大阪・煮物屋さんの暖かくて優しい食卓

 そろそろ本格的に寒くなってくるだろうか。気温も下がり吹く風も冷たく、すっかりと冬の気配を見せている。

 煮物屋さんに来られるお客さまも、ジャケットやコートを着込んでいる方が増えて来た。

 この煮物屋さんではお持ち帰りも行なっている。常連さんの会社員の女性仲間(なかま)さんは、今日もひょっこりと訪れ、持ち帰り用に用意した料理を手に笑顔で帰って行った。

 今日のメインはおでんだ。冬先取りと言ったところか。

 具は大根とじゃがいもにこんにゃく、厚揚げと牛すじ。牛すじはお箸でも食べやすい様に、ひと口大のものを爪楊枝に刺した。

 かつおと昆布をメインにした優しい出汁でじっくりと煮込んだ。それが全ての素材にしっかりと吸い込まれ、ふくよかでほっとする味わいになる。

 大根は米の研ぎ汁で下茹でしてあるので、繊維の中までしっかりと味が入り込んでいる。中まで味の沁みた大根はおでんの醍醐味とも言える。

 こんにゃくも格子に包丁を入れているので、お出汁が良く絡む。

 小鉢は冷や奴。薬味は塩もみしたきゅうりを柚子胡椒で和えたもの。持ち帰り用は薬味を別添えにしてある。

 爽やかなきゅうりに柚子胡椒のぴりりが、淡白なお豆腐に良く合うのだ。

 小鉢のもうひとつは、そろそろ旬の小松菜のマヨネーズポン酢和えである。ポン酢は佳鳴と千隼のお気に入りを入荷している。酸味の柔らかなものだ。

 和え衣は小松菜に薄くまとう量にしてあるので、小松菜が持つ鮮やかな旨味を壊さない。

「家で録画した深夜ドラマ見ながら食べるんや〜」

 そう(おっしゃ)っていたので、きっとお家でゆっくりと楽しまれるのだろう。

 今、深夜ドラマは何を放送しているのだろうか。その時間、佳鳴(かなる)千隼(ちはや)は店の片付けをしていたり、風呂に入っていたりで、まぁ見る時間は無い。

 そう言えば、定休日の月曜以外はゴールデンタイムのテレビを見ることも無いので、今流行りの歌やドラマなども良く分からなかった。

 インターネットを漁れば情報などいくらでも入るのだが、特に必要だと思っていない。お客さまとの会話も、佳鳴たちの場合はその方が話が広がりやすいのだ。お客さまはご自分の知っていることを、嬉しそうに教えてくれる。

 その代わり日々のニュースだけはきちんとチェックする様にしている。それは一般常識である。

「深夜ドラマ、俺も見てるわぁ。今ね、サスペンスのおもしろいのやってるんですよ」

「平日の遅い時間なんやから、録画して次の日見たらって言ってるのに、リアルタイムにこだわるんですよね〜。次の日仕事やってのに」

 田淵(たぶち)さんがわくわくした様子で言う隣で、奥さんの沙苗(さなえ)さんが呆れた様に言う。

「だってそんなん待てへんって! 寝れへんって! 次どうなるんやろ、どうなるんやろって気になって気になって」

「そもそもヨシくん、そんなサスペンスとかって好きやったっけ?」

「いや。同僚に教えてもらってん。会社のな。原作の小説がおもしろいから楽しみにしてるって言われて、じゃあ俺も見てみるかなって。そしたらはまってしもてさ〜」

「じゃあもう今から視るんじゃ遅いですね。途中からじゃ解らへんのじゃ無いですか?」

 佳鳴が言うと、田淵さんは「いやいや」と手を振る。

「まだ間に合いますよ。前回までのあらすじってのもありますし。興味があったら視てみてください」

 そう言う田淵さんを、沙苗さんが小突く。

「ヨシくん、店長さんたちは多分お忙しい時間帯やで」

「あはは、そうかも知れませんね」

 佳鳴が笑うと、田淵さんは「あ、そっか」と目を丸くする。

「この店が終わっても、なんやかんやありますかぁ」

「そうですねぇ」

 佳鳴は応えて笑みを浮かべた。



 数日後、また仲間さんが現れる。今回も持ち帰りたいとのこと。

「今日は友だちが来るから、一緒に食べるんや〜」

 そう言ってふたり分をお持ち帰りされた。その日は週末だったので、家飲みでもするのだろうか。それは楽しそうだ。そういうシーンの食事を、この煮物屋さんを選んでくださるのは嬉しい。

 その日のメインは豚の角煮だ。卵と大根も一緒に煮込み、盛り付ける時に塩茹でしたちんげん菜をたっぷりと添える。ちんげん菜の時期もそろそろ終わりだろうか。

 小鉢は、ひとつは白菜とかにかまの甘酢和え。もうひとつはほうれん草のごま和えである。

 豚ばらの塊肉は、白ねぎの青い部分と生姜を使ってしっかりと下茹でし、柔らかくするのと同時に癖と余分な脂を取り除いている。

 半月切りにした大根は米の研ぎ汁で下茹でし、日本酒をたっぷりと使った甘辛の優しい味のお出汁でことことと煮た。

 日本酒の効果で豚ばら肉はまた柔らかくなり、お箸でほろりとほぐせる。大根はほっくりと煮上がり、半熟に茹でた卵は取り出した煮汁に浸けたので黄身がとろりとしている。

 半熟卵が苦手なお客さまもおられるので、一部は一緒に煮て固茹でにして、選んでいただける様にした。

 お持ち帰りの場合は衛生的観念から固茹でを入れる。

 白菜とかにかまの甘酢和えは、塩揉みした白菜と割いたかにかまを甘酢で和えた一品。太めの千切りにした白菜の芯はしゃきしゃきで、ざく切りにした葉もざくっとした歯ごたえ。

