雨が降り止まなければいいのに。
浜風とふたりっきりでしゃべることのできる時間が、もっと続いたらいいのに。
夕花姫の祈りも虚しく、村雨は止み、先程まで雨が降っていたのが嘘のように、澄んだ青空が広がっていた。それでもそろそろ日が傾きつつあるので、そろそろ日が橙色に変わるだろう。
「雨宿りさせてくださり、ありがとうございます」
「いえいえ。また姫様も遊びにいらっしゃい」
「はい」
「お元気で」
夕花姫と浜風は宮司にお礼を言うと、羽衣神社を後にした。
緩やかな坂を下りながら、夕花姫はうーんうーんと腕を組んで考え込む。浜風に口では調子のいいことを言ったものの、なにひとつ羽衣伝説の探索に貢献できていないような気がしたのだ。
「でもどうしましょう、これから。羽衣伝説について、これ以上詳しい人には心当たりがないわ」
「そうかな? 私は宮司の話を聞いて、薄々確信したけれど?」
「ええ? なにかしら」
宮司の話を思い返したが、数十年前の小国が比較的厳しい環境だったということ以外はなにもわからない。せいぜい、羽衣はまだこの国のどこかにあるはずだということくらいだ。そんな奇跡な力があったら、浜風の記憶も取り戻せるんじゃないかと、夕花姫はなんとなく思うが、それはあくまで夕花姫の想像だ。
夕花姫のとんちんかんな反応にも、浜風は馬鹿にすることなくゆっくりと答える。
「この国で羽衣伝説は民間にも渡るほどに知られているんだから、お父上もそのことをご存じのはずなんだよ」
「あ……! そっか、そうよね……!」
国司としてこの国を治めている以上は、この国で起こっていたことについての資料にもすぐ当たることができるだろうし、納税の最中に民の噂話を耳にしているかもしれない。そう考えたら、屋敷に帰って国司に話を聞いてみたらいいんじゃないだろうか。
夕花姫はうきうきとした声を上げる。
「すごいわ、私ちっとも気付かなかったのに、人の話を聞いただけでそこまで思い至るなんて……!」
「それは褒め過ぎじゃないかな、姫君。君は人を疑わない素直な性格だから。だからこそ、ひとつの言葉を裏表考えることなく、そのまんま真っ直ぐに受け止める。私はその素直さが羨ましいくらいだよ」
「浜風……?」
その言葉に、夕花姫はどうにも据わりの悪いなにかを感じた。チクチクとなにかが刺さるのだ。
この人はいったい、なにをそこまで疑っているんだろう。言葉のひとつひとつの裏ばかり考えていたら、きっとくたびれてしまう。そうしなかったら生きていけなかったんだろうか。
夕花姫は相変わらず都のことはわからない。ただ、この人の言う都は、そんなにいいところではないのかもしれないとだけは、少しだけ考えた。
「ねえ……私、お父様に話を聞いてみるわ。羽衣伝説のこととか……もし見つけられるようだったら、羽衣のことも」
「……本当に?」
「ええ。知っていたら、だけれどね。でももし羽衣伝説の全容が知れたら。そのとき、約束してくれる?」
「私ができることだったら、喜んで」
「そう、ありがとう。私、もし浜風が記憶を取り戻すことができたら、この国を出てみたいの」
羽衣の力を使ったら浜風の記憶が取り戻せるんじゃないかというのは、あくまで夕花姫の希望的観測だが。
そのひと言に、浜風は少しだけ目を丸く見開いた。
「……意外だね。姫君はこの国を愛していると思っていたのに」
「ええ、この国は好きだわ。でも私、生まれてからこの国しか知らないのよ。海の向こうになにがあるのかなんて、ちっとも知らない。あなたがときどき話す都のことだってちっともわからないのよ。私、物語をたくさん読んだわ。だから想像はすることができても……読んだことまでしかわからないんだから。海がないのに船遊びってどうやるのかしらとか、妻問婚は家包みで行うと言ってもどんなものなのかしらとか、潮風のない生活ってどんなものなのだろうとか……全然想像できない。だから行ってみたいと思ったの。駄目?」
夕花姫の言葉に、だんだん浜風は袖で口元を抑え、プルプルと震えはじめた。とうとう、笑い声が漏れてきた。
「ははは、ははははは……そうか。姫君……そんなに外に……」
「も、もう! 笑わないで! だって海を越えるなんてよっぽどのことがない限りできないじゃない!」
「はははははは……すまない……君を馬鹿にした訳じゃないんだ。ただ」
ぷりぷりと怒って、握り拳で浜風をポカポカ叩く夕花姫をいなしながら、浜風は彼女の手を軽く押さえると、その手を取る。
端正な顔付きでにこやかに夕花姫を見られると、もう彼女も怒る気は失せてしまっていた。女の敵だ、この人は絶対に女の敵だとわかっていても、この国の女は大概はこの手の男に弱いと理解していても、自分の気持ちを誤魔化すことなんて、性根が真っ直ぐな彼女にはどだい無理な話であった。
「わかった、私でよろしかったら案内しようか」
「……ええ、約束よ」
さすがにその言葉だけは、裏表ない性格の夕花姫でも信じ切ることができなかった。
田舎の姫君と都の公達では、立場が違い過ぎるのだから、この国の中のように振る舞うことなんて無理だろうということくらいは、いくらなんでもわかっている。
そのままふたりで緩やかな坂を下っていた、そのときだった。
浜風の履き物が、ぬかるみに足を取られた。
「……あ」
「危ない……!!」
浜風は足を突っ張ったものの、そのまま足を滑らせ、崖を落ちていく。それに夕花姫は必死に彼の腕を掴んだ。
この辺りの崖は緩やかで、そこまで高く険しくもないが、怪我でもしたら。
ふたりがそのまま崖に落ちたとき、浜風はビクンとして慌てて体を起こした。夕花姫が咄嗟に彼の下に体を滑り込ませたので、彼女が枕になって無事だったのだ。だが、夕花姫は。
一瞬だけ鼻を掠める生臭さに、浜風は顔をしかめる。
「姫君? 姫君? なんでそんな無茶なことを……!」
普段声を荒げることのない浜風が少なからず声を荒げるのに、夕花姫は痛さを誤魔化しながらも、少しだけほっとする。
こんな声を上げるのは、自分のためだからと。
「ん……平気よ。だってこの国は全部私の庭のようなものだもの……崖の高さだって知ってる……これくらいの高さじゃ落ちたくらいじゃ死にはしないわ……」
「姫君。怪我しているだろう? 私を庇ったばかりに。足、見てもかまわないかな?」
そのまま彼女の袴を捲り上げようとしたが、それより先に夕花姫が袴を押さえつけた。浜風が訝しがって手を止めると、夕花姫はそのまま体を起こした。
「だ、大丈夫だってば! 本当に全然平気! 痛い……!」
立ち上がろうとしたものの、どう考えても怪我している場所を庇って姿勢がおかしく、斜に構えた立ち方になる。
しかし怪我をしているのに見せたがらない。しばらく考えた浜風は、溜息をつくと腰を落とした。
「えっと……浜風?」
「幼子にするみたいで悪いけれど、今は牛車もないから。私の背で悪いが、乗ってくれないかな?」
「えっ……!」
「私のせいで姫君に怪我をさせてしまったのだから、このまま屋敷に帰すようではお父上にも悪い」
「そ、それなら……」
夕花姫は本当におそるおそるといった様子で彼の背中にしがみつくと、浜風は立ち上がった。彼女の袿も髪も、決して軽いものではなかったが、それをものともせず、浜風はゆったりと歩いて行く。
「あ、あの……重くないかしら……!」
「姫君は軽いよ。軽過ぎていささか背負っている気がしないくらいだ」
「それは褒め過ぎだと思うの……!」
「ふうむ、この国の人々の褒め言葉というのは難しいものだねえ」
夕花姫はドギマギしながら、必死に彼の背中に捕まると、前に嗅いだことのある甘い匂いに気が付いた。
浜風の首筋から匂いがする。この匂いはなにかと尋ねたほうがいいんだろうか。そう思っていても、これ以上墓穴を掘るようなことを言うこともできず、夕花姫は押し黙って目を閉じてしまった。
浜風の匂いと、風が運んでくる潮の匂い。それらの匂いが彼女を安心させて、そのままうたた寝にいざなってしまったのだ。
****
浜風は黙ってしまった夕花姫を運びながら、坂を下りきったとき。
「そこまでだ」
怒気を孕んだ声を背に聞き、浜風は夕花姫を背負ったまま振り返った。そこには目を釣り上げた暁の姿があった。
その鋭い殺気は、もし浜風が夕花姫を背負っていなかったら今すぐ刀を抜いてしまいそうなほどのものであった。
しかしそれだけ鋭い殺気を向けられてもなお、浜風は平然と受け流し、背負った夕花姫が落ちないよう、とん、と背負い直す。
「君はずっと私たちに着いてきていただろう? それだったらさっさとこちらに来たらよかったじゃないか。そうしたら、姫君が怪我をすることもなかったよ。私だってさすがに悪いと思っているんだ」
「だったら尚のこと、貴様は言動に気を付けたらどうなんだ。いちいち姫様を惑わすようなことばかり言って……!」
「……君も可哀想なものだね。想いを伝える術がないというのも」
浜風のあからさまな挑発になにも答えることはなく、暁は浜風の背中ですやすやと眠っているあどけない顔の夕花姫を見た。
「……彼女を運ぶのを交替する」
「悪いと思っているから、このまま屋敷に運ぼうと思うんだけど?」
「帰ったらそのまま治療するからだ。俺は」
まるで浜風から奪還するように夕花姫を横抱きに抱え込んだ暁は、彼を睨み付けた。
「……姫様がどれだけ気に入ろうとも、貴様のことは好かん」
そうきっぱりと言い切ると、そのまま彼女を抱えたまま先を歩きはじめた。その暁の態度に怒る訳でもなく、ただ浜風は肩を竦めた。
「本当にずいぶんと嫌われたものだねえ、私も」
そのからかい混じりの言動こそが暁を怒らせているのだが、そのことを知ってか知らずか、浜風は改める気はなさそうだった。
浜風の独り言を無視しながら、暁は未だに眠りこけている夕花姫に視線を落とし、そっと息を吐いた。
「……帰ったら手当てしますから」
その声は浜風に向けるものとはもちろんのこと、日頃夕花姫に向けているものよりもずいぶんと優しかった。
浜風と夕花姫を抱えた暁が屋敷に戻った頃には、すっかりと空は菫色へと変わっていた。
「食事はあとで女房が持ってくる。そのまま部屋に待機しているように」
「手荒だねえ……まるで、焦っているみたいに見えるよ?」
「……うるさい」
またも浜風に挑発されそうになったが、暁はそれには乗らず、さっさと客室を後にする。
夕花姫を抱えたまま彼女の自室へと入ったところでようやく彼女は目を開き、暁と目を合わせた。
一瞬寝ぼけたようにぼんやりとしていたが、部屋の中を見て、ようやくパチンと大きく目を見開いた。
「……暁! あの、浜風は!?」
「あれは客室へと置いてきました。手当てをしますから、降ろしますよ」
「え、ええ……ありがとう」
夕花姫は存外大人しく降ろされた。暁は慣れた手付きで部屋の油に火を差し、手拭いを取り出す。視界が明るくなったところで、夕花姫の袴を捲り上げた。
血の臭いがわかるほどに血を流していたはずの夕花姫の脚は、既にどこを怪我したのかわからないくらいに、なにもなかった。ただ日焼けをしていないその脚は、白く光るばかりであった。暁はその白い脚を拭いて、小言を漏らす。
「……俺はいつもいつも、できる限り姫様に自由に過ごしてもらうよう心得ていますが、今回ばかりは怒っています」
「……だって、浜風が崖から落ちるところだったのよ? 高さだって大したことなかったから、私が下敷きになったら丸く収まるじゃない」
