翌日の出張所で、開店時間と同時にがらがらと台車を押してやってきた多香子さんは、私の顔を見た瞬間に、昨夜のシロと同じことを言った。
「あら、瑞穂ちゃんすごい顔……何? 失恋でもした?」
「そんな相手いません」
昨夜シロにしたのと同じ返事をして、私は田中さんが都会の息子さんのところへ行くことになったと説明する。
「なるほどね……でも寂しいけど、そのほうがいいわよ。やっぱり一人じゃ心配だもの」
「そうですよね」
私も頭ではわかっているのだ。だがここしばらく一日おきに会っていたせいで、どうしても寂しい気持ちのほうが勝る。豆太くんはなおさらだろう。
(いったいどう説明したらいいんだろう……)
昼からもかなり落ちこんで、いつもより千代さんとの会話も弾まないでいると、珍しくみやちゃんが自分から口を開いた。
「瑞穂は、本当はどうしたい?」
「え……」
普段は、私と千代さんの会話に耳を傾けているだけ、たまに問いかけられたら返事をするくらいのみやちゃんが、逆に質問してきたことに驚いて、私はなるべく丁寧に答えなければと思った。
昨日から、何度も心の中で思い描いていたことを思いきって言葉にしてみる。
「そうだな……もし私が、一瞬で山も越えるような特別な力を持っていたら、遠くの街に行っちゃった田中さんにも、これまでと同じように豆太くんの荷物を届けに行けるのにな……とは思うよ」
尋常ではない速さで空を駆ける能力を持つシロやクロをうらやましく思う気持ち半分、小さなみやちゃんになら、とても実現できそうにない願望も、夢として語れるという気持ち半分で言ってみたのだったが、みやちゃんは「わかった」と言って頷いた。
「え?」
驚く私の前で、小さな着物の袂から一枚の紙を取り出す。
「これを瑞穂に」
それは短冊形の紙で、私にはとても読めない達筆で、何か文字が記してあった。
「ええっと……これは?」
裏返してみると、裏にも何か書いてある。黒文字の上に被せるように赤い印が押された仕様は、最近流行りの御朱印にも似ている。
「お札……かな?」
形から推測して訊ねてみると、みやちゃんはこっくりと頷いた。
「おやまあ、みや様……神車のお札を下賜されますの?」
みやちゃんは、訊ねた千代さんに黙っていろとばかりに、小さな人差し指を唇に当ててみせる。
「しーっ」
「しーっですね」
千代さんはふふふと笑いながら、私に説明してくれる。
「御橋神社のお札だから、車に貼っておいたらいいね。本当に助けが欲しい時、瑞穂ちゃんが本気で願ったら、きっと助けてくださるよ」
「あ……はい」
みやちゃんは神社の子だったと思い出し、元気のない私を励ますために、お札をくれたのだと理解した。それも、車に関してご利益がありそうな札を――。
「みやちゃん、ありがとう!」
お礼を言うと、ほんのりと頬を染めて、はにかむように笑われる。
その様子は、もういつも通りのみやちゃんで、私は何の疑いも持たず、彼女がくれたお札を、すぐに車のダッシュボードの裏に貼りに行った。
その夜の、狭間の時間の宅配屋の扉を開くのには、かなりの勇気が必要だった。
(豆太くん悲しむかな……きっと泣いちゃうよね……)
わかっていても、田中さんがいなくなってしまうことと、託されたお別れの言葉を伝えるしかなくて、私は預かった荷物を片手に、扉を開く。
(うっ……)
全身を膜に包まれる感覚に呻いて、閉じた目を開けてみると、宅配屋の隅に、もう豆太くんが立っていた。私の姿を認めると、ぱあっと笑顔になる。
(ごめんね……)
その笑顔を、今夜は守れそうにないことに心の中で手を合わせて、私は急いでカウンターへ入った。
豆太くんと話をする時間を少しでも確保するため、今並んでいるお客をなるべく早く受け付けしていく。
「ありがとうございましたー。はい、次の方!」
「すっごい速さ」
シロは隣でけらけら笑っているが、それに構っている時間さえ惜しい。
「はい、どうぞ! 次々どうぞ!」
今まで一番速く仕事を片づけて、カウンターを出て、豆太くんの前に立った。
「あのね、豆太くん……」
私が話を始めようとすると待ってましたとばかり、豆太くんも話しだす。
「うん、姉ちゃん! 今日はね、これをじいちゃんに持って行ってほしくてね!」
彼が意気揚々とさし出した筒のようなものを、私は手で制した。
残念ながらもう豆太くんから田中さん宛ての荷物を、引き受けることはできない。
「ごめん。先にお話聞いてくれるかな?」
今までにないことに、豆太くんはきょとんと目を瞬かせたけれど、素直に頷いてくれた。
「うん、わかった」
私は大きく息を吸いこんで、自分の気持ちを落ち着けてから話を始めた。
なるべく優しい声で、少しでも豆太くんの悲しみを和らげてあげられるように――それだけを心がけた。
「田中のお爺ちゃんね。今住んでいる家から、お引越しすることになったんだって」
「え?」
どういうことかと首を傾げた豆太くんの前でしゃがみ、彼と目の高さを合わせるようにしながら、一言一言ゆっくりと心に届くように話す。
「遠くに住んでいる家族のところへ行くんだって。そこはとても遠くて、もう私の車でも行くことは出来ないから、豆太くんからのお届け物は、この間ので最後にしてほしいって……」
「そんな……」
とても小さな声でぽつりと呟いてから、豆太くんの顔がくしゃっと歪んだ。
「どうしてだよ? だっておいらからの荷物、とっても嬉しいっていつも……」
「そうだよね。いつもとても喜んで受け取ってくれたよ」
「じゃあなんで……」
何故と問いながらも、豆太くん自身も理由は理解しているのだ。ただわかってはいても、納得できなくて、同じ言葉をくり返すしかない。その気持ちは私にもよくわかる。
「ごめんね。だからもうその荷物は預かれない。田中さんが今までありがとうって。最後に豆太くんにこれをって」
田中さんから預かった、そよ風宅配便のダンボール箱を、豆太くんに渡した。大きさのわりに軽い箱だった。
「おいらに……?」
目に涙をいっぱい溜めながら、箱を受け取った豆太くんが、いったんそれを床に置いてガムテープをはがして、箱の中から取り出したものを見て、ぽろぽろ涙を零す。
「じいちゃん……」
それは小さな麦わら帽子だった。豆太くんにちょうど合うほどのサイズなので、彼のために田中さんが作ったのだろう。藁でかごや帽子を編んでいるのを、見たことがあった。
以前に私が千代さんに貸してもらった麦わら帽子も、田中さんの手作りだと聞いていた。
「よかったね、豆太くん。よく似あいそう」
麦わら帽子を手にした豆太くんが涙を流しているので、私は田中さんとの別れが悲しいながらも、最後のプレゼントを喜んでいるのだとばかり思っていた。
だが違った。豆太くんは麦わら帽子を凝視して、驚きに目をみはり、それから肩を震わせて泣いていた。
「どうして? おいら……何も言ってないのに……」
豆太くん用の麦わら帽子には、頭の上のほうに二つ、穴が開いていた。頭のてっぺんから少し離れた場所に、左右に二つ。
「どうして……?」
泣き崩れた豆太くんの茶色い髪の間から、ぴょこんと丸い耳が飛び出す。半ズボンの腰のあたりからもふさふさとした尻尾が――。
「あ……!」
そういえば彼はあやかしだったのだと、私が改めて思い返した時、隣に誰かが立った気配がした。
「お前が人間の子じゃなくて豆だぬきだって……爺さんはちゃんとわかってて、それでも可愛がってくれてたってことさ」
「――――!」
クロだった。
クロの言葉にぎゅっと唇を噛みしめた豆太くんは、次の瞬間、それを大きく開けて声を上げて泣き始める。
「ああーん、あーん、じいちゃーん!!」
眉をしかめて耳を塞いだクロに代わり、背後からシロが声を上げた。
「瑞穂ちゃん! 田中のお爺ちゃん、いつ引っ越しちゃうって?」
「あ……明日?」
それを聞いた豆太くんが、ますます大きな声を上げて泣く。
「じいちゃーん! じいちゃあーーーん!!!」
クロがその襟首を掴んで持ち上げ、私へさし出した。
「うるさくてかなわん。瑞穂、今日はもういいから、こいつを連れて帰れ」
「え……?」
豆太くんが胸に抱きしめていた麦わら帽子を取り上げて、頭に被せてぽんぽん叩きながら、もともと彼が配達を頼もうと持ってきていた筒のようなものを手に握らせる。
「ほら、これもそれも全部持って帰れ、豆太」
宅配屋のガラス扉を開けて、豆太くんを外にぽいっと捨ててから、私を促す。
「お前も早く行け」
シロがすかさず、うしろから声をかけた。
「瑞穂ちゃんは、ちゃんといつもの扉を通ってね。抜けた先の宅配便出張所の前で、豆太が泣いているはずだから!」
クロがまったく説明してくれないことを、シロが教えてくれるのがありがたく、私はシロをふり返って手を合わせた。
「ありがとう、シロくん!」
扉を開けて帰る際、やっぱりクロにも一応お礼を言っておく。
「クロさんも、ありがとうございます!」
ふんとそっぽを向いて、カウンターの中へ帰って私の代わりに窓口で受け付けを再開してくれるクロに、本当に感謝していた。
出張所へ帰ってガラス扉を出てみると、確かに麦わら帽子を被った豆太くんが、筒を手に持って泣いていた。
「じいちゃーん! あーん!」
尻尾と耳が人目につかないように、腕に抱きこんで隠して、ひとまず出張所の中へ帰る。帰る準備をして、戸締りをし、出張所を出ると、二人で私の車に乗った。
豆太くんを助手席に座らせ、耳と尻尾はいつものようにしまってくれと言い含めて、シートベルトを留めてやりながらも、実際はまだ迷っている。
(どうしよう……豆太くんを連れて、田中さんの家へ行こうかな……)
クロとシロが早めに帰してくれたので、今日はまだ日が暮れ終わっていない。田中さんの家へ着く頃には真っ暗だろうが、まだ訪問しても許される時間ではあるはずだ。
(問題は帰りよね……)
誰も通らない山道を、二時間も運転して帰らなければならない。道に外灯もない悪路は、本当に自分のライトしか頼りになる光源は存在しない。心細さは半端ない。
(でも……)
ようやく泣き叫ぶのはやめてくれたが、やっぱりまだぐすぐすと鼻をすすっている豆太くんに、せめて田中さんと最後の別れをさせてあげたい。
だけど明かりもない山道を、もしもの時に頼りになりそうもない小さな子と二人きりで、二時間もドライブするのは怖い。
二つの感情を天秤にかけ、私は豆太くんを田中さんに会わせてやりたい気持ちのほうを優先することにした。
(ええい、ままよ! もしもう運転できないと思ったら、どこかの道の端にでも車を停めて、夜が明けるまで待てばいいんだし……うっかり寝ても、凍死するような季節でもないし!)
