日曜日の朝、スマホを確認すると『パラドックスな恋』は更新されていた。
これまでは少しずつの更新だったのに、一気に第五章の途中まで公開されている。
□□□□□□
「危ない!」
横断歩道に足を踏み入れた大雅の手を必死で引っ張る。
ブブブブブ!
すごい音にふり返ると、大きな車が私たちを襲おうとしていた。
とっさに大雅を突き飛ばすと同時に、腰のあたりにひどい痛みが生まれた。
あっけなく転がる自分の体がアスファルトにたたきつけられる。歩道でしりもちをついた大雅が大きく目を見開いていた。
……よかった。大雅が無事でよかった。
目を閉じれば、痛みはすっと遠ざかり、抗えない眠気が私を襲った。
(つづく)
□□□□□□
これは、主人公が小学三年生のときに大雅をかばって事故に遭ったときの場面だ。
文字で見ると、忘れていた小説の内容が一気に思い出せた。
ベッドに仰向けになり、ぼんやりと考える。
このあと、逆に私が事故に遭いそうになるのを大雅が助けてくれるんだ。
その先はまだぼやけていて思い出せないけれど、これで全体的な流れが把握できた。
これほどまでに現実と違う流れなら、事故だって起きない気がする。
……そもそも、今日大雅はアメリカに経つそうだし、もうこの町にいないかもしれない。
カーテンのすき間から曇り空が見える。
台風でも来るのか、灰色の雲が形を変えながら流れていく。
日葵は今ごろ落ちこんでいるのかな。
夕焼け公園での日葵を思い出すと、胸が締めつけられる。
やっと好きな人ができた日葵に、これから先どんな未来が待っているのだろう。
私だって同じだ。優太に恋をするなんて、ありえないことだと思っていた。
気づいたら心に優太がいて、想いは栄養分もないのに勝手に育っていった。
ううん、今も毎日育っている。
違う、これは言い訳だ。ぜんぶ、私が選択したことなんだよね。
今日、大雅がいなくなることで物語は終わりを迎えるのだろうか。
待っているだけじゃダメな気がした。
着替えてから一階におりると、お母さんがぼんやりソファに座っていた。
私に気づいたお母さんがなにか言いたげに口を開き、そして閉じた。
昨日も一日、ろくに話もしなかった。お父さんも帰って来る気配はない。
いびつに家族の形はゆがんでしまったけれど、不思議と悲しみは消えている。
気持ちをきちんと伝えられたからなのか、あきらめの心境なのかはわからないけれど、すっきりしているのが不思議だった。
「ちょっと出かけてくるね」
「あ、うん。気をつけて行ってらっしゃい」
どこか気弱そうに見えるお母さんに、「あの」と勇気を出した。
「こないだはヘンなこと言ってごめんね」
「なに言ってるのよ。ぜんぜんヘンなことじゃないわよ」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ぎこちないまま外に出ると、今にも雨が降りそうな空が私を見おろしている。
カサを手に歩き出すと、秋の風が私に抵抗するように吹きつけてきた。
図書館にはあいかわらずお客さんはいなかった。
薄暗い照明のせいもあると思うし、山の中腹に建っているのも理由のひとつだろう。
館長の長谷川さんは、今日もスーツ姿で長い髪をひとつに結び、棚の本をチェックしていた。
「こんにちは。今日はおひとりですか?」
声をかけるより早く、長谷川さんがにこやかに挨拶をしてくれた。
「あ、こんにちは」
「またここに来たということは、なにかお話があるのでしょうか?」
鋭い人だ、と普通に感心してしまう。
「はい。お時間があるときでいいので……」
「構いませんよ」
長谷川さんは持っていた本を棚に戻すと、受付カウンターへ足を進めた。
向かい側に座るよう勧められ、木製の椅子に腰をおろした。
雨が降り出したらしく、屋根を叩く雨音がかすかに聞こえている。
カウンターの上にはパソコンが一台と、以前叶人が借りっぱなしだった本が置かれていた。
私の視線に気づいたのだろう、長谷川さんが「ああ」とうなずく。
「叶人くんのお気に入りの本をあれから何度も読んでいます。が、雨星についてはやはり載っていませんでした」
「そうでしたか……」
カウンターに両肘を置き、顔の前で指をからませた長谷川さんが、メガネ越しの瞳で私を見た。
「私は雨星は造語だと思っています。叶人くんが作った、叶人くんだけがわかる言葉なんです」
「私も、そう思います」
どれだけネットで調べても、雨星という言葉は見つからなかった。
「悠花さん、今日はどのような話で?」
薄い唇に笑みをたたえる長谷川さんに、一瞬迷いが生じた。
どんなふうに説明すればわかってもらえるのだろう。
とにかく、思ったまま話をするしかない。
「前にここに来たとき、パラドックスについて説明してくれましたよね? 叶人から聞いたとおっしゃっていましたが、ひょっとしてそれ以外にもなにかパラドックスについて聞いていませんか?」
小さく首をかしげる長谷川さんに気おくれしそうな気持ちを奮い起こす。
「不思議なことが起きているんです」
信じてもらえなくても、言わずに後悔するのはもうやめよう。小説のなかの登場人物が実際に現れたことの謎を解きたいと思った。
「二年前からよく読んでいる小説があるんです。それと同じことが現実に起きているような気がするんです。ううん、起きているんです」
長谷川さんの表情に変化はなく、ただ先を促すようにうなずいている。
「何度も読んでいるからストーリーも覚えているはずなのに、なぜか先の展開がうまく思い出せないんです。その小説にも雨星のことが出てくるんです。これってなにか……」
言うそばから自信がなくなってしまう。
おかしなことを言っているのはわかっているけれど、どうしてもこの先のヒントがほしかった。
わずかに頭痛の気配がする。
遠くから近づいてくる痛みに、こぶしを握って耐える。
しばらく沈黙が続いたあと、長谷川さんは大きく息を吐いた。
「『パラドックスな恋』のことですね」
「え……」
雷のような衝撃が体を貫いた。
まさか、長谷川さんから作品のタイトルが出てくるなんて思ってもいなかった。
「そうです! 『パラドックスな恋』です! 長谷川さん……なにかご存じなんですか?」
思わず体を乗り出す私をはぐらかすように長谷川さんはマウスを動かし、パソコン画面を点灯させた。
薄暗い館内はまるで星空。明るいカウンターが宇宙船みたいに思えた。
「実は、誰にも言ってないことがあるんです」
画面の光を浴びながら長谷川さんがつぶやいた。
キーボードを操る音が続いたあと、長谷川さんは画面に向かってほほ笑んだ。
「叶人くんが入院してしばらく経ったあとのことです。彼からLINEで『相談がある』とメッセージが来ました。てっきり、病気のことかと思ったのですが、違いました」
「はい」
「長い文章になるから、とメールアドレスを聞かれました。数日が過ぎ、メールに届いたのは、『パラドックスな恋』のあらすじだったんです」
「え……。じゃ、じゃあ、あの小説は叶人が書いたのですか?」
昔から本が好きで読んではいたけれど、あの小説は中学一年生が書いたものとはとても思えなかった。
「いえ、そうじゃありません。叶人くんが書いたのは、彼が病床で見た夢の内容です。メモのように羅列されています」
モニターを回転させた長谷川さんから、画面へ視線を移す。そこには、メモ画面が表示されている。
■■■■■■
・お姉ちゃんが学校に行く
・山本大雅という転入生が来る
