吹奏楽部の演奏が響き渡る放課後の校舎は、まるで巨大なスピーカー。
 練習再開初日のせいか、音がちょっと頼りない。さっきから同じところで止まっては、少し戻ってやり直す、というのを繰り返している。マユはさぞかし苦い顔をしてるんだろうな。
 昇降口で靴を履き替えたとき、走った痛みに顔をしかめた。
 高校に入学するときに買ったお気に入りのローファーが、最近少しキツくなっていた。
 新しい靴にしなくちゃと思っているのだけれど、履き心地がよくて、デザインもよくて、制服にもよく似合う、なんて無理難題をクリアする靴は、そう簡単に見つかるものじゃない。

「アカリ」

 体にぴりっと電気が走る。振り返る前にもう誰がそこにいるのか分かっていた。嬉しいとか、恥ずかしいとか、いろんな感情を一瞬でくぐり抜けて、友達の顔で振り返る。

「ユータ、どうしたの?」
「一緒に帰ろーぜ。マユはこれ(・・)だし」

 校舎に響く音楽そのものを指差すように、ユータは人差し指を立ててくるくると回した。

「コーヘイは?」

 私とマユは一組で、ユータとコーヘイは二組。男女で分かれるなんて温泉みたいだね、とクラスが発表されたときにマユが笑っていたっけ。
 だから私とマユはいつも一緒。ユータとコーヘイはいつも一緒。それなのに、今日は私もユータも一人ぼっち同士だ。

「四組の白川って女子に呼び出しくらったんだって。あいつ、モテるよなー。今月二人目だぞ。あーあー、俺もモテてみてー」
「なに言ってんの。マユが聞いたら怒るよ」
「いーのいーの。どうせ聞こえないんだから」

 ぶぉん、とチューバらしき低音が鳴って、ほらな、とユータが笑った。
 私とユータが校門を出ると、吹奏楽部の演奏はぐっと遠くなった。それでも微かに聞こえてくるその音が、足元にまとわりついてくるようだった。
 ずきん。足が痛いのは、サイズの合わない靴のせい。

「――でさ、現国の田中が授業中うるせーの。シャツは第一ボタンまでしっかり留めなさい! とか言ってさ」

 学校全体でもダントツにウザがられている先生の声真似をしながら話すユータの隣を、私は、えーまじでー? とか言いながら歩く。
 ユータと二人でいるとき、私は自分のことを話さない。ユータの声をたくさん聞きたいから。何を見て、何を聞いて、何を思ったのか、全部知りたいから。
 だから、ユータが話しやすいように相づちを打って、それで? と先を促してあげる。一言も聞き漏らさないように、全神経をユータの声と表情に集中させる。

「マユもさ、アカリみたいに聞き上手だったらいいのにな」
「えっ!」

 まるで私の心を読んだみたいなユータの言葉に、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「だってあいつさ、自分のことばっかり話すんだよな。しかもたいてい部活の愚痴。この前、あんまイラついたから、じゃー辞めたら? って言ったらめっちゃキレられたし。今LINEの未読、何件たまってると思う? 五件だぜ。ありえなくね?」

 部活の練習が激しくなるにつれ、マユは私たち――彼氏であるユータでさえ、そっちのけになってしまう。朝、昼休み、放課後、休日。マユはずっと練習している。
 連絡して返信がないなんて当たり前。廊下ですれ違っても無視されることさえある。
 それなのに、大会や演奏会が終わったとたん、何もなかったように「あれがしたい、あそこに行きたい」と私たちを引っ張り回す。
 自由奔放、と言えば聞こえはいいが、振り回されるほうはたまったもんじゃない。
 マユに甘いユータは、面と向かって言わないけれど、その後ろでどこか不満げな顔をしていた。そして、ときどきこうやって私にだけ胸の内を明かしてくれる。そんなとき、私の中ではいつも甘やかなものが立ち上がってくる。
 だけど、私たちは友達だから、口にするのはフォローするものじゃなきゃいけない。それくらい心得ている。

「マユみたいに一生懸命なものがあるのって、いかにも青春って感じでいいじゃん。あたしは、そういうのがないから」
「でもさー。彼氏のことほったらかしってどうなんだよ。その間に浮気されたら、とか考えねーのかな」

 浮気。不穏な言葉に胸がどきりとした。

「どっかで何か食ってく?」
「――ううん、今ダイエット中だし」
「昨日クレープ食っておいてよく言うぜ。じゃあ、ちょっとコンビニ寄らして。俺、腹減って死にそう」

 私の返事を待たずに、ユータはコンビニに入ってしまった。レジで唐揚げを注文するユータの後ろ姿を見ながら、私はブラックの缶コーヒーを二本、手に取った。
 会計を済ませて外に出ると、待ちきれなかったユータは、すでに唐揚げを頬ばっていた。その鼻先にコーヒーを差し出す。ユータが好きな銘柄のブラックコーヒー。

「おごり」
「おーっ、アカリ優しいじゃん」
「昨日、頑張ったから」

 ちょっと目を見張ったあとに、分かってるじゃん、とにやりと笑うユータに、私も笑い返す。それは、秘密を共有し合う者たちの証。
 ユータはもともと甘いものが大の苦手。だからクレープなんかホントは食べない。

「おかげでマユも喜んでたし、よかったじゃん。コーヘイは相変わらずちゃっかりしてたけどね」
「ホント。あいつはマイペースだよなー。しかも買ってきたコーヒーは微糖だったし。どっちも甘すぎて死ぬかと思ったわ。その点、アカリはさすが」

 ブラックコーヒーを一口飲んだあと、唐揚げを摘まんで私に差し出す。ぷん、と醤油のにおいがした。

「コーヒーのお礼」

 こんなところを誰かに見られたらヤバい。でも、別に意味のあることじゃないし。でも、噂ってそういうものだし。でも、でも――。

「アカリ」

 ユータの声で呼ばれた名前に、たくさんの「でも」が吹き飛んでしまう。
 顔を近付けると、ユータが私の口に唐揚げを押し込んだ。その指先が唇をかすめた。じわりと熱を帯びて、全身に広がっていく。
 テストが終わったらあのクレープ屋さんに行こう、とマユが言い出したとき、ユータがわずかに顔をしかめたことに私は気付いていた。それでも黙っていたのは、こんなふうに、私のほうがマユよりユータのことをよく知ってるんだよって伝えたかったからかもしれない。
 優越感。私の中に立ち上がる甘やかさの正体。

 ――好き。

 その言葉を、唐揚げと一緒に噛み砕いて、飲み込んだ。
 コンビニから少し歩いた十字路で、ユータは「じゃあ、また明日な」と私に背を向けた。その背中に向かって、小さく手を振る。
 三ヶ月前、この場所で、ユータは私にキスをした。
 マユは大会前で部活に掛かりきりで、コーヘイは六組の岡崎さんに呼び出された日。まるで今日みたいな日、だった。
 いつもは「また明日な」と言って私に背を向けるユータが一歩、私に近付いて、ふっと視界が暗くなった。あれは、ユータに光が遮られたせいだったのか、私が目を閉じたせいだったのか、今でもよく分からない。
 キスされたんだって気付いたのは、ユータの姿が見えなくなってから。
 唇に残った違和感だけが証拠だった。
 あの日から、私はずっと二回目を待っている。