「それで? ……ここからは俺が先に行けばいいの?」
『希望の家』に私も一緒に住むことになり、放課後のように二人で自転車に乗って登校した朝、いつもの土手に赤い自転車を隠しながら、紅君はそう尋ねた。
「うん……できたらそうして欲しい……」
真っ直ぐに見つめられていることが居心地悪く、私は俯く。そんな私に紅君は望みどおり、くるりと背を向けてくれた。
「わかった。じゃあまた帰りにね……ちい……」
うしろ手に手を振りながら去っていく背中を、道の真ん中に立ち止まったまま、私はしばらく見送った。歩き始めて数メートルも行かないうちに、脇道から土手に出てきた男の子たちが、紅君の姿を見つけて駆け寄る。ポンと頭を叩きあったり、肩を組んだりして、ひとしきり談笑して離れると、またあっという間に違う男の子たちが集まる。そのうしろを歩きながら、きゃっきゃと小声ではしゃいでいる女の子たちの姿も見える。
前方から来る犬を散歩させている女の人にも、うしろから自転車で追い越していく学生服姿のお兄さんにも、紅君は笑顔で会釈し、大きく手を振って挨拶する。
(ふふっ……いかにも紅君らしい……)
みんなに愛され、彼自身もみんなを愛している、人気者の『紅也君』がそこにはいた。あの彼の隣を歩くことは、私には難しい。
(紅君はそんなことないって言うけど……私と紅君じゃ何もかもが違う……違いすぎる……)
だから遠くから見ているのがいい。離れてうしろを歩きながら、その背中をこうして見ているぐらいが、私にはちょうどいい。澤井に殴られた頬は痛いし、母ともしばらく会えなくなり、私の人生など悪いことだらけだが、紅君の背中を見ているだけで、それらを一時でも忘れられる。それが嬉しかった。そういう些細なことが、その頃の私の幸せの全てだった。楽しみなど何もないが、ただ遠くから紅君の姿を見るためだけの学校に、私は今日も一歩を踏みだした。
「ごめんなさい千紗……もうちょっと……もうちょっと待ってね」
母からは時々、辛そうな声でそういう電話がかかってくるばかりで、なかなか澤井との話しあいは進んでいないようだった。予め覚悟していたこととはいえ、電話が来るたびに淡い期待を抱き、そしてそれを打ち砕かれてを、何度もくり返すのは精神的に堪えた。
「ちいねえちゃん……まだここにいる?」
そう尋ねて私が頷くのを、「やったあ」と喜んでくれる『希望の家』の子供たちがいなかったら、短気を起こして母の苦労も考えずに家へ帰っていたかもしれない。
季節はとうに桜の咲く頃から、初夏へと移り変わろうとしていた。
「ちい……『希望の家』を出たらどこへ行くのか、俺の行き先が決まったよ……」
いつものように二人で自転車に乗った朝。なんの前触れもなく紅君にそう告げられ、心臓が止まるかと思った。この、私にとっての幸せなひと時が、永遠に続くと思っていたわけではない。しかし改めて終わりの時を告げられ、自分が世界の全てに見放されたような気さえした。
「そう……」
「よかったね」などという言葉は到底口にできず、小さく呟いた私に紅君は背中のまま告げた。
「うん。父さんが見つかったんだ……俺の本当の父さん……」
「…………!」
私が息を呑んだことが伝わったのだろうか、紅君が自転車を停めた。そのままゆっくりとうしろに座る私をふり返る。
「ちょっとした行き違いで母さんと連絡が取れなくなって、でもずっと探してたんだって……俺が生まれてたってことも知らなくて……でも『紅也』って名前でわかったって……次に男の子が生まれたらそう名づけるって、ずっと母さんが決めてた名前だからって……」
紅君の声が震えていた。どんな時でも堂々と自分らしく生き、見ている私に勇気を与えてくれる紅君が、とまどっている。私は堪らず自転車から飛び下り、彼の正面へと回りこんだ。
「紅君……お父さんと会ったの?」
私にあわせて前へと向き直った紅君は、静かに首を振る。
「ううん……電話で話しただけ……三つ年上の兄さんもいるんだって……泣きながら話してくれた」
語りながら電話でのやり取りを思い出したのか、紅君の目にうっすらと涙が浮かぶ。
「こんなの信じられない……信じられないよ、ちい……!」