念のために二人分の毛布を後部座席に積んで、私は豆太くんと田中さんの家へ向かうことにした。
「豆太くん、田中のお爺ちゃんに会いたい?」
「え……うん」
だけどそれは無理なんだろうと怪しむような顔をしながらも、豆太くんは涙を拭いて頷く。
「帽子のお礼を言って、さよならも自分で伝えようか? 豆太くんが渡したかったものも最後に渡して、お見送りしよう!」
私の言葉を聞きながら、豆太くんの顔が、見る見るうちに活き活きしていくのが、手に取るようにわかった。
(そう、こんな顔……こんな顔が見たくて、私は誰かの荷物を誰かに届ける仕事をしてるんだもの……!)
「じゃあ、行こう、豆太くん」
「うんっ!」
彼が大きく頷き、私が車のエンジンをかけた時、ダッシュボードの下のほうがぼんやりと光った気がした。
「え?」
いったいどうしたのだろうと、私が確かめようとする間にも、それはみるみる車内に広がり、あまりに眩しくて目を開けていられなくなっていく。
「いったい何⁉」
目を射るような眩しい金色の光に、車全体が包まれたと思った時、ぶーんと低いエンジン音が響いた。
「え? やだ……」
こんな状態でエンジンがかかるのは危ないと、いくらなんでもわかるので、急いで切ろうとするのにまったく切れない。
「豆太くん! 豆太くん! 危ないからシートベルトをしっかり掴んで!」
「わかった、姉ちゃん!」
声はすれども隣に座っているはずの豆太くんの姿も見えない中、車が少しずつ動いている気配がする。
「うそ⁉ 私ギア動かしてないよ? アクセルだって踏んでない! ブレーキ踏んでるのに!!」
出張所の隣の空地に停めている私の車がもしそのまま前進したとしたら、どうなるのかを想像してみた。
(……神社の鳥居にぶつかる? あの立派な朱塗りの鳥居に⁉ やだ! とても弁償できない!)
懸命にブレーキを踏み、ギアがパーキングのままなことを何度も手探りで確認するのに、車が前進している感覚はなくならない。
(どうしよう! どうしよう! どうしようっ!!)
なんとか、何にもぶつからずに止まってくれることを祈りながら、自分自身も豆太くんに言ったように、もしもに備えてシートベルトを握っておかなければと強く掴んだ時、ふいに瞼の裏の眩しさが消えた。
「え……?」
恐る恐る目を開けてみると、黄金の光がどんどん薄れて、ちょうど最後の残光が消え去るところだった。
隣で豆太くんも、大きな目をぱちぱちさせている。
「あー、眩しかった……どうしたの、姉ちゃん……今度こそ本当に出発する?」
無邪気に問いかけてくる豆太くんに、私はとっさに返事をすることができなかった。
「そんな……」
車のフロントガラスの向こうに見えるのは、神社前の参道の景色ではない。少し暗くなりかけた山道。
ここは少しの時間なら車を停められるくらい、わずかに開けた場所で、この場所に駐車して坂を上ると、どこへ行けるのか私はよく知っている。
「そんな馬鹿な……!」
ここしばらくの間、一日おきにずっと通っていた場所なのだから間違いない。
(夢でも見てるのかしら……?)
ほっぺたを少しつねってみたが、ちゃんと痛いので、現実に違いないと認識する。
「なんで……?」
呆けるばかりの私より一足先に車を降りた豆太くんが、周囲を見回して喜びの声を上げた。
「ひょっとして……もう、じいちゃん家に着いた? とっても遠いって聞いてたのに、びっくりするくらい近く感じたんだけど……それともおいら、途中で寝ちゃってた? ねえ、姉ちゃん!」
豆太くんに呼びかけられて、私もひとまず車から出て、周囲をうかがってみることにする。
(夢にしてはリアルだし、つねったほっぺは痛いし、ちゃんと足が地に着く……)
何度か地面を踏みしめて、ひとまず田中さんに会いに行ってみようと決意した。
日はまだ暮れていない。それどころか出張所横の空き地で車に乗ってから、ほとんど時間が過ぎてもいないだろう。山と山の間に、まだ太陽の光の名残りがある。
このぶんならもしかすると、まだ深夜とは呼ばなくてもいい時間に、山の上出張所まで帰ることができるかもしれない。
「よし、豆太くん、行ってみよう!」
「うんっ!」
豆太くんは大喜びでスロープを駆け上がり、玄関の前に立ったが、呼び鈴を押してみても誰も出てこなかった。
「おかしいな……じいちゃん、出かけてるのかな?」
田中さんの軽トラは、そこに停めてある。
「ごめんくださーい」
声をかけてみても、敷地内から返事は聞こえない。日が暮れかけてからどこかへ行くということも考えにくいが、畑へでも行っているのだろうか。
掃き出し窓が開けっぱなしになっている縁側へ、ふと目を向けると、カーテンの陰に足のようなものが見えた。
「え……」
慌てて駆け寄ると、田中さんが床に仰向けに倒れている。
「田中さん!」
「じいちゃん!」
靴を脱ぐのももどかしい思いで、豆太くんと先を争って縁側から家の中へ入ると、倒れている田中さんに必死に呼びかけた。
「田中さん! 田中のお爺ちゃん!」
「じいちゃん!」
幸い意識はあるようで、田中さんはゆっくりと目を開けると、豆太くんを見てとても優しい顔になる。
「おんや、わしゃ夢でも見ちょるんか……家に豆太がおる」
「じいちゃん俺だよ! 本物だよ!」
「それとも、あの世からお迎えが来ちょるんかな……はは」
かすかに笑いながら、田中さんの胸は激しく上下している。呼吸音に喘鳴が混じる。
熱も出ているようだと額に手を当てた豆太くんが、「そうだ!」と麦わら帽子の下から葉っぱをとり出した。豆太くんがいつも頭の上に載せている大きな葉だ。
「熱を下げる物になれ!」
豆太くんが両手の指を複雑に組んで、小声で唱えると、葉っぱはポンッと煙に包まれて、それが消えたあとには、氷の入った氷嚢に変わっている。
「じいちゃん、これ!」
豆太くんがそれを額に載せると、田中さんは嬉しそうに笑った。
「いいのか、豆太、秘密の力をわしの前で使って……」
「じいちゃん、本当はわかってたんだろ、おいらが人間じゃないって」
「はあて、なんのことかのう……耳が遠いからよく聞こえんわ……」
氷嚢で少し気分がよくなったらしい田中さんが、豆太くんと問答をしているうちに、私は急いで一一九番に電話をした。しかし救急車が来るのは街中からなので、田中さんの家までは急いでも二時間かかるという。
「そんな!」
焦る私に、田中さんは豆太くんに膝枕をしてもらいながら、弱々しく手を上げた。
「不便なところじゃけんのう……いいよ、瑞穂ちゃん。豆太が来てくれたからすぐ元気になる」
まさかそんなわけはないと思いながら、私は考える。
(私の車に乗せて街まで運んだほうが、早いかもしれない……)
そう提案しようと口を開きかけた時、豆太くんがきりっと顔を上げた。
「姉ちゃん、ごめん。姉ちゃんの車でじいちゃんを病院まで運べないかな? 車まではおいらがおぶって行くから……」
小さな子どもだとばかり思っていた豆太くんが、田中さんのためにしっかりとした顔になり、私は胸が熱くなった。
「うん、そうだね……そうしよう! 私も手伝う!」
「なんの……ちょっと熱が高くて、咳がひどいだけじゃ……病院なんぞ行かんでも……」
「ダメ!」
豆太くんの叫びは鋭かった。
「じいちゃんいつも言ってたじゃないか! ばあちゃんは具合が悪くなっても、大丈夫だからって病院に行かなくて、だから間に合わなかったんだって……おいら……そんなの絶対に嫌だよ!」
田中さんが寝た格好のまま、ぐるっと首を巡らした。
部屋の奥には大きな仏壇があり、たくさんのお供えものの中に、笑顔の女性の写真が飾られている。
「そう……じゃの……」
こちらへ向き直った田中さんの目は涙に濡れており、豆太くんと私に支えられてゆっくりと体を起こす。
「あの時は豆太が来てくれて、おかげで命拾いしたんだって……あとで何度も語らんといかんよな」
「そうだよ!」
二人で田中さんを支えながら、車までなんとか歩いてもらった。毛布を持ってきていたおかげで、後部座席が簡易ベッドのようになり、私は田中さんに寝てもらって、改めて運転席に座る。
(ここへ来た時みたいに、病院へも一瞬で行けたらいいのに……)
私が心の中で思ったことを、豆太くんが言葉にした。
「姉ちゃん……来た時みたいにすぐ着ける? おいらが目を閉じている間に、もう着く?」
不安と期待が入り混じった表情に、私は安心させるように笑いかけるしかなかった。
「もちろんだよ! さあ、行くよ!」
「うんっ!」
今度こそはっきりと、ハンドルの下あたりのダッシュボードが光った。
(あれ? そこって……)
ごく最近、私はそこをのぞきこんで何かをした気がする。
(確か……)
考える間にも光が大きく強くなり、目を開けておられず、固く瞑る。
その時、脳裏に閃いた。
(あ……みやちゃんからもらったお札だ……)
『本当に助けが欲しい時、瑞穂ちゃんが本気で願ったら、きっと助けてくださるよ』
千代さんの言葉も、心に蘇る。
(もしも本当に私の願いを叶えてくださるのなら、御橋神社の神様、どうか、どうか……一刻も早く、田中さんを病院に運ばせてください!)
