鵺の花贄


 深い、深い海のなかに沈んでいく感覚がする。
 口を開けて言葉を発そうとしても、水に飲み込まれて発音することがかなわない。

 黒々とした海の中、一つの光景が浮かび上がる。

「……あれ、は」

 見えたのは、香夜が生まれ育った桜の屋敷だった。
 屋敷の中、影の間で幼い香夜が眠っている。もしかして自分自身の過去を、見せられているのだろうか。
 次の瞬間、幼い香夜の枕元に立っていた人物を見つけ、思わず手を伸ばす。

「お父様……!」

 いつかの父が、そこに立っていた。
 父は誰かに向かって刀を向けている。その相手が誰か分かった瞬間、香夜は息をのんだ。
 有栖だ。有栖が、父の前に立っているのだ。

 有栖は父が向けた刀をいとも簡単に曲げ、そのまま胸を一突きした。
 声にならない悲鳴が、香夜の喉から出た。
 
「いや、いや、お父様……!」

 すると、父の胸を突き、何かを飲み込んだ様子の有栖の姿がみるみるうちに萎んでいく。
 それはおよそ信じがたい光景だった。有栖が、父の身体の中へ‟移った”のだ。
 父の身体へ移り、‟父そのもの”になった有栖が、眠った幼い香夜へ手を伸ばそうとした――その時だった。

 まばゆい鱗粉を放った蝶が夜闇に舞い、魔力の渦が有栖の手を弾いた。

「……え」

 思わず、その光景を見ていた香夜から声が漏れる。
 有栖の手を弾いたのは、紛れもなく、識だった。
 識は父の姿になった有栖と対峙し、少し躊躇したのち、手をスッと横へ引いた。

 すると、父にまとわりついていた黒い瘴気が消える。
 力が抜けたようにその場に倒れる父を、識が支えた。
 声も、音も聞こえない。これは、確かに過去の光景なのだろう。
 それでも、識の方を向いた父の口が、最後に動いた。――ありがとう、と。

「あ、あ……」

 感覚はない。それでも、頬を涙が伝っていくのを感じた。
 識が、父を殺したというのは嘘だった。
 識は、黒い闇に飲まれてしまいそうになった父と、幼い香夜を救ってくれたのだ。

 すると、目の前に広がっていた冷たく無機質な場面が、あたたかな陽だまりの中にいるようなビジョンへと変わる。
 淡い色彩で彩られたその光景は、泣き出してしまいそうなほどの懐かしさで満ちていた。うららかな春の日差しの下、舞い落ちる薄紅に目を細めながら紡ぐのはやさしい子守歌。

 歌っているのは、自分ではない。それなのに、香夜の口は自然とその旋律を口遊(くちずさ)み始めていた。
 晴天の空にあるのは真っ赤な満月ではなく、大地をほのかに焦がす太陽で、‟見せられている”この場所が常夜ではないことが分かる。

 目の前で上下する手は、自身の膝の上で眠る誰かの髪を愛おしそうに撫ぜていた。
 柔らかく艶やかな黒い髪に、長い睫毛。ふる、と揺れ、薄く開いた瞳がこちらを捉える。
 ひどく整った端正な顔に開いた双眼は、吸い込まれてしまいそうな深い赤。

 これはおそらく有栖が香夜に見せている幻で、現実に起きていることではない。
 頭のなかではそう理解しているにも関わらず、香夜の心が付いて来てくれなかった。

「――――、識」

 そう呼ぶと、今よりも幾分か幼い顔立ちをした美しい顔がほころび、花のように微笑む。
 香夜から出た声は情けなく震えていた。識だ。自分の膝の上で、こちらを愛おしそうに見やり笑みを浮かべているのは、紛れもなくあの黒き妖だ。
 しかし、識が見つめている視線の先にいるのは香夜ではない。

「呉羽」

 識の薄い唇がその名を呼ぶ。
 前に彼の口から聞いた時よりも甘く青い焦がれに染まった声色は、香夜の胸を腐食するかのように響いた。

 これは、香夜のなかに在る彼女の記憶が覚えている過去なのだろうか。
 甘く柔らかな春の昼下がりは時折ノイズが入ったようにかすみ、景色全体の輪郭がザラザラとした質感になってぼやける。
 まるで古い本の挿絵のなかに入り込んだかのように現実味のない光景に、香夜は眉をしかめた。

