***


 ひやりと冷たいものが、額に添えられている。そのまま頬をたどり、唇を撫でるともう一度額へ。
 頬にさらりとした感触を受け、リツはゆっくりと目を開く。

「おはようございます」

 涼やかな声が耳朶(みみたぶ)(くすぐ)った。ぼんやりとした視界に人の顔が映り、リツは目を瞬かせる。
「えっ……!」
 身をかがめるようにして、リツの顔をのぞきこんでいる一人の男。ばちり、と目が合った。

 流れるのは銀色の髪。血を流し込んだような赤い瞳は不思議と温かな光を湛え、リツの顔を映し込んでいる。すっと通った鼻筋に、薄い唇。ひやりとした冷たさを感じるものの、表情は柔らかく温かい。
 見目麗しいという言の葉がこれほど似合う者もいないだろう。

「あ、あの……!」

 慌てて身を起こすと、おっと、と男はのけぞった。男に膝枕をされていたという事実にリツは混乱し、羞恥に体を熱くする。
「もう少し寝ていてもよいのですよ」
 残念そうに言の葉を落とす男の横で、リツはぶんぶんと首をふる。
「あの、ここは……!? 私、湖に……」
 リツは周りを見渡した。自分は湖に身を投げたはずなのに、いったいここはどこなのだろう。

 石造りの宮のようであった。東屋(あづまや)のような作りになっているようだ。瑞々しい木々の緑が眩しい。吹き込む風も清涼で、さやさやと梢を鳴らす音が聞こえている。

「どうぞ。足元に気をつけて」
 男は立ち上がると、リツにすっと手を差し伸べた。おずおずと手を取り、立ち上がる。姿が良いと思っていたが、上背もある。立ち上がったリツの頭二つ分はある長身で、結髪をしていない銀の髪が純白の(ほう)の上をさらさらと絹糸のように流れ落ちていた。

「名はなんと?」
「は……リツ、と……」
 リツ、と男は口の中で呟いて、花が綻ぶように微笑んだ。
「良い名です。特に響きがいい。我が水を正常に保つ、清らかな流れを意味する音ですね」
「あの、あなたは」
 リツの声に、男はすっと手を組み、リツに拝する。
「名を告げる前に。礼を言わせてください。あなたの鎮め歌のおかげで、わたしは目を覚ますことができました」
「鎮め歌の……?」
 ええ、と男性はにこりと笑い、リツの手をそっと握る。指先の冷たさに、リツはぴくりと体を震わせた。

「わたしの名は、ミツハと言います。しかし、この名を名乗ってもあまり意味がない。現世(うつしよ)では、わたしのことを湖の主、蛟龍と呼んでいるでしょう」

 リツは目を見張った。
「――蛟龍……!?」
 目の前の男は頷いた。
「あの歌を知っているということは、あなたは巫なのですね。言の葉に力が宿る、とても心地の良い歌でした」
 そのままリツの衣に手を這わせ、眉を寄せる。金糸銀糸で織られた衣は水を吸い、重たく体に纏わりついたままだ。
「人は本当に愚かなことをする。贄など要らぬと言っても聞く耳を持たないから困るのだ。いや、それよりも聞く力がないということか」
 言の葉に鋭さを纏わせたミツハは、安心させるようにリツに微笑んだ。

「まずは着替えを」

 細く口笛を吹くと、柱の影から一人の幼子(おさなご)が現れた。髪をみずらに結い、ミツハと同じような白い袍。くりっとした瞳は黄金で、こちらも見目麗しい御子(おこ)である。

「この者は、イダ。身の回りの手伝いに使ってください」
 イダはさっそくと言わんばかりにリツの手を取った。
「リツさま。イダがご案内差し上げます。どうぞこちらへ!」

 そのままあれよあれよと連れていかれ、リツは部屋の一室に通された。
 白い石造りの床に、同じく白い壁。天井には青い染料で複雑な文様が描かれている。丸くくりぬかれた窓から見える瑞々しい木々の緑に目を落とし、リツはほうと息を吐いた。

