君がくれた物語は、いつか星空に輝く

 個室に入り腰をおろすと、おもしろくらい手も足も震えていた。
 もう間違いない。
 なぜかはわからないけれど、『パラドックスな恋』と同じことが起きている。

 小説の登場人物だった大雅が、現実世界に現れたんだ……。

 だとしたらなぜ、日葵も優太もそれを受け入れているのだろう。
 優太にいたっては、昨日までは大雅のことを知らないそぶりだったのに。
 しばらくじっと考えてみる。

 ずっと『パラドックスな恋』の世界観にあこがれていた。
 小説の主人公になれるなら、身を任せてみるのもいいかもしれない。

「……でも」と、つぶやく。

 あの小説の主人公である悠花は、私とは真逆の性格だ。
 彼女は、小学三年生までの記憶はないけれど、明るくて幼なじみとも楽しく接している。
 詳しい描写はないけれど、小説の主人公はみんなかわいくってスタイルもいいのが定番。
 だからこそ、誰もが恋に落ちることができる。

 小説だけじゃない。
 昔話のお姫様も漫画やドラマの主人公も、みんな美人だからこそ幸せなエンディングを迎えられるんだ。

 でも私は……違う。

 容姿に自信がないし明るくもない。
 なにもかもがうまくいかず、もがくことすらできずにウジウジしているだけ。
 こんな私のことなんて、大雅は好きになるはずがない。

 迷いながらトイレを出た。
 廊下の窓から見える景色はいつもと同じ。廊下を歩く生徒も同じ。
 違うのは大雅がいることだ。
 不思議な現象の理由も意味もわからないけれど、ずっとあこがれていたのだから受け入れてみるのもいいかもしれない。

 教室から大雅がふらりと出てきた。
 私を見つけてうれしそうに笑うのがスローモーションで見えた。
 さっきの話の続きをしてみよう。もしおかしな展開になったらすぐにやめればいいだけ。

 鼻から大きく息を吸い、大雅に向かって足を前に出した。

「あの、さっきはごめんね。驚いちゃって……」
「大丈夫だよ。じゃあ改めて自己紹介するね」

 あ、このシーンにつながるんだ……。

「僕の名前は山本大雅。君は、柏木悠花。僕たち、実は幼なじみなんだよ」

 いたずらっぽい顔で覗きこんでくるところまでも同じ。
 小説の中のイメージそのまますぎて、顔が赤くなってしまう。

「……大雅」

 名前を呼べば、本当にうれしそうに大雅は白い歯を見せて笑う。
 それから大雅は窓の外に目をやった。

「本当になつかしいよ。でも、このあたりもずいぶん変わったね。学校までの道もきれいに整備されていたし」

 小説では教室のなかで四人で話をしているシーンだったはず。
 私が逃げたことで状況が変わってしまっているみたい。
 頭のなかにあるスマホをスクロールしてこのシーンを探す。

「区画整理があったからね」

 優太が言うべき台詞を代わりに言うと、大雅はまぶしそうに目を細めた。

『駅前あたりはどうなの』って、そう言うのかな……。

「駅前あたりはどうなの?」

 一字一句同じ台詞を口にする大雅。

「あそこは昔のまま。店はけっこう変わったとは思うけど」

 次の台詞は『ねえ』だったはず。

「ねえ」

『町を案内してくれない?』

「町を案内してくれない?」

 もしも、これが夢ならさみしいな。
 どんな理由でこんなことが起きているのかはわからないけれど、理想の相手が目の前にいる今を失いたくない。

「いいよ。放課後、一緒に行こう」

 そう言えた自分を、褒めてあげたくなった。

 私と大雅が町歩きをすることは、『廊下で偶然耳にした』というクラスメイトの女子により、あっという間に広がってしまった。
 普段は話をしたことのない女子たちが、昼休みになったと同時に声をかけてきた。

「山本くんと幼なじみって本当なの?」「ふたりで出かけるの?」「柏木さんのイメージ変わったよ」

 なんて答えていいのかわからず、あいまいにごまかしながら自分の席に戻った。 
 いや、逃げたというほうが近いかもしれない。

 日葵はすでにお弁当を食べ終わり、チョコレートをつまんでいる。

「にしても、大雅変わらないね。背だけは高くなってるけど、あとはそのまんま。昔に戻ったみたいでうれしいよね」

 日葵も優太と同じで、大雅のことを幼なじみだったと思い込んでいる。
 小説世界から大雅が現れたことで、周りの記憶も変わっているみたい。

 不思議だ。

 こんなに非日常的なことが起きているというのに、時間とともに受け入れている私がいる。

「なになに、また考えごと? 大雅とふたりで出かけることに緊張しちゃってたりして」

 それもある。でも、それ以上に日葵に現状についてわかってもらいたい。

「あのね、日葵。その……おかしなことが起きてるの」
「おかしなこと?」

 最後のチョコを口に放り込んだ日葵。そう、彼女は小説の中の茉莉とは違うはず。

「小説の登場人物が、現実世界に現れたの」
「映画の話?」
「そうじゃなくって……」

 こういうとき、おしゃべりじゃない自分が情けなくなる。
 小説の悠花ならスラスラとよどみなく説明できるんだろうな。

「小説に書いてあったことがリアルに起きてるの。私がよく読んでいる『パラドックスな恋』って小説があるよね?」 

 表情だけで日葵が『パラドックスな恋』に思い当たる節がないことは伝わってくる。

「え、待って。悠花、ちゃんと話してくれないと意味不明だし。だいたいそんな小説、あたし知らないよ。そもそもあたしが小説なんて読むわけないじゃん」

 それはわかっているけれど、どうすれば日葵に伝えられるのか……。
 そうだ、とカバンからスマホを取り出す。

「小説投稿サイトに載っている作品でね。何度も私が読み返している作品なの。日葵が呆れるくらい何度も話をしてるよ」

 スマホを取り出し、お気に入りに登録してある『パラドックスな恋』を表示させる。
 いつもと変わらないタイトル画面を見てホッとした。
 これを見せれば日葵だってわかってくれるはず。

 スマホを印籠のように差し出すと、日葵は「小説って苦手」と言いながらも読みはじめてくれた。
 これで私の主張は理解されるだろう。

「……え、なにこれ」

 日葵が画面に向かって目を見開いている。
 そのまま読めば、私たちに起きていることを理解してくれるはず。

 けれど、数ページ読んだだけで日葵はスマホを返してきた。

「ちゃんと読んでくれた?」
「更新分までは読んだよ」
「更新?」

 意味がわからず画面を確認する。

 □□□□□□□
 軽く頭を下げた彼の瞳が私を見た。まっすぐに見つめてくるその目がやわらかくカーブを描く。
 え、私のことを見ている……? って、気のせいだよね。
 彼は唖然とする私から隣の伸佳に視線を移すと、さらに笑顔になる。なぜか伸佳も同じように笑っている。
 意味がわからないまま、黒板に書かれる『山本大雅』の文字を眺めている間に、チャイムがまた鳴った。
(つづく)
 □□□□□□□

 そのあとのページはなく、下にはイイネボタンが表示されている。
 これは、本編がはじまってすぐのシーンだ。

「つづく、って……」

 つぶやく私の手を、日葵が握ってくるから思わずスマホを落としそうになる。
 え、なんで日葵がうれしそうに笑っているの?

