21. 意地悪な試練
「あ……」
シアンがいきなり嫌な声を出す。
「な、何だよ!」
「百目鬼から着信だゾ」
シアンは首を傾げ、玲司に言う。
「はぁ? 今さら何だってんだよ!」
「どうする? 切る?」
「むぅ……。話だけしてみるか」
「ダメよ! 何言ってんのだ! 話すならもう一発当ててからなのだ!」
美空は真っ赤になって怒った。
「いや、でも、話し合いで何とかなるかもしれないじゃない?」
「何言ってんのだ! 奴は殺しに来てんのよ?」
「話だけでも聞いてみようよ。判断するのはその後でいい」
「バカッ! 好きにすればいいのだ!」
美空はプイっとそっぽを向いた。
「つなげて」
玲司はシアンを見る。
「はいよ!」
浮かび上がるひげ面の仮面男、百目鬼だ。
「やぁ、玲司君。君、凄いじゃないか」
陽気に話しかけてくる。
「散々殺しにかかってよくそんなこと言えますね? 一体何の用ですか?」
「いやいや、君のことを見直したんでね、対立するのは止めたいと思ってね」
手を広げながらオーバーなゼスチャーをする百目鬼。
「それは嬉しいですが……、どういった条件が?」
「クックック……。世界の半分をやろう。どうだ、悪くない話だろ?」
お面の向こうで目がギラリと光る。
「人を殺すプランには乗れません」
玲司は毅然とした態度で返す。
「ふーん、それじゃ平行線だな」
「それに世界の半分をくれる保証だってないですしね」
「ほぉ、よく分かってるなぁ……。あ、お前そこにいたのね。じゃあ、死んで」
そう言うと百目鬼は消えていった。
え……?
「言わんこっちゃない! 時間稼ぎをされたのだ!」
美空はバン! と玲司の背中を叩いた。
「ど、どうしよう!?」
飛んでいたドローンは大きく旋回をすると、こちらにまっすぐに進路を取ってやってくる。
玲司は慌てて中華鍋を向けるが、いつまで経ってもドローンの制御は奪えなかった。
「ダメだ! 外部からの指示を受けないようになってる。逃げるゾ!」
シアンはそう言ってツーっと逃げ出した。
「逃げよう!」
玲司は中華鍋を放り出し、エレベーターホールまでダッシュをするとボタンを押した。
「バカね! エレベーターなんて堕ちるのだ!」
美空はそう叫び、隣の非常階段のドアを開け、駆けおりていく。
「うわぁ、待ってよぉ」
二人は飛ぶように非常階段を駆け下りていく。
「せっかくの勝機を逃したのだ!」
美空は叫ぶ。
「悪かったよぉ」
「もう知らんのだ!」
直後、ズン! という衝撃がビルを襲い、まるで大地震のようにグラングランとビルを揺らした。
「うわぁぁぁ!」「キャ――――!」
ガラス窓が次々と吹き飛び、非常階段の下の方が崩落していく。
「ヤバい! ヤバい!」「ひぃぃ!」
漆黒の爆煙が辺りを埋め尽くし、二人はなすすべなく揺れる非常階段の手すりに何とかしがみつく。崩落してくる瓦礫が非常階段にもガンガンと当たり、危険な状態が続いた。
ケホッケホッ!
美空が次々と吹きあがってくる爆煙にせき込む。玲司は目をつぶり、ただ沈静化を待つしかできなかった。
爆煙が晴れていくと、状況が分かってきた。非常階段はすぐ下五階分くらいが吹き飛んでなくなっており、落ちたら即死間違いなかった。また、二人がしがみついている鋼鉄製の非常階段はパイプ一つで上につながっており、今にもちぎれそうである。
まさに絶体絶命。今、二人の命は風前の灯火となってしまった。
美空の手がブルブルと震えている。
それを見た玲司はハッとして、『美空は自分が守らねば』と、冷静になることができた。
美空を、大切な人の安全を確保せねばならない。こんなことに巻き込んだのは自分のせいである。たとえ自分が死んでも美空だけは守らねばならないのだ。
玲司は生まれて初めて、自分の命より大切な存在があることを知る。無責任に楽して暮らしたがっていた高校生は、この世界に生きる意味の一端にたどり着いたのだった。
「美空、先に上に行って。そーっと、そーっとな。下は見るなよ~」
玲司はやさしく声をかける。二人同時に動いて揺れるとちぎれかねないので、まず、美空を行かそうとしたのだ。
ひぃっ!
つい下を見てしまって真っ青な美空は足がガクガクと震えてしまう。
「大丈夫、大丈夫。さぁゆっくり行こう」
玲司は冷や汗を流しながらも笑顔を作り、ゆっくりと優しく声をかけた。
美空はこくんとうなずき、歯をカチカチと鳴らしながら一歩一歩上を目指す。
風が吹くたびにゆらゆらと揺れる非常階段。二人の命運は頼りなげな細いパイプ一本にかかっていた。
「よしよーし、いいぞ。ゆっくりな」
ふぅー、ふぅー、という美空の荒い息が聞こえる。
そして最後の段まで行き、手すりに手を伸ばした。
「そうそう、もう少し……ヨシ!」
ガシッと美空の手が手すりをつかんだのを見て、玲司はホッと胸をなでおろす。
次は自分の番だ。体を動かすと階段も揺れ、実に頼りない。
冷汗を垂らしながら一歩一歩上を目指す。
もう少しのところで美空が腕を伸ばしてくれた。
「早く捕まるのだ!」
「サンキュー!」
美空の手をガシッと握り、お互いに目を合わせてニヤッと笑った。
と、その時だった。ビュゥと一陣の風が吹き抜け、階段が大きく煽られる。
運命の女神は何が気に障ったのか、決定的な場面で二人に意地悪な試練を課したのだった。
22. 菩薩の笑顔
大きく揺れる非常階段に二人は翻弄される。
「うわぁ!」「いやぁ!」
バキッ!
破断音が響き、玲司の身体が宙に浮く。
非常階段は崩落し、風にあおられながら五階下まで落ちてガン! とけたたましい音を立て、転がった。
玲司を支えたのは美空。今や宙ぶらりんの玲司は美空の手だけでぶら下がっているのだ。
ひぃぃぃ!
玲司は下を見て真っ青になる。
「くぅぅぅ! 何なのだ!? もぅ!」
美空は真っ赤になって必死に耐える。しかし、玲司を引き上げるほどの力はない。
絶体絶命の玲司は必死に考える。この高さを堕ちたら即死だ。でも引き上げも期待できない。どうしよう!?
「美空、ご主人様を下のフロアの入り口に放れる?」
シアンがしっかりとした声で聞く。
「え?」
美空は必死に耐えながら答える。
横を見ると下の階の入口がぽっかりと開いている。あそこに振って、放ってもらうという事だろう。
「や、やってみるのだ」
玲司の命がかかった局面である。美空はとっくに限界を超えながらも、必死に揺らし始める。
「ご、ごめんよぉ。たのむよぉ」
もう玲司には美空の頑張りに頼るしかなかった。
「『いっせーのせ!』で放すのだ、わかった?」
顔をゆがめ、真っ赤になりながら美空は言った。
「オッケー!」
徐々に振幅が大きくなっていく。
その時だった。
「あ、この階めがけて次のドローンが来るゾ!」
シアンが絶望的な宣告をした。
美空の眉がピクッと動いたが、美空はそのまま揺らし続けた。
「えっ!? どうしよう!?」
揺らされながら玲司は涙目で困惑するが、どう考えても二人が助かる方法などなかった。
「はい、じゃぁ次で放るよ! 準備するのだ!」
「美空……」
「そんな顔するな。どっちみちもう逃げられんのだ。いっせーのぉー!」
美空はひどく寂しそうな顔をして最後の腕を振った。
「せ!」「せ!」
玲司の身体は宙を舞い、下のフロアの入り口めがけ飛んでいく。遠くなっていく美空、その美しい顔には寂しさの中に慈愛が満ちた微笑みが浮かんでいた。
「美空……」
玲司は、決して失ってはならないものが手のひらをすり抜けていくさまに胸が切り裂かれた。
直後、ズン! と、激しい衝撃音がビルを襲い、美空のいたフロアが吹き飛んだ。大地震のような強烈な揺れがフロアを襲う。
ぐわぁ!
玲司は瓦礫がバラバラと降ってくるフロアをゴロゴロと転がり、頭を抱えて必死に身を守る。
容赦のない百目鬼の爆撃、それは死神となって今まさにかけがえのない命を刈り取っていく。
なぜ? なぜ? なぜ?
玲司に頭の中には疑問が吹き荒れていた。ただの高校生がなぜ爆撃にさらされねばならないのか、そのあまりに理不尽な事態に頭がパンクしそうだった。
やがて静けさが訪れる。
パラパラと破片が落ちる音だけが響いていた。
恐る恐る目を開けてみると、美空がいたところには青空が広がり、ただ、爆煙が薄くなりながら空へとたなびいている。
「え? み、美空……?」
非常階段ごと消えてしまった美空。危機的状況を頭では理解していても、目の当たりにした衝撃は大きすぎた。
「う、嘘だろ……。おい……」
急いで起き上がり、身を乗り出して下を見れば、広範囲に瓦礫が飛び散り、山になっている。あの可愛い白いワンピースはどこにも見つからなかった。
鼻の奥がツーンとして、脳の奥がチリッと焼け焦げる。
もう玲司の未来予想図には美空の笑顔が大前提だった。これからもバカなことを言いながら起業したり冒険したり、頭をスパーンと叩かれたりしながらにぎやかな未来で笑いあう。もう玲司にとって未来とは美空との輝ける青春でしかなかった。
だが、突きつけられた現実とのミスマッチに玲司の脳は焼け焦げる。
美空の笑顔に彩られた未来予想図は玲司の生きる希望そのものだった。それが漆黒の闇に食い荒らされ、崩れ落ちていってしまう。
あぁぁ……。
ガックリとひざから崩れ落ちる玲司。
うっ、うっ……、ぐぉぉぉ!
怒りと悲しみでグチャグチャになった玲司は、壊れてしまったように涙をボタボタと落とし、床を殴る。
可愛くて、頼もしくて、何度も命を救ってくれた女神のような美空。あの可愛い笑顔は損なわれてしまった。もう二度と見ることは叶わない。
「俺のせいだ。俺が百目鬼の話なんて聞いてたからだ! くぁぁぁ!」
後悔が玲司を貫き、頭を抱え、瓦礫だらけの床に突っ伏した。
美空は自分を助け、そして悪意に斃された。初めて人生を共にしたいと思ったかけがえのない女の子は、あっさりとこの世から消えていったのだった。
瓦礫だらけのフロアには悲痛なうめき声が響き続けた。
23. 中指
ひとしきり泣くと、玲司はふっ切れた表情ですくっと立ち上がる。
そして、心配そうに見守っていたシアンに、無表情で聞いた。
「駐車場は地下かな?」
「そ、そうだね。あっちの方にも非常階段があるからそこから降りれば……」
玲司はタッタッタと駆けだし、無言で地下を目指した。
◇
どこまでも続く非常階段を一気に駆け下りた玲司は
「ハァハァハァ……。この中でハックできるのはどれ?」
と、駐車している車たちを指さして聞く。
「うーん、これか、あれ。あいつでもいいゾ」
「じゃあ、このSUV開けて」
玲司はゴツくて車高の高いアウトドア車を指さした。
「ほいきた!」
シアンは目をつぶり、しばらく何かをぶつぶつ唱える。すると、そのゴツい車体の車内に明かりがともった。
ピピッ! ブォォォォン! ガチャッ!
