そう言って凪が笑う。
 センリを抱いた香夜を凪が抱えるという三段構造のような形になった。
 センリの肌触りの良いお腹が香夜の顔に当たり、おひさまの匂いがする。

「へへ、何とか間に合ったぜ。香夜、オイラのこと落っことさないでくれよ!」
「う、うん気を付ける……! センリ、私の身体に手を回せる?」
「姫さん、センリ、しっかり口閉じとくんやで。舌噛むさかい……っな!」

 凪がそう言った瞬間、巻き上がった風の渦と共に勢いよく加速し、刹那、一メートルほど宙に浮いた。
 かと思えば一気に浮き上がり、みるみるうちに地面が、屋敷が小さくなっていく。

「―――っ!!」

 星屑のような水の粒と、薄い雲が香夜の頬をかすめる。
 常夜に浮かんだ赤く大きな満月に向かって上昇していく凪にしがみつき、香夜は恐る恐る目を開けた。
 眼前に広がっていた光景を見て息をのんだ瞬間、少年のような瞳をした凪と目が合う。

 雨が上がり、沢山の水気を含んだ夜の闇の中、色とりどりの灯りがきらきらと点在していた。
 あれは前に牛車で通った城下町だろうか、橙色に輝き、賑わっているのが分かる。

 町の横では薄紫に輝く大きな川が流れ、時々小さな魚が跳ねるのか、水の流れに逆らって光が反射している。

 溢れる自然と、賑わい覚めることのない城下町。
 禍々しい魔力が満ちてはいるものの、こうして眺めていると光が差し込む海の底をみているようだ。

 常夜の景色は、こんなにも美しかったのか。

「ひゃっほーぅ!! すっげえや凪さま! オイラ空飛んでるぜ!!」

 センリの朗らかな声が耳に届く。
 厚みを持った風を蹴るようにして進む凪の髪が、空気と交じり合って絹のように揺らいでいる。

 香夜は昔、父に読んでもらった物語の主人公もこんな風に空を飛んでいたことを思い出した。
 外へ出ることが許されなかった幼いころ。何にも縛られることなく、自由に空を飛ぶ絵本の中の主人公は美しく強かで、いつか自分もそのように強い存在になりたいと願っていた。

 ――私、いま空を飛んでるんだ。

 細かい呼吸が肺を刺し、脈拍が上がる。
 物語の世界のようにきらびやかな景色の一部になった気がして、ドキドキした。

 凪はそんな香夜の様子を見て、優しく笑って口を開いた。

「……てっきり、怖いとか言ってしがみついてくるかと思ったけど、そんなキラキラした目されるとは拍子抜けや」
「……だって、」

 怖いとか、高いとか、考える余地もないほどに心を奪われる光景だったのだ。
 空は淡い墨色で、月明りが空気の中に混じる小さな屑をも赤く染めあげている。

「鵺のお屋敷、こうして見ると本当に大きいのね」

 牛車でたどり着いた時には気が付かなかったが、鵺の屋敷は小高い山々に囲まれた奥地に建っていた。
 見晴らしの良い山肌に作られた屋敷は、せり立った屋根と高い石垣も相まって、まるで大きな要塞のようだ。

「そりゃ、天下の常夜頭が住む屋敷やからなぁ」
「鵺の屋敷には、凪やセンリ以外の妖もいるんだよね?」
「うん? あぁ、屋敷におるんは最低限の使用人と、僕が使役しとるセンリみたいな中級の妖だけやで」

 雲の合間をすり抜けながら飛ぶ凪がそう言う。
 屋敷に来てから、凪やセンリ以外の妖と遭遇していないことが気がかりではあった。
 鵺や烏天狗などの妖はもっとたくさんの群れをなしているのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。

「識は徒花の呪いが発現してから、他人を遠ざけるようになってなぁ。大勢おった使用人をほとんど解雇してもうたんよ。識の前におった鵺の当主……ああ、識の父親な。それももうこの世にはおらん」
「そう……なんだ」

 現世と言われる人間界とも、あの世と言われる死後の世界とも違う時間が流れる常夜。
 もし、永久に明けることのない夜の帳で命を落としてしまったら、その魂はどこへいくのだろうか。
 ずっと、関わり合うことのない別の世界の話だと思っていた常夜での生活。
 しかし、こうして共に時間を過ごして少しでもその心に触れてしまうと、妖も人も同じ感情を抱き生きていることに気が付く。

 美しい夜の世界にも、同じように‟死”は存在するのだということに、凪の言葉を聞いて再認識した。

「……よし、降りるで。ちゃんと僕に掴まっといてな」

 凪がそう言うと共に、香夜の身体を柔らかく包んでいた風が形を変え、光をまとった羽衣のようになった。
 翼のような風の衣が空気の抵抗を受け、ふんわりと膨らむ。

 そのままゆっくりと降下した先は、がやがやと賑わう城下町の一角だった。
 お囃子の音と、鈴の音がどこからともなく聞こえてくる。

 路地には所せましと出店が並んでおり、その奥には赤い格子がはめられた家屋がずらりと建っていた。

 牛車で通った時よりも、色濃く感じる街の空気。
 大通りには数えきれないほどたくさんの妖が闊歩(かっぽ)しているのが見える。

 凪はゆっくりと香夜を地面へ降ろすと、上から手をかざした。
 軽い毛布を被ったようなあたたかさが香夜の身体を包む。

「これは……?」
「一瞬だけ姫さんの姿見えんくなるようにしたさかい、絶対僕から離れんといて」

 凪はそう言って、香夜の身体を自分のほうへと引き寄せた。
 肩を組まれ、ぴたりと密着した脇から凪の体温が伝わってくる。
 センリはいつの間にか香夜の腕を離れており、少し離れたところで大通りを眺めていた。

「このまま歩ける?」
「あ、うん大丈夫……!」

 鼓動さえ聞こえてきそうな凪との距離に動揺し、声が裏返ってしまった。
 この妖は、他人との距離感というものがズレている気がする。
 すると、全てを見透かしたように凪がクス、と笑った。

「そんなガッチガチにならんくても大丈夫や。姫さんがでっかいくしゃみでもせん限りバレることはないわ」
「えっ、くしゃみしたらバレるの?」
「んー? 試してみてもええよ?」

 もし素性がバレて、ここにいる大勢の妖から狙われることにでもなったら一大事だと香夜は戦慄する。
 何とかして乗り切るしかない。そう決意し、何故かニヤつきながらこちらを見てくる凪の服を強くつかんだ。

「おーい、凪さま!! こっちにひやしあめの出店があるぞ!!」
「……あのにゃんこ、絶対目的忘れとるやろ……」

 気が付くと繁華街のほうへ進んでいたセンリの手には、たくさんの得体のしれない食べ物があった。
 よく見ると、二つに分かれたしっぽにまで飴の棒が握られている。
 もしかして、あの全てを食べつくすつもりなのだろうか。

「センリはもう好きにさせとこ、僕らも進もか。目的地はすぐそこや」
「土蜘蛛って、ここに住んでるの?」
「住んどるっていうか、住み着いとるっていうか……まぁ、見たらわかるわきっと」

 土蜘蛛、という言葉から、蜘蛛が大きくなった世にも恐ろしい妖怪を想像してしまう。
 もしそんなものが出てきたらどうしようと不安になる香夜だったが、ここまで来て引き返すことなどできない。
 香夜の歩幅に合わせてくれているのか、凪の脇に隠れるようにして進むことは意外と苦痛ではなかった。

「――あらぁ? どこのお偉いさんかと思えば、そこにおわすのは烏天狗の凪さまでありんすか?」

 突然、後ろからかけられた艶がかった廓《くるわ》言葉に、凪の足が止まる。
 驚いた香夜が振り返ると、そこには何重にも重なった艶やかな着物を身にまとった見目の良い女が立っていた。

「……げ」
「ふふ、やっぱりそうでありんす。凪さまぁ、今日はわっちの(くるわ)に来てはくれんのかえ?」

 嫌そうな顔を隠そうともしない凪と、子猫のようにすり寄って甘い猫撫で声を出す女を交互に見つめる。
 どうやら、香夜の姿は見えていないようだ。

「今日は野暮用で、別のところに行かんとあかんのよ。琳魚(りんぎょ)と遊びたいのは山々なんやけどなぁ」
「へぇ~? そんなこと言って凪さま、常夜頭さまのお屋敷に出入りするようになってからちっともわっちに会いに来てくれんくなりんした。それがもう、寂しゅうて寂しゅうて……」

 女の軽く結われた髪からわずかに見えるのは、耳ではなく、美しくきらめく魚の‟ヒレ”。
 よく見ると、袖口からのぞく手のひらにも水かきのようなものが付いているのが分かる。

 青い瞳と、身体を彩る輝かしい装飾は熱帯魚を彷彿とさせた。
 おしろいが塗られた肌によく映える、真っ赤な唇が凪の耳元に近づき、妖艶に動く。

「ねぇ? だからお願いしんす。じゃないとわっち、寂しゅうて死んでまう」
「……琳魚、いくら僕に媚びを売ったところで、識は落ちひんで」
「……!」

 りんぎょ、と呼ばれた美しい女は、凪がそう言うと顔をこわばらせた。

「ああ、将を射んとする者はまず馬を射よってやつか。いじらしくて、苛めたくなるわ。急いどる時とか、特になぁ」
「……っ」

 凪のまとう雰囲気が変わり、ぞくりとした。こうして近くにいると余計に感じる、魔力のわずかな機微。
 琳魚もそれを感じたようで、じり、と後ずさりをした。

「……ふふ、そうでありんすか。ほんに、それは失礼しんした。常夜頭さまにも、どうかこの琳魚をごひいきにとお伝えくんなまし」


 一瞬口惜しそうに顔を歪めた琳魚だったが、すぐに表情を変え、花がこぼれるような笑顔を見せた。
 あどけなさと色気が交じり合ったその優美さに、香夜は思わず見とれてしまう。

 琳魚は凪に向かって膝を曲げて小さく礼をすると、軽快な下駄の音を響かせて通りの喧騒へと歩いていった。
 やがて姿が見えなくなったころ、凪が口を開く。

「……あれは、この城下町で身売って日銭稼いどる遊女や。琳魚は人間界の島原で産まれた妖で、忌み子としてそれはそれは惨い目にあったらしい。やから、ああ見えて人間を誰よりも恨んどる子や。姫さんがここにおることバレんくてよかったわ」

 惨い目、という凪の言葉に顔をゆがめる。
 島原といえば、言わずと知れた京の花街だ。妖の世と人の世の境界がなかったころと比べると今では公家の出入りも他の繁華街へと移り、何時ぞやの盛況ぶりが嘘のように衰えたという。知識として知っているだけで、香夜もその名前を直接聞くのは初めてだった。おそらく、今は街として機能していないのではないだろうか。

 容姿や器量を何よりも重んじるはずの花街――それも人間界に産まれた妖がどのような境遇をたどるのか、想像にたやすかった。

「……妖が、人間界で生まれることもあるのね」
「少し前まではな、琳魚みたいな妖は人間界で生まれた妖として、常夜でも虐げられとったんよ。でも、どんな妖でも侮蔑されることなく住めるようにって、識がこの城下町を作ったんやで」
「識が?」
「そう。識が常夜頭になってから、色んなことが変わったわ。例えば、あの角の出店、見える? 知能ある言葉を喋ることもできん低級が、中級と仲良く酒飲んどるやろ。前まではあり得んかった光景や」

 そう凪が指さした方向を見ると、和傘に目玉が一つ付いた妖と人型の頭巾をかぶった妖が賑やかにお酒を酌み交わしていた。
 識がこの光景を作った。
 その、あまりにイメージとかけ離れた話を信じることができず、香夜はしばらく出店の光景を呆然と眺めていた。

「そのせいか、識は色んな妖から大人気や。見てくれも整っとるし、跡継ぎを産ませてくれって交配を頼み込んでくるのも多い。さっきの琳魚もその類やなぁ」
「こ、交配……!?」

 凄まじい世界だ。
 常夜を統べる妖の当主ならば当然のことなのかもしれない。それでも、跡継ぎなどの話が人間界と変わらず存在することに驚いた。胸がほんの少しざわめいたような気がして、香夜は胸に手を当てる。

 ――きっと、知らなかった一面を知って驚いただけだ。

 そう自分に言い聞かせ、小さく頷く。

 そうこう話しているうちに大通りからは少し離れた路地にたどり着いた。
 凪が足を止めたのは、格子が外れ、ボロボロになっている廃屋の前だった。
 看板が屋根に括りつけられているが、文字が寂れ切っており読むことができない。

「おぉ、あったあった、ここや。おーい、伊織(いおり)~!」

 呑気な凪の声が辺りに響き渡る。
 しかし、特に何も起こらず目の前の家は静まり返ったままだ。

「伊織ー? おるんやろ、わかっとるで」

 懲りることなく、凪が力強く格子窓を叩くが、中から返事はない。
 叩くたびに崩れていく窓と外壁にハラハラする。

「凪? ここが土蜘蛛が住んでるっていうところ?」
「あ、うんそうそう。周りに妖もおらんし、姫さんも呼んでみてくれん? 多分僕やからって居留守使われとるわ」
「え、でも私会ったことも」
「いいからいいから、伊織ーって大きい声で呼んでみ」

 香夜の言葉を遮るようにして言う凪の勢いに押され、何も言えなくなってしまう。
 そもそも明かりすら点いていないこの家。これは本当に留守なのではないだろうか。

 ――ここまで来れば、もうなるようになれだ。

「……い、伊織!」

 腹をくくった香夜がそう呼ぶと、中からかすかに物音が聞こえた。
 そして数十秒ほど沈黙が流れ、色の禿げた正面の扉がゆっくりと開く。

「…………はぁ、何? 嫌がらせ? 冷やかし? てか、あんた誰」

 抑揚のない声でそう言って、今にも崩れ落ちそうな廃屋から出てきたのは、気怠そうにこちらを見やる生気のない目をした男だった。


「えぇ? 酷いわぁ、伊織の幼なじみであり大親友でもある僕がはるばるこうして訪ねてきたんに」
「そこの間抜け面して突っ立ってる女に聞いたんだけど。というか、相変わらず他人を不快にさせる天才だなお前は……。はぁ、凶日だ……、やっぱり昨日水神のところでお祓いしてくるんだった……」

 何もない空虚を見上げながらブツブツとつぶやき続ける男と、にこやかなまま屈託なく笑っている凪をポカンと見つめる香夜。
 中から出てきた男は今まで会ったどの妖とも違う、不思議な雰囲気をまとっていた。

 薄い墨色の髪は肩まで伸びており、毛先の方に小さく輝く石が二つずつ付いている。
 純白のシャツに黒いスラックスというスタイルは、洗練された軍服のようでもあった。
 しかし、活力がまるで感じられない表情と声色が邪魔をし、どうにも締まりがなく見える。
 すると、空気を割るようにして凪が口を開いた。

「今日は伊織にしか頼めんことがあって来て、」
「大体俺が人嫌いなの知ってるだろ、人というか、計算外の動きをする知的生命体全てが嫌いだけど」
「え、話聞いてくれん?」
「しかもあれだろ、いい環境で育てられたお嬢さんか何かだろ。俺、そういう奴特に苦手」

 何だ、この男は。
 うげ、と言いながら軽く舌を出し、こちらを馬鹿にしているとしか思えない表情でひらひらと手を縦に振る男を見て唖然とする。

 隣を見ると、ものの見事に全ての話を遮られた凪が頭を抱えて消沈していた。

 ずっと黙ったまま聞いていたが、これは流石に言い返さなくてはいけない気がする。
 香夜はそう決意して口を開く。

「わ、私も初対面で無礼な態度を取ってくる人は苦手です!」
「あ、そう。なら早く帰って。面倒ごとはお断りだ」

 そう言って香夜の方を見ようともせず扉を閉めようとする伊織の手を、凪が間一髪で止めた。
 そしてもう片方の手で、ここから何を言い返そうかと奮い立つ香夜を制する凪。

「まあまあまあ、仲良くいこうや。伊織もそんな態度ばっか取っとったら嫌われるで? やから話はちゃんと最後まで……」
「俺はとっくにお前が嫌いだけど」
「もうなんやこいつ! 話聞け言うとるやろ! ……いや、違くて。伊織、この子花贄の姫さんや」
「はぁ……? 花贄がなんでこんなとこに」
「識が、殺さんかった子や。呉羽が関係しとるかもしれん。わかるやろ? 緊急や」

 凪がそう言うと、何を言っても変わらなかった伊織の顔色がほんのわずかに変化した。
 といっても、眉間に少しシワが寄った程度ではあったのだが。
 伊織は眉をひそめたまま、香夜を心底面倒くさそうに見下ろした。

「…………凶日だな」

 ポツリとそう呟き、腹の底がひっくり返るのではないかと思うくらいのため息を吐いた伊織はそのまま家の奥へと入っていってしまった。

「入ってきてええよってことや。じゃ、遠慮なく入ろか。ごめんな姫さん、嫌な思いさせて」
「あの人が……土蜘蛛?」
「あぁ、伊織は鵺とか烏天狗に並ぶ大妖怪、土蜘蛛の当主や。昔はあんなにひねくれてなかったはずなんやけど……うわ、ここほんまに崩れてきそうやん……」

 お世辞にも一族をまとめ上げる当主という風には見えなかったが、人はみかけによらないらしい。
 遠慮することなく、ずかずかと中に入っていく凪を追い、香夜も家の中へと入る。

 家の中は狭く入り組んでおり、至る所に古びた本が積み上げられていた。
 少し身体がぶつかっただけで雪崩が起きそうだ。

「土蜘蛛は代々常夜頭に仕えとる一族で、謀術や暗殺術なんかを得意としとるんよ。やから、情報収集するのにも長けとる。常夜頭の御庭番みたいなもんや」
「御庭番なのに、こんなところに一人でいるのね」

 先ほどの言い合いを引きずり、少しトゲのある言い方になってしまった。
 低い天井には電球色の蛍光灯が一つ、むき出しになってぶら下がっている。
 そのわずかな灯りに照らされて、部屋の中の埃がちらちらと舞っているのが見えた。
 外観もかなり寂れていたが、こうして中に入ってみても、およそ誰かが住んでいるとは思えない乱雑さだ。

「……情報を集めるには、この城下町は最適だ。それに、元々常夜頭の下につくつもりは毛頭ないんでね」

 声の聞こえてきた方を見ると、伊織が椅子に座ってふてぶてしくふんぞり返っていた。
 他に椅子は見当たらず、辺りには本の山と書類の束が無造作に置かれているのみ。
 お前達をもてなす気はさらさらない、というのが、この男の節々からにじみ出ている。

 ふと、香夜の背丈よりも高い棚に詰められた薬瓶が目に入った。
 異国の文字が書かれた色とりどりの瓶が、数えきれないほどに羅列している。

「あんまり無暗にうろつかないでくれる?」
「……!」

 香夜が棚に手を伸ばそうとした瞬間、後ろから聞こえた声。
 恐る恐る振り返ると、先程まで傍の椅子に座っていたはずの伊織が香夜のすぐ後ろに立っていた。
 机の上の蝋燭の炎が反射し、金糸のようにきらめいて見える伊織の髪が、さらりと香夜の肩にかかる。

 声を掛けられるまで、全く気配を感じなかった。
 髪色と同じ透き通った墨色のまつ毛が瞬き、香夜をねめつける。

「……あんたが、呉羽と関係があるかもしれないって? ……確かに、こうして近くで嗅いでみると似てるな、匂いが」

 首筋に、伊織の息がかかる。
 低い声でそうささやかれ、じわりと背筋に汗が伝うのがわかった。

 識といい、凪といい、妖というものはこうして人の近くに来ることでしか何かを言うことができないのだろうか。
 識や凪の魔力を感じた時にも感じた強い香り。
 思えば、それぞれ違う華の香りがしたのだが、伊織もまた独特の香りを放っていた。
 清廉さと毒気が融合した、ほのかな甘さを感じるこの芳香は――。

「……、水仙の、香り」

 香夜がそう呟くと、伊織はその三白眼を少し見開いてみせた。

「……へぇ。嗅ぎ分け(・・・・)ができるんだ。は、困ったな。信憑性が増してしまう。識の花贄が、……呉羽と関係あるかもしれないなんて、笑い話にもならない」

 そう言って、伊織は長いまつ毛を伏せ、ゆっくりと瞬きをする。弧が描かれた口元とは逆に、目が笑っていないのが見て取れる。
 しかし、妙な色気を感じるそのしぐさに香夜はサッと目を反らした。

「あんまり姫さんに近づかんといてくれん? 伊織って力加減できひんやろ、見とると肝冷えるわ」

 香夜の背後から手を伸ばし、棚の中にあった器具を手に取った伊織に凪が言う。
 すると、伊織はそのまま何も言わずに香夜から身体を離した。

 感じていた強い香りも、緊迫感も、伊織が身体を離した瞬間薄らいでいく。

 今、伊織は香夜の言葉を聞いて、嗅ぎ分けができるのかと言っていた。
 屋敷で感じた識の強い香りを思い出す。確か、センリの姿を見失う前にも凪から香ってきた華の芳香。
 センリは、その香りの変化に気が付いていない様子だった。

