そのファイルの中では、どうやら約4年の月日が流れているようだった。このファイルを書き始めたのは中学一年生の時らしく。今は高校2年生の夏らしい。
読むのに1時間、それ以上はかかったと思う。たった3行書いている日があれば、10行書いている日もある。
確かに私は潮と出会っているようだった。
それも、随分前から。
必ず1ページには潮の名前が出てきた。
〝令和元年5月25日
潮くんから告白される
潮くんはとても優しくていい人
「ずっと一緒にいる」と
言ってくれた潮くんを信じようと思う
だけど私は信じることも覚えてないんだろうな〟
〝令和元年5月26日
私が記憶を失う病気なんて信じられない。
でも確かに覚えていない。
この日記は本当に私が書いたものなのだろうか?
潮っていう人が「好きだよ」と言ってきた。
記憶できない私を好きってどうなんだろう〟
〝令和元年5月27日
全部見るのも初めてばかり
こんな世界は知らない
学校の授業が分からない
だけど潮くんが教えてくれた。
一昨日の私の言う通り
潮くんは優しい人なのかもしれない〟
〝令和元年5月28日
潮くんの知り合いとあった
私の事も知ってるみたいだった
私は潮くんを信じようと思う
だからここには書かない〟
かすかに、1行だけ、文を消している部分があった。
どの日付にも、
ほぼファイルの中は潮の名前がある。
本当に私は潮と一緒にいるんだな…。
ずっと私は潮のことを、〝潮くん〟って呼んでるみたいで…。
潮くん…。
私の彼氏…。
毎日毎日、記憶を失ってしまう私のそばに、ずっといてくれて…。
ファイルを見る限り、潮くんは本当にいい人みたいだった。
〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを泣かせないでほしい〟
それなのに、昨日の私は潮くんを傷つけてしまったらしい。泣かせてしまったらしい。
その理由はどこにも書いていない…。
「読めた?」
そう訪ねてくる潮くんに目を向けた。もう私の目は戸惑っていなかった。
うん、と、頷いた私のそばに近づいてきた彼は、「落ち着いてよかった」と笑顔を向ける。
この笑顔は、どういう気持ちで向けられているのだろうか…。だってこんなにも記憶を失ってしまう私を大事にしてくれる彼を、さっきまで〝怖い〟だなんて…。
「…ごめんなさい…」
「なにが?」
「朝、ちゃんと読めば良かった…。あなたのこと、怖いって思ってごめんなさい…」
「いいよ。気づかなかった俺が悪かったから」
「あの…」
「ん?」
「昨日、何があったのでしょうか」
「…」
「わたし、あなたに酷いことを言ったのですか?」
不安がちに言えば、またさっきの外のように彼の手が伸びてくる。
さっきは柔らかく頭を撫でるだけだった。
だけど今度は腕で頭を包み込むように抱きしめてきた。
私はそれを嫌だと思わなかった。
「違う、酷いことをしたのは俺だよ」
「…え…?」
「俺が昨日の凪に書かせたんだな、ごめんな」
「…」
「好きだよ凪、これからもずっと」
彼はいったい、何回、私に好きと言ってくれのだろうか?
もし、記憶が失わなければ、私も潮くんのことを大好きと、言うんだろうな…。
潮くんと手を繋ぎ、来た場所はマンションから近い川だった。川の近くだからか、夏の時期なのに涼しく感じた。
見覚えがない…。
それなのに慣れたように歩く潮くんを見れば、きっとここにも何度も連れてきてくれているのだろう。
きっと、何回も何十回も。
「昨日、凪に別れようって言われた、いや、別れたい、だな。知らない人と付き合えないって」
歩いている最中、潮くんに言われたのはきっとさっきの答え。
笑いながら、だけども少し悲しそうに喋る潮くんに私まで悲しくなった。
ファイルを見て、別れた方がいいのではと思わなかったわけじゃない。
過去の私も同じように思っていたのだ。
だって毎日毎日恋人を忘れるような相手なんて、イヤに決まっている。
「俺の事を、傷つけるから、別れたいって」
「…」
「でも俺は、凪のそばにいれるだけで嬉しいから。俺の事を思って別れたいって言うなら絶対別れないって言った」
「…そばにいるだけで?」
「ああ、…凪を初めて見た時、好きだって思った」
「…」
「一目惚れってやつ。小学生の時に…」
「…」
「けっこう、凪を口説いたから。絶対別れてたまるかっていうのが本音で」
「…」
「俺はどんな凪も好き、根本的な性格は変わらない…。俺のために別れたいって思ってくれる優しい凪が好きだよ」
目の奥が熱くなるのは。
涙腺が緩むのは、どうしてなんだろうか。
頭は覚えていないだけで。
体はこの人が大好きだと言っているのだろうか?
「けど、俺は本当にずるい男だから。実際は凪のそばにいていい人間じゃない」
「…」
「ごめんな」
過去に、どんなことがあったのか。
謝ってくる潮くんを見ながら、私は涙を流した。
「凪はいつも泣くな…」
そう言って指先で涙をふく彼の手は優しく。
この人を忘れたくない。
お願いだから、忘れないで欲しい。
それでもきっと私の頭は忘れてしまうのだろう。
制服姿のまま、私たちは昼食を食べにレストランにきた。
対面に座り、メニュー表を見る。
「凪はこれ美味しそうに食べてた」
そう言って潮くんが指を向けたのは、オーロラソースの海鮮パスタだった。
私は食べたことを覚えてないけど、確かに私好みの料理だった。
そして不思議に思う。
どうして私は好みの料理だと分かるんだろうかと。
和食や、洋食。そういうのは分かるのに、自分が何を食べたか覚えていないなんて。
これが日常動作の問題はない、ということなのだろうか?
「じゃあ、今日もこれを頼もうかな」
「ピザ食べる?」
「うん、いいの?」
「いいよ」
店員に注文する潮くんを眺めていた。潮くんはオムライスを注文していた。
私が注文したオーロラソースの海鮮パスタは本当に美味しかった。それでも私は食べたことを思い出せなくて…。
「…私、ずっと忘れていくのかな…」
「それは分からない」
分からない?
「凪の場合は、前向性健忘症って言って。強い衝撃とかストレスとかで、なってしまうらしい。凪は小さい頃事故にあって、頭をうって、側頭葉への衝撃で記憶喪失になったらしい」
「…そうなんだ…」
「以前の記憶もなくなって、…寝ると前日のことを忘れてしまう…結構特殊っつーのかな」
特殊?
「衝撃を受けて記憶喪失になったけど、脳自体は異常がないみたいで。だからもしかすると記憶が戻るかもしれない。医者にはそう言われてる」
戻る…?
