操られているという妖は、みな揃って黒々と淀んだ目をしていた。
 それに、死臭のような生臭い腐敗臭がしているのだ。
 段々と鼻が慣れてくると、漂う匂いで妖が出てくる大体の場所が予想できた。

「凪……! 次は多分、横から……!」
「はは、凄いな香夜ちゃん! さっきからドンピシャで当ててはるやん……!」

 香夜が香りによって居場所を察知し、凪に伝える。
 そうすることによりわずかに早く動くことが可能になった凪が、風の渦を出して攻撃をかわすという連携ができつつあった。

 大通りに近づくにつれて多くなっていく妖の数に、香夜は短く息を吐き出した。
 凪や伊織、識の香りはそれぞれ違うが、華のような香りという共通点があった。
 しかしこの動く屍のような妖が放つ匂いは、お世辞にもいい香りとは言えない。油断すると、鼻が曲がってしまいそうである。

「っ、はぁ、……数が多なってきたな」

 凪が出す風の層は変わらず膨大な魔力に満ちていたが、どこかあたたかな感触を感じた。
 不規則に襲い掛かってくる妖を刀でいなし、片手で香夜の身体をかばう凪の額に薄っすらと汗がにじんでいるのが見える。

「凪! 私、少しなら戦える……!」
「はは、頼もしいなぁ。でも、僕の矜持のためにも守らせて?」

 柔らかく笑う凪に、香夜はハッとする。

「……凪、もしかしてさっきから、手加減してる?」

 それは外に出て、屍のような妖と刀を交える凪を見てから薄っすらと感じていたことだった。
 凪はおそらく、彼が持つ力の半分も出していない。
 その証拠に、凪の刃にかかって倒れた妖たちは気を失ってはいるものの命を奪われてはいなかった。

「……こんな風に、力を加減しながら戦うなんて今までやったら考えれんかったことや。いつもなら刀振り回しとるうちに正気失ってまうからなぁ」

 そう言って、香夜の腰くらいまである刀身を軽々と振った凪。
 凪の口元は楽しそうに弧を描いていたが、琥珀色に光る瞳の奥には、しっかりと灯った光が見えた。

「でも、こうして香夜ちゃんの体温を感じとると不思議と気持ちが落ち着く。我を失いそうになっても、香夜ちゃんの声が僕を引き戻してくれる。……不思議や」

 騒然とした城下町で唯一変わらず揺蕩い続ける狐火が、凪の整った横顔を照らす。
 一瞬、こちらを見やった凪と目が合った。
 すると凪はふわりとその表情を緩め、微笑む。優しさと少しの切なさを孕んだその笑みに、香夜は思わず目を奪われた。

「凪さま、香夜!! 多分、あそこだ、やぐらがある場所に……オイラたちを最初に襲った奴がいる!」

 センリの声に弾かれたように前を見ると、轟々とした音を立てながら燃え上がるやぐらがあった。
 香夜たちはいつの間にか大通りへと出てきていたようだ。
 お囃子の音や快活に響き渡っていた掛け声も今は悲鳴へと変わり、祭り景色が一変、惨劇へと化していた。

「……ここにおるんは、自分の身を守る術を持たん低級や中級の妖ばっかりや。こんなん、無抵抗の相手を嬲っとるのと同じやろ」

 凪の言葉に、隠し切れない怒気が混じる。
 鼻腔をつんざくような腐敗臭が、やぐらの火柱に近づけば近づくほど強くなってきていた。
 
 香夜の中の本能が、警鐘を鳴らす。
 ドクドクとなる自分の鼓動の音が、呼吸と共に耳に響いた。
 その時、やぐらの下、燃え盛る炎の火の粉に紛れて誰かが倒れているのが目に入る。

 それは艶やかな着物に身を包んだ美しい少女、大通りに差し掛かる前にすれ違った琳魚だった。
 真っ青な顔をしてやぐらの下にうずくまる琳魚は、意識を保っていないのか、香夜たちには気が付いていない様子で浅く息をしていた。
 はだけた着物の帯のあたりに、じわりと赤い血がにじんでいるのが分かる。