「凪の魔力を感じた時も、……識といた時も、それぞれ別の香りを感じたの。今も同じ。これって、普通のことじゃないの?」
「えぇ、それ僕に言う?」

 いたずらな笑みを浮かべてこちらを見る凪を見て、ハッとする。
 そうだ、凪は鼻が利かないと言っていた。
 確か、他の妖の魔力を感じ取ることができないと。
 ということは、香夜が今感じているこの香りが、妖の放つ魔力そのものであるということなのだろうか。

「……魔力を‟香り”で感じとるなんて、人間ができる芸当じゃない。……呉羽は出来てたけどな。あんたがどんな匂いを感じてるのかは知らないけど」

 手元の器具を使い何やら作業をしながら、淡々とそう説明する伊織を見て少し意外に感じた。
 質問しても、こうして丁寧に答えてくれるタイプではないと思ったからだ。
 すると香夜の視線に気が付いたのか、伊織が怪訝な顔をしてこちらを振り向く。

「何、あんまり見ないでくれる?」
「ううん、教えてくれてありがとう。あなたは……ここで研究か何かを?」

 積まれた資料や薬瓶を見るに、ここでは研究のようなものが行われているようだ。
 香夜がそう言うと、凪が思い出したかのように口を開いた。

「あぁ、確かに土蜘蛛の稼業は隠密活動やけど、伊織は常夜の医者みたいなもんや。はは、そこら中趣味悪い薬瓶だらけやろ? 稼業放置してこんなとこで引きこもっとるさかい、こんなに生気ない目しとるんとちゃうか?」
「……喧嘩売ってんの?」

 先刻まで伊織が座っていた椅子に座り、自前のものらしき湯呑でお茶を啜る凪。
 そしてその様子を、死んだ目をしながら見やっている伊織。
 はたからみてもひしひしと感じる。あれは心から帰ってほしいと願っている顔だ。

「凪は、あなたに私のことを見てもらいに行くって言ってたけど……私がその、呉羽って人の生まれ変わりなのかどうかを確かめるってこと……? 呉羽って、一体……」
「は、何でも聞いたら教えてもらえると思わない方がいいよ」

 そう言って、煽るように笑ってみせた伊織。
 毛流れのいい毛先につけられたサファイアブルーの宝石が揺れ、燭台に乗せられた蝋燭の動きに合わせてきらめく。
 なんて意地悪なことを言うのだろうと、香夜は思わず面をくらう。
 しかし、言い返す言葉が見当たらないのも確かだった。

「……そうね確かに、初対面の相手に図々しく聞きすぎたかもしれないわ。ごめんなさい」

 香夜がそう言うと、伊織の息をのむ音が聞こえた。
 凪が椅子に座ったままこちらを見やり、何故か満足気な顔をして笑みをこぼす。

「なぁ伊織、おもろいやろ、この子。伊織の口車に乗せられん素直さを持っとるわ」

 そのままクスクスと笑い続ける凪を、じろりとねめつけた伊織が苛立たしそうに口を開く。

「何も面白くないな、むしろ最悪だ。あんた、……花贄の女」
「……香夜、です」
「あんた、何なの? そうやって正面から俺を見据えて、芯のある目をしたりして」

 名前を言ったにも関わらず、綺麗に聞き流した伊織は香夜の返事を待たずに続ける。

「あの女そっくりで反吐が出そうだ。あぁ、嫌いだ、嫌い。勘弁してほしいね」

 平坦な口調でそう言った伊織の目は、深い嫌悪の色に満ちていた。
 伊織はそのまま、何を言っているのか分からず戸惑う香夜に舌打ちをすると、小さな針のようなものを取り出しこちらに向ける。

「手、出して」
「……え?」
「手だよ、手。何度も言わせるな」

 伊織に言われるがまま手を差し出すと、伊織は持っていた針を香夜の指先に突き刺した。
 軽い痛みが走るとともに、一粒大の血液が滴り落ちる。

「……っ」

 針が刺さった部分から零れ落ちる香夜の血液を、伊織はスッと掬いとり、白銀色の液体が入った小瓶へと入れた。
 香夜の血液を飲み込んだ白銀の液体が小瓶の中で小さな渦を巻き、段々と色を変えていく。
 伊織はその小瓶を手にしたまま、中身に向かってフッと息を吹きかけた。
 すると伊織の吐いた息がまるで蜘蛛の糸のようになり、瓶の中、液体と混ざりあって膨張する。

「このまま少し待ってたら、全てわかる。……呉羽のことは、そこの天狗に聞け」

 伊織はそう言うと、何回目かわからないほどの長いため息を吐いた。

「……はは、そうやな、まだ言っとらんかったな。呉羽は、今からずっと昔、常夜で誰よりも強かった鵺の頭領……識の親父さんの、花贄やった人や」
「え……」

 伏した目をした凪が、手に持っていた湯呑を机に置き立ち上がった。
 凪が散らばった紙の山に手をかざすと、どこからともなくふわりと風が吹き付ける。
 柔い風が一枚、紙を拾って、凪の手のひらへと舞い上がった。

「呉羽は花贄の、普通の人間やった。それでもいつも明るくて、贄になって死ぬつもりなんてさらさらないって先代の前で宣言するような奴やった」

 舞い上がった紙が、凪の手のひらの中、一瞬かすかな光を放ち、緩やかにその身を変化させていく。
 ひらりと一片崩れ落ちたのは、目を奪われてしまうほどに鮮やかな椿の花びら。
 何の変哲もない一枚の紙が、目の前で美しい椿の花に変わったところを見て、香夜は思わず目を瞬いた。

「呉羽は妖よりも心が強くて、妖よりもいたずら好きで、誰よりも美しかった。まぁ一言でいうと地獄みたいな女やったわ。……そんな女やったからこそ、識の親父さんも殺せんかったんやろな」

 静まり返った室内に、凪の声だけが響く。
 凪が椿の花を愛でるように指を動かせば、ひらひらと簡単に崩れていく深紅の花びら。
 その光景は、鮮血が風に舞っているようにも見えた。

「そんな時、識の親父さん……先代常夜頭が急死したんや。花贄を、呉羽を殺さんかったせいで呪いに侵されてな。先代が死んで、人間界でも常夜でも生きるのが難しくなった呉羽は、僕らでこっそり匿うことになった」

 椿の花が、香り立つような芳香を放ちながら一片ずつゆっくりと崩れていく。

「そして、次の常夜頭に選ばれたんは、先代に次ぐ魔力を持っとった妖、識やった」

 静かに落とされる凪の声がわずかに揺れる。

「識はその時、手付けられんほどに荒れとったわ。親を亡くしたからか、何なんかは分からん。でも、話しかけただけでこっちが殺されてしまいそうなくらい、周囲に壁を作っとった」
「それは……」

 安易に想像ができてしまう。
 そう言おうとした瞬間、香夜の思考を読み取ったのか凪が穏やかに笑った。

「はは、想像できるやろ。でも、出会ったばっかの頃の識は可愛かったなぁ。なんか……もっと柔らかかったというか……よく三人で遊んだわ。なぁ、伊織」

 凪が話を振ると、それまでずっと黙っていた伊織が不機嫌そうな顔をして顔をそむけた。
 まるで過去を振り返ることを拒絶するかのように。

「その頃を境に、識はそれまで以上に孤独になってった。そんな識を救ったんが、呉羽やった」

 そう言った、凪の声色が心なしか柔らかいものへと変わる。

「呉羽は他の妖たちと違って、識のことを色眼鏡で見んかった。まあ、妖じゃなく人間やったからな。両親がおらんかった識にとっては、親みたいな、師みたいな存在やったんやと思う。呉羽は本当に自由な女でなぁ、随分と歳が離れとる僕らとも、同じ目線で遊んでくれた」

 香夜の胸の奥で、小さな痛みが走るのがわかった。
 
「識の呉羽を見る目は、傍目から見とっても分かりやすすぎるくらいに他とは違っとった。呉羽ー、呉羽ー、っつうて、いっつも追いかけまわしとったさかい」

 今までモヤがかかっていた‟呉羽”という人物像が、凪の言葉によって段々と明瞭になっていく。
 
「呉羽は僕らに色んなことを教えた。人間界での暮らし方、まじないのかけ方、僕らが知らん人間界での遊びまで。伊織は呉羽を嫌っとったみたいけど」
「……大嫌いだね。あの女、人間のくせに俺にまじないかけて凍った池に沈めやがったからな。今こうして生きてるのが不思議なくらいだ」

 そう言う凪と伊織は両極端な表情をしていたが、両者とも過去の日々を懐かしむように声を揺らしていた。

「そんな日々も、長くは続かんかった。――常夜頭になった識に、呪いが発現したんや」

 凪がそう言うと同時に、その身を震わし、最後の一片を散らす椿の花。
 そう言って、ふと気が付いた。この先に待ち受けているであろう、最悪のシナリオに。

「そして最悪なことに、同じタイミングで呉羽の存在が外部に漏れた。ご老中どもは、ちょうどよかったとでも言うように呉羽を花贄として識に使おうとしたんや。当然、識は呉羽を人間界に逃がそうとした。でも――」

 机に落ちた深紅の花びらが、皺枯れてくすんでいく。

「忘れもせん、ちょうど今日みたいにお月さんが綺麗な日やった。突然、鵺屋敷で乱心騒ぎがあったって聞いて伊織と飛んでいったんや。そしたら、身体じゅう血まみれにした識がおった。座敷のなか、識だけが呆然と座り込んどった。血池の中で、誰かを抱きしめながら」

 凪の語尾が再びかすかに揺れた。
 目の前で枯れていく椿の深紅が、少しずつ、少しずつ灰になり空気と同化する。
 これは、凪が思い返している識の‟残像”なのだろうか、香り立つような華の香りが香夜の脳にまで入ってくるのが分かった。

「識が放心状態で抱きしめとったんは、呉羽やった。どれくらい経っとったんかはわからん。呉羽だけじゃなく、そこにおったもんは識以外ほとんど綺麗に死んではったわ」
「……っ、なんでそんなことが」

「裏切りがあったんや。鵺の傘下におったもんが、識を狙って奇襲かけた。……まぁ、失敗に終わったみたいけどな」
「裏切り……?」
「呉羽が何でその日その場におったんかはわからん、やけど、呉羽の心はもうとっくに限界やったんや。……呉羽は、先代常夜頭のことを心から愛しとった。自分のせいで呪いを進行させてしまった、愛する人を殺してしまったと、ずっと自分を責めとったんや」

 凪が言葉を落とすと共に美しく咲き誇っていた椿の花が、全て黒ずんだ灰へと変わった。

「……呉羽はきっと、望んで識に命を差し出した。あの日二人の間でどんな会話があったんかはわからん。ぐったりとした呉羽を抱いた識は僕の問いかけにも、伊織の言葉にも反応せんかった。ただ一点を見つめたまま、在るべき心を失っとる様子やった」

 胸が切り裂かれるように痛んだ。
 識が、心を絞るようにささやいた名前の真実を、今知ってしまったのだとどこか他人事のように思った。

「識は、数少ない味方に裏切られて、唯一心を開いとった呉羽まで失った。識は未だにあの頃の、あの時間、あの場所に囚われたままや。血まみれで呆然と座り込んどったまま、抜け出せん闇の中におる」

 凪が吹かせた柔い風が、机の上の灰を巻き上げる。淡い香りが香夜のところまで届いた。
 すると、伊織が静かに口を開く。

「…………少なくとも、死体は一つ、蘇ったみたいだ」

 伊織の言葉に、凪の表情が変わった。
 香夜の血液が入った小瓶の中身はいつの間にか黒い溶岩のようになっており、伊織が出した蜘蛛糸と絡まりあって形を変化させていた。

 その形は、例えるならば――大輪の華。

「――呉羽だ。生まれ変わりとかいうレベルじゃない。あんたの中に、呉羽が眠ってる」

 吐き捨てるようにそう言った伊織の声が、やけに鮮明に香夜の脳裏に響き渡った。


「私の中に……呉羽さんが眠ってる……?」

 香夜の声が震える。一体どういうことなのか、と続けようとしたその時。
 伊織の眼光が一瞬強くなり、身体の近くで何かが素早く動く気配がした。
 目に見えない速さで香夜の顎先に小刀を向けた伊織が、瞳孔を開き切ったままこちらを見ていた。

 突然のことで反応することができず、一寸ほどの息をのみこんだ音が香夜の喉を鳴らす。

「今まで何の自覚症状もなかったってわけ? 呉羽の……断片のようなものが、あんたの中に丸々残ってるんだ。言いかえるならあんたは、外側だけ変えた呉羽本人って言ってもおかしくない。何の記憶もないっていうのはさすがに不自然だろ」
「……っ、何も知らない! 私は、本当に!」

 呼吸するのもはばかられるほどの距離に這わせられた鋭い刀に、香夜はそれ以上の言葉を失う。
 ――自分の中に、違う人間が眠っている?
 ――外側だけ変えた、本人そのもの?
 意味がわからないにもほどがある。

「……気でも狂ったか伊織、その手どけろ」

 そう言って凪が伊織の肩に手をかけた瞬間、香り高い風が室内に吹き込んだ。
 一秒と経たずして凪の周りに渦巻いていくのは、怒りの色を含んだ魔力の層。

 伊織と凪、二人の濃い魔力の香りを感じる。
 華の芳香だけで気を失ってしまいそうなほどだ。

「凪こそどうかしてるんじゃないの? 何でこの女をかばう? こいつの中には確実に呉羽がいる。危険だ、ここで始末しておくべきだろう」

 伊織が持った小刀が香夜の皮膚に触れ、ふるりと震える。
 この気配は、本気だ。本気で、刺そうとしている。それが安易に伝わってくる。

「……この子は、識の花贄や。僕らがどうこうしていい相手ちゃう」
「花贄だから何? そもそもどうして生かしてるんだ? さっさと血だけ奪って識に飲ませりゃいいでしょ。それとも、呉羽が中にいるから殺せない? はっ、いるから(・・・・)こそ殺すべきなんだろ!」

 叫びにも似た伊織の声。
 処理できないままぐるぐると迷走した脳内で、誰かが笑っているような気がする。
 胸の中で鳴る鼓動が、笑い声に合わせて早くなる。

「おい、いい加減にせえよ。呉羽は今関係ないやろ、姫さんを殺す理由なんてない。それとも何や、僕と遊んでくれるつもりなん? 伊織」

 凪の口調はおどけているものの、気配は完全に敵を前にしたそれである。
 低いところで息を吐き、風が吹き付けるたびに凪の魔力が高まっていくのがわかった。

「凪こそ質問に答えろよ。どうしてこの女を生かしてる? わざわざ俺のとこまで連れてきて、何が目的だ? 俺はこの女が単に呉羽の生まれ変わりだったとしてもこうして始末するつもりだった。だから中に入れたんだよ」

 伊織は依然として鋭い刀をこちらに向け、冷たい眼差しで香夜を見下している。
 手のひらに収まるほどの小刀は上を向いており、それが単なる脅しではないことを強調していた。

「はは、僕かて驚いとるんやで、びっくりしすぎて内臓出そうやわ。せやけど、いくら呉羽が中におるって言ったって、姫さんは姫さんや。気配だって別もんや。それに、僕が守るって約束してもうたさかい」
「……答えになってないんだけど」

 呆れたようにそう言うと、伊織の刀を持った手がわずかに下がる。

「ちょっと、待って、……っ、私の中で、呉羽さんが生きてるってこと? こうして私が息をしている間にも、私の中で眠ってるってこと?」

 矢継ぎ早に、香夜の口から言葉があふれ出す。すると、伊織が無表情のままこちらを見た。

「そうだ。呉羽が目を覚ましたら、あんたの意識はなくなるはずだ」

 伊織の返答に、頭が真っ白になる。理解しようと思ってもできなかった。
 もし、自分の中に眠っているという呉羽が記憶を取り戻してしまえば――。
 もし彼女が意志を取り戻し、長い眠りから目を覚ましてしまったとしたら、ここにいる(・・・・・)自分はどうなってしまうのだろう。
 意志は。感情は。全て、束の間の夢を見ていたように、乗っ取られてしまうのだろうか。
 ――まぶたの裏でいつも見ていた、白昼夢のように。

「……識は、呉羽の面影をずっと追ってたよ。笑えるな、何百年ぶりに会えた想い人が、また自分の手で殺さなくてはいけない花贄だったなんて」

 先程の殺意がこもった気配は消え、伊織が力なくつぶやいた。
 そう言った伊織の手のひらの中、握りしめられたままだった小刀がカラリと地面に落ちる音がする。
 伊織はそのまま、ゆっくりと凪と香夜の方を見やり、再び口を開いた。

「笑えるけど、あんまりだろ。俺たちで殺してやるべきだ。識はこのまま放っておくと、呪いが進行して確実に死ぬ。それを抜きにしても、もし花贄を殺せないことが鵺と対立してる勢力に知られたら? 呪いに侵され、花贄を殺すこともできない常夜頭を攻め落とすなら今だと総力戦をかけてくるに決まってる」

 そう言って、顔を歪ませて切なげに笑ってみせた伊織。
 やっと、識が香夜を殺さなかった理由がわかった気がした。
 苛立ちと、哀切、そして焦がれるような愛おしさを孕んだ瞳に何を映していたのか。
 識は、香夜を殺さなかったのではない。殺せなかったのだ。

 かつて一度失った愛おしい人に混じる香夜を排除したくても、それがかなわない苛立ち。
 もう一度失ってしまえば、またいつ生まれてくるかわからない焦燥。

 心の一部、最も深い部分をもぎとられたかのような痛みが胸に走った。
 贄に選ばれてもしぶとく生き延びてやると誓ったこと。
 心にはびこる言いあらわしようのない喪失感の理由を、知りたいと願ってしまったこと自体甘かったのだろうか。

 いや、そもそも――自分は、識に、あの恐ろしい妖に、何を望んでいたのだろうか。

 伊織が、香夜をゆるりと見やる。
 髪色と同じ、薄墨色の瞳には呆然と立ちすくむ香夜自身が映っていた。

 しかし、その目は香夜を通して、他の大切なものを見ているかのように色を変える。
 伊織は、その手で香夜を殺すことで識を救おうとしている。生気がなかった彼の瞳が、今は切なさを伴なって揺れていた。

「……あ」

 香夜の頬に、一筋の涙が伝うのがわかった。
 それは、瞬きと共に零れ落ちた無意識の涙。
 そうか、自分は今傷ついているのだ。
 それすらも気が付かなかったくらい、長い間自分の心と向き合ってこなかったのだと、愕然とする。

 その時、ふわりと、沈丁花の香りがした。
 顔を上げると、凪が傷ついたような顔をして佇んでいるのが目に入る。

 ――どうして凪がそんな顔をしてるの。

 そう言おうとした時、香夜の身体は凪の大きな胸に抱きしめられていた。
 あたたかな感触と、凪の淡い香りが香夜を包み込む。

「……お願いやからそんな顔せんといて。そんな傷ついた顔されると、こっちがこたえるわ」
「……凪、」
「大丈夫や、大丈夫やから。僕が守るって言ったやろ、やから、……香夜ちゃん」

 凪が泣き出しそうな声で言った、お腹の低いところで響くような、自分の名前。
 父がつけてくれた、‟香夜”という名。
 香夜を抱きしめたまま、ゆっくりと優しく頭を撫ぜる凪の手は、少しだけ震えていた。
 随分と久しぶりに聞いたように思う自分の名前に、優しい凪の手つきに、どうしてか余計に涙があふれてくる。
 凪は柔く香夜を抱きしめたまま、伊織の方へ顔を向けた。

「……この子を殺す必要はない。殺させん。僕が伊織のところにこうやって来たんは、ただ呉羽のことを確かめてもらうためだけちゃう。伊織には、‟こっち側”についてもらいに来たんや」

 凪の腕の力が強まり、香夜の身体は一層彼の逞しい胸に押しつけられる形になった。
 いつの間にか、涙は止まっていた。それよりも、こんなにも間近で感じる凪の体温への気恥ずかしさが勝っている。
 そっと上を見上げると、視線に気が付いた凪が緩やかに笑い、香夜の髪を梳いた。

 穏やかではあるが、ひどく情感的な動きに顔が熱くなるのがわかる。
 すると、伊織の方から軽い舌打ちが聞こえた。

「……はぁ? 視覚的に不快度が増しただけなんだけど。言っとくけど、お前も一緒に始末することに何のためらいも感じないよ俺は」

「あ? 伊織が脅すのが悪いやろ。……いや、ちゃうて。話最後まで聞け。徒花の呪いと全く同じ呪詛が書かれた紙の切れ端を見つけた。空亡の書(・・・・)の切れ端や」

 香夜を抱きしめたまま、空亡、と口にした凪。
 すると、怪訝な顔をしていた伊織の表情がわずかに変わる。

「徒花の呪いと、空亡が関係しとるかもしれん。識の呪いを、花贄無しで解くことができるかもしれんのや。呉羽に深く関係した花贄やで? 空亡が食いつかんわけない。これは逆に奴らを根本から叩く絶好の機会やろ」
「……本気で言ってんの?」
「本気すぎるほど本気や。伊織、怖がっとっても何もできんやろ。こんなとこで誰とも会わずに過ごしとっても、あの頃の日々は戻ってこん。常夜の膿を出さん限りな」

