風はいつも君色に染まる

 それから私は、放課後は小田君と一緒に帰るようになり、毎日『希望の家』へも遊びに行くようになった。施設で暮らしているのは十五人の子供たちで、五年生の小田君が最年長だった。
「小学校を卒業するまでに、みんな行き先を見つけてここを出て行くんだ。だから俺が一番古株。なんてったってここは園長先生がほぼ一人でやってる園だからさ……万年人手不足で、これ以上は手が回らない……」
 小田君はあっけらかんと笑いながら、私にそう教えてくれた。ここではみんな自分のことは自分でやるし、小さな子もそれぞれに係を持っている。難しいことはお互いに助けあい、励ましあってなんとかしている。小さな頃から母の帰りを一人で待ち、食事の準備をしていた私は、自然と小さな女の子たちに料理を教えることが日課になった。
「それで、これを煮ている間に、こっちを切っちゃうでしょう……」
「あっそっか! ちいちゃんねえちゃんすごい! これでいつもよりはやくできる!」
「うん。料理は手際が大切だからね……あとは、これも先に炒めちゃおう」
「すっごーい! えんちょうせんせいのより、こうにいちゃんのより、ずっとおいしそう!」
 素直な賛辞が嬉しかった。向けられる笑顔が眩しかった。学校ではやはり誰も私に声をかけず、まるで存在しない人間のように扱われていたので、放課後『希望の家』へ行くことだけが、いつの間にか私の心の支えになっていた。
「ちいねえちゃん、もうここにすんじゃえよ! そしたらあさごはんもおいしくなるからさ!」
 いつも元気な翔太君の頭を、小田君が軽く小突いた。
「馬鹿言うな……長岡にはちゃんと帰る家があるんだから……」
 チクリと胸が痛んだ。私を慕ってくれるこの子たちにも、小田君にも、家と呼べる場所はここしかない。私のように中途半端に出入りしている人間を、みんな嫌だと思わないのだろうか。
「あっ! ちいねえちゃんがかなしそうなかおしてる!」
「こうにいちゃんが、いじわるいうからだぞ!」
 私が考えこんだせいで、小田君がすっかり悪者にされる。私は慌てて手を振った。
「ちがう、ちがう! 小田君のせいじゃないよ!」
「おだくん……? ぼくも『おだくん』だよ?」
「ぼくも!」
「ぼくも!」
 あちこちで連呼され始めた声に、もっと慌てた。
「そうじゃなくって……ええっと……紅君だよ……!」
 口に出して言うには、かなりの勇気が必要だった。彼を名前で呼ばなければと思っただけで、私の心臓はどうしようもなく暴れた。ドキドキしながら視線を彷徨わせた先で、その『紅君』と目があい、なおさら焦る。紅君は少し驚いたように目を見開き、それからすぐに笑顔になった。私の大好きな――あのお父さんとよく似た笑顔になった。
「じゃあ俺も……『ちい』って呼ぼうっと!」
 とてもいいことを思いついたとばかりに、大きな声で宣言され、私の頬は熱くなっていく。まるで体全体が心臓になったかのように、鼓動が私の中心で、大きく大きく鳴り響いていた。

 澤井が私を殴ったあの事件で、母は『あの人とはもう別れる』と言ってくれたが、実際には簡単にいかなかった。警察に捕まった翌日、澤井は他ならぬ母の迎えで釈放された。『もう二度とあんなことはしない』と泣いて謝り、結局今までと同じように私たちと暮らしている。
 私は家にいるのが嫌で、『希望の家』に通いつめていった。母が工場で働いている間、狭いアパートの一室で澤井が寝転んでテレビを見ている光景を、見たくなかった。『ここから出て行ってよ!』と叫びたい気持ちを必死に堪え、その男のぶんまで食事の用意をしなければならないことが、嫌で堪らなかった。
 自然と『希望の家』にいる時間が長くなってゆく。それでも澤井は私に何も言わなかった。母のいないアパートでも、学校の教室と同様、私はまるでいない人間のように扱われていた。

「いったいどういうことなのよ!」
 昼休みの女子トイレで、五、六人の女の子たちにとり囲まれたのは、私が『希望の家』へ通うようになり二週間が過ぎた頃だった。つまりは、私が紅君と共に下校するようになり二週間。
「なんであんたが毎日、紅也君と一緒に帰るわけ?」
「そうよ! なんなのよ!」
 やっかまれるのは当然のように思えた。紅君は本当にみんなから好かれている。いつも元気で、明るくて優しく、なんでもできて――。そういう女の子の憧れそのもののような男の子だった。女の子たちが楽しそうに紅君の話をしているのを、私も何度も耳にしたことがある。だから、「なんであの子と!」とみんなが私に腹を立てるのは当たり前だと思った。
「ごめんなさい……」
 何か申し開きをするでもなく、ただ頭を下げた私に、女の子たちはすっかり鼻白んだ。
「謝られたって……ねえ?」
「そうよ! 特別な理由がないんだったら、もう紅也君に近づかないでよ!」
「そうよ、そうよ!」
 彼に近づくとか近づかないとか、彼女たちに指図されることではないし、私が決めることでもないと思う。しかし私は素直に頷いた。何故ならここで反論でもした場合、私がどうなるかは改めて考えるまでもない。集団になった女の子の強さ、恐さは、私もよく知っている。
「はい……もう近づきません……」
 口に出して言ってから、後悔しても遅かった。
(これでもう『希望の家』にも行けなくなるのかな……?)
 それはない。彼女たちはそこまで知っているわけではないし、それに文句を言っているのでもない。だから今までどおり、学校帰りに寄ることは問題ない。ただ――今までのように、紅君と一緒には行けない。並んで歩きながらいろんな話ができない。そう思った瞬間、胸が痛み、自分が今までそのわずかな時間をどれほど楽しみにしていたのかを、思い知った。
(でももう遅いよ……約束しちゃったもん……) 
 それがどんなに理不尽なとり決めでも、一度した約束は撤回できない。
(馬鹿だな……私って馬鹿だ……!)
 泣きたいくらいの気持ちでそう思った。

 放課後、いつものように「帰ろう」と誘ってきた紅君に、私は首を振った。
「ごめんなさい……もう一緒には帰らない……」
 どうしようもなくズキズキする胸を必死に我慢しながら、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「うん。わかった」
 短く言って私に背を向けた紅君がどんな顔をしていたのか、見ることはできなかった。顔を上げると、目に涙がいっぱい浮かんでいることが彼にわかってしまうので、私は紅君が教室を出ていくまで、決して頭を上げなかった。

『希望の家』へと向かう道を、松葉杖をつきながら一人で歩いた。川沿いの土手の道。川を挟んだ向こう岸では、今日も母が働く工場の煙突から黒煙が立ち上っている。二週間前までは一人で歩いていた道なのに、無性に寂しかった。少し前を歩く紅君の背中がそこにないだけで、とても寂しい。浮かんだ涙を私が手の甲でグイッと拭いた時、思いがけないほうから声がした。
「ちい」
 土手の下のほう。確かに私を呼ぶ紅君の声がしたのに、彼がどこにいるのかわからない。
「こっちだよ。こっち」
 笑い含みの声に促されるまま、あちらこちらと視線を彷徨わせ、ようやく背の高い草の中にその姿を発見した。
「どうしたの?」
 精一杯普通を装って返事したつもりなのに、どうしようもなく声が震える。そんなことになどまるで気がつかず、紅君はいつもどおりに笑う。
「もういいだろ? もう学校から帰ってるんじゃなくて……家へ向かってるところだよな?」
「……え?」
 言葉の意味がよくわからなくて首を捻る私に向かい、紅君は土手を上ってくる。
「いいよ……これは俺の屁理屈だから……薄情者のちいへの仕返しだから!」
 草むらの中から赤い自転車をひっぱり出し、押しながらやってくる。土手の上まで辿り着くと、私が背負っていたランドセルも手にしていた荷物もあっという間に取り上げてしまった。
「紅君! 私ね……」
 もう紅君に近づかないなどと、おかしな約束を女の子たちとしたのだ。それが自分にとってどれほど辛いことなのか自覚なく、簡単にしてしまったのだ。それをどう伝えたらいいか困る私に、やはり彼はにっこり笑った。そして――。
「いいから……乗って!」
 自分が乗った自転車のうしろをポンポンと叩く。
「えっ?」
 とまどう私の手を引き、松葉杖をさっさとハンドルへかけてしまう。
「園長先生に借りたんだ……ちいをビックリさせようと思って! そしたら一緒に帰らないなんて言い出すから……なんでバレたんだろうって焦った!」
 いつも楽しいことや面白いことを見つけては、きらきらと輝いている紅君の目が、鮮やかに輝きだす。きっと私が楽できるようにと考え、喜ばそうと思い、こっそり準備してくれたのだろうに、そうとも知らず私はずいぶん自分勝手をした。
「……ごめんなさい」
 また頭を下げると、今度はその頭をポンと叩かれる。
「うん。いいから。もういいから乗って!」
 朗らかな声に促されるまま、私は自転車のうしろに座った。
「行くよ? しっかり捉まっててよ? ……しゅっぱーつ!」
 紅君がグンと力をこめてペダルを踏みだした途端、風がさあっと私の頬を撫でた。伸ばしっぱなしの長い髪が、風に攫われ、どんどんうしろへ流れていく。
「落っこちないでよ、ちい」
 すぐ目の前で半分だけふり向いた笑顔が眩しく、背中に掴まる指に自然と力がこもった。
「うん」
 少しバランスを崩したら紅君の背中に頬がついてしまいそうなほど、私たちの距離は近かった。近すぎた。これほど近いと、ドキドキとうるさい私の心臓の音まで聞こえてしまう。
「見て、ちい! 飛行機雲!」
 春が目前の青空を切り裂くように、小さな飛行機が飛んでいく。ぐんぐん伸びる一直線の白い雲さえ、紅君に教えてもらえば私にとって特別になる。二人で見上げればもっと特別だった。
 春が来てようやく足のギブスも取れる頃、私は六年生に進級した。紅君とは違うクラスになった。でも、それでかえって安堵した。周りにいろいろ言われないために、あれからなるべく学校では話をしないようにして、それでも私は彼の姿を探してしまう。どれほど遠くにいても、紅君にばかり目が行く。そういう自分に疲れてしまった。ごまかすことに無理を感じた。
 だからもういい。放課後、二人でこっそりあの赤い自転車に乗り、土手の道を『希望の家』へ帰る時間があるから、その他はもういい。学校での紅君は、みんなの人気者の『紅也君』でいてくれたらいい。――そういうふうに思っていた。