 鼻歌を歌いながらイダは奥の部屋から衣を数枚持ちだすと、同じく白い石でできた卓子(つくえ)の上に並べた。
「リツさまは何色がお好きでしょうか? 金青、浅葱、白縹……」
 一枚一枚を手に取って、くるくると回りながらイダはリツに衣を合わせていく。
「あの、イダ……さま」
 リツの言の葉に、イダは目を丸くし、ふにゃりと微笑んだ。
「リツさま。イダのことは『イダ』と呼び捨てになさってくださいまし」
「でも、初めてあった方にそのような」
「お優しいのですね」
 イダは目を細めてにこりと笑う。
「ですが、そのように呼んでもらわないと困ります。イダがミツハさまに叱られてしまいますゆえ」
「そう……それなら、イダ。私、今、あまり状況が分かっていないのだけれど」
 混乱するリツに、さもありなんとイダは頷いた。
「そうでしょうとも。身支度をしながらでよろしければ、イダがご説明差しあげます」

 イダは丸椅子を用意すると、リツをそこに座らせた。手巾(しゅきん)で髪の水気を叩くように吸い取ると、丁寧に髪を梳いていく。
「ここは臥龍(がりょう)の宮でございます」
「臥龍の宮……」
 リツはくるりと部屋を見渡した。煌びやかさはないが、静謐(せいひつ)な美しさを保つ宮である。
「臥龍の宮は、湖の主たる蛟龍、ミツハさまがお住まいになる宮にございます」
 髪を梳き終わると、イダは慎重な手つきで結い上げていく。

「最近のミツハさまは大層お苦しみでした。リツさまの鎮め歌をお聞きになり、ミツハさまは目を覚まされたのでございます。その御礼をするべくリツさまをお救いになると決められました。それで、この宮までお連れした、と」

 ――それでは。

 リツは考える。この宮は本当に蛟龍の住まう宮なのだろうか。だとすれば、自分は……。
 震え始めた手を己が掌で包み込み、リツは口に言の葉を乗せる。
「私のいのちは、どうなってしまったのでしょうか?」
「リツさまは、きちんと生きておいでですよ。心の臓も動いております。ご安心ください」

 そこまで言うと、イダはリツを立ち上がらせた。いつのまにか、髪が結い上げられている。
「リツさまはきれいな黒髪でいらっしゃる。以前お見かけした際の紅の衣もお似合いですが、ミツハさまの横に立たれるお方だもの。こちらの、白銀の衣にしてみましょうか」
 卓子の上の衣をリツに合わせ、にこりと笑うイダの言の葉に、リツは引っ掛かりを覚えた。
「あの、どこかでお会いしたことが……?」
 このような印象的な御子。どこかで見たなら忘れるはずがないのだが、リツにはその覚えはない。
「さ、リツさま、お召し替えを」
 リツの問いには答えずに、イダは衣をリツに手渡した。触れるだけで分かる、上質な絹である。細い銀糸が編み込まれた衣は滑らかで、さらさらと手の上を泳ぐ水のような手触りであった。

「イダがお手伝いをしてもよいのですが、こう見えてイダもおのこでございますゆえ、ミツハさまにお叱りを受けてしまいます。さ、早く」
 急かされて、奥の部屋へと向かう。
 袖を通した衣は震えがくるほどの良いものだった。着替えを終えて現れたリツを見て、イダはほうっと息を吐く。
「大変よくお似合いでいらっしゃいます」
「そう……でしょうか?」
 イダはこくりとうなずくと、リツの前に跪き、頭を垂れた。
「ようこそ……ようこそいらしてくださいました」
 真情があふれ出るような丁寧な礼に、リツはあわてて手を振った。
「イダ、顔を挙げてください。私は、そのように礼を取られるものではありません」
 リツの声に、イダは顔を挙げてにかっと笑う。
「イダはリツさまを一度拝見したことがございます。痛ましいお姿ではありましたが、それでもイダには分かっておりました。この方はいずれミツハさまを救ってくださる。穢れなき魂の持ち主であると」
 どういうことか、と問いかけようとするリツの口に、イダはすっと人差し指を立てる。
「ミツハさまがお待ちです。さ、参りましょう」


 リツの先導で、宮の廊下を渡り、元の東屋まで戻る。
 ミツハは石造りの腰掛(こしかけ)に体を横たえ、目を閉じていた。さらりと流れる銀の髪が床に落ち、風に揺られてさらさらと衣擦れのような音を立てている。
 イダに促され、リツはそっとミツハに近寄った。眠っているのであろうか、時折長い睫毛がぴくりと動く。隙のない美しさに、リツはほうっと息を吐いた。

