冬の気配はますます色を濃くし、吹き荒ぶ風が身体に辛くなってきたころ。
「そう言えば」
小鉢に使う蒸かしたじゃがいもを、マッシャーで荒く潰していた佳鳴が、思い出した様に声を上げる。
「最近あのお客さん来られてへんよね。春日さん」
「ああ、そう言えば」
春日さんは壮年の男性で、以前はしょっちゅう煮物屋さんに来てくれていた常連さんだ。
ポテトサラダが好きなお客さまで、それが小鉢になると、「煮物ともうひとつの小鉢の量を減らしてくれても良いから、ポテトサラダを多くしてくれないかな」とおっしゃっていた。佳鳴たちは「ええですよ」と、その願いを叶えていた。
春日さんは大阪出身では無い。転勤で千葉から引っ越して来られたのである。実は曽根を含む豊中市は、他県から転勤などで引っ越して来られた方も多いのである。
そんな春日さんが、ここしばらく姿を見せていなかった。引っ越しでもしたのか、それともここの味に飽きてしまったのか。
気掛かりではあったが、今の佳鳴たちに、それを確かめる術は無かった。
それは数年前のこと。佳鳴と千隼が煮物屋さんをオープンさせた頃。
何せ偏っているとも言える営業形態なので、スタートから好調と言う訳では無かった。
それでも珍しがって来てくれるお客さまはいて、春日さんもそのひとりだった。
その日のメニューは、メインに鶏肉とれんこんの煮物、彩りに茹でたほうれん草を添えたものを据えて、小鉢がポテトサラダときのこのマリネだった。
その時のポテトサラダは塩もみ玉ねぎと塩もみきゅうり、炒めたベーコンと炒り卵を入れたなかなか凝ったもので、煮物を控えめに盛り付けてポテトサラダを多めにしていた。
「私は独身でひとり暮らしだから、なかなかこういう食事にありつけなくてね。特にこのポテトサラダが良いなぁ。いつもの小鉢より多いのもありがたいねぇ。いや、私はポテトサラダが大好きなんだけど、ほら、スーパーの惣菜とかね、あまり好みの味に当たらなくて」
佳鳴が作るポテトサラダの味付けは、マヨネーズをメインに、隠し味にからしとバターを使っている。塩はもちろん白こしょうを少し強めに効かせている。
小鉢を作るのは佳鳴の役目だが、その下ごしらえの量によっては千隼が手伝いに入る。今日は小鉢に使っている素材が多いので、姉弟は並んでせっせと材料を切った。
「お口に合ったのでしたら良かったです」
佳鳴が笑顔で言うと、春日さんも嬉しそうに笑みを浮かべ、グラスに入った冷酒「呉春」を片手に食事を進めて行った。
そうしているうちに、常連さんのお陰もあって煮物屋さんもどうにか軌道に乗って来た。カウンタだけのささやかな店内はあらかた埋まる様になる。
その日のメインの煮物は、牛肉のしぐれ煮だ。ごぼうの他に椎茸と糸こんにゃくも入れている。彩りは塩茹でした絹さやだ。
牛肉は香ばしさを出すために先に炒め、ごぼうと椎茸、糸こんにゃくを入れてオイルを回したら、お水や日本酒、お醤油などを入れて煮込む。生姜は千切りにして加えた。
甘辛い煮物だが、煮物屋さんでは少し柔らかめに仕上げ、素材の旨味と生姜の爽やかさが活きる様にしてある。
しぐれ煮は基本牛肉のみ、もしくは牛肉とごぼうだけで作ることが多いと思うが、椎茸を入れるとまた旨味が加わる。
それらから出た味わいが糸こんにゃくに絡んで、見た目よりもあっさりといただけるのだ。
小鉢は、まずは小松菜と厚揚げの煮浸し。
厚揚げは小松菜と一緒に食べやすい様に棒状に切って、小松菜とさっと煮る。小松菜はあまり煮てしまうと色も悪くなってしまうし、煮汁に大切なビタミンが出てしまうので、しんなりする程度に火通しして、常温に冷ましておく。
しゃきっとした歯ごたえを残し、厚揚げからでる旨味でふくよかな味わいになる。
もう一品はじゃがいもとグリンピースのサラダだ。
大きめのさいの目切りにして、蒸かしたじゃがいもは粉吹きにして潰さずに、塩茹でしたグリンピースと和えて、マヨネーズなどで味付けして行く。こちらは少しさっぱりとさせるために、隠し味にお酢を使っている。
お手軽なポテトサラダと言ったところだが、ねっとりとしたじゃがいもとぷちっとしたグリンピースが良く合うのだ。
「こんばんは」
19時を過ぎたころ、そう言いながら春日さんはやって来た。結構な頻度で来てくれるのだが、小鉢にじゃがいもを使ったサラダを用意すると、必ず来店される。表に出してあるお品書きをご覧になるのだろう。
