すべてが息苦しくて、とても窮屈に感じたのは中学生の頃。古くなったランドセルを脱ぎ捨てて、真新しい学生服に袖を通したときからだった。

 ようやく幼い子どもから卒業したのに、親も先生も私を大人扱いしてくれない。
 行動範囲もぐんと広がって、考え方も小学生とはまったく違うのに理解してくれない。それどころか、素朴な疑問や質問はすべて生意気な態度として処理された。

 クセ毛なのに華美な髪型は禁止。目立たないように髪を結ぶかストレートにしろって、バカみたい。
 スカートの丈が短いって言うから長くしたのに、今度は長すぎるだって。
 はあー、イライラする。
 
 ひとつでも愚痴をこぼしたら止まらなくなる気がして、中学生の私はずっと本を読んでいた。
 集中すればするほど、周りの雑音が聞こえなくなるし、胃が痛くなるような苛立ちに悩むこともない。
 それが心地よくて休み時間も本を読んでいたら、クラスでひとりぼっちになっていた。

 いつの間にか友だちの数で優越が決まっていて、友だちのいない私は腫れ物扱い。
 それでも本が読めればいい、と強がった。
 
 寂しいとか惨めだという気持ちがあふれ出す休み時間は図書室にこもり、ひたすら文字を追いかける。
 そのような日々の中で、ひとつの目標が芽生えた。 

 県内トップの私立高校に入学して、家を出る。

 陰口ばかりたたくクラスメイトや、夫婦喧嘩の絶えない両親からも逃げる。
 とにかく新しい自分をスタートさせるために、私を知らない人がたくさんいる高校へいきたいと願った。
 
 きっと未来は明るく変化する。
 頑張れば、頑張った分だけ必ず報われる。
 そう信じ続けて合格を手にしたけど、私はいつまでたっても私だった。

 劇的な変化は訪れない。
 それどころか、父のせいで入学式からつまずいた。いよいよはじまる高校生活に胸が高鳴っていたのに――。

「ほら、あの子」

 (はじ)けたように笑う声の中から、私を指さす人がいる。
 気にせずに靴を履き替えて進もうとしても、廊下に集まった生徒や保護者がこっちをチラチラ見てくる。
 私はムッとしたまま重い足を前に出した。

「目元がお父さんにそっくりね」

 嫌な声が耳に届くと、ジロジロ見られる。
 顔を覗き込んでくる人までいるから、思わず目を伏せた。すると可憐な花びらをたくさんつけた胡蝶蘭が目にとまる。

 華やかで凜とした胡蝶蘭は嫌みなほど輝いていた。そして立て札には、久遠寺(くおんじ)公康(きみやす)の文字が。
 父の名前だ。
 高校入学を祝う電報にも、父の名前があった。

『ご入学おめでとうございます。これからもますます勉強に運動に励まれますよう応援いたしております。 久遠寺公康』

 私は下唇を噛んだ。
 よく見ると廊下にずらりと並んだ胡蝶蘭には、見覚えのある事務所や劇団員の名前が連なっている。
 父は舞台でもテレビでも活躍している俳優だ。

 劇団を運営して、若手の育成にも力を入れている。
 (きら)びやかな芸能の世界に浸って家庭を顧みず、家には帰ってこない人だった。

 たまに帰ってきたと思ったら、母と激しい言い争いをはじめて、なにもできない私はいつも耳をふさぎ、ふとんの中で声を殺して泣いていた。
 夫婦喧嘩の嵐が過ぎ去ると、父は家にいない。

 こうなると父の様子を知るのはテレビや雑誌の記事のみで、母はますます塞ぎ込んでいく。
 やがてマスコミや心無い父のファンに追い回されて、母は壊れてしまった。
 誰もいないのに「見張られている」と言い出して、そよ風に揺らぐカーテンでさえ敵に見えているようだった。

「なんで今頃……」

 声が震えた。
 入学試験の一ヶ月前に、親権問題が片付いたとかで父と母は離婚した。
 私の考えや胸のうちを尋ねることもなく、勝手に決まった。それだけでも許せないのに、親権は経済力のある父へ。
 
