僧侶の声が朗々と響く。
あいにくあまり信心深くない彼は、念仏を唱えられている張本人にもかかわらず、あまりなにを言っているのかがわからない。
旅の無事を祈られているということだけは、言葉の触りでわかる。
彼は厳粛な顔をつくりながらも、僧侶が背を向けているのをいいことに、周りをちらりちらりと盗み見る。
どれもこれもつくりものめいた厳粛な表情を浮かべながらも、にやにやとしているのだけがわかった。
政敵がひとり、都から離れるのだ。喜ばない訳がない。
壮行会とは名ばかりの吊し上げに、彼は心底うんざりしていた。
僧侶の読経が終わったあと、宴が繰り広げられる。
これだけの馳走が食べられるのは、次はいつになるというのか。海の近くはまだ魚が美味いらしいが、海は舟が沈むのだ。
都は都で、政敵の侍らす武官に命を狙われる可能性もあるが、余所は余所で盗賊や地頭がいるのだから、どちらがいいのかはわからない。
彼の唯一のよかったところは、ちょうど恋人がいなかったということくらいか。もしここで恋人に「余所に行くから着いてきてくれないか」と言ったら、十中八九断られて縁も切られるところであった。やんごとなき姫君は、よほど惚れた男でない限りは、一緒に余所の土地には住みたくない。情けない思いをして都を離れるよりは、まだましだったと言えよう。
「やあやあ、まだ浮かない顔をしているのかい? いい加減腹をくくりたまえよ」
そう声をかけてきたのは、余所でたっぷりと国司として収益を上げている者であった。都を離れず余所の利益を吸えるのだから、このところ彼はずいぶんと羽振りがよかった。
「君みたいにわざわざ現地に行かずに生活できたらよかったのだけどね、そうもいかないみたいだから」
「まあ、上からの命なのだから仕方ないね」
「そうだね。だからこの話は終わりさ」
にこやかな口調で答えつつ、腹の中では虫唾が走っていた。なんだ、冷やかしで来たのなら、さっさと飲んで食べて帰ってくれないか。
そう思っていたところで、羽振りのいい彼は言った。
「まあ、君はちょうど私の持っている国の近所に行くみたいだから。もし舟があるんだったら行ってみるといいんじゃないかい?」
「そういえば今君が面倒を見ている国は」
「四方を海で囲まれた国でね。住みたいとは思わないけれど、あそこに住む姫は美しいと評判さ。もっとも、あの国住みの貴族の目が厳しくて、口説けた者はいないらしいけどね」
「ふうん……」
そんな四方を海に囲まれていたら、婿も取れないだろうに。彼は変な顔をしながら酒を飲んでいたら、酒で口の滑りがいいのか、さらに羽振りのいい彼は話を続ける。
「なんでも天女の生まれ変わりって話さ。あの国は天女の加護により守られていると。私も天女によってこうして羽振りがいいのだから、天女様々だし、その美しい姫に会ってお礼のひとつでも言いたいけれど、なかなか都から離れることもできなくってねえ!」
最後は嫌みや自慢かという話だったが、少しだけ彼は興味を持った。
天女に守られた国。物語のひとつにでも取り上げられそうな話だし、彼が羽振りがいいのが天女のおかげだというのなら、そのご利益のひとつでも分けてもらえやしないか。
どのみち、彼は都に戻れるのかがわからない以上、余所の土地でひと山当てる他あるまい。ただ閑職で暇を持て余して朽ち果てるよりも、ひとつの奇跡にすがって海の藻屑と成り果てるほうが、まだましなような気がする。
こうして、彼は都から離れる際に、舟を借りてその国に立ち寄ることにした……それが、彼の運命を変えることとなったのである。
四六時中侍に守られた美しい姫。たしかに天女の生まれ変わりだと言われれば、そう信じてもしょうがないだろう。島国がいけないのか、それとも海に阻まれて都の情報が遅れて入ってくるせいか、彼女はどこか都の姫君とはずれていた。
それが彼女の面白いところだったし、なによりも。
ただの伝説や言い伝えだと思っていた羽衣伝説に信憑性が増し、その羽衣さえ手に入れば都に返り咲けるんじゃないかとさえ思えたところが、彼にとっては僥倖だった。
