教室で今日も空を眺めている。
うす曇りの空からは、線の細い雨が続いている。
あれから一か月が過ぎ、冬服にも慣れた。
「ほら、ちゃんとお弁当食べないと」
茉莉が私のお弁当箱を指さすのをぼんやりと見て、うなずいた。
「大雅のおばさんから連絡は来たの?」
「ううん……」
「じゃあしっかりしなきゃ。今、悠花が倒れたらそれこそ大変でしょ」
茉莉はやさしい。
茉莉だけじゃなく、クラスのみんなが笑わらなくなった私を心配してくれた。
――私をかばって大雅は事故に遭った。
その事実は、毎日毎秒私を苦しめている。
なんであのとき車道に倒れてしまったのだろう。
なぜ、大雅をもう一度救えなかったのだろう。
大雅の容態はよくないと聞いている。
頭をひどく打っていて、今も意識が戻らないと……。
事故のあと、雨星に願った記憶は残っている。
けれど、今になって思い返しても、雨星がどんなものだったのかはなにも思い出せなかった。
卵焼きを食べても味はしない。
まるで空気を食べているみたいな気分になる。
私の膝に巻かれていた包帯も取れ、腕の擦り傷もかさぶたになった。
それでも、大雅は戻ってこない。
しびれた頭では、まだあの日の雨が降っているみたい。
「悠花」
名前を呼ばれた気がして顔をあげると、いつの間にか茉莉が私の左手に自分の手を重ねていた。
「元気出して、なんて言わないから安心して。一緒に悲しもう。そして、無事を願おう」
「茉莉……」
「そんな顔しないの。悲しみは連鎖するんだよ。悠花が無事を信じないでどうするのよ」
うなずくと、少しだけ気持ちが明るくなった気がした。
本当なら毎日でも大雅の様子を見に行きたい。
コロナのせいで病棟に行けないことも知っている。
それでも、無理やりにでも大雅に会いに行きたかった。
でも、私にはそんな資格がない。
私が事故に遭ったときとは状況が違う。
だって、大雅は今も意識が戻らないのだから。
希望と悲しみは波のように行ったり来たり。
それでも……茉莉の言うように無事を信じたい。
「そうだよね。私がしっかりしなきゃ」
「その調子。あたしがいるからね」
元気づけながら茉莉の瞳には涙がいっぱい溜まっている。
明るい私でも、ダメな私でも茉莉は受け入れてくれている。
バタバタという足音と一緒に、伸佳が教室に飛び込んできた。
右手にスマホを持ち、私を見て目を見開いている。
ドキンと大きく胸が跳ねた。
まっすぐ近づいてきた伸佳は、もう泣き笑いみたいな表情を浮かべている。
そばまで来ると、私と茉莉にだけ聞こえる声で言った。
「今、大雅が目を覚ましたって」
「ああ……」
この一か月間こらえていた涙は、簡単に頬に流れ落ちた。
病院の待合室は空いていた。
窓から入る日差しが、フロアに模様をつけているみたい。
エレベーターへ急ぐ私の耳に届くアナウンスはまるで暗号みたい。
とにかく早く大雅に会いたかった。
アナウンスが暗号のように耳に届いている。
おばさんが連絡してくれていたのだろう、エレベーター前に立っている看護師さんは名前を告げると『五階の五〇三号室です』と教えてくれた。
五階に着き、部屋番号の案内ボードを見て歩き出す。
「悠花ちゃん」
廊下の向こうから大雅のおばさんが歩いてきた。
「おばさん……」
「突然呼び出してごめんなさいね」
「私のほうこそ申し訳ありません。私のせいで大雅が……」
おばさんはやさしく首を横に振った。
「さっき目が覚めてね。すっかり元気なんだけど、骨折した足がかなり痛いみたい」
「……すみません」
頭を下げようとする私の手をおばさんが握った。
「もう謝罪は終わり。電話でも散々聞いたじゃない。それに、あの子、すごくうれしそうよ。『今度は僕が助けたんだ』って、まるでヒーローみたいに胸を張ってるの」
うなずく私に、おばさんはやわらかい目を花束に向けた。
学校まで迎えに来てくれたお母さんが持たせてくれた花束だ。
「すごくキレイね。ありがとう」
「いえ……」
「私は先生に話を聞きに行くところ。骨折さえ治ればとりあえず退院することができるんですって。早く会ってあげて」
頭を下げて歩き出す。
数歩進んだところで「悠花ちゃん」とおばさんが私を呼び止めた。
ふり向くと、おばさんはなぜか躊躇するように一歩あとずさりをした。