「でも、永遠に戻らないかもしれない」
永遠…。
「治る、かもしれないの?」
「うん」
「ほんとうに?」
「凪」
「…だったら、治るような、治療をすれば…!!」
「凪?」
「治るのならっ…」
「脳っていうのは、デリケートだから、無理しねぇ方がい」
「でもっ」
「…」
「潮くんは、私に治ってほしくないの…?」
潮くんは、困った顔をしていた。
「……俺は治ってほしくない…」
そういった潮くんは、「思い出さなくていい記憶もあるから」と、ゆっくりと微笑んだ。
思い出さなくていい記憶…。
「凪はそのままでいい、これからもずっと俺が守っていくから」
そのままでいいと言われても…。
10 / 55
「医者も無理に思い出さない方がいいって言ってたから」
デリケートな脳…。
「潮くんはそれでいいのですか…」
今朝、私に向かって〝はじめまして〟と言った男。毎日毎日、私に〝はじめまして〟を言わないといけないのに…。
「いいよ、俺は凪と一緒にいればいいから」
レストランを出たあと、潮くんは色々なところに連れていってくれた。
デパートの中、公園。
やっぱりどこも初めて行くところだけど、〝私〟が好きらしい場所に連れていってくれる潮くんは私の手を離さなかった。
夕方になる頃には、もう慣れたっていう言い方はおかしいかもしれないけど。きちんと潮くんの目を見れるようになった。
潮くんが私を見て笑えば、私も笑っていた。
「そろそろ帰ろう」と、どこかの駅から家へと向かおうとした時だった。
──「潮じゃん」
と、その声が聞こえたのは。
潮という名前に振り向いたのは、私だけじゃない。潮くんもその声の方に振り向いた。
その時見た潮くんの横顔は、今まで私が見ていた表情とは違っていた。
眉間にシワを寄せて、言葉で表すのなら複雑という言葉が正しいのかもしれない。
振り向いた先には、紺色のスボンを着てる同い年ぐらいの男の子3人がいた。
長袖のカッターシャツ。
それどもその制服をきちんとは着ていなく、少しだらしなく着ていた。
明るい髪色は、全く黒髪の潮くんとはかけ離れていて。
「藤沢ふじさわ…」
潮くんが、ぽつりと名前を呟いた。
ふじさわ。
どうやら、3人のうち、1人だけこっちを見ている金髪の人が潮くんと知り合いらしく。
こっちを見て、何だか違和感のある笑みを浮かべる藤沢という人は、何故か足を進め私たちの方に歩いてくる。
その瞬間、握れた手が強くなった気がした。
「久しぶり。中学の卒業以来?かわいいじゃん、彼女?」
藤沢という男は、私の顔を見てまた笑を零した。その笑みの違和感が、まだ何か分からず…。
困って視線を下に向けると、潮くんの体が動き、まるで藤沢という人に私を見せないようにした。潮くんの背中に隠れた私は…
「なんてな、お前、まだその女とつるんでんの?」
会ったこともないのに、〝苦手〟だと感じた。
いや、会ってる…?
私はこの人を知ってる?
「…俺の女だ、〝その女〟とか言うな」
潮くんの言葉に、ふ、と、鼻で笑った男。
「なに、もう記憶喪失治ったわけ?」
知ってる…?
私ことを?
この人は誰?
「…藤沢」
「お前、よく〝俺の女〟とか言えんね。そいつの事虐めてたくせに」
この人は、誰…?
「那月なつき、誰?知り合い?」
その時、藤沢という人のそばに居た2人が近づいてきた。その2人も、外見が派手のようで。
「そー、小中同じだったやつ。2人とも」
「あーそうなん?」
「仲良かったんだけど、もう絶交してるから仲悪いんだよな」
仲良かった?
潮くんとこの人が?
絶交…?
仲が悪い?
「なあ、潮? 俺ら一緒にそいつを虐めた仲だもんな?」
一緒に、
虐めた仲…?
「え、どういうこと?」
……潮くんは、何も言わない。
藤沢という人が、男友達と喋ってる。
「小学校のころ、後ろの女をすげぇ虐めてて。何したっけ?背中から蹴ったりしたよな?2人で」
「は?」
「潮の口癖は、「明日になれば忘れるから何してもいい」だったもんな」
明日になれば忘れる?
「なあ、潮、今どんな気持ち?」
私に背中を向けている潮くんの表情が見えない。潮くんは藤沢と呼ばれた知り合いの人を無視するように「行こう」と私の手を強く握りしめると、その場から離れようとして少し早足で歩き出す。
そんな背後から、
「裏切り者」
と、すごく怖い声が聞こえたような気がしたけど。私は怖くて振り向くことができなかった。
しばらくそのまま歩き、私の住む家らしい見覚えのあるマンションにたどり着いたところで、ようやく潮くんは足を止めた。
「…ごめん」
気まずそうに、そう謝る潮くんの心の中が分からない。
〝何を〟謝っているんだろうって。
「…今の人、誰ですか?私のことも知ってた…」
「…今のは、藤沢那月って言って、俺らの小学校の時の同級生」
潮くんは私の方に振り返ると、本当に申し訳なさそうに、眉を下げた。
「わたしのこと…虐めてたって…、」
声が、震える。
「…うん」
「あの人と、潮くんが、私を虐めてた…?」
「うん…」
「明日になれば、忘れるって…潮くんいってたんですか」
「…うん」
「否定しないんですか?潮くんは、私を蹴ったり、そんなことしてたんですか…」
あの人が言ってたことは、本当なの?
どうして潮くんが悲しそうな顔をするか分からない。だって、だって、だって。
「…否定はしない」
心をえぐられるような感覚だった。
だって、潮くんは私の彼氏のはずだった。
日記のファイルにも、潮くんのいい所ばかり書かれていた。
だったら、あのファイルはなに?
「さっき…言いましたよね、一目惚れだったって…」
「…言った」
「一目惚れして、私に暴力をふるってたんですか…」
「……」
「そ、そんなの…」
「全部本当。凪を苛めてたのも、一目惚れしたのも…」
「嘘…」
「嘘じゃない」
「あ、あの、あの日記は…」
本当に、私が書いたもの?
記憶がないから分からない。
私じゃなくて、他の誰かが書いたものじゃないの?──もしかしたら、書いたのは潮くんかもしれない。
「あれは凪が書いた、俺は一切中を見てない」
「うそ…」
「俺はもう凪を絶対に傷つけない…」
「…やめて…」
「俺を疑う気持ちは分かる、けど、信じてほしい」
なにを、信じろって?
