キミは海の中に沈む【完】


────翌日、罰の悪い顔をした広瀬くんが家に来た。マンションの表札を見て、私が住んでいる号室を知ったとの事だった。


広瀬くんは「この前の、潮ってやつが那月をボコった理由、言ってなかったから」と、わざわざ言いに来てくれたらしく。


玄関の外で、広瀬くんは教えてくれた。



那月くんが、私の記憶を取り戻すために私をプールに落としたこと。

落として、思い出させるために、1時間以上、ずっと水の中に落としたままだったそうで。
私が「寒い…」と凍えても、那月くんは「まだ思い出してないだろ」と、水から上がらせて貰えなかったとか。

私の意識が落ちそうになった時、ようやく水の外に出ることが許され、私はそのまま気を失ったようだった。
そのまま那月くんだけが帰り、助けに来た潮くんが、多分、プールサイドで気を失った私を見て、〝殺してやる〟と言わんばかりに那月くんの所へ暴力を振るいに来たと思う、と。


それを聞いて、何故私が、熱を出して苦しんだのか理解した時、──私は潮くんに何て酷いことを言ってしまったんだと、後悔した…。



私を優先してくれる、潮くん…。




───『それに、もう俺も関わる気はないよ』

──『ケンカをしたのですか?』

──『あいつは俺の大事なものに酷いことしたから。許せねぇだけ』




卒業アルバムを見ていた時言っていた大事なものは、私だったんだ。
那月くんが私に酷いことをしたから。




「那月と付き合うって聞いた…」

「……」

「なんで、そうなったか分からないけど…」

「……」

「あん時のあれは、どう見ても那月が挑発したからで…」

「……」

「あんたは、潮ってやつと、離れるべきじゃないよ」



そう言われても、潮くんに酷いことを言ってしまった今、潮くんのそばに居たいって…私には言うことが出来なかった。




広瀬くんは最後に、そのプールの場所はどこかと聞いた私に、「あんたの元小学校」と教えてくれた。




広瀬くんが帰り、私は〝なぎのへや〟のクローゼットの中を探した。そこには潮くんが言っていたとおり、卒業アルバムがあった。あまり読まれていなかったらしく、埃が被っていた。

ぱんぱん、と、埃をとる。
そして1ページとめくる。
どのページも、潮くんの部屋で見たものと同じだった。
小学校の校舎内。
もしかすると、この小学校に行けば、記憶が戻るかもしれない。
那月くんが私を落としたプールがある、学校へ。


得に何も潮くんに見せてもらった卒業アルバムと変わりがなく、ペラペラと捲っていた時、とあるページを見て私の指の動きは止まった。


最後のページ、きっとみんなが書ける寄せ書きのような、空白のページ。



────『卒業おめでとう 桜木潮』



綺麗、とは言えない字だった。
だけどその文字を見て嬉しくなった私は、潮くんに会いたくてたまらなくなった。


もしかしたら、と思い、中学の卒業アルバムも見た。



──『卒業おめでとう 高校でもよろしく 潮』



空白の、寄せ書きのページにあるのは、どちらも潮くんのメッセージだけだった。




『何してる?』


そう那月くんから電話が来たのは、卒業アルバムを眺めている時だった。横には汚れている日記が挟まれているファイルがあって、読めない文字と睨めっこしていた。


「…聞かなくても、潮くんとは会ってませんよ」


笑いながら言えば、那月くんは『だるい女だな』と、怪訝な声を出した。


「私…、やっぱり思い出すことにします」

『あ?』

「だって、あなたと、潮くんの仲が悪くなったことも、思い出せば分かるでしょう」

『…』

「今の私ではどうすればいいか分からないから…。思い出してから答えをだそうと思うんです」

『一生、思い出さねぇかもしんねぇよ?』

「はい、ですから、小学校に行こうと思います」

『小学校?』

「はい、あなたが私の記憶を取り戻すために、私を落としたプールがある学校に…」

『…誰に聞いた?』

「なので、私はあなたとは付き合えません」

『……』

「私はきっと…、記憶が戻った時も、潮くんを選ぶ気がするから…」



電話を切ったあと、私は小学校へ行く準備を始めた。お母さんに気づかれないようにそっと抜け出した。

マンションのエレベーターに乗り、最近使えるようになったスマホのネット検索で、小学校の位置を検索しようと思っていた矢先、エレベーターを降りたところで、見慣れた金髪が見えた。


私を待っていてくれたのか分からない。けど、それほど怖い顔をしていなかった。


「…道、分かんねぇだろ」


そう言った彼は、まるで着いてこい、とでもいうように、前を歩き出した。

那月くんが何を考えているか分からない。
もしかするとまたプールに落とすのかもしれない。それでも、それで思い出せるならと、私は彼について行った。


夏の暑さが、ジンジンと肌を刺激する。


私が卒業したらしい小学校だけど、校門を見ても、開いていた校門から中に入っても、〝懐かしい〟っていう気持ちは思い浮かんで来なかった。



那月くんが校舎の中に入っていく。
彼の後をおえば、校舎から見える景色に、那月くんは「今日はあそこに落とすのは無理だな」と笑っていた。


那月くんの言葉に窓の外を見れば、夏休みの時期なのに、小学生らしい子がプールに入って遊んでいた。


「校舎の中、勝手に入ってもいいのですか?」

「いいだろ、卒業生だし」


いいのだろうか?分からないけど。
校舎の中を進む那月くんは、「懐かしいな…」と、階段を登っていく。

私にはその〝懐かしい〟が分からない。

目的地は、とある教室の前だったらしい。6年1組と書かれた教室には鍵がかけられていた。だから入ることが出来ず。

那月くんは、近くの廊下の窓を開けた。那月くんが見ているのは運動場らしかった。

運動場を見て、那月くんは「お前が転校してきた日、覚えてる」と呟いた。那月くんは私の方を見ていない。

「その時の担任は、お前が毎日忘れるから、記憶出来ないから、みんなでサポートしていこうって言ってた」

「……」

「そんで、家が近い…俺と潮が、お前を家まで送る事になった。正直、俺は嫌だった。だってめんどくさいだろ。お前をいちいち家まで送るんだぞ?遊びたい日もあるっつーのに」

「……」

「けど、潮は違った。お前をサポートしてた。あいつは昔から優しかったから。置いて帰るかって俺が言った時も、潮はちゃんと送っていってた」

「……」

「それが1ヶ月ぐらい続いた時、潮が…お前に対して怒ってた。理由を聞いても、教えてくんなかったけど…」

「……」

「それから潮がお前を虐めだした、俺は元々お前をよく思ってなかったから、俺もお前を虐めてた。つーか、実際は潮より酷いことをしてたし」

「……」

「今思えば、潮は虐めてたけどちゃんと家までお前を送ってた」

「……」

「そんな日が続いて。ある日、お前の記憶が失うようになった事故の原因が、海で溺れたからって事を知った」

「…海…?」

「ああ、親たちが話してた」

「……」

「それを聞いて、泳げねぇならプールに落としてやろうってなって。俺が突き落とした。──この前、お前に潮が突き落としたって言ったけど、あれは嘘で、俺がプールに突き落としたんだよ」


いつの、話だろうか。
過去の私に話したらしい。


「そしたらお前が泣いて、喚いて、叫んで。頭を抱えて謝りだした。思い出したくない記憶を思い出したみたいに、泣いて──…、それを見た潮がプールに飛び込んでお前を助けてた」

