―――ザラザラ。
 繋がっていた手と手が音もなく崩れて、ザラザラになっていく。
 ひび割れたのなら、そこを繋ぎ合わせればまたひとつになるかも知れない。
 でも、砂のみたいにザラザラになってしまったら、もう二度と元には戻らない。
 ポケットいっぱいの砂は重くて、なかなか真っ直ぐ前には進めない。
 無意識に突っ込む私の手を、何度もジクジクと傷つける。



 いつものファミリーレストラン。
 午後3時を回った店内に客はまばらで、何人座っているのか簡単に数えることができそう。少し前までは、車でちょっと遠くまで出掛けて、雑誌に載っているカフェを巡っていた。2時間待ちでも、3時間待ちでも、二人が一緒にいることに意味があって。キミの笑顔があれば、どこだって構わなかった。これが幸せなんだって、愛されているんだって思えていた。

 いつものファミリーレストラン。
 この時間帯は空いていて、駐車場もガラガラだし、オーダーもすぐ通る。二人で昼ごはん食べるだけなら、わざわざ流行りの店に行かなくてもいい。出会った頃は、必死に調べていた。いろんな雑誌の特集を読んで、何人に聞いたのかも分からないくらい、一生懸命に情報を集めていた。二人でいることを、少しでも楽しく感じて欲しかった。


 友達の友達。
 「メールアドレスの交換して」って言われて・・・「メールアドレスの交換してくれ」って言った。
 その日の夜にメールが来て・・・その日の夜にメールした。
 少し躊躇して遅くなった返信・・・やっと届いたメールに1分もせず返信した。
 何度もメールを繰り返して、気がつくと午前5時を過ぎていて。二人は苦笑いしながら「もうこれで最後」「もうこれで返信しない」って。でも、いつまでもメールは途切れなくて、その日は寝不足だった。

 恋愛に臆病で、最初の一歩を踏み出せなくて。差し出された手を、なかなか掴む勇気がでなかった。
 それなのに、「ずっと一緒にいて欲しい」って。「これぐらい好きだから」って、その場に私を残して、両手を広げて走って行った。小さくなる背中を見詰めながら、私の心はほんわか温かくなったよ。

 ほとんど一目ぼれだった。一瞬で恋に落ちた。どうしても一緒にいたくて、必死になって思いを伝えた。
 だから、なかなか「うん」って言ってくれなくても、ただひたすらにキミに向き合って。少しずつ、距離が近くなってくるのが分かって、「これくらい好きだから」って走って伝えたんだ。ボクは息を切らしながら、満面の笑みを浮かべていた。



 いつものようにドリンクバーさえもオーダーせず、私が二人分のミネラルウォーターを取りに行く。いつの間にかそれが当たり前のようになって、テーブルに置いても「ありがとう」の一言もなくなった。スマホの画面に視線を落として、こちらを見ることもない。私はここにいるんだよ?

 いつものようにメニューから一番安い料理をオーダーして、ポケットからスマホを取り出す。ふと視線を上げるとそこに彼女の姿はなく、ミネラルウォーターを手にして戻ってくる姿が見えた。再び画面を覗き込み、コップを置いた音にも反応しなかった。これが当たり前の日常で、これからもずっと続いていく。


 恋人になった。
 二人でいるとポカポカして・・・いつも一緒にいたくて。
 明日会えるのに途切れないメール・・・明日まで待てなくてスマホに指を滑らせる。
 見たことのない景色や、たくさんの幸せな思い出・・・喜ぶ顔が見たくて、どこにだって一緒に行った。
 いつのまにか二人でいることが当たり前になって、隣にいることが普通になって。繋いだ手から全てが伝わってきて、寄せ合う肩から幸せが流れ込んできた。

 いつまでも幸せが続くと思っていた。たくさんの時間を一緒に過ごしていくうちに、反比例するようにメールの返信が遅くなった。会えない日が多くなって、部屋の中でひざを抱えることが多くなった。「会いたい」って言えなくて、「一緒にいたい」って言えなくて。でも好きだから、すごく好きだから、本当に好きだったから、自分の思いを我がままだと罵って、苦しくても飲み込んだ。