 凪の声が低くなり、表情も真摯なものへと変わる。
 香夜は凪の身体の中で少しもがき、緊迫した表情を浮かべる伊織と凪を見て口を開いた。

「えっと、凪……」
「あぁ、ごめんな苦しかった?」
「いや、いつまでこうしてるのかなって……」

 香夜がそう言うと、凪は少し考えこむような仕草を取った。
 抱きしめる腕を解く気はないようで、香夜は心の中で、疑問符を浮かべる。
 最初は柔く背に回っていた手も遠慮が消えて力が増し、今では香夜の頭の上に顎を置いていた。

「香夜ちゃんが―――、」

 凪がそう言いかけた瞬間、外で何かが大きく爆ぜるような破壊音が鳴り響いた。

「……!?」

 瞬時に身を翻し、瞳孔を開いて小刀を持つ伊織と、香夜をかばうようにして自身の身体で覆いこむ凪。
 何が起こったのだろうか。
 そう思って窓の方に顔を向けようとした時、言葉にならない言葉を叫びながら近づいてくるハイトーンの声が聞こえた。

 刹那、大きな毛玉状の何かが扉を破り、部屋の中に入ってくる。

「……っ凪さま!! 香夜!!」
「センリ!?」

 勢いよく放たれた砲弾のように飛びこんできたのは、大通りで出店に心を奪われていたはずのセンリだった。
 センリの身体は所々砂埃で汚れており、ふわふわの毛に覆われた頬にはわずかな切り傷がある。

「何があった、センリ」

 低い声でそう聞いた凪に、呼吸を荒立てながらセンリが答える。

「っ、外が、大変なことになってるんだ!! いきなり城下の中心にあるやぐらが燃えたと思ったら、周りにいる妖が苦しみだして、パタパタ倒れ始めたんだよ! 奴らだ、……空亡が、攻めてきやがったんだ!」

 泣き叫ぶようにしてそう言ってこちらに走ってくるセンリ。
 香夜が腕を伸ばすと、センリはそれをひっしと掴んで顔をうずめた。

「オイラ、オイラ香夜の匂いを辿ってここまで来たんだ。通りにいる皆をまもろうとしたけど、何人かは間に合わなかった……!」
「センリ……」

 ふるふると震え、大粒の涙を流すセンリを思わず抱きしめる。

「……はは、タイミング良すぎて怖いわ。どっかで聞き耳立てとったんとちゃうか。ああ、でもこれで手間は省けたなぁ。まさかあちらさんから来てくれるとは思わんかった」

 そう言って笑った凪の瞳が暗く光を放ち、黒々とした風が彼の身体に集まっていく。
 伊織に向けていたものとは違う、確実な敵意を持って練成された魔力の渦だ。
 凪は目を閉じ、深く息を吐くと、空中に向かって手をかざした。

「香夜ちゃんには前にも少し説明したよな? 空亡っていうんは、かつて鵺の傘下におった勢力のことや。鵺屋敷での乱心騒ぎを起こしたんも、友好的な関係を築いとった鵺を裏切って奇襲をしかけたんも、空亡の現頭領、あの日、識以外に唯一生き残った男や」
「呉羽さんが亡くなった日に……?」
「そう。それともう一つ、空亡の頭領は花贄……いや、呉羽に対して異常に執着しとった」

 凪がそう言うと共に、何もなかった空間から一本の刀が現れる。
 黒く淀んだ瘴気を絡めた刀身は鈍い色で光っていた。

「奴らは呪いを使って、妖を操るのに長けとる。心を奪って、脳を喰らうんや。傀儡になった妖を使役して、ここ最近勢力を伸ばし続けとる」

 脳を喰らう、という言葉にドキリとした。
 人間界と常夜の扉である妖、口無しを思い出したのだ。
 空間から取り出した刀を自身の袖でひと拭いし、破れた扉の前に構えながら凪は続ける。

「呉羽が死んでから、空亡が目立った動きをすることはなかったんやけど……」
「……ああ、本当に、呪われてるのは俺の方じゃないのか……? 変な猫に家はぶち壊されるし、呉羽が出た次は空亡だって? ふざけてる」

 凪の後ろで恨みがましい目をしながら首をもたげる伊織がブツブツとつぶやく。
 少し前に見た時よりも、伊織の目の下のクマがひどくなっているように思えるのは気のせいだろうか。

「オイラ猫じゃな……ひっ!」

 香夜の腕にしがみついたままだったセンリが立ち上がり、そう言いかけた瞬間青ざめる。
 それもそのはずだ。センリが抗議しようとしていた伊織の気配が、どす黒く変貌していくのが傍目から見てもわかった。

「……凶日すぎて、この世の全てを抹殺したい気分だ」

 そう言った伊織の手のひらの中、鈍く光る小刀が四つに増える。
 それはまるで、忍びが使う、くないのようにも見えた。
 伊織の髪に付けられた石が妖しい色を放ち、ゆるやかに揺らぐたびに水仙の香りがする。

「はは、伊織とこうして肩並べて刀構えるのなんていつぶりやろ。僕、興奮して敵さんに会う前にぶっ倒れそうやわぁ」
「……いいか、俺はお前の言うことを聞いたわけじゃない。これ以上家を壊されるのは御免なんでね、外にいる奴を片付けたら次はお前らだからな」

 額に血管を浮き立たせながら生気のない瞳を伏せる伊織と、恍惚とした表情を浮かべて笑い声をあげる凪。
 両極端な二人の魔力が高まり、空気に溶け込んでいくのがわかった。
 それは言葉を失うほどの、力の集大成だった。

 鵺と敵対している勢力である『空亡』が、かつて識を襲った男が、時を超えて再びこの城下町を襲っている。
 こうして話している間にも、外からは誰のものとも知れない叫び声や爆発音がしきりに聞こえてきていた。

「……一応、香夜ちゃんに言うておかんなんのは、空亡の頭領は、香夜ちゃんを狙っとるかもしれんってことや。可能性としてはいくつかある。ひとつは、識の病が悪化しとることが空亡側に漏れて、常夜頭を陥落させるためにこの城下町から侵略を始めたパターン」

 凪が人差し指をピンと立てて、香夜の目の前で口を開く。

「そんでもうひとつは、香夜ちゃんの素性に勘づいた敵さんが全てわかった上でこの攻撃をしかけてきとるっちゅう最悪のパターンな」
「……っ!」
「凪さま! 悠長に話してる場合じゃないぞ……!! こうしてる間にも……」

 慌てた様子のセンリを軽くいなしながら余裕気な笑みを浮かべる凪。

「ま、何にも知らん香夜ちゃんに空亡の書の切れ端がくっついとった時点で、ひとつめの線は薄いけど」

 凪の言うことが正しいのならば、今こうして凄まじい破音と共に城下町を襲っているという勢力の目当ては香夜ということになる。
 何かにじろりと見られているような気配を感じ、香夜の身体に嫌な悪寒が走った。

「ここに連れてきたんは僕やし、私情を挟んでいいならここでセンリと隠れとって欲しい。でも、香夜ちゃんの自由にしてええよ。僕らに着いて外出るって言うんならその身、死んでも守っちゃる」

 そう言った凪の瞳は誰でもない、香夜自身を真正面から捉えていた。
 凪の黄金色の前髪が風で揺れ、形の良い額が見える。

 正直に言って、頭の中は未だに雑然と混迷したままである。
 しかし、着いていくことを迷う理由など皆無だった。

「私も行く。……足手まといにはならないようにするから」

 香夜を目的としているのであれば、ここで隠れていても攻撃は止まないだろう。
 それに妖たちが身分の差なく笑い合い、お酒を酌み交わしていた先程の光景を簡単に壊されてはいけない気がする。
 すると、凪は少しうれしそうにその頬を緩ませた。

「そう言うと思ったわ。香夜ちゃんには僕の鼻代わりになってもらう。よく鼻利くみたいやしな。さっき使った目くらましの術はもう使えん、やから僕にぴったりくっついて、離れたらあかんで」

 そう言って香夜と目線を合わせるように屈み、よしよしと言いながら頭を撫ぜる凪。
 小さな子供をあやすようなその動作に、香夜は思わず赤面してしまう。

「じゃあそういうことやから、伊織、援護頼むな!」
「……この流れを黙って聞いてやってたことへのお礼をまず言ってほしいところなんだけど、お前本当殺されたいわけ?」
「大丈夫やって伊織めっちゃ強いやん。僕が伊織やなくて香夜ちゃんに意識向けて戦っても余裕やろ? それともいつもみたいに背合わせて戦わな寂しい?」
「…………絶対殺す」

 瞬間、伊織から漏れ出た膨大な負の魔力が大きな影となり、吐き出された蜘蛛糸のように絡まって凪へと向かう。
 部屋中に積まれた本の山が音を立てながら雪崩れていく。
 「おっと」と言いながらそれらを軽々と避けた凪が香夜の手を引き、ぐい、と重心が傾いた。

「わっ……!」

 あわあわとしながら香夜にしがみついていたセンリと、急に手を引かれた香夜の声が見事にシンクロする。

「はは、伊織はな、怒らせれば怒らせるほど強くなんねん。引きこもりの幼馴染をたまには散歩に連れ出してやらんとなぁ!」
「えっ、なんか私たちを狙ってる気がするんだけど……!?」
「あれ、当たったら即死やで。まあ当たらんかったら大丈夫や」

 涼やかに笑い、伊織の容赦ない攻撃を交わしながら香夜の手を引く凪が外へと飛び出でる。
 それを脱兎のごとく追いかけるセンリの悲痛な叫び声と香夜の悲鳴がまたもや綺麗に同期した。

 凪に手を引かれるがまま外へ出ると、そこには変わり果てた城下町の姿があった。
 所々に立ち上った煙と、阿鼻叫喚と裏路地へと逃げ惑う妖たち。
 中には、倒れ込んで苦し気にうめき声をあげている者もいた。

 やぐらがあるという大通りの方からは、大きく黒々とした炎が上がっているのが見える。

「ひどい……」

 一勢力が攻撃をしかけてきたのだとしても、ものの数十分でここまで手酷くやられるものだろうか。
 すると、道の端でうずくまりうめき声をあげていた人型の妖がゆらりと立ち上がり、こちらへ向かって駆けだした。

 妖の鋭い爪が香夜の視界を遮る。
 危ない、そう思ったのもつかの間、凪の刀が鋭い音を立ててその攻撃を防ぐ。

「……っ!」
「……っぶな、間一髪。……やっぱり街を荒らしとるんは空亡で間違いないみたいやな、見てみ、意識ごと空亡に取られて、しっかり操られとるやろ」

 凪の言葉に、たった今襲い掛かってきた妖を見ると、焦点が合っていない目が黒く濁っていた。
 うめき、こちらに飛び掛かってこようともがくその姿は、自分の意志を持たない死体が操られているようにも見える。

「凪さま……っ!! こいつら、段々増えてこっちに……、ひっ!!」

 半泣きで狂乱状態の妖を避けながら走るセンリの後ろで、伊織も同じく交戦していた。
 鮮やかに身を舞わせて、重力に構わず小刀を振る伊織は、美しさすら感じる手さばきで目の前の妖を倒してゆく。

 よく見ると、路地には目に見えないほど細い糸が何本もかかっていた。
 近づかなければ分からない。魔力の香がなければ誤って糸につまずいていただろう。

 伊織はその糸を器用に伝って戦っているようだった。それは目で追うことができないほどに、隙が無い攻撃。
 そんな刃がつい先程まで自分の首元に這わせられていたのだと思うと、背筋が凍る。

 伏せられた伊織の目は相変わらず生気がない。しかし、恨めしそうに何かをずっと呟き続けている。
 おそらくあれはしっかり聞いてはいけないものだ。再び伊織の殺意がこちらへと向く前に、香夜は伊織から目を反らした。


 操られているという妖は、みな揃って黒々と淀んだ目をしていた。
 それに、死臭のような生臭い腐敗臭がしているのだ。
 段々と鼻が慣れてくると、漂う匂いで妖が出てくる大体の場所が予想できた。

「凪……! 次は多分、横から……!」
「はは、凄いな香夜ちゃん! さっきからドンピシャで当ててはるやん……!」

 香夜が香りによって居場所を察知し、凪に伝える。
 そうすることによりわずかに早く動くことが可能になった凪が、風の渦を出して攻撃をかわすという連携ができつつあった。

 大通りに近づくにつれて多くなっていく妖の数に、香夜は短く息を吐き出した。
 凪や伊織、識の香りはそれぞれ違うが、華のような香りという共通点があった。
 しかしこの動く屍のような妖が放つ匂いは、お世辞にもいい香りとは言えない。油断すると、鼻が曲がってしまいそうである。

「っ、はぁ、……数が多なってきたな」

 凪が出す風の層は変わらず膨大な魔力に満ちていたが、どこかあたたかな感触を感じた。
 不規則に襲い掛かってくる妖を刀でいなし、片手で香夜の身体をかばう凪の額に薄っすらと汗がにじんでいるのが見える。

「凪! 私、少しなら戦える……!」
「はは、頼もしいなぁ。でも、僕の矜持のためにも守らせて?」

 柔らかく笑う凪に、香夜はハッとする。

「……凪、もしかしてさっきから、手加減してる?」

 それは外に出て、屍のような妖と刀を交える凪を見てから薄っすらと感じていたことだった。
 凪はおそらく、彼が持つ力の半分も出していない。
 その証拠に、凪の刃にかかって倒れた妖たちは気を失ってはいるものの命を奪われてはいなかった。

「……こんな風に、力を加減しながら戦うなんて今までやったら考えれんかったことや。いつもなら刀振り回しとるうちに正気失ってまうからなぁ」

 そう言って、香夜の腰くらいまである刀身を軽々と振った凪。
 凪の口元は楽しそうに弧を描いていたが、琥珀色に光る瞳の奥には、しっかりと灯った光が見えた。

「でも、こうして香夜ちゃんの体温を感じとると不思議と気持ちが落ち着く。我を失いそうになっても、香夜ちゃんの声が僕を引き戻してくれる。……不思議や」

 騒然とした城下町で唯一変わらず揺蕩い続ける狐火が、凪の整った横顔を照らす。
 一瞬、こちらを見やった凪と目が合った。
 すると凪はふわりとその表情を緩め、微笑む。優しさと少しの切なさを孕んだその笑みに、香夜は思わず目を奪われた。

「凪さま、香夜!! 多分、あそこだ、やぐらがある場所に……オイラたちを最初に襲った奴がいる!」

 センリの声に弾かれたように前を見ると、轟々とした音を立てながら燃え上がるやぐらがあった。
 香夜たちはいつの間にか大通りへと出てきていたようだ。
 お囃子の音や快活に響き渡っていた掛け声も今は悲鳴へと変わり、祭り景色が一変、惨劇へと化していた。

「……ここにおるんは、自分の身を守る術を持たん低級や中級の妖ばっかりや。こんなん、無抵抗の相手を嬲っとるのと同じやろ」

 凪の言葉に、隠し切れない怒気が混じる。
 鼻腔をつんざくような腐敗臭が、やぐらの火柱に近づけば近づくほど強くなってきていた。
 
 香夜の中の本能が、警鐘を鳴らす。
 ドクドクとなる自分の鼓動の音が、呼吸と共に耳に響いた。
 その時、やぐらの下、燃え盛る炎の火の粉に紛れて誰かが倒れているのが目に入る。

 それは艶やかな着物に身を包んだ美しい少女、大通りに差し掛かる前にすれ違った琳魚だった。
 真っ青な顔をしてやぐらの下にうずくまる琳魚は、意識を保っていないのか、香夜たちには気が付いていない様子で浅く息をしていた。
 はだけた着物の帯のあたりに、じわりと赤い血がにじんでいるのが分かる。

「凪! あそこに、さっきの女の人が……!」
 
 そう言って凪の方を見るが、路地から出てきた複数の妖が凪を取りかこみ、襲い掛かろうとしているところだった。

「……っ、ぎょうさん出てくるのはええけど、そんなにいっぺんに求められても困るわ。僕、一人一人とじっくりやりたいタイプなんやけど!」

 刀が交わる金属音が激しく辺りに響き渡る。
 何人もの刃を一度に受けた凪には、香夜の声が届いていないようだった。

 凪から離れずに、近くにいろとは言われた。
 しかし、このまま倒れた琳魚を放っておいては、いつやぐらの炎に巻き込まれてしまうか分からない。
 瞬間、音もなく(いかずち)のような閃光が辺りを包み、やぐらの下、うずくまる琳魚に向かって鋭い光の矢が降り注いだ。
 その場にいた凪、センリ、伊織の視線が一気に集まる。少し遠くでセンリが何かを叫んでいる。

「…………っ、あ!」

 考えるより先に身体が動いていた。
 倒れていた琳魚の腕をつかみ、光の矢が彼女を貫く瀬戸際、自分の身体へと引き寄せる。

 そのまま意識のない琳魚を抱き寄せ、香夜は身体ごとやぐらの端へと転がるようにして倒れ込んだ。
 火の粉が頬をチリリと焼く感覚と、地面と身体が激しく擦りぶつかる衝撃が香夜を襲う。

「……っう、……」
「――香夜ちゃん!!」

 喉が張り裂けんばかりに叫びをあげた凪の声が香夜を呼ぶ。
 上手く息ができない。全身を強く打ちつけた衝撃で目の前がチカチカと弾け、白くかすんでいる。それでも、寸前のところで間に合ったようだった。

 激しく舞った砂埃のなか、横に倒れた琳魚の身体を捉える。薄紫の帯には変わらず血がにじんでいたが、まだかろうじて息は保っている彼女の様子を見てホッと息をついた。

「――おやぁ? 外してしまったようですねぇ……あわやあわや、せっかくの再会(・・)に、薄汚い半端者を交えてしまうなど興が覚めるというもの」

 背後で脳の裏側を生暖かいもので舐めあげられるような、気味の悪い声色が響き、背に冷たい汗が流れ落ちた。
 同時に、これまでとは比べ物にならないくらいの死臭が香る。
 振り向いてはいけない、いけないと分かっているのにも関わらず、香夜の身体は自分の意志とは関係なくゆっくりと動く。
 声のした方向に顔を上げると、そこに立っていたのは――――。

「ああ、久しぶりと言うべきでしょうかねぇ……、それとも、こういう場合は、涙を流しながら抱擁するべきなのですか? 愛おしい娘を前にした父親というものは」
「お……父さま……?」

 香夜の前に立ち、こちらを上から覗き込むようにして笑みを作っていたのは、死んだはずの父だった。
 それは時間にして数秒間。

 にこやかに笑う父の姿に時が止まり、香夜は呆けたようにその顔を見つめることしかできなかった。
 所々に浮かぶ皺の位置、目を細めて笑うクセ、その一つ一つが、細部にわたるまで‟父”そのものだった。
 しかし、何かが違う。
 外側は確かに父であるはずなのに、皮一枚挟んだところに恐怖そのものが広がっているような、得体のしれない寒々しさを感じるのだ。

「違う、違う……、誰ですか、あなたは」

 ここにいるのは、父ではない。父の姿をした、父ではない誰か。
 それに気が付いた瞬間、香夜は言いようのない吐き気と怒りを感じた。

「アハハ! さすがですねぇ。やはり、一度飲み込んだくらい(・・・・・・・・)では精度が低いのでしょうか。まぁまぁまぁ、これはほんの余興ですよぉ」

 声色もまた父を模してはいるものの、節々にまとわりつくような不快感を感じる。
 男は、動けないでいる香夜を見ると嬉しそうな嬌声を上げた。
 そして自身の顔に爪を突き立て、皮膚を引き剥がすようにして指を食い込ませる。

「い、や……」

 ずる、と音を鳴らし引き剥がされる父の笑み。
 父の形をした顔がボロボロと崩れ落ちていき、その下にある表情が露わになっていく。
 腰まで伸びた深紫色の髪、赤い月明りと燃え盛る炎に照らされてもなお、おぼろに白いその顔は死人のようで。
 顔立ちは中性的で非常に美しいものであったが、凶悪に歪みきった瞳が不安感を掻き立てる。
 古めかしい銀製のロザリオを首からかけた男の手には、細かい装飾が施された拳銃が握られていた。

「こんなにも美しい月夜に、あなた様に再会でき嬉しく思いますよぉ。やっと、やっとやっと、まみえることができた。ああ……やはりわたしは神に愛されている、この有栖(ありす)、恐悦至極にございます」