 こちらを真っ直ぐに見据えた識の赤い瞳は、甘く穏やかに濡れていた。
 花吹雪のなか、あたたかな鼓動を感じながら、香夜の手は幼い識をあやすようにその髪を梳いている。

 ここ最近、夜毎に見ていた夢は、このまばゆい春の日のことを見ていたのではないだろうかと心のどこかで思う。
 それならば、不純物はむしろ自分の方ではないだろうか。
 このまま幻影に身を任せてしまえば、いっそのこと、この生暖かい白昼夢のなかに溶け込んでいけはしないだろうか。

「識、……識」

 何度も名前を呼ぶ香夜を、キョトンとした顔で見返す識。
 名を呼び重ねるごとに、心のなかで疼く感情が漏れ出してくるのが分かった。きっと、今の自分はひどい表情をしているに違いない。
 止まれ、止まれと願っているのに、香夜の口は自分の意志とは関係なく動き続ける。
 
「…………識」

 目を閉じ、最後に絞り出すようにして出した香夜の声は掠れていた。
 識の名前を声に出して呼んだ夜、ひらひらと舞い落ちる薄紅の花びらをその身に散らしながら、識は香夜の血を飲み込んだ。
 心にうずく痛みが、嫌でも教えてくれる。この射るような深紅の瞳に、自分はとっくに魅入られていたのだということに。
 ――こんなの、悪夢以外の何物でもないではないか。

 できることならば、ずっと目を反らしたままでいたかった。
 しかし、一度自覚してしまった自分の感情は(せき)を切ったように溢れ出してくる。
 識に惹かれているのだ。識の本性を知り、過去を知り、あっけなく心を奪われてしまったのだと。
 胸を締め付けるこの感情は、自分の中に眠る呉羽の記憶に起因するものなのかもしれない。それでも、心は張り裂けんばかりに叫んでいる。

「……ごめんなさい」

 ―――今まで、何も知らずに、ごめんなさい。
 呉羽の名を呼んで、愛おしそうに微笑む幼い識を見たくないとでも言うように視界がぼやけていく。
 心が二つにかい離していくようだった。まばゆい太陽の光が、醜い心の内側を曝け出し、可視化させる。

 香夜がいるこの場所は、どうやら大きな桜の大樹の真下であるらしかった。
 舞い散る桜が薄紅色の絨毯を作り、肩に落ちた花びらを小鳥がついばみ去っていく。
 
 再び香夜の膝へ寝ころんだ識がごろりと寝返りを打ち、柔い髪が素肌をくすぐる。

 ここは人間の世界なのだろうか。随分と久しぶりに浴びた気がする日の光は目を閉じてしまいたくなるほどにまばゆい。
 下から見上げる識の視線は穏やかに凪ぎ、そむくことなくこちらに向けられていた。
 
 心の奥底で‟私を見て欲しい”と願う香夜自身が、苦しいともがいている。
 目の前で繰り広げられているその光景は、似ているようで違う、自分ではない誰かの視点から見る景色。
 瞼の裏で見ている夢の中に沈めば沈むほど、自分が死んでいくのが分かる。
 
 人の想いや願望というのは強大だ。
 その証拠に死の間際になると、人は自身の脳が作り出したかくも幸せな夢を見るという。
 死という底知れない恐怖を抱えきれなくなり、自分にとって最も都合のいい世界を作り出すのである。

 呼吸を諦めたかのように、こぽ、と力なく吐いた息が、水泡のごとく春の空気に消えていく。
 それはどこまでも優しく、香夜を包み込む死の間際の夢のようだった。

「…………っ、た」

 ふいに左腕が熱を持ち、じんわりと痛む。
 こちらに戻ってこいとでも言うかのように強くなっていく痛みに、香夜は唇をぎゅっと噛み締めた。
 左腕の中腹、香夜が識を、琳魚を救うために、父の懐刀で傷をつけた場所だ。