 かにかまの旨味が加わり、甘酢で白菜の甘みと爽やかさが引き出されている。

 白菜もそろそろ旬になり、葉のしっかりと詰まったぱんぱんのものが出て来るころだ。

 ほうれん草のごま和えは、茹でたほうれん草にお出汁と日本酒、お砂糖とお醤油で作ったおつゆを絡め、すり白ごまをたっぷりとまとわせた。

 ほうれん草の持つ旨味と白ごまの甘みと香ばしさが混じり合い、ほっとする味わいだ。

 ぜひお家で楽しんでいただきたい。



 その翌週末、また仲間さんがやって来た。今度は3人分を持ち帰りたいと言うことだ。

「今週も家飲みやで〜」

 そう言って仲間さんは笑う。「それは楽しそうで良いですねぇ」、そんなことを言いながら佳鳴と千隼は料理を整えた。

 その日のメインはじゃがいものそぼろ煮。

 皮を剥いて適当な大きさに切ったじゃがいもをお出汁でことことと煮て、味付けは日本酒とお砂糖、お醤油で軽く付ける。

 じゃがいもを引き上げたお出汁に、ぽろぽろに炒めた鶏もも肉の挽き肉とすり下ろした生姜を加え、一煮立ちしたら水溶き片栗粉でとろみを付ける。

 器に盛ったじゃがいもに鶏そぼろあんをたっぷりと掛け、彩りに塩茹でした絹さやを添えた。

 ほっくりと煮上がったじゃがいもに、ほのかに香ばしく仕上がった鶏そぼろあんが絡む。ほっこりと味わい深い一品だ。

 小鉢のひとつは卯の花。人参に椎茸、水菜とちくわで具だくさんで作った。それもあって今回は小鉢より少し大きめな器に多めに盛り付ける。その分メインを控えめにしてある。

 卯の花は味をどんどん吸ってしまうので、ほんの少し濃いめの味付けにしてある。それぐらいでちょうど良いのだ。

 そこに様々な具材が絡み合って美味しさを生み出す。

 水菜は鮮やかな色合いを残すために、最後の方に入れてさっと火を通すぐらいにしてある。そろそろ時期のもので、ぴんと張ったしっかりとした水菜が店頭に並ぶ様になる。

 もうひとつはシンプルに、きゅうりとわかめの酢の物だ。塩揉みしたきゅうりと塩抜きした塩蔵わかめをお酢などで作った和え衣で和え、盛り付けたら白ごまを振る。

 お手軽とも言える一品だが、こうしたさっぱりとした箸休め的なものがあると、他のお料理もぐっと引き立つ。もちろん酢の物そのものの味わいだって良いものなのだ。



 さて、その翌日。土曜日である。18時になり、表におしながきを出して開店だ。

 千隼が表から戻って来て間も無く、ドアが静かに開かれた。仲間さんだった。

「いらっしゃいませ〜」

「いらっしゃいませ」

 佳鳴たちが出迎えると、仲間さんは憂鬱(ゆううつ)そうな表情で「どないしよ」と呟いた。どうしたことか? 佳鳴と千隼は顔を見合わせた。

 仲間さんはふらりと中に入って来ると、まだ誰もいないカウンタ席の真ん中あたりに腰掛けた。そうして組んだ両手で(ひたい)を支え、「はぁ」と溜め息を吐いた。

「仲間さん?」

 佳鳴が声を掛けると、仲間さんはとろとろと顔を上げる。

「うっとうしくてごめんね。こんばんは」

「こんばんは。どうかされました?」

「自業自得なんやけど、やってもた〜ってね……」

 そうして仲間さんは、また「はぁ」と溜め息を吐いた。

「どないしよ……」

 そう呟いて、また溜め息をひとつ。注文を聞ける様な雰囲気では無かった。どうしたものかと佳鳴と千隼はまた顔を見合わせる。

「あの、仲間さん……?」

 千隼がそっと声を掛けると、仲間さんは「ん〜」と唸る。

「店長さんとハヤさんにお嫁に来て欲しい……」

 切実そうにそう言われ、佳鳴たちは思わず「は?」と声を上げてしまった。

「私、彼氏がいるんやけどね……」

 仲間さんはそうぽつりと口を開く。

「あら、そうなんですね。それはお幸せですねぇ」

 佳鳴が言うと、仲間さんは「そうだよねぇ〜」と机に突っ伏してしまう。

「ほら、最近料理持ち帰りにさせてもらってたやろ。それ、その彼氏と、昨日は彼氏の妹さんも一緒に食べたんやけど」

「はい」

「私、自分で作ったって言っちゃって〜……」

 仲間さんは突っ伏したまま、悲鳴の様な声を上げた。

 ああ、それは確かに良く無いかも知れない。佳鳴たちは仲間さんの料理の腕前は知らない。しかしそうしてしまうと言うことは、自信が無いのかも知れない。

 佳鳴たちは(まなじり)を下げ、無音で「ああ……」と口を開いた。

「彼氏と結婚したくて、胃袋(つか)みたかってん〜……。彼氏のお母さんがお料理上手やって聞いて、負けたないって思って〜……。でもね!」

 仲間さんはがばっと顔を上げる。

「料理ができひんってわけやないねん! ただ、味がなんか微妙で、こうお店で食べるご飯の様にならへんって言うか、私の母みたいにもならへんって言うか」

「普段はお料理されるんですか?」

 佳鳴が聞くと、仲間さんは「たまに」と応える。

「平日仕事の時は疲れてるからなかなかできひんねんけど、彼氏と会わへん週末に作り置き作ってみたり。でもなんかいまいちなんよなぁ」

 そう言って眉をしかめて首を傾げる。

「レシピとか見てますか?」

「うん、見てる。母からは料理の基本しか教わらへんかったから、家を出る時に基本の本を何冊か持たされた。野菜炒めの味付けなんかもそれで知ったぐらい」

「なら、問題無く美味しいものが出来ると思うんですが」

「やんねぇ。なのに微妙なものしかできあがらへんの。なんでやろか」

 仲間さんはしょんぼりとうな垂れてしまった。

 千隼が佳鳴を見て、何かを問う様に首を数回縦に振る。すると佳鳴がそれに応える様に、1度大きく頷いた。

「あの、仲間さん、もしよろしければなんですが、明日午後からお時間があったら、僕たちの仕込みをご覧になりますか?」

「え、ええの?」

 千隼の申し出に、仲間さんははっと目を見開く。

「はい。仕込む量が多いのでどこまでご参考になるかは判りませんが、もしかしたら何かお伝えできたりすることもあるかも知れませんし」

「うわぁ、それは助かる! 嬉しい! いろいろ質問とかしてまうかも!」

「はい。私たちでお応えできることならなんでも」

 佳鳴が笑顔で言うと、仲間さんは「やったぁ!」と小さくガッツポーズを作った。

「ほんまにありがとう! ああ、安心したらお腹空いて来てもうた。店長さん、お酒でお願い」

 仲間さんは心底安心したと言う様に息を吐き、ようやく注文をするに至った。

「かしこまりました」

 今日のメインは豚肉としめじと水菜のみぞれ煮。

 豚肉をごま油で炒め、お出汁を張って煮込み、小房にほぐしたしめじを加えたら味付けは少し濃いめに、お砂糖と日本酒にお醤油。水菜を加えたらさっと煮て、すり下ろして軽く水気を切った大根をたっぷりと入れて一煮立ち。

 大根を入れると味が薄まるので、濃いめの味付けにしたのだ。

 すり下ろし大根を入れることでお出汁がふんだんに具材に絡まる。また大根に火が通ることで甘さが生まれ、全体がまとまり良い味わいになる。大根はこれからの時期もっと美味しくなる。

 小鉢のひとつはトマトと黄パプリカのサラダ。ひと口大にカットしたトマトと黄パプリカに、ワインビネガーとオリーブオイル、お塩と黒こしょうで作ったシンプルなドレッシングを掛けた。さっぱりといただける一品だ。

 もうひとつはペンネと玉ねぎの明太クリーム和えだ。塩茹でしたペンネと塩揉みした玉ねぎを、明太クリームで和えてある。

 生クリームはしつこくならない様に、明太子を軽く溶きのばす程度にしてある。玉ねぎの爽やかさがあるので、想像するよりさっぱりといただけるのだ。

 仲間さんは用意されたそれらにさっそくお箸を伸ばし、「はぁ〜」と嬉しそうな息を吐いた。

「みぞれ煮美味しいなぁ〜。あっさりしてるのに優しい〜。私も明日でこんな美味しいの作れる様になれたら良いなぁ〜」

 そう言いながら、仲間さんは「サマーゴッデス」のソーダ割りをぐいとあおった。

 サマーゴッデスは福井県の真名鶴(まなつる)酒造が造る、炭酸割り専用の日本酒である。ほんのりとした甘味とフルーティで爽やかな酸味が感じられる。炭酸で割っても水っぽくならない製法を用い、完成した一品だ。
 翌日の日曜日、佳鳴(かなる)千隼(ちはや)が仕入れを終え、煮物屋さんに戻って来たのが15時少し前。

 豊南(ほうなん)市場は日曜日と祝日が定休日なので、その日の仕入れは地元のサンディ豊中曽根店でしている。店側にも事情を説明していて、お肉や野菜の大量買を融通してもらっているのである。

 15時をほんの少し過ぎたころ、店のドアが開かれた。

「店長、ハヤさんこんにちは。今日は本当によろしくね」

 仲間(なかま)さんだ。少し照れ臭そうに中に入って来た。

「こちらこそよろしくお願いします」

「お願いしますね。エプロンは持って来てもらえましたか?」

 千隼の問いに、仲間さんは「うん!」と元気に応え、手にしていたナイロンの袋からがさごそと、スモーキーピンクの大振りな花柄のエプロンを取り出し、ばさっと広げた。

「持ってへんかったから、さっきダイエーで買うて来た」

「えっ、わざわざ。それは申し訳無いことをしました」

 千隼が焦って言うと、仲間さんが「いやいや」と笑って首を振る。

「考えてみたら、普段から料理をする人間の家にエプロンが無いのがおかしいんよね。今はエプロンしない人も多いみたいやけど、ほら、エプロン姿って言うのも、彼氏へのええアピールポイントになるやろか、なんて思って」

 仲間さんはそう言って「へへ」と笑い、エプロンを着ける。仲間さんは目鼻立ちがはっきりしたお顔立ちの女性なので、その華やかなエプロンがとても良く似合った。

「じゃあ始めましょうか。野菜など切っていただくのは大丈夫ですか?」

「もちろん。そこは即戦力になれると思う」

「では、僕が作る煮物を手伝っていただきますね。横で姉が小鉢と汁物を作るので、それもご覧いただけるかなと思います」

「うん。楽しみ」

 千隼は買い出ししてきたばかりの食材を台に出して行く。

「まずはかぶの下ごしらえです。僕が洗うので、切って行ってください。葉も使うので、落としたらとりあえずこのバットに入れておいてください」

「オッケー。かぶに(くき)は残す?」

「いえ、完全に落としてしもてください。もし砂が残ってしもたらあかんので。で、かぶは皮を()いたら縦に4等分にしてください」

「かぶって、皮は厚めに剥くんやんね?」

「はい。薄く剥くと繊維が残って舌触りが悪くなってしまうんで。繊維を落とす様に剥いてください」

「分かった」

 千隼がかぶを洗い、まな板に上げて行く。それを仲間さんが下ごしらえして行った。見るとなかなかの手際の良さである。

 かぶもそろそろ時期だ。青々とした葉が目に眩しい。身にはたっぷりと甘さを蓄えている。

「仲間さん、すごいですね」

「ふふん。味付けは微妙でも、切ったり剥いたりは人並みにできるんやで〜」

 そう得意げに言い、手を動かして行く。洗い終わった千隼もかぶ剥きに加わった。

 次は落としておいたかぶの葉だ。残った身を落として、根元に残っている砂をしっかりと洗い落としたらざくざくと切っておく。

 次は人参だ。へたを落としてピーラーで皮を剥いて乱切りに。

 椎茸は小振りなものなので、石づきを落とすだけでちょうど良い。

 お揚げは湯を沸かした鍋にさっと入れて、余分な油を抜いておく。

「さ、ここから調理です」

 土鍋を出してかぶ、人参を入れてお出汁を張り、火に掛ける。ふつふつと沸いて来たらお揚げを加え、再び沸いて来たら椎茸を入れ、落としぶたをする。そのままくつくつと煮込んで行く。

「かぶって実は火通りが早いんよね?」

「そうなんです。根菜なんですけど、大根とかじゃがいもなんかと(ちご)うて、早いんですよね。それに形も崩れやすいんで、あまり触らずに手早く煮て行くんですね」

「なんか意外やよね〜。あ、私無駄に知識だけはあるんよね〜」

 そうして5分も煮たら、落としぶたを上げて味付けだ。まずは甘み。砂糖、そして日本酒。

 千隼が軽量スプーンで砂糖を、軽量カップで酒を計ると。

「えっ?」

 仲間さんが驚いた様な声を上げた。

「え?」

 千隼も驚いて顔を上げる。

「え、調味料計ってるん?」

「はい、計りますよ。お客さまには安定した味をご提供したいので」

「そうなん?」

「そうですよ。あ、仲間さんもしかして」

 これはもしや。

「調味料とか計らず、目分量で入れていましたか?」

「うん。だって母もそうしてたし。料理本見たら分量書いてあるから、そんな感じにはなる様に入れてるけど」

「仲間さん」

 千隼はぐっと唇を引き結ぶ。仲間さんはその様子にただならぬものを感じたか、緊張を帯びた表情になった。

「それです」

「それ、とは」

「微妙な味付けになってしまう、そう仰っていた原因です」

「そうなん!?」

「そうです」

 声を上げる仲間さんに、千隼は力強く頷いた。

「えええ? じゃあなんで母の料理は目分量やのに美味しかったん?」

「それは長年の経験です。お母さまも、お料理を始められたころにはきちんと計っておられたと思いますよ。そうしていると、大さじ1はこれぐらいだとか、おおよその量が把握(はあく)出来る様になって来ます。そうしたら目分量で作れる様になるんです。ほとんどの方はそうです。いきなり目分量で作る方は少ないと思います。僕も今でこそお店意外では目分量で作りますが、料理し始めは全部計ってました」

「そうなんや、そうなんやぁ……そんな初歩的なことやったんやぁ……」

 仲間さんは力が抜けた様に、台に両手を付いてうな垂れた。

「ああ〜……でも原因が解ったから、私でも美味しいご飯作れるやろか」

「はい。大丈夫です。今作っている煮物と、姉が作っている小鉢のレシピをお渡ししますから、お家で調味料の分量を計って作ってみてください。軽量スプーンとカップはお持ちですか?」

「ううん、持って無い」

「ではぜひ買ってください。100均でもありますから。ダイエーにキャン・ドゥ入ってますよね。それかシルクのワッツか。今は便利なものも出ているんですよ。1カップと大さじ1が両方計れるものとか。ご自分で使いやすそうなものを見てみてください。粉を計るのはスプーン状のが良いかも知れないですね。ご一緒にキッチンタイマーも揃えられたら良いと思いますよ。これも100均にありますから」

「じゃあこれ終わったらさっそく行ってみる。そっかぁ、それで解決できるんなら助かるわ。実はさ、彼氏の妹さんと3人で食べたって話、昨日したと思うんやけど」

「はい」

「もうすぐお母さまの誕生日なんやって。で、妹さんがお母さまに料理を作ってサプライズしたいんやってさ。彼氏が妹さんに「俺の彼女料理巧いで」って言うてもて、じゃあ教えて欲しいって話になってもてさ。妹さんも美味しい美味しいって嬉しそうに食べて、これならお母さんも喜んでくれるねなんて言われちゃ、実は私味付け微妙なんて言えへんで。嘘吐いたことを知られるもの嫌だったけど、妹さんが本当に嬉しそうだったから」

 仲間さんが苦笑しながら言うと、小鉢を作っていた佳鳴が「ふふ」と笑みをこぼす。

「ええや無いですか。一緒に計量しながらお作りになられたら良いですよ。実際計量することは大事なんですから。まだ実は私もそんな慣れて無いねんなんて言いながら作ったらええんですよ。きっと楽しいと思いますよ」

 すると仲間さんは、安心した様に表情を綻ばせた。

「そうやろか」

「はい」

 千隼も笑って言うと、仲間さんは「そうかぁ〜」と嬉しそうに笑みを浮かべた。



 作り終えると、仲間さんは「家に帰ってさっそく作ってみたいから!」と、「これお礼!」とアルチザンの焼き菓子詰め合わせを置いて、レシピとエプロンをバッグに大事にしまって、飛び出す様に帰って言った。