「そういうところですよ、俺が怒っているのは。あなたの体質がばれたら、どうなると思っているんですか? あなたのこの体質を知っているのは、俺以外ですとお父上くらいなんですよ?」
そう言いながら暁は、夕花姫のなにもない脚に手拭いを括り付けた。明日にでも外して治ったということにすれば、浜風も女房たちも誤魔化せるだろう。
夕花姫は逃走癖があり、拾いものをする悪癖があるが。それ以上にまずいのは、彼女の体質であった。彼女は生まれてこの方、怪我をしてもすぐ治ってしまうという原因不明の体質を持っていた。擦り傷、切り傷はもちろんのこと、木を昇って落ちたときに打ち付けたたんこぶも、猫と遊んでいたときに付けたひっかき傷もすぐに治ってしまうのだから、傍仕えの暁はそれが周りにばれぬよう、相当骨を折っていた。
彼女自身、あまり羽衣伝説について詳しくないのは、国司からきつく知ることを咎められていたからだ。
「ただでさえこの国の羽衣伝説は、民にも広く知れ渡っている。もし夕花のこの体質が知られてしまったら、なにかしら結びつけて考えて、最悪天女の替わりとして誘拐されてしまうかもしれない。この体質は、私と夕花と、あと暁以外には知られないようにしなさい」
そう言われていたがために、夕花姫がどんなに脱走しても、暁の護衛の目から外れることができなかったのだ。
……つまりは浜風との束の間の逢瀬も、暁には筒抜けだった訳である。
その事実に気付き、夕花姫はますますもってしゅん。とうな垂れた。
「……いったいなにを誤解しているのか知らないけど、浜風は悪い人じゃないわ。暁が考えているようなことはなにもないわ」
「……はっきりと言いましょう。俺はあの男を信用していません」
「お願いだから……! あなたがどうして浜風を嫌っているのかは知らないけど、なにも知らないあの人を疑うような真似だけはやめて」
「そういうところですよ。俺があの男を信用していないのは。すっかりと骨抜きにされているじゃないですか」
それに夕花姫は押し黙る。
浜風を決していい人とは、夕花姫だって思ってはいない。女の敵だというのは、なんとなくわかるのだ。頭ではわかっていても、気持ちの上では逆らえないでいる。小国の人間のほとんどは腹芸をする必要もないため、皆言動が素朴で率直だ。あれだけ柔らかな雰囲気の人に優しくされたら、どれだけ腹になにかを抱えていても、見抜くことなんてできない。
暁は深く深く溜息をついてから、続ける。
「姫様は騙されやすいんです。ただでさえあの男は口から先に生まれてきたような男なのに、この国しか知らない姫様が渡り合える訳ないでしょ」
「違……っ」
「どこが違うと言うんですか。そもそも姫様はこの国を出たことなんて一度もないでしょうが。この国は平和ですが、どこもそうではありませんよ」
それにとうとう夕花姫も黙り込んでしまった。
老婆も宮司も言っていたのだ。この国は天女が来るまでは、同じ国の民同士ですら諍いがあったということも、餓死で死者が出ていたということも。今の豊かな国しか知らない夕花姫は、よそではそんなものなのか、なにも知らないし、わからない。
なんだかんだ言って侍として国司の付き添いで他国の貴族とも対面を果たしている暁とは、経験や知識が違う。
ようやく立ち上がった暁は、「食事を摂ってきます」と告げる。
「あ、暁。待って」
「なんですか?」
「……私のことを馬鹿にするのはいいの。私、本当に今のこの国しか知らないから。でも、でもね。浜風のことを馬鹿にするのだけは止めてちょうだい。たしかにあの人はいい人じゃないとは思う……むしろ、女の敵だとは思うの。でも、でもね」
暁は一瞬だけ目を釣り上げたが、黙って夕花姫と目を合わせて話に耳を傾ける。
この幼馴染の口は悪くとも自分を優先してくれるところに心底ほっとしながら、夕花姫は話を続ける。
暁はどこまで自分たちの探索の中の話を聞いていたのかはわからないが。どんなに世間知らずな姫君でも、なにも考えていない訳ではない。
「……羽衣が切実に欲しいっていうのだけは、本当だと思うの。だから、私。これからも羽衣探索だけは」
「駄目です」
全てを言い切る前に、暁が本当に珍しく打ち切った。それに夕花姫は肩を跳ねさせる。
「暁ぃ、なんで最後まで言わせてくれないの?」
「駄目です。これ以上羽衣探索を続けることは。ただでさえ今日はあなたの体質がばれかけたところでしょうが。これ以上続けることは危険です」
「も、もう崖のあるところになんか行かないから! 本当よ。だって空振りだったんだもの……」
「次に探索する場所が怪我をしない場所だなんて保証はどこにもないでしょうが。洞窟は洞窟で危険が伴います。浜辺は浜辺で危険が伴います」
「過保護過ぎるわ!? あなたそういうこと言う人じゃなかったでしょ!」
「……失礼しました。とにかく、これ以上続けることは俺は許すことができません。お願いですから」
暁は夕花姫に背を向けた。もうこれ以上は話を聞いてくれないらしいと、夕花姫は唇を噛んだ。
「……お願いですから、大人しくしていてください。俺はあなたが心配です」
それだけ言い残して、今度こそ食事を摂りに行ってしまった。
残された夕花姫は、歯ぎしりをして、暁の出ていた方角を睨んだ。
「暁のわからず屋……!!」
初めてだった。口がどれだけ悪くても、いつもだったら暁は最終的には夕花姫を優先してくれるのだ。でもこれだけ強硬に反対されたことも、会話を打ち切られてしまったことも、本当に初めてで、彼女もどうしたらいいのか、皆目見当が付かなかったのである。
****
夕花姫の捨て台詞を耳にしながら、廊下を暁は歩く。
彼女が常日頃から暁の話を聞いているようで聞いていないのは今にはじまったことではないが、あれだけ他の男の話をされたのも初めてで、内心虫唾が走るというのはこのことか、と思わずにはいられなかった。
浜風は手強い人間だと、薄々勘付いている。
都から出向してくる人間とは、国司との付き合いでたびたび暁も出会っている。それ故に彼の口の回りようは、並の者ではないのだろうと判断できた。
だからこそ、これ以上夕花姫に悪影響を与えられてはたまらなかった。
暁は首を振って、一旦道を変えて国司の元へと向かう。
国司は既に運ばれてきたお膳を食し、酒を傾けているところだった。
「失礼します」
「ああ、暁か。夕花はどうかな?」
「それが……」
昼間の一部始終を暁は、国司へと伝える。
浜風と夕花姫の逢瀬をどう伝えるべきかと一瞬考えあぐねたが、結局はキリキリと痛む胸のままに、全て言葉として吐き出した。
酒を傾けていた国司は、あからさまに顔をしかめる。
「これはまずくはないかな?」
「まずいと思います」
浜風の存在自体は、どう取るべきかとは判断がつきかねたが。
夕花姫に与える影響が大き過ぎるのだった。彼女がここまで反抗を重ねたことなど、未だかつてなかったのだから。
国司は酒で口を湿らせてから、暁に真っ直ぐに尋ねた。
「ひとつ尋ねるが、君は今でも斬れるのかい?」
その真っ直ぐな問いかけに、暁は一瞬押し黙った。
暁は夕花姫の侍であり、護衛であり、武士だ。主に斬れと言われたものは、斬らねばならぬ。
「……命令とあらば」
心を置き去りにして、任務ができる。それが暁の長所であり、最大の欠点であった。
「そうか」
国司のその言葉は、肯定なのか否定なのか、暁にも判別が付かなかった。
報告を終えた暁は、今度こそ夕花姫の食事を取りに戻った。
彼女の元に戻るときには、いつもの小言の多い幼馴染に戻らないといけないが、暁は浜風ほどにも腹芸ができる性分でもない。だからこそ、いつもむっつりと黙り込んでいるのだから。
「……俺は、あなたに嫌われてもいいんです」
今の時間は、廊下を使用人たちも歩いていない。皆食事の準備や配膳に回っているからだ。だからこそ、暁は日頃は押し黙っている話もぽつんと漏らすことができた。
「俺は────を斬りたくなんかありませんから」
一番伝えたい相手には、決して言うことのできない言葉であった。夕花姫は忘れてしまっていても、暁は全て覚えている。だからこそ、余計に彼女を守らないといけないと、強く願うのだ。
たとえその決意によって彼女に嫌われようと、失ってしまうよりはまだましだった。失ったものは、もう二度と元には戻らないのだから。
ざざん、ざん。ざん。
耳によく馴染んだ波の音がする。波音のたびに、潮風の香りが運ばれてくる。
夕花姫は目を開けて、寄せては返す波の泡を眺めていて、あれ。と気付く。どうもいつも知っている波よりも高く荒れているような気がするのだ。
しかし、自分はその荒波をものともせず、浜辺を歩いている。
「天女様ー」
そう呼ばれて、夕花姫は振り返った。
昼間に老婆にそう呼ばれたが、自分は天女なんかじゃない。この国の人間だったら誰だってそのことを知っているだろうに。
そう思ったものの、自分を「天女様」と呼ぶ子供は、どれも見知らぬ顔ばかりなのに、彼女は訝しがる。
「あら、今日はなにをして遊ぶのかしら?」
しゃべってもいないのに、夕花姫は「天女様」として子供たちに答える。よくよく見ると、子供たちの服は自分が知っている子供たちのものよりも、ずいぶんと萎びていることにも気が付いた。
自分はいったいどんな夢を見ているのだろう。そう思いながら、夕花姫は「天女様」として一緒に子供たちと歩いていた。
こちらに視線を寄せてくる大人たちは、皆怪訝な顔をしている。夕花姫が知っている漁村の人々は、もっと穏やかだったと思うのに。
もしかして、これは老婆が言っていた、かつての荒れた国内の様子なんだろうか。そう考えれば、今がどれだけ平和かよくわかる。
大人も笑っていた。子供も笑っていた。皆健やかに毎日を過ごしている。そう考えると、ますますこの国には天女が必要だったんだろうとは思うが。
肝心の天女も彼女の纏っていた羽衣も、本当にどこに行ってしまったのだろうと、ふと夕花姫は気が付いた。
まだ国内にあるんだろうということだけは、今の平和な国内を見れば思い至るが、肝心の天女も羽衣も行方不明なのだから。
そう思っていたとき、ふと夕花姫はなにかに腕を引っ張られることに気付き、視線を背後に寄せて、ようやく見つけた。
「天女様」は、透けるように薄い衣をふわふわと袖に巻き付けていたのだ。それは絹のようにも見えるが、絹よりも軽いし手触りも滑らかだ。これが今行方不明の羽衣なんだろうか。そう思ったとき。
その羽衣がぐいっと誰かに解かれることに気が付いた。
驚いて解いてくる相手を見たら、それは暁のように背中に刀を佩いた武官であった。
「止めて、それを持っていかないで!」
「天女様」は夕花姫の声で、そう言って剥ぎ取られた羽衣を取り替えそうとするが、武官のほうが彼女より頭ひとつ分ほど身長が高く、取り戻せそうもない。「天女様」は何度も何度もぴょんぴょんと跳んで羽衣を取り替えそうとしたが、武官は舌打ちをして、背中の刀に手を回した。
「……うるさい女だな。羽衣さえあれば、こっちはもう用済みだ」
「止めてってば、それを勝手に持っていたら……!」
「うるさい……!」
そのまま刀は「天女様」に振り下ろされた。
「ああ……っっ!」
途端に視界が、おびただしい赤で塗りつぶされる。
熱い。痛いいたいイタイ……イタイ。
