてくださらなかったから、君のその楽しみを奪うのはよくないと思うね」

 その会話に、夕花姫はふわふわとしたものが浮かんでは消えるのを感じた。
 夕花姫の脱走癖や拾い癖は、暁や国司はもちろんのこと、屋敷に仕える女房たちからもあまり面白いもののようには思われていなかった。初めて肯定されたために、少しだけ嬉しくなったのだ。
 浜風は笛を懐にしまい込むと、「でも」と首を傾げる。

「散歩って歩いて行くのかな?」
「そうねえ……都の人は散歩って歩かないものなの? 私はしょっちゅう歩き回っては暁に怒られているのだけれど。でもそうね。浜風は病み上がりだものね。頭も大きく打ち付けたばかりだし、むやみに歩き回ってはよくないわ。牛車を出してもらえないか、ちょっと頼んでみるわね」

 夕花姫はそう言って、廊下を走りはじめた。
 牛車の元に行こうとしたところで、ボスンとぶつかった。侍の暁の胸元にぶつかったのだ。鼻を思いっきりぶつけて、夕花姫は「もう…………!!」と声を上げる。

「姫様、ちゃんと前は見てください。それとどうしたんですか、こんなところまで走ってきて」
「あら。暁。あのね、浜風と一緒に牛車で散歩に出たいのだけれど、いいかしら?」
「牛車ですか……まあ牛車でしたら、姫様も危ない真似はなさらないでしょうが」
「失礼しちゃうわね。私がいつ、危ない真似をしたの」

 夕花姫のぶすくれた態度にも、暁は動じることはなく、淡々と説教をする。

「干潮のときにしか現れない洞穴に突撃するのの、いったいどこか危なくない真似なのですか。そうしなければ浜風を助けられなかったことは事実でしょうが、仮に潮が満ちはじめたら、姫様の服装ではまず溺死しておりました。そんなことになればお父上が嘆くでしょう」
「もう! お父様の名前を出すのは卑怯よ! 暁の意地悪!」

 暁の物言いに、夕花姫が頬を膨らませたら、暁は溜息をつきながら歩きはじめる。

「牛車の準備をすればいいのでしょう? 従者に頼んできます。その間に出かける準備をしてください」
「まあ! ありがとう、暁。大好き!」
「そういうことは軽々しくおっしゃらない」

 夕花姫の軽口を軽口で返して、暁が牛車の準備に向かったのを見計らって、夕花姫は浜風の元に引き返した。

「牛車を出してくれるんですって! 行きましょう。あなたにいろいろ案内したいの! 私の国を!」
「おやおや。とんでもなく熱烈な宣言だね。この国を訪れる者に、いつもこうして案内してあげているのかな。親切な姫君は」
「あら、私そんなに優しいことしないわよ?」

 夕花姫は髪を揺らしてそう言う。

「都からやって来る貴族は、大概はお父様のお知り合いか、都から派遣されてきた国司だしね。ほとんどの人たちはお父様とお酒を飲むだけで、国内を見て回ることもないわね。私はこの国が好きだけれど、都の方からしたらつまらないのかしら。よくわからないわ。でもあなたは違うわね?」
「そんなに私は他の者たちと違うのかな? 自分だとよくわからないのだけれど」
「ええ。型に嵌めた考えをなさらないもの。それってすっごく素敵なことだと思うわ。私、都の姫になりたい訳じゃないもの」

 そう言って夕花姫は笑った。
 発光しているかのような、彼女の笑みに、浜風は一瞬だけ目を細めて「それはそれは」と返したところで、暁がやってきた。

「姫様、牛車の準備ができたようです。浜風もどうぞ」
「あらっ! それじゃあ行きましょう」
「これはこれは。楽しみにしているよ」
「ええ! 私の国を、どうかあなたにも好きになて欲しいわ!」

 夕花姫が手を引っ張って浜風を連れて行くのを、暁は目を細めて睨んだが、なにも口にすることはなかった。
 こうして、ふたりは暁が準備させた牛車に乗り込むと、そのまま緩やかに屋敷から出発することとなったのである。

****

 緩やかな坂道を登り終えると、そこから小国を一望できる。
 普段であったら夕花姫は歩いて出かけるところだが、牛車でのんびりと坂道を登るのも乙なものだと、初めて感じた。

「いい景色だね。田畑が荒れていない」

 まだ完全に坂道を登り切ってはいないが、それでも窓の簾を巻き上げれば、坂の下の荘園を見下ろすことができる。浜風はそこからの光景を興味深げに眺めていた。
 青々とした田畑が眺められる景色は、この季節の夕花姫のお気に入りであった。

「ええ、ここは土がいいんだってお父様がおっしゃってたわ。毎年豊作なのよ」
「それはすごいね……しかも驚いた。ここは海に囲まれた土地だから、もっと塩と戦っているのかと思っていたけれど」
「しおとたたかう? どうして?」