くしゃっと顔を歪めて俯いた頭に、思わず手が伸びた。私は無意識のうちに、紅君の頭を自分の胸に押しつけるようにして、強く抱きしめていた。
「よかった……! よかったね紅君!」
涙が零れる。自分のことのように――いや、自分のことなどよりもっと嬉しくて、涙が頬を伝って落ちる。園長先生から教えてもらったほんの少しのお母さんの情報を、紅君がどれほど心の中でくり返していたか。何百回何千回と思い浮かべていたか。私にはわかる。とてもよくわかるから――嬉しくて堪らない。
「お父さんにもお兄さんにも会えるね。お母さんの話もいっぱい聞かせてもらえるね……よかったね紅君!」
大切に彼の頭を抱きしめる私の背中に、紅君も腕を伸ばした。
「ちい……!」
かき抱くように抱きしめ返され、これまでのどんな時よりも彼を近くに感じ、それでも私はそこから逃げだしたいとは思わなかった。紅君を抱きしめる腕を、今は解きたくなかった。
「よかったね……」
「うん、よかった……」
ようやくいつもの調子に戻った紅君の優しい声は、夏が近い青い空に吸いこまれて消えた。
「約束……守ってないよね……?」
放課後、紅君と待ちあわせている土手へ向かおうとした私を呼び止めたのは、例の女の子たちだった。いつかはこうなると思っていた。それでも約束を破り、紅君の近くに居続けたのは私だ。だから非難を受けるのは仕方がない。
「うん……ごめんなさい……」
潔く頭を下げたら、その上にバシャッと水をかけられた。驚いて顔を上げ、女の子の一人が古いバケツを手にしていたので、その中に入っていた水をかけられたのだと理解する。
校舎裏の物置の近くに転がっていた、壊れかけの古いバケツ。いったいいつからそこにあったのかわからないバケツの中の水は、腐ったような嫌な匂いがした。
「きったなーい」
くすくすと笑いながら鼻を摘む女の子たちの中で、中央にいる子だけが険しい表情を崩さない。あの時、私に「もう紅也君には近づかない」という約束をさせた子。今年は紅君と同じクラスになり、楽しそうに話している姿を何度も見かけたその子が、唇を噛みしめて私をじっと睨んでいた。
「なんで? ……なんで約束したのに守らないの?」
押し殺したような声で尋ねられて、返答に困る。私の中でその答えはすでに出ている。しかし紅君本人にもまだ告げていないこの想いを、先に他の人に言うことはできない。
「ごめんなさい……」
出せない言葉の代わりにもう一度謝った私の頬を、その子が叩いた。
「謝ってほしいわけじゃない!」
パアンと大きな音をさせて私の頬が鳴った瞬間、叩いたその子も周りの子たちもはっと息を呑んだ。けれど、私は驚かなかった。自分が叩かれることに、私は慣れていた。それが他の女の子たちとはこんなに違うのだと知り、その事実のほうがよほどショックだった。
「ごめんなさい……でもあの約束は守れない……ほんの少しの時間でもいい。私はやっぱり紅君の傍にいたいから!」
きっぱりと宣言したのは、その子たちへ向けてなのか、それともそう遠くない未来に紅君との別れを準備された事実へなのか、自分でもわからない。わからないけれど、これまでこれほど強く何かを願ったことなどなかった。曲げられない。どうしてもこの想いだけは譲れない。
「なに言ってんのよ!」
右側の子に思いっきり突き飛ばされ、物置にぶつかり、そのままそこに座りこんだ。すぐに立ち上がることはできそうだったが、私は敢えてそうしなかった。地面に額を擦りつけるようにして這いつくばり、女の子たちへ頭を下げた。
「ごめんなさい。紅君の傍にいさせて下さい。あとほんの少しでいいから……!」
鼻の奥がツンと痛くなる。こみ上げる涙は、決してこの状況が悔しいからではない。叩かれた頬も、突き飛ばされてぶつけた肩も、まったく痛みなどない。もうあと少ししか紅君と一緒にいられないのだと知った胸の痛みに比べれば、何もかもがどうというほどではない。
「なんなのよ、あんた!」
頑なな私の態度にますます怒った女の子たちが、土足で踏みつけても、口汚く罵っても、私は平気だった。そんなことぐらいで紅君と一緒にいるのを許してもらえるのなら、どんな目に遭っても、私はそれでよかった。
