文化祭実行委員の初顔合わせから五日後。僕は実行委員の仕事でギーナとともに校舎裏にある倉庫へと来ていた。

 この日、管材係は器材の所在や個数を確認するために二人一組に分かれ、手分けして器材のある場所を回っていた。僕たち二人が担当する校舎裏の倉庫内には、長机や脚立、テント、昨年の文化祭で使われたパネルや垂れ幕、アーチなど、文化祭で用いる道具が数多くあった。

 僕たちが担当することになった管材係は、文化祭で使用する器材を管理する係である。机や椅子、教壇、調理器具、ガムテープ、工具、テント、パソコンなど、文化祭で使う器材の個数や場所を把握し、要望のあるクラスや部活などの団体に貸し出しを行う。その際、器材の数にも限りがあるので、貸し出す数量を調整することも忘れてはならない。また、足りない器材を業者に発注したり、器材の運搬を行ったりするのも仕事の一つだ。


「この場所はこれで終わりだね」

「ええ、そうね。校舎内に戻って、ダンディカップルと合流しよっか」

 ギーナの提案に僕も頷く。ダンディとは檀野のあだ名であり、ダンディカップルとは言うまでもなく、檀野と笹塚の二人のことである。

 この日が委員会活動の実務的な始動日であり、ギーナと会うのは最初の委員会以来であった。ギーナとは、実行委員の仕事内容や互いのクラスの文化祭の出し物、授業の進捗具合など、当たり障りのないものばかりを選んで話していた。何もそれは、仕事に対して真面目に取り組みたいからではない。僕には踏み込んだ話をする資格がなかったからだ。


「きゃっ!」

 ギーナが悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込んだ。雷が鳴り響いたのだ。


「今のは、かなり近かったね」

「ほんと、そう! ああ、怖かった……」

 ギーナがゆっくりと立ち上がり、大きく一息吐き出した。

 この日は土曜日ということで授業が午前中で終了し、昼食後から委員の仕事に取り組んでいたわけだが、昼前から急に天候が悪くなり、作業開始時には既に土砂降りの雨に見舞われていた。稲光をともなう雷もたびたび見られ、僕は終始落ち着かない気分だった。


 外に出ようと僕が倉庫の扉を開けると、雨音が津波のように一層に押し寄せてきた。たとえ早く仕事が終わったとしても、天候が回復するまでは、帰宅せずにおとなしく校内にとどまっておくべきなのかもしれない。


「天気、やばいね。倉庫の鍵は僕が返しておくよ」

 僕はギーナに声をかけたが、返事はなかった。彼女は怪訝な表情を浮かべて、外の様子をうかがっていた。


「ねえ、何か聞こえない?」

「えっ、何が?」

 僕はよくわからずに訊き返した。雷鳴(らいめい)のことを言っているのだろうか。


 と、彼女が靴を履き、傘をさしてどこかへと向かった。

「え、ちょっと……」

 僕も倉庫に鍵をしてから、慌てて彼女を追っかけた。傘を開いていても、雨粒が足元を濡らしにかかってくる。持参した折りたたみ傘では、明らかに役不足だ。


 ギーナは兄弟木(きょうだいぼく)と呼ばれる二本の大木のうち、弟分のほうの樹木の前にいた。微動だにせず、じっと木を見上げている。


「いったい、どうしたんだい?」

 僕が彼女の見つめる方向に目をやると、そこには樹木から下りられなくなったと思われる猫の姿があった。


 尻尾が短く丸まっているのが特徴的な小柄な黒猫が、助けを求めるかのようにしきりに鳴いている。雷や下りられなくなったことへの恐怖からなのか、雨で濡れて冷えたからなのか、いたいけな小動物は小刻みに震えていた。


「どうしよう。なんとかできないかな……」

 不安げな表情で僕を見るギーナ。ふと、ゴロネを抱く幼い彼女の姿が脳裏をよぎった。


「……ちょっと、待っていて」

 僕は倉庫のほうへと急いで戻る。あの猫を一刻も早く木から下ろしてあげたいのは、僕も一緒である。しかし、あの頃と変わらず、ギーナは猫が好きなんだなと思うと、不謹慎ながらも自然と笑みがこぼれた。

