僕が柳渚と初めて会ったのは小学五年生の夏、夏休みを利用して祖父母の家に来ていた時のことだった。
僕と母さんに飼い猫のゴロネを加えた、二人と一匹による訪問。この頃はまだ両親が離婚しておらず、僕の姓も柳楽であった。それにもかかわらず、父・柳楽義信のいない滞在となったのは、祖父母にお世話になる理由が彼自身にあったからである。父さんの浮気が発覚したのだ。
つまり、父さんの不貞行為に対して怒り心頭に発した母さんは、ちょうど僕の夏休みが重なったこともあって「実家に帰らせてもらいます」と、僕たちを連れて同県にある祖父母の家へと向かったわけだ。ただし、実家は実家でも、父さんのほうの実家である。これには、母さんが彼らと仲が良かったということもあるのだろうが、父さんの逃げ場をなくす意味も込められていたのだろう。お前に味方はいないんだぞ、という気の強い母さんらしい、末恐ろしい圧力である。
父方の祖父母の家は、田んぼや空き地が町の所々に見られる僕の住む町よりも田舎な場所にあり、僕はゴロネをお供に近所を探検した。小学生が白ヤギを連れていると近所で噂されるほど、この頃から既にぶくぶくと太っていたゴロネであったが、生粋の家猫であり、外に出しても全力疾走で帰宅してしまう小心者であった。なので、僕がゴロネを抱きかかえて外を歩き、ある程度の距離を進んだところで、ゴロネを下ろしてともに家までダッシュする、というのを繰り返した。ゴロネのダイエットをしているつもりで、僕自身のトレーニングをしていたわけだ。
ゴロネについて、もう少し話そう。ゴロネは外の世界に対しては臆病なくせに、他の猫に対しては強気であった。子猫を見かけたときには、野生の本能をむき出しにして追っかけ回したこともあった。僕が祖父母の家に来て二日目のことである。
ゴロネの追走は、人間に置き換えればプロレスラーが小学生を追いかけるようなものであり、さぞかし子猫は恐怖を覚えたであろう。追いつめられた子猫は、空き地へと逃げ込み、一軒家ほどの高さのある木を登ることで、辛くも難を逃れた。肥えすぎたゴロネでは、木に飛びついたところで不格好にズデンと落ちるしかなかったということだ。
僕は興奮するゴロネを抱えて強制的に祖父母の家まで連れていき、そのあとすぐに子猫の様子を確認しに戻った。子猫は木の上でうずくまり、か細い声で鳴いていた。下りられなくなったわけである。僕んちのバカ猫がごめんよ、と心の中で謝りつつ、僕はすぐさま木を登り、子猫を助け出した。当時は友達と秘密基地ごっこをすることに熱中しており、たびたび公園の木に登る遊びをしていたので、木登りは身軽な成猫並に得意であったのだ。
あの頃の経験は、猫となった今の僕にしっかりと活かされている。猫になる以前から、木登りと高い場所は好きだったわけだ。むしろそのせいで、猫となってしまったのかもしれない。まあそれだと、猿になっていた可能性もあるわけだが。
ゴロネに振り回されながらも、僕は田舎での夏休みをそれなりに満喫していた。
そんなある日のこと、ゴロネを抱える道中、僕は突然に声をかけられた。
「おっきな、猫さん! なんて名前?」
声のしたほうを振り向いて、僕は衝撃を受けた。
そこには、天使のような愛くるしい容姿の女の子がいたのだ。
ほっぺをほんのりと赤らめ、宝物でも眺めるかのように、大きな瞳をこれでもかと輝かせた女子。田舎にはこんなかわいい子がいるのかと、自分の通う学校を呪いたくなるほどの美少女だった。
「……ゴロネ」
僕は少女の放つ圧倒的眩しさに彼女を直視できず、ぶっきらぼうに返事をすることしかできなかった。
「ゴロネちゃんね! 撫でてもいい?」
「……うん」
「ほんと? ありがとう!」
少女が無邪気に歯を見せて笑い、僕は顔が熱くなった。
彼女は僕と同い年の地元の女の子であり、無類の猫好きだった。母親が猫アレルギーのため自宅では猫を飼えないそうであり、僕が夏休みと父さんの過ちを利用して祖父母の家に来ていることを話すと、猫に会うために家まで遊びに来てもいいかと訊いてきた。この頃の僕は、素直ではなかったものの、身の程をわきまえない子どもであった。なので、僕は彼女のお願いに対して「いいよ」と言葉を返し、そしてその日から、僕の所へ女の子が遊びに来るようになったのだ。