「どうしたの、ちい……?」
いつものように待ちあわせの土手へ現われた私を見て、紅君は目を丸くした。泥水で汚れた髪は水道水で洗い直したし、服についた汚れや叩かれた痕などもわからなくしたつもりだったが、どうやら紅君の目はごまかせなかったようだ。
「えっと……転んじゃった……」
ぎこちなく笑う私の顔を見上げ、草むらに腰を下ろしていた紅君はスッと立ち上がった。
「誰がしたの?」
珍しく恐い顔で腕を掴まれるから、私は必死に首を振る。
「だ、誰も……本当に転んじゃったんだよ……?」
「ちい!」
声を荒げる紅君に、それでも私は目をギュッと瞑って抗った。
「大丈夫だから……本当に私は大丈夫だから!」
「ちい……」
紅君が掴んでいた私の腕を放した。それを合図に、私は恐る恐る目を開いて彼の顔を見た。
「お願い……俺に守らせてよ……ほんとはずっと傍にいて守りたかったのに、そうはできそうにないんだから……せめて今だけでも!」
ちょっと首を傾げて眉を曇らせ、紅君は本当に悲しそうな顔でそういうことを言う。だから私まで悲しくなる。必死に心の中に封じこめ、無視しようとしている寂しい思いが、溢れ出しそうになる。だから――浮かんできた涙をグイッと手の甲で拭い、私は笑った。
「大丈夫、私は強いから! お母さんだって、園長先生だって、『希望の家』のみんなだっていてくれるから……自分でがんばれる。紅君が行っちゃっても、ちゃんとがんばる!」
「…………そっか」
思いがけないことに、紅君は大きな溜め息を吐き、私に背を向けるとそのまま土手の端まで歩き、座りこんだ。柔らかな茶色の髪の中に両手の指をつっこみ、文字どおり頭を抱える。
「なんだ……会えなくなって寂しいのは俺だけか……」
ぽつりと聞こえた小さな呟きに、私の心臓がどうしようもなく大きく跳ねた。
「…………紅君?」
恐る恐る発した呼びかけにも、紅君はふり向いてくれない。膝を抱え、川の向こうに五つ並んだ製鉄所の煙突を、ぼんやりと眺めている。
「ずっと一緒にいたいなんて思ってたのは俺だけか……」
「紅君! 私だって……!」
焦って駆け寄りその顔を覗きこみ、彼が実は笑っていることに初めて気がついた。
「――――!」
「ごめん、ちい……ちょっとズルかった……」
申し訳なさそうに両手をあわせる紅君の顔を見ながら、私はさっきとは違う理由で泣きそうだった。
(だってこんなふうに焦ったら……もう自分の気持ちを言っているのと同じだ!)
真っ赤になって俯く私の目の前で、紅君はすっくと立ちあがり、「ちい……」と小さな声で名前を呼ぶ。そして勢いよく頭を下げる。
「好きです。俺の彼女になって下さい!」
ふいに、ふわりと温かな風が私の頬を撫でた。遠くでカラーンと教会の鐘の鳴る音が聞こえる。まるで私の頭上で鳴り響く祝鐘のように――。
「えっ?」
たっぷりとふた呼吸ぶんくらい沈黙したあと、驚いて瞳を瞬かせた私の前で、紅君はガバッと頭を上げた。その顔は真っ赤に染まっている。つられて私の頬もどんどん熱くなる。
「本当は、中学生になったら誰よりも先に言うつもりだった! 他の誰かに言われる前に! ちいに、好きな人ができる前に! それとも……もう、誰か好きな人がいる?」
『それはもちろん紅君だよ!』と、とても面と向かって言えるはずはなく、私は必死に首を横に振ることしかできない。
「よかったあ」
紅君はにっこり笑い、今度は私に右手をさし出した。
「なんか……全然思ってたようにいかないんだけど……予定が狂いっぱなしなんだけど、しょうがない……俺がずっと傍にいてあげられないんだから仕方ない……」
独り言のように言いながら、紅君は私の手を取る。ぎゅっと両手で包みこむようにそれを握りしめ、きりっと真剣な眼差しを私へ向けた。
「俺は絶対にちいを忘れないから! ちいが寂しくなったらいつでも飛んでくる……だから、いつか迎えに来てもいい? 俺がこれから住む町へ……いつか、ちいも連れて行ってしまっていい?」
頭の中が真っ白になった。ドンドンと大きな音を立て、もう壊れんばかりの速さ、大きさで心臓が脈打ってる。
(え? え? ……それっていったい……どういう……?)