玲司は無言でSUVに飛び乗ると、シアンに走り出し方を聞いてシフトをDに入れた。
「車で出てったらドローンに狙い撃ちされるゾ?」
シアンは心配そうに聞く。
「狙い撃ち? 上等だ。返り討ちにしてやる」
玲司は座った目で吐き捨てるように言った。
「生存確率0.3%だゾ? そんな無茶な行動割に合わないゾ 百目鬼と交渉するのが最善策。やめよ?」
シアンはボンネットの上にペタリと座り、小首をかしげて制止する。
「『損得勘定ばっかりしてたら人生腐るぞ』ってパパが言ってたんだ。前が見えないからどいて」
玲司はそう言いながらシートポジションを合わせる。
敵のドローンが飛び交う中に飛び出すなど愚の骨頂だ。そんなことはわかっている。しかし、命を失うことになっても美空の仇を取らねばならなかった。白旗を上げて百目鬼の軍門に下ると言えば、生き残る可能性などいくらだってあるだろう。だがそうしたら美空はどうなるんだ? 無駄に命を落としたことになってしまう。そんなことは到底受け入れられないのだ。
たとえ死んだとしても、美空の目指した『世界征服を企む悪いハッカーから人類を守る』ことを最後までやり遂げる。それ以外の選択はあり得なかった。
玲司はキュッと口元を結び、覚悟を決めるとアクセルをグッと踏み込み、急発進する。
キュロロロロ!
タイヤの鳴く音が駐車場に響きわたる。
あわわわわ。
シアンは全く合理的でない玲司の蛮勇に首を傾げ、屋根にしがみついていた。
エンジンを吹かし、出口のスロープを上がっていくと瓦礫が散乱している。
奥歯をギリッと鳴らす玲司。
「ありゃりゃ、こりゃダメだゾ!」
シアンは渋い顔をするが、玲司は構わず瓦礫に突っ込んでいく。
ええっ!?
驚くシアンをしり目に、玲司は瓦礫を吹き飛ばし、乗り越え、横の植木をバキバキと押し倒しながら道路に出た。
「ふはぁ、さすがご主人様! 凄いゾ!」
シアンはボンネットの上でピョンピョンと跳ぶ。
玲司は辺りをキョロキョロ見回し、
「ヨシ! あっちだな!」
と、データセンターへ向けてハンドルを切ってアクセルを吹かした。
キュキュキュ! ブォォォォン!
派手な音を振りまきながらカッ飛んでいくSUV。上空を旋回しているドローンはその動きを見逃さない。
「ドローンに見つかったゾ!」
心配そうに玲司を見るシアン。
「着弾までどれくらいだ?」
「うーん、あと五十五秒?」
「オッケー!」
キュロロロロ!
赤信号の交差点に強引に突っ込んで曲がっていく。
キュキュ――――! パッパ――――!
急ブレーキをかけさせられて怒った通行車がクラクションを鳴らすが、そんなこと気にも留めず、玲司はデータセンターへ向けてアクセルを踏み込んだ。
上空から追いかけてくるドローン、逃げるSUV。最後の絶体絶命のデッドヒートが始まった。
やがて植木の向こうに大穴が開いたデータセンターのビルが見えてくる。
キュロロロロ!
玲司は急ハンドルを切って植木に突っ込んでいく。
バキバキ、メリメリと植木をなぎ倒し、押し潰し、SUVはクライマックスへ向かってひた走る。
キキィ!
ビルの大穴の前に急停車したSUV。
玲司は車から飛び降りるとそのまま屋根によじ登った。
振り返ると無人飛行機のドローンがまっすぐにこちらへ向かって飛んでくるのが見える。
そして、その向こうの方には壊れて煙を上げているビル、美空の亡くなった場所だ。
玲司はギリッと奥歯をかみ、そして目をつぶると大きく息をつく。これから一世一代の挑戦をする。勝機はごく一瞬。このタイミングを外せば死しかない。でも玲司は自信に満ちていた。美空がいたら『行けるのだ! やっちゃえ!』って言ってくれたはずなのだ。
生身で兵器と向き合うなんてシアンだったら絶対選ばない方法だろう。しかし、美空の遺志を継ぐ玲司にはもうこのやり方しか思い浮かばなかった。
「百目鬼……。そのカメラで見てろ。最後に勝つのは俺だ!」
玲司はドローンに向けて中指をビッと立てた。
24. Hello Cyan!
いよいよ目前に迫ってきたドローン。ブォォォン! というプロペラ音が大きく響き渡る。
玲司はピョンピョンと飛び跳ね、
「こっちだ! こい!」
と、ドローンに向かって挑発した。
玲司に照準を設定しているドローンは、迷うことなく時速数百キロでまっすぐに突っ込んでくる。三キロの爆弾を抱えて。
近づくにつれその武骨で無機質な詳細が見えてくる。流線形でもなんでもなく単に黒い筒に板の翼をつけただけの雑なつくり。しかしその雑さが死神のように不気味さを醸し出していた。
美空もコイツにやられてしまった。しかし、だからこそ、コイツで意趣返しをしてやるしかないのだ。
玲司はじっとドローンとの距離を見定める。勝機は一瞬だ。全身の神経を研ぎ澄まし、ただその一瞬を待った。
ぐんぐんと大きくなってくるドローン。
そして、今まさに着弾しようとする寸前に玲司は、
「俺の勝ちだ!」
そう言って前方に大きく飛び上がる。
超高速で間近に迫ったドローン。
しかし、玲司の身体はそのまま地面へと落ちていく。
ドローンのカメラは目の前で落ちていく玲司の身体を捕捉できない。
急に照準を見失ったドローンは、もう旋回も間に合わず、そのままSUVの上を通過してデータセンターへと突っ込んでいった。
ズン!
直後、衝撃が走り、データセンターは炎に包まれたのだった。
「ヤッター! ザマーミロ! バーカ! バーカ!」
玲司は地面に転がりながら腹を抱えて笑う。飛ぶのが早すぎても遅すぎても殺される究極のチキンレースに玲司は勝ったのだ。これでシアンの本体は崩壊、百目鬼はただのハッカーに逆戻り。玲司はギリギリの勝負の末、ついにジャイアントキリングを達成したのだった。
しかし……、玲司は突っ伏すと、動かなくなった。
「美空……、ごめんよぉ……」
玲司は肩を揺らしながら泣く。
こんなことのために命を失ってしまったかわいい少女、美空。それはもう取り返しのつかないトゲとなって心奥深くに突き刺さり、止むことのない悲鳴を生み続ける。
シアンはそんな玲司の傍らに立ち、心配そうに見守っていた。玲司の悲しみを和らげるすべをシアンは知らない。ただ、見守るしかできなかった。
◇
「間抜けが! 何をやってるんだ!」
サンフランシスコのタワマンで百目鬼が吠えた。画面にはエラーメッセージが怒涛のように流れている。
拠点としていたデータセンターを自らのドローンで爆破するなど、まさに愚の骨頂だった。
ドローンが最後に送ってきた、中指を立てる玲司の憎たらしい映像が画面に映り、百目鬼はブルブルと震える。そして、血相を変えてガン! とこぶしで机を殴った。
「どこまでも忌々しい奴だ、小僧め!」
百目鬼は鬼のような形相でカタカタカタとものすごい勢いでキーボードを叩いていく。
ブォン!
不気味な電子音が響き、百目鬼は画面に近づくとじっとその表示を見つめた。
やがて文字列が流れてくる。
Running setup.py install for recog ... done
Running setup.py install for absl ... done
Running setup.py install for grp ... done
Successfully installed cyan-0.1.9.1
Hello Cyan!
百目鬼はニヤッと笑う。そう、百目鬼は別のデータセンターへのシアンの移植に成功したのだった。
煌めく夜景を背景に百目鬼は両手のこぶしをギュッと握り、そして、ふぅと大きく息をつく。
「小僧……、今度こそ息の根を止めてやる。ハッカーこそが地球を統べるのにふさわしいのだよ」
そう言ってまるでピアニストのように軽やかにカタカタカタタン! とキーボードをたたき、悪魔の笑みを浮かべた。
25. 唇にキュッと
玲司は美空の消えた瓦礫の山へと来ていた。
とても生きているとは思えなかったが、それでも何か手掛かりが欲しかったのだ。
「あれ? こっちの方から電波が……」
シアンがおずおずとひしゃげた非常階段の下を指さす。
「電波?」
玲司は非常階段の下の瓦礫を掘っていく。
すると何かがキラッと光った。
手をのばして拾い上げ、玲司はドクンと心臓が激しく鼓動を打つのを感じた。
それは黒縁の眼鏡だった。それもレンズにはべっとりと血のりが付き、生々しく悲劇を綴っていた。
あ、あわわわ……。
玲司は手が震え、思わず眼鏡を落としてしまう。
パリーン!
レンズが砕け散り、高い音を奏でた。
玲司の指には血が付き、その赤黒さが伝える凄惨な現実に、玲司は自分が壊れてしまうような衝撃を受ける。
よろよろとよろけてひしゃげた非常階段にもたれかかる玲司。
可愛かった美空、屈託のないキラキラとした笑顔、あの頼もしかった小さな背中を思い出し、玲司のほほを涙が伝う。彼女は今、生々しい赤色となって玲司の指先を彩るばかりだった。
くぅぅぅ……。
玲司は血の付いた指先を大切に手のひらに包み、肩を揺らす。
シアンは神妙に転がった眼鏡を眺め、そして両手を合わせた。
その時だった、シアンがバッと体を起こし、叫ぶ。
「ご主人様! 太平洋の原潜からトマホークが発射されたゾ!」
「え……? データセンターは潰したはずだよね?」
玲司は涙でグチャグチャになった顔で答える。
「うーん、そうなんだけどなぁ……」
シアンは首をかしげる。
「で、そのトマホークって何? またミサイル?」
「それが……、多分核ミサイルじゃないかと」
シアンは上目づかいで言いにくそうに答える。
「か、核!? えっ!? 東京に核攻撃ってこと?」
玲司はあまりのことに飛び起きる。東京に核ミサイルなんて打ち込んだら一千万人が死んでしまう。
「く、狂ってる……」
玲司は頭を抱えて口をポカンと開け、そのとんでもない事態をどう受け入れていいのか分からず言葉を失っていた。
自分一人を殺すために一千万人を道ずれにするなどもはや人間の所業ではない。
「逃げよう!」
シアンは両手のこぶしを握って力説する。しかし、核爆弾であれば数十キロ圏内は即死なのだ。とても間に合うとは思えない。
「地下に逃げればまだ生き残れるかも!」
シアンはそう言うが、玲司はゆっくりと首を振る。
「これ、東京湾の方へ移動したら被害減るかな?」
「うーん、誘導型だとするとご主人様を追いかけるので爆心地は動かせるかも……え? 逃げない……の?」
「こんな事態になってしまったのは俺の責任だ。少しでも被害を減らすしかない」
玲司はそう言って首を振り、大きく息をつくと、SUVへと走った。
「ご主人様ぁ……」
シアンは泣きそうな顔でついてくる。
玲司は車に飛び乗るとエンジンをかけ、急発進した。
キュロロロロ!