春日さんはまた呉春を手に、じゃがいもとグリンピースのサラダを食べて、ほぅと満足げに息を吐いた。
呉春はこの大阪府の池田市にある呉春株式会社が醸す日本酒である。曽根のある豊中市の隣の市になる。
柔らかな口当たりにしっかりと感じられる旨味。辛口では無いのだがすっきりとした後味のお酒である。
春日さんはこの呉春がお気に入りの様で、煮物屋さんで必ず注文されるのだ。
「僕はどうやら、じゃがいもとマヨネーズの組み合わせが好きみたいなんだよね。だからこのサラダもとても美味しいよ。具はシンプルなのに、味付けが良いのかなぁ」
「そう凝ったことはしてへんのですよ。でもそうですね、調味料は弟とふたりでいろいろ味を見て、気に入ったものを使うてます。なのでご家庭でお作りになられるものとは少し違うかも知れませんね」
「そうなんだ。僕はお店経営のいろはなんてほとんど判らないけど、それだったらコストとか掛かっているんじゃ無いの?」
「いえいえ、そう高価な調味料を使っているわけでは無いんですよ。でもスーパーではあまりお取り扱いの無いメーカーさんのものが多いかも知れません」
「なるほどねぇ。そういうのもこだわりって言うんだろうね。僕は自炊もするけど、確かにマヨネーズひとつ取っても、メーカーごとに味が違ったりするもんね。あそこのはこってりしてる、あそこのは少しさっぱりしてる、とか。ほら、欲しい時に安売りしているものを買うから。特にこだわりがある訳でも無いしね」
「そうですね。マヨネーズに使う卵の産地とか鶏の品種とか、お酢でもオイルでも、使うもんによって味は変わって来るでしょうからね」
「それにしても、ポテトサラダってきゅうりとか具沢山のものって固定概念があったんだけど、このサラダみたいにグリンピースだけでも充分に美味しく作れるんだねぇ。これなら僕でも家で作れそうだ。何かコツみたいなのがあるのかな」
「特にこれって言うのがあるわけや無いんですけど、うちではマヨネーズはそう多く使わず、そうですねぇ、少し白こしょうを効かせる様にしていますね」
「白こしょう? それってスーパーで瓶に入って売っているものとは違うの?」
「春日さんがおっしゃっているこしょうは、黒いこしょうと白いこしょうのブレンドのものでしょうか。一般的な粒の細かい、粉の様なテーブルこしょうはそうやって作られています。白こしょうは黒こしょうより辛みが穏やかなんです。なのでポテトサラダのちょっとしたアクセントにええんです。スーパーのスパイスハーブの棚にあると思いますよ。今はスーパーでもいろいろなスパイスなんかが買えますからね」
「スパイスなんて難しそうなもの、僕には使えそうに無いからまともに見たこと無かったよ。でも今度見てみるね。それでもしかしたら自炊の幅も広がるかも知れないなぁ」
「例えば鶏肉を塩こしょうで焼いて、仕上げに皮の部分に乾燥バジルを掛けて、その皮部分を少し焼いたらバジルの風味が出て、いつもの鶏肉と違う味わいになりますよ。タイムやローズマリーなんかもええですね」
「え、え、え」
佳鳴の話を聞いて、春日さんは目を白黒させる。
「バジルって言うのは聞いたことがあるけど、た、た、なんだって?」
「タイムとローズマリーです。これも乾燥させているもんがありますよ。生もありますけど、乾燥のものの方が使い勝手がええですし、何より保存がききますからね。機会がありましたら、試してみてください」
タイム、ローズマリー、タイム、と、春日さんは何度も声を出さずに、口を動かして繰り返す。
「タイムとローズマリーね。うん、覚えた。今度見てみるよ。僕、鶏肉と言ったら塩こしょうだけで焼いたりとか、ああ、照り焼きも作るね」
「あらぁ、照り焼きが作れるやなんてすごいですねぇ」
「いやいや、酒と砂糖と醤油を適当に入れるだけでね。でもそのハーブで焼いた鶏とじゃがいものサラダで、なんだかおしゃれな食卓になりそうだねぇ」
「そうですね。それにお酒か、お食事にされるならパンやスープなどを添えると、立派な洋食のお食事になりますね」
「良いねぇ。楽しみになって来たよ」
春日さんはそう言って、わくわくした様な笑みを浮かべた。
春日さんとのかつての会話を思い出し、佳鳴はくすりと笑みを浮かべ、塩を振っておいたきゅうりの輪切りをぎゅっと揉んだ。