そのまま「天女様」が浜辺に倒れたとき、耳に子守歌が流れはじめた。
てんにょさまのおわすはま
てんのめぐみをわけたまえ
てんにょさまのおわすしま
うみのめぐみをわけたまえ
はごろもひらりとまいながら
てんにょさまはやってきた
はごろもなくしたてんにょさま
かえれずどこかでないている
ちょっとひろってくだしゃんせ
ちょっとかえしてくだしゃんせ
はごろもかえしたてんにょさま
てんにかえってないている
****
目が覚めたとき、見慣れた天井に見慣れた部屋。そこは夕花姫の部屋であった。夕花姫は思わず「天女様」が斬られた場所に手を這わせたが、自分が斬られた訳ではないのだ。当然ながら傷はなく、あのときの激痛も熱も持ち合わせてはいなかった。
昨日探索をしていたせいだろうか、こんな夢を見たのは。
夕花姫はそう考えようとしても、あまりにも夢が現実味を帯びていたために、夢だと一笑にふすこともできずにいた。
もし男でも現れればその男が未来の夫だとして受け入れねばならないが、残念ながら現れた男は顔もわからぬ武官であり、そもそも「天女様」を叩っ斬った男である。あれが夫なのはものすごく嫌だ、と世間知らずな夕花姫でもわかる。
それにしても。と夕花姫は考え込んだ。
宮司は天女が出かけてから行方不明になったと言っていた。出かけたのはどこだったんだろう。もしあの夢が本当だとしたら、出かけた先で羽衣を奪われてしまったんだろうか。そもそも、斬られた天女はそのあとどうなったんだろうか。
死んだんだろうか。悲しんで天に帰ってしまったんだろうか。
感謝している割には、彼女のその後のことはなにひとつわからないなと、夕花姫はくしゃりと髪を撫で付けた。
そうこうしている間に朝餉の時間になり、彼女の稽古の時間になった。
侍女に琴を習ったが、いつか聞いた浜風のようにはおろか、彼女の先生を務める侍女のようにもちっとも弾くことができず、本当に爪で弦を弾いただけの音しか出なかった。
「姫様は……まあ……」
「わ、私楽器は苦手なの! 他、他にもうちょっとなにかないの!?」
「そもそも姫様は、歌は苦手、裁縫は不器用、楽器は不得手で、これではいったいどこにお嫁に行けば……」
「文字は読めるわよ! 漢詩も多少は!」
「姫様。それは姫様にほとんど必要のないことですよ?」
侍女に心底憐れみを込めた目で見られてしまい、夕花姫は「うーうー」と喉を鳴らした。喉を鳴らしたところで、ようやく稽古が終わった。
終わったところで、浜風と落ち合って屋敷を抜け出そうとしたのだが。
「姫様。稽古は終わりましたか?」
暁が何故か大量の巻物を持って立っていたのである。どれもこれも、日頃から夕花姫が読んでいる好きな物語ばかりで、それに彼女は「うっ……」と喉を鳴らした。
「……暁ぃ、どういうこと? どうしてこれを持っているの?」
「姫様がよく愛読なさっているものばかり持ってきましたけど、他に欲しいものはございましたか? なかなか取り寄せるのも難しいでしょうから、これら以外でしたら何ヶ月かかるかわかりませんけど」
「そうじゃなくって! ……私、ちょっと樋殿にでも行こうと思っているんだけれど!」
「最近は危ないですから、俺も手前まで行きましょうか?」
「樋殿前に侍が立っているってどんな状況!? 嫌よ!」
「姫様。昨日俺は何度も申したでしょう」
暁はじとぉーっっとした目で、夕花姫を睨んだ。それに彼女もたじろぐ。
「俺はこれ以上、姫様に羽衣探索に関わらせるつもりはありません。危険ですし、万が一ということもありますから」
「今までここまで過保護だったことなんてないでしょう!? なんでいきなり?」
「それも機能に申したでしょう。あなたが浜風にどうそそのかされたのかはこちらもさすがに把握しておりません。ただ、これ以上あなたにあることないこと吹き込まれたら困りますから」
それに夕花姫はかぁーっと頬が熱くなる。
浜風に歌をもらった。その返歌は、昨日も寝るまでずっと考えたが、未だに返せていない。彼はきっと都でもらい慣れているだろうし、この国でも女房たちからなにかと気に掛けられているのだから、気にも留めていないだろうが。それでも夕花姫は彼に歌を返したかった。
「好き勝手言わないでっ! 暁の馬鹿! もうあっち行って!」
「俺は部屋の外で控えていますから。樋殿はご随時に」
「もう馬鹿! 知らない!」
そう夕花姫に声を荒げられても、暁は気にする素振りもなく、そのまま彼女の部屋の外へと出て行ってしまった。彼女の大好きな物語を大量に置いて。
夕花姫はしょんぼりとしながら、それらの巻物を拾い集める。
どれもこれも、都を舞台にした恋物語であり、夕花姫が都に対して憧れを持っている理由のひとつだ。これで足止めして、浜風との接触を断とうとするなんて、性格が悪いにも程があると、夕花姫は憤慨する。
だが。夕花姫はちらりと降ろしている簾を見る。簾を捲り上げて、庭を突っ切って外に出たら、さすがに暁を撒けるだろうかと。
簾を巻き上げる音で気付かれるかもしれないが、なにもしないよりはましだ。
夕花姫は音を忍ばせて、するすると簾を巻き上げると、そのまま庭を突っ切っていった。履き物も履かずに中庭を歩くのは足の裏がチクチクとするし、痛いし、暁が心配していたように怪我をしてしまいそれがすぐ治ってしまうのを見られる危険もあるが、それでも浜風に会いたかった。
中庭から母屋に入り、彼のいる客室へと廊下を歩いていると。
女房たちがたくさん歩いている姿を見つけ、慌てて夕花姫は廊下の角へと隠れる。こっそりと覗き込むと、女房たちが取り囲んでいるのは浜風だった。おそらくは、客室を出たところを仕事上がりの女房たちに捕まってしまったのだろう。
「今日は浜風様は姫様とお出かけはなさらないんですか?」
「でもたまにはいらしてね、こちらにも。私たち、姫様と違って外を散歩する趣味はございませんから」
これは暗に変わり者の姫など放っておいて、自分たちにもっと構えということなんだろうかと、夕花姫は少しだけむっとするが。
浜風は相変わらずの柔らかな物腰で、女房たちの言葉をのらりくらりとかわしている。
「噂話というものは、勝手に尾ひれが付いてしまって困ったものだね。私には姫君はそこまで変わり者とも思えないけど」
「まあ……都でもひとりで出歩く姫など聞いたことがないと……!」
「寺社が好きでお参りを趣味にしている姫君もいるし、噂話に興味がなく趣味に傾いている姫君もいるから、それは人それぞれじゃないかな」
……庇ってもらえた。そこでほんの少しだけ温かいものを覚えたが。
浜風の物言いに納得がいかないのか、女房のひとりが「ならば」と言う。
「今日は出かける予定がございませんのでしたら、お話しいたしませんか? お菓子も用意致しますから」
「これはこれは……それでは世間話程度ならお付き合いしましょうか」
そのまま女房たちに逃がすまいと取り囲まれたまま、連れて行かれてしまった。
中庭から脱走してまで抜け出したのが、空回りだ。
夕花姫は懐に手を伸ばした。ひと晩必死に考えた返歌を返しそびれてしまった。
「……浜風の馬鹿ぁ」
こればかりは彼はなにひとつ悪くはないのだが、八つ当たりのひとつでもしなかったらやっていられなかった。
それからというものの、夕花姫が外に出られない日々が続いた。
一度中庭を横切ったことがばれてからは、気付けば暁に中庭まで先回りされるようになったし、牛車を出してもらえるように言いに行ったら告げ口されて連れ戻されてしまうし。
今までいかに、暁に泳がされていたかが浮き彫りにされ、夕花姫はげんなりとする。
あまりにも鬱憤が溜まりはじめた夕花姫は、とうとう音を上げた。
「……ねえ、暁」
その日の稽古が終わり、夕花姫は大の字になって寝転がっている簾越しに、暁は控えていた。
「なんですか、姫様」
「お腹空いたわ。このところ新鮮な貝をちっとも食べてないの」
「自分が獲ってきましょうか? 姫様の名を出せば、漁師だったら差し出すと思いますが」
「そうじゃないわよ、もう馬鹿知らないっっ」
すっかりとへそを曲げてしまった夕花姫は、ぷいっと簾に背を向ける。しばらく沈黙が降りたあと、それを暁が打ち切る。
「……なにか食べたいものでしたら、俺がつくりますよ。本当にお願いですから、大人しくしてください」
「いつまで?」
「……わかりません」
「わからないのに、私を閉じ込めるの?」
「姫様、普通は姫君は外には出ません」
「国の外の姫君の常識なんて知らない。私にとって、これが普通だったわ。私、なんであなたがそんなことするのかさっぱりわからない。浜風は? あの人、最近ずっと女房たちと話をしてばかりで、私のことなんて忘れてしまったみたいだもの」
夕花姫ががなる声を、黙って聞いていた暁は、やがて長い長い溜息をしたあとに、教えてくれた。
「あれは、ここの女房たちと逢瀬を重ねています」
「嘘」
そうは言っても、夕花姫も言い切ることはできなかった。何度も女房たちに誘われて話をしているのを見ていたのだから。
自分にとっては初めてのことも、都の貴族である彼にとっては珍しいことではなかったというだけだ。わかってはいても、悲しいものは悲しい。
暁は押し黙ってしまった夕花姫を宥めるように言葉を重ねる。
「だから言ったでしょう、俺は何度も。あれは口から先に生まれたようなものだから、姫様は騙されていると」
「だって……だって」
「……本当にお願いですから、大人しくしていてください。なんだったら、俺が料理を教えてもかまいませんから」
夕花姫は少しだけごろん、と寝転がってから、ようやく起き上がった。
料理を教えてもらうというのは、少しだけ魅力的に聞こえた。
「私、あなたみたいに包丁も使えないけど?」
「簡単なものでしたら、大丈夫でしょう」
貝は獲れ立てのものでなかったら腹を壊す。料理も出来たてのものでなかったら美味くない。出来たての料理を手渡したいという口実だったら、暁も浜風に会いに行くことを見逃してくれるかもしれない。
暁の心配をよそに、夕花姫は未だに初恋を諦めきることができなかった。
****
厨では使用人たちが火の番をしている。
それに挨拶をしながら、袖をたすき掛けした暁と夕花姫が入っていく。日頃から厨を出入りしているせいで、侍と姫君が厨に入っても、誰もなにも言うことがなかった。女房たちで口さがないのがあれこれと言うこともあるが、それらは一切無視している。
暁は芋を手に取ると、さっさとたらいで洗って皮を剥きはじめる。
「芋粥をつくろうかと思います」
「あら」
それに夕花姫はうきうきとした。
大陸から渡ってきたような小麦粉を練って焼いた菓子も好きだが、芋粥のような素朴な甘いものも好きだ。
芋の皮を剥いたら、それを甘葛を煮詰めた汁の中に投下する。汁ごと鍋でことことと煮立てているのに、暁は声をかける。
「姫様、これを混ぜてください」
「ええっと、これってどれくらい煮ればいいの?」
「芋に火が通ったら完成です。そうですね。表面が透き通ってきたら大丈夫ですよ」
「わかった」
夕花姫は怖々と鍋の中を混ぜる。思っているよりも固かった芋も、火を通すと少しずつ表面が滑らかになり、やがてなんとなく透けているように見えてきた。
それを器に盛り付けてみると、見てくれは素朴ながらも、味はほっくりと優しい味わいの芋粥が出来上がった。