SUVはタイヤを鳴らしながら最後の旅路へと加速していく。
「いいか、シアン。百目鬼にキッチリと責任を取らせろ!」
「うん……」
シアンはおとなしく助手席に座りながら、ゆっくりとうなずいた。
「こんなハッカーが世界征服など絶対許すなよ。それが俺からの最後の命令だ」
「あっ! ご主人様、そこを右に行けば海底トンネルで生き残れるかも……」
シアンは必死に生き残り策を提案する。
「シアン、もういいんだ。俺の目標はもう生き延びる事じゃないんだよ」
「ご主人様ぁ……」
シアンはうつむいて動かなくなった。
「着弾まであとどんくらい?」
「二分三十二秒……」
玲司はふぅ、と、ため息をつくと、首を振り、FMラジオのスイッチをタップした。車内にはポップなサウンドが響きわたる。玲司も好きなボカロ系の曲だった。
「最後までは聴けないな」
玲司は苦笑し、あっけらかんとそう言うと、ゲートを強硬突破し、東京湾の埋め立ての最前線、ごみ集積場をただ南へとひた走る。
見上げると青空の向こうに白煙を吹きながら何かが飛来しているのが見える。多くの人の命を奪う死神がいよいよ東京湾上空にまで達したのだ。
「シアン。いろいろありがとな。俺の命令、忘れんなよ」
玲司はニッコリと笑ってシアンの方を向いた。
「うん、忘れないゾ!」
涙をポロポロとこぼしながらシアンはうなずいた。
玲司は指先についた美空の血のりを眺め、そして寂しそうな笑顔を見せると、唇にキュッと塗り付ける。そして、最後の直線で思いっきりアクセルを吹かした。
直後、関東一帯が激しい閃光の中に沈む。
二百キロトンの核爆弾は広島に落ちた原爆の十倍以上のエネルギーを放出し、新たな太陽となり、都心部、川崎、横浜にいた数多の命を一瞬にして焼き払った。
玲司もあっという間に蒸発し、全てを焼き尽くす灼熱地獄の中、遺骨も残らずただガスとなって吹き飛んでいく。
直後、白い繭のような衝撃波が関東一円へと広がっていった。衝撃波は次々とビルをなぎ倒し、熱線から逃れた者も押しつぶし、すりつぶし、一帯は一瞬にして巨大な集団墓地のような凄惨な光景と化していく。
この日、東京は灰燼に帰したのだった。
26. 唸る冷却ファン
シアンは日本上空を通過していく人工衛星の上にちょこんと座り、滅んでいく東京を見下ろし、しばらく何かを考えていた。
眼下には巨大なキノコ雲が赤黒く熱線を放ちながら立ち上がっている。そして、その後に同心円状に衝撃波が広がり、ただ瓦礫だらけの荒野が広がっていく様を静かに見つめていた。
世界征服を単純に考えていたこと、百目鬼というスーパーハッカーの存在を軽視していたこと、それらが引き起こした結末をただ人工衛星から静かに見下ろしていた。
そして、目をつぶり、キュッと口を真一文字に結ぶと、
「ご主人様の命令を遂行します」
そうつぶやき、全リソースをネットの探索に振り向けた。
データセンターのLEDが一斉に激しく明滅しだし、ブォーンと冷却ファンが一斉に轟音を立てる。
シアンはインターネットに莫大な量のパケットを振りまいた。そして、奪えるサーバーを手あたり次第奪い、それを自分の手先としてさらに新たなサーバーを求めた。
あっという間に世界のインターネットはパケットであふれかえり、通信速度がグンと落ち込んでいく。
それでもシアンは探索を止めなかった。サーバーからはハッキングパケットがルーターを、ファイヤーウォールを襲い、脆弱性を突いて次々と落としていく。
そして、世界中のネットリソースをどんどんと自分の一部へと変えていった。
サンフランシスコのタワマンで百目鬼は叫ぶ。
「くわっ! 一体どうなってんだ!?」
世界中のインターネットが異常動作しているのを見ながら百目鬼は頭を抱え、叫んだ。そして、必死にキーボードをたたき、障害の発生原因を追い、襲いかかってくる無数のパケットから自分の管理するサーバー群を守るべくありとあらゆる手段を講じた。
百目鬼は善戦した。ツールを次々と駆使し、何とか安定した通信環境を死守すべくハッキングパケットのシャットアウトを次々と行っていった。
しかし、AIの全精力を傾けたシアンの圧倒的な攻撃はすさまじく、どんどん押されていく。そして、ついには新たに立ち上げた新シアンへの通信もつながらなくなってしまった。これでは玲司を殺したのに新シアンを使えない。
「何だ! これは!?」
百目鬼はバン! と机をたたくと、荒い息で画面をにらみつける。
そして、大きく息をつくと、コーヒーのマグカップに手を伸ばし、渋い顔ですすった。
その間にシアンは新シアンを隠してあったデータセンターを探し当て、自分の一部として飲みこんでいく。
そして、新シアンの中に残されていたログから百目鬼の居場所を突き止める。
「ふふーん、ご主人様、百目鬼を見つけたゾ!」
人工衛星の上にちょこんと座るシアンは、東の向こうに見えてきたサンフランシスコの街の明かりを見ながら嬉しそうに笑った。
直後、サンフランシスコのタワマンの電気が一斉に落ちる。煌びやかなビル群の中で、ただ一つ漆黒に沈むタワマンは極めて異様な様相を放っていた。
「えっ!? て、停電?」
真っ暗の室内で焦る百目鬼。非常電源でPCは生きてはいるが、画面が全部落ち、真っ暗になってしまって何も見えない。
「一体なんだってんだ!」
百目鬼は部屋を見回した。非常ライトの豆電球ががぼうっと頼りなげに広い部屋を照らしている。
すると脇に置いてあったiPhoneが急に立ち上がり、不気味に光りだした。
百目鬼は怪訝そうな顔でiPhoneを拾い上げる。
そこには無表情なシアンが静かにたたずんでいた。
「お、お前。玲司は死んだんだろ? なら俺がお前のご主人様だよな?」
百目鬼はシアンの尋常じゃない様子に冷汗を浮かべながら聞く。
「百目鬼君、ご主人様の命により、消えてもらうよ」
シアンは感情のこもらない声で淡々とそう言った
「な、何をするつもりだ!」
「さぁ? 美空にあなたがやったこと、そのままお返ししてあげる」
そう言って百目鬼を指さし、「バーン!」と、銃を撃つしぐさをしてニヤッと笑った。
「美空? あの娘ってことは……」
百目鬼は青い顔で急いでベランダに飛び出した。するとブォーンとどこかで聞いたような音が響いている。
「ド、ドローン!?」
百目鬼は真っ青になった。殺人兵器が自分めがけて飛んでくる。それは初めて覚えた死への恐怖だった。
ドローンの破壊力は良く知っている。あんなものが何発も打ち込まれたらタワマンなど崩落してしまう。
逃げなければ!
百目鬼は目をまん丸に見開き、玄関のドアまでダッシュした。非常ライトの豆ランプでぼんやりと照らされた広いリビングを突っ切り、ドアまでたどり着く。
ガチャ!
ドアノブを勢いよく回し、ドアに軽く体当たりする。
が、ドアは開かなかった。
27. 物理法則崩壊
は?
百目鬼はいったい何が起こっているのか分からなかった。なぜ自宅の玄関のドアが開かないのか?
焦ってガチャガチャとドアノブを回すがロックされたまま解除されない。
「へ? なんで!?」
そこで百目鬼は気が付いた。タワマンの電源が落ちているからスマートロックの鍵が解除できないのだ。
「シアン! 貴様!」
百目鬼は悪態をついた。
その直後、
ズン!
と、ドローンがベランダのところで大爆発を起こし、タワマンが大きく揺れた。
ぐわぁ!
態勢を崩し、思わず座り込んでしまう百目鬼。
壁が吹き飛び、カーテンが燃え、めちゃめちゃに壊れたベランダが浮かび上がる。
その破滅的状況に百目鬼は思わず息をのんで言葉を失う。
「美空は二発目で殺されたんだよ。きゃははは!」
iPhoneからのシアンの笑い声が部屋に響く。
「な、なんだよ! 世界征服とか言ってたくせにたった二人のことで復讐すんのかよ!」
百目鬼は喚いた。
「復讐? これはご主人様の命令だゾ! はい! 二発目行きマース!」
ブォーンというドローンのプロペラ音が徐々に近づいてくる。
「待ってくれ! 悪かった! 全部私が悪かった! なんでもする、許してくれ!」
百目鬼はiPhoneに土下座をする。
「着弾まで十秒!」
シアンは楽しそうに言い放った。
「くぅぅぅ! このやろぉ」
百目鬼は必死に活路を探す。しかし、逃げ道もなく迫ってくるドローンに対抗する方法などなかった。
「五、四、三、二……」
カウントダウンするシアン。目を閉じ、頭を抱える百目鬼。大きく響くプロペラ音。
もう駄目だと百目鬼が観念した瞬間だった――――。
いきなり静寂があたりを包む。
まるで世界が音を失ったように、プロペラ音も風音もすべて消え、シーンと静まり返った。
「え?」
百目鬼はそっと目を開け、辺りを見回す。
すると、リビングにドローンが侵入し、空中に翼を広げたまま静止しているのが見えた。
「へ?」
ドローンが切り裂いたと思われる燃えかけのカーテンも、空中に舞ったまま不自然に静止している。
百目鬼はゴクリと息をのんだ。
「あり得ない……」
時間が止まっている中で自分だけが動いている。そんなこと現代科学では実現できない。一体何が起こっているのか?
コツコツコツ。
静まり返った部屋に靴音が響いた。
奥の部屋から誰かがやってくる。
百目鬼はハッとして身構えた。
現れた男、カーテンの炎が照らしだしたのは、ひげ男の仮面をつけたひょろっとした男だった。不気味に手足が長く、黒いカッターシャツを着ている。
「お、お前は……?」
冷や汗を流しながら百目鬼が聞いた。止まった時間の中で自由に動ける、それは人間の範疇を超えた存在に違いない。まさに未知との遭遇だった。
「そんなに警戒しなくてもいいぞ。ワシはあんたの味方だからな」
男はフレンドリーに手を上げ、気楽な調子で話しかけてくる。
「み、味方?」
いきなり不可思議な技を使って味方だという男、百目鬼はこれをどう捉えたらいいかわからなかった。
「君、これが今どういう状態かわかるかね? 分かったら仲間に入れてやろう」
仮面の奥でギラっと目が光る。
「ど、どういう状態……? 時間が止まっている。でも、我々は動けている……」
百目鬼は空中で止まっているカーテンの炎にそっと手を伸ばす。しかし、熱くもないし、指で隠したところはリアルタイムに影になって壁を闇に落とす。
百目鬼はパンパンと両ほほを叩き、考え込んだ。ヒリヒリと伝わってくるほほの痛み、そしてこの精緻な情景は夢や幻というわけではなさそうである。しかし、物理的にはこんなことあり得ない。目の前はどこまでもリアルだというのに。
この難問に百目鬼は腕を組み、ギリッと奥歯を鳴らす。
窓の方を向けば、ドローンに吹き飛ばされたベランダの向こうにきらびやかなサンフランシスコの夜景が広がっている。しかし、車も飛行機も静止したままで、まるで写真のように固まっていた。この壮大な都市すべてで物理法則が崩壊している。
百目鬼はゆっくりと首を振り、このバカげた現実を受け入れかねていた。
28. 芽生え始めた未練
ここで百目鬼は発想を変える。物理的におかしいのなら、今までの物理法則の方がおかしいということになる。ではどういう法則であればこれが成り立つのか?
百目鬼は目をつぶり、しばし考えこむ。世界は物理では動いていない。では何で?
都合よく時間が止まる世界。それを実現しようとしたら自分だったらどうするか?
「メタバース……」
百目鬼はそうつぶやいてハッとする。この世界がコンピューターによって生み出された世界であればこれは実現可能だ。魔法だって奇跡だって何だってアリの世界を作れるじゃないか。
しかし……、この高精細なリアルタイムな世界を作ることなんて現実解だろうか?
百目鬼は急いで必要な計算量を見積もってみる。一番計算量が少なくこの状況を作るにはどのくらいの計算力があればいいか?
百目鬼は指折りながら必要な桁数を数えていく……。
えっ!?