「ちい、ほら見て!」
 紅君は自転車を漕ぎながら、どこからか飛んできて自分の服の袖についたピンク色の花びらを摘み上げる。私にさし出した。
「……さくら?」
「うん。もうすっかり散ったと思ってたけど、まだどこかに花がついてるのがあるんだな……探しに行ってもいい?」
「うん」
 私が頷くとすぐに、紅君はグンと自転車を漕ぐスピードを上げた。ギブスが取れた時、『足が治ったから、もう自転車に乗せてくれなくてもいい』と言った私に、紅君は『嫌だ』と笑った。
『俺はちいをうしろに乗せて、もっといろんなところへ行きたい。だから嫌だ』
 そう告げられて嬉しかった。紅君が笑うたび、私を見るたび、どうしようもなく胸が騒めくのは何故なのか。その理由を私はもう知っている。「ちい」と優しい声で呼ばれると、泣きたい気持ちになるのは何故なのか。その答えもわかっている。だけど――。
(いつか伝えられるんだろうか……? 口に出して言うなんて、想像もつかない……)
 抱えた想いは、まだ胸に痛いばかりだ。だけどどんな未来でも、私はきっと紅君の姿ばかり探しているのだろう。そういう自分は容易に想像できた。
 未来の自分がおかしくて小さく笑うと、「何?」と背中のまま尋ねられる。「なんでもない」と答えたら、「そっか」と短い言葉が返ってきた。
 紅君と二人でいる時の穏やかな時間が好きだった。余計な言葉や気遣いなどいらない、二人の間の自然な空気が好きだった。紅君と一緒だと私はいくらでも優しい気持ちになれる。家や学校で感じる暗く沈んだ気持ちや、自分の中に渦巻く濁った感情を全て忘れ、綺麗な私でいられた。二人で過ごす短いひと時が、私にとっては宝物のように大切だった。

「見つけた! ほら、あそこ!」
 大きなお寺の境内の片隅に、その桜の木は生えていた。様々な樹木が重なるようにして鬱蒼と繁っている中に小さく紛れていた。
「すみません。桜……見せてもらってもいいですか?」
 掃き掃除をしていたお寺の人をあっという間に捕まえ、紅君はもう中に入る許可をもらってしまっている。
「いいって! ちい、行くよ!」
「うん!」
 ふり返って私を呼ぶ笑顔を、私も急いで追いかけた。背の高い木々の間を縫うようにして、必死に枝を伸ばしている小さな桜の木は、ちょうど満開が過ぎた頃だった。風もないのにハラハラと花びらが舞い落ちる。下には黒い地面を覆うように、白い花びらの絨毯が広がっていた。
「綺麗……」
 少し離れた場所からその光景を見つめる私を、紅君が手招いた。
「ちい、こっち。桜はこうやって見上げるの」
 降り積もった花びらの上に、紅君はなんの躊躇もなくゴロリと寝転ぶ。空中に舞い上がった幾百もの花びらが、紅君の髪に、腕に、体に、ハラハラと舞い落ちた。
(綺麗……)
 今度は声に出さず、心の中だけで呟いた。
 まるで雪に埋もれたように転がる紅君の上にも、絶え間なく新しい花びらが降り注ぐ。
「おいでよ」
 呼ばれるままに、私も彼の隣へ行った。そして紅君の真似をして、ゴロンと桜の絨毯の上に仰向けに寝転んだ。その瞬間、彼が私に見せてくれようとした景色が、目の前に広がった。
 無数の桜の花びらは、まるで霞みがかった春の空から直接降ってくるかのようだ。クルクルと回りながらほぼ一直線に、私の上に舞い落ちる。わずかな風でも進路を変えてしまうので、吹き飛ばさないように呼吸に気をつけ、私は身動きもせず、ただ静かに空を見上げていた。
「桜の木の下に倒れてたんだって……」
 私と同じように黙っていた紅君が、ふいに口を開いた。
「俺の母さん……生まれたばっかりの俺を抱いて、満開の桜の木の下に倒れてたんだって……そう園長先生が教えてくれた……」
「…………!」
 私は思わず起き上がった。私の上に積もっていた花びらが、静かにハラハラと地面へ落ちる。
「紅君……」
 呼びかけても紅君は私のほうを見なかった。腕を頭の下で組んだまま、ただ真っ直ぐに空を見上げて、語り続ける。 
「ずいぶん痩せて、悪いところも体中いっぱいあって……だけどそれでも、幸せそうだったって園長先生は言ってた。『この子を……紅也をお願いします』って俺を見つめる目が、それはそれは愛しそうだったって……きっと自分の命をいっぱい削って俺を産んでくれたんだ……!」
 紅君の眼差しは強かった。自分が確かに愛されていると知っている者の、強い目だった。私だって父が生きていた頃は、いつもあんな目をしていた。恐いものなど何もなかった。
「母さんが最後に見た光景は、きっとこの……自分の上に落ちてくる桜の花びらだよ……だから俺は、春になるとこうして桜を見上げるようにしている……ちいにも見せたかった……見てもらえてよかった……」
「うん……」
 にっこり笑った紅君に促されるまま、私ももう一度、彼の隣で横になった。彼にとって特別な意味があるこの光景を、こうして私に見せてくれたこと、他の誰でもなく私に見せたいと思ってくれたことが嬉しくて、私の上に降り注ぐ無数の花びらは、次第に涙で滲んでいった。
 その頃、穏やかな日々に暗い影を落とす一点の染みのように、一時は収まっていた澤井の暴力が、季節の移ろいと共に時々顔を出すようになっていた。特に年度始めに新しい会社に就職してからは、ストレスを抱えているからか、しばしば私を叩いた。だがそれは単発的なものだったし、頬を赤く腫らした私に「悪い」と謝ることもあり、私はそれほど危機感を持ってはいなかった。もともと澤井に対して期待していなかったと言ったほうが近いかもしれない。
 紅君や園長先生は何度も、「いつでも『希望の家』に来ればいい」と言ってくれ、母もずいぶん私の様子を気にかけてくれていた。だから大丈夫だと思っていた。
 ――あの日までは。