 浜風から聞いたことがない言葉が飛び出て、夕花姫はきょとんとする。浜風は柔和な口調で馬鹿にすることなく教えてくれた。

「塩害というものがあるんだよ。海からできる塩が田畑に撒かれると、田畑の作物は枯れてしまうことをそう呼ぶんだね。波が高かったり、嵐に海が巻き取られて雨として降り注いでしまったら、塩が各地に散らばってしまうんだよ。だから海に近い村では、基本的に田畑をつくったところで枯れてしまうからつくらない。だから四方を海に囲まれているこの国で、海の近くに田畑をつくっても枯れないというのはすごいことなんだよ」
「あらぁ……そうだったの?」

 夕花姫は少しだけびっくりして、暁のほうに話を向けてみた。普段から出歩いて、漁師の子とも田畑の子とも話をしている夕花姫だが、そんな話は初めて聞いた。
 自分が見ていないうちに、そんな大変なことが起こっていたんだろうか。
 暁は少しだけ目を見張ると、口を開いた。

「俺もその話は初耳です」
「へえ? ますます不思議な話だ。海の近くで塩害がないっていうのは、すごいことなんだよ」
「都では、そういう話はないのか?」
「そもそも都は海に面してはいないからねえ。私も記憶にはないのだけれど、海の近くでは田畑がないのが普通だったと思うから」

 都には海がなかったのか。
 夕花姫は未だかつてないくらいに、驚いた顔で浜風を見ていた。あるものが当たり前だと思っていたものがないというものほど、衝撃的なことはない。
 なによりも、浜風に指摘されるまで、ちっとも気にしたことはなかった。
 海は恵みをくれるものであり、そこで獲れる貝や魚、海藻はどれもおいしいものであった。まさか海が田畑を枯らす害悪の側面を持っているということを、言われるまでちっとも知らなかったのである。
 小国の田舎貴族と言われてもしょうがないと、少しだけ夕花姫はしゅんとうな垂れた。
 牛車は緩やかな坂を上り終え、頂上へと辿り着く。
 そこから外に出てみて、浜風は「うわあ……」と手をかざして小国の光景を眺めた。
 青々とした田畑が広がり、その向こうには小さな民家が並んでいるのが見える。更に民家の向こうには白い砂浜が伸び、海を水鳥がついーっと飛んでいるのが目に入る。田畑とわずかばかりの山、それ以降は全て海。これがなにもない小国の全てであった。

「先程の光景もなかなかだったけれど、頂上から見る景色も見事なものだねえ……」

 浜風の感嘆の声に、夕花姫はえへんと胸を張る。
 国中をあちこち歩き回っている夕花姫にとって、ここからの景色は特にお気に入りだった。

「ここからの眺めって素敵でしょう? 昼間からの景色も美しいけれど、夕焼けになったら田畑が全部金色に輝いて趣があるし、秋の田畑や冬の景色も素晴らしいわ……って、都の人からしてみればつまらないかしら?」
「いやいや、充分すごいよ。でもこれだけ美しく豊かな国であったら、海賊なんかが現れて困らないかな?」
「海賊? そういう話を漁師の子たちも言っていたけれど、それでも漁師の子たちも、他の漁師も、海賊なんてお年寄りの話ではいくらでも聞いたことがあるけれど、見たことないって言ってたわよ? 私ももちろん見たことがない」
「……これまた驚いたね。こんなに豊かな国だったら、略奪だって起こりうるのに」

 浜風が本気で驚いているのに、ますます夕花姫は困惑した。
 そんなこと言われても、本当に夕花姫は生まれてこの方、海賊とも盗賊とも遭遇したことがないのだ。わざわざ盗まなくとも食料は事足りているのだから、国民同士で揉めたことだってない。略奪なんて物語の中だけのものだと思っていた。
 助けを求めるようにして暁を見上げる。
 侍の暁は、少しだけ白い目を浜風に向けてから、いつもの怜悧な表情に戻る。

「前から申してる通り、この国は本来なら海賊に狙われる可能性は充分にあります。たしかに波は穏やかで、都行きの船の行き来も活発な国ではありますから、これだけ波が穏やかならば、よそから危ない人間が来てもおかしくないんです」
「でも本当に見たことがないのよ、海賊なんて。都にはいるの? でも都には海がないんだったら、出ないはずよね……?」

 夕花姫が本気でわからないという顔をしているのが面白かったのか、浜風はクスクスと口元に袖を当てて笑う。

「そうだね。たしかに海賊は出ないけれど、盗賊は出るはずだよ。だから、検非違使という見回りが必要になってくるんだけれど……この辺りは牧歌的だね。都と違って皆が笑って暮らせているのは……本当にすごい話だ」
「そうなの……」

