僕が猫となって早三週間が経過した。この日も僕は校舎裏の登り慣れた巨木を伝い、馴染みある屋上へと来ていた。
「こんにちは、猫さん。もう文化祭は楽しんだのかな?」
昼寝中だった僕が顔を上げると、そこにはギーナの姿があった。
今日は校内がいつもとは違った賑わいを見せている。他の猫ならば、理由もわからずに駐車場の車の下にでも逃げ込むのであろうが、僕はそんなことはしない。今日は文化祭の初日なのだ。
「猫さん、金魚は食べていないよね?」
ギーナの問いに、僕は大きなあくびで答えた。ここまで開く僕の口ならば、金魚なんて一飲みで胃袋に収められる。申し訳ない。ご期待に添えず、食べていませんよ。
校内に入った時は愛くるしい猫である特権を活かし、知り合いでも探し出して何か食べ物をねだるつもりだった。だけど、無邪気な子どもたちがしつこく絡んでくるので、結局何も食べずにいつものベストスポットにまで避難してきたわけだ。
「ふふっ、さっき自分のクラスを見てきたけど、泥棒猫の話は、誰もしていませんでした。よって、無罪!」
ギーナ裁判長の判決に、そりゃそうだと、僕は後ろ足で耳を掻く。
「文化祭自体も特に問題なく進行しているみたいだし、すこぶる順調ね」
そう言って、彼女がやんわりと微笑んだ。
早々に猫となってしまったせいで、文化祭実行委員にもクラスの出し物にもほとんど関わることができなかったが、文化祭が無事に開催されて何よりである。
天気にも恵まれ、湿気も前足で顔を洗う必要がないくらいに気にならず、とても過ごしやすい。これが続けば、文化祭最終日である明日もちゃんと晴れてくれるだろう。
僕は猫だから、ヒゲの張り具合で天気がある程度予想できる。昔、母さんが「雨の日は化粧のノリが悪くてイライラする」と言っていたことがあったが、今ならその気持ちも少しはわかるのだ。
「騒がしいのは嫌い? うるさいとお昼寝ができないよね。明日で終わるから我慢してね」
ギーナが僕の横にそっと座り、僕の背中を毛並みに沿って優しく撫でた。全く問題ない。屋上には僕と彼女しかおらず、校内でここだけは睡眠を妨げられないほどには静かだ。
僕は猫だから、お日さまを浴びると眠くなる。多少うるさくとも、大概は眠気のほうがはるかに勝ってしまう。要は、現在進行形ですこぶる眠い。
「明日はね、最後に花火が上がるのよ。ここから見ると、きっと素敵な眺めになるんだろうね」
僕はまぶたを閉じながらも、彼女の話に聞き耳を立てた。
「彼氏とかいれば、一緒に見たのかな。あーあ、私にも、いい人がいればなぁ」
あっ、そうだったんだ。
マジか。
どうやら、関係が噂されていた氷室飛河とは、付き合っていたわけではなかったようだ。
「……大スキな人と見られたら、幸せなんだろうね」
僕は気づかれないようにと、薄目でそっと彼女を見た。
どこか遠くを見る、儚げな微笑み。柳楽祐輔だった時にも、渡辺祐輔だった時にも、猫となった今の僕にも、一度も見せたことのない大人な表情。猫には決して向けない、女性の顔だ。
ギーナは今、誰かを思い浮かべているのだろうか。
氷室飛河か、それとも、別の誰かを。
――キミにそんな顔をさせる男のことが、憎らしいよ。
――だけど、今の僕には、もう関係ないんだ。
と、ギーナがゆっくりと立ち上がった。
「文化祭実行委員だから、ちょっと見回りをしてくる」
ギーナが普段のような晴れやかな表情で、僕のそばを離れた。
僕はまた、眠くなってきた。猫だから仕方ないが、まぶたが急激に重くなった気がする。こりゃ駄目だ、もう目を開けていられない。
「バイバイ」
ギーナの明るい声が耳に入る。それっきり、僕の近くで話す者はいなくなった。
――バイバイ、か……。
明日、僕はやらなければならない。
猫であれば決してしないこと、人であった頃の記憶がある猫にしかできないことを。
それをすれば、僕は間違いなく神様に消されてしまう。
だけどこれは、猫となり、学校の屋上でギーナと会った時から決めていたことだから。
