17
バス停の前に来た奈津はいつもと違った。ナチュラルなメイクをしていて、しっかりとアイライナーとアイシャドウが入っていた。いつもより更に目が大きく見えた。
中学生なのに高校生に見えるくらい大人っぽく、そして、格好も大人っぽい雰囲気が出ていた。黄色のワンピースに白のサマーカーディガンを羽織っていた。ワンピースの裾からは青いデニムが見えていた。そして、昨日と同じようにフルラの腕時計をつけていた。白いコンバースのスニーカーはいつも通りだった。
「どう? かわいいでしょ」
「かわいいよ」と僕は素直にそう言った。
朝の凛とした澄んだ空気が気持ちよかった。7時過ぎのバス停には当たり前のように僕と奈津しかいなかった。
少しして、赤平駅行きのバスがやってきた。僕と奈津はバスに乗り込んだ。車内にはこれから部活がありそうな高校生2人と、3人の老人しか乗っていなかった。僕と奈津は二人がけのシートに座った。奈津を先に窓側の席に座らせた。奈津と横にくっついてバスに乗るのは初めてだ。バスが揺れるたび、奈津の左肩が僕の右肩に弱く当たった。バスに乗っている間、奈津と手を繋いだままでいた。
15分もしないうちにバスは隣町の赤平駅に着いた。赤平駅でラベンダー畑駅までの切符を買った。次の列車が来るまで20分くらい時間があったから、自販機で缶コーヒーとカフェオレを買った。ベンチに座り、僕と奈津は乾杯した。
「やっぱりブラック飲むんだ」
「うん、ちょっと眠いからね」
「朝早かったからね。でもデートでそんなこと言っちゃダメだよ」
「あ、ごめん。つまらないとかそういうことじゃないよ。まだ、始まってもいないし」
「――そういうことじゃないんだけどさ。まあ、いいや。ねえ、いつからそんなにブラックがぶ飲みできるようになったの?」
「それ、前も聞いてたよね」
「うん。だって気になるんだもん。もしかして、格好つけてる?」
「いいや。好きで飲んでるよ」
「ホントかなぁ」
「ホントだって」と僕はそう言って、もう一口、コーヒーを飲んだ。
18
富良野駅で旭川行きの列車に乗り換えて、ラベンダー畑駅に着いた。車内にいた十数人が降りた。駅のホームを降りて、他の乗客と同じように、踏切までつながる細長い通路を歩いた。
歩いている途中で僕は奈津の手を繋いだ。奈津を見ると、にっこりした表情をしていた。ラベンダー畑の入口までは少し距離があった。踏切を渡ったあと、道路を歩き、緩やかな坂を登った。歩いている途中で、低い丘の斜面が紫色になっているのが見えた。そのまま、お互い黙々とラベンダー畑まで歩いた。
ラベンダー畑に着いた。そのまま、奈津と手を繋いだまま雄大なラベンダー畑の中を歩いた。きれい。すごい。そうだね。をお互いに繰り返して、ラベンダー畑を回った。
ラベンダー畑の真ん中で、「自撮りしよう」と僕は奈津を誘った。そして、僕は携帯をジーンズのポケットから取り出した。
「いいね。撮ろう」
奈津もショルダーバッグから携帯を取り出した。そして、何枚か奈津とツーショットの写真を撮った。
写真を撮ったあと、また手を繋いだ。その場に立ったまま、紫色に埋まっている丘を眺めていた。ラベンダーの香りがほのかに空気中に混じっている。落ち着く香りだ。ミツバチがラベンダーの蜜を集めていた。冷たい風が吹くたびにラベンダーが弱く揺れた。
「忘れられるね。どんな憂鬱も」と奈津はそう言った。
「そうだね。受験なんてどうでもよくなるね」
「どうでもよくならないでよ。もう。――ねえ、モガミ。私、ずっと聞きたかったことがあるの」
「なに?」
「同じ高校目指すって言ったときから、私のこと意識してた?」
「――うん、意識してたよ」
「そうなんだ。もっと早く付き合い始めてもよかったね。両思いだったなら」
「――奈津はいつから意識してたの?」
「私は最初からだよ。もう我慢できなくなっちゃった。だって、付き合ってないのにほとんど毎日会ってるんだよ。告白する前、それでちょっと憂鬱だったの」
「そうだったんだ」
「罪な男だね」と奈津はそう言って、笑った。
☆
そのあと、丘の上に建っている建物に行き、展望デッキからラベンダー畑を一望した。ラベンダー畑の先には、畑が広がっていて、畑を横断するように引かれている線路、その先に見える中富良野の街や十勝岳など、標高が高い山を見渡すことができた。
売店でラベンダーのソフトクリームを買った。建物を離れ、再びラベンダー畑へ行った。ラベンダーを眺めることができるベンチに座って、ラベンダーソフトを食べることにした。ラベンダーソフトは淡く紫色をしていて、ソフトクリームを鼻先に近づけるとラベンダーの香りがほのかにした。お互いにいただきますと言って、ソフトクリームを食べ始めた。
空はすっきりと晴れている。時折吹く風に少し冷たい風が混じっていて、寒く感じた。風が吹くたびにラベンダーは風が吹いた方へ一斉になびいていた。ベンチの前は通路になっていて、色んな人が好きなところで記念撮影をしたり、ゆっくり歩き、何かを話しながら、目の前に広がっているラベンダー畑を眺めていた。
僕たちの目の前を多くの人が通り過ぎていった。サングラスにノースリーブの西洋系の外国人やショッキングピンクのTシャツを着たアジア系の外国人、そして、日本人とさまざまだった。ソフトクリームを食べながら、ふと右側を見ると、お母さんに抱っこひもで抱っこされた乳児の男の子が僕と奈津を見つめているように見えた。
「すごっ」と男の子は奈津のアイスを指差してそう言った。
「これ?」と奈津がそう男の子に聞き返した。
「すごっ。すごっ。うー。これこれこれ」と男の子は両手をバタバタしながらそう言った。
「すみません」と男の子のお母さんは気まずそうにそう言った。
「お子さん何歳ですか?」と奈津はそう聞いた。
「1歳5ヶ月」
「そうなんですか。えー、かわいい。アイス好きみたいですね」
「すごっ。これ、しゅごー」と男の子は右手の人差指でなぜか、奈津のラベンダーソフトクリームばかりを指差していた。
「すごい若そうなのに、物怖じしないですごいね。子供好きなんですか?」
「はい、好きなので、こうやって声かけられるとテンション上がります」と奈津はそう言った。
「すごっ、これ、これ」と男の子はまだ奈津のアイスに興味があるみたいだった。左手の方からこの子の父親らしき人物が現れた。
「これ、アイスだよ。ア、イ、ス」と奈津は男の子に向かってそう言った。