「凪! あそこに、さっきの女の人が……!」
 
 そう言って凪の方を見るが、路地から出てきた複数の妖が凪を取りかこみ、襲い掛かろうとしているところだった。

「……っ、ぎょうさん出てくるのはええけど、そんなにいっぺんに求められても困るわ。僕、一人一人とじっくりやりたいタイプなんやけど!」

 刀が交わる金属音が激しく辺りに響き渡る。
 何人もの刃を一度に受けた凪には、香夜の声が届いていないようだった。

 凪から離れずに、近くにいろとは言われた。
 しかし、このまま倒れた琳魚を放っておいては、いつやぐらの炎に巻き込まれてしまうか分からない。
 瞬間、音もなく(いかずち)のような閃光が辺りを包み、やぐらの下、うずくまる琳魚に向かって鋭い光の矢が降り注いだ。
 その場にいた凪、センリ、伊織の視線が一気に集まる。少し遠くでセンリが何かを叫んでいる。

「…………っ、あ!」

 考えるより先に身体が動いていた。
 倒れていた琳魚の腕をつかみ、光の矢が彼女を貫く瀬戸際、自分の身体へと引き寄せる。

 そのまま意識のない琳魚を抱き寄せ、香夜は身体ごとやぐらの端へと転がるようにして倒れ込んだ。
 火の粉が頬をチリリと焼く感覚と、地面と身体が激しく擦りぶつかる衝撃が香夜を襲う。

「……っう、……」
「――香夜ちゃん!!」

 喉が張り裂けんばかりに叫びをあげた凪の声が香夜を呼ぶ。
 上手く息ができない。全身を強く打ちつけた衝撃で目の前がチカチカと弾け、白くかすんでいる。それでも、寸前のところで間に合ったようだった。

 激しく舞った砂埃のなか、横に倒れた琳魚の身体を捉える。薄紫の帯には変わらず血がにじんでいたが、まだかろうじて息は保っている彼女の様子を見てホッと息をついた。

「――おやぁ? 外してしまったようですねぇ……あわやあわや、せっかくの再会(・・)に、薄汚い半端者を交えてしまうなど興が覚めるというもの」

 背後で脳の裏側を生暖かいもので舐めあげられるような、気味の悪い声色が響き、背に冷たい汗が流れ落ちた。
 同時に、これまでとは比べ物にならないくらいの死臭が香る。
 振り向いてはいけない、いけないと分かっているのにも関わらず、香夜の身体は自分の意志とは関係なくゆっくりと動く。
 声のした方向に顔を上げると、そこに立っていたのは――――。

「ああ、久しぶりと言うべきでしょうかねぇ……、それとも、こういう場合は、涙を流しながら抱擁するべきなのですか? 愛おしい娘を前にした父親というものは」
「お……父さま……?」

 香夜の前に立ち、こちらを上から覗き込むようにして笑みを作っていたのは、死んだはずの父だった。
 それは時間にして数秒間。

 にこやかに笑う父の姿に時が止まり、香夜は呆けたようにその顔を見つめることしかできなかった。
 所々に浮かぶ皺の位置、目を細めて笑うクセ、その一つ一つが、細部にわたるまで‟父”そのものだった。
 しかし、何かが違う。
 外側は確かに父であるはずなのに、皮一枚挟んだところに恐怖そのものが広がっているような、得体のしれない寒々しさを感じるのだ。

「違う、違う……、誰ですか、あなたは」

 ここにいるのは、父ではない。父の姿をした、父ではない誰か。
 それに気が付いた瞬間、香夜は言いようのない吐き気と怒りを感じた。

「アハハ! さすがですねぇ。やはり、一度飲み込んだくらい(・・・・・・・・)では精度が低いのでしょうか。まぁまぁまぁ、これはほんの余興ですよぉ」

 声色もまた父を模してはいるものの、節々にまとわりつくような不快感を感じる。
 男は、動けないでいる香夜を見ると嬉しそうな嬌声を上げた。
 そして自身の顔に爪を突き立て、皮膚を引き剥がすようにして指を食い込ませる。