 黒いフロックコートを身にまとった男がそう言って、地面に倒れ込んだままの香夜へと手を伸ばす。
 しかし白い手袋が香夜の頬へと伸ばされ、今にも肌に触れるかと思われた瞬間、ピタリと止まった。

「あれぇ……? あなた、心がまだ生きていますねぇ? どうしてですか? 何故? どうして?」
「……っ、ぁ」

 声が出せない。瞬きをすることすら躊躇われる、ねっとりとした眼差しが香夜に向けられる。
 その時、地面をえぐるように砂埃ごと巻き上げた風が吹き、金属音が耳元で鳴り響いた。
 風の層かと思われたそれは、香夜を覗き込む男に向かって振り下ろされた凪の刀だった。
 男はそれを、手に持った小さな拳銃で受け止め、ゆるりと凪の方を見やる。

「あらぁ~? 誰かと思えば凪さまじゃないですか。いたんですか? 御免なさいねぇ、わたしとしたことが浮足立ってしまって、今の今まで気が付きませんでしたよぉ」
「……いい度胸やないか、有栖ぅ。胡散臭い面下げて何しに来たんや、香夜ちゃんから離れてもらえるか?」

 顔を上げて見た凪の表情は怒りで満ちていた。
 そんな凪の怒気をものともせず、挑発するように微笑んで見せる有栖と呼ばれた男。

 柔らかな凪の髪が逆立ち、沈丁花の香りが届く。凪は香夜と有栖の間に立つと、香夜の背にそっと手を重ねた。
 するとあたたかな感触が身を包み、痛んでいた箇所がみるみるうちに癒えていく。
 凪の額にはこちらを見る余裕がないとでもいうように汗がにじんでいたが、その温度は確かに香夜を安堵させた。

「……相変わらずですねぇ! そうやって守るものを持つから弱くなるのだと散々諫言したはずですよぉ。弱きものは神の寵愛を受けられないのです」
「離れろ、言うとるやろ。何が寵愛や、この裏切り者(ユダ)が」

 空気までもが震えるような怒りが、凪の全身から伝わってくる。
 琥珀色の瞳が茹だっていき、漏れ出すのは、鵺屋敷の門前で初めて凪と対峙した時に感じたのと同じ冷ややかな殺意。
 ただ一つだけ違うのは、凪から出ている魔力の気に、明確な敵意を感じるという点だった。

「……空亡連れて、町壊してなんのつもりや。目的を言え」
「連れて? アハハ、ここへ来たのはわたし一人だけですよぉ。町を壊すつもりはありませんでしたが、あまりに反吐が出る光景だったので、少しいじってあげただけです。皆さん可愛かったでしょう? 意志を失ったカラクリのようで」

 有栖はそう言って不気味に笑い、頬を赤らめ恍惚とした表情を浮かべる。
 濃紫の髪が揺れ、有栖の耳に付いた十字架のイヤーカフが見え隠れした。
 一人だけということは、たった一人でこの城下町を半壊させたということなのだろうか。

「それに、目的はもちろんそこにいらっしゃる、古の器ですよ。しかし、おかしいですねぇ? 心が生きたままでは役に立たないではないですかぁ」

 古の器。確か、口無しの間でも同じような台詞を聞いた。
 やはり、この男は自分を目的としてここへ来たのだ。
 父の姿に化けてみたり、再会といった言葉を使ったり、一体どういうつもりなのだろうか。

「あぁ、可哀そうに、小さき心の臓に意志を閉じ込められて、さぞかし窮屈でしょう……。今すぐに救ってあげますからねぇ」

 そう言って口元を歪めた有栖と目が合う。
 どこまでも深い、黒の瞳。ぞくりと身体が粟立つのを感じた。肉親を汚された怒りよりも先にきたのは、脳髄を舐めあげられるような、感じたことのない恐怖。

「香夜ちゃん、こいつの目ぇ見るな!」

 余裕を欠いた凪の声。凪から溢れる風が香夜を守るように間へと入り込む。
 血の気が引いていくような感覚がした。同時に、これまでとは比べ物にならないくらいの耐えがたい死臭が鼻をかすめる。

 血肉が腐敗したどこか甘さを感じる死臭は、有栖から出ているものではない。
 ならば、この吐き気を誘発する匂いはどこから来ているのだろうか。

 薄く笑う有栖が自身の胸元にあるロザリオに手をかけた瞬間、香夜をかばうようにして立っていた凪の顔色が変わる。

「伊織!!」

 凪がそう叫ぶと共に、いくつもの小刀が有栖に向かって飛び掛かった。
 水仙の淡い香りが凪の香りと混じり合って、濃い魔力の波動が場に充満していく。
 何が起こったのかを理解する前に、香夜の腕を柔らかいものがぐいと引く。耳に届いたのは、聞きなれたハイトーン。

「香夜、こっちだ! この姉ちゃんはオイラが連れていくから、早く安全なところに!」
「センリ……っ!」

 目の前を見ると、血相を変えたセンリが腕を引いていた。そして凪と並ぶようにして伊織が立っているのも確認できる。
 先程の小刀は伊織が投げたものなのだろう、同じものが彼の手にいくつも握られているのが見えた。
 センリがもう一度、促すようにして香夜の腕を強く引く。

「センリ、怪我してる!」
「こんなもん、かすり傷だ! そんなことより香夜、早くこっちに来い! 土蜘蛛さまと凪さまが盾になってくれてる間に逃げるんだ!」

 センリの身体は、伊織の家で見た時よりもボロボロになっていた。
 こんなに傷ついてもなお、香夜を助けるために大量に襲い掛かる妖の群れを抜けてきてくれたセンリを見て、胸がズキリと痛む。
 よく見ると、伊織と凪も傷こそ負っていないものの、その身にまとう服は所々が酷く破れていた。

「……っ」

 つかまれたセンリの手を強く握り返し、死角となる出店の裏へ逃げ込む。
 伊織が投げた何本もの小刀が巻き上げた砂埃によって、有栖の姿はまだ見えない。
 共に出店の裏へと連れ込んだ琳魚の顔色は先程に増して悪くなっていた。早く手当てしなければ、手遅れになるかもしれない。

 ――どうすれば、助けられる。

 ふと、鵺屋敷でうずくまる識に自身の血を飲ませたことを思い出す。
 あの時は、香夜の血を飲むことで識の身体に広がるアザが薄くなっていた。

「……もしかしたら、意味ないかもだけど!」

 懐刀を使って、自分の肌を傷つける。
 奇しくもその場所は、識に血を与えた時に切った場所と同じ腕の中腹だった。
 しばらく経ち、皮膚が裂かれたことによる激しい痛みが襲ってくる。

「香夜!? 何してるんだ!?」
「……大丈夫、センリ、この人の……琳魚さんの口を開けてくれる?」
「はぁぁ!? 何でそんなこと……」
「お願い、私の血を飲めば、この傷が治るかもしれないの」

 確証などどこにもなかった。それでもやってみなければ分からない。
 信じられないものをみるような顔をしたセンリが、しぶしぶ琳魚の口を開く。その隙間から、識にした時と同じように自分の血液を流し込んだ。
 一滴、二滴と、琳魚の乾いた唇へと垂れる香夜の血。

 コクリ、と琳魚の細い喉元が動き、その眉間にわずかなシワが寄る。

「……す、すごいぞ、香夜、見てみろ……!」

 センリの弾んだ声に、香夜は深く頷き返した。
 香夜の血を飲み込むと共に、琳魚の身体にあった傷がみるみるうちに薄くなっていき、やがて目立たないまでの痕へと落ち着いたのだ。
 帯ににじむまで出血していた腹部の傷も、上手く止血できたようだ。

「血で、傷が治せるのか……!?」
「わからないけど、花贄の血は、妖にとってご馳走みたいなものって凪が言ってたから」

 琳魚を見ると、浅かった呼吸も落ち着き、穏やかな表情になっていた。
 センリがぱくぱくと口を開いたり閉じたりしながら何かを言おうとしているのを見て、ふっと力が抜けていくのが分かった。

「……よかった」

 そう言って、香夜は息を吐き出した。

「――も~、痛いじゃないですかぁ。フフ、でも、見知った顔が続々と出てきてくれて嬉しいですよぉ。どうしましょうか、いい機会なので昔のように稽古でもつけて差し上げましょうかぁ?」

 その時、やけに耳につくなまめかしい声が通りの方から聞こえ、センリが数秒遅れて息をのむ。

「……チッ」

 伊織の舌打ちの音に前を見ると、砂埃が消え、有栖が先程と同じ位置に変わらない体勢で立っているのが見えた。
 たった一つ違ったのは、伊織が投げたであろう小刀を全て指の間で掴み取っていたという点だ。
 ということは、不意に投げられたはずの小刀を全てあの一瞬のうちに掴み取ったということになる。

「……大人しく死んでくれないかな。俺さ、裏切ったとか裏切ってないとか関係なく、昔からお前のこと嫌いなんだよ」

 伊織がそう言うのを首をかしげて見やり、鼻で笑った有栖が手に持った小刀を地面に落とす。
 金属が落ちる軽やかな音が辺りに響いた。

「んん~、そうやって怯えずに前に出てきたことだけは褒めて差し上げましょうねぇ。でも伊織さま、あなたはわたしを嫌ってるのではなく恐れているのではないですかぁ?」
「……はぁ?」
「凪さまをご覧なさい。わたしの目をくらまし、巧みに器を逃がしてもなお体勢を崩していないでしょう?」

 そう言った有栖がゆっくりと香夜の方へ振り向く。
 この場所は、死角になっていて見えないはずだ。しかし、おそらく全てバレている。センリの手が香夜の肩にかかり、ぎゅっと力んだ。
 センリの柔らかな肉球に、ぬるい汗がじわりとにじむ。

「しかし、あなたはどうですか伊織さまぁ。呼吸がかなり乱れていますねぇ? わたしと戦いたくないと、全身が叫んでいますよぉ?」
「……黙れ」
「昔からそうでしたよねぇ。凪さまや識さまの影に隠れて、逃げてばかりで。それでは、何千年経ってもわたしには勝てませんよぉ」
「……黙れって、言ってるのが聞こえないのか!」

 咆哮のような叫びをあげ、空間を蹴って有栖に飛び掛かる伊織。
 一瞬何もない場所を飛んだかのように思えたが、目を凝らして見てみると、空間中に薄く糸が張り巡らされているのが見えた。

「あかん伊織! 罠や!!」

 ハッと気が付いたかのように凪がそう叫ぶが、その時にはもう伊織が持つ刃の切っ先が有栖にかかろうとしているところだった。
 にやりと有栖の口元が動き、鋭い犬歯が垣間見えた。ロザリオに有栖の手がかかり、先程も感じた強い腐敗臭が香夜がいる場所まで漂ってくる。

「……センリ、伏せて」
「え、香夜……?」
「いいから、伏せて!」

 何かが起こる。香夜は戸惑うセンリを抱き寄せると、地面に沿うようにして身体を伏せた。それまで吹いていた柔らかな夜風が止まり、空間にわずかな波動のようなものが流れるのを感じる。
 波動は段々と大きくなっていき、その全てが有栖の立っている場所へと集結していく。

「――あぁ、迷える魂に、神の御加護があらんことを」

 聞こえたのは、陶然と上擦った有栖の嬌声。
 丸々と超えた常夜の月に手を伸ばし、有栖がロザリオに口づけをした瞬間、怒涛のごとく流れ出たのは魔力の渦だった。
 その荒ぶる波のような螺旋(らせん)はやがて黒々とした‟尻尾”の形となり、有栖に飛び掛かった伊織の首をとらえて締め上げる。

「ぐ、あ……」
「フフフ、よもやわたしに勝てるとでもお思いでしたか? 邪魔をしないでください。わたし、やっと、やっとやっとあのお方を蘇らせることができる器に再会できたところなのですよぉ!」

 有栖の後ろから、黒く波打つ魔力を放ちながら現れ出たのは、計九本の大きくそびえる尻尾だった。
 その内の一本が、ぎりぎりと音を立てながら上へ上へと伊織の首を締め上げていく。

「……九尾の、狐」

 呆然としたセンリがポツリとそう呟いた。
 聞いたことがある。かつて傾国傾城の悪妖とも呼ばれ、何百年にわたり人々を苦しめた妖がいたと。
 その妖は、人々が望んだ通りの姿に変化することができた。子に恵まれなかった夫婦の前では玉のような赤子に、そして時には人を惑わすような傾国の美女に。
 性質は極めて残虐にして無慈悲。人を喰らい、苦しめることを何よりの喜びとした妖は、‟九つ”の尾を持った狐であったという。

「あんまりそうやってうちの子いじめんといてくれる……、か!!」

 強い風が吹き付けると同時に聞こえたのは凪の声。
 上を見上げると、軽やかに宙を舞った凪の手に握られた刀が、伊織を締め上げる黒い尾を両断しているところだった。

「……ッゲホ、く、は……っ!」

 凪の刀によって尻尾が切れ、伊織はそのまま力が抜けたように地面へ落とされた。
 激しく咳き込む伊織のそばに降り立った凪が、薄く笑みを湛えたままの有栖へと向き直る。
 コキリ、と一つ首の関節を鳴らした有栖は、一連の凪の行動をものともしない様子で再びロザリオに手をかけた。
 視界の端で、綺麗に一刀両断された有栖の尾から、黒い水のようなものが溢れ出してくるのが見える。

「……あぁ、愛おしい、愛おしい、(いにしえ)の愛しいひとよ。今一度、わたしに微笑んでくださいまし」

 有栖の声が耳元でそうささやいたような気がして、香夜の心臓がどくんと跳ねた。
 何故だろうか、恐ろしくてたまらない。今すぐにでも、ここから逃げ出してしまいたい。
 尾から溢れ出した黒い水はやがて高い波のようになり、夜闇に下りた帳と混じり合ったそれはまるで深い水の底へいざなう大きな手に見えた。
 目の前で抱きすくめているはずのセンリが、焦燥した表情を浮かべ有栖と対峙する凪が、闇に包まれて見えなくなっていく。

「なに、これ」
「……有栖の妖術や!! 吸い込んだらあかん、連れてかれるで!!」

 くぐもった凪の声が聞こえ、瞬きをした瞬間、目の前が真っ暗になり何も見えなくなる。
 そうだ、特にこれといった欠点がない九尾の狐が、最も得意としていたのは、人を惑わし操る‟妖術”の類だった。

 暗闇の中、誰かが歌っているのが聞こえる。柔く吹き付ける春風が香夜の前髪を揺らし、穏やかなまどろみへと誘う。
 ―――これは、いつか聞いた子守歌。
 混沌とした深海にも似た夜の帳のなか、懐かしく響くいつかの声色に伸ばした香夜の腕だけが宙をさまよい、何もつかめないまま闇へと沈んでいった。


 深い、深い海のなかに沈んでいく感覚がする。
 口を開けて言葉を発そうとしても、水に飲み込まれて発音することがかなわない。

 黒々とした海の中、一つの光景が浮かび上がる。

「……あれ、は」

 見えたのは、香夜が生まれ育った桜の屋敷だった。
 屋敷の中、影の間で幼い香夜が眠っている。もしかして自分自身の過去を、見せられているのだろうか。
 次の瞬間、幼い香夜の枕元に立っていた人物を見つけ、思わず手を伸ばす。

「お父様……!」

 いつかの父が、そこに立っていた。
 父は誰かに向かって刀を向けている。その相手が誰か分かった瞬間、香夜は息をのんだ。
 有栖だ。有栖が、父の前に立っているのだ。

 有栖は父が向けた刀をいとも簡単に曲げ、そのまま胸を一突きした。
 声にならない悲鳴が、香夜の喉から出た。
 
「いや、いや、お父様……!」

 すると、父の胸を突き、何かを飲み込んだ様子の有栖の姿がみるみるうちに萎んでいく。
 それはおよそ信じがたい光景だった。有栖が、父の身体の中へ‟移った”のだ。
 父の身体へ移り、‟父そのもの”になった有栖が、眠った幼い香夜へ手を伸ばそうとした――その時だった。

 まばゆい鱗粉を放った蝶が夜闇に舞い、魔力の渦が有栖の手を弾いた。

「……え」

 思わず、その光景を見ていた香夜から声が漏れる。
 有栖の手を弾いたのは、紛れもなく、識だった。
 識は父の姿になった有栖と対峙し、少し躊躇したのち、手をスッと横へ引いた。

 すると、父にまとわりついていた黒い瘴気が消える。
 力が抜けたようにその場に倒れる父を、識が支えた。
 声も、音も聞こえない。これは、確かに過去の光景なのだろう。
 それでも、識の方を向いた父の口が、最後に動いた。――ありがとう、と。

「あ、あ……」

 感覚はない。それでも、頬を涙が伝っていくのを感じた。
 識が、父を殺したというのは嘘だった。
 識は、黒い闇に飲まれてしまいそうになった父と、幼い香夜を救ってくれたのだ。

 すると、目の前に広がっていた冷たく無機質な場面が、あたたかな陽だまりの中にいるようなビジョンへと変わる。
 淡い色彩で彩られたその光景は、泣き出してしまいそうなほどの懐かしさで満ちていた。うららかな春の日差しの下、舞い落ちる薄紅に目を細めながら紡ぐのはやさしい子守歌。

 歌っているのは、自分ではない。それなのに、香夜の口は自然とその旋律を口遊(くちずさ)み始めていた。
 晴天の空にあるのは真っ赤な満月ではなく、大地をほのかに焦がす太陽で、‟見せられている”この場所が常夜ではないことが分かる。

 目の前で上下する手は、自身の膝の上で眠る誰かの髪を愛おしそうに撫ぜていた。
 柔らかく艶やかな黒い髪に、長い睫毛。ふる、と揺れ、薄く開いた瞳がこちらを捉える。
 ひどく整った端正な顔に開いた双眼は、吸い込まれてしまいそうな深い赤。

 これはおそらく有栖が香夜に見せている幻で、現実に起きていることではない。
 頭のなかではそう理解しているにも関わらず、香夜の心が付いて来てくれなかった。

「――――、識」

 そう呼ぶと、今よりも幾分か幼い顔立ちをした美しい顔がほころび、花のように微笑む。
 香夜から出た声は情けなく震えていた。識だ。自分の膝の上で、こちらを愛おしそうに見やり笑みを浮かべているのは、紛れもなくあの黒き妖だ。
 しかし、識が見つめている視線の先にいるのは香夜ではない。

「呉羽」

 識の薄い唇がその名を呼ぶ。
 前に彼の口から聞いた時よりも甘く青い焦がれに染まった声色は、香夜の胸を腐食するかのように響いた。

 これは、香夜のなかに在る彼女の記憶が覚えている過去なのだろうか。
 甘く柔らかな春の昼下がりは時折ノイズが入ったようにかすみ、景色全体の輪郭がザラザラとした質感になってぼやける。
 まるで古い本の挿絵のなかに入り込んだかのように現実味のない光景に、香夜は眉をしかめた。

 こちらを真っ直ぐに見据えた識の赤い瞳は、甘く穏やかに濡れていた。
 花吹雪のなか、あたたかな鼓動を感じながら、香夜の手は幼い識をあやすようにその髪を梳いている。

 ここ最近、夜毎に見ていた夢は、このまばゆい春の日のことを見ていたのではないだろうかと心のどこかで思う。
 それならば、不純物はむしろ自分の方ではないだろうか。
 このまま幻影に身を任せてしまえば、いっそのこと、この生暖かい白昼夢のなかに溶け込んでいけはしないだろうか。

「識、……識」

 何度も名前を呼ぶ香夜を、キョトンとした顔で見返す識。
 名を呼び重ねるごとに、心のなかで疼く感情が漏れ出してくるのが分かった。きっと、今の自分はひどい表情をしているに違いない。
 止まれ、止まれと願っているのに、香夜の口は自分の意志とは関係なく動き続ける。
 
「…………識」

 目を閉じ、最後に絞り出すようにして出した香夜の声は掠れていた。
 識の名前を声に出して呼んだ夜、ひらひらと舞い落ちる薄紅の花びらをその身に散らしながら、識は香夜の血を飲み込んだ。
 心にうずく痛みが、嫌でも教えてくれる。この射るような深紅の瞳に、自分はとっくに魅入られていたのだということに。
 ――こんなの、悪夢以外の何物でもないではないか。

 できることならば、ずっと目を反らしたままでいたかった。
 しかし、一度自覚してしまった自分の感情は(せき)を切ったように溢れ出してくる。
 識に惹かれているのだ。識の本性を知り、過去を知り、あっけなく心を奪われてしまったのだと。
 胸を締め付けるこの感情は、自分の中に眠る呉羽の記憶に起因するものなのかもしれない。それでも、心は張り裂けんばかりに叫んでいる。

「……ごめんなさい」

 ―――今まで、何も知らずに、ごめんなさい。
 呉羽の名を呼んで、愛おしそうに微笑む幼い識を見たくないとでも言うように視界がぼやけていく。
 心が二つにかい離していくようだった。まばゆい太陽の光が、醜い心の内側を曝け出し、可視化させる。