 いつまでも幸せが続くと疑わなかった。どんなときでも、どこに行くときでも一緒にいた。それが当たり前になってきて、少しずつ慣れてきて、メールを確認しても返信しなくなった。約束しない日が増えてきて、ひとりで行動することが多くなった。キミがどんな気持ちでいるのかなんて、ひとりで何をしているのかなんて、少しも考えたことがなかった。「好きだよ」って、最後に言ったのはいつだろう。



 テーブルを挟んで座る二人。
 久しぶりに会えたのに、話したいことがいっぱいあったはずなのに、渇いたのどを潤わせるために水を流し込む。こんなとき、不機嫌さを隠さないで、ほっぺたを膨らませて「こっち見てよ」って言えたら良かったのに。でも、我慢することに慣れた私は、未来の二人に自信がなくなっていて、失うことが怖くて何も言えなかった。
 スマホに視線を落とすキミは、私の方を一度も見ないまま、「ちょっとトイレ行ってくるわ」って立ち上がった。

 テーブルを挟んで座る二人。
 久しぶりに会うけど、ずっと一緒にいるからなのか、嬉しいとか楽しいとか、何も感じなくなっていた。以前なら自然と溢れていた言葉も、会えたことが嬉しくて浮かんでいた笑顔も、今はない。キミは口を噤んだままで、少しだけ重たく感じる空気の中で、スマホに表示された文字を追う。ずっと二人は一緒にいるのだと疑わず、一度も顔を上げなかった。
 届いたメールに返信すると、「ちょっとトイレ行ってくるわ」と言って立ち上がった。


 テーブルの上にスマホ。
 ブルブルとスマホが音を立てる・・・いつものように置いてきたスマホ。
 ゆっくりと手を伸ばして・・・絶対にスマホを覗くことはない。
 スマホのロックを解除する・・・絶対にスマホを覗くことはない。
 「あのお店行ってみたかったんだ。また、誘ってね」って浮かぶ文字。その瞬間、自信を失っていた私は頭が真っ白になった。信じ切っていたボクは何も知らなかった。当たり前って言葉は、永遠と同じ意味ではないことを。

 また、テーブルを挟んで座る二人。
 私は顔を上げることができなくて。でもキミはさっきと同じようにスマホに視線を落としている。だから、今にも零れそうな涙を、キミに見られることはない。話しかけてこないから、震える声を聞かれることもなくて。だけど、このまま一緒にいるこはできなくて、どうにか振り絞った言葉はは、「ごめんなさい」だった。テーブルに千円札を置いて、足早に外に飛び出す。振り返らない、一人きりになるまでは止まらない。

 また、テーブルを挟んで座る二人。
 テーブルの上に置いていったスマホ。座ると同時に手にして、「また誘ってね」という返信のポップを視認する。僅かな違和感と、ほんの少しの罪悪感で鼓動が早くなる。耳の奥に響く心拍音を「ごめんなさい」という言葉が掻き消した。今まで聞いたこともない強張った声。テーブルに置かれた千円札。遠ざかる足音で、やっと言葉の意味を理解した。キミの背中が消えたあと、気付いた違和感の正体は、スマホのパスワードが解除されていたことだった。



 ―――ザラザラ。
 たぶん、「好き」という気持ちには、ほんの小さな穴が開いていたんだ。

 ―――ザラザラ。
 たぶん、「好き」という気持ちには、少しずつ愛情を注がないといけないんだ。

 ―――ザラザラ。
 たぶん、「好き」という気持ちには、お互いの努力が必要なんだ。



 どうにか我慢していた涙は、自室に駆け込んだ瞬間に限界をむかえた。
 とめどなく溢れて、お気に入りのスカートを濡らしていく。
 遅い返信を、スマホが手元にないんだろうなって納得させていた。
 会えない日々を、忙しいんだろうなって自分にウソをついていた。
 違うって、本当は、違うことに気付いてた。
 気付かないふりをして、ムリヤリ目を逸らしてきた。
 でも、もうムリかな。
 「好き」ってだけでは一緒にいられない。
 私は我がままだから、本当はもっと一緒にいたいし、私だけを見ていて欲しい。
 だけど、嫌われるかも知れないから、一度も口にすることができなかった。
 もう、私にはムリかな。
 たくさんの思い出と、交わした言葉の数々をポケットに押し込もう。
 この涙が枯れたら、前を向いて歩き出せるかな。
 でも今は、今だけはキミのことだけを思うよ。