・幼なじみは大雅を覚えているが、お姉ちゃんは覚えていない
・お姉ちゃんは小学三年生のときに大雅をかばって事故に遭った
・事故のせいで昔の記憶をなくしている
・夕焼け公園で大雅を好きになる
・雨星が降る日に大雅が事故に遭う
・大雅は大きな病気を抱えている
■■■■■■
その下には、各項目について詳しく書かれていた。
それはすべて、『パラドックスな恋』の内容と一致している。
「これって……」
声が震えているのが自分でもわかる。
「入院している間、叶人くんは少しずつこの物語の夢を見たそうです。なにか意味があるのじゃないか、と思うのも不思議じゃないですね」
「じゃあ、誰が小説に――」
長谷川さんが照れたように目線を逸らしていることに気づいた。
「私が書きました。小説なんて書いたことがなかったのですが、叶人くんの夢を作品にしたいと思ったんです。ひょっとして、本当にこれと同じことが起きているのですか?」
なにがなんだかわからない。混乱する頭を必死で整理しながら「はい」と答えた。
納得したようにうなずいた長谷川さんが椅子にもたれた。
「叶人くんは正夢を見たのでしょうね」
「でも、最近は小説とは違う展開になっているんです。だけど、大雅が事故に遭う可能性はあるわけですよね」
「私にはわかりませんが、叶人くんは『お姉ちゃんが幸せになるといいな』とずっと言ってましたよ」
「…………」
叶人が生きていたころは両親も仲が良かったし、私も恋なんてしていなかった。
「長谷川さんがこの小説を投稿サイトに載せたのは二年前ですよね?」
叶人が亡くなって落ち込んでいるときにこの小説を見つけたことを思い出した。
「ええ。書くごとに叶人くんに見てもらい、修正をしておりましたが、残念ながら完成にたどりつくことなく叶人くんは……」
悔しげに目を伏せてから、長谷川さんは続けた。
「そこからひとりでなんとか完成させたんですよ」
「どうして今は『連載中』になっているのですか?」
そう尋ねる私に、
「叶人くんの遺言だからですよ」
と、長谷川さんはあっさりと答えた。
「遺言?」
「悠花さんが主人公と同じ高校二年生になったら、一旦非公開にして、二学期初日から時期に合わせて順次公開し直してほしいと言われました。公開日を細かく予約できるので、それも指示に合わせて登録しておきました」
そっか……。物語のはじまりは高校二年生の二学期だった。
叶人は、予知夢を見たのかもしれない。
「すごく……不思議です」
思ったことを言葉にすると、長谷川さんはクスクスと笑った。
「この世は不思議なことだらけです」
「どんどん小説の内容と変わっているのはどうしてなんでしょうか? どうして私は先の展開が思い出せないのでしょうか? これから一体、なにが起きるのですか?」
矢継ぎ早に質問を重ねる私に、長谷川さんは「わかりません」とだけ答えた。
「そんな……」
また、頭痛が強くなっていく。
「こう考えてはいかがでしょうか。悠花さんは現実世界を生きておられる。あの小説こそがパラドックスなんです」
「意味がわかりません。ごめんなさい」
しょげてしまいそうになる私に、長谷川さんはメガネを取り顔を近づけた。
「パラドックスとは、見た目と実際が違うこと。悠花さんの選択により、変わった物語こそが正解なのです。叶人くんが書いたあらすじを見せることはできますが、それでは意味がないでしょう。悠花さん、あなたは虚構の世界を忘れてもいいんですよ」
「でも……」
ここから先、ひょっとしたら大雅が事故に遭うかもしれない。
そう思うといてもたってもいられない。
「教えてください。星雨についての説明は小説のなかにありましたか?」
「いえ、ありません。だからこそ叶人くんに何度も尋ねたのですが、最後まで教えてもらえませんでした。前にも言いましたが、彼自身もわからないままでしたから」
言われてみればたしかに『パラドックスな恋』においても、雨星の描写はなかった気がする。
「悠花さん」
改まった口調で長谷川さんは背筋を伸ばした。
「この小説はあくまで叶人くんが見た未来です。悠花さんの選択で現実が変わっているのなら、小説から提示されたヒントを参考に、今やるべきことをすべきです」
「今、やるべきこと……。あの、大雅が事故に遭う可能性はあると思いますか?」
長谷川さんがテーブルの上で指を組んだ。
「どうでしょう。例えば、事故に遭う日付が変わったとかは考えられますね。小説のなかでは不思議な天気の夕刻だったと思います」
「でももう大雅はアメリカに……」
そこまで言ってハッと気づく。
本当に今日、大雅はアメリカに旅立ったの?
ちゃんと確認していないことが急に不安になってくる。
今の時刻は午後三時。
まだこの町にいるのなら、ひょっとしたらこのあと事故に遭うのかもしれない。
音を立てて椅子を引く私に、長谷川さんは目を丸くした。
「あの……私、行きます。いろいろ、ありがとうございました」
「気をつけて行ってらっしゃい」
穏やかな笑みに頭を下げ、図書館を飛び出せば、雨が絶え間なく世界を灰色に染めていた。
駅へと向かうバスのなかで、大雅に何度も電話をしたけれど電源が切られているらしく、留守番電話にもならない。
今ごろ事故に遭っていたらどうしよう。
やたらのんびり走るバスに、どんどん焦りばかりが大きくなっていく。
『パラドックスな恋』が叶人の見た夢の内容だったなんて、まだ信じられないよ。
長谷川さんに小説にしてもらうことで、叶人はなにを伝えたかったのだろう。
「どうして私なんかを……」
ずっと叶人のことを考えないようにしていた。
生きている間もそっけなかっただろうし、病気になった彼のことも気づかぬフリをした。
お見舞いに行っても世間話を少しするだけ。
亡くなったあとに苦しんだとしても、その姿は誰にも見せないようにしていた。
周りから見れば冷たいって思われていたかもしれない。
叶人のことを直視しなかった私の幸せを願ってくれていたなんて……。
そんな資格、私にはないのに。
涙がこぼれても、このままうずくまっていてはいけない。
今日これから雨星が降るなら、絶対に大雅を助けなくちゃ。
そうしないと叶人の気持ちに今度こそ応えないことになってしまう。
ふと、日葵の顔を浮かんだ。
日葵は今ごろ大雅のことを考えているのだろうか。それとも見送りに行ったのかな。
大雅が私の人生に登場してから、私は彼ではなく優太への恋心に気づいてしまった。
そう考えると、今や『パラドックスな恋』の主人公は私じゃなく、日葵になっているとも言える。
ふたりは幼なじみで、病気という壁がふたりの間に立ちふさがっていて……。
気づくと駅前に到着していた。
下車しカサを広げると、さっきよりも細い雨が駅前に降り注いでいる。
「あれ……」
もし主人公が日葵になっているとするならば、事故に遭う対象も変更になっている可能性があるかもしれない。だとしたら日葵の身も心配だ。
メッセージを打つのももどかしく電話をかけるけれど、七回コール音がしたあと、留守番電話に切り替わってしまう。
今さらながら気づく自分が情けなくて涙があふれてくる。
交差点の前まで急ぎ、電信柱に隠れてスマホを開くと『パラドックスな恋』は更新されていた。
「そんな……どうして」
カラカラに乾いた喉でつぶやき、もう一度その文章を読む。
□□□□□□
ああ、車道に倒れこんだんだ。体を起こそうとしても力が入らないよ。
大雅の靴が、薄くなる世界で見えた。その向こうに光っているのはなに?