「すごっ、しゅごっ」と男の子は興奮して、嬉しさを抑えられないような表情でそう言っていた。奈津と男の子のお母さんは一緒になって笑った。
「すごいね。上手だね」と奈津は男の子にそう言った。
「すごっ」
「みっち。バイバイだよ」と男の子のお母さんがそう言った。
「バイバーイ」と奈津は左手で小さく手を振ってそう言った。
「ばーい、ばい、ばーい」
男の子は機嫌良さそうな屈託のない笑顔でそう言った。僕も男の子に手を振った。そして、男の子のお母さんは軽く会釈をしたあと、左手の方へ歩き始めた。奈津はしばらく手を振っていた。男の子も嬉しそうに手を振り続けていた。
「すごいな、ナツ」
「すごいでしょ。私、こうやって子供に話しかけられること多いんだよね」
「すごいね。あの子、俺の方には見向きもしてなかったよ」
「私に夢中だったね」と奈津は得意げな表情をしてそう言った。
「どうして、ナツに興味持ったんだろう。あの男の子」
「ねえ、モガミ。特別に教えてあげる。子供と目が合ったら、こっちからニッコリしてあげるの。そしてね、その子にかわいいねって念を送ってあげるの。したらね、私に興味持った子供の殆どが、私にちょっかいかけてくれるんだよ。いいでしょ」
「いいね。俺には真似できないや」
「これ、自分で言うのも変だけど、他の人にはあまり真似できないと思う。私、子供、好きだから、こういうことあるとご褒美に感じるの」
「そうなんだ。こういう機会、あんまりないからね」僕はそう言ったあと、ラベンダーソフトを食べ終え、残っていたコーンを平らげた。
「うん。なんか、心が穏やかになるよね。普段、同世代とか大人とかと話してると、色々、面倒なことばかりでしょ。だから、子供ってそういうのなしで話せるからいいよね」と奈津は急に寂しげな表情をして、そう言った。奈津は一瞬、僕から視線をそらしたような気がした。
「そうだね。子供ってこうして見てたら無垢だよね」
「無垢じゃなかったら、子供じゃないね。私の目の前にもし、無垢じゃない子供が現れたら、無垢にさせてあげる自信あるな。私」
「そのときはさ、俺も仲間に入れてよ。子供にあまり懐かれないかもしれないけど、努力して、ナツと一緒に無垢にするよ」
「なにそれ。最高だね」と奈津はそう言ったあと、僕と同じ様に残っていたコーンを一口で食べた。奈津はラベンダーソフトを食べ終わると、僕の膝に手を差し出してきた。膝に当てられた奈津の左手はひんやりとしていた。
「私ね、冷え性なの。ソフトクリームとか食べるとすぐにこうなるの」
「大変だね」
「ねぇ。――温めて」と奈津がそう言ったあと、僕は右手を奈津の左手にかぶせて握った。指を奈津の指の間に絡ませて、第二関節を曲げて、奈津の左手を包むように握った。奈津の手の平は柔らかった。
「冷たいね」
「そうでしょ。アイスとかソフトクリーム食べた時っていつもそうなんだ。夏なのにね」
「昨日も手、冷たかったよね」
「うそ、あの時も冷たかった?」
「うん、少し冷えてたよ。昨日も涼しかったからね。だから、温めてあげる。昨日の分も」と僕は左手も奈津の左手に添えた。
しばらくそのままで、またラベンダーをぼんやりと眺めた。ラベンダー畑は時空が歪んでいて、時間という概念がないんじゃないかと思えるくらい見飽きることはなかった。
「ねえ、右手もいい?」と奈津はそう言って、右手を僕の方へ差し出した。
「いいよ」と僕は言いながら、一旦、奈津の左手を離した。そのあとすぐ、奈津は右手を僕の右膝の上に乗せた。僕はまた同じように両手で奈津の右手を包むように握った。
19
富良野行きの普通列車に乗った。2両編成の列車の中は立ち客はほとんどいなかったけど、程よく座席は埋まっていた。僕と奈津はたまたま空いていたボックスシートの座席に横並びに座った。
僕は通路側に座ったけど、奈津の横から見えるラベンダー畑の紫色が窓越しにきれいに見えた。奈津は窓縁に、右手で頬杖をつき、そんなファンタジックな世界を眺めていた。
列車はディーゼルエンジンをふかしながら、ラベンダー畑駅を出発した。
「ねえ。ずっとこのままがいいね」
奈津は頬杖をついたまま、静かな声でそう言った。
「そうだね」
「――だけど、会いたいな」
「会いたい?」
「――ごめん。独り言」
奈津がそう言ったあと、お互いに黙ったままになった。奈津の肩は小さくて、寂しそうに見えた。きっと、傷つきやすい年頃だから、何かを思い出したんだろう。
そう思うと、奈津が幼く感じ、すごく可愛く思えた。
なんでかわからないけど、そんな奈津を見ていると、そのうちに壊れてしまって、どこかへ消えてしまうんじゃないかってふと思った。
☆
昼食を食べるために富良野市内に戻った。昨日、携帯で調べておいたパンケーキ屋のことを奈津に伝えたらそこに行くことになった。駅前の温度計は24℃と赤いデジタル文字で表示されていた。時間はまだ14時を過ぎたくらいだけど、今日の気温はどうやらこれ以上、上がらないようだった。富良野に戻っても時折、冷たい風が混じっていて気持ちよかった。
黒に塗装されたスチールのドアを開けて店内に入った。店の中は真っ白な内装で、天井は2階くらいの高さまであって開放的に感じた。天井の張りは、濃いブラウンで、アクセントになっていた。そして等間隔に黒いペンダントライトが吊るされていて、照明の電球色が温かい印象を与えた。この時間なのに7組くらいのお客さんが入っていた。テーブル席に案内された。
テーブルと椅子はオーク調の木で出来ていた。席に座り、メニューをひとしきり見た。そのあと、店員を呼び、パンケーキセットを2つ頼んだ。飲み物は店がおすすめしている特製ジンジャエールにした。奈津も僕も迷わずそれを選んだ。店員はパンケーキセットであることと、飲み物がジンジャエールであることを確認して、カウンターへ戻って行った。
「最初から決まってたね」と奈津はそう言って笑った。
「そうだね。やっぱりこうなるよね」
「私さ、パンケーキずっと食べたかったんだよね」
「そうなんだ。あと少しで念願叶うね」
「あー。早く食べたい」
「食べたいね」
「――ちょっと、おしゃれすぎたかな。年齢の割に」
「ううん。むしろこういうところ行きたかった」
「ホントに?」
「うん。ホント。なんかさ、こういうところ来ると大人みたいだね」
「そうだね。ワクワクするね」
「うん、最高」と奈津は嬉しそうにそう言った。
