「滅相もない、拙者は殿のご意見が全て。どんな意見にも従いまする。しかし戦姫を姻戚に引き込んだ方が、こちらに利が大きくなると思い・・・」
段々と奴の口が重くなり、語勢もひどく弱々しくなってくる。
言いたい事がワシの意見と相違してしまうと恐れているのか。戦の話となれば、周りに臆す事なく、ずけずけと進言する。剛毅でしかつめらしい奴じゃと思うていたが。こやつに、こんな一面があったとはなぁ。
ワシはフッと微笑を漏らし、「主の言い分も分かっておるぞ」と穏やかに告げる。
「あの娘は実に価値がある。戦姫を姻戚としてしまえば、労せずして美張を取り込めるだけにあらず、こちらの兵力も増す。先達して、妖怪とのいざこざも収めてくれる主となろう。そして姻戚になれば、武田の血はより強くなるであろうな」
「では、なぜおやめになったので?贅言であると承知の上ですが、お聞かせ願いたく」
困り果てた、弱々しい声が後ろから聞こえた。
「分からぬか」
「恥ずかしながら・・・」
口ごもりながら告げる昌続に、ワシはフッと微笑を漏らし、淡々と告げる。
「あの殺気を前に、そのような事を言えまいよ」
「殺気?!」
ワシの返答に、すぐに困惑した声が、愕然とした声音に変わった。
そう、あの娘も敵に回すと恐ろしい事ながら。真に恐ろしいと感じたのは、あの娘が従えている側仕えだ。
このワシですら恐怖を感じ、臆した。いや、どんな歴戦たる武将も、奴の殺気に当てられれば、死を覚悟するであろう。それほど奴の殺気は、恐ろしいのだ。
簡単な事ではない。恐ろしい死を目の前に現すなぞ。だが奴は一瞬にして、ワシの目の前に死を顕現させた。避ける事が出来ぬ、恐ろしい死をいとも簡単に顕現させた。
「奴を敵に回すのは、それ相応の覚悟でも足りぬだろうな。実に恐ろしき奴よ」
瞼の裏に、先程の出来事を映しながらぼそりと呟くと。すぐ後ろから「と、殿がその様に感じたと?」と、信じられないと言わんばかりに返される。
ワシだって認めたくはないが、アレは実に恐ろしい。アレを敵に回すとなると、命が幾つあっても足らぬであろう。となれば、奴の敵となるよりも味方として内に入った方が、得策と言うものなのだ。
「人間に化けてはいるが。隠しきれない妖怪の恐ろしさ、か」
ぼそりと呟くと、ぶるっと体が震えた。
「何か仰いましたか、殿」
後ろから顔色を窺う様な声音で尋ねられ、ワシは我に帰る様に軽く嘆息した。
そして「何もない」と、ぶっきらぼうに答えてから、ふと空を見上げる。
青々とした空に、たなびく様に雲が薄く流れていた。太陽も煌々と輝き、我らに眩しい程の光を注ぐ。そんな靄然とした空で、ピーヒョロロと心地良い声音で鳴きながら、鳶が悠々と泳いでいた。
「これで賽は投げられたと言うもの。はてさて、戦姫は、美張はどう出るかの・・・・返答が楽しみだ」
・・・・・・
「主等は、どう思うた?わらわに申してみよ」
牧之島城を後にし、宿に着いてから、わらわは京と総介を前にして尋ねる。
「我らは姫様方のご意見に従うだけにございまする」
総介が京の分も代弁する様に、滑らかに答えた。
「いや、わらわは主等の意見を聞きたい。先の武田の話をどう思うた?」
総介は尋ねたわらわの顔を神妙な顔をして見つめ、「私は」と訥々と語り出した。
「拙者は正直、武田の傘下に下るなど。と言う、賛同しがたい気持ちにございまする。美張への進軍で、武田軍により命を落とした者もいない訳ではありませぬし。
そして盟約を結ぶ事を皮切りに、奴らはそのまま小国である美張を乗っ取るつもりなのではと思いまする。姫様を戦に駆り出すと言う話も、姫様の戦死が狙いなのではと・・・」
わらわは総介の話に、ふむと唸った。
確かに、総介の言い分も一理ある。武田の狙いも、的を射ている様に思う。
「京はどうじゃ」
わらわが問いかけると、京は「俺は賛成ですね」とすんなりと答えた。
すぐにするりと出た答えに、わらわは軽く呆気にとられた。そして少し遅れてから「どうしてじゃ?」と尋ねる。
「これは、強大な後ろ盾がもらえる好機ですから。武田の名ともなると、他大名達に進軍させないと言う牽制を充分に果たす事が出来ます。