「……」

「そっから潮は、お前を虐める事はなくなった。学校ん中でも、外でも、ずっとお前のそばにいるようになった」

「……」

「俺らは幼稚園から仲良くて、ずっと一緒だった。でも、潮がお前と一緒にいるようになって…、次第にクラスみんなでサポートするのが、潮個人のサポートに変わっていった」

「…潮くんだけ…?」

「みんな、めんどくさいって思ってたからな。毎日毎日、トイレの場所を教える奴もいたんだ、面倒だろ」

「……」

「潮は、転校当初から、お前が好きだったらしい。意味分かんなかったけど」

「……」

「潮が、ずっと一緒にしてた野球を辞めるって言った時は、俺めちゃくちゃ腹が立って。なんでこの女のためにって」

「……」

「お前に友達がいないって理由で、潮がずっとそばにいた。俺の方が付き合い長いのに、なんでって…。俺よりもお前を優先した事にムカついて仕方なかった」

「……」

「やめとけよって言っても、潮はやめなかった。ムカついたけど、それでも、好きなんだっていう、潮の言葉を必死に理解しようとして…。潮が野球をやめたことに、文句は言わなくなった。──けど、言わねぇけど、お前、すぐ忘れるだろ。潮がどれだけお前に尽くしても、お前はすぐに忘れるだろ!」


怒鳴る那月くんは、私の方を見ない。



「…お前は、なんも覚えてない」

「……」

「全く、何も…」

「……」

「仲良く話してんのを見たと思えば、次の日には潮に近づくなって言ってるお前がいる…。お前は潮の気持ちを全く考えてねぇ。潮がどれだけ頑張って努力してるか知らねぇだろ!!」

「……」

「お前からすれば、毎日が他人だもんな」

「……」

「7年間ずっと、サポートしてる潮が怖くて、俺の学校に来るぐらいだもんな?」


那月くんの学校…。


「潮が可哀想で見てられない」

「……」

「だから、お前の記憶が戻るように、もう1回プールに落としてやった」

「……」

「この現状を変えたかった。だからお前の日記も川に捨てた。潮が拾ってたけど、どうせ読めねぇだろ」

「……」

「でも、潮は、お前の記憶が戻らないように今でも必死だ。ずっとお前を守ってる」


……──え?


「俺に潮を貸してくれ。好きでもねぇんなら潮を解放してくれよ」

「……」

「今回も、簡単に俺の方に来やがって…」

「……」

「潮のどこが怖い?! 言ってみろ!!」

「……」

「親友だった俺を…、お前を傷つけたからって理由で…。潮はお前に対してずっと優しかっただろ!! 怖いところなんかねぇだろ!!」

「……」

「なんでお前が泣く」

「……」

「泣きたいのは潮の方だろ!」

「…っ……」

「全部忘れるお前が、潮を傷つけるんだろ!!」




いつの間にか、私の方に振り向いていた彼が、「なあ」と、呼びかけてくる。


「お前もう、記憶できるんだろ?」


両手で顔をおさえる私は、何も言うことが出来ない…。


「だったら、もう、忘れないでくれよ」

「…っ、」

「他のことはいい、潮のことは絶対に忘れないでくれ」


目の奥が熱い。


「頼むから、」

「……、…」

「お前が今、潮を好きじゃなくても…。潮の事は絶対に忘れないでくれ……」


那月くんは、潮くんを嫌ってなんかいなかった。那月くんは今でも潮くんの事が友達として大好きなんだ。だから…──。

とことん、私は最低で最悪だった。
今までどれだけ彼を傷つけてきたんだろう?
那月くんが言うように、今回那月くんを庇った私をどう思っているんだろう?
私は何度、潮くんを拒絶してきたんだろう?
──覚えてない、っていう言い訳は出来ない。


潮くんを好きかと言われれば、分からないと答える。
だけど一緒にはいたいと思う。彼のことを知りたいって。


「お前にこんなこと言うつもりはなかった」


廊下を歩く那月くんが、ぽつりと呟いた。


「本当は、お前を俺のもんにして。二度と潮のところには返さないつもりだった」

「あなたのもの…?」

「ああ、──けど、潮がお前のことマジで大事にしてんだなぁって思ったら、──やめてた」

「大事?」

「さすがに、7年間ずっと体の関係ねぇって、俺なら考えられない」


体の関係?
体って…、子供ができる行為のことだろうか。
確かそれは性行為っていうものじゃ…。
あまりそういうのに詳しくない私は、どう返事をすればいいか分からなかった。


「潮くんを、大切にします」

「頼むよ」

「…はい」

「次忘れてたら、お前のこと本気で殺しに行くから」


笑いながら言った那月くんは、酷い事をしていた過去はあるものの、実際は友達思いのいい人なんだろう。


お願いだから、忘れないで欲しい…。歩きながらそう頭に叩き込んでいた時、視界の中にとある文字が入ってきた。

突然立ち止まる私に、眉を寄せた那月くんは「どうした?」と、立ち止まる。
私はその扉の、上にある文字に夢中だった。
那月くんも私の視線の方に目を向けた。そして呟く。

「理科室?」と。



なんだろう?
見覚えは、ない。
この教室の扉も見たことがないし、文字も…見たことない。今歩いている廊下だって見覚えが──…。



──『理科室、こっち』


違う、場面じゃない。声だ。
景色に見覚えがあるんじゃなくて、声が──…。潮くんの、声…。


──『理科室、こっち』


そうだ、ランドセルを背負っていた潮くんと同じ声。脳が思い出そうとしているのか、何だか白いモヤがうっすらとかかっている。
理科室、理科室、理科室──…。


頭を書抱えている私を見て、「どうした?頭痛いのか?」と、那月くんが近づいてきて、私の方に手を伸ばしてきた。

細い指。

違う。
私の知っている手は、もっとしっかりとしていて。


しっかりとしているけど、脳に浮かぶのは、私が知っている潮くんの手よりも少し小さい手。
まるで走馬灯のように──、とある映像が脳に思い浮かんだ。


小さな手が私の方に差し出される。
──『理科室、こっち』と、言われながら。
そうだ、私はその時、その手に自分の手を重ねた。


目が、泳ぐ。


「おい?」


思い出した、
思い出した、
思い出した
思い出した…!!


「う、うしおくんが、」

「潮?」

「理科室、こっちって!」

「は?」

「私の手を──!!」


握って…──。


「理科室に連れて行ってくれた…」


そう言いながら、手を繋ぐことを、癖だと言っていた潮くんを思い出した。

癖…?

手を繋ぐ事の癖?

ということは、潮くんの癖は、小学校の頃からってことで──。



涙が出るほど、嬉しかった。
少しでも潮くんを思い出せたことが。
それなのに。

「思い出したのか?」と、不安気味に呟いた那月に、どう反応すればいいか分からなかった。


「はい、少しですけど…」

「どんな?」

「潮くんが、私を理科室に連れて行ってくれたことです」


また、眉を寄せた那月くんに、どうして?という思いが募る。


「もう出よう」

「え?」

「お前はあんまり、思い出さない方がいい」


思い出さない方がいい?
どうして?
私はそのために小学校へ来たのに?
そう言えば、さっき那月くんは言っていた。
──『でも、潮は、お前の記憶が戻らないように今でも必死だ。ずっとお前を守ってる』と。


「どうしてですか。潮くんの虐めていた頃の事を思い出すから?」

「違う」

「じゃあ、どうして──…」

「──」


口を閉ざした那月くんは、本当に小学校から出るらしく、来た道を戻っていく。
小学校から出て、マンションの方に向かう那月くんの背中を追いかけた。


そうして、しばらくすると、那月くんが私の方に振り向いた。



「さっき、言ったよな。お前が海で溺れた時、──記憶喪失になったって」

「え?」

「事故は事故だけど、海の事故っていうのは、お前には教えてないはずだ。──お前には絶対、思い出させないようにしてきたはずだから」

「……海の、事故…」

「絶対に思い出すな。──思い出すと、お前はまた潮の事を忘れる。そんな気がする」


そんな気?
潮くんを忘れる?