 都には帝がおわして、もっときらびやかで、物語がたくさんある場所だと聞いていた。貴族が舟遊びに興じ、歌合せや貝合わせをし、公達と姫君が束の間の逢瀬を交わす……夕花姫の都の知識は、全て物語に書かれていることのみだった。都から出向してきた国司とはほとんど話をしたことがないから、余計に物語頼みになる。
 しかし浜風の口から聞くそれだと、この国のほうが平和で豊かに聞こえてしまうのだから、この国で退屈を飼い慣らしている夕花姫からしてみれば、意外な話だった。
 浜風の話を不思議な心地で聞いている中、暁はちくりと言う。

「記憶喪失のはずなのに、ずいぶんと詳しいようですね。都の様子を」
「いやいや。自分のことがわからないだけで、都の様子までは記憶が飛んでいなかったようだね。ここから辿れば、自分のことがわかるかな」

 浜風に対してひどく無礼な暁に、夕花姫は注意する。

「もう、暁! あなたいくらなんでも失礼よ! ごめんなさいね、暁ってば私の護衛の割には、お父様の言うことしか聞かないから」
「俺はあなたの命令に逆らってはいないでしょ」
「小言が多いのよ! 乳母じゃあるまいし」

 夕花姫に噛みつかれ、暁は憮然と黙り込んでしまった。それに浜風はますますおかしそうに笑った。

「君たちはずいぶんと変わった主従だね。そもそも、姫君が侍を連れて歩いているのもあまり知らないのだけれど」
「あら? でも都のほうが危険なはずでしょう? 護衛も付けないで、どうやって身を守るの?」
「そもそも姫君は屋敷から出ないものだから、昼間からあちこちに散歩に行く姫君には初めて出会ったかな。でもそのほうが、夕花姫には似合っているかと思うよ」
「まあ……」

 夕花姫は浜風の言葉に、少なからず頬に熱を持つ。
 これが暁に言われたのだったら、また嫌みかと受け流していただろうが。そもそも若い公達からの言葉に慣れていない夕花姫は、彼の使う耳障りのいい言葉に免疫がない。都にいる姫君は、浜風の言葉に耐えきれるものなんだろうか。
 それを憮然としたまま暁が眺めているときだった。

「もう、これは私のものだってば! 本当に返して!」
「なんだよ、これは母ちゃんへのごほうびだぞ! 全部取る奴があるかよ!」
「母ちゃんは半分こって言ってたじゃない! いじわる!」
「だってお手伝いしたのはおれだし! おまえなんにも手伝ってないだろ!」

 ギャンギャンと、子供たちの言葉の応酬が響き渡った。
 浜風はキョトンとその声に耳を澄ませる。

「子供?」
「あーあーあーあー……ときどきこの坂まで遊びに来る子たちがいるのよ。畑仕事しているときに、畑で遊ばれるよりもこの辺りで遊んでいたほうが邪魔にならないからって。ちょっと! なにやっているの!」
「あっ、おひいさん」
「おひいさん」

 さんざん揉めていた子供たちが、ぱっと夕花姫に顔を向けた。
 それを浜風は意外な顔で眺める。子供たちは普通に夕花姫の存在を知っているし、彼女を慕っているようであった。

「夕花姫はすごいねえ、漁師だけでなく百姓とも知己があるとは」
「……姫様を田舎者と揶揄しているのか?」

 浜風の感嘆の言葉に、暁はジロリと睨む。

「いやいや。あれだけ能動的に動く姫君というのは見たことがなかったけれど、庶民にあれだけ好かれる姫君というのも、見たことがないからねえ。ただ驚いただけだよ?」
「……姫様は誰に対してもお優しいだけだ」

 都の姫君の普通はわからないが、夕花姫とこの国の人々の関係はこれくらいは普通のことであった。
 夕花姫は不思議と敵をつくらず、貴族の姫君だからと勝手に持ち上げられることもなければ、お高く留まっていると揶揄されることもない。彼女が庶民に対して気安過ぎることを怒られることはあっても、彼女本人が嫌われるということが、何故かなかった。
 故に彼女が遊びに行った場所では大概、「おひいさん」と呼ばれて人が寄ってきていた。
 暁からしてみれば見慣れた光景ではあったが、見慣れていない浜風からしてみれば不思議な光景であろう。
 浜風はにこやかに、そんな暁を揶揄する。

「君の言葉にはいささか棘が鋭過ぎるからねえ、もうちょっと姫君には優しい言葉をかけてあげたらどうかな?」
「都の人間は口から先に生まれるのか……」
「おや、意外だねえ。君も意外と頭が回るようだ」
「ちょっと、ふたりともグダグダ言い合いしないでちょうだい。今は喧嘩の仲裁をしてあげて」

 剣呑とした浜風と暁のやり取りは、夕花姫のピシャリとしたひと言によって流された。
 夕花姫が仲裁しようとしている百姓の子供たち。
 しくしく泣いている女の子と、口をへの字に曲げている男の子は、よくよく見たら似た顔をしていて、兄妹なんだろうと察することができた。
 そのふたりに、夕花姫は膝を折り曲げて子供たちと視線を合わせると、優しく尋ねる。