分からない…。
記憶がない私には、何を信じればいいか分からない…。
あからさまに目が泳ぐ私を見て、潮くんは「信じてくれ…」と泣きそうになりながら言う。
信じる?潮くんを?──…信じたいと思う気持ちの反面、信じられないという思いが交差する。
「…分からないです…」
「凪…」
「今はあなたから離れたい…」
「…凪、俺は本当にお前が好きだ。ずっとずっと出会ってから今も、これからもお前が好きだ」
焦ったように言う彼。
〝潮くんを泣かせないでほしい〟
昨日の私の願いは、叶いそうにない。
「離れたいです…」
「凪」
「…ごめんなさい」
「…凪」
「今も、あなたに〝明日には忘れてる〟って思われているかと思うと、耐えられません…」
「…思ってない、俺は毎日凪に会えるだけで嬉しい」
「ごめんなさい…」
「…凪」
「手を離してください…」
しぶしぶ、という感じだった。
悔しそうに、私の手を離した彼は「部屋の前まで送る」と呟いた。
私は彼の顔が見れなかった。
部屋まで送られても、口が開くことはなくて。
「また明日な」
そう言って笑う潮くんに、何を言えばいいか分からなかった。
12 / 55
その日の夜、私は日記を見返した。
読む限り、やっぱり潮くんは私を大切にしてくれる存在なんだと思った。
本当にそれしか書いていなかった。
学校が楽しいとか、全くそんなことは書かれていなくて。
〝潮くん〟しか書かれていない。
別れる間際の潮くんの顔を思い出す。
あんな顔をさせてしまって、本当に申し訳なくて…。
──…だけど、日記の中で、気になる文を見つけた。
〝令和元年5月28日
潮くんの知り合いとあった
私の事も知ってるみたいだった
私は潮くんを信じようと思う
だからここには書かない〟
これは、なんだろう。
潮くんの知り合いと会ったらしい。
私の事を知ってたらしい。
信じよう、ここには書かない。
この日の私は、いったい何を信じようと思ったのか。
知り合いと書かれていて、思い出すのはさっきの彼だった。藤沢那月という男。
息を飲み、私は今日のページのところを開いた。
──〝令和2年7月15日〟
机の上にあったシャーペンで、今日の日付を書いてみた。昨日の字と見比べる限り、筆跡は似ていて、今までの日記は全て私が書いたものだと認識し。
〝今日あったことを明日になれば全て忘れてしまう記憶の病気らしい。
令和7月16日の私へ
とまどう気持ちは分かりますが、この日記を全て読んでください〟
〝私には潮くんという彼氏がいます。だけど、私は今、潮くんを信じることができません。でも潮くんは優しい。潮くんを傷つけたくない。それでも疑ってしまう。どうすればいいか分からない〟
〝明日の私へ、お願いです。
明日、藤沢那月という男を訪ねてほしい
その人のことはカッターシャツと紺色のズボンの制服という事しか分かりません。潮くんのことを聞いてください。お願いします〟
潮くんは言っていた。
この私の脳の記憶は、治らない方がいいと。
それは私を虐めていたことと関係しているのだろうか…。
──…暑苦しくて、目を覚ました。
暖房とかじゃなくて、夏特有の暑さ、って説明した方がいいのかもしれない。
寝がえりをうち、ゆっくりと体を起こそうとすれば、見慣れない景色に自分の体が飛び起きるのが分かった。
見慣れない部屋。
見渡しても、記憶にないものばかりで。
え?え?と、暑苦しくて目が覚めたのに、一瞬にして戸惑いと冷や汗をかくのが分かった。
布団から出て、私は急いでこの部屋の窓を開けた。ヒッ…、と思わず後ずさる。
高い…ここはマンションらしい。
この高さじゃ、ここから逃げることもできなくて。
もう一度キョロキョロと部屋の中を見渡してみた。
誰の部屋かも分からない机の上を見ると白いファイルが置いてある。
そしてクローゼットを開けてみれば、誰かの服か分からないものが並んであった。
────ここはどこ? 誰の部屋?
全く知らない場所。
もしかして私は誘拐されたの?
焦りながら、そう思っていると、突然部屋の中から音が鳴り響いた。ピピピ…となる、電子音。
ビクッと驚きながら床の方を見れば、ベットの枕もとにスマホが置かれていて。〝アラーム〟と表示されていた。
アラーム?
スマホ?
いったい、誰の?
もしかして私をここに連れてきた誘拐犯…?
この部屋に忘れていったのだろうか…?
とりあえず音を消してみた。
このスマホで、警察に電話した方がいい?
分からない…。
待ち受け画面に戻り、そこに目を向ければ、
〝机の上のファイルを見る〟と、よく分からない文字の待受画面にされていた。
これはなに…?
どういう意味?
なにかの暗号…?
確かに、部屋の中にある机の上には白のファイルが置かれている。
誰のファイル…?
スマホを机の上に置き、恐る恐るそのファイルを開けた。
〝あなたの名前は澤田凪です
これは平成28年7月3日の私が書いたものです
あなたは10歳の頃、脳の病気になってしまい
今日あったことを明日に必ず忘れてしまいます
このファイルは日記のようなものです
読んでください
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
明日の私へ何か伝えてください
よろしくお願いします〟
意味が分からない…。
そもそも澤田凪って誰?
この部屋の住民?
〝私〟っていうことは、女性の方?
どうして私はその〝澤田凪〟という女性の部屋にいるんだろう?
そう思っていると、焦る私に追い打ちをかけるように、気づいたことがある。
──…私は自分の名前が分からない…。
私はいったい誰?どこから来たの?
冷や汗が止まらない。
〝6時20分 起床
6時50分までファイルを見る
7時30分までにすること
①制服に着替える
制服はクローゼット
ブラウス下着類もクローゼットの棚の中
②ご飯を食べる
③身支度をする
時間割の確認もする
④7時30分 学校へ行く
ウシオくんと一緒に行く〟
意味の分からない紙まである。
これはいったい何…?!
バクバクと心臓がうるさく、その白いファイルを1枚めくった。これは〝澤田凪〟という人の日記らしい。
日記に出てくるウシオという名前。
ウシオ…?
ウシオって誰なの…。
分からないけど、私が本当に誘拐されたのなら、私はここから出なくちゃいけない。
警察に行こう…。
そう思って、念の為と手に持っているファイルを持った。スマホから警察に電話をしようと思ったけど、もしかしたらこの部屋には盗聴器が仕掛けられてるかもしれないから。
恐る恐る、扉を開ければ、そこの廊下には誰もいなくて。安心の溜息をつきながら玄関らしい方へと足を進めようとしたその時だった、
「凪? 起きたの?」
と、女の人の声が聞こえたのは。
ビクッと肩がありえないぐらいに震え、私は急いで玄関へと向かった。
走り出した私に、その女の人は驚いたらしく「凪?!」と、慌てて私を追いかけようとするから。
「来ないで!!」って叫んでたと思う。
外に出た私は、近くにあった階段を寝巻きのままおりた。裸足のままだった。
「凪!!!」と大声を叫ぶ女性…。
さっきの人が誘拐犯?
私を〝澤田凪〟の代わりに連れて来たのだろうか?