 お菓子のアトリエアルチザンは曽根を本店に、豊中市内に数店店舗を持つ洋菓子店だ。佳鳴と千隼が産まれる前から展開していて、地元で親しまれているお店である。

 佳鳴と千隼が誕生日の時などのケーキもアルチザンで用意してもらうことが多かった。幼いころから慣れ親しんだ味なのである。

 講習代の様なものも支払うと言われたのだが、むしろこちらは下ごしらえを手伝っていただいたこともあるし、そもそも最初から受け取る気は無い。佳鳴が言うと仲間さんは空気を読んですぐに引き下がってくれた。

 仲間さんを見送って、佳鳴と千隼は夕飯だ。今日のメインはかぶと人参とお揚げの煮物、小鉢はピーマンのじゃこ炒めと、豚しゃぶとホワイトアスパラガスのサラダだ。

 煮物のかぶは丁寧に繊維を落としているので、とろっと舌の上でとろける様だ。人参もほっくりと仕上がっている。

 お揚げから出る程よい油と旨味がかぶと人参に絡み、優しくも味わいのある味にできあがった。かぶの葉も入れてあるので彩りも綺麗だ。

 ピーマンのじゃこ炒めは千切りピーマンとおじゃこをごま油で炒める。おじゃこに塩分があるので、味付けはピーマンを炒めている時に少しお塩をする程度。

 お醤油も香り付け程度で、器に盛ったら白ごまを振っている。

 ほのかな苦味のあるピーマンとおじゃこが絶妙に合い、白ごまの香ばしさが合わさって、また深い味わいを生むのだ。

 ピーマンもそろそろ旬が過ぎる野菜だ。張りのある肉厚なピーマンをぜひ食べ納めていただきたい。

 豚しゃぶとホワイトアスパラガスのサラダ、ホワイトアスパラは缶詰を使う。

 佳鳴と千隼のお気に入りはクレードルという北海道札幌市のブランドだ。北海道産の旬のアスパラガスを缶詰にしているので、風味も豊かで甘みが強くて美味しいのである。

 お湯で豚肉を茹でる時は、弱火に掛けて静かなところに入れて、ゆっくりと火を通す。ぐらぐらと沸騰したお湯に入れると豚肉は固くなってしまうのだ。

 冷ましてからひと口大に切り、適当な長さに切ったホワイトアスパラガスと合わせて、器に盛り付けてからヨーグルトソースをとろりと掛けた。さっぱりといただける一品だ。

「仲間さん、巧く行くとええなぁ。うん、かぶがとろっとして美味しい」

「そうやな。お、豚しゃぶ旨い。ヨーグルトソースが合うな。しかし姉ちゃん、またレシピ教えちゃってさぁ」

「出し惜しみする様なものや無いやろ?」

「確かにそうやけどさぁ。ま、仲間さん喜んでくれたしな」

「うん。それが1番やで」

 ふたりはただ、こうなったら成功を祈るのみである。
 翌週の終わり頃、また仲間(なかま)さんはやって来た。今回はお客さまとしてだ。

「この前はほんまにありがとうね」

「いえ、とんでもありません。作ってみましたか?」

 聞くと、仲間さんは少し興奮気味に口を開く。

「うん! 計量カップとスプーンとタイマー、キャン・ドゥで買うてね。レシピ通りにちゃんと計って、時間も測って作ったら、ちゃんと美味しいのができた。感動してしもた。ほんまに計量の大切さをしみじみと思い知ったで〜」

「それは良かったです」

 佳鳴(かなる)が言って微笑むと、仲間さんは「ふふ」と笑みを浮かべた後、小さく溜め息を吐く。

「でね、彼氏の妹さんに教えるの、今週末に決まってん。明日やね。ちゃんとできるか不安やで」

「大丈夫ですよ。でもそうですね、それまでに何回か作って、もっと慣れておくと良いかも知れませんね。あ、でも明日ですか」

「やっぱりそうやんね。だから平日しんどいけど、できるだけ作る様にしとった。今日はちょっと休憩。さすがに疲れたわ〜」

「さすがです。何を作るんですか?」

「妹さんのリクエストは煮込みハンバーグやねん。持ってる本の中に美味しそうなレシピがあったから、それにしようと思って。ソースはデミグラス缶とトマト缶をアレンジするから、これやったら私でも作れるかなって」

「作ってみたんですか?」

「うん、聞いた日にさっそくね。玉ねぎのみじん切りなんかは元から出来るから、そこはどうにかなったし、味付けはちゃんと計って作ったから、ちゃんと美味しくできた。ほっとしたわ」

 仲間さんは言って、またほぅと息を吐いた。

「ほんまに良かったです。慣れたらアレンジも出来ると思いますよ。ハンバーグの中にチーズを入れたり、ソースにきのこやグリンピースなんかを入れたり」

 佳鳴のせりふに、仲間さんはごくりと喉を鳴らす。

「それ絶対に美味しい! 野菜もたくさん摂れるし。ううん、でも明日は変な冒険はせえへん。失敗してまう方が怖いもんな。野菜はサラダとか食べてもらおう」

「そうですね。明日はそれが良いかも知れませんね」

「巧く出来たらええな。あ、注文良いかな。お酒で」

「はい、かしこまりました」

 今日のメインは治部煮だ。鶏肉とたっぷりの根菜ときのこを使ってある。彩りは塩茹でした小松菜で添える。

 鶏肉に小麦粉をはたいて煮込んでいるので、煮汁にほのかなとろみが付き、それがお野菜にたっぷりと絡むのだ。お出汁を効かせた優しい味である。

 小鉢はふろふき大根とコールスローだ。

 ふろふき大根はお米の研ぎ汁で下茹でした輪切り大根を、お出汁でじっくりと炊いたので、中まで豊かな味が沁みている。それに辛さ控えめのからし味噌が良く合うのだ。

 コールスローの和え衣は、マヨネーズにレモン汁を混ぜて、さっぱりとなる様にしてある。太め千切りのきゃべつを塩揉みして水分を絞ったら、短冊切りのハムと合わせて和え衣と混ぜ、器に盛ったら黒こしょうを掛けた。

 きゃべつは冬きゃべつがそろそろ出回る。切るとじわりと水分が出て来て、なんともみずみずしい。

「ねぇ店長さん、ここのご飯って味とかのバランスもええっていつも思ってるんやけど、そういうのも慣れたらできる様になるやろか」

「ええ。こういうのも慣れですから」

「そっか、頑張ろ。ん、この煮汁、とろっとしてて野菜とかにしっかりと絡みついてくる。美味しいな〜。ふろふき大根も辛さ控えめで優しいなぁ。コールスローもちょっとした酸味がええよね。こういうんもバランスやんね。しかもどれも美味しいんやもんなぁ〜」

「ありがとうございます」

 仲間さんは全ての皿をひと口ずつ食べ、満足げにサマーゴッデスのソーダ割りを傾けた。



 さて翌週。月曜日は定休日なので、火曜日。煮物屋さんが開店してぼちぼちと席が埋まり始めたころ。仲間さんが元気な姿を現した。

「店長、ハヤさん、巧くできた!」

 ドアを開けるなりそう言って、コートを脱ぐのもそこそこに、空いている席に慌ただしく掛ける。そして「お酒でね」と注文をする。

「いらっしゃいませ。彼氏さんの妹さんへのお料理ですか?」

 佳鳴がおしぼりを渡しながら言うと、仲間さんは「そうそう」と嬉しそうに頷く。

「その日のお昼にも作ってみてん。晩ご飯と続いてまうけど、不安になってもて。連続して作ったからやろか、リラックスして作れたって言うかね。ふふ、妹さんとちゃんと計りながら楽しく作れたで。で、美味しくできた!」

「ほんまに良かったです。じゃあ彼氏さんの妹さん、喜ばはったでしょう」

「うん。でね、ちゃんと妹さんにも「計量は大事」って言っておいた。ハヤさんの受け売りやけど、私も今回のことでしみじみと思い知ったからね〜」

「そうですね。慣れるまではそれが良いと思いますよ」

 千隼(ちはや)が言うと、仲間さんは「うん。でね」とまた頷く。

「目標は計量無しで、目分量で作れる様になること!」

 そう言ってぐっと拳を握った。

「ならもっと料理をしないとですね」

「うん。平日はやっぱり凝ったん難しいけど、休みの日とか頑張ってみるわ。彼氏も食べに来るしな。結婚もしたいし。ちゃんと自分の手で胃袋(つか)むねん! あ、日本酒のソーダ割りお願いね」

「はい、かしこまりました」

 そうして整えた料理を出して行くと、仲間さんが「あ」と少しばかり驚いた様な声を上げた。

「煮込みハンバーグ!」

 勢い込んで飛び込んで来られたからか、表のおしながきをご覧になっていなかった様だ。

「はい。仲間さんのお話を聞いていたら作りたくなってしまって。仲間さんにはハンバーグが続いてしまいましたね。すいません」

 千隼が言うと、仲間さんは「ううん」と首を振る。

「ソースも私が作ったのと色が少し違うし、きのことグリンピース入ってる。これ、マッシュルームとしめじとエリンギ? 美味しそう! じゃあもしかして中にチーズ入ってる? ろくにメニューも見ずに入ったからびっくりしてしもた。じゃあお酒、ワインとかにすれば良かった。後で頼もう」

「はい。チーズ入れちゃいました」

「やったぁ! チーズハンバーグ美味しいやんね! ソースはこの色ってことはデミグラスソース?」

「はい。家庭でも作れる様に改良したレシピで。さすがに洋食屋では無いので、いちから作ることは難しすぎて」

「いただきます!」

 仲間さんはまずサマーゴッデスのソーダ割りをぐいと半分ぐらい飲んでしまうと、いそいそとお(はし)を取る。

 豪快に真ん中から割ると、透明な肉汁がじゅわりと、そして溶けた黄金色のチーズがとろりと流れ出て来た。仲間さんは「ああん」と嬉しそうな声を上げる。

「これこれ! 私でも作れる様になるやろか」

「ハンバーグが美味しく作れるんですから大丈夫ですよ。今度試してみてください」

「うん」

 そうしてチーズとソースをたっぷりと絡めて口に放り込む。そして「んん〜」と満足げな声を上げた。

「美味しい……やだもうほんまに美味しい……すごい美味しい……チーズがとろっとろでお肉がふわっふわで」

 そう言ってうっとりと目を細めた。

 メインにボリュームがあるので、今日の小鉢はひとつ。カリフラワととうもろこしのピクルスだ。玉ねぎも使ってあるので、デミグラスソースをさっぱりとさせてくれる。

 とうもろこしは缶のものを使った。夏の旬の生もとても美味しいが、缶のとうもろこしも捨て難い旨味が詰まっている。

 サマーゴッデスのソーダ割りを挟みつつそのピクルスを口に入れ、「これお酒にも合うね」と言って、残りのソーダ割りを飲み干してしまった仲間さん。さすがのハイペースだ。

「次赤ワインで。ちょっとこれはゆっくりと楽しみたいなぁ」

「かしこまりました」

 そうして仲間さんはワイングラスに用意した赤ワイン「イエローテイル」のピノ・ノワールをゆったりと口に含み、はぁ〜と満足そうに息を吐いた。

 イエローテイルはオーストラリア産の赤ワインである。様々なぶどう品種の展開があるが、このピノ・ノワールはベリーの様な酸味が感じられ、やわらかに旨味が広がる赤ワインである。