「ねえ、大人になったらさ、こういうところもっと行きたいね」
「うん、行こう。こういうことずっとしたかったんだ。ナツと」
「え、ずっと?」
「うん。そうだよ。前からしたかったんだよ。ナツとのデート」
「私もしたかったよ。ずっと」と奈津がそう言ったあと、店員が水を持ってきた。
「ねえ、都会の女の子ならこんなの当たり前なんだろうなってたまに思うんだよね」
「でもさ、ナツは元々、札幌に住んでたでしょ」
「そうだけどさ、もうこっちに来て3年も経ってるんだよ? しかも、小学生だったから自分の活動範囲広がる前だから、自分の意思でこういうところ行けなかったもん。それにさ、親はおしゃれな人たちじゃないから、お店のセンスはダサいんだ。お父さんは特に絶望的。だからパルコも4プラも1回か2回くらいしか行ったことなかったもん。そもそも、家族と大通とか街に出ること自体、稀だったな」
「そうなんだ。したら、どこでいつも食べてたの?」
「え、マックとか、ファミレスだよ」と奈津はそう言って笑った。
「もう、カフェですらないね」僕も奈津と一緒になって笑った。
「でしょ? 服もね、買うの大変なの。札幌連れて行ってもらったとしても、おじいちゃんの家に行くだけだから、街なんていかないしさ。だから、私、ユニクロコーデで頑張ってるんだよ。はぁ、早く高校生になりたいわ。もう少し自由になれるから」
「そうだね。結構大変そうだね」
「親がおしゃれな人のところに生まれたかったわ。それに私、一人っ子だからさ、立場が弱いんだよね。これで妹か、お姉ちゃんいればさ、二人でおしゃれなところ行きたいって強く言えるのにね。ねえ、兄弟ほしいと思ったことある」
「ううん。ないよ。ナツは欲しい?」と僕がそう言ったとき、店員がジンジャエールを持ってきた。
「うん。同世代でメイクの話とか、ファッションの話とか、恋話とかしてみたかったな。ドラマとかに出てくる仲いい姉妹とか、すごい憧れる。私、たまに寂しいときがあるんだよね。無性に」と奈津は店員なんて気にしない素振りでそう言った。店員はジンジャエールを置いたあと会釈して、カウンターの方へ行った。
「俺がその代わりになれるように頑張るよ」
「え、それは違うよ。彼氏は彼氏だもん」
「だよね」
「だけど、ずっといてくれる人が欲しいのかも。私」
「なあ、ナツ。ずっと一緒にいよう」と僕がそう言っている最中に、再び店員がテーブルの前に現れ、パンケーキが乗った皿を2枚持ってきた。
「うん。一緒にいようね」奈津はそう言ったとき、店員はごゆっくりどうぞと言って、またカウンターの方へ戻っていった。
パンケーキはふわふわしていそうだった。四角く大きな黒いお皿の上に二枚のパンケーキが乗っている。皿の右側の隅には生クリームが山盛りに盛り付けられていた。生クリームの上に乗っているミントがより美味しさを際立たせていた。ジンジャエールはグラスの底にしっかりとすりおろされた生姜が沈んでいる。そして、グラスにはレモンが添えられていて、とても爽やかに見えた。
「すごーい。こういうおしゃれなの飢えてた」と奈津は嬉しそうにそう言った。
「ね。結構いい感じだよね」と僕はそう言ったあと携帯を取り出して、カメラを起動した。僕が写真を撮ったあと、奈津も携帯を取り出して、写真を撮った。奈津が写真を撮っている姿も撮影した。
「今、撮ったでしょ」
「あ、バレた?」
「バレバレだよ。もう」と奈津はそう言って笑った。
「いただきまーす」と僕は奈津を無視してそう言った。
20
パンケーキにナイフを入れた瞬間、すっとナイフが中に入っていくのがわかるくらいパンケーキはふわふわだった。切ったパンケーキに生クリームをつけて食べるとしっかりと甘く、美味しかった。
お互い、美味しいを何度か言って、あまり話さないで食べた。二人ともパンケーキを食べ終わると店員が食べ終わった皿を持っていった。お互いのジンジャエールはまだ半分くらい残っていた。
「ねえ、どうして私のこと好きになったの?」
「そんなの簡単だよ。常にナツのことが気になるからだよ。――ナツは?」
「私も。モガミのことがずっと気になってた。どうしてだろうね」
「そういうものなんだろうね」
「両思いってさ、本当に奇跡だと思わない?」
「うん。奇跡だね。まだ、ナツのこと、あまり知らないけど、なぜか知っているような気がするんだ。なんでだろうね」
「私もだよ。モガミ。大人になったらさ、上手く行かない恋とかに悩むのかな。どうして、あの人は私に振り向いてくれないだろうとか」
「きっとそうだろうね。みんな悩むから、本屋に恋愛本があふれるし、ananだって売れるんじゃない? 付き合ったあともきっと悩んでばかりなんだよ」と僕はそう言ったあと、前に付き合っていた彼女のことを思い出した。
「ふーん。きっと憂鬱になるんだろうね。そういう恋って。付き合ったあとも悩むって、本音を話せる関係になれなかったってことだよね。きっと」
「大人になると本音を話すことができなくなるんだよ」
「どうして本音を話せなくなるんだろう。一緒にいるのに」
「きっと、すれ違うんだよ。価値観が。善意で相手に言ったことが相手に誤解されて、言ったことが皮肉に聞こえたり、嫌がらせを受けてると思い込むんだ。その真意とか一切聞かないでね。それで、冗談がだんだんすれ違っていって、最初にあった氷山みたいな愛情は最後には溶けてなくなるんじゃないかな。それで、お互いにこれは夢だった。あなたは最低だねって言って、終わるんだよ」
「それがすれ違うってこと?」
「うん、そうなんだと思う。結局、大人も子供も真面目に相手に向き合わないと恋愛ってすぐに終わるんじゃないかな」
僕はそう言ったあと、ジンジャエールを一口飲んだ。すられた生姜が絶妙に辛くて、炭酸と一緒に口の中で弾けているように感じた。
「ねえ、モガミはさ、私のことは真剣に向き合ってくれる?」
「当たり前だろ。ナツのことは真剣に向き合いたいよ。――まだ付き合って2日目で重いかもしれないけど」
「ううん。やっぱり、そういう人だと思ってたよ。モガミは。それに私達さ、付き合い始めたのは昨日かもしれないけど、2月からずっと図書館で会ってたんだから、もう5ヶ月経ってるんじゃない? 付き合ってから」
「その期間、入れていいの?」
「うん。私はそう思ってるよ。だって居心地いいんだもん。モガミ」
「俺もだよ」
「ありがとう」
「ナツ、かわいいね」