「潮を大切に思うなら、絶対、事故のことは思い出さないでくれ」

鏡の向こうの私の目の下にはクマができていた。昨晩、あんまり眠る事が出来なかった。
だけど、カレンダーを見る限り私は昨日のことを覚えていたし、記憶は消えていなかった。


『いつでもいいから会って話がしたいです』


朝に送ったのに、潮くんからはすぐに『分かった』と返事が来た。


『8時ぐらいに行く』


今の時刻は7時30分。
昨日、いっぱい考えた。
私の出した答えは間違っているのかもしれない。だけど潮くんを大切にしたいっていう思いは、変わりはない。

出かける準備をしていると、お母さんが「どこかに行くの?」と聞いてきた。
私は「潮くんと会ってきます」と返事をした。
お母さんは何も言わなかった。

8時5分前、私は1階のエントランスで潮くんを待った。しばらくしてすぐに潮くんはエントランスに入ってきた。

私の姿を見て、少し驚いた顔をしていた。


「待ってたのか?暑かっただろ?」


と、私の心配をしてきて。
4日ぶりなのに、とても久しぶりに会うような気がした。──会いたかったと、つい、口から零れそうになった。


「話が、あって」

「うん」

「わたし…」

「ここは暑いから、向こうの影で話そう」


潮くんに言われ、頷いた私は、潮くんの後を追った。その時、手に違和感がした。今日、潮くんの癖がない。私の手を握ってこない。


マンションの外に出た。
暑かったものの、木の影ができているベンチに座れば、風が吹きとても涼しかった。


青い空──…。


「わたし、」


昨晩考えていたことを言おうとした時、「凪は、」と、潮くんが言葉を被せてきた。

潮くんが私を見る目は、悲しそうだった。


「俺と別れたい?」


別れたい…──
そんなの、返事は決まっている。


「別れません、そういう気持ちは、考えてません…」


私の言葉に、安心の表情をする潮くんとは、まだ手が繋がっていない。


「私まだ、潮くんのことを好きとか、そういう気持ちがまだ分からないんです…」

「うん」

「でも、潮くんと一緒にいたい」

「うん」

「一緒にいたいけど、また潮くんを悲しませるんじゃないかって、思ってしまう」

「…うん」

「悲しむ顔を見たくないのなら、このまま、離れた方がいいのではって、思ってしまって…」

「……」

「でも、」

「…凪」

「潮くんとずっと、手を繋いでいたいです…」

「…手?」

「私のわがままだって、分かっているけど…」

「……」

「潮くんとずっと、手を──…」


恐る恐る潮くんを見つめれば、少し照れたような潮くんがいた。


「…藤沢は? あいつと付き合うって…」

「那月くんは私と付き合いません、これからもそういう関係には絶対ならないです」

「……」

「那月くんはとても友達思いのいい人でしたよ」


潮くんは何かを言いたげにしたけど、私が笑っているからか、那月くんのことに関しては何も聞いてこなくて。


「じゃあ、これからも、俺は凪のそばにいていいのか?」


これからもそばに。
いてほしい。
たけど、


「私は、これ以上悲しませたくない。私が忘れていることの絶望感を、潮くんに合わせたくない」

「…離れたいって?」

「私…、いっぱい考えて」

「うん」

「記憶が無くなった根本的な理由を解決すれば、この私の、記憶喪失は無くなるんじゃないかって」


潮くんは何も言わない。
きっと、私の言いたいことが分かったらしい。
潮くんの顔色が変わった気がした。


「那月くんが言っていました、思い出さないように、潮くんは必死に守ってるって」

「──」

「事故の日、何があったのか」


私は本当に、頭部が当たり、記憶喪失になったのか。


「海に、溺れた理由──…」

「藤沢に聞いたのか?」

「潮くん…」

「ダメだ」


いつも優しかった潮くんが、私の提案に拒絶した。


「また、記憶を失うかもしれないから?」

「違う」

「那月くんにも言われました、でも、解決するには、私がその事を思い出さないと…。ずっと記憶が無くなるかもっていう怖さが…」

「違う、凪に、凪に思い出してほしくない」

「…潮くん、」

「藤沢にどこまで聞いたか分からない、でも、思い出して欲しくない…」

「どうしてですか? 記憶喪失が治るかもしれないのに。那月くんからは私が溺れて記憶喪失になったと聞きました。それって頭部に当たったわけじゃないってことでしょう?」

「……俺の口からは言えない、これは凪のお母さんにも関わることだから」


私のお母さん…?


「凪の気持ちは分かった、でも、事故の日何があったか、今の俺は言えない…」

「……」

「正直、俺は思い出して欲しくない」

「泣きわめいたから…?那月くんが言ってました、プールに落とした時、泣いてずっと謝っていたって…」

「……」

「潮くん、私はもしかして、」

「…凪」

「頭の衝撃で記憶喪失になったからじゃなくて、忘れたいっていう気持ちが強くあったから記憶喪失になったんじゃないですか?」


潮くんはずっと難しい顔をしていた。潮くんの顔が、言うか言わないか迷っているようだった。けど、言わないと思った。潮くんは私をとても大切に思ってくれているから。
もう、昔と違って傷つけることはしない…。


「那月くんに、なんで言った?って怒らないでください。那月くんは…、潮くんのことを大切に思ってるいい人だから…」


私の言葉に、また難しい顔をした。


「…凪は知りたいのか?」


潮くんの真剣な声に、私は頷いた。
潮くんが私を見る。


「…この、10日間の記憶がなくなってもいいのか?」


10日間の記憶…。
昨日の那月くんの会話も、忘れるかもしれない。
潮くんと手を繋いで寝たことも、忘れるかもしれない。


「正直言うと、俺は嬉しかった。凪が過去のことを思い出さないで、これから先の事を覚えていくなら…、もうずっと幸せな時間を凪にあげられると思った」


幸せな時間…──


「過去を思い出して欲しくないのは、潮くんが虐めていたことじゃなくて、記憶喪失になった事故の事ですよね」

「うん──」

「幸せな時間は、これから先だけなの…?」

「……え?」

「潮くんといた過去の私は、幸せだと思っていなかった?」


潮くんが言葉を詰まらせた。
唇を、噛み締め。
──それでも、私の提案を拒絶するように顔を横にふった。


「幸せって、思ってくれた日はあると思う。──それでも、俺は凪が泣き叫んでたのを見た事があるから、事故の時のことは思い出して欲しくない」

「潮くんの言っていることは分かる、私の事を思ってくれてるんだって。だけど、」

「言えない」

「潮くん、」

「凪はもう苦しまなくていいんだ、これからはずっと俺が幸せにするから」


苦しまなくていい。
このままずっと。
何も思い出さないまま、潮くんと幸せに?


「でも、また、私は潮くんを忘れてしまうかもしれない。過去を解決しなくちゃ、私は…潮くんを忘れちゃう…。私は忘れたくないの…」

「ずっと俺がそばにいる」

「忘れないでって、私に言ったのは潮くんだよ」

「…だめだ、」

「どうして…」

「……」

「じゃあ、今から海に飛び込む、そうすれば思い出すかもしれない」

「凪っ」

「だって!私も潮くんの悲しい顔を見たくない!」



大声を出せば、目の奥が熱くなった。
涙腺がジワジワと、潤ってくる。
泣きそうな顔をしているからか、潮くんの手が私に伸びてきて、私はその手を重ねるように繋げた。


「私の記憶が無くなるほどの、酷い事故があったんだって、なんとなく分かる…」


私は潮の手を強く握りしめた。


「潮くんはさっき、幸せって思ってくれてた日はある思うって言ってたけど。それは酷い事故には勝たない?」

「凪…」

「『理科室、こっち』って、潮くん、私に手を伸ばしてくれたよね」

「…え──…」

「勝たない?」

「思い、出したのか…?」

「潮くんが、私を大切にしてくれた過去は、私が記憶喪失になるほどの嫌な記憶に勝たないのかな…」

「…っ、…」

「私は全部思い出して、心から潮くんに好きって言いたい──…」

「……なぎ…」

「この気持ちを忘れたくない」


潮くんの、繋げる力も強くなった。


「だから、教えてください、何があったのか」



潮くんは結局、私がどれだけ言っても教えてはくれなかった。「──凪のお母さんに許可なく言えない」と。
絶対に、その場では私に教えてくれなかった。

だから潮くんは今日の夜、私のお母さんと話をすると約束してくれた。
私の気持ちを受け入れてくれた潮くんは、ずっとずっと私の手を握ったままだった。


私が思い出した『理科室、こっち』というのを潮くんに詳しく聞かれた。他にも思い出したのはあるのかと。それだけしか思い出してないと言えば、潮くんは少しだけ嬉しそうな顔をした。


「それな?俺が、初めて凪を受け入れて大切にしようって思った日なんだ」


初めて…?