「……お父様」

 腕の傷からにじみ出たのは血ではなく、冷たく黒い霧の渦。
 懐かしい風が吹くあたたかな春景色のなかに溺れるのは、甘い安心感に満ちていた。
 しかし、過去の亡霊に負けて、夢に溺れるなど断固としてあってはならないと、父がそう言っているようでもあった。

 むせ返るほどに強い華の香りが、脳裏を撫ぜた。
 夢が覚めるのだろう、まばゆい世界がぼやけていく。香夜はゆらぎ消えゆく春景色に手を伸ばし、震える指先で眠る識の輪郭をなぞった。かぐわしい華の香りは強くなっていき、肌を包んでいた温もりは冷たく無機質なものへと変わる。

 目を開けると、香夜は何かあたたかく大きなものに抱えられていることに気が付く。そこはもはや夢のなかではなく、薄暗い荒れた城下町へと戻っていた。
 パチパチと弾けるやぐらの炎は、勢いを増している。その煙に紛れて、強い華の芳香が、香夜の全身を包み込んでいた。

「…………え?」

 上を見上げ、固まること数秒間。思わず、気の抜けた声が香夜の口から零れた。
 黒々と淀んだ瘴気が濁流となり満ちる城下町の中央で、赤い月明りがその美しい顔を照らし出す。

「――随分と色気のない面をしているな。喰う気も失せる」

 そう言って、身震いするほどのおぞましさを孕んだ見目麗しい妖は薄く笑う。
 黒く艶のある髪が夜風に揺れ、切れ長の瞳を見え隠れさせる。
 死を司る神がこの世にいたとするならば、このように絶望すら感じる美しさを持っているのではないだろうかと、頭の片隅で思った。

「……本物?」

 放心したまま香夜がそう問うと、黒き妖は訝し気に眉をひそめた。
 その表情を見て、夢が覚めたという仮説が確信へと変わる。
 しかし状況が全く理解できない香夜は身体をこわばらせたまま、間近に迫る端正な顔を見つめることしかできない。
 
 香夜はいつの間にか、美しい妖に――識に、抱えられていた。
 それも夢のなかで見た識ではない。ここで香夜を抱いているのは正真正銘、現実の識だ。

「あぁ、もう少しで心を殺せたはずなのですが、残念ですねぇ。フフフ、しかし、最後は夢の世界から自力で戻ってきましたねぇ? それにしても、まさか、まさかあなたまで来るとは思いませんでしたよぉ、識さまぁ!」

 不快な声色が聞こえ、識の視線がゆるりと右へと逸れる。
 そこには、髪を乱した有栖が立っていた。よく見ると、背広が所々パックリと切られているのが分かる。
 その瞬間、燃え盛る炎をも巻き込んだ暴風が地面に吹き付け、凄まじい衝撃が辺り数メートルにわたって伝導した。

「……急に現れて、いいとこだけ横取りっていうのはちゃうやろ、そんでちゃっかり香夜ちゃん抱き上げちゃったりして? 僕が何回呼んでも起きんかったんに、スッと起きてはるし? ……おい、クソ狐ぇ。僕は虫の居所が悪いんや、しっかり相手してもらうで? 死ぬまでなぁ!!」

 そう叫んで、弾丸のように有栖にかかっていったのは凪だった。
 凪がまとう風から伝わる魔力の機微は怒り一色で、何かに強く苛立っているようにも見えた。
 凪は細かく舞う鮮血のなかで朗らかに笑いながら、有栖が放つ光の弾丸を全て一本の刀で防いでいく。
 
 ずっと薄っすらと弧を描いていた有栖の口元が歪む。その表情に浮かぶのは、わずかな焦燥だった。

「先程も言いましたよねぇ、邪魔はしないでくださいと。わたしは今、凪さまや伊織さまに構っている暇はないのですよぉ。あぁ、でも、そこにいらっしゃる常夜頭を殺してしまえば全て終わる話ですねぇ?」
「アホか、僕がまだここでピンピンしとるんや。手出しさせるわけないやろ。識に関しては三回くらいその弾当たればいいけどな! 伊織とにゃんこは仲良くぐーすかお寝んねしてもうたし!」