「い、や……」

 ずる、と音を鳴らし引き剥がされる父の笑み。
 父の形をした顔がボロボロと崩れ落ちていき、その下にある表情が露わになっていく。
 腰まで伸びた深紫色の髪、赤い月明りと燃え盛る炎に照らされてもなお、おぼろに白いその顔は死人のようで。
 顔立ちは中性的で非常に美しいものであったが、凶悪に歪みきった瞳が不安感を掻き立てる。
 古めかしい銀製のロザリオを首からかけた男の手には、細かい装飾が施された拳銃が握られていた。

「こんなにも美しい月夜に、あなた様に再会でき嬉しく思いますよぉ。やっと、やっとやっと、まみえることができた。ああ……やはりわたしは神に愛されている、この有栖(ありす)、恐悦至極にございます」

 黒いフロックコートを身にまとった男がそう言って、地面に倒れ込んだままの香夜へと手を伸ばす。
 しかし白い手袋が香夜の頬へと伸ばされ、今にも肌に触れるかと思われた瞬間、ピタリと止まった。

「あれぇ……? あなた、心がまだ生きていますねぇ? どうしてですか? 何故? どうして?」
「……っ、ぁ」

 声が出せない。瞬きをすることすら躊躇われる、ねっとりとした眼差しが香夜に向けられる。
 その時、地面をえぐるように砂埃ごと巻き上げた風が吹き、金属音が耳元で鳴り響いた。
 風の層かと思われたそれは、香夜を覗き込む男に向かって振り下ろされた凪の刀だった。
 男はそれを、手に持った小さな拳銃で受け止め、ゆるりと凪の方を見やる。

「あらぁ~? 誰かと思えば凪さまじゃないですか。いたんですか? 御免なさいねぇ、わたしとしたことが浮足立ってしまって、今の今まで気が付きませんでしたよぉ」
「……いい度胸やないか、有栖ぅ。胡散臭い面下げて何しに来たんや、香夜ちゃんから離れてもらえるか?」

 顔を上げて見た凪の表情は怒りで満ちていた。
 そんな凪の怒気をものともせず、挑発するように微笑んで見せる有栖と呼ばれた男。

 柔らかな凪の髪が逆立ち、沈丁花の香りが届く。凪は香夜と有栖の間に立つと、香夜の背にそっと手を重ねた。
 するとあたたかな感触が身を包み、痛んでいた箇所がみるみるうちに癒えていく。
 凪の額にはこちらを見る余裕がないとでもいうように汗がにじんでいたが、その温度は確かに香夜を安堵させた。

「……相変わらずですねぇ! そうやって守るものを持つから弱くなるのだと散々諫言したはずですよぉ。弱きものは神の寵愛を受けられないのです」
「離れろ、言うとるやろ。何が寵愛や、この裏切り者(ユダ)が」

 空気までもが震えるような怒りが、凪の全身から伝わってくる。
 琥珀色の瞳が茹だっていき、漏れ出すのは、鵺屋敷の門前で初めて凪と対峙した時に感じたのと同じ冷ややかな殺意。
 ただ一つだけ違うのは、凪から出ている魔力の気に、明確な敵意を感じるという点だった。

「……空亡連れて、町壊してなんのつもりや。目的を言え」
「連れて? アハハ、ここへ来たのはわたし一人だけですよぉ。町を壊すつもりはありませんでしたが、あまりに反吐が出る光景だったので、少しいじってあげただけです。皆さん可愛かったでしょう? 意志を失ったカラクリのようで」

 有栖はそう言って不気味に笑い、頬を赤らめ恍惚とした表情を浮かべる。
 濃紫の髪が揺れ、有栖の耳に付いた十字架のイヤーカフが見え隠れした。
 一人だけということは、たった一人でこの城下町を半壊させたということなのだろうか。

