「それで? 結局ここに住むことにしたのか?」
夕刻――。
熱々の湯気を上げる鍋を卓袱台で囲みながら、クロが私に鋭い目を向ける。
柔らかな豆腐を箸で掴もうと悪戦苦闘しながら、私は少し唇を尖らせた。
「だって、せっかく週の半分が休みでも、アパートに一人でいたら寝るぐらいしかすることないし……」
「お前な……」
クロは呆れたように何かを言いかけたが、シロが明るい声でそれを遮る。
「あ! 瑞穂ちゃん、庭の掃除してくれたんだよね。すごい綺麗になってた! ありがとー」
「あ……うん」
率直なお礼に気分が良くなって、私は少し胸を張りながらクロを見返した。
クロはふんっと私から顔を逸らし、鍋へ視線を落とす。
「ご飯もさー、二人で食べるより三人のほうが賑やかでいいよね。クロも作り甲斐があるでしょ?」
無言で白菜を口へと運ぶクロを横目に見ながら、シロは大きく口を開けてにかっと笑う。
「夏も近くなって鍋っていうのは、ちょっと驚いたけど……」
「ご、ごめんね!」
あまり深く考えずそのメニューをリクエストした身としては、肩身が狭い。
「明日は素麺なんてどうかな?」
「早すぎるだろ、馬鹿」
シロとクロのやり取りを聞きながら、私も食事を続けた。
「午後からは荷物を取りにアパートに帰ったけど、午前中草むしりをしてる時もいろんな人に会ったよ」
私の話を聞きながし、次々と鍋からお肉を取っていたシロの箸が、次の瞬間ぴたりと止まる。
「昨日宅配を頼みに来たお婆ちゃんでしょ……それから『みや』ちゃん」
「みや……ちゃん……?」
訝るように目を向けられたので、私は簡単に説明をした。
「まだ小学校にいかないくらいの小さな女の子……私が草むしりするのを鳥居の向こうからずっと見てて……呼んだら来たんで、それから一緒に作業したの」
「ねえ! それって……」
がばっと自分のほうを体ごとふり返ったシロを、クロが視線で制した。
それきり口を噤んでしまったシロと、黙りこんだままのクロの顔を、私は交互に見る。
「なに? みやちゃんがどうかしたの……?」
「いや、なんでもない」
クロはさっさと答えて、食事を再開したけれど、何も入っていないお皿を箸でかき回している。
シロのほうは、自分の取り皿にお肉を山盛り取ったのに、いつまでもじっと鍋を睨んでいる。
(へんなの……)
あからさまに態度のおかしくなった二人が気になって、せっかくの美味しいお鍋も魅力が半減したようだった。
翌日、朝八時に営業所へ行き、配送車が運んできたこの近辺の荷物を受け取り、配達を済ませてから十時に営業所を開店させると、待ってましたとばかりにガラガラガラと台車を押して、多香子さんがやってきた。
「瑞穂ちゃん、こんにちは。お疲れ様。今日の荷物はこれだけよ。代金はこれ。前回の領収書をくれる?」
他にお客もいないのだからゆっくりと順番に用を済ませればいいのに、多香子さんはせっせと台車から荷物を下ろし、カウンターの中の私に向かって右手をさし出す。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね」
一昨日準備しておいた領収書を、そよ風宅配便の名前が入った封筒に入れ、手渡すと、多香子さんはいそいそとカウンターに背を向けた。
「じゃあまた明後日ね。今日のぶんの領収書はその時に! ありがとう」
ばたばたと営業所を出ていく多香子さんを見送るため、私も慌ててカウンターを出て、先に立って重たいガラス扉を押し開ける。
「ありがとうございました! またよろしくお願いします!」
大きく手を振って帰っていく多香子さんが置き去りにした荷物を、それから仕分けしてカウンターの中へ運び入れ、数を確認して伝票を整理し、売上帳に記入して領収書を書いた。
それらすべてを、街の営業所でやっていた時の三倍も時間をかけて、一つ一つ丁寧にやったのに、終わって壁に掛けられた時計を見てみたら、まだ十時半。
(三十分しか経ってないじゃない……)
時間の進みがあまりにも遅いことに絶望しながら、仕方がないので、棚の書類の整理をして、営業所内の掃除までやった。
(でもこれって、本来は営業時間中にやることじゃないわよね)
お昼になったのでお湯を沸かしてお茶を淹れ、クロが作ってくれたお弁当を食べる。
「いただきます」
自分とシロのぶんを作るついでだからと、出がけに渡されたが、楕円形の竹製のお弁当箱の蓋を開いてみると、彩りの美しさと栄養バランスの見事さに感嘆せずにはいられない。
(鰤の照り焼きとほうれん草のお浸し、卵焼き、きんぴら、ミニトマト、ゆかりご飯……)
ぴしっとスーツを着こなしたクロも、おしゃれな大学生のシロも、それぞれの昼の活動場所でこのお弁当を開いているのかと思うと笑いがこみ上げてくる。
(ぜったい料理男子って思われてるでしょ)
自分だけは、この綺麗で美味しそうなお弁当を、見せる相手がいないことを少し寂しく思いながら、私は全て食べ終えて、奥の小さな流し台でお弁当箱を洗い、乾かすまでしておいた。
(休憩時間と仕事時間の線引きが難しいな……)
することもないので、午後からも掃除を続け、そろそろやる場所もなくなったので屋外にまで手を伸ばそうかと思った頃、ようやくガラス扉の向こうに人影が映った。
「あ……」
昨日麦わら帽子を貸してくれたお婆さんだと思い当たり、急いでカウンターを出て、扉を開いてやる。
営業所内へ入って来たお婆さんは、今日は誰かへ送るための荷物は持参していなかったが、手提げ袋の中から大きな包みをとり出した。
「瑞穂ちゃん、これ。蒸しパンだけど、たくさん作ったからおすそ分け」
ラップに包んだ丸い蒸しパンをさし出されて、思わず手を叩いて喜んでしまった。
「やったあ! ありがとうございます!」
私に蒸しパンを手渡したお婆さんは、ニコニコしながら周囲を見まわしている。
壁際に並べた順番待ち用の椅子に目を止めたように見えたので、私は急いでカウンターを出て、椅子をもっと部屋の真ん中に移動してあげた。
「よかったらお茶でもどうですか? 今淹れますから」
流しの隣の棚に幾つもしまわれている湯呑みは、前任の田中さんもそういう使い方をしていたのだろうと勝手に解釈する。
「ありがとう」
椅子にちょこんと座ったお婆さんは、背が低すぎてカウンターの向こうに見えなくなってしまったので、私もカウンターを出て、お婆さんの横に椅子を並べて座ることにした。
ガラス扉越しに参道の風景を見ながら、のんびりと二人でお茶を飲む。
午前中にガラスをピカピカに磨いておいてよかったと思った。参拝客が御橋神社へ向かって歩いている光景がよく見える。
「お参りの人、多いですね」
「有名なお宮じゃけえね」
年配の団体客や着物姿の男女。制服姿の若い子たちは修学旅行だろうか。
土産物屋や甘味処、食堂や足湯などは人で賑わっているが、参道沿いにあるというのに、宅配便の出張所はさっぱりだ。
「お客さん来ないな」
思わず声に出して呟くと、お婆さんはふぉふぉふぉと笑った。
「庄吉さんもよくそう言っちょった」
「やっぱりですか?」
思わず一緒に笑った時、ガラス扉の端から見たことのある顔がぬっと現れた。黒髪の女の子で、私と目があうと慌てておかっぱの頭が引っ込む。
私は急いで椅子を立ち、扉に駆け寄って呼びかけた。
「みやちゃん!」
慌てて建物の陰に隠れかけていた少女は、私が扉を開いて呼びかけると足を止める。
うかがうような目でふり返るので、私はなるべく笑顔を心がけて、少女を手招きした。
「遊びに来たの? おいで、蒸しパンがあるよ」
少女はぱあっと顔を輝かせて、ぱたぱたと足音をたてて駆け寄ってくる。
腕に抱き上げて出張所の中へ連れて帰ると、お婆さんが目をまん丸に見開いていた。
「あれまあ……瑞穂ちゃん、みや様と知りあっちょったの……?」
少女は私の腕の中で体を捻って、お婆さんに手を振る。
「千代!」
それでお婆さんの名前は千代さんというのだと、初めて知った。
みやちゃんをカウンターの中へ連れていって手を洗わせてから、私がさっきまで座っていた椅子に座らせる。千代さんから蒸しパンを受け取ったみやちゃんは、可愛らしいお口を大きく開けて噛みつき、とても嬉しそうだ。
もう一つ椅子を出してきて、千代さんと私でみやちゃんを挟む並びになって、しばらく一緒にお茶を飲んだり蒸しパンを食べたり、参道を眺めたりした。
千代さんが帰る時、みやちゃんも一緒に帰っていったのだが、みやちゃんの手を引きながら千代さんが、私にふり返って言った。
「みや様と仲良くなったんなら、瑞穂ちゃん。暇だと言ってられるのも今のうちだけじゃよ」
「え?」
どういう意味だと聞き返すことはできなかった。
私が返した麦わら帽子を片手に、反対の手にはみやちゃんの手を引いて、千代さんは神社のほうへ帰っていった。
結局その日も、山の上出張所を訪れた人物は多香子さんと千代さんとみやちゃんだけだった。
しかも千代さんとみやちゃんは、暇な私につきあってお茶を飲んでいっただけなので、ちゃんとしたお客さんとしては多香子さんだけということになる。
(これって本当に大丈夫なのかな? ……営業所の存続に関わるのでは?)