「ゆっくりでいいから、事情を聞かせてちょうだいな」
「……手伝いをしていて、そのごほうびに母ちゃんが野いちごを摘んできてもいいって言ってくれたから摘みに来たんだ。どうせだから、母ちゃんにもあげようと思ったんだけど」

 兄のほうが、妹をジロリと睨む。よくよく見たら、ふたりは手拭いを籠状に折って、なにかを入れていた。そこには赤い実がたっぷりと詰まっていた。しかしたくさんの野いちごが詰まっているのは兄のほうの手拭いだけだ。妹のほうはほとんど空っぽの状態で、ただ野いちごのつくった赤いしみばかりが目立つ。
 兄が毒づくようにして吐き出す。

「でもこいつと来たら、母ちゃんの言葉を真に受けて、全部食っちまったんだ」
「で、でも……! 母ちゃん言ってたもん! ふたりで半分こで食べておいでって! だから兄ちゃんのを半分……」
「ばっか! 自分の採った分を全部食って、さらに俺の分を半分食おうとする奴があるか!」

 たしかに妹は浅はかではあるが、一応親の言うことは聞いている。それゆえに余計に兄が癇癪を起こしているようにも見える。しかし兄も本来なら優しいことには変わりないだろうに、それが見事に噛み合っていない。
 兄がごっちんと妹に拳を向けるのに、ムキになって妹は頭を抑える。

「ほらぁ! 兄ちゃんはいっつもそう!」
「おまえが食い意地張り過ぎなんだよぉ!」

 ふたりがまたギャンギャンと喧嘩をはじめる。それを見かねて、暁が子供たちに近付こうとするのに、浜風はまたも意外なものを見る目をした。

「おやおや、姫君だけでなく、君も意外とお人好しなのかな?」
「……喧嘩両成敗で、ふたりとも殴れば喧嘩も収まるだろ」
「いやいやいや、君たちの喧嘩の止め方って、もうちょっとこう、間はないのかな?」

 さすがに暁の喧嘩の止め方を見かねたのか、浜風まで寄ってきた。
 暁は夕花姫の護衛だから見知った顔なため、子供たちはそこまで怖がる素振りはなかったが、浜風は余所者な上に貴族の身なりだ。子供たちは少しだけ驚いた顔して、浜風を眺めた。

「な、なに……?」
「うんうん。どちらも親思いの子たちだと思ったまでだよ」
「あれ、どちらも……?」

 夕花姫からしてみれば、兄は年の割には大人びた子であり、妹はまだまだ融通の利かない年頃なんだなとばかり思っていた。どちらも親思いと言い出した浜風の意図が読めずに、ポカンとした顔で彼の横顔を眺める。
 都から来た(らしい)公達の顔はどこまでもどこまでも麗しくて、にこやかに子供たちを交互に眺めているのだった。
 浜風は兄妹の顔を見比べると、悠然と笑った。兄はむっと膨れっ面。妹は眦に涙を溜めたこまっしゃくれた顔。
 ふたりを見下ろす笑みは小国の貴族にはないような、気品や風格が漂っているように、夕花姫には思えた。
 つくづくこの国の人間は大味なのである。

「まず妹は母の言うことをよく聞いていた。母に言われたとおりに、野いちごを食べに来たんだから」
「うん」

 妹はうんうんと大きく頷くものの、兄はあからさまに嫌な顔をして妹を睨みつけている。そりゃそうだろう。この言い分を聞いている限り、兄はお手伝いをした見返りで野いちごを食べに来たものの、妹はただのおまけなのだから。おまけに妹は兄の分まで半分食べようと来たものだから。
 夕花姫は嫌な顔をする兄におろおろとしていたものの、浜風はやんわりと続ける。

「でも兄も母の言うことをよく聞いていた。お手伝いをして、妹の面倒も見て。漁の仕事は朝から晩まで忙しいのだから、そんな母を気遣って野いちごを採ってこようとしたんだろうね?」

 そう浜風に指摘され、兄はビクンと肩を跳ねさせた。その反応を見て、夕花姫はようやく納得いった。
 兄だから下のために我慢しなさいは、特に仕事の忙しい百姓の中では常套手段だ。でも我慢させられ続けて、下が好き勝手するのは、上からしてみればたまったもんじゃない。
 それでも母が大変なのを見かねて、気分転換に甘いものを持ってこようとしたら、なにも考えていない妹が食べてしまったと……こういうことなのだろう。
 その兄の優しさを、浜風は認めたのである。認められて嫌がる人間など、そうはいない
 浜風はにこやかに、兄のほうに屈んで視線を合わせた。