「それに、目的はもちろんそこにいらっしゃる、古の器ですよ。しかし、おかしいですねぇ? 心が生きたままでは役に立たないではないですかぁ」

 古の器。確か、口無しの間でも同じような台詞を聞いた。
 やはり、この男は自分を目的としてここへ来たのだ。
 父の姿に化けてみたり、再会といった言葉を使ったり、一体どういうつもりなのだろうか。

「あぁ、可哀そうに、小さき心の臓に意志を閉じ込められて、さぞかし窮屈でしょう……。今すぐに救ってあげますからねぇ」

 そう言って口元を歪めた有栖と目が合う。
 どこまでも深い、黒の瞳。ぞくりと身体が粟立つのを感じた。肉親を汚された怒りよりも先にきたのは、脳髄を舐めあげられるような、感じたことのない恐怖。

「香夜ちゃん、こいつの目ぇ見るな!」

 余裕を欠いた凪の声。凪から溢れる風が香夜を守るように間へと入り込む。
 血の気が引いていくような感覚がした。同時に、これまでとは比べ物にならないくらいの耐えがたい死臭が鼻をかすめる。

 血肉が腐敗したどこか甘さを感じる死臭は、有栖から出ているものではない。
 ならば、この吐き気を誘発する匂いはどこから来ているのだろうか。

 薄く笑う有栖が自身の胸元にあるロザリオに手をかけた瞬間、香夜をかばうようにして立っていた凪の顔色が変わる。

「伊織!!」

 凪がそう叫ぶと共に、いくつもの小刀が有栖に向かって飛び掛かった。
 水仙の淡い香りが凪の香りと混じり合って、濃い魔力の波動が場に充満していく。
 何が起こったのかを理解する前に、香夜の腕を柔らかいものがぐいと引く。耳に届いたのは、聞きなれたハイトーン。

「香夜、こっちだ! この姉ちゃんはオイラが連れていくから、早く安全なところに!」
「センリ……っ!」

 目の前を見ると、血相を変えたセンリが腕を引いていた。そして凪と並ぶようにして伊織が立っているのも確認できる。
 先程の小刀は伊織が投げたものなのだろう、同じものが彼の手にいくつも握られているのが見えた。
 センリがもう一度、促すようにして香夜の腕を強く引く。

「センリ、怪我してる!」
「こんなもん、かすり傷だ! そんなことより香夜、早くこっちに来い! 土蜘蛛さまと凪さまが盾になってくれてる間に逃げるんだ!」

 センリの身体は、伊織の家で見た時よりもボロボロになっていた。
 こんなに傷ついてもなお、香夜を助けるために大量に襲い掛かる妖の群れを抜けてきてくれたセンリを見て、胸がズキリと痛む。
 よく見ると、伊織と凪も傷こそ負っていないものの、その身にまとう服は所々が酷く破れていた。

「……っ」

 つかまれたセンリの手を強く握り返し、死角となる出店の裏へ逃げ込む。
 伊織が投げた何本もの小刀が巻き上げた砂埃によって、有栖の姿はまだ見えない。
 共に出店の裏へと連れ込んだ琳魚の顔色は先程に増して悪くなっていた。早く手当てしなければ、手遅れになるかもしれない。

 ――どうすれば、助けられる。

 ふと、鵺屋敷でうずくまる識に自身の血を飲ませたことを思い出す。
 あの時は、香夜の血を飲むことで識の身体に広がるアザが薄くなっていた。

「……もしかしたら、意味ないかもだけど!」

 懐刀を使って、自分の肌を傷つける。
 奇しくもその場所は、識に血を与えた時に切った場所と同じ腕の中腹だった。
 しばらく経ち、皮膚が裂かれたことによる激しい痛みが襲ってくる。

「香夜!? 何してるんだ!?」
「……大丈夫、センリ、この人の……琳魚さんの口を開けてくれる?」
「はぁぁ!? 何でそんなこと……」
「お願い、私の血を飲めば、この傷が治るかもしれないの」