 ――この方が、蛟龍……。

 信じられない。
 蛟龍のことは、巳の国に生まれた者なら誰でも知っている。湖に住まう、巳の国の守り神。巨大な蛇の体を持つあやかしで、いずれは龍になるという。

 まじまじと見てしまったからであろうか、ミツハはぱちりと目を開けた。鋭い赤の瞳に囚われて、リツはびくりと体を震わせる。
「ああ、すみません。驚かせてしまいました」
 気怠げな動きで、ミツハは腰掛から体を起こす。目には先ほどまでの鋭さはない。やわらかな光を湛えて、リツを見つめている。
 衣を変え、髪を結い直したリツを見て、ミツハは花が綻ぶように微笑んだ。
「とてもうつくしい。リツには銀がよく似合います」
 正面から褒められて、リツは顔に熱が上るのを感じていた。
「イダ、暫く外すように。わたしはこのうつくしいつまと話す時間を持ちたいのです」
「承りました!」
 元気よく答えたイダは、くるっと宙返りをすると、空気に溶け込むように消えてしまう。

「さあ、御手を」
 ミツハにすっと手を差し出され、リツは困惑する。まだ夢の中にいるような心持であった。

 神が傍で息づいているとはいえ、その姿を見た者は少ない。リツとて巫の母を持ち、幼き頃から身近な存在であったはずの神である。しかし、その姿や声などを聴いたことは一度もない。

 湖に身を投げたときは、死ぬものだとばかり思っていた。それなのに……。

 なかなか手を取らないリツに、ミツハは首を傾げ、ややあって微笑う。
「緊張されているのですね。無理もない」
「は、あの……申し訳ありません……」
「大丈夫ですよ。あなたを取って食らうわけでなし。ただ、目の前のうつくしいつまを隣に座らせて、語り合いたいだけなのです」

 赤い瞳が柔らかく揺れている。リツはかちこちに固まった体が、少しほぐれたような気がした。
 目の前の美しい人が、蛟龍であるという事実はともかく。この方は、自分を決して怖がらせたりはしないだろう。

 そっと手を取ると、そのままぐいっと引っ張られる。
「も、申し訳ありません!」
 あろうことか神の膝上に乗り上げる形になってしまい、リツは大いに焦った。
「謝る必要などありませんよ。わがつま」
 ミツハは破顔すると、リツの頬にそっと親指を這わせた。冷たい指先の感触に、リツは体を震わせる。
「あ、あの……お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
「あなたさまは……本当に、わが巳の国の守り神……蛟龍であらせられるのですか」
 ミツハは目を瞬かせる。
「おや、信じられないのですか?」
「いえ、そうではありません! そうではなくて……」
 リツはごくりとつばを飲み込んだ。
「もしあなたさまが蛟龍であらせられるのであれば、お聞きしとうございます。……雨は、どうなりましたでしょうか? 私はそのためにあなたさまに捧げられた贄でございます。きちんとお役目を果たせているのか、それが気になっているのです」
 ミツハは赤い目を丸くし、困ったように眉を下げた。

「わたしは、贄など所望しておりません」

「……そんな!」
 その言葉を聞いて、リツは戦慄(おのの)いた。それでは、自分は何のためにこの湖に身を投げたのであろうか。

 震え始めたリツをなだめるように、ミツハはリツの手を取った。
「現世では、そのように伝えられているのでしょう。しかし、わたしはこの方、贄など一度も所望したことはないのです。わたしが望んでいるのは、その歌……」
 目に柔らかな光を浮かべたまま、ミツハはすっとリツの首に指を這わせた。
「巫の心からの祈りと、鎮め歌。リツ、あなたのおかげでわたしは正気を取り戻すことができました」

 ミツハはリツの体に手を回すと、くるりと向きを変えてみせた。背面から抱きこまれる形になり、リツは目を白黒させる。
「あ、あの……!」
「悪しやまいの流行りもあって、死穢(しえ)蔓延(はびこ)るのは仕様のないこと。しかし、弔いもせず水を穢し、流れを(よど)め、我が眷属を死の淵に追いやった。この身を焼くほどの穢れと怨嗟で、わたしは我を忘れてしまっていたのです」