「あとは、彼氏と妹さんのお母さまが喜んでくれたらええなぁ」

「大丈夫ですよ。まずは娘さんの手作り料理ですもの」

「そうやね。味はもちろんやけど、そういうのええよね。本当にええ子なんよねぇ、妹さん。私、将来良いお義姉(ねえ)ちゃんになれるやろか、なりたいな〜」

 仲間さんはまたちびりとワイングラスを傾けて、幸せな未来にふうわりと思いを()せた。
 冬の気配もすっかり濃くなり始め、息もそろそろ白くなるだろうか。朝ベッドから出るのが嫌になるだろうかというころ。

 煮物屋さんの常連さんで、毎週日曜日の遅めの時間に来るお客さまがいる。いつもはつらつとしていて、大きな声で笑う、とても気持ちの良い女性だ。

 今日は日曜日。そろそろ21時になるだろうか。佳鳴(かなる)は厨房に置いてある小さな置き時計に目を走らす。

 そのタイミングで、煮物屋さんのドアが開かれた。

「こんばんは!」

 鼻を赤くして元気な挨拶とともに入って来たのは、先述の女性の常連さん、高橋(たかはし)さんだ。

「こんばんは、いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませー」

 高橋さんはせかせかとコートを脱いで椅子に掛け、千隼(ちはや)からおしぼりを受け取った。

「あ〜お腹ぺっこぺこやぁ。ハヤさん、まずはハイボールください! お米とお味噌汁はいつも通り締めにいただきますね」

「はい。かしこまりました」

 この高橋さん、とても良く召し上がるお客さまで、まずはお酒を飲みながら料理を食べ、その後に白米と味噌汁を召し上がられるのだ。

 カナディアンクラブという銘柄のカナディアンウイスキーでハイボールを作ってお渡しし、続けて料理を整える。今日のメインは豚肉と長芋の煮物。彩りはほうれん草だ。

 豚肉はロースの塊肉を買うことができたので、贅沢に厚めに切り、軽くお塩を振ってフライパンで香ばしく焼き付ける。

 長芋は半月切りにし、こちらも厚めに切ってある。火を通すとほくほくになる長芋のお陰で煮汁にほのかにとろみが付き、豚肉に良く絡む。味沁みも良く、柔らかな旨味が口に広がる。

 小鉢はタラモサラダと青ねぎたっぷりの卵焼きだ。

 タラモサラダは明太子を使った。マヨネーズは控えめに、明太子のぷちぷちとふくよかな辛みを活かす。

 荒く潰したじゃがいもに和えるので、和え衣は少し強い味でも大丈夫なのだ。隠し味に、じゃがいもが熱いうちにバターを落としている。

 少しぴりっとしつつもしっかりとした甘さと旨味が感じられる一品だ。

 青ねぎの卵焼きにはお出汁を加えてあるので、青ねぎの爽やかなアクセントがありながらも優しい味わいである。

「あ〜っ、ハイボールが沁みるぅ。この煮物、白いのが長芋ですよね?」

「そうですよ」

「長芋のこんな食べ方、私初めてです!」

 高橋さんはさっそく長芋をお(はし)で割り、口に入れる。そして「へぇ〜」と目を丸めた。

「ほっくほくやぁ。あ、でもそっか、串かつの長芋もほくほくですもんね。長芋って火を通すとこうなるんですよね。美味しいです! 豚肉も美味しいです!」

「ありがとうございます」

「タラモサラダとか卵焼きとか、こういうのも作るんって地味に面倒やったりしますもんね。だから嬉しいです! ここで食べたら確実に美味しいの判ってますから!」

「ふふ、ありがとうございます」

 高橋さんの称賛に、佳鳴は笑みをこぼす。こんなことを言ってもらえて、嬉しく無い訳が無い。

「あ、高橋さん、お預かりしていたフライヤー、終わりましたよ」

「ほんまですか!? ありがとうございます!」

 千隼のせりふに、高橋さんはぱぁっと満面の笑みを浮かべた。

「ほんまに助かりました! そう数を刷った訳や無いので、ノルマも多くは無かったんですけど、実際問題、いつもどこに配ったらええんやって話で。会社で配っても限度がありましたから」

 高橋さんが心底ほっとした様に笑みを浮かべると、少し離れた席から声が上がった。常連の男性、赤森(あかもり)さんだ。

「高橋さん、俺もフライヤーもらったで。絶対に観に行くからな!」

「わぁ赤森さん、ありがとうございます!」

 赤森さんの活きの良いせりふに、高橋さんは笑顔を投げた。

 この煮物屋さんで、高橋さんが所属する小劇団の公演のフライヤーを預かっていたのだ。それを会計の時にお客さまに手渡ししていた。

 ハガキサイズなので店内で場所を取ることも無く、お客さまも受け取りやすかった様だ。

 劇団員のおひとりがデザイナーで、その方が制作を手掛けたのだと言う。確かに素人臭さのまるで無い、格好良いフライヤーだった。

「もう来週なんですねぇ。練習はどうですか?」

 佳鳴が聞くと、高橋さんは「順調です!」と元気に応える。

「まだまだ(つたな)いって解ってはいるんですけど、皆一生懸命です。少しでもええもんを観てもらうんやって。お話そのものは著作権の切れた名作の現代版アレンジですから、オリジナル脚本よりは馴染んでいただけるかなって思うんですけど」

「そうですね。取っ掛かりがあれば、ご覧いただきやすいでしょうしね」

「それはそれで、ご覧いただく方との解釈違いとかもあるかと思うんですけど、そこは違いを楽しんでいただきたいです」

「奥が深いんですねぇ」

 高橋さんは舞台女優さんなのだ。ご本人は「そんな大げさなものじゃ無いですよ」と謙遜(けんそん)されるが、1度舞台に立てば、そしてそれを継続されているのなら、もう立派な女優さんだと佳鳴たちは思っている。

 高橋さんいわく、これは「クラブ活動」の延長の様なものなのだと言う。毎週日曜日の夜の2時間ほど、梅田のスタジオを借りてストレッチや発声練習をしているのだ。

 そして本番は1年に1度。発表会の様な感覚らしい。舞台と客席の境があまり無い様な小さな劇場をレンタルする。

 お客さまからいくばくかの入場料をいただくが、それは全て経費に消える。

 気楽に活動をしてはいるが、決してふざけていたり手抜きをしている訳では無い。皆さん、楽しみながら真剣なのだ。それは高橋さんの話からも伝わって来る。

 年に1回の本番前、その週だけは毎日練習をするのだと言う。

「来週は毎日練習です。せりふを覚えたりは個人で家でも出来ますけど、合わせるのはそうも行かへんですからね。本番まで少しでもええもんにしたいですから」

「私たちも拝見したいんですけど、お店がありますからねぇ」

 公演日は来週末の日曜の晩、1回公演である。

「思い切って休みにしてまえば? あ、高橋さん、私たちも観に行くからねー」

 門又(かどまた)さんが言い、(さかき)さんと並んで高橋さんに手を振った。

「ありがとうございます!」

 高橋さんは門又さんたちにがばっと頭を下げる。

「そうですねぇ」

 佳鳴はふわりと笑う。

「ふふ、そんなことを言われたら揺らいじゃいますねぇ。前の時も拝見出来ませんでしたからねぇ」

 高橋さんがこの煮物屋さんの常連になってから、今回が2回目の公演なのだ。前回の時もフライヤーをお預かりした。

 まだ煮物屋さんに来始めたころの高橋さんが、フライヤーの束を手に大きな溜め息を吐かれていたものだから、佳鳴がつい声を掛けてしまったのだ。

 するとフライヤーの配り先に困っていると言うので、煮物屋さんでお預かりすることにしたのだった。

「でも店長さぁん、まだ1週間もあるからぁ、今からやったらお休みするって言っても大丈夫や無ぁい?」

 榊さんの言葉に佳鳴は「そうですねぇ……」と(うな)ってしまう。

 高橋さんの公演を見たいのは本心なのである。劇団のことを話す高橋さんは本当に楽しそうできらきらしていて、そんなにも打ち込めるものがあるのが羨ましい、そして素晴らしいと、微笑ましく思っているのだ。

 そんな佳鳴の気持ちを千隼も知っているので、千隼は「たまにはええんや無いか? 姉ちゃん」と軽く声を掛ける。

「ここ始めてから月曜以外の休みって無かったやん。今からチラシとか貼って周知したら大丈夫やって。たまには2連休しようや」

 千隼にも言われ、佳鳴は心を決めた。

「じゃあそうさせていただこうかな。申し訳ありません皆さま、来週末の日曜日はお休みをいただきますね」

 佳鳴が言ってカウンタの向こうに頭を下げると、お客さま方は「はーい」「楽しんで来てね〜」と暖かい言葉を掛けてくださった。

「店長さんとハヤさんにも来ていただけるなんて、本当に嬉しいです! がんばりますね!」

 高橋さんは本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、佳鳴と千隼も笑顔を返した。
 翌週末の日曜日、煮物屋さんを休みにした佳鳴(かなる)千隼(ちはや)は、阪急電車宝塚線と大阪メトロ御堂筋線を乗り継ぎ、なんばに出て来ていた。高橋さんの小劇団の公演がある小劇場のある街だ。

 正確には小劇場は日本橋にあるので、最寄り駅は大阪メトロ堺筋線の恵美須町駅である。だが堺筋線に乗るには梅田からだと2回の乗り換えが必要なのである。ならなんばから歩いた方が面倒が少ないのだ。

 まず改札すぐ近くのなんばなんなんに入り、花屋に立ち寄る。高橋さんにお祝いの品を用意するのだ。あまり大きいと荷物になるので、気持ちだけになってしまうが、小さなブーケを(あつら)えてもらう。

 赤と黄色のスプレーマムをメインに、緑色のかすみ草をあしらったブーケ。持ちやすい様にナイロン袋に入れてもらった。

 そうして地下のまま大阪高島屋の前を通り、ブティックなどがひしめくなんばシティを通り抜け、南館から外に出た。ふたりともコートを着込み、マフラーをしっかりと巻いている。はぁと息を吐けば、ふわりと白いものが見えそうになる。

 そんな気候でありながらも、休日なのでかなりの人出だ。外国人観光客も多い。

 この日本橋界隈にはオタロードがあり、おたくショップが所狭しとひしめき合っている。東京で言うところの秋葉原だ。規模はずっと小さいが。

 一昔前は電気街と呼ばれ、電化製品や電子部品を置く店舗が所狭しと並んでいた。大阪で安く家電を買うなら日本橋と言われていたのだ。だが今は電気屋さんの半分以上がおたくショップに取って代わられた。