 確証などどこにもなかった。それでもやってみなければ分からない。
 信じられないものをみるような顔をしたセンリが、しぶしぶ琳魚の口を開く。その隙間から、識にした時と同じように自分の血液を流し込んだ。
 一滴、二滴と、琳魚の乾いた唇へと垂れる香夜の血。

 コクリ、と琳魚の細い喉元が動き、その眉間にわずかなシワが寄る。

「……す、すごいぞ、香夜、見てみろ……!」

 センリの弾んだ声に、香夜は深く頷き返した。
 香夜の血を飲み込むと共に、琳魚の身体にあった傷がみるみるうちに薄くなっていき、やがて目立たないまでの痕へと落ち着いたのだ。
 帯ににじむまで出血していた腹部の傷も、上手く止血できたようだ。

「血で、傷が治せるのか……!?」
「わからないけど、花贄の血は、妖にとってご馳走みたいなものって凪が言ってたから」

 琳魚を見ると、浅かった呼吸も落ち着き、穏やかな表情になっていた。
 センリがぱくぱくと口を開いたり閉じたりしながら何かを言おうとしているのを見て、ふっと力が抜けていくのが分かった。

「……よかった」

 そう言って、香夜は息を吐き出した。

「――も~、痛いじゃないですかぁ。フフ、でも、見知った顔が続々と出てきてくれて嬉しいですよぉ。どうしましょうか、いい機会なので昔のように稽古でもつけて差し上げましょうかぁ?」

 その時、やけに耳につくなまめかしい声が通りの方から聞こえ、センリが数秒遅れて息をのむ。

「……チッ」

 伊織の舌打ちの音に前を見ると、砂埃が消え、有栖が先程と同じ位置に変わらない体勢で立っているのが見えた。
 たった一つ違ったのは、伊織が投げたであろう小刀を全て指の間で掴み取っていたという点だ。
 ということは、不意に投げられたはずの小刀を全てあの一瞬のうちに掴み取ったということになる。

「……大人しく死んでくれないかな。俺さ、裏切ったとか裏切ってないとか関係なく、昔からお前のこと嫌いなんだよ」

 伊織がそう言うのを首をかしげて見やり、鼻で笑った有栖が手に持った小刀を地面に落とす。
 金属が落ちる軽やかな音が辺りに響いた。

「んん~、そうやって怯えずに前に出てきたことだけは褒めて差し上げましょうねぇ。でも伊織さま、あなたはわたしを嫌ってるのではなく恐れているのではないですかぁ?」
「……はぁ?」
「凪さまをご覧なさい。わたしの目をくらまし、巧みに器を逃がしてもなお体勢を崩していないでしょう?」

 そう言った有栖がゆっくりと香夜の方へ振り向く。
 この場所は、死角になっていて見えないはずだ。しかし、おそらく全てバレている。センリの手が香夜の肩にかかり、ぎゅっと力んだ。
 センリの柔らかな肉球に、ぬるい汗がじわりとにじむ。

「しかし、あなたはどうですか伊織さまぁ。呼吸がかなり乱れていますねぇ? わたしと戦いたくないと、全身が叫んでいますよぉ?」
「……黙れ」
「昔からそうでしたよねぇ。凪さまや識さまの影に隠れて、逃げてばかりで。それでは、何千年経ってもわたしには勝てませんよぉ」
「……黙れって、言ってるのが聞こえないのか!」

 咆哮のような叫びをあげ、空間を蹴って有栖に飛び掛かる伊織。
 一瞬何もない場所を飛んだかのように思えたが、目を凝らして見てみると、空間中に薄く糸が張り巡らされているのが見えた。

「あかん伊織! 罠や!!」

 ハッと気が付いたかのように凪がそう叫ぶが、その時にはもう伊織が持つ刃の切っ先が有栖にかかろうとしているところだった。
 にやりと有栖の口元が動き、鋭い犬歯が垣間見えた。ロザリオに有栖の手がかかり、先程も感じた強い腐敗臭が香夜がいる場所まで漂ってくる。