僕は猫だけど――、
――それでも、僕は猫を卒業する。
「こんにちは、猫さん。もう文化祭は楽しんだのかな?」
昼寝中だった僕が顔を上げると、そこにはギーナの姿があった。
今日は校内がいつもとは違った賑わいを見せている。他の猫ならば、理由もわからずに駐車場の車の下にでも逃げ込むのであろうが、僕はそんなことはしない。今日は文化祭の初日なのだ。
「猫さん、金魚は食べていないよね?」
ギーナの問いに、僕は大きなあくびで答えた。ここまで開く僕の口ならば、金魚なんて一飲みで胃袋に収められる。申し訳ない。ご期待に添えず、食べていませんよ。
校内に入った時は愛くるしい猫である特権を活かし、知り合いでも探し出して何か食べ物をねだるつもりだった。だけど、無邪気な子どもたちがしつこく絡んでくるので、結局何も食べずにいつものベストスポットにまで避難してきたわけだ。
「ふふっ、さっき自分のクラスを見てきたけど、泥棒猫の話は、誰もしていませんでした。よって、無罪!」
ギーナ裁判長の判決に、そりゃそうだと、僕は後ろ足で耳を掻く。
「文化祭自体も特に問題なく進行しているみたいだし、すこぶる順調ね」
そう言って、彼女がやんわりと微笑んだ。
早々に猫となってしまったせいで、文化祭実行委員にもクラスの出し物にもほとんど関わることができなかったが、文化祭が無事に開催されて何よりである。
天気にも恵まれ、湿気も前足で顔を洗う必要がないくらいに気にならず、とても過ごしやすい。これが続けば、文化祭最終日である明日もちゃんと晴れてくれるだろう。
僕は猫だから、ヒゲの張り具合で天気がある程度予想できる。昔、母さんが「雨の日は化粧のノリが悪くてイライラする」と言っていたことがあったが、今ならその気持ちも少しはわかるのだ。
「騒がしいのは嫌い? うるさいとお昼寝ができないよね。明日で終わるから我慢してね」
ギーナが僕の横にそっと座り、僕の背中を毛並みに沿って優しく撫でた。全く問題ない。屋上には僕と彼女しかおらず、校内でここだけは睡眠を妨げられないほどには静かだ。
僕は猫だから、お日さまを浴びると眠くなる。多少うるさくとも、大概は眠気のほうがはるかに勝ってしまう。要は、現在進行形ですこぶる眠い。
「明日はね、最後に花火が上がるのよ。ここから見ると、きっと素敵な眺めになるんだろうね」
僕はまぶたを閉じながらも、彼女の話に聞き耳を立てた。
「彼氏とかいれば、一緒に見たのかな。あーあ、私にも、いい人がいればなぁ」
あっ、そうだったんだ。
マジか。
どうやら、関係が噂されていた氷室飛河とは、付き合っていたわけではなかったようだ。
「……大スキな人と見られたら、幸せなんだろうね」
僕は気づかれないようにと、薄目でそっと彼女を見た。
どこか遠くを見る、儚げな微笑み。柳楽祐輔だった時にも、渡辺祐輔だった時にも、猫となった今の僕にも、一度も見せたことのない大人な表情。猫には決して向けない、女性の顔だ。
ギーナは今、誰かを思い浮かべているのだろうか。
氷室飛河か、それとも、別の誰かを。
――キミにそんな顔をさせる男のことが、憎らしいよ。
――だけど、今の僕には、もう関係ないんだ。
と、ギーナがゆっくりと立ち上がった。
「文化祭実行委員だから、ちょっと見回りをしてくる」
ギーナが普段のような晴れやかな表情で、僕のそばを離れた。
僕はまた、眠くなってきた。猫だから仕方ないが、まぶたが急激に重くなった気がする。こりゃ駄目だ、もう目を開けていられない。
「バイバイ」
ギーナの明るい声が耳に入る。それっきり、僕の近くで話す者はいなくなった。
――バイバイ、か……。
明日、僕はやらなければならない。
猫であれば決してしないこと、人であった頃の記憶がある猫にしかできないことを。
それをすれば、僕は間違いなく神様に消されてしまう。
だけどこれは、猫となり、学校の屋上でギーナと会った時から決めていたことだから。
僕は猫だけど――、
――それでも、僕は猫を卒業する。