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 親が合格のお祝いにパソコンを買ってくれた。在庫処分で安くなっていたXP搭載ノートPCを買ってもらった。パソコンと合わせて、ネット回線も家に引いた。
 
 歌志内はネットのような広がりがなにもなかった。この街はすでに60年も前にそうした広がりは終わっていた。あったはずの炭鉱は消えてしまい、道道沿い、駅前にあった商店街はごく少数の店を除き、消え去った。

 スーパーも、パチンコ屋も、呉服店も、商店も、映画館も消えた。そして、駅も消え、鉄道も消え、残ったのは無機質なコンクリート製の団地だけだった。
 
 人口はどんどん減少し、3000人を切りそうな街には、セイコーマートと道の駅と第三セクターの温泉施設しかない。本当に何もないけど、なぜか落ち着いた。東京に居た時は、なにかに追われるように毎日を過ごし、時間はあっという間に過ぎていった。だけど、歌志内で暮らし始めて、2年が過ぎ、受験も終わったら、何もかもがゆっくりに思えた。



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 パソコンを買ってもらった理由はネットでお金を稼ぐためだった。僕はアフィリエイトサイト作ることにした。ホームページを作って、宣伝する広告、商品を探して、自分で作ったホームページに広告を張り、商品を紹介するサイトを作ることにした。

 広告がクリックされて、商品が購入されると商品をおすすめしたお礼として、お金がもらえる仕組みだ。

 僕は1週間かけてお取り寄せグルメのおすすめサイトを作った。検索エンジンに引っかかるように「お取り寄せグルメ」に関連するGoogleの予測変換で出てくる言葉をサイトの中に片っ端から記入した。1万字以上、お取り寄せグルメのことを書いた記事を作成し公開した。



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 高校に入っても奈津と一緒にいることが当たり前だった。高校に行き帰りのバスは必ず一緒で、バス停降りて歩くのも一緒だった。学校が終わった後は、学校の近くにあるダイエーのフードコートに行き、ずっと二人で話していた。なぜか話題は尽きなかった。

 僕の友達は僕のように、努力してギリギリの成績でこの学校に入学出来たヤツらしかいなかった。成績は下から数えた方が早い4~5人の劣等生だけが、まともに話が噛み合った。

 仲良くなったきっかけは、メントスコーラを教えたことだった。校庭で2リットルのコーラにメントスを入れて、噴射して遊んだら、なぜか、職員室に呼び出されて注意を受けた。誰にも迷惑かかってないはずなのに、いろんなよくわからない理由をこじつけられた。こんな感じだから、進学校の中で、勉強もしないで、部活もしないで、ギャーギャー遊んでいる僕たちは明らかに異質な存在だった。

 だから、僕は最初からこの学校でもめちゃくちゃ浮いた存在になった。その間にもサイトの売上は徐々に上がっていった。4月の収益は14万円を超えていた。



27
「なんで、頭いいヤツって退屈そうなんだろう」
「それって私も含んでる?」
「いや、そうじゃなくてさ」

 僕は少しムッとした。
 
 ダイエーのフードコートにある奈津とドーナッツを食べていた。フードコートはこじんまりとしている。テナントはミスドとケンタッキーしかなく、横並びの店舗と向かいあわせで全面がガラス張りになっている。ガラス窓から、オレンジ色の西日が差していた。それが6月らしく感じた。店舗とガラスの間に細長いスペースが飲食スベースになっていて、安っぽいプラスチックの椅子と薄っぺらいテーブルがいくつも並んでいた。

「ごめん、冗談だって。ちょっとからかっただけ」

 奈津は笑いながら、右手に持った紙ナプキンで包んでフレンチクルーラーを持った。

「大体、ナツがそれらに含まれているなら、こんな話、しないよ」
「わかってるって。若いのに目の輝きがないよね」
「そうそう、もう、このまま良いところの大学行って、医者か、公務員やることしか考えていませんって感じがすごいする」
「所詮、田舎の進学校だから、みんな安泰の人生プランしか考えてないんだよ。全部半端モンばっかり」と奈津は言ったあと、フレンチクルーラーを一口食べた。薄くコーティングされた砂糖が剥がれ、奈津の手元に少しだけ砂糖の破片がこぼれた。