「すごいね悠花。小説を書いてるんだ?」
「え……なんのこと?」
「これって昨日、大雅が引っ越してきたシーンでしょ。あたしや伸佳も名前は違うけど出てるし。なるほどねぇ、実際に起きたことを小説にしてるんだ。悠花にこんな才能があったなんて驚きだよ」

 言ってる意味がわからない。
 スマホを手元に置きなおしてから首を横に振った。

「違うよ。書いたのは私じゃないって」
「照れちゃって。『ITSUKI』っていうペンネームもいいね。ていうか、よっぽど大雅との再会がうれしかったんだねえ」

 ニヤニヤにしている日葵に、目の前が真っ暗になっていく。
 トップ画面を改めてみると、完結しているはずの『パラドックスな恋』は『連載中』に変わっていた。

 頭がこんがらがる。これは、どういうことなのだろう?
 現実世界が進むたびに、小説も更新されていくということ……?
 これじゃあ日葵にわかってもらえない。

「あたしさあ」と日葵がのんきな声で言った。

「昔から悠花って大雅のこと好きなんじゃないかって疑ってたの。ほら、聞いてもはぐらかしてたでしょ。でも、これで確定したね」
「いや……そうじゃなくって」
「小説にまでするなんて、悠花の行動力には驚かされたわ。でも、恋をする気持ち、少しはわかるよ」
「え?」

 顔をあげると、日葵は教壇前あたりを潤んだ瞳で見つめている。
 そこにはクラスメイトの兼澤(かねさわ)くんがいた。たしか、兼澤利陽(としはる)という名前で、漫画好きということくらいしか知らない。

「兼澤くんとなにかあったの?」

 恐る恐る尋ねる私に、日葵はこくんとうなずいた。

「それがさあ、夏休み前に本屋さんでバッタリ会ってね、たまたま同じ漫画を手にしていたの」

 これも『パラドックスな恋』に載っていたエピソードだ。
 小説のなかでは同じ小説を手にしていた設定だけど、漫画に変わっている。
 あれだけ恋愛に否定的だった日葵がそんなことを言うなんて、小説世界が現実に浸食してきているみたいで怖い。

「で、LINE交換をしたの?」

 小説のなかで茉莉はそう言ってたはず。
 が、日葵は「なんでよ」と笑い飛ばした。

「そんなのするわけないじゃん。ただ、そういうのもいいかな、って思っただけ」
「じゃあ図書館とか喫茶店とかに行く約束はしてないの?」
「やめてよね」

 不機嫌そうな顔になった日葵があごをツンとあげた。

「自分が恋をしているからって巻きこまないで。あたしは恋愛なんてしないんだから。ただ、悠花が恋する気持ちは理解できるってことを言いたかっただけ。認めなさい。大雅のこと、ずっと好きだったんでしょ?」
「あ、うん。そう……かな」

 言葉に詰まりながら、かろうじてうなずいた。
 一瞬の間を取ったあと、日葵は白い歯を見せた。

「それでいいんだよ。あたしは恋はしないけど、恋バナは好きだからいつでも相談して」

 小説とは違い、日葵はやはり恋はしないらしい。
 私は……どうなんだろう。
 今起きていることは不思議すぎるけれど、ずっと憧れていた大雅が現れてくれた。
 小説の物語が現実になってほしいと願ってきたはず。
 こんなことは二度と起きないこともわかっている。
 大雅のことを私は好きなの? 自分に問いかけてみても実感はあまりなかった。

 それでも改めて大雅の姿を探すとき、たしかに胸はドキドキしていた。


「うわーなつかしいね!」

 さっきから大雅は右へ左へふらふら、まるで糸の切れた凧みたい。

「このスーパー、まだやってるんだ。昔とちっとも変わってない」

 小説と同じセリフを躊躇なく言う彼。次は私の番だ。

『危ないからあまり車道に寄らないでね』

 こういう注意をあまりしたことがないせいか、言葉になってくれなかった。
 モゴモゴ口ごもる私を気にする様子もなく、大雅はキョロキョロあたりを見渡している。

 小説世界と同じことが起きたとしても、やっぱり主人公の性格が違いすぎる。
 ムリして同じことを言うのはあきらめ、私らしく接することを選んだ。
 つまり、黙ってついて行くことにした。

「夕焼け公園ってまだある?」

 くるんとこちらをふり向いた大雅。
 傾きかけた太陽が大雅をキラキラ輝かせている。

「え? あ、そのことなんだけど……」

 小説では、ふたりの思い出の場所として何度も登場する。
 けれど、この町にそんな公園はないし、一緒に夕日を見た事実もない。

「ごめん。わからないの」

 正直に答える私に、大雅は目を丸くした。
 ああ、せっかくの物語もここで終わってしまうのかもしれない。
 が、大雅は気にした様子もなく脇にある上り坂を指さした。

「あの坂道をのぼる途中にあるのが夕焼け公園だよ。悠花、忘れちゃったの?」

 高台の住宅地に続く道はたしかにある。けれど私の家はそっちの方角じゃないし、大雅はもちろんのこと、日葵や優太と訪れたことはない。

「時間もちょうどいいし、久しぶりに行ってみたいな。いい?」
「あ……うん」
「やった!」

 駆けていく大雅から長い影が伸びている。
 まるで子供みたいな大雅に、昔の優太の面影が重なった。
 最近はぶっきらぼうな優太も、昔はこんなふうにはしゃいでたっけ……。

 って、なんで優太のことを思い出しているのだろう。

 坂道をあがりながら大雅は時折こっちをふり向いてくれる。
 どんどん夕暮れに支配されていく空の下、不思議な出来事を体感している。

 やっとついた公園は、想像していたものよりずいぶん小さかった。
 小説に出てくるブランコや砂場はないけれど、ベンチだけはあった。

 当たり前のように町を見おろせるベンチに座った大雅。
 私もなるべくベンチのはしっこに座り顔をあげると、目の前に大きな夕日が浮かんでいた。

「すごく大きい」

 思わずつぶやいてしまうほど、太陽は赤く燃えていた。

「ここで夕日を見るのが好きだったんだ。夕日ってすごいパワーがあると思うんだよね。日光浴ならぬ夕日浴ってところ」
「そうなんだ」

 ここが夕焼け公園なんだ、と静かに感動してしまう。
 ドラマのロケ地に行くってこういうことを言うのかもしれない。
 想像よりも小さい公園で、遊具もない。
 大雅の顔だって、小説みたいに真っ赤に染まっていない。

 それでもここで大雅との思い出を作っていければいいな。

 そっと大雅の横顔を見てみる。想像していた以上にかっこよくてやさしそう。
 私は今、小説の主人公になっているんだ……。
 違うのは、まだ大雅への恋心が生まれていないこと。あまりに突然の出来事すぎて、心が追いついていない感じがする。

 私は大雅を好きになれるのかな。そう思う時点でなにか違う気がしてしまう。
 きっと好きになるはず。
 そうなるためにも、主人公が言った台詞と同じことを口にしてみよう。

 大丈夫、台詞は完璧に頭に入っているから。

「大雅が引っ越して来たのって小学三年生のころなんでしょう?」

 ずいぶんカットしてしまったけれど、ここからはじめることにした。

「そうだよ」

 やっぱり同じ台詞が返ってくる。次は私の番。

「私、昔からそのあたりまでの記憶ってほとんどないの。思い出そうとしても思い出せなくて――」

 そこまで言ったときだった。砂利を踏む音が聞こえた。
 ふり向くと、息を切らせた優太がうしろに立っていた。
 部活のユニフォームのままで、大きなバッグのなかからは制服のズボンが飛び出ている。

「え……優太?」
「んだよ。急に呼び出すなよな」

 その声は隣の大雅に向けられていた。

「ごめんごめん。あんまり夕日がキレイだったからさ。でも間に合ったね」
「『全速力で集合』なんてメッセージ送っておいてよく言うよ。ったく、大雅はマジで変わってねーな」

 呆れながら私と大雅の間に優太がどすんと腰をおろした。

 どういうこと……?