「よく頑張ったね。残りは母君に持って帰ってあげなさい」
「う、うん……っ」

 兄は少しばかり目尻に涙を溜めて頷くのに、妹は驚いたような声を上げた。

「兄ちゃん泣いてるの……?」
「な、泣いてなんか……泣いてなんかないから……帰るぞ」
「母ちゃんいちごくれるかなあ?」
「ばあか! 食べんじゃないぞ!? それだったら、まだおひいさんに半分あげたほうがマシ!」

 そう言って、乱暴に残っていた籠の野いちごを、夕花姫に差し出した。夕花姫は困惑して、手をさまよわせる。

「ちょっと……これお母様に持って帰るんでしょう? そんなもの受け取れないわよ!」
「だって、母ちゃんは絶対に妹を甘やかしてあげちゃうから。オレが母ちゃんにあげたいのに。それだったらまだおひいさんが兄さんたちと食べてくれたほうがましだし」
「もう、そんなこと……」

 夕花姫が受け取りを拒否しようとしたものの、布の籠はあっさりと浜風に取り上げられた。

「うんうん、ありがたくもらっておこうか」
「ちょっと……本気でそう言っているの!?」

 夕花姫は悲鳴を上げるものの、浜風はにこやかで食えない顔をするばかりだ。

「この子たちがずっと兄妹喧嘩を続けて、大人に殴られるよりは大分いいと思うけどねえ……」

 そう言って浜風はちらりと暁を見る。暁は別に乱暴者だから荒療治をする訳ではない。この国の解決方法で、殴るのが一番手っ取り早いからだ。
 暁は憮然としたまま、「ふん」と鼻息を立てる。

「……姫様、喧嘩両成敗とは申しますが、このままいけばふたり揃って親御に殴られるのは目に見えていますから、ここは受け取るべきかと」
「そうねえ……ありがとうね、あなたたち」
「うん、おひいさん。ほら行くぞ」
「待ってよぉ」

 結局は軽くなった布の籠を持って、ふたり仲良く帰っていってしまった。先程までさんざん怒っていた兄も、泣いてわがまま言っていた妹も、ご覧のあり様だ。
 夕花姫は「ふう」と息を吐き出しながら、野いちごを見た。

「また牛車でお散歩しながらいただきましょう。これおいしいのよ、とっても」
「わあ……野いちごなんてほとんど見たことないから、楽しみだよ」

 皆で再び牛車に乗り込むと、牛車に揺られながら子供たちからもらった野いちごを啄みはじめた。
 噛んだときのプチリとした甘さに、口の中にすっと広がる酸っぱさは、この季節ならではの味だ。その優しい味を楽しみながら、簾の向こうの景色を眺めた。
 平和が過ぎる小国の日常風景が、ゆっくりと流れていった。

****

 緩やかな坂を降りきると、今度は牛車は浜辺へと向かっていく。
 潮風のにおいがどんどんと主張していくのを、浜風はくんくんと鼻を動かしていた。

「うん、この風は不思議なにおいがするね」
「浜風は、この国の風が嫌い?」
「ううん、潮のにおいは都ではしなかったはずだから。今の内にたくさん嗅いでおこうかと思ってね」
「そう……?」

 海のない土地の人間は、この風のにおいがそんなに珍しいんだろうかと、夕花姫も一緒になって鼻を動かしてみるが、彼女にとっては嗅ぎ慣れた潮の香りとしか思わなかった。
 だんだん辺りにはぽつん、ぽつんと民家が見えてきた。
 波の音が聞こえ、砂浜を必死で掘っている人々。男たちは船で漁に出ている間、女子供は浜辺で貝を掘っている。生まれたばかりでしゃべることも這うこともできないような赤子は、小さな子供や老人がおぶい紐で背中に括りつけて面倒を見ている。いつも見る浜辺の光景であった。

「あれはなにかな?」
「貝を掘っているのよ。魚が獲れないときでも、貝さえ採れたら誰も飢えないしね。もっとも、魚が全く獲れないことなんて滅多にないんだけどね」
「へえ……」

 小さな子供が赤子の子守をしながら、海を見ながら歩いている。

 てんにょさまのおわすはま
 てんのめぐみをわけたまえ
 てんにょさまのおわすしま
 うみのめぐみをわけたまえ

 はごろもひらりとまいながら
 てんにょさまはやってきた
 はごろもなくしたてんにょさま
 かえれずどこかでないている

 ちょっとひろってくだしゃんせ
 ちょっとかえしてくだしゃんせ
 はごろもかえしたてんにょさま
 てんにかえってないている

 子供たちが、老人が、赤子をあやすときに、皆同じ歌を歌っていた。
 その歌を耳にしながら、浜風は不思議そうに子供たちの背中を見送った。

「てんにょ?」
「ああ、この国の伝承なの。数十年単位で天候が穏やかで、海賊が現れないのは、大昔に天女(てんにょ)が現れて、この国を守ってくれたからだって」
「ああ……天女のことか。なるほど」
「漁師は験担ぎが好きだから、そのせいで歌になっているんでしょう」