「高校生なんだからさ、もっと夢持っても良さそうじゃん?」
「おっさんかよ」と奈津は笑いながらそう言った。

「だって、みんな夢がないんだもん。なんで公務員になりたがる? なぜ有名大学目指す? これからもっと、ネットとかで自由に稼げるようになりそうなのにさ。みんな勉強ばかりしてさ、一体、何になるんだろう。それなりに生きれたらいいや。って思ってるのかな」
「熱いねぇ。なんかさ、みんな将来考えているようで考えてないよね。自分のこと。誰かに押し付けられたことが自分の夢だと思いこんでる気がするよね。青いよね」
「そうそう。青いけど青くなろうとしないみたいな感じさ」
「青いから狭い範囲でしか物事が見れないのかもしれないよ」
「どういうこと?」と僕は奈津に聞いた。
 
「大体、この学校はさ、勉強ができる子のほうが多いわけでしょ。君みたいに努力して勉強できるようになるわけじゃなくて、先天的に勉強が得意って感じ。だから、勉強の延長線上の未来しか興味が持てないんだと思う。別に勉強ができなくたって、元気さえあれば、仕事して、家庭持つことくらいできるのにね」
「確かに。そうかも。別に勉強できなくたってさ、生活はできるからね」
「そうそう。みんなそれが全くわかってないよね。私が言いたい青さって、そういうこと」と奈津はそう言ったあと、もう一口フレンチクルーラーを食べた。

「話戻るけどさ、ネットで稼げるようになって自由になれる人って、ごく一部でしょ?」と奈津は急に思い出したかのようにそう言った。

「そうだけどさ。どう見たってこれから先、自由に稼げそうになりそうじゃん?」
「そうは言っても、みんな安定して、幸せになるような仕事のほうがいいと思ってるんだよ。だから、みんな必死に勉強して、ずっと頑張ってるんでしょ。そうやって大人になったらどうなるんだろう。ずっと頑張り続ける大人になるのかな」
「絶対そうだよ。だからさ、俺はこんな大人になりたくないって改めて思ったよ」
「改めてって、一回思ったことあるってこと?」
「あ、うん。そうそう」
「うそっぽーい」奈津はそう言って笑った。

「みんなさ、違う意味で夢見すぎなんだよ。公務員とか、会社員になったって、拘束時間の割に合わないお金で働かされてさ、しょうもない人間関係に巻き込まれて、自分がわからなくなるだけなのにね。そんなの目に見えてるでしょ。大人を見てたらさ」
「それを知らないか、想像できないから、夢見てるんでしょ。みんな」
「ふーん。そういうものなんだ」

 僕はそう言ったあと、ブラックコーヒーを飲んだ。赤いカップにミスドのロゴが北欧テイストに印字されていていだ。

「じゃあさ、ナツはどうなりたい? 将来」
「え、私?」
「うん。ナツ」
「私はさ、今を生きたい」
「――深いね」
「うん。深いでしょ」

 奈津はそう言って、微笑んだ。

「――って言いたいけどさ、そうも言ってらんないよね」
「そっか。――なにか夢とかないの?」
「それが何もないんだよね。夢」
「――何になりたいとかないんだ」
 
 東京の大学に進学していたくらいだから、意外な答えで僕は思わず驚いた。

「うん、もう、そういうのは面倒」
「そっか。――違う意味で夢がないな。俺も夢なんてないけどさ」
「みんなそんなもんでしょ。学校の真面目ちゃんはさ、夢も持たないで、暇つぶしと将来への恐怖心がいっぱいで勉強してるだけだよ」と言いながら、奈津はフレンチクルーラーを食べきり、紙ナプキンでテーブルにこぼれた砂糖を集めていた。
 
「だってさ、ブラック企業で社畜する人生なんて私はごめんだよ。その前に大学入試で結構いいレベルの大学まで進学しないと給料に見合わない仕事をすることになるのはわかってるしさ」
「目に見えてキツイことが待ってるのに、なんでみんな頑張ることができるんだろう?」
「それが本当の幸せになると思い込んでいるからでしょ。きっと」
「ナツにはそれが幸せに見えない?」
「うん、見えないね。モガミもでしょ」
「そうだね。どんどん目が死んでいくなら、今を変えて自分の目を守りたい」
「それで、モガミはどうやって自分の目を殺さないようにするの?」
「ネットで稼いで目を腐らせないようにする」
「ネット、いいかもね。私もパソコンくらい買ってもらおうかな」と奈津はそう言った。