 小説の中では大雅とふたりきりだったはず。そして私は大雅への恋心を意識する――そういうシーンのはずなのに。
 どうして優太がここにいるのだろう。
 私の気持ちに気づいたように、大雅はいたずらっぽく笑った。

「すごく悠花が緊張しているように思えたから、少しでも和らげようと思って声をかけておいたんだ」
「あ、うん……」

 小説の展開と違うのは、やっぱり私の行動や会話が違うからなんだ。

「日葵はまだ部活みたいで既読にならなかったよ。今回は三人で我慢しよう。昔はみんなでよく夕日を見たよね」

 大雅のうれしそうな声に、
「なつかしいな」
 優太がまぶしそうに目を細めている。

「悠花がね」急に私の名前が聞こえ、ドキッとした。

「昔の記憶がないんだって。僕のことも忘れているみたい」
「へえ」

 優太が私を見た。

「悠花は昔からそういうところがあるからな。ねぼすけで忘れっぽかったし、それは今も健在」

 からかう口調にまたムッとしてしまう。

「今は違うもん」
「違わねーよ」
「ねぼすけで忘れっぽいのは優太のほうでしょ」
「なんで俺なんだよ」
「なによ」

 言い合っていると、大雅が声をあげて笑い出した。

「なつかしい! そうやってふたりはいつもケンカしてたよね」

 言われて思い出す。優太と漫才みたいなかけ合いをしたのは久しぶりだった。
 見ると、優太もおかしそうに笑っている。

 まるで昔に戻ったみたいで私もうれしくなる。

「ケンカじゃねーよ。じゃれてるだけだよ、な?」

 ひょいと顔を近づける優太。同じだけ顔を引きながらうなずいた。
 それから優太はゆっくり夕日に目を戻す。
 優太の横顔が……ああ、赤く染まっている。

「ここからだと、町が切り絵みたいに見えるな」
「うん。そうだね」

 もうすぐ沈みそうな太陽が最後の力をふりしぼり、町並みを黒く塗りつぶしているみたい。
 やがてこの町は影に飲み込まれるように夜を受け入れていくのだろう。

 不思議だった。
 もうずっと感じたことのない平穏な気持ちが胸に広がっていく。

「記憶なんてさ――」

 優太の口の動きがスローモーションに見える。

「思い出せなくてもいいんじゃね? これから新しい思い出を作っていけばいいんだし」
「……え?」

 それは小説のなかで大雅が言ってくれた言葉だった。
 三人に増えたから、台詞が分配されたのかな……?

「優太はいいことを言うね」

 ひょいと立ちあがった大雅がバッグを肩にかけた。

「じゃあ僕も悠花と新しい思い出を作っていくよ。そのほうが新鮮だもんね」

 どうしよう、大雅の言葉が頭を素通りしていく。
 小説と同じようで違う展開が起きているのはなぜ?
 なんて答えていいのかわからずにうつむくと、優太の左足にあるミサンガもいつもより赤く映った。

「よし、じゃあ帰るか」

 優太が立ちあがるのをさみしく感じるのはなぜ?

 歩き出す優太のうしろ姿ばかり見てしまうのはなぜ?

 違う、と意識して大雅に視線を移すけれど、小説にあったような彼への感情はどこを探してもなかった。





【第二章】

雨が泣いている


「なんでそんなことが言えるのよ」

 お母さんの声に、夕食の席はひりついた。
 視線は横に座るお父さんにまっすぐ向けられている。

「いつまでも叶人の部屋をそのままにしておけないから整理しよう、って言っただけだろ。別にヘンなことじゃない」

 不機嫌に鼻でため息をつくお父さん。
 カシャンと乱暴にお母さんが箸を置く音が続いた。

「だから、なんでそんなひどいことが言えるの、って聞いてるの。まるで叶人の存在を忘れようとしているみたいじゃない」
「そんなつもりはない。お前こそ、なんでそんなに突っかかるんだよ」

 今日のおかずは肉団子の甘酢とナスのお浸しとコーンスープ。
 和食、洋食に中華が混在している。
 どれもおいしそうだけど、おいしそうじゃない。
 食事は味だけじゃなく、環境や雰囲気が大事なのにな。

 私の座る左斜め前の椅子は、二年間以上も主の帰りを待っている。

 ぼんやり椅子を眺めていると、
「悠花だっておかしいと思うでしょう?」
 お母さんが同意を求めてきた。

 いつだってそうだ。
 ふたりがケンカをすると私にジャッジを託してくる。

「……え?」
「聞いてなかったの? お父さんが叶人の部屋を片づけるって言ってるの。あの子の存在を消そうとしてるのよ」
「そうじゃない。整理するくらい、いいよな?」

 ふたりは私が答えを出せないことを知ってて聞いてくる。

「……ごめん。わからない」
「わからないことないでしょ。なんで自分の意見を言えないのよ」
「そんなんじゃ社会に出たときに苦労するぞ」

 ほら、こうして私に矛先を向けることで直接対決を避けているんだ。
 ふたりの怒りはベクトルとなり、家族の間を行き来する。
 最終的には私に向けられることが多いし、それも仕方ないとあきらめている。

 お父さんは食事の途中で席を立ち、自室に戻ってしまった。
 お母さんはイライラを隠さずにため息ばかり。

 冷めたおかずはどれも同じ味に思えてしまう。
 ただ口に入れ飲みこむだけの作業をくり返しているみたい。

「ねえ、悠花」

 さっきよりいくぶんやわらかい声でお母さんが言った。

「ひょっとしたら、お父さんとお母さん、別れることになるかもしれない。そうなってもいい?」

 私が答えないことを知ってるから聞いてるんだよね?

 もう一度、叶人の席を見やった。
 叶人が入院する前はどんな会話をしていたのか、思い出そうとしても浮かんでこない。
 お互いに無関心を装っていた記憶だけは、永遠に消えないアザ。
 叶人との思い出を美化する資格は、私にはない。

 重い空気のなかで食べる食事はなんて味気ないんだろう。


 久しぶりに入った叶人の部屋は、あのころのままだった。
 六畳の部屋は叶人だけの天体観測所。
 壁には星の天体図が描かれた大きなポスターが貼ってあり、窓辺にはクリスマスプレゼントでもらった天体望遠鏡が飾ってある。
 ベッドの横にある小さな地球儀は、天井に星空を映すことができる簡易型のプラネタリウム。

 叶人はいつも星空のことばかり考えていた。
 空ばかり眺める叶人には、あまり友達もいないようだったけれど、本人は平気だったみたい。
 まだ話をしていた時期に、この部屋に入ったことがあった。

『なんで星ばっかり見てるの?』

 そう尋ねた私に、叶人は照れたように笑った。

『僕はね、いつか雨星を見てみたいんだ。雨星が降る日に奇跡が起きるんだよ』
『雨星ってなに?』
『んー。実は僕もよく知らないんだよね。雨星は必要な人が自分で知って、必要な人のもとにだけ現れるんだって』

 くしゃっと無邪気に笑っていたっけ。

 雨星の意味はわからなかったけれど、偶然見つけた『パラドックスな恋』に同じ単語が出てきたときは驚いた。
 私があの小説を愛してやまないのは、叶人の面影を感じられるからかもしれない。
 とはいえ、あの小説のなかにも雨星の意味についてははっきりと書かれていなかったけれど……。

 机の上には惑星を模ったキーホルダーや、SF映画のチラシが几帳面に飾ってある。
 小さい椅子に腰をおろして、部屋を見渡しているとベッドの下になにかあるのが見えた。
 絨毯に這いつくばり手を伸ばすと、それは大きな本だった。
 図鑑くらいの大きさで、『宇宙物理学における月と星について』という固いタイトルに似つかわしくなく、表紙にはかわいいイラストがクレヨンタッチで描かれている。
 パラパラとめくると、図入りで宇宙についてひとつずつ解説をしている本みたい。
 本を裏返すと、印刷された紙がラミネート加工されて貼ってあった。

『長谷川私設図書館 う―13469』

 ひょっとして……図書館の貸し出し本?