 首筋に氷のような声色を受け、リツはぞっとする。体が硬くなったことに気づいたのであろう、ミツハは口調を和らげた

「そのわたしを鎮めたのはあなただ、リツ。わたしの魂を穢れから救ってくれた。感謝します」

 ――ご安心なされよ。雨は無事に止んでおります。

 囁くように落とされた言の葉に、リツはふっと体の力が抜ける感覚を覚えた。
「よかっ……た……」
 役目を果たせたという安堵と、緊張と、混乱。ぐちゃぐちゃになった頭のまま、リツはふ、と意識を手放した。


 ***


 温かくやわらかなものに包まれている。
 ゆらゆらと微睡みながら、リツは温かな心持であった。
 また、いつもの夢だ。母の腕に抱かれて、とろとろと夢を見ていたころ。
 でも、これは夢まぼろし。

 ――リツ! このうすのろ!

 ヤソの怒鳴り声が聞こえる。

 ――ぬしのその顔がなによりの馳走……。

 ジタの下卑た笑い声が木霊する。

 早く起きなければ。
 一刻も早く、目を覚まして――!



「リツ!」
 その声に驚いてリツは跳び起きた。心の臓が跳ねている。体中から汗が吹き出し、リツは喘ぐ。
「あ……私……」
 リツは頭を振る。
 その顔をのぞきこんでいるのは、ミツハだ。眉を寄せ、心配そうにリツの肩に手をかけている。先程のときよりも砕けた衣で、薄絹一枚という姿である。

 周りを見渡すと、先ほどまでの東屋とは別の部屋である。部屋の中央に敷布(しきふ)が敷かれ、そこに寝かされていたようであった。
 リツの結髪は解かれていたものの、衣は着替えたときのままである。あのまま気を失っていたところをこの部屋まで運ばれた、ということなのであろう。

 既に夜。丸窓から差し込む青い光が、装飾の施された柱や、磨き込まれた床を青く染めている。

「どうしました、顔色が……」
 す、と伸ばされた手に、リツは体を震わせた。

 ――怖い。

 ただの夢だ。ヤソも、ジタも、もう自分を脅かすことはない。そう思っていても、体に染みついた恐怖はそう簡単には消えはしない。
 かたかたと震えだした掌を己が手で押さえながら、リツは唇に辛うじて笑みを浮かべた。
「大丈夫……です。少し、夢を見ただけなので……」
 ミツハは黙ってリツを見つめると、すっと立ち上がり奥の部屋へ消える。
 やがて戻ってきた彼の手には、湯気の立つ酒杯が握られていた。

「飲みなさい」

 差し出された杯をおそるおそる手に取ると、湯気に乗ってかぐわしい香りがする。手が震えて、中の酒が指先にかかった。
「息を吸って、ゆっくり吐いて」
 ミツハはリツの背に手を回すと、ゆっくりと撫でおろす。
「さ、飲んで」
 ぐっと飲み干すと、体の奥が熱くなる。同時に手の震えも、体のこわばりもほんの少し和らいだ。
 それを見届けると、ミツハは微笑み、酒杯を取り上げ小卓へ置く。

「リツ」

 ミツハはやわらかく声を落とすと、そっとリツを抱きしめた。
「あ……あの……!」
 落ち着き始めた心の臓が跳ねる。
「あなたの中に澱んでいるもの、そのすべてわたしに吐き出してください」
 ミツハの涼やかな声が、リツの耳朶をくすぐった。
「その腕の傷」
 片手でリツを抱きしめたまま、ミツハの手がリツの腕を取る。はらりと捲れた衣から見える、縦横に走った鞭の痕にミツハは眉を潜めた。
「腕だけではありませんね。リツ。この傷があなたを苦しめているのですか?」
 その涼やかな声が、あまりにも優しく耳に響くものだから。リツはこみ上げてくる涙を飲みこむことができなかった。
「っつ……う……」

 いけない。涙を止めなくては。そう思えば思うほど、こんこんと湧き上がる泉のように涙が溢れ出る。

「この傷は、どうしたのです」
「……言えません」
 リツは頭を振る。
「リツ……?」
「言えません……私には……」
 泣きじゃくるリツの髪を、ミツハは幼子をあやすような手つきではゆっくりと梳いた。
「リツ。澱は吐き出さなければ、毒となり自分を苦しめもしましょう」
 とうとうと流れる水のように、ミツハは言の葉を口にする。
「この宮は臥龍の宮。わたしは水の神、蛟龍です。水は澱を流すもの。安心なさい。すべての澱をわたしが流して差し上げます」

 ――どうして……?