 香夜がいるこの場所は、どうやら大きな桜の大樹の真下であるらしかった。
 舞い散る桜が薄紅色の絨毯を作り、肩に落ちた花びらを小鳥がついばみ去っていく。
 
 再び香夜の膝へ寝ころんだ識がごろりと寝返りを打ち、柔い髪が素肌をくすぐる。

 ここは人間の世界なのだろうか。随分と久しぶりに浴びた気がする日の光は目を閉じてしまいたくなるほどにまばゆい。
 下から見上げる識の視線は穏やかに凪ぎ、そむくことなくこちらに向けられていた。
 
 心の奥底で‟私を見て欲しい”と願う香夜自身が、苦しいともがいている。
 目の前で繰り広げられているその光景は、似ているようで違う、自分ではない誰かの視点から見る景色。
 瞼の裏で見ている夢の中に沈めば沈むほど、自分が死んでいくのが分かる。
 
 人の想いや願望というのは強大だ。
 その証拠に死の間際になると、人は自身の脳が作り出したかくも幸せな夢を見るという。
 死という底知れない恐怖を抱えきれなくなり、自分にとって最も都合のいい世界を作り出すのである。

 呼吸を諦めたかのように、こぽ、と力なく吐いた息が、水泡のごとく春の空気に消えていく。
 それはどこまでも優しく、香夜を包み込む死の間際の夢のようだった。

「…………っ、た」

 ふいに左腕が熱を持ち、じんわりと痛む。
 こちらに戻ってこいとでも言うかのように強くなっていく痛みに、香夜は唇をぎゅっと噛み締めた。
 左腕の中腹、香夜が識を、琳魚を救うために、父の懐刀で傷をつけた場所だ。

「……お父様」

 腕の傷からにじみ出たのは血ではなく、冷たく黒い霧の渦。
 懐かしい風が吹くあたたかな春景色のなかに溺れるのは、甘い安心感に満ちていた。
 しかし、過去の亡霊に負けて、夢に溺れるなど断固としてあってはならないと、父がそう言っているようでもあった。

 むせ返るほどに強い華の香りが、脳裏を撫ぜた。
 夢が覚めるのだろう、まばゆい世界がぼやけていく。香夜はゆらぎ消えゆく春景色に手を伸ばし、震える指先で眠る識の輪郭をなぞった。かぐわしい華の香りは強くなっていき、肌を包んでいた温もりは冷たく無機質なものへと変わる。

 目を開けると、香夜は何かあたたかく大きなものに抱えられていることに気が付く。そこはもはや夢のなかではなく、薄暗い荒れた城下町へと戻っていた。
 パチパチと弾けるやぐらの炎は、勢いを増している。その煙に紛れて、強い華の芳香が、香夜の全身を包み込んでいた。

「…………え?」

 上を見上げ、固まること数秒間。思わず、気の抜けた声が香夜の口から零れた。
 黒々と淀んだ瘴気が濁流となり満ちる城下町の中央で、赤い月明りがその美しい顔を照らし出す。

「――随分と色気のない面をしているな。喰う気も失せる」

 そう言って、身震いするほどのおぞましさを孕んだ見目麗しい妖は薄く笑う。
 黒く艶のある髪が夜風に揺れ、切れ長の瞳を見え隠れさせる。
 死を司る神がこの世にいたとするならば、このように絶望すら感じる美しさを持っているのではないだろうかと、頭の片隅で思った。

「……本物?」

 放心したまま香夜がそう問うと、黒き妖は訝し気に眉をひそめた。
 その表情を見て、夢が覚めたという仮説が確信へと変わる。
 しかし状況が全く理解できない香夜は身体をこわばらせたまま、間近に迫る端正な顔を見つめることしかできない。
 
 香夜はいつの間にか、美しい妖に――識に、抱えられていた。
 それも夢のなかで見た識ではない。ここで香夜を抱いているのは正真正銘、現実の識だ。

「あぁ、もう少しで心を殺せたはずなのですが、残念ですねぇ。フフフ、しかし、最後は夢の世界から自力で戻ってきましたねぇ? それにしても、まさか、まさかあなたまで来るとは思いませんでしたよぉ、識さまぁ!」

 不快な声色が聞こえ、識の視線がゆるりと右へと逸れる。
 そこには、髪を乱した有栖が立っていた。よく見ると、背広が所々パックリと切られているのが分かる。
 その瞬間、燃え盛る炎をも巻き込んだ暴風が地面に吹き付け、凄まじい衝撃が辺り数メートルにわたって伝導した。

「……急に現れて、いいとこだけ横取りっていうのはちゃうやろ、そんでちゃっかり香夜ちゃん抱き上げちゃったりして? 僕が何回呼んでも起きんかったんに、スッと起きてはるし? ……おい、クソ狐ぇ。僕は虫の居所が悪いんや、しっかり相手してもらうで? 死ぬまでなぁ!!」

 そう叫んで、弾丸のように有栖にかかっていったのは凪だった。
 凪がまとう風から伝わる魔力の機微は怒り一色で、何かに強く苛立っているようにも見えた。
 凪は細かく舞う鮮血のなかで朗らかに笑いながら、有栖が放つ光の弾丸を全て一本の刀で防いでいく。
 
 ずっと薄っすらと弧を描いていた有栖の口元が歪む。その表情に浮かぶのは、わずかな焦燥だった。

「先程も言いましたよねぇ、邪魔はしないでくださいと。わたしは今、凪さまや伊織さまに構っている暇はないのですよぉ。あぁ、でも、そこにいらっしゃる常夜頭を殺してしまえば全て終わる話ですねぇ?」
「アホか、僕がまだここでピンピンしとるんや。手出しさせるわけないやろ。識に関しては三回くらいその弾当たればいいけどな! 伊織とにゃんこは仲良くぐーすかお寝んねしてもうたし!」

 額に血管を浮き立たせてそう言う凪の言葉に下を見ると、伊織とセンリが倒れているのが見えた。
 「ひやしあめ……」とつぶやいたセンリの鼻からは、鼻ちょうちんが二つも出ている。

 地獄を体現したような有栖の力と、魔力で押し切る凪の技がぶつかり合い、空気までが震えていた。
 有栖の後ろにそびえる黒い九本の尾が自由自在に動き、飛翔しながらかわす凪を追って地面をえぐる。それに加え、拳銃の追撃も止むことがない。しかし凪は作為的に射撃される弾丸や尻尾での攻撃を全て体術のみで避けきっていた。目にも見えない速さで刀を振るう凪は、今までで一番好戦的で楽しげにも見える。反対に、有栖は凪の勢いに押されて余裕を失ってきているようだ。

 目の前でそんな交戦が繰り広げられていてもなお、香夜の意識はある一点に注がれたまま離すことができない。
 トクリ、トクリと伝わってくる鼓動のあたたかさは、識の胸に抱かれていることを再認識させた。その熱い体温だけが、未だ現実と夢の間で浮足立つ香夜を(うつつ)に繋ぎとめる楔のようだった。

 識の腕が動き、ぶらりと下がった香夜の腕に触れる。

「何故、血を流している」
「……え?」
「自ら傷をつけてまで、何故妖の命を救ったのだと聞いている」

 妖の命を救った、とは琳魚のことだろうか。
 香夜を真っ直ぐに見た識の表情には、冷たい感情も、嬲るような悪意も備わっていない。そこにあるのはただ純粋な疑問だけだった。黙ったままこちらを見つめ続ける識に答えを促されているのだと思い、香夜は口を開いた。

「……理由なんてない」
「理由がない? あの妖とは見知った仲だったのか」
「ううん、琳魚さんは……さっき初めて会って、話したこともない。でも、私に彼女を助ける力が備わっているのなら、役に立てるかもしれないのなら、助けない理由なんてないでしょう?」
「……理解できない」

 有栖の攻撃から琳魚をかばった時も、自分の肌を傷つけた時も、理由など考えてはいなかった。むしろ、勝手に身体が動いていたという方が正しい。
 怪訝な表情をして、こちらを見つめ続ける識に、香夜は手を伸ばす。

「理解できないのは私の方だわ」
「何が言いたい」
「有栖の幻術で、過去を見せられたの。……お父様のことも。どうして自分が殺したなんて嘘をついたの?」

 香夜がそう言うと、識はわずかに顔色を変えた。

「……俺が命を奪ったようなものだ」
「有栖が、お父様の胸を突いたのを見たわ。……その後に、身体を奪うのも」
「……ああ、すでに、意志疎通はできない状態だった。……それでも、あの時はまだ息をしていた」
「そう……でも、お父様はあなたにありがとうって言ってた。……お父様の命を奪ったのは、あなたではない」

 香夜がそう言うと、識の目が見開かれる。
 たとえどんな結末だったとしても、父の表情を、最期を見ることができた。
 すると、腕から移動した識の指先がそのままそっと香夜の頬を撫ぜ上げる。
 爪の先端で皮膚の浅いところをさすられ、ピクリと身体が反応した。

「……お前が俺を恨んでいるのなら、それでいいと思ったんだが」

 識がそう言って、香夜の左腕をつかみ上げる。
 そして傷が残った腕の中腹へと口を近づけると、目を閉じ、そのままそっと口づけた。
 優しく、治癒させるように流れ出た血を啜られる。
 甘い快感を伴なった痛みが襲うが、洗練された一連の動作に目を奪われ、動くことも、口を挟むこともかなわない。

「……とにかく、この血は、俺のものだ。俺の許可なく流すことは許さない」

 そう言った識は、わざと嬲るようにして香夜の傷を舐め上げた。
 識の姿は、毒を持った花のごとく妖しく麗しい。

 どうしてこの妖はこんなにも赤い月夜が似合うのだろうか。
 こうしている間にも城下町が壊されつつあるのに、識は気にする素振りすら見せず、ただ静かに獣のような目で香夜を見る。
 瞳の奥、揺らいで見えた独占欲に香夜は、かすかに困惑した。

 するとその瞬間、視界の隅で直線を描いた光線が横切った。識の腕に力が入り、パッと香夜の目の前へと手をかざす。
 息をのむ間もなく、鈍い衝撃が身体へと伝わった。
 香夜の前にかざされた識の手のひらから硝煙が上がる。

「……っ!」

 こちらに向かって流れた弾丸から識がかばってくれたのだと気づき、その顔を見上げてぞくりとした。
 血によって濡れた形の良い唇が弧を描き、深紅の瞳が鮮やかに色を持つ。
 ――この妖に、勝てる者などいないのではないだろうか。
 そう思ってしまうほどに、場を震撼(しんかん)させる魔力量だった。
 わずかに感じとることができた感情は、見つめる先にいる者への静かな怒りのみ。
 識が見つめる先には、凪と交戦する有栖の姿があった。

「識さまぁ、徒花(・・)の調子はいかがですかぁ? もうそろそろ満開になる頃でしょう?」

 目を見開いて叫ぶ有栖の言葉を、識は表情を動かすことなく聞いていた。
 そしてフッと鼻で笑い、燃え盛るやぐらへと視線を動かした識はそのままゆっくりと口を開く。

「また、随分と好き勝手にやっているようだな、有栖。貴様、常夜頭にでもなるつもりか」
「いいえ? まさか、まさかまさか、わたし何ぞがそのような大それたこと思うはずもありません! それにわたし、こう見えて一途なもので、望みは前から何ら変わっていませんよぉ」

 有栖がそう言うと、冷ややかな笑みを湛えたままの識の表情がわずかに動いた。

「饒舌だな。そんなに、一千年前の屍を蘇らせたいのか」

 識が、言の葉を水面に落とすようにしてそう言った。
 立て続けに放たれていた有栖の攻撃がピタリと止まり、薄く笑ったままの識を見て顔を歪めた。

「……一千年前の、屍?」

 香夜がそうつぶやくと、目を細めてこちらを見やる有栖。その瞳は石油色に濁っていた。

「フフフ、わたしにとっては香夜さまも、呉羽さまも、ただの器にすぎません。わたしが求めているのはただ一人の愛しい人のみなのです。フフフフ、しかし、この望みを実現させるには、邪魔なものが多すぎるんですよぉ。識さま、あなたもですよ?」

 眉を下げ、嬉しそうに屈託なく笑った有栖の白い歯が月明りに照る。
 有栖がつけた耳の十字架が揺らぎ、識の芳香に混じって血なまぐさい腐敗臭が届いた。リン、と澄んだ鈴の音が鳴り、倒れていた有象無象の妖たちがゆっくりと立ち上がる。

「……ほんと、頭にくるわ。悦に浸って喋るのも大概にせえよ化け狐ぇ!」

 そう言って刀を振りかざす凪が巻き起こしたつむじ風が、倒れたセンリや伊織に群がろうとする妖の刃を防いだ。
 強い突風にその身をあおられた妖たちが、次々とうめき声をあげて倒れていく。

「お前が裏切者なんはこの際もうええわ。最初から胡散臭い野郎やったからなぁ。でも、一つ確認しておきたいことがある。徒花の呪いとお前らの書にあった呪詛が同じ気をまとっとったんや。徒花と空亡の呪いは関連しとるんとちゃうか? なぁ、有栖」
「呪詛? ……あぁ。それはそうでしょうとも。しかし、みなさま、事の本質が見えていないようですねぇ」

 そう言ってうやうやしく天に向かい両手を掲げて見せる有栖を、刀を構えたまま訝し気に見る凪。
 有栖は空に浮かんだ赤い月を恍惚とした表情を浮かべて見上げると、神に祈りを捧げる時のように目を閉じて胸に手を当てた。

「フフ、フフフフ、関連しているどころか、空亡の呪詛と徒花の呪いは同じものです。すべて、すべて、このわたし、土御門有栖(つちみかどありす)が力を得るためだけにあるものなのですよぉ」
「……つち……みかど」

 土御門有栖。偶然にしては聞き覚えがありすぎる名前を今一度繰り返し、思い至った恐ろしい可能性に香夜は戦慄した。

 土御門家とは、"人間界"の、日本の朝廷に仕えている華族の名である。
 家学は陰陽道(・・・)。かの有名な安倍晴明を祖とした嫡流の公家だ。かつて、陰陽道は土御門家が全て司っていたと言っても過言ではないくらいに唯一の陰陽宗家として力をふるっていたと聞く。
 そして――、土御門とは桜の屋敷に仕えていた陰陽師の姓でもある。

 固まった香夜の方を見て、にやりと笑う有栖。
 その目の奥には、何も映していないようにも見える。ただ純然たる悪であることだけが理解できる魔力の気が、黒くうごめいて九つの尾にまとわりついていた。

「……ハッ、そうだ。こいつの正体は、九尾の狐でもなんでもない」
「なんやて……?」

 喉の奥で低い笑い声を鳴らした識の言葉に、凪が反応する。

「こいつの正体は、人間だ」

 識がそう言った瞬間、一瞬時間がとまったかのように辺りが静まり返った。
 やはり、そうだったのかと香夜は息をのむ。
 
「人間が膨大な魔力と呪詛を飲み込み、姿を変えているだけの張りぼてにすぎない」
「うそ、やろ……」

 フフ、と上擦った声を上げて目を細めた有栖は識の言葉に反応することも異議を唱えることもなく、自身の顔に手をかぶせ面を取るような仕草をして見せた。
 有栖の手が動くにつれて、凪がつけた細かい傷や服の裂け目までもが綺麗に治っていく。
 もしかすると、手傷を負いながら追い詰められているように見えたのは全てこの男の演技だったのだろうか。

「……鎮魂歌も、長すぎては神に見限られてしまいますねぇ」

 歪み切った顔で笑う有栖がそう言った時には、その身体についていた傷は全て何事もなかったかのように消えていた。
 間近で鳴る識の鼓動が熱くせり立っていくのがわかる。華の良い香りが漂ってくるが、汗一つかいていない識の表情は涼やかに有栖を見据えていた。

「器をこの手に得ることはできませんでしたが、急いては事をし損ずるとも言いますし。しかし楽しかったですよぉ、なにせ常夜へ足を踏み入れたのは久方ぶりですから」
「っ、待て……! 有栖!!」

 凪がそう言って刀を振るが、その切っ先は有栖に届くことなく宙を斬った。
 こちらをあざけるようにしてロザリオを手にした有栖の後ろに空間の淀みができ、やがて大きな紫紺の穴となった。
 あれには見覚えがある。口無しの間で常夜への扉が開かれた時に見た渦と同じ、空間のねじれだ。

 紫紺の淀みへ半身をうずめた有栖が、ゆっくりとした動作で香夜の方へ振り向き、愛おしそうに手を伸ばす。

「愛しいお方……この有栖、必ずやあなた様を救済してみせますゆえ、待っていてくださいねぇ」
 
 城下町の炎を飲み込みながら空間から消えゆこうとする九尾の妖を、呆然として見る。そんな香夜を、識が一瞬伏せた目で見降ろした。
 静かに赤く燃える瞳が香夜を射る。

「あいにく、渡すつもりはない。貴様の首を取るのも、俺の為に咲いた花を喰らうのもこの俺だ」

 識はそう言って、腕に抱いた香夜の首筋に強く口づけ、冷ややかな眼差しのまま有栖をねめつけた。
 まるで、これは俺のものだと主張するかのように。

「……っ!」

 頬がカッと熱を帯び、香夜は無意識のうちに識の大きな身体を押し返していた。
 しかし、そんな抵抗もむなしくむしろ強まる口づけの圧。

「……それはそれは、愉しみですねぇ」

 最後に見えた有栖の表情は、今までの恍惚とした笑みとは違う、どこか冷えた怒りすら感じるものだった。
 黒い尾が揺れ、影となり紫紺の淀みに混じって消えていく。場を満たしていた死臭もまた、薄まっていくのを感じる。
 香夜はとめどなく与えられる識の熱から逃れることができず、涙を浮かべて身をよじらせることしかできなかった。




「だ、だから少し離れて……!」
「断る」
「なっ……!」

 先ほどから永遠に続いているこの問答。
 ――どうしてこんなことに。
 香夜は、頭の中でそう自分に問いかけた。いや、というよりこの状況に対してと言ったほうが正しいだろうか。

「少し確かめているだけだ。お前は、理解できないところが多すぎる」

 それはこちらのセリフだ、と叫びたくなるが、恨めしくにらむことしかかなわない。
 香夜を畳の上に組み敷き、無遠慮に覆いかぶさっているのは一八代目常夜頭。美しく整い切った顔をこれでもかというほどに近づけ、こちらをじっと見続けている識に、香夜は抵抗を続けていた。
 深く沈んだ夜闇の中で、識の赤い瞳が光を放っている。着流しは着崩され、布ずれと共にその身体についた逞しい筋肉を晒していく。こうして間近で見ると、細く引き締まってはいるものの、均等に厳めしく鍛えられた精悍な身体つきである。
 そんな獣のような腕に、眼差しに、香夜がかなうはずもない。しかし、このままでは非常にまずい。

「どうした、何故そんなにも赤くなって縮こまっている」
「それは……っ!」

 そう、おかしいのはこの状況だけではなかった。香夜の身体もまた、先ほどから制御できないほどにおかしいのだ。
 識に触れられた箇所が疼き、甘やかな痺れを持って熱を帯びる。自分の心臓の音が、バクバクと耳元で鳴り響いている。その初めての感覚に、香夜はほろほろと涙を流し顔を赤らめることしかできない。
 
 いや、原因ならば少し思い当たるふしがあった。
 それは、識への感情をはっきりと自覚したことだ。
 過去の真実を見てしまったことも相まって、香夜はすっかり自身が抱える気持ちを知ってしまった。
 
 それに元々片鱗ならば所々に出ていた。識を見ると頭がぼんやりとして何も考えられなくなったり、華の香りがまるで媚薬のように香ってきたり。
 それを理性でなんとか制御していたのを、自覚してしまったことで一気に抑えられなくなったのだ。
 熱い識の体温を全身に感じながら、香夜はキッと目の前の妖をにらみつけた。

「なんだ、言いたいことがあるのか」
「言いたいことなら、たくさん……! だからまずは離れて、」
「断ると言っているだろう。言いたいことがあるならこのまま言え」

 識の無慈悲な言葉に、香夜は彼をにらむ眼光を強めた。
 言いたいことがあっても、こうして身体を密着させられていては言えないのだ。どうしてそれが分からないのだろうか。

 しかもこの男の悪いところは、全て計算無しで行動しているところだ。
 今、こうして香夜を強く押さえつけ、組み敷いた形でじろじろと観察するように眺めているのも、無意識なのだろう。

「……心拍の上昇が凄いな。発情しているのか?」

 真顔でそう言った識に、香夜は思わず口をあんぐりと開いてその丹精な顔をポカンと見つめた。
 ほろり、と涙が伝う。
 本当に、どうしてこんなことになったのか。
 それは、数時間前までさかのぼる――。

 土御門有栖が城下町から姿を消し、有栖の妖術で強制的に眠らされていた伊織とセンリが目覚め、香夜たちは鵺の屋敷に戻ることになった。
 言動の節々から有栖の関与が明らかとなった‟徒花の呪い”。
 一旦、有栖はこの場を退いたが、また近いうちに姿をみせるだろう。