「――ちょっと。唐突に言わないでよ」と奈津の頬がだんだん赤くなっていた。奈津はそう言ったあと、ジンジャエールを一口飲んだ。そして、右肘をテーブルにつけて、右手で口を隠した。
「照れてるの?」
「うん。恥ずかしくなるよ。こういうこと急に言われると」
「思わず、言っちゃった」
「ねえ。私のこと好き?」
「うん、好きだよ」僕がそう言ったあと、奈津はジンジャエールのグラスを僕に差し出した。だから、僕はジンジャエールのグラスを持ち、奈津のグラスに軽くあてた。
21
滝川行きの列車に乗り込んだ。車内にはほとんど人は乗っていなかった。赤平駅からの最終バスは5時過ぎだから、このまま行けば間に合うのが決まって少しほっとした。
赤平駅に着き、滝川駅行きのバスに乗り換えた。僕と奈津は最後尾の席に座った。バスの前方から黄色い西日が射してホコリが舞ってキラキラしていた。
「ねえ、いい女といい男ごっこしない?」
「なにそれ。いいよ。ナツの言うことは何でも聞くよ」
「わかった。そしたら、私から、いい女っぽいセリフ言っていくから、いい男になりきって答えてね」
「あ、ちょっとまって。映画っぽい感じのセリフ言えばいいんでしょ?」
「そうそう。いいシーンのとき、心に響くいいセリフね」
「わかった。いいよ。ナツからやって」
「えー。恥ずかしい」と奈津は笑ってそう言った。
「なんだよそれ。自分から話題振ったのにさ」
「先にやってよ。私、後手のほうが得意かも」
「わかった。えーっと」
「よーいスタート」奈津は間髪入れずにそう言った。
「えー。――今日は最高だったよ」と僕は低めの声を作ってそう言った。
「私もよ。今日はとても楽しかったわ。寂しいわ。あなたと離れるなんて」
「僕もだよ。ジュリエット」僕がそう言ったあと、奈津は吹き出して笑った。
「ロミオとジュリエット、禁止にしよう」
「えー。なんでさ」
「だってさ、これだと、ずっと、ロォーミオ。おージュリエットの繰り返しになっちゃうから」と奈津が言ったあと、僕と奈津は笑った。笑っている間に運転手がバスが発車することをアナウンスし、ドアが閉まった。結局、僕と奈津しか乗っていなかった。バスが走り始め、自動放送が流れた。
「もう一回だよ? よーいスタート」と奈津はそう言った。
「うーん。どうしよう。……君なしの人生なんて考えられないよ」
「私もよ。誰がなんと言おうと、この恋は神様が続けるべきだと言っているわ」と奈津を見たら、口角が上がって、ニヤニヤしていた。奈津は笑うのを我慢しているように見えた。
「その通りさ。君以外のことを考えるなんて神に対して、何たる冒涜なんだろうって思わないか」と僕がそう言い終わると奈津は声を出して笑った。
「なにそれ。何たる冒涜なんだろうって思わないかって、それ相手に聞いちゃダメでしょ」
「え、そうなの?」
「そうだよ。いい男ならもっとズバッとさ、決めに行くところでしょ。話を広げるとかさ」
「例えば、どんな感じさ」
「えーとね。この恋は神様が続けるべきだと言っているわ。――神を信じよう。そして、僕は君の瞳も信じるよ。嘘をついていないことは明白だからね」
「おー。すごーい」と僕は拍手しながら奈津にそう言った。
「すごーいじゃないよ。このくらいロマンティックな感じが欲しいな」
「わかったって。次は真剣にやるから。吹き出さないでね」と僕がそう言うと、奈津は頷いた。
「君はとても素敵だ。好きなことに変わりないし、もし、人生の最後が来たら話したいのは君だ」
「私もよ。もし、世界が滅亡したら、私達、一緒に手を繋いでいましょう。それが私達にとって最後のロマンスになるはずだから」
「わかったよ。君はガラスみたいに透き通っていて、繊細な心の持ち主だ。君が傷ついたら、僕がバーナーで熱を当てて、いつでも君のことを修理できるようにするよ」
「最高ね。あなた。私はあなたと、ただ、日常を暮らしたいの。一緒にサンドイッチを持って、秋の公園に行って、赤や黄色、色とりどりの木々をみて、ぼんやりと過ごしたいの。ねえ、手、繋ごう」と奈津はそう言うと左手を僕の右膝に乗せた。僕は何も言わずに右手で奈津の左手を握った。奈津の手は温かくて、少し汗ばんでいた。
「いつから、僕は歳を取るのが臆病になったんだろう。僕は死ぬ前に後悔したくないんだ。君を離してしまったことを」
「ねえ、私を離さないで。このまま」
「離さないよ。ずっと君のことは。嵐が来ても、世界が滅亡しても、手を離さないよ」
「ねえ、私が先に死んでもあなたは私のこと、忘れない?」
「忘れないよ。たとえ、君の声を忘れても、君の記憶が曖昧になっても」
「私、このまま、あなたに忘れ去られるのが嫌なの」
「忘れないよ。君のこと」
「忘れないで私のこと。もう、離れたくないの」
「同じだよ。永遠に一緒にいよう」
「永遠に一緒に入れる根拠を示してよ。私、それがないと不安で今夜も眠れないわ」
「根拠?」
「うん、根拠。私に根拠を示す言葉をかけてよ」
「――結婚してください。これだけなんだよ。永遠に二人が結ばれる言葉は」と僕が言うと同時くらいに、降りるバス停の名前のアナウンスが流れた。奈津は降車ボタンを押した。
22
11月に模試を受けた。B判定だった。面談で、コバヤシに模試の結果を聞かれ、B判定であることを伝えた。
するとコバヤシは「もうどこにでも行けばいい。路頭に迷うのはお前なんだから、チャレンジするのも悪くない」と言った。
冬休み中は、勉強に追い込みをかけた。一日10時間くらい勉強するようにした。冬休みが明けてからは、奈津と図書館で勉強するのをやめて、それぞれ家で勉強するようになった。
1月が終わる頃、一定のラインまで到達したと実感できるようになった。その数日後に最後の模試を受けた。その結果、A判定だった。すごく嬉しかった。願書提出前、最後の三者面談でコバヤシにその結果を見せた。するとコバヤシは「わかった、願書出してみよう。頑張れ」と抑揚のない声でそう言った。
23
卒業式が終わり、次の日に高校の合格発表があった。奈津と合格発表の番号を高校まで見に行った。大きな模造紙に合格した受験番号がずらりと並んでいた。101番から順番に番号が無機質に並んでいて、ところどころ飛び番があった。
奈津が僕の番号を見つけた。確かに僕の番号が確かに書かれていた。そのすぐ下に奈津の番号も書かれていた。
それから、何日か経ち、合格証書と入学書類が学校から送られてきた。