 今ではコスプレイベントなども行われる、立派なおたくの街になった。今の若い子などは電気街だったころの日本橋を知らないのでは無いだろうか。

 佳鳴たちでさえそのころの日本橋はほとんど記憶に無かった。北摂地域で育ったこともあり、梅田から南に行くことはあまり無かったことも影響しているのだろう。

 佳鳴たちは劇場に行く前に軽く腹ごしらえをしておこうと、中華料理店「一芳亭(いっぽうてい)」に入る。公演は17時なのだ。

 歴史を感じさせる内装だ。店内は明るく、いわゆる街中華店の様な趣きである。

 佳鳴たちは店員さんにしゅうまい2人前と春巻きを注文し、おしぼりを広げてほっとひと心地吐いた。この一芳亭は特にしゅうまいが評判なのである。

 やがてお料理が運ばれて来た。最近来れていなかったので久々の味だ。

 このお店のしゅうまい並びに春巻の皮は卵で作られている。そのため加わる旨味が強いのだ。しゅうまいはふわふわで優しい味で、からし醤油を少し付けていただくと格別だ。春巻も具沢山で食べ応えがあった。味は言わずもがなだ。

 そしてこうなるとビールは外せない。ふたりは瓶ビールを1本注文していた。観劇を控えているが、ふたりで中瓶1本ぐらい、なんてこと無いのである。

「あ〜、優しい味〜」

「ほんま旨いわ。たまらん」

 佳鳴と千隼はそれらの逸品を、うっとりしながら大いに堪能(たんのう)した。



 食器もグラスも空になるころ、腕時計を見ると、そろそろ良い時間になろうとしていた。

 佳鳴たちは一芳亭を出て、小劇場に向かう。

「楽しみやな。観劇とか久しぶりや」

「そうやね。お店始めてから休みが月曜やから、行けるタイミングそう無かったもんねぇ。こういうのって週末が多いから。私も楽しみやで」

「おう。特に知ってる人が出てるって言うんもな。高橋さんは主役や無いけど、重要な役どころやねんな」

「そうそう。ミステリーやろ、それで重要な役回りって、犯人とかワトソンとか」

「だったらすごいやんな」

 佳鳴と千隼は堺筋方面へと歩き、おたロードに差し掛かる。左右にはアニメやゲームのフィギュアにグッズが売られている店舗が続く。普段あまり味わうことの無い独特な雰囲気を感じながら、通りを行った。

 この界隈にはメイドカフェも多く、この寒空の下、ミニスカートタイプのメイド服を着たメイドさんたちがお客さまを案内している。ニーハイのお嬢さんばかりなのは、やはり季節柄なのだろう。

 そして到着する。ポルックスシアターという小劇場である。1階部分が小劇場になっている、2階建ての建物だ。普段は演劇の他、漫才やアイドルライブなども行われている様だ。

 佳鳴たちは高橋さんから直接買ったチケットを出しながら、劇場の出入り口に向かう。16時をとうに回り、すでに入場は始まっていたので、チケットをもぎってもらい、パンフレット代わりのちらしを受け取って中へ。

 コンパクトながらもエントランスーがあり、さっと見渡してみると、常連さんの姿を見つけた。門又(かどまた)さんと(さかき)さん、赤森(あかもり)さんだ。円を囲む様に談笑している。

 そこで赤森さんが佳鳴たちに気付いてくれ、「あ、店長さん、ハヤさん!」と軽く手を上げた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 佳鳴たちはぺこりと挨拶をしながら、赤森さんたちの元へ。赤森さんたちは少し輪を広げて佳鳴たちを迎えてくれた。

「こんちは。今日は楽しみやな」

 そうわくわくした様な表情で言う赤森さん。佳鳴は「はい、ほんまに」と笑顔で頷いた。

「店長さんたちお店あるから、観劇なんて久しぶりなんや無い?」

「そうやんねぇ。と言ってもぉ、私も久々なんやけどねぇ」

 門又さんと榊さんのせりふに、赤森さんは「うんうん」と頷く。

「店長さんたちで無くても、観劇の機会なんてなかなか無いやんなぁ」

 そんな話をしていると、後ろから「こんにちは」と声が掛かる。振り向くと、こちらも常連の岩永(いわなが)さんがふらりと近付いて来た。

「皆さんお揃いですねぇ」

「岩永さんこんにちは」

「こんにちは」

 佳鳴たちは口々に挨拶を返す。すると岩永さんの後ろで、岩永さんとそう歳の変わらないであろう女性が、佳鳴たちにぺこりと頭を下げた。

「あ、彼女ね、僕の幼なじみの渡部(わたべ)。普段は仕事で大阪離れてるんやけど、出張でこっちに戻って来たから飲もうかって話になってな、じゃあ知り合いが小劇場に出るからその前に一緒にどう? って。渡部、結構観劇してんねん」

「あら、ご趣味なんですか?」

 門又さんが聞くと、渡部さんは「ええまぁ、そんな感じです」と曖昧に、しかしにこやかに応えた。

「ああでも皆さん、そろそろ中に入らんと」

 岩永さんが腕時計を見ながら言う。

「あらぁ、もうそんな時間やのねぇ」

 門又さんと榊さん、そして赤森さん、続いて岩永さんと渡部さん、最後に佳鳴と千隼が中へ。

 入ると、高橋さんから聞いた通り、座席は即席だった。客席フロアの前半分には簡素な椅子が置かれ、後ろ半分にはベンチが並べられている。

 そこからほんの少し高いステージの奥には、黒い布が垂れ下がっていた。間も無く始まるのだから、それが舞台の完成形なのだろう。

 狭い客席だがそこそこ埋まっていて、佳鳴たちは後方の空いているベンチ席に適当に腰を下ろす。門又さんと榊さんなどはぐいぐいと前へと進んで行っていた。

 マフラーとコートを外し、バッグと重ねて膝の上に置く。厚みがあるのでちょうど良い高さの腕置きの様になった。背もたれが無いこともあって地味に楽だ。

 まだ客席も明るいので、あちらこちらから小さな話し声が聞こえる。佳鳴と千隼は並んでちらしに目を走らせ、そのプロ級の出来栄えに「へぇ」と佳鳴が小さく声をもらす。そして数分後、女声のアナウンスが響いた。

「皆さま、本日はお越しくださり誠にありがとうございます。間も無く開演でございます。どうぞごゆっくりとお楽しみください」

 すると客席の照明がふっと落とされ、そう派手では無いライトが舞台を照らす。

 ほんの少しの間を置いて、袖からベージュのグレンチェックのスーツをまとった男性役者がゆったりと舞台の中央へ。男性はゆっくりと口を開くと、高らかに告げた。

「皆さま、今からご覧いただきますのは、名探偵である私が体験し、そして解決した、世にも奇怪な事件の記録でございます!」



 およそ1時間30分の舞台が終わり、客席が再び明るくなったその時、佳鳴と千隼は揃って溜め息を吐いた。

「おもしろかった! 高橋さんご謙遜(けんそん)されてたけど、私はすごく楽しかった!」

 佳鳴が興奮の面持ちで言うと、千隼も「やな」と頷く。

「高橋さんも他の役者さんも良かったと俺も思う。俺らそんな詳しい訳でも目が()えとるわけでも無いから、基準が判らへんけど」

「基準なんてどうでもええよ。見た人がおもしろいと思ったのが1番や」

「そうやな」

 周りがちらほらと立ち上がり、佳鳴たちもゆっくりと腰を上げる。

「高橋さんにお会いできるやろか。ブーケもお渡ししたいし」

「会えんかったらスタッフとか捕まえたらええと思うんやけど」

 すると客席の前の方から、こちらもまた満足げな門又さんと榊さん、にこにこと笑顔の赤森さん、なぜかほっとした様な岩永さんと渡部さんが合流した。

「おもしろかったね。去年より上手になってたと思う」

 門又さんは昨年の公演も観に来ていたのだ。

「そうねぇ〜。来て良かったわぁ。私は去年来られへんかったからぁ」

「ああ。良かったと思うわ」

 赤森さんもそう言って頷いた。

 その時、舞台袖からばらばらと役者たちが舞台衣装のまま姿を現した。佳鳴はその中に高橋さんの姿を見付け、「あ、高橋さん」と呟く。

 そのタイミングで高橋さんも佳鳴たちを見付け、衣装のありさまと打って変わって元気な笑顔で、ちょこちょこと椅子と椅子の間の通路を駆け寄って来た。

「こんばんは! 来てくださってありがとうございます!」

「こちらこそ、本当に楽しませていただきました。すごかったです。まさか被害者役やったなんて」

 佳鳴たちが次々に賞賛を表すと、高橋さんは嬉しそうに、照れた様な笑みを浮かべた。

 被害者役の高橋さんが着ているチュニックには、血痕に見立てた赤いインクが散っていた。途中生きていた時の回想があるので、その時は綺麗なチュニックを着ていたのだが、今はインク付きの服である。解決編で必要だったのだ。

「そう言っていただけて嬉しいです。今の精一杯でがんばりました!」

 高橋さんはにこにこと笑顔だ。手応えがあったのだろう、満足げだ。

 そこで、用意していたブーケを渡す。「あらためて、おめでとうございます」と佳鳴が言うと、高橋さんは「わ、ありがとうございます!」と嬉しそうな表情で受け取ってくれた。

「うわぁ、可愛いブーケですね! 店長さんとハヤさん、センス良いんですねぇ。すごいです!」

 高橋さんはそう言って、ふわりと笑みを浮かべる。

 すると、それまで静かに佳鳴たちの様子を眺めていた渡部さんが、ぐいと前に出て来て、高橋さんに両手を差し出す。その手には名刺があった。

「高橋さん、私、こう言う者です。渡部と申します」

 高橋さんは渡部さんに引っ張られる様に名刺を受け取ると、それに目を落とす。

「芸能事務所の、マネージャー……?」

 大きな目をさらに見開き呟く高橋さんに、渡部さんは言った。

「あなた、芸人か歌手になる気はあれへん?」

 そのせりふに、その場にいた全員が「は?」と間抜けな声を上げた。
 高橋(たかはし)さんが舞台で披露(ひろう)したのは、漫才でもコントでも無い。演劇だ。なのになぜ渡部(わたべ)さんは高橋さんにこの様なスカウトをしたのか。

「芸人か歌手になる気はあれへん?」

 実は、歌は歌っていたのだ。高橋さんが(ふん)した被害者は歌手という設定だったので、回想シーンでその歌声を聞かせたのだった。

 高橋さんは歌が達者で、この配役もそのためだったらしい。

 もともと綺麗な声の人ではあったが、その歌声も見事なもので、音程の正確さや絶妙な抑揚(よくよう)は、佳鳴たち観客を見事に引き込んだ。

 だから、歌手へのスカウトは解らなくも無い。では芸人は?