ナギラ・ユウスケとヤナギ・ナギサ――僕たちはお互いの名前を教え合い、学校でのあだ名が二人とも「ナギ」であることを知った。あだ名が同じなど、今にして思えば些細な共通点である。だが、幼い僕たちは大いに盛り上がり、すぐに仲良くなった。僕たちは喧嘩にならないように、僕は彼女のことを「ナギ」を逆さまから読んで「ギーナ」、彼女は僕のことを「ナギラ」の「ナ」を取って「ギーラ」と、二人だけの名で呼び合った。
僕はギーナと遊ぶのが毎日の楽しみとなった。ギーナと会う度に、味わったことのないポカポカした気持ちを知ったのである。彼女はゴロネを撫でるために来ていたが、僕が一緒にゲームしようと言えば、僕とゲームをし、アニメ観ようと言えば、僕の隣で観てくれた。彼女の心を射止めていたのはゴロネであったが、僕も満更ではないのではないかと、嬉しくて頭を掻いたものだ。
「ワタシね、大きくなったらペットショップのお店の人になりたいの。動物たち、特に猫さんとお仕事がしたいんだ」
ある日、ギーナがゴロネを抱きかかえながら、僕に教えてくれた。
「ギーナらしいね」
「でしょ? ギーラはなりたいものとかある?」
「ボク?」
僕は返答に困った。僕の強いてあげられる将来の夢は「お金と時間が自由に使える仕事をする」であり、具体的にやりたいことやなりたいものはなかったのだ。
「……猫になりたい」
「えっ?」
「……あっ、な、なんでもないっ!」
僕は慌ててごまかした。ギーナに抱きしめられているゴロネを見て、思わず口走ってしまったのだ。
ギーナに、ギュッとされたい――なんて、恥ずかしい……。
僕は彼女の顔をまともに見られなかった。
さらにこの日、僕はギーナから三日後に近くの神社で夏祭りがあることを聞かされた。
「お祭りのある神社から、花火が見えるんだって」
それを聞いた僕は、思わず声を上げた。
「一緒にお祭りに行こう! ボクも花火、見たいっ!」
僕にしては、珍しく素直だった。僕は一度も打ち上げ花火を見たことがなく、経験者のクラスメイトの自慢話を聞いて、ずっと憧れていたのだ。
「うん、ワタシも見たいっ!」
ギーナが満面の笑みで、嬉しそうに答えた。僕はそれを見て、これがゴロネなしで二人で会う初めての約束だと気づき、急に恥ずかしくなった。
夜になって母さんに夏祭りの話をすると、母さんはニヤニヤしながら僕をからかった。
「そのお祭りにはね、花火が上がった時にキスをすると、永遠に結ばれるって話があるそうよ。やーい、マ・セ・ガ・キっ!」
母さんの話を聞いて、僕は全身がカッと熱くなった。ただ純粋に花火を観賞したかっただけであり、そのような話があるなんて、一切知らなかった。やましい気持ちなんて、まるでなかったのだ。おまけに祖父母たちにまで「かわいいガールフレンドがいるんだね」と冷やかされ、僕はゴロネが驚いて逃げ出すほどリビングのドアを乱暴に閉め、部屋に一人閉じこもった。
――あんな約束、するんじゃなかった。
僕は後悔しつつ、その日はふて寝した。
だが結局、ギーナとの約束は果たされることなく、夏は終わる――。
夏祭りの前日、父さんが入院し、自宅に急遽帰ることになった。階段で足を踏み外し、両足を骨折したとのことだ。祖父母も含めた全員で父さんのもとへ行くことになったので、僕一人だけが祖父母の家に残るという選択肢はなかった。僕はギーナの家も連絡先も知らなかったので、彼女との約束を一方的に無断で破るしかなかった。
自宅へと向かう車中、終始不機嫌であったことを、僕は今でも覚えている。母さんは父さんに対して「バチが当たったのよ」とか「私の心のほうが複雑骨折しているんだから」とか愚痴を言っていたが、僕は特に文句を言わなかった。急な帰宅を謝る母さんに対し、「別に、いいよ」と答えて、いじけることしかできなかった。
――僕が約束を破ったことを知ったら、ギーナはどう思うだろう。
夏祭りに行くのをやめるのか。
それとも、夏祭りに行って、一人で花火を見るのだろうか。
僕に対して「嘘つき」と、カンカンに怒るのだろうか。
泣いて、悲しむのだろうか。
あの小動物のようなまん丸の瞳から、大粒の涙をこぼして。
そんなことを考えていると、自分のことが心底、嫌になった。
なんにしたって、ギーナと会うことは、もう二度とない――。