 有栖の襲撃で半壊した城下町は識の魔力でほぼ元通りとなり、結界が張り直された。
 それでも妖術で操られていた妖だけは、身体だけではなく脳まで浸食されていたため、元の姿に戻すまで時間がかかるらしい。
 倒れたまま意識を取り戻さない琳魚もまた、駆け付けた鵺屋敷の使用人によって運び出された。
 屋敷へ運び、他の妖たちと同じく伊織が治療を施すという。

 予想外の襲撃があったはものの、事が一旦の収束を迎えようとしていた。しかし、そう丸く収まるはずもなく――。

「……なんで識がいるわけ? は? しかも有栖を逃がした? 本気で言ってんの?」
「いやいやいやいや、有栖ごときにしっかり眠らされてた伊織くんがそれ言う? 僕おらんだら今頃全滅やったんやけど?」
「眠らされてなかった奴が何もできてない方が問題だろ。烏天狗の頭が泣いてあきれるね」
「はああぁぁぁ!?」

 一触即発の空気を醸し出しながら向かい合った凪と伊織。大人げない伊織の言葉に対し、ピキ、と額に血管を浮かべながら睨み上げるこれまた大人げない凪。凪の後ろには、先ほどから何度もちらちらとこちらの様子を伺っているセンリの姿。バレていないとでも思っているのだろうか、凪に隠れ、識のことを盗み見ているのがはた目から見て丸わかりである。

「はいー! それ言うなら識も何もしてませんでしたー!! 香夜ちゃん抱えてアホみたいに突っ立っとっただけですぅー!」

 大きく腕を振りかぶった凪が、小さな子供のようなことを言いながら識を指さす。
 当の識はというと、橋の親柱にもたれかかったまま煙管をふかして素知らぬ顔をしていた。様になる光景ではあるが、凪や伊織の方を見ようともしないその横顔からは感情を読みとることができない。

「お前に言うとるんやぞ識! お前には色々聞かなあかんことがあるからな、有栖が元人間やったこととか、徒花の呪いと空亡の呪詛が同じものやったとか、なんで僕らに隠しとったん!? 普通にショックなんやけど!」
「……言う必要があったか?」
「あぁ!?」

 凪の怒号に、センリが頭を抱えるのが見えた。
 有栖の術から目を覚ました香夜は、気が付くと識に抱えられていた。
 空間に出現した紫紺の渦によって有栖が姿を消してもなお続いた口づけは、血走った眼をした凪がべり、とはがし事なきを得た。しかしどうしてそんなことをしたのか、また何を思ってここに来たのか、今のところ識の方から説明は何もない。というより、話す気がなさそうにも見える。

「……あ、あの、凪……?」

 そして、よくわからないことがもう一つ。
 香夜は横にいる凪に声をかけ、今一度自分の手のひらをまじまじと眺めた。顔を上げると、キョトンとした表情を浮かべた凪と目が合う。

「うん? どうした? まだどっか痛いとこある?」
「い、いや……何で手を繋いでるのかなって……」

 そう、香夜の手は先ほどからずっと凪の手に繋がれたままなのだ。
 繋いでいることを忘れているのではないかと思うくらいに自然な手つきだったため一度強めに振ってみたのだが、「はは、香夜ちゃんお転婆さんやなぁ」で済まされてしまった。

「え……? 何でって、さっき香夜ちゃん自分から危ないとこ突っ込んでったん覚えてないん? あとこうやって繋いどらんとまた識に持ってかれるかもしれんやん……」

 そう言って、何か間違ってますか、とでも言いたげな表情で香夜を見る凪。
 自分から危ないところへ突っ込んでいった、というのは香夜が琳魚を助けるために無茶なかばい方をしたことだろうか。
 ぎゅっと、繋がれた手を握る力が強まり、反射的に顔が熱くなってしまう。凪はそんな香夜を絡み合った視線の先で少しいたずらな瞳で見降ろした。

「ほら、さっき識に抱えられとった時よりええ顔しとるで? 何なら常夜頭の花贄なんてやめて僕のとこお嫁にでも来る? そしたら空亡どころか、誰も簡単には手出しできんくなるさかい。烏天狗の嫁なんてここら辺威張り散らして歩けるわ」
「な……っ!」

 皆が見ていることなどお構いなしな様子で、凪は繋いだ手を自分の唇へと持ち上げ、そのまま(うやうや)しくキスしてみせた。
 凪の仕草に、香夜は口を開いたまま何も言い返すことができない。そしてどこか満足気に香夜を見つめる凪。凪の言葉は冗談なのか本気なのかが分かりづらくて困ってしまう。

 すると、香夜の後ろでクックと喉の奥を鳴らした低い笑い声が聞こえた。
 ふわりと華の香りが漂い、視界の端で見慣れた羽織が揺れ動く。

「……俺が不在の間に随分と手懐けられたようじゃないか、凪。香夜を懐柔し、鵺に仇なすつもりか?」

 我関せず、のような顔をして煙管をふかしていた識が、香夜の横へゆっくりと歩いてくる。
 途中、その赤い瞳にねめつけられ、ドクリと心臓が跳ねた。

 識が凪と向き合うように立つと、魔力に伴った黒々しい瘴気がうねって空気が震えだす感覚がした。
 凪は正面に立った識を一瞥すると、はは、とわざと茶化すようにして笑い、そのまま口を開く。

「識こそ、身体は平気なん? 徒花は今んとこ見えんけど……、香夜ちゃんを呉羽の面影に重ねて振り回すなら、いっそのこと僕に譲ってくれてもいいんちゃう?」

 凪が口にした、‟呉羽の面影”という言葉に香夜は顔を上げた。
 相対した識は、顔色を変えずに涼しい顔をしてこちらを見たままだ。

「何のことだ? 振り回すどころか今だって、香夜を取り戻すためにここまで足を運んだようなものだ。城下が腐敗した炎に包まれたと、屋敷の方にまで伝わってきたからな」

 そう言って不敵に笑んでみせた識。
 識が自分を取り戻すためにわざわざここに来た。そんなことあり得ないとは分かっているはずなのに、香夜の胸は情けなくトクリと鳴った。

「……僕は手懐けられたんやないで、心打たれたんや」
「わ……っ」

 凪の手の力が再び強くなり、ぐい、と凪の方に引き寄せられる香夜の身体。
 琥珀色の瞳が優しく揺れる。その真摯な色にたじろぎ、思わずじっと見つめると、凪はどこか懇願するように眉を下げてみせた。どうしてそんなに悲しげな表情でこちらを見るのだろうか、そう思い香夜が口を開こうとしたその時、ピク、と識の眉間にシワが寄るのが分かった。

「この贄は、俺のために咲いた花だ。お前のものではない」
「香夜ちゃんは、‟もの”ちゃうよ。‟人間”や。俺のために咲いた花? 贄? 識、香夜ちゃんのことどう思っとるん? ちょっと色々言葉足らずすぎるんとちゃうか?」

 凪の苛立ったような声色に、香夜は思わず心の中でやめて、とこぼした。
 冷ややかな表情を浮かべ、何も答えない識の代わりに少し離れたところで見ていた伊織が大きなため息をついた。

「あのさ、この茶番いつまで続くわけ? 識はともかく凪、お前さっきからおかしいよ。譲るとか、誰のものとか、論点が違うだろ。花贄は、常夜頭に血を捧げる存在だ。識の印がこの女を選び、常夜に足を踏み入れてる時点でその事実は覆らない。お前さ、花贄をどうしたいわけ」
「やから、花贄とか誰の器とかどうだってええっちゅうとるやろ。一人でもこの子を真正面から見てあげとる奴はおらんのか? 身分やない、呼称でもない、香夜ちゃん自身をや」

 そう声を荒げていう凪の手のひらから、あたたかな温度が伝わってきた。
 同時に、ふわ、とモフモフした感触が足元をくすぐる。下を見てみると、怯えた様子を見せつつも両脚を踏ん張って香夜にしがみつくセンリの姿があった。

「オ、オイラは香夜が誰でも関係ないぞ! 香夜は香夜だからな!」
「凪、センリ……」

 二人が言う言葉は、あたたかくて少しだけむず痒い。自分を見てくれている、そう思うだけでも、何か大きなものに抱きしめられているような感覚がした。
 どういう表情をしていいのかが分からず、きゅっと口をつぐんだまま空いた手でセンリの頭を撫ぜる。すると薄茶色の胸毛がモフ、と膨れ上がり、分かれた尻尾がピンと立ち上がった。

「香夜ちゃんは僕らの役に立とうとか考えんくてええんよ。センリから聞いたわ。琳魚の傷治したんやて?」
「それは……、うん、そうなの。治せたらいいなって、思って」

 キレの悪い言い方になったのは、凪に黙っていたことへの後ろめたさからだった。香夜がそう言うと、耳を下げ、目を潤ませたセンリが言葉をつまらせるようにして口を開く。

「……っ、オイラ、オイラ。香夜があの綺麗な姉ちゃんを治したの見て、すげえって思ったんだ。でも、香夜の腕からたくさん血が出てて、怖くもなったんだよ。もし怪我してたのがオイラだったとして……オイラだったら、香夜が痛い思いをしてまで助けてほしいとは思わないんだ、きっと」

 上手く言えないんだけど、と続けたセンリに、鼻の奥がツンと痛む。
 一つ一つ、言葉を選びながら必死に伝えようとするセンリの尻尾がだらんと垂れ下がり、大きな一粒の涙がフワフワした頬を伝う。
 そんな顔をさせてしまうつもりはなかったのに。
 香夜が再び手を伸ばそうとすると、それを制するように凪が穏やかな声色を発する。

「……香夜ちゃんは正しいことしたと思うで。せやけど、琳魚も妖や。人間の血を飲み込んだ瞬間、狂暴化する恐れもあったわけや」
「……あ」

 考えてもいなかったことに、香夜の身体から血の気が引いていくのがわかった。
 確かに凪の言う通りだ。妖にとってご馳走のようでもある花贄の血。それでも、常夜の妖たちが香夜をめがけて襲い掛かってこないのは、幾年もの長い月日が流れて妖が人間の血の味を忘れたからなのだと、凪は言っていた。
 香夜はそれを、自ら琳魚に与えてしまったのだ。その後彼女がどうなるかすら考えることなく。

「そんな真っ青な顔せんでも大丈夫や、琳魚が飲んだ血はほんの少しやろうし、自我失って香夜ちゃんに噛みついてきたりはせんよ」
「でも、私考えてなかった。治せたら嬉しいって、……私も何か役に立ちたいって、ただそれだけ……」

 ただそれだけを考えていた。
 ボロボロになりながら自分を助けにきてくれたセンリに、凪のあたたかな体温に、報いたいと思ったのだ。
 すると、凪が繋いでいた手をゆっくりと離し、目線を香夜に合わせて屈んだ。そしてポン、とその大きな手のひらを香夜の頭へとのせる。

「うん、ありがとうな。香夜ちゃんがあの時身を(てい)してかばってくれてなかったら、今頃琳魚は死んでもうとったわ」
「……っ」
「でも、今度からは違う方法を見つけてほしいねん。僕も、なるべく近くにおるようにする。なるべく近くで、香夜ちゃんのこと助けるから、自分を傷つけんといて。香夜ちゃんは、自分の身を挺して誰かを救わんと存在価値を見出せん存在なんかやない。ただの、普通の女の子なんやから」

 凪が、再び泣き出しそうな顔をして香夜を見る。その視線に、言葉に、なぜか泣いてしまいそうになる。
 特別になろうとしなくていい。これは、生まれて初めて言われた言葉だった。そしてこうして人から言われるまで、自覚していなかったことでもあった。

 凪がふとした瞬間にみせるのは、慈しむような、壊れ物に触れるような、哀切が混じり合った表情だ。
 ふわりと、地面が濡れるにおいがした。
 少し離れた大通りの方から、町を復旧するための掛け声や負傷した妖を運び出す作業の喧騒が聞こえてくる。

「……さすが‟神童”だった男は言うことが違うね。一時は識よりも常夜頭に近いって言われてたし、特別扱いされてたもんな?」

 三白眼を細め、眉を歪めて伊織が言う。
 その言葉に、ピクリと凪の顔が固まった。そして、黙ったまま何も言い返さない凪に、皮肉げに笑った伊織が続ける。

「その女が特別じゃないって? 笑わせないでよ、だから茶番だって言ってるんだ。大体さ、現に、そいつが生きてるのは‟特別”だからでしょ。呉羽が中にいるから、生きてるんでしょ」
「やめろ、伊織」
「識がいるから丁度いいだろ、はっきりさせようよ。そいつの中に、呉羽の意志が眠ってる。識も、呉羽と重ねてその花贄を殺せなかったんだろ? なら、ひと思いに俺が殺して――、」

 香夜を指さし、そう言った伊織の言葉が止まる。
 いや、伊織だけではなく、その場にいた全員が息をのんでいた。識から漏れ出す苛立ちの匂いと、膨大な魔力量に。
 実際、この瞬間、識はほんの少し息を吐いただけだったように思う。しかし、その一瞬の間に、全員が地面に横たわる自分の死体を見たような錯覚に襲われた。
 識の苛立ちは、香夜に向けられたものではない。それでも、とっさに死を意識せざるを得ないくらいに澄んだ殺意だった。
 驚いた顔をして息をのんだ伊織は、固まった香夜に視線を移した後、いびつな笑みを作って識を見る。

「……殺すって、ただ言うだけでも俺にそんな殺意向けるんだ? 重症だよ、識。手懐けられてんのはどっちだよ。そんなに似てんの? 俺にはわかんないな、そいつが、呉羽だなんて」
「――香夜は、呉羽ではない」
「…………え」

 表情を変えることなく落とされた識の言葉に思わずこぼれた香夜の小さな声が、伊織のものと重なった。
 
 降りだした生ぬるい雨が、ポツリ、ポツリと露出した肌に当たる。
 赤い月はいつの間にか厚い雲に覆われており、雲間から淡く漏れ出した月あかりが雨粒に反射して、空から赤い血が降っているようにも見えた。
 識の黒く絹のような髪が雨に濡らされていき、白い肌と深紅の瞳が余計に美しく際立って見えた。
 目を見開いた伊織が、識に向かって口を開く。

「……は? それならどうして殺さずに生かして……」
「……お前たちは、さっきから何を言ってるんだ? 俺がいつ、香夜と呉羽を重ねていると言った? 憶測でものを話すな」

 呆れたようにそう言った識が羽織を翻し、空いた香夜の腕をつかむ。
 そのまま腰へと手を這わせられ、香夜の身体はまたもや重力に反する浮き方をした。ぐらりと傾いた重心に変な声が出る。
 呆気にとられたセンリと、慌てたように顔色を変える凪がスローモーションのように動いて見えた。

「ちょ……!?」
「たまには馴染みと話すのも悪くはないと思ったが、やはり気分の良いものではなかった。先に屋敷に戻っている」
「おい、待て識!! 香夜ちゃん連れてくつもりか!?」
「……? 俺が、俺の花贄を連れて帰ることに何か問題があるか?」

 至極当然、と言うように首を傾げ、凪が口を開く前に腕に力を込めた識。すると、強い華の芳香が香り、空間に裂け目ができた。識の胸に押しつけられた頬が熱い。わなわなと身体を震わせるが、すでに香夜の両足は宙に浮いてしまっている。
 三度目、いや、四度目ともなるともう展開が読めてしまう。

「……香夜ちゃん! 僕もすぐ追いつくさかい、何かされそうになったら識のこと殴ってでも止めるんやで……!!」
「……ちょっ、待っ……!」

 香夜がそう言うのもむなしく、凪の声が、足元にあったセンリのモフモフとした感触が遠くなっていく。

 ――空間が移る。
 
 冷たい紫紺の風に包まれていくなか、ただひどく苛立ったように前を見ている美しい妖。
 識はもう一度香夜の身体を強く抱きすくめると、混沌とした渦に身を任せるように目を閉じた。



 一瞬視界が黒に染まり、トクトクと感じる識の鼓動のみが直接香夜の身体に伝わる。
 ふわりと前髪を浮かせた柔い風に目を開くと、そこには既視感のある光景が広がっていた。

「ここは……」

 広い座敷のなか、一面に散らばった花びらと、文机が一つ。
 ここは、前にも来たことがある。先ほど識に治癒してもらったはずの腕の傷が鈍く痛むのがわかった。
 徒花の呪詛を全身に浮き出たせ、苦し気に顔を歪めていた識は今、飄々とした表情で香夜のことを抱えている。
 ――どうして私を助けたの、さっき言っていたことは、どういう意味なの。

 聞きたいことが山のようにある。
 識の方へ振り返ろうとした時、香夜の身体はまたもやくい、と引っ張られ、くるりと反転した。

「……っ!?」

 そのまま床へと押し倒され、識の大きな身体に組み敷かれる形となった。
 有無を言わせないその動作は、城下町から屋敷へ戻ってきてわずか数十秒でのことだった。

「なっ、何するの……!?」
「……いつの間に凪と親しくなった? ……俺は、てっきりお前と通じ合えたものだと思っていたが、凪の方がいいのか?」
「……へ? 凪?」

 識から放たれた思いもよらない言葉に、香夜は少しの間フリーズしてしまう。

「この血を勝手に流しただけじゃ飽き足らず、ああやって誰にでも尻尾を振るのだな、お前は」

 識の繊細な指がスッと香夜の四肢を撫で上げる。きつく、痛いくらいに抱きすくめられた身体は身動きが取れない。
 目の前の妖が何故こんなにも怒っているのかが理解できず、香夜はふるふると頭を振った。

「……何が違うんだ? フッ、こんなに目を潤ませて、犬のようじゃないか」

 意地の悪い言い方をする識の声は低く、冷たい怒りが伝わってくる。
 一体何を望んでいるんだ、そう思い、識を見た。顔を上げると息がかかるほど近くにあった識の瞳と目が合う。吸い込まれてしまいそうな、深紅が揺れる。

「どうして……そんなことを言うの? さっきだってそう、どうして城下が燃えてるのに私を助けたの? 識が作った、大切な町だったんじゃないの?」
「町ならばいくらでも作り直すことができる。あの場で、一番優先しなければいけなかったのはお前だ。お前が有栖に連れ去られてしまえば、面倒なことになっていた」

 淡々とそう言った識が、畳の上に転がったまま身動きが取れない香夜の髪を梳く。
 見下ろした眼差しには変わらず冷淡な怒りがにじんでいるのに、識の手つきは穏やかで、どこか艶めかしい。

 トクリ、トクリと心臓の音が早くなっていく。
 このまま近づいていたら、鼓動の音が識に伝わってしまう。そう思い、身体をよじらせるが、やはり離してはくれないようだ。識は香夜の動きに眉をしかめると、こちらの動きを制限するように太腿の間に足を挟んだ。服が捲りあがり、肌が露わになる感覚にカっと頬が熱くなる。

「は、離して……」

 言葉の先端が震え、ほろりと生理的な涙があふれるのがわかった。
 雨に濡れた識の肌が、月明りに浮かび上がる。常夜頭の赤い印が、香夜をおびき寄せているように照っていた。
 素肌に直接感じる識の体温が気持ちよく、香夜の羞恥心を煽る。呼吸の振動ですら、ピクリと反応する身体が今は憎らしい。
 浅く吐き出した吐息もまた、赤く色づいているのではないかというくらいに熱を持っていた。

「お願い、……離れて」
 
 識は何も答えない。
 どうして、何も答えないのだろうか。むしろ、香夜がこうして言葉をこぼす度に彼の表情が険しくなっているような気がする。

「……どうして離れてほしいんだ?」

 ようやく一言発したと思えば、識は至極真剣な顔をしてそう問う。
 ぎり、と強められた腕が悲鳴を上げている。

「どうしてって、このままじゃ、話もできない……から」
「…………凪の時は、そんな顔をしていなかっただろう。何故そこまでして拒絶する? 自ら近づいてきたと思えば、俺が近づけばこうして逃げようとする。何故だ」

 そう言った識には、冷ややかな殺意でも、意地の悪い笑みでもなく、子供が駄々をこねている時のような理不尽な苛立ちが滲んでいた。

「何故って……」
 
 どうして逃げるのかと言われても、逃げたいからだと答えざるを得ない。
 気が付かれてはいけない、感づかれてはいけないのだ。今もなお心臓が飛び出してしまいそうなほどに鳴り響いていることを。こんな風に組み敷かれ、理不尽に責められているにも関わらず、心から嫌だとは思っていないということを。