 リツは嗚咽を漏らす。
「どうして、そんなにお優しいのですか……」
 ミツハは瞳を細める。
「わたしは優しくなどありませんよ」
 そう告げる声も、どこまでも優しい。
「しかし、わたしはあなたを助けたいと思っています。リツ、信じなさい」
 力強くも温かな響きに、リツは滂沱する。言えるのだろうか、自分はこの人に、言ってしまっていいのだろうか。
「私……私は……」
 そう言いかけて、ためらい、再度リツは口を開いた。

「私は、巫の血を引くと……母から言われております」

 先を促すように、ミツハはリツの髪を梳き続ける。
「そのせいでしょうか……私は悪し言の葉を口にすることができないのです」
「悪し、言の葉」
 こくり、とリツは頷く。
「ですから……お許しください。私には何も言えない……言えないのです」
 ミツハは黙ってリツの髪を梳き、ややあって呟いた

「……なるほど。言の葉の(まじな)いにかかっておられるのですね。口にすることが本当のことになってしまう。それがあなたを縛る(かせ)ですか」
 真っ青な顔で言葉を失うリツの髪をひと房取ると、ミツハはそっと口づけを落とす。

「それならば、わたしがリツを言祝(ことほ)いで差し上げましょう」
「言……祝ぐ……?」
 ミツハはリツから体を放し、腕を取り上げると、鞭の痕に口づける。
「これほどまでにひどい傷……それに耐え、言の葉に乗せられなかったのはさぞつらかったでしょうね」

 その時の感情を、リツはどのように表現したらいいか分からなかった。

 この人は、理解してくれた。この人は、自分の痛みを、苦しみを、わかってくれている。
 一度止まりかけた涙が、再びあふれ出す。

「……【辛かった】」
「よく、耐えましたね」
「【痛かった】のです」
「痛まぬよう、呪いをしましょう」
 ミツハは傷口に唇を当て、ふっと息を吹きかけた。すう、と痛みが消えていく。
「よく我慢しましたね、リツ。大丈夫。ここにいる限りは、どんな言の葉でも口にしていいのですよ。すべてわたしが言祝ぎましょう」
「……ミツハさま……!」
 まるで幼子のように。わんわんと泣きながら、リツはミツハの胸に顔をうずめた。

「あんなところしか【居場所がなくて】」
「もう戻らなくてよいのですよ」
「【怖くて】【辛くて】……!」
「それも、もうおしまい」
「【死にたかった】……!!」
「生きていてくださって、ありがとうございます」

 泣きじゃくるリツの顎を捉え上向かせると、ミツハはその額に口づけを落とす。

「これから先、死が二人を分かつまで。あなたのことをずっと言祝ぎ続けましょう」

 やわらかな赤い瞳が、リツの顔を映し出す。
 体を引き裂くような痛みも、黒い痣も浮かばない。代わりに広がるのは温かな光であった。ミツハの落とす言の葉がリツの体を駆け巡り、じんわりと広がっていく。

 それこそ体の中の澱を全て流すように、リツは泣いた。
 もう我慢しなくてもよいのだ。
 どんな言の葉でも口にしてよいのだ。
 そのことが、これほどまでに安心することなのだと、リツは初めて知ったのである。


 ***



 目覚めると、柔らかなものに包まれている。
 それがミツハの腕だと気付き、リツは慌てて体を起こした。
 頭がぼんやりとしている。目も腫れているようで、瞼がほのかに熱を持っているのが分かる。