壁に掛けられた時計が午後四時半を過ぎると、のんびりと閉店準備をし、ガラス扉に鍵をかけた。
カウンターの中で事務作業をしているうちに、カウンターの入り口がある壁とは逆の壁に、昼間はなかったドアがいつの間にか姿を現わしている。
「しまった……いつ出てくるのか、見張ってようと思ってたのに……」
カウンターを出て、扉の前に立ってみる。なんの変哲もない、ごく普通の扉だ。
(だから一昨日、警戒もなく開けちゃったんだよね……)
果たして今日はどうしたものかと、扉の前で腕組みして考える。
(開けたらやっぱり、あの不思議な部屋に繋がってるのかな……確か『狭間の時間の宅配屋』って、シロくんは言ってたよね……)
少し悩んだ末に、ドアノブを掴んで回してみる。扉はあっさりと開き、一歩を踏み出すと全身を膜のようなものに包まれた感覚があった。
(…………)
何度経験しても、あまり気持ちのいいものではない。ぎゅっと固く目を瞑っているので周囲の状況は見えないが、音だけは一足先に私の耳に飛びこんできた。
「あーっ、やっと来たぁ」
「遅いぞ、瑞穂」
シロの嬉しそうな声と、クロの不機嫌な声、その背後でがやがやと響くたくさんの声。
目を開けてみると、年代物の古いカウンターの中で着物姿のシロとクロが働いており、店舗側ではいろいろな形をした来店客たちがひしめきあっていた。その列は扉の外まで続いている。
(きゃああああ!)
異形の利用客へ目を向けると、背筋がぞわぞわして悲鳴を上げそうになるので、カウンターの中のシロとクロを見ながら足を進める。
しかしなかなかに、私を見るクロの目は鋭い。
「さっさと荷物を奥へ運べ。置き場がなくて仕事の効率が悪い」
「はっ、はいっ!」
慌ててカウンターの中へ入り、うず高く積まれた荷物を奥へ運び始める私に、シロが申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。
「ごめんね、瑞穂ちゃん。女の子なのに力仕事任せちゃって……」
「ううん」
「気にしなくていいよ」とシロに伝えたかったのに、クロに「それしかできないんだから仕方ないだろ」と言い放たれると腹が立つ。
(むっ……)
こちらをふり返りもしない黒い大きな背中を睨みながら、私は荷物を運んだ。
昼間、彼が作ってくれたお弁当にたいへん感謝したことは、ひとまず意識から追い払っておく。
昼間の宅配便出張所とは真逆に、いつまで経っても来店客が途切れることはなかった。
(うらやましいような……ここまで忙しいのは、やっぱり望んでいないような……)
黙々と荷物を積んでいる私の耳に、珍しく少し困ったようなシロの声が聞こえてくる。
「ごめんね。それは預かれないんだ……」
配達を断ることもあるのだと思いながら、シロのほうをふり返ってみると、利用客がいるはずのカウンターの向こうに誰もいない。
「!?!?」
荷物を取りに行くついでに覗いてみると、背が低くて見えていないだけだった。
(びっくりした……)
みやちゃんより少し大きいくらいだろうか。目がくりくりした茶色い髪の可愛い少年が、涙目で必死に訴えている。
「お願いします! お願いします!」
困ったようにシロがクロのほうを向き、クロが黙ったまま首を横に振ったので、シロはもう一度少年に向かって謝った。
「ごめんね」
「次」
クロが冷たく言い放つと、少年の後ろに並んでいた大男が前に出て、少年は列からはじき出されてしまう。
(あっ!)
ぶつかられた拍子に少しよろめいて、落としそうになった荷物を大切に抱え直した様子に、私は憤りを感じた。
「ちょっと! クロさん……」
しかしまだ何も言葉にできないうちに、クロの声が重なる。
「口を開いている暇があるのなら、さっさと手のほうを動かせ、瑞穂」
(むむむ……)
私はきゅっと唇をひき結び、これまでよりもスピードを上げて荷物を運んだ。
その間に、男の子は列の後ろに並び直して、またシロくんに荷物の引き受けを頼んでいるけれど、何度も断られている。
(どうして……?)
怒りのあまり猛スピードで荷物を積み終え、少し余裕ができた私は、カウンターを出て、外の夕暮れ具合と、残りのお客の数を確認するふりをして、シロとクロからは死角になる場所に、男の子を手招きした。
涙に潤んだ瞳で私を見た男の子は、怪訝そうにしながらもこちらへやってくる。
「これを送りたいの?」
胸に大切に抱えている包みを指さして小声で尋ねると、細い首が折れてしまいそうにこっくりと頷いた。
私はカウンターの中から持ち出してきた木簡と印章をとり出して、見よう見まねで引き受けの手続きをしてみる。
(ここにお届け先の名前を書いて、ここに差出人の名前を書いて……)
筆など扱えないので、ボールペンでいいだろうかと危ぶみながら、少年に問いかける。
「僕のお名前は?」
少年は私の横にしゃがみこみ、小さな声で耳打ちした。
「豆太」
「まめたくん、と……」
漢字でどう書くのかまでは訊ねなかった。あやかしの子どもが私たちと同じ字を使っているのかわからないし、ひらがなでいいのかも不明だし、そもそも時間がない。
クロとシロに気づかれないうちに、なるべく早く引き受けてしまわなければいけない。
「誰に届けるの?」
少年は少し頬を緩めて、にっこりと笑った。
「じいちゃん」
「じいちゃん……」
さすがにそれではダメだろうと思いながら、もう一度訊ねてみる。
「じいちゃんのお名前は? わかる?」
「ん? 瑞穂……どこ行った?」
私がいないことに気づいたらしいクロの声がカウンターの向こうから聞こえてきて焦る。
木簡に先に割印を押して、少年が答えてくれた名前を急いで走り書きした。
「たなかしょうきち」
「たなかしょうきち」
問題は、私に指で木簡が切れるのかということだ。
指ですっと撫でてみたが、変化はなかった。
「おい、瑞穂?」
「瑞穂ちゃん?」
私を捜しに二人がカウンターから出てくる前にと念をこめて、もう一度指で線を引く。
やっぱり切れない。
(お願い!)
少年の縋るような眼差しをすぐ近くに感じながら、祈りをこめて指を動かすと、何をどうしてそうなったのか、木簡がぱかりと二つに切れた。
「あ……できた」
「いたいた瑞穂ちゃん、こんなところにって……ああ?」
「瑞穂、お前!」
ちょうど私を発見したシロとクロから庇うように、豆太くんを背中に隠し、小さな手に木簡の控えを握らせた。
「はい、確かにお引き受けしました」
「何をやったかわかってるのか? おい!」
すごい剣幕のクロから守るように、豆太くんを出入り口のほうへ押し出して、それからその場に立ち上がる。
「何をって……だから、宅配の引き受けを……」
「いったいいつの間に印を結べるように……そもそもあれは……」
もともと吊り気味の目を更に吊り上げて、大きな声で怒鳴るクロよりも大きな声で、その時シロが叫んだ。
「まずいよクロ! 日が暮れ終わる!」
その声に弾かれたようにふり返ったクロと共に、私が目を向けたガラス扉の向こうでは、確かに参道の風景が闇に染まり終わろうとしていた。
クロは大きなため息を吐いて頭を左右に振ると、声の大きさをいつものレベルに戻して、私の腕を掴み、壁へ向かって歩き始める。
「とにかく今は戻れ、瑞穂。話は家へ帰ってからだ」
「え? ……え」
山の上出張所へと続く扉を開けたクロに、背中をぐいぐいと押され、何も答えられないままに私は、狭間の時間の宅配屋から追い出される。
「ちょ、ちょっと!」
ぼわっと体を膜に包まれ、次の瞬間には、何もない白い壁に向かって叫んでいた。
「なんだっていうのよ!」
誰もいない店内に、響く声が虚しい。
気がつけば私は、すっかり暗くなった宅配便出張所の店内に、一人で佇んでいた。
「あ……」
頭では理解しているつもりだが、あちらの世界とこちらの世界の間にあるという狭間の宅配屋の営業時間は、日が沈み始めてから沈み終わるまでの間だけ。
その時間を過ぎるとこちらの世界へ帰れなくなるそうで、それを回避すべく、クロとシロが私を返してくれたことは理解できるが、突然気持ちを切り替えるのは難しい。
『話は家へ帰ってからだ』
最後にクロが言っていた言葉を思い出すと、出張所裏の社宅へも帰りたくなくなる。
(嫌だな……街のアパートに帰ろうかな……)
そうは思っても、どうしてあそこまでクロが怒ったのかも気になり、理由を知るためには、やはり社宅へ帰るしかない。
(嫌だな……怒られるんだろうな……)
憂鬱な気持ちながらも、お昼に美味しくいただいたクロの手作り弁当のカラになった容器を持って帰ることは、しっかりと忘れなかった。
(どうしよう……)
帰ろうと決意して出張所を出たものの、なかなか決心がつかなくて、私は社宅を前にしてもうかなりの時間立ち尽くしている。
中からは声が聞こえてくるし、なんだかいい匂いもしてきたので、クロとシロはとっくに帰り、夕食の支度も始めているのだろう。
(ええい、ままよ!)