 暁が水を差すようにチクリと言うものの、浜風は面白そうに袖に口元を当てる。

「わざわざ天女を名指しで歌にしているのは面白いね。でも羽衣を失くしたというのは?」
「知らないわ。天女の持っていた羽衣にすごい力が宿っていて、それを祀っている……みたいな話は、前にさちとげんた……この辺りの漁師の子たちね……その子たちから聞いたけど」
「ふうん、羽衣か。それって、まだこの国にあるのかな」

 そう言った途端に、暁がまたも口を挟んできた。

「そんなものは迷信だ。漁師の験担ぎに、わざわざ水を差すのはいかがかと思う」
「おやおや……君は天女の存在を頑なに信じないようだねえ。でも面白いじゃないか。この子守歌が流行るようになった理由には興味があるし」
「そうねえ……」

 そういえば、夕花姫は羽衣伝説のことをあまり知らない。
 あまりにも当たり前に子守歌になっているものだから、そんな歌があるんだな程度にしか思っていなかったし、伝承も普通に聞き流して、深く考えたことがなかったのである。浜風に指摘されるまで、羽衣の存在がまだどこかにあるということにも考えが全く及ばなかった。
 気候が常に穏やかで、誰ひとりとして飢えることのない生活を送れるのは天女の羽衣のおかげだとしたら、彼女に感謝してもいいのではないかと思う。

「私もちょっとは興味があるわねえ」
「姫様、お止めください。羽衣捜しだなんて馬鹿馬鹿しい」
「あら暁。あなた私の言うことは聞くんじゃなかったの? さっきもそう言ってたのに、今日は反抗してばっかりねえ」

 嫌みでもなんでもなく、思ったことをそのまんま言ってみたら、暁は気まずい顔をして黙り込んでしまった。どうも図星だったようだ。

「あっ、おひいさーん!」

 浜辺で貝を採っていた中から、ひょっこりとさちが現れた。籠にはぎっしりと貝が詰まっている。夕花姫も手を振って彼女のほうに寄っていった。

「こんにちは、今日も精が出るわねえ」
「うん、今日も貝がたくさん獲れたから。あれ、この間倒れてた人だ。もう大丈夫ですか?」

 さちに尋ねられて、浜風はきょとんとする。暁は小さく言う。

「貴様を発見したうちのひとりだ。庶民でも恩人には感謝すべきだ」
「おやおや、君が助けてくれたんだね。どうもありがとう」

 浜風は膝を折ってさちの視線に合わせて言うと、普段はしっかりしたさちは、途端に赤面して後ずさりする。
 小国の人間ではほとんど見たことないような整った顔の男性に、視線を合わせられてなおかつ礼など言われようものなら、いくら気丈な娘でも狼狽のひとつやふたつするものである。

「発見したのも、助けるって訴えたのも、おひいさんだから……」

 普段の幼いながらのしっかりもののさちとは思えないほどに、顔を真っ赤に染め上げてしどろもどろに言葉を紡ぐ。その様をわかっているのかわかっていないのか、なおも浜風は言葉を重ねる。

「おやおや。一生懸命働いて熱でも出したのかな? 家まで送ろうか」
「わ、私。仕事がまだありますから。おひいさん、これ持って帰って!」

 そう言ってさちは、籠の中からむんずと貝を無造作に掴んで差し出すと、夕花姫は目を白黒とさせる。

「ちょっと、いくらなんでもこんなにたくさんは、さちが怒られるんじゃないの?」
「その分いっぱい採ってくるから!」

 そのまま逃げ出してしまったさちに、夕花姫は目を白黒とさせて、ちらりと浜風を盗み見た。
 彼は穏やかな表情で、脱兎していったさちの背中を見送っている。そこに悪意があるのかどうかまではいまいち汲み取れない。
 物語に書かれていた初恋泥棒というのは、彼みたいなことを言うのだろうか。世間知らずが過ぎると自覚のある夕花姫では、どうにも判断ができなかった。
 途中で浜風と暁がギスギスとしたものの、牛車で帰ればあとはそれぞれ自室に帰るだけだが。それだけでは場の空気は変わらないと、夕花姫は察する。
 どのみち浜風の記憶を取り戻すまでは一緒にいるのだから、もうちょっと空気をよくしたかった。

「ねえ、暁」

 浜風を客間に送り、夕花姫を部屋まで送り届けたあと、そのまま待機部屋まで帰ろうとする暁に、彼女は声をかけた。
 暁はちらりと怜悧な瞳で彼女を見る。

「なんですか、姫様」
「さっき、さちからたっくさん貝をもらったじゃない。ひとりだと食べきれないわ」
「まあ、そうですね。どうしますか、お父上にも差し上げますか?」
「そうじゃなくってね……ねえ、暁。あなたの得意料理を食べたいの。それじゃ駄目?」