色々な思惑は彼にもありましょうが、それはこちらも同じ。深く考えず、面従腹背でいれば良いのです。
それでも憂慮すべき事があるなら、こちらが先に何か手を打てば良い話。俺達妖怪の流儀でもありますが、化かされる前に化かすのです」
総介とは真反対の、さっぱりと割り切った意見だった。妖怪らしい立場の意見に、わらわも「成程のぅ」と言葉が漏れる。
「うむ。どちらの意見も的を射ていると思うが。やはり懸念となるのは、武田の後ろ盾を得て、どう変わるか・・じゃなぁ」
うーんと唸りながら、わらわはがっちりと腕を組み、空を仰ぐ。
「父上の意見が全てじゃが、父上はなんと仰るかのぅ」
顔を上に向けながら言葉を発したので、喉が締まり、呻く様な声になってしまった。
すると唐突に京から「まぁ、姫。今あれこれ考えても仕方ないですし。考えるのをお止めになっては?」と、労いの言葉をかけられた。
そんな事は今までなかったから、京の口から飛び出た言葉とは思えず、軽く衝撃を覚えながらバッと顔を戻して京を見る。
すると京は哀れな目でわらわを見て「姫はあんまり頭を使わないので、知恵熱を出しますよ。そうなると俺達が大変ですから」と小憎たらしい口を叩いた。
そうじゃよな、そうじゃよな。京がわらわを慰労する訳がなかったのじゃ。全く、わらわは何を思ったのかのぅ。つい数秒前のわらわは阿呆じゃ、うつけじゃ。
フッと自嘲気味な笑みを零すと、代わりに総介が「無礼者めが」とすぐに噛みついてくれる。だが、その言葉でさえも「はいはい」と、京は飄々と受け流していた。
「主君に仕える身として、そんな態度が許されると思うているのか。京、拙者は口酸っぱく言っているはずだぞ。貴様は姫様に仕える者として自覚を持て、と。貴様のせいで姫様の格が落ちる」
「俺のせいで姫の格が落ちると思っているのか、総介。そんなお前もどうかと思うがな」
「何だと?」
なぜだか不穏な空気になり、バチバチッと目から怒りが迸る。お互いバチバチと睨み合い、お互い柄に手が伸びようとしていた。
「やめい、やめい!すぐ喧嘩になるでない!」
わらわが仲裁に入るが。仕える身云々と言っておきながら、主君であるわらわを無視して「貴様には思い知らせてやらねばならぬな」「思い知らす?随分傲慢な人間だなぁ」と冷淡な言い合いを続けている。
「いい加減、辞めぬか!」
わらわが声を張り上げ、バチバチと睨み合っている二人の頭に拳骨を入れる。ゴツン、ゴツンッと二人の頭から鈍い音がし、柄に伸びていた手が頭に当てられた。
はーっとわらわが呆れている目の前で、二人は頭を押さえ「うう」と呻き、痛みに顔を歪めていた。
「姫、何するんですか」
「い、痛うございまする」
呻きの合間に苦々しく文句をぶつける二人に、わらわは主君として「黙れ」とピシャリと言い放つ。
「喧嘩両成敗じゃ。全く、主等がここで大喧嘩するとどうなると思うている。この大うつけ共め」
「「も、申し訳ありませぬ」」
二人がゆっくりと叩頭したので、わらわは「全く」ともう一度呟いた。
「仲良うしろとは言わんが、もう喧嘩するでないぞ。双方、どちらの言い分も自分の心中に言い聞かせる様にしろ」
強く二人を窘めると、二人から弱々しく「御意」と発せられた。そう言われては仕方ないと言わんばかりの声音で、まだまだ溝が深いなと感じる。
まぁ、今はこれで良しとするか。いつまでも説教とはいかぬからの。
「では女房達を呼べ、わらわは着替えるのでな。もうこの格好は疲れた。双方は下がれ、皆にはわらわの支度が整い次第出立すると伝えておけ」
「「ハッ」」
今度は恭順で、力強い返答をすると、二人は足並み揃えて部屋を出て行った。そして入れ替わる様に女房達が入り、わらわの支度を整えた。
そうしていつもの水干姿になると、ようやく待ち焦がれていた馬に乗り、皆を引き連れて美張に帰還した。
それから一日かけて美張に戻る事が出来ると、早速父上に何があったかの報告をしに参った。
「と。言う次第にございまする、父上」
わらわが全ての事を話し終えると、父上は淡々と「そうか」と答えただけだった。
「こうなるであろうと、予測されていらしたのですか?」