強い力で大雅に腕を引っ張られる。
――ギギギギギギギ。
悲鳴のようなブレーキ音、大きな塊が視界いっぱいに広がった。
それが車だとわかったときには、怪物のような光が私を捕らえていた。
(つづく)
□□□□□□
もし現実世界での主人公が代わっているのなら、日葵が危ない。
もう一度電話をかけようと、画面を切り替えるのと同時に着信を知らせる画面になった。
【着信 日葵】
慌てて通話ボタンを押し、スマホを耳に当てた。
「日葵。日葵っ!」
『ちょっといきなり大声出さないでよ。びっくりするじゃん』
「日葵、無事なの!? 今、どこにいるの?」
あたりを見渡しながら尋ねるが、近くにはいないみたい。
カサが足元で転がっていても、今は日葵の身のほうが心配だ。
『待って待って。悠花、どうしたの? 先に電話かけてきたのはそっちでしょ』
「そう、そうなの。交差点にいないよね? もしいるならすぐに逃げて。お願い――駅前には来ない……で……」
もう泣いているのか雨に濡れているのかわからなくなる。
しばらく無言が続いたあと『やだな』と笑う声がした。
『あたし、こう見えても約束は守るんだから。あれ以来、雨の日には、駅前に寄ってないって』
よかった……。ようやく安堵の息がつけた。
ふと、日葵のうしろでアナウンスの声が響いていることに気づいた。
「日葵、今どこにいるの?」
『空港だよ』
「空港?」
日葵の照れた笑い声がスマホから耳に届いた。
たしかにアナウンスの声は空港っぽい。
『大雅のお見送りに来たの。もう飛行機に乗って出国しちゃったけどね。これから大雅のお母さんの車で家に帰るところなの』
今度は私が黙る番だ。
『実はさ、どうしても最後に見送りに行きたくて、勇気出してお願いしたの。そしたらOKしてくれてね』
「え、そうなんだ」
『告白はしなかったよ。これから治療で大変だろうから重荷になりたくないし、それに……少しすっきりしてるから』
日葵の言葉はきっと本心だ。
久しぶりに聞く明るい声に、その場に座りこんでしまいそうになるほど緊張の糸がとけている。
『例の小説のことだよね。安心して、しばらくは駅前に大雅が来ることはないから』
「うん。でも……」
『最初に悠花が話してくれたとき、信じてあげられなくてごめん。でも、今はちゃんと信じてるから』
わけのわからない話なのに信じてくれる友だちがいる。
それだけで、心に明かりが灯るよ。ありがとう、日葵。
通話を終え、時計を確認すると午後五時を過ぎるところ。
ふいに世界が色を変えた気がした。
雨雲は東へ流れゆき、西には夕日が輝いている。
雨は――まだ降っている。
真上から徐々に藍色を濃くする空に、一番星が見えた。
雨と夕焼けと星が同時に存在している空は、ただただ美しかった。
こんな不思議な空を、優太と一緒に見たいな。
私の恋心は、これからどんどんあの星のように輝き出すのだろう。
日葵が前に言ってた『この気持ちが消えないほうが、もっと悲しくなる日が来る』の意味が痛いほどわかるよ。
恋は、なんて強くて弱くてまぶしくて悲しいんだろう。
どんどん暮れていく空の下、夕焼けは夜に負けそうになっている。
私の姿も同じように夜が消していくのだろう。
……帰ろう。
大雅はもうアメリカへ発ってしまったし、現実が変わったことで事故は起きない可能性だってある。
少し軽くなった気持ちでふり向くと、目の前に――優太がいた。
上下黒のジャージ姿の優太が、
「うわ、悠花」
と、遅れて驚いている。
彼の持つ黒いカサから雨粒がパラパラとこぼれ落ちる。
「なんで……」
「それはこっちの台詞。大雅の見送りに行ってきたのか?」
濡れないように私の頭上にカサを移動させてくれる優太。
「ううん、違う」
ちょうど優太のことを考えていたとは言えず、あいまいに首を横に振る。
遠くで、警告音が聞こえた気がした。
「俺は部活の帰り。さっきの空見た? なんか、不思議な色だったよなあ」
そう、おかしな天気だったよね。
でも雨星は見つけられなくて……。
「待って」
思わずそう言った私に優太が不思議そうな顔をした。
小説のなかで事故に遭うシーンは、不思議な天気だった。
雨と夕焼けが同時に空に出現していて……。
――まるで今の空のように。
「優太……」
きょとんとする優太の向こうに、雑貨屋のウインドウがある。
交差点が映像のように映し出されている。
横断歩道が赤から青に変わると同時に、まぶしい光に目がくらんだ。
ギガガガガガガガガ!
地面からつんざくような大きな音がし、ウインドウになにかが映った。
ふり向くと、黒い車が弧を描くようにスリップしながらこっちに向かってくる。
誰かの叫ぶ声、クラクション、激しい痛みにガラスのくだける音が重なる。
――気づけば、私は仰向けに倒れていた。
容赦なく雨が顔に降り注いでいる。髪も服もびしょびしょに濡れなのに、体が起こせない。
ふいに誰かが私の肩を抱くように起こしてくれた。
優太……?