僕が寝てしまおうと目を瞑ると、車内がガタッと揺れ、涙がポタリと落ちた。
僕と母さんに飼い猫のゴロネを加えた、二人と一匹による訪問。この頃はまだ両親が離婚しておらず、僕の姓も柳楽であった。それにもかかわらず、父・柳楽義信のいない滞在となったのは、祖父母にお世話になる理由が彼自身にあったからである。父さんの浮気が発覚したのだ。
つまり、父さんの不貞行為に対して怒り心頭に発した母さんは、ちょうど僕の夏休みが重なったこともあって「実家に帰らせてもらいます」と、僕たちを連れて同県にある祖父母の家へと向かったわけだ。ただし、実家は実家でも、父さんのほうの実家である。これには、母さんが彼らと仲が良かったということもあるのだろうが、父さんの逃げ場をなくす意味も込められていたのだろう。お前に味方はいないんだぞ、という気の強い母さんらしい、末恐ろしい圧力である。
父方の祖父母の家は、田んぼや空き地が町の所々に見られる僕の住む町よりも田舎な場所にあり、僕はゴロネをお供に近所を探検した。小学生が白ヤギを連れていると近所で噂されるほど、この頃から既にぶくぶくと太っていたゴロネであったが、生粋の家猫であり、外に出しても全力疾走で帰宅してしまう小心者であった。なので、僕がゴロネを抱きかかえて外を歩き、ある程度の距離を進んだところで、ゴロネを下ろしてともに家までダッシュする、というのを繰り返した。ゴロネのダイエットをしているつもりで、僕自身のトレーニングをしていたわけだ。
ゴロネについて、もう少し話そう。ゴロネは外の世界に対しては臆病なくせに、他の猫に対しては強気であった。子猫を見かけたときには、野生の本能をむき出しにして追っかけ回したこともあった。僕が祖父母の家に来て二日目のことである。
ゴロネの追走は、人間に置き換えればプロレスラーが小学生を追いかけるようなものであり、さぞかし子猫は恐怖を覚えたであろう。追いつめられた子猫は、空き地へと逃げ込み、一軒家ほどの高さのある木を登ることで、辛くも難を逃れた。肥えすぎたゴロネでは、木に飛びついたところで不格好にズデンと落ちるしかなかったということだ。
僕は興奮するゴロネを抱えて強制的に祖父母の家まで連れていき、そのあとすぐに子猫の様子を確認しに戻った。子猫は木の上でうずくまり、か細い声で鳴いていた。下りられなくなったわけである。僕んちのバカ猫がごめんよ、と心の中で謝りつつ、僕はすぐさま木を登り、子猫を助け出した。当時は友達と秘密基地ごっこをすることに熱中しており、たびたび公園の木に登る遊びをしていたので、木登りは身軽な成猫並に得意であったのだ。
あの頃の経験は、猫となった今の僕にしっかりと活かされている。猫になる以前から、木登りと高い場所は好きだったわけだ。むしろそのせいで、猫となってしまったのかもしれない。まあそれだと、猿になっていた可能性もあるわけだが。
ゴロネに振り回されながらも、僕は田舎での夏休みをそれなりに満喫していた。
そんなある日のこと、ゴロネを抱える道中、僕は突然に声をかけられた。
「おっきな、猫さん! なんて名前?」
声のしたほうを振り向いて、僕は衝撃を受けた。
そこには、天使のような愛くるしい容姿の女の子がいたのだ。
ほっぺをほんのりと赤らめ、宝物でも眺めるかのように、大きな瞳をこれでもかと輝かせた女子。田舎にはこんなかわいい子がいるのかと、自分の通う学校を呪いたくなるほどの美少女だった。
「……ゴロネ」
僕は少女の放つ圧倒的眩しさに彼女を直視できず、ぶっきらぼうに返事をすることしかできなかった。
「ゴロネちゃんね! 撫でてもいい?」
「……うん」
「ほんと? ありがとう!」
少女が無邪気に歯を見せて笑い、僕は顔が熱くなった。
彼女は僕と同い年の地元の女の子であり、無類の猫好きだった。母親が猫アレルギーのため自宅では猫を飼えないそうであり、僕が夏休みと父さんの過ちを利用して祖父母の家に来ていることを話すと、猫に会うために家まで遊びに来てもいいかと訊いてきた。この頃の僕は、素直ではなかったものの、身の程をわきまえない子どもであった。なので、僕は彼女のお願いに対して「いいよ」と言葉を返し、そしてその日から、僕の所へ女の子が遊びに来るようになったのだ。
