あの始まりから2年がたって、私にも衝撃を感じることはほぼなくなっていた。色々体に馴染まないことはあるけれど、学生生活は順調に過ごせている。

 順調、というのは裏を返せば、学業に支障をきたすような刺激的なこともなく、明るく健全な日々を送っている、ということ。友達と過ごす時間が楽しい毎日に安心し、それを物足りなくも思うような。

「野崎さん、こんにちは」

 私は、授業が早く終わる金曜日の午後と土曜日の午前、大学近くの整形外科医院で受付のアルバイトをしている。

千菜(ちな)ちゃん、今日も元気だね」

 毎週金曜日診察に訪れる野崎さんは、嬉しそうに診察券を差し出す。

「元気が取り柄なんです」

 そう返事をして受付の手続きをパソコンに向かって済ませてから、診察券をお返しする。

「何よりの取り柄だよ。…ありがとう」

 取り柄だけではなく、金曜日だからかもしれない。一週間がやっと終わる。

「こーんにちは」

 いつものリズムで、待合い室に響く声の主に会える日。

「こんにちは、藤岡先生」

「せんせ、お待ちしてましたよ。今日もいい男っぷりですねー」

 患者さんたちは口々に挨拶をして、診察室に入っていく彼に声をかけた。私はその患者さんたちを邪魔しないように、挨拶の声が治まったのを見計らって、お疲れ様です、と声をかける。

「お疲れ、千菜ちゃん」

 白衣のボタンを留めながら、視線をこちらに向けると、いつも通り優しく名前付きで挨拶を返してくれる。自分だけ特別…と勝手に自惚れるのが、自分への週末のご褒美だった。事実、名前付きの挨拶は私だけ。まあ、スタッフはたった六人の診療所だけれど。

 院長は、優しく明るい成田先生。事務長は院長の義理の弟の片桐さん。看護師は、事務長の奥さんで院長の妹の綾香(あやか)さんとベテランの小松さん。そして、元気なヘルパーでシングルマザーの北澤さん。

 院長が看護学校の先生をする金曜日の午後、藤岡先生は院長の代わりに診察を担当する。ジーンズにTシャツ、その上に腕まくりをした白衣。いつも勤務している総合病院では、手術もこなす伸び盛りのドクターだと、北澤さんが教えてくれた。
 およそ、人の体を切り刻むようには見えない優しい雰囲気。私には、目が合うだけでもご褒美になるような存在だった。

 先生が診察室の椅子に腰かけると、椅子がやけに小さく見える。それでも窮屈な顔も見せず、ニコニコしながら患者さんの話を丁寧に聞き、そつなく診察をこなす。

 私はいつも、事務処理にミスが無いように注意しながら、先生の仕事ぶりを盗み見ていた。きっと、むこうの病院でほっとかれる筈がない。

 私は週に一度、”憧れの人”を見られるだけで十分、と思っていた。