 父とはまともに会話した記憶も、家族らしい思い出もない。でも、心と体を壊した母は私に辛く当たるだけだったから、少しホッとした。

 母との生活が酷すぎて、心配してくれた。だから親権を――。

 そう考えると嬉しくて、父に会いたいと言った。時々様子を見に来てくれるおばあちゃんも『親は子を愛しているんだよ』と言っていたから、会えると信じたのに現実はさらに酷かった。

 芸能界で生きる父はイメージが大事。『子どもを捨てた父親』というレッテルを張られたくないだけで、一緒に暮らすつもりはない。
 母は愛した男とのつながりを失いたくない一心で、親権を主張していただけだった。

 両親の心には『私』そのものがない。

 闇の中へ転げ落ちた気分だった。
 父に捨てられた母は完全におかしくなり、私のことを「裏切り者」とか「いらない子」「役立たず」と罵り続けて、今はおばあちゃんの家で療養している。

 私は父からも母からも離れて生きていく。そう決めてこの高校へ入学したのに、目立ちすぎる花や電報のせいで俳優、久遠寺公康の娘だと一気にバレた。
 また好奇なまなざしが、右にも左にも。もう、うんざりだった。

「こんなもの」

 目の前の電報を引きちぎってやろうと手をのばしたとき。

「おい、そこの一年生。止まってないで早く教室に入れッ!」

 甲高い声が雷鳴のように轟いた。
 パステルカラーのスーツを着た先生が、仁王立ちになり、睨みをきかせている。
 かわいらしいコサージュをつけているのに、生徒や保護者にも立ち止まるなと威嚇するから、人混みがあっという間に消えていった。

 私も慌ててその場を去ったけど、父のせいで新しいスタートに泥を塗られた。
 苛立ちを隠しきれないまま教室に入ると、さらに悪いことが続く。

「久遠寺さんって、あの久遠寺公康の娘なの?」

 スラリと背が高くて、毛先をふわりとカールさせたセミロングのかわいい子が声をかけてきた。パッチリとした大きな目で私を見つめている。
 私は久遠寺公康の娘だけど、あれを父だと言いたくない。かと言って、はじめて声をかけてきてくれた子を無視するわけにもいかなかった。

 返答に困っていると。

「あーごめん、ごめん。私は紺野(こんの)陽菜(ひな)。よろしくね」
「……ユイです。よろしく」
「ユイってカタカナなの? 珍しいね。私は歌もダンスも得意な陽菜。今日から陽菜って呼んでね、ユイ」

 愛想のいい笑顔で子どもの頃から舞台俳優を目指していることや、陽菜の母が久遠寺公康の大ファンだとか話してくる。
 一番聞きたくない父の話ばかりで本当に気分が悪くなった。でもここで陽菜の機嫌を損ねたら、ひとりぼっちで浮いていた中学生の頃となにも変わらない。

 我慢しようと机の下で拳をギュッと握りしめたが、陽菜は珍しいものを見つけてはしゃぐ子どもに見えた。
 あまりの無邪気さに、私の胸は押しつぶされていく。

 ――俳優、久遠寺公康の娘。

 物心がつく頃から好奇な目で見られることが多くて、陽菜のような人にはなれないといけない。いくらそう言い聞かせても、父目当てで近づいてくる人にはうんざりする。

 メディアの中では笑顔の父でも、家に帰れば母と怒鳴りあう醜い姿しか知らない。
 みんなが知っている父と、私の中にある父が違いすぎて(わずら)わしい。
 そのことを打ち明けても、どうせ信じてくれない。

 羨ましい、恵まれている、気のせい、夫婦には色々ある。そのような言葉を並べて、私を信じてくれない。
 だからこの学校を選んだ。
 久遠寺公康の娘という目で見られたくないから、私のことを知らない人がたくさんいるこの場所を選んだ。
 それなのに――。