「ナツは、どうするの? 東京の大学目指すの?」
「私さ。もう、頑張りたくないんだよね。嫌になった」
「そうなんだ」と僕は奈津の意外な反応に単調な相槌を打った。

「でもさ、頑張んないといけないじゃん。便宜上。親がさ、私が大学に行くことが前提になってるんだよね。そして、それなりの大学に行くんだろうなと思っているんだろうし。親のその気持ちを納得させるためには、それなりの別な理由がない限り、私は頑張んなくちゃいけないんだと思う」

 奈津はそう言って、僕から視線をそらした。窓からは強い西日がフードコートに射し込み、あと2時間もしないうちに夜がまどろんだ空気を連れ去ることを事実のように突き出していた。
 
「頑張りたくないのに頑張らなくちゃいけないってことか」
「そういうこと。私が頑張らない理由を作るには私自身の自発的な理由じゃ、無理なんだよね。少なくとも大学進学までは」
「だから、大学は行く」
「そう。しかもAランク以上の大学を目標に頑張んないといけない。やる気ないのにね」と奈津はそう言ったあと、カフェオレを一口飲んだ。

 マグカップを置いたあと、奈津は左手の人差し指で小刻みにテーブルを弱く叩いた。それが数秒続いたあと、急に人差し指は動きは止まった。そして、こう話しを続けた。

「ねえ。もし生活に困らないくらいお金があったら、何したい?」
「――わからない。そんな生活したことないから」
「そうだね。そういう答えになるよね」
「ナツはどうなの?」
「私はお金があったら、このまま何事もなく過ごしたい。――だけど、そんなの難しいね。親に道外の大学、東京の大学行って、外の世界見てこいって言われてるから、ブランドがある大学に進学しないとダメだね」と奈津はそう言ったあと、小さくため息をついた。
 
「――そんなに親が東京にこだわってるの?」
「うん。親が後悔してるんだって。親が自分の人生、振り返ると道外に出れるチャンスは大学進学のときしかなかったって思ってるんだって。道内の大学行ったら、就職先も自然と道内になっちゃうでしょ。昔だったら。ウザいよね。そういうの。だから、大学は東京の大学行けって、すごいうるさい」
「そうなんだ」
「それにさ、私のおばさんが東京に住んでるから、そこに住まわせてもらって大学行けばいいとか言ってるんだ。だけどさ、そもそも大学生なるんだから、進路くらい自分で決めても良くない? 私が行きたい大学を選んだり、住む場所を選んだっていいじゃん。私、もし大学行くにしても札幌で十分だもん。大学生なんだからさ、自由にさせておけばいいじゃん。なのに、それは頭にないみたい。あーあ。もし、私が東京に行くことになったら、私たち、どうなるんだろうね」
「遠距離恋愛でもする?」
「私さ、遠距離恋愛、無理だと思う」
「どうして?」
「学生の遠距離恋愛はつらいよ。結婚して単身赴任ならわかるけど。私、こう見えて嫉妬深いから、他の大学で女作ってるんじゃないかって気が気じゃないよ」

 奈津はそう言ったあと、また大きなため息をついた。そして、もう一度、何かを忘れたたいかのような勢いで、カフェオレを一口飲んだ。

 奈津がコーヒーカップをテーブルの上に置くと、荒っぽい音がした。そのあと、右手で頬杖をつき、左手の人差し指で、机をコツコツと弱く叩いていた。露骨にイライラしている奈津はきれいに整ったボブの所為なのかわからないけど、なぜか可愛く見えた。

 しばらくお互いに黙ったままだった。フードコートの至る所から聞こえてくる話し声が一つのざわめきになり、室内を支配している。

「――ねぇ」
「なに?」
「私のこと、本気で考えてほしい」
「考えてるよ。だから――」
「だから、この話題を話しているんだよって、いいたいの?」

 僕は大きくため息をついた。こういうときは何を言ってもダメだ。きっと。奈津はたまに面倒くさいところがある。

「俺は本気だよ。わかってくれるよね?」

 僕がそう言うと奈津は小さく頷いた。

「――遠距離になったら、俺が他の女に手を出すと思ってる?」
「――いや、違うよ。だけど、大学生って出合いやすい環境じゃん。だから、私より魅力的な人なんて、残念だけどこの世の中には、たくさんいるわけだから、私自信が気が気じゃないの」
「うーん。そんなのやってみなくちゃわからないでしょ」
「それはそうだけどさ、わからないよ。――どうなるかなんて」