心の中で柏手を打って、実際の手はハンドルをしっかりと握りしめた。
しばらくして瞼の裏の眩しさが和ぐのを待って、そろそろと目を開いた時、見えたのが煌々と明かりの点いた大きな病院らしき建物で、全身から力が抜けてほっとする。
「やった! やっぱりすぐに着いた! どう? じいちゃん。瑞穂姉ちゃんの車はすごいだろー!」
興奮冷めやらぬといったふうの豆太くんに、田中さんが返事をする。
「そうじゃな。すごいな」
それから私だけに聞こえるような小さな声で、お礼を言われた。
「ありがとう、瑞穂ちゃん……豆太を連れてきてくれて……」
「…………はい」
自分の選択はまちがっていなかったんだと思えて、こみ上げてきそうになる涙をこらえるのに、私は必死だった。
救急外来で診察をしてもらった田中さんは、そのまま緊急入院になった。風邪から肺炎を起こしていたそうで、もし病院に来るのがもう少し遅かったら、助かっていたかわからないと医師から説明され、豆太くんを連れて田中さんを訪れて、本当によかったと思った。
翌日、引っ越しで都会の息子さんが来た時には、手遅れだったなどという事態にならずに済んだ。
それに関しては、シロとクロにもお礼を言ったのだが、「豆太がうるさかったから追い返しただけだ」と、クロは素直に受け取ってはくれなかった。代わりにシロが、「まにあってよかったね」と二人分喜んでくれた。
一週間の入院ののち、田中さんが都会の息子さんのところへ行く日は、豆太くんを連れて私も見送りにいった。
彼が最後に田中さんへ送りたかった荷物は、自分と田中さんの姿を描いた絵だったようで、田中さんはそれが入った筒を大切に握りしめながら、息子さんと都会へ旅立った。
「豆太、またな」
「うん! また姉ちゃんに頼んで荷物送るね!」
御橋神社のお札の効力が、田中さんがこれから暮らす新しい街まで届くことを切に祈りながら、私も別れを惜しんだ。
街と山の上を往復するのも、なかなか遠くて、田中さんを助けたあの日のように一瞬で車が移動してくれないかと思ったが、いくら願ってみても、一ミリも動くことはなかった。
そう簡単に、なんでも神様に頼るなということなのだろう。
「姉ちゃんの車、今日は全然速くない」とぶつぶつ言っていた豆太くんは、長い道のりに飽きたのか、途中で寝てしまい、結局街と山の上をワープしたような気分だったようだが、運転していた私はそうはいかない。長い距離を往復して、翌日はやっぱり体が痛かった。
「あいたたた」
腰をさする私を、千代さんは「同年代の友だちみたい」と笑うし、みやちゃんは無言で腰を撫でてくれる。
「ありがとう、みやちゃん……」
頷く彼女に私はそっと顔を近づけて、もう一度お礼を言っておいた。
「車のお札もありがとう……とっても助かったよ」
感謝されると、わかりやすくはにかんだ笑顔になるみやちゃんが、とても嬉しそうに笑う。
だから私はこれからも、いざという時には忘れずに、車のダッシュボード裏のお札に祈ろうと心した。
夕暮れになり、狭間の時間の宅配屋のほうへ顔を出すと、カウンターに二つ並んだ宅配ひき受け窓口が、もう一つ増えていた。
「え……これどうしたの?」
尋ねると、シロが説明してくれる。
「瑞穂ちゃんもすっかり引き受け業務に慣れたみたいだし、数もこなせるから、新しく、特別受け付け用の窓口を設けてもいいかなって……」
「特別受け付け用……?」
首を傾げる私に、クロが鋭い目を向けた。
「あやかしから人間宛ての荷物だ」
「えっ……でも……いいの?」
クロは確か、人間とあやかしが親しくするのをあまり好ましく思っていなかったはずだと思いながら問いかけると、予想通りぷいっと顔を逸らされる。
「豆太の例みたいに、前から需要があったことは確かだからな」
それきり仕事のほうに集中してしまったクロに代わり、シロが説明してくれる。
「でもこれまでは、引き受けてもお届けできる人がいなくってね……そのてん瑞穂ちゃんは、みや様から『神車』のお札をいただいたんでしょ?」
「え? なんで知ってるの?」
シロの口からその名前とその話題が出てくるとは思わず、つい問いかける私に、彼はぱちりと片目を瞑ってみせる。
「俺の情報網を舐めてもらっちゃ困るな」
それきりクロと同じように、仕事のほうへ集中してしまったシロに、うまくはぐらかされてしまったことはなんとなくわかる。
(別にいいけど……隠してたわけでもないし……)
私も荷物の受け付けをしようと、空いている一番奥の窓口へ向かうと、ちょうど一人のお客さんを応対し終えたところだったシロが、大きな声を上げる。
「そうだ! これが一番大事なんだけど……一つ忠告するならば、瑞穂ちゃんはもうちょっと、あやかしについて学んだほうがいいと思うよ」
「え……」
突然そういうことを言われても、どうしていいのかわからない。
「私、なんかあやかしの掟を破ったとか……そういうことやった?」
「いや、そうじゃないけど……むしろ逆? 瑞穂ちゃん自身のために?」
よくわからない説明をするシロが、ガラス扉に目を向け、さっと外を指さした。
「たとえば豆太だけど……瑞穂ちゃんきっと、小さな男の子だと思っているだろうけど、彼、実は俺より年上だから」
「へ?」
あまりに思いがけない言葉を聞いたために、おかしな声が出てしまった私をぷっと笑い、シロがガラス扉の向こうを見てみるように促した。
そこにはなかなかに上背のある、茶色い髪の青年が立っている。ふとふり返って私と目があうと、しゅるしゅると身長が縮み、豆太くんの背の高さになった。
「どういうことなのっ⁉」
叫ぶ私に笑顔で手を振ると、今日は頼む荷物もないのか、豆太くんは鳥居のほうへ帰っていく。
「田中のお爺ちゃんに最初に会ったのが、少年の姿だったからそれを続けてたのか……あれだと瑞穂ちゃんみたいな単純な人に、優しくしてもらえるからわざとなのか……どっちにせよ彼、老若男女どんな姿にも化けられるよ。実年齢は俺より少し上。れっきとした成人男のあやかし」
「ちょっとおおおおお!!!」
豆太くんは小さな男の子なのだからと、移動の時は抱っこしたり、泣いていたら抱きしめて慰めたり、甲斐甲斐しく世話を焼いてあげていた過去の自分に、今すぐ教えに飛んで行きたい。もちろんそんなこと出来るはずはないのだけれど――。
「うん、だから少し、勉強したほうがいいかなって……」
シロは憐れむような目で私を見るけれど、クロの鋭いひと言が私の心を抉る。
「考えなしだからだ」
(なんですって!)