 その日は母が残業で遅くなることが朝からわかっていた。だから私は限界の時間まで『希望の家』に居座り、家へ帰ったのはもう外が真っ暗になる頃だった。「危ないから」と自転車で送ってくれた紅君に別れを告げ、アパートの部屋へ帰った途端、澤井に力いっぱい殴られた。
「どこに行ってたんだ! こんな時間まで! 俺を馬鹿にしてんのか!」
 怒鳴られた瞬間に、澤井がかなり酒に酔っているとわかった。据わった目で私を睨む表情には、憎悪の感情しかなかった。背筋がゾクリと寒くなった。これはマズイと本能で感じた。座りこんでいた床を蹴るようにして立ち上がり、私はすぐに部屋の外へと逃げた。
「どこ行くんだ! こらぁ!」
 追いかけてくる澤井が、酔いで足がもつれてくれることを祈りながら、無我夢中で走った。 真っ暗な夜の道を、ついさっき紅君が自転車で乗せてくれた道順を遡り、ただひたすら『希望の家』へ向かって駆けた。
「待てこらぁ!」
 背後から聞こえる声がだんだん近づいてくることに、全身鳥肌が立つほどの恐怖を感じる。私は無我夢中で叫んだ。
「紅君! 紅君! 助けて!」
 いつの間に彼の名前を呼んだのか、自分でも自覚がないままに叫んでいた。聞こえる距離ではなかったはずなのに、そんな幸運などないと自分でも理解していたのに、真っ暗な夜道を私へ向かい、小さな自転車のライトが一目散に走ってくる。
「乗って、ちい!」
 大きく手をさし伸べた紅君は、私の手を掴むとそのまま彼のほうへたぐり寄せ、まるで大人の男の人のような力強さで私を自転車のうしろへ引き上げた。私が夢中で彼の背中にしがみついたのと同時に、紅君の漕ぐ赤い自転車は、いつもの倍ものスピードで走りだした。
「待て! 待て、こらぁ!」
 息を切らしながら叫ぶ澤井の声が、次第に遠くなっていく。それでもギュッと固く両目を瞑ったまま、私はいつまでも紅君の背中にしがみついていた。いつもはドキドキして指で触れることさえとまどう背中に、強く頬を押し当てていた。
 限界いっぱいの速さで自転車を漕ぎながら、紅君が切れ切れに私の名前を呼ぶ。
「ちい……ちい……大丈夫だよ……」
 優しいその声に私は頷く。何度も頷く。
「俺と園長先生が……守るから……! ちいのことは絶対守るから……!」
 頼もしい声と言葉が胸に痛く、私は何度も頷きながら、紅君の背中に頬を寄せて泣いた。
「ありがとう……」
 うまく彼に届いたのかわからない私の声は、真っ暗な夜の闇の中に飲みこまれて消えた。

 翌日、まだ早い時間に母が『希望の家』へとやってきた。「わたしがちいねえちゃんといっしょにねる!」と取りあいをしてくれた女の子たちと、みんな一緒に寝室で眠っていた私は、一人だけ先にこっそり園長先生に起こされた。応接室という名の園長先生の自室で私を待っていた母の頬は、私と同じように赤く腫れていた。
「お母さん! 殴られたの?」
 真っ先にそう叫んで駆け寄った私を、母は両手を広げて受け止め、胸の中に抱きこんだ。
「ごめん千紗……ほんとにごめん……」
 耳元で囁かれる涙交じりの声に、キッと顔を上げる。
「お母さんは悪くない! お母さんが謝るようなことはなんにもない!」
「ううん……お母さんのせいだよ……お母さんがはっきり決められないから……だから……」
「違うっ!」
 いつもより倍も大きな声を出し、必死に母の言葉をうち消す私の肩を、園長先生がポンと叩いた。長い足を折り曲げ、私と目の高さをあわせ、一言一言ゆっくりと言葉をかけてくれる。
「ちいちゃん……しばらくこの『希望の家』で暮らしマセンカ? お母さんがキミのことを心配しないでゆっくりと答えが出せるヨウニ……」
「先生……」
 優しいグレーの瞳で、表情を窺うように顔を覗きこまれ、私は言葉に詰まった。園長先生は私の心を全てわかっているかのように、にっこりと笑い、頷いてくれる。
「お母さんにも考える時間が必要ダヨ……そうデショ?」
 私は母の腕の中でこっくりと頷いた。
「すみません……本当にすみません……しばらくの間、この子をよろしくお願いします……」
 園長先生に何度も頭を下げる母の腕を、強く掴む。この腕の中にまた帰ってこれられる日が、一日も早く来るように、今度こそ母があの男と別れてくれるように、願いをこめて掴んだ。
 それなのに神様は意地悪だ。もう二度とこの腕に抱きしめられることはないなどと、私は思ってもいなかった――。
「それで? ……ここからは俺が先に行けばいいの?」
 『希望の家』に私も一緒に住むことになり、放課後のように二人で自転車に乗って登校した朝、いつもの土手に赤い自転車を隠しながら、紅君はそう尋ねた。
「うん……できたらそうして欲しい……」
 真っ直ぐに見つめられていることが居心地悪く、私は俯く。そんな私に紅君は望みどおり、くるりと背を向けてくれた。
「わかった。じゃあまた帰りにね……ちい……」
 うしろ手に手を振りながら去っていく背中を、道の真ん中に立ち止まったまま、私はしばらく見送った。歩き始めて数メートルも行かないうちに、脇道から土手に出てきた男の子たちが、紅君の姿を見つけて駆け寄る。ポンと頭を叩きあったり、肩を組んだりして、ひとしきり談笑して離れると、またあっという間に違う男の子たちが集まる。そのうしろを歩きながら、きゃっきゃと小声ではしゃいでいる女の子たちの姿も見える。
 前方から来る犬を散歩させている女の人にも、うしろから自転車で追い越していく学生服姿のお兄さんにも、紅君は笑顔で会釈し、大きく手を振って挨拶する。
(ふふっ……いかにも紅君らしい……)
 みんなに愛され、彼自身もみんなを愛している、人気者の『紅也君』がそこにはいた。あの彼の隣を歩くことは、私には難しい。
(紅君はそんなことないって言うけど……私と紅君じゃ何もかもが違う……違いすぎる……)
 だから遠くから見ているのがいい。離れてうしろを歩きながら、その背中をこうして見ているぐらいが、私にはちょうどいい。澤井に殴られた頬は痛いし、母ともしばらく会えなくなり、私の人生など悪いことだらけだが、紅君の背中を見ているだけで、それらを一時でも忘れられる。それが嬉しかった。そういう些細なことが、その頃の私の幸せの全てだった。楽しみなど何もないが、ただ遠くから紅君の姿を見るためだけの学校に、私は今日も一歩を踏みだした。

「ごめんなさい千紗……もうちょっと……もうちょっと待ってね」
 母からは時々、辛そうな声でそういう電話がかかってくるばかりで、なかなか澤井との話しあいは進んでいないようだった。予め覚悟していたこととはいえ、電話が来るたびに淡い期待を抱き、そしてそれを打ち砕かれてを、何度もくり返すのは精神的に堪えた。
「ちいねえちゃん……まだここにいる?」
 そう尋ねて私が頷くのを、「やったあ」と喜んでくれる『希望の家』の子供たちがいなかったら、短気を起こして母の苦労も考えずに家へ帰っていたかもしれない。 
 季節はとうに桜の咲く頃から、初夏へと移り変わろうとしていた。

「ちい……『希望の家』を出たらどこへ行くのか、俺の行き先が決まったよ……」
 いつものように二人で自転車に乗った朝。なんの前触れもなく紅君にそう告げられ、心臓が止まるかと思った。この、私にとっての幸せなひと時が、永遠に続くと思っていたわけではない。しかし改めて終わりの時を告げられ、自分が世界の全てに見放されたような気さえした。
「そう……」
「よかったね」などという言葉は到底口にできず、小さく呟いた私に紅君は背中のまま告げた。
「うん。父さんが見つかったんだ……俺の本当の父さん……」
「…………!」
 私が息を呑んだことが伝わったのだろうか、紅君が自転車を停めた。そのままゆっくりとうしろに座る私をふり返る。
「ちょっとした行き違いで母さんと連絡が取れなくなって、でもずっと探してたんだって……俺が生まれてたってことも知らなくて……でも『紅也』って名前でわかったって……次に男の子が生まれたらそう名づけるって、ずっと母さんが決めてた名前だからって……」
 紅君の声が震えていた。どんな時でも堂々と自分らしく生き、見ている私に勇気を与えてくれる紅君が、とまどっている。私は堪らず自転車から飛び下り、彼の正面へと回りこんだ。
「紅君……お父さんと会ったの?」
 私にあわせて前へと向き直った紅君は、静かに首を振る。
「ううん……電話で話しただけ……三つ年上の兄さんもいるんだって……泣きながら話してくれた」
 語りながら電話でのやり取りを思い出したのか、紅君の目にうっすらと涙が浮かぶ。
「こんなの信じられない……信じられないよ、ちい……!」
 くしゃっと顔を歪めて俯いた頭に、思わず手が伸びた。私は無意識のうちに、紅君の頭を自分の胸に押しつけるようにして、強く抱きしめていた。
「よかった……! よかったね紅君!」
 涙が零れる。自分のことのように――いや、自分のことなどよりもっと嬉しくて、涙が頬を伝って落ちる。園長先生から教えてもらったほんの少しのお母さんの情報を、紅君がどれほど心の中でくり返していたか。何百回何千回と思い浮かべていたか。私にはわかる。とてもよくわかるから――嬉しくて堪らない。
「お父さんにもお兄さんにも会えるね。お母さんの話もいっぱい聞かせてもらえるね……よかったね紅君!」
 大切に彼の頭を抱きしめる私の背中に、紅君も腕を伸ばした。
「ちい……!」
 かき抱くように抱きしめ返され、これまでのどんな時よりも彼を近くに感じ、それでも私はそこから逃げだしたいとは思わなかった。紅君を抱きしめる腕を、今は解きたくなかった。
「よかったね……」
「うん、よかった……」
 ようやくいつもの調子に戻った紅君の優しい声は、夏が近い青い空に吸いこまれて消えた。