夕花姫はそれを見て、「ねえ、暁」と甘えた声を出す。それに渋い顔を返す暁。
「……なんですか」
「これ、浜風にもあげていい? ほら、結構残っているでしょう? お父様にあげてもまだ残るじゃない」
当然ながら、暁は渋い顔のまま黙るが、いつもの調子で「駄目です」と言い切れていない。彼はつくったものを残すことを嫌がるし、もし残すのだったらせめて使用人にあげて欲しいと考える性分だからだ。
あとひと押しとばかりに、夕花姫は更に甘えた声を上げる。
「冷めたらおいしくないでしょう? もったいないでしょう? 料理をつくるのが好きな暁ならわかるわよね?」
「……芋粥を食べている間だけは、俺もなにも言いません。夕餉までには戻ってきてくださいね」
「はあい」
夕花姫は心を込めて芋粥を綺麗な器に盛り付けると、匙を添えて運びはじめた。
うきうきした調子で浜風のいる客室に向かうと、声をかける。
「浜風。今は誰ともお話しはしていない?」
「おや姫君。このところはずっと会えずじまいだったね」
浜風の穏やかな声に、夕花姫は心底ほっとする。
暁に何度も何度も吹き込まれた、彼が女房たちと逢瀬を重ねているという話を真に受けなくて本当によかったと。彼が昼間から女房たちを部屋に連れ込むような真似はしないだろうが、もししていたら本当にどうしようと思っていたのだから。
夕花姫は笑顔で声を上げる。
「あのね、さっき厨で芋粥をつくったの。よかったら一緒に食べない?」
「おやおや。芋粥を自らつくってくれるなんて嬉しいね。ありがたくちょうだいしよう」
浜風に招かれて、夕花姫はにこにこしながら彼の部屋に入っていった。
数日しか会えなかった訳ではないのに、彼の首筋からする香の匂いを嗅ぐと、自ずと心が華やいだ。彼に芋粥を差し出すと、少し目を細めてから、浜風は器を受け取って食しはじめた。
夕花姫も隣で一緒に匙を動かす。やはり出来たての芋粥はほっくりとしておいしいし、すっと涼を感じる味わいは、摘み立ての果物ではなかなか出せないものだ。
浜風も目を細めて芋粥を味わっている。
「うん、おいしいね。まさか姫君が菓子をつくってくれるなんて思わなかったんだけど」
「……つくったと言っても、暁と一緒よ。暁が芋の皮剥きから甘葛の煮汁の準備まで全部してくれたから」
「それでも。うん。おいしい……さて、姫君。この屋敷についてだけれど」
「はい?」
いきなり話が屋敷に飛んだことに、夕花姫はきょとんとした。浜風は頷きながら続ける。
「女房たちに話を聞いていたけれど、どうもこの屋敷は羽衣伝説と密接に関わっているみたいでねえ」
「……ちょっと待って、ここの屋敷って」
「宮司も言っていただろう? 元々天女は、国司に連れて行かれてから行方不明になったって」
その言葉に、夕花姫は言葉を無くした。
前に見た夢を思い出す。天女は武官に斬られる夢だった。どうして夕花姫が天女の追体験をしたのかはわからないが。
まさか……と思う。
天女の羽衣の持つ奇跡の力に目を付けた当時の国司が、天女を斬り殺して羽衣を奪ったというのだろうか。
夕花姫の顔が曇ったのに、浜風は尋ねる。
「姫君、大丈夫かな?」
「……え、ええ……平気。浜風は、屋敷の女房たちに話を聞いて、どう思ったの?」
「なんでも、ここの屋敷で一部、決して人を入れたがらない場所があると。使用人たちも掃除ができないし、何故かその一部を掃除に行くのが、侍たちだと」
それに夕花姫は二度目の驚きを得た……いや、得たくはなかった。
暁は幼い頃からよく知っている幼馴染なのだ。その彼が、夕花姫すらあずかり知らなかった屋敷の秘密に関与しているなんて、思いたくはなかった。
でも、何故か彼は執拗なほどに浜風を警戒し、夕花姫に浜風を嫌うように仕向けるような吹き込みすらしていたのだ。彼の言葉を、そのまんま信じても大丈夫なんだろうか。
震える夕花姫は、ふいに甘い香の匂いが強くなったことに気が付いた。浜風が夕花姫の背中を支えたのだ。
「姫君、あまり心配しないでほしい。国司はもしかすると相当な食わせ物かもしれないし、侍はもしかすると君すらも騙して利用しているのかもしれないけれど……私は、あなたの味方だから」
「……浜風」
夕花姫の胸中が掻き乱される。
父様は、夕花姫を騙していたのか。暁は、この屋敷の秘密のために彼女に嘘を吹き込んでいたのか。浜風は、実は夕花姫が騙されているのを見かねて、女房たちに甘い言葉を重ねて話を聞き出しただけではないのか。
何度も何度も暁にされた警告は、実は嘘だったのか。
彼女にはもう、わからなくなってしまっていたが、浜風の夕花姫の肩を抱く手が強くなる……甘い匂いが強くなる。
「おいたわしい姫君……もし私が羽衣を見つけ出し、記憶を取り戻したそのときは、あなたを都にお連れしてもよろしいか?」
夕花姫は目を見開いた。
……彼に書いた返歌と、大分展開が変わり過ぎてしまって、夕花姫の思考が全く追いついていない。
ただ、自分は屋敷の皆に騙されて、なにかを隠されていた……羽衣伝説にこの屋敷が関与していたことすら、夕花姫は浜風が独自で調べ出すまで知らなかったのだから。
「……羽衣の、目星はもう付いているの?」
夕花姫が震える声で尋ねると、浜風は「じゃあ」と声をかける。
「私、本当にこの国しか知らない世間知らずよ? 都の姫君のようなことなんてできないし、それのせいでいつも叱られてばっかりだわ。それでもいいの?」
「……私は、姫君が姫君のままでいてくれたら、それでかまわないのです」
浜風に抱き締められ、夕花姫はそれにもたれかかる。
「羽衣は、蔵にあるそうです」
「蔵? この間楽器を取りに行ったところ? でもあんなところ別に……」
「ひとつ隠し戸があり、そこは侍しか触れないそうです」
「そう……いいわ。あげる」
夕花姫は笑った。
叶わないと思っていた恋が、まさか叶うなんて思ってもいなかった。
前の返歌は、捨ててしまおうと心に決めた。
夕餉も済み、夜の帳も降りた頃。夕花姫は狸寝入りをして暁が下がるのを待っていたところで、簾越しに「姫君」という声を聞く。
簾越しに浜風が部屋を抜け出てきたのを確認して、夕花姫はほっと息を吐いた。
「浜風……暁はもう下がったわ」
「うん、そのようだね。それじゃあ姫君、探しに行こうか」
「……ええ」
なるべく衣擦れの音が出ぬようにと、袿を脱ぎ、袴と白衣の姿で出てくると、浜風は当然ながら苦笑した。狩衣は音が出なくても、擦っていては暁以外の侍にも気付かれるおそれがあるのだから、仕方がない。
ふたりでそろそろと蔵へと向かう。普段夕花姫は蔵の入り口付近にある楽器以外に触れたことがなく、この奥に羽衣があると言われても、やはり未だに信じられない。
「そういえば、うちの女房たち。どうしてこの蔵に羽衣があるなんてこと知っていたのかしら……?」
「あの国司も人がいい顔をしながら嘘つきなようだからね。案外皆で姫君を騙していたのかもしれないよ?」
「……そう、なのかしら」
「姫君がなにも知らないほうが、幸せな人が多かったのかもしれないね」
浜風にそう指摘され、チクリと胸が痛むのを感じていた。
たしかに夕花姫は脱走癖があり、拾いもの癖がある、我ながら変わり者の気質だとは思っていたが、周りからは慕われているものだとばかり勘違いしていた。たしかに女房たちは口さがないものも多いが、それは自分が変わり者のせいだろうと納得していた。
まさか皆でよってたかって嘘で嘘を塗り固められて、それで夕花姫がなにも知らないようにしているなんて、思ってもみなかったのだ。
父の国司どころか、幼い頃からずっと一緒にいたはずの暁にまで、嘘をつかれ続けているなんて信じたくはなかったが。どうして自分の住んでいる屋敷のことまで自分は知らなかったのか。
暗くなっても仕方ないとばかりに、夕花姫は蔵の戸に手をかけた。いつものように開く。既に外は暗く、油の入った器に火を点して隠し戸を探しはじめる。
琴や琵琶、大陸からの贈り物、都からの調度品……それらの棚を眺めている中、ひとつだけなにも置かれていない棚があることに気が付いた。
「ここだけ、なにもないわね……」
「侍たちが掃除を任されている場所があると、女房たちも言っていたしね。どこからどう見てもここが怪しいけれど……」
浜風は棚を一段一段触れはじめる。棚もひとつだけ妙に古いし、それでいて埃が積もっていない。使用人たちが掃除するにしても、ここだけなにも置いてないのもおかしいだろう。やがて浜風が三段目の棚に触れたとき。
棚がガタリ、と音を立ててふたつに割れた。
「わ、割れ……!」
「いや姫君。これは割れたんじゃない。これは隠し戸だったんだ」
「え……?」
「暗くて見えにくいけれど、この棚自体が、壁にめり込んでいる」
たしかにこの棚だけ壁にめり込み、ふたつに割れた途端に中から空洞が見えてきた。明かりを照らしてみると、蔵の中に調度品以上に綺麗に物が並んでいるのがわかる。
「私、蔵がこうなっているなんて全然気付かなかったわ」
「前にご老人も言っていたね。昔はこの国も海賊が多かったし、民同士で争いがあったと。万が一屋敷に火を付けられても大事なものが燃えないように、隠し戸をつくって大事なものを隠していたのかもしれないよ」
「なるほど……大事なものばかりがあるから、使用人じゃなく侍しかここの管理を任されていなかったのね」
使用人たちは基本的に位がないのに比べ、侍はそもそも貴族からの信頼がなければ傍仕えを任されることはない。国司からの信頼に足る人物以外は、ここの管理をさせていなかったというのが、そもそもの問題なのだ。
ふたりは中に足を踏み入れ、調度品のひとつひとつを調べる。
なにかの帳簿、日記。これらはこの国を治めるために、都に送った書類の写しだろうと察する中、ひとつ紙束でもなければ価値があるのかさえわからないものがあることに気が付いた。
その重箱はひどく軽く、なにも入ってないようにも感じるが。箱を振ってみれば、たしかにカサカサと音がするのだ。
「これって……」
「姫君、中を開けられるかい?」
「ちょっと待ってね」
箱には細工が施されていて、開けるには困難を極めそうに思えたが。何故か夕花姫が触れた途端に、その重箱の蓋は取れて簡単に開いた。
その中身を見て、夕花姫と浜風は言葉を失った。
中に入っていたのは、わずかな明かりでもわかるほどにひどく薄くて軽い布であった。触ってみると絹の手触りにも思えるほどに滑らかだが、それよりはもっと薄くて軽い。
夕花姫は夢に出てきた天女の羽衣を思い浮かべた。多分これが問題の羽衣なのだろう。これがこの国に富をもたらししけや嵐を鎮めていたなんて、いまいちピンと来ないが。
「これが……羽衣。天女の羽衣は、本当に……」
浜風は震える手で、天女の羽衣に触れると、腹から笑いはじめた。
「ふふふふふふ…………はっはっはっはっはっはっはっは……! 遂に……遂に羽衣を、この手に……!!」
「は、浜風?」
普段の物腰柔らかな彼はどこに行ったのだろうと、夕花姫は彼の豹変の仕方に途方に暮れるが、浜風の高笑いは止まらない。
「これで、見返してやれる! 私を陥れた奴らも、都の連中も、なにもかも……!」
「あのう……浜風……?」
「あははははははは…………!!」
まるで狂ったかのように笑いはじめる彼を、夕花姫は困った顔で眺めていた。