バス停の前に来た奈津はいつもと違った。ナチュラルなメイクをしていて、しっかりとアイライナーとアイシャドウが入っていた。いつもより更に目が大きく見えた。
中学生なのに高校生に見えるくらい大人っぽく、そして、格好も大人っぽい雰囲気が出ていた。黄色のワンピースに白のサマーカーディガンを羽織っていた。ワンピースの裾からは青いデニムが見えていた。そして、昨日と同じようにフルラの腕時計をつけていた。白いコンバースのスニーカーはいつも通りだった。
「どう? かわいいでしょ」
「かわいいよ」と僕は素直にそう言った。
朝の凛とした澄んだ空気が気持ちよかった。7時過ぎのバス停には当たり前のように僕と奈津しかいなかった。
少しして、赤平駅行きのバスがやってきた。僕と奈津はバスに乗り込んだ。車内にはこれから部活がありそうな高校生2人と、3人の老人しか乗っていなかった。僕と奈津は二人がけのシートに座った。奈津を先に窓側の席に座らせた。奈津と横にくっついてバスに乗るのは初めてだ。バスが揺れるたび、奈津の左肩が僕の右肩に弱く当たった。バスに乗っている間、奈津と手を繋いだままでいた。
15分もしないうちにバスは隣町の赤平駅に着いた。赤平駅でラベンダー畑駅までの切符を買った。次の列車が来るまで20分くらい時間があったから、自販機で缶コーヒーとカフェオレを買った。ベンチに座り、僕と奈津は乾杯した。
「やっぱりブラック飲むんだ」
「うん、ちょっと眠いからね」
「朝早かったからね。でもデートでそんなこと言っちゃダメだよ」
「あ、ごめん。つまらないとかそういうことじゃないよ。まだ、始まってもいないし」
「――そういうことじゃないんだけどさ。まあ、いいや。ねえ、いつからそんなにブラックがぶ飲みできるようになったの?」
「それ、前も聞いてたよね」
「うん。だって気になるんだもん。もしかして、格好つけてる?」
「いいや。好きで飲んでるよ」
「ホントかなぁ」
「ホントだって」と僕はそう言って、もう一口、コーヒーを飲んだ。
18
富良野駅で旭川行きの列車に乗り換えて、ラベンダー畑駅に着いた。車内にいた十数人が降りた。駅のホームを降りて、他の乗客と同じように、踏切までつながる細長い通路を歩いた。
歩いている途中で僕は奈津の手を繋いだ。奈津を見ると、にっこりした表情をしていた。ラベンダー畑の入口までは少し距離があった。踏切を渡ったあと、道路を歩き、緩やかな坂を登った。歩いている途中で、低い丘の斜面が紫色になっているのが見えた。そのまま、お互い黙々とラベンダー畑まで歩いた。
ラベンダー畑に着いた。そのまま、奈津と手を繋いだまま雄大なラベンダー畑の中を歩いた。きれい。すごい。そうだね。をお互いに繰り返して、ラベンダー畑を回った。
ラベンダー畑の真ん中で、「自撮りしよう」と僕は奈津を誘った。そして、僕は携帯をジーンズのポケットから取り出した。
「いいね。撮ろう」
奈津もショルダーバッグから携帯を取り出した。そして、何枚か奈津とツーショットの写真を撮った。
写真を撮ったあと、また手を繋いだ。その場に立ったまま、紫色に埋まっている丘を眺めていた。ラベンダーの香りがほのかに空気中に混じっている。落ち着く香りだ。ミツバチがラベンダーの蜜を集めていた。冷たい風が吹くたびにラベンダーが弱く揺れた。
「忘れられるね。どんな憂鬱も」と奈津はそう言った。
「そうだね。受験なんてどうでもよくなるね」
「どうでもよくならないでよ。もう。――ねえ、モガミ。私、ずっと聞きたかったことがあるの」
「なに?」
「同じ高校目指すって言ったときから、私のこと意識してた?」
「――うん、意識してたよ」
「そうなんだ。もっと早く付き合い始めてもよかったね。両思いだったなら」
「――奈津はいつから意識してたの?」
「私は最初からだよ。もう我慢できなくなっちゃった。だって、付き合ってないのにほとんど毎日会ってるんだよ。告白する前、それでちょっと憂鬱だったの」
「そうだったんだ」
「罪な男だね」と奈津はそう言って、笑った。
☆
そのあと、丘の上に建っている建物に行き、展望デッキからラベンダー畑を一望した。ラベンダー畑の先には、畑が広がっていて、畑を横断するように引かれている線路、その先に見える中富良野の街や十勝岳など、標高が高い山を見渡すことができた。
売店でラベンダーのソフトクリームを買った。建物を離れ、再びラベンダー畑へ行った。ラベンダーを眺めることができるベンチに座って、ラベンダーソフトを食べることにした。ラベンダーソフトは淡く紫色をしていて、ソフトクリームを鼻先に近づけるとラベンダーの香りがほのかにした。お互いにいただきますと言って、ソフトクリームを食べ始めた。
空はすっきりと晴れている。時折吹く風に少し冷たい風が混じっていて、寒く感じた。風が吹くたびにラベンダーは風が吹いた方へ一斉になびいていた。ベンチの前は通路になっていて、色んな人が好きなところで記念撮影をしたり、ゆっくり歩き、何かを話しながら、目の前に広がっているラベンダー畑を眺めていた。
僕たちの目の前を多くの人が通り過ぎていった。サングラスにノースリーブの西洋系の外国人やショッキングピンクのTシャツを着たアジア系の外国人、そして、日本人とさまざまだった。ソフトクリームを食べながら、ふと右側を見ると、お母さんに抱っこひもで抱っこされた乳児の男の子が僕と奈津を見つめているように見えた。
「すごっ」と男の子は奈津のアイスを指差してそう言った。
「これ?」と奈津がそう男の子に聞き返した。
「すごっ。すごっ。うー。これこれこれ」と男の子は両手をバタバタしながらそう言った。
「すみません」と男の子のお母さんは気まずそうにそう言った。
「お子さん何歳ですか?」と奈津はそう聞いた。
「1歳5ヶ月」
「そうなんですか。えー、かわいい。アイス好きみたいですね」
「すごっ。これ、しゅごー」と男の子は右手の人差指でなぜか、奈津のラベンダーソフトクリームばかりを指差していた。
「すごい若そうなのに、物怖じしないですごいね。子供好きなんですか?」
「はい、好きなので、こうやって声かけられるとテンション上がります」と奈津はそう言った。
「すごっ、これ、これ」と男の子はまだ奈津のアイスに興味があるみたいだった。左手の方からこの子の父親らしき人物が現れた。
「これ、アイスだよ。ア、イ、ス」と奈津は男の子に向かってそう言った。