 額に血管を浮き立たせてそう言う凪の言葉に下を見ると、伊織とセンリが倒れているのが見えた。
 「ひやしあめ……」とつぶやいたセンリの鼻からは、鼻ちょうちんが二つも出ている。

 地獄を体現したような有栖の力と、魔力で押し切る凪の技がぶつかり合い、空気までが震えていた。
 有栖の後ろにそびえる黒い九本の尾が自由自在に動き、飛翔しながらかわす凪を追って地面をえぐる。それに加え、拳銃の追撃も止むことがない。しかし凪は作為的に射撃される弾丸や尻尾での攻撃を全て体術のみで避けきっていた。目にも見えない速さで刀を振るう凪は、今までで一番好戦的で楽しげにも見える。反対に、有栖は凪の勢いに押されて余裕を失ってきているようだ。

 目の前でそんな交戦が繰り広げられていてもなお、香夜の意識はある一点に注がれたまま離すことができない。
 トクリ、トクリと伝わってくる鼓動のあたたかさは、識の胸に抱かれていることを再認識させた。その熱い体温だけが、未だ現実と夢の間で浮足立つ香夜を(うつつ)に繋ぎとめる楔のようだった。

 識の腕が動き、ぶらりと下がった香夜の腕に触れる。

「何故、血を流している」
「……え?」
「自ら傷をつけてまで、何故妖の命を救ったのだと聞いている」

 妖の命を救った、とは琳魚のことだろうか。
 香夜を真っ直ぐに見た識の表情には、冷たい感情も、嬲るような悪意も備わっていない。そこにあるのはただ純粋な疑問だけだった。黙ったままこちらを見つめ続ける識に答えを促されているのだと思い、香夜は口を開いた。

「……理由なんてない」
「理由がない? あの妖とは見知った仲だったのか」
「ううん、琳魚さんは……さっき初めて会って、話したこともない。でも、私に彼女を助ける力が備わっているのなら、役に立てるかもしれないのなら、助けない理由なんてないでしょう?」
「……理解できない」

 有栖の攻撃から琳魚をかばった時も、自分の肌を傷つけた時も、理由など考えてはいなかった。むしろ、勝手に身体が動いていたという方が正しい。
 怪訝な表情をして、こちらを見つめ続ける識に、香夜は手を伸ばす。

「理解できないのは私の方だわ」
「何が言いたい」
「有栖の幻術で、過去を見せられたの。……お父様のことも。どうして自分が殺したなんて嘘をついたの?」

 香夜がそう言うと、識はわずかに顔色を変えた。

「……俺が命を奪ったようなものだ」
「有栖が、お父様の胸を突いたのを見たわ。……その後に、身体を奪うのも」
「……ああ、すでに、意志疎通はできない状態だった。……それでも、あの時はまだ息をしていた」
「そう……でも、お父様はあなたにありがとうって言ってた。……お父様の命を奪ったのは、あなたではない」

 香夜がそう言うと、識の目が見開かれる。
 たとえどんな結末だったとしても、父の表情を、最期を見ることができた。
 すると、腕から移動した識の指先がそのままそっと香夜の頬を撫ぜ上げる。
 爪の先端で皮膚の浅いところをさすられ、ピクリと身体が反応した。

「……お前が俺を恨んでいるのなら、それでいいと思ったんだが」

 識がそう言って、香夜の左腕をつかみ上げる。
 そして傷が残った腕の中腹へと口を近づけると、目を閉じ、そのままそっと口づけた。
 優しく、治癒させるように流れ出た血を啜られる。
 甘い快感を伴なった痛みが襲うが、洗練された一連の動作に目を奪われ、動くことも、口を挟むこともかなわない。

「……とにかく、この血は、俺のものだ。俺の許可なく流すことは許さない」

 そう言った識は、わざと嬲るようにして香夜の傷を舐め上げた。
 識の姿は、毒を持った花のごとく妖しく麗しい。

 どうしてこの妖はこんなにも赤い月夜が似合うのだろうか。
 こうしている間にも城下町が壊されつつあるのに、識は気にする素振りすら見せず、ただ静かに獣のような目で香夜を見る。
 瞳の奥、揺らいで見えた独占欲に香夜は、かすかに困惑した。