心の中でだけ反駁の声を上げた私は、くじけそうになる自分を励ましながら、あやかしたちの荷物を引き受ける窓口に立った。
限られたわずかな時間だけ営業する『狭間の時間の宅配屋』は、今日もさまざまなあやかしたちでごった返していた。
「うーん……お客さん来ないな……」
宅配受け付けのカウンターに立ちながら、私は今日もため息まじりに呟く。昼間の宅配便出張所の話ではない。狭間の時間の宅配屋での話だ。
「なんだとー! こら、小娘! わしの背が低くて視界に入らないと愚弄しておるのか! けしからん! そこから出てこい! 成敗してくれる!」
カウンターの向こうでぴょんぴょんと跳ねている背の低い烏天狗に、私は慌てて頭を下げた。
「あ、すみません! 伊助さんのことはちゃんと見えてます。大丈夫です」
「わしは伊助じゃなーい! 呂助じゃー!」
「……すみません、呂助さん」
クロと同じ一族だという小柄な烏天狗は、実は三つ子らしく、伊助さんと呂助さんと波助さんが、営業日のたびに入れ替わりで狭間の宅配屋へやってくる。どうやらクロに一度実家へ顔を出すように頼みに来ているようだが、まったく相手にされていない。
私から見れば三つ子の違いがまるでわからないので、しょっちゅう間違えては怒られている。
「あらー、私たちじゃ『お客』として不満なの?」
呂助さんの三つうしろに並んでいた真理恵さんが、長い首を伸ばして、私の顔の前に綺麗にメイクした顔をぬっと近づけた。
「そういうわけじゃないんですけど……」
「なによ、意味深ね……」
しゅるしゅると首を縮めていく真理恵さんに、私は苦笑いを向ける。
私が気にしているのは、先日この狭間の宅配屋の一画に、新しく設けた窓口の利用客についてだ。あやかしから人間宛ての荷物を特別に預かろうと、はりきって始めてみたのに、いつまで経っても利用客はいない。
「やっぱり需要ないんじゃないかな……」
「荷物が来ないほうが、休みの日はちゃんと休めていいじゃない」
「それはそうですけど……」
昼間の営業所も、利用客はほぼいないような状態なので、私は営業中に掃除や草むしりばかりしている。
瑞穂ちゃんは本当に綺麗好きねと、多香子さんなどは褒めてくれるが、決してそういうわけではない。他にすることがないのだ。
(その上休日も暇となると、この山の上じゃ本当に、スマホをいじってるか、寝るかしかない……)
二十一歳の若い女が、そんなことではいけないと私はぶるぶると首を横に振った。
「あの、呂助さん……たまには人間宛てにも荷物を送ってみたりしませんか?」
試しに訊ねてみると、ぴょんぴょん跳ねて怒られた。
「人間なんぞに用はない! わしを馬鹿にしとるんかー!」
「い、いえ、そういうわけじゃ……」
慌てる私の背後、営業所の奥から鋭い声が飛んでくる。
「呂助! 荷物を送らないのならもう帰れ!」
クロの怒りをこめた声に、呂助さんは慌てて小さな包みをカウンターに持ち上げる。
「送ります! 送りますとも! だから小娘めが受け付けている間、宗主様、どうか私の話を……」
懸命に伸び上がってクロに懇願している呂助さんに、私はさっと控えの木片を渡した。
「はい。いつものとおりに、ろすけさんかららいぞうさんへ。ありがとうございました」
隣でシロがぶっとふき出す。
「瑞穂ちゃんはっや、情け容赦なし」
「んんんんんんっ!」
呂助さんは悔しそうに地団駄踏んで、私の手からひったくるように木簡を受け取った。
「また明後日参りますぞ! 次は、波助めが必ず!」
「ありがとうございましたー」
バタバタと帰っていく小さな背中を見送っていると、ガラス扉の向こうに人影が見えた。
(あ……)
それは豆太くんで、私と目があうとぴょこりとお辞儀する。どうやら何か用があるようだが、営業所内へ入ってくるつもりはないらしい。
(そうよ……豆太くんがいるじゃない! 彼から田中さん宛ての荷物を預かれば、明日の休みはいったい何をしようかなんて悩む必要もない!)
私は即座に、目の前で列を作っているあやかしたちの荷物を引き受けるスピードを上げた。
「ありがとうございましたー。はい、次!」
豆太くんが年齢を詐称するような外見をしていることについて、私はしばらく怒っていたのだが、あのくりくりの目を潤ませて、「ごめんなさい……」と上目遣いに見つめられると、たいして長続きはしなかった。
そもそも人間と同じ基準で、あやかしの年齢を数えるのかもわからない。
(だから、もういい。必要以上に小さな男の子扱いしなければそれでいいのよ!)
自分に言い聞かせて、これまでどおりに接すると決めた。
自分の窓口の前に出来ていたあやかしの列を全て消化して、カウンターを出た私に、シロが問いかける。
「瑞穂ちゃん、どこ行くの?」
ガラス扉に手をかけながら、私はふり返った。
「ちょっと外に……ダメかな?」
「ダメじゃないけど……」
シロはクロを見て、彼が無言で頷いたので、また私へ視線を向け直す。
「鳥居の向こうには行かないようにね。今の時間だとあちらの世界へ行っちゃうから……」
「え……」
『狭間の時間』の正確な意味に、私はどきりとする。
「なるべくすぐに帰ってきて。日が暮れ終わる前には扉を通って、昼間の出張所へ帰らないと……」
いつもそれだけは絶対に死守させようと、シロとクロがしてくれているのを知っているので、私は素直に頷く。
「うん、すぐに戻る」
豆太くんと話をするだけなので、たいして時間はかからないだろうと思った。
ガラス扉を押し開けて外へ出ると、豆太くんが駆け寄ってきた。
「姉ちゃん!」
無邪気な笑顔の彼を、大きく手を広げて抱きしめてしまいそうになり、慌てて私は自分を律する。
(違う! だから、豆太くんは小さな男の子じゃないんだってば!)
視覚から得る情報と、脳内の知識がうまく結びつかなくて、いつか頭がショートするかもしれないと思いながら、私は膝を屈めて豆太くんと視線を合わせた。
「どうしたの? 田中のお爺ちゃんに荷物を送る?」
できればその依頼がほしくて、自分から言ってみたのに、豆太くんは無情にもあっさりと首を横に振る。
「ううん、今日はいい」
「あ、そう……」
がっくりと肩を落としそうになったが、彼の次の言葉を聞いて、色めきだってしまった。
「おいらじゃなくて、今日はぜひ姉ちゃんに、人間宛ての荷物を頼みたいって人を連れてきたんだ」
「えっ!」
豆太くんが指さした近くの木の陰には、背の高い細身の男の人が立っていた。見た目はクロくらいの年齢の、少し髪の長い、青白い顔をした青年だ。フード付きのパーカーを着ており、フードを目深に被っているので、顏はよく見えない。
私がそちらを見たことに気がつくと、慌てて更に木の陰に隠れてしまったが、かすかにお辞儀をしてくれる。
私もお辞儀を返し、豆太くんの手を両手で握った。
「ありがとう、豆太くん! ご紹介制度なんて全然想定してなかったけど、もしこの先導入することがあったら、何かプレゼントを用意するね! ボールペンとか、ポケットティッシュとか……」
「別にそんなものはいらないけど……」
困ったように笑っている豆太くんの小さなぷにぷにした手を、また深く考えもせず握ってしまっていたと、私は慌てて放した。
「あ! ごめん……それじゃ、引き受けの手続きをするから、中へどうぞ」
豆太くんと木の陰の男性を交互に見ながら、私は笑顔で言ったが、男性は真っ青になって完全に木の陰へ隠れてしまうし、豆太くんは困った顔をしている。
「中に入るのはちょっと……」
いったい何故だろうと、首を傾げた私に、豆太くんは顔を近づけ、そっと耳打ちした。
「河太郎は、あの二人が苦手なんだよ……」
私は豆太くんの視線を辿って、宅配屋の中で、ちらちらとこちらを気にしているシロと、あからさまに睨みつけているクロの姿を確認する。
(なるほど……お客様を怯えさせてどうするのよ……!)
二人の姿をなるべく自分の背中で隠すようにしながら、私は木の陰の男性に呼びかけてみた。
「大丈夫ですよ。確かにあの二人、個性が強いし、クロなんて見た目のまま、不愛想で高圧的ですけど……いくらなんでも意味もなく、お客様に襲いかかったりはしませんから」
男性は無理とばかりに首をぶるぶると左右に振る。
「私がお守りしますから」
やはり千切れんばかりに首を振られる。
(ダメか……)
諦めた私は、いったん室内へ戻り、荷物を受け付けるための道具を持って来ることにした。
「じゃあここで受け付けますから、ちょっと待っててくださいね」
男性はあからさまにほっとした顔になり、豆太くんはぴょこりと私に頭を下げた。
「ありがとう! 姉ちゃん」
その頭を撫でたくなる衝動をこらえながら、私は宅配屋の中へ帰った。
荷物引き受けの道具をまとめていると、珍しくクロが近くにやってくる。
「おい、まさかあの男の荷物を受け付けるんじゃないだろうな、瑞穂」
咎めるような口調にドキリとして、私は問い返す。
「あの男って……?」
「あの、木の陰に隠れてる陰気男だ」
(陰気男……)
私は心の中でため息を吐いた。
(河太郎さん、だったっけ……? 必死に隠れても、クロには全部見えちゃってるみたいですよ……)
ようやく特別な荷物を依頼してもらえそうだった私は、それを諦めきれず、どうにかクロを懐柔できないかと模索する。
「引き受けたらいけないんですか? ……どうして?」
クロは腕組みをして、ふんっと顎を上げ、見る者を圧倒するような凄みのある顔になった。
「どうせ、ろくでもない荷物だからだ」
その効果は離れた場所でこちらを隠れ見ている河太郎さんにもじゅうぶん発揮されたようで、彼は慌てて木の裏に完全に隠れてしまう。
「まあ、さすがにそれは言い過ぎだけど……面倒なことになるかもしれないから、断わったほうがいいとは俺も思うな」
シロが横から口を挟み、私はどうするべきか考えた。
(どうしよう……)
二人はあやかしに詳しいので、助言には素直に従ったほうがいいとは思うが、特にクロは、判断基準が個人的主観過ぎる。
(どうせろくでもない荷物だ、って言い切られても……)
クロはともかくシロの口ぶりが、私を強く止めるものではなく、あまりお勧めしない程度だったことに、賭けてみることにした。
「とりあえず話を聞いてくるね」
「瑞穂!」
再び外へ出ていく私に、クロは怒りの声を上げたが、シロはひらひらと手を振る。
「気をつけてー」
その時点で、クロに反対されても河太郎さんの荷物を引き受けようという意志が、私の中で固まっていた。
「本当にお前は……考えなしの馬鹿で、つきあいきれん」
昨日の夕食から今日の朝食まで、卓袱台を囲んでの食事の席で、クロは私を前にして、ずっとその言葉をくり返している。
「だって……どうしても諦めきれなくて、どうにかしてこれを渡したいって泣かれたら、断われるわけないじゃないですか……」
私もまた、何度も同じ答えを返している。
河太郎さんの依頼は、先日喧嘩別れした人間の恋人へ、プレゼントを届けてほしいというものだった。それをきっかけに、二人の関係を修復したいと涙ながらに訴えられたので、私はその小さな荷物を引き受けた。
「だからそもそも、内容なんて聞かず、突っぱねればよかったんだ」
「それじゃこの仕事をしている意味がないです……」
そこでクロが決まって沈黙する。そのやり取りを、昨晩から飽きもせずに何度もくり返して、シロはすっかり呆れている。
「まあ、もう引き受けちゃったんだし……しょうがないんじゃないの?」
ホッケの干物をつつきながらの発言に、私は笑顔で同意した。
「そうだよね!」
「うん。俺が同行できれば、クロも文句はないと思うんだけど……今日は一限から講義だからごめんね」
「いいの! 住所は河太郎さんにちゃんと教えてもらったから大丈夫……今回は一人で行ける!」
シロのあと押しを得たことで、ようやく落ち着いて食事が出来そうだと、私が味噌汁のお椀に口をつけた時、クロは逆に箸を置いた。
(え……?)