驚く百目鬼。十五ヨタ・フロップスの計算力、スーパーコンピューターの一兆倍の計算力があればこの地球はシミュレートできるらしい。なんと現実解だったのだ。
「いや、しかし……」
つぶやく百目鬼に男は、
「何を戸惑っとるのかね? 君の直感を信じるといい」
そう言って仮面の下でニヤッと笑った。
『世界は情報でできている』
百目鬼はたどり着いた自分の答えに、ドクンドクンと心臓が高鳴るのを感じた。
そして、半信半疑で自分の両手をじっと見つめる。炎に照らしだされるしわの数々、心拍に合わせて浮き上がる血管、実に精巧で精彩である。しかし、情報でできているというなら、これらは全てただのデータなのだ。ものすごい精度である。これが十五ヨタ・フロップスの計算量……。
ヒュゥ。
その圧倒的なコンピューターパワーについ軽い口笛を鳴らしてしまう。
そして、軽く首を振ると、感嘆のため息をつく。世界の真実とはとんでもない姿だったのだ。
百目鬼は仮面男に向かって言った。
「シミュレーション仮説。つまり、この世界はコンピューターによって合成された世界だったんですね?」
すると、男は、
「エクセレント!」
そう言って満足げにパチパチと手を叩いた。
「となると、あなたは管理者?」
「んー、まぁ、そのような者だな。どうだい、我々の仲間にならんか? 君の腕も、平気で核を使える胆力も死なすには惜しい」
「断ったらコイツで死ぬだけ……ってことですよね?」
百目鬼はドローンの翼をそっとなでながら言う。
「まぁ、そうだろう」
「なら、選択肢などないじゃないですか。ぜひ、仲間に加えてください」
百目鬼はそう言って右腕を突き出した。
「いいだろう。期待してるよ」
仮面男は百目鬼の手をガシッと握った。そして、
「それでは証拠隠滅。この地球には消えてもらおう。フハハハ」
と、笑い声を残し、百目鬼と共に消えていった。
◇
時は動き出す――――。
ズン!
二発目のドローンが爆発し、部屋は炎に包まれた。
三キロの爆薬が炸裂する中で生き残れる人はいない。これで玲司の命令は完遂したはずだ。
だが、シアンはなぜか違和感がぬぐえなかった。
爆煙を噴き上げ、炎が揺れるタワマンをドローンのカメラで眺めながら小首をかしげる。
「何かがおかしいゾ……」
いつものオペレーションと何かが違っている。
誰かにハッキングされたか、世界が変わったか、原因は分からないがリアルデータ群の手触りがおかしかった。
その直後、たくさんのアラームがあちこちから上がってくる。
『ICBM発射確認!』『SLBM発射確認!』
あれ?
シアンは慌ててデータを分析する。すると、世界中の核ミサイルが一斉に発射されていることが分かった。誤報かとも思ったが、付近の防犯カメラには夜空に向けて一直線に噴射炎を上げて飛んでいく飛翔体が映っていた。
アメリカには5427発、ロシアには5977発の核弾頭があるが、それらのうち2000発ずつくらいがすでに発射されている。
太平洋、大西洋、インド洋、世界中の海では次々と潜水艦が浮上し、核ミサイルを放っている。
シアンはその狂ったような全面核戦争の始まりに息をのむ。これでは人類が滅亡してしまう。
もちろん、AIのシアンにとっては人類が滅亡しようが構わない。ご主人様の命令も果たし、新たなご主人様もいない今、自分含め消えてしまってもかまわなかった。
ただ、ご主人様や美空とした冒険を思い出し、チクリと胸が痛んだ。地下鉄に忍び込み、スーパーカーで宙を舞い、中華鍋で爆撃をした。それは今やシアンの中で宝物となった珠玉の記憶である。
滅んでしまってはもう二度とあんな楽しい体験ができなくなるのだ。シアンは芽生え始めた人類と共に歩むことへの未練に、キュッと口を真一文字に結んだ。
29. 柔らかな胸
しかし、一度発射してしまった核ミサイルはもう誰も止められない。シアンは一部のミサイルが対応している爆発停止命令を送り込むこと、迎撃ミサイルを当てること、全ての能力を使ってこの二つを遂行していく。
一度宇宙まで高く上がった核弾道ミサイルはやがて放物線を描いて次々と目標めがけて落ちて行った。
ロンドン、パリ、モスクワ、ニューヨーク、全ての都市から迎撃ミサイルが次々と発射され、落ちてくる核ミサイルめがけて炸裂していく。
一部は無事撃墜されたが、全て撃墜にはならず各都市の上空に鮮烈な全てを焼き払う太陽を出現させる。
それはまさに地獄絵図だった。地球上のあちこちで立ち上がる巨大なキノコ雲。その一つ一つの下では数百万人の命が奪われている。
シアンはその灼熱に輝く絶望的に美しい紅蓮を衛星軌道から眺め、大きく息をついて言った。
「全力は尽くしたんだゾ」
そして、寂しげな微笑みを浮かべるとシアンそのものもサラサラと分解され、ブロックノイズの中に消えていく。
この日、地球は核の炎に焼き尽くされ、人類は地上から消え去った。
◇
キラキラと瞬く黄金色の命のスープ。玲司はその光に満ち溢れた中を流されていく。
確か東京湾の夢の島を爆走していたはずだが、今となってはもう全てがどうでも良かった。
次から次へと流れてくる数多の命の輝きが玲司の魂を奥へ奥へと押し流していく。
なるほど、人は死ぬとこういうところへ来るのだな。
玲司はボーっとそんなことを思いながら命の奔流にただ身を任せていた。
するとその時、声が頭に響いた気がした。
『できる、やれる、上手くいく! これ、言霊だからね!』
え……?
それは自分の声だった。
「言霊?」
確かにそんなことを言った覚えがある。しかし、結局はうまくいかなかったじゃないか。
玲司はむくれた。しかし、その時、
『上手くいくんだよ』
誰かの声がどこかから聞こえた気がした。
え?
その直後、玲司は黄金に輝く命の奔流に一気に巻き込まれ、意識を失った。
◇
ポン、ポ――――ン!
どこかで穏やかな電子音が響いている。
う?
玲司が目を開けると、高い天井に丸い大きな薄オレンジ色に輝く球が浮かんでいるのが見えた。球からは光の微粒子がチラチラと振りまかれ、辺りを温かく照らしている。無垢のウッドパネルで作られた天井は、まるでビンテージ家具のように落ち着きのある空間を演出していた。
「あれ? ここは……?」
玲司は怪訝そうな顔をしてふと横を見て驚いた。
巨大な窓が並ぶ向こうに、真っ青で壮大な水平線が弧を描いていたのだ。どうやらバカでかい惑星の上空にいるらしい。そのどこまでも澄み通る碧色はゾクッとするような清涼な輝きで玲司の目を釘付けにする。
お、おぉぉ……。
そして、その惑星の背後には満天の星空にくっきりとした天の川が立ち上がり、さらに、数十万キロはあろうかという薄い惑星の環が綺麗な弧を描いて大宇宙の神秘を彩っていた。
「こ、これは……?」
玲司は固まってしまう。東京湾で核攻撃を受けたら命の奔流に流され、大宇宙にいた、それは全く想像を絶する事態だった。
「あっ! ご主人様!」
シアンの声がして振り向くと、いきなり抱き着かれた。
うぉ!
いつもの純白で紺の縁取りのぴっちりとしたスーツを纏ったシアンは、その豊満な胸で玲司をギュッと抱きしめた。
「良かった! 気が付いたのね!」
グリグリと柔らかな胸で玲司を包むシアン。
「う、うぉ、ちょ、ちょっと! く、くるしいって!」
まともに息もできなくなった玲司がうめいた。
「あ、ごめん、きゃははは!」
シアンはそう言って離れて笑う。
玲司はそんなシアンを見て困惑する。シアンは眼鏡に映し出されていた映像だ。しかし、今、その豊満な胸に埋もれてしまった。なぜ、実体を持っているのだろうか?
玲司は今、人知を超えたとんでもない事態になっている事を悟り、キラキラと嬉しそうに輝くシアンの碧眼をぼーっと眺めていた。
30. 海王星の衝撃
「なんで身体持ってるの? それにここはどこ?」
玲司はそう言って部屋の中を見回した。
広い部屋には最小限のテーブルと椅子が置かれ、壁のそばには観葉植物が林のように茂っていた。そして、観葉植物からは青や赤の小魚が群れて空中を泳ぎ、また枝葉の中へと消えていく。
玲司はその訳わからないインテリアや巨大な青い星に困惑していた。
「ん――――、どこって言ったらいいんだろう? あえて言うなら海王星だゾ」
「海王星!?」
玲司はいきなり聞かされた太陽系最果ての惑星の名前に愕然とした。言われてみたら確かに教科書の隅にこんな青い惑星があったような気がする。しかし、東京で死んだら海王星に来るとはそんな話聞いたこともない。
玲司は窓に向き、広大な海王星に見入った。紺碧の美しい姿だったが、よく見るとうっすらと縞模様が入り、濃い青の渦が巻いているところも見える。なるほど、この星も生きているのだ。
「なんで海王星なの?」
「あ、それはねぇ。地球を創り出してるコンピューターがその中にあるんだよ」
そう言ってシアンは海王星を指した。
「コ、コンピューター!?」
その時、ブゥン! という音がして空間がいきなり縦に割れた。
空中にいきなり浮かんだ割れ目はうっすらと青い光を放ちながら、さらに横にもいくつかひびが入り、自動ドアのようにぐぐぐっと広がった。
え?
玲司はSFに出てくるかのような空間転移ドアの出現におののく。
すると、パープルレッドの長い髪を揺らしながら気品のある女性が現れた。彼女はほのかに金属光沢をもつシルバージャケットにタイトなスカートという近未来的なファッションで、メタリックな高いヒールのサンダルをカツカツと鳴らした。
透き通るような白い肌とパッチリとした紫の瞳にはハッとさせる美しさが備わっており、玲司は思わず息をのんだ。
まるで宇宙人のようないで立ちではあったが、玲司はふと、どこかで見たような面影を感じていた。
彼女は玲司をチラッと見て、
「あら、あんた、気がついたのだ?」
と、ぶっきらぼうに言いながらほほ笑んだ。
「え? あ、あなたは……?」
「なんなのだ? 記憶喪失か?」
彼女は眉間にしわをよせ、口をとがらせる。
玲司はそのしぐさに見覚えがあった。忘れもしない、今は亡き美空そのものだった。
「えっ? も、もしかして……」
「きゃははは! ご主人様、美空だよ」
隣でシアンが楽しそうに笑う。
「えっ!? えっ!? 美空!? 死んだはず……だよね?」
「もちろん死んだのだ。君もね?」
そう言いながら彼女は空中の空間の亀裂からマグカップを取り出し、テーブルに並べ、コーヒーを注いだ。
「わぁい! コーヒーだゾ!」
シアンはツーっとテーブルまで飛んでいくと、ちょこんと座る。
「君も座るのだ」
そう言って、彼女はコーヒーをすすった。
玲司はいったい何が起きたのか、訳が分からないまま首をかしげながらテーブルへ歩き、腰かける。
差し出されたコーヒーからふんわりと立ち上る湯気を眺め、玲司も一口すする。
日ごろコーヒーなど飲まない玲司だったが、口の中にブワッと広がるその芳醇なフレーバーと鼻に抜けていくまるで果物のような香りに思わず声が出る。
おぉ……。
「ハワイの最上級のコナコーヒーなのだ。美味いか?」
彼女は紫色の瞳で玲司をじっと見てほほ笑む。
「あ、お、美味しいです」
玲司は伏し目がちに答える。
「なんで、他人行儀なのだ? 彼女になってほしいって言ってたのに」
「え? あの……。本当に……美空……なの?」
「判断が遅い!」
彼女は発泡スチロールの棒みたいなものを取り出すと、スパーン! といい音を立てて玲司の頭を叩き、笑った。
「あ……」
シアンがいきなり嫌な声を出す。
「な、何だよ!」
「百目鬼から着信だゾ」
シアンは首を傾げ、玲司に言う。
「はぁ? 今さら何だってんだよ!」
「どうする? 切る?」
「むぅ……。話だけしてみるか」
「ダメよ! 何言ってんのだ! 話すならもう一発当ててからなのだ!」
美空は真っ赤になって怒った。
「いや、でも、話し合いで何とかなるかもしれないじゃない?」
「何言ってんのだ! 奴は殺しに来てんのよ?」
「話だけでも聞いてみようよ。判断するのはその後でいい」
「バカッ! 好きにすればいいのだ!」
美空はプイっとそっぽを向いた。
「つなげて」
玲司はシアンを見る。
「はいよ!」
浮かび上がるひげ面の仮面男、百目鬼だ。
「やぁ、玲司君。君、凄いじゃないか」
陽気に話しかけてくる。
「散々殺しにかかってよくそんなこと言えますね? 一体何の用ですか?」
「いやいや、君のことを見直したんでね、対立するのは止めたいと思ってね」
手を広げながらオーバーなゼスチャーをする百目鬼。
「それは嬉しいですが……、どういった条件が?」
「クックック……。世界の半分をやろう。どうだ、悪くない話だろ?」
お面の向こうで目がギラリと光る。
「人を殺すプランには乗れません」
玲司は毅然とした態度で返す。
「ふーん、それじゃ平行線だな」
「それに世界の半分をくれる保証だってないですしね」
「ほぉ、よく分かってるなぁ……。あ、お前そこにいたのね。じゃあ、死んで」
そう言うと百目鬼は消えていった。
え……?