 渡部さんいわく「間の取り方が絶妙」だったのだと言う。

 確かにお笑いに「間」は重要だ。ボケはもちろんツッコミのタイミングなど、ほんの1秒、それ以下のコンマの「間」で、その面白さは大きく変わって来る。

 もちろんネタそのものの面白さも重要だ。しかしその完成度は「間」によって大きく左右されるのだ。

 大阪人はふたり揃えば漫才が始まる、なんて言われることがある。だが大阪人全員が「おもろい」わけでは無いのだ。辛辣(しんらつ)だが、なかなか日の目を見ない大阪出身の芸人さんが存在することがその証拠だと言える。

 そして何より渡部さんが力説したのはこれだった。

「あなたには華があんねん!」

 確かに高橋さんは可愛らしく華やかなイメージがある。人を()きつけると言うのか。それは確かに表舞台に出るのに重要な要素だろう。

 佳鳴(かなる)千隼(ちはや)もその場にいたので、話は一部始終聞いていた。なので呆然とした高橋さんが、呟く様に「少し……考えさせてください……」と返事をしたことも知っている。

 そしてその高橋さんは今、佳鳴と千隼の真ん前、煮物屋さんのカウンタで、お馴染みカナディアンクラブのハイボール片手に突っ伏していた。

「日曜の晩から火曜の今日までずっと考え通しですよぉ〜。そもそも私、芝居をしてたはずやのに、なんで歌かお笑いなんでしょうかぁ〜……」

 いつも元気な高橋さんがすっかりと弱ってしまっている。テーブルが高橋さん自身で埋まってしまっていて、佳鳴たちは料理を提供するタイミングを掴めず、今整えている料理も、他のお客さまの分だ。

 今日のメインは豚肉と玉こんにゃくの味噌煮込みだ。ごま油で炒めたちんげん菜で彩りを添えている。

 お塩と日本酒で下味を付けた豚肉をごま油で炒め、玉こんにゃくを加えてさっと炒めてお出汁を張り、味付けはお味噌とお砂糖、日本酒、少しのお醤油に、風味漬けのたまり醤油。

 お味噌をしっかり効かせながらも、お出汁の風味もしっかりとあり優しい味に仕上がっている。

 小鉢はきのこの黒こしょう炒めと、カリフラワのからしマヨネーズ和えだ。

 秋に美味しいきのこは、今では1年中いただける。旬としてはそろそろ終わりだろうか。

 きのこは椎茸としめじとえりんぎ。オリーブオイルでソテーして、塩と、粒の黒こしょうを強めに効かせてある。

 オイルを程よく吸ってとろっとしたきのこの癖と、ぴりっとした黒こしょうがとても合う一品だ。

 今時が旬のカリフラワのからしマヨネーズ和えは、文字通り塩茹でしたカリフラワをからしマヨネーズで和えたシンプルなものだ。

 こちらはからしを控えめにして、辛さを和らげてある。だが軽くまとうぐらいにしてあるので、カリフラワの甘さが引き立つ味わいだ。

 汁物は麩と三つ葉のすまし汁だ。

「お待たせしました」

 そう言って料理をお渡ししたお客さまは赤森(あかもり)さん。どうやら高橋さんのことが気になっていた様で、高橋さんが来ているかどうか判らないのに訪れた様だった。

 現に先に来店していた高橋さんを見た途端に、「決めたんか?」とお声を掛けていた。

 そうして伏せたままの高橋さんに続けて口を開く。

「そりゃあ悩むわな。俺としちゃ、高橋さんをテレビなんかで見るってのもおもろいかなって思うけど、そんな簡単なもんや無いやんなぁ」

 赤森さんは大口を開けて白米を放り込む。赤森さんは下戸なので、いつも定食なのだ。

「親御さんにご相談とかされたんですか?」

 千隼が聞くと、高橋さんは「いいえ〜」と(うなる)る様な声を上げた。

「私の気持ちとは関係無く、まず反対されると思いますから。相談も何も無いんですよ」

 そう言いながら、高橋さんはゆっくりと頭を上げる。そして千隼に「うだうだすいません。お料理お願いします」と注文した。

「親は、私が本格的に芝居をするのは反対なんです。芸能界デビューなんて以ての外だと思います」

「あら、確か親御さんも応援しているってお話、以前されてませんでした?」

 佳鳴はそう記憶している。高橋さんが小劇団に所属されていると聞いた時に、確かそんな話も出たと思う。

「はい。それはあの劇団が、本格的や無いからです。ええと、本格的や無いって言うんは、プロとかそういうのを目指してへんって言う意味で。練習も週に1度ですし、日曜の晩なので来れへん人もいますし。公演も年に1度ですしね。会社で働いとって、習い事の範疇(はんちゅう)やから応援してくれるんです。最初、親に「劇団に入った」って言ったら早とちりされてしもうて、「女優になるなんて、そんな食って行けるかどうか判らん仕事なんて許さん」って怒鳴られました。保守的って言うのもあるとは思うんですけど、私の心配をしてくれてるんやと思います」

「ああ。確かに女優さんでも芸人さんでも、それだけで生活出来るって言うのは一握りだって聞きますからねぇ」

 アルバイトをしながら舞台に立たれている芸能人も大勢いるのだと聞く。佳鳴と千隼は整えた料理を順に高橋さんにお渡しする。高橋さんは「ありがとうございます」と受け取った。

「だから相談にはならないと思います。まだ全然考えがまとまらへんのですけど、もし渡部さんのお話を受けるとしたら、親とのバトルは避けられないと思います。ん、カリフラワとからしマヨってすごく合うんですね。美味しいです!」

「ありがとうございます。ですがそれは難しいですねぇ……」

 佳鳴は高橋さんを案じる。中には親との確執(かくしつ)を生んでも芸能人になりたいと言う人も存在すると思うが、高橋さんはそうでは無さそうだ。それに話を聞いていると、親御さんは関係無く、悩んでいる様子である。

「そもそも女優や無く、歌手か芸人ですからね。スカウトされること事態はすごいことなんやと思うんですけど。まさか私にそんな可能性があるんやろかって」

 高橋さんは言うと、次には苦笑を浮かべる。

「芸能界って言うきらびやかな世界に、憧れが無い訳じゃ無いんです、実は。だから悩んでしもうて」

 その気持ちは解らないでは無い。今高橋さんの前には、芸能界への道が開かれている。

 その前途(ぜんと)が洋々なのかそうで無いかは、入ってみないと判らない。だからこそ、慎重にならなければならない。そんなことは高橋さんだって解っているだろう。しかし。

 高橋さんは難しい顔をしながらきのこを頬張り、しかしぱっと顔を輝かせて「黒こしょう効いてて美味しいです!」と声を上げた。

「高橋さん、高橋さんが本当にしたいことって何ですか?」

 佳鳴が聞くと、煮物に箸を付けようとした高橋さんの動きがはたと止まる。そしてぽかんと口を開く。

「やりたい、ことですか?」

「はい。確かに芸能界と言うのは輝かしく思えて、()かれてしまうのだと思います。ですが、ご自分が本当にやりたいことを見失ってしもうたら、続かへんのかな、って思ってしもうて」

「それは」

「はい。高橋さんは今会社に勤めてらっしゃって、それはご自分でお選びになった会社ですよね。やりたかったお仕事、ですよね?」

「あ、はい。そうですね。入社当時は全員営業に放り込まれてしんどかったですけど、今は異動願いを聞いてもらえて、やりたかった仕事ができてます」

「だから例えば苦手な方とお仕事をすることになっても、愚痴をこぼせば我慢できる、なんてことありません?」

「ああ、そうですね。好きな仕事やし、同僚とぎゃあぎゃあ言いながら乗り切れます」

「では、好きでは無い仕事だった時はどうでした?」

「何度も辞めようと思って、でも移動に望みを掛けてがんばりました」

「それは、芸能界でも同じだと思うんです。芸能界では、もしかしたらやりたいことは一般の会社よりできないかも知れません。その入り口が、本当にやりたいことで無かったら尚更かも知れません。その時に支えになるものが無いと、しんどいと思うんですよね」

 佳鳴が差し出がましいと思いながらもゆっくりと言うと、高橋さんは納得した様に目を見開く。

「そっか、そうですよね」

「はい。芸能界と言う明るいか暗いか判らない世界の目くらましに、言い方は良く無いですけど、(だま)されない様にしていただきたいとも思います。私たちは高橋さんが絶対に人気者になるって信じてますけども、それは時の運でしょうから」

 千隼も横で大きく頷く。

「そうですよね。目くらまし、かぁ……私、確かに今それに当てられているんかも知れません。もっと良く考えますね。あの、心配してくださってありがとうございます」

 高橋さんはやっと笑顔になってぺこりと頭を下げる。そしてあらためてお箸を動かすと、煮物をすくい上げて口へ運ぶ。

「ああ〜、お味噌の優しい味が嬉しいです。豚肉とろっとろで美味しいですね!」

 そう言って頬をほころばす高橋さんに、佳鳴は「ありがとうございます」と笑みを浮かべた。
 数日後、訪れた高橋(たかはし)さんの表情は、先日とは違ってとても晴れやかなものだった。

 カウンタに掛けておてふきで手を拭いた高橋さんは、ふぅと小さな息を吐いて、口を開いた。

「あの、私、昨日の晩、渡部(わたべ)さんに辞退の電話を入れました」

「渡部さんと言うことは、スカウトされたお話ですね?」

 佳鳴(かなる)が確認する様に言うと、高橋さんは「はい」と大きく頷く。

「あれからも考えたんです。でも、店長さんが言ってくれた「目くらまし」って言葉が胸に刺さってしもうて。私、芸人になりたい訳でも、歌手になりたい訳でも無いんです。お芝居が好きやから劇団に入ったんです。なので「女優になりませんか?」やったら、目くらましにやられていたかも知れません。もちろん迷いに迷うとは思うんですけど。なので今回はありがたいですし申し訳も無いんですけど、お断りしました」

「そうですか」

 佳鳴は応え、にっこりと微笑む。

「高橋さんが出された結論なら、それが今のベストなんやと思います。ご納得されているなら、良かったな、と思います」

「はい!」

 高橋さんは満足げに微笑んで頷いた。

「あ、注文ええですか? まずはお酒で。あとでご飯とお味噌汁ください」

「はい、かしこまりました」

 佳鳴たちは料理を整える。今日のメインは鶏の水炊き風だ。

 処理した鶏がらと白ねぎの青い部分、生姜(しょうが)と日本酒と塩を使って出汁を取り、それで骨付き鶏肉と白ねぎの白い部分、白菜、椎茸、木綿豆腐をことことと煮込み、お客さまに提供する寸前に春菊に火を通して盛り付ける。

 出汁にしっかりと鶏の味が出ているので、そのままでも食べていただけるが、お客さまのご希望でポン酢をお出しする。

 さすがに西の地の名物には敵わないだろうが、千隼なりに丁寧に作らせていただいた自信作だ。

 小鉢は水菜の刻みわさび和えと、ひじきとちくわの白和えだ。

 水菜はさっと塩茹でし、刻みわさびと和えたぴりっとした一品。ご飯にもお酒にも合う。

 白和えは豆の味を感じて欲しいので木綿豆腐を使っている。水切りして崩して、隠し味程度に昆布茶とかつおの粉末を入れ、お砂糖とお醤油、白すりごまで味を整えている。

 白すりごまの香ばしさはもちろん、お出汁の旨味も感じられる一品に仕上がっている。

「鶏のお出汁美味しい〜。置いといて、あとでご飯に掛けて食べよ。絶対美味しいやつや!」

 出来たら鶏だしも味わって欲しかったので、スプーンをこっそり添えている。高橋さんは具を食べる前に鶏だしを口に含み、うっとりと目を細めた。

 スプーンはその役割をしっかりと果たしていて、ほとんどのお客さまが見事に鶏だしを飲み干してくれていた。

 お客さまによっては器を傾けて直接飲み干してくださった。

 そうしていつものカナディアンクラブのハイボールとともに食事を進められていると、また常連さんが訪れる。岩永(いわなが)さんだった。

「こんばんは。お酒でお願いします。ビール、スーパードライで。あ、高橋さん」

 入ってくるなり注文をし、高橋さんに気付いて笑みを浮かべる。

「公演、ほんまに良かったで。次も行かせてもらうな」

 岩永さんの言葉に、高橋さんは「ありがとうございます!」と満面の笑みを浮かべた。

 岩永さんは高橋さんのふたつ離れた席に掛ける。おしぼりを受け取り、続けてビールを受け取って、美味しそうにグラス半分をぐいと(あお)っては、はぁ〜と心地良さそうな溜め息を吐いた。