 ミツハはまだ眠っているようで、瞼を閉じたままぴくりとも動かない。寝乱れた衣から見える男の肌にどぎまぎし、ぱっと目を逸らした。

 ――私……昨日……。

 自らの行いを思い出し、リツは顔を赤らめる。
 人前であんなに泣いたのは初めてだ。ミツハから囁かれた言の葉の数々を思い出し、リツはうう、と頭を抱える。

 表向きは妓女であるが、楼主のお抱えであったがゆえに一度も(とこ)に上がったことがない。むつごとにはとんと疎いリツである。今さらながら、羞恥で身体が燃え上がりそうになる。

 熱くなった体を覚まそうと、リツは敷布を抜け出した。
 早朝。丸窓からは朝特有の涼し気な風が吹き込んでいる。その丸窓に手をかけて、リツは外を眺めた。

 緑が青々と茂る前庭。その庭を取り囲むようにして木々が連なっている。微かに水の音がするので、小川があるのかもしれない。
 改めて、不思議な場所だ。ミツハが「現世」という言葉を使っていたのを思い出す。それではここはリツのいた場所とは違う軸をもつ、「幽世(かくりよ)」であるのだろうか。

 人ではないものが住まうという幽世は、神の領域だ。もしそうであれば、この宮を包む静謐で涼しげな空気にも納得がいく。
 そんなことを考えていたときである。

「ひっ」

 突然背後から抱きしめられて、リツは思わず声を挙げた。
「おはようございます、わがつま」
「ミツハさま!」
 リツの挙動が面白かったのであろう、ミツハはくつくつと笑う。
「よく眠れたようですね、よかった」
「はい、おかげさまで……」
 煩く鳴り始めた心の臓に気づかないふりをして、リツは答える。

「まずゆあみを。それから朝餉にしましょう」
 リツの頬に軽く触れると、ミツハは口笛を吹く。
「イダ、リツを泉へ」
「承りました!」
 リツはぎょっとする。まるで空気の中から染み出るようにイダが現れ、あれよあれよと連れ出される。

 宮の前庭を通り、木々をぬって歩くと、清らかな泉があった。丸窓から聞こえていた水音は、この泉から流れ出る川水の音のようである。
 周囲にはやわらかな草が萌え、岩肌を流るる水音が心地よい。泉は水底が見えるほど透き通っている。

「着替えの衣は、この木の枝にかけておきます」
 てきぱきとイダは枝に衣を引っかける。
「さ、衣を。お手伝いいたします」
 言われて、リツは目を白黒させた。
「……イダ」
「はい!」
「昨日、イダは確か……おのこと」
 いくら幼き御子とはいえ、異性の前で衣をはだけるのは抵抗があった。イダはそんなリツを見て、なるほど、と手を打つ。
「失礼いたしました。イダは、今日はおなごにございます」
「えっ!?」
 リツはまじまじとイダを見る。確かに、昨日よりも線が細くなっている。胸もかすかに膨らんでおり、丸みを帯びた体つきだ。
「イダ……よね? 昨日と同じ」
「はい。イダにございます。イダはまだくちなわになりますがゆえ、おのこにもおなごにもなることができるのです」
 にかっと笑うイダを見て、リツはくらりと眩暈を覚えた。

 男にも女にもなることができる、とは……。しかし、ここが幽世であればそのようなこともあろう。
 無理矢理自分を納得させて、リツは頷いた。

 意を決して衣を脱ぐ。イダは慣れた手つきで衣を受け取ると、同じように木の枝にかけた。
 ひんやりとした朝の空気に抱きすくめられ、リツは体を振るわせる。
 人前で裸になるのは得意ではない。妓楼では、湯は決められた刻に数人で入るのが常である。しかし、リツはその時間が苦手であった。
 妓女たちは、リツを仲間だとは思っていない。背や腕に走った鞭の痕や、醜く痣になるまで抓られ、蹴られた痕をじろじろと見ては、暗い嗤いを零されていたものだ。

 しかし、ここではその心配がない。そのことがリツを安堵させる。
 足先から泉へ入ると、予想に反してやわらかな水当たりだ。滑らかに肌をすべり落ちる水が心地よく、リツはふうと息を吐いた。