「ごめんね、紺野さん」
「やだなぁ、陽菜って呼んでよ」
「私、大嫌いなの」
「えっ、なにが?」
「久遠寺公康の話。するのも聞くのもうたくさん」

 ハッキリ言ってしまった。

 陽菜はパッチリとした目をさらに大きく見開いてから、ゆっくりと顔が赤く染まっていく。必死に口をパクパクさせて怒りの表情を見せたけど、すぐに「ふんッ」と顔を背けていってしまった。

 どこにでもいるような普通の女子高生として楽しい生活を送るはずだったのに、初日から失敗してしまった。
 それからは中学生の頃と同じ。クラスでも完全に浮いてしまう。
 話しかけてもよそよそしい雰囲気で避けられて、そのうち挨拶をしても無視されるようになった。
 無視をされると心臓をギュウッと握りつぶされているかのように痛いけど、自分でまいた種だから我慢した。

「ほら、あいつ。久遠寺公康の娘だからって、いい気になってる」
「一般人とは口も聞きたくないんだって」
「えー、何様のつもり?」

 そんなこと一言も言ってないのに、陽菜たちが睨みつけてくる。
 誤解を解きたくても、父のことを説明するのが死ぬほど嫌だ。
 陰口をたたかれるのは悲しいけど、黙って本を読むことにした。でも次の日、上靴がなくなった。

 教科書が破られたり、持ち物が廊下に放り出されたり、悪質な出来事が続く。
 それでも平気なふりをしていたけど、階段から突き落とされそうになった。

 さすがの私も身の危険を感じて陽菜たちに詰め寄ったけど、「私が背中を押したって、証拠があるの?」とゲラゲラ笑うだけ。一歩間違えれば大ケガをしていたかもしれないのに、信じられない。
 あまりにもひどいので、担任の平塚(ひらつか)先生に相談することにした。

 平塚先生は入学式のとき、電報に群がる人々を大声で蹴散らして、仁王立ちになりながら保護者も威嚇した人。
 とても厳しくて怖い先生だけど、まだ二十代。恋人募集中というお茶目な面もある。
 古くさい年配の先生と違って、話しやすかった。

「入学式の日に、紺野さんとトラブルになって――」

 長い話でもよく聞いてくれた。
 私の味方になってくれそうだったのに、陽菜たちから事情を聞くようになると平塚先生の態度が一変した。

「紺野は成績優秀だし、いじめをする生徒には見えないなぁ。靴箱の鍵は、ちゃんとかけたのか?」
「当たり前でしょう。それでも鍵を壊して」
「そんな簡単に壊れる方も問題だろ。紺野が壊すところを見たのか?」

 見ていないから口をつぐんだ。でも、陽菜以外に考えられない。
 どうしてわかってくれないのか。悔しくてやり場のない怒りが込み上げてくる。

「まあ、双方に問題があるようだからよく考えろ。はじめに紺野を否定したのは久遠寺だ」
「私はなにもしてません」
「紺野の母親が久遠寺公康の大ファンなのに、バカにしたんだろ? まずはそれを謝ってみろ。そうすれば紺野だって」
「絶対に嫌ですッ!」

 ガタンと椅子が鋭い音を立てた。私は机に手をついて立ちあがっていた。
 きょとんとした顔の平塚がまたなにか語りかけてきたけど、耐えがたい怒りのせいで聞こえなかった。
 
 担任のくせに平塚は当てにならない。
 私はすべてに失望した。

 それでも最悪すぎる一年間を我慢して、二年生になった。

 新しいクラスがどうなるのか。
 発表の瞬間まで陽菜に見つからないように隠れて、クラス分けの名前が張り出されるとダッシュで駆け寄った。

「……ない」

 私のクラスに陽菜はいない。クラスが離れた。
 これで嫌がらせがなくなる。
 うまくいけば新しい友だちができるかもしれない。

 歓声や悲鳴が飛び交う中で小さくガッツポーズをしたのに、状況は何ひとつ変わらなかった。
 体操服はゴミ箱へ。教科書はノリでベタベタ。提出したはずのノートが盗まれる。

「なーにーが個性を尊重して、可能性を最大限に開花させる。社会の発展に寄与する生徒の育成を目指す学校よ。ふざけんなッ!」

 憧れて、希望に胸をふくらませて、ようやく勝ち取った合格だったのに、陽菜のせいでメチャクチャだ。
 パズルを解くように楽しみながらしていた勉強も、わからない言葉や意味不明な数式が増えてきた。