勢いのままに玄関扉をガラガラと開き、「ただいま」と靴を脱いでいると、玄関から真っ直ぐ続く廊下に、シロが滑り出てくる。
「瑞穂ちゃん! よかった……ちゃんと帰って来た……」
その手に持っている菜箸と、白いエプロン姿を見て、今日は彼も夕食作りを手伝っているのだと察する。
「能天気狐、揚がってるぞ」
台所から聞こえてくるクロの声に、慌ててそちらへ帰りながら、シロは私に茶の間で待っているように指さした。
「もう少しで出来るから、手を洗って待っててね」
「うん、ありがとう」
言われるままに洗面所で手を洗い、台所と続き間になっている部屋に入ると、とてもいい匂いが充満している。
(今日は天ぷらか……)
ぱちぱちと油の跳ねるいい音と共に、シロは何度も私をふり返り、卓袱台を拭いてくれだの、箸を並べてくれだの手伝いを頼むが、隣に立つクロは一度もふり返らない。
調理台のほうを向いたままの背中が、やけに怖い。
(やっぱり怒ってる……)
できればその怒りの理由を先に聞きたかったが、天ぷらが冷めないうちにと、まずは夕食を食べることになった。
「いただきまーす!」
一人で元気にふるまっているシロが可哀相なので、私も「いただきます」と答えて白いご飯が山盛りになった茶碗を手に取ったが、クロはひと言もしゃべらない。
黙々と、シロと二人で作った夕食を口に運ぶ。
「………………」
山菜と根野菜の天ぷらに、卵とわかめのすまし汁。かぶの浅漬けと小魚の佃煮。
どれもほっぺたが落ちそうなほど美味しいのに、食卓には重い空気が漂う。
クロにつられたように私もシロも黙々と食べ続け、後片付けをし、配達へ向かう準備を始める段階になって、ようやくクロが重い口を開いた。
「瑞穂……お前、今日自分が何をしたかわかってるのか……?」
勝手なことをして叱られるとは重々承知していたので、私はクロの前に正座し、素直に頭を下げた。
「ごめんなさい、勝手なことをして……でも豆太くんが可哀相で……」
私の言い分を聞いて、クロははあっと溜め息を吐く。
しかしここで怯んではいけない。
「どうして彼の荷物は引き受けてあげなかったんですか? 子供だから? 支払いができないとか?」
そもそも他の来店客も、代金らしいものを支払っているところを見たことはないのだが、いったいどういうシステムになっているのだろうと思いながら問いかけると、それ以上言うなとばかりに、クロが私の顔の前で大きな手を広げた。
「違う。あれは俺たちの管轄外の荷物だったからだ」
「管轄外?」
首を傾げた私の隣に、シロが座る。
私の顔を覗きこむようにして、紅い縁の眼鏡越しに問いかけてくる。
「俺たちが引き受けているのは、あやかしの荷物だってことはわかってるよね? あやかしからあやかし宛ての……」
「うん、もちろん……」
それがどうしたのだろうと頷きながら、私ははっとした。
「ああっ!」
豆太くんが宛先の名前を言った時に、どこかで聞いたような気はしたのだ。
しかしクロとシロに見つかる前にと、とにかく焦っており、聞いたままに木簡にボールペンで走り書きした。
「田中庄吉……」
山の上出張所の前任者の名前を、豆太くんは確かに口にした。
「あれ……あやかし宛てじゃなかったんだ……」
呆けたように呟く私から、クロがぷいっと顔を逸らす。
「だから断わっていたのに、お前が勝手に……」
これは思っていた以上にたいへんな事態ではないかと、私は必死に頭を下げた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
クロが私の前から立ち上がった気配がする。
「引き受けてしまったものは仕方がない。お前がどうにかしろ」
「え……?」
思いがけない言葉に驚いて、顔を上げてみると、もうさっさと玄関へ向かっている。
「俺たちは俺たちの仕事をやる。引き受けたあやかし宛ての荷物を、今夜中に配り終えなくちゃならない。明日も仕事だからな」
シロも私の肩をぽんと叩いて「ごめんね」と小さく呟くと、クロのあとを追って立ち上がる。
「人間宛ての荷物は、人間の宅配業者のお前がどうにかしろ。幸い明日は定休日だろ」
そう言い残すと、玄関扉を開けて出て行ったクロに何も言い返すことはできなかった。
「じゃあ、これ……」
申し訳なさそうにしながらも、私が豆太くんから預かった荷物を私に渡し、シロもクロのあとを追って出て行った。
「そんなあ……」
カラカラと軽い音のする小さな荷物を抱きかかえて、私はその場で彼らを見送った。
その夜、彼らが何時ごろ仕事を終えて帰ってきたのかを私は知らない。
茶の間で豆太くんの荷物を抱えたまま、途方に暮れた私は、どうやら眠ってしまったらしく、気が付くと翌日の朝だった。
「――――!」
初日の夜に続き、自分に割り当ててもらった部屋に帰らず居間で寝てしまったことに焦って飛び起きたが、今回は服装が変わっていることもなかった。
そよかぜ宅配便の制服のままだ。
「ああ……着替えさせてもどうせまた、その服に着替えなくちゃならないだろうと思ってほっといた」
涼しい顔で厭味を言うクロは、朝からきっちりと髪形も決まっている。
自分が作った朝食をさっさと食べ終わると、スーツ姿にネクタイをびしっと締めたビジネスマンスタイルになって、早々に家を出ていく。
「シロ……今日は何限からだ?」
「昼からだよ」
「弁当の残りのおかずがそこにあるから、昼に瑞穂と食べろ。定時には帰れるはずだから、買い物は俺がしてくる」
「はーい」
シロにだけ言いたいことを言うと、さっさと行ってしまった。
今日はのんびり朝ご飯を食べていていいらしいシロと、私はクロが作ってくれたご飯をいただく。
「今日も美味しいね」
「うん……」
ぽりぽりときゅうりの漬物を噛んでいる私に、シロが視線を向けた。
「瑞穂ちゃんさ……豆太の荷物、どうやって運ぶつもり?」
昨晩ぼんやりと考えた答えを、私はシロに話す。
「私の車で……しかないよね。シロくんやクロさんみたいに空は飛べないし……」
「いや、そうじゃなくて……」
シロは私が脇に置いている豆太くんの荷物を箸で指さした。
「届け先、わからないでしょ?」
「え?」
言われて、まじまじとそのニ十センチ四方の荷物を見直して、初めて気が付く。一般的な宅配便の伝票替わりであろう木簡には、確かに宛先の名前しか書かれていない。
私は昨日、豆太くんにそれしか聞かなかったし、それしか木簡に書かなった。住所を書く欄などなかったからだ。
「しまった! やっぱり住所も聞くんだった? でも書くところが……」
頭を抱える私を見て、シロは明るくはははと笑った。
「ううん、普通は名前だけでいいよ。あやかしからあやかし宛ての場合はね。俺たちは住所を頼りに配達に行くんじゃないから」
「そ、そうなんだ……」
だったらどうやって行くのだろうと訝りながらも、私はひとまず頷く。
「うん。でも昼間の宅配便は違うでしょ? 住所を書いてもらって、それに従って行くんだよね?」
「うん。どうしよう……」
茶碗と箸をいったん置いて、豆太くんの荷物を膝に抱え上げ、私は必死に知恵を絞った。
「幸い、山の上出張所で私の前に働いていた人みたいだから、お家を千代さんに教えてもらうか、多香子さんに教えてもらうか……わかるのかな?」
場合によっては雅司に連絡して、職員名簿を当たってもらうことになるかもしれないと思っていると、シロが卓袱台の向こうから身を乗り出して、私の顔を覗きこんだ。
「俺が一緒について行こうか?」
「え……?」
それで田中庄吉さんの住所がわかるのかと、私は疑問に思ったが、シロはもう決定したとばかりに自分の座布団に座り直し、食事を続ける。
「狭間の時間の宅配屋として行くんじゃないから、姿は変えられないし、空も飛べないけど、道案内くらいはできるよ」
自信たっぷりのその顔に、私は賭けてみることにした。
「じゃあ、お願いしようかな……」
「うん、任しといて!」
ひとまずクロが作ってくれた朝食を食べ、その後片付けをしてから、私たちは豆太くんの荷物を配達に出た。
私の軽自動車の助手席に乗りこんだシロは、シートベルトを締めながら明るく笑う。
「よし、出発進行ー!」
仕事の時の和装ではなく、細身のダメージジーンズに丈の長いシャツ姿の彼は、同じ年ぐらいの若い男の子にしか見えなくて、普段は感じたことのない緊張を覚える。
「う、うん……」
頬杖を突きながら窓の外を眺めている横顔には、白狐の姿になっている時の面影など微塵もなかった。そう思うと、ますます緊張が増す。
「田中庄吉さんねー」
ふいに話しかけられて、思わず声が裏返った。
「ふぁい?」
「ぶっ、何その声?」
ふき出されて我に返った。こんなことでは事故を起こしてしまうと、私は頭を左右に振って気持ちを切り替え、ハンドルを握り直す。
「たまに出張所の裏の家にも来ることがあってね……だから気配を追えると思うんだけど……」
「……そうなんだ」
『気配』というのがどういうものなのか私にはわからないが、だからシロは出かける前に念入りに作った髪形がぐしゃぐしゃになるのも構わず、車の窓を開けて外をうかがっているのだと察する。
「あやかしって、いろんなことが出来ていいね……」
あまり気の利かない褒め言葉だとは自分でも思ったが、シロが私の賞賛を喜ぶことはなく、ずっと窓の外へ目を向けている。
「そうでもないよ。人間のほうがよっぽど……」
言いかけてはっとしたように口を噤み、それから急に話題を変えた。
「クロはさ……人間とあやかしが関わるのをあまりよく思っていないんだ。お互いのためにならないって……豆太に厳しくしたのはそういうわけだから、大目に見てやって……」
「うん……」
頷きながらふと気になって、訊ねてみた。
「シロくんは? やっぱりあやかしと人間はあまり関わらないほうがいいと思ってるの?」
「……俺?」
訊ねられたのが意外とばかりに形のいい眉を片方上げて、シロは苦笑いの表情になった。
「俺の場合は、それを否定すると自分の存在を否定することになっちゃうからなぁ……」
「え?」
いったいどういう意味だろうと、思わず彼のほうへ顔を向けてしまった私に、シロは慌てて前方を指さした。
「前! 前見て運転して、瑞穂ちゃん!」
「う、うん」
若干道の端に傾きかけていた進行方向を、私は急いで道路の中心へと修正した。
ほっと溜め息を吐いたシロが、明るい声で語る。
「俺は、学校の友だちと楽しく騒ぐ程度には、人間と仲良くやってるよ」
街でその友人たちと偶然遭遇した時の、シロの様子を思い出し、私はなぜだかほっと胸を撫で下ろす。
「そうか。そうだよね……」
「うん」
声音は明るかったけれど、シロがこの時本当に笑っていたのかは疑問だったし、出来れば顔を見て確かめたかった。
しかしそう何度もよそ見運転で注意されるわけにもいかない。
(大丈夫……だよね……?)