「……ずっと、理解できなかった」

 静かに言葉を落とした識が、香夜の方を見ずに続ける。

「お前に触れ、口づけを交わすたびにこの身を蝕む徒花は薄らぐ。血を飲めば、魔力が高まるのが分かる。壊したくないと思えば思うほど、……心の中が熱くてたまらなくなる」

 ――心の中が熱くてたまらなくなる。
 そう言った識は、その端正な顔をくしゃりと歪ませると、香夜の瞼にそっと口づけた。そのまま、流れた涙をつう、と舐める識。

「……っ」

 地面を濡らし、蒸した風が華のかぐわしい香りを運ぶ。
 強くなってきた雨の音が、香夜の心臓の音を隠してくれているようだった。

 心が、身体が熱くてたまらないのは自分の方だと香夜は思う。識は、自分を見てはいない。彼が見ているのは、この胸の中で眠る呉羽なのだろう。戯れに愛してやるといたずらに微笑んだかと思えば、そう言ってこちらを求めるような、懇願するような瞳で見たりする。そんなの、非道く、残酷だ。

 心がこんなにも揺さぶられ、感情が湧き上がってくるのは、ずっと‟自分”を押し殺して生きてきた香夜にとって生まれて初めてのことだった。

 それでも、香夜は、「あなたが見ているのは私ではないのでしょう」とは言えないのだ。
 言ってしまえば、識が目の前からいなくなってしまうような気がして、それがどうにも恐ろしかった。
 だから、こうやって贄として殺されることもせず、ただ甘く冷酷な欲をぶつけられ、涙を流すことしかかなわない。

「……拒むな、身を任せろ」
「そんなの、……っ、無理」
「嫌なのか?」

 わずかに眉を下げ、香夜を上目遣いで見上げる識。その愛らしい幼子のような仕草に、うっ、と言葉を失ってしまう。
 濡れた識の瞳には、香夜以外何も映っていない。恐らくこの男には自覚がないのだろうが、無自覚なところが逆にたちが悪い。身体を密着させ、乞い願うようにして香夜の頬を撫ぜるその姿に、冷徹な常夜頭の威厳は最早どこにもなかった。
 
「……い、嫌、じゃない……」
「嫌じゃない? ならどうしてそんなにも俺を拒む」
「わからない……の。初めてだから、こんな風になるのは。は、恥ずかしいの……! だから、嫌ってわけじゃなくて……」

 ――もう、これで許して。
 願いを込めて見つめると、識は一瞬目を見開いて固まった。
 数秒の間、沈黙が流れる。

「……恥ずかしい? 意味がわからない」

 そう言って、怪訝そうに顔をしかめるその姿はまるで伊織のようだ。もしかすると、この男は想像以上に人の感情というものが分かっていないのではないだろうか。
 香夜がそう思い至ったと同時に、識の方でもどうやら思考がまとまったようで――。

「それでも、嫌ではないのだな」

 理解はできない、それでも嫌ではないことだけは理解した。
 と、識の中で一旦の折り合いがついたらしい。相変わらず眉間には深いシワが寄っていたが、強められていた腕の力は緩められ、ホッと息をつく。
 しかし、捲れた服を直そうと足を動かすと識は再び体重をこちらにかけ、香夜を畳に押しつけた。

「い、……嫌じゃないって言ったよね? だ、だから少し離れて……」
「断る」
「な……っ!」

 というところで、流れは冒頭へと戻る。
 永遠に続く問答には終わりが見えない。というより、香夜には識が考えていることがさっぱり読めなかった。
 何度離れてくれと頼んでも、離してくれない識の視線が、茹だるように熱いことだけが分かり、それが余計に香夜を混乱させていた。
 もう誰でもいいから助けてほしい。そう、心の中で叫びを上げるが、こんな時に限って狐火一つ舞ってはこない。
 すると、そんな香夜の思考を読み取ったのか、識がゆるりと口を開く

「この座敷には、よほどのことがないとたどり着けないようになっている。使用人も、強い魔力を行使できる天狗ですらもな。全て、この身に宿る魔力が成したことだ」

 その言葉に、凪が言っていたことが頭によぎる。
 この鵺屋敷は、識の意識で構造が変わるようになっていると。

「……そのような力、求めていたわけではないというのに」

 雨音にかき消されるくらいの声で、識がつぶやいた。彼の方を見てハッとすると共に、香夜は思わずその目元に触れていた。
 再び訪れた沈黙と、先ほどよりも幾分か驚いた表情をして固まる識。

「泣いてるの?」

 悲痛さを伴なった声でつぶやいた識が、泣いているように見えたのだ。
 雨に濡れた髪から滴り落ちた雫が、識の凛と尖った顎先を伝う。
 長い睫毛が白い頬に影を作り、瞬きをするたびにふる、と揺れる。目を丸くさせてしばらく香夜を見つめていた識だったが、やがて、ふ、とため息を一つ吐いて身体を離した。

 全身にかかっていた識の重さが無くなり、スッと熱が引いていくのが分かる。
 やっと離れてくれた。そう安堵すると同時に、刹那の喪失感が残った身体をさする。自分で触れると、ピリピリとした淡い余韻が身体の奥に残っていた。

 障子が開かれた縁側へと移った識が、穏やかな表情を浮かべこちらを見る。

「……こちらに来い」

 そう言った識の声色は、静かに凪いでいた。
 今まで聞いたどの声色とも違う、毒気が抜かれた響きにドキリとする。香夜は、そのまま引き寄せられるように識の元に行き、そっと腰を下ろした。
 降りしきる雨がまるで外の世界とこちら側を遮断する暖簾(のれん)のようで、時折弾ける水しぶきの音が心地よく聞こえた。

「泣いているのかと、聞かれたのはこれで三度目だ」
「え……?」

 誰もいない庭の向こうを見ながら、言葉を落とす識。過去を偲んでいるかのようにも見えるその横顔を見て、香夜は自分の胸の奥に意識を向ける。

「……それは、呉羽さんのこと?」

 そう言った香夜を一瞥した識は、別段感情を動かすことなく、また庭へと向き直った。
 きっと、肯定の意と捉えていいのだろう。横顔から語られる深々としたしめやかさに、そう悟る。

「誰かの前で感情が動くことなど、なかった。何をしていても、色彩がなかった俺の日常にあの女は……呉羽は、土足で上がり込んできた」

 識が言葉を紡ぐたび、座敷に一つ、二つとほのかな狐火が舞い込んでくるのが分かった。
 薄暗い翠雨(すいう)に隠れて見えなかった庭の桜が、その火に照らされてぼんやりと浮かび上がる。

 意志を感じない香夜の中の呉羽が、すう、と深く息をしたような気がした。

「無遠慮に、それが当たり前だと言わんばかりに、俺の中に入ってきた女は、ある日、目の前であっさりとその身を散らした。……ここがそうだ。ここが、呉羽が死んだ場所だ」

 声を揺らすことなく、そう言った識に息をのむ。
 狐火が漂い近づき、香夜の目の前でパチンと爆ぜた。途端に、香ってきたのは生々しいほどの血の匂い。

『識は未だにあの頃の、あの時間、あの場所に囚われたままや。血まみれで呆然と座り込んどったまま、抜け出せん闇の中におる』

 凪の言葉が、頭の中でこだました。
 早くなっていく自分の脈に感じるのは、数刻前とは違う焦燥。身体の奥で眠る意志が、今まさに己の自我を主張するかのように競っている。

「……聞いても、いい? 呉羽さんのこと。識のこと。ここで、何があったのか」

 あの日、この屋敷で何があったのか。それを知ることは、きっと恐ろしい。強くなっていく血の匂いがそう思わせる。それでも、香夜は自分の中で早まる脈の意味を知りたかった。

 わずかな間の後、織が口を開く。

「聞くよりも、見た方が早いだろう。お前は、記憶と同化(・・)しやすいだろうからな」
「同化?」
「有栖が使ってみせた術と似て非なるものだ。……もっとも、誰かに見せたことはないが」

 識はそう言って、漂ってきた狐火を手のひらに乗せた。
 そのまま火を揺らすようにして息を吹き込む。すると、その狐火は瞬く間に(おびただ)しい数の光輝く蝶へと変化し、視界を覆っていく。

 蝶が舞った後に落とした鱗粉は鮮やかな花びらへと姿を変え、その夢のような光景に香夜は声を出すことも忘れて見惚けてしまう。

 有栖が見せた白昼夢のような光景は、入り込んでいく時、水に溺れる感覚がした。
 しかし、これは違う。まるで、心地の良いまどろみの中に沈んでいくようだ。

「識」

 無意識にそう呼んで、伸ばした手の先にいた識の口がゆっくりと動く。

「……俺を、見てくれ」

 いつか、この場所で言われたものと似て非なる言葉。
 それが前とは違った響きを持って、舞い上がる花びらの中に消えていく。

 瞬きをするたびに、視界に広がる景色が少しずつ変わる。少しくすんだ景色の色は、古びた映画のワンシーンを連想させた。
 目の前を覆いつくしていた蝶の群れと、花びらも次第に薄くなっていき、段々と消えていく。

 同じ座敷の中にいるはずなのに、肌で感じる‟異質感”。
 縁側に座っていたはずの識も、降りしきっていた雨も、気が付くとそこにはなかった。

「――……どうしたのですかぁ? そんなに驚いた顔をして。フフフフ、わたしの顔に何か付いていますか?」
「……っ!?」

 後ろから聞こえた、やけに聞き覚えのある粘着質な声にビクリと飛び上がる。
 とっさに距離を取り、香夜が身を屈ませると、そこにはもう二度と会いたくないと願った人物が立っていた。

「……土御門有栖」

 座敷の中心に佇んでいたのは、口元を歪め、城下町を襲っていた時と同じように笑みを浮かべた有栖。
 しかし、香夜が投げかけた声は彼には届かなかったようだ。よく見ると、有栖の雰囲気は城下町で見た時とは少し違って見えた。
 黒いフロックコートではなく、昔の貴族が着ていたような狩衣(かりぎぬ)を身にまとう姿はやや時代錯誤なようにも感じる。

「フフ、なにか仰ったらどうですか? 識さまぁ」

 そう言った有栖の視線の先を見て、あ、と声が出た。
 月明りの下で、顔立ちに今よりも少し幼さの残る識が有栖を睨みつけるようにして立っていたからだ。

 一匹だけ残った蝶が低く飛び、香夜の足にぶつかった瞬間粉となって空中に舞う。

 ――これは、きっと、識の記憶だ。

 自分の身体を見てみると、手のひらなんかはわずかに透けているように見えた。
 それに、香夜のことはあちら側(・・・・)からは視認できないようだ。

 今、識の過去にいるのだ。未だ未練を持ったように光を放つ蝶の残骸が、そう理解させた。

 さっき識は‟聞くよりも、見た方が早い”と言っていた。
 これは、識の過去。つまり呉羽が亡くなったという夜の、追体験なのだろう。
 
 有栖の後ろには、黒狐の面を付け、狩衣を着た者たちが陣をしくようにして並んでいた。この者たちは、有栖に仕える妖なのだろうか。伝わってくる魔力は、前にいる識に向けた憎悪の念ただ一つ。
 皆、武器を構えて、臨戦態勢をとっている。

 ――やめて。
 心のなかで、そう唱える。

 この先に待ち受けている未来を、直視するのが怖い。
 知りたいと願ったのは香夜自身なのに、目を覆ってしまいたくなる衝動にかられた。
 
「……裏切ったのか、有栖」

 識は、目の前に並んだ黒狐の軍勢を前にしても、うろたえることなく、静かに有栖を見上げた。
 丸く肥えた庭の月が滴り落ちてきそうなほどの赤を湛え、あどけない‟鵺当主”の美貌を際立たせる。

「フフフ、わたしは元来、味方などではないというのがまだわかりませんかぁ? わたしは、最初から一つのことしか考えておりません。あなたからいただきたいのは、空亡の寵愛を受けたその力のみなのです」

 恍惚として声を上擦らせ、のけぞった有栖の胸には十字架のロザリオが鈍く光り輝いていた。
 
「空亡だと?」
「ええ、空亡は、いわば常夜の太陽ともいえる赤き月。全ての終焉と、再生を司る神なのです。全ての妖は、魔力は、いずれ空亡へと帰還する。そしてまた新たな命が空亡によって生み出されるのです。これほどまでの力が、感銘が、ありましょうか。ええ、ええ、ありませんとも……!!」

 そう叫び、悦に入り切った有栖の濁り切った瞳には、何も映ってはいない。月に向かい、愛おしそうに手を伸ばす有栖の頬にピリリと亀裂が入る。
 
 空亡。
 空想上の妖とされ、香夜もその存在は古い絵巻でしか見たことがない。

 しかし、あれは妖というよりも概念のような存在だったはずである。
 妖怪、空亡。百鬼夜行が終わるころに現れる、禍々しい黒雲と業火に包まれた巨大な球体。
 意志を持たず、まるで赤き津波のようにこの世の全てを飲み込んでしまうという、自然悪。

 初めて絵巻で空亡のことを知った時、香夜は百鬼夜行における太陽を指しているのだろうと思っていた。
 妖にとっては最早遠い存在となった陽光が恐れに反転し、おぞましい空想の妖が生み出されたのだと。

 でも、有栖を見ると、まるで常夜の空に浮かんだ赤い月が空亡であり、神であり、避けられない厄災そのものなのだと言っているようだ。

「ある日、しがない一介の陰陽師だったわたしは空に向かってこう願いました。愛する人を救いたい。愛する人を手に入れたい。愛する人を奪った、妖を超える力を持ちたい、と」
「……なんだと?」
「そうしたらなんと! わたしの身体は一瞬にして妖の力を超える魔力を使えるようになったのです! ……まぁ、力を手に入れるために何体かの妖には犠牲になってもらいましたが」
「……俺の耳がおかしいのか? 有栖。お前の言葉が正しければ、ただの人間だったお前が妖を喰い、魔力を手にしたかのように聞こえたが」

 識がそう言うと、嬌声を上げて笑みを浮かべていた有栖の顔から表情が消える。

「ええ、その通りでございます。それなのに、妖に匹敵する魔力を手に入れても、あの方は私を見てくださらなかった。常夜頭なんぞと恋に落ち、常夜で一生を終えてしまった。……それなら、呪い(・・)を使ってでも蘇らせるしかないでしょう?」

 まとわりつくようだった魔力の香りもまた、無機質な怒りが感じられるものへと変わり、空気が一変するのが分かった。
 有栖が振り返ると、後ろに並んでいた黒狐の集団が示し合わせたかのように二つに分かれる。すると、黒狐に紛れ、中心に立っていた者が露わになった。

「……嘘」

 誰にも届かない香夜の声が、静まり返った座敷にポツリと響いた。
 どうして。
 目の前に現れたその人物を見て、口から出てきたのはその感情ただ一つだけ。
 静寂のなか、白銀に輝く長髪をなびかせた少女の唇が弧を描く。

「……口無し、さま?」

 そこには、口無しの間で見た少女があの日と変わらない姿で佇んでいた。
 赤い瞳、白く透き通るような肌、口元の当て布こそしていないものの、その姿は紛れもなく‟扉”として繋がれていた口無しそのものである。

(くだん)さま、こちらへ」

 そう言って手を差し伸べた有栖に笑みを深めた口無しは、呆然と立ちすくむ香夜の横を音もなく歩いていく。
 口無しが通り過ぎる瞬間、ふわりと舞ったのは線香のような魔力の香だった。一瞬こちらを見た口無しの目が香夜を捉えたような気がして、呼吸が止まる。
 不思議な雰囲気をまとった少女が、座敷の畳に足を擦るたびに、黒々とした影がぶくぶくと湧き出し消えるのが見えた。

「件……予言をする不死の妖か? その身には、幾千もの記憶と英知を携えていると聞くが……」
「幼き鵺よ。わらわは凶事を視た。お前の花贄……呉羽に、一千年前の血が流れておる。元祖の血だ。常夜頭と恋に落ち、悲運を辿った娘の器だ」
 
 澄んだ声で応えた少女の言葉に、識の顔色が変わる。

 一千年前の血。常夜頭と恋に落ち、悲運を辿った娘の器。
 有栖が探しているという、‟古の器”。
 呪いを使って、蘇らせる――。
 香夜の頭の中でバラバラだった言葉が、ピースとなって繋がっていく。

 かつて、深く愛し合った妖と人間の娘がいたということ。
 その妖は、常夜を統べる常夜頭であったこと。
 やがて常夜頭は娘を裏切り、悲しみに暮れた娘の嘆きが徒花の呪いへと変化したということ――。
 この言い伝えが、間違って伝わっていたとしたら?
 徒花の呪いは、全く関係ない第三者(・・・)が生み出していたとしたら?

「件さま、今一度お答えくださいませ。あのお方の血を受け継いだ呉羽さまに、わたしが呪いへと変化させたあのお方の魂を飲み込ませれば、わたしの願いはかなうのですね?」
「ああ、一千年の時を超え、お前の想い人は蘇るだろう」

 そう言った少女の身体は、その指先にわたるまで白く光り輝いていた。この少女は、香夜が本家で出会った口無しと同一人物なのだろうか。見た目も、声色も、記憶のなかにある口無しと一致している。しかし、感じる香りは全くの別物だ。口無しの間で対峙した時は、もっと別の、禍々しいものを感じた。今、有栖の横で清廉と微笑む少女から感じるのは、触れたら一瞬にして崩れ落ちてしまいそうな儚さと、凛々しさを孕んだ気品だった。

「……勝手に話を進めるな、呉羽がなんだって? 一千年前の血だと?」

 怪訝な表情をして、有栖と口無しをねめつける識。
 目が座った有栖の口元から、ふっと息が抜け、こもったような笑い声が溢れる。

「フフ。ハハハハハ、……わたしとしたことが……本題を言いそびれていましたねぇ」
「本題だと?」
「ええ。あなたの花贄となった、呉羽さまをこちらへお渡しいただきたい。なに、手荒な真似はしませんよぉ。少し、呪いを飲み込んでもらうだけのこと」

 有栖の言葉に、識の表情が目に見えて変わるのが分かった。

「さあ、早くお渡しを! わたしはこの日のために力を、魔力を、蓄えてきたのです。徒花の呪いを使って歴代の常夜頭から膨大な魔力を奪ってまで!!」

 目を見開いた有栖が、喉の奥底から咆哮するようにして叫んだ。
 黒く淀んだ魔力から伝わってくるのは膨大な怒りと、憎しみ。有栖の内側から、耐えがたい腐敗臭が漂ってくる。

「……あの方は、妖などと恋に落ちてはいけなかった。わたしと結ばれるべきだった。――識さま、あの方の器を、返してください」

 頭が割れるように痛い。
 有栖の声が、淀んだ魔力が、直接脳内に入り込んでくるようだ。

「……ふざ、けるな」

 柱に寄りかかった識が、ひどく震えた声でそうこぼした。
 聞いたことのない声色と、怒りがにじんだ表情。深紅の瞳がうろたえ、揺れ動く。

「お前も哀れな男だ、幼き鵺当主よ。わらわはお前の凶事を視た。今日、お前は争いに負ける」

 口無しと同じ容貌をした少女がささやく。
 その瞬間、ふわりと華の芳香がし、識の黒髪が目の前をよぎった。

「……ふざけるなと言ったのが聞こえなかったか? 件。俺が負けるだと? 呉羽はもうとっくに俺が逃がした。負けるのは貴様らの方だ」

 どこから出したのだろうか、いつの間にか識の手に握られていた長刀が、少女の首元に突き付けられていた。
 反り返り、鈍く光を放つその刀の柄は以前凪が出したものとよく似ている。

 ごふ、と咳込んだ少女の口から、鮮血が流れ落ち、畳を汚した。
 刀を突きつけられてもなお凛然たる面持ちで佇む少女に、識が持った刀の切っ先がわずかに下がった。

「わらわを殺すか、鵺よ」
「……他に何を見た、呉羽のことか? 答えろ、件!」

 座敷に響き渡る識の激昂と、少女の声。それを、不気味な朗笑が邪魔した。

「フフフフ、フフ、ハハハ、件の予言は絶対ですよぉ? 識さま。さあ、呉羽さまをどこへ隠したのです? 早く出してください」

 有栖の合図と共に、風を切った黒狐の集団が識に向かって一斉に襲い掛かる。

「識!!」

 思わずそう叫ぶが、香夜の声は、識に届かない。
 少女に向けられていた識の刀が、黒狐の攻撃にぶつかり鋭い剣撃の音を鳴らす。
 険しい顔をして何十もの攻撃をかわす識だが、忍のように身体を低くさせて刀をふるう黒狐の方がやや優勢にも見える。

 ――魔力の錬成が間に合っていないのだ。
 荒々しい力の香りが香夜の鼻を刺す。識のものだ。識が、力で押し負けることなどあるのだろうか。
 背ににじんだ汗が、じわりと香夜の襦袢を貼りつかせる。

「……っぐ、……!」
「識さまさえ諦めて下されば、全てが丸く収まるのですよぉ」

 有栖が、首元にかけたロザリオを手にする。
 まとわりつくような甘い声が、脳内を揺らした。

「――そうですね、では、呉羽さま自身が死を望んでいたとすればどうしますか?」

 錆びた銀の十字架を握りしめ、有栖がそう言った瞬間、識を覆っていた気が変化するのが分かった。

 識が持っていた刀がスッと虚空を舞い、下に降ろされる。
 一瞬の出来事だった。その一瞬の間で識から失われたのは、‟生きようとする気力”。
 識を立たせていた力が全身から消え、目の色が失われていく。

