二章

 波琉と食事をするようになってから、笑顔が絶えない。
 最初、いたずら目的で梅干しを食べさせたのだが、これがなにやら波琉の好みに合ったようで、毎食必ず梅干しが食卓にあがるようになったのはなんとも微笑ましい。
 あれだけ食に興味はないと言っていたのに、ミトの作った目玉焼きに、醤油かソースか、はたまた塩かケチャップをかけるかで悩んでいる姿を見ていると、興味がないようにはまったく思えなかった。
 出される料理すべてを物珍しそうに見る波琉に、いろんなものを食べさせてみたくなったミトは、志乃と相談しながら料理本を見る毎日だ。
「いっそ、くさやでも食べさせてみる?」
「さすがにそれはかわいそうよ。家の中も臭くなるし。そもそもミトだって食べたことないでしょう?」
「だって、なんでも珍しそうにしてる波琉を見てると、変わったもの食べさせてみたくなるんだもん」
「その気持ちはすごく分かるけど、くさやは上級者の食べ物よ。波琉君には早いわ」
 そんな楽しみが尽きないある日、蒼真がミトの部屋にやって来た。
 相も変わらず波琉は後ろからミトを抱きしめている。
 蒼真はミトの前にかわいらしいチェックのスカートとブレザーの服を置いた。
「なんですか、これ?」
「お前の念願の制服だよ」
「制服!? ということは……」
 ミトの目が期待に満ちる。
「学校に通うための準備が整った。いつでも行けるぞ」
「やったー」
 これまで学校に通ったことのなかったミトの念願。
 すぐにでも通いたいと思っていたが、いろいろと準備が必要だと焦らされ続けていた。
「波琉、学校に行けるって」
 花が咲いたように顔をほころばせるミトの頭を、波琉がよしよしと撫でるが、ミトの表情とは違って複雑そうな顔をしているのに気がつく。
「波琉? 嬉しくないの?」
 波琉が通うわけではないのだが、波琉ならば一緒に喜んでくれると思っていたので、今の波琉の表情は予想外だった。
「うーん、ミトが嬉しいなら僕も喜びたいんだけど……。学校に行ってしまったら一緒にいられないでしょう?」
「そうだね。さすがに波琉も学校に通うわけにはいかないし」
 蒼真をうかがうように視線を向ければ、なにを馬鹿なことを言ってるんだと、叱りだしそうな顔でうなづいていた。
「うん。無理みたい」
 波琉は少し不機嫌そうに眉をひそめ、ミトを離さないように強く抱きしめた。
「ミトと離れるのはやだなぁ」
「でも、学校には行きたい」
「どうしても?」
 波琉の寂しそうな顔に心が揺れたが、こればかりはミトも譲れない。
「……ごめんね?」
 波琉は深くため息をついて、ミトを抱く力を緩めた。
「仕方ないか。ミトはずっと行きたいって言ってたもんね。でもなぁ……」
 波琉も葛藤があるようだ。
 離れがたいと思ってくれるのは嬉しい。ミトとて同じ気持ちなのだから。
 けれど、学校には絶対に行きたい。行かないという選択肢はないのだ。
 波琉には快く送り出してほしいのだが、不満げにしている波琉には少し難しいだろうか。
 そう思っていると、蒼真が波琉に一冊の本を差し出した。
「なに?」
「紫紺様には必要なものかと思い用意しておきました」
 波琉が手にした本を、ミトも覗き込む。
 そこには『龍花の町完全ガイドブック~学生の伴侶様と放課後制服デートを楽しむお店三十撰(龍神様用)』
 途端に波琉が目を光らせた。
 できる男、日下部蒼真三十一歳は、一瞬で波琉の心をわし掴みにしたのである。
「紫紺様は、ミトが学校に行っている間にこちらで下調べをされるとよろしいかと。放課後に制服デートができるのは高校を卒業するまでの限られた期間のみ。学校に行っているからこそ楽しめる今だけのイベントです!」
「今だけ?」
「そう、今だけ! ましてやミトはすでに高校一年。残された時間は限りなく少なく、いかに効率よく楽しむかは紫紺様次第です!」