 続けて料理を受け取り、ゆったりと食べ始める。

 そうしていると、またお客さまが訪れる。

「いらっしゃいま、せ」

 迎えた千隼(ちはや)が一瞬戸惑ったのは、そのお客さまが渡部さんだったからだ。高橋さんをスカウトした方だ。

 高橋さんもドアが開く音に反応したのか首をひねり、「あ」とそのまま固まった。

 渡部さんはせかせかと店内に入って来て、高橋さんの隣に腰掛けた。

「高橋さん! 押し掛けてごめんやで!」

 渡部さんが叫ぶ様に言うと、それまでくつろいでいた他のお客さまが「何や?」「何や?」とざわつき、次にはなだらかに静かになる。

「電話でのお話は分かったわ。でもやっぱり直接会って話がしたかってん。なんで駄目やったん?」

 高橋さんはうろたえて、「あ、あの」と言い淀む。それを見て渡部さんは詰め寄る様に前のめりになっていた姿勢を正した。

「ごめんやで。電話ではあまりちゃんと話ができひんかったから。きちんと話がしたいなって思ってん」

 渡部さんの言葉に、高橋さんは「ん」と喉を鳴らし、気合いを入れる様にハイボールをひと口飲んだ。

「あの、お申し出はほんまにありがたいと思っています。ですが、私は歌手になりたい訳でも、芸人さんになりたい訳でも無いんです」

「ええ、そうやね。そう言ってたね。でも今は歌手スタート、芸人スタートで、ドラマに出て俳優活動をする人もたくさんおるで」

「でもそれは、売れてなんぼ、ですよね」

 高橋さんが言うと、渡部さんは(きゅう)した様に口を閉じる。

「その段階に行けるまで耐えられるかどうかが判りません。それに女優さんとしてお声掛けいただいた訳や無いってことは、まだそのレベルに達していないってことですよね。私にはその覚悟がありません。1番好きじゃないことをしながら、芸能界に居続けられる覚悟が。なのでお断りしました」

 高橋さんがそうはっきりと言うと、渡部さんは困った様に小さく息を吐いた。

「そんなあなたを守るんが、マネージャーである私たちの仕事や。それでも?」

「はい。もうこんなチャンスは無いと思います。ですけど、もし、もし将来、渡部さんが私の演技を認めてくださって、女優としてスカウトしたいって思ってくださったら、その時にはお声を掛けてくださったら、多分私は喜んで受け入れると思います。親は反対するでしょうけど、バトルも(いと)いません」

「……そうか」

 渡部さんはそう言い、また小さく息を吐いた。

「解ったわ。今回は引き下がるわ。でも完全に諦めた訳や無い。私は地元がここやから、次の公演も見させてもらうで。次の予定は決まってるんやろか。おおまかでも」

「来年やと思います。うちは年に1度の公演なので」

「そんなに先なんか! でもそうやね、1年また研鑽(けんさん)を重ねてもらって、また力を付けてもろたら、来年の私の評価もまた変わるかも知れへんね」

 高橋さんは曖昧に笑みを浮かべる。劇団員は真剣であるものの、週に1度の練習でどこまで伸びるか。それは高橋さん次第なのだろうが。

「じゃあ私はこれで失礼するわね」

 そう言って立ち上がり掛けた渡部さんに、ひとつ離れた席にいる岩永さんが「おいおい」と(とが)める。

「何も注文しないで行くんか? ここ飲食店やで」

「あ!」

 渡部さんはそう声を上げて口を押さえる。高橋さんと話をすることに夢中で、すっかりと忘れていた様だった。渡部さんは慌てて座り直した。

「ごめんなさい、うっかりしてたわ。ええとゆっくりしてる時間は無いねん。ウーロン茶と、何か軽くつまめるもん……」

 そう言って渡部さんはきょろきょろとカウンタに目を走らす。そこで岩永さんがこの煮物屋さんのシステムを簡潔に説明した。

「そうなん? じゃあほんまにごめんなさい、ウーロン茶だけってええかしら」

「はい、大丈夫ですよ」

 佳鳴がにっこりと応える横で、千隼がウーロン茶を用意する。氷を適度に入れたグラスに、冷たいウーロン茶を8分目に注ぎ、台に上げる。

「お待たせしました」

「ありがとう」

 渡部さんはウーロン茶を受け取ると、ごっごっと喉を鳴らしながら一気に飲み干してしまった。グラスにはほとんど溶けていない氷がしっかりと残される。

「慌ただしくてごめんなさい。今度プライベートで帰って来た時に、ゆっくり寄らせてもらいますね。岩永くん、来年の高橋さんの公演が決まったら真っ先に連絡ちょうだいよ」

「解った解った」

 岩永さんが苦笑しながら応え、渡部さんは今度こそ立ち上がる。

「お邪魔しました。高橋さん、また!」

 渡部さんはそう言い残して、会計を済ませてばたばたと店を出て行った。

 そんな渡部さんを高橋さんはやや呆然と、そして岩永さんは苦笑いしながら見送った。他のお客さまもことの成り行きが気になったのか、静かに見守ってくれていた。

「ごめんやで、高橋さん。渡部がどうしても高橋さんと直接話がしたいって言うから、俺が連絡してん。嫌な思いさせてもうたな」

 岩永さんが言うと、高橋さんは「いいえ」と首を振る。

「私も直接お話が出来て良かったです。電話じゃ確かにちゃんと思っていることを伝えられないですもんね。渡部さんが聞いてくださって、良かったです」

「そう言うてもらえたらほっとするわ」

「はい」

 高橋さんは言って、安心した様に笑みを浮かべた。

 高橋さんはこれからも、クラブ活動の延長の様な劇団で活動を続けるのだろう。だがその心中は今までとは違うかも知れない。自分の成長によっては、それで身を立てられるかも。そう思えば、取り組み方も変わって来るだろうか。

 将来、芸能界で活躍する高橋さんを、テレビや舞台などで見られる様になるのだろうか。それはまた、とても楽しみではあるのだった。
 冬の気配はますます色を濃くし、吹き荒ぶ風が身体に辛くなってきたころ。

「そう言えば」

 小鉢に使う蒸かしたじゃがいもを、マッシャーで荒く潰していた佳鳴(かなる)が、思い出した様に声を上げる。

「最近あのお客さん来られてへんよね。春日(かすが)さん」

「ああ、そう言えば」

 春日さんは壮年の男性で、以前はしょっちゅう煮物屋さんに来てくれていた常連さんだ。

 ポテトサラダが好きなお客さまで、それが小鉢になると、「煮物ともうひとつの小鉢の量を減らしてくれても良いから、ポテトサラダを多くしてくれないかな」とおっしゃっていた。佳鳴たちは「ええですよ」と、その願いを叶えていた。

 春日さんは大阪出身では無い。転勤で千葉から引っ越して来られたのである。実は曽根を含む豊中市は、他県から転勤などで引っ越して来られた方も多いのである。

 そんな春日さんが、ここしばらく姿を見せていなかった。引っ越しでもしたのか、それともここの味に飽きてしまったのか。

 気掛かりではあったが、今の佳鳴たちに、それを確かめる術は無かった。



 それは数年前のこと。佳鳴と千隼(ちはや)が煮物屋さんをオープンさせた頃。

 何せ(かたよ)っているとも言える営業形態なので、スタートから好調と言う訳では無かった。

 それでも珍しがって来てくれるお客さまはいて、春日さんもそのひとりだった。

 その日のメニューは、メインに鶏肉とれんこんの煮物、彩りに茹でたほうれん草を添えたものを据えて、小鉢がポテトサラダときのこのマリネだった。

 その時のポテトサラダは塩もみ玉ねぎと塩もみきゅうり、炒めたベーコンと炒り卵を入れたなかなか凝ったもので、煮物を控えめに盛り付けてポテトサラダを多めにしていた。

「私は独身でひとり暮らしだから、なかなかこういう食事にありつけなくてね。特にこのポテトサラダが良いなぁ。いつもの小鉢より多いのもありがたいねぇ。いや、私はポテトサラダが大好きなんだけど、ほら、スーパーの惣菜とかね、あまり好みの味に当たらなくて」

 佳鳴が作るポテトサラダの味付けは、マヨネーズをメインに、隠し味にからしとバターを使っている。塩はもちろん白こしょうを少し強めに効かせている。

 小鉢を作るのは佳鳴の役目だが、その下ごしらえの量によっては千隼が手伝いに入る。今日は小鉢に使っている素材が多いので、姉弟は並んでせっせと材料を切った。

「お口に合ったのでしたら良かったです」

 佳鳴が笑顔で言うと、春日さんも嬉しそうに笑みを浮かべ、グラスに入った冷酒「呉春(ごしゅん)」を片手に食事を進めて行った。



 そうしているうちに、常連さんのお陰もあって煮物屋さんもどうにか軌道に乗って来た。カウンタだけのささやかな店内はあらかた埋まる様になる。

 その日のメインの煮物は、牛肉のしぐれ煮だ。ごぼうの他に椎茸と糸こんにゃくも入れている。彩りは塩茹でした絹さやだ。

 牛肉は香ばしさを出すために先に炒め、ごぼうと椎茸、糸こんにゃくを入れてオイルを回したら、お水や日本酒、お醤油などを入れて煮込む。生姜は千切りにして加えた。

 甘辛い煮物だが、煮物屋さんでは少し柔らかめに仕上げ、素材の旨味と生姜の爽やかさが活きる様にしてある。

 しぐれ煮は基本牛肉のみ、もしくは牛肉とごぼうだけで作ることが多いと思うが、椎茸を入れるとまた旨味が加わる。

 それらから出た味わいが糸こんにゃくに絡んで、見た目よりもあっさりといただけるのだ。

 小鉢は、まずは小松菜と厚揚げの煮浸し。

 厚揚げは小松菜と一緒に食べやすい様に棒状に切って、小松菜とさっと煮る。小松菜はあまり煮てしまうと色も悪くなってしまうし、煮汁に大切なビタミンが出てしまうので、しんなりする程度に火通しして、常温に冷ましておく。

 しゃきっとした歯ごたえを残し、厚揚げからでる旨味でふくよかな味わいになる。

 もう一品はじゃがいもとグリンピースのサラダだ。

 大きめのさいの目切りにして、蒸かしたじゃがいもは粉吹きにして潰さずに、塩茹でしたグリンピースと和えて、マヨネーズなどで味付けして行く。こちらは少しさっぱりとさせるために、隠し味にお酢を使っている。