 なぜか追い掛けることができなくて、その場に取り残された。
 二人分の食事が運ばれたテーブルに、居心地の悪さを感じる。
 何となく感じていた違和感には、すぐに気付いた。
 ロックされていたはずのスマホが、フリーになっていた。
 信じていたのに、ロックを解除して中を見たことに腹が立つ。
 その時は、裏切られた気持ちでいっぱいだった。
 裏切ったのはボクの方なのに。
 何を謝ればいいのか分からなくて、すぐには電話もメールもできなかった。
 ひとりになって、少しずつ思い出す。
 二人がいることは当たり前なんかではなくて、ボクが願ったことだった。
 あんなに好きで一緒にいたいと思ったのに、本当に大切なものを見失っていた。
 連絡をできなくなって、ひとりになって、やっと思い出す。
 自分勝手なボクに、キミはいつも笑顔で合わせてくれていたのに。
 幸せに慣れ過ぎて、平穏に飽きただなんて、本当にバカだよね。



 >> ゴメン。

 届いたメールは一行で・・・送ったメールは一行で。


 今さらそんな言葉をもらっても、もう、遅いんだよ。
 「好き」って思いに縛られて、何も見えなくなっていた。
 「好き」ってだけでは一緒にいられない。
 いっぱい泣いて、涙といっしょに思い出をポケットに押し流した。
 いっぱい泣いて、泣きながら、キミに別れを告げる決心をした。
 あと少しで、この涙も枯れるから。
 そうしたら、前に歩き始めるよ。


 >> 明日あの店で会える?

 3日後のメールは一行で・・・3日待った返信は一行で。


 やっと届いたメッセージ。ずっと、ずっと待っていた。
 キミの優しさに甘えて、いつも二人でいたことを勘違いしていた。
 キミの優しさに甘えて、受け取ることが当たり前になっていた。
 ひとりになって、キミの笑顔を思い出せないことに気付いたよ。
 ひとりになって、キミがいないとダメだなって気付いたよ。
 合いたくて、声が聞きたくて、届かない返信を待って夜が明ける。
 やっと届いたメッセージ。嬉しくて、なぜだか涙が出た。



 ―――ザラザラ。
 ポケットの中で音がする。

 ―――ザラザラ。
 ポケットの中で、楽しかった思い出が、ぶつかり合って大きなかたまりになる。

 ―――ザラザラ。
 ポケットの中で、悲しかった思い出が、ぶつかり合って小さくなって消えていく。



 いつものファミリーレストラン。
 午後3時を回った店内は客がまばらで、何人座っているのか簡単に数えることができそうなくらい。って、もうそんなことは関係ないか。今日の私に涙はない。キミとは別々の道に進むことを決めて、今日はそれを告げるために来た。
 注文用のタブレットを手にしたキミが、「ドリンクバーでいい?」と訊ねてくる。それに私は、笑顔で小さくうなづいた。
 記憶に残る顔は笑顔の方がいいかなって、そんなことを思っていた。

 いつものファミリーレストラン。
 この時間帯は空いていて、駐車場もガラガラだし、オーダーもすぐ通る。って、そんなことはどうでもいい。やっと会えたことが嬉しくて、心臓の鼓動が速くなる。これからも二人でいたいと願って、今日は今までのこと謝るために来た。
 注文用のタブレットを手にして、「ドリンクバーでいい?」と声をかける。すると、キミは笑顔を見せてくれた。
 久しぶりに目にする柔らかい表情に、何も言えなくなった。
 

 すれ違った二人。
 別れを告げるタイミングを・・・頭を下げるタイミングを。
 コーヒーにミルクを足して・・・コーヒーに砂糖を足して。
 なかなか言葉にはできなくて・・・なかなか言葉にはできなくて。
 あの頃の二人は、そこにいてくれるだけで沈黙さえも楽しめた。でも、今の二人には、この静寂は苦しくて。でも、今日で最後だからと我慢する。もう、二人の時間は有限だからって、私が口を開こうとした瞬間、キミが「トイレに行ってくる」と席を立つ。ボクがやっと振り絞った言葉が、「トイレに行ってくる」だなんて情けない。