「そう言えば」
小鉢に使う蒸かしたじゃがいもを、マッシャーで荒く潰していた佳鳴が、思い出した様に声を上げる。
「最近あのお客さん来られてへんよね。春日さん」
「ああ、そう言えば」
春日さんは壮年の男性で、以前はしょっちゅう煮物屋さんに来てくれていた常連さんだ。
ポテトサラダが好きなお客さまで、それが小鉢になると、「煮物ともうひとつの小鉢の量を減らしてくれても良いから、ポテトサラダを多くしてくれないかな」とおっしゃっていた。佳鳴たちは「ええですよ」と、その願いを叶えていた。
春日さんは大阪出身では無い。転勤で千葉から引っ越して来られたのである。実は曽根を含む豊中市は、他県から転勤などで引っ越して来られた方も多いのである。
そんな春日さんが、ここしばらく姿を見せていなかった。引っ越しでもしたのか、それともここの味に飽きてしまったのか。
気掛かりではあったが、今の佳鳴たちに、それを確かめる術は無かった。
それは数年前のこと。佳鳴と千隼が煮物屋さんをオープンさせた頃。
何せ偏っているとも言える営業形態なので、スタートから好調と言う訳では無かった。
それでも珍しがって来てくれるお客さまはいて、春日さんもそのひとりだった。
その日のメニューは、メインに鶏肉とれんこんの煮物、彩りに茹でたほうれん草を添えたものを据えて、小鉢がポテトサラダときのこのマリネだった。
その時のポテトサラダは塩もみ玉ねぎと塩もみきゅうり、炒めたベーコンと炒り卵を入れたなかなか凝ったもので、煮物を控えめに盛り付けてポテトサラダを多めにしていた。
「私は独身でひとり暮らしだから、なかなかこういう食事にありつけなくてね。特にこのポテトサラダが良いなぁ。いつもの小鉢より多いのもありがたいねぇ。いや、私はポテトサラダが大好きなんだけど、ほら、スーパーの惣菜とかね、あまり好みの味に当たらなくて」
佳鳴が作るポテトサラダの味付けは、マヨネーズをメインに、隠し味にからしとバターを使っている。塩はもちろん白こしょうを少し強めに効かせている。
小鉢を作るのは佳鳴の役目だが、その下ごしらえの量によっては千隼が手伝いに入る。今日は小鉢に使っている素材が多いので、姉弟は並んでせっせと材料を切った。
「お口に合ったのでしたら良かったです」
佳鳴が笑顔で言うと、春日さんも嬉しそうに笑みを浮かべ、グラスに入った冷酒「呉春」を片手に食事を進めて行った。
そうしているうちに、常連さんのお陰もあって煮物屋さんもどうにか軌道に乗って来た。カウンタだけのささやかな店内はあらかた埋まる様になる。
その日のメインの煮物は、牛肉のしぐれ煮だ。ごぼうの他に椎茸と糸こんにゃくも入れている。彩りは塩茹でした絹さやだ。
牛肉は香ばしさを出すために先に炒め、ごぼうと椎茸、糸こんにゃくを入れてオイルを回したら、お水や日本酒、お醤油などを入れて煮込む。生姜は千切りにして加えた。
甘辛い煮物だが、煮物屋さんでは少し柔らかめに仕上げ、素材の旨味と生姜の爽やかさが活きる様にしてある。
しぐれ煮は基本牛肉のみ、もしくは牛肉とごぼうだけで作ることが多いと思うが、椎茸を入れるとまた旨味が加わる。
それらから出た味わいが糸こんにゃくに絡んで、見た目よりもあっさりといただけるのだ。
小鉢は、まずは小松菜と厚揚げの煮浸し。
厚揚げは小松菜と一緒に食べやすい様に棒状に切って、小松菜とさっと煮る。小松菜はあまり煮てしまうと色も悪くなってしまうし、煮汁に大切なビタミンが出てしまうので、しんなりする程度に火通しして、常温に冷ましておく。
しゃきっとした歯ごたえを残し、厚揚げからでる旨味でふくよかな味わいになる。
もう一品はじゃがいもとグリンピースのサラダだ。
大きめのさいの目切りにして、蒸かしたじゃがいもは粉吹きにして潰さずに、塩茹でしたグリンピースと和えて、マヨネーズなどで味付けして行く。こちらは少しさっぱりとさせるために、隠し味にお酢を使っている。
お手軽なポテトサラダと言ったところだが、ねっとりとしたじゃがいもとぷちっとしたグリンピースが良く合うのだ。
「こんばんは」
19時を過ぎたころ、そう言いながら春日さんはやって来た。結構な頻度で来てくれるのだが、小鉢にじゃがいもを使ったサラダを用意すると、必ず来店される。表に出してあるお品書きをご覧になるのだろう。