しかし、全てはばれてしまった。
なにもかも終わったし、このまま国から追い出されてもしょうがないと思っていたのだが。
この天女のような……否、小国に備品として管理されていた天女は、彼の振る舞いにも愚かさにも怒ることがなかったのである。
「父様と話を付けてきます。だから浜風も待っていて。父様は他の国司とはちょっと違うから」
このお人好しな天女は、大丈夫なのか。
四六時中彼女から目を離すことなく付き従い、明らかに熱を帯びた瞳で彼女を見ていたにもかかわらず気付いてもらえなかった暁は、刀を交えたとは言えど、少なからず同情心が沸いた。
彼女はどこまでいっても、なにをやっても、変わらなかったのである。
****
記憶を取り戻し、頭がすっきりとして、見るもの全てが前以上に鮮明に見えるようになっても、夕花姫はなにひとつ変わらなかった。
嫌いなところをひとつふたつ見つけても、好きなものは好きなのだ。いつかは嫌いに天秤が傾くことがあったとしても、好きだったという思いだけは消えない。だから彼女が人間が好きなのも、この国が好きなのも、なにも変わらなかった。
彼女はするすると国司の部屋まで向かうと、既に眠りについているはずの国司の部屋の前で座って口を開いた。
「父様、お話しがございます」
まるでわかっていたかのように、すぐに返事が返ってきた。
「まさか月に姫を送り出す翁の気持ちがわかる日が来ようとはね」
その言葉に、夕花姫は思わず顔を赤くする。
いったいどこまでこの人はわかっているのだろうと思いながら、「失礼します」と簾の向こうの国司の元まで入っていった。
国司は着崩していた服を正しながら夕花姫と向き合う。
「……それで」
「私、記憶を取り戻しました。羽衣を奪われた記憶も、天から降りてきた記憶も、この数十年ずっとこの国にご厄介になっていたことも、なにもかも」
「本当になにもかもだねえ……それで、どうしたいんだい?」
「父様、私。羽衣を浜風にあげたいのですけど」
国司は当然ながら渋い顔をした。
「わかっているのかい、あれの奇跡の力を」
「そりゃもちろん。私がこの国の天候を鎮めてきましたから」
「だとしたら、なおのことあれを渡す訳にはいかないよ。あれがなかったら、この国は滅んでもおかしくないのだから。嵐やしけだけじゃない。海賊が乗り込んできても、たちどころにこの国は滅びるよ。この数十年、百姓と漁師が互いを憎しみ合わないのも、武官が武芸に励んでも実戦経験がなくて済んでいるのも、全部羽衣のおかげで必要がないからなのだから。夕花だって、百姓や漁師に友が多いだろう? 彼らが皆不幸になるのは、見たくないはずだよ」
この国を治める者な上に、元々他の土地でも働いてきたのが今の国司だ。この国が奇跡の上で成立していることくらい、百も承知だろう。
そしてそのことは夕花姫も理解ができたからこそ、余計に逆らうことができなかった。
「ですけど……」
「それで話は変わるけれど。夕花は羽衣なしで奇跡の力を使うことはできるのかい?」
「えっ?」
「できるのかい?」
話が飛んだような気がするものの、夕花姫は国司の問いに頭を悩ませる。
「ええっと……羽衣がないと空を飛ぶことはできないけれど、怪我がすぐ治るし、全部は使えなくってもちょっとは奇跡の力を使うことができます」
「さすがに天女のお前にそんなことを言うのは酷だけれど、この国を守る者としてはどうしても羽衣をお前に返却することはできないんだよ。でもね、夕花が行きたいところに行かせることはできるよ」
「えっ?」
夕花姫は目をパチクリとさせた。国司は苦笑を浮かべて彼女を見守る。
出会ったときから美しいままの姫は、記憶を取り戻したらそれこそ『竹取物語』の姫君のように、なにもかもに無関心なまま天に還るのではないかと思っていたが、そんなことはないらしい。
どこまでいっても、彼女は彼女のままだ。
国司は腕を組んで、目を細めてから、ようやく口を開いた。
「盗人である以上、本来ならば浜風は刑にかけなければならない」
「父様……あれは私も手引きした以上、浜風ひとりを責めるのはちょっと……」