暁は何度も何度も口酸っぱく言っていた。浜風は口から生まれたような男だから、あの男の言うことを信用するなと。でも浜風は浜風で、夕花姫は騙されていると言っていた。たしかに今まで周りが黙っていたことがどれだけ多いかということは、彼と交流してから嫌というほど思い知った。
でも。この場合はどっちの言い分を聞くのが正解なんだろうか。どっちが嘘つきで、どっちが本当のことを言っていたのかもう、今の夕花姫にはわからなかった。
と、そのときだった。
「……姫様、お下がりください」
「え……?」
夕花姫は急に背後から腕を取られたかと思ったら、そのまま暁の腕の中に引き寄せられていた。夕花姫は驚いて目を見張る。
「暁……? あなたいったい今まで……」
「……とうとう正体を現したか。下郎が」
暁は唸る声を上げて、浜風を睨んだ。浜風は恍惚な表情を浮かべて、羽衣に頬擦りをしている。
「なんだ、このまま嫉妬に駆られて我を忘れてくれていたら、こちらも楽だったのに。そうはいかないようだね」
「……俺のことをいくら馬鹿にしてもかまわない。だが、姫様のことを悪く言うことだけは許さん」
そう言うと、暁は夕花姫をそっと隠し戸の外へと押しやった。
「あ、あの……暁?」
「姫様、危ないですので、どうか中に入っては来ないでください」
「ちょっと待って、ちょっと待ってったら……!!」
浜風の抱きしめていた羽衣が飛び、それは夕花姫の手元にやってきた。
暁はすらりと佩いた刀を抜くと、そのまま浜風に斬りかかっていたのだ。だが、浜風は蔵の中にあった刀に手を伸ばすと、暁のその刃を受け止める。
ガンッガンッガンッガンッ。
刀と刀のぶつかり合いは激しく、下手をしたらどちらかの刀が折れそうな音が響き渡る。武官である暁はともかく、浜風も刀の腕に覚えがあったことには驚いたが、ただの風流なだけでは都で貴族は務まるものではないのだろう。
その光景に、夕花姫はますますもって混乱していた。
暁はいったい、いつから浜風のことを疑っていたのだろう。浜風はいったい、いつから自分を利用しようとしていたのだろう。わからない。わからないが。
このままいったら、ふたりのどちらかが斬られてしまうのではないだろうか。どちらを信じればいいのか、どちらの言葉が正しいのか、もう夕花姫にはわからなくなってしまっていたが。
ふたりが仲良くなれないのなら、それでもう構わない。ただ、ふたりに殺し合って欲しいなんてそんなこと、誰も望んではいない。
全ての元凶は、夕花姫が貴族を拾ってきて浜風と名付けたことが原因ならば、一番悪いのは夕花姫本人なのだから。
「お願い……! 私が全部悪いんだから! 全部私のせいなんだから、ふたりが殺し合うのだけは、やめて……!!」
暁に止められたのも無視して、隠し戸の向こうへと割って入った。途端に、暁の刀が夕花姫の袖を裂く。彼女の腕に刃が食い込み、血が滲む。
「……姫様……!!」
「姫君……!!」
暁は目を大きく見開いて、夕花姫を見る。
斬られた場所は、かまどの前に立っているよりも焼けるように熱く、血を流しながらも鋭い痛みを与え続ける。すぐに傷が治ってしまう体質とはいえども、さすがに肩を袈裟懸けに斬られたのでは、そう簡単に塞がることもないらしい。
今にも泣きそうな顔をする暁は、血塗れのまま無理矢理刀を鞘に収めて、夕花姫を抱き締めた。血が止まるようにと腕を押さえ込む。
「……どうしてあなたは、そんなに無茶ばかりするんだ……!!」
「へーきよ、暁。私、いつもすぐに傷が治るじゃない……痛い……」
「さすがにあなたでもこの傷がすぐに治る訳がないでしょう!? それに、あなたは……」
いつもいつも、無愛想で口が悪い暁が、ここまで激高するのを初めて見たような気がする……そう夕花姫は思ったが、すぐにいや、と訂正する。
この黒目がちな目が、今にも溶けそうなほどに涙を溢していたのを、夕花姫はたしかにはっきりと見たことがあった。
そしてこの傷。天女もまた、羽衣を奪われた際に、これほどジンジンと熱と痛みに苛まれていたのを思い出した。
これは傷を負ったせいだろうか。それとも羽衣を奪われたせいだろうか。
どうしてこの屋敷の人間が、よってたかって夕花姫に羽衣伝説を語らなかったのか。どうして国内だと常識だとされている羽衣伝説を夕花姫はほとんど知らなかったのか。どうして国司に連れて行かれた天女が行方不明になったのか。どうして老婆は夕花姫を「天女様」と呼んだのか。
簡単な話だったのだ。
夕花姫こそが、記憶を失っていた天女だったのだから。
暁が「彼女」に出会ったのは、まだ彼が元服もしてない頃であった。
行儀見習いという形で、元服していない男児が貴族の元に奉公に行く習わしがある。本来は位の高い貴族が寺で行儀見習いとして入るのが習わしだが、そこは小国。そこまで格式張ったものではなく、元服してからの仕事を早めに教えるためのものであった。
暁もまた次期に武官として奉公するために、国司の元に通うようになっていた。
行儀見習いとして座り方、立ち方からはじまって、立ち振る舞い、侍としての心得、必要最低限の読み書きをこなしたあとは、同じような行儀見習いたちと広い中庭で蹴鞠をしてから帰る。そんな日が何日も続いたある日だった。
その日も蹴鞠をしていたところで、鞠があらぬ方向へと飛んでいってしまった。
「取りに行ってくる」
暁が他の行儀見習いたちにひと言言ってから、そのまま走っていった。
国司の屋敷の中庭は、小国に住まうどの武官の屋敷のものよりも丁寧に切り揃えられている。切り揃えられた松の間を歩いているとき、鞠を拾い上げた女性に目を留めた。
本来、貴族の女性は肉親以外には姿を見せない。見せるのは出仕している女房や侍女ばかりで、姫君が人前に姿を見せているなんて、暁は初めて見た。
いくら元服してないとはいえども、まずくはないだろうか。国司に怒られるのではないだろうか。そう思ったものの、鞠を持って帰らないといけないのだから、どう声をかけたものか、と考えあぐねているときだった。
姫はよりによって暁に目を留めると、そのまま駆けてきたのだった。それには暁も驚いた。
「あら、あなたが落としたの?」
「え、あ、はい……」
暁は狼狽して、彼女を見た。
鈴のような声を転がす姫君は、切り揃えられたぬばたまの髪、ぽってりとした丸い唇、きらきらと輝く黒真珠を嵌め込んだような瞳と……どう見ても、小国に伝わる天女のような美しい姿だったのだ。桜色に重ねた袿を着た彼女は、暁には光って見えた。
どうして国司の元にこんな美しい姫がいるのだろう。暁は驚いて彼女を見ていた。国司は代替わりするもので、そのほとんどは都からの出向だ。海を渡る際に事故に遭うのを危惧して、家族は都に置いてきて仕送りをする者がほとんどであった。
なんで、どうして、と思ったものの、彼女のきょとんとした顔を見ていたら、そんなことはどうでもいいように思えた。
「はい。鞠。蹴鞠ってあんまり遊んだことないのだけれど、どうやるの?」
そう聞かれて、暁は言葉を詰まらせる。
姫君に蹴鞠なんて教えていいものだろうか。そもそもいくら自分がまだ元服していないとはいえど、これ以上彼女と顔を合わせていて大丈夫なんだろうか。
しかし姫君は暁の困惑を無視する。
「最近、外に遊びに行っても誰も遊んでくれないの。仕方ないから中庭に出ているのだけれど……誰も遊んでくれないなら仕方ないわ。外にでも出て遊びましょう」
「ま、待ってください……外に出たんですか? 屋敷の中から、中庭にですよね……?」
「いいえ、外よ。今日も海が穏やかね」
信じられない。とめまいを覚えた。
貴族の姫は、海を見にひとりで外には出ない。世間知らずにも程があるし、怖い物知らずが過ぎる姫本人が一番怖い、と心の底から暁は思った。
そう考えれば、彼女が外に出ないよう、中庭で蹴鞠を教えたほうがまだましだ。暁は「見ててくださいね」と言って、鞠を足で操りはじめた。
ポンポンと小気味よく暁の足が鞠を操る。それを見て、姫君は目を輝かせた。
「私も! やりたい!」
「どうぞ。最初は高く蹴り上げるんです」
「こ、こうかしら……きゃっ」
姫君はあっちこっちに鞠を飛ばし、なかなか暁のように操ることはできない。一度も続けて蹴ることができないまま、「暁ー、鞠はどこ行ったんだー」の声で、打ち切られてしまった。
暁は気まずい顔を浮かべて、彼女を見上げた。
「そろそろ、皆が探しに来るから。俺は帰ります」
「ありがとう、楽しかったわ。ええっと……あなたの名前は暁でいいかしら?」
鈴を転がした声で、彼女は自分の名を呼ぶ。それは木いちごよりも甘く、やまぶどうよりも澄んだ響きであった。
暁は頷く。彼女の名前は聞けなかった。彼女は姫君であり、自分は武官。もう二度と会うこともできないだろうから。
そのまま会釈を済ませると、鞠を持って皆の元へ帰っていった。
寝るまで、彼女の笑顔が頭を離れなかった。
名前を呼ばれるのが、ここまで気恥ずかしく嬉しいものだとは、そのとき初めて思い知った。
暁の初恋は間違いなくあのときだったが、それが同時に彼の苦悩と不幸のはじまりでもあった。
****
暁はそろそろ元服し、いよいよ武官として国司の元で働きはじめる頃だったが、元服する直前に、国司から呼び出しを受けた。
そろそろ国司の出向期間が終わり、新しい国司が赴任するはずであった。
そうなったら、いつかに会った彼女は都へ帰ってしまうんだろうか。名前すら聞けずにいた彼女のことを思い、暁の胸が軋んだ。
国司に呼び出され、かの屋敷の広間に入ったときだった。ちょうど姫君がとたとたと歩いてきたのに目を奪われ、暁は硬直した。どうしてこんなところに姫君がいるのだろうか。
「あら、暁! 久し振りね! ……大きくなったのかしら?」
「あの……どうして……」
「どうしてって、お父様に呼ばれたからよ?」
彼女はなんの疑問も覚えていないのに、暁はただ混乱した。
ありえない。身分の低い暁の元に、国司が娘を連れてやってくるなんて。わからないわからないと混乱している中、国司の侍……つまりは暁の先輩が立ち上がった。
「俺もとうとうこの役割をお前に押しつけられるのかぁ……残念と言ってしまえば残念だけどなあ」
彼女がにこにこ笑って国司の前に座り、暁と先輩に背中を向けている。
国司が手元に扇子を取り出して口元を隠したのと、先輩が佩いた刀を抜いたのは、ほぼ同時だった。
先輩が刀を向けているのは、間違いなく姫君に対してある。
暁の目の前で、彼女が袈裟懸けに斬られてしまったのである。それに暁は目を見開いた。
「な、なんで…………!!」
「ああ、代替わりのときじゃないと伝えないし、このことは武官と国司様以外は知らないことだもんな。これは、うちの国の備品だ」
「びひん……」
物扱いされた彼女は、血を流して倒れている。そこへ武官たちが現れ、きびきびと掃除をはじめて、床を拭きはじめた。血塗れの彼女の死骸を残して、床を濡らした血だけはすっきりと拭き取られた。血のにおいだけを残して、なにもなくなる……そう思っていたのに。
彼女の死骸だけは、これ見よがしに残されたのだ。それこそ、備品として、捨て置かれたのだ。
国司はきびきびと暁に伝える。
「これは小国が管理している天女。これが天に戻らぬよう、適度に放置し、適度に管理し、国司の代替わりのときに彼女を斬るのが、貴様の任務だ」
「……彼女を、斬る……?」
「天女は斬ったところで死なぬよ。現にこれは死んではおらぬ。ほれ」