見ると、知らない女性が雨に濡れるのも構わず、私になにか叫んでいる。
ごめんなさい。
キーンと耳鳴りがしていて、うまく音が聞こえないの。
腰をぶったのだろう、すごく痛くて泣きそうになる。
視線を前に向けると、車体の前方部がひしゃげた黒い車があった。
粉々に砕けたショーウインドウが星のように光っている。
「優太……」
優太はどこなのだろう。
そういえば、さっき優太に突き飛ばされたような気がする。
女子を転ばせるなんてひどすぎる。文句を言ってやらないと。
――ザアアアア
音量を徐々にあげるように雨音が近づいてきた。
近くに立っていたサラリーマンがスマホに向かって叫んでいる。
「救急車をお願いします! 事故です。ええ、はい――運転手を含めて三名かと」
私は大丈夫だよ。たぶん、どこもケガがないと思うから。
もう一度視線を前に戻すと、
「え……」
つぶれた車体の横に転がっていたのは、さっき優太が持っていたカサだった。
「ウソ……。え、優太?」
立ちあがろうとしてそのまま前に転んでしまう。
目の前で雨粒が激しく跳ねている。
体を起こそうとしても力が入らない。
……ウソだよね。そんなの、ウソだよね?
「優太。優太っ!!!」
「危ないから動かないで」
女性の手を振りほどき、這いつくばりながら車の前へ行く。
神様お願い、そんなのイヤだよ。
お願いだから、こんな物語にしないで!
煙をあげる車体と壁の間に、なにか見えている。
これは……誰かの足だ。薄暗くてわからないけれど、これは黒いジャージ?
隣には靴が転がっている。
そんなはずはない。事故に遭うのは大雅で、優太じゃないはず。
その人は、優太と同じようなジャージを着ていて、優太と同じような靴を履いていて、足首には――赤いミサンガが巻いてある。
「優……太……」
視界が塗りつぶされるように暗くなっていく。
悲鳴も、足音も、雨音でさえも闇に吸い込まれていくよう。
真っ暗になった世界は、やけに静かだった。
【第五章】
雨星が教えてくれる
ガラス越しの空は燃えるような赤色。
時間とともに藍色へ変わり、遠くの山は黒く塗りつぶされていく。
窓辺に置いた椅子に座り、もうずっとぼんやり外を見ている。
音もなく忍び寄る夜の気配は、ガラスに映る顔をはっきりと映し出すから目を逸らしたくなる。
あの事故で私は検査入院をした。
打撲程度で問題はないと診断が下り、この二日間は家で過ごしている。
誰もはっきり話してくれないけれど、優太の病状はかなり深刻で、今も意識がないと聞いている。
二十四時間、ずっと後悔している。
なぜ優太にきちんと事故が起きる可能性について話さなかったのだろう。
なぜあの日、すぐに優太を連れて逃げなかったのだろう。
私の役が日葵に代わったと思いこんでしまっていたけれど、そうじゃなかった。
大雅の役が優太に代わっていたんだ。
気づくチャンスはいくらでもあったのに、どうして……。
――トントン。
部屋のドアがノックされると同時に、飛び跳ねるように椅子から立ちあがっていた。
返事をするのももどかしく、ドアを開けるとお母さんが立っていた。
「優太になにかあったの? おばさんから連絡は!?」
早口で尋ねる私に、お母さんは首を横に振った。
「優太くんはきっと大丈夫よ。連絡もないの」
「そう……」
ゆるゆると視線を落とす。
足首に巻かれた包帯からは、呼吸するのと同じタイミングで痛みが生まれている。
でも、こんな痛み、どうでもいい。
優太が、優太が――。
「ご飯作ったのよ。下で一緒に食べましょう」
「ご飯……」
首を横に振る。こんな状況でご飯なんか食べる気がしない。
水分ですら、飲んだそばから涙となり、なにも潤おしてはくれない。
優太に会いたい。会いたくてたまらない。
「もうずっと食べてないじゃない。お父さんも待ってるから、ね」
動けない私の左手をお母さんはそっと包むように握った。
「悠花の気持ち、お母さん痛いほどわかるのよ。本当につらいと思う」
「……やめて」
「優太くんのこと心配よね。でも、優太くんが元気になったときに、あなたが倒れてたら仕方ないでしょう?」
「やめてよ!」
無意識にお母さんの手を振り払っていた。
そんなもっともらしいなぐさめなんていらない。
「お母さんにはわからないよ。だって、お母さんとお父さんはお互いを手放そうとしてるじゃん。どっちかは私を手放したっていい、って思ったから離婚するんでしょう? そんな人たちに、私の気持ちなんて絶対にわからない!」
こんなこと言いたいわけじゃない。
お母さんを傷つけたいわけじゃないのに、勝手に言葉があふれていた。
「ごめん。今日は……ひとりにして」
ドアを閉める私に、お母さんはもうなにも言わなかった。
ベッドに崩れるように横になると、右目から涙が一筋流れ落ちた。
袖で拭い、目をギュッと閉じる。
今回の事故は、間違いなく私のせいで起きたこと。
罪悪感は大きな波のようにざぶんと私を飲みこみ、海底へ引きずり落とす。
息がうまく吸えない。
光も見えない、音も聞こえない。
「優太……ごめんね」
信号無視した車も許せないけれど、優太を守れなかった自分がもっと許せない。
叶人はヒントをくれていたのに活かせなかった。
スマホのバイブが振動した。
優太のおばさんは私の携帯電話の番号を知らないからかかってくるはずもないのに、スマホが震えるたびに鼓動が速くなってしまう。
画面を開くと、今日だけで何十通も来ている日葵からのメッセージが表示されていた。
『しつこくてごめん。悠花に会いたい』
明日はがんばって学校に行くよ。
文字に打って送ればいいだけなのにできない。
頭のなかが優太のことでいっぱいになりすぎて、ほかのことなんてなんにもできないよ。
スマホをベッドのはしに追いやり、体を起こした。
机の上で写真のなかの叶人が笑っている。
叶人の描きたかった物語はハッピーエンドだったのに、現実世界ではバッドエンドに傾いている。
ねえ、叶人。私はどこでなにを間違えたの?
どうすれば優太は無事に戻ってくるの?