「国外退去さえしてくれれば、全てのことに目を瞑ろう。お前を騙したり自分のことを欺いたりはね。だからこそ、暁をお前から離さなかったのだから」
国司も暁も、最初からずっと浜風の自称記憶喪失を疑っていたということだ。
なにかしらと敵意剥き出しだった暁はともかく、国司は最初から最後まで飄々とした態度を崩しはしなかったのだから。
そして次の瞬間、国司は告げた。
「もし浜風がお前を連れて行っても構わないと言うのならば、一緒についていってもいいよ」
「えっ……」
それに夕花姫は言葉を失った。
一度は海を越えてみたい。海の向こうにはなにがあるのか見に行ってみたい。そんな願いが、本当に唐突に叶うとは思ってもみなかった。
天女であった頃から、彼女はこの国以外を全く知らないのだから。
「父様……本当に?」
「まだ私を父様と呼んでくれるんだねえ……お前は昔から誰からも好かれる癖に、誰も選ばないからどうしようかと思っていたけれど、まさか懸想する相手ができるとは思っていなかったからねえ。羽衣をこの国に残してくれないと、この国を治める際に本当に困るから置いておいて欲しい。でも夕花はもっと自由にしていて欲しいから、歯がゆかったんだよ……だって、夕花は羽衣のおまけではないだろう?」
そう言われて、夕花姫は胸を詰まらせる。
思えば、歴代の国司の中でも彼だけだったのだ。備品ではなく実の娘として扱い、彼女に侍を付ける以外は本当に自由に外に出入りさせてくれたのは。
そして、彼女の夢は叶いつつある。
「……浜風が連れて行ってくれなかったらどうしよう」
「そんなことはないと思うけどねえ、お前は別嬪だから」
「あ、暁はどうしよう……本当だったら、連れて行きたいけれど」
「危ないからね。いくらお前が天女の力があるとはいっても、羽衣なしでなんでもできる訳ではないのだろう? だったら連れて行きなさい」
「父様……!」
国司は緩やかに笑った。
年老いたこの父は、たとえ人間と天女の間柄としても、いつまで経っても夕花姫の父のつもりであった。
「幸せにおなり」
あいにくあまり信心深くない彼は、念仏を唱えられている張本人にもかかわらず、あまりなにを言っているのかがわからない。
旅の無事を祈られているということだけは、言葉の触りでわかる。
彼は厳粛な顔をつくりながらも、僧侶が背を向けているのをいいことに、周りをちらりちらりと盗み見る。
どれもこれもつくりものめいた厳粛な表情を浮かべながらも、にやにやとしているのだけがわかった。
政敵がひとり、都から離れるのだ。喜ばない訳がない。
壮行会とは名ばかりの吊し上げに、彼は心底うんざりしていた。
僧侶の読経が終わったあと、宴が繰り広げられる。
これだけの馳走が食べられるのは、次はいつになるというのか。海の近くはまだ魚が美味いらしいが、海は舟が沈むのだ。
都は都で、政敵の侍らす武官に命を狙われる可能性もあるが、余所は余所で盗賊や地頭がいるのだから、どちらがいいのかはわからない。
彼の唯一のよかったところは、ちょうど恋人がいなかったということくらいか。もしここで恋人に「余所に行くから着いてきてくれないか」と言ったら、十中八九断られて縁も切られるところであった。やんごとなき姫君は、よほど惚れた男でない限りは、一緒に余所の土地には住みたくない。情けない思いをして都を離れるよりは、まだましだったと言えよう。
「やあやあ、まだ浮かない顔をしているのかい? いい加減腹をくくりたまえよ」
そう声をかけてきたのは、余所でたっぷりと国司として収益を上げている者であった。都を離れず余所の利益を吸えるのだから、このところ彼はずいぶんと羽振りがよかった。
「君みたいにわざわざ現地に行かずに生活できたらよかったのだけどね、そうもいかないみたいだから」
「まあ、上からの命なのだから仕方ないね」
「そうだね。だからこの話は終わりさ」
にこやかな口調で答えつつ、腹の中では虫唾が走っていた。なんだ、冷やかしで来たのなら、さっさと飲んで食べて帰ってくれないか。
そう思っていたところで、羽振りのいい彼は言った。