その不安が、予感めいた虫の知らせだったということを私が知るのは、もっと後のことになる――。
「瑞穂ちゃん、そこ。その狭い道を登って」
「はい」
「次は左。道沿いに進んで、右」
「…………はい」
シロの案内に従って車を走らせ、出発してからもうどれほどの時間が経ったのだろう。
軽く一時間を越えたことは確かだ。その間に山を一つ下り、別の山を登って更に下った。
出た先は、私がこれまで来たことのない集落であり、一人で帰れと言われても山の上出張所まで帰れる気がしないほど、複雑に入り組んだ山道を辿ってきた。
「あのう……シロくん……」
本当に田中庄吉さんの家へ向かえているのかと、緑が濃くなったり、県境を越えたり戻ったりするたびに私が尋ねているので、シロもすっかり慣れてしまっている。
先回りして答えられる。
「大丈夫! 合ってる! きっともうすぐ見えてくるはずだから……ほら! 見えた!」
彼が指さす先には、住宅なのか作業小屋なのか判断に困るような、いかにも手作りふうの小さな建物が建っていた。山の斜面を切り開いて建てられており、玄関へ向かうには、かなり急な角度のスロープを登らなければならない。
(私の車で登れるかな……?)
不安だったので車は道路脇に止め、歩いて坂道を登った。
玄関の前には軽トラックが停めてあり、確かにこれならば急な坂道も平気だろうと感嘆する。
「ごめんくださーい」
ガラス製の引き戸に向かって声をかけると、違うほうから声がした。
「はーい」
コの字型の建物の反対側から、小さな籠を手に持った老人が歩いてくる。
大きな麦わら帽子を被って、首にタオルをかけた老人は、私の制服を見ると目尻を下げて笑った。
「あー、そよ風宅配便の社員さんやねー、わしの代わりに来てくれた……」
少し腰の曲がった田中さんに、私のほうからも歩み寄った。
「後任の芦原です。はじめまして」
「はじめまして。よろしくお願いしますねー」
タオルで汗を拭いている田中さんに促されるまま、私もシロも日当たりのいい縁側に座る。
「何もないけんど……」
そう言いながら田中さんは縁側から家へ入り、何度も行ったり来たりしながら、お茶やお菓子や漬物を運んでくれる。
「あの、どうぞ、お構いなく……私たち、荷物を届けに来ただけなんで……」
そう言っても「いいから、いいから」とお茶を勧めてくれる田中さんは、この家に一人暮らしで、時々お茶を飲みに来る近所の人以外は、話し相手もいないのだという。
「定年過ぎても出張所で働かせてもらえたおかげで、寂しいと思ったことなぞ今までなかったけどね……腰を痛めたから……いたた、さすがにもう潮時やな」
「そうだったんですか……」
「あ! 俺が持ちますよ」
シロは腰をさする田中さんの横に付き添い、いろいろなものを運ぶ手伝いをしている。
その気遣いが、いかにも今風な彼の風貌とちぐはぐで、私は心があったかくなりながら、それより温かい出されたばかりのお茶に手をつける。
「……おいしい!」
「だろ? わしが手揉みした茶じゃけんね」
「手揉み?」
田中さんが視線で示した先を見てみると、向かいあった建物の入り口で、ざるに緑の葉っぱが山盛りになっていた。
「お茶、米、里芋、玉葱……今の季節は、きゅうりとへちまも……」
さまざまな箱やかごやざるに盛られた農作物を指さしながら、指折り数える田中さんに、私は驚きの思いで問いかける。
「そんなに作ってるんですか?」
「そうよ、もう何十年も作っとる」
誇らしげに胸を張る田中さんは、逆に私に尋ねた。
「それで……? なんか荷物をだったけ?」
「あ……!」
危うく、仕事で訪問したことを忘れてしまいそうになったことを反省しながら、私は豆太くんから預かった小さな包みを、田中さんに手渡した。
「これです」
長くそよ風宅配便で働いていた大先輩なので、伝票を貼っていないことを怪しまれるかと思ったが、そういうことはなかった。持ち上げた時にからからと小さな音がしたので、思い当たることがあったらしく、田中さんの皺深い顔が喜びに輝く。
「ひょっとして……!」
田中さんが大切そうに膝の上で開けた小箱の中身は、大きなさつまいもだった。それから綺麗な色の木の葉が数枚と、どんぐり。
「豆太が……あの子が頼んだんか?」
「え……はい」
田中さんが豆太くんのことをどういうふうに解釈しているのかわからないので、私は曖昧に頷いた。
田中さんはとても嬉しそうな顔で、てのひらに載せたどんぐりを見つめる。
「わしが営業所で暇をしとると、よく遊びに来てな……葉っぱやら、木の実やらいっぱい集めて、遊んどるのは変わらんみたいじゃな……豆太は元気かい?」
「はい」
田中さんはほっとしたように笑って、それから大きなさつまいもを手に取る。
「芋を持ってきたら、千代さんが焼き芋にしてくれるのを、喜んでの……わしに送ってきても、焼き芋にはできんぞ、豆太、ははは」
その時の豆太くんの姿を頭に思い描いたのか、懐かしそうに――けれど寂しそうに、笑った田中さんは次の瞬間、縁側で立ち上がって、また家の奥へ向かう。
「そうじゃ……」
田中さんが家の中から持ってきたのは、綺麗な洋菓子の箱だった。
「都会に住んどる息子が送ってきての……一人じゃどうせ食べきれんけえ……」
個包装された焼き菓子を次々と取り出して、私とシロの手に載せる。
「食べていきんしゃい。そして、豆太や千代さんにも持っていってほしいんじゃが……」
田中さんがちらりと私の制服を見るので、それは宅配便として仕事で引き受けるべきなのかと一瞬頭をよぎったが、私が口を開く前に、シロがさっさと引き受けてしまった。
「いいですよ! 今度豆太が遊びに来たら、渡します。瑞穂ちゃん、千代さんに渡せる?」
「あ、たぶん明日も来ると思うから……」
私が出張所で暇を持て余していると、千代さんは必ず顔を出して話し相手になってくれるのだ。その際いつも、田中さんが残していったと思われる道具でお茶を飲んでいることに思い当たり、私は慌てて田中さんへ向き直った。
「そういえば、出張所のお茶セットお借りしてます。いつも助かってます」
「そうかい、そうかい。じゃあこれも持っていって千代さんと飲みんしゃい」
田中さんは手揉みだというお茶も一缶くれ、これもこれもと野菜を私の車に積んでくれた。
「こんなにたくさん新鮮な野菜が……きっとクロが喜ぶね」
「うん、そうだね」
シロと笑いあって、田中さんに何度もお礼を言う。
「本当にありがとうございました。こんなにお土産をいただいて……」
「なんの! 遠いところを来てくれたけんね。またいつでも遊びに……」
そう言いかけて、田中さんは言葉を切った。
「いや、なんでもない……豆太と千代さんによろしく。出張所の仕事、ほどほどにがんばってなー」
「はい。ありがとうございました」
道まで出て手を振る田中さんに見送られ、私とシロは帰路についたが、車が見えなくなるまでずっと見送ってくれている田中さんの姿が印象的だった。
「喜んでもらえてよかったね」
「そうだね」
来る時よりも言葉数が少なくなったシロと二人、山の上の出張所までの長い道のりを帰った。
翌日。
いつものように出張所を開店する準備をしたが、体が重かった。
「あいたたたた」
昨日往復四時間もかけて、田中さんの家へ行き来した間、ずっと車のハンドルを握りっぱなしだったことがいけなかったのかもしれない。
家へ帰るとすぐに昼食を食べて、大学へと行ったシロを見送り、私自身はずっと午後からだらだらしていたのに、疲労は抜けなかった。
もちろん、そんなことを態度に出そうものなら、「余計なことをするからだ」とクロに冷たい目を向けられるとわかっていたので、昨夜も今朝も必要以上に溌溂と、元気にふるまった。そのツケを感じる。
「もう今日は、ここでずっと座ってていいかな……」
回転椅子に座って机に突っ伏していると、いつものように多香子さんがやって来た。
「あらー、今日は朝からお疲れ? 休みの日に遊びすぎちゃったんじゃないのー?」
押してきた台車からテキパキと荷物を下ろして、代金の入った封筒をさし出す多香子さんに、私は慌てて椅子から立ち上がり、準備していた領収書を渡す。
「遊びじゃないんですけど、ちょっと前任の田中さんのお家へ車で行ったら、思っていた以上に遠くて……」
「ええっ!? 田中のお爺ちゃんの家へ行ったの? それはくたびれ果てるはずだわ……」
多香子さんは驚いたように目を見開いて、それからすぐ同情するような顔になる。
「すごーく遠かったでしょ?」
「はい」
「でも田中のお爺ちゃんは、毎日あそこからここまで通ってたのよ」
「そ……うなんですか……」
聞き取りやすいはっきりとした声で、多香子さんは朗々と語る。
「ええ。出張所の裏の家も掃除はしてたみたいだから、いっそそこに住んだらって何度も言ったんだけど、自宅のお仏壇を放っておけないからってね……十年前くらいに、奥さんが亡くなったから……毎日お線香を上げて、自分が食べるのと同じ料理を供えて、まだ一緒に暮らしてる気分なんだって言われたら、もう何も言えないわよね……」
「そうですね……」
まるで自分のことのように胸が痛み、自然とうつむきがちになる私の肩をバシンと叩いて、多香子さんはガラス扉を押し開けた。
「訪ねて行ったら喜んだでしょう? また行くことがあったら、私からもよろしくって伝えておいてね、じゃあ!」
忙しく店を出ていく多香子さんを見送り、私は昨日の帰り道に感じたような、寂しさをまた感じていた。
午後になると、いつものように千代さんがやって来た。今日は都会に住むという娘さん宛ての荷物を持っての来店だったので、私はカウンターから出て、小さなダンボールをカートから下ろしてあげる。
「ええ、庄吉さんの家に行ったの……それは喜んだじゃろうねぇ」
多香子さんと同じことを言って、千代さんは私が準備した椅子に座る。
「これ、田中さんから千代さんにって預かってきました。お菓子です。手揉みのお茶ももらったから、今日はそれを淹れますね」
「庄吉さんのお茶がまた飲めるとは嬉しいねぇ……甘くて美味しいんじゃよね」
「そうですよね」
二人でお茶の準備をしていると、ガラス扉に小さな人影が映った。みやちゃんだ。
「いらっしゃい、みやちゃん」
扉を開けてやると、ぴょこんとお辞儀をして出張所へ入ってくる。
千代さんの隣に置いた椅子によじ登って座ったので、みやちゃんにも田中さんのお菓子をわけてあげた。
「はい、みやちゃんもどうぞ。田中のお爺ちゃんのことは知ってるんだっけ?」
千代さんに負けないくらい頻繁に顔を出してくれるので、てっきり前任の田中さんのことも知っているのかと思っていたら、肩までの黒髪をさらさらと揺らして首を横に振られた。
「ううん、知らない」
「そうじゃったの?」
千代さんに聞き返されて、今度はこっくりと頷いている。
「うん」
みやちゃんが焼き菓子を袋から出して、食べる手伝いをしてやりながら、千代さんが顔を近づけて、小さな声で訊いている。
「さては、みや様……瑞穂ちゃんのことは呼びなさったな……?」
みやちゃんは、まるで悪戯を見つかったかのように笑う。
「へへ」
同じような顔をして千代さんも笑っていたので、私は聞こえてしまった二人の会話を聞かなかったふりをしてお茶を淹れていたが、本当は気になっていた。
(呼ばれた? 私が? みやちゃんに……?)