声にならない問いに、写真の叶人の笑顔が悲しそうに見えた。
図書館の重い扉を開くと、館内にはあいかわらず頼りない照明が光っていた。
今朝は、起きると家には誰もいなかった。
キッチンに『冷蔵庫にお昼ご飯があります』というお母さんのメモがあった。
制服に着替えて家を出て、だけどどうしても学校へ行く気になれずバスに乗り図書館へ来た。
なんのために来たのかはわからない。
カウンターにいた長谷川さんは私に気づくと、「おはようございます」と変わらない挨拶をした。
頭を下げても、乾いた唇から言葉は出てくれなかった。
立ちすくむ私に、長谷川さんはカウンターの向かい側の席を手のひらで示した。
「優太くんが事故に遭ったそうですね」
「……え?」
おろそうとする腰を途中で止めた。
どうして、長谷川さんが知っているのだろう。
「誰に聞いたのですか?」
「日葵さんからです」
あっさりとそう言ったあと、長谷川さんはメガネを外した。
「日葵さんは、あなたに教えられた不思議な出来事の原因を調べるために、あれから何度も来館されています。最後に来られたときに、事故のことを聞きました」
事故、という単語は胸をえぐる凶器のよう。
雨のなかひしゃげた車の映像は、思い出したくなくても勝手に脳裏に映し出されてしまう。
寝不足で乾いた目に、あっけなく涙が込みあがってくる。
うなだれる私に、長谷川さんも口を閉じた。
「大雅が事故に遭うと思ってたんです。でも、違いました。代わりに優太が事故に……。よく考えたらわかったはずなのに、なんで……」
悔しくて苦しくて、だけど現実はざぶんざぶんと波のように私を苦しめる。
「私も驚いています。本当に、小説のような展開が起きているのですね」
「叶人はなぜこの物語を書いたのでしょうか。どんなにがんばってもうまくいかない。まるで、叶人が私を恨んでいるようにすら思えてしまうんです」
小説のなかの私は、大雅を好きになる。
実際は、大雅ではなく優太への気持ちに気づいた。
どちらを好きになっても、結局相手は事故に遭ってしまう。
まるで逃れられない運命に翻弄されているよう。
「もう小説の連載は終わりましたよね?」
「はい」
今朝になり、最後のエピローグが公開されていた。
小説の主人公は、大雅の帰りを公園のベンチで待っているというハッピーエンドのシーンだ。
あまりにも現実と違いすぎる。
私が優太を好きになったから事故に遭わせてしまった。
だとしたら、今回の事故は私のせいでしかない。
「優太くんが事故に遭った日、悠花さんは雨星を見たのですか?」
そう尋ねる長谷川さんに、一瞬思考が停止した。
「雨星……。いえ、見た記憶はありません」
「じゃあまだチャンスはあります。叶人くんは、雨星の降る日に奇跡が起きることを信じていました。あの小説でも主人公は雨星を見ましたよね?」
「ああ、はい……」
小説のなかで主人公は、事故の直後に雨星を見ている。
はっきりとは言い切れないけれど、私が事故に遭ったときはひどい雨が降っていた。
「いつも空を見ていてください。きっと雨星は降りますから」
長谷川さんの言葉にうなずくけれど、私には雨星がなにかがわからない。
「見ていれば気づくと思いますか?」
「思うんじゃなく、信じてみましょう」
やさしく笑みをくれた長谷川さんに、私は薄暗い天井を見あげる。
今日の天気は晴れのち曇り。
雨星がなにかはわからないけれど、信じるしかないのかな……。
「小説にしたのは私ですが、叶人くんが見た夢の内容が元になっています。書いたのはあなたを恨むためではなく、幸せになってほしいからです。叶人くんと雨星のことを信じてみませんか?」
信じたい。
でも、悲しい気持ちに打ちのめされることばかりの今、なにを信じていいのかすらわからない。
辞書を引くようにスマホを開き、小説の本文ラストを表示させた。
□□□□□□
――きっと大丈夫。
見あげた空は、遠く離れた場所で戦う大雅につながっているから。
雨星は、大雅に奇跡を起こしてくれる。その日までうつむかずに私は生きていこう。
いつかまた会える、その日まで。
□□□□□□
この小説の主人公のように私も強くなりたい。
叶人が見た夢に意味があるのなら、その答えを知りたい。
なによりも――優太に会いたい。
「信じてみます」
自分に言い聞かせるように言ってから、私は叶人が好きだった本を何度も読んだ。
読めば読むほど意味がわからない本には、やっぱり雨星についての記載はなかった。
お願い、叶人。私を――ううん、優太を助けて。
そのためだったら私はなんでもやる。
だから、優太を連れて行かないで……。
駅前に戻るころには、上空に厚い雲が浸食してきていた。
太陽は雲の間から短い秋を主張するように、サラサラとした光があたりに降り注いでいる。
重い体と気持ちを引きずるように歩く私は、映画で見たゾンビみたい。
行き先もわからずにさまよっている。
やっぱり学校に行こうという気持ちにはなれないまま、駅前のベンチで歩く人をぼんやり眺めている。
どこにいたって優太のことばかり考えてしまう。
どうか優太になにも起きませんように。優太、優太、優太……。
もう一度会いたい。笑顔で彼に会いたい。
小説のなかでも大雅は事故に遭ったけれど、左腕の骨折で済んでいた。
優太の意識が戻らない、というのも誤情報ということはないだろうか。そうあってほしい。
もし優太を失ったら……。その思考の入り口に立つだけで、叫びたくなるほどの怖さを感じる。
イヤな考えを頭から振り払う。
振り払っても振り払っても、シミのように消えてくれない。
ふと、目の前に誰かが立っていることに気づいた。
「もう、探したんだからね」
両腕を腰に当てた日葵が立っていた。
隣の椅子に腰をおろす日葵をぽかんと見つめる。
「え、なんで……学校は?」
「それはこっちの台詞。今日さ、キムが家の都合で遅れてきたんだよ。車で送ってもらったらしいんだけど、駅前で悠花を見たってこっそり教えてくれたの。でも、いつまで待っても教室に来ないから、具合悪いフリして早退しちゃった」
「……ごめん」
胸に熱いものが込みあげてくる。
日葵に早退までさせたなんて、悔しくて悲しくて、でも少しだけうれしかった。
「優太の入院している病院って家族以外は入れないけど、ひょっとしたら悠花がいるかも、って思って見に行ったんだよ。ちょうど駅前に戻って来たところ。午後一時二十五分、容疑者を確保しました」