 背表紙をめくるけれど貸し出しカードは見当たらない。
 思い返せば、長谷川私設図書館の話を叶人がしていた気がする。
 『星の本がたくさんある図書館があるんだよ』って……。

 叶人が亡くなって二年が過ぎようとしている。
 その期間、ずっと借りていたなら大変なことだ。いくら図書館とはいえ、延滞代金の請求があることも考えられる。

「どうしよう……」

 お母さんに相談しようと思ったけれど、機嫌の悪さに拍車をかけてしまうのは目に見えている。
 とりあえず部屋に本を持ち帰ろう。返却については一度問い合わせてみればいい。
 事情を話せばわかってもらえるかも……。

 ついでに簡易型のプラネタリウムも借りることにした。
 前から興味があったし、このまま整理されてしまうのは惜しい気がしたから。
 コードをだらんと垂らしたまま小さな地球儀みたいな機械を手にすると、思ったよりも軽かった。

 自分の部屋に戻る。
 叶人の部屋と比べると、なんて主張のない部屋なんだろう。
 カーテンを閉める前に空を確認した。
 今夜は雲が覆っていて、月も星も見えない。まるで我が家のように真っ暗で不穏な空だ。

 過去を忘れられないお母さんと、前に進みたいお父さん。

「どっちが正しいと思う?」

 そんなこと聞かれても叶人は困るだろう。
 どっちを選んだとしても悲しいと思うから、答えることができなかった。
 ふたりにはそんな私の気持ちなんてわからないよね……。

 カーテンを閉めてから、プラネタリウムをセットし部屋の電気を消した。
 スイッチを入れると、モーター音もなく天井にぼやけた夜空が映し出された。
 本体の軽さに反して、まぶしいほどの光が機械から放たれている。

 脇にあるノズルで調整するけれど、なかなかピントが合ってくれない。
 機体は自動で回転するらしく、空も同調してゆっくりと動いている。
 ベッドに横になると、まるで山の頂上で寝転んでいる気分。
 星の名前はわからないけれど、天の川くらいはわかる。

 叶人も同じ星空を見ていたんだね。

 叶人のことを、ずっと考えないように生きてきた。
 彼の死を思い出すたびに大声で叫びたくなるし、泣けば涙と一緒に思い出までもこぼれ落ちてしまう気がするから。

 学校にもちゃんと行けているし、ご飯だって食べられる。
 忘れたわけじゃない。
 でも、思い出せば、彼に対してやさしくなかった自分のことも同時に悔やんでしまうから。

 お父さんとお母さんも、現状の苦しみから逃れたいからこそ変化を望んだり拒んだりしているのかもしれない。
 叶人がいなくなってから、居場所がなくなった家族はみんな迷子になっている。

 私も同じだよ、叶人。

 泣きたくないのに、あまりに人工の星が美しくて視界は潤む。
 亡くなったあとで後悔したって遅い。昔、なにかの本に書いてあったことが今さらながら胸を締めつける。
 もっと話せばよかった。もっと話を聞いてあげればよかった。
 病気になり孤独になった叶人に、私はなんにもできなかった。

 涙でゆがんだ星たちは、ぼやけて光っていた。


 □□□□□□
「僕は悠花と新しい思い出を作っていくよ。そのほうが新鮮だもんね」
 ひょいと立ちあがる大雅の表情が、逆光で見えなくなる。
 ズキンと胸が痛くなった。
 自分を責めながら、なぜか大雅から目が離せない。
 ――あるわけない。
 ――こんなの恋じゃない。
 何度自分に言いきかせても、どんどん頬が赤くなるのを感じる。
 もっと大雅の顔を見ていたい、そう思った。
(つづく)
 □□□□□□


 いつものように学校のトイレでスマホを確認すると、『パラドックスな恋』は更新されていた。
 昨夜までは更新されていなかったのに、第一章の終わりに当たる夕日を見たシーンまでが記されていた。

 けれど、内容はこれまで読んできた展開そのまま。
 優太に当たる伸佳は夕焼け公園には来ていないことになっているし、主人公は大雅への淡い恋心を抱きはじめている。
 現実世界で起きたことは、小説に反映されないということなのかもしれない。
 これからの展開はどうなるのだろう。
 第二章を思い出そうと目を閉じる。

「……あれ?」

 なぜだろう、夕焼け公園のシーンのあとどうなったかが浮かんでこない。
 こんなこと、はじめてのことだ。
 体を小さくして意識を集中させると、ようやくぼんやり展開が浮かんだ。

「そっか……。大雅が風邪を引くんだ」

 今日起きることなのかはわからないけれど、大雅が学校を休んだ日に私はお見舞いに行く。そして、妹である知登世ちゃんに会うんだ。

 最後はふたりきりで夕焼け公園に行き、私は大雅への恋心を確信する、という流れ。

 憧れてやまなかった展開なのに、不思議と冷静な自分がいる。
 大雅とちゃんと話ができていないからかもしれない。
 夕日を見たのも、結局はふたりきりじゃなかったし……。
 しばらくぼんやりと画面を眺めてから、スマホをスカートのポケットにしまった。

 そろそろ始業のチャイムが鳴るころだ。トイレから出ると、ちょうど木村さんが登校してきたところだった。

「おはよう」
 と、相好を崩す木村さん。久しぶりに近くで顔を見た気がした。

「あ、おはよう」

 ふたりで並ぶ形で教室へ向かう。

「柏木さん、次の委員会って何日だったか覚えてる?」
「えっと、今度の金曜日じゃないかな」
「金曜日かぁ。どうせ草むしりの続きだよね。腰が痛くなるし汚れるし、ほんと苦手。そんなんだったら映画観に行きたいよ」

 ぶすっとする木村さんがなんだかかわいい。
 私と木村さんが入っている環境整備委員会は、名前はかっこいいけれど、やっていることは草むしりや備品チェックなど地味なものばかりだ。

「金曜日は……」

 あまりにも小さな声なことに気づき、言い直すことにした。

「金曜日は雨の予報。中止が期待できるかも」

 そう言う私に、木村さんはなぜかうれしそうに笑った。
 自分でも気づいたのだろう、「違うの」と片手を胸の前で振った。

「最近の柏木さん、すごく話しやすいからうれしいなって思って。あ、前が話しにくかったわけじゃないからね」
「そう、かな」

 なんだか急に恥ずかしくなり、そこから会話を交わすことなく教室に入る。
 自分の席へ直行すると、待ち構えていたのだろう、日葵が「ねえ」と体ごとうしろを向いた。
 大雅が風邪で休むという報告かもしれない。