 するとその瞬間、視界の隅で直線を描いた光線が横切った。識の腕に力が入り、パッと香夜の目の前へと手をかざす。
 息をのむ間もなく、鈍い衝撃が身体へと伝わった。
 香夜の前にかざされた識の手のひらから硝煙が上がる。

「……っ!」

 こちらに向かって流れた弾丸から識がかばってくれたのだと気づき、その顔を見上げてぞくりとした。
 血によって濡れた形の良い唇が弧を描き、深紅の瞳が鮮やかに色を持つ。
 ――この妖に、勝てる者などいないのではないだろうか。
 そう思ってしまうほどに、場を震撼(しんかん)させる魔力量だった。
 わずかに感じとることができた感情は、見つめる先にいる者への静かな怒りのみ。
 識が見つめる先には、凪と交戦する有栖の姿があった。

「識さまぁ、徒花(・・)の調子はいかがですかぁ? もうそろそろ満開になる頃でしょう?」

 目を見開いて叫ぶ有栖の言葉を、識は表情を動かすことなく聞いていた。
 そしてフッと鼻で笑い、燃え盛るやぐらへと視線を動かした識はそのままゆっくりと口を開く。

「また、随分と好き勝手にやっているようだな、有栖。貴様、常夜頭にでもなるつもりか」
「いいえ? まさか、まさかまさか、わたし何ぞがそのような大それたこと思うはずもありません! それにわたし、こう見えて一途なもので、望みは前から何ら変わっていませんよぉ」

 有栖がそう言うと、冷ややかな笑みを湛えたままの識の表情がわずかに動いた。

「饒舌だな。そんなに、一千年前の屍を蘇らせたいのか」

 識が、言の葉を水面に落とすようにしてそう言った。
 立て続けに放たれていた有栖の攻撃がピタリと止まり、薄く笑ったままの識を見て顔を歪めた。

「……一千年前の、屍?」

 香夜がそうつぶやくと、目を細めてこちらを見やる有栖。その瞳は石油色に濁っていた。

「フフフ、わたしにとっては香夜さまも、呉羽さまも、ただの器にすぎません。わたしが求めているのはただ一人の愛しい人のみなのです。フフフフ、しかし、この望みを実現させるには、邪魔なものが多すぎるんですよぉ。識さま、あなたもですよ?」

 眉を下げ、嬉しそうに屈託なく笑った有栖の白い歯が月明りに照る。
 有栖がつけた耳の十字架が揺らぎ、識の芳香に混じって血なまぐさい腐敗臭が届いた。リン、と澄んだ鈴の音が鳴り、倒れていた有象無象の妖たちがゆっくりと立ち上がる。

「……ほんと、頭にくるわ。悦に浸って喋るのも大概にせえよ化け狐ぇ!」

 そう言って刀を振りかざす凪が巻き起こしたつむじ風が、倒れたセンリや伊織に群がろうとする妖の刃を防いだ。
 強い突風にその身をあおられた妖たちが、次々とうめき声をあげて倒れていく。

「お前が裏切者なんはこの際もうええわ。最初から胡散臭い野郎やったからなぁ。でも、一つ確認しておきたいことがある。徒花の呪いとお前らの書にあった呪詛が同じ気をまとっとったんや。徒花と空亡の呪いは関連しとるんとちゃうか? なぁ、有栖」
「呪詛? ……あぁ。それはそうでしょうとも。しかし、みなさま、事の本質が見えていないようですねぇ」

 そう言ってうやうやしく天に向かい両手を掲げて見せる有栖を、刀を構えたまま訝し気に見る凪。
 有栖は空に浮かんだ赤い月を恍惚とした表情を浮かべて見上げると、神に祈りを捧げる時のように目を閉じて胸に手を当てた。

「フフ、フフフフ、関連しているどころか、空亡の呪詛と徒花の呪いは同じものです。すべて、すべて、このわたし、土御門有栖(つちみかどありす)が力を得るためだけにあるものなのですよぉ」
「……つち……みかど」