「うむ、武田は猛将と言うよりも智将であるからな。双方を納得させる様で、実は一番自分に利がある。武田は、その様に事を運ぶのが上手いからのぅ。じゃから、そう言う事になるであろうと思うておったのだ」
「そうでしたか、流石は父上」
わらわが感服すると、父上は「じゃが、やはり懸念はあるのぅ」と渋面を作った。わらわはその唸りに、コクリと小さく頷く。
「しかしながら、千和よ。我らに残された選択肢は一つだけだろうの」
父上は腕を組みながら、二つの淀みない黒の瞳で、わらわをしっかりと見据えた。
「美張を、民を守る為には、我らは常に最善を取らねばなるまい。それは分かっておるな、千和よ」
「勿論にございまする」
わらわが間髪入れずに、力強く答えと、父上は満足げに頷いた。
「それが分かっておるのなら良い。では、武田に使者を遣わせて文を送るのじゃ。久遠と武田の同盟を成立させるぞ」
こうして、我が美張の久遠と甲斐の武田とで、軍事同盟を成立させたのだった。
そして武田の後ろ盾を得てからと言うものの、美張に進軍しようと言う大名はいなくなった。あの織田や斎藤でさえも、武田の後ろ盾がある美張に手を出しづらくなったのだ。
またいつ進軍されるかと、常に緊張感を持っていたのだが。それが次第になくなっていった。益々豊かな平和になり、この戦乱の世では誰もが羨む国となった美張。
だがそれを引き換えとするかの様に、わらわが武田軍として戦に立つ事が多くなった。それが武田との約束であり、美張の平和をより強固にしてもらっている。故に、それは仕方のない事であった。
川中島での戦は、今までのどの戦よりも激戦だった。終始無傷と居られる時は、ほとんどなかった。敵の刀や矢を幾度も食らい、ああ死ぬと言う思いを何度も抱いた。
しかし、そうなってもわらわは生き残っていた。京と総介が守ってくれたと言うのも大きいが。自分の中で、こんな所では死ねぬと言う強い気持ちが、迫り来る死を辛うじて回避していたのだろうと思う。
そうして何度も死地をかい潜り、武田軍の一部隊を率いる長として、武田に勝利をもたらしていると。わらわは将会議に参加する事も出来る様になり、武田信玄に気に入られ始めた。直々に武術の指南を受け、戦術を叩き込んでくれる時もあった。
いつしか憎き敵の総大将だったはずの武田は、頼もしい味方であり、第二の父の様な存在となっていった。
・・・・・・
そんなある日の事であった。
「しばし美張に居ると良い。よう働いてくれたからな、しばしの休養と言うものじゃ。戻ってもらう時は、遣いを送ろう」
と言う、親方様の心遣いで、わらわと京と総介は美張に帰還する事になった。
数ヶ月ぶりの美張への帰還は、疲れや戦で受けた傷の痛みさえも吹き飛ばす勢いだった。ゆっくりと見える美張の光景に、何だか感慨深い様な思いに駆られる。
父上達がおわす、美張城の天守がひょっこりと顔を見せ始めると、それは更に大きくなり、はあと息が漏れ出た。
「本当に久方ぶりじゃのぅ。皆は息災じゃろうか」
「さぁ、そうなんじゃないですか」
京は淡白に返事をするが、すぐ総介に「無礼だ」と睨まれていた。
そしてそれを流す様に「姫様、親方様も奥方様もご壮健にございましょう」と口元を綻ばせながら返す。
わらわは相変わらずの二人だなと、少し微苦笑を浮かべてから「そうじゃのぉ」と答えた。
「久しぶりの美張じゃからのぅ。羽を伸ばそうかのぉ、主等もゆるりと出来る良い機会であろうから、羽を伸ばすと良い」
「「ハッ」」
そうしてパカパカと軽やかに馬を走らせて、三人揃って城下町に入る。
すると城下町の入り口に着いた瞬間、「あああ!」と言う歓声が飛んで来た。
「姫様だ!姫様がご無事に帰還なされた!」
誰かが野太く叫んだと思えば、少し賑わっているか程の通路に、大勢の人が飛び出してきた。どどどどっと、歩兵が進軍してくる様な地響きを起こしながら。
それに馬は少し驚き、大きく嘶いていたが。わらわはそれを宥めながら、駆け寄ってくる民達に温かく迎え入れられる。
「皆、息災であったか」
「勿論でする!姫様は?!」「姫様はご無事でしたか?!」「ああ、良かったです。姫様!」