「だから、その時初めて手を繋いだ」


初めて手を繋いだ…。
あの場面が。
潮くんと初めて手を繋いだ日。
今ではこうして癖になるほどなのに。


「それを思い出してくれたのは、結構嬉しい…」


幸せそうに笑う潮くんに、私も心が暖かくなった。


「きっと、私にとっても嬉しい事だったんだろうなぁ…」







──その日の夜、潮くんとお母さんがリビングで1時間ぐらい話をしていた。
私は〝なぎのへや〟にいた。

お母さんが「ダメ」と言えば、潮くんは私に言ってくれないだろう。

お母さんに許可なく言えないと潮くんは言っていた。私自身、勘がいいのか悪いのか分からない。でも、お母さんの許可なく言えないっていうのは、きっと〝家族〟に関係のあるものだと思った。


どうして私は、気づかなかったんだろうか?

私には〝お父さん〟がいない。

もしかしたら、事故の時──…。


そう思えば思うほど、疑問が募った。だってこれまで潮くんとお母さんも〝お父さん〟とか〝父親〟とか、そういう単語は一切言わなかった。


潮くんとお母さんは何の話をしているんだろう?


──しばらくして、潮くんが部屋のノックと共に、顔を覗かせた。
潮くんの顔は、優しく笑っていた。
その顔は『YES』なのか『NO』なのか全く分からなくて。


どっちなんだろう。
分からない。
お母さんは、『YES』と言ってくれたのか。
それとも私を思って『NO』と言ったのか。


潮くんが口を開く。
不安になりながら答えを待っていると、部屋の中に入ってきた潮くんが、癖のように私の手を握った。


「なぎ」

「だめ、だった、…?」

「なんで泣きそうな顔してんの」


柔らかく笑う潮くんは、そのまま愛おしそうに私の頭を撫でた。


「だって…」

「凪?」

「……」

「夏休みだし、旅行でも行こうか」

「…え?」

「泊まりはだめだから、日帰りで」



優しく笑ってくれた潮くんは、お母さんがどんな返事をしたのか教えてくれなかった。




那月くんからメッセージが届いた。そのメッセージの中に文字はなかった。数枚の写真だった。合計で5枚。ぶれていて読めない文字があるけれど、見覚えのあるその写真にはどう見ても〝潮くん〟の文字が書かれていた。

その写真を眺めていると、今度はちゃんとしたメッセージが届いた。
『それだけしか撮ってなかった。川に落として悪かった』と。
この5枚の写真を撮ってから、私の日記を川に落としたらしい。
その写真は、水で汚れて読めなかった日記の1部の写真だった。




〝令和元年5月25日
潮くんから告白される
潮くんはとても優しくていい人
「ずっと一緒にいる」と
言ってくれた潮くんを信じようと思う
だけど私は信じることも覚えてないんだろうな〟


〝令和元年5月26日
私が記憶を失う病気なんて信じられない。
でも確かに覚えていない。
この日記は本当に私が書いたものなのだろうか?
潮っていう人が「好きだよ」と言ってきた。
記憶できない私を好きってどうなんだろう〟



1枚、2枚と見る。
どれも潮くんの名前があった。
その画像を見て、過去の私は凄く潮くんに大切にされていたんだなぁと実感した。



「どうした?」


スマホを見て笑っていた私に、ベットの中にいた潮くんが話しかけてきた。
なんでもない、と首をふる。
スマホを机の上に置き、潮くんに近寄れば、潮くんは手を差し出してくれた。
それが嬉しくて、私は笑っていた。


一緒の布団に入り、私は手を繋いだまま潮くんに「旅行、どこに行くの?」と、尋ねる。


「うん、まだ決まってない」

「日帰り?」

「かな」

「たのしみだな…」

「うん」


久しぶりに、2人で入る布団の中は暖かい。夏なのに熱くはなく、暖かい。
失礼かもしれないけど、那月くんじゃなくて、潮くんとこうしていると落ち着く。安心できる。


「…うしおくん」

「ん?」

「事故って…、家にいない〝お父さん〟に関係ある…?」


潮くんは、静かに、安心させるかのように笑うと私の頭を撫でた。




「それも、旅行の日にな」





〝令和2年8月5日


潮くんと一緒に買い物に行った

潮くんは私にかみどめを買ってくれた

明日は潮くんと日帰りの旅行にいく

かみどめをつけて行こう。楽しみだなぁ〟

平成26年9月1日
クラスに転校生がきた
さわだなぎっていうらしい
明日になれば今日のこと忘れるんだって
タイヘンだから転校生が
学校に来た日は家までおくることになった
クラスの女子とちがって
さわだは大人しくてかわいかった

────────────

平成26年9月10日
なつきがおくるのを
めんどくさいって言いだした
あそぶ時間がへるかららしい
さわだはもう友達だろと言っても
なつきは納得しなかった
おれひとりでおくった
さわだは「ありがとう」って泣きそうだった
やっぱりめんどくさくは思わなかった
さわだはかわいいのに

────────────

平成26年9月16日
さいあく親に日記を読まれた
さわだのことばっか書いてるけど
好きなのかって聞かれた
かってに見るなよクソばばぁ

────────────

平成26年9月19日
さわだはかわいい
ほかの女子とちがって調子にのらない
もんく言ってこない
明日学校来るといいな
さわだのこと好きだな…
なつきがまた怒ってた
なつきじゃなくて
さわだを優先してることに
怒ってるみたいだった

────────────

平成26年9月24日
やばい好きかもしれない
ひとめぼれってやつなのかも
日記見返したら〝かわいい〟って書いてた
たぶん初めから好きだったから
なつきみたいにイヤにならないんだろうな

────────────

平成26年9月25日
ガマンできなくて告白した

────────────

平成26年9月26日
さわだの家に行った
さわだはおれが言ったこと
覚えてなかった
なんでだよ
忘れないって約束したじゃん
怒ったらさわだが泣いた
おれの方が泣きたい
うそつき





記憶を保てるようになってから、私はずっと髪をおろしていた。昔からそうなのか分からないけど、暑くても髪を結ぶっていう概念がなかった。
いつも洗面台の鏡の前で、櫛でとくだけだった。元々くせ毛ではなく、多分、まっすぐな方なのだと思う。
お母さんが言うには、潮くんがプレゼントしてくれたのはバレッタという種類の髪留めらしい。