「約束……守ってないよね……?」
 放課後、紅君と待ちあわせている土手へ向かおうとした私を呼び止めたのは、例の女の子たちだった。いつかはこうなると思っていた。それでも約束を破り、紅君の近くに居続けたのは私だ。だから非難を受けるのは仕方がない。
「うん……ごめんなさい……」
 潔く頭を下げたら、その上にバシャッと水をかけられた。驚いて顔を上げ、女の子の一人が古いバケツを手にしていたので、その中に入っていた水をかけられたのだと理解する。
 校舎裏の物置の近くに転がっていた、壊れかけの古いバケツ。いったいいつからそこにあったのかわからないバケツの中の水は、腐ったような嫌な匂いがした。
「きったなーい」
 くすくすと笑いながら鼻を摘む女の子たちの中で、中央にいる子だけが険しい表情を崩さない。あの時、私に「もう紅也君には近づかない」という約束をさせた子。今年は紅君と同じクラスになり、楽しそうに話している姿を何度も見かけたその子が、唇を噛みしめて私をじっと睨んでいた。
「なんで? ……なんで約束したのに守らないの?」
 押し殺したような声で尋ねられて、返答に困る。私の中でその答えはすでに出ている。しかし紅君本人にもまだ告げていないこの想いを、先に他の人に言うことはできない。
「ごめんなさい……」
 出せない言葉の代わりにもう一度謝った私の頬を、その子が叩いた。
「謝ってほしいわけじゃない!」
 パアンと大きな音をさせて私の頬が鳴った瞬間、叩いたその子も周りの子たちもはっと息を呑んだ。けれど、私は驚かなかった。自分が叩かれることに、私は慣れていた。それが他の女の子たちとはこんなに違うのだと知り、その事実のほうがよほどショックだった。
「ごめんなさい……でもあの約束は守れない……ほんの少しの時間でもいい。私はやっぱり紅君の傍にいたいから!」
 きっぱりと宣言したのは、その子たちへ向けてなのか、それともそう遠くない未来に紅君との別れを準備された事実へなのか、自分でもわからない。わからないけれど、これまでこれほど強く何かを願ったことなどなかった。曲げられない。どうしてもこの想いだけは譲れない。
「なに言ってんのよ!」
 右側の子に思いっきり突き飛ばされ、物置にぶつかり、そのままそこに座りこんだ。すぐに立ち上がることはできそうだったが、私は敢えてそうしなかった。地面に額を擦りつけるようにして這いつくばり、女の子たちへ頭を下げた。
「ごめんなさい。紅君の傍にいさせて下さい。あとほんの少しでいいから……!」
 鼻の奥がツンと痛くなる。こみ上げる涙は、決してこの状況が悔しいからではない。叩かれた頬も、突き飛ばされてぶつけた肩も、まったく痛みなどない。もうあと少ししか紅君と一緒にいられないのだと知った胸の痛みに比べれば、何もかもがどうというほどではない。
「なんなのよ、あんた!」
 頑なな私の態度にますます怒った女の子たちが、土足で踏みつけても、口汚く罵っても、私は平気だった。そんなことぐらいで紅君と一緒にいるのを許してもらえるのなら、どんな目に遭っても、私はそれでよかった。