「すごっ、しゅごっ」と男の子は興奮して、嬉しさを抑えられないような表情でそう言っていた。奈津と男の子のお母さんは一緒になって笑った。
「すごいね。上手だね」と奈津は男の子にそう言った。
「すごっ」
「みっち。バイバイだよ」と男の子のお母さんがそう言った。
「バイバーイ」と奈津は左手で小さく手を振ってそう言った。
「ばーい、ばい、ばーい」
男の子は機嫌良さそうな屈託のない笑顔でそう言った。僕も男の子に手を振った。そして、男の子のお母さんは軽く会釈をしたあと、左手の方へ歩き始めた。奈津はしばらく手を振っていた。男の子も嬉しそうに手を振り続けていた。
「すごいな、ナツ」
「すごいでしょ。私、こうやって子供に話しかけられること多いんだよね」
「すごいね。あの子、俺の方には見向きもしてなかったよ」
「私に夢中だったね」と奈津は得意げな表情をしてそう言った。
「どうして、ナツに興味持ったんだろう。あの男の子」
「ねえ、モガミ。特別に教えてあげる。子供と目が合ったら、こっちからニッコリしてあげるの。そしてね、その子にかわいいねって念を送ってあげるの。したらね、私に興味持った子供の殆どが、私にちょっかいかけてくれるんだよ。いいでしょ」
「いいね。俺には真似できないや」
「これ、自分で言うのも変だけど、他の人にはあまり真似できないと思う。私、子供、好きだから、こういうことあるとご褒美に感じるの」
「そうなんだ。こういう機会、あんまりないからね」僕はそう言ったあと、ラベンダーソフトを食べ終え、残っていたコーンを平らげた。
「うん。なんか、心が穏やかになるよね。普段、同世代とか大人とかと話してると、色々、面倒なことばかりでしょ。だから、子供ってそういうのなしで話せるからいいよね」と奈津は急に寂しげな表情をして、そう言った。奈津は一瞬、僕から視線をそらしたような気がした。
「そうだね。子供ってこうして見てたら無垢だよね」
「無垢じゃなかったら、子供じゃないね。私の目の前にもし、無垢じゃない子供が現れたら、無垢にさせてあげる自信あるな。私」
「そのときはさ、俺も仲間に入れてよ。子供にあまり懐かれないかもしれないけど、努力して、ナツと一緒に無垢にするよ」
「なにそれ。最高だね」と奈津はそう言ったあと、僕と同じ様に残っていたコーンを一口で食べた。奈津はラベンダーソフトを食べ終わると、僕の膝に手を差し出してきた。膝に当てられた奈津の左手はひんやりとしていた。
「私ね、冷え性なの。ソフトクリームとか食べるとすぐにこうなるの」
「大変だね」
「ねぇ。――温めて」と奈津がそう言ったあと、僕は右手を奈津の左手にかぶせて握った。指を奈津の指の間に絡ませて、第二関節を曲げて、奈津の左手を包むように握った。奈津の手の平は柔らかった。
「冷たいね」
「そうでしょ。アイスとかソフトクリーム食べた時っていつもそうなんだ。夏なのにね」
「昨日も手、冷たかったよね」
「うそ、あの時も冷たかった?」
「うん、少し冷えてたよ。昨日も涼しかったからね。だから、温めてあげる。昨日の分も」と僕は左手も奈津の左手に添えた。
しばらくそのままで、またラベンダーをぼんやりと眺めた。ラベンダー畑は時空が歪んでいて、時間という概念がないんじゃないかと思えるくらい見飽きることはなかった。
「ねえ、右手もいい?」と奈津はそう言って、右手を僕の方へ差し出した。
「いいよ」と僕は言いながら、一旦、奈津の左手を離した。そのあとすぐ、奈津は右手を僕の右膝の上に乗せた。僕はまた同じように両手で奈津の右手を包むように握った。
19
富良野行きの普通列車に乗った。2両編成の列車の中は立ち客はほとんどいなかったけど、程よく座席は埋まっていた。僕と奈津はたまたま空いていたボックスシートの座席に横並びに座った。
僕は通路側に座ったけど、奈津の横から見えるラベンダー畑の紫色が窓越しにきれいに見えた。奈津は窓縁に、右手で頬杖をつき、そんなファンタジックな世界を眺めていた。
列車はディーゼルエンジンをふかしながら、ラベンダー畑駅を出発した。
「ねえ。ずっとこのままがいいね」
奈津は頬杖をついたまま、静かな声でそう言った。
「そうだね」
「――だけど、会いたいな」
「会いたい?」
「――ごめん。独り言」
奈津がそう言ったあと、お互いに黙ったままになった。奈津の肩は小さくて、寂しそうに見えた。きっと、傷つきやすい年頃だから、何かを思い出したんだろう。
そう思うと、奈津が幼く感じ、すごく可愛く思えた。
なんでかわからないけど、そんな奈津を見ていると、そのうちに壊れてしまって、どこかへ消えてしまうんじゃないかってふと思った。
☆
昼食を食べるために富良野市内に戻った。昨日、携帯で調べておいたパンケーキ屋のことを奈津に伝えたらそこに行くことになった。駅前の温度計は24℃と赤いデジタル文字で表示されていた。時間はまだ14時を過ぎたくらいだけど、今日の気温はどうやらこれ以上、上がらないようだった。富良野に戻っても時折、冷たい風が混じっていて気持ちよかった。
黒に塗装されたスチールのドアを開けて店内に入った。店の中は真っ白な内装で、天井は2階くらいの高さまであって開放的に感じた。天井の張りは、濃いブラウンで、アクセントになっていた。そして等間隔に黒いペンダントライトが吊るされていて、照明の電球色が温かい印象を与えた。この時間なのに7組くらいのお客さんが入っていた。テーブル席に案内された。
テーブルと椅子はオーク調の木で出来ていた。席に座り、メニューをひとしきり見た。そのあと、店員を呼び、パンケーキセットを2つ頼んだ。飲み物は店がおすすめしている特製ジンジャエールにした。奈津も僕も迷わずそれを選んだ。店員はパンケーキセットであることと、飲み物がジンジャエールであることを確認して、カウンターへ戻って行った。
「最初から決まってたね」と奈津はそう言って笑った。
「そうだね。やっぱりこうなるよね」
「私さ、パンケーキずっと食べたかったんだよね」
「そうなんだ。あと少しで念願叶うね」
「あー。早く食べたい」
「食べたいね」
「――ちょっと、おしゃれすぎたかな。年齢の割に」
「ううん。むしろこういうところ行きたかった」
「ホントに?」
「うん。ホント。なんかさ、こういうところ来ると大人みたいだね」
「そうだね。ワクワクするね」
「うん、最高」と奈津は嬉しそうにそう言った。