「大雅からLINEが来てさ、風邪引いて休みみたい」
「うん」
「え、知ってたの?」

 つい当たり前のようにうなずいてしまった。

「知らない。ごめん、ねぼけててちゃんと聞いてなかった。風邪なんだね」

 しどろもどろに訂正すると、日葵は大雅の席のあたりに視線を向けた。

「大雅って今、ひとり暮らしの状態なんだって。家族はあとで引っ越してくるって言ってた」
「へえ……」
「昔から大雅って体弱かったよね」
「そうなんだ」
「幼稚園で遠足とか行った翌日は、たいてい寝こんでたよ。日常と違う変化があると、体調が悪くなっちゃうみたい。転入したてで疲れが出たのかもね」

 妹の知登世ちゃんが来るからから大丈夫だよ、と言いそうになる口を閉じた。
 あれは小説のなかの話だ。
 このあと、小説のなかで日葵役の茉莉は私にお見舞いに行くように進言するという流れだ。
 身構えていると、隣の席で寝ていた優太がムクッと顔をあげた。

「ビタミン系の飲み物と、エナジー系の炭酸飲料、あとはお弁当だって」

 ぶっきらぼうに言うと、大きなあくびをしている。

「なに、優太にも連絡来てたんだ?」

 日葵の問いに優太は眠そうな目で「ん」と答えた。

「俺は部活あるから、日葵が行くって伝えておいた。あとは頼む」
「なんであたしなのよ」
「しょうがねーじゃん。だって、悠花は大雅のこと覚えてないんだから」

 え、私が行くんじゃないの?
 驚きのあまり声の出ない私に、優太はやわらかくほほ笑んだ。

「覚えてないのにお見舞いに行くのはキツいだろうしさ」
「ちょっと待ってよ。悠花、大雅のことマジで覚えてないの?」

 日葵が思いっきり首をかしげた。

「あ、うん。覚えてないの」
「全然?」

 日葵が問い詰めるように顔を近づけたのでうなずく。

「全然、ちっとも、まったく」

 小説とは前後しているけれど、たまに会話がシンクロしている。
 呆れたような顔の日葵がうなずいた。

「じゃあ放課後、ふたりでお見舞いに行くことにしよう。きっと会えば少しずつ思い出せるはず」

 ふたりで……。そうだよね、そのほうがいいかもしれない。

 答えるよりも早く、
「後藤さん」
 兼澤くんが日葵に声をかけた。

 兼澤くんとはまだしゃべったことはないし、こんなに近くで見るのも初めてのこと。
 長めの前髪にメガネのせいでどんな表情なのかよくわからない。

「どうかした?」
「あの……この間言ってた漫画なんだけど、全巻手に入ったから」

 メガネをかけ直しながら言う兼澤くんに、日葵は紙袋を見やったあとパチンと拝むように手を合わせた。

「ごめん。漫画の話は学校ではナシってことで」
「あ……でも」

 兼澤くんが手にしている紙袋にはおそらくその漫画が入っているのだろう。

「別にヘンな意味じゃないんだけど、学校ではテニスに燃えているキャラでいたいの。それに漫画は電子で読むから大丈夫なんだ」
「そう」
「うん、ありがとうね」

 自分の席に戻っていく兼澤くんがかわいそうに思え、日葵に声をかけたくなった。
 けれど、日葵はもう私に背を向けてしまっている。
 結局なにも言えないまま、机とにらめっこをした。

「今のはねえよ」

 優太の声に顔をあげた。

「うるさいな。優太には関係ないでしょ」
「関係なくねえよ。カネゴンがかわいそうだろ」

 そういうあだ名を優太につけられているところが逆にかわいそうになる。

「うるさいな。放っておいてよ」

 席を立つ日葵に声をかけられなかった。
 優太も舌打ちを残してどこかへ行ってしまった。

 こんな展開は小説にはなかった。
 といっても、あの小説は短いし、日常の細かなところまで記載するのは難しいだろう。

 まあ……日葵は恋愛が苦手だって公言しているから、男子との接点も作りたくないのかも。
 私だってそうだ。あの小説の主人公みたいに、もっと大雅に近寄りたいのに勇気が出ない。
 大雅を心配する気持ちがないわけじゃないけれど、ひとりでお見舞いに行くのを避けられてよかった、と思う自分がいる。

 私の発言や行動でいろいろと変化しているんだろうな……。
 なんだか、小説の主人公を裏切っているような気がした。

 さっきから日葵は右手にはスマホ、左手には重いエコバッグを持って歩いている。
 私も荷物を持つと言ったけれど、『悠花には重すぎる』と一笑された。

「あそこのマンションだね」

 大股で歩く日葵に置いて行かれないようについていく。
 大雅のお見舞いに向かっているなんて不思議だ。
 小説の世界を体験したいと思っていたけれど、それはあくまで私が小説のなかに飛びこみたいというもの。
 まさか、現実世界で同じことが起きるとは思わなかった。
 しかも、微妙にズレているし……。

 ようやくマンションのエントランスに近づく。
 小説を読んだときに想像する建物よりも少し大きかった。
 きっと知登世ちゃんにこのあと会うのだろう。

 あれ、そのあとどうなったっけ……。
 また先の展開がぼやけている。
 思い出そうとしても、知登世ちゃんとどんな話をしたのか、そのあとどうなったかが思い出せない。何度も読んだ物語なのに、なぜだろう。

 たしか……大雅への恋心を確信するんだよね。

「でもさあ」エコバッグを軽く振りながら日葵がぼやいた。

「最近、優太ってムカつかない? なによエラそうに」

 今朝の言い合いが尾を引いているらしく、今日は最後までふたりの間に会話はなかった。

「そうだね。でも……」
「兼澤くんだって、なにもみんながいるところで漫画のこと言わなくてもいいじゃんね」
「うん。でも、漫画の話くらいはいいんじゃない?」
「やだよ。だってあたし、今――」

 言葉を呑み込むようにあごを動かしてから、日葵は不機嫌そうな顔を向けてきた。

「ていうか、恋愛なんてしたくないって言ってるでしょ」
「そうだけど……」
「もうこの話は終わり。大雅も風邪治ったみたいだし、ふたりで元気づけてあげようよ」

 マンションの入り口からなかに入ると、日葵はちょうど出てきた男性と入れ違いで自動ドアのなかに入った。私も閉まる前に滑りこむ。

 ここで知登世ちゃんが現れるはずなのに……。

 キョロキョロとしているうちに、日葵はさっさとエレベーターに乗りこんだ。

「悠花、早く」

 せかす声に私もエレベーターに乗った。
 二階のボタンを押すと、音もなくエレベーターのドアが閉まった。
 ふわっと生まれる浮遊感は一瞬のことで、すぐに二階に到着する。

 先に降りて右へ進もうとする私に、
「ねえ悠花」
 と、日葵が呼び止めた。

 ふり向くと、日葵が困ったような顔でまだエレベーターのなかにいた。

「悠花に聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「え……うん」

 どうしたんだろう。
 日葵はドアが閉まらないように押さえながら、眉間にシワを寄せている。

「この前さ、大雅のことどう思ってるのか聞いたじゃん。あのときはごまかしてたけど、ちゃんと聞かせてよ」
「それって……なんで?」
「だって大雅の記憶がないって言ってたから。覚えていないのに、それでも好きなのかな、って?」

 日葵の疑問にはうなずける。
 小説の世界では主人公に同化して大雅に恋をしている。
 けれど、二学期になり現れた現実世界の大雅に恋をしているのかと尋ねられると、やっぱりよくわからない。

 ここもまた物語が変わる分岐点なのだろう。
 大雅とのハッピーエンドを目指すなら、正しい道へ進まないといけない。
 なんだか、一度やった恋愛シミュレーションゲームを再プレイしているみたい。