 猫がいたのは教室の天井よりも少し高いくらいの位置であったので、倉庫にある脚立ならば、ぎりぎり届きそうな高さである。いざ届かなければ、脚立を展開して梯子にするか、あの頃のように木を登ればいい。

 僕は倉庫から大きめの脚立を持ち出し、両腕で抱えつつギーナのもとへ戻った。邪魔になると思って傘をささなかったので、あっという間に濡れ鼠となってしまったが、気にしている場合じゃない。


「……気をつけてね」

 ギーナは不安げな表情のままである。


「うん。これくらい、どうってことないよ」

 僕はギーナを安心させるために笑顔で答えた。彼女は知らないだろうが、小さい頃は木登りが得意だったので、足場が不安定な高い場所でも全く平気だ。


 僕は脚立を手早く立て、雨で滑らないように一段ずつ慎重に登る。猫が僕に話しかけるかのように、僕を見ながら一声鳴いた。どうやら、この脚立で猫のいる場所まで届きそうだ。


「……よしっ。おいで、もう怖くないよ」

 僕は手にしっかりと力を入れて腕を伸ばし、猫を抱き上げる。


「……コラコラ、暴れんなって」

 僕の胸の中で、猫が体をよじろうとする。それに耐えながら、僕は足早に脚立を一段ずつ下りた。


「――あっ……」

 あと数段のところで、猫が僕の胸を蹴って飛び降りた。その反動で、僕はバランスを崩してしまう。

 猫の後を追うように、僕もジャンプして地面に着地した。


「――っと、ご、ごめん……」

 着地した先はギーナの方向であり、危うく彼女にぶつかるところであった。僕は彼女から遠ざかるように、素早く離れた。

 助けた猫はというと、お礼も言わずにあっという間に走り去っていった。あれだけ元気があれば、もう心配はいらないだろう。


「脚立……戻してくる。先に校舎に入っていていいよ」

 僕はギーナを見ずに話した。

 僕の心臓が言うことを聞かず、高鳴りが収まらない。脚立から落ちそうになったからではない。ギーナと密接な距離で見つめ合ってしまったからだ。


 早く、倉庫に行こう――。

 僕は脚立を抱えて、そそくさと倉庫へ向かった。


「――――スキ」


「……えっ?」


 僕は振り返った。ギーナが何か言ったように聞こえたが、激しい雨音のせいでよく聞こえなかったのだ。


 彼女が、じっと僕を見つめている。水玉模様の傘から覗かせるつぶらな瞳は、茂みの中から上目遣いで顔を見せる猫を思わせた。


「渡辺くんはっ、今でも、猫がスキっ!?」


 嵐に負けないような大きい声で、ギーナが僕に呼びかけた。


 ――……今でも?


 ――もしかして……。


「……ギ――」


 と――僕の言葉は、唐突に遮られた。


 鼓膜が張り裂けんばかりの轟音と、目の前を白く染める一閃。そして、大地を震わす衝撃。

 落雷だ。


「きゃあーっ!」


 ギーナが叫ぶとともに、僕もあまりのことに、思わず片腕を顔の前に掲げる。

 だが、すぐさま気を取り直し、ギーナのほうへと目を向けると――。


 ――木が……燃えている!


 つい先ほどまで関わっていた大木が、激しく炎上していたのだ。


 ――まずい、倒れるっ!


 炎に包まれた大木が、まさに今、うずくまるギーナのほうへと倒れようとしていた。


「――ギーナっ!」


 僕は脚立を投げ捨てるように手放し、ギーナのもとへと駆け出した。


 ――間に合え……っ!


 雷雨の中を泳ぐように、手足をばたつかせる。


 ――ギーナのもとへ、一秒でも早く、早く……っ!



 僕はギーナへと、腕を伸ばした。


 

 
 僕の視界は――真っ黒に染まった。


 

 そして――目が覚めると、僕は猫になっていた。