浜風と夕花姫を抱えた暁が屋敷に戻った頃には、すっかりと空は菫色(すみれいろ)へと変わっていた。

「食事はあとで女房が持ってくる。そのまま部屋に待機しているように」
「手荒だねえ……まるで、焦っているみたいに見えるよ?」
「……うるさい」

 またも浜風に挑発されそうになったが、暁はそれには乗らず、さっさと客室を後にする。
 夕花姫を抱えたまま彼女の自室へと入ったところでようやく彼女は目を開き、暁と目を合わせた。
 一瞬寝ぼけたようにぼんやりとしていたが、部屋の中を見て、ようやくパチンと大きく目を見開いた。

「……暁! あの、浜風は!?」
「あれは客室へと置いてきました。手当てをしますから、降ろしますよ」
「え、ええ……ありがとう」

 夕花姫は存外大人しく降ろされた。暁は慣れた手付きで部屋の油に火を差し、手拭いを取り出す。視界が明るくなったところで、夕花姫の袴を捲り上げた。
 血の臭いがわかるほどに血を流していたはずの夕花姫の脚は、既にどこを怪我したのかわからないくらいに、なにもなかった。ただ日焼けをしていないその脚は、白く光るばかりであった。暁はその白い脚を拭いて、小言を漏らす。

「……俺はいつもいつも、できる限り姫様に自由に過ごしてもらうよう心得ていますが、今回ばかりは怒っています」
「……だって、浜風が崖から落ちるところだったのよ? 高さだって大したことなかったから、私が下敷きになったら丸く収まるじゃない」
「そういうところですよ、俺が怒っているのは。あなたの体質がばれたら、どうなると思っているんですか? あなたのこの体質を知っているのは、俺以外ですとお父上くらいなんですよ?」

 そう言いながら暁は、夕花姫のなにもない脚に手拭いを括り付けた。明日にでも外して治ったということにすれば、浜風も女房たちも誤魔化せるだろう。
 夕花姫は逃走癖があり、拾いものをする悪癖があるが。それ以上にまずいのは、彼女の体質であった。彼女は生まれてこの方、怪我をしてもすぐ治ってしまうという原因不明の体質を持っていた。擦り傷、切り傷はもちろんのこと、木を昇って落ちたときに打ち付けたたんこぶも、猫と遊んでいたときに付けたひっかき傷もすぐに治ってしまうのだから、傍仕えの暁はそれが周りにばれぬよう、相当骨を折っていた。
 彼女自身、あまり羽衣伝説について詳しくないのは、国司からきつく知ることを咎められていたからだ。

「ただでさえこの国の羽衣伝説は、民にも広く知れ渡っている。もし夕花のこの体質が知られてしまったら、なにかしら結びつけて考えて、最悪天女の替わりとして誘拐されてしまうかもしれない。この体質は、私と夕花と、あと暁以外には知られないようにしなさい」

 そう言われていたがために、夕花姫がどんなに脱走しても、暁の護衛の目から外れることができなかったのだ。
 ……つまりは浜風との束の間の逢瀬も、暁には筒抜けだった訳である。
 その事実に気付き、夕花姫はますますもってしゅん。とうな垂れた。

「……いったいなにを誤解しているのか知らないけど、浜風は悪い人じゃないわ。暁が考えているようなことはなにもないわ」
「……はっきりと言いましょう。俺はあの男を信用していません」
「お願いだから……! あなたがどうして浜風を嫌っているのかは知らないけど、なにも知らないあの人を疑うような真似だけはやめて」
「そういうところですよ。俺があの男を信用していないのは。すっかりと骨抜きにされているじゃないですか」

 それに夕花姫は押し黙る。
 浜風を決していい人とは、夕花姫だって思ってはいない。女の敵だというのは、なんとなくわかるのだ。頭ではわかっていても、気持ちの上では逆らえないでいる。小国の人間のほとんどは腹芸をする必要もないため、皆言動が素朴で率直だ。あれだけ柔らかな雰囲気の人に優しくされたら、どれだけ腹になにかを抱えていても、見抜くことなんてできない。
 暁は深く深く溜息をついてから、続ける。

「姫様は騙されやすいんです。ただでさえあの男は口から先に生まれてきたような男なのに、この国しか知らない姫様が渡り合える訳ないでしょ」
「違……っ」
「どこが違うと言うんですか。そもそも姫様はこの国を出たことなんて一度もないでしょうが。この国は平和ですが、どこもそうではありませんよ」

 それにとうとう夕花姫も黙り込んでしまった。
 老婆も宮司も言っていたのだ。この国は天女が来るまでは、同じ国の民同士ですら諍いがあったということも、餓死で死者が出ていたということも。今の豊かな国しか知らない夕花姫は、よそではそんなものなのか、なにも知らないし、わからない。
 なんだかんだ言って侍として国司の付き添いで他国の貴族とも対面を果たしている暁とは、経験や知識が違う。
 ようやく立ち上がった暁は、「食事を摂ってきます」と告げる。

「あ、暁。待って」
「なんですか?」
「……私のことを馬鹿にするのはいいの。私、本当に今のこの国しか知らないから。でも、でもね。浜風のことを馬鹿にするのだけは止めてちょうだい。たしかにあの人はいい人じゃないとは思う……むしろ、女の敵だとは思うの。でも、でもね」