わらわがニコニコと問いかけると、民達は一斉に口を開き、言葉をかけてくれた。わらわは、かの有名な聖徳太子ではないのじゃが。全ての声を聞き漏らすまいと、真剣に民達の声を聞き取った。
久方ぶりの民達の笑みは、本当に疲れも何もかも吹き飛ばしてくれるのぅ。と思いながら、民と会話を交わしていたが。総介が「皆、姫様は親方様にご挨拶がある故、もう行かねばならぬ。離れよ」と見計らって、厳格な声を張り上げた。
わらわはその声に「あっ、そうじゃった」とハッとする。その一方で、民達は少し不服な声を漏らした。その声に、わらわは「すまぬの」と苦笑を浮かべる。
「しばらくわらわは美張にいるからの。またすぐに会えよう。じゃから今日はここまでじゃ、皆の顔が久方ぶりに見られる事が出来、大変嬉しく思うたぞ」
口元を綻ばせながら告げると、少し雲がかった顔は晴れ、「私も!」「またいらしてくださいまし」「約束にございまするぞ!」と口々に声をかけて、道を空けてくれた。
わらわ達は「すまぬ」と言いながら、馬に乗って空いた道を行くが。やはり別れが惜しいのか、わらわの道を邪魔しない様に民達が付いてきて「姫様」と嬉しそうに手を振っていた。
それにわらわは顔を綻ばせ、手綱を上手く取りながら、手を振り返して進む。
その道中で、わらわは気がついてしまった。ほぼほぼの歓声はわらわに対してなのだが。後ろから付いている側仕え二人にも黄色い声が飛んでいると言う事に。わらわは気がついてしまった。
相変わらずの人気じゃな。わらわの人気まで食われる事はないであろうが、二人の人気は凄まじいのぅ。どれ、奴らはどんな風な顔をしておるかの。良い機会じゃ、見てやろう。
わらわはニヤッと口角を上げて、チラッと後ろを向く。
すると面白い事に、見えた二人の反応は真反対だった。
総介の方は笑顔で、遠慮がちに手を振り返していたが。京は全く振り返さなかった、と言うか民を見ていなかった。いつも通りの冷徹な顔で、まっすぐ前を見つめていた。
だから面白そうに様子を窺うわらわと、ばっちり目が合う。
わらわはすぐに意地悪な笑みを引っ込め、「振ってやれ」と目で訴えるが。すぐに「嫌です」と言う、冷ややかな目が返ってきた。
全く、京はどうして他人にこんなにも冷たいのかのぅ。
武田軍の時も、孤高を貫いておったし。人間の様に生きる事になって長いはずだが。人間とは上手く打ち解けないんじゃろうな、きっと。妖怪の心のせいなのか、性格のせいかは分からぬが。京の場合、恐らく後者じゃろうなぁ。
まあ、でもわらわには打ち解けてくれているし。能面の様な無表情を崩してくれるし、他人には見せない部分を知っている。
そう思うと、なんとなく優越感を覚えるものじゃな。嬉しい様な、心がもぞもぞする様な?
わらわはニコニコと民に笑顔を見せながら、頭の中では訳の分からない事を考えていた。そして心中では、面映ゆい様な、言葉に出来ない様な、よく分からぬ感情に飲まれていた。
そして美張城の門をくぐった途端に、民達の声に負けじ劣らずで「姫様ああ!」という大歓声が湧いた。久方ぶりの家臣達も皆元気そうな姿を見せてくれる。
それに喜色を浮かべながら、父上と母上にも謁見をするが。お二人も、わらわを温かく迎え、帰還を心からお喜び下さった。
母上は戦で受けたわらわの傷を見ると、悲しそうな顔をしたが。すぐに「女子の体に傷跡は残してはならぬ」と、よもぎの塗り薬を塗ってくれた。
それから父上が、わらわの帰還を祝って宴を開いてくれた。
城内だけが、どんちゃん騒ぎをしているのかと思えば。風に乗って聞こえる城下の声も同じ程の賑わいだった。
わらわは、美張の平和を感じた。
酒を飲むと美味いと感じる。食事が美味いと感じる。家臣や民が、皆笑っている。憂いた顔をしている者は、誰一人もおらぬ。
わらわが美張の為にと、激戦地に赴き、武田軍として戦う事は正しき事であったのじゃな。わらわが奮闘している意味は、確かに美張の為になっているのじゃ。
それに、この笑顔を見ると。やはり美張以外の地で死ぬのは、本当に出来ぬ事じゃと思い知るのぅ。
わらわは戦地で死んではならぬのじゃ、必ずここに帰ってこなければならぬ。わらわが帰らねば、平和の象徴である笑顔が消えてしまうからのぅ。