明るい口調の日葵に、私が言えることはやっぱり「ごめん」だけ。
そういえば、日葵は図書館でいろいろ調べてくれていたんだよね。
ますます自分がイヤになる。
うつむく私の肩を日葵は抱いてくれた。
「心配だよね」
「…………」
言葉はもう、出ない。
足が手が、あごが震えたと思うと、悲しみは涙になって頬をこぼれ落ちる。
もう泣いてばっかりだ。
「私……どうしたらいいのかわからなくって」
「あたしだってそうだよ。まさかふたりが事故に遭うなんて思ってなかったから。でも、小説のなかでは骨折で済んでたでしょ?」
え、と日葵を見ると、不安そうな表情をしていた。
一瞬で笑顔を作る日葵もまた、不安でたまらないんだ。
「小説、読んでくれたの?」
「だって、悠花の言ってたことが起きちゃったんだもん。観念して『パラドックスな恋』ぜんぶ読んだよ。いろいろ聞きたいことはあるけどさ、きっと優太は助かるよ。それよりあたしが悲しいのはさ――」
そのときになって、日葵の声も震えていることに気づいた。
「悠花が大変なとき、助けてあげられないってこと。悠花の話をちゃんと聞いてあげられなかったことが情けなくて。もっと早く知れたなら、今回の事故も防げたかもしれない。これじゃあ親友失格だよね」
ムリして笑みを浮かべる日葵の右目から涙がぽろりとこぼれた。
「日葵……」
毎日電話をくれたのに、メールやLINEもたくさんくれたのに、そのひとつも私は返すことができなかった。
日葵をもっと悲しませたのは、私なんだ。
「責めてるんじゃないよ。あたしが悔しいだけだから」
腕を離した日葵が、子どもに言い聞かせように顔を覗きこんできた。
涙があとからあとからあふれてくる。
「ごめんなさい。私……」
「いいんだよ。もういいから。こうやって会えたんだし」
やさしい日葵に首を横に振る。
「私、頭が優太のことでいっぱいになってて……。優太のおばさんも家に電話をくれたとき、こんな状況なのに私の体のことをすごく気遣ってくれた。うちの親も、私のことすごく心配してくれてる。日葵だってそうなのに、私は誰にも、なんにも……」
なんて私は弱いんだろう。起きていることから逃げるばかり。
これじゃあ小説の主人公にはなれない。
ハッピーエンドを望んでいるくせに、なにひとつ自分から行動できていないのだから。
「もう」
と、日葵は今度は両腕で抱きしめてきた。
「あんなことがあったんだから、なにもできなくて当然。でも、もし今度同じことがあったら、あたしは絶対に悠花のそばにいる。悲しみを半分にすることはできないけれど、一緒に背負うことはできるから」
「……うん」
「それにね」と日葵は鼻をすすった。
「小説の世界はあくまで小説の世界。あたしは、悠花の物語を紡いでほしい。負けないで一緒にがんばろう」
「うん」
もう一度うなずくと、日葵は抱きしめていた腕をほどき、目の前に立った。
頬の涙を拭ったあと日葵は「行こう」と言った。
「行くってどこへ? あ、図書館なら今行ってきたとこ――」
「優太に会いに行こう」
「え……」
でも、病院は家族以外は入ることができないきまりになっている。
それに、おばさんにどんな顔して会えばいいのかわからない。
ううん……優太に会うのが怖いんだ。
ふいにあたりが暗くなった気がした。
見あげると厚い雲が太陽の姿を隠していた。遠くで雷の音も聞こえている。
「このまま家に帰っても、きっと同じこと。悠花は悩みごとがあるとそのことばかり考えちゃうでしょ。だったら、無理やりにでも会いに行こうよ」
日葵の提案に首を横に振る。そして、すぐに縦に振りなおした。
私もなにか行動を起こしたい、ってそう思えたから。
「わかった」
そう言って立ちあがる私に、日葵はニッと白い歯を見せた。
「雨だね」
ぼんやりした世界に、日葵の声が聞こえた。
上を見ると、細かな雨がさらさらと顔に当たった。
「濡れるからなかに入ろう」
腕を引く日葵に前を見ると、病院の自動ドアはすぐ先にあった。
行動を起こすことを決めたはずなのに、勝手に足が止まっていたみたい。
足をなんとか前に進めると、自動ドアをくぐってフロアに足を踏み入れる。
もっと混んでいると思っていたけれど、受付前にはあまり人の姿はなかった。
以前ほどではないにしても、お見舞いには規制がかかっているのだろうか。
見ると、エレベーター前には看護師がふたり立っていて、訪れた人をチェックしている。
これじゃあ優太の入院している病棟へは行けない。
そもそもどこに入院しているのかもわからないのだから。
日葵はスマホを操作しながら「大丈夫」と言ってから顔を巡らせた。
「あ、来た」
日葵の目線の先を追うと、エレベーターからひとりの女性がおりてきた。
薄いカーディガンにベージュのスカート姿の女性は、優太のお母さんだった。
私たちを見て、小走りで駆けてくる。
「おばさん。急にごめんなさい」
日葵の挨拶に、私も慌てて頭を下げた。
「いいのよ」
やわらかい声に顔をあげると、おばさんはさみしそうに口元に小さな笑みを浮かべていた。
すごく疲れている顔だと思った。
自分の子供が事故に遭ったのだから当然だろう。
「じゃあ悠花、がんばって物語を紡ぐんだよ」
「え?」
「ここからは家族しか入れないからさ。さすがに同年代ふたりが家族ってのは怪しまれるでしょう?」
バイバイと胸の前で手を振る日葵。
「でも……」
「ほら、早く行って」
強めに背中を押され歩き出すと、おばさんも黙って横に並んだ。
ふり返ると、もう一度手を振ってから日葵は病院を出て行ってしまった。
私を連れてくることをおばさんに連絡してくれていたんだ……。
おばさんが歩き出したので、遅れないように並ぶ。
なにを話しかけていいのかわからないけれど、せめて守れなかったことをちゃんと謝りたい。
「おばさ――」
「あの子ね」
かぶせるようにおばさんは言った。
「昔から体だけは丈夫だった。鉄棒から落ちたときも、階段から転げ落ちたときもピンピンしてたのよ」
「…………」
「だから大丈夫よ」と、おばさんは私を見て少し口角をあげた。
「……はい」
どうして私はこんなに弱いんだろう。
やさしい人にやさしい言葉をかけられない。悲しい人を励ますこともできない。
唇をかみしめるだけしかできない自分のことが、私は大キライ。
エレベーターの前を素通りし、奥の廊下へ進むと『ICU入口』と書かれた自動ドアがあった。
その前にもひとり看護師さんが立っていた。
優太はICU……集中治療室にいるってこと?