そのあと二人は何食わぬ顔をして、美味しい美味しいとお茶とお菓子を楽しんでいたので、私も特に尋ねはしなかったが、心にひっかかった。
夜になり、いつものように閉店準備を終えると、私は意を決して壁に突然現れた扉を開く。
残念ながら今日も、扉が出来る瞬間は見逃してしまった。
日暮れが近づいたあたりから、目を離さずにずっと何もない白壁を見つめていたはずなのに、気がついたらそのど真ん中に扉が出現している。
(いったいいつ……まさか瞬きしている間にとか? それじゃいつまでも『その瞬間』は見れっこないよ……)
残念に思いながらも、田中さんから預かった豆太くん宛てのお菓子は忘れなかった。
(今日来てくれるかはわからないけれど……)
扉を押し開けて踏みこんだ先は、薄暗くなった木造建築の宅配屋で、クロからの声が飛ぶ前に、私は急いでカウンターの中に走りこむ。
「おっ、瑞穂ちゃん。今日は早いね」
シロはにかっと笑いかけてくれたが、クロは何も言わなかった。黙ったまま私に近づいてくる。
「え、なに……」
特に怒られることはしていないはずなのに、思わず及び腰になってしまうのは、忙しさのせいなのか、クロの全身からピリピリとした雰囲気が感じられるからに他ならない。
表情の変化に乏しいので、感情の移り変わりもわかりづらいが、少なくとも料理を作っている最中はもっと機嫌がいいと、一緒に暮らしている私は知っている。
クロは長い前髪のせいで片方しか見えていない目を光らせて、私に木簡と印章をさし出した。
「代われ、瑞穂。この間は勝手にできたんだ。もう受付のほうもできるだろう」
「あっ、そうか。そうだね」
シロは明るく言っているが、クロは私の返事を待ちもしない。さっさと奥へ行き、先日まで私がやっていた荷物を積む作業のほうを始める。
「え? できるかな……」
不安に思いながら窓口に立つと、クロがこの場所から逃げ出したかった理由がわかった気がした。
「えー、クロ様行っちゃうのー」
残念そうな声を上げる首の長い女性や、残念そうに俯く目鼻口のない女性。
「ほ? 宗主様!? まだ私めの話は終わっておりませんぞ?」
烏天狗の姿になった時のクロと同じように、背中に黒い翼、頭に四角い帽子のようなものを乗せた、限りなく鳥に近い顔をした背の低い男性。
クロが担当していた窓口には、単純に宅配を頼みに来ただけではないような客ばかり並んでいる。
「宗主様って?」
シロくんに尋ねると、眼鏡越しににかっと笑われた。
「んー、クロのあだ名みないなもの?」
「……そうなんだ」
多少納得できない思いを残しながらも、私はクロが丸投げしていったお客さんを受け付けることにした。
「いらっしゃいませ」
首の長い女性は、いかにも不満そうに私へ荷物を手渡す。
「あんた、誰?」
迫力に怯みそうになりながらも、私は営業スマイルで頭を下げる。
「芦原瑞穂です。よろしくお願いします」
「ふーん、私は真理恵。そう書いてね」
真っ赤に塗られた爪で、とんとんと木簡をつつかれるので、下のほうにとりあえずひらがなで書き入れる。もちろん筆などすぐには使えないので、昼間の出張所から持ってきたボールペンだ。
「まりえさん……あの、苗字は?」
おそるおそる訊ねると、呆れたように首を伸ばされた。
「はあっ? あやかしに苗字なんてあるわけないでしょ。届け先は紀理恵。私の姉。ねえ、あんた大丈夫? ちゃんと届くんでしょうね?」
長すぎる首がカウンターを越えて、今にも私の首に巻きつきそうにとぐろを巻き、綺麗にメイクされた真理恵さんの顔が私の顔のすぐ前に迫る。
「届けるのは俺とクロだから大丈夫だよ、真理恵ちゃん」
シロが横から答えてくれると、真理恵さんの首はしゅるっと短くなった。
「あ、はい。じゃあ、よろしくお願いしまーす」
すっかりしおらしくなった真理恵さんと、そのお姉さんだという紀理恵さんの名前を書いた木簡に、私は印章を押してからすっと指で線を引いた。
これで失敗したらまた真理恵さんの首が伸びるのではないかとひやひやしたが、一発でぱかっと割れて安心する。
(よかった!)
長いほうを荷物に差し、短いほうを真理恵さんに渡すと、ようやく一つ目の荷物の引き受けが終わった。
「ありがとうございました」
「できたね」
隣からシロの声がして、ちゃんと見守ってくれていたことに感謝する。
「うん、ありがとう」
私の様子も見ながら、自分の仕事もしているシロの負担を少しでも減らせるように、同じ要領で、目鼻口のない女性の荷物も引き受けた。
次に並んでいたのは、クロと似た格好の小柄な男性で、私の前に立つと一気にまくしたて始める。
「なんじゃお主は? 人間の女子か? はっ、まさか宗主様をたぶらかそうと⁉ この伊助の目の黒いうちは、人間の女子など決して近づけ……」
カウンターからほぼ顔が出ていないのに、壁に向かって機関銃のように話しているのが面白くて、どちらかといえば私は笑いをこらえてその小柄な烏天狗の話を聞いていたのに、背後から鋭い声が飛ぶ。
「伊助! 荷物の依頼じゃないのなら今すぐ帰れ!」
烏天狗は可哀相なほどに飛び上がって、ぶるぶる震えながら、声を飛ばしたクロにペコペコ頭を下げた。
「もちろん、依頼でございますよ。依頼でございますとも……これを雷蔵どのに。我が名は伊助」
「いすけさんから、らいぞうさんへ……」
私が木簡を書き終わって指で切ると、ひったくるように控えを受け取って烏天狗は帰っていく。
「宗主様に色眼鏡を使ったら、容赦せんからな、小娘!」
「伊助っ!」
クロの叫びに、文字どおりすっ飛んで帰っていった。
「なんか……今日は変わったお客さんが多いね……」
呟く私に、シロが次々と作業を進めながら笑ってみせる。
「そう? クロ目当てのお客は、いつもこんなものだよ……あ、瑞穂ちゃん目当てのお客さまだよ」
目線で示された先には、豆太くんが立っていた。
自分の順番が来るまで、私の立つ窓口の前に出来た列に並んでちゃんと待っていた豆太くんは、「どうぞ」と私が声をかけると、不安そうに歩み寄ってきた。
「じいちゃんの荷物は……」
「ちゃんと届けたよ」
私が答えると、ほっとしたように笑顔になる。
「それでこれ、田中さんから豆太くんにお返しだって……」
預かった焼き菓子を手渡すと、豆太くんはますます笑顔になった。
「田中さん、とっても喜んでたよ。『ありがとう』だって。よかったね、豆太くん」
「うん! うん!」
何度も頷くと、豆太くんは、頭に乗せた葉っぱの下から、箱を取り出した。
「じゃあ、今度はこれ……」
(絵本やアニメに出てくるたぬきみたいに、いかにもって感じで頭に葉っぱなんか乗せてるんだなーって思ってたけど……それってそうやって使うの???)
思わず違うことを考えてしまってから、私ははっと首を振る。
(いかん! いかん! 今は仕事中……)
目をきらきらと輝かせて私を見つめる豆太くんを見ていると、とても断ることは出来そうにない。
「えっと……今度はそれを届けるの?」
「うん!」
「……田中のお爺ちゃんに?」
「うん! じいちゃんに!」
念のために確認してみたが、どうやらまた私が明日の休業日に、自分の車で田中さんの家まで行かなければならないのは確定のようだ。
「わかった……たなかしょうきちさんへ、まめたくんより」
本当は泣きたいような気持ちだったが、嬉しそうな豆太くんの笑顔には抗えなかった。
宅配屋内はかなりの賑わいなのに、うしろから聞こえてきたクロの呆れたようなため息だけは、しっかりと私の耳に届いた。
夕食時、丸い卓袱台を三人で囲んでクロが作ってくれた本格中華を食べながら、クロが何度も呟く。
「馬鹿か」
「…………っ」
そのたびに、何か言い返そうと私は口を開きかけるが、結局何も言えなくて、悔しまぎれに酢豚や棒棒鶏や餃子を口に詰めこむ。
(悔しいっ! でもそれにも増して美味しいっ!)