思考は完全に麻痺しているし、顔も異常なまでに熱くなる。そんな私に紅君が笑いかける。――あの大好きな笑顔で、にっこりと笑いかける。
「あれ……なんで俺、今、プロポーズみたいなこと言ってるんだろ? そうとう参ってるな……おかしくなってる……でも……!」
私の手を包みこむ両手に、紅君はぎゅっと力をこめた。
「順番は滅茶苦茶だけど……もうずっと前から決めてたことだから! 全部……いつかはちいに伝えるって決めてた言葉ばかりだから!」
「……全部?」
「そう! 全部!」
「ずっと前から……?」
「うん。ずっとずっと前から!」
声が震える。胸が痛い。もうどうしようもないほど胸が痛くて、零れ落ちる涙を隠すことができない。遠くから見ているだけでいいと思った。背中を見ているだけで幸せだった。なのに紅君は、そんな私をふり返り、手をさし伸べてくれた。そして一緒に連れていってくれると言う。――いつか紅君と同じところに、私も連れていってくれるのだと言う。
「うん。行く」
彼の言葉が風に攫われて幻になってしまう前に、私は急いで返事をした。いつかは伝えたかった気持ち、伝えられるといいと思っていた気持ち、確かに紅君の言うとおり、私の中でも予想外に早くなってしまったが、きっと今でもいい。伝えるのが今でも、何ヶ月か先でも、何年後かでも、この想いは絶対変わらない。
「好きです、紅君。大好きです」
いっぱいいっぱいの思いで、ようやく自分の気持ちを言葉にした私に、紅君は大きく目を見開き、それから満面の笑顔になった。――またもう一度、私の大好きなあの笑顔になった。
「うん。俺も大好き。ちい」
手を取りあい、私たちは笑った。世界中の幸せを全部、二人の掌の上に集めたかのようだった。
『希望の家』に私も一緒に住むことになり、放課後のように二人で自転車に乗って登校した朝、いつもの土手に赤い自転車を隠しながら、紅君はそう尋ねた。
「うん……できたらそうして欲しい……」
真っ直ぐに見つめられていることが居心地悪く、私は俯く。そんな私に紅君は望みどおり、くるりと背を向けてくれた。
「わかった。じゃあまた帰りにね……ちい……」
うしろ手に手を振りながら去っていく背中を、道の真ん中に立ち止まったまま、私はしばらく見送った。歩き始めて数メートルも行かないうちに、脇道から土手に出てきた男の子たちが、紅君の姿を見つけて駆け寄る。ポンと頭を叩きあったり、肩を組んだりして、ひとしきり談笑して離れると、またあっという間に違う男の子たちが集まる。そのうしろを歩きながら、きゃっきゃと小声ではしゃいでいる女の子たちの姿も見える。
前方から来る犬を散歩させている女の人にも、うしろから自転車で追い越していく学生服姿のお兄さんにも、紅君は笑顔で会釈し、大きく手を振って挨拶する。
(ふふっ……いかにも紅君らしい……)
みんなに愛され、彼自身もみんなを愛している、人気者の『紅也君』がそこにはいた。あの彼の隣を歩くことは、私には難しい。
(紅君はそんなことないって言うけど……私と紅君じゃ何もかもが違う……違いすぎる……)
だから遠くから見ているのがいい。離れてうしろを歩きながら、その背中をこうして見ているぐらいが、私にはちょうどいい。澤井に殴られた頬は痛いし、母ともしばらく会えなくなり、私の人生など悪いことだらけだが、紅君の背中を見ているだけで、それらを一時でも忘れられる。それが嬉しかった。そういう些細なことが、その頃の私の幸せの全てだった。楽しみなど何もないが、ただ遠くから紅君の姿を見るためだけの学校に、私は今日も一歩を踏みだした。
「ごめんなさい千紗……もうちょっと……もうちょっと待ってね」
母からは時々、辛そうな声でそういう電話がかかってくるばかりで、なかなか澤井との話しあいは進んでいないようだった。予め覚悟していたこととはいえ、電話が来るたびに淡い期待を抱き、そしてそれを打ち砕かれてを、何度もくり返すのは精神的に堪えた。
「ちいねえちゃん……まだここにいる?」
そう尋ねて私が頷くのを、「やったあ」と喜んでくれる『希望の家』の子供たちがいなかったら、短気を起こして母の苦労も考えずに家へ帰っていたかもしれない。