袈裟懸けに斬った彼女の袿を無理矢理暴かれる。最初は目を逸らそうとしたものの、彼女の裂けた袿の下からは、傷口が見つからなかったのだ。掃除をしなければならなかったほどに、あれだけ血のにおいを残しているにも関わらず、だ。
小国に伝わる羽衣伝説は、暁も知っていたが、それはあくまで平和が過ぎる小国を表すための伝承だとばかり思っていた。だが。
目の前の彼女は、斬られても死なずに、眠っている。
混乱して目を剥いたままの暁に、国司は淡々と伝える。
「あれが天に帰ろうとしたら、羽衣に興味を持とうとしたら、この国から逃げようとしたら、斬るのがお前の任務だ。あれが逃げたら最後、この小国は簡単に滅びる。あれから目を離すな。あれは斬っても死なぬが、斬るたびに斬る前の記憶を失う。なに、なにかあるたびに斬ればいいのだから、そういう備品だと思うといい」
その言葉に、暁は黙り込んだまま、彼女を見ていた。
彼女に笑顔で鞠を手渡され、一緒に蹴鞠をした彼女は、もう暁の記憶の中にしかいない。暁の初恋は、名前も付けられずに終わってしまったのだった。
****
彼女は怪我をして、五年も経った。
その頃には幼かった暁も元服し、精悍な侍となって彼女の護衛として眠り続ける彼女を見守っていた。
毎日彼女の顔を覗くが、あの長い睫毛が揺れることも、黒真珠の瞳が姿を見せることもなく、彼女はこんこんと眠り続けている。
本当に彼女は起きるのだろうか。彼女の口元に手をかざすと、彼女はたしかに生きているのがわかり、暁はますます打ちひしがれた。
そんなある日。
「ん……ここはどこ?」
彼女は突拍子もなく起き上がり、きょとんとした顔で暁を眺めたことに、彼はぎょっとした。
暁のことは覚えておらず、新しく赴任してきた国司のことも当然知らなかったが、彼女について必要最低限のことを教えたあとは、すぐに暁の記憶通りの彼女になってしまった。
「暁」
彼女はすぐに屋敷から抜け出してしまう。
それは、彼女が無意識の内に羽衣を探し、天に帰りたい故の反動だろうと暁は思う。
「暁」
これは天女のせいなのだろうか。
何故か彼女としゃべる人、しゃべる人が彼女のことを好きになる。口さがない女房や侍女たちも、口で言うほど彼女のことを嫌ってはいないことを、暁は知っている。
漁師も、百姓も、武官も、侍女も。
どうして先の国司や武官が、彼女を備品扱いしたのかというと、彼女の妙に人に好かれる性分を危険視したからだろう。
「暁」
彼女が喜ぶからと、気付けば暁は料理を覚え、彼女が仲良くなった漁師の手伝いをしたり、百姓の喧嘩の仲裁をするようになった。自分は彼女ほど、他人に対して興味がないというのに。
自分のことを嫌ってもかまわない。彼女が他の誰かを好きになってもかまわない。
ただ、もう。
自分の名前を呼ぶ無邪気な声が、再び失われることがないように。
……そう、思っていたのに。
「……どうしてあなたは、そんなに無茶ばかりするんだ……!!」
「へーきよ、暁。私、いつもすぐに傷が治るじゃない……痛い……」
「さすがにあなたでもこの傷がすぐに治るわけがないでしょう!? それに、あなたは……」
彼女を斬りたくなんてなかった。備品扱いなんてしたくはなかった。
また彼女に忘れられるのなんて、こりごりだった。
彼女は……今の呼称は夕花姫……暁に目を細めて言った。
「……小さい頃から、なんでもかんでも言ってくれないんだから。ずっと私のこと、守ってくれていたのにね」
そのひと言に、暁は胸を詰まらせた。
夕花姫は未だに記憶を失わず、それどころか彼女は記憶を取り戻してしまっていた。
暁と浜風の間に挟まった夕花姫の斬られた部分は、焼けるように痛かった。
痛い、いたい、イタイ……。
苦痛で喉を鳴らしながら思い出すのは、いったいどれくらい昔か忘れた頃の記憶であった。
彼女には名前がなかった。そもそも名前を付けるという風習がなかった。
天には天の理が存在し、天の理により地上を見守るという任務だけがあった。ここには地上に存在するありとあらゆる楽しみがなかった代わりに、老いることもひもじい思いをすることもなかった。
彼女は見守ることを任された国を、毎日真日眺めているのが好きだった。
天には星が浮かんでいたが、花はなかったし、海もなかった。見下ろす先の海の美しさに花の美しさに心を奪われ、気付けば降り立っていたのだ。
天から地上に降り立つことは、基本的に禁じられてはいたが、取り立てて厳しい罰則もなかった。ただ、あまり地上の人間に関わるなとだけは言われていたが、この邪気のない彼女は、彼らは自分たちとなにが違うのかが理解していなかった。
地上には老いが存在し、飢えが存在し、天女たちほど平和に暮らせる訳ではないということを、彼女はちっともわかってはいなかったのだ。
ざん、ざざん、ざん。
寄せては返す潮の匂いは天にはないもので、浜辺に残る泡を、彼女は面白がって見ていた。やがて、広い広い砂浜に貝が落ちているのが見えた。最初はその貝の殻が美しく、髪飾りにしようと思って拾っただけだったのだが、その中になにかが詰まっていることに気付いた。それを口で吸ってみて、彼女は目を大きく見開いた。
天には美食なんてものはない。飢えなんてものがないのだから、食べるという習慣すらなかったのである。そんな中彼女は初めて食べた貝を「おいしい!」と叫んで夢中で食べたのだった。
胡乱げな顔で眺めているのは、この海に住まう住民たちであった。
彼女はきょとんとしたものの、彼女は基本的に邪気はない。ただいつもの調子で彼らに声をかけたのだ。
「これ、おいしいわね! でもたくさん食べたら、あなたたちの分がなくなってしまうわね?」
「あんた……空から?」
「あら? 天から来たのがいけなかったのかしら……」
彼女は自身の羽衣を使って空を飛んでみせると、皆は驚いた顔で目を見開いた。
もしかして、地上に住まう人たちは空を飛ばないんだろうか。ようやくそのことに彼女は気が付いた。
地上に降りてきてわかったのは、地上の人々は空を飛ばないということ。食べ物を取り合って争っていること。海が荒れ過ぎると船が出せなくて魚は獲れないし、嵐が迫ると畑が駄目になってしまって野菜が枯れてしまうということ。
漁師の子供たちに案内された彼女は納得すると、貝のお礼にまずは荒れた海を鎮めてみることにした。
次に嵐が来ないようにしてみた。ときどきやって来るという海賊とやらには、この国に来たくなくなるようにしてみた。
彼女は子供たちと一緒に浜辺を歩き回ったり、木いちごを摘んでみたり、魚釣りをしたりしている中、大人たちが慌てふためいた顔をするのを、訳がわからない顔で眺めていた。
気付けば名前のなかった彼女は「天女様」と呼ばれ、祀られはじめていた。
彼女からしてみれば「なんで?」であった。この無邪気な天女は、ただ貝を食べさせてもらったお礼をしただけなので、ますますいろんな果物や米、酒や野菜を摘まれて「どうぞどうぞ」と食べさせてもらうようになるとは思ってもいなかったのだ。
彼女は漁師の家にも、百姓の家にも招待され、どこからも盛大に持てなされた。
この国は本当にいいところだ。彼女がそう思いながら、その日も漁師の子供たちと一緒に魚の内臓を取って干物をつくっているときだった。
「すまない、ここに天女様が降臨なされたと聞いた」
仰々しい声の人間が声をかけてきたのだ。
質素な直垂を着た人々とは違い、狩衣を着た人物に、彼女は「だあれ?」ときょとんとしたところ、子供たちは慌てた。
「あれは国司様だよ!」
「こくし? だあれ?」
「この国を治めている人! 今まで税をいっぱい取り立ててそのたびにいっぱい死んでいたけれど、今年は誰も死んではいないから、不思議がって見に来たんだよ!」
「人が死なないのは、いいことじゃないの?」
「いいことだけれど、あいつらは隠しているものは全部持って行っちゃうから!」
子供たちが小声で教えてくれたことに、彼女は考え込んだ。
どこの家も親切に食事を振る舞ってくれたが、国司はそんな人々から食事を取らないといけないくらいに余裕がないんだろうか。だとしたら、なんとかしたほうがいいんじゃないだろうか。
このどこまでもどこまでも無邪気な彼女は「わかったわ」と言った。
「ちょっとお話ししてくるわね。他の人からご飯を取っちゃ駄目よって」
「天女様、やめたほうがいいよ。逃げたほうがいいよ……」
「大丈夫よ、私、いざとなったら空を飛べるもの」
今思っても、どこまでも邪気のない彼女は、無邪気さに当てられることのない人間への対処の仕方を知らなかった。
だからこそ、彼女は羽衣を奪われてしまい、ついでに斬られて記憶すらも奪われてしまったのである。
****
夕花姫も、今だったらわかる。
自分が見た夢は、羽衣伝説を調べたから見た夢ではない。実際に会ったことだと。自分が迂闊だったから羽衣を奪われ、自分が天女だったという記憶すらなくしてしまったのだと。
暁が心配するはずだ。幼い頃の彼はよくわらっていたはずなのに、いつの間にやら笑わなくなってしまったのは、なにも考えてない自分の身を案じてだろう。
どうしてこうも自分は迂闊なのかと、夕花姫は猛省した。
「……小さい頃から、なんでもかんでも言ってくれないんだから。ずっと私のこと、守ってくれていたのにね」
「……! 姫様、記憶が……」
「斬られたからかしらねえ……それとも、羽衣を手にしたから……? ちょっと思い出しちゃったのよ……ねえ、浜風」
浜風は夕花姫を驚いた顔で眺めていた。夕花姫は彼のとまどった顔に、自分から羽衣を奪った国司のことを思った。
本来、大切にしているものを奪われ、記憶すら好き勝手に捏造されてしまったら怒らない訳がないのに。彼女はちっとも怒る気にはなれなかった。
だってあの頃の小国は、嵐としけでにっちもさっちもいかなかった上に、四方を海に囲まれた国なのだ。逃げ場なんてなかったのだから、それこそ羽衣の奇跡にすがるほかなかったのだろうと。
「……暁は大切な子なの。羽衣は父様に頼んでなんとかしてあげるから、手を引いてくれない?」
「姫君……君はまさか……」
「天女だって言って、信じてくれる?」
暁はおろか、浜風すらも毒気を抜かれてしまった。
この邪気の全くない天女を備品扱いできるような国司も武官も、実のところ少数派なのだ。彼女の前では、邪気はすぐに祓われ、罪悪感すら募らせていく。
「私は……あなたを騙していたんだよ?」
「そうね。私、あなたに利用されているって薄々気付いていたもの。でもあなたの願いを叶えてあげたかったの。駄目かしら?」
「……そもそも、記憶喪失ですらないんだよ?」
「あら、だとしたら洞窟で倒れていたのは……」
「船を着けようとして、櫂を波に取られてしまって流されてしまったんです……波にそのまま流され続けていたところで、たまたま洞窟で止まって落ちただけです」
「運がよかったのね」
浜風すら、本来の彼女には手玉を取られてしまう。いくら都にいた人間でも、そもそも人間ですらない彼女を手玉に取ることは、不可能に近かった。
暁はどうにか刀を降ろし、背中に佩いてから夕花姫を諫める。
「……いけません。羽衣をきゃつに渡すなんてそんなことは。あなたも既に思い出しているでしょう、この国がどうして羽衣が必要なのかを」
「私が父様に言ったら大丈夫だと思うけどねえ」