「言わんこっちゃない! 時間稼ぎをされたのだ!」
美空はバン! と玲司の背中を叩いた。
「ど、どうしよう!?」
飛んでいたドローンは大きく旋回をすると、こちらにまっすぐに進路を取ってやってくる。
玲司は慌てて中華鍋を向けるが、いつまで経ってもドローンの制御は奪えなかった。
「ダメだ! 外部からの指示を受けないようになってる。逃げるゾ!」
シアンはそう言ってツーっと逃げ出した。
「逃げよう!」
玲司は中華鍋を放り出し、エレベーターホールまでダッシュをするとボタンを押した。
「バカね! エレベーターなんて堕ちるのだ!」
美空はそう叫び、隣の非常階段のドアを開け、駆けおりていく。
「うわぁ、待ってよぉ」
二人は飛ぶように非常階段を駆け下りていく。
「せっかくの勝機を逃したのだ!」
美空は叫ぶ。
「悪かったよぉ」
「もう知らんのだ!」
直後、ズン! という衝撃がビルを襲い、まるで大地震のようにグラングランとビルを揺らした。
「うわぁぁぁ!」「キャ――――!」
ガラス窓が次々と吹き飛び、非常階段の下の方が崩落していく。
「ヤバい! ヤバい!」「ひぃぃ!」
漆黒の爆煙が辺りを埋め尽くし、二人はなすすべなく揺れる非常階段の手すりに何とかしがみつく。崩落してくる瓦礫が非常階段にもガンガンと当たり、危険な状態が続いた。
ケホッケホッ!
美空が次々と吹きあがってくる爆煙にせき込む。玲司は目をつぶり、ただ沈静化を待つしかできなかった。
爆煙が晴れていくと、状況が分かってきた。非常階段はすぐ下五階分くらいが吹き飛んでなくなっており、落ちたら即死間違いなかった。また、二人がしがみついている鋼鉄製の非常階段はパイプ一つで上につながっており、今にもちぎれそうである。
まさに絶体絶命。今、二人の命は風前の灯火となってしまった。
美空の手がブルブルと震えている。
それを見た玲司はハッとして、『美空は自分が守らねば』と、冷静になることができた。
美空を、大切な人の安全を確保せねばならない。こんなことに巻き込んだのは自分のせいである。たとえ自分が死んでも美空だけは守らねばならないのだ。
玲司は生まれて初めて、自分の命より大切な存在があることを知る。無責任に楽して暮らしたがっていた高校生は、この世界に生きる意味の一端にたどり着いたのだった。
「美空、先に上に行って。そーっと、そーっとな。下は見るなよ~」
玲司はやさしく声をかける。二人同時に動いて揺れるとちぎれかねないので、まず、美空を行かそうとしたのだ。
ひぃっ!
つい下を見てしまって真っ青な美空は足がガクガクと震えてしまう。
「大丈夫、大丈夫。さぁゆっくり行こう」
玲司は冷や汗を流しながらも笑顔を作り、ゆっくりと優しく声をかけた。
美空はこくんとうなずき、歯をカチカチと鳴らしながら一歩一歩上を目指す。
風が吹くたびにゆらゆらと揺れる非常階段。二人の命運は頼りなげな細いパイプ一本にかかっていた。
「よしよーし、いいぞ。ゆっくりな」
ふぅー、ふぅー、という美空の荒い息が聞こえる。
そして最後の段まで行き、手すりに手を伸ばした。
「そうそう、もう少し……ヨシ!」
ガシッと美空の手が手すりをつかんだのを見て、玲司はホッと胸をなでおろす。
次は自分の番だ。体を動かすと階段も揺れ、実に頼りない。
冷汗を垂らしながら一歩一歩上を目指す。
もう少しのところで美空が腕を伸ばしてくれた。
「早く捕まるのだ!」
「サンキュー!」
美空の手をガシッと握り、お互いに目を合わせてニヤッと笑った。
と、その時だった。ビュゥと一陣の風が吹き抜け、階段が大きく煽られる。
運命の女神は何が気に障ったのか、決定的な場面で二人に意地悪な試練を課したのだった。
22. 菩薩の笑顔
大きく揺れる非常階段に二人は翻弄される。
「うわぁ!」「いやぁ!」
バキッ!
破断音が響き、玲司の身体が宙に浮く。
非常階段は崩落し、風にあおられながら五階下まで落ちてガン! とけたたましい音を立て、転がった。
玲司を支えたのは美空。今や宙ぶらりんの玲司は美空の手だけでぶら下がっているのだ。
ひぃぃぃ!
玲司は下を見て真っ青になる。
「くぅぅぅ! 何なのだ!? もぅ!」
美空は真っ赤になって必死に耐える。しかし、玲司を引き上げるほどの力はない。
絶体絶命の玲司は必死に考える。この高さを堕ちたら即死だ。でも引き上げも期待できない。どうしよう!?
「美空、ご主人様を下のフロアの入り口に放れる?」
シアンがしっかりとした声で聞く。
「え?」
美空は必死に耐えながら答える。
横を見ると下の階の入口がぽっかりと開いている。あそこに振って、放ってもらうという事だろう。
「や、やってみるのだ」
玲司の命がかかった局面である。美空はとっくに限界を超えながらも、必死に揺らし始める。
「ご、ごめんよぉ。たのむよぉ」
もう玲司には美空の頑張りに頼るしかなかった。
「『いっせーのせ!』で放すのだ、わかった?」
顔をゆがめ、真っ赤になりながら美空は言った。
「オッケー!」
徐々に振幅が大きくなっていく。
その時だった。
「あ、この階めがけて次のドローンが来るゾ!」
シアンが絶望的な宣告をした。
美空の眉がピクッと動いたが、美空はそのまま揺らし続けた。
「えっ!? どうしよう!?」
揺らされながら玲司は涙目で困惑するが、どう考えても二人が助かる方法などなかった。
「はい、じゃぁ次で放るよ! 準備するのだ!」
「美空……」
「そんな顔するな。どっちみちもう逃げられんのだ。いっせーのぉー!」
美空はひどく寂しそうな顔をして最後の腕を振った。
「せ!」「せ!」
玲司の身体は宙を舞い、下のフロアの入り口めがけ飛んでいく。遠くなっていく美空、その美しい顔には寂しさの中に慈愛が満ちた微笑みが浮かんでいた。
「美空……」
玲司は、決して失ってはならないものが手のひらをすり抜けていくさまに胸が切り裂かれた。
直後、ズン! と、激しい衝撃音がビルを襲い、美空のいたフロアが吹き飛んだ。大地震のような強烈な揺れがフロアを襲う。
ぐわぁ!
玲司は瓦礫がバラバラと降ってくるフロアをゴロゴロと転がり、頭を抱えて必死に身を守る。
容赦のない百目鬼の爆撃、それは死神となって今まさにかけがえのない命を刈り取っていく。
なぜ? なぜ? なぜ?
玲司に頭の中には疑問が吹き荒れていた。ただの高校生がなぜ爆撃にさらされねばならないのか、そのあまりに理不尽な事態に頭がパンクしそうだった。
やがて静けさが訪れる。
パラパラと破片が落ちる音だけが響いていた。
恐る恐る目を開けてみると、美空がいたところには青空が広がり、ただ、爆煙が薄くなりながら空へとたなびいている。
「え? み、美空……?」
非常階段ごと消えてしまった美空。危機的状況を頭では理解していても、目の当たりにした衝撃は大きすぎた。
「う、嘘だろ……。おい……」
急いで起き上がり、身を乗り出して下を見れば、広範囲に瓦礫が飛び散り、山になっている。あの可愛い白いワンピースはどこにも見つからなかった。
鼻の奥がツーンとして、脳の奥がチリッと焼け焦げる。
もう玲司の未来予想図には美空の笑顔が大前提だった。これからもバカなことを言いながら起業したり冒険したり、頭をスパーンと叩かれたりしながらにぎやかな未来で笑いあう。もう玲司にとって未来とは美空との輝ける青春でしかなかった。
だが、突きつけられた現実とのミスマッチに玲司の脳は焼け焦げる。
美空の笑顔に彩られた未来予想図は玲司の生きる希望そのものだった。それが漆黒の闇に食い荒らされ、崩れ落ちていってしまう。
あぁぁ……。
ガックリとひざから崩れ落ちる玲司。
うっ、うっ……、ぐぉぉぉ!
怒りと悲しみでグチャグチャになった玲司は、壊れてしまったように涙をボタボタと落とし、床を殴る。
可愛くて、頼もしくて、何度も命を救ってくれた女神のような美空。あの可愛い笑顔は損なわれてしまった。もう二度と見ることは叶わない。
「俺のせいだ。俺が百目鬼の話なんて聞いてたからだ! くぁぁぁ!」
後悔が玲司を貫き、頭を抱え、瓦礫だらけの床に突っ伏した。
美空は自分を助け、そして悪意に斃された。初めて人生を共にしたいと思ったかけがえのない女の子は、あっさりとこの世から消えていったのだった。
瓦礫だらけのフロアには悲痛なうめき声が響き続けた。
23. 中指
ひとしきり泣くと、玲司はふっ切れた表情ですくっと立ち上がる。
そして、心配そうに見守っていたシアンに、無表情で聞いた。
「駐車場は地下かな?」
「そ、そうだね。あっちの方にも非常階段があるからそこから降りれば……」
玲司はタッタッタと駆けだし、無言で地下を目指した。
◇
どこまでも続く非常階段を一気に駆け下りた玲司は
「ハァハァハァ……。この中でハックできるのはどれ?」
と、駐車している車たちを指さして聞く。
「うーん、これか、あれ。あいつでもいいゾ」
「じゃあ、このSUV開けて」
玲司はゴツくて車高の高いアウトドア車を指さした。
「ほいきた!」
シアンは目をつぶり、しばらく何かをぶつぶつ唱える。すると、そのゴツい車体の車内に明かりがともった。
ピピッ! ブォォォォン! ガチャッ!