分からない。
白いファイルを持ったまま私は走った。
無我夢中だった。
いつの間にか、追いかけてきていた女性の声は消えていた。
それほど遠くに走ったらしい。アスファルトの上を走ったから、裸足のままの足の裏は真っ赤になっていた。
暑い…汗が止まらない。
とある古い民家の住宅街に入った時、裸足のままの私をみて、見たことも無いおばあちゃんが焦ったようにサンダルを持ってきてくれた。
「熱いでしょ!履いていきなさい!」と。
真っ赤な足の裏。
私の足は、真夏のアスファルトを裸足で走ったせいで軽くやけどしていたらしい。
男でも女でもはける黒色のサンダルをくれたおばあちゃんは、「何かあったの?」と心配してくれたけど、なにも分からない私は、「…大丈夫です、ありがとうございます。必ずお返しします」とお礼を言うことしかできなかった。
だって、本当に誘拐だったのなら、見ず知らずの人を巻き込む訳にはいかないから。
いろいろ走り回っても、ここがどこか分からない。
寝巻き姿ままあの家を飛び出したけど、普通のTシャツに、短パン姿だったから特に目立つことはなくて。
このまま警察に行こうかと迷った。でも、私自身、自分の名前さえ分からないから、警察に行っても信じてくれるか分からなかったから。
歩き続けていると、どこかの駅についた。
その駅の名前を見ても、ここがどこだか分からない。
駅の掲示板を見る限り、日本のどこかなのは確かで。
でも、分からない……。
駅のトイレに行き、はあ、とため息を出せばようやく落ち着いたような気がして…。
私はそのトイレの中で、〝澤田凪〟の部屋から持ってきたファイルを開いた。
〝あなたの名前は澤田凪です
これは平成28年7月3日の私が書いたものです
あなたは10歳の頃、脳の病気になってしまい
今日あったことを明日に必ず忘れてしまいます
このファイルは日記のようなものです
読んでください
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
明日の私へ何か伝えてください
よろしくお願いします〟
〝平成28年7月4日
どうして私は記憶を無くすんだろう?
おかあさんらしい人に聞いても、病気の名前を言うだけ。
勉強が分からない
おかあさんがケーキを作ってくれた〟
同じような事が書かれていた。
〝澤田凪〟という子は、脳の記憶部分に難があるみたいで。
この日記には、書いている〝澤田凪〟以外にももう1人の人間がたくさん出てきた。
〝潮くん〟
この日記帳を見る限り、潮くんはいい人みたいだった。
この日記の持ち主の、彼氏らしくて。
小一時間ほどその日記を見て、この潮という人なら味方になってくれるかもしれないと思った。何かを教えてくれるかもしれないと。
だけど、潮くんがどんな人かも分からなければ、会ったことも無い。見つける方法が分からない。
──…最後のページを見つめる。
〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを泣かせないでほしい〟
〝今日あったことを明日になれば全て忘れてしまう記憶の病気らしい。
令和7月16日の私へ
とまどう気持ちは分かりますが、この日記を全て読んでください〟
〝私には潮くんという彼氏がいます。だけど、私は今、潮くんを信じることができません。でも潮くんは優しい。潮くんを傷つけたくない。それでも疑ってしまう。どうすればいいか分からない〟
〝明日の私へ、お願いです。
明日、藤沢那月という男を訪ねてほしい
その人のことはカッターシャツと紺色のズボンの制服という事しか分かりません。潮くんのことを聞いてください。お願いします〟
潮くん、という人が泣いたらしい。
どうやら、〝澤田凪〟という子と何かあったみたいで…。
指先で、〝藤沢那月〟という文字をなぞった。
〝明日、藤沢那月という男を訪ねてほしい〟
この人と会えば…何か分かるだろうか…?
〝私〟のことが、何か、分かるだろうか…。
駅のトイレの鏡を見つめた。
そこには黒い髪の女の子がいた。
胸もとぐらいの髪の長さ。
寝起きのまま飛び出したから、当たり前だけど化粧っ気のない顔。
だけども決して悪くはなかった。
色白で、二重の目で。
美人ではないけど可愛らしい、10半ばぐらいの女の子がそこにいて。
この顔に、全く見覚えがない。
「──…あなたはいったいだれ?」
その問いに、鏡の中の〝私〟は答えてくれなかった。
〝カッターシャツと紺色のズボンの制服〟
たったそれだけで、探さなければならない。
名前と服装だけしか手がかりがなく。
白いファイルを抱きしめながら、とりあえず駅員に聞いてみた。
その駅員の男性は、少し苦笑いをしていた。
「うーん、似たような制服は沢山あるからね」
その人が言うことは最もだと思った。
せめて無地なのか、チェック柄の紺色なのか分かったら良かったのに。
「中学か高校か分かる?」
それさえも分からない。
「けど、この駅をよく通る紺色のズボンっていえば、上木高校かなぁ」
けど、思い浮かぶ学校があったみたいで。
「上木高校ですか?」
「ここから2つ、駅向こうだね」
2つ駅向こう。
けど、私は電車に乗るお金もない。
というよりも、ここが駅だという認識はあるけど、電車の乗り方がイマイチ分からない。
「あの…、歩いて行くので、もしよければ地図を書いてくださいませんか?」
駅員の男性は快く教えてくれた。
「ここが目印ね」と、とても分かりやすく。
何度も私はお礼を言って、駅員の男性が教えてくれた場所へと向かう。
もしかしたら違う学校かもしれない。
このファイルの日記にある〝藤沢那月〟がいる学校じゃないかもしれない。
それでも私はこの情報にかけるしかない。
駅から出る時、時刻は9時頃だった。
歩き出してどれくらいの時間がたったか分からないけど、少し歩き始めただけで汗が滲み出ていた。
熱い……。
朝から一滴も何も飲んでいない。
駅員の男性に書いてもらった地図を見ながら歩いている途中、熱さのせいか、少しふらついたりもして。
途中、木の影に入ったりと休んだりした。
〝2つ駅向こう〟
文字にすれば近そうだけど、歩いてみると結構遠く。
目的地の学校へ着いた頃には、たぶん、10時をすぎていたと思う。
もしかしたらそれ以上かもしれない。
〝上木高等学校〟という学校についたとき、やっとついた…という達成感のあと、すぐに絶望感を感じた。
多分、今は授業中。
普通の学校なら、夕方までは授業のはずで。
生徒じゃない私が学校に入るわけにもいかなくて。
あと5時間ほど、ここで待ってなければならない。
もう太陽を見上げるのも嫌だった。
校門が見え、木のおかげで日陰になっていると花壇に座り、喉乾いたなあと思いながら、この上木高校の誰かを通り過ぎるのを待つことにした。
誰か来れば、〝藤沢那月という人を知りませんか?〟と聞こう。
いなければどうしよう。
また探さなくちゃならない。
次は5つ駅向こうだったらどうしよう。
もうフラフラで歩けないかもしれない。
待っている間、そんな事を思ったして…。
早く誰か校門を通らないかな…。そう願うのも虚しく、1分1分時間が過ぎていく。日陰で座っているのに、自分の肌が焼けるのが分かった。