このままこの家に住んでいると、太ってしまうのではないかと危ぶみながら、すごい勢いで食事を続ける私に、シロが助け舟を出す。
「まあでも、お爺さんも豆太もとても喜んでくれてるしね」
その通りだと思いながらも、ちょうど炒飯を口いっぱいにほおばったばかりで声が出せず、私は代わりにうんうんと頷く。
クロはすっと冷たい目をシロへ向けた。
「一度や二度ならそれでよくても、続けているとどうなるか……わかるだろ?」
「それは……まあ……」
気まずそうに視線を伏せてしまったシロから私へと、クロは向き直る。
「瑞穂、昨日の配達に何時間かかった?」
車を運転していたのは往復四時間だが、田中さんの家でお茶をご馳走になったり、話をしたりしていた時間を含めて、私は答える。
「五時間……かな?」
「ガソリンはどれくらい減った?」
「山を登ったり下ったりしたから……満タンの半分くらいかな……」
実際はそれより少し多いくらい消費していたが、クロから訊ねられるうちに自分でもヒヤリとして、ごまかしてしまった。
(そうか……)
「善意だけで何度も続けるには、負担が大きい。見返りもない。だからこそ、宅配便っていう仕事が存在してるんだろ?」
「はい……」
それを仕事として賃金を貰いながら、無償で豆太くんと田中さんの荷物を運ぶことは確かに矛盾している。それでも私は、期待に満ちた豆太くんの顔を、裏切る選択はできなかった。
「プロ失格だな……」
落ちこみながら唐揚げに箸を伸ばすと、ちょうど同じ唐揚げをクロも狙っていたらしく、同時に掴んでしまう。
きまり悪そうにそれを放して、ごほんと咳払いして、クロが小さく呟いた。
「だけど、気持ちはわかる……」
「え?」
思いがけない言葉に、ぽろっと私の箸から落ちた唐揚げを、横からシロがさらっていく。
「俺も」
ぱくりと唐揚げに噛みついたシロを見て、上げた抗議の声がクロと重なった。
「「ああっ!」」
二人で顔を見あわせて、それぞれ大慌てで確保した残り少ない唐揚げを、自分の取り皿に取っておく。そこまでの動きがクロとまったく同じで、私はそれまでの気落ちした気分も忘れて、思わず笑ってしまった。
見ればクロも、少し表情を柔らかくして、話はここでいったん終わりにして、食事のほうへ専念すると決めたようだ。
それからは少しリラックスして、三人で食事を続けた。
私の悪いところはちゃんと指摘しながらも、二人揃って「気持ちはわかる」と同意もしてくれたことが、とても嬉しかった。
それから豆太くんは、狭間の宅配屋の営業日のたびに、田中さん宛ての荷物を持って来るようになった。
逆に田中さんからは、豆太くん宛てのお菓子や遊び道具と一緒に、たくさんの新鮮な野菜をお土産として持たされる。
「なんか……いつもすみません……」
「なんの! これくらいしかお礼が出来んけの……一人じゃ食べきれんくて、腐らすより喜んで食べてもらったほうがわしも嬉しい!」
「ありがとうございます!」
今日も瑞穂がいい食材を手に入れてきたと、クロの機嫌がよくなることは嬉しかったし、豆太くんと田中さんの嬉しそうな顔を見るのも、二人に喜んでもらえるのも、本当に幸せだった。
しかし――。
「こうも続くと、本当に疲れが抜けきらない……」
「若いのに何言うちょるの、はははっ」
宅配便の出張所で、伸びている私を笑っている千代さんのほうが、よほど若々しく見える時がある。
「千代さんって……何歳なんですか?」
試しに訊ねてみると、「あらやだ、女の人に年を聞くなんてぇ」と言いながら教えてくれた。
「八十八? ん? 九だったけぇ? とにかく、もうすぐ九十よ」
「九十⁉」
年配だとは思っていたが、とてもそこまでには見えず、思わず私は叫んでしまった。
「もっと……田中のお爺ちゃんと同じくらいかと思ってました……」
「あらあら、嬉しいことを。庄吉さんは七十五じゃったけぇ? 十五歳も下じゃね」
「十五……」
とてもそうは思えないともう一度言いかけて、私はどきりとした。確かに千代さんは九十近いとは思えない元気さだが、逆に田中さんが、七十代にしては年を取って感じられるのだ。
(腰を痛めたとかで、少し背が曲がってるし……足もひきずってるし……そういえば最近咳を……)
ごほごほと咳きこむことが多くて、私が心配すると、少し前に風邪を引いてから咳だけ抜けない、他に症状はないから大丈夫だと笑っていた。
(大丈夫……かな……?)
ご近所ともかなり距離があるような場所に、一人で住んでいる田中さんのことが心配になってくる。
(本当は、誰かと一緒に住むといいんだろうけど……)
一瞬、豆太くんの顔が頭をよぎったが、私は首をぶるぶると左右に振って、それを追い払った。
(ダメ、ダメ、豆太くんと田中さんは住む世界が違うんだもの……)
実際にあやかしであるクロとシロと同居している私は、ともすればその線引きがわからなくなる。
一人住まいの田中さんと、その田中さんをあそこまで慕っている豆太くんが一緒に生活するというのは、それほどいけないことなのだろうか。
シロに少し訊ねてみたが、しばらく沈黙した末に、「難しいと思う」という返事だった。
おしゃべりな彼が、それだけしか答えないことにはかなり深い意味があるように感じたし、クロにはきっと否定されると思ったので、私がそれ以上深入りして、その問題を話題にすることはなかった。
ただ、自分に出来るせめてものことをと、豆太くんの荷物を届ける時に、田中さんの様子をよく見ておくことは心がけた。
ある日、いつものように田中さんの家の近くに車を停めて、建物へを続く長いスロープを上がると、異変に気がついた。いつも様々な野菜やお茶などが入れてあるざるやかごが、整頓されて小屋の前に積まれている。
軒先に下がっていた玉葱やへちまも片づけられており、今まさに田中さんが、自分で彩色したいろいろな形の瓢箪を、大きなダンボールにしまっているところだった。
「こんにちはー」
声をかけた私を見て、「よお」と手を上げてくれたが、ごほごほと咳きこんで手にしていた瓢箪を落とす。
私は慌てて田中さんに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
しばらく背中をさすってから、縁側に置いてあった水筒から麦茶をグラスに注いで田中さんに手渡すと、田中さんはごくごく飲んでひと息つく。
「ありがとう、瑞穂ちゃん。助かったわ」
お礼を言うとすぐにまた作業を再開するので、私もそれを手伝う。
「全部片づけるんですか?」
田中さんは眉尻を下げて、少し寂しそうな顔になった。
「ここを引き払うんじゃよ。都会に住んどる息子が、自分のところに来いって前から言ってくれちょったんだけど、なかなかこの咳が抜けんで心配じゃから、もうすぐにでもって……」
豆太くんや私以外にも、田中さんを気にかけて、心配する存在はいるのだと気がつき、私は少しほっとした。
「そうなんですか……」
「仏壇も準備するから、位牌だけ持って来いって言われたら、いつもの言い訳も通用せん……畑は放り出すことになるけど、仕方ないの……」
荷物をたくさん運び入れる場所もないので、家財の多くも置いていくことになるのだという。
「よかったら、一つ持って行かんか?」
箱に詰められた瓢箪の中から、私は赤とオレンジで塗られた小さなものを選んだ。
田中さんが庭に植えている木から取った実を、乾燥させて中身をくり抜いて彩色して上塗りしてと、一つ一つ手作業で作って、近くの農作物直売所で売っていたのを知っているので、箱にしまわれてしまっているのを見ると、切ない気持ちになる。
「ありがとうございます。出張所に飾りますね」
「ああ」
田中さんは笑顔で、そよ風宅配便のロゴが入った箱を持ってきた。
「最後にこれを豆太に届けてくれんか。もうわしへの荷物は送らんでいい。これまでにもらったものは、全部大切に持っていくからって伝えてくれるとありがたい」
「はい、わかりました」
それを聞いた時、豆太くんがどれほど悲しむかと思うと、喉の奥に熱いものがこみあげてきそうになったが、私は必死に我慢した。
田中さんが、箱の上に封筒を乗せる。
「これは瑞穂ちゃんに。こんな遠くまで一日おきに……大変じゃったやろ? 何度も断ろうと思いながら、来てくれるのが嬉しくて……断りきれんかった。少ないけど、ガソリン代と手間賃。そしてこの宅配便の代金じゃ」
封筒の中にはかなりの額のお札が入っており、私は慌てて首を振る。
「受け取れません! 私そんなつもりじゃ……」
「わかっとるよ。善意で来てくれちょったんじゃよな。でも仕事もしながら、たいへんだったとわかっちょる。だから受け取ってくんしゃい」
深々と頭を下げられると、もう断わる言葉が出てこなかった。代わりに、必死にこらえようとしていた涙が溢れてくる。
「出張所の仕事もがんばっての。優しい社員さんが働いちょる、いい宅配便じゃった、そよ風宅配便は……こんなじじいを、七十五まで雇ってくれたんじゃからの……これからいく街には、そよ風宅配便はないのが寂しいのう……」
涙を必死に拭って、田中さんから預かった荷物を私は大切に抱え直す。
「確かにお預かりしました。明日の夜には、豆太くんに渡せると思います」
「ああ。わしも明後日には出発じゃけ……今頃豆太が喜んどるだろうなと思いながら、明日は荷造りするよ」
「本当にありがとうございました」
「ああ。こちらこそ、ありがとうのう」
田中さんに見送られて、いつものように車に乗ったが、私はなかなか出発できずにいた。
瞳は潤ませながらも、最後まで笑顔で私を見送ってくれた田中さんが、顔をくしゃっと歪めて、腕で顔を大きく拭ったのが見えたから――。
「…………」
唇を噛みしめて、嗚咽をこらえながら車のエンジンをかけた。
涙で視界が塞がると危ないので、何度も何度も拭いながら、時には道路脇に車を停めて、いつもより長い時間をかけて、山の上の営業所までの道のりを帰った。
翌日の出張所で、開店時間と同時にがらがらと台車を押してやってきた多香子さんは、私の顔を見た瞬間に、昨夜のシロと同じことを言った。
「あら、瑞穂ちゃんすごい顔……何? 失恋でもした?」
「そんな相手いません」
昨夜シロにしたのと同じ返事をして、私は田中さんが都会の息子さんのところへ行くことになったと説明する。