 土御門有栖。偶然にしては聞き覚えがありすぎる名前を今一度繰り返し、思い至った恐ろしい可能性に香夜は戦慄した。

 土御門家とは、"人間界"の、日本の朝廷に仕えている華族の名である。
 家学は陰陽道(・・・)。かの有名な安倍晴明を祖とした嫡流の公家だ。かつて、陰陽道は土御門家が全て司っていたと言っても過言ではないくらいに唯一の陰陽宗家として力をふるっていたと聞く。
 そして――、土御門とは桜の屋敷に仕えていた陰陽師の姓でもある。

 固まった香夜の方を見て、にやりと笑う有栖。
 その目の奥には、何も映していないようにも見える。ただ純然たる悪であることだけが理解できる魔力の気が、黒くうごめいて九つの尾にまとわりついていた。

「……ハッ、そうだ。こいつの正体は、九尾の狐でもなんでもない」
「なんやて……?」

 喉の奥で低い笑い声を鳴らした識の言葉に、凪が反応する。

「こいつの正体は、人間だ」

 識がそう言った瞬間、一瞬時間がとまったかのように辺りが静まり返った。
 やはり、そうだったのかと香夜は息をのむ。
 
「人間が膨大な魔力と呪詛を飲み込み、姿を変えているだけの張りぼてにすぎない」
「うそ、やろ……」

 フフ、と上擦った声を上げて目を細めた有栖は識の言葉に反応することも異議を唱えることもなく、自身の顔に手をかぶせ面を取るような仕草をして見せた。
 有栖の手が動くにつれて、凪がつけた細かい傷や服の裂け目までもが綺麗に治っていく。
 もしかすると、手傷を負いながら追い詰められているように見えたのは全てこの男の演技だったのだろうか。

「……鎮魂歌も、長すぎては神に見限られてしまいますねぇ」

 歪み切った顔で笑う有栖がそう言った時には、その身体についていた傷は全て何事もなかったかのように消えていた。
 間近で鳴る識の鼓動が熱くせり立っていくのがわかる。華の良い香りが漂ってくるが、汗一つかいていない識の表情は涼やかに有栖を見据えていた。

「器をこの手に得ることはできませんでしたが、急いては事をし損ずるとも言いますし。しかし楽しかったですよぉ、なにせ常夜へ足を踏み入れたのは久方ぶりですから」
「っ、待て……! 有栖!!」

 凪がそう言って刀を振るが、その切っ先は有栖に届くことなく宙を斬った。
 こちらをあざけるようにしてロザリオを手にした有栖の後ろに空間の淀みができ、やがて大きな紫紺の穴となった。
 あれには見覚えがある。口無しの間で常夜への扉が開かれた時に見た渦と同じ、空間のねじれだ。

 紫紺の淀みへ半身をうずめた有栖が、ゆっくりとした動作で香夜の方へ振り向き、愛おしそうに手を伸ばす。

「愛しいお方……この有栖、必ずやあなた様を救済してみせますゆえ、待っていてくださいねぇ」
 
 城下町の炎を飲み込みながら空間から消えゆこうとする九尾の妖を、呆然として見る。そんな香夜を、識が一瞬伏せた目で見降ろした。
 静かに赤く燃える瞳が香夜を射る。

「あいにく、渡すつもりはない。貴様の首を取るのも、俺の為に咲いた花を喰らうのもこの俺だ」

 識はそう言って、腕に抱いた香夜の首筋に強く口づけ、冷ややかな眼差しのまま有栖をねめつけた。
 まるで、これは俺のものだと主張するかのように。

「……っ!」

 頬がカッと熱を帯び、香夜は無意識のうちに識の大きな身体を押し返していた。
 しかし、そんな抵抗もむなしくむしろ強まる口づけの圧。

「……それはそれは、愉しみですねぇ」

 最後に見えた有栖の表情は、今までの恍惚とした笑みとは違う、どこか冷えた怒りすら感じるものだった。
 黒い尾が揺れ、影となり紫紺の淀みに混じって消えていく。場を満たしていた死臭もまた、薄まっていくのを感じる。
 香夜はとめどなく与えられる識の熱から逃れることができず、涙を浮かべて身をよじらせることしかできなかった。