すでに出勤準備を済ませ、スーツ姿になっていたクロは、その上着のポケットからスマホをとり出す。どこかへ電話をかけると、ごほんと咳ばらいをして話し始めた。
「あ、黒瀬です。すみません、急用が出来たので今日の半休の予定、やっぱり全休にしてもらえますか」
(えっ⁉)
味噌汁でむせそうになり、慌ててお椀をおいた私を見ながら、クロはネクタイの結び目に指をかけ、それを少し引き下げてネクタイを緩める。
「ええ、手のかかるペットが粗相をして、片づけに時間がかかりそうなので……」
(ペットってまさか私のこと⁉)
目を剥く私の隣で、シロはぶっとふき出し、ごほごほとむせている。
その背を撫でながら、私はクロを睨みつけたのに、当の本人はそ知らぬ顔だ。
「よろしくお願いします」
電話を切ると、クロは私に向かって、不機嫌そうに宣言した。
「ということで、今日は俺が同行する」
(そんな!)
できれば助けてほしいと、私はシロに縋るように目を向けたが、ようやく呼吸が整ったらしい彼には、はははと乾いた笑いを返されるばかりだった。
長い時間車の運転をする時、密室に長時間同席にすることになるのだから、同乗者との関係性はかなり重大だ。
田中さんの家を初めて訪れた際、山を登ったり下ったりと、往復四時間も走ったが、道を捜しながらだったのと、助手席に座っていたのがシロだったため、沈黙を辛く感じることはなかった。
(だってシロくん、放っておいたって次から次へといろんな話題を出してくるんだもん……)
豆太くんと街まで往復した時も、気にもしなかった。
(途中で豆太くんが寝ちゃったのもあるけど、起きてる時も田中さんの話や、山のどこに綺麗な葉っぱがあって、いいどんぐりが落ちているのかなんて話……楽しかったな……)
しかし隣に座っているのが、クロとなるとそうはいかない。一つの会話もない中、お気に入りの曲を流すわけにもいかず、眠けと疲労と戦いながら、私は必死に車のハンドルを握っている。
(何か……何か話してよ……)
クロには期待できないので、私はなんとか、今日の荷物の依頼主についての質問をひっぱり出した。
「河太郎さんのこと……クロさんはよく知ってるんですか?」
返事がないので、無視されたのかと虚しくなりかけたが、大きなため息を吐いてから、クロは話し始めてくれた。
「直接関わりを持ったことはないが、聞こえてくる悪評を耳にしているという点ではそうだな」
「悪評……」
「その贈り物の相手との関係だ」
「あ……」
そういえばクロは、あやかしと人間が深く関わることをよく思っていないのだったと、私は今更ながらに思い出した。
「どうしてクロさんは反対なんですか? その……」
なんと訊ねたらいいのか言葉に迷い、語尾を濁す私を、クロが助手席からじっと見つめる。
彼は背が高く、肩幅も広いので、自然と隣に座る私との距離も近くなり、そういう距離感で男の人を隣に乗せたことのない私は、妙に緊張してしまう。
(あまりこっちを見ないでほしい……)
私の心の声が聞こえたわけでもないのだろうが、クロが腕組みをして窓の外へ顔を向けた。
射るほどに鋭い視線から解放されて、私はほっとする。
「もともとの生きる世界が違うんだ……虚しいだけだ……」
クロは窓の外を見ながらぽつりと、私の質問への答えらしいことを呟いた。
しかしその時ちょうど、車が大きなトラックとすれ違ったところで、私はその返答をうまく聞き取れなかった。
「え? なんですか? 何か言いました?」
クロは、体ごと窓の外へ向き直り、怒りに肩を震わせながら、低い声で唸る。
「なんでもない。何も気にせずお前は運転に集中していろ!」
「…………はい」
それ以上食い下がると、ますます不興を買ってしまいそうだったので、私は本当にそれきり口を噤むことにした。
実際は、うっすらとは言葉を聞き取れていたのだが、それに関してもう触れてほしくなさそうな雰囲気だったので、自分のその勘に従ったのだった。
「ええっと……たぶんこっちだと思うんですけど……」
河太郎さんに教えてもらった住所へ近づくと、私は車を停め、歩いて目的の家を探した。
スーツに革靴姿のクロもうしろをついてくる。私はそよ風宅配便の制服姿なので、おかしな組み合わせだと思うのだが、クロはまったく気にしていない。
「本当に合ってるのか?」
私が手にしていた住所の書かれた紙を、手からさっと上に抜き取り、高い位置で確認されては、私には何も見えない。
「ちょっと! 返してください!」
ジャンプして取り戻そうとすると、更に高い位置に上げられる。
「クロさん!!」
「伊助たちと一緒だ……」
「――――!」
完全にからかわれているのだとわかり、私は渾身のジャンプでそれをクロの手からひったくった。
「早く届けないと、午後から他の用事があるんじゃないんですか?」
出がけに確かそういうふうに言っていたと思いながら問いかけると、普段より少し緩んでいたクロの表情が、すっと冴えたものになる。
「ああ……そうだ」
(なに……?)
その感情の変化は、私にはよくわからないが、ひとまず今大切なのは、河太郎さんから預かったこの荷物を、彼の恋人だという女性にまちがいなく届けることだ。
電柱やブロック塀に貼られた住所表示を確認して、私は目的のマンションにたどり着いた。
「あった……ここだ」
その様子をうしろから見ているクロは、呆れたように呟く。
「人間の配達はまどろっこしいな……あやかしなら気配だけで一発だ」
「悪かったですね!」
五階建ての小さなマンションだったので宅配ボックスもなく、私は管理人さんに首から提げたそよ風宅配便の社員証を見せて、エレベーターを使わせてもらった。
エレベーターを待っている間に、一組の男女がうしろに並んだので、一緒にエレベーターへ乗る。
「何階ですか?」
「五階です。ありがとうございます」
笑顔で私たちの行き先を訊いて、「一緒ですね」と行き先の階のボタンを押してくれた女性は、三十歳前後の優しい雰囲気の可愛らしい人だ。同じ年くらいの男性と手を繋ぎ、とても幸せそうに顔を近づけて話をしている。
対して私とクロは、壁際と壁際にめいっぱい離れて立っており、互いに無言で、ちぐはぐな服装も含めて、いったいどういうふうに見えるのだろうと思うと、虚しくなる。
(あー……なんか私も、新しい幸せを求めたい気がする……)
最近はそういう感情などまったくなかったのだが、二人の幸せそうな様子にあてられてしまったようだ。それくらい幸せオーラいっぱいの男女だった。
目的の五階へ着くと、クロが「お先にどうぞ」と声をかけたので、カップルのほうが先に降りていく。
見た目がイケメンで態度もスマートなクロに、女性のほうがうっすらと頬を染めてお辞儀をし、それを恋人らしい男性にからかわれている一連の流れまで微笑ましい。
(いいなあ……)
羨望の眼差しで二人を見送っていた私を、クロがエレベーターの外へ押し出す。
「さっさと降りろ。ぼけっとするな」
幸せカップルのおかげでほわほわとしていた気持ちが、一気に現実へひき戻された。
「…………はい」
やっぱりシロについて来てもらったほうがマシだったと、怒りを覚えながら歩く私は、河太郎さんの恋人の『後藤里穂』さんが住んでいるという部屋の番号を探す。
「ええっと、五〇五……五〇五……」
しかし、五〇一、五〇二と順番に通り過ぎて、五〇三にさしかかったあたりで、思わず足が止まってしまった。
先ほどの仲のいいカップルが、二つ先の部屋の扉の鍵を開けて、中へと入っていった。
「え……?」
扉が閉まると思わず駆け寄って、表札に書かれた部屋番号と、河太郎さんから教えてもらった住所が書かれたメモ用紙を、私は何度も見比べる。
「え? え?」
どちらも部屋番号は『五〇五』。
焦る私に、クロが表札に書かれた名前を指さした。
「おい」
そこには『田辺裕司・里穂』と先ほどの男女の名前らしきものが、書かれていた。
(え、里穂って……まさか……?)