今、何時だろう…。
そう思った刹那、不幸か幸福なのか、誰かの話し声が聞こえ。少しふらついた頭で校門を見ると、数人の生徒が校舎から校門へと歩いてくるのが見えた。
それも、1人2人じゃない。
鞄を持ち、帰る様子の上木高校の生徒たち。
校舎からぞろぞろと出てくる。
もう帰宅の時間らしい。
学校というのは夕方までじゃないのだろうか?と、疑問を残し、その生徒たちに喋りかけようとしたけど。
その足は、止まった。
学校から出てきたその人たちは普通ではなかった。金色に染められた生徒や、凄く派手な生徒達ばかりで。
怖そうな人たちだった。
声をかけようにも、かけられない。
だけど声をかけなきゃ何も始まらない。来た今がない。
深呼吸をして、私はゆっくりと近づき、紺色の短いスカートをはいた女の子に声をかけた。
どうしても見た目が怖い男の子に話しかけることができなくて。
「あの…」
軽い、熱中症になったのか、少し頭がフラフラして。
いきなり私に話しかけられたことに、「な、なに?」と顔をする校門から出てきた女の子…。
「ひ、人探しをしてまして…」
「え?」
「藤沢那月という方、いませんか?」
いてほしい。
お願い…。
「藤沢?知ってるけど。あいつまたなにかしたの?」
キョトン、とした表情で呟くその人に、目が見開くのが分かった。
「い、いるんですか?この学校に!」
「え?」
「本当に?!」
「藤沢でしょ?金髪の」
いるんだ…
この学校に。
心の中で、駅員の男性に感謝した。
「金髪か分かりませんが、藤沢那月という方です…」
「たぶん合ってると思うけど。あいつに会いきたの?」
「はい」
「まだ課題あるって言ってたから遅れてくんじゃないかな?」
「…課題ですか?」
「うん、今日からテストだから。ってか藤沢に電話しようか?」
「え?」
「ちょっと待ってー、ライン登録してたはずだから」
見た目は怖そうな女の子なのに、探し人に電話を掛けてくれているらしいその人。
怖そうだって思った私が、凄く恥ずかしくて。
「あ、藤沢?」と、電話を繋げてくれた女の子は「校門にかわいい女の子来てるよ〜!」とからかい気味に笑った。
かわいい女の子…。
「多分、中学生?」
中学生に見えるらしい…。
〝この体〟は中学生なのだろうか。
「まだ課題やってんの?──あ、そう?じゃあ来てよ。ダッシュね」
「名前?──ねぇ、藤沢が名前聞いてるんだけどあなた名前なんて言うの?」
電話から、私に聞いてきたけど、その質問になんて答えればいいか分からなかった。
だって私はそういうことが知りたくて、藤沢那月に会いに来たのだから…。
「あの…わたし、」
戸惑っていると、首を傾げたその人は「まあ会えば分かるっしょ、待ってるから」と電話を切った。
「もう来るって!」
「あ、ありがとうございます…」
「全然いいよ!じゃあ私バイトだから頑張ってね〜!」
何を頑張るのか分からないけど、笑顔で手を振り、この場を離れるらしいその人にたくさん頭を下げた。
それからそれほど時間もなく、その人はやって来た。
「あ、昨日の子!」と、校門で待っていた私に話しかけてきたのは、さっきの女の子が言っていた〝金髪〟ではなかった。
派手で、怖そうな茶髪の男の子。
誰……?
〝昨日の子〟
そう言われても、私には分からなかった。
だって私は彼に会ったことが無いのだから。
どんどん私に近づいてくるその茶髪の彼は、「な、俺の事覚えてる?」と笑って面白そうに首を傾げた。
びく、っと、その顔の距離の近さに肩が動いた。
知らない
誰…。
「…え?」
「昨日、駅で会ったろ?」
駅で…?
知らない
この人は何を言ってるの。
そもそも私は駅なんて行ってない。
駅に行ったのは今日だけで。
昨日は──…
昨日、昨日は、私は──…
…──分からない、私は昨日何をしてた?
「あ、の、わたし…昨日駅には…」
「え?」
「あの…」
覚えてない。
「あなたは、私のお知り合いですか、」
そう言い、戸惑っていると、「マジかぁ」と、笑っている顔は驚きの顔に変わった。
「本当に忘れるんだなぁ」と。
〝忘れるんだな?
この人は、一体何を──…
「おい、那月!来てるぞ昨日の子!」
意味の分からない事を言う男性が後者の方に振り返る。少し戸惑い顔を下に向けていた私は、その声に顔を上にあげた。
そこにいたのは、金色の髪。
紺色の無地のズボンをはいて、カッターシャツではなかった。真っ黒のTシャツを着ているその人は、私と目が会った瞬間、──…目を見開かせた。
そして一瞬のうちに、眉を寄せた。
鋭い目。
切れ長の、目。
〝那月〟
彼はその目を細めると、ゆっくりと私を見渡した。ううん、私じゃない。
まるで私の周りを見渡すように一瞥すると、もう一度私のに視線を戻した。
「1人か?」
私の目を見て、呟いてくる。
その声は少し驚いているようだった。
〝金髪〟で、私を知っているらしい人。
名前は〝那月〟
この人が〝藤沢那月〟という私の探し人だと分かり。
「潮は?」
潮?
その質問の意味が、分からなくて。
〝潮〟は知ってる。日記で見た。
〝潮〟は〝澤田凪〟の恋人のはずで。
彼はゆっくり、2歩ほど私に近づいてくると、どうしてか私の顔に指を伸ばしてきて…。
「お前、なんでそんな顔あけーの?」
やっぱりこの人は、私をよく知っているみたいで。涙が出そうになった。
頬に指先がふれる寸前で、その指先は遠のいていく。
顔が赤い。
それは、ずっと太陽の下にいたから。
「わ、わたし、ずっと、あなたを探してて…」
「…俺を?」
「な、なにも、分からなくて…」
「……」
「あなた、なら…しってると、思って…」
「那月…」という、さっきの茶髪の人が、心配そうに藤沢那月に声をかけた。
藤沢那月に会えたからか分からない。
私を知っている人に会えた安心感からか、凄く涙腺が熱くなった。
そのままポロポロと涙が出てきて、私は片手だけファイルを離し、自分の手のこうで涙をふいた。
「…その格好は?」
「…っ…」
「まさか、何も分からなくて家から飛び出してきたとか?」
「…っ、あの、…」
「ずっとここで待ってたのか?」
泣きながら小さく頷けば、彼は「潮のことも分かんねぇの?」と、私を見つめてくる…。
不安気味にそれに対しても頷けば、「…マジかよ」と茶髪の人が言う。
藤沢那月がこの状況が分かったのか定かではないけど、藤沢那月は「……悪ぃけど、今日パスな。こいつ送っていくわ」と、茶髪の人に呟いていた。
「──お前、マジで尾崎から歩いてきたのな」
所持金もない私に、電車に乗ろうとした藤沢那月が呆れたように呟いた。
私にはその〝尾崎〟が分からなかった。
〝私〟の家に帰るために、切符を買ってくれた彼は、その駅のホーム内でもスポーツドリンクを買ってくれた。
そのスポーツドリンクはとっても美味しくて、落ち着いた涙がまた出そうになった。
「あの…、尾崎って?」
ホームのイスに座った彼は、私を見上げた。
「お前の家があるとこ」
「私の…?」
「俺も地元そこだしな。つか座れば?」
そう言われ、私も藤沢那月から1人分あけて、その横に座った。
「…私は、あなたと知り合いなのですか?」
「同級生」
同級生?