 ご立派な教育理念通りの進学校なので、毎日の小テストや早すぎる授業についていくのがやっと。
 家に帰っても家事が残っている。

「どうして?」

 憧れの高校に通って、ひとり暮らしをする。
 すべて私が望んだことなのに、現実はバラ色ではなかった。
 追いつけない授業にもがき苦しみ、心を傷つけ、希望をも踏み潰す行為が毎日のように続く。

 そして今日も上靴がない。
 呆然と立ち尽くしていると、耳障りな笑い声が近づいてきた。

「ユイ、邪魔よッ」

 高圧的な声と共に、陽菜が私の背中を強く押してきた。その力があまりにも強くて、激しく靴箱にぶつかった。
 電気のような痛みが走っても、体が石のように硬直し動かない。

「ちょっと陽菜、やりすぎだよ」
「えー、穂乃花(ほのか)はユイの味方になるの?」

 陽菜の威圧的な態度と視線に逆らえる人はいない。
 私からサッと目をそらして、「別に……そんな」と口ごもるだけ。
 
「だよねー。あいつキモイし」

 ゲラゲラ笑う声が鼓膜をゆらすと、苦くて熱い胃液が込み上げてきた。
 陽菜は笑顔で言葉の石を投げてくる。痛いと言えば、悪者にならない位置まで下がって周囲の同情をうまく引き入れる。
 勝てっこないから、黙って嵐が去るのを待った。

「穂乃花と同じクラスでよかったー。俳優の娘だからって、いい気になってる奴とは違うからねー」

 耳にこびりつく不快な笑い声が聞こえなくなると、全身から汗が噴き出して息が乱れた。
 陽菜が近くにいると、正常な呼吸ができなくなる。
 手が小刻みに震えて、止めたくても止まらない。

「もう限界……」

 誰もいなくなってから弱々しい声だけがこぼれた。
 それでも大きく深呼吸をしてから再び歩きはじめたけど、授業開始を知らせるチャイムが広く鳴り響いた。

 急がないと遅刻する。

 頭の中は焦っているのに走れなかった。
 冷たすぎる廊下を靴下のまま、ぼうっと歩いている。
 濃紺色のスクールソックスは、少し歩いただけで汚れだらけに。

 汚い足先を見つめていると、指の節が真っ白になるほど強く拳を握りしめていた。

「先生も生徒も汚い。あいつも汚すぎる。言いたいことがあるならハッキリと言えばいいのに。私のことが気に入らないなら、無視すればいいのに。上靴を隠したり、教科書をダメにしたりバカみたい」
 
 やり場のない怒りを抱えたまま、新しい上靴を買いにいった。すると、さらに汚いゴミでいっぱいになったゴミ箱に、上靴が捨ててある。
 おそるおそる手をのばして拾い上げると『久遠寺ユイ』と書かれていた。

「私の……。もう、嫌だ!」

 涙が出るのをこらえて早足で階段をあがった。
 二年生の教室は二階だが、三階まであがり、さらに屋上へと続く階段に足をかける。【関係者以外立ち入り禁止】の立て札を無視して行きつく先は、ダイヤル式の鍵がかかった扉の前。

 いじめが酷くなった頃から、この鉄の扉をくぐって屋上から飛び降りると決めていた。
 遺書だって書いてある。

 学校にも家にも居場所がないから、あの世にいこう。
 生きていても仕方ない。
 遺書を読んで、私を死に追いやったすべての人間が不幸になればいい。

 怒り、悲しみ、憎しみを込めてダイヤルを回す。
 〇から九までの四桁の数字を入れれば開く。

「二七九三、……九四、……九五、九六……。今日もダメなの?」

 生きているのが辛くて、死にたくなったらここへ来た。
 一から順番に数字を合わせて、試していけば必ず開く。
 鍵が開く四桁の数字がわかれば、煩わしいすべての事柄から解放される。

 私は死ぬことによって新しいなにかがはじまると、強く信じていた。