驚いて目線で問いかける私に、クロが黙ったまま頷く。
「そんな……」
「ひとまず帰るぞ」
さっさと踵を返したクロを追い、河太郎さんから託された小箱を握りしめたまま、私もその部屋に背中を向ける。
「はい……」
目的のマンションをうまく見つけられてからあれほど軽かった足が、帰りはとても重かった。
黙ったままクロと共に車まで帰り、乗りこんで扉を閉めてから、私は一気に問いかけた。
「いったいどういうことですか? 河太郎さんからは、この間喧嘩別れした恋人に、仲直りのきっかけとして贈り物を届けてほしいって依頼されたんですけど……彼女には、もう別の彼氏ができたってことですか? そもそも表札の名前が『後藤』じゃなくて『田辺』だったんですけど……新しい恋人どころか、結婚したってことですか???」
私が大きな声でまくし立てるのを、クロは好きではなく、よく「うるさい」と言い放たれるのだが、今日はとりあえず我慢してくれているらしい。こめかみをぴくぴくさせながらも、かろうじて返事をしてくれる。
「まあ、そういうことだろうな」
「ちょっと早すぎないですか?」
思わずクロに詰め寄ってしまう私を、手で押し返しながら、クロは迷惑そうな顔をする。
「瑞穂……あの陰気男は、別れてどれぐらいだって言ってた?」
「確か……二週間ぐらい?」
それで別の男と結婚というのは、まさか河太郎さんとつきあっていた頃から、あの男性ともつきあっていたのではないだろうかと、優しそうな印象に反した女性のしたたかさに、思わず身震いする私を、クロが腕組みしながらたしなめる。
「いや、そうじゃない。あちらの世界と、こちらの世界では時間の流れ方がまったく違うんだ……河太郎にとって二週間なら、彼女にとっては四、五年ってところか……」
「四、五年⁉」
思っていた以上の時差に、思わず大きな声が出てしまった。
クロはますます眉間の皺を深くする。
「ああ……それだけ音沙汰なかったら、新しい恋人が出来たり、結婚したりするのも当然だろ」
「そうか……そうですよね」
説明をされて理解はしたが、納得は出来ない。
山の上出張所に赴任して、あやかしと関わるようになってから、こういうことが増えた。 彼らにとっての常識は、私にとっては常識ではない。その違いに出会うたびに、私は何度も、こうして納得できない思いを重ねていくのだろう。
(だって……あんなに必死だったのに……)
私に彼女宛ての荷物を頼んだ時の河太郎さんの、藁にも縋るような表情をよく覚えている。
本当に大切で、絶対に幸せにしたいと思っていた彼女なのに、些細な諍いで別れてしまった。だからどうにかして、もう一度自分の気持ちを伝えたいのだと涙ながらに訴えられて、その手伝いを出来ることが、私は誇らしくさえあった。
しかしクロの言うように、その河太郎さんとの別れから、彼女の中では四、五年もの時が経っているのなら、心変わりも責められない。
(だって……あんなに幸せそうなんだもの……)
夫となった人と、楽しそうに手を繋いでいた彼女の姿を見てしまったので、彼女の今の幸せも否定できない。
そこへ行き着くまでに、河太郎さんとの別れの辛さや苦しさを乗り越えて、ようやくたどり着いた新しい幸せなのかもしれないのだから――。
「…………」
二つの感情が心の中でせめぎあい、河太郎さんから預かった荷物を膝に抱えたまま、何も言えない私の車から、突然クロが降りた。
「え……?」
驚いて彼に目を向けた私に、クロはスーツの上着を脱いで後部座席に投げながら命じる。
「瑞穂……今からちょっと俺につきあえ」
それだけ言うと、車の扉を閉めて、さっさとどこかへ行ってしまう広い背中を、私も慌てて車から降りて追う。
「どこへ行くんですか?」
クロの返事はない。私をふり返りもしない。その姿が、誰かの姿と重なる――。
(……?)
不思議な残像は、瞬きする間に消えてしまったが、それと一緒にクロまで消えてしまいそうなおかしな焦燥に駆られ、私は必死に叫ぶ。
「ちょっと待って!」
その声にはかろうじて足を止めてくれたので、半身だけふり返ったクロに向かい、私は全速力で駆け寄った。彼をどこへも逃がさないために――。
人通りの少ない狭い路地へ入ると、クロは大きな木の陰へ入った。古い家屋のブロック塀を越えて、枝が道路にはみ出すほど大きな木で、垂れ下がった枝葉の下へ入ってしまうと、クロの姿はほぼ見えなくなる。
「……クロさん?」
不安に思って呼びかけてみたが、出てきた彼の姿を見て驚いてしまった。
真夜中の配達につきあった日に見た、黒い布で口元を覆って全身黒装束の、背中に黒い翼が生えたあやかしの姿になっている。
「えっ……」
それまで空は、雲一つない晴天だったのに、クロが木の陰へ入ってから、ぶ厚い雲が太陽を隠してしまった。
クロが姿を変えて木の下から出てきて、辺りはいっそう暗くなったように感じる。まだ真昼なのに、急に陽が翳ったからか、気温まで下がったようだった。
半袖姿の私は、思わず自分を抱きしめる。
(寒っ……)
クロは私に手をさし伸べて、短く命じる。
「来い」
手の甲まで黒い装束で覆われたその手を、本当に取っていいのか迷うほどの低い声だったが、これはクロなのだからと私は必死で自分に言い聞かせた。
(大丈夫……不安になることはない……)
クロは私の手を掴むと、近くへ引き寄せた。
腕に抱きしめられて、私の足は地面から浮く。
「…………!」
そうなることはわかっていたのに、あまりの密着具合と突然の上昇に驚いて、けたたましく鳴り始めた心臓の音がクロにも聞こえてしまいそうなほど大きい。
「怖いのなら目でも瞑ってろ」
そう告げると、クロはどこかへ向かって移動を始めた。
高さのほうは、河太郎さんの想い人の里穂さんが住んでいる五階建てのマンションを遥か足の下に見るほど高いが、速さはそうでもない。
だから私は必死にクロにしがみつきながら、飛ぶように過ぎていく足もとの景色を眺めていたのだが、ふと気になった。
「あの……これってもし誰かに見られたら、騒ぎになりません?」
クロが呆れたとばかりにため息を吐いた。
「もちろん、姿は見えなくしてある。人間には見えない」
そう説明されて、私はほっとする気持ちよりも、少し残念な思いのほうが大きかった。
「そうなんだ……」
「なんで残念そうなんだ」
咎めるように訊かれても、どうしてそういう感情になったのか、自分でもよくわからない。
「なんでだろう……」
私の返事にクロはまたため息を吐いて、腰のあたりに回していた手に力を込めた。
「少し上がるぞ」
私が返事をする前にもう上昇を始めていて、私はクロの胸にしがみつく。
「ひぇえええええ」
「せめてもう少し女らしい悲鳴を上げろ」
(とっさにそんなことできるわけないでしょ!)
クロは、怒りの反論を私に言葉にさせないためにわざとやっているのではないかと疑うほど高度を上げ、一つの山を越えてから、山際へ向かって降下を始めた。
見る見るうちに山の緑が足の下へ近づき、その中の少し拓けた場所の、大きな瓦葺の屋根の建物の近くに、ゆっくりと翼を羽ばたかせながら降り立つ。
私の足が地面に着くとすぐに抱きしめていた腕を解かれたので、私は足に力が入らず、よろめいてその場に座りこんでしまった。
「うっ……」
「そのまま少し休んでろ」
そう言い残してクロはどこかへ行ってしまい、帰ってきた時には、家を出た時のようなスーツ姿だった。
「え? 上着……車に置いてきましたよね?」
思わず問いかけた私に、クロは少しバツの悪い顔をして、しっかりと着こんだ自分の黒い上着を見回す。
「そうだったな……まあ、気にするな」
「しますよ!」
叫び返すと、小さなペットボトルの水を放ってよこされた。
「いいから、それでも飲め」
「…………ありがとう」
確かに喉は乾いていたので、ありがたくそれで潤してから私は立ち上がる。
人の気配のない、静かな場所だった。
神社の社殿にも似た古い木造建築が点々と建っており、それらの間に植栽された生垣も、見上げるほどに大きな木も、綺麗に剪定されて手入れが行き届いている。
地面も箒の跡がわかるように掃き清められており、そこに足跡を付けてしまうのが申し訳ないほどだったが、クロは迷うことなく革靴で歩いていく。
「どこへ行くんですか?」
私の質問には答えず、一番大きな建物をまわりこんで、正面へと向かっているようだった。
慌ててそのあとを追い、右方に大きな鐘が吊るされた鐘楼があり、正面の建物の奥に仏像らしきものが見えたので、どうやら寺院のようだと私は判断する。
(お寺か……)
意外な気持ちで見つめる大きな背中は、一礼して門を潜り、鐘楼前の建物へ向かうので、私もそれに倣う。
建物の中から法衣の人物が出てきて、クロと挨拶を交わしているが、お互いによく見知った間柄のように感じた。
(よく来るのかな……)
あやかしとお寺とは、不思議な組み合わせだと思いながら見ている私を、住職と話が終わったらしいクロが呼ぶ。
「瑞穂」
正面にある大きな仏堂の前まで行って手を合わせ、中には入らず、クロは鐘楼の奥から、建物群を抜けていった。
私は何をどうしていいのかわからず、彼がやることをそのまま真似しながら、全てにおいて説明が少なすぎることにだんだん不満が募る。
(シロくんのフォローがないと、クロのやろうとしていることも考えてることも、全然わかんない……!)