 奈津は頬杖をつき、いじけた表情で、むすっとしていた。

「――だけどね、モガミを信用してないってわけじゃないからね。ただ、私の性格的に不安なの」
「でもさ、俺の頭じゃ、いい大学行けないし、うちの親、東京に息子出せるほどお金ないよ。現実的じゃない」
「私はただ、モガミと離れたくないの。――あ、もう片付けないとやばいね」と奈津はそう言って話しを切やめた。そのあと、なぜか気まずい空気が流れ始めた。



28
 バスの中は僕と奈津以外の客はみんな老人だった。何人かはスーパーのレジ袋を持っていて、何人かは薬局のレジ袋を持っていた。みんな滝川で用事を済ませて、バスで歌志内に帰る。そういうことをしている人たちだ。

 奈津は窓枠に頬付けをして黙って外を眺めていた。左腕にフルラの腕時計をつけていた。学校に行く時はあまりつけないこの時計を奈津は珍しくつけていた。モスグリーンのベルトは変わらず艶があった。シンプルな白の文字板にゴールドのベゼルが絶妙におしゃれを作っていた。

 僕はなぜこうなっているのか、いまいちよくわからなかった。巻き戻す魔法があれば、その真意をもう一回確認するか、奈津が不機嫌にならない選択肢をとって普通にバスの中でいつもみたいに永遠に話したかった。奈津は自分の意思で東京の大学に行っているのだとてっきり思っていたけど、それは違ったということだけはわかった。しかも、親のふわふわしたエゴで行こうとしている。 

 だけど、奈津はそのことで不機嫌になっているのかどうかもわからなかった。多分、遠距離のことだろうけど、今すぐに考えるようなことでもないと思って、僕も少しイラッとした。いくつかのバス停の名前が自動音声で案内された。だけど、乗る人も降りる人もいなかった。お互いに黙ったまま、バス停に着いた。無言で席から立ち上がり、バスを降りた。奈津は立ち止まったままだった。奈津が立ち止まっている間にバスは発車していった。

「ねえ」

 奈津は冷たく低い声でそう言った。

「なにさ」
「なんでずっと黙ってたの」
「そうしたほうがいいと思ったからだよ」
「ねえ、それって優しさなの?」
「優しさだと思ってる。そっとしといたんだよ」
「ふーん。そうなんだ。――なんかさ、せっかく高校も同じところ行けたのにさ、嫌だね。また離れること考えるの」
「うん」
「なんで、こんなに生きるのって面倒なんだろうね」

 奈津は弱く小さな声でそう言った。奈津の表情を見ると泣くのをこらえているように見えた。

「そんなこと考えないでさ、行こう」と僕は奈津の左手を繋いで、歌志内駅のホームに向かった。

 ホームのベンチに座った。遠くの山は夕焼けに染まっていて、あと少しで日没が迫っているのがわかる色をしていた。カラスの群れが鳴きながら山の方へ飛んでいった。二年前、奈津に告白されて、そのあとこのベンチに座って、アイスを食べたことを思い出した。
 
「落ち着いた?」と僕は奈津にそう聞いた。

「ううん。――もうね。私、いろんな失敗をしたくないんだ」と奈津は涙をこらえているような震えた声でそう言った。

「いろんな失敗?」
「そう。いろんな失敗。――私、こう見えて、いろんな失敗してるの。失いたくないものを失ったり、選びたくない選択をして後悔したり、そんなことしょっちゅうしてるんだ」
「そうは見えないけどな」
「今のモガミには見えてないだけだよ。もうね、失いたくないの。モガミとの関係もそうだし、自分の幸せもそう。失いたくない」

 そのあと、奈津は黙ってしまった。このまま、奈津の言葉を待とうかと思ったけど、それはやめることにした。

「――今は幸せ?」
「うん、今が一番最高だよ。こうやってモガミとずっといれるし」と奈津はそう言ったあと、泣き出した。涙が何粒も頬を伝っていた。涙が夕日の光を反射してキラキラしていた。

 僕は思わず奈津を抱きしめた。

 奈津は僕の肩にうずめた。僕はナツの背中に手を回し、抱きしめた。抱きしめると奈津の鼓動を感じた。髪に残っているリンス匂い、弱くかいた汗の甘酸っぱい匂いが一緒に僕の鼻腔のなかに入っているのを感じた。