 すう、と息を吸ってからまっすぐに日葵を見た。

「好きだよ。記憶はなくても、心が覚えている気がしてる。今はちゃんと思い出せていないけど、気持ちは変わらないよ」

 あの小説の主人公ならきっとこう答えたはず。
 日葵はしばらく黙っていたけれど、やがて「ふっ」と笑った。

「そっかー。悠花もちゃんと恋をしてるってことか」
「日葵だって兼澤くんのこと、ちゃんと考えてあげたほうがいいよ。漫画を借りてみるのはどう?」
「急に恋愛の達人っぽくなるのやめてよねー。あたしは恋愛はしないんだって。恋愛なんてしたら、自分の感情だけじゃなくて友達関係までおかしくなりそうだし」

 よくわからないことを言ったあと、日葵はエレベーターの外にエコバッグをひょいと置いた。

「ということで、あたしは帰るから」
「え!? どうして? 大雅の部屋、すぐそこだよ」

 いきなりの急展開に驚いてしまう。
 ドアを押さえていた手を離した日葵が、胸の前で小さく横に振った。

「ここが距離をグッと縮められるチャンスなんだからがんばりなよ。バイバイ」

 あっけなく目の前でエレベータのドアが閉まった。
 いきなりの展開に驚いてしまうけれど、ふたりきりで話す機会が小説よりも少ないのはたしかだ。
 でも、このあと知登世ちゃんに先に会うんだよね。
 大雅とふたりきりになれるのは、帰り道、送ってもらうときだったはず。

 意を決し202号室の前へ行く。
 うしろをふり返るけれど、知登世ちゃんは姿を現さない。
 とりあえず先に進まなくちゃ。
 インターフォンを押すと、しばらくして「はい」と大雅の声が聞こえた。

「あの、悠花です。お見舞いに来ました」
「え、悠花!? ちょっと待ってて。今、お風呂に入ってたところでね。すぐに着替えるから」
「はい」

 敬語で話している自分に気づき、肩を上下させ深呼吸をした。
 待っている間、廊下の手すりに腕を置いて外の景色を眺める。

 あ……日葵が帰っていくのが見える。
 いつも元気なイメージなのに、太陽が作る長い影のせいで落ちこんでいるように見えた。
 ふいに日葵がふり返った。

「日葵」

 きっとこんな小さな声じゃ届いていないのに、日葵は大きく手を振ってくれた。
 影も一緒に手を振ってくれている。
 私も精一杯腕を伸ばして手を振った。

 うしろでドアの開く音がした。

「お待たせしてごめんね」

 まだ濡れた髪の大雅が、黒いスウェットを着て立っていた。
 顔色もいいし、にこやかな笑顔は体調がよくなったことを表している。

「あれ、日葵も来るって聞いてるけど?」

 あたりを見回す大雅に、
「そうだったんだけどね、急用みたいで……。これ、三人からのお見舞い」
 とっさに理由をつけ、エコバッグを手渡す。

 ガバッとエコバッグを開けた大雅が、うれしそうにスポーツドリンクを取り出した。

「うれしいな。食べ物も飲み物も底をついてたから助かるよ」
 よほど喉が渇いていたのだろう、ペットボトルのフタを取り、一気飲みする大雅。
 玄関には大雅の靴しか置いていない。

「あの、知登世ちゃんは?」
「グッ」

 喉からヘンな音を立てた大雅が、ムセそうになっている。
 なんとかこらえてドリンクを口から離すと、思いっきり首をかしげた。

「僕、知登世のこと話したことあったっけ?」
「あ、ごめん」

 ヤバい。思わず口にしてしまった。
 現実世界では知登世ちゃんについて知らないことになっているんだった。
 言い訳を考えていると、「そっか」と大雅はうなずいた。

「ユウから聞いたんだね」
「あ……うん。そうなの」

 優太に感謝しながら大げさにうなずいてみせた。

「知登世は転校してから生まれたから年が離れてるんだけど、僕よりもしっかりしてるんだよ」

 ふにゃっとした笑みで宙を見る大雅。
 もうこれ以上余計なことは言うまい、と自分に言い聞かせる。

「来週あたりかな。家族みんなで越してくるよ。それまではひとり暮らしをしてるってわけ」
「うん」
「だから、いくら幼なじみでも悠花を家にあげることはできないんだ。男女ふたりが同じ部屋にいた、ってウワサが広まったら悠花に悪いし」

 申し訳なさそうに言う大雅に、慌てて両手を横に振った。

「ぜんぜんいいよ。そもそも風邪なんだから寝てないと」

 小説のなかでは知登世ちゃんがいたから部屋にあげてもらえたってことか……。
 真面目な大雅に好感を持ちつつ、一歩下がった。
 このあと、大雅は『じゃあ、途中まで送るよ』と言うはず。
 ふたりで夕焼け公園に行き話をするのが第二章のメインイベントだから。
 そこで私は大雅への気持ちを知ることができるのかな……。

 けれど、
「じゃあ、今日はありがとう」
 あっけなく大雅がそう言うから、私もうなずくしかなかった。

「お大事にね」

 そう言ったあと、私は階段に足を進める。
 階段を一歩ずつおりていると、ドアが閉まる音に続き内側からロックをかける音がした。

 ……なぜかホッとしている自分がいた。

 町は静かに今日という日を終えようとしている。
 夕焼け公園のベンチに座り、少しずつ光を失っていく世界を見ていた。
 目の高さまで落ちてきた太陽が、うろこ雲を金色に染めている。
 風は秋の色が濃くなり、もう夏はいないと教えてくれている。

 大雅とふたりきりで来るはずだったベンチにひとり。
 不思議とさみしくはなかった。

 それよりも一度、現状を把握したいと思った。
 時間が経つごとに、小説の展開が頭からこぼれ落ちていくみたい。
 ここにも大雅とふたりで来たことは覚えているけれど、台詞のひとつも浮かんでこない。
 どんどん小説の展開とずれていくことで、未来が消去されている気さえしている。

 そもそも、今起きていること自体説明がつかないことだらけ。
 大雅に会うことができたら、絶対に好きになると思っていた。
 物語の主人公として彼に恋をし、最後は結ばれる、と。

 でも、大雅への気持ちを考えてもよくわからない。
 恋をするってどういうことなのだろう。

「これじゃあ日葵と同じだ……」

 日葵は無事に帰れたのかな。
 なんだか今日はいつもの日葵と違う気がしたけれど、応援してくれているんだからがんばらないと。

 背筋を伸ばし自分を奮い立たせるそばから、心の声が聞こえてくる。

 ――恋はがんばってするものなの?

 ああ、もうなにがなんだかわからない。
 これから先、どうやって大雅と接していけばいいのだろう。
 ため息をつくと同時に、砂利を踏みしめる音がしてふり返る。
 ひょっとして大雅が来てくれたの?