 暁は一瞬だけ目を釣り上げたが、黙って夕花姫と目を合わせて話に耳を傾ける。
 この幼馴染の口は悪くとも自分を優先してくれるところに心底ほっとしながら、夕花姫は話を続ける。
 暁はどこまで自分たちの探索の中の話を聞いていたのかはわからないが。どんなに世間知らずな姫君でも、なにも考えていない訳ではない。

「……羽衣が切実に欲しいっていうのだけは、本当だと思うの。だから、私。これからも羽衣探索だけは」
「駄目です」

 全てを言い切る前に、暁が本当に珍しく打ち切った。それに夕花姫は肩を跳ねさせる。

「暁ぃ、なんで最後まで言わせてくれないの?」
「駄目です。これ以上羽衣探索を続けることは。ただでさえ今日はあなたの体質がばれかけたところでしょうが。これ以上続けることは危険です」
「も、もう崖のあるところになんか行かないから! 本当よ。だって空振りだったんだもの……」
「次に探索する場所が怪我をしない場所だなんて保証はどこにもないでしょうが。洞窟は洞窟で危険が伴います。浜辺は浜辺で危険が伴います」
「過保護過ぎるわ!? あなたそういうこと言う人じゃなかったでしょ!」
「……失礼しました。とにかく、これ以上続けることは俺は許すことができません。お願いですから」

 暁は夕花姫に背を向けた。もうこれ以上は話を聞いてくれないらしいと、夕花姫は唇を噛んだ。

「……お願いですから、大人しくしていてください。俺はあなたが心配です」

 それだけ言い残して、今度こそ食事を摂りに行ってしまった。
 残された夕花姫は、歯ぎしりをして、暁の出ていた方角を睨んだ。

「暁のわからず屋……!!」

 初めてだった。口がどれだけ悪くても、いつもだったら暁は最終的には夕花姫を優先してくれるのだ。でもこれだけ強硬に反対されたことも、会話を打ち切られてしまったことも、本当に初めてで、彼女もどうしたらいいのか、皆目見当が付かなかったのである。

****

 夕花姫の捨て台詞を耳にしながら、廊下を暁は歩く。
 彼女が常日頃から暁の話を聞いているようで聞いていないのは今にはじまったことではないが、あれだけ他の男の話をされたのも初めてで、内心虫唾が走るというのはこのことか、と思わずにはいられなかった。
 浜風は手強い人間だと、薄々勘付いている。
 都から出向してくる人間とは、国司との付き合いでたびたび暁も出会っている。それ故に彼の口の回りようは、並の者ではないのだろうと判断できた。
 だからこそ、これ以上夕花姫に悪影響を与えられてはたまらなかった。
 暁は首を振って、一旦道を変えて国司の元へと向かう。
 国司は既に運ばれてきたお膳を食し、酒を傾けているところだった。

「失礼します」
「ああ、暁か。夕花はどうかな?」
「それが……」

 昼間の一部始終を暁は、国司へと伝える。
 浜風と夕花姫の逢瀬をどう伝えるべきかと一瞬考えあぐねたが、結局はキリキリと痛む胸のままに、全て言葉として吐き出した。
 酒を傾けていた国司は、あからさまに顔をしかめる。

「これはまずくはないかな?」
「まずいと思います」

 浜風の存在自体は、どう取るべきかとは判断がつきかねたが。
 夕花姫に与える影響が大き過ぎるのだった。彼女がここまで反抗を重ねたことなど、未だかつてなかったのだから。
 国司は酒で口を湿らせてから、暁に真っ直ぐに尋ねた。

「ひとつ尋ねるが、君は今でも斬れるのかい?」

 その真っ直ぐな問いかけに、暁は一瞬押し黙った。
 暁は夕花姫の侍であり、護衛であり、武士だ。主に斬れと言われたものは、斬らねばならぬ。

「……命令とあらば」

 心を置き去りにして、任務ができる。それが暁の長所であり、最大の欠点であった。

「そうか」

 国司のその言葉は、肯定なのか否定なのか、暁にも判別が付かなかった。
 報告を終えた暁は、今度こそ夕花姫の食事を取りに戻った。
 彼女の元に戻るときには、いつもの小言の多い幼馴染に戻らないといけないが、暁は浜風ほどにも腹芸ができる性分でもない。だからこそ、いつもむっつりと黙り込んでいるのだから。

「……俺は、あなたに嫌われてもいいんです」

 今の時間は、廊下を使用人たちも歩いていない。皆食事の準備や配膳に回っているからだ。だからこそ、暁は日頃は押し黙っている話もぽつんと漏らすことができた。

「俺は────を斬りたくなんかありませんから」

 一番伝えたい相手には、決して言うことのできない言葉であった。夕花姫は忘れてしまっていても、暁は全て覚えている。だからこそ、余計に彼女を守らないといけないと、強く願うのだ。
 たとえその決意によって彼女に嫌われようと、失ってしまうよりはまだましだった。失ったものは、もう二度と元には戻らないのだから。