 お手軽なポテトサラダと言ったところだが、ねっとりとしたじゃがいもとぷちっとしたグリンピースが良く合うのだ。

「こんばんは」

 19時を過ぎたころ、そう言いながら春日さんはやって来た。結構な頻度で来てくれるのだが、小鉢にじゃがいもを使ったサラダを用意すると、必ず来店される。表に出してあるお品書きをご覧になるのだろう。

 春日さんはまた呉春を手に、じゃがいもとグリンピースのサラダを食べて、ほぅと満足げに息を吐いた。

 呉春はこの大阪府の池田(いけだ)市にある呉春株式会社が(かも)す日本酒である。曽根のある豊中市の隣の市になる。

 柔らかな口当たりにしっかりと感じられる旨味。辛口では無いのだがすっきりとした後味のお酒である。

 春日さんはこの呉春がお気に入りの様で、煮物屋さんで必ず注文されるのだ。

「僕はどうやら、じゃがいもとマヨネーズの組み合わせが好きみたいなんだよね。だからこのサラダもとても美味しいよ。具はシンプルなのに、味付けが良いのかなぁ」

「そう凝ったことはしてへんのですよ。でもそうですね、調味料は弟とふたりでいろいろ味を見て、気に入ったものを使うてます。なのでご家庭でお作りになられるものとは少し違うかも知れませんね」

「そうなんだ。僕はお店経営のいろはなんてほとんど判らないけど、それだったらコストとか掛かっているんじゃ無いの?」

「いえいえ、そう高価な調味料を使っているわけでは無いんですよ。でもスーパーではあまりお取り扱いの無いメーカーさんのものが多いかも知れません」

「なるほどねぇ。そういうのもこだわりって言うんだろうね。僕は自炊もするけど、確かにマヨネーズひとつ取っても、メーカーごとに味が違ったりするもんね。あそこのはこってりしてる、あそこのは少しさっぱりしてる、とか。ほら、欲しい時に安売りしているものを買うから。特にこだわりがある訳でも無いしね」

「そうですね。マヨネーズに使う卵の産地とか鶏の品種とか、お酢でもオイルでも、使うもんによって味は変わって来るでしょうからね」

「それにしても、ポテトサラダってきゅうりとか具沢山のものって固定概念があったんだけど、このサラダみたいにグリンピースだけでも充分に美味しく作れるんだねぇ。これなら僕でも家で作れそうだ。何かコツみたいなのがあるのかな」

「特にこれって言うのがあるわけや無いんですけど、うちではマヨネーズはそう多く使わず、そうですねぇ、少し白こしょうを効かせる様にしていますね」

「白こしょう? それってスーパーで瓶に入って売っているものとは違うの?」

「春日さんがおっしゃっているこしょうは、黒いこしょうと白いこしょうのブレンドのものでしょうか。一般的な粒の細かい、粉の様なテーブルこしょうはそうやって作られています。白こしょうは黒こしょうより辛みが穏やかなんです。なのでポテトサラダのちょっとしたアクセントにええんです。スーパーのスパイスハーブの棚にあると思いますよ。今はスーパーでもいろいろなスパイスなんかが買えますからね」

「スパイスなんて難しそうなもの、僕には使えそうに無いからまともに見たこと無かったよ。でも今度見てみるね。それでもしかしたら自炊の幅も広がるかも知れないなぁ」

「例えば鶏肉を塩こしょうで焼いて、仕上げに皮の部分に乾燥バジルを掛けて、その皮部分を少し焼いたらバジルの風味が出て、いつもの鶏肉と違う味わいになりますよ。タイムやローズマリーなんかもええですね」

「え、え、え」

 佳鳴の話を聞いて、春日さんは目を白黒させる。

「バジルって言うのは聞いたことがあるけど、た、た、なんだって?」

「タイムとローズマリーです。これも乾燥させているもんがありますよ。生もありますけど、乾燥のものの方が使い勝手がええですし、何より保存がききますからね。機会がありましたら、試してみてください」

 タイム、ローズマリー、タイム、と、春日さんは何度も声を出さずに、口を動かして繰り返す。

「タイムとローズマリーね。うん、覚えた。今度見てみるよ。僕、鶏肉と言ったら塩こしょうだけで焼いたりとか、ああ、照り焼きも作るね」

「あらぁ、照り焼きが作れるやなんてすごいですねぇ」

「いやいや、酒と砂糖と醤油を適当に入れるだけでね。でもそのハーブで焼いた鶏とじゃがいものサラダで、なんだかおしゃれな食卓になりそうだねぇ」

「そうですね。それにお酒か、お食事にされるならパンやスープなどを添えると、立派な洋食のお食事になりますね」

「良いねぇ。楽しみになって来たよ」

 春日さんはそう言って、わくわくした様な笑みを浮かべた。



 春日さんとのかつての会話を思い出し、佳鳴はくすりと笑みを浮かべ、塩を振っておいたきゅうりの輪切りをぎゅっと揉んだ。
 営業が始まって数時間、お陰さまで料理は完売となった。まだ店内ではお客さまが寛いでおられるが、千隼(ちはや)はお品書きを回収し、営業中と書かれたプレートを支度中にするために表に出る。

 すっかりと寒くなって、空気が澄んでいる。街中なので星は見えないが、きっと高台に上がれば綺麗な星空が広がるのだろう。

 千隼は寒さに首をすくめながらプレートを返し、ドアからお品書きのホワイトボードを外した時、駅の方からふらふらと歩いて来る人影があった。

 その気配に千隼がそちらを見ると、それは春日(かすが)さんだった。

「春日さん。こんばんは、お久し振りですね」

 千隼が明るくそう声を掛けると、春日さんは力の無い笑みを浮かべる。

「ああ、ハヤさん。こんばんは。本当にすっかりとご無沙汰しちゃって」

 千隼の前で春日さんの足が止まる。店内から漏れ出て来る光を頼りにあらためて春日さんを見ると、その頬はすっかりと()けてしまっていて、色艶も良く無く、かなり疲れが表れていた。

 春日さんはもともとふっくらとされていた方だったので、その変貌(へんぼう)に千隼は驚きを隠せない。

「どうしはったんですか、春日さん。かなりお疲れみたいですけど」

「ええまぁ、ここしばらくかなりの激務でね」

 春日さんは言って苦笑する。

「いろいろあって勤務形態が変わってしまって、毎日帰宅は日をまたいでしまうんだ。今日はこれでも少し早いぐらいでね。食欲もすっかり落ちてしまって、ろくな食事も出来ていなくて。でも帰って来る時にはもう煮物屋さんは閉まっているから」

 春日さんはうなだれてしまう。

「ああ、またここのポテトサラダが食べたいなぁ」

 そう言って春日さんははぁと切なげな溜め息を吐いた。

「あ、あの、春日さん、少し、少しだけ待っていてもらえますか?」

「うん?」

 千隼は言い置くと、ホワイトボードを手に慌てて店内に戻る。厨房に入って隅にボードを放り投げる様に置くと、冷蔵庫から小鉢の料理を入れたタッパを出し、その中身を詰められるだけ、小鉢用の持ち帰り用使い捨て容器に詰める。

 途中で佳鳴(かなる)が首を傾げて「どうしたの?」と声を掛けて来るが、応える時間が惜しい。千隼は「あとで」と言いおき、容器を取っ手付きのナイロン袋に入れて、飛び出す様に外に出た。

 春日さんは表で静かに待っていてくれた。千隼は用意したそれを両手で持って、春日さんに差し出した。

「これ、良ければお持ちください。今日の小鉢はシンプルなもんですがポテトサラダやったんです」

 仕込みの時、佳鳴がマッシャーで潰していたじゃがいもだ。今回は塩もみきゅうりとハムだけのシンプルなものだったが、味付けは佳鳴が丁寧にほどこしたいつものものだ。

 煮物は品切れていたが、小鉢はいつも少し多めに作るのだ。閉店後に余った分は、千隼たちの夜食になる。

 春日さんはナイロン袋に入れられた容器を見て、「わぁ……」と顔を輝かせた。

「良いのかい?」

「はい、もちろん。お代も結構ですよ。陣中見舞いやと思っていただけたら。ほんまにお疲れの様ですから」

 千隼が言うと、春日さんは「いやいや」と首を振る。

「ちゃんとし払わせて欲しいな。お願いするよ」

 そう言われ、しかし千隼は「いえ、こちらが押し付けたんですから」と返すが、春日さんは首を縦に振ってはくれなかった。

「解りました。では……」

 と、千隼は小鉢分に相当する金額を挙げた。それを小銭でちょうどを受け取り、ポテトサラダを春日さんに渡す。

「本当にありがとう。嬉しいよ。落ち着いたらまた寄らせてもらうね」

 春日さんは先ほどとは打って変わって嬉しそうな笑顔で言い、今度はしっかりとした足取りで帰って行った。

 店に入り厨房に戻ると、不思議そうな顔で千隼を見る佳鳴に「悪い」と短く詫びる。

「表で春日さんに会うたんや」

「あら、お久し振りやね。お元気にしてはった?」

「いや、それが仕事で激務が続いてるらしいて、帰って来る時間にはこの店も閉まってるんやって。だからせめてポテトサラダ食べて欲しいて思って」

「あらぁ、そうなんや」

 佳鳴は言うと、かすかに顔をしかめる。

「え、春日さんが来られへんくなって、もう2ヶ月ぐらいにはなるやんね。その間、ずっと帰りがその時間やったってこと? お休みはちゃんと取れてるんやろか」

「そんな話はしてへんかったけど、平日そんだけ働いてたら、休めたらもう家から出たく無いやろ。睡眠不足やろうし。びっくりしたわ、すっかりとやつれてはって」

「そうなん? それは心配やね……」

 佳鳴の眉がまた歪んでしまう。

「じゃあご飯もまともに食べれてへんってこと? なんでそんなことになってもたんやろ」

「そこまでは判らへんけど、落ち着いたらまた来てくれはるってさ」

「じゃあその時を待つしか無いんやね。何か差し入れとかしたくなってまうけど……、逆にお気を(つか)わせてまうやろうしね」

「多分な。ポテトサラダもお代支払われたし」

「あんた、押し付けたのにお金いただいたん?」

 佳鳴がやや呆れた様に目を見開くと、千隼は少し焦って「いやいや」と手を振る。

「俺はもちろんいらへんって言うたで。けど払わせてくれって。そこで押し付けてまうと、春日さん気を遣うやろうから、小鉢分もらった」

 そう言って開いた千隼の(てのひら)には、数枚の硬貨が乗せられていた。

「まぁ、確かに春日さんはそう言う方やんねぇ……」

 佳鳴は納得した様に、小さく息を吐いた。

 久しぶりにお会い出来た春日さん。様変わりしてしまった春日さんに、千隼は大いに驚いたのだ。最近煮物屋さんに来られなくなった原因に合点はいったが、それが原因でああなってしまうとは。

 今日春日さんがいつもより少し早く帰れたこと、そしてその日の小鉢がポテトサラダだったのは、そういう縁だったのだろう。

 食べて、少しでも元気になってくれたら良いのだが。