「どうしたの、ちい……?」
 いつものように待ちあわせの土手へ現われた私を見て、紅君は目を丸くした。泥水で汚れた髪は水道水で洗い直したし、服についた汚れや叩かれた痕などもわからなくしたつもりだったが、どうやら紅君の目はごまかせなかったようだ。
「えっと……転んじゃった……」
 ぎこちなく笑う私の顔を見上げ、草むらに腰を下ろしていた紅君はスッと立ち上がった。
「誰がしたの?」
 珍しく恐い顔で腕を掴まれるから、私は必死に首を振る。
「だ、誰も……本当に転んじゃったんだよ……?」
「ちい!」
 声を荒げる紅君に、それでも私は目をギュッと瞑って抗った。
「大丈夫だから……本当に私は大丈夫だから!」
「ちい……」
 紅君が掴んでいた私の腕を放した。それを合図に、私は恐る恐る目を開いて彼の顔を見た。
「お願い……俺に守らせてよ……ほんとはずっと傍にいて守りたかったのに、そうはできそうにないんだから……せめて今だけでも!」
 ちょっと首を傾げて眉を曇らせ、紅君は本当に悲しそうな顔でそういうことを言う。だから私まで悲しくなる。必死に心の中に封じこめ、無視しようとしている寂しい思いが、溢れ出しそうになる。だから――浮かんできた涙をグイッと手の甲で拭い、私は笑った。
「大丈夫、私は強いから! お母さんだって、園長先生だって、『希望の家』のみんなだっていてくれるから……自分でがんばれる。紅君が行っちゃっても、ちゃんとがんばる!」
「…………そっか」
 思いがけないことに、紅君は大きな溜め息を吐き、私に背を向けるとそのまま土手の端まで歩き、座りこんだ。柔らかな茶色の髪の中に両手の指をつっこみ、文字どおり頭を抱える。
「なんだ……会えなくなって寂しいのは俺だけか……」
 ぽつりと聞こえた小さな呟きに、私の心臓がどうしようもなく大きく跳ねた。
「…………紅君?」
 恐る恐る発した呼びかけにも、紅君はふり向いてくれない。膝を抱え、川の向こうに五つ並んだ製鉄所の煙突を、ぼんやりと眺めている。
「ずっと一緒にいたいなんて思ってたのは俺だけか……」
「紅君! 私だって……!」
 焦って駆け寄りその顔を覗きこみ、彼が実は笑っていることに初めて気がついた。
「――――!」
「ごめん、ちい……ちょっとズルかった……」
 申し訳なさそうに両手をあわせる紅君の顔を見ながら、私はさっきとは違う理由で泣きそうだった。
(だってこんなふうに焦ったら……もう自分の気持ちを言っているのと同じだ!)
 真っ赤になって俯く私の目の前で、紅君はすっくと立ちあがり、「ちい……」と小さな声で名前を呼ぶ。そして勢いよく頭を下げる。
「好きです。俺の彼女になって下さい!」
 ふいに、ふわりと温かな風が私の頬を撫でた。遠くでカラーンと教会の鐘の鳴る音が聞こえる。まるで私の頭上で鳴り響く祝鐘のように――。
「えっ?」
 たっぷりとふた呼吸ぶんくらい沈黙したあと、驚いて瞳を瞬かせた私の前で、紅君はガバッと頭を上げた。その顔は真っ赤に染まっている。つられて私の頬もどんどん熱くなる。
「本当は、中学生になったら誰よりも先に言うつもりだった! 他の誰かに言われる前に! ちいに、好きな人ができる前に! それとも……もう、誰か好きな人がいる?」
『それはもちろん紅君だよ!』と、とても面と向かって言えるはずはなく、私は必死に首を横に振ることしかできない。
「よかったあ」
 紅君はにっこり笑い、今度は私に右手をさし出した。
「なんか……全然思ってたようにいかないんだけど……予定が狂いっぱなしなんだけど、しょうがない……俺がずっと傍にいてあげられないんだから仕方ない……」
 独り言のように言いながら、紅君は私の手を取る。ぎゅっと両手で包みこむようにそれを握りしめ、きりっと真剣な眼差しを私へ向けた。
「俺は絶対にちいを忘れないから! ちいが寂しくなったらいつでも飛んでくる……だから、いつか迎えに来てもいい? 俺がこれから住む町へ……いつか、ちいも連れて行ってしまっていい?」
 頭の中が真っ白になった。ドンドンと大きな音を立て、もう壊れんばかりの速さ、大きさで心臓が脈打ってる。
(え? え? ……それっていったい……どういう……?)
 思考は完全に麻痺しているし、顔も異常なまでに熱くなる。そんな私に紅君が笑いかける。――あの大好きな笑顔で、にっこりと笑いかける。
「あれ……なんで俺、今、プロポーズみたいなこと言ってるんだろ? そうとう参ってるな……おかしくなってる……でも……!」
 私の手を包みこむ両手に、紅君はぎゅっと力をこめた。
「順番は滅茶苦茶だけど……もうずっと前から決めてたことだから! 全部……いつかはちいに伝えるって決めてた言葉ばかりだから!」
「……全部?」
「そう! 全部!」
「ずっと前から……?」
「うん。ずっとずっと前から!」
 声が震える。胸が痛い。もうどうしようもないほど胸が痛くて、零れ落ちる涙を隠すことができない。遠くから見ているだけでいいと思った。背中を見ているだけで幸せだった。なのに紅君は、そんな私をふり返り、手をさし伸べてくれた。そして一緒に連れていってくれると言う。――いつか紅君と同じところに、私も連れていってくれるのだと言う。
「うん。行く」
 彼の言葉が風に攫われて幻になってしまう前に、私は急いで返事をした。いつかは伝えたかった気持ち、伝えられるといいと思っていた気持ち、確かに紅君の言うとおり、私の中でも予想外に早くなってしまったが、きっと今でもいい。伝えるのが今でも、何ヶ月か先でも、何年後かでも、この想いは絶対変わらない。
「好きです、紅君。大好きです」
 いっぱいいっぱいの思いで、ようやく自分の気持ちを言葉にした私に、紅君は大きく目を見開き、それから満面の笑顔になった。――またもう一度、私の大好きなあの笑顔になった。
「うん。俺も大好き。ちい」
 手を取りあい、私たちは笑った。世界中の幸せを全部、二人の掌の上に集めたかのようだった。
 その後、『希望の家』へ帰る途中、何台ものパトカーや消防車が私たちの乗った赤い自転車を追い越していった。
「何かあったのかな……? 火事かな?」
「うん……」
 妙な胸騒ぎを覚えながら紅君と囁きあった時、前から来た軽自動車が私たちの前で、急ブレーキをかけて止まった。運転席から顔を出したのは、母と同じ工場で働く冨田さんだった。
「あんた千紗ちゃんじゃないの? ああやっぱりそうだ! 千紗ちゃんだね!」
 母より少し年配の面倒見のいいおばさんは、ずいぶん青い顔をしていた。
「てっきり火事に巻きこまれたんだと思ってたけど……会えて良かった! お母さんがたいへんだよ! 今、救急病院に搬送されたところだ!」
「救急病院⁉」
 紅君の背中に掴まる私の手に、自然と力がこもった。息を呑んだまま口も開けない私の代わりに、紅君が冨田さんに次々と質問をし、必要な情報を手に入れる。
「どうしたんですか?」
「あの男だよ! あの男に刺されたんだ!」
「刺……された?」
「ああ。別れ話についカッとなってやったらしいけど……刺した男は奈美さんを放ったまま逃げて、今度は千紗ちゃんがいる福祉施設に火を点けたって!」
「………………!」
 紅君が緊張したことが、背中越しでもよくわかった。私は堪らず叫ぶ。
「紅君!」
「ちい!」
 紅君が自転車のペダルに足を掛け直した。大きく漕ぎだそうとして一瞬、私をふり返る。
「ちいは、お母さんのところに……」 
 全部言い終わられる前に、私は必死で首を振った。
「お母さんはもう病院だもん! 私にできることは祈ることだけだもん! そうでしょ?」
「でも、ちい!」
「いいから行こう! みんなのところへ早く!」 
 あどけない笑顔が次々と頭に浮かぶ。翔太君、綾芽ちゃん、鈴ちゃん、和真君、奏美ちゃん、要君、一葉ちゃん。まだ小学校へ入学していない幼稚園組は、この時間『希望の家』にいるはずだ。いつものようにそれぞれの係に精を出しながら、私たちの帰りを待っているはずだ。
「くそおおっ!」
 これまで聞いたことのない紅君の叫びに、私は唇を噛みしめ、冨田さんをふり返った。
「みんなの無事を確かめたら、私もすぐに病院へ行きます! だからどうかそれまでお母さんを……!」
 冨田さんは真っ青な顔のまま頷いた。
「うん、うん、わかった。気をつけてね!」
「はい!」
 私の返事と共に、紅君が自転車を漕ぎだした。今までで一番のもの凄いスピードで――。
(私のせいでごめんなさい! 私が『希望の家』にいたばっかりにみんなを巻きこんでしまって……ごめんなさい!)
 まるでそんな言葉を私に言わせまいとするかのように、紅君はどんどん自転車のスピードを上げていく。遠くに見えてきた黒煙に、更にスピードを上げようとしたのか、紅君がブレーキから手を放したのが見えた。
 目の前に近づく車の多い国道。頭の中に残る「気をつけてね!」という冨田さんの声。それらに何故かとてつもなく背筋が冷えた瞬間、私たちに向かい、大きなトラックが横滑りにつっこんできた。
 紅君の背中越し、トラックの運転席に座る男性がハンドルにぶら下がるようにして意識を失っている姿が、まるでスローモーションのようにゆっくりと私には見えた。
(…………!)
 ノーブレーキの大型トラックにほぼ真正面からぶつかり、空高く舞い上がった赤い自転車。 道路脇のガードレールに背中からしたたかに打ちつけられた私は、道路の真ん中に倒れた紅君に向かい、トラックが再びつっこんでいく光景を、為す術もなく見ていた。
「いやあああああっ! 紅君!!!」
 さし伸べようとした腕が、自分の意志では動かない。叫んだはずの言葉も、実際に音になっていたのかよくわからない。音も感覚もなく、ただ映像ばかりになった私の世界が、次第に真っ赤に血塗られ、たった一つだけ残されていた視覚――見ることさえできなくなっていく。
(やだ! やだよ! お母さん! 園長先生! みんな! ……紅君! 紅君!!紅君!!!)
 体と心を貫く激痛に抗う術もなく、私は意識を手放した。深い闇の中へ、たった一人で落ちていった。
 私にとって何よりも大切な約束を、紅君と交わしたあの日――私は全てを失った。抱きしめてくれる腕も、注がれる優しい眼差しも、さし伸べられた手も。
 ようやく手に入れたと思った未来への希望は、何もかも無残に打ち砕かれた。他の誰でもない。私自身のせいで――。

 火事になった『希望の家』へと向かう途中で交通事故に遭った私と紅君は、結局、園へ辿り着くことはできなかった。 
 澤井に放火された古い木造の建物は、あっという間に火が燃え広がり、中にいた子供たちの生存は、一時、絶望的とも見られたらしい。
 しかし子供たちと一緒に火の中にとり残された園長先生は、決して諦めなかった。最初の二人を両腕に抱えて火の海から出てくると、すぐにまた全身に水を被り、火の中へ戻ったという。何度も何度も――。
 園長先生の手によって子供たちはみんな助け出され、結局、その火事では誰一人傷つかなかった。消防車の到着と同時に、精根尽き果てて倒れた園長先生を除いては――。
 全身火傷だらけで走りまわった園長先生は、そのまま帰らぬ人となった。救急車で搬送されていく先生に、『希望の家』の子供たちは泣いて縋り、それはそれは可哀相だったと、あとになってその場にいた人から聞かされた。
 私も涙が止まらなかった。子供たちにとっては唯一無二の存在。私にだって「辛かったらいつでも私のところへいらっしゃい」と手をさし伸べてくれた大切な人。
(なんでこんなことになってしまったんだろう……!)
 そう思えば思うほど、私は自分を責めずにはいられなかった。
 澤井に刺された母も、意識が戻ることなく亡くなった。
 背中の裂傷と何箇所もの骨折で、三日三晩生死の境を彷徨った私が目を覚ました時には、もう何もかもが終わっていた。誰にもお別れを言うこともできなかった。
 私よりもひどい容態で病院へ運ばれた紅君は、事故を知って訪ねてきた彼の実父により、自宅近くの病院にすでに転院させられていた。彼がどこへ行ったのか、私には知る術がない。
 いや、知ろうと思えば担当の医師にでも、尋ねることはできたのかもしれない。でも私はそうしなかった。
 どう考えても、園長先生と紅君がこういう酷い目に遭ったのは私のせいだ。澤井が警察に捕まり、周りの人がどれほど「あなたのせいじゃない」と言ってくれても、「私がいなければ」「私が希望の家に関わらなければ」という後悔の気持ちは、心の中から消えない。忘れることなどできない。だから――。
(きっともう会わないほうがいい……紅君が無事なら……それでいい……!)
 私は医師づてに、紅君の怪我が命に関わるものではなく、少しずつ回復に向かっていることだけを教えてもらい、それ以上はもう聞かなかった。
(ごめんね紅君……ごめんなさい園長先生……お母さん……)
 後悔と悲しみの涙は枯れることなく、いつまでも私の心を支配していた。