「ねえ、大人になったらさ、こういうところもっと行きたいね」
「うん、行こう。こういうことずっとしたかったんだ。ナツと」
「え、ずっと?」
「うん。そうだよ。前からしたかったんだよ。ナツとのデート」
「私もしたかったよ。ずっと」と奈津がそう言ったあと、店員が水を持ってきた。
「ねえ、都会の女の子ならこんなの当たり前なんだろうなってたまに思うんだよね」
「でもさ、ナツは元々、札幌に住んでたでしょ」
「そうだけどさ、もうこっちに来て3年も経ってるんだよ? しかも、小学生だったから自分の活動範囲広がる前だから、自分の意思でこういうところ行けなかったもん。それにさ、親はおしゃれな人たちじゃないから、お店のセンスはダサいんだ。お父さんは特に絶望的。だからパルコも4プラも1回か2回くらいしか行ったことなかったもん。そもそも、家族と大通とか街に出ること自体、稀だったな」
「そうなんだ。したら、どこでいつも食べてたの?」
「え、マックとか、ファミレスだよ」と奈津はそう言って笑った。
「もう、カフェですらないね」僕も奈津と一緒になって笑った。
「でしょ? 服もね、買うの大変なの。札幌連れて行ってもらったとしても、おじいちゃんの家に行くだけだから、街なんていかないしさ。だから、私、ユニクロコーデで頑張ってるんだよ。はぁ、早く高校生になりたいわ。もう少し自由になれるから」
「そうだね。結構大変そうだね」
「親がおしゃれな人のところに生まれたかったわ。それに私、一人っ子だからさ、立場が弱いんだよね。これで妹か、お姉ちゃんいればさ、二人でおしゃれなところ行きたいって強く言えるのにね。ねえ、兄弟ほしいと思ったことある」
「ううん。ないよ。ナツは欲しい?」と僕がそう言ったとき、店員がジンジャエールを持ってきた。
「うん。同世代でメイクの話とか、ファッションの話とか、恋話とかしてみたかったな。ドラマとかに出てくる仲いい姉妹とか、すごい憧れる。私、たまに寂しいときがあるんだよね。無性に」と奈津は店員なんて気にしない素振りでそう言った。店員はジンジャエールを置いたあと会釈して、カウンターの方へ行った。
「俺がその代わりになれるように頑張るよ」
「え、それは違うよ。彼氏は彼氏だもん」
「だよね」
「だけど、ずっといてくれる人が欲しいのかも。私」
「なあ、ナツ。ずっと一緒にいよう」と僕がそう言っている最中に、再び店員がテーブルの前に現れ、パンケーキが乗った皿を2枚持ってきた。
「うん。一緒にいようね」奈津はそう言ったとき、店員はごゆっくりどうぞと言って、またカウンターの方へ戻っていった。
パンケーキはふわふわしていそうだった。四角く大きな黒いお皿の上に二枚のパンケーキが乗っている。皿の右側の隅には生クリームが山盛りに盛り付けられていた。生クリームの上に乗っているミントがより美味しさを際立たせていた。ジンジャエールはグラスの底にしっかりとすりおろされた生姜が沈んでいる。そして、グラスにはレモンが添えられていて、とても爽やかに見えた。
「すごーい。こういうおしゃれなの飢えてた」と奈津は嬉しそうにそう言った。
「ね。結構いい感じだよね」と僕はそう言ったあと携帯を取り出して、カメラを起動した。僕が写真を撮ったあと、奈津も携帯を取り出して、写真を撮った。奈津が写真を撮っている姿も撮影した。
「今、撮ったでしょ」
「あ、バレた?」
「バレバレだよ。もう」と奈津はそう言って笑った。
「いただきまーす」と僕は奈津を無視してそう言った。
20
パンケーキにナイフを入れた瞬間、すっとナイフが中に入っていくのがわかるくらいパンケーキはふわふわだった。切ったパンケーキに生クリームをつけて食べるとしっかりと甘く、美味しかった。
お互い、美味しいを何度か言って、あまり話さないで食べた。二人ともパンケーキを食べ終わると店員が食べ終わった皿を持っていった。お互いのジンジャエールはまだ半分くらい残っていた。
「ねえ、どうして私のこと好きになったの?」
「そんなの簡単だよ。常にナツのことが気になるからだよ。――ナツは?」
「私も。モガミのことがずっと気になってた。どうしてだろうね」
「そういうものなんだろうね」
「両思いってさ、本当に奇跡だと思わない?」
「うん。奇跡だね。まだ、ナツのこと、あまり知らないけど、なぜか知っているような気がするんだ。なんでだろうね」
「私もだよ。モガミ。大人になったらさ、上手く行かない恋とかに悩むのかな。どうして、あの人は私に振り向いてくれないだろうとか」
「きっとそうだろうね。みんな悩むから、本屋に恋愛本があふれるし、ananだって売れるんじゃない? 付き合ったあともきっと悩んでばかりなんだよ」と僕はそう言ったあと、前に付き合っていた彼女のことを思い出した。
「ふーん。きっと憂鬱になるんだろうね。そういう恋って。付き合ったあとも悩むって、本音を話せる関係になれなかったってことだよね。きっと」
「大人になると本音を話すことができなくなるんだよ」
「どうして本音を話せなくなるんだろう。一緒にいるのに」
「きっと、すれ違うんだよ。価値観が。善意で相手に言ったことが相手に誤解されて、言ったことが皮肉に聞こえたり、嫌がらせを受けてると思い込むんだ。その真意とか一切聞かないでね。それで、冗談がだんだんすれ違っていって、最初にあった氷山みたいな愛情は最後には溶けてなくなるんじゃないかな。それで、お互いにこれは夢だった。あなたは最低だねって言って、終わるんだよ」
「それがすれ違うってこと?」
「うん、そうなんだと思う。結局、大人も子供も真面目に相手に向き合わないと恋愛ってすぐに終わるんじゃないかな」
僕はそう言ったあと、ジンジャエールを一口飲んだ。すられた生姜が絶妙に辛くて、炭酸と一緒に口の中で弾けているように感じた。
「ねえ、モガミはさ、私のことは真剣に向き合ってくれる?」
「当たり前だろ。ナツのことは真剣に向き合いたいよ。――まだ付き合って2日目で重いかもしれないけど」
「ううん。やっぱり、そういう人だと思ってたよ。モガミは。それに私達さ、付き合い始めたのは昨日かもしれないけど、2月からずっと図書館で会ってたんだから、もう5ヶ月経ってるんじゃない? 付き合ってから」
「その期間、入れていいの?」
「うん。私はそう思ってるよ。だって居心地いいんだもん。モガミ」
「俺もだよ」
「ありがとう」
「ナツ、かわいいね」