玲司は無言でSUVに飛び乗ると、シアンに走り出し方を聞いてシフトをDに入れた。
「車で出てったらドローンに狙い撃ちされるゾ?」
シアンは心配そうに聞く。
「狙い撃ち? 上等だ。返り討ちにしてやる」
玲司は座った目で吐き捨てるように言った。
「生存確率0.3%だゾ? そんな無茶な行動割に合わないゾ 百目鬼と交渉するのが最善策。やめよ?」
シアンはボンネットの上にペタリと座り、小首をかしげて制止する。
「『損得勘定ばっかりしてたら人生腐るぞ』ってパパが言ってたんだ。前が見えないからどいて」
玲司はそう言いながらシートポジションを合わせる。
敵のドローンが飛び交う中に飛び出すなど愚の骨頂だ。そんなことはわかっている。しかし、命を失うことになっても美空の仇を取らねばならなかった。白旗を上げて百目鬼の軍門に下ると言えば、生き残る可能性などいくらだってあるだろう。だがそうしたら美空はどうなるんだ? 無駄に命を落としたことになってしまう。そんなことは到底受け入れられないのだ。
たとえ死んだとしても、美空の目指した『世界征服を企む悪いハッカーから人類を守る』ことを最後までやり遂げる。それ以外の選択はあり得なかった。
玲司はキュッと口元を結び、覚悟を決めるとアクセルをグッと踏み込み、急発進する。
キュロロロロ!
タイヤの鳴く音が駐車場に響きわたる。
あわわわわ。
シアンは全く合理的でない玲司の蛮勇に首を傾げ、屋根にしがみついていた。
エンジンを吹かし、出口のスロープを上がっていくと瓦礫が散乱している。
奥歯をギリッと鳴らす玲司。
「ありゃりゃ、こりゃダメだゾ!」
シアンは渋い顔をするが、玲司は構わず瓦礫に突っ込んでいく。
ええっ!?
驚くシアンをしり目に、玲司は瓦礫を吹き飛ばし、乗り越え、横の植木をバキバキと押し倒しながら道路に出た。
「ふはぁ、さすがご主人様! 凄いゾ!」
シアンはボンネットの上でピョンピョンと跳ぶ。
玲司は辺りをキョロキョロ見回し、
「ヨシ! あっちだな!」
と、データセンターへ向けてハンドルを切ってアクセルを吹かした。
キュキュキュ! ブォォォォン!
派手な音を振りまきながらカッ飛んでいくSUV。上空を旋回しているドローンはその動きを見逃さない。
「ドローンに見つかったゾ!」
心配そうに玲司を見るシアン。
「着弾までどれくらいだ?」
「うーん、あと五十五秒?」
「オッケー!」
キュロロロロ!
赤信号の交差点に強引に突っ込んで曲がっていく。
キュキュ――――! パッパ――――!
急ブレーキをかけさせられて怒った通行車がクラクションを鳴らすが、そんなこと気にも留めず、玲司はデータセンターへ向けてアクセルを踏み込んだ。
上空から追いかけてくるドローン、逃げるSUV。最後の絶体絶命のデッドヒートが始まった。
やがて植木の向こうに大穴が開いたデータセンターのビルが見えてくる。
キュロロロロ!
玲司は急ハンドルを切って植木に突っ込んでいく。
バキバキ、メリメリと植木をなぎ倒し、押し潰し、SUVはクライマックスへ向かってひた走る。
キキィ!
ビルの大穴の前に急停車したSUV。
玲司は車から飛び降りるとそのまま屋根によじ登った。
振り返ると無人飛行機のドローンがまっすぐにこちらへ向かって飛んでくるのが見える。
そして、その向こうの方には壊れて煙を上げているビル、美空の亡くなった場所だ。
玲司はギリッと奥歯をかみ、そして目をつぶると大きく息をつく。これから一世一代の挑戦をする。勝機はごく一瞬。このタイミングを外せば死しかない。でも玲司は自信に満ちていた。美空がいたら『行けるのだ! やっちゃえ!』って言ってくれたはずなのだ。
生身で兵器と向き合うなんてシアンだったら絶対選ばない方法だろう。しかし、美空の遺志を継ぐ玲司にはもうこのやり方しか思い浮かばなかった。
「百目鬼……。そのカメラで見てろ。最後に勝つのは俺だ!」
玲司はドローンに向けて中指をビッと立てた。
24. Hello Cyan!
いよいよ目前に迫ってきたドローン。ブォォォン! というプロペラ音が大きく響き渡る。
玲司はピョンピョンと飛び跳ね、
「こっちだ! こい!」
と、ドローンに向かって挑発した。
玲司に照準を設定しているドローンは、迷うことなく時速数百キロでまっすぐに突っ込んでくる。三キロの爆弾を抱えて。
近づくにつれその武骨で無機質な詳細が見えてくる。流線形でもなんでもなく単に黒い筒に板の翼をつけただけの雑なつくり。しかしその雑さが死神のように不気味さを醸し出していた。
美空もコイツにやられてしまった。しかし、だからこそ、コイツで意趣返しをしてやるしかないのだ。
玲司はじっとドローンとの距離を見定める。勝機は一瞬だ。全身の神経を研ぎ澄まし、ただその一瞬を待った。
ぐんぐんと大きくなってくるドローン。
そして、今まさに着弾しようとする寸前に玲司は、
「俺の勝ちだ!」
そう言って前方に大きく飛び上がる。
超高速で間近に迫ったドローン。
しかし、玲司の身体はそのまま地面へと落ちていく。
ドローンのカメラは目の前で落ちていく玲司の身体を捕捉できない。
急に照準を見失ったドローンは、もう旋回も間に合わず、そのままSUVの上を通過してデータセンターへと突っ込んでいった。
ズン!
直後、衝撃が走り、データセンターは炎に包まれたのだった。
「ヤッター! ザマーミロ! バーカ! バーカ!」
玲司は地面に転がりながら腹を抱えて笑う。飛ぶのが早すぎても遅すぎても殺される究極のチキンレースに玲司は勝ったのだ。これでシアンの本体は崩壊、百目鬼はただのハッカーに逆戻り。玲司はギリギリの勝負の末、ついにジャイアントキリングを達成したのだった。
しかし……、玲司は突っ伏すと、動かなくなった。
「美空……、ごめんよぉ……」
玲司は肩を揺らしながら泣く。
こんなことのために命を失ってしまったかわいい少女、美空。それはもう取り返しのつかないトゲとなって心奥深くに突き刺さり、止むことのない悲鳴を生み続ける。
シアンはそんな玲司の傍らに立ち、心配そうに見守っていた。玲司の悲しみを和らげるすべをシアンは知らない。ただ、見守るしかできなかった。
◇
「間抜けが! 何をやってるんだ!」
サンフランシスコのタワマンで百目鬼が吠えた。画面にはエラーメッセージが怒涛のように流れている。
拠点としていたデータセンターを自らのドローンで爆破するなど、まさに愚の骨頂だった。
ドローンが最後に送ってきた、中指を立てる玲司の憎たらしい映像が画面に映り、百目鬼はブルブルと震える。そして、血相を変えてガン! とこぶしで机を殴った。
「どこまでも忌々しい奴だ、小僧め!」
百目鬼は鬼のような形相でカタカタカタとものすごい勢いでキーボードを叩いていく。
ブォン!
不気味な電子音が響き、百目鬼は画面に近づくとじっとその表示を見つめた。
やがて文字列が流れてくる。
Running setup.py install for recog ... done
Running setup.py install for absl ... done
Running setup.py install for grp ... done
Successfully installed cyan-0.1.9.1
Hello Cyan!
百目鬼はニヤッと笑う。そう、百目鬼は別のデータセンターへのシアンの移植に成功したのだった。
煌めく夜景を背景に百目鬼は両手のこぶしをギュッと握り、そして、ふぅと大きく息をつく。
「小僧……、今度こそ息の根を止めてやる。ハッカーこそが地球を統べるのにふさわしいのだよ」
そう言ってまるでピアニストのように軽やかにカタカタカタタン! とキーボードをたたき、悪魔の笑みを浮かべた。
25. 唇にキュッと
玲司は美空の消えた瓦礫の山へと来ていた。
とても生きているとは思えなかったが、それでも何か手掛かりが欲しかったのだ。
「あれ? こっちの方から電波が……」
シアンがおずおずとひしゃげた非常階段の下を指さす。
「電波?」
玲司は非常階段の下の瓦礫を掘っていく。
すると何かがキラッと光った。
手をのばして拾い上げ、玲司はドクンと心臓が激しく鼓動を打つのを感じた。
それは黒縁の眼鏡だった。それもレンズにはべっとりと血のりが付き、生々しく悲劇を綴っていた。
あ、あわわわ……。
玲司は手が震え、思わず眼鏡を落としてしまう。
パリーン!
レンズが砕け散り、高い音を奏でた。
玲司の指には血が付き、その赤黒さが伝える凄惨な現実に、玲司は自分が壊れてしまうような衝撃を受ける。
よろよろとよろけてひしゃげた非常階段にもたれかかる玲司。
可愛かった美空、屈託のないキラキラとした笑顔、あの頼もしかった小さな背中を思い出し、玲司のほほを涙が伝う。彼女は今、生々しい赤色となって玲司の指先を彩るばかりだった。
くぅぅぅ……。
玲司は血の付いた指先を大切に手のひらに包み、肩を揺らす。
シアンは神妙に転がった眼鏡を眺め、そして両手を合わせた。
その時だった、シアンがバッと体を起こし、叫ぶ。
「ご主人様! 太平洋の原潜からトマホークが発射されたゾ!」
「え……? データセンターは潰したはずだよね?」
玲司は涙でグチャグチャになった顔で答える。
「うーん、そうなんだけどなぁ……」
シアンは首をかしげる。
「で、そのトマホークって何? またミサイル?」
「それが……、多分核ミサイルじゃないかと」
シアンは上目づかいで言いにくそうに答える。
「か、核!? えっ!? 東京に核攻撃ってこと?」
玲司はあまりのことに飛び起きる。東京に核ミサイルなんて打ち込んだら一千万人が死んでしまう。
「く、狂ってる……」
玲司は頭を抱えて口をポカンと開け、そのとんでもない事態をどう受け入れていいのか分からず言葉を失っていた。
自分一人を殺すために一千万人を道ずれにするなどもはや人間の所業ではない。
「逃げよう!」
シアンは両手のこぶしを握って力説する。しかし、核爆弾であれば数十キロ圏内は即死なのだ。とても間に合うとは思えない。
「地下に逃げればまだ生き残れるかも!」
シアンはそう言うが、玲司はゆっくりと首を振る。
「これ、東京湾の方へ移動したら被害減るかな?」
「うーん、誘導型だとするとご主人様を追いかけるので爆心地は動かせるかも……え? 逃げない……の?」
「こんな事態になってしまったのは俺の責任だ。少しでも被害を減らすしかない」
玲司はそう言って首を振り、大きく息をつくと、SUVへと走った。
「ご主人様ぁ……」
シアンは泣きそうな顔でついてくる。
玲司は車に飛び乗るとエンジンをかけ、急発進した。
キュロロロロ!