急に襲われる寒気に負けないように、必死でおばさんについていく。
おばさんは看護師さんから名簿を受け取った。
「ICUでお世話になっています。笹川優太です」
名簿には『悠花』と私の名前が記され、続柄は『次女』となっていた。
看護師さんが私のおでこにピストルのような機械を当てて「平熱です」とうなずいた。
自動ドアのなかに入ると、おばさんは大きく息を吐いた。
「うまくいったわね」
おかしそうに笑うけれど、やっぱり悲しみがあふれているのが伝わって来る。
「すみません。ありがとうございます」
やっと気持ちが言葉になった。
「悠花ちゃんのほうのケガは大丈夫?」
「はい」
私のことなんてどうでもいいのに、おばさんはやさしく聞いてくれた。
奥にはさらに分厚い扉があり、横にはインターフォンが設置されていた。
おばさんはボタンを押し、なかの人と話をしている。
自動ドアが開くと、おばさんは先を歩き出した。
廊下の右側にカーテンで仕切られた部屋があるみたい。
機械の音や誰かの声、器具の音が洪水みたいに襲ってくる。
左側には大きな窓があった。はめ殺しの窓は開けられないようになっている。
よほど分厚いガラスなのだろう、激しく降り出した雨の音も聞こえない。
「悠花ちゃん」
ふいに肩に手を置かれ、ビクッとしてしまった。
「あ、驚かせちゃってごめんなさい。大丈夫?」
「はい」
カーテンの向こうに優太がいる。
そう考えるだけで、また涙が込みあがってくる。
「まだガラス越しにしか会えないんだけど、ごめんなさいね」
ああ……そっか。叶人が入院していた病院もそうだった。
最後の瞬間も、そのあとも、院内感染防止対策のため叶人にはちゃんと会えなかったんだ。
最後? ううん、違う。優太はきっと元気になるはず。
おばさんがカーテンを引くと、ガラスの向こうにベッドがあった。
目を閉じている優太が見えた。頭に包帯が巻かれていて、両足もギプスで固定されている。
ふいに足元の床が抜けた感覚がして、気づくとその場に座り込んでしまっていた。
「悠花ちゃん!」
腕を取られなんとか立ちあがってもなお、床がやわらかく感じられる。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
窓ガラスにもたれるように優太を見た。
青白い顔の優太は苦し気に目を閉じている。
口元には人工呼吸器が装着されていて、伸びた管は四角い機械につながっている。
――ピッピッッピピッ。
不定期に鳴る機械音が、彼の容態が悪いことを示している。
ガラスの横の壁には受話器が取りつけてあり、これで向こう側と話ができる。
でも、ベッドに横たわっている優太とは話をすることさえかなわない。
これが現実というのなら、私は――小説の世界で生きたいよ。
でもそこには、優太への想いは存在しない。
それでも、優太がこんなに苦しむのなら私は、私は……!
ガラスに手を当てて「優太」と名前を呼ぶ。
「優太……。優太、優太!」
泣きじゃくりながら名前を呼んでも、彼は私に気づかない。
「一回目の手術は成功したの。でも、臓器の損傷が激しくて、いつ亡くなってもおかしくないって……」
おばさんの声に涙が雨のようにこぼれる。
「そんな……」
どうしてこんなことになったの?
どうして小説と同じ展開にならないの?
「……私のせいです」
「それは違うわ。悠花ちゃんだって被害者じゃないの」
でも、優太は身代わりになってくれたことは事実だから。
「私が。私が……」
――ビーッ!
大きな警告音が爆発したように響いた。
まるで脳を揺さぶられるような音に耳をふさぎたくなる。
バタバタと足音が聞こえ、ガラスの向こうに見えるドアから看護師が飛びこんできて機械を操作し出す。
遅れてもうひとり、看護師が到着した。
機械の数値が、目に見えて下降していく。
――これは、夢なの?
「優太!」
ガラスを叩くおばさん。警告音が止まらない。
優太の顔は見る見るうちに青くなっていく。
ウソだよね。こんなの……ウソだよね。
「優太、しっかりして! 優太! 優太っ!!!」
割れるくらい、おばさんがガラスをたたいている。何度も、何度も。
先生と思われる男性が現れると同時に警告音は消えた。
看護師がやっと私たちに気づいたらしく、一礼してからガラスの内側にあるカーテンを引いた。
ベージュのカーテンの向こうで、指示を出す声と不規則な電子音が聞こえている。
おばさんはもうその場に座り込んで嗚咽を漏らしている。
私は……私は、なにもできなかった。
――ピーーーー。
永遠と思うほどの長い電子音が鳴ったあと、ガラスの向こうからは音がしなくなった。
やけに静かな世界では、おばさんの嗚咽も聞こえない。
頭がジンとしびれ、まるで夢のなかにいるみたい。
なにが起きているのかわからないよ。
――プルルルル。
音は、設置されている受話器から聞こえた。
見ると、ガラスの向こうで受話器を耳に当てた看護師がカーテンを少し開けてこっちを見ていた。
おばさんは、動かない。拒否するように何度も首を横に振っている。
震える手で受話器取り耳に当てると、看護師さんは目を伏せたまま言った。
「お伝えしたいことがあります。お母さんに代わってもらえますか?」
事務的な口調に、受話器を持つ手をおばさんへ伸ばした。
「……おばさん」
それでもおばさんはしばらく首を振り続けていたけれど、やがて受話器を取り耳に当てた。
短い沈黙のあと、おばさんは全身で叫ぶように泣いた。
絶叫が狭い部屋に響き渡るのをうつむういたまま聞く。
ああ、もう……優太はいないんだ。
しびれた頭でぼんやりとそう思った。
叶人のときもそうだった。
私たちはあまりにも死に無力で、ただ受け入れることしかできない傍観者。
もう二度と優太には会えない、会えない、会えない。
雨の音が聞こえた気がして、廊下にある窓を見た。
けれど、音は聞こえない。あるのは、おばさんの悲しみにむせぶ声だけ。
『雨星が降る日に奇跡が起きるんだよ』
叶人の声がやさしく聞こえる。これも、幻聴なのかな……。
「あ……」
窓の外がさっきより明るく感じられて、気づけば廊下に出ていた。
ガラスに手を当て上を見ると、雨はまだ降っている。
けれど、スポットライトを当てたように一部分だけ赤い光が射している。
その向こうに見えるのは――いくつかの星。
『叶人くんと雨星のことを信じてみませんか?』
長谷川さんが言った言葉を思い出す。
『小説の世界はあくまで小説の世界。あたしは、悠花の物語を紡いでほしい』
日葵もそう言っていた。
もし、今がそうなら……。
そう思うと同時に駆け出していた。
ICUのドアを出て、病院の出口へ急ぐ。
自動ドアから転がるように外に出ると、さっきよりも雨は激しさを増している。
けれど、けれど……雨雲に丸い穴が空いている部分が見える。
その穴のなかだけ、朱色の夕焼けが燃えている。
あの場所に行けば雨星が見られるかもしれない。びしょ濡れになりながら走り出す。
一歩ずつ、優太との思い出が浮かんでは消えていく。
「優太。……優太!」
小さいころ、一緒に行ったキャンプのこと。
夕暮れの土手で寝転がったこと、中学生になり急に背が伸びたこと、お腹を抱えて笑う姿。
消したくない、忘れたくないよ。
丸い夕焼けは、高台にある夕焼け公園の真上にあるように見えた。
必死で坂を駆けあがる。
どうか間に合って。どうかそのままで。どうか、優太を連れて行かないで!