 奈津はひとしきり泣いたあと、ふと顔をあげて、僕から離れた。バッグからポケットティッシュを取り出して、鼻をかんだあと、ぼーっと前を見つめていた。僕は何も言わず、しばらく奈津が落ち着くのを待った。

「もういいよ。今日もありがとう。バイバイ。また明日」と奈津は低い声でそう言った。

「バイバイ」

 僕はそう言ったあと、奈津は立ち上がり、奈津の実家の方へ歩き始めた。僕はその場に立ったまま、奈津の背中を見ていた。奈津の姿はどんどん遠くなり、あっという間に遠くへ行ってしまった。僕は奈津の姿が見えなくなったあと、大きなため息をついた。そして、家に帰ることにした。



29
 奈津は死んだ。
 15歳の短い人生だった。

 15歳で一体、人生のどれほどのことがわかったのかわからない。もしかしたら、今、この瞬間も魂は成仏しないで、奈津はさまよっているのかもしれない。

 奈津は交通事故に遭った。親が運転する車が反対車線からはみ出した車と衝突した。親は助かったけど、助手席に乗っていた奈津は死んだ。出血多量によるショック死だったらしい。

 質素な葬式に参列した。棺の中には顔色が悪い奈津が入っていた。棺に入るとどんな人でも死は本当になる。こういうとき、家族が一番悲しいに決まっている。だから、泣かないようにと気持ちを押し殺すことにしていた。

 だけど、奈津の顔を見ると、涙が一筋、溢れた。

 家に帰って、ベッドにうつ伏せになり、ずっと泣いた。奈津の優しさや、無邪気さはもう二度と見ることが出来ない。本当の意味で奈津を知ることができたのか、結局のところわからない。なぜか気があって、なぜか妙に居心地がよかった。それだけなのかもしれない。奈津にとって、僕はどんな存在だったのか、どう思っていたのかは、今はもうわからない。

 奈津が最後、意識を失う寸前、どう思ったのか、わからない。

すっきりしない最後の別れだった。奈津に伝えるべき言葉は無数にあった。だけど、それらは簡単に消えてしまった。そして、多くの約束が簡単に無効になった。僕の生きる意味はすでに無くなった。それは目覚めが良いときに見た夢のようなものだ。僕が今、生きている動機はすべて奈津だった。今の高校に行ったのもそうだ。全ては水疱のようにあっさりと消えてしまったように思えた。

 こんなに奈津のことが僕の大半を占めているのに最後に「君が好き」と言えなかった。

 ――もう二度と奈津と会うことはできない。

 また、あの約束を思い出した。

 『ねえ。私のこと忘れないで』



 奈津が死んだ事実は変わらない。

 携帯を手に取り、画像を見ることにした。一番最初に表示されたのは、奈津がフレンチクルーラーを食べ始めようとしている写真だった。ずっと、奈津の表情を眺めた。

 奈津は画像の中の世界では笑顔だった。親指で十字キーを連打して、どんどん画像をさかのぼっていく。奈津と一緒に自撮りした写真がいくつも表示された。よく撮れている奈津の画像が現れるたび十字キーを押すのをやめてしばらく眺めた。

 画像データは1年前くらいの日付を表示していた。去年の夏休み、富良野に行ったときの画像が出てきた。カフェでジンジャエールを美味しそうに飲む奈津や、パンケーキを食べる前、携帯でパンケーキを撮っている奈津の画像が出てきた。最高のメイクをしている奈津だ。ほのかにピンクのチークがかかった頬や、元々、ぱっちりとした目がアイシャドウでさらに大きく見えた。

 ラベンダー畑で、二人並んで自撮りした写真をじっと眺めていると、また胸がきつく締められるような感覚がした。間を置かないでまた涙が両目から溢れ、目が霞んだ。付き合い始めたのは、ちょうどこの辺りだった。

 だから、実際、お互いの気持ちを確かめてから、まだ一年も経っていないことに気づいた。奈津とは、もっと先の未来を一緒に過ごしたかった。こうなったら、遠距離恋愛以前の問題だ。こないだまで悩んでいたことは些細なことに思えた。右手で目元の涙を拭い、もう一度画像を見た。

 ラベンダー畑の中にいる奈津は笑顔だった。