「……センリ、伏せて」
「え、香夜……?」
「いいから、伏せて!」

 何かが起こる。香夜は戸惑うセンリを抱き寄せると、地面に沿うようにして身体を伏せた。それまで吹いていた柔らかな夜風が止まり、空間にわずかな波動のようなものが流れるのを感じる。
 波動は段々と大きくなっていき、その全てが有栖の立っている場所へと集結していく。

「――あぁ、迷える魂に、神の御加護があらんことを」

 聞こえたのは、陶然と上擦った有栖の嬌声。
 丸々と超えた常夜の月に手を伸ばし、有栖がロザリオに口づけをした瞬間、怒涛のごとく流れ出たのは魔力の渦だった。
 その荒ぶる波のような螺旋(らせん)はやがて黒々とした‟尻尾”の形となり、有栖に飛び掛かった伊織の首をとらえて締め上げる。

「ぐ、あ……」
「フフフ、よもやわたしに勝てるとでもお思いでしたか? 邪魔をしないでください。わたし、やっと、やっとやっとあのお方を蘇らせることができる器に再会できたところなのですよぉ!」

 有栖の後ろから、黒く波打つ魔力を放ちながら現れ出たのは、計九本の大きくそびえる尻尾だった。
 その内の一本が、ぎりぎりと音を立てながら上へ上へと伊織の首を締め上げていく。

「……九尾の、狐」

 呆然としたセンリがポツリとそう呟いた。
 聞いたことがある。かつて傾国傾城の悪妖とも呼ばれ、何百年にわたり人々を苦しめた妖がいたと。
 その妖は、人々が望んだ通りの姿に変化することができた。子に恵まれなかった夫婦の前では玉のような赤子に、そして時には人を惑わすような傾国の美女に。
 性質は極めて残虐にして無慈悲。人を喰らい、苦しめることを何よりの喜びとした妖は、‟九つ”の尾を持った狐であったという。

「あんまりそうやってうちの子いじめんといてくれる……、か!!」

 強い風が吹き付けると同時に聞こえたのは凪の声。
 上を見上げると、軽やかに宙を舞った凪の手に握られた刀が、伊織を締め上げる黒い尾を両断しているところだった。

「……ッゲホ、く、は……っ!」

 凪の刀によって尻尾が切れ、伊織はそのまま力が抜けたように地面へ落とされた。
 激しく咳き込む伊織のそばに降り立った凪が、薄く笑みを湛えたままの有栖へと向き直る。
 コキリ、と一つ首の関節を鳴らした有栖は、一連の凪の行動をものともしない様子で再びロザリオに手をかけた。
 視界の端で、綺麗に一刀両断された有栖の尾から、黒い水のようなものが溢れ出してくるのが見える。

「……あぁ、愛おしい、愛おしい、(いにしえ)の愛しいひとよ。今一度、わたしに微笑んでくださいまし」

 有栖の声が耳元でそうささやいたような気がして、香夜の心臓がどくんと跳ねた。
 何故だろうか、恐ろしくてたまらない。今すぐにでも、ここから逃げ出してしまいたい。
 尾から溢れ出した黒い水はやがて高い波のようになり、夜闇に下りた帳と混じり合ったそれはまるで深い水の底へいざなう大きな手に見えた。
 目の前で抱きすくめているはずのセンリが、焦燥した表情を浮かべ有栖と対峙する凪が、闇に包まれて見えなくなっていく。

「なに、これ」
「……有栖の妖術や!! 吸い込んだらあかん、連れてかれるで!!」

 くぐもった凪の声が聞こえ、瞬きをした瞬間、目の前が真っ暗になり何も見えなくなる。
 そうだ、特にこれといった欠点がない九尾の狐が、最も得意としていたのは、人を惑わし操る‟妖術”の類だった。

 暗闇の中、誰かが歌っているのが聞こえる。柔く吹き付ける春風が香夜の前髪を揺らし、穏やかなまどろみへと誘う。
 ―――これは、いつか聞いた子守歌。
 混沌とした深海にも似た夜の帳のなか、懐かしく響くいつかの声色に伸ばした香夜の腕だけが宙をさまよい、何もつかめないまま闇へと沈んでいった。