 それに、暁は心底頭が痛いとでも言いたげに、眉間に深く皺を付けた。

「姫様、俺は別に料理なんて得意じゃありません」
「あら。あなたいっつも、私がもらってくるものをおいしく料理してくれるじゃない」
「そりゃそうでしょ。姫様は拾いものしてきては、すぐ傷ませて腹を壊すのですから。それでしたら傷む前にさっさと調理してあなたに安全なものを食べさせたほうがまだマシでしょう」
「暁、あなた過保護って言われない?」
「誰のせいなんですか」

 暁は溜息を着いて、夕花姫がもらってきた籠を取り、中身を見た。
 貝に、さちが気を遣ったのか魚の日干しまである。どれもこれも、たしかにひとりで食べきれる量ではない上、貝はさっさと火を通さないと傷む。いくらここが国司の屋敷だからといえど、氷室なんて上等なものは存在していなかった。

「……魚鍋でよろしいですか?」
「なんでもいいわ。あなたの料理っておいしいもの」
「わかりました」
「あっ、そうだ。浜風にも食べさせてあげたいんだけれど。よろしい?」
「食事まであの男と取るつもりですか?」

 浜風の名前を出した途端に、心底嫌そうな声を上げる暁に、夕花姫は頬を膨らませる。

「あなた、浜風のこと嫌い? さっきから喧嘩ばかりじゃない。あの人記憶喪失なんだから、もうちょっと優しくしてあげなさい」
「俺は姫様のそういうところが心配です。普通にあの男は怪し過ぎますから、お父上から見張りを任されているんですよ、俺は。姫様もそのつもりで接してください」
「気にし過ぎよ。そんなことばかり気にしていたら、生活できないでしょう?」
「……とにかく、俺は姫様があの男に気を向けるのは、反対です」
「はいはい」

 暁は憮然とした顔で、夕花姫のもらった籠を持って厨に行くのを見届けてから、今度は浜風のところへと向かっていった。
 浜風はというと、またも庭を眺めながら、横笛を吹いていた。
 この音色の美しさに、仕事をしていた女房がひとり、またひとりと廊下で足を止めて、うっとりと聞き惚れている。
 横笛は元々貴族の、それも男しか嗜まない。国司は芸事がとかく苦手なために歌も楽器もあまり上手くはない上、ここを訪れる貴族たちもお世辞にも芸事が得意とは言い切れなかったため、なおのことこの美しくも儚い音色は稀少価値の高いものであった。
 夕花姫もしばらくは黙って彼の笛の音に耳を傾けていた。
 庭木は日暮れの光を受けて金色にきらめいている中、流れる切ない旋律。
 美しい旋律の中でこのような光景を見ていると、なんだか胸が締め付けられるような想いがする。
 最後に余韻を残して曲が終了したところで、浜風は悠然とした態度で振り返った。

「おや、姫君。どうかしたかな?」
「か、からかわないでくれるかしら? 一緒に食事はどうかしらと思ったの。今、暁がつくってくれているのよ?」
「暁が? へえ、この国の侍は料理までできるのかい?」

 やはり侍が料理をするのは都でも珍しいんだろうか、と夕花姫はぼんやりと思う。

「暁はちっとも認めたがらないけどね。あの人、私が拾い食いしてお腹を壊すのを見かねて、漁師から魚の捌き方から煮込み方まで学んだらしくって。漁師はほとんど味付けしないから、味付け自体はうちの使用人から学んだらしいんだけどね」
「変わった経歴だね? 過保護というにはやや惜しいけれど」
「そうかしら。とにかく暁の料理おいしいのよ。一度振る舞おうかと思って」
「彼は私が姫君と仲良いと、顔色変えるけど、いいのかい?」

 浜風はクスクスと笑って話を向けてくるのに、夕花姫はさっと頬を赤くする。
 暁はほとんど笑うことがないし、国司や出張してくる貴族は皆くたびれているため、このように喜怒哀楽のはっきりした男性を近くで見ることがほとんどないのだった。
 そもそも物語に書かれるような恋物語は、都や伊勢などで行われるものであり、小国の姫はどんな恋をしているのか、彼女だって知らない。
 とにかくからかわれているのだろうと、夕花姫は必死で考えて、口を動かす。

「暁はね、幼馴染なの。ずうっと一緒にいたわ。だからかしらね、あの人私に誰かが近付くと、あからさまに態度が悪くなるの。本当にわかりやすいんだから」
「おやおや。彼は妬いているのかな?」

 それに夕花姫はきょとんとする。
 幼い頃から一緒にいた夕花姫と暁の仲を勘繰るものは多けれど、特にそのような仲になった覚えがない。

「どうかしら。あの人、私に対しても一線引いているところがあるから、よくわからないわ」
「もし姫君がそう思っているのだったら、私は暁に対して少しばかり同情するけどねえ……そういえば、姫君は。秘密や冒険は好きかな?」
「ええ?」