御髪(おぐし)を梳かせていただきますね」
 イダが丁寧な手つきでリツの髪を梳く。体の傷のことには一切触れない優しさが、リツは嬉しかった。

「昨晩はよくお休みになられましたか?」
「ええ、おかげさまで」
「ミツハさまは、お優しかったでしょう」
「……ええ」
 思い出して、リツはまた少し体に熱が上る。その様子を見て、イダは嬉しそうに微笑んだ。
「ミツハさまのつまが、あなたのような方でよかった。昨晩はミツハさまもお苦しみになることはなく、落ち着かれておりました。鎮め歌が良く効いたのでありましょう」
 イダの言葉に引っ掛かりを覚えて、リツは首を傾げる。

「苦しむ……?」

 リツの言葉に、イダははっと口を押える。
「失言でした。お気になさらないでください」
 そう言われると、気になるというもの。
「イダ……?」
「いいえ、イダは何も言えません。ミツハさまに叱られてしまいますゆえ」
 ということは、やはり何かがあるのだ。

 リツは昨晩、ミツハにいただいた言の葉の数々を思い出す。
 リツの呪いを言祝いでくれたときの、やわらかな口調。触れる指先の冷たさや、髪を梳く優しい手。
 そのことが、どれだけ自分を救ってくれただろう。
「イダ、ミツハさまは何に苦しんでいらっしゃるの?」
「言えません」
「イダ……」
 イダは髪を梳く手を止め、眉をへの字に下げた。
「イダは……ミツハさまをお救いしたいのです。でも、それと同時にミツハさまに仕える身でもあります。お言いつけを破ることはできません」
「イダ、お願い」
 リツは食い下がった。

 ――苦しんでいらっしゃる。あのうつくしい方が……。

 その苦しみを、取り除いて差し上げたい。自分にできることなら何でもして差し上げたい。リツの中に、このような感情が湧き上がるなど初めてのことである。

 ――なぜだか、わからないけれど。

「私も……イダと同じ気持ちなの。教えて頂戴、イダ」
 イダは口を噤んだ。そのまま黙って髪を梳き終わると、手巾で髪の水気を拭い、高い位置に結い上げる。
「リツさま、そろそろ」
 手を差し伸べられて、リツは嘆息した。どうやら教えてはもらえないようだ。
泉から体を引き上げ、水気を拭い、新しい衣を纏う。昨日の衣よりもやや簡素ではあるが、それでもやはり上質な絹。流れ落ちる水のような、涼やかな青い衣である。

 イダの先導で、元の道を戻る。その途中で、ぴたり、とイダが足を止めた。
 そのまま泣き出しそうな顔でリツを見上げると、イダはぐいっとリツの手を引っ張る。
「イダ!? どうしたの?」
「イダは、今から悪いことをします。お言いつけを破らせていただこうと思います」
 ぐいぐいと手を引かれ、リツは木々の奥へと連れ込まれた。しばらく歩くと、高い崖が見えてくる。その下にぽっかりと開いた洞窟があった。
 奥は見えない。どのくらい深いのかもわからない洞窟に、リツはごくりと唾を飲みこむ。
 イダはぎゅっと手に力を入れると、リツを洞窟の中へといざなう。


 予想に反して、洞窟の中は静謐な空気で満たされていた。垂れ下がった岩々からはほたほたと雫が落ち、水音が心地よく木霊する。
「リツさま、着きました」
 一番奥は、開けた広場のようになっていた。その中央に、泉がこんこんと湧き出している。
 リツは深く息を吸った。洞窟の奥だというのに、空気が整っている。清められた場所であることが分かり、思わず頭を垂れ、手を組み拝する。
「リツさま、泉の前へ」
 イダに誘われ、泉の前へと歩を進めた。改めて見ても美しい泉だ。
「この泉は、現世と繋がっているのです」
「現世と!?」
「ええ。その泉を覗きこんでみてください。……それが、ミツハさまのお苦しみの元でございます」
 イダは眉を下げ、不安げにリツを見上げた。

「リツさま……。本当にミツハさまをお救いになってくださいますか。何を見ても、本当に?」
 まるで捨てられるのを恐れている幼子のような表情だ、とリツは思った。リツは屈むと、イダのまだ幼い頬に手を添える。

「イダ。私はミツハさまに救われました。今度は私が……ミツハさまを【お救いしたい】」

 その言葉に反応するかのように、泉が光り輝いた。リツは目を細め、泉をのぞきこんだ。