「――ちょっと。唐突に言わないでよ」と奈津の頬がだんだん赤くなっていた。奈津はそう言ったあと、ジンジャエールを一口飲んだ。そして、右肘をテーブルにつけて、右手で口を隠した。
「照れてるの?」
「うん。恥ずかしくなるよ。こういうこと急に言われると」
「思わず、言っちゃった」
「ねえ。私のこと好き?」
「うん、好きだよ」僕がそう言ったあと、奈津はジンジャエールのグラスを僕に差し出した。だから、僕はジンジャエールのグラスを持ち、奈津のグラスに軽くあてた。
21
滝川行きの列車に乗り込んだ。車内にはほとんど人は乗っていなかった。赤平駅からの最終バスは5時過ぎだから、このまま行けば間に合うのが決まって少しほっとした。
赤平駅に着き、滝川駅行きのバスに乗り換えた。僕と奈津は最後尾の席に座った。バスの前方から黄色い西日が射してホコリが舞ってキラキラしていた。
「ねえ、いい女といい男ごっこしない?」
「なにそれ。いいよ。ナツの言うことは何でも聞くよ」
「わかった。そしたら、私から、いい女っぽいセリフ言っていくから、いい男になりきって答えてね」
「あ、ちょっとまって。映画っぽい感じのセリフ言えばいいんでしょ?」
「そうそう。いいシーンのとき、心に響くいいセリフね」
「わかった。いいよ。ナツからやって」
「えー。恥ずかしい」と奈津は笑ってそう言った。
「なんだよそれ。自分から話題振ったのにさ」
「先にやってよ。私、後手のほうが得意かも」
「わかった。えーっと」
「よーいスタート」奈津は間髪入れずにそう言った。
「えー。――今日は最高だったよ」と僕は低めの声を作ってそう言った。
「私もよ。今日はとても楽しかったわ。寂しいわ。あなたと離れるなんて」
「僕もだよ。ジュリエット」僕がそう言ったあと、奈津は吹き出して笑った。
「ロミオとジュリエット、禁止にしよう」
「えー。なんでさ」
「だってさ、これだと、ずっと、ロォーミオ。おージュリエットの繰り返しになっちゃうから」と奈津が言ったあと、僕と奈津は笑った。笑っている間に運転手がバスが発車することをアナウンスし、ドアが閉まった。結局、僕と奈津しか乗っていなかった。バスが走り始め、自動放送が流れた。
「もう一回だよ? よーいスタート」と奈津はそう言った。
「うーん。どうしよう。……君なしの人生なんて考えられないよ」
「私もよ。誰がなんと言おうと、この恋は神様が続けるべきだと言っているわ」と奈津を見たら、口角が上がって、ニヤニヤしていた。奈津は笑うのを我慢しているように見えた。
「その通りさ。君以外のことを考えるなんて神に対して、何たる冒涜なんだろうって思わないか」と僕がそう言い終わると奈津は声を出して笑った。
「なにそれ。何たる冒涜なんだろうって思わないかって、それ相手に聞いちゃダメでしょ」
「え、そうなの?」
「そうだよ。いい男ならもっとズバッとさ、決めに行くところでしょ。話を広げるとかさ」
「例えば、どんな感じさ」
「えーとね。この恋は神様が続けるべきだと言っているわ。――神を信じよう。そして、僕は君の瞳も信じるよ。嘘をついていないことは明白だからね」
「おー。すごーい」と僕は拍手しながら奈津にそう言った。
「すごーいじゃないよ。このくらいロマンティックな感じが欲しいな」
「わかったって。次は真剣にやるから。吹き出さないでね」と僕がそう言うと、奈津は頷いた。
「君はとても素敵だ。好きなことに変わりないし、もし、人生の最後が来たら話したいのは君だ」
「私もよ。もし、世界が滅亡したら、私達、一緒に手を繋いでいましょう。それが私達にとって最後のロマンスになるはずだから」
「わかったよ。君はガラスみたいに透き通っていて、繊細な心の持ち主だ。君が傷ついたら、僕がバーナーで熱を当てて、いつでも君のことを修理できるようにするよ」
「最高ね。あなた。私はあなたと、ただ、日常を暮らしたいの。一緒にサンドイッチを持って、秋の公園に行って、赤や黄色、色とりどりの木々をみて、ぼんやりと過ごしたいの。ねえ、手、繋ごう」と奈津はそう言うと左手を僕の右膝に乗せた。僕は何も言わずに右手で奈津の左手を握った。奈津の手は温かくて、少し汗ばんでいた。
「いつから、僕は歳を取るのが臆病になったんだろう。僕は死ぬ前に後悔したくないんだ。君を離してしまったことを」
「ねえ、私を離さないで。このまま」
「離さないよ。ずっと君のことは。嵐が来ても、世界が滅亡しても、手を離さないよ」
「ねえ、私が先に死んでもあなたは私のこと、忘れない?」
「忘れないよ。たとえ、君の声を忘れても、君の記憶が曖昧になっても」
「私、このまま、あなたに忘れ去られるのが嫌なの」
「忘れないよ。君のこと」
「忘れないで私のこと。もう、離れたくないの」
「同じだよ。永遠に一緒にいよう」
「永遠に一緒に入れる根拠を示してよ。私、それがないと不安で今夜も眠れないわ」
「根拠?」
「うん、根拠。私に根拠を示す言葉をかけてよ」
「――結婚してください。これだけなんだよ。永遠に二人が結ばれる言葉は」と僕が言うと同時くらいに、降りるバス停の名前のアナウンスが流れた。奈津は降車ボタンを押した。
22
11月に模試を受けた。B判定だった。面談で、コバヤシに模試の結果を聞かれ、B判定であることを伝えた。
するとコバヤシは「もうどこにでも行けばいい。路頭に迷うのはお前なんだから、チャレンジするのも悪くない」と言った。
冬休み中は、勉強に追い込みをかけた。一日10時間くらい勉強するようにした。冬休みが明けてからは、奈津と図書館で勉強するのをやめて、それぞれ家で勉強するようになった。
1月が終わる頃、一定のラインまで到達したと実感できるようになった。その数日後に最後の模試を受けた。その結果、A判定だった。すごく嬉しかった。願書提出前、最後の三者面談でコバヤシにその結果を見せた。するとコバヤシは「わかった、願書出してみよう。頑張れ」と抑揚のない声でそう言った。
23
卒業式が終わり、次の日に高校の合格発表があった。奈津と合格発表の番号を高校まで見に行った。大きな模造紙に合格した受験番号がずらりと並んでいた。101番から順番に番号が無機質に並んでいて、ところどころ飛び番があった。
奈津が僕の番号を見つけた。確かに僕の番号が確かに書かれていた。そのすぐ下に奈津の番号も書かれていた。
それから、何日か経ち、合格証書と入学書類が学校から送られてきた。