公園入口までたどり着くと、そこには不思議な世界が広がっていた。
まるで公園のなかだけが別世界のように、赤い光に包まれている。
這うようにベンチのところまで行き、手すりにもたれて上空を仰ぐ。
夕焼けに包まれながら、あえぎながら口を開けば雨が降りこんできた。
これが雨星なのかはわからない。
なんだっていいよ、優太が助かるなら。
「お願いします、優太を助けて!」
声をふり絞って叫んだ。
「優太を、優太を……」
もうすぐ夕焼けも終わるのだろう、赤い空は色を濃く変えていく。
私のすぐ真上では、いくつかの星が蛍のように光っている。
「あ……」
思わず声が漏れたのは、流れ星が見えた気がしたから。
雨に負けないように目をこらすと、またひとつ星が流れた。
違う。
星の光が雨に溶けているんだ。
何本もの光の雨が、キラキラと輝きながらこの場所に降り注いでいる。
手のひらを出してみると、中指の先で光は小さく弾けて消えた。
ベンチも手すりも地面でさえも、線香花火のように光っている。
やがてそれは幾千もの光になりヴェールとなり私を包んでいく。
あまりにも幻想的で美しい光だった。
光る雨が私の手を、体を光らせているみたい。
「これが……雨星なんだね」
叶人が見たかった雨星を、私は今浴びているよ。
叶人に見せたかった、優太と一緒に見たかった。
会いたいよ。優太に会いたい……。
砂利を踏む音がすぐうしろで聞こえた。
「ふり向かないで」
その声が聞こえ、体の動きを止めた。
「ふり向いたら僕は消えてしまう。そのままで話をしようよ」
――この声を知っている。
「雨星が降る日に奇跡は起きるんだよ」
――甘くて、だけどどこかクールな声を知っている。
「僕が言った通りだったでしょ。ね、お姉ちゃん」
「叶人……」
これは、私の幻聴なの? それとも本当に叶人がここにいるの?
不思議と雨の冷たさも感じない。
「本当に……叶人なの?」
震える声で尋ねる私に、叶人はクスクスと笑った。
こんな笑いかただった、と胸が熱くなる。
「雨星に乗ってやって来たんだ。って、自分でも信じられないけど」
「なにがどうなってるの……。あのね、今、優太が――」
「うん」
すべてわかっているような言いかたをする叶人に口を閉じた。
「僕のせいなんだ。僕が夢で見たことを小説にしてもらって、それが現実になるように願っちゃったから」
やっぱり『パラドックスな恋』と同じことが起きたのは、叶人が願ったからなんだ……。
「どうして、そんなことをしたの?」
「うーん。わかんない」
「覚えてないの?」
「うん」
思わずムッとしてふり返りそうになるのを寸前でこらえた。
昔から叶人は直感で行動するくせがあった。
「でもさ」と叶人の声が少し小さくなった。
同時に、公園を満たす光も少し弱くなってように見える。
「僕が死んじゃったあと、いちばん心配だったのはお姉ちゃんだったからさ」
「私のこと?」
「お姉ちゃんは弱いからさ」
「弱く……ないし」
懐かしい会話を交わしても、もう叶人はいない。
私の大切な人は、私を置いてみんな離れていくから。
「弱いのは私だけじゃない。お父さんもお母さんも、よくない方向へ行こうとしてるし」
今じゃ、顔を合わせればケンカばかり。
離婚へのカウントダウンすらはじまってしまっている。
けれど叶人は「大丈夫」とあっさり言った。
「この間、お姉ちゃんがふたりにビシッと言ってくれたおかげで、冷静になれたと思うよ。あのふたり、意地っ張りだから苦労するよね」
「たしかにそうだね。ケンカするといつも長いし」
「毎回大変だった。お母さん、完全なる八つ当たりをかましてきたからね」
仲が良かったころは、こんな話をよくしていたね。
どうして私はもっと叶人と話をしなかったのだろう……。
今、すぐうしろに叶人がいることは奇跡としか言いようがない。
だとしたら、ちゃんと私も彼に伝えたい。
「叶人、いろいろごめんね。私、もっと叶人と話をすればよかった。もっと病院に行けばよかった。もっと……」
言葉は涙にあっけなく負けてしまう。胸が苦しくて続けられない。
「そんなのお互い様だよ。僕だって素直じゃなかったし。反抗期ってやつだよね」
叶人の顔を見たい。でもそれは、今度こそ叶人との別れを意味している。
説明のつかないことでも受け入れている自分が不思議だった。
「僕が今日ここに来たのは、お姉ちゃんに謝りたかったから。今度はお姉ちゃんの番だよ」
「私の?」
「雨星に願うんだよ。お姉ちゃんが今、かなえたいことをちゃんと伝えて」
星がまだ私たちに降ってきている。
私が願いたいことは……。
はあはあ、と息を吐いてから口を開いた。
「昔に戻りたい。叶人がいて、優太がいたころに戻りたい。ううん、叶人の病気がわかるもっと前に戻れば――」
「違うよ」
あきれたように叶人は言った。
「自分では気づいていないかもしれないけど、僕の死をお姉ちゃんは乗り越えたんだよ。ふりだしに戻っても意味がない」
「でも……」
「雨星はお姉ちゃんにとって今、いちばん必要なことを願うために現れたんだよ。もうすぐ雨星は終わる。その前に、ちゃんと言葉にして」
昔から叶人はどこか大人ぶっていて、私を妹のように扱うところがあった。
今だってそうだ。
息を大きく吸い、空を見た。
上空の赤色は、もうすぐ紺色へ塗りつぶされてしまいそう。
降り注ぐ光も、きっともうすぐ消える。
私は今、本当の願いを口にする。
「私は、小説の世界から抜け出したい。ちゃんと自分の気持ちを言葉にして、私の物語を自分の力で描いていきたい」
「うん」
「そのためには優太が必要なの。私の物語には優太が必要なの。どうか、彼を返してください」
そう言ったとたんに、上空にあった雨雲が溶けるように薄くなっていくのが見えた。
さっきまでの雨がウソみたいに空はどんどん赤く塗り替えられていく。
「やったね。おねえちゃんの願いが雨星に届いたんだよ」
「これでよかったの? ねえ、叶人……」
見渡す限りの夕焼けが世界を赤く染めていた。
視線の高さで燃えている太陽がまぶしくて目が開けられない。
「もう大丈夫。今日までの不思議な出来事はリセットされた。パラドックスな世界はおしまい」
「おしまいって……?」
どういうことなのか理解がついていかない。
「現実に現れた小説世界のことは、お姉ちゃん以外の人の記憶からは消える。それによって起きたこともぜんぶだよ」
「ぜんぶ……。じゃあ、大雅のことも?」
だとしたら日葵の想いもなかったことになるのかな。
お父さんとお母さんのことは?
「大丈夫だよ」と、私の心配を和らげるように叶人は言う。
「みんなの想いはちゃんと受け継がれる。雨星の奇跡ってすごいんだから」
叶人の声がすぐうしろでしている。
「そろそろ、僕も行くね」
まるで、ちょっと遊びに行くみたいな口調で叶人は言う。
「待って。まだ行かないで」
「もう大丈夫だよ。新しい物語を楽しみに見ているから」
雨が弱くなっていく。声もどんどん遠くなっていく。
やっと会えたのに、もう終わりなの?
「待って、叶人。お願い、最後に顔を――」
「雨星を信じてくれてありがとう。お姉ちゃん、またね」
その声を最後に、なにも聞こえなくなった。