「まあ、君はちょうど私の持っている国の近所に行くみたいだから。もし舟があるんだったら行ってみるといいんじゃないかい?」
「そういえば今君が面倒を見ている国は」
「四方を海で囲まれた国でね。住みたいとは思わないけれど、あそこに住む姫は美しいと評判さ。もっとも、あの国住みの貴族の目が厳しくて、口説けた者はいないらしいけどね」
「ふうん……」
そんな四方を海に囲まれていたら、婿も取れないだろうに。彼は変な顔をしながら酒を飲んでいたら、酒で口の滑りがいいのか、さらに羽振りのいい彼は話を続ける。
「なんでも天女の生まれ変わりって話さ。あの国は天女の加護により守られていると。私も天女によってこうして羽振りがいいのだから、天女様々だし、その美しい姫に会ってお礼のひとつでも言いたいけれど、なかなか都から離れることもできなくってねえ!」
最後は嫌みや自慢かという話だったが、少しだけ彼は興味を持った。
天女に守られた国。物語のひとつにでも取り上げられそうな話だし、彼が羽振りがいいのが天女のおかげだというのなら、そのご利益のひとつでも分けてもらえやしないか。
どのみち、彼は都に戻れるのかがわからない以上、余所の土地でひと山当てる他あるまい。ただ閑職で暇を持て余して朽ち果てるよりも、ひとつの奇跡にすがって海の藻屑と成り果てるほうが、まだましなような気がする。
こうして、彼は都から離れる際に、舟を借りてその国に立ち寄ることにした……それが、彼の運命を変えることとなったのである。
四六時中侍に守られた美しい姫。たしかに天女の生まれ変わりだと言われれば、そう信じてもしょうがないだろう。島国がいけないのか、それとも海に阻まれて都の情報が遅れて入ってくるせいか、彼女はどこか都の姫君とはずれていた。
それが彼女の面白いところだったし、なによりも。
ただの伝説や言い伝えだと思っていた羽衣伝説に信憑性が増し、その羽衣さえ手に入れば都に返り咲けるんじゃないかとさえ思えたところが、彼にとっては僥倖だった。
しかし、全てはばれてしまった。
なにもかも終わったし、このまま国から追い出されてもしょうがないと思っていたのだが。
この天女のような……否、小国に備品として管理されていた天女は、彼の振る舞いにも愚かさにも怒ることがなかったのである。
「父様と話を付けてきます。だから浜風も待っていて。父様は他の国司とはちょっと違うから」
このお人好しな天女は、大丈夫なのか。
四六時中彼女から目を離すことなく付き従い、明らかに熱を帯びた瞳で彼女を見ていたにもかかわらず気付いてもらえなかった暁は、刀を交えたとは言えど、少なからず同情心が沸いた。
彼女はどこまでいっても、なにをやっても、変わらなかったのである。
****
記憶を取り戻し、頭がすっきりとして、見るもの全てが前以上に鮮明に見えるようになっても、夕花姫はなにひとつ変わらなかった。
嫌いなところをひとつふたつ見つけても、好きなものは好きなのだ。いつかは嫌いに天秤が傾くことがあったとしても、好きだったという思いだけは消えない。だから彼女が人間が好きなのも、この国が好きなのも、なにも変わらなかった。
彼女はするすると国司の部屋まで向かうと、既に眠りについているはずの国司の部屋の前で座って口を開いた。
「父様、お話しがございます」
まるでわかっていたかのように、すぐに返事が返ってきた。
「まさか月に姫を送り出す翁の気持ちがわかる日が来ようとはね」
その言葉に、夕花姫は思わず顔を赤くする。
いったいどこまでこの人はわかっているのだろうと思いながら、「失礼します」と簾の向こうの国司の元まで入っていった。
国司は着崩していた服を正しながら夕花姫と向き合う。
「……それで」
「私、記憶を取り戻しました。羽衣を奪われた記憶も、天から降りてきた記憶も、この数十年ずっとこの国にご厄介になっていたことも、なにもかも」
「本当になにもかもだねえ……それで、どうしたいんだい?」
「父様、私。羽衣を浜風にあげたいのですけど」
国司は当然ながら渋い顔をした。
「わかっているのかい、あれの奇跡の力を」