黄色とオレンジと白をモチーフとした花のデザインで、とても可愛く、朝からそれをつけようとするけど、普段からあまり髪をまとめ慣れていないのか上手くいかず。

左側がまとめられたと思えば、さらさらと右側の髪が落ちてくる。どちらかと言うと慣れてないと言うよりも、不器用なんだな…と思った。


結局、お母さんに髪をまとめて貰った。


「潮くんから貰ったの?」

「うん、昨日、買ってくれて」

「すごく可愛い」

「潮くんが、絶対私に似合うって…」

「潮くんは本当に凪のことが好きね」

「うん、」

「今日は、気をつけてね」


あまり目立たないように、軽い編み込みを入れてくれたお母さんは、笑いながら呟いた。

髪が全てアップされると、首がスースーして違和感があったけど、慣れたらそうでも無くて。

時間になり、潮くんが迎えに来てくれた。潮くんは私の姿を見るなり、「おはよう」という前に、頬を赤く染めていた。

どうして赤くなっているのか分からなくて、首を傾げると、凄く嬉しそうに潮くんは微笑んだ。


「髪、あげてるの初めて見た。めちゃくちゃかわいい」


私は初めて、潮くんに髪をまとめているのを見せたらしい。何度も「かわいい、もっと見せて」と、顔を覗き込んでくるから、恥ずかしくてたまらなかった。



手を繋いで、お母さんに「行ってきます」と言った。お母さんは不安な顔をせず、「行ってらっしゃい」と笑顔で見送ってくれた。


優しいお母さん──…。

もしかすると、私はお母さんの事を忘れてしまうかもしれない。怖い記憶を思い出し、また私自信が封印しようとすれば──。


エレベーターの中、忘れたくないと泣きそうになっていると、私の顔色を見て何かを悟ったのか、潮くんは「凪?」と私を呼んだ。

下から、上へと潮くんを見上げれば、「大丈夫」と優しく微笑んでくれて。
私は静かに潮くんへ寄り添った。


「好きだよ凪」

「潮くん…」

「大丈夫、何があってもこの関係は変わらない」

「うん…」

「好きだよ」


安心させるように何度も〝好き〟を伝えてくれる潮くん。エレベーターを出て、しばらく立ちどまった。当日になって情緒不安定になってしまったらしく、やっと落ち着いた頃には数十分は経過していて。


出発するまで、潮くんはずっと〝好き〟を言ってくれた。


日帰りの旅行は8月前半でとても暑いと思っていたけど、今日は湿気もなく風もありとても涼しく感じた。あまりまだ汗をかいていない。

私を連れて駅まで歩く潮くんは、落ち着きを取り戻した私の顔を何度も見てくる。


「…もう落ち着いてるよ?心配しないで」


優しくて心配性な潮くんに微笑めば、「や、それもそうなんだけど」と、また照れたように笑った。


「俺の彼女なんだなって思ったら嬉しくて。マジでかわいい、見慣れない」


さっきまで情緒不安定だったから、励まして言ってくれているのだと思った。


「髪、いつもと違うから?」

「髪もそうだし、いつもかわいいけど、俺今日ずっとニヤけてると思う…」

「ニヤけてるの?」

「凪と遠出は初めてだから」


遠出は初めて…。
そうか、私たち、学校の行事も参加してないから。


「だから、すげぇ嬉しい。凪のかわいい姿も見れて朝から幸せだわ」

「褒めすぎだよ」

「本当のこと言ってるだけ」

「もっとかわいい子沢山いると思うよ?」


本当に、実際そうだと思う。
私は化粧をしてない。
やろうにもやり方が分からない。
大人っぽくなく、反対に童顔で子どもっぽくて。太っている訳では無いけど、特別細くて美人って言う訳でもない。


「俺はずっと凪が1番」

「…ほんと?」

「凪が転校してきた時からかわいいって思ってた」


転校してきた時から…。


「7年前から…?」

「うん、」

「……」

「中身も、外見も、ずっと俺のタイプ」

「タイプ?」

「うん、マジでかわいい…」


潮くんは自分自身でも困ったように、笑っていた。


「私はこんなにも潮くんに愛されて、幸せですね」

「俺の方が幸せだよ」

「私も、」

「ん?」

「私も、潮くんの優しくてかっこいいところ、すごくタイプです」

「───」

「これからはいっぱい、いろんな所に行こうね」

「うん」



今日は、涼しい方なのに。
少し汗をかいて、照れたように「あっつ…」と、首元のTシャツを指先で掴みパタパタとさせる潮くんを見て、私は微笑んでいた。


やっぱり潮くんといると心が安らぐ。
さっきまで、情緒不安定だったのに。

このままずっと一緒にいたい。
この気持ちが〝好き〟という気持ちなら、私は潮くんがもっともっと〝大好き〟になるだろうな…。


1度乗り換え、電車には合計で1時間半ぐらい乗っていたと思う。潮くん曰く、とても速く走る電車に乗ったらしくて、1つ県を跨いだそうだった。


電車を降りれば、私が住んでいる所よりも暑く感じた。気温が上がったのか、ここの地域が暑いのか分からないけど、汗をかいてしまうほどで。


電車からバスに乗る。


そこは元々観光地として有名みたいで、外国の人もたくさんいた。大人数で来てる人もいれば、私たちみたいに男女で来てる人たちもいた。

お寺が有名らしい。
潮くんが言うには、大きいお寺があって、その中にある地主神社は恋愛成就で有名みたいだった。


潮くんは、「ここに凪と来たかった」とずっと嬉しそうにしていた。


そこでお祈りをして、人混みの中、潮くんは「暑いからアイスか何か食べようか」と私を連れていく。
ここの地域は〝抹茶〟が有名らしい。
抹茶、と言っても、私は抹茶がよく分からなかった。多分、抹茶はお茶の種類なんだろうと思った。

だけど私の頭にはお茶のイメージは〝麦茶〟や〝烏龍茶〟しかなくて。抹茶と言われてもよく分からなかった。つまり、私の中で〝抹茶〟は未知の味だった。


「抹茶のソフトクリームにする?」


と潮くんが言ってくれたけど…。


「抹茶ってどんな味か分からなくて…」


疑問を口にすれば、すぐに納得の表情をした潮くんは「いつもアイスはバニラかチョコだもんな」と頷いた。
私はいつも、アイスはその2種類しか食べてないらしい。


「バニラかチョコどっちがいい?それか他に食べたいのある?」

「…ううん、バニラがいいです」

「分かった。俺が抹茶にするから、1回食べてみな。美味しいと思うから」


それって、潮くんが好きなもの、選べないってことじゃ…。


「潮くんの食べたいのは?」

「俺は凪といればなんでも美味いから」



私がバニラのソフトクリーム。
潮くんが抹茶のソフトクリームを注文した。
潮くんが抹茶のソフトクリームを1口くれた。その苦味のある中の甘さがとても美味しくて、思わず「美味しい…」と口にする。
正直、もっと食べたいと思うほど。
クリームが濃厚なのか分からない。
未知の〝抹茶〟は、私が知っているバニラよりも美味しく感じた。

そう思っていると、潮くんはそのままゆっくりと歩き出した。私の手に抹茶のソフトクリームがあるまま。


「美味しい?」

「うん、想像してたのと違う…美味しい」

「好きなだけ食べな」

「え?」

「凪、すげぇ美味そうな顔してる」

「でも、潮くんのは…」

「言ってるだろ?」


言ってる?
なにを?
思わず、顔を傾ける。


「俺が1番先に考えるのは凪だって」


潮くんは、優しい。
というよりも、とことん私を甘やかしてくる。もしかしたら〝チョコのソフトクリームが食べたい〟と言えば、きっと潮くんは買ってくれるんだろうなって思った。


「…甘い、」

「甘い?」

「甘すぎます、私に対して…」

「そうか?」

「うん…」

「そういうのあんまり考えたことない」

「…」

「普通だと思うし。というよりも、」


というよりも?


「凪はあんまり我儘言ってこねぇから、もっと言ってきていい」


我儘?


「俺はもっと凪の我儘を聞きたいし、頼ってくれると嬉しい」


頼ってくれると?