さっき、地元が一緒と言っていた。
だったら、〝この体〟は、高校生という事だろうか?
「つか、なんでお前、俺のとこ来たの」
「…え?」
「潮のことも分かんねぇのに、なんで俺のとこに来た?」
なんで、と言われても。
「このファイルに書いてあったんです」
「…ファイル?」
ぴくりと反応した彼は、私から、私の手に持っている白のファイルに目を向けた。
「ここに、あなたの事が書いてあって…、それを頼りに来ました…」
「なにそれ?」
「日記みたいです」
「ふうん?見せてよ」
本当なら、プライバシーとして、〝澤田凪〟の日記を見せるべきでは無いと思ったけど。
彼は知り合いで、切符やスポーツドリンクも買ってくれたいい人だから。
ファイルを差し出せば、それを受け取った彼が躊躇うことなくファイルを開いた。
初めからじゃなく、途中から読み出し、ぺら、ぺら…と、1枚1枚めくっていく。
それが10枚程になった時、彼はバカにしたように鼻で笑った。
「──…ウケる、潮のことばっかじゃん」
最後の1枚を読んだ彼は、「…なるほどな」とファイルを閉じた。
それを私に返してきて、私はファイルを抱きしめた。
「…わたし、朝起きると、知らない部屋にいて…」
「……」
「この部屋に、このファイルがあったんです。中を見て、〝澤田凪〟という女の子の日記だと分かりました」
「……」
「私、その〝澤田凪〟という女の子の部屋に閉じ込められたんだって思って、誘拐されたって思って…逃げて…」
「……」
「どうすればいいか分からなくて。警察に行こうにも、誘拐犯が怖くて…、警察も、何も分からない私のことを信じてくれるのか迷って…行けなくて」
「……」
「駅で…箱作という駅でこの日記を読み返して、あなたの事を探そうと思って…」
「……」
「女の人…、家を出る時、その誘拐してきた人が私のことを〝凪〟って呼んだんです」
「……」
「私は、〝澤田凪〟じゃないのに……」
「……」
「でも、鏡で見れば、そこには知らない女の子がいて…。〝私〟じゃないんです。だったら〝私〟は誰だろうって…」
「……」
「でも、私…、私の顔、自分の顔も名前も思い出せないんです…」
「ふうん…」
「だから、あなたに聞けば、何か分かるかなって…」
「ウケんね」
「…ウケますか?ウケるって、面白い意味っていう意味ですよね」
「まあな」
「あの…」
「ウケるだろ、記憶喪失って、マジで自分の名前も分からなくなるんだなぁって」
記憶喪失?
自分の名前も分からなくなる?
なにが?
「……どういう意味ですか?」
「どういう意味ってそのまんまだろ」
心のこもっていない、バカにしたような笑みを浮かべるその人。
「そのまま…?」
「澤田凪はお前だよ」
「え?」
「お前」
「あの…」
「お前さ、記憶喪失なんだよ」
「…何を言ってるんですか?」
「1回寝ると、何もかも忘れる病気」
──1回寝ると、何もかも忘れる病気?
「え…、わたしが、?」
「そう」
「寝ると、忘れる?」
「……」
「そんなはずない…、」
「今もう忘れてるだろ?」
「私は〝澤田凪〟じゃありません…」
「いや、本当だし」
「だって、こんな〝体〟知らないっ!」
駅のホームで大声を出せば、私たち以外の電車待ちをしている人が、何人か振り向いた。
だけど、私はそれどころじゃなくて。
「うるせー声出すなよ」
「だ、って…」
「……地元はみんな知ってる」
「……え?」
「お前はなんも覚えらんねぇバカだってな」
──電車が来て、私達はその電車に乗り込んだ。車内は冷房がしっかりときいて涼しく。
あまり混んでいない車内。
藤沢那月と横に並んで座っているけど、私はもう自分の膝元しか見れなかった。
「私…どうすればいいんですか、」
「なにが」
なにが…。
私は、〝澤田凪〟らしい。
この日記を書いていたのは、〝私〟らしい。
ありえない。
だって、こんな日記、書いたことがない。
「…これから」
「家に帰ればいいだけだろ」
「私が、起きた、家ですか?」
「そうだろ」
あの家が、本当に私の家なのなら。
私が記憶喪失で、分からないのなら、今朝いた女の人は、母親…。
「でも、知らない、家なんです…」
「……」
「知らない人が、住んでるんです…」
「……」
「理解しろ、って、言われても無理です…」
「……ああ」
「私は〝澤田凪〟じゃありません…」
泣きそうだった。
この日記は私の事。
だとしたら、ここに書かれている〝潮くん〟という人は、日記通りなら、彼氏ってことになる。
私に、彼氏なんていない。
いないのに。
いないのに。
いないのに。
見ず知らずの人間に、いきなり家族です、彼氏ですって言われても分かるわけがないのに!
ポタポタとまた涙を流せば、「じゃあ周りの人間はどうなる?」と、藤沢那月が小さく呟いた。
「お前から知らねぇって言われて。そこに書いてるから分かるけど潮がお前のことすげぇ大事にしてんのに、知らないって言われて傷つくんじゃねぇの?」
私から知らないと言われる。
〝潮くん〟
この日記では、何回もその名前を見た。
本当に〝潮くん〟ばかりで。
知らない私の彼氏。
「でも、その人のこと、分からないんです…」
「……」
「どんな人、かも」
「……」
「あなたは、よく、知ってそうな口ぶりですけど、知っているのですか…」
「女を大事にするやつだよ、あいつは」
「…女?彼女をっていう意味ですか?」
「でも、簡単に友達を裏切るイヤなやつ」
ふ、と、鼻で笑った藤沢那月。
「お前を今から潮んとこに戻せばいいんだろうけど、俺は潮が嫌いだし、番号も知らない」
「…嫌いなんですか?」
「昨日、久々に会ったけど、やっぱり殺したいなぁって思ったわ」
本気なのか、冗談なのか。
電車が目的地に到着し、おりた私は、今からどうすればいいか分からなかった。
知らない家に帰ればいいのか。
藤沢那月が殺したいほど嫌ってる〝潮くん〟に会えばいいのか。
どうしようと迷い込んでいると、「つーかさ、」と、未だに理解出来ない私の手元からファイルをあっさりと奪った彼は、その白いファイルを片手で持ち。
「こんなんあるから、悩むんじゃねーの」
藤沢那月は足を進め。
駅から出ると、近くにあったゴミ箱にそれを入れようとし。
「ま、まって…!」
慌てた私は、それを捨てないように、彼の腕を掴んだ。
「それは、大事なものではないんですか…?」
「さあ?」
「捨てては、いけない気がします」
「内容、どうでもいいのに?潮ばっかりなのに?」
「でも…」
「だってこれは、お前が書いたもんじゃないんだろ?」
「…そうです、けど」
「大丈夫だろ、捨てても。こんなもんがあるから、余計に戸惑うんだよ」
「……」
「お前も、こんな気持ち悪い日記があったこと、明日には忘れてる」
忘れてる…明日には。
それが私の記憶喪失という病気だから。
ということはつまり、この私の人格は明日になれば消滅しているってこと?