「なんだ。やっぱりここにいたか」

 夕日に照らされた人影は――優太だった。

「なんで?」

 思わず強い口調になってしまうけれど、優太は気にする様子もなく当たり前のように隣に腰をおろした。

「部活早あがりして大雅んとこ行ったんだよ。そしたら日葵は来てないって言うし、悠花も帰ったって聞かされてさ」
「ああ……」
「俺も帰ろうと思ったんだけど、空がコレだからさ」

 長い指で上空を指す優太に、
「私も同じ。ちょっと夕日が見たくなったの」
 そう答える。

 なぜだろう、驚きよりもうれしさが勝っている。

「俺たち最近ここばっか来てるな」
「だね」
「大雅、すっかり回復したみたい。月曜日からは学校に来れそうだってさ。はい、これ」

 バッグから取り出したペットボトルを手渡してきた。

「って、悠花と日葵が買ったやつを失敬してきたんだけど」
「あ、うん」

 まだひんやり冷たいペットボトルのなかには、薄い青色のスポーツドリンクが入っている。
 たしか小説のなかでは透明色だったよね。

 同じペットボトルを手にした優太がいたずらっぽく笑った。

「え、二本もらってきたの?」
「大丈夫。俺がおすすめのヤツと交換してきたから。ついでに冷凍食品も差し入れしたし。それより、ほら見て」

 ペットボトルを目に当てると、そのままあごをあげる優太。

「こうして空を見るとキレイだからやってみて」
「…………」
「あ、バカにしてんだろ?」

 ペットボトルを目に当てたままで抗議する優太に笑ってしまう。

「そうじゃないけど、だまそうとしてない?」
「違う違う。まるで海の底から空を見ているみたいで不思議な感じがするんだ。マジだからやってみてよ」

 目を閉じてまぶたにペットボトルを当ててみる。
 冷たい感触に、すっと気持ちが落ち着くようだ。

 ゆっくり目を開ければ、そこには波打つ空が広がっていた。

 薄紫色にひろがる世界は決して視界がいいとは言えないけれど、夕焼けに変わりゆく空のグラデーションが美しかった。
 細くたなびく雲は海藻のようにゆらゆら揺れている。
 沈みかけた太陽は、波の向こうにあるみたい。
 優太の言う通り、海の底から空を見ている気がする。

「ほんとだ。海のなかにいるみたい。あの鳥も魚が泳いでいるみたいに見える」
「だろ。俺って天才」

 ペットボトルを目から離すと、キヒヒと笑う優太がいた。
 風が、優太の髪をやさしく揺らしている。

 この瞬間を切り取って保存できたらいいのに。

「もちろん、普通に見る空がいちばんだけどな」

 大雅につられて、私も真上に目をやる。
 夕暮れは濃くなり、夜の藍色が広がっている。小さな星の光が見えた。

「雨星って知ってる?」

 そう尋ねたのは、自分の意志だった。
 叶人が話していた雨星のことを、優太に聞いてみたくなったから。

「知ってるよ。叶人がよく言ってたもんな」

 当たり前のように言った優太が、なつかしそうに目を細めた。

「やっぱり叶人、いろんな人に教えてたんだね」
「あいつ、言うだけ言って、どんな星なのかは自分も知らないんだって。スマホで検索しても出てこねーし」
「私も。だからいまだに解明できてないんだよね」
「あいつは俺たちに大きな謎を残した。図書館でも行かないと解明は難しいだろうな」

 『図書館』のキーワードに、叶人が借りていた本のことを思い出した。
 ハッとする私に優太はきょとんとしている。

「叶人の部屋で図書館の本を見つけたの。よく行ってた図書館らしくて、星の本がたくさんあるんだって」

 たしか長谷川私設図書館、という名前だったはず。

「今さら返しに行くつもり?」
「だって借りっぱなしにしているのもよくないでしょう?」

「そうだけど」と言ったあと、優太は半分くらいに減ったスポーツドリンクを目に当ててまた空を眺めた。

「じゃあ俺もつき合ってやるよ」
「ほんと? それすごく助かるよ」

 ホッとする私に、優太は目だけをこっちに向けた。
 やさしい笑みを浮かべる優太を久しぶりに見た気がする。
 緩んだ目じりや白い歯に胸がひとつ音を立てた。

「……なに?」

 だけど、口から出るのはそっけない言葉ばかり。

「いや」と首を横に振り、優太が座ったまま両手を伸ばして伸びをした。
 上空で離された手がすとんと落ちる。

「うれしいな、って」
「なにが?」

 優太は立ちあがると、前方にある手すりに腰をおろしふり向いた。

「長いこと叶人の話を悠花のほうからはしなかったろ? 話したくないんだろうなって思ってたから俺もできなかった。だから、今すごくうれしい」
「あ……そう、だよね」

 モゴモゴ口のなかで言う私に「でもさ」と優太は言った。

「叶人のことを思い出すことで傷つくこともあるかもしれない」
「うん」

 たしかにそうだ。
 思い出すたびに誰もが心を揺さぶられ、ぎこちなくなっているから。
 お父さんとお母さんは、本当に離婚するのかな……。

「でも大丈夫」

 顔をあげても、逆光のせいで優太の表情がよく見えない。

「いざとなれば俺が守ってやるからさ」

 ……小説のなかでは大雅が言っていた台詞。

 たまに会話の主が変わることがあっても、ここまで完全に入れ替わることはなかった。
 これは……どういうこと?

「そんな顔すんなよ。冗談だよ」

 ひょいと手すりから離れた優太に、
「わかってるって」
 軽い口調を意識しつつ立ちあがった。

「でも……ありがとう」
「おう」

 背中で答えた優太はバッグを手に歩き出す。
 やっぱり優太は名前の通りやさしい人なんだ。
 ぶっきらぼうだけど、ちゃんと気にしてくれている。

 じんとお腹が熱くなっている気がして、右手を当てた。

 ひょっとしたら私は……優太のことが――。

 そこまで考えたとき、脳裏にフラッシュバックのように映像が映し出された。
 雨ににじんだ横断歩道、遠くの夕焼け、ブレーキの音。
 これは、小説のなかで起きる展開だ。
 文章を読んで想像していた光景がはっきりと思い出せる。

 急に立ち止まる私に、優太がなにか言っているけれど声が頭に入ってこない。

 なぜ忘れていたのだろう。
 このまま物語を追ってしまうと、あの展開に行きついてしまう。

 大雅は――交通事故に遭ってしまうんだ。


 リビングに顔を出すと、お母さんがサッとなにかを隠したのが見えた。

「ただいま」

 洗面所に水筒を置き、そのまま手を洗う。

「遅かったのね。疲れたでしょう、先に着替えて来たら?」

 こんなやさしい言葉をかけてくるのは、なにか隠している証拠。
 親子そろってウソが苦手だからすぐにわかる。

「なに見てたの?」

 ソファを指さすと、「ああ」と作り笑顔を消した。

「住宅情報誌を見てただけよ」

 忙しく夕食の準備をはじめたお母さんに「そう」とだけ伝え、部屋に戻った。
 着替えている間も、ずっと大雅のことが頭にある。
 恋とかじゃなく、大雅が事故に遭う未来を思い出してしまったから。

 動揺する私を知り、優太は何度も理由を尋ねてきたけれど言えなかった。
 こんな話、誰も信じないし、信じさせる自信がない。

 スマホを開くと、大雅の部屋にお見舞いに行ったところまで更新されていた。
 ふたりきりでの夕焼け公園はまだ載っていない。これまで読んできたものと同じ展開だ。

「どうしよう……」

 部屋のなかをウロウロしてもなにも解決しない。

 大雅が事故に遭うことを避けるには、どうすればいいのだろう。
 事情を説明しても、絶対に理解してもらえない。
 大雅が事故に遭うのは、夕焼けのなかで雨が降っているという変わった天気の日。
 星雨は降っていたのだろうか。
 意識を集中して思い出そうとしても、やっぱりダメ。そもそも、星雨がなんなのかわからない私にはたどり着けない答えなのかもしれない。

 事故が起きたあとの展開はどうなるんだっけ?
 その先にまだなにかあったような気がする。

「悠花」

 声にギクリとしてふり返るとお母さんがドアを開けて立っていた。

「何度も呼んだのよ」
「あ、ご飯?」

 平然を装おうとしてもムリだ。
 霧のなかを覗くようにぼんやりした未来に、不安が押し寄せてきている。
 お母さんが、しばらく考えてから口を開いた。

「さっき見られちゃったから正直に言うわね。しばらくお父さん、帰ってこないことになったのよ」
「……それってどういうこと?」
「別居することになったの。たぶん、離婚することになると思う。この家は売ることになるだろうから、それで賃貸物件を探してたの」
「そう」

 そんなこと急に言われても、今はなんの情報も入ってこない。

「そう、って……悠花はそれでいいの?」

 いいわけないじゃない。叶人がどれだけ悲しむと思ってるのよ。
 どうしてこんなことになるの?