私のことを一度もふり返らずに、歩き続ける背中を小走りで追った。
クロが向かっているのは、本尊が祀られた仏堂の奥にある講堂の、更に奥にある建物のようだった。
大きな樹木に囲まれて、ほぼそれに埋もれるような形で、ひっそりと建っているお堂は扉が閉じられている。
クロが手にした鍵でそれを開けたので、おそらく先ほどの住職から鍵を借りたのだろう。
閉じられていたお堂の中には、そこに置かれているものの匂いがこもっており、花とお香のいい香りがした。
花器に活けられた見事な枝ぶりの花は、匂いに反して茶色く萎れてしまっていたのに、クロが手に取ると、見る見る生気を取り戻す。
(すごい……)
どうやら桜の花だったようだ。
クロが満開になった花を花器へ戻し、堂内の埃を軽く払い、手を合わせて頭を垂れるうしろから、私もお堂の中をのぞいてみる。
祀られていたのは思っていたよりもずいぶん小さな仏像だった。金箔などは貼られておらず、素朴な木彫りで、誰かの手作りだろうか、優しい顔の女性に見える。
クロに倣って手を合わせてから、いつまでもその体勢から動かない大きな背中に、私はそっと言葉をかけた。
「優しいお顔の仏さまですね」
「そうか……」
クロがほっとしたように息を吐いたのがわかった。
ようやくお堂の前から移動し、脇に生えている大きな木の下に立って、その表皮を撫でながら、私には背を向ける。
「昔、馬鹿な男がいた」
いきなりそう切り出されたので、少し面食らいながらも、私は頷いた。
「はい」
「それなりに長く生きているあやかしの男だったが、ある時人間の女に恋をして、女のことが頭から離れなくなった。幸か不幸か女も男を好いてくれて、二人は永遠の愛を誓った」
突然始まった昔話が、とても幸せな結末を迎えそうにはなく、私は少し緊張しながら、相槌を打つ。
「はい……」
「だけど幸せは、長くは続かなかった……」
やはりという思いで、私はクロの次の言葉を待った。
少し間を置いてからクロはまた語りだす。声が若干低くなったように聞こえた。
「女は病にかかり、男はなんとかそれを治そうと努力したが、何をやっても効かなかった。女は次第に弱り、最終的には亡くなった。男は自分の力不足を悔いて、いつまでも女のことを忘れられなかった……ずっと……」
そこで昔語りは終わったらしく、またクロの声音が変わる。
「どれほど想っていても、どれほど想われていても、いつかは終わりの時が来る。それは人間同士でも同じだろうが、あやかしと人間だと、あやかしにとっては呆気ないほどすぐに終わってしまう。それから先も長い時間を、生きていかなければならないのに……だから俺は……」
クロは、あやかしと人間が深く関わることを良しとしていない自分の気持ちの根拠を、私に伝えようとしてくれたのだろう。
河太郎さんの恋がとても叶いそうになくて、落ちこんだ私を慰める意味もあったのかもしれない。
口を噤んで私をふり返ったクロの表情は、とても悲しそうなものだった。
それが見る見るうちに、驚きの顔に変わっていく――。
「瑞穂……お前……?」
珍しくうろたえた様子で、クロに呼びかけられて初めて気がついた。私はいつの間にか、涙をぽろぽろ零して泣いていた。
「え? ……あれ?」
自分でもまったく自覚がなかった。クロの話を聞いて、やるせない気持ちになったのは確かだが、まさかこんなに涙が湧いてくるとは思ってもいなかった。
「あれ? ……あれ?」
拭っても拭っても零れる涙に、すっかり困惑している私を、クロが懐かしいものを見るような目で見つめる。それは私を見ているのに、見ていないような、不思議な眼差し――。
「お前が泣くことか?」
いつもの呆れたような言葉が、優しい声音で発せられて、胸がぎゅっと痛くなった。
それはどういう痛みなのか、どうして涙が止まらないのかが理解できなくて、私は困って訴える。
「だって……」
クロは私との間の距離を詰めて、大きな手を私の頭の上にそっと乗せた。
「ありがとう」
とても優しい口調で言って、軽く頭を撫でてから、お堂の前へ帰り、扉を閉めて鍵をかける。
私はその一連の動作を、身動きもせずにただじっと見ていたが、クロが頭を下げてお堂の前を立ち去る前に、「また来る」と小さな声で呟いたので、なんとなく察した。
(そうか……今の話は、クロ本人の話だ……)
だとすると、彼が長く祈りを捧げていた、あの優しい顔の木彫りの仏像は、彼が昔愛した女性に所以するものだろうか。
(たぶん……きっと、そう……)
来た時と同じように、静かにお堂を去っていく背中について歩きながら、また新しく湧いてきた涙で、木々の濃い緑が印象的な光景は、ぼやけて見えなくなった。
次の日の夕暮れ、狭間の時間の宅配屋へ行くのが、私はとても憂鬱だった。河太郎さんに、頼まれた荷物を渡せなかったと報告しなければならない。
(まさか豆太くんみたいに、大きな声を上げて泣いたりはしないだろうけど……)
荷物を頼んだあやかしと、受け取った人間が喜んでくれるためにと、始めた橋渡しのつもりなのに、悲しい思いをさせてしまう確率が高いことに、落ちこみそうになる。
(本当に続けていけるのかな……)
不安な思いで夕方、扉を通ったが、仕事着姿のクロを見て、ドキリとした。
(――――!)
昨日はあの後、またあやかしの姿に変わったクロに抱きかかえられて私が車を停めていた場所まで帰り、更に山の上の家まで帰る間、会話らしい会話はほぼなかった。
車に乗ってスーツ姿になったクロは、腕組みをして目を閉じてしまったので、私は邪魔にならないような静かな曲をカーステで流しながら帰ったのだが、往路ほどの気まずさは感じなかった。クロが少し、自分のことを語ってくれたせいかもしれない。これまでより距離が近くなったように感じた。
しかしそのせいで、今まで冷たくて怖い人だとばかり思っていたクロの違う一面を知ってしまったことも事実で、これからどういうふうに接したらいいのか戸惑いがある。
(実は優しい……のかもしれない……そしてたぶん、ずっと寂しさを抱えている……)
昨日私の頭を撫でてくれた手の温もりを思い出し、そういうふうに考えていたので、そのクロにふいに視線を向けられて、またドキリとした。
「…………!」
実は優しいのかもしれない――などと思ったクロの眉が、とても不愉快そうに、あからさまにひそめられる。
「おい何やってる、瑞穂。忙しいんだからさっさと働け」
ギロリと私を睨みながらの呼びかけに、これからいったいどう接したらいいのかなどと迷っていた気持ちが、一瞬にして跡形もなく吹き飛んだ。
「働きますよ!」
クロに負けないほどの睨みを返した私を、シロがけらけら笑っている。
「瑞穂ちゃん、今日も元気だなー」
「元気が有り余っているのなら荷物も積め、受け付けもしろ、記録も付けろ」
矢継ぎ早に仕事を私に振ってくるクロに、私はしかめ面で答えた。
「言われなくてもやります! あー心配して損した」
「はあ?」
訳がわからないといった顔で首を傾げたクロに背を向け、私は自分の担当の窓口へ向かう。出社早々因縁をつけられるという、よくよく考えればパワハラ案件だったのに、心は妙にすっきりしていた。
いつものように受け付けをこなし、その列が切れたのを見計らってから、私は少し外に出てもいいかと隣のシロに訊ねる。
「だって、ほら……今日も入ってくる気はなさそうだから……」
ガラス扉の向こうに見える大きな木の陰には、私が仕事を始めた時からずっと、ひそかにこちらをうかがっている河太郎さんの姿があった。
「あー」
理解したとばかりに頷きながらも、シロはクロをふり返る。
クロは私を見ず、荷物の受け付けを続けながら答えた。
「瑞穂はダメだ。逆上して何をされるかわからない。俺かシロが……」
言葉の途中ではあるが、シロが申し訳なさそうに口を挟む。
「いや、それは……無理じゃないかな……ほら」
シロがすっと木の陰の河太郎さんを指さすと、彼は小さく飛び上がり、慌てて木の陰に完全に姿を隠す。
「ちっ」
舌打ちしたクロに、私は手を挙げた。
「やっぱり、私が行きます。二人がここから見守っていてくれれば、それで安心だし……ね?」
河太郎さんが身を隠している木は、それほど建物から離れていないので、例えもしクロが心配するような事態になったとしても、二人がすぐに駆けつけるだろう。
そう考えてシロとクロの顔を見ると、シロはにっこり笑い、クロは渋々といったふうではあるが、頷いてくれた。
「気をつけて行くんだぞ」
クロに念を押されて、私はガラス扉を出た。
「あの……河太郎さん……」
私が呼びかけても、体の半分は木の陰に隠したままの河太郎さんは、そこから出てこようとしない。目に被さるほど長い前髪の隙間から、私が手に持っている小さな箱を凝視している。
それは先日彼に人間の恋人宛てに届けてくれと預けられた箱で、それが今ここにあるということは、配達が完了していないことを示している。
「どうして……?」
震える声で問いかけてくる彼に、私は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません! 荷物はお届けできませんでした」
「だから……どうして?」
どこまで話していいのか迷いながら、私は自分の判断の理由を伝える。なるべく彼を傷つけずに済むように、言葉を選びながら――。
「私……あやかしの世界と人間の世界の時間の流れにはズレがあるって理解してなくて……河太郎さんから、二週間くらい前に喧嘩別れした彼女だって聞いてたので、きっと話をすれば受け取ってもらえると簡単に考えていたんですけど、その話をするのが、今の彼女にとってはいいことなのか、悪いことなのか、判断がつかなくて……」
「里穂……どうなってたの?」
恐る恐る訊いてくる河太郎さんに、なんと説明すればいいのか、頭を捻る。だがいくら考えても、事実を伝える以外にはなく、もう一度頭を下げる。
「人間の男の人と結婚されてました。とても幸せそうだったので、河太郎さんの荷物は……」
そこまで言ったところで、ざあっと大量の雨が降ってきたような音がした。
「え?」
しかし雨に打たれた感覚はなく、慌てて顔を跳ね上げた私の目の前には、河太郎さんが立っている。
「きゃ……」
悲鳴を上げかけた私の手から、ひったくるように箱をとり戻すと、彼はさっとどこかへ行ってしまった。
「もういい」
小さな呟きに重なるようにして背後から声が響く。
「瑞穂!」
「瑞穂ちゃん!」
私の悲鳴を聞きつけて、クロとシロが宅配屋から飛び出してこようとするところだった。
私は慌てて、二人へ向かって手を振る。
「大丈夫、大丈夫。なんでもないから」
言いながら宅配屋へ帰る私に駆け寄り、シロは顔をのぞきこむ。
「本当に? 何もされてない?」
クロはきょろきょろと辺りをうかがっている。
「あいつ……どこへ逃げた?」
二人が私の左右に立ち、護られながら宅配屋へ帰ったが、自分の脚が震えていることは自覚していた。おそらく顔色も悪いだろう。
(びっくりした……あんなスピードで移動されたら、何もできない……)
改めて、あやかしに対して自分はとても無力なことに、私は恐怖を覚えていた。
「いいか? 扉を潜って宅配便出張所へ帰ったら、すぐに家へ帰れ。絶対に鳥居の向こうへは行くなよ」
完全に陽が沈みかけ、私がいつものように壁に出来た扉を通って出張所へ帰る時、クロは何度も念を押した。
「気をつけろよ」
「……うん、わかった」
真剣に頷いて帰ろうとする私に、シロが心配そうな顔を向ける。
「やっぱり俺たちがここを締め終わるまで、出張所で待ってたほうが……」
「それじゃ完全に夜になる。俺たちが間にあわなかったらどうなる?」
「……そうだよね」
クロと話しあって、シロは私に向けて拝むように顔の前で手を合わせた。
「ごめんね、瑞穂ちゃん」
「ううん、大丈夫! すぐに走って帰るから!」
シロが気にしないように、明るく答えたが、本当は私も不安に思っていた。
「瑞穂……帰ったら今日は、ちらし寿司と鰹のたたきだ」
クロが謎の励まし方をしてくれる。
「へ? ……っは、何それ」
一瞬呆気に取られ、それから私は笑ってしまった。
「ははっ……楽しみに帰ります」
「ああ」
笑う私を見つめるクロの顔つきが、昨日寺院で頭を撫でてくれた時のように優しくなる。
あの後の複雑な感情まで思い出してしまいそうで、私は慌てて二人へ背中を向けた。
「じゃあ、帰ります」
「お疲れ様でしたー」
シロの声を背中で聞きながら扉を通り、すぐに宅配便出張所の戸締りをした。
外は完全に暗くなる前のわずかな陽光で茜色に染まっており、それがなくならないうちにと、私は急いでガラス扉を出る。
扉を施錠して、なるべく神社の鳥居に遠いほうから建物をまわりこもうと、ふり返った時には目の前に河太郎さんが立っていた。
「―――――!!」
悲鳴を上げかけた私の口を手で塞いで、そのまま私をひきずりながらどこかへ向かう。
それはもの凄い力で、まったく逃げられそうにないし、そもそも恐くて体が動かない。
(助けて! シロくん! クロさん!)