季節はとうに桜の咲く頃から、初夏へと移り変わろうとしていた。
「ちい……『希望の家』を出たらどこへ行くのか、俺の行き先が決まったよ……」
いつものように二人で自転車に乗った朝。なんの前触れもなく紅君にそう告げられ、心臓が止まるかと思った。この、私にとっての幸せなひと時が、永遠に続くと思っていたわけではない。しかし改めて終わりの時を告げられ、自分が世界の全てに見放されたような気さえした。
「そう……」
「よかったね」などという言葉は到底口にできず、小さく呟いた私に紅君は背中のまま告げた。
「うん。父さんが見つかったんだ……俺の本当の父さん……」
「…………!」
私が息を呑んだことが伝わったのだろうか、紅君が自転車を停めた。そのままゆっくりとうしろに座る私をふり返る。
「ちょっとした行き違いで母さんと連絡が取れなくなって、でもずっと探してたんだって……俺が生まれてたってことも知らなくて……でも『紅也』って名前でわかったって……次に男の子が生まれたらそう名づけるって、ずっと母さんが決めてた名前だからって……」
紅君の声が震えていた。どんな時でも堂々と自分らしく生き、見ている私に勇気を与えてくれる紅君が、とまどっている。私は堪らず自転車から飛び下り、彼の正面へと回りこんだ。
「紅君……お父さんと会ったの?」
私にあわせて前へと向き直った紅君は、静かに首を振る。
「ううん……電話で話しただけ……三つ年上の兄さんもいるんだって……泣きながら話してくれた」
語りながら電話でのやり取りを思い出したのか、紅君の目にうっすらと涙が浮かぶ。
「こんなの信じられない……信じられないよ、ちい……!」
くしゃっと顔を歪めて俯いた頭に、思わず手が伸びた。私は無意識のうちに、紅君の頭を自分の胸に押しつけるようにして、強く抱きしめていた。
「よかった……! よかったね紅君!」
涙が零れる。自分のことのように――いや、自分のことなどよりもっと嬉しくて、涙が頬を伝って落ちる。園長先生から教えてもらったほんの少しのお母さんの情報を、紅君がどれほど心の中でくり返していたか。何百回何千回と思い浮かべていたか。私にはわかる。とてもよくわかるから――嬉しくて堪らない。
「お父さんにもお兄さんにも会えるね。お母さんの話もいっぱい聞かせてもらえるね……よかったね紅君!」
大切に彼の頭を抱きしめる私の背中に、紅君も腕を伸ばした。
「ちい……!」
かき抱くように抱きしめ返され、これまでのどんな時よりも彼を近くに感じ、それでも私はそこから逃げだしたいとは思わなかった。紅君を抱きしめる腕を、今は解きたくなかった。
「よかったね……」
「うん、よかった……」
ようやくいつもの調子に戻った紅君の優しい声は、夏が近い青い空に吸いこまれて消えた。
「約束……守ってないよね……?」
放課後、紅君と待ちあわせている土手へ向かおうとした私を呼び止めたのは、例の女の子たちだった。いつかはこうなると思っていた。それでも約束を破り、紅君の近くに居続けたのは私だ。だから非難を受けるのは仕方がない。
「うん……ごめんなさい……」
潔く頭を下げたら、その上にバシャッと水をかけられた。驚いて顔を上げ、女の子の一人が古いバケツを手にしていたので、その中に入っていた水をかけられたのだと理解する。
校舎裏の物置の近くに転がっていた、壊れかけの古いバケツ。いったいいつからそこにあったのかわからないバケツの中の水は、腐ったような嫌な匂いがした。
「きったなーい」
くすくすと笑いながら鼻を摘む女の子たちの中で、中央にいる子だけが険しい表情を崩さない。あの時、私に「もう紅也君には近づかない」という約束をさせた子。今年は紅君と同じクラスになり、楽しそうに話している姿を何度も見かけたその子が、唇を噛みしめて私をじっと睨んでいた。
「なんで? ……なんで約束したのに守らないの?」
押し殺したような声で尋ねられて、返答に困る。私の中でその答えはすでに出ている。しかし紅君本人にもまだ告げていないこの想いを、先に他の人に言うことはできない。
「ごめんなさい……」
出せない言葉の代わりにもう一度謝った私の頬を、その子が叩いた。