「どうしてこうもあなたは前向きなんですか。いけないと言ったらいけないです」
「もう。暁、あなた小さい頃からどうしてこうも小言ばっかり……」
「記憶を取り戻したからといって、いつまでも子供扱いばかりするのはやめてください!?」
「くくくく……」
ふたりのやり取りを聞いて、とうとう浜風は背中を丸めて笑い出してしまった。
それに夕花姫はきょとんとし、暁は憮然とした顔をする。
「……君たちは、本当に面白いね。私が記憶喪失じゃなかったことまで、こうもあっさりと見逃してくれるとは思っていなかったけど」
「俺は別に見逃していない」
「暁、やめなさい」
すっかりと立場が逆転してしまった夕花姫と暁のふたりに、ますます浜風は面白そうに口元を歪めた。彼は刀を鞘に収めて蔵に片付けると、淡々と口を開いた。
「ここの国司が言っていたよ。この国には奇跡が存在していると」
「国司? 父様?」
「今の国司じゃないさ。おそらくは前のだろうね……そのときのことは、多分姫君も覚えていないだろうけど」
国司が交替するたびに、その娘という触れ込みで記憶を消され続けていたのだから、当然ながら夕花姫は覚えてはいない。
暁が渋い顔をしているところからしてみても、あまりいい人物ではなかったのだろうということだけは察することができた。
浜風は言う。
「私も元々、都ではそれなりの地位にいたけどね……出世争いに負けて、都落ちが決まっていた。そのときに、宴で聞いたこの国の話を思い出してね。どっちみちもう都に戻れるめどはつかないし、都から離れるなら礼儀正しく余生を送るよりも、好き勝手してから死のうと思ってこの国に舟を漕ぎ出したら、君たちに出会えたという訳さ」
それに夕花姫は押し黙った。
要は奇跡の力というものが羽衣のことだと当たりを付けて、この国に来たのだろう。それこそ夕花姫をさんざん懐柔するようなことばかり言って。
それでも彼女は、怒る気にはなれなかった。
それこそ歌を送ろうとした相手なのだから。
「父様と話を付けてきます。だから浜風も待っていて。父様は他の国司とはちょっと違うから」
彼女はそう言って、国司の部屋へと向かっていったのだった。
僧侶の声が朗々と響く。
あいにくあまり信心深くない彼は、念仏を唱えられている張本人にもかかわらず、あまりなにを言っているのかがわからない。
旅の無事を祈られているということだけは、言葉の触りでわかる。
彼は厳粛な顔をつくりながらも、僧侶が背を向けているのをいいことに、周りをちらりちらりと盗み見る。
どれもこれもつくりものめいた厳粛な表情を浮かべながらも、にやにやとしているのだけがわかった。
政敵がひとり、都から離れるのだ。喜ばない訳がない。
壮行会とは名ばかりの吊し上げに、彼は心底うんざりしていた。
僧侶の読経が終わったあと、宴が繰り広げられる。
これだけの馳走が食べられるのは、次はいつになるというのか。海の近くはまだ魚が美味いらしいが、海は舟が沈むのだ。
都は都で、政敵の侍らす武官に命を狙われる可能性もあるが、余所は余所で盗賊や地頭がいるのだから、どちらがいいのかはわからない。
彼の唯一のよかったところは、ちょうど恋人がいなかったということくらいか。もしここで恋人に「余所に行くから着いてきてくれないか」と言ったら、十中八九断られて縁も切られるところであった。やんごとなき姫君は、よほど惚れた男でない限りは、一緒に余所の土地には住みたくない。情けない思いをして都を離れるよりは、まだましだったと言えよう。
「やあやあ、まだ浮かない顔をしているのかい? いい加減腹をくくりたまえよ」
そう声をかけてきたのは、余所でたっぷりと国司として収益を上げている者であった。都を離れず余所の利益を吸えるのだから、このところ彼はずいぶんと羽振りがよかった。
「君みたいにわざわざ現地に行かずに生活できたらよかったのだけどね、そうもいかないみたいだから」
「まあ、上からの命なのだから仕方ないね」
「そうだね。だからこの話は終わりさ」
にこやかな口調で答えつつ、腹の中では虫唾が走っていた。なんだ、冷やかしで来たのなら、さっさと飲んで食べて帰ってくれないか。
そう思っていたところで、羽振りのいい彼は言った。
「まあ、君はちょうど私の持っている国の近所に行くみたいだから。もし舟があるんだったら行ってみるといいんじゃないかい?」
「そういえば今君が面倒を見ている国は」
「四方を海で囲まれた国でね。住みたいとは思わないけれど、あそこに住む姫は美しいと評判さ。もっとも、あの国住みの貴族の目が厳しくて、口説けた者はいないらしいけどね」
「ふうん……」
そんな四方を海に囲まれていたら、婿も取れないだろうに。彼は変な顔をしながら酒を飲んでいたら、酒で口の滑りがいいのか、さらに羽振りのいい彼は話を続ける。
「なんでも天女の生まれ変わりって話さ。あの国は天女の加護により守られていると。私も天女によってこうして羽振りがいいのだから、天女様々だし、その美しい姫に会ってお礼のひとつでも言いたいけれど、なかなか都から離れることもできなくってねえ!」
最後は嫌みや自慢かという話だったが、少しだけ彼は興味を持った。
天女に守られた国。物語のひとつにでも取り上げられそうな話だし、彼が羽振りがいいのが天女のおかげだというのなら、そのご利益のひとつでも分けてもらえやしないか。
どのみち、彼は都に戻れるのかがわからない以上、余所の土地でひと山当てる他あるまい。ただ閑職で暇を持て余して朽ち果てるよりも、ひとつの奇跡にすがって海の藻屑と成り果てるほうが、まだましなような気がする。
こうして、彼は都から離れる際に、舟を借りてその国に立ち寄ることにした……それが、彼の運命を変えることとなったのである。
四六時中侍に守られた美しい姫。たしかに天女の生まれ変わりだと言われれば、そう信じてもしょうがないだろう。島国がいけないのか、それとも海に阻まれて都の情報が遅れて入ってくるせいか、彼女はどこか都の姫君とはずれていた。
それが彼女の面白いところだったし、なによりも。
ただの伝説や言い伝えだと思っていた羽衣伝説に信憑性が増し、その羽衣さえ手に入れば都に返り咲けるんじゃないかとさえ思えたところが、彼にとっては僥倖だった。
しかし、全てはばれてしまった。
なにもかも終わったし、このまま国から追い出されてもしょうがないと思っていたのだが。
この天女のような……否、小国に備品として管理されていた天女は、彼の振る舞いにも愚かさにも怒ることがなかったのである。
「父様と話を付けてきます。だから浜風も待っていて。父様は他の国司とはちょっと違うから」
このお人好しな天女は、大丈夫なのか。
四六時中彼女から目を離すことなく付き従い、明らかに熱を帯びた瞳で彼女を見ていたにもかかわらず気付いてもらえなかった暁は、刀を交えたとは言えど、少なからず同情心が沸いた。
彼女はどこまでいっても、なにをやっても、変わらなかったのである。
****
記憶を取り戻し、頭がすっきりとして、見るもの全てが前以上に鮮明に見えるようになっても、夕花姫はなにひとつ変わらなかった。
嫌いなところをひとつふたつ見つけても、好きなものは好きなのだ。いつかは嫌いに天秤が傾くことがあったとしても、好きだったという思いだけは消えない。だから彼女が人間が好きなのも、この国が好きなのも、なにも変わらなかった。
彼女はするすると国司の部屋まで向かうと、既に眠りについているはずの国司の部屋の前で座って口を開いた。
「父様、お話しがございます」
まるでわかっていたかのように、すぐに返事が返ってきた。
「まさか月に姫を送り出す翁の気持ちがわかる日が来ようとはね」
その言葉に、夕花姫は思わず顔を赤くする。
いったいどこまでこの人はわかっているのだろうと思いながら、「失礼します」と簾の向こうの国司の元まで入っていった。
国司は着崩していた服を正しながら夕花姫と向き合う。
「……それで」
「私、記憶を取り戻しました。羽衣を奪われた記憶も、天から降りてきた記憶も、この数十年ずっとこの国にご厄介になっていたことも、なにもかも」
「本当になにもかもだねえ……それで、どうしたいんだい?」
「父様、私。羽衣を浜風にあげたいのですけど」
国司は当然ながら渋い顔をした。
「わかっているのかい、あれの奇跡の力を」
「そりゃもちろん。私がこの国の天候を鎮めてきましたから」
「だとしたら、なおのことあれを渡す訳にはいかないよ。あれがなかったら、この国は滅んでもおかしくないのだから。嵐やしけだけじゃない。海賊が乗り込んできても、たちどころにこの国は滅びるよ。この数十年、百姓と漁師が互いを憎しみ合わないのも、武官が武芸に励んでも実戦経験がなくて済んでいるのも、全部羽衣のおかげで必要がないからなのだから。夕花だって、百姓や漁師に友が多いだろう? 彼らが皆不幸になるのは、見たくないはずだよ」
この国を治める者な上に、元々他の土地でも働いてきたのが今の国司だ。この国が奇跡の上で成立していることくらい、百も承知だろう。
そしてそのことは夕花姫も理解ができたからこそ、余計に逆らうことができなかった。
「ですけど……」
「それで話は変わるけれど。夕花は羽衣なしで奇跡の力を使うことはできるのかい?」
「えっ?」
「できるのかい?」
話が飛んだような気がするものの、夕花姫は国司の問いに頭を悩ませる。
「ええっと……羽衣がないと空を飛ぶことはできないけれど、怪我がすぐ治るし、全部は使えなくってもちょっとは奇跡の力を使うことができます」
「さすがに天女のお前にそんなことを言うのは酷だけれど、この国を守る者としてはどうしても羽衣をお前に返却することはできないんだよ。でもね、夕花が行きたいところに行かせることはできるよ」
「えっ?」
夕花姫は目をパチクリとさせた。国司は苦笑を浮かべて彼女を見守る。
出会ったときから美しいままの姫は、記憶を取り戻したらそれこそ『竹取物語』の姫君のように、なにもかもに無関心なまま天に還るのではないかと思っていたが、そんなことはないらしい。
どこまでいっても、彼女は彼女のままだ。
国司は腕を組んで、目を細めてから、ようやく口を開いた。
「盗人である以上、本来ならば浜風は刑にかけなければならない」
「父様……あれは私も手引きした以上、浜風ひとりを責めるのはちょっと……」
「国外退去さえしてくれれば、全てのことに目を瞑ろう。お前を騙したり自分のことを欺いたりはね。だからこそ、暁をお前から離さなかったのだから」
国司も暁も、最初からずっと浜風の自称記憶喪失を疑っていたということだ。
なにかしらと敵意剥き出しだった暁はともかく、国司は最初から最後まで飄々とした態度を崩しはしなかったのだから。
そして次の瞬間、国司は告げた。
「もし浜風がお前を連れて行っても構わないと言うのならば、一緒についていってもいいよ」
「えっ……」
それに夕花姫は言葉を失った。
一度は海を越えてみたい。海の向こうにはなにがあるのか見に行ってみたい。そんな願いが、本当に唐突に叶うとは思ってもみなかった。
天女であった頃から、彼女はこの国以外を全く知らないのだから。
「父様……本当に?」