そんなの、死んでしまったことと同じじゃないの?
寝てしまうと死ぬの?
私は死んじゃうの?
「あそこに警察署、あるの分かるか?」
絶望している私に、とある方向を指さす藤沢那月。恐る恐るその視線の先を見つめれば、大きな建物があって。
そこには大きく警察署と書かれていた。
「あそこで迷子ですって言えば、連絡がいってお前の親か潮が来る」
「……え?」
「俺、用事あるし、もう行くから」
「ま、待ってください、どうしてそれで連絡がいくんですか?」
「だからさっき言っただろ」
「え…?」
「お前がバカなこと、地元は知ってる。警察はすぐ行方不明になるお前の顔分かってるからな」
22 / 55
警察署に入り、数分がたった頃、藤沢那月が言っていたことがすぐに分かった。
私は本当に記憶喪失というものらしい。
寝れば丸々、その日あったことを忘れてしまうようで。
私は過去にも何度か迷子になったらしく、慣れたように対応する警察の人を見て、泣きたくなった。
私はこの警察署に来るのは、初めてなのに…。
しばらくして、私がいる受付のところに男の人が来た。
その人は私の顔を見て「凪!!」と大きな声を出した。肩で息をして、まるで全力疾走してきたような息の荒さ。
黒い髪からは汗がしたたる。
白そうな肌は、たくさん走ったようで頬が赤くなっていた。
警察署の人は誰を呼んだのか。
親か、〝潮くん〟。
「凪……」
受付のイスに座っている私は、近づいて、目線を合わせるようにしゃがむこの人が誰か分からない。たぶん〝潮くん〟なのだと思う。
「どこ行ってたんだよ…」
分からない…。
「良かった…、無事で…」
私の心は、全く無事じゃない…。
「…凪?」
「…っ…」
肩を震わす私を見て、焦ったように顔が変わり。
「どうした?体調悪いのか?」
「……、…」
「凪…、…あ、俺は潮、わからなかったよな、ごめんな…」
「っ……」
「これ、誰のスリッパ? 足、赤くなってる…。ずっと裸足だったのか?痛くないか?」
やめて…。
「凪?」
「…っ、やめて…」
「どうした?」
「やめて…」
「やめる、やめるから」
「お願い…やめて……」
「やめるよ、大丈夫だから。…なにが嫌だった?」
甘く、優しく言われ…
「…っ…、やだ…」
「…凪?」
「っ、…──〝凪〟って呼ばないで!」
叫んだ時、目の前にしゃがみこんでいる〝潮くん〟は、眉を寄せ。
「私は〝凪〟じゃないもん!!」
「うん」
「〝凪〟じゃないっ…」
「うん」
「だからっ、〝凪〟って呼ばれるのはおかしい!」
「そうだな、俺が悪かった」
「っ……」
「…足、痛くないか? 」
優しく微笑んでくれる〝潮くん〟。
そんな〝潮くん〟と警察署から出たのは夕方頃。
私はずっとずっと泣いていた。
23 / 55
ドラッグストアに連れていかれ、近くの外のベンチに座った。彼は私にお茶を買ってくれたらしい。
「暑かっただろ?」
昼間の方が、凄く暑かった。
何も喋らない私に、〝潮くん〟は「頼むから飲んでくれ…」と心配気味に言うから。
「飲んでもいいのですか…?」
返事をしないわけにはいなかった。
「当たり前。飲んだら足、薬塗ろうな」
3口ほどペットボトルのお茶を飲むと、〝潮くん〟が買った何かのクリームを足の裏に塗られた。
痛いけど、マヒしているのかそれほど鋭い痛みはなくて。
そのままガーゼが外れないように、買ったらしい靴下を履かせてきた。
「…痛くないか?」
そう聞かれても、直ぐに涙腺が緩む私は泣くだけしかできない。
「背中乗るか?」
首を横にふった。
「痛いだろ? 家まできついと思うから」
いやだ、
いやだ、
帰りたくない…。
あの家は、私の家じゃない。
知らない家だもん。
「っ、…わ、わたしの、」
「うん」
「あんな家、しらな、…」
「戻るのイヤか?」
泣きながら、顔を縦に動かせば、ポロポロと涙が落ちた。
「分かった、家に帰るのはやめよう。その代わりどこか入って足は休めような」
「っ…」
「もう大丈夫」
〝潮くん〟の手のひらが、私の頬を包んだ。その手の優しさに、涙が溢れて止まらない。
「ごめんなさい……」
「ん?」
「ごめんなさい…」
「謝る事あったか?」
「だって……」
「うん」
「こわい…」
「なにが怖い?」
「……」
「俺が怖い?」
分からない。
全てが分からない。
私は死んでしまうの?
「わ、わたしは、あなたの、恋人じゃ、ありません…っ…」
「……うん」
「あの、ひと、親じゃ…な…」
「…ん」
「ごめんなさい…」
「分かった、言いたいことは。ずっと今日1日、そのこと考えてたんだな」
今日1日…。
「わたしは、どうすればいいんですかっ…」
泣きながら彼を見つめれば、彼はまるで安心させるかのように微笑むと、慣れた手つきで頭を撫でてきた。
「俺はとりあえず、飯を食って、体を休めてくれたら嬉しい」
私を怖がらせないように優しく言ってくる。
「お風呂も入った方がいいから、どこかホテルに行って、そこでご飯を食べよう」
お風呂…?
ご飯…?
ホテル?