「なるほどね……でも寂しいけど、そのほうがいいわよ。やっぱり一人じゃ心配だもの」
「そうですよね」
私も頭ではわかっているのだ。だがここしばらく一日おきに会っていたせいで、どうしても寂しい気持ちのほうが勝る。豆太くんはなおさらだろう。
(いったいどう説明したらいいんだろう……)
昼からもかなり落ちこんで、いつもより千代さんとの会話も弾まないでいると、珍しくみやちゃんが自分から口を開いた。
「瑞穂は、本当はどうしたい?」
「え……」
普段は、私と千代さんの会話に耳を傾けているだけ、たまに問いかけられたら返事をするくらいのみやちゃんが、逆に質問してきたことに驚いて、私はなるべく丁寧に答えなければと思った。
昨日から、何度も心の中で思い描いていたことを思いきって言葉にしてみる。
「そうだな……もし私が、一瞬で山も越えるような特別な力を持っていたら、遠くの街に行っちゃった田中さんにも、これまでと同じように豆太くんの荷物を届けに行けるのにな……とは思うよ」
尋常ではない速さで空を駆ける能力を持つシロやクロをうらやましく思う気持ち半分、小さなみやちゃんになら、とても実現できそうにない願望も、夢として語れるという気持ち半分で言ってみたのだったが、みやちゃんは「わかった」と言って頷いた。
「え?」
驚く私の前で、小さな着物の袂から一枚の紙を取り出す。
「これを瑞穂に」
それは短冊形の紙で、私にはとても読めない達筆で、何か文字が記してあった。
「ええっと……これは?」
裏返してみると、裏にも何か書いてある。黒文字の上に被せるように赤い印が押された仕様は、最近流行りの御朱印にも似ている。
「お札……かな?」
形から推測して訊ねてみると、みやちゃんはこっくりと頷いた。
「おやまあ、みや様……神車のお札を下賜されますの?」
みやちゃんは、訊ねた千代さんに黙っていろとばかりに、小さな人差し指を唇に当ててみせる。
「しーっ」
「しーっですね」
千代さんはふふふと笑いながら、私に説明してくれる。
「御橋神社のお札だから、車に貼っておいたらいいね。本当に助けが欲しい時、瑞穂ちゃんが本気で願ったら、きっと助けてくださるよ」
「あ……はい」
みやちゃんは神社の子だったと思い出し、元気のない私を励ますために、お札をくれたのだと理解した。それも、車に関してご利益がありそうな札を――。
「みやちゃん、ありがとう!」
お礼を言うと、ほんのりと頬を染めて、はにかむように笑われる。
その様子は、もういつも通りのみやちゃんで、私は何の疑いも持たず、彼女がくれたお札を、すぐに車のダッシュボードの裏に貼りに行った。
その夜の、狭間の時間の宅配屋の扉を開くのには、かなりの勇気が必要だった。
(豆太くん悲しむかな……きっと泣いちゃうよね……)
わかっていても、田中さんがいなくなってしまうことと、託されたお別れの言葉を伝えるしかなくて、私は預かった荷物を片手に、扉を開く。
(うっ……)
全身を膜に包まれる感覚に呻いて、閉じた目を開けてみると、宅配屋の隅に、もう豆太くんが立っていた。私の姿を認めると、ぱあっと笑顔になる。
(ごめんね……)
その笑顔を、今夜は守れそうにないことに心の中で手を合わせて、私は急いでカウンターへ入った。
豆太くんと話をする時間を少しでも確保するため、今並んでいるお客をなるべく早く受け付けしていく。
「ありがとうございましたー。はい、次の方!」
「すっごい速さ」
シロは隣でけらけら笑っているが、それに構っている時間さえ惜しい。
「はい、どうぞ! 次々どうぞ!」
今まで一番速く仕事を片づけて、カウンターを出て、豆太くんの前に立った。
「あのね、豆太くん……」
私が話を始めようとすると待ってましたとばかり、豆太くんも話しだす。
「うん、姉ちゃん! 今日はね、これをじいちゃんに持って行ってほしくてね!」
彼が意気揚々とさし出した筒のようなものを、私は手で制した。
残念ながらもう豆太くんから田中さん宛ての荷物を、引き受けることはできない。
「ごめん。先にお話聞いてくれるかな?」
今までにないことに、豆太くんはきょとんと目を瞬かせたけれど、素直に頷いてくれた。
「うん、わかった」
私は大きく息を吸いこんで、自分の気持ちを落ち着けてから話を始めた。
なるべく優しい声で、少しでも豆太くんの悲しみを和らげてあげられるように――それだけを心がけた。
「田中のお爺ちゃんね。今住んでいる家から、お引越しすることになったんだって」
「え?」
どういうことかと首を傾げた豆太くんの前でしゃがみ、彼と目の高さを合わせるようにしながら、一言一言ゆっくりと心に届くように話す。
「遠くに住んでいる家族のところへ行くんだって。そこはとても遠くて、もう私の車でも行くことは出来ないから、豆太くんからのお届け物は、この間ので最後にしてほしいって……」
「そんな……」
とても小さな声でぽつりと呟いてから、豆太くんの顔がくしゃっと歪んだ。
「どうしてだよ? だっておいらからの荷物、とっても嬉しいっていつも……」
「そうだよね。いつもとても喜んで受け取ってくれたよ」
「じゃあなんで……」
何故と問いながらも、豆太くん自身も理由は理解しているのだ。ただわかってはいても、納得できなくて、同じ言葉をくり返すしかない。その気持ちは私にもよくわかる。
「ごめんね。だからもうその荷物は預かれない。田中さんが今までありがとうって。最後に豆太くんにこれをって」
田中さんから預かった、そよ風宅配便のダンボール箱を、豆太くんに渡した。大きさのわりに軽い箱だった。
「おいらに……?」
目に涙をいっぱい溜めながら、箱を受け取った豆太くんが、いったんそれを床に置いてガムテープをはがして、箱の中から取り出したものを見て、ぽろぽろ涙を零す。
「じいちゃん……」
それは小さな麦わら帽子だった。豆太くんにちょうど合うほどのサイズなので、彼のために田中さんが作ったのだろう。藁でかごや帽子を編んでいるのを、見たことがあった。
以前に私が千代さんに貸してもらった麦わら帽子も、田中さんの手作りだと聞いていた。
「よかったね、豆太くん。よく似あいそう」
麦わら帽子を手にした豆太くんが涙を流しているので、私は田中さんとの別れが悲しいながらも、最後のプレゼントを喜んでいるのだとばかり思っていた。
だが違った。豆太くんは麦わら帽子を凝視して、驚きに目をみはり、それから肩を震わせて泣いていた。
「どうして? おいら……何も言ってないのに……」
豆太くん用の麦わら帽子には、頭の上のほうに二つ、穴が開いていた。頭のてっぺんから少し離れた場所に、左右に二つ。
「どうして……?」
泣き崩れた豆太くんの茶色い髪の間から、ぴょこんと丸い耳が飛び出す。半ズボンの腰のあたりからもふさふさとした尻尾が――。
「あ……!」
そういえば彼はあやかしだったのだと、私が改めて思い返した時、隣に誰かが立った気配がした。
「お前が人間の子じゃなくて豆だぬきだって……爺さんはちゃんとわかってて、それでも可愛がってくれてたってことさ」
「――――!」
クロだった。
クロの言葉にぎゅっと唇を噛みしめた豆太くんは、次の瞬間、それを大きく開けて声を上げて泣き始める。
「ああーん、あーん、じいちゃーん!!」
眉をしかめて耳を塞いだクロに代わり、背後からシロが声を上げた。
「瑞穂ちゃん! 田中のお爺ちゃん、いつ引っ越しちゃうって?」
「あ……明日?」
それを聞いた豆太くんが、ますます大きな声を上げて泣く。
「じいちゃーん! じいちゃあーーーん!!!」
クロがその襟首を掴んで持ち上げ、私へさし出した。
「うるさくてかなわん。瑞穂、今日はもういいから、こいつを連れて帰れ」
「え……?」
豆太くんが胸に抱きしめていた麦わら帽子を取り上げて、頭に被せてぽんぽん叩きながら、もともと彼が配達を頼もうと持ってきていた筒のようなものを手に握らせる。
「ほら、これもそれも全部持って帰れ、豆太」
宅配屋のガラス扉を開けて、豆太くんを外にぽいっと捨ててから、私を促す。
「お前も早く行け」
シロがすかさず、うしろから声をかけた。
「瑞穂ちゃんは、ちゃんといつもの扉を通ってね。抜けた先の宅配便出張所の前で、豆太が泣いているはずだから!」
クロがまったく説明してくれないことを、シロが教えてくれるのがありがたく、私はシロをふり返って手を合わせた。
「ありがとう、シロくん!」
扉を開けて帰る際、やっぱりクロにも一応お礼を言っておく。
「クロさんも、ありがとうございます!」
ふんとそっぽを向いて、カウンターの中へ帰って私の代わりに窓口で受け付けを再開してくれるクロに、本当に感謝していた。
出張所へ帰ってガラス扉を出てみると、確かに麦わら帽子を被った豆太くんが、筒を手に持って泣いていた。
「じいちゃーん! あーん!」
尻尾と耳が人目につかないように、腕に抱きこんで隠して、ひとまず出張所の中へ帰る。帰る準備をして、戸締りをし、出張所を出ると、二人で私の車に乗った。
豆太くんを助手席に座らせ、耳と尻尾はいつものようにしまってくれと言い含めて、シートベルトを留めてやりながらも、実際はまだ迷っている。
(どうしよう……豆太くんを連れて、田中さんの家へ行こうかな……)
クロとシロが早めに帰してくれたので、今日はまだ日が暮れ終わっていない。田中さんの家へ着く頃には真っ暗だろうが、まだ訪問しても許される時間ではあるはずだ。
(問題は帰りよね……)
誰も通らない山道を、二時間も運転して帰らなければならない。道に外灯もない悪路は、本当に自分のライトしか頼りになる光源は存在しない。心細さは半端ない。
(でも……)
ようやく泣き叫ぶのはやめてくれたが、やっぱりまだぐすぐすと鼻をすすっている豆太くんに、せめて田中さんと最後の別れをさせてあげたい。
だけど明かりもない山道を、もしもの時に頼りになりそうもない小さな子と二人きりで、二時間もドライブするのは怖い。
二つの感情を天秤にかけ、私は豆太くんを田中さんに会わせてやりたい気持ちのほうを優先することにした。
(ええい、ままよ! もしもう運転できないと思ったら、どこかの道の端にでも車を停めて、夜が明けるまで待てばいいんだし……うっかり寝ても、凍死するような季節でもないし!)