「…私、いっぱい潮くんに頼ってるよ?」

「それは俺がしてることで凪自身からって言う訳じゃないから」


私自身から?
そう言われてもあまりピンと来なかった。
だって私は潮くんに頼りっぱなしで。
いつも我儘や、迷惑をかけている気がする。


「私も、潮くんの我儘聞きたい…」

「俺の?」

「アイスは半分こにしましょう」

「半分?」

「私も、抹茶のソフトクリームを食べて〝美味しい〟って顔をしてる潮くんが見たいから」


私は〝抹茶〟の味にハマってしまったらしく、潮くんとこじんまりとした喫茶店に入り、抹茶のパフェも食べたりして。



────午後は潮くんに水族館へ連れて行って貰った。


入口の方では綺麗な水槽の中で小さな魚が泳いでいて、凄く魅力的だった。
初めて見る水族館に、私はすごく興奮していた。


「潮くん、あれ、あれはなに?」


潮くんの手を軽く引っ張る。


「あれはオオサンショウウオ」

「オーサンショーオ?魚なの?」

「いや、たしか両生類だったと思う」

「両生類?」

「カエルとか、イモリとか。その仲間」

「そうなんだ、魚じゃなくてもいるんだね」

「ここは海の生き物がいるところだからね」


クスクスと笑っている潮くんは、「楽しい?」と、優しく私に聞いてきた。
楽しい。こんなにも綺麗な水槽だとは思っても見なかった。──たくさん、私が見た事ない海の生き物がいる。


「うん、」

「良かった」


潮くんは「時間はあるからゆっくりでいい」と言ってくれて。
──その言葉に聞き覚えがあった私は、水槽を見つめながら考え込んだ。
いつ言われたんだっけ?
それほど遠い昔じゃない日がする。


「うしおくん?」

「ん?」

「あたま、撫でてほしい」


潮くんは、瞬きをすると、私の我儘に「どうした急に」と頭を撫でてくれた。
その瞬間、ふわりと何かの映像と重なった気がして。その映像を思い出した私は、自然と笑っていたような気がする。


「前に1度、こうして私の彼氏だって言ってくれたね」

「え?」

「泣きそうな私に、日記は読んだ?って…」

──言ってくれたよね。そう、言おうとした。それでも言うことが出来なかった。


──それはまさしく、あ、と、洗脳がとけるような感覚だった。全く思い出せなかった記憶が突然思い浮かぶかのような…。
鍵が開く。
ピースが合わさる。
私の知らない真っ白なファイル──…が、頭の中に現れた。


「凪、え? まって、思いだしたのか?」


慌てる潮くんは、もう一度私の名前を呼んだ。
もしかすると、ここが海の生き物がいる場所だからもしれない。
海に関係しているからかもしれない。


「潮くん、あっち行ってもいい?」

「いいけど、凪…記憶」

「アザラシがいるみたい!」



その水槽の広さに、目を奪われていたような気がする。進めば進むほど神秘的な光景に、目を奪われ続けた。


トンネルのようで、天井を泳いだりもしている。


とくに目を奪われたのは、クラゲのエリアだった。青と水色のライトがてらされた、とても綺麗なエリア。360度、全てがクラゲの水槽で埋め尽くされていた。



まるで、海の底のような──…。

海の底──…。


海の底に、私自身が沈んでいるような──…。


「さっき、日記を読んでいる自分を思い出しました」


私はクラゲを見ながら呟いた。
白く、透明で、ふわふわと気持ちよさそうに泳ぐクラゲ。
潮くんもクラゲの方を見ていたけど、私が言葉を発すると私の方に視線を向けた。


「高校の制服を着てて…半袖で夏だったから…多分そう古くはない記憶だと思う」


最近か、──今が高校2年生だから、ちょうど1年前か。


「もう日記は読めないって思ってましたけど、それって違うんですよね」


私はきっと、あの日記を毎日見て、毎日書いていたはずだから。


「私が忘れているだけで、思い出せばきっと内容も分かるはずだから。もう読めないっていうのは違うなって…」

「うん、」


確かにそうかもしれない、そう呟いた潮くんは「どんなこと思い出した?」と、言ってきて。
私は潮くんを見つめた。

背の高い潮くんの目が合っているけど、潮くんからは見下ろされている…っていう感じが全くしない。


「思い出したのは、日記の中でも1部で」

「うん」

「日記の中で潮くんの名前ばかりだったのは分かるんです、でも内容があんまり思い出せなくて」

「うん」

「潮くんがそばにいるからかな」

「え?」

「朝と違って、思い出すことが怖いと思わないです」



そう言って潮くんに向かって笑えば、潮くんも柔らかく微笑んだ。本当に嬉しそうに、笑った潮くんは軽く私を引き寄せた。


「凪?」


名前を呼ばれ、そのまま潮くんを見つめていると、手を繋いでいない方の潮くんの手が伸びてきて。
そのまま頭を撫でられると思った私は身を任せようと思った。だけど、頭を撫でる行為じゃなくて、そのまま後頭部に手をやり引き寄せた潮くんは私を抱きしめた。


「…抱きしめていい?」


潮くんの胸元に顔を埋めている私の耳元に、潮くんが呟いてくる。
私は潮くんの腕の中で、ふふ、と声を出して笑った。


「もう抱きしめてるのに…」

「凪」

「なに?」

「──…俺でよかった?」



その意味は。
俺でよかったの意味は。
この7年間、ずっと私の傍にいたのが潮くんでよかった、という意味だろうか。


少しも潮くんを怖いとは思わなく、潮くんに体を預ける私は、どうして潮くんをあんなにも怖いと思っていたんだろうと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「潮くんがいい…」

「うん…」

「これからもずっと潮くんと一緒にいたい…」

「…うん」

「潮くんこそ、私で良かった…?」


潮くんはゆっくり私の頭を撫でると、「凪しか考えられない」と甘い言葉をくれた。



────時間が許す限り、私はずっと水槽の中を眺めていた。青いライトが反射する水槽は高さがあり、見上げるような形になっている私はさっきも思ったように、海の底にいるみたいだった。