「あなたと…?」
「うん、まだ何も食ってないだろ?部屋に2人きりが嫌なら、部屋に入らないで廊下で待ってる。でももしいいなら、俺も部屋に入りたい。動かないようにヒモで縛ってくれていいし、俺が何かしようとしたら警察を呼んでくれていい」
「……」
「全く知らない男とホテルに行くのが怖いのは分かってる」
「……」
「でも、できる限りそばにいたい」
「……」
「絶対に1人にはさせたくない」
「……」
「…──…不安だったよな、」
「……」
「もう大丈夫だから…、」
この人と、初めて会うのに。
頭を撫でられ、ゆっくりと引き寄せられる。
それには全く力が入っていなかった。
私が一瞬力をいれただけでも、離れることが出来る力加減。
されるがままの私は、彼を見つめてた。
ベンチに座ったままの私は、頭を抱えるように彼に抱きしめられた。
その事に嫌だとは、思わなかった。
〝体〟は受け入れている──…。
それでも腕を回すことができなかった。
恋人である〝潮くん〟が好きなのは、昨日までの〝澤田凪〟なのだから。
彼は落ち着いた私に「手を繋いでいいか?」と聞いてきた。私を抱きしめていたのに、3回ぐらい同じことを言ってくる。
だから3回ぐらい頷いて、ようやく私の手を握った〝潮くん〟は、私が拒絶しないことで少しだけ安心したような表情をした。
少し手を繋ぎながら歩く。
「…確認のために聞きたい、これは俺が聞きたいだけで、別に君を責めてるとかそういうのじゃない」
私のことを、もう〝凪〟と呼ばない男。
「俺のことが彼氏だって分かるってことは日記を読んだってことでいい?」
日記。〝澤田凪〟の日記。
それに対して頷いた。
これのどこが責めてるんだろうと思った。
「そのファイル、今どこにある?」
だけど、その質問に、体が強ばるのが分かった。白いファイルはもうない。捨ててしまったから。
捨てた人物の名前を出すべきなんだろうか?だけど藤沢那月は彼を嫌っている。藤沢那月の名前は口にしない方がいいのかもしれない。
「……捨てました…」
「捨てた?」
「気が動転して…」
「……」
「ごめんなさい……」
少し、握っている手が強くなった気がして。ああ、やっぱりあれは捨ててはいけないものだったんだと思った。
「そっか、なら仕方ない」
微笑んでくる彼に申し訳なく。
「駅の、警察署の近くの、駅のゴミ箱に捨てました…」
だから、捨てた場所を言った。
「うん」
「……ごめんなさい……」
「謝ることじゃない、君は悪くないよ」
「でも……、あれは大事なものではないのですか?」
「俺が大事なものは君だよ。これからもずっと」
私は、明日、いなくなるのに?
たくさんの思い出がつまったあの日記は、きっとこの人にとっても大事なものなのに。
私を傷をつけないようにしてくれてる。
「…もう一度、あの日記が読みたいです…。探しに行ってもいいですか?」
そう言わずにいられなかった。〝潮くん〟は「無理しなくていいよ」と言ってくれたけど。
〝明日の私〟には必要だと思うから。こんな複雑な感情だけど。
「行きたいです」
もう一度言った私に、〝潮くん〟は頷いた。
「足が痛くなったらすぐに言って。絶対に我慢しないで」
そんな言葉と共に。
25 / 55
──確かに、ここへ捨てたはずだった。
私の記憶はちゃんと覚えてる。
それなのに無くなっていた。
どうして………。
「ここに?」
〝潮くん〟もゴミ箱の中を覗くけど、無くて。
もう処分されたのかもしれない。
後悔しても今更遅く。
「駅員に聞いてみよう」
〝潮くん〟が駅員さんに聞いてくれたけど、ファイルを捨てたゴミ箱は、駅のゴミ箱ではないらしく、「分からない」と言われた。
きっともう、見つからないだろう。
「……ごめんなさい……、捨ててごめんなさい……」
何度も何度も謝れば、彼は私の頭を優しく撫でた。
「大丈夫」
「でも、」
「本当に、君が無事ならそれでいいんだ」
彼とホテルに向かった。
鍵があれば何度も出入りできるホテル。
そのホテルの中でも謝っていると、「謝らなくていい、俺が悪い……。君が悪いところはひとつもない」と、子供のようにあやしてくれた。
しばらくして落ち着き、〝潮くん〟はルームサービスというものを頼むらしく、私に選ばせてくれた。
ルームサービスが届くまでにお風呂に入ることになり、ズキンズキンと足の裏が痛む中、私は汗を流す。
よく見ると、私の足の裏の皮が破けていた。
お風呂から出て、汗をかいた服を着る訳にも行かなく、ホテルに来る前に買ってもらった下着と、ホテルのバスローブを着た。
また、私の足の裏を手当てするのか、部屋のソファに腰かければ、〝潮くん〟はしゃがみこみ、私の足の裏を見た。
そんな私の足を見て、今度は彼が何度も何度も謝ってきた。
処置が終わり、ルームサービスの料理を食べ終わり、ぼんやりしていると彼もシャワーを浴びてきたらしい。と言っても、5分もなかった。
〝潮くん〟は私を後ろから抱きしめると、「痛くないか?」と、また私の足の心配をする。
「あの……」
「うん?」
「本当に……眠ってしまえば、私は記憶を失うのですか?」
「……」
「ほんとに、」
「…うん」
「だとすると、私は今日死んでしまうのですね」
「確かにそういうことになるかもしれない」
否定しない彼は、抱きしめるのを止めると、私へ向き合うように前へ回ってきた。
お風呂に入ったというのに、床へ膝をつく。
「君が今、どういう言葉を言って欲しいか、俺には分からない。…もしかすると傷つけるかもしれない」
そう言って、私の手を握った。
「毎日毎日、君は違う」
違う……。
「笑ってる日もあれば、ずっとずっと泣いている日もある。驚いて寝るまで日記を読んでた日もあるし。その日によって君は違う」
その日によって……。
「今日みたいに行方不明になったことも…?」
「うん、」
「……そうですか」
「公園で見つかったり、自力で家に帰ってきたり」
「……」
「本当に、その日によって違うんだ」
彼が、私の手を強く握った。
「だけど、毎日違う君を見て、俺は毎日好きだって思う」
毎日……
好き……。
優しく私を見つめてくる〝潮くん〟。
「だから君を嫌うことは絶対無い。離れることも絶対に無いよ」
嫌うことは……
離れることも。
「昨日も、今日の君も、明日も、大事で……。自分の命よりも大事だから」
「……」
「こんなにも好きな子を、俺は忘れたりしない」
「……」
「これから先も君の事は絶対に俺が覚えてる」
「……」
「だから、君は死なない」
「……潮さん……」
「俺が死なせないよ」
気づけば私は泣いていたらしく。
バスローブにぽたぽたと頬をつたい流れ落ちていた。
「……嫌にならないのですか」
「ならないよ、どんな君も好きだから」
手を握られている私は涙を拭くことが出来ず。それでもこの手を振り払う事が出来ない。
「本当に忘れませんか……」
「忘れないよ」
「わたし、」
「絶対に覚えておく」
「わたしっ……」
「明日の君にも、君の事を話すから」
「……っ、」
「安心していい」
「……」
「頑張ったな、もう怖くないからな」
その日の夜、私は〝潮くん〟の腕の中で眠った。
よっぽど疲れていたのか、〝潮くん〟の腕の中が安心するのか分からないけど、〝潮くん〟に頭を撫でられているといつの間にか眠っていた。
〝潮くんは〟「君は脳に入る情報量が人よりも多いから、疲れやすいんだよ」と、教えてくれた。
「また明日な」
また明日……。
彼は、毎日、この言葉を言っているのだろうか。
そう思うと彼に申し訳なく……。
どうかと、眠る前に願った。
明日、彼を拒絶しませんように、と。