「……駄目、お願い、やめて」

 情けなくこぼれた自分の声が、まるで他人が発した声のように聞こえた。
 


 識が刀身を降ろしたと同時に、突風のごとく飛び掛かかる黒狐の刃。
 
 識が、殺されてしまう。
 にやりと有栖の口元が弧を描くのが、視界の隅で見えた。
 くすんだ景色のなか、香夜が目を覆いそうになったその時、ドクンと心臓が大きく鳴り響く。

「――どうした識、私はお前に、そんな顔をしていいと教えた覚えはないぞ?」

 空気が、突如として響き渡ったその声に呼応するようにして震えた。
 庭の草木や、屋敷の装飾品までもが、細かく打ち震えているようにカタカタと鳴っている。
 いや、違う。これは空間に同化した香夜自身が震えているのだ。

 識の香りとよく似た、華の強い香りが風に乗ってこちらに届く。

「呉羽、……? 何故だ、逃げろと言っただろう」

 識の声が、弱弱しく落とされる。
 気が付くと、先ほどまでそこに立っていた有栖が地面に伏せ、胸から血を流していた。

 いや、有栖だけではない。識を囲んでいた黒狐の集団も、口無しと似た少女も、みな一様にして倒れていた。何が、起こったというのだろうか。
 何も見えなかった。風や、香りすらも異変が起こったことに気が付かないくらい、一瞬の出来事だった。

「あはは、よかった、一世一代のまじないだったけど効いたみたいだな! ねえ凄くない? 悪い妖までやっつけられちゃう私のまじない、凄いだろ?」
「…………呉羽」

 喉の奥底から絞り出したかのように揺れた識の声が、その名前を呼ぶ。

「どうした、泣いてるのか? 識」

 赤髪が揺れ、月夜になびく。
 その姿は、毅然とした気高さを内包し、刺すような美しさを湛えていた。不敵に笑うその唇もまた、赤。

 一目見ただけで、唐突に理解した。
 この人が、呉羽だ。香夜の中で鳴る鼓動が、細胞の全てがそう叫んでいる。
 地獄のような女だった、と凪が言っていたことを、今さらながらに思いだす。
 倒れた妖の中で快活に笑う佇まいは、まさに美しい地獄そのものだった。

 めまいがする、頭痛が、胸を鳴らす動機が止まらない。

「どうしてですか、何故、ただの人間である呉羽さまが、このようなまじないを? 心はもうとっくに失っているはず、それなのにどうして、どうして、どうして!」

 這いつくばった有栖の口から、黒々しい血が吐き出された。
 手を伸ばし、畳に血を吐きながら身体を引き擦るようにして進む有栖から溢れる闇が、揺れ動く九尾の影となって土壁に映る。

「……何故? ハハ、愚問だねぇ有栖くん。キミも人間でしょ? 人間が力を得たいと思う理由なんて一つだけなんじゃない?」

 面前で血を流し、必死に手を伸ばす有栖のことなど見えていないとでも言うように、呉羽は大口を開けて笑ってみせる。
 真っ赤な唇から垣間見えた犬歯が白く光った。

「理由、ですと……?」
「そう、大切な人を守りたかったのさ。私はもう、一人愛する人を失ってるからね」
「理解、できません。そんなこと、あってはならない。あってはならないのです。あなたは大切な器なのです、それなのに、あなたの身体はもう――」
「そうだねぇ、強い力を使うには、代償が必要だからね」

 瞳孔を開き、呆気にとられた様子の有栖を前に、飄々として口元を緩ませる呉羽。
 身にまとう全てを赤で染めた人が、畳を歩く。紅い花びらが散るように、風に乗って揺れるたおやかな髪。その美しさに目を奪われる。しかし、呉羽の身体は歩くたびにどんどん崩れ落ちていっていた。

「識。私の愛弟子であり、可愛い子。キミに最後の教えを諭してやろう」
「……最後、だと? 何言ってるんだ、またいつもの冗談だろ? 俺は、俺は……」

 座り込む識の前に立った呉羽が、足元に落ちていた刀を手に取った。

「――……あ」

 その瞬間血相を変えて身を乗り出す識を見下ろしながら、彼女はその刀を一直線に自分へと突き刺した。
 有栖の声にならない声が響き渡り、美しい人からつう、と血が流れていく。

「……っ、何を、してるんだ!!」
「何って、キミ、こうでもしないと私の血を飲まないだろう? まったくキミのお父さんそっくりだ」

 早鐘をつくようにドクドクとせり立つ香夜の脈。動悸が止まってくれない。目を閉じることもできない。
 赤に身を染める呉羽の胸に深く刺さった刀身が、月明りに反射し、褐赤色の影が香夜の方へ伸びている。
 茫然とした識の腕をつかんだ呉羽が、己の胸に刺さったままの柄にその手を重ねた。

「やめろ」
「私の身体は、さっきまじないを使った時にもう擦り切れている。一足先に、キミのお父さんのところへ行くよ」
「やめろ、お前の酔狂に付き合うのはもううんざりだ、こんなことして何の意味がある!?」
「識、キミとの時間は私の宝物だ。私に子はいなかったが、初めてだったよ。こんな穏やかな気分になったのは。キミと、キミのお父さんに出会えて、私は初めて生きる意味を見出せたんだ」

 声を荒げ、今にも泣きだしそうな識に向かって呉羽は穏やかに微笑み返す。

「……いい月夜だねぇ。こんな日に、終わることができるなんて思っていなかったよ」
「ふざ、けるな。勝手に終わらせようとするな」
「……何もふざけてないさ。哀しむ必要はない。いずれこうなる運命だったのさ」
「お前が、いない世など生きている意味がない、俺は、お前がいたからこそ……」
「……私もだよ」

 呉羽が発したその一言に、識の言葉が止まる。

「識、生きるんだ」

 識と呉羽が、どんな日々を過ごしてきたのか知らない。二人の間で交わされた台詞も、出会い方だって香夜は知らない。
 それでも、その一言が全てをあらわしていることだけは分かった。

 つう、と呉羽の口元に鮮血が流れ落ちる。

「さあ、血を飲め。少ないが、次の花贄を見つけるまでのつなぎにはなる。識が飲んでくれなかったら私はただ無駄に痛い思いをした可哀そうな人になるだろう?」
「……っ、」
「……ああ、あああああ、ああああああ! 呉羽さま、やめてください、やめてください、消えないでください、あなたはやっと見つけた、やっと生まれた、あの方の器なのですよ!」

 有栖の慟哭と共に、血の匂いで満ちた座敷へ大きなつむじ風が吹き込んだ。
 庭園に咲いた花々の花びらが室内に吹き荒れ、うつむいた識の手に力がこもる。

「生きろ、識」
「――、生きろ」

 気高く快活な香を放つ美しい人は、最期にそう言った。
 力を失ったようにうなだれる識の表情は見えない。

「識、……識」

 香夜の頬を濡らすのが、涙なのか何なのか最早分からなかった。
 気が付くと、香夜は届きもしないその名前をひたすらに呼び続けていた。

 痛い、痛くてたまらない。嗚咽するようにあふれ出してくる自分の感情が、遠ざかっていく景色に追いついてくれなかった。
 色鮮やかな花びらが舞い込んだ座敷の中心、もう目を覚ますことのない美しい人を抱えて一点を見つめる識の胸に、ほう、と赤い華の印が浮かんでいるのが見えた。

「……業を背負いし‟常夜頭”よ。お前の心は、この先ずっと晴れないだろう」

 畳に伏した件の少女が、澄み切った声でそうささやいた。つま先からボロボロと崩れゆく少女の身体がみるみるうちに細かな灰へと変わっていく。

「しかし、身を喰いつくす徒花が心の臓に達するころ、比翼(ひよく)となりしつがいは、呉羽の意志を持った者は再びお前の前に現れる」
「……比翼、だと?」
「わらわは、ずっと見ておるぞよ。幾千の時の中で、貴殿の身を焦がすような業火が焼き切れる様を」

 視界を染める赤の惨劇を、追憶の始まりと同じ蝶の群れが覆いつくしていく。
 光り輝く蝶の鱗粉が、この光景を終わらせようとしている。
 光を失った目をした識が、一瞬だけこちらを見た。

「識」

 遠くなっていく血の匂いと、止まない有栖のむせび声。
 それらに比例するようにして多くなっていくのは真っ白な蝶の群れ。

「識、……――」

 何度も、何度も繰り返し名前を呼ぶ。
 すると瞬きをした瞬間、香夜の身体は次の場面へと飛ばされていた。
 現実世界に戻ったわけではない。過去の追憶は、まだ終わらないらしい。
 辺りの景色は、有栖の幻術の中でみた光景とよく似ていた。

「また、桜の屋敷……」
 
 香夜の身体はまた、桜の屋敷の中にいた。
 目の前には中庭に咲いた桜の樹と――その下で遊ぶ幼い香夜の姿があった。
 
「ねえねえ、お兄さん、お兄さんはどうして泣いてるの?」

 あどけない声で幼い香夜が呼びかけた先には、黒い羽織に身を包んだ識が佇んでいた。

「……泣いてなど、いない」
「うそ、とっても悲しいかおしてるよ?」
「……していない」
「……してるもん。わたしもね、悲しいことがあったんだ。さっきお母さまの侍女に、どうして生きてるの? って聞かれたの」

 幼い時の自分が、識と会話をしている。
 忘れ去っていた過去を目の当たりにして、香夜は目を見開く。

「……その侍女、消してやろうか?」
「だめだよ、悪気があったわけじゃないもん。ただいじわるしたいだけだと思う」
「……お前は、大人だな」

 ふ、と識の表情が柔らかくなった気がした。
 すると、向き合った幼い香夜が嬉しそうに声を弾ませる。

「ふふふ、お父さまにも同じこと言われた! ……でもね、また同じことを言われたら、どう返せばいいとおもう?」
「どうして生きてるのか、と聞かれたらか?」
「うん、さっきは私、答えられなかったの。……お兄さんならなんて答える?」
「俺は……」

 少しの間をおいて、瞳に光を失った識が幼い香夜を見据える。

「俺は、お前に……ただ、生きていてもらうために、生きている」

 すっと心に入ってきた識の言葉に、その光景を見ていることしかできない香夜の頬を涙が伝う。

「なにそれ、お兄さん、変なのー」
「……変か?」
「変だよ。うーん、じゃあね、私もお兄さんに生きててもらうために、生きるね! そうしたら、おあいこでしょ?」

 幼い香夜がそう言うと、識の目がハッとしたように見開かれた。
 古めかしい映画のような質感をした光景にノイズが走る。ああ、もうすぐ終わるのだ。もうすぐ、この追憶の幕が下りる。
 眼前、揺らぎ始めた世界に、そう感じとる。

「識、ごめんね。忘れててごめんね。こんなに前から、私のことを守ってくれてたんだね。会いに来て、くれてたんだね」

 届かない声が、震える。
 夥しい蝶が放つ白い光の中、もう一度瞬きをすると、そこはもう元の座敷に戻っていた。
 雨音だけが聞こえる静かな部屋で、穏やかな海のような瞳をした識が香夜を見つめている。

「――……戻ったか」
「……、あ」

 涙でぐちゃぐちゃの香夜を、今まで見せたどの視線よりも優しい眼差しで見やる識。

「……っ」

 気が付くと、香夜は目の前の識を抱きしめていた。

 手が届き、体温を感じることができる安心感からか無意識に力がこもる。識は香夜を拒むこともせず、じっと黙したままだった。じわりとあたたかく、苦しいくらいに切ない感情の置き場所がわからない。
 流れ落ちる涙が止まらない。幼い子供のようにしゃくりを上げ、黒い羽織をつかむ香夜の背に識の手が回る。

「……どのくらい、経ったのだろうな」

 一瞬震え、戸惑うように回された手が、壊れ物に触れるように優しく添えられた。

「……それすらも分からない、気が遠くなるほどに永く、焼かれているような日々だった」

 低く沈んだ声で識がそう言う。

「呉羽が死んでから、永い時の中で、俺はずっと……呉羽を探し続けた。呉羽の意志を身に宿した者が、この世に生まれるのを待っていた。件の言葉を鵜呑みにして」

 呉羽の意志を身に宿した者。それが、香夜だった。
 識は、香夜がこの世に生を成すことを知っていたのだ。それでも、どれくらいの間待ったのだろう、どんな思いで待っていたのだろう、徒花に侵されながらも贄である香夜を抱きしめた時、何を思っていたのだろう。

「……初めてお前の姿を見た時、一目でわかった。呉羽を宿していると」
 
 鼻先に近づいた識の身体は、蜜を溶かしたように甘く深い華の香りがする。
 ドク、ドク、とうごめく徒花の痣がまるで茨のように、常夜頭の紋印を覆っていた。また、痣が広がっている気がする。

「お前は俺に捧げられるための花贄だったが、そんなことはどうでもよかった。いずれ、呪いで死が訪れるまでお前の命を守ればいい。そう思っていた」

 識がそう言うと、胸の紋印が香夜を誘引するがごとく光を放った。
 
「……何度も、会いに行った。会話をしたのは、ほんの数回だったからお前は覚えていないかもしれないが」
「……うん」
「見ているだけでいい、お前が生きているだけでいいと、思考すら手放した頭でそう考えていた」
「それは、私の中に呉羽さんがいるから」
「……そうだな、初めは、そう思っていた」

 そう言ってゆっくりと香夜の身体を離した識。
 指二本分ほどの距離で香夜の背に手を回した識の瞳が揺れる。その既視感のある揺れ方に、胸が波打つのが分かった。

「お前は、呉羽ではない。全てが違った。紡ぐ言葉も、目の奥に灯る光も」
「……っ」

 どうして、‟私”にそんな目を向けるの?
 そう言いかけた言葉は、識の声によって遮られる。

「見ているうちに、傍で感じているうちに、お前の光が俺の心を溶かしていった。お前が、死の淵にいた俺を救ったんだ。二度と失いたくないと心が叫んだ。憎まれてもいい、生きていてくれるだけでいい。香夜、俺は、お前を――……」

 熱い識の体温と、感情を吐き出すようにして苦しそうに紡がれる言葉が心に刺さる。
 降りしきっていた雨はいつの間にかしとしとと地面を濡らすくらいの小雨になり、湿気を含んだぬるい春風が香夜の髪を揺らした。

「…………お前を、愛している」

 たった一言だった。
 聞き取れないくらいに小さな声で、たった一言だけ落とされた言葉。

 スッと、香夜の頬を一筋の涙が流れ落ちる。
 くしゃりと眉を下げ、余裕を失った表情で、こちらを見る識。喰らうべき贄を抱きながら、その目に宿すのは愛情と狂おしいほどの切望。
 深紅に揺れる瞳は、誰でもない、香夜自身を捉えていた。
 荒れ狂うような情欲でも、哀れみに満ちた愛情でもない。
 ‟ただ、生きているだけでいい”という、小さな小さな、あたたかい温度。
 それは、桜が舞い散る庭の中で、香夜の頭を優しく撫ぜた父のような、見返りを求めない不器用な温度。
 ――私は、ここで生きてもいいのだろうか。
 凍てついた夜の中でうずくまっていた心の中に、か細い光が差し込み、氷を解かすようにしてあたためていく。

「……識」

 そう呼んで、見つめた先の瞳が切なく濡れている。
 生きていてくれるだけでいい、識が一言だけつぶやいた意味。それは痛んだ心を焼き焦がすように哀しく、やるせない。

「……私も、あなたを失いたくない。……だから、生きて」

 そう言うと、識の瞳がわずかに見開かれた。
 どうかこの心の揺らぎが、震えるような苦しさが、少しでも柔らかい毛布となって彼を包み込みますように。
 自分と似た孤独な魂が、これ以上痛みを抱えずに済みますように。そう願って目を閉じる。
 雨上がり、晴れた濃紺の空に浮かんだ赤い月が、熱い痛みに歪んだ識の顔を淡く照らし上げた。華の芳香が座敷を満たしてゆく。
 さまよい戸惑った識の指先が、そっと香夜に触れる。
 香夜は、その指先に応えるつもりで、すり、と頬をすり寄せた。
 たどたどしく、触れていいのか迷っているかのように、どちらからともなく触れ合った唇。

「……っあ」

 そのまま(せき)が切れたように香夜の身体をきつく抱いた美しい妖は、その目を細めながら、何度も唇を這わせる。額に、瞼に、頬に、そして最後には深く沈むような口づけを。
 とめどなく与えられる、感情の波。
 常夜の頂に立つ妖と、妖のために咲いた花は互いにどうしようもなく惹かれ合うという。
 しかし、それだけでは説明がつかないくらいに熱を帯びた身体は心から互いを求めあっていることをあらわしていた。

 ――ああ、この想いは、言葉にするのが惜しいほどに。

 熱い胸に身体をうずめた香夜を穏やかに受け入れる識の瞳は、深紅。
 その眼差しは凪いだ海のように静かだった。

 意識が、再びまどろみの中に遠ざかっていく。
 春時雨のようにあたたかく、甘やかな哀切に満ちた口づけは、そのまましばらく止むことがなかった。

 


「……なるほどつまり、有栖は一千年前以上に生まれた陰陽師で、同じ人間の女の子に恋をしとったけど妖の常夜頭に取られて……妖から魔力を奪ってもう一回アプローチかけたけどあっけなく失敗したと。やがてその女の子の寿命が尽きたから、呪いで蘇らせようとして……って、何回考えても意味不明なんやけど!? アイツもう僕が殺してきてええか!?」
「何回聞いてもただの狂った悪党だな……凪さま、オイラも加勢するぜ!」

 心底意味がわからないという表情の凪とセンリに、言葉もでないと言った様子の伊織。
 香夜たちが鵺屋敷に到着してから二時間後、遅れて凪たちも到着した。
 今は、慌てたように香夜の元へ駆け寄ってきた凪たちに、もろもろの経緯と説明を教えたところである。

「そんでずっと黙っとったけど、識からの謝罪はまだ? 僕ら、香夜ちゃんが識に連行されてから何故か屋敷への回路が途切れたせいで空間を抜ける(・・・)ことができんくなって、ズタボロの身体引きずってここまで飛んできたんやで?」
 
 少しは労わってくれてもええやろ、と続けた凪に思わず目を反らす香夜。
 ぶす、と顔をそむける識の姿が見えたからだ。

「なんやその、ぶす、って顔は! こっち見てみい!」
「……断る」
「お前なぁ!?」

 こうやって聞いていると、案外相性のいい二人なのかもしれない。
 こほん、と咳払いをし、香夜は口を開く。

「……確かに、有栖の意図はいまいちわからない。でも、希望もあると私は思う」
「……ああ、徒花の呪いはおそらく有栖が生み出したもんや。呪詛は、呪詛師が死ぬと解ける。つまり……」
「うん、有栖を倒せば識の呪いが解けるかもしれない」

 そう言って、香夜は畳の上に置かれた紙切れを見た。
 空亡の呪詛が書かれたものだ。

「件……いや、口無しは空亡と繋がっていた。これは有栖がお前をまた見つけるために、口無しを通じて付けたものだろう」

 識が、紙切れを見ながらそう言った。
 
 ‟全ての妖は、魔力は、いずれ空亡へと帰還する。そしてまた新たな命が空亡によって生み出される”
 識の過去で、有栖はそう言った。まるで、月を神と崇めているかのように。
 赤く色づいた月影が、座敷を妖しく照らす。そうか、見上げているつもりが、ずっと自分は見られていたのだ。いつだって、濃紺の夜空にはこの滴り落ちるような月が出ていたではないか。

「……とにかく、私は有栖を許すことができない。何があっても、絶対に止める」

 するとその瞬間、リン、と鈴の音が鳴り、白い光が目の前の畳から溢れ出す。突如として現れた閃光に目を瞬くうち、それはやがて赤黒い炎となった。
 頭の中で、けたたましい警鐘音が鳴り響く。身体にまとわりつくようにして漂ってきたのは耐えがたい腐敗臭。

『――……なんともはや、わたしの話をしてくれていたとは嬉しいものですねぇ』

 脳内を直接揺らす、ねっとりと上擦った嬌声に息をのむ。
 床に落ちた空亡の書の切れ端がパラパラと勢いよくめくりあがり、波打つ影が津波のように広がっていく。

「……やはり、来たか。有栖――!」

 静かに猛る識の声が耳元で聞こえた。
 しかしそれもすぐに黒い水の中に飲み込まれ、ごぽ、と口から泡が溢れるだけだった。
 飲み込まれる、溺れる、空間そのものを包み込む膨大な魔力の渦で、耳触りな笑い声がこだましている。
 肺に粘った油のような水が入り込んでいく。息ができない、何も、聞こえない――。

「大丈夫だ、俺の熱だけを信じろ」
「……っ」

 何もかもが黒に飲み込まれてしまいそうだったその瞬間、甘やかに香夜を包んだのは識の声とあたたかな温もり。
 間近に感じる華の香りに、香夜は身をゆだねるようにして目を閉じた。