 波琉は蒼真のプレゼンに衝撃を受けているが、そんな大層なものではない。
 ただ、学校終わりにデートするというだけの話だ。
 しかも、高校一年ということは、まだ数年残っている。
 しかし、人間であるミトにとっては数年“もある”なのだが、時間の感覚が異なる龍神にとっては、数年“しかない”なのだ。
 この違いはとても大きい。
 とはいえ、蒼真のおかげで行かせたくないと言っていた波琉の気持ちが変わってくれたようだ。
「それなら仕方ないよね。貴重な時間を有意義に使うとしよう。僕は下調べしておくから、ミトは頑張って学校に行っておいでね?」
「放課後デートしてくれるの?」
「制服のミトと出かけられるのは今だけみたいだし、いろんな所に出かけようね」
 にっこりと微笑む波琉は、愛でるようにミトの頭を撫でる。
 波琉が喜んでくれてなによりだが、放課後デートなんていうものは波琉以上にミトが嬉しい。
「波琉と放課後デート……」
 口にしてみて実感が出てくると、ミトの頬は自然と緩む。
 普通ではなかった自分が、普通の子たちのように恋人とデートをするなんて、少し前の自分には想像すらできなかった。
 異端であった自分が、異端ではなくなる。
 ごくごく普通の幸せがここにはある。
 それこそがなによりの幸福だと、ミトは今あるすべてのものに感謝したくて仕方がなかった。
 もちろん一番の感謝は波琉に伝えたい。
「ありがとう、波琉! 大好き!」
 飛びつくように抱きつけば、波琉は難なく受け止め、愛おしげにミトの髪を手で梳く。
「僕も大好きだよ」
「はいはい、イチャつくのは俺のいない時にしてください」
 あきれたような顔をする蒼真は、制服をミトに渡す。
「念のためサイズに間違いがないか確認したいから着てこい」
「はーい」
 ニコニコと上機嫌で返事をして隣の部屋へ移動して制服を着る。
 赤いチェックのスカートと、紺色のブレザーを着て、スカートと同じ生地のリボンを首元につける。
「わぁ、かわいい」
 姿見の前で前に後ろにクルクルと回りながら確認しては、生まれて初めて着る制服に胸をときめかせる。
「~~っ!」
 込み上げてくるのは歓喜。
 ようやくだ。ようやく学校に通うことができるのだと、ミトは次から次にと湧いてくる様々な感情を抑え込むので必死だ。
 本当は大きな声で叫んでしまいたいが、そんなことをしたら隣の部屋にいる波琉と蒼真を驚かせてしまうだろう。
 声に出すのを耐えながら波琉の部屋に戻る。
 蒼真は立ったミトの袖やスカートの丈を確認して納得の表情を浮かべる。
「問題なさそうだな。窮屈さはないか?」
「はい。ぴったりです」
「ならいい。学校へはいつから行く? 手続きは済んでるから、明日からでもいいぞ」
「じゃあ、明日からで!」
 ミトは迷わずそう言った。
「分かった。教科書や鞄は後で部屋に届けておく。学校には明日から通うように伝えておくから、明日は八時に出るぞ。遅れないように準備しとけ」
「分かりました」
 蒼真は部屋を出ていき、ミトは波琉の前に立つ。
「どう? 似合う?」
「かわいいよ。けど……」
 むうっと、口を引き結ぶ波琉に、ミトは首をかしげる。
「けど、なに?」
「こんなかわいいミトを外に出したくないなぁ。やっぱり学校には行かずに屋敷で僕といた方がよくない?」
「波琉ってば~」
 さすがのミトもあきれた顔をする。
 この後に及んでまだ言うか。
「外には悪い狼がたくさんいるんだよ?」
「狼ならちゃんと話せば分かってくれるよ。私は動物と話せるんだから」
「その狼じゃないんだけどなぁ」
 波琉はやれやれというようにため息をついた。
 理解できていないミトは首をかしげるだけである。
 最終的には波琉が折れるのだった。