ずっと見つめていた。
立ちすぎてきっと潮くんの足は疲れているはずなのに、潮くんは何も言わなかった。
ただ水槽の魚たちを見る私のことを見ていた。


「お母さんに、お土産を買わないと…」

「そうだな」


思い出したように言えば、潮くんは頷いた。


「朝、気をつけてねって。お母さんは昔から心配性なところがあって…」

「うん」

「この前も…──。そうだ…私、お母さんを親だと思えなくて家から飛び出したことある…」

「うん」

「帰ったら謝らなくちゃ…。怒ってないかな」

「凪のお母さんはいつも優しいから大丈夫」

「うん、──」



次々と、頭の中に映像が流れていく。
でも私にはその映像が、いつの映像か分からなかった。


例えていうなら、とある映像はパズルのピース。ピースはあるものの、どこにはめればいいか分からないのが、いわゆる期間で。

その期間という、パズルのピースのはめる位置が分からないせいで、ピースが上手く埋められなかった。

けど、お母さんの背格好とかを思い出す限り、最近のことを思い出したのだと理解はできる。
だからこの辺りの期間かな?って、パズルを埋めることが出来て──…。


「…私が迷子になって…。潮くんが警察まで迎えに来てくれて…」


たくさんたくさん、思い出してくる。
よっぽどリラックスしているのか。
それとも、もし忘れても、潮くんならそばに居てくれるという安心感からなのか。


そこからはもう口には出さなかった。
次々に蘇ってくる記憶は、思い出す日記の中に当てはめていくと、ああ…この日のことだってピースが埋まっていく。

今、どれだけのピースが埋まったんだろう。

この記憶たちか1000ピースだとしたら、きっと半分は埋まっていってると思う。




──『好きだ』

埋まっていくピースは、

──『好きだよ凪』

どれもどれも、

── 『凪の全部が好き、それぐらい凪に惚れてる』

潮くんのことばかり。



ポロポロと涙を流していると、不安そうにした潮くんが、「…どうした?」と、私の涙を拭く仕草をする。


不安じゃない。
私の心は悲しい気持ちとか、そんなんじゃなくて。


「いま、いっぱい思い出してて…」

「…うん」

「潮くん、ばかりで、」

「うん」

「潮くんばっかりで──…」

「なぎ、」



──…ああ、思い出した。



──『…好きだよ…』

──『…わたしもすきです』

──『潮くんが大好きです』


────私は潮くんが大好きだった。


だけど。


──『昨日…、先生が言ってたんです、その日の出来事を、忘れたくて自ら忘れようとしたんじゃないかって』

──『昨日、凪が俺に好きって言ってくれたんです。1年3ヶ月ぶりに…』

──『凪はそれを、…忘れたかった、って事…、なんですかね……』



────私は、7回、潮くんを泣かせてる。


もしかすると、もっともっと泣かせているのかもしれない。今思い出すだけの〝7回〟だから、きっともっと泣いている。


──『忘れないって約束したのに…』


潮くんが泣いている1番古い記憶は、きっとこの潮くんがランドセル背負っている記憶なのだと思う。


──『大人になったら結婚しよう、って、さわだ、なんで俺が言ったこと忘れんの……』


潮くんが泣いている。
──潮くんくんの言っている言葉で、何があったか分かった私は、これ以上思い出さないように、水槽の中を見ないように瞳を閉じた。

これはきっと、潮くんが小学生の頃、私に『好き』と言ってくれた、翌日の記憶だ。


でも、思い出してしまった。
自分の言葉を。
潮くんに向かって言ってしまった自分の言葉を。
私はその時、泣いている潮くんに向かって『──誰ですか?』って言ってしまった。


酷い言葉を言ってしまった。
潮くんが、凄く傷つく言葉を言ってしまった…。
告白してくれた潮くんに向かって、〝誰ですか?〟だなんて。
那月くんの言った通りなら、きっとこの後に私に対する虐めが始まったんだろう…。
──自業自得。
潮くんは何も悪くない。


瞳を閉じた私に、潮くんが「…大丈夫か?」と肩を支えてきた。


幸せで、嬉しい記憶が蘇ってくる反面、次々に潮くんに対しての、私が傷つけた記憶も蘇ってくる。


いったい、私は何回、潮くんに対して〝誰?〟って思ったんだろう。毎日が初対面の私は…。
そんなの決まっている。〝7年間〟だ。
〝7年間〟もの間…潮くんは…。


私の〝誰ですか?〟に苦しめられたんだろう。


「…うしおくんは、」

「…ん?」

「わたしといて、ほんとうに幸せだった…?」


何を思い出したのか聞かない潮くんは、支えていた肩を少し引き寄せた。


「…頭の中で、うしおくんがずっと泣いてるの…」


また目の奥が熱くなった。
周りの人からしてみれば、魚を見て泣いている変な女って思われるかもしれない。


「…泣いてる?俺」

「うん…」

「嬉し泣きとか、そんなんじゃなくて?」

「うん、」

「幸せだった、ずっと」

「うそ……」

「嘘じゃない。凪の思い出す記憶は俺が泣いてるところだけ?」


泣いてるところだけ…?
ううん、違う、潮くんが笑っている時もある。
本当に嬉しそうに私に向かって『好きだよ』って。

思い出した記憶の9割以上は、ずっとずっと、潮くんが優しく笑っている光景だ。私を大切にしてくれてる人…。


必死に首を横にふれば、「ほらな、幸せだった」と嬉しいに笑い。我慢できずどこまでも優しい潮くんを抱きしめた私を、潮くんは受け止めてくれた。



「……すき…、うしおくんがだいすき…」


潮くんからの返事はなかった。
それでも腕の力強さに〝俺も〟だと言われているような気がした。



「…〝誰ですか?〟って、言ってごめんね、」


鼻声で言えば、潮くんが「…思い出したのか?」って呟いた。
その声は泣きそうだった。
その声は悲しい泣き声とか、そういうのじゃなくて。


ゆっくりと、頷き。
「──…私も、潮くんと結婚したいです」


そういった刹那、潮くんが私の顔をあげ、潮くんの指先が私の涙を拭いた。
潮くんの告白からの、7年後の返事。


「やっとだわ、」


少しからかい気味に言った潮くんに、私は眉を下げた。


「遅くなってごめんなさい…」

「おそすぎる」


「おこ、ってますか?」

「俺が凪に怒ると思う?」


潮くんは笑っている。ずっとずっと私に優しい潮くん。彼の言うとおり、きっと潮くんは私には怒らないだろうなと思っていると、


「次に藤沢と付き合うとか言ったら怒るけど」


突然、そんなことを言われ、言葉に詰まった。
思わず涙が引っ込む。


「え、……那月くん?」

「それも、いつのまに〝那月〟?」

「潮くんに嫌がらせするために下の名前にしろって言われて…」

「あの野郎…」


笑っている顔から、少し不機嫌そうになった潮くんは、「あいつに何もされなかったか?」と聞いてきた。

あまり不機嫌な潮くんを知らない私は、「部屋に行ったぐらいで…」と不安気味に言うと、潮くんがもっと不機嫌な様子になったから少し困惑した。


「部屋の中で何してた?」

「えっと、あの、本当に何も。いつも那月くんがスマホで動画を見てて…。たまに話をするくらいで…。──…あ、でも、最後の日、那月くんが服の中に手を入れてきて…」

「…」

「あ、あの時は、何をされるか分からなかったので、戸惑ったけど、──…他は、何も」


焦りながら、潮くんがこれ以上不機嫌にならないように正直に言うと、潮くんの不機嫌な顔が怖いつきになり、焦る。


「服に手?」

「え、あ、あの、でも、よく分からなくて、彼もすぐにやめてくれて…」

「──」

「…お、怒ってますか、」

「マジであん時、どれだけ嫉妬したと思ってんの。頭おかしくなりそうだった」

「う、うしおく、」

「もう藤沢と喋んのやめて」

「で、でも、那月くんは潮くんのことを大事に思って…」

「凪」

「は、はい」


さっきまで怒っていたのに、また笑い。
何が何だか分からない私は、戸惑ったまま潮くんを見つめたままで。

軽く私はの頬を撫でた潮くんは、そのまま顔を傾け近づいてきた。
潮くんの切れ長の二重の目が、私を見つめてる。


「結婚すんのは俺だからな」


イタズラ気味に笑った潮くん…。
さっきの私の返事かと思った時には、そのまま唇を塞がれていた。

えっと、あの、那月くんの話はどこに…?

軽くふれあい、頬にキスした潮くんが、愛おしそうに私を抱きしめる…。



「ずっと言いたかった」


言いたかった?
何を?
そう思って潮くんを見上げれば、また塞がれるようなキスをされた。


「──愛してる、」



その言葉を、私はこの先、一生忘れることは無かった。




────水族館を離れ、私がずっと水槽の中を見ていたせいで時間も頃合になり、帰らなければならず。
帰りの電車も、とても速く走る電車らしく、予約席らしくて2人とも座れた。
駅まで向かう最中も、隙あらば私にキスをしてこようとする潮くんを止めるのに必死だった。
「いっぱい人がいる」と頬を赤く染めながら言っても、潮くんは「凪と結婚するから」と、答えになってない答えを返してくる。