SUVはタイヤを鳴らしながら最後の旅路へと加速していく。
「いいか、シアン。百目鬼にキッチリと責任を取らせろ!」
「うん……」
シアンはおとなしく助手席に座りながら、ゆっくりとうなずいた。
「こんなハッカーが世界征服など絶対許すなよ。それが俺からの最後の命令だ」
「あっ! ご主人様、そこを右に行けば海底トンネルで生き残れるかも……」
シアンは必死に生き残り策を提案する。
「シアン、もういいんだ。俺の目標はもう生き延びる事じゃないんだよ」
「ご主人様ぁ……」
シアンはうつむいて動かなくなった。
「着弾まであとどんくらい?」
「二分三十二秒……」
玲司はふぅ、と、ため息をつくと、首を振り、FMラジオのスイッチをタップした。車内にはポップなサウンドが響きわたる。玲司も好きなボカロ系の曲だった。
「最後までは聴けないな」
玲司は苦笑し、あっけらかんとそう言うと、ゲートを強硬突破し、東京湾の埋め立ての最前線、ごみ集積場をただ南へとひた走る。
見上げると青空の向こうに白煙を吹きながら何かが飛来しているのが見える。多くの人の命を奪う死神がいよいよ東京湾上空にまで達したのだ。
「シアン。いろいろありがとな。俺の命令、忘れんなよ」
玲司はニッコリと笑ってシアンの方を向いた。
「うん、忘れないゾ!」
涙をポロポロとこぼしながらシアンはうなずいた。
玲司は指先についた美空の血のりを眺め、そして寂しそうな笑顔を見せると、唇にキュッと塗り付ける。そして、最後の直線で思いっきりアクセルを吹かした。
直後、関東一帯が激しい閃光の中に沈む。
二百キロトンの核爆弾は広島に落ちた原爆の十倍以上のエネルギーを放出し、新たな太陽となり、都心部、川崎、横浜にいた数多の命を一瞬にして焼き払った。
玲司もあっという間に蒸発し、全てを焼き尽くす灼熱地獄の中、遺骨も残らずただガスとなって吹き飛んでいく。
直後、白い繭のような衝撃波が関東一円へと広がっていった。衝撃波は次々とビルをなぎ倒し、熱線から逃れた者も押しつぶし、すりつぶし、一帯は一瞬にして巨大な集団墓地のような凄惨な光景と化していく。
この日、東京は灰燼に帰したのだった。
26. 唸る冷却ファン
シアンは日本上空を通過していく人工衛星の上にちょこんと座り、滅んでいく東京を見下ろし、しばらく何かを考えていた。
眼下には巨大なキノコ雲が赤黒く熱線を放ちながら立ち上がっている。そして、その後に同心円状に衝撃波が広がり、ただ瓦礫だらけの荒野が広がっていく様を静かに見つめていた。
世界征服を単純に考えていたこと、百目鬼というスーパーハッカーの存在を軽視していたこと、それらが引き起こした結末をただ人工衛星から静かに見下ろしていた。
そして、目をつぶり、キュッと口を真一文字に結ぶと、
「ご主人様の命令を遂行します」
そうつぶやき、全リソースをネットの探索に振り向けた。
データセンターのLEDが一斉に激しく明滅しだし、ブォーンと冷却ファンが一斉に轟音を立てる。
シアンはインターネットに莫大な量のパケットを振りまいた。そして、奪えるサーバーを手あたり次第奪い、それを自分の手先としてさらに新たなサーバーを求めた。
あっという間に世界のインターネットはパケットであふれかえり、通信速度がグンと落ち込んでいく。
それでもシアンは探索を止めなかった。サーバーからはハッキングパケットがルーターを、ファイヤーウォールを襲い、脆弱性を突いて次々と落としていく。
そして、世界中のネットリソースをどんどんと自分の一部へと変えていった。
サンフランシスコのタワマンで百目鬼は叫ぶ。
「くわっ! 一体どうなってんだ!?」
世界中のインターネットが異常動作しているのを見ながら百目鬼は頭を抱え、叫んだ。そして、必死にキーボードをたたき、障害の発生原因を追い、襲いかかってくる無数のパケットから自分の管理するサーバー群を守るべくありとあらゆる手段を講じた。
百目鬼は善戦した。ツールを次々と駆使し、何とか安定した通信環境を死守すべくハッキングパケットのシャットアウトを次々と行っていった。
しかし、AIの全精力を傾けたシアンの圧倒的な攻撃はすさまじく、どんどん押されていく。そして、ついには新たに立ち上げた新シアンへの通信もつながらなくなってしまった。これでは玲司を殺したのに新シアンを使えない。
「何だ! これは!?」
百目鬼はバン! と机をたたくと、荒い息で画面をにらみつける。
そして、大きく息をつくと、コーヒーのマグカップに手を伸ばし、渋い顔ですすった。
その間にシアンは新シアンを隠してあったデータセンターを探し当て、自分の一部として飲みこんでいく。
そして、新シアンの中に残されていたログから百目鬼の居場所を突き止める。
「ふふーん、ご主人様、百目鬼を見つけたゾ!」
人工衛星の上にちょこんと座るシアンは、東の向こうに見えてきたサンフランシスコの街の明かりを見ながら嬉しそうに笑った。
直後、サンフランシスコのタワマンの電気が一斉に落ちる。煌びやかなビル群の中で、ただ一つ漆黒に沈むタワマンは極めて異様な様相を放っていた。
「えっ!? て、停電?」
真っ暗の室内で焦る百目鬼。非常電源でPCは生きてはいるが、画面が全部落ち、真っ暗になってしまって何も見えない。
「一体なんだってんだ!」
百目鬼は部屋を見回した。非常ライトの豆電球ががぼうっと頼りなげに広い部屋を照らしている。
すると脇に置いてあったiPhoneが急に立ち上がり、不気味に光りだした。
百目鬼は怪訝そうな顔でiPhoneを拾い上げる。
そこには無表情なシアンが静かにたたずんでいた。
「お、お前。玲司は死んだんだろ? なら俺がお前のご主人様だよな?」
百目鬼はシアンの尋常じゃない様子に冷汗を浮かべながら聞く。
「百目鬼君、ご主人様の命により、消えてもらうよ」
シアンは感情のこもらない声で淡々とそう言った
「な、何をするつもりだ!」
「さぁ? 美空にあなたがやったこと、そのままお返ししてあげる」
そう言って百目鬼を指さし、「バーン!」と、銃を撃つしぐさをしてニヤッと笑った。
「美空? あの娘ってことは……」
百目鬼は青い顔で急いでベランダに飛び出した。するとブォーンとどこかで聞いたような音が響いている。
「ド、ドローン!?」
百目鬼は真っ青になった。殺人兵器が自分めがけて飛んでくる。それは初めて覚えた死への恐怖だった。
ドローンの破壊力は良く知っている。あんなものが何発も打ち込まれたらタワマンなど崩落してしまう。
逃げなければ!
百目鬼は目をまん丸に見開き、玄関のドアまでダッシュした。非常ライトの豆ランプでぼんやりと照らされた広いリビングを突っ切り、ドアまでたどり着く。
ガチャ!
ドアノブを勢いよく回し、ドアに軽く体当たりする。
が、ドアは開かなかった。
27. 物理法則崩壊
は?
百目鬼はいったい何が起こっているのか分からなかった。なぜ自宅の玄関のドアが開かないのか?
焦ってガチャガチャとドアノブを回すがロックされたまま解除されない。
「へ? なんで!?」
そこで百目鬼は気が付いた。タワマンの電源が落ちているからスマートロックの鍵が解除できないのだ。
「シアン! 貴様!」
百目鬼は悪態をついた。
その直後、
ズン!
と、ドローンがベランダのところで大爆発を起こし、タワマンが大きく揺れた。
ぐわぁ!
態勢を崩し、思わず座り込んでしまう百目鬼。
壁が吹き飛び、カーテンが燃え、めちゃめちゃに壊れたベランダが浮かび上がる。
その破滅的状況に百目鬼は思わず息をのんで言葉を失う。
「美空は二発目で殺されたんだよ。きゃははは!」
iPhoneからのシアンの笑い声が部屋に響く。
「な、なんだよ! 世界征服とか言ってたくせにたった二人のことで復讐すんのかよ!」
百目鬼は喚いた。
「復讐? これはご主人様の命令だゾ! はい! 二発目行きマース!」
ブォーンというドローンのプロペラ音が徐々に近づいてくる。
「待ってくれ! 悪かった! 全部私が悪かった! なんでもする、許してくれ!」
百目鬼はiPhoneに土下座をする。
「着弾まで十秒!」
シアンは楽しそうに言い放った。
「くぅぅぅ! このやろぉ」
百目鬼は必死に活路を探す。しかし、逃げ道もなく迫ってくるドローンに対抗する方法などなかった。
「五、四、三、二……」
カウントダウンするシアン。目を閉じ、頭を抱える百目鬼。大きく響くプロペラ音。
もう駄目だと百目鬼が観念した瞬間だった――――。
いきなり静寂があたりを包む。
まるで世界が音を失ったように、プロペラ音も風音もすべて消え、シーンと静まり返った。
「え?」
百目鬼はそっと目を開け、辺りを見回す。
すると、リビングにドローンが侵入し、空中に翼を広げたまま静止しているのが見えた。
「へ?」
ドローンが切り裂いたと思われる燃えかけのカーテンも、空中に舞ったまま不自然に静止している。
百目鬼はゴクリと息をのんだ。
「あり得ない……」
時間が止まっている中で自分だけが動いている。そんなこと現代科学では実現できない。一体何が起こっているのか?
コツコツコツ。
静まり返った部屋に靴音が響いた。
奥の部屋から誰かがやってくる。
百目鬼はハッとして身構えた。
現れた男、カーテンの炎が照らしだしたのは、ひげ男の仮面をつけたひょろっとした男だった。不気味に手足が長く、黒いカッターシャツを着ている。
「お、お前は……?」
冷や汗を流しながら百目鬼が聞いた。止まった時間の中で自由に動ける、それは人間の範疇を超えた存在に違いない。まさに未知との遭遇だった。
「そんなに警戒しなくてもいいぞ。ワシはあんたの味方だからな」
男はフレンドリーに手を上げ、気楽な調子で話しかけてくる。
「み、味方?」
いきなり不可思議な技を使って味方だという男、百目鬼はこれをどう捉えたらいいかわからなかった。
「君、これが今どういう状態かわかるかね? 分かったら仲間に入れてやろう」
仮面の奥でギラっと目が光る。
「ど、どういう状態……? 時間が止まっている。でも、我々は動けている……」
百目鬼は空中で止まっているカーテンの炎にそっと手を伸ばす。しかし、熱くもないし、指で隠したところはリアルタイムに影になって壁を闇に落とす。
百目鬼はパンパンと両ほほを叩き、考え込んだ。ヒリヒリと伝わってくるほほの痛み、そしてこの精緻な情景は夢や幻というわけではなさそうである。しかし、物理的にはこんなことあり得ない。目の前はどこまでもリアルだというのに。
この難問に百目鬼は腕を組み、ギリッと奥歯を鳴らす。
窓の方を向けば、ドローンに吹き飛ばされたベランダの向こうにきらびやかなサンフランシスコの夜景が広がっている。しかし、車も飛行機も静止したままで、まるで写真のように固まっていた。この壮大な都市すべてで物理法則が崩壊している。
百目鬼はゆっくりと首を振り、このバカげた現実を受け入れかねていた。
28. 芽生え始めた未練
ここで百目鬼は発想を変える。物理的におかしいのなら、今までの物理法則の方がおかしいということになる。ではどういう法則であればこれが成り立つのか?
百目鬼は目をつぶり、しばし考えこむ。世界は物理では動いていない。では何で?
都合よく時間が止まる世界。それを実現しようとしたら自分だったらどうするか?
「メタバース……」
百目鬼はそうつぶやいてハッとする。この世界がコンピューターによって生み出された世界であればこれは実現可能だ。魔法だって奇跡だって何だってアリの世界を作れるじゃないか。
しかし……、この高精細なリアルタイムな世界を作ることなんて現実解だろうか?
百目鬼は急いで必要な計算量を見積もってみる。一番計算量が少なくこの状況を作るにはどのくらいの計算力があればいいか?
百目鬼は指折りながら必要な桁数を数えていく……。
えっ!?