わらわはぐびりとお猪口を傾けて、酒を喉に流し込んだ。
わらわが帰って来て、幾人も「姫様、ご無事で何より」と言ってくれる。「姫様がいらっしゃらなければ、美張が欠けまする」と言う者もいる。
この笑顔を守らねばなるまい。武田軍として戦う事だけが美張の平和に繋がるのではないのじゃ。わらわが帰らねば、平和の象徴である笑顔が消えるのじゃ。
帰ってこよう、必ず。どんな激戦地だとしても、何があったとしても。必ずわらわは死ぬ事なく、生きて戻って来よう。
わらわは自分の言葉を強く噛みしめながら、前をしっかりと見据えた。
そして目を細めてから、もう一度お猪口を傾けて喉に酒を流す。美張独特の酒の旨味が奥へ奥へとじわりと伝わっていき、「くわぁ」と言う声が上がった。
「うむ、やはり美張の酒は美味いのぅ」
独りごちる様に呟いてから、もう一度傾けて、酒を喉に流し込むと「千和よ」と言う厳格ながらも、少し上ずった声が横からした。
「戦ばかりで酒を飲む機会も少なかったであろう?久しぶりの酒は美味いか?」
ほんのりと顔を赤色に染めた父上が、ニコニコと上機嫌で聞いてくる。わらわも同じ位破顔して「それはもう」と答えた。
「姫様、あまり飲み過ぎると・・・」
するとおずおずと窘める様に、わらわの横から総介が口を挟んだ。
だが、次の瞬間。総介は「今宵は良いのだ!馬鹿者ぉ!」と父上の重鎮にからかい気味に引っ込められ、ガハハハッと雄叫びのような笑い声をあげている渦中に引き込まれていった。
わらわは苦笑を浮かべながら遠目から、総介がもみくちゃにされている姿を見つめる。
普段は柔和な笑顔を見せているが、この時ばかりはその笑みが引きつり困惑に染まっているのぉ。うん、まあ良い機会じゃろうて。総介は、普段こんな可愛がられ方をしないからのぅ。
さて、もう一人の仏頂面はどこでもみくちゃにされておるかの。京の事だから、しれっとしたまま酒を煽っているだろうかの。
わらわは酒を飲みながら、室内をぐるっと見回した。
しかし、わらわの目は京の姿を確認する事が出来なかった。わらわの顔が少し「うん?」と怪訝になる。
この部屋に居るものだとばかり思っていたが。おかしいの、わらわが見つけられなかったのか?
ごしごしと目を擦り、もう一度室内を見回す。先程よりもじっくりと。
だが、やはり京の姿をどこにも見つけられなかった。裸踊りをしている一団。楽器を鳴らして、場を盛り上げている一団。酒をグビグビと飲み、かなり出来上がっている一団。食事に手を伸ばしながら、わらわの昔話に花を咲かせている一団。
どの一団にも、京の姿はない。
「父上、京を知りませぬか?」
横で母上と共に談笑していた父上は、わらわの問いかけを聞くと「いないか?」という顔をしたが、すぐに思い出した様で「ああ」と言葉を漏らした。
「今宵は、満月だからのぅ」
父上のその言葉で、わらわはピンと来た。
そうか、今宵は満月であったか。だからか、京がいないのは。
わらわは酒の入った瓢箪を掴み、「しばし、席を外します」と父上に告げると「おう」と朗らかな返事が返ってきた。
その声を聞いてから、騒いでいる家臣達に目ざとく見つけられない様に、スッと大宴会の真っ最中である部屋を抜け出す。
どうやら馬鹿騒ぎに夢中だったらしくて、わらわが宴席を外した姿を見られなかった様だ。酒のせいもあって、わらわが抜け出した事すら気がついておらぬのだろう。
一人でふうと胸をなで下ろしてから、ひっそりと静まり帰った廊下を歩いた。床を踏み、キイと鳴る足音が、いつも以上に響く。
いつもは誰かが歩き回り、幾人の足音がしているものなのに。ここの人間が一堂に集まると、他はこんなにもがらんとして寂しくなるのだなぁ。
わらわは羽織っている打掛の襟を軽く握ってから、月明かりだけを頼りに京を探し回る。
今宵は満月。京が妖怪に戻る、月に一度の日だ。
京の妖力が高まり、いつも自身にかけている変化の術が解けて、妖怪の姿に戻ってしまうと言う日なのだ。
不思議とその姿を京は見せたがらず、満月の日は必ずどこかに雲隠れする。そうしてどこかに身を隠して、満月の夜を過ごし、朝には平然と戻ってくるのだ。