春日さんはまた呉春を手に、じゃがいもとグリンピースのサラダを食べて、ほぅと満足げに息を吐いた。
呉春はこの大阪府の池田市にある呉春株式会社が醸す日本酒である。曽根のある豊中市の隣の市になる。
柔らかな口当たりにしっかりと感じられる旨味。辛口では無いのだがすっきりとした後味のお酒である。
春日さんはこの呉春がお気に入りの様で、煮物屋さんで必ず注文されるのだ。
「僕はどうやら、じゃがいもとマヨネーズの組み合わせが好きみたいなんだよね。だからこのサラダもとても美味しいよ。具はシンプルなのに、味付けが良いのかなぁ」
「そう凝ったことはしてへんのですよ。でもそうですね、調味料は弟とふたりでいろいろ味を見て、気に入ったものを使うてます。なのでご家庭でお作りになられるものとは少し違うかも知れませんね」
「そうなんだ。僕はお店経営のいろはなんてほとんど判らないけど、それだったらコストとか掛かっているんじゃ無いの?」
「いえいえ、そう高価な調味料を使っているわけでは無いんですよ。でもスーパーではあまりお取り扱いの無いメーカーさんのものが多いかも知れません」
「なるほどねぇ。そういうのもこだわりって言うんだろうね。僕は自炊もするけど、確かにマヨネーズひとつ取っても、メーカーごとに味が違ったりするもんね。あそこのはこってりしてる、あそこのは少しさっぱりしてる、とか。ほら、欲しい時に安売りしているものを買うから。特にこだわりがある訳でも無いしね」
「そうですね。マヨネーズに使う卵の産地とか鶏の品種とか、お酢でもオイルでも、使うもんによって味は変わって来るでしょうからね」
「それにしても、ポテトサラダってきゅうりとか具沢山のものって固定概念があったんだけど、このサラダみたいにグリンピースだけでも充分に美味しく作れるんだねぇ。これなら僕でも家で作れそうだ。何かコツみたいなのがあるのかな」
「特にこれって言うのがあるわけや無いんですけど、うちではマヨネーズはそう多く使わず、そうですねぇ、少し白こしょうを効かせる様にしていますね」
「白こしょう? それってスーパーで瓶に入って売っているものとは違うの?」
「春日さんがおっしゃっているこしょうは、黒いこしょうと白いこしょうのブレンドのものでしょうか。一般的な粒の細かい、粉の様なテーブルこしょうはそうやって作られています。白こしょうは黒こしょうより辛みが穏やかなんです。なのでポテトサラダのちょっとしたアクセントにええんです。スーパーのスパイスハーブの棚にあると思いますよ。今はスーパーでもいろいろなスパイスなんかが買えますからね」
「スパイスなんて難しそうなもの、僕には使えそうに無いからまともに見たこと無かったよ。でも今度見てみるね。それでもしかしたら自炊の幅も広がるかも知れないなぁ」
「例えば鶏肉を塩こしょうで焼いて、仕上げに皮の部分に乾燥バジルを掛けて、その皮部分を少し焼いたらバジルの風味が出て、いつもの鶏肉と違う味わいになりますよ。タイムやローズマリーなんかもええですね」
「え、え、え」
佳鳴の話を聞いて、春日さんは目を白黒させる。
「バジルって言うのは聞いたことがあるけど、た、た、なんだって?」
「タイムとローズマリーです。これも乾燥させているもんがありますよ。生もありますけど、乾燥のものの方が使い勝手がええですし、何より保存がききますからね。機会がありましたら、試してみてください」
タイム、ローズマリー、タイム、と、春日さんは何度も声を出さずに、口を動かして繰り返す。
「タイムとローズマリーね。うん、覚えた。今度見てみるよ。僕、鶏肉と言ったら塩こしょうだけで焼いたりとか、ああ、照り焼きも作るね」
「あらぁ、照り焼きが作れるやなんてすごいですねぇ」
「いやいや、酒と砂糖と醤油を適当に入れるだけでね。でもそのハーブで焼いた鶏とじゃがいものサラダで、なんだかおしゃれな食卓になりそうだねぇ」
「そうですね。それにお酒か、お食事にされるならパンやスープなどを添えると、立派な洋食のお食事になりますね」
「良いねぇ。楽しみになって来たよ」
春日さんはそう言って、わくわくした様な笑みを浮かべた。
春日さんとのかつての会話を思い出し、佳鳴はくすりと笑みを浮かべ、塩を振っておいたきゅうりの輪切りをぎゅっと揉んだ。