「謝ってほしいわけじゃない!」
パアンと大きな音をさせて私の頬が鳴った瞬間、叩いたその子も周りの子たちもはっと息を呑んだ。けれど、私は驚かなかった。自分が叩かれることに、私は慣れていた。それが他の女の子たちとはこんなに違うのだと知り、その事実のほうがよほどショックだった。
「ごめんなさい……でもあの約束は守れない……ほんの少しの時間でもいい。私はやっぱり紅君の傍にいたいから!」
きっぱりと宣言したのは、その子たちへ向けてなのか、それともそう遠くない未来に紅君との別れを準備された事実へなのか、自分でもわからない。わからないけれど、これまでこれほど強く何かを願ったことなどなかった。曲げられない。どうしてもこの想いだけは譲れない。
「なに言ってんのよ!」
右側の子に思いっきり突き飛ばされ、物置にぶつかり、そのままそこに座りこんだ。すぐに立ち上がることはできそうだったが、私は敢えてそうしなかった。地面に額を擦りつけるようにして這いつくばり、女の子たちへ頭を下げた。
「ごめんなさい。紅君の傍にいさせて下さい。あとほんの少しでいいから……!」
鼻の奥がツンと痛くなる。こみ上げる涙は、決してこの状況が悔しいからではない。叩かれた頬も、突き飛ばされてぶつけた肩も、まったく痛みなどない。もうあと少ししか紅君と一緒にいられないのだと知った胸の痛みに比べれば、何もかもがどうというほどではない。
「なんなのよ、あんた!」
頑なな私の態度にますます怒った女の子たちが、土足で踏みつけても、口汚く罵っても、私は平気だった。そんなことぐらいで紅君と一緒にいるのを許してもらえるのなら、どんな目に遭っても、私はそれでよかった。
「どうしたの、ちい……?」
いつものように待ちあわせの土手へ現われた私を見て、紅君は目を丸くした。泥水で汚れた髪は水道水で洗い直したし、服についた汚れや叩かれた痕などもわからなくしたつもりだったが、どうやら紅君の目はごまかせなかったようだ。
「えっと……転んじゃった……」
ぎこちなく笑う私の顔を見上げ、草むらに腰を下ろしていた紅君はスッと立ち上がった。
「誰がしたの?」
珍しく恐い顔で腕を掴まれるから、私は必死に首を振る。
「だ、誰も……本当に転んじゃったんだよ……?」
「ちい!」
声を荒げる紅君に、それでも私は目をギュッと瞑って抗った。
「大丈夫だから……本当に私は大丈夫だから!」
「ちい……」
紅君が掴んでいた私の腕を放した。それを合図に、私は恐る恐る目を開いて彼の顔を見た。
「お願い……俺に守らせてよ……ほんとはずっと傍にいて守りたかったのに、そうはできそうにないんだから……せめて今だけでも!」
ちょっと首を傾げて眉を曇らせ、紅君は本当に悲しそうな顔でそういうことを言う。だから私まで悲しくなる。必死に心の中に封じこめ、無視しようとしている寂しい思いが、溢れ出しそうになる。だから――浮かんできた涙をグイッと手の甲で拭い、私は笑った。
「大丈夫、私は強いから! お母さんだって、園長先生だって、『希望の家』のみんなだっていてくれるから……自分でがんばれる。紅君が行っちゃっても、ちゃんとがんばる!」
「…………そっか」
思いがけないことに、紅君は大きな溜め息を吐き、私に背を向けるとそのまま土手の端まで歩き、座りこんだ。柔らかな茶色の髪の中に両手の指をつっこみ、文字どおり頭を抱える。
「なんだ……会えなくなって寂しいのは俺だけか……」
ぽつりと聞こえた小さな呟きに、私の心臓がどうしようもなく大きく跳ねた。
「…………紅君?」
恐る恐る発した呼びかけにも、紅君はふり向いてくれない。膝を抱え、川の向こうに五つ並んだ製鉄所の煙突を、ぼんやりと眺めている。
「ずっと一緒にいたいなんて思ってたのは俺だけか……」
「紅君! 私だって……!」
焦って駆け寄りその顔を覗きこみ、彼が実は笑っていることに初めて気がついた。
「――――!」
「ごめん、ちい……ちょっとズルかった……」
申し訳なさそうに両手をあわせる紅君の顔を見ながら、私はさっきとは違う理由で泣きそうだった。
(だってこんなふうに焦ったら……もう自分の気持ちを言っているのと同じだ!)