「そりゃもちろん。私がこの国の天候を鎮めてきましたから」
「だとしたら、なおのことあれを渡す訳にはいかないよ。あれがなかったら、この国は滅んでもおかしくないのだから。嵐やしけだけじゃない。海賊が乗り込んできても、たちどころにこの国は滅びるよ。この数十年、百姓と漁師が互いを憎しみ合わないのも、武官が武芸に励んでも実戦経験がなくて済んでいるのも、全部羽衣のおかげで必要がないからなのだから。夕花だって、百姓や漁師に友が多いだろう? 彼らが皆不幸になるのは、見たくないはずだよ」
この国を治める者な上に、元々他の土地でも働いてきたのが今の国司だ。この国が奇跡の上で成立していることくらい、百も承知だろう。
そしてそのことは夕花姫も理解ができたからこそ、余計に逆らうことができなかった。
「ですけど……」
「それで話は変わるけれど。夕花は羽衣なしで奇跡の力を使うことはできるのかい?」
「えっ?」
「できるのかい?」
話が飛んだような気がするものの、夕花姫は国司の問いに頭を悩ませる。
「ええっと……羽衣がないと空を飛ぶことはできないけれど、怪我がすぐ治るし、全部は使えなくってもちょっとは奇跡の力を使うことができます」
「さすがに天女のお前にそんなことを言うのは酷だけれど、この国を守る者としてはどうしても羽衣をお前に返却することはできないんだよ。でもね、夕花が行きたいところに行かせることはできるよ」
「えっ?」
夕花姫は目をパチクリとさせた。国司は苦笑を浮かべて彼女を見守る。
出会ったときから美しいままの姫は、記憶を取り戻したらそれこそ『竹取物語』の姫君のように、なにもかもに無関心なまま天に還るのではないかと思っていたが、そんなことはないらしい。
どこまでいっても、彼女は彼女のままだ。
国司は腕を組んで、目を細めてから、ようやく口を開いた。
「盗人である以上、本来ならば浜風は刑にかけなければならない」
「父様……あれは私も手引きした以上、浜風ひとりを責めるのはちょっと……」
「国外退去さえしてくれれば、全てのことに目を瞑ろう。お前を騙したり自分のことを欺いたりはね。だからこそ、暁をお前から離さなかったのだから」
国司も暁も、最初からずっと浜風の自称記憶喪失を疑っていたということだ。
なにかしらと敵意剥き出しだった暁はともかく、国司は最初から最後まで飄々とした態度を崩しはしなかったのだから。
そして次の瞬間、国司は告げた。
「もし浜風がお前を連れて行っても構わないと言うのならば、一緒についていってもいいよ」
「えっ……」
それに夕花姫は言葉を失った。
一度は海を越えてみたい。海の向こうにはなにがあるのか見に行ってみたい。そんな願いが、本当に唐突に叶うとは思ってもみなかった。
天女であった頃から、彼女はこの国以外を全く知らないのだから。
「父様……本当に?」
「まだ私を父様と呼んでくれるんだねえ……お前は昔から誰からも好かれる癖に、誰も選ばないからどうしようかと思っていたけれど、まさか懸想する相手ができるとは思っていなかったからねえ。羽衣をこの国に残してくれないと、この国を治める際に本当に困るから置いておいて欲しい。でも夕花はもっと自由にしていて欲しいから、歯がゆかったんだよ……だって、夕花は羽衣のおまけではないだろう?」
そう言われて、夕花姫は胸を詰まらせる。
思えば、歴代の国司の中でも彼だけだったのだ。備品ではなく実の娘として扱い、彼女に侍を付ける以外は本当に自由に外に出入りさせてくれたのは。
そして、彼女の夢は叶いつつある。
「……浜風が連れて行ってくれなかったらどうしよう」
「そんなことはないと思うけどねえ、お前は別嬪だから」
「あ、暁はどうしよう……本当だったら、連れて行きたいけれど」
「危ないからね。いくらお前が天女の力があるとはいっても、羽衣なしでなんでもできる訳ではないのだろう? だったら連れて行きなさい」
「父様……!」
国司は緩やかに笑った。
年老いたこの父は、たとえ人間と天女の間柄としても、いつまで経っても夕花姫の父のつもりであった。
「幸せにおなり」