 何もやる気が起きず、実際何もしないままの夏が終り、秋が過ぎた頃、私は退院した。行く宛てはなかった。母が私名義の貯金と保険金を残してはくれたが、母と澤井と三人で暮らしたアパートには戻りたくなかった。紅君がいなくなった学校にも――。
 マスコミにも小さくとり上げられた事件を心配した父方の遠い親戚が、私に連絡をくれ、田舎に越してきたらどうかと勧めてくれた。私はこの町を出ることにした。
 冷たい風が吹く頃、片手に下げた鞄に収まるくらいの少しの荷物を持ち、駅までの道を歩いた。空はどんよりと曇り空で、まるで私の心境のように今にも泣きだしそうな天気だった。
紅君といつも自転車で走った土手の道。川の向こうに今日も変わらず煙を吐き続ける五本の煙突を見ていると、自然と涙が浮かんだ。あの工場で、毎日頬を煤で少し黒くして働いていた母はもうどこにもいないのだ。
『千紗……なんて顔してんの! ほら笑って、笑って!』
 父が亡くなってから、精一杯のから元気で私を励ましてくれた笑顔しか、今は思い出せない。
『ちい! 見て! もうつくしが出てるよ!』
 何を見ても何を聞いても、それが紅君からの知らせならばどんなことでも私にとっては特別だった日々が、胸に痛い。痛い――。
『いつか迎えに来てもいい? 俺がこれから住む町に……いつか、ちいも連れて行ってしまっていい?』
 叶う可能性がなくなった約束が悲しくて、涙が零れる。まるで私の涙に呼応するかのように、空からも大粒の雨が降りだした。天気があまりよくないと、背中の傷が痛む。事故でできた大きな背中の傷を、私は敢えて目立つまま残した。
「女の子なんだから、わからないようにしたほうがいいんじゃない?」という医師の勧めは断った。この傷は私の十字架だ。私のせいで不幸にしてしまった人たち、命を失った園長先生、みんなへの懺悔の思いを抱えて、私はこれから生きていく。だから見た目などどうでもいい。決して忘れたりしないように、体に刻みつけられているくらいがいい。
 次第に強くなっていく雨足が、地面を叩き始めた。跳ねた泥に、靴も足も茶色く染まる。伸ばしっぱなしの私の長い髪を伝い、雨が滴り落ちる。
 全身ずぶ濡れになって歩きながら、ほっと安堵した。いくら止めようとしても溢れる涙。母と暮らし、紅君と自転車で走ったこの町は、どこへ行っても何を見ても、思い出が多すぎる。一人とり残された私には、それが重すぎる。我慢できない涙を隠してくれる雨は、きっと天からの贈り物だ。いつも私のことを心配していた母や、園長先生からのプレゼントだ。
(だから……だから今だけ……!)
 大きな雨音が全てをかき消してくれることに感謝し、私は小さな子供のように泣きじゃくりながら歩いた。涙で頬が濡れているのか、雨で濡れているのか、誰が見ても見分けなどつかないことに感謝し、泣いた。今日でこれまでの自分とはお別れだと心し、声を上げて泣いた。
「いらっしゃいませ」
 古いガラス扉がガラガラと左右に引き開かれる重い音に、私は反射的に顔を上げ、同じ言葉をくり返す。扉から入ってくる買いもの客は、時に初めての顔で、時によく見慣れた顔で、いくつかの決まったメニューの中から好きなものを注文する。出来上がるまでの短い時間を過ごす店内は、腰かける場所さえないほどに狭い。商店街の外れの小さな弁当屋――そこが十二歳からの私の居場所だった。

 父の従兄妹だという叔母夫婦は、優しい人たちだった。不幸な事件で母を亡くした私を、深くは詮索しないでそのまま受け入れてくれた。 
「何もしないで居候しているのは、千紗ちゃんだって居心地が悪いだろうから」と時々は家業の弁当屋を手伝わせてくれ、こんな私でも少しは役に立つのだという自負も与えてくれた。 
 叔母たちのもとから、知りあいは誰もいない小学校と中学校へ通い、私は十六歳になった。 友達は一人も作らなかった。自分のことを話さず、休み時間になるとふらりと教室からいなくなる転校生を気にかけ、声をかけてくれる子も、都会とは違いこの小さな町には多かった。でもいつまで経っても馴染もうとしない私と、クラスメートの間の溝は、時が経つにつれ深くなるばかりだった。 
 人と交わるのが面倒だったわけではない。話しかけてもらえるのは嬉しかったし、優しい子たちに囲まれているのは、正直幸せだった。だが楽しいことや面白いことがあると、すぐ考えてしまうのだ。――あの子たちは今どうしているのだろうと。 
『希望の家』がなくなり、そこで暮らしていた子供たちはバラバラに違う施設へひき取られた。中には暴力が原因で別に暮らしていた親と、再び暮らすようになった子もいる。
(鈴ちゃん泣いてないかな……和真君は新しいお母さんとうまくいってるんだろうか?)
 本来なら園長先生のもとで、まだみんな一緒に暮らしていただろうと思うといたたまれない。
(いつか……いつかみんなを訪ねて、一人一人に謝りたい)
 それが私の心からの願いだった。そして――。
(いつか私も、園長先生のように行き場のない子供たちの避難場所を作ってあげたい)
 いつしかそれが、私の生きる理由になっていた。そのために、もともとは行くつもりのなかった高校にも、夜間ではあるが通うことにした。大学に進学し、福祉や教育について学ぶ。そしていつか園長先生のように、本当に子供たちを思いやれる施設を開く。そのために母が残してくれた貯金にも保険金にも、なるべく手をつけなかった。あれほど傷つき、もう一歩も踏みだせないと思った事件から四年。私は背中に十字架を背負いながらも、一歩ずつ小さな歩幅で、確かに前へ進もうとしていた。