 冒険というと、日頃から漁師や百姓の子たちと洞穴探検をしたり、山の散策を行っているから好きなのだと思う。秘密は小国の姫君の情報なんて、どこからでも漏れるから、そもそもあってないようなものだった。
 珍しいものが好き、というのだったら、きっと好みなのだろうと夕花姫は考える。

「多分、好きだと思うけど……?」
「おや疑問形なのかい。まあいいか。漁師の子供たちが歌っていた羽衣について興味があるのだけれど、それをふたりでこっそり探すというのは、秘密の冒険にならないかな?」
「え、ええ…………?」

 夕花姫は目を瞬かせた。
 暁はあれは昔ばなしだと完全否定していたが、浜風が妙に食いつきのよかった話である。そもそも夕花姫は、子守歌として普通に知っていたが、都から来た人間がそこまで興味を持つ内容とは思ってもみなかったのだ。
 都から派遣されてきた貴族だって特に気にしている様子はなかったから、浜風が珍しいんだろうか。

「それ、そんなに面白い話なのかしら……?」
「充分面白いと思うよ。なんたって天女なんて都にはいないからね。だから、羽衣のあるなしはともかく、その話を探ってみるのは好奇心が満たされて面白いと思うよ。その上、姫君がひとりで出歩くのは駄目でも、私と一緒だったら、ひとりにはならないだろう?」
「うーん……そうなのかしら……?」

 夕花姫がひとりで歩き回っていると、当然ながら暁から文句を言われるが。一緒に歩く人がいたら、そこまで口うるさくならないような気は……している。

「そうとも。それに私はあなたも実に興味深いからね。ひとりで漁師や百姓の子供にも愛称で呼ばれるほど親しみやすい姫君なんて、私は初めて見たから。つくづくこの国に愛されているねと」

 暁の言葉ではないが、浜風は口から先に生まれたのではないかというくらいに、口が上手い。周りに妙齢の男性がいなかったせいで、余計にそう思うのかもしれない。
 だんだんと夕花姫が頬に熱を持つ中、空気を変えるように「姫様」と声がかけられた。
 簾の向こうから、暁の声が聞こえる。そして温かく食欲をそそる磯のいい匂いが漂ってくる。

「あら、暁。もうできたの?」
「つくれと言ったのはあなたでしょうが。こちらにお持ちしてよろしかったですか?」
「ええ、ええ。さあ浜風。一緒に食べましょう? 暁特製の魚鍋よ」

 そう言って簾を巻き上げて暁を部屋に招き入れると、暁はそろそろとお膳を持ってきた。
 お膳の上には鉄の鍋。そこの下には炭が赤々と燃え、中身をぐつぐつと煮立たせていた。中にはたっぷりの貝に、魚。野菜。添えられている椀にはこんもりと姫飯(ひめいい)が盛られているが、湯気を出して炊き立てだと教えてくれている。

「これが魚鍋かな?」
「ええ。もらった魚と貝、野菜を、酒に入れて煮立てたのよ。さあ、召し上がれ」
「へえ……」

 酒を出汁代わりにし、もらいものを放り込んだだけのものだが、元々貝も日干しも出汁になる。一見手の込んでいるようには思えない料理でも、驚くほどの旨味が味わえる。
 木杓子でひと口すくって飲んだ味に、浜風は目を見張った。

「これはこれは……おいしいね」
「でしょう? 貝は新鮮じゃなかったらおいしくないのよねえ」
「姫様、ですから貝の拾い食いはやめろとあれほど」
「もう、ここでそんなこと言う場合じゃなくない!?」

 またも夕花姫と暁がギャーギャーと言い合いを繰り広げる中、浜風はしみじみと魚鍋を味わった。
 そもそもここで出される食事は魚鍋だけでなく、姫飯まで日常的に出されている。都の貴族ですら、干《ほ》し飯《いい》や雑穀ご飯はよく食すが米だけの姫飯は滅多に食べることができず、そのほっくりとした味わいに満たされるものがあり、貝の旨味が充分に出た魚鍋の出汁の味わいに舌鼓を打つ。貝も干し貝や蒸し貝でなければ滅多に食せるものでもあるまい。
 夕花姫は夕花姫で、暁から出された魚鍋を当たり前のように平らげていた。

「おいしい……! やっぱり貝をたくさん食べるとしたら、鍋が一番ね」
「傷むのが嫌ならば、あまり採らなければいいでしょ」
「全部干してしまったら、こんな味にはならないじゃない」

 彼女がおいしいおいしいと気持ちよく魚鍋を食べ、姫飯も頬張る中、ふんわりと浜風は笑った。

「まさかこれだけおいしいものが味わえるとは思ってもいなかったからね。なにかお礼をさせてくれると嬉しいな」

 浜風はにこやかにそう提案するのを、暁は意外そうなものを見る目で見た。
 ふたりがまた喧嘩をするのではないか、また暁が余計なことを言うんじゃないかと思い、夕花姫はハラハラと見守っているが、暁の「……好きにするといい」のひと言で、ひとまずその場は治まった。