 テーブルの上にスマホ。
 だけど、今の私には、置き忘れた他人のスマホ。でも、無用心だからスマホは持ち歩いた方がいいよ。また、同じ過ちを繰り返さないように、ね。
 この前と同じシチュエーションが、してきたはずの決意を促す。
 今日はもう一度会っておきたいと思って来たけど、やっぱり「もう二人でいることはできない」って、そう思った。

 テーブルの上にスマホ。
 置き忘れたわけではなくて、わざと持って来なかった。ひとりの時間に、キミへの思いを綴った。下書きのまま、メールボックスに保管されている。どうしても勇気が出なかったときのために、準備していきた最終手段。
 パスコードはキミの誕生日。ボクことが好きだから、不安になっていたキミはロックを解除したんだよね。だから今も、きっと。



 そこにキミの姿はなくて、ロックは解除されていなくて。スマホの下に、メモが残されていた。
 

 「バイバイ」



  ―――ザラザラ。
 繋がっていた手と手が音もなく崩れて、ザラザラになっていく。
 ひび割れたのなら、そこを繋ぎ合わせればまたひとつになるかも知れない。
 でも、砂のみたいにザラザラになってしまったから、もう二度と元には戻らない。
 ポケットいっぱいの砂は重くて、なかなか真っ直ぐ前には進めなくて。
 無意識に突っ込むボクの手を、何度もジクジクと傷つける。


 
 テーブルに千円札を置き、走って外に飛び出す。
 メインストリートに面した歩道を、右へ左へと何度も繰り返した。
 どんな雑踏の中でも、すぐにキミを探すことができていたのに、キミの姿を見付けることができない。
 少しずつモノクロに染まっていく景色。
 ザラザラと胸の辺りから聞こえてくる。
 ポツリポツリと降り出した雨が、すぐにアスファルトを叩き付けた。
 ずぶ濡れになりながら、自分のバカさ加減に涙が止まらなかった。

 「ルール違反かな」、と思いながら書置きする。
 横断歩道を渡ると、ファミリーレストランから飛び出してきたキミが見えた。
 私はビルの陰に隠れて、見付からないように身を潜める。
 もう、私は前を向いているから、振り返ることはない。
 ポケットの中には、キミとの大切な思い出が詰まっている。
 もう二度と会うことはないけど、最後に、出会った頃のキミに会えたよ。


 もう話すこともできないと思いながら、どうしても声が聞きたくて、キミとの写真を眺めながら電話する。窓の外から届く雨音に紛れて、耳に馴染んだ声が聞こえた。

「はい」

 言葉にならなくて。

「もしもし?」
 
「あ、あの・・・」

「うん、なに?」

「・・・ゴメン。今まで、何もかも、ゴメン。やっぱり、キミがいないとダメなんだ。二人で一緒にいたいんだ。二人でいることが当たり前になっていて、勘違いしていたんだ。一緒にいたいから一緒にいたのに、二人でいることに慣れて、キミの優しさに気付かずに。もう二度と泣かさないと誓うから、だからもう一度―――――「私はね」」

「私は、ひとりきりで、いっぱい泣いたんだ。
 ひとりきりで、声が出なくなるくらい泣いたんだよ。
 「好き」ってだけじゃ、ずっと一緒にはいられない。
 そのことやっと気付いて、いつの間にか一緒にいるために、我慢ばかりしていたことに気付いたの。
 「好き」って、ひとりきりじゃできないんだよ。
 二人がいてはじめて「好き」が完成するんだよ。
 一緒にいるだけじゃムリで、二人で寄り添って、やっと「ずっと」ができるんだよ。
 私はね、もう前に進むことに決めたの。
 だから、お互い別々の道を進もうよ。
 キミの良い所はいっぱい知ってる。
 だから、大丈夫。
 次に出会う誰かを愛したときには、その人を大切にして、ちゃんと向き合ってあげてね」

「その次の人は、その次の人はさ―――」
「悲しいのはキミだけじゃないんだよ。
 もう、泣きたくないの。
 もう、ひとりで泣くのはイヤなの。
 知ってた?
 私って、すごく我がままなんだよ。


 だから、ありがとう、ゴメンね、バイバイ」







<Fin>