「いらっしゃいませ」
 私が弁当屋の店頭に立つ夕方に、店を訪れる客の半分は常連客だ。
「千紗ちゃん、いつものやつ」
「はい」
 仕事帰りのサラリーマン。二人暮しの新婚夫婦。母のように女手一つで小さな子供を育てているシングルマザー。特別な会話をするわけではないが、毎日のように同じ顔を見るのが習慣になると、来店のない日には「今日はどうしたんだろう?」と心配したりもする。 
 そういう中でも彼は特別だった。毎日決まった時間に、毎日同じ弁当を三つ買いに来る若い男の人。叔母さんと彼の会話で、最近近くの診療所へ赴任してきた医師の息子なのだと知った。 
「父は、医者といっても雇われ医師だから安月給で……その上僕が大学に進学したばっかりで、うちって実は、かなり貧乏なんです」
 ボサボサの髪を雑にかき上げながら、大きな眼鏡越しに屈託なく笑うその人は、言葉とは裏腹にいつも笑顔だった。野暮ったい大きなシャツを着、いまどき珍しいぶ厚い眼鏡をかけた細身の青年。どちらかといえば無愛想に店頭に立つ私にも、躊躇なく笑いかける。
「千紗ちゃん、今日もお得弁当三つね」
 いつもどおりの注文に、仕切りの向こうの厨房から叔母が声をはり上げた。
「蒼ちゃん! 野菜も食べないといつか具合が悪くなるよ! あんただって医者の卵なんだろ? 千紗、私のおごりでいいから今日はサラダもつけといて!」
「はい」
 頷いた私を慌てて両手で制し、その人――蒼之さんは急いで鞄から財布を取り出した。
「待って千紗ちゃん! お金ならちゃんと払うから! いやあほんと、小母さんにはかなわないなあー」
 人の良すぎる笑顔でにこにこと笑う蒼之さんは、毎日休みなく働いている父親を少しでも助けるため、自分も医師を目指しているのだといつか語っていた。おそらく患者や看護師に怒られても、こういうふうに笑っている優しい医師になるのだろう。
(うん……ぴったりだな……)
 財布の中身を必死に探っている様子を頭の上から見ていたら、ふいに上目遣いに視線を向けられ、ドキリとした。
「なに?」
 いつもぶ厚い眼鏡に隠されている蒼之さんの目は、眼鏡のない位置から見ると私のよく知る人に似ていた。――どんなに忘れようとしても、決して忘れられない人――紅君。
「なんでも……」
 慌てて視線を逸らすと、その先にわざわざ移動してまで顔を覗きこまれる。
「千紗ちゃん……?」
 どちらかといえば面長の顔も、細すぎるほどに華奢な体つきも、真っ黒で硬そうな髪も、蒼之さんはまったく紅君に似ていない。だが時々ちらりと見える目元だけ、いつも笑顔なところと、相手の心の機微に敏感なところだけ、とてもよく似ている。 
「なんですか?」
 失礼にならない程度にぶっきらぼうに答える私にも、蒼之さんの笑顔は崩れない。
「うん……なんでもない。また、明日ね……」
 にっこり笑ってうしろ手に手を振る姿が、また忘れられない少年のそれと重なり、私はブルブルと首を横に振った。 
「千紗……?」
 叔母が訝しげに問いかける。どうやら私の様子がおかしいと察してくれたらしい。私の周りにいる人はどうしてこれほど優しいのだろう。私自身は何も恩を返せないどころか、迷惑ばかりかけているというのに。 
「もうすぐ学校に行く時間だろ? 今日はもう上がりな……一人でも面倒臭がらずにちゃんとご飯食べるんだよ? あんただって蒼ちゃんと変わんないくらい、食事には無頓着なんだから」
「……はい」
 叔母が苦笑する気配を背後に感じながら、私はつけていたエプロンを外した。夕食用にと叔母がくれた弁当を持って店から出ると、裏口近くの塀の横に、その蒼之さんがしゃがんでいた。 
「あーあ、そんなにがっつくなよ……今日はちゃんとたくさん持ってきたからさ……」
 背中越しに覗いてみると、五匹もの野良猫が彼の前に集まっていた。買ったばかりの自分の弁当は塀の上へ置き、彼が手にしているのは煮干しの袋だろうか。にゃあにゃあと懐っこく鳴く猫に、まるで人間相手のように自然に話しかける背中を見ていると、思わず頬が緩む。
(本当に優しい人……きっと誰が見ていても見ていなくても、変わらずに優しい人……)
 気がついたら蒼之さんが、しゃがんだ体勢のまま、私をふり返っていた。
「千紗ちゃん……!」
 にっこりと笑いかけられ、逆に私の表情は凍りつく。笑顔の作り方は、四年前のあの日に忘れた。大好きだった紅君の笑顔を思い出せば思い出すほど、私自身は笑えなくなる。どことなく紅君と印象が被る蒼之さんの笑顔は、私にとっては見ているだけで心がひきつるようだった。
「もう今日は帰るところ? これから学校?」
「はい」
 私が笑うのを苦手なことも、尋ねられなければ決して自分からは口を開かないことも、全部わかっているかのように蒼之さんは接してくれる。それが、彼は本当に優しい人なのだと思うところであり、きっと良い医師になるだろうと思う所以でもあった。 
「ここで猫を集めてたらやっぱダメかな……お弁当屋の裏だもんね……」
 私の出てきた裏口と、幸せそうに煮干しをほおばる猫たちを代わる代わる見ながら、蒼之さんは申し訳なさそうに頭を掻く。私はゆっくりと首を振り、彼の隣にしゃがみこんだ。
「大丈夫ですよ……叔母さんも叔父さんも野良犬や野良猫を放っとけない優しい人だから……行く宛てのない私を拾ってくれたみたいに……」
「千紗ちゃん……」
 呼びかけられてはっとした。穏やかな蒼之さんの雰囲気に安心し、つい錯覚を起こした。まるで紅君の隣にいた頃のような感覚で、余計なことを話してしまった。
「私……!」
 立ち上がって急いで背を向け、走り出そうとしたら背中に声がかかった。 
「千紗ちゃん! 実際三つ年上なわけだけど……ごらんのとおり僕は頼りないし、君ほどしっかりもしてないから、『さん』はいらないよ……敬語もいらない!」
 ふり返ると蒼之さんも私と同じように立ち上がり、こちらを見ていた。提案はしたものの落ち着かない様子で、困ったようにこちらを見ている姿は、確かに彼が言うようにあまり年上らしくはない。だからといって「さん」づけでないなら、いったい何と呼べばいいのだろう。 
「蒼ちゃん……?」
 叔母が彼を呼んでいるままに呼びかけてみると、蒼之さんがにっこり笑った。それは、私が思わずドキリとせずにはいられない、紅君にどことなく似た満面の笑みだった。 
「うん。それでいいよ。千紗ちゃん……」
 紅君を初めて名前で呼んだ時の焦りと緊張が、その瞬間私の胸に甦った。ありありと甦った。
「今日は特別にキャットフードだぞ……栄養バランスを考えたらたまにはこういうのも食べなきゃなんて、千紗ちゃんは優しいよな……感謝しろよ、お前ら」
 いつものように猫に話しかけながら、順番に撫でている細身の背中に、私は思わず叫んでしまう。
「優しいのは……私じゃなくて、蒼ちゃんだよ!」
 しゃがんだままゆっくりと、彼が私をふり返った。
「いや、千紗ちゃんは優しいよ……」
 満面の笑顔でくり返され、泣きそうな気持ちになる。弁当屋から叔母たちの家へと帰る夕暮れ。裏口で蒼ちゃんと一緒に野良猫にご飯をあげるのが、私の日課になりつつあった。 
 毎日決まった時間に決まった弁当を三つ買いに来る蒼ちゃんと、夜間の高校へ通うため、昼間働いている弁当屋からいったん家へと帰る私の帰宅時間は同じ。特に約束をしたわけでもなかったが、自然と毎日ここで少しの時間を共に過ごすようになった。 
 一人で食べる夕食は寂しいので、私は店の裏に放置された古い椅子に座り、猫たちと一緒にここで弁当を食べる。蒼ちゃんは、自分が買った弁当を塀の上へ置き、いつもニコニコしながら私たちを見ていた。 
「早く持って帰らなくていいの?」
 塀の上の弁当を箸で指すと、彼は困ったようにボサボサの髪をかき上げる。
「ほんとはまだ、父は時間外診療中なんだ……だからもうちょっとしてから、あっため直して食べる。ごめん……出来たてが美味しいってことはわかってるんだけど……」
 私は大慌てで顔の前で手を振った。
「ううん。そんなつもりじゃないの! ごめんなさい……でも……だったらもう少し遅い時間に買いに来たらいいんじゃ……」 
 蒼ちゃんがクルリと私に背を向けた。キャットフードを食べ終わり、その場に丸くなろうとしていた猫を一匹、腕に抱き上げる。
「それじゃ千紗ちゃんには会えない……」
 ドキンと、私の心臓が小さく跳ねた。
(それって……どういう意味だろう……?)
 焦る私の様子がわかったかのように、蒼ちゃんはふり向く。 
「こいつらが寂しがるだろ?」
 腕に抱えていた猫を顔の近くまで高く掲げ、にっこりと笑った。蒼ちゃんのぶ厚い眼鏡に夕陽が反射し、キラリと眩しい。その輝きよりも、彼の笑顔はさらに眩しい。
 真っ直ぐに見ているのが辛く、私は膝に抱えた弁当に視線を落とした。私のためにと、叔母があれもこれもと詰めてくれたスペシャル弁当。店のメニューにはないものだが、本当は一番安価なはずの蒼ちゃんのお得弁当の中身も、限りなくこれに近いことを私は知っている。
「お父さんは遅いんだったら、蒼ちゃんも今、ここで食べたらいいのに……」
 再び弁当に箸を伸ばしながら呟くと、彼が私の前にしゃがみこんだ。 
「うん。いつかそうできたらいいなって、僕も思う。でも今はまだ……弟と一緒に食べてやらないと……」
 私ははっと顔を上げた。 
「弟さんが待ってるの? だったらすぐに帰らなきゃ!」
 彼の口調から、まだ小さな子なのだろうと思った。しかし私の予想は外れていた。
「大丈夫だよ。弟って言ってももう中三で、今度高校生になるんだ……それに僕、ここにはいつも三十分もいないだろ? 千紗ちゃんとこいつらが夕ご飯を食べる間ぐらい、弟だって待っててくれるよ……ひょっとしたら僕が帰らなくて、一人きりのほうがいいって思ってるかも」
「蒼ちゃん……?」
 いつもの笑顔が少し寂しそうになった気がし、私は首を傾げた。ぶ厚い眼鏡の奥の蒼ちゃんの瞳が、これまで見たことのない色に揺れる。 
「変なこと言ってごめん……中三って言ったけど、あいつ、年は千紗ちゃんと同じなんだ……小学生の頃に事故に遭って、一年ブランクがあるから……」
「そう…………」
 普段は痛みなどまるで感じない背中の傷が、ふいに疼いたような気がした。 
「ずいぶんひどい怪我で、長い間入院してて……それに他にも……他にもいろんなことがあって……弟はあんまり食事に対する意欲がないんだ。僕が一緒じゃないとご飯を食べない」
「………………!」
 何も言えずに息を呑んだ私に、蒼ちゃんが慌てて笑いかける。まるでそんなことなどなんでもないというふうに、今度の笑顔には一点の曇りもなかった。 
「大丈夫! ほんとに、一時期よりはずいぶんマシになったんだ! この町に来て、無理に勧めなくってもあいつが自分から食べてくれる美味しいお弁当屋さんも見つけたし!」
 大きな声できっぱりと言いきりながら、叔母たちの店を指差す笑顔に、一瞬、小さな少年のそれが重なる。胸に痛い面影を、首を横に振って追い払っていると、頭の中に甦る言葉があった。『希望の家』に初めて行った日、私を送る車の中で、園長先生がかけてくれた言葉。
『自分が辛い思いをした子は、他の人に優しいデス……あなたやコウもそう……』
(そうか……そうなんだね……)
 蒼ちゃんの優しさは――猫にも私にも区別なく発揮される優しさは――きっと彼がこれまで、辛い思いをしてきたからだ。彼の母親は、彼がまだ小さな頃に亡くなったと、噂好きの近所の小母さんが教えてくれた。父親は睡眠時間も休日も削り、医師として懸命に働いている。そういう中で大怪我をした弟を、おそらく蒼ちゃんが守ったのだ。ひょっとすると落ちこんだり、自暴自棄になったりしたかもしれない弟の心を、この笑顔でずっと守ってきたのだ。 
『大丈夫。大丈夫だよ。きっとよくなるよ』
 私と彼はついこの間、親しく話すようになったばかりで、よく知っていると言える仲ではない。ましてや私は、その場にいたわけでもない。それなのに蒼ちゃんのそういう姿は、ありありと想像ができた。優しい声まで、実際に聞こえてきそうだった。
「千紗ちゃん……?」
 呼びかけられて初めて、自分が泣いていることに気づく。慌てて手の甲で頬を拭った。
「ごめん、蒼ちゃん……」
 泣きたいのは私ではない。蒼ちゃんのほうだろう。きっと彼はこれまで涙など誰にも見せず、いつも笑い、実際心の中では一人で泣いてきたのだろう。
『我慢しなくってもいいんだ。辛かったら、悲しかったら泣いていいんだ』
 紅君にかけてもらった大切な言葉が心に甦る。そう言ってもらい、紅君にギュッと抱きしめられ、十一歳の私は生まれて初めて人前で声を上げて泣いた。 
(私……!)
 できるならば、蒼ちゃんに同じ言葉をかけたい。紅君が私の心を軽くしてくれたように、私も蒼ちゃんのためにできることをしたい。しかし蒼ちゃんへ手を伸ばすには、十六歳の私はもう大人で、他意なく抱きしめてしまうには、彼に対する感情が複雑で、そして絶対に叶わないとわかっていても、忘れられない大切な約束を、私はやはり手放せなかった。
(紅君……!)
 必死に記憶の欠片を繋ぎあわせなければ、今では思い浮かべることすら難しくなりつつある面影を、心の中で抱きしめる。 
(紅君!)
 俯いた私の頭を、蒼ちゃんがポンと軽く叩いた。顔を上げると優しい笑顔が私を見下ろしており、その笑顔のおかげでまた紅君の顔を思い出せた。
(私は酷い人間だ……身勝手だ……)
それなのにそういう私のことでさえ気遣い、蒼ちゃんは笑ってくれる。
「ごめん……この話はもうおしまい! いつか千紗ちゃんも、弟に会わせてあげるから。そしたらもうそんなに心配することないって、わかると思うから! だから大丈夫だよ……」
 夕焼けに染まる空を笑顔で見上げた蒼ちゃんの横顔は、凛と輝いていて強かった。「僕は頼りないから」などといつも自分を卑下して笑っている蒼ちゃんの強さを、私は胸に刻んだ。
 その強さに、私も『彼』も大きく守られていたことには、その時はまだ気づかなかった。
 小さな町が夕焼けに染まる頃、電車に乗って登校する私の高校は、隣町の繁華街にある。普通に昼間に通う高校ならば住んでいる町にもあったが、進学先に夜間高校を選んだので、私は週に五日、こうして十分と少しの時間を電車に揺られることになった。 
 入学してそろそろ一年になるが、昼間の学校に通えばよかったと後悔したことは一度もない。 大勢のクラスメートに紛れ、学校行事にも部活にも特に積極的に参加しないまま過ごした中学三年間は、私にとって苦痛でしかなかった。だからそれぞれが絶妙に距離を取り、お互いのことを変に詮索しない今の友人関係が、心地よかった。
 あまり多いとはいえないクラスメートは、昼間はそれぞれに仕事を持っており、それでも勉強がしたくて夜学に通っているのだから、余計な時間もお金もない。教室に一緒にいる間は楽しくおしゃべりもするが、それ以外での接触はなかった。そんな割り切った関係が楽だった。
「おはよう。千紗」
「おはよう」
 夕方なのに『おはよう』なんてと、最初は照れ臭く感じた挨拶にも、もう慣れた。十五人しかいない教室。一人で二、三席使えるほど机は余っているが、女の子四人はいつも決まった席に並んで座る。 
「どうしよう……! 私、今日は絶対当たるのに、予習してない!」
「そんなの誰だってしてないよ……」
「千紗! 千紗さま! お願い、急いでこの問題解いて!」
 短い休み時間に交わされる会話は、中学時代によく耳にしていたものと変わらない。だが、どんなことにも「面倒くさい」などと言わず、真剣に向きあう彼女たちが、私は好きだった。 
「うーん……解けるかな……?」
「千紗に解けなきゃ誰が解けるのよ!」
 これまで教室の隅でひっそりと学校生活を送ってきた私を、彼女たちはかなりかってくれている。裏表などまるでない素直な褒め言葉が、面映ゆいながらも嬉しかった。ついらしくもなく、頑張ってしまおうかという気が起きる。
「うん……じゃあ解いてみよう……」
 夢に向かって努力しようと私が前向きになれたのも、ひょっとすると今の環境のおかげかもしれなかった。高いビルの向こうに夕陽が姿を消し、教室の窓から見える風景は、瞬きする間にも黒く塗り潰されていく。代わりに輝き始めるのは色とりどりのネオン。それさえ霞むほどに煌々と電気が点いた夜の教室で、私はこれまでで一番自分らしく、学校生活を送っていた。
 