「まだ私を父様と呼んでくれるんだねえ……お前は昔から誰からも好かれる癖に、誰も選ばないからどうしようかと思っていたけれど、まさか懸想する相手ができるとは思っていなかったからねえ。羽衣をこの国に残してくれないと、この国を治める際に本当に困るから置いておいて欲しい。でも夕花はもっと自由にしていて欲しいから、歯がゆかったんだよ……だって、夕花は羽衣のおまけではないだろう?」
そう言われて、夕花姫は胸を詰まらせる。
思えば、歴代の国司の中でも彼だけだったのだ。備品ではなく実の娘として扱い、彼女に侍を付ける以外は本当に自由に外に出入りさせてくれたのは。
そして、彼女の夢は叶いつつある。
「……浜風が連れて行ってくれなかったらどうしよう」
「そんなことはないと思うけどねえ、お前は別嬪だから」
「あ、暁はどうしよう……本当だったら、連れて行きたいけれど」
「危ないからね。いくらお前が天女の力があるとはいっても、羽衣なしでなんでもできる訳ではないのだろう? だったら連れて行きなさい」
「父様……!」
国司は緩やかに笑った。
年老いたこの父は、たとえ人間と天女の間柄としても、いつまで経っても夕花姫の父のつもりであった。
「幸せにおなり」
こうして客人による国司の蔵への侵入、宝物強奪事件は密やかに屋敷内を駆け巡った。
追放処分というのは一見軽いように見えるが、何分海を越えなければ他の国には辿り着かないのだから、あまり軽いとも言えない。
しかし今回の処分には国司の娘である夕花姫も同行ということで、屋敷内の人々も首を捻っていた。
いくら屋敷から逃げ出そうとも、拾い物をしては周りを困らせようとも、娘をわざわざ追放なんてしないだろうと。
これは追放処分という名の嫁取りだったのではないか。お見合いの末に娘が嫁入りするのだから宝物強奪事件という呼び名なのではないか。
たったひと晩のことにもかかわらず、見事に噂には余分なものがついてしまい、真相がわからなくなってしまっていた。
「どっちにしても、麗しい男子《おのこ》がいなくなってしまいますね……」
「次にあれだけ花のある方がいらっしゃるのは、いつになるのか……」
女房たちからしてみれば、都風の公達がいなくなることそのもののほうが重要であった。いくら一連の出来事が嫁取りの一環だったとしても、それに関与してない者たちからしてみれば、鑑賞物がいなくなることのほうが問題なのである。小国の娯楽はせいぜい、物語の写しのみ。噂話できるほどにも噂が転がっていないのだから、それまでは暇を持て余している。
あちこちで女房たちの囁き合う声を耳にしながら、暁は至極憮然とした顔で、夕花姫の荷造りをしていた。浜辺での拾い物の貝殻やら、国司の贈り物の物語やら、あれこれと詰め込まれているが、船にそこまで載る訳もなく、厳選に厳選を重ねて、わずかばかりの荷となっていた。
夕花姫も一応自分の荷物だからと手伝おうとするが、要領を得ずに結局は暁任せとなってしまっている。
「暁、父様がああ言っていたものの、まさか本当に着いてきてくれるなんて思わなかったわ……浜風のこと、許してくる?」
本当なら国中の人々にお別れを言ってから舟に乗り込みたいものの、会えば別れがつらくなる。結局は夕花姫は持っている宝物の一部を、百姓や漁師に配るということで決着が付いた。貝殻はさちにあげるし、着ない袿や物語は女房たちに配り歩いてしまった。
すっかり少なくなった手持ちのものを分別しながら、暁は淡々と夕花姫の問いに答える。
「許すもなにもありません。俺はあれのことをあまり好きではありませんが、あなたが許してしまった以上、俺がどうこうなんて言えないでしょう」
「まあ……あなた優しいところがあったのね」
「……この答えのどこが優しいのか、俺にはちっともわかりませんが」
夕花姫も暁はよっぽどのことがない限りは、彼女の意向を最優先することに、いい加減気付けばいいものの。それは命がけの戦いのあとでも、あまり伝わってはいないようだった。
夕花姫が博愛主義なのは、天女だからなのか、それとも彼女の性分なのかは暁も知らない。他に天女を知らないのだから、検証しようもないのである。
暁は荷造りを終えると、その荷を担いで牛車に舟まで乗る。既に浜風が待っていたので、彼と夕花姫を乗せてから、最後に暁が乗ると、牛車は緩やかに歩きはじめた。
浜風はまじまじと夕花姫を見る。それに彼女はきょとんと黒い目で見つめ返す。
「なにかしら」
「いやね、不思議に思って。私は結構なことを君にしたつもりだけれど? 恨まれる覚えこそあれど、まさかこんなにあっさりと許されるとは思ってもいなかったんだけどねえ」
「あら、海を越えるんだから、そこまであっさりとはいかないんじゃないかしら? まあ、私がいるから海もそこまで荒れないとは思うけれど」
「頼もしいねえ、さすが姫君……と、今もその呼び名でいいかな?」
未だに国司の娘の呼び名ではあるが、彼女の字《あざな》の夕花と呼べばいいのか、姫君のままでいいのか。夕花姫はくすくすと笑う。
笑い方も朗らかさも、その周りを明るくする華やかさも、記憶を取り戻す前となにひとつ変わらないが。不思議なことに彼女がいるだけで空気が清浄になるような気がする。それこそ腹の黒いと自覚のある浜風も、彼女に恋慕を募らせている暁も、なにもかもを見透かされそうな気まずさを覚えているのだが、肝心の夕花姫はそれにちっとも気付いていない……天女としての自分を取り戻したせいか、彼女の鈍感さには磨きがかかってしまっていた。
「いいわよ、私のことはどう呼んでも。むしろあなたの国に招かれるのが楽しみね。あなたの国はどういうところなの?」
「それならば、姫君で。そうですね……都のような煌びやかな場所ではありません。百姓も多く、田畑もなかなかままならないですが……でも米が美味いのは間違いないです」
「姫飯《ひめいい》がおいしいのはいいわね! 私、できれば真っ白なご飯が食べたいわ! 粟もひえも入っていないまっさらなご飯よ。食べられるかしら?」
「それは行ってみないとわかりませんね」
「ええ、ええ……! 期待しているわ!」
相変わらずな様子で上機嫌な夕花姫を間に挟み、浜風と暁は顔を見合わせた。
どうしても相反する相手ではあるが、長い付き合いになりそうだし、当面はこの天女に振り回されるのだろう。それも悪くないと互いに思っているのだから、重傷だ。
****
ざざん、ざん、ざん。
寄せては返す波の音。鼻を通っていく潮の香り。これがないところを目指しているというのは、不思議なものだった。
牛車の御者に何度もお礼を言い、宝物から貝殻をあげると、御者は大泣きしてしまった。それを何度も何度も宥めてから、ようやく船に乗り込む。
漕ぎ手が一斉に櫂を漕ぎはじめると、だんだんと小国が遠ざかってきた。
漁師たちは沖に出て、今日も漁に出ているのだろう。子供たちは干物をつくったり、子守をしたりしているだろうし、百姓たちは今日も農作業に没頭している。国司は今日も国のために仕事をしているのだろう。
今まで間近で見守ってきていたものが、徐々に小さくなっていくのに、夕花姫の鼻の奥がつんとなる。それと同時に、次はいったいどんなところに行くのだろうと興味も沸いてくる。
「寂しいですか?」
ふいに隣には暁が寄ってきていた。それに夕花姫は頷いた。
「そりゃあね、初めて離れるのよ。そういうあなたは?」
「俺も、あの国しか知りませんでしたから。地続きになっていたら、よその国に出仕する未来もあったのかもしれませんが、あいにく四方を海に囲まれていましたから、他に選択肢がなかったんです」
「まあ、それ父様が聞いたら悲しむかもしれないわよ?」
「……でも、俺はあの国に出仕したからこそ、あなたに出会えたんです」
そう言われて、夕花姫はドキリとする。彼は涼しげな顔で、彼女を見つめていた。しかし気のせいか、彼の耳朶はひどく赤い。
夕花姫からしてみれば、彼にとって大切にしていた思い出をすっかりと忘れてしまっていたというのに、それでもなおその思い出を後生大事に持っていた彼に、少なからず申し訳なさを感じていた。
そういえば……と思い出したことを言ってみる。
「でも暁、ひとつだけ聞いていい? あなた、いざとなったら私が記憶を取り戻さないように殺さないといけなかったんでしょう? 私が記憶を取り戻すとなったら、羽衣を手に入れたときなんだから。なのにどうして、浜風とやり合ったとき、自分が持っていればいいのに、わざわざ私に羽衣を渡したの? 思い出しちゃうじゃない」
いくら国司が夕花姫に対して甘いとはいえど、暁はその国司に仕えていた身だ。それがわざわざ彼女が思い出すように仕向けたのはなんでだろうと、ついつい首を傾げてしまう。
暁は耳朶を赤く染め上げたまま、波に視線を落とす。
「……俺は、あなたが斬られて記憶を失う場を見ています。本来なら、浜風と一緒にあなたを叩っ斬り、そのままなにもかもをうやむやにするのが一番だということはわかっていましたが……俺にはできませんでした。あなたに一度忘れられているんですよ、俺は。また忘れられることに、耐えられそうもありませんでした」
それは普段からなにも語らない、小言ばかり言う彼からは思いもしないような告白であった。夕花姫はまたも目をパチパチと瞬かせて彼を見た。
「あなたって、結構私のことが好きだったのねえ……?」
「ああ、もう! あなたはどうなんですか!? 俺にこういうことばかり言わせて! 言うつもりなんて全く、微塵もなかったんですから……!!」
とうとう顔まで真っ赤に染め上げて激高する暁に、何故か夕花姫は笑いが込み上げた。
夕花姫は懐から短冊を取り出すと、それを暁に見せた。
「これは……」
「これ、浜風の返歌よ? すっかりと渡しそびれちゃったし、もう状況に合わないからどうしようかって思っているところ」
「……どうして、俺にそれを見せる気になったんですか……」
「あら、だって私。もう国司の娘じゃないし、貴族ですらないのよ?」
その余りにも遠回しな言葉に、暁は思わず半眼にして彼女をねめつける。
普段から猪突猛進過ぎる彼女が、こんな貴族的な遠回りなことを言ってくるなんて思わなかった。
【村雨が 止みしその日に 別れのち 再び遭いに 来られるように】
あなたがいつか記憶を取り戻したときがお別れの日ですね。そのときまたお会いできたらいいですね。
なんの捻りもない、浜風に対するお断りの歌だった。
小国の姫君だと思っていた夕花姫は実は天女であり、越えなければいけないのは身分ではなく立場になってしまった。もう現状に全くそぐわない歌なのだ。
つまり、この関係はなんの決着もついてはいない。
「……あなたって人は」
「あら、先のことなんて全然わからないわ。私、天からずっと国を見ていたけれど、海を越えることなんて初めてなんですもの。ご飯がおいしい場所って素敵ね。まっさらなご飯、楽しみだわ」
そう言って、夕花姫は笑った。
ざん、ざざん、ざん。
波の音が聞こえる。海鳥がついーと飛んでいる。
だんだん海の向こうが見えてきた。
「もうすぐ、私の国だね」
浜風の言葉に、夕花姫は目を輝かせる。暁は半眼で浜風を睨みつつ、彼もまた近付いてくる陸に視線を送る。
天女が降り立つ次の土地になにが待っているのか、またも騒動が起こるのかはわからない。
ただ、愉快な日々が続くことだけは、間違いなさそうだ。
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