それは、彼らが今閉店準備をしている狭間の時間の宅配屋ではないのに、電気の消えた出張所へ向かって、私は祈るように心の中で叫ぶしかなかった。
私をひきずって出張所横の空地へ行った河太郎さんは、車の鍵を開けさせて私を運転席へ押しこむと、自分も助手席へ乗りこんだ。
血走った目で私を睨みながら、怒りをこらえるためなのか、悲しみに耐えるためなのか、しきりに下唇を噛みしめている。こぶしを握り締め、肩を震わせながら、口を開いた。
「今すぐ里穂のところへ連れていけ。お前の車はそんじょそこらのあやかしより速く走れるんだろ? 豆太から聞いた」
「あ……」
驚く私に向かって、震えながら叫ぶ。
「早くしろっ!」
「はいっ!」
つられて返事はしても、豆太くんを乗せて田中さんの家へ行ったり、そのあと病院へ田中さんを運んだりした時のように、目を開けたら目的の場所へ着いていたというような芸当は、いつでもできるわけではない。
現に私は、あれから何度か試してみようとしたが、一度も成功しなかった。
今回も成功する確証はまったくないのだが、もし今発動することができなかったら、ますます河太郎さんの怒りは増すだろう。
その時、自分はどうなるのか――祈るような気持ちで、ハンドルを握らずにはいられなかった。
(御橋神社の神様! どうか今すぐ私たちを里穂さんのマンションの近くまで連れて行ってください! お願いだから……どうか!)
私の決死の祈りが届いたのか。それともこれはもともと、ダッシュボードの裏に貼ったお札を発動するのに足る事案なのか――。
理由は定かではないが、お札のあたりからぼんやりとした光が広がり始める。
(やった……来た!)
瞬く間にそれが、目を開けていられないほどの眩しい光になると知っている私は、助手席に座る河太郎さんに急いで忠告した。
「河太郎さん、目! 目を瞑ってください、すごく眩しくなりますから!」
「目? うわあああ……眩しい! 溶けてなくなるっ……光は……光は嫌いだぁ!」
「すみません、すみません! 我慢してください」
「くそおおお!」
凄い唸り声をあげている河太郎さんが無事なのかはわからないが、車は以前のように勝手にエンジンがかかり、進んでいる感覚がある。
(どうぞ無事に着いて!)
祈るうちに、瞼の裏の眩しさが和らぎ、私は恐る恐る目を開いた。
(……着いた?)
フロントガラスの向こうに広がるのは夜の街なので、灯りが乏しく、目が慣れるまでよく見えないが、少なくとも大鳥居前の参道の風景ではない。
隣の河太郎さんに目を向けてみると、シートの上で膝を抱えて、顔を突っ伏していたので、そっと肩を揺すって声をかけた。
「河太郎さん、もう大丈夫ですよ……どうやら着いたみたいです」
私に少し触られただけで、「ひいっ」と悲鳴を上げて身を引く河太郎さんは、とてもさっき私を力ずくで出張所前からさらった者と同じとは思えない。
怯えながら顔を上げて周囲をうかがい、窓の外の景色を見て、ぽつりと呟く。
「本当だ……里穂の家の近くの川だ……」
助手席の扉を開けてふらふらと車を降りていったので、私もそのあとを追った。
車が着いたのはかなり大きな河川の土手だったようで、薄暗い中、懐中電灯を持って犬を散歩させている人や、ライトを点灯させた自転車が傍を通り過ぎると、河太郎さんは悲鳴を上げて土手の繁みの中に身を隠す。
「ひいっ」
そのたびに私は彼が再び土手まで上がってくるのを待つことになるので、なかなか先に進まないのだが、河太郎さんは他人が傍に近づくことが苦手らしい。
「里穂さんは……大丈夫だったんですか?」
彼がずっと左手に握りしめている箱を見ながら尋ねると、ぼそっとすぐに返事があった。
「彼女は……特別だから……」
「特別?」
河太郎さんは両手で箱を握り直して、下を向いてどんどん歩を進めながら、早口に語る。
「雨の日に出会った僕の姿を見ても、全然驚かなかった。あちらの世界の住人だって、僕を見たら怯えるか、馬鹿にするかするのに……一緒にいると楽しいですって笑ってくれて、好きですって言われて、僕も好きですって答えて、ずっと一緒にいようと誓ったのに、僕はやっぱりこんなで、彼女を困らせてしまうから……だから……だから、僕は……」
一生懸命に後を追いながら、私は彼の言葉の続きを自分で想像して口にした。
「別れようって言ったんですか? ……優しいですね」
「…………!」
河太郎さんがぴたりと足を止め、驚いたように私をふり返った。
目の下のクマが濃い瞳に、見る見る涙が浮かび上がる。
その顔を見ながら私は、彼の本質は本当に優しくて、このままなら無茶なことをしでかす前に、説得ができるのではないだろうかと思った。
ゆっくりと河太郎さんに歩み寄って、車へ戻るように説得を試みる。
「話を聞きますよ。河太郎さんの気持ちが落ち着くまでいくらでも……私でよければ……だからいったん、今日のところは山の上へ帰りませんか?」
「瑞穂殿……」
(殿……?)
殿付けで名前を呼ばれたのには驚いたが、河太郎さんがどれほど昔から生きているのか、私には想像もつかない。
そういう呼び方が一般的だった時代から、すでに生きていたのだとすれば、そうおかしくもないことだ。
「帰りましょう」
私がさし出した手を、河太郎さんが戸惑いながらも取ってくれようとした時、土手の下の道路から、三人の親子が土手へ上がってきた。
「こらー走ると危ないぞー」
「あはははは」
三歳くらいの男の子と、それを追う優しそうな若いお父さん。そして二人を見守る優しそうなお母さん。
その女性の横顔を見て、河太郎さんが固まった。
「あ……」
女性が何気なくこちらをふり返る前に、河太郎さんはさっと姿を消してしまう。
どうかしたのだろうかと首を傾げる女性に、私はお辞儀をして、土手下の繁みに身を隠したはずの河太郎さんを、必死で捜していた。
(どこ? どこに行っちゃったの?)
女性は里穂さんだった。若いお父さんは先日エレベーターで一緒になった里穂さんの旦那さんなので、男の子はおそらく二人の子どもなのだろう。
ごく普通の幸せそうな家族。
しかしそれは、河太郎さんにとってはひどく残酷な現実で、おそらく深く傷ついたであろう彼が、このあと衝動的にどんな行動に出てしまうかと思うと、私は気が気じゃない。
(どこ? どこなの?)
必死に草むらを見渡す私の視界の遥か前方で、川の水面が大きく盛り上がった。
「え……?」
大きく隆起し、ビルほどの高さになったそれは、ぱあんと弾けると、一方向へ向かってもの凄い速さで流れる水流になる。
息を呑むほどの勢いの水流の中に、いつものフード付きのパーカーを脱ぎ捨てて、頭に皿、背中に甲羅のあるあやかしの姿になった河太郎さんが見えた気がした。
「いけない!」
私は里穂さんを押し退けて、彼女の旦那さんと子どもに駆け寄る。
しかし間一髪、旦那さんが水流に呑まれるのには間にあわず、かろうじて男の子を抱き止め、里穂さんのほうへ押し出すと、代わりに私が水に呑まれてしまった。
「きゃあああああ」
「あなたー!」
私の悲鳴と、里穂さんの悲鳴が辺りに響く。
土手には決して他に人影がないわけではなく、ジョギングしている人も自転車で通りかかった人もいたふうなのに、誰も里穂さんの旦那さんと私が水流に呑まれた瞬間を見ておらず、泣き叫ぶ里穂さんをぽかんと見ている。
そういう光景が、ごうごうと流れる水の向こうにぼんやりと見えた。