「ふーん。それじゃあ、圧倒的に男子のほうが多いんだ?」
「うん。毎日全員が揃うってわけじゃないけど、少なくとも女子の三倍はいるかな……」
「そうか……」
 夕方のいつもの時間、弁当屋の裏で猫たちにご飯をあげながら、蒼ちゃんが私の学校について聞いてきた。高校には進学しないと言っている彼の弟に、私の通う夜間高校を勧めようと考えているらしい。
「あまり人と関わりたくないって言うんだ……通信制の高校って手もあるけど、それじゃあいつ、ほんとに家から出ないことになっちゃうからなあ……」
 しゃがんだ格好のまま私を見上げる蒼ちゃんは、優しい『お兄ちゃん』の顔をしていた。
「今は嫌々でも……友だちと結んだ絆が、いつかあいつを助ける日が来る……きっと来ると思う……友だちってさ……いろいろ煩わしいことはあっても決して不必要なものではないよね」
 一言一言ゆっくりと語られる言葉は、まるで私自身へ向けて発されているかのようで、私は真剣に頷き返す。
「うん」
 ぱっと輝くように、蒼ちゃんが笑顔になった。
「千紗ちゃんは素直だ。あいつも……弟も……ほんとはとっても素直なんだ……うん、決めた。ちょっと話をしてみよう」
 すっくと立ち上がった蒼ちゃんは、私に向かって右手をさし出す。
「入学するって決めたら、その時はどうぞよろしくね。先輩」
「うん」
 私も手を出し、蒼ちゃんの手を握る。力強く握り返され、ドキリとした。真っ直ぐに向けられる蒼ちゃんの笑顔はどうしても、私が固く閉ざそうとしている記憶の蓋をずらしてしまう。
(紅君……)
 あの頃、確かに自分に向かってさし出されていた小さな手を、まざまざと思い出した。
(今どうしてるんだろう? 元気にしてるかな……?)
 蒼ちゃんはいつも真正面から私を見ている。それなのに私は、すぐに違う人のことを考える。何を聞いても何を目にしても、思考の一番深いところではいつも紅君のことだけを考えている。
 そういう自分が申し訳なく、私はぎこちなく目を逸らした。まるで私の心の葛藤がわかったかのように、蒼ちゃんも握っていた手を放す。
「じゃあ、また明日。学校……気をつけて行っておいでね、千紗ちゃん」
「うん」
 短い返事しかしない私にも、いつも笑顔で接してくれる人。優しい、優しい人。私が抱えている複雑な思いを全て察してくれているはずなどないが、蒼ちゃんは何も聞かず何も言わず、ただほっとするような優しい時間だけを与えてくれる。
(ごめん蒼ちゃん……ありがとう……)
 その居心地の良さに自分が甘えているということは、私にも重々わかっていた。