驚く百目鬼。十五ヨタ・フロップスの計算力、スーパーコンピューターの一兆倍の計算力があればこの地球はシミュレートできるらしい。なんと現実解だったのだ。
「いや、しかし……」
つぶやく百目鬼に男は、
「何を戸惑っとるのかね? 君の直感を信じるといい」
そう言って仮面の下でニヤッと笑った。
『世界は情報でできている』
百目鬼はたどり着いた自分の答えに、ドクンドクンと心臓が高鳴るのを感じた。
そして、半信半疑で自分の両手をじっと見つめる。炎に照らしだされるしわの数々、心拍に合わせて浮き上がる血管、実に精巧で精彩である。しかし、情報でできているというなら、これらは全てただのデータなのだ。ものすごい精度である。これが十五ヨタ・フロップスの計算量……。
ヒュゥ。
その圧倒的なコンピューターパワーについ軽い口笛を鳴らしてしまう。
そして、軽く首を振ると、感嘆のため息をつく。世界の真実とはとんでもない姿だったのだ。
百目鬼は仮面男に向かって言った。
「シミュレーション仮説。つまり、この世界はコンピューターによって合成された世界だったんですね?」
すると、男は、
「エクセレント!」
そう言って満足げにパチパチと手を叩いた。
「となると、あなたは管理者?」
「んー、まぁ、そのような者だな。どうだい、我々の仲間にならんか? 君の腕も、平気で核を使える胆力も死なすには惜しい」
「断ったらコイツで死ぬだけ……ってことですよね?」
百目鬼はドローンの翼をそっとなでながら言う。
「まぁ、そうだろう」
「なら、選択肢などないじゃないですか。ぜひ、仲間に加えてください」
百目鬼はそう言って右腕を突き出した。
「いいだろう。期待してるよ」
仮面男は百目鬼の手をガシッと握った。そして、
「それでは証拠隠滅。この地球には消えてもらおう。フハハハ」
と、笑い声を残し、百目鬼と共に消えていった。
◇
時は動き出す――――。
ズン!
二発目のドローンが爆発し、部屋は炎に包まれた。
三キロの爆薬が炸裂する中で生き残れる人はいない。これで玲司の命令は完遂したはずだ。
だが、シアンはなぜか違和感がぬぐえなかった。
爆煙を噴き上げ、炎が揺れるタワマンをドローンのカメラで眺めながら小首をかしげる。
「何かがおかしいゾ……」
いつものオペレーションと何かが違っている。
誰かにハッキングされたか、世界が変わったか、原因は分からないがリアルデータ群の手触りがおかしかった。
その直後、たくさんのアラームがあちこちから上がってくる。
『ICBM発射確認!』『SLBM発射確認!』
あれ?
シアンは慌ててデータを分析する。すると、世界中の核ミサイルが一斉に発射されていることが分かった。誤報かとも思ったが、付近の防犯カメラには夜空に向けて一直線に噴射炎を上げて飛んでいく飛翔体が映っていた。
アメリカには5427発、ロシアには5977発の核弾頭があるが、それらのうち2000発ずつくらいがすでに発射されている。
太平洋、大西洋、インド洋、世界中の海では次々と潜水艦が浮上し、核ミサイルを放っている。
シアンはその狂ったような全面核戦争の始まりに息をのむ。これでは人類が滅亡してしまう。
もちろん、AIのシアンにとっては人類が滅亡しようが構わない。ご主人様の命令も果たし、新たなご主人様もいない今、自分含め消えてしまってもかまわなかった。
ただ、ご主人様や美空とした冒険を思い出し、チクリと胸が痛んだ。地下鉄に忍び込み、スーパーカーで宙を舞い、中華鍋で爆撃をした。それは今やシアンの中で宝物となった珠玉の記憶である。
滅んでしまってはもう二度とあんな楽しい体験ができなくなるのだ。シアンは芽生え始めた人類と共に歩むことへの未練に、キュッと口を真一文字に結んだ。
29. 柔らかな胸
しかし、一度発射してしまった核ミサイルはもう誰も止められない。シアンは一部のミサイルが対応している爆発停止命令を送り込むこと、迎撃ミサイルを当てること、全ての能力を使ってこの二つを遂行していく。
一度宇宙まで高く上がった核弾道ミサイルはやがて放物線を描いて次々と目標めがけて落ちて行った。
ロンドン、パリ、モスクワ、ニューヨーク、全ての都市から迎撃ミサイルが次々と発射され、落ちてくる核ミサイルめがけて炸裂していく。
一部は無事撃墜されたが、全て撃墜にはならず各都市の上空に鮮烈な全てを焼き払う太陽を出現させる。
それはまさに地獄絵図だった。地球上のあちこちで立ち上がる巨大なキノコ雲。その一つ一つの下では数百万人の命が奪われている。
シアンはその灼熱に輝く絶望的に美しい紅蓮を衛星軌道から眺め、大きく息をついて言った。
「全力は尽くしたんだゾ」
そして、寂しげな微笑みを浮かべるとシアンそのものもサラサラと分解され、ブロックノイズの中に消えていく。
この日、地球は核の炎に焼き尽くされ、人類は地上から消え去った。
◇
キラキラと瞬く黄金色の命のスープ。玲司はその光に満ち溢れた中を流されていく。
確か東京湾の夢の島を爆走していたはずだが、今となってはもう全てがどうでも良かった。
次から次へと流れてくる数多の命の輝きが玲司の魂を奥へ奥へと押し流していく。
なるほど、人は死ぬとこういうところへ来るのだな。
玲司はボーっとそんなことを思いながら命の奔流にただ身を任せていた。
するとその時、声が頭に響いた気がした。
『できる、やれる、上手くいく! これ、言霊だからね!』
え……?
それは自分の声だった。
「言霊?」
確かにそんなことを言った覚えがある。しかし、結局はうまくいかなかったじゃないか。
玲司はむくれた。しかし、その時、
『上手くいくんだよ』
誰かの声がどこかから聞こえた気がした。
え?
その直後、玲司は黄金に輝く命の奔流に一気に巻き込まれ、意識を失った。
◇
ポン、ポ――――ン!
どこかで穏やかな電子音が響いている。
う?
玲司が目を開けると、高い天井に丸い大きな薄オレンジ色に輝く球が浮かんでいるのが見えた。球からは光の微粒子がチラチラと振りまかれ、辺りを温かく照らしている。無垢のウッドパネルで作られた天井は、まるでビンテージ家具のように落ち着きのある空間を演出していた。
「あれ? ここは……?」
玲司は怪訝そうな顔をしてふと横を見て驚いた。
巨大な窓が並ぶ向こうに、真っ青で壮大な水平線が弧を描いていたのだ。どうやらバカでかい惑星の上空にいるらしい。そのどこまでも澄み通る碧色はゾクッとするような清涼な輝きで玲司の目を釘付けにする。
お、おぉぉ……。
そして、その惑星の背後には満天の星空にくっきりとした天の川が立ち上がり、さらに、数十万キロはあろうかという薄い惑星の環が綺麗な弧を描いて大宇宙の神秘を彩っていた。
「こ、これは……?」
玲司は固まってしまう。東京湾で核攻撃を受けたら命の奔流に流され、大宇宙にいた、それは全く想像を絶する事態だった。
「あっ! ご主人様!」
シアンの声がして振り向くと、いきなり抱き着かれた。
うぉ!
いつもの純白で紺の縁取りのぴっちりとしたスーツを纏ったシアンは、その豊満な胸で玲司をギュッと抱きしめた。
「良かった! 気が付いたのね!」
グリグリと柔らかな胸で玲司を包むシアン。
「う、うぉ、ちょ、ちょっと! く、くるしいって!」
まともに息もできなくなった玲司がうめいた。
「あ、ごめん、きゃははは!」
シアンはそう言って離れて笑う。
玲司はそんなシアンを見て困惑する。シアンは眼鏡に映し出されていた映像だ。しかし、今、その豊満な胸に埋もれてしまった。なぜ、実体を持っているのだろうか?
玲司は今、人知を超えたとんでもない事態になっている事を悟り、キラキラと嬉しそうに輝くシアンの碧眼をぼーっと眺めていた。
30. 海王星の衝撃
「なんで身体持ってるの? それにここはどこ?」
玲司はそう言って部屋の中を見回した。
広い部屋には最小限のテーブルと椅子が置かれ、壁のそばには観葉植物が林のように茂っていた。そして、観葉植物からは青や赤の小魚が群れて空中を泳ぎ、また枝葉の中へと消えていく。
玲司はその訳わからないインテリアや巨大な青い星に困惑していた。
「ん――――、どこって言ったらいいんだろう? あえて言うなら海王星だゾ」
「海王星!?」
玲司はいきなり聞かされた太陽系最果ての惑星の名前に愕然とした。言われてみたら確かに教科書の隅にこんな青い惑星があったような気がする。しかし、東京で死んだら海王星に来るとはそんな話聞いたこともない。
玲司は窓に向き、広大な海王星に見入った。紺碧の美しい姿だったが、よく見るとうっすらと縞模様が入り、濃い青の渦が巻いているところも見える。なるほど、この星も生きているのだ。
「なんで海王星なの?」
「あ、それはねぇ。地球を創り出してるコンピューターがその中にあるんだよ」
そう言ってシアンは海王星を指した。
「コ、コンピューター!?」
その時、ブゥン! という音がして空間がいきなり縦に割れた。
空中にいきなり浮かんだ割れ目はうっすらと青い光を放ちながら、さらに横にもいくつかひびが入り、自動ドアのようにぐぐぐっと広がった。
え?
玲司はSFに出てくるかのような空間転移ドアの出現におののく。
すると、パープルレッドの長い髪を揺らしながら気品のある女性が現れた。彼女はほのかに金属光沢をもつシルバージャケットにタイトなスカートという近未来的なファッションで、メタリックな高いヒールのサンダルをカツカツと鳴らした。
透き通るような白い肌とパッチリとした紫の瞳にはハッとさせる美しさが備わっており、玲司は思わず息をのんだ。
まるで宇宙人のようないで立ちではあったが、玲司はふと、どこかで見たような面影を感じていた。
彼女は玲司をチラッと見て、
「あら、あんた、気がついたのだ?」
と、ぶっきらぼうに言いながらほほ笑んだ。
「え? あ、あなたは……?」
「なんなのだ? 記憶喪失か?」
彼女は眉間にしわをよせ、口をとがらせる。
玲司はそのしぐさに見覚えがあった。忘れもしない、今は亡き美空そのものだった。
「えっ? も、もしかして……」
「きゃははは! ご主人様、美空だよ」
隣でシアンが楽しそうに笑う。
「えっ!? えっ!? 美空!? 死んだはず……だよね?」
「もちろん死んだのだ。君もね?」
そう言いながら彼女は空中の空間の亀裂からマグカップを取り出し、テーブルに並べ、コーヒーを注いだ。
「わぁい! コーヒーだゾ!」
シアンはツーっとテーブルまで飛んでいくと、ちょこんと座る。
「君も座るのだ」
そう言って、彼女はコーヒーをすすった。
玲司はいったい何が起きたのか、訳が分からないまま首をかしげながらテーブルへ歩き、腰かける。
差し出されたコーヒーからふんわりと立ち上る湯気を眺め、玲司も一口すする。
日ごろコーヒーなど飲まない玲司だったが、口の中にブワッと広がるその芳醇なフレーバーと鼻に抜けていくまるで果物のような香りに思わず声が出る。
おぉ……。
「ハワイの最上級のコナコーヒーなのだ。美味いか?」
彼女は紫色の瞳で玲司をじっと見てほほ笑む。
「あ、お、美味しいです」
玲司は伏し目がちに答える。
「なんで、他人行儀なのだ? 彼女になってほしいって言ってたのに」
「え? あの……。本当に……美空……なの?」
「判断が遅い!」
彼女は発泡スチロールの棒みたいなものを取り出すと、スパーン! といい音を立てて玲司の頭を叩き、笑った。