それほど、7年前の告白のことを、思い出したのが嬉しかったのかもしれない。
だけど、恥ずかしいものは恥ずかしい…。


「家に帰ったらするから…」


電車の中は指定席だから、あまり人から見られることはないけど。隣に座る潮くんに小声で言えば、「…がまんできないんだけど」と、少し駄々を捏ねた。


「…でも、電車だから」

「家でいっぱいする?」

「…うん、家なら、いっぱい」


部屋の中なら、誰もいないから。

聞いてきたのは潮くんなのに、潮くんは顔を赤くさせた。



手を繋ぎながら、電車は走る。
乗り換え、また速く走る電車に乗った。
その頃にはもう外は日が沈み、外は夜に変わっていた。



「──…凪はどこまで思い出した?」


窓の景色を見つめていると、潮くんが優しく聞いてきて。その声のトーンに、ああ、ついに、始まるんだと思った私は、窓の外を見るのをやめた。


「分からない。たぶん、半分は思い出してると思う。事故の事は思い出してない。でも、なんとなく分かってるから覚悟はできてる」


それに、那月くんが、プールに落とした時の記憶も、今はあるから。その時の言葉ももう、思い出しているから。


──『お前が自分の父親と、キヨウダイを殺したこと』


だから。
なんとなく、そんな気はしてる。


「俺、凪に嘘をついていたことが沢山ある」


私の手を握りながら言った潮くんは、さっきとは違い、冷静に話をしだした。


「気分悪くなったらすぐに言って」

「潮くん…」

「ほんとに、凪にとっては悲しい記憶だから」

「大丈夫…。覚悟はできてるから」

「俺は、ずっとずっと、凪は頭をうって毎日忘れる記憶喪失になったって説明してた。でもあれは本当のことじゃない」


本当の事じゃない。


「頭をうったのは事実だけど──…」


頭をうったのは──


「夏休みの家族旅行で、凪たちは船に乗っていたらしい。凪の家族は4人家族。母親と、父親。それから凪の…姉。凪のお母さんが言うには、凪と、凪の姉は海が好きだったらしい。だからその時の旅行も、凪たちが決めたって言ってた」


姉──…


「船に乗るのも初めてじゃなかったから、凪は1人で海を見てたみたいで…。けど、船酔いか貧血か。それが原因でふらついて、凪が船から落ちた」


おちた…。


「凪が船の手すりに頭をうったらしい。それで落ちたんだと思う。──手すりに凪の血があったし、船に戻った凪の頭からは血が流れてたって言ってたから」


きっと、いつも潮くんが私に説明する時に言っている頭をうって記憶喪失になった、というのは、この事だろうと思った。


「凪は気を失ってて、姉が見つけた時にはもう凪は海の中だったらしい。凪を助けるために、姉も海へ飛び込んだ。姉の叫び声に気づいた父親も、凪を助けるために海に飛び込んだ」


姉と父が海に、私を助けるために。


「幸い、凪はライフジャケットを着ていたからすぐに船に乗せることができたみたいだけど──…、凪が頭から血を流していたから。両親はその手当に必死で。その途中で気づいたらしい。凪の姉が船に乗ってないことを」


もう、言われなくても、分かった。


「まだ船は停まっていたままだったから、急いで父親がもう1回潜ったけど…」


そのまま姉は、見つからなかったんだと。


「──…俺のせいだって、自分を責めた父親はずっと探した、ずっと…。凪が病院に行った間もずっと…。もしかしたら今も探してるのかもしれない」


今も…。
そんなの。
もう──…



「意識を取り戻した凪がそれを知った次の日にはもう、記憶ができなくなってた」


記憶…。


「その夏の終わりに俺と凪が出会った。そこからは多分、凪の思い出している通りだと思う」



潮くんと出会った──…。


「つまり、私は自分の家族を殺したってこと…?」

「違う」

「私が落ちなかったら…」

「凪、そんな考え方は絶対にするな」


厳しく、鋭く、私に向かってそう言ってきた潮くんは、「絶対、そういう考えはするな」ともう一度深く呟いた。


そういう考え…。
私が、2人を殺したと?
──…お母さんはいったい、どういう気持ちで、毎日を過ごしていたんだう。
娘に、娘と夫を殺された、なんて…。


「2人は凪の事が大事だったから、大切だったから守った。今はそれだけを考えればいい」

「…そ、れだけ…」

「凪はもう、充分苦しんだ。毎日毎日不安な日々で、ずっと苦しんでた」


毎日毎日、記憶が無くなる不安な日々。
ずっと苦しんだ日々…?


「もういいんだ、凪は自由になっても」


…自由?


「自分を許していい」


許す…。


「もう、解放してもいい」


解放…。


「凪は幸せになってもいい」


幸せ……。


「1回、凪が俺に好きだって言ってくれた時、凪は一瞬気を失って寝てないのに記憶を失ったことがある。──それも、凪自身が幸せになることを許してないからだと思う」


その時の記憶が分かる私は、潮くんの手を強く握りしめた。


「凪は事故のことを忘れたいと思ってるわけじゃない、自分自身の罪があるから忘れてしまう」

「罪…」

「愛してる、凪…」

「……──っ…」

「7年間、頑張ったな」



──頑張った
──7年間、


「ここにいていい。どこにも行かなくていいんだ。凪のお母さんもそう願ってる」



















〝令和2年8月5日
潮くんと一緒に買い物に行った
潮くんは私にかみどめを買ってくれた
明日は潮くんと日帰りの旅行にいく
かみどめをつけて行こう。楽しみだなぁ〟


私は2年前の日記を見つめていた。
ペラペラとめくり、幸せな日々が詰まった日記を読んでいると自然にニヤけていて、ああ、こんなことがあったなぁと頬が緩む。


昔と変わらない。
私の日記の中は潮くんの名前ばっかりだった。
この2年間、私は記憶を失うことがなかった。私自身、当時の事故の事を許したのか分からないけど、記憶は保つことは出来てるし、今ではもう潮くんが私を虐めていたことも完璧に思い出している。
「赤信号は渡るんだよね?」って潮くんをからかったりもする。でも潮くんが顔を真っ青にして土下座するぐらいに謝ってくるから、もう虐めの事に関しては言わなくなった。


こうして日記を書いているのは、自分が許せない時が来るかもしれないから
けど、もう記憶を失うことはないと思う。潮くんがそばにいる限り、そんな気がする。
そんな気はするけど、〝おねがいだからわすれないで〟と、いつも思ってる。


「凪?まだ寝てねぇの?」


日記を読んでいると、たった今、潮くんが寝室に入ってきて。


「あ、ごめんなさい…日記読んでた」

「謝る事ねぇけど。ちゃんと寝ろよ?」


そう言って、潮くんは慣れたようにごろん、とベットの上に横になった。


「大丈夫だよ。昔と違って睡眠時間が短くても」

「俺が大丈夫じゃない。ほら、明日は盆で凪の家に行くんだから早く寝ろ」


明日は、お盆だから実家に帰って、お父さんとお姉ちゃんのお線香を立てるから。


もう、私はお姉ちゃんのこともお父さんの事も思い出していた。思い出して「お姉ちゃんは泳げなかったの」と潮くんに涙が枯れるぐらい泣きついた日も、日記の中に入っている。


「帰るの歩いて10分の距離だよ」


それに、週に4回は、心配性なお母さんと5分でも会ったりしているから。
クスクスと笑った私は、私の事を心配してくれる潮くんに幸せを感じながら、「今日の分書いてから寝るね」と、微笑んだ。



寝室の机の上で書いていると、「まだこれ使ってんの?」と、机の上に置いていたバレッタを見て呟いた。
このバレッタは初めて潮くんが買ってくれたもので。


「うん、明日つけていくから」

「嬉しいけど、新しいの買おうか?」

「ううん、これがいいの」


くすくすと笑いながら日記を閉じ、潮くんがいるベットの中に私も入った。


「もう書き終わったのか?早いな」


そう言って潮くんは、私を引き寄せた。


「書く内容は決まってたから」

「そうか」

「明日、那月くんに会うの?」

「あいつとは火曜日会う約束してる」


ベットの中で手を繋ぐ行為も、昔とは変わらない。

家を出て、高校を卒業後、私は潮くんと2人で住むことになった。そんな私たちの住むマンションの一室には、所々に張り紙が貼られてある。

万が一、忘れた時のために。

〝なぎとうしおのしんしつ〟

そう潮くんが紙に書いているのを見た時、実家にある私の部屋の扉に貼られていた〝なぎのへや〟が、潮くんが書いたものだと初めて知った。















「おやすみなさい、潮くん」

「ああ、また明日な」













〝令和4年8月13日

私の名前は桜木凪です

今日も私は潮くんに愛されて幸せでした〟















【完】

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