 だけど……気持ちはやっぱり言葉になってくれない。

「ごめん。今はちょっと考えられない」

 相当ショックを受けたと思ったのだろう、

「ごめんなさいね」
 と、お母さんはため息を残して部屋をあとにした。
 背を丸めたうしろ姿が、どこか今日の日葵に重なる。

 気持ちを落ち着かせようと、窓を開けて夜を見た。斜め上に月が光っている。
 右側にはいくつかの星が光っていた。

 心の騒がしさに反して、やけに静かな夜だった。


 ここのところずっと雨が降っている。

 放課後になっても変わらない天気は、心のなかに雨が溜まるように気持ちを重くしていく。

「柏木さん、まだ帰らないの?」

 帰り支度をする木村さんに声をかけられた。
 今日の委員会の草むしりは雨のため中止。代わりに備品チェックをやらされた。

「せっかくだから宿題していこうかな、って」
「雨もすごいしね」

 最近は木村さんとも普通に話をするようになった。
 話をするようになって知ったことは、木村さんは大の映画好きだということ。
 それも私たちが生まれる前に上映していた作品を愛していて、今日も備品チェックをしながらいろいろと教えてくれた。

 あいかわらず上手な返しはできなくて謝ったところ、木村さんは『いいのいいの。聞いてくれる人がいるだけでうれしいから』と笑っていた。

 通学バッグを手に取ると、木村さんは「ね」と私に言った。

「もしよかったらなんだけど、ニックネームで呼んでもらうことってできる?」
「木村さんのニックネームはキムだよね?」
「みんな苗字からつけたあだ名だと思ってるけど、女優のキム・ノヴァクからつけてるの。誰も知らないけどね」
「そうなんだ」

 キムなんとかという女優のことを知らない私に、木村さんは「あのね」とうれしそうにはにかんだ。

「ヒッチコックの『めまい』とかで有名な女優さんでね。すごく憧れているの。キレイなだけじゃなく、演技が私を魅了して離さないの」

 キラキラした瞳で語る木村さんに、私まで笑顔になってしまう。

「わかったよ、キム」
「よろしく、カッシー」

 そう言ったあと、木村さんは首をかしげる。

「カッシーはしっくりこないから考えておくね。バイバイ」
「バイバイ」

 手を振ったあと、急にさみしくなったのはなぜだろう。

 スマホを取り出し、更新分まで小説を確認することにした。
 お見舞いに行った帰りに、大雅と一緒に夕日を眺めている描写を目で追う。
 小説のなかには、主人公が恋した大雅がいる。
 でもあの日、一緒に夕日を見たのは優太だった。

 大雅の席を見る。
 風邪のあと復帰した大雅は、前よりももっと話しかけてくるようになった。
 クラスのみんながウワサするくらい、私たちの距離は近づいている。

「でも……」

 自分のなかに彼への想いがないことは、この数日で自覚している。

 ――私は、大雅に恋をしていない。

 元々、小説のなかの悠花とは見た目も性格も違いすぎるから、主人公になれないとわかっていたから。
 それよりも、もっと心配なのはこの先の展開だ。

「とにかく事故だけは避けないと……」

 あいかわらず『パラドックスな恋』の展開は忘れたままだけど、大雅が事故に遭うことだけはわかっている。
 どんなふうに事故に遭うのか、どれほどの傷を負うのかは思い出せないけれど、何度もくり返し読むほど好きな話だからバッドエンドではないはず。

 連載が進めば思い出せるかもしれない。
 そこまでは『大雅に恋する私』でいて、そばにいたほうがいいだろう。

 窓ガラスに伝う雨を見た。流れて、ほかの雨粒と同化して、また離れていく。
 まるで私の心みたい。いろんな感情がくっついたり離れたりしている。

「……待って」

 思わず声にしていた。
 この場面を覚えている。これは……小説のなかにも出てきたはず。

 ガタッ。

 音にふり向くと、大雅が私を見てうれしそうに口元をカーブさせた。

「あれ、悠花」

 やばいな、と身構える。このシーンは……。

「課題明日までだったの忘れてて取りにきたんだ。悠花は電気もつけずになにしてたの?」
「私は委員会、すぐ帰ろうと思ったんだけど、雨が激しいから――」

 途中で言葉をごくんと呑みこんだ。
 思い出したばかりの記憶を急いで上映する。

 □□□□□□
 雨の音がさっきよりもすぐ近くで聞こえた気がした。
 私と一緒に空が泣いているみたい。
「私は平気。だって、今は傷ついてなんかいないから。大雅とまた会えたこと、すごくうれしく思ってるんだよ」
「僕もだよ」
「だったら教えて。いったい私たちになにが――」
「悠花のことが好きなんだ」
 □□□□□□

 そうだった。ここで大雅に告白をされるんだ……。

 ということは、小説の物語は終盤に入っていることになる。
 どうしよう。
 あれほど憧れていた告白のシーンなのに、自分の気持ちを確認した今、それを受けることはできない。

「雨が激しいから、日葵が部活終わるの待ってたところ」

 とっさの言い訳につけ加え、
「もうすぐここに来ると思うよ」
 けん制もしておく。

 告白できない状況にしておいたほうが、大雅とふたりきりになる機会は減らせるはず。
 なんとかこの場面をすり抜けないと、と自分に言い聞かせる。

 私の決意も知らずに大雅はスルスルと机の間を抜けると、優太の机の上に腰をおろした。

「雨だね」
「あ、うん」

 あいまいに答え、カバンを整理した。

「なにか、悩んでるの?」
「ううん、別に。私、帰らなくちゃ」

 強引に立ちあがる私の腕を、大雅はつかんだ。
 思ったよりも大きな手に驚きながら、思考がフリーズしてしまう。

「なあ悠花」

 ――ダメ。

「話したいことがあるんだけど――」

 ――それ以上言わないで。

「離して!」

 強引に手を振りほどくと、傷ついた目をした大雅が視界のはしに映った。
 ううん、これは私の錯覚なの……?

 笑え、と自分に指令を出すと、すんなり唇が動いてくれた。

「もう大雅、それセクハラだよ」
「あ、ごめん」

 宙をかくように指先を動かしてからパタンと手をおろす大雅。

「なんかごめん。ちょっと話がしたかっただけなんだ。でも、やめておくよ」

 どうしていいのかわからずうつむく私を置いて、大雅は教室を出て行ったようだ。
 遠ざかる足音は、すぐに雨音に紛れ聞こえなくなった。

 ……危なかった。

 ため息をつき、教室のカーテンを閉めた。
 窓の外は灰色の世界。これじゃ、今夜は星も見えない。
 大雅を好きな自分を演じるのも難しいとなれば、どうやって事故を防げばいいのだろう。
 もうわからないよ……。

 そういえば、叶人の借りていた本を返しにいかないと。
 ついでに雨星についても調べてみよう。
 違うことで頭のなかを埋めようとするのに、さっきの傷ついた大雅の顔が浮かんでしまう。
 誰かに悲しい思いをさせるのは、なんて痛いんだろう。