念のために二人分の毛布を後部座席に積んで、私は豆太くんと田中さんの家へ向かうことにした。
「豆太くん、田中のお爺ちゃんに会いたい?」
「え……うん」
だけどそれは無理なんだろうと怪しむような顔をしながらも、豆太くんは涙を拭いて頷く。
「帽子のお礼を言って、さよならも自分で伝えようか? 豆太くんが渡したかったものも最後に渡して、お見送りしよう!」
私の言葉を聞きながら、豆太くんの顔が、見る見るうちに活き活きしていくのが、手に取るようにわかった。
(そう、こんな顔……こんな顔が見たくて、私は誰かの荷物を誰かに届ける仕事をしてるんだもの……!)
「じゃあ、行こう、豆太くん」
「うんっ!」
彼が大きく頷き、私が車のエンジンをかけた時、ダッシュボードの下のほうがぼんやりと光った気がした。
「え?」
いったいどうしたのだろうと、私が確かめようとする間にも、それはみるみる車内に広がり、あまりに眩しくて目を開けていられなくなっていく。
「いったい何⁉」
目を射るような眩しい金色の光に、車全体が包まれたと思った時、ぶーんと低いエンジン音が響いた。
「え? やだ……」
こんな状態でエンジンがかかるのは危ないと、いくらなんでもわかるので、急いで切ろうとするのにまったく切れない。
「豆太くん! 豆太くん! 危ないからシートベルトをしっかり掴んで!」
「わかった、姉ちゃん!」
声はすれども隣に座っているはずの豆太くんの姿も見えない中、車が少しずつ動いている気配がする。
「うそ⁉ 私ギア動かしてないよ? アクセルだって踏んでない! ブレーキ踏んでるのに!!」
出張所の隣の空地に停めている私の車がもしそのまま前進したとしたら、どうなるのかを想像してみた。
(……神社の鳥居にぶつかる? あの立派な朱塗りの鳥居に⁉ やだ! とても弁償できない!)
懸命にブレーキを踏み、ギアがパーキングのままなことを何度も手探りで確認するのに、車が前進している感覚はなくならない。
(どうしよう! どうしよう! どうしようっ!!)
なんとか、何にもぶつからずに止まってくれることを祈りながら、自分自身も豆太くんに言ったように、もしもに備えてシートベルトを握っておかなければと強く掴んだ時、ふいに瞼の裏の眩しさが消えた。
「え……?」
恐る恐る目を開けてみると、黄金の光がどんどん薄れて、ちょうど最後の残光が消え去るところだった。
隣で豆太くんも、大きな目をぱちぱちさせている。
「あー、眩しかった……どうしたの、姉ちゃん……今度こそ本当に出発する?」
無邪気に問いかけてくる豆太くんに、私はとっさに返事をすることができなかった。
「そんな……」
車のフロントガラスの向こうに見えるのは、神社前の参道の景色ではない。少し暗くなりかけた山道。
ここは少しの時間なら車を停められるくらい、わずかに開けた場所で、この場所に駐車して坂を上ると、どこへ行けるのか私はよく知っている。
「そんな馬鹿な……!」
ここしばらくの間、一日おきにずっと通っていた場所なのだから間違いない。
(夢でも見てるのかしら……?)
ほっぺたを少しつねってみたが、ちゃんと痛いので、現実に違いないと認識する。
「なんで……?」
呆けるばかりの私より一足先に車を降りた豆太くんが、周囲を見回して喜びの声を上げた。
「ひょっとして……もう、じいちゃん家に着いた? とっても遠いって聞いてたのに、びっくりするくらい近く感じたんだけど……それともおいら、途中で寝ちゃってた? ねえ、姉ちゃん!」
豆太くんに呼びかけられて、私もひとまず車から出て、周囲をうかがってみることにする。
(夢にしてはリアルだし、つねったほっぺは痛いし、ちゃんと足が地に着く……)
何度か地面を踏みしめて、ひとまず田中さんに会いに行ってみようと決意した。
日はまだ暮れていない。それどころか出張所横の空き地で車に乗ってから、ほとんど時間が過ぎてもいないだろう。山と山の間に、まだ太陽の光の名残りがある。
このぶんならもしかすると、まだ深夜とは呼ばなくてもいい時間に、山の上出張所まで帰ることができるかもしれない。
「よし、豆太くん、行ってみよう!」
「うんっ!」
豆太くんは大喜びでスロープを駆け上がり、玄関の前に立ったが、呼び鈴を押してみても誰も出てこなかった。
「おかしいな……じいちゃん、出かけてるのかな?」
田中さんの軽トラは、そこに停めてある。
「ごめんくださーい」
声をかけてみても、敷地内から返事は聞こえない。日が暮れかけてからどこかへ行くということも考えにくいが、畑へでも行っているのだろうか。
掃き出し窓が開けっぱなしになっている縁側へ、ふと目を向けると、カーテンの陰に足のようなものが見えた。
「え……」
慌てて駆け寄ると、田中さんが床に仰向けに倒れている。
「田中さん!」
「じいちゃん!」
靴を脱ぐのももどかしい思いで、豆太くんと先を争って縁側から家の中へ入ると、倒れている田中さんに必死に呼びかけた。
「田中さん! 田中のお爺ちゃん!」
「じいちゃん!」
幸い意識はあるようで、田中さんはゆっくりと目を開けると、豆太くんを見てとても優しい顔になる。
「おんや、わしゃ夢でも見ちょるんか……家に豆太がおる」
「じいちゃん俺だよ! 本物だよ!」
「それとも、あの世からお迎えが来ちょるんかな……はは」
かすかに笑いながら、田中さんの胸は激しく上下している。呼吸音に喘鳴が混じる。
熱も出ているようだと額に手を当てた豆太くんが、「そうだ!」と麦わら帽子の下から葉っぱをとり出した。豆太くんがいつも頭の上に載せている大きな葉だ。
「熱を下げる物になれ!」
豆太くんが両手の指を複雑に組んで、小声で唱えると、葉っぱはポンッと煙に包まれて、それが消えたあとには、氷の入った氷嚢に変わっている。
「じいちゃん、これ!」
豆太くんがそれを額に載せると、田中さんは嬉しそうに笑った。
「いいのか、豆太、秘密の力をわしの前で使って……」
「じいちゃん、本当はわかってたんだろ、おいらが人間じゃないって」
「はあて、なんのことかのう……耳が遠いからよく聞こえんわ……」
氷嚢で少し気分がよくなったらしい田中さんが、豆太くんと問答をしているうちに、私は急いで一一九番に電話をした。しかし救急車が来るのは街中からなので、田中さんの家までは急いでも二時間かかるという。
「そんな!」
焦る私に、田中さんは豆太くんに膝枕をしてもらいながら、弱々しく手を上げた。
「不便なところじゃけんのう……いいよ、瑞穂ちゃん。豆太が来てくれたからすぐ元気になる」
まさかそんなわけはないと思いながら、私は考える。
(私の車に乗せて街まで運んだほうが、早いかもしれない……)
そう提案しようと口を開きかけた時、豆太くんがきりっと顔を上げた。
「姉ちゃん、ごめん。姉ちゃんの車でじいちゃんを病院まで運べないかな? 車まではおいらがおぶって行くから……」
小さな子どもだとばかり思っていた豆太くんが、田中さんのためにしっかりとした顔になり、私は胸が熱くなった。
「うん、そうだね……そうしよう! 私も手伝う!」
「なんの……ちょっと熱が高くて、咳がひどいだけじゃ……病院なんぞ行かんでも……」
「ダメ!」
豆太くんの叫びは鋭かった。
「じいちゃんいつも言ってたじゃないか! ばあちゃんは具合が悪くなっても、大丈夫だからって病院に行かなくて、だから間に合わなかったんだって……おいら……そんなの絶対に嫌だよ!」
田中さんが寝た格好のまま、ぐるっと首を巡らした。
部屋の奥には大きな仏壇があり、たくさんのお供えものの中に、笑顔の女性の写真が飾られている。
「そう……じゃの……」
こちらへ向き直った田中さんの目は涙に濡れており、豆太くんと私に支えられてゆっくりと体を起こす。
「あの時は豆太が来てくれて、おかげで命拾いしたんだって……あとで何度も語らんといかんよな」
「そうだよ!」
二人で田中さんを支えながら、車までなんとか歩いてもらった。毛布を持ってきていたおかげで、後部座席が簡易ベッドのようになり、私は田中さんに寝てもらって、改めて運転席に座る。
(ここへ来た時みたいに、病院へも一瞬で行けたらいいのに……)
私が心の中で思ったことを、豆太くんが言葉にした。
「姉ちゃん……来た時みたいにすぐ着ける? おいらが目を閉じている間に、もう着く?」
不安と期待が入り混じった表情に、私は安心させるように笑いかけるしかなかった。
「もちろんだよ! さあ、行くよ!」
「うんっ!」
今度こそはっきりと、ハンドルの下あたりのダッシュボードが光った。
(あれ? そこって……)
ごく最近、私はそこをのぞきこんで何かをした気がする。
(確か……)
考える間にも光が大きく強くなり、目を開けておられず、固く瞑る。
その時、脳裏に閃いた。
(あ……みやちゃんからもらったお札だ……)
『本当に助けが欲しい時、瑞穂ちゃんが本気で願ったら、きっと助けてくださるよ』
千代さんの言葉も、心に蘇る。
(もしも本当に私の願いを叶えてくださるのなら、御橋神社の神様、どうか、どうか……一刻も早く、田中さんを病院に運ばせてください!)
心の中で柏手を打って、実際の手はハンドルをしっかりと握りしめた。