ナギラ・ユウスケとヤナギ・ナギサ――僕たちはお互いの名前を教え合い、学校でのあだ名が二人とも「ナギ」であることを知った。あだ名が同じなど、今にして思えば些細な共通点である。だが、幼い僕たちは大いに盛り上がり、すぐに仲良くなった。僕たちは喧嘩にならないように、僕は彼女のことを「ナギ」を逆さまから読んで「ギーナ」、彼女は僕のことを「ナギラ」の「ナ」を取って「ギーラ」と、二人だけの名で呼び合った。
僕はギーナと遊ぶのが毎日の楽しみとなった。ギーナと会う度に、味わったことのないポカポカした気持ちを知ったのである。彼女はゴロネを撫でるために来ていたが、僕が一緒にゲームしようと言えば、僕とゲームをし、アニメ観ようと言えば、僕の隣で観てくれた。彼女の心を射止めていたのはゴロネであったが、僕も満更ではないのではないかと、嬉しくて頭を掻いたものだ。
「ワタシね、大きくなったらペットショップのお店の人になりたいの。動物たち、特に猫さんとお仕事がしたいんだ」
ある日、ギーナがゴロネを抱きかかえながら、僕に教えてくれた。
「ギーナらしいね」
「でしょ? ギーラはなりたいものとかある?」
「ボク?」
僕は返答に困った。僕の強いてあげられる将来の夢は「お金と時間が自由に使える仕事をする」であり、具体的にやりたいことやなりたいものはなかったのだ。
「……猫になりたい」
「えっ?」
「……あっ、な、なんでもないっ!」
僕は慌ててごまかした。ギーナに抱きしめられているゴロネを見て、思わず口走ってしまったのだ。
ギーナに、ギュッとされたい――なんて、恥ずかしい……。
僕は彼女の顔をまともに見られなかった。
さらにこの日、僕はギーナから三日後に近くの神社で夏祭りがあることを聞かされた。
「お祭りのある神社から、花火が見えるんだって」
それを聞いた僕は、思わず声を上げた。
「一緒にお祭りに行こう! ボクも花火、見たいっ!」
僕にしては、珍しく素直だった。僕は一度も打ち上げ花火を見たことがなく、経験者のクラスメイトの自慢話を聞いて、ずっと憧れていたのだ。
「うん、ワタシも見たいっ!」
ギーナが満面の笑みで、嬉しそうに答えた。僕はそれを見て、これがゴロネなしで二人で会う初めての約束だと気づき、急に恥ずかしくなった。
夜になって母さんに夏祭りの話をすると、母さんはニヤニヤしながら僕をからかった。
「そのお祭りにはね、花火が上がった時にキスをすると、永遠に結ばれるって話があるそうよ。やーい、マ・セ・ガ・キっ!」
母さんの話を聞いて、僕は全身がカッと熱くなった。ただ純粋に花火を観賞したかっただけであり、そのような話があるなんて、一切知らなかった。やましい気持ちなんて、まるでなかったのだ。おまけに祖父母たちにまで「かわいいガールフレンドがいるんだね」と冷やかされ、僕はゴロネが驚いて逃げ出すほどリビングのドアを乱暴に閉め、部屋に一人閉じこもった。
――あんな約束、するんじゃなかった。
僕は後悔しつつ、その日はふて寝した。
だが結局、ギーナとの約束は果たされることなく、夏は終わる――。
夏祭りの前日、父さんが入院し、自宅に急遽帰ることになった。階段で足を踏み外し、両足を骨折したとのことだ。祖父母も含めた全員で父さんのもとへ行くことになったので、僕一人だけが祖父母の家に残るという選択肢はなかった。僕はギーナの家も連絡先も知らなかったので、彼女との約束を一方的に無断で破るしかなかった。
自宅へと向かう車中、終始不機嫌であったことを、僕は今でも覚えている。母さんは父さんに対して「バチが当たったのよ」とか「私の心のほうが複雑骨折しているんだから」とか愚痴を言っていたが、僕は特に文句を言わなかった。急な帰宅を謝る母さんに対し、「別に、いいよ」と答えて、いじけることしかできなかった。
――僕が約束を破ったことを知ったら、ギーナはどう思うだろう。
夏祭りに行くのをやめるのか。
それとも、夏祭りに行って、一人で花火を見るのだろうか。
僕に対して「嘘つき」と、カンカンに怒るのだろうか。
泣いて、悲しむのだろうか。
あの小動物のようなまん丸の瞳から、大粒の涙をこぼして。
そんなことを考えていると、自分のことが心底、嫌になった。
なんにしたって、ギーナと会うことは、もう二度とない――。
僕が寝てしまおうと目を瞑ると、車内がガタッと揺れ、涙がポタリと落ちた。