真っ赤になって俯く私の目の前で、紅君はすっくと立ちあがり、「ちい……」と小さな声で名前を呼ぶ。そして勢いよく頭を下げる。
「好きです。俺の彼女になって下さい!」
ふいに、ふわりと温かな風が私の頬を撫でた。遠くでカラーンと教会の鐘の鳴る音が聞こえる。まるで私の頭上で鳴り響く祝鐘のように――。
「えっ?」
たっぷりとふた呼吸ぶんくらい沈黙したあと、驚いて瞳を瞬かせた私の前で、紅君はガバッと頭を上げた。その顔は真っ赤に染まっている。つられて私の頬もどんどん熱くなる。
「本当は、中学生になったら誰よりも先に言うつもりだった! 他の誰かに言われる前に! ちいに、好きな人ができる前に! それとも……もう、誰か好きな人がいる?」
『それはもちろん紅君だよ!』と、とても面と向かって言えるはずはなく、私は必死に首を横に振ることしかできない。
「よかったあ」
紅君はにっこり笑い、今度は私に右手をさし出した。
「なんか……全然思ってたようにいかないんだけど……予定が狂いっぱなしなんだけど、しょうがない……俺がずっと傍にいてあげられないんだから仕方ない……」
独り言のように言いながら、紅君は私の手を取る。ぎゅっと両手で包みこむようにそれを握りしめ、きりっと真剣な眼差しを私へ向けた。
「俺は絶対にちいを忘れないから! ちいが寂しくなったらいつでも飛んでくる……だから、いつか迎えに来てもいい? 俺がこれから住む町へ……いつか、ちいも連れて行ってしまっていい?」
頭の中が真っ白になった。ドンドンと大きな音を立て、もう壊れんばかりの速さ、大きさで心臓が脈打ってる。
(え? え? ……それっていったい……どういう……?)
思考は完全に麻痺しているし、顔も異常なまでに熱くなる。そんな私に紅君が笑いかける。――あの大好きな笑顔で、にっこりと笑いかける。
「あれ……なんで俺、今、プロポーズみたいなこと言ってるんだろ? そうとう参ってるな……おかしくなってる……でも……!」
私の手を包みこむ両手に、紅君はぎゅっと力をこめた。
「順番は滅茶苦茶だけど……もうずっと前から決めてたことだから! 全部……いつかはちいに伝えるって決めてた言葉ばかりだから!」
「……全部?」
「そう! 全部!」
「ずっと前から……?」
「うん。ずっとずっと前から!」
声が震える。胸が痛い。もうどうしようもないほど胸が痛くて、零れ落ちる涙を隠すことができない。遠くから見ているだけでいいと思った。背中を見ているだけで幸せだった。なのに紅君は、そんな私をふり返り、手をさし伸べてくれた。そして一緒に連れていってくれると言う。――いつか紅君と同じところに、私も連れていってくれるのだと言う。
「うん。行く」
彼の言葉が風に攫われて幻になってしまう前に、私は急いで返事をした。いつかは伝えたかった気持ち、伝えられるといいと思っていた気持ち、確かに紅君の言うとおり、私の中でも予想外に早くなってしまったが、きっと今でもいい。伝えるのが今でも、何ヶ月か先でも、何年後かでも、この想いは絶対変わらない。
「好きです、紅君。大好きです」
いっぱいいっぱいの思いで、ようやく自分の気持ちを言葉にした私に、紅君は大きく目を見開き、それから満面の笑顔になった。――またもう一度、私の大好きなあの笑顔になった。
「うん。俺も大好き。ちい」
手を取りあい、私たちは笑った。世界中の幸せを全部、二人の掌の上に集めたかのようだった。