どうしたのだろう。
さっきの笑顔もなく、悲壮感がおばさんを包んでいるように見えた。
「あの、ね……。ううん、なんでもないの。ごめんなさい」
足早に去っていくおばさんは、なにを言いたかったのだろう。
ひょっとしたら大雅は、顔に傷を負ったのかもしれない。
それとも、あの日の私のように記憶をなくしてしまったたとか……。
それでも、私が見たかもしれない雨星が大雅を助けてくれたんだ。
気弱になる自分を戒め、ドアをノックした。
「はい」
大雅の声にホッと胸をなでおろしてドアを開ける。
まぶしい日差しが降り注ぐ部屋の中央にあるベッドの上に、大雅がいた。
左足にギプスが巻かれていて、ベッドに固定されている。
「ちょっと花、多すぎるんじゃない?」
にこやかに笑う顔に、もう私の視界はゆがんでいた。
大雅が無事だったこと、記憶を取り戻せたこと、たくさん苦しめたこと。
ぜんぶが感情になり、涙になって頬にこぼれた。
「泣かないで」
「ごめん。ホッとしちゃって……。あの、本当にごめんなさい」
頭を下げる私の手をつかむと、大雅はそばにあった丸椅子に私を座らせた。
「大丈夫だって。ケガだって大したことないし」
「だけど、だけど……」
くしゃくしゃになりそうな花束を床頭台に置く。
「それより悠花の記憶が戻ったことがうれしくて悲しい」
「……どうして悲しいの?」
鼻をすすりながら尋ねると、大雅は照れたようにうつむいた。
「だって、僕のせいで記憶をなくしちゃったから。今でも、いつでも、あのときのことを後悔しているんだ」
「私こそ、今回の事故のこと申し訳なくって……でも、よかった」
「うれしくて悲しくて申し訳なくてよかった、って、僕たちの感情はバラバラになってるね」
大雅が握る手に力を入れるのがわかる。
そうだよね。私たちは生きていて、これからはずっとそばにいられる。
退院したらこれからは一緒にいられるんだよね。
けれど、
「離れてもお互いのことを心配し合おう」
大雅がそんなことを言うから、私は悲しみに支配されてしまう。
同時に、この数日疑問に思っていたことがムクムクと入道雲のように大きくなっていく。
「……離れても?」
つぶやくような質問に大雅は首を横に振った。
「父親が海外に転勤になってね。家族一緒について行くのがルールだから。知登世もずいぶん怒ってたけど、しょうがないんだよ」
記憶が戻ればすべて解決すると思っていた。
けれど、そうじゃなかった。
今、心がクリアになっているのが自分でもわかる。
いくつも覆っていたフィルターが外れた視界では、幼なじみのウソなんて簡単に見抜いてしまう。
――ウソをつくということは、大事なことを隠している証拠。
今日は、隠された真実を知る最初で最後のチャンスだと思ってここに来た。
「パラドックスって知ってる?」
急カーブで話題を変える私に、大雅は目を丸くした。
「なにそれ」
「見かけ上と、実際が違うことをパラドックスって言うんだって。私、思ったの。私たちの恋って、パラドックスな恋だな、って」
「パラドックスな恋……」
くり返す大雅に椅子ごと近づくと、あっけなく視線は逸らされてしまった。
「記憶が戻ってから、ずっと大雅のことばかり考えてる。そのなかで、不思議に思うことがあったの」
そう、病院に来ることが怖かったのは、私なりの結論が正しいと認めたくなかったのも原因のひとつだった。
「私の事故にショックを受けて小学三年生のときに家族で引っ越しをしたんだよね? それなのにどうして今、この町に戻ってきたの?」
「それは……」
言い淀む大雅に、お願いだから悪い予感が当たらないようにと願う。
「同じ町に戻って来るだけじゃなく、私のいる高校の編入試験をわざわざ受けたんだよね。そんな偶然、あるの?」
「…………」
「きっと」と口にして、声のトーンが暗くなっていることに気づいた。
「茉莉や伸佳が教えたんだと思う。私と同じ高校に入ることに意味があったんだよね?」
どうしよう。また視界が潤んできている。
でも私は……もうこの理不尽な毎日に負けたくない。
大きく深呼吸をして自分を奮い立たせた。
困った顔の大雅が、ふうと息を吐いた。
「さっきも言ったけど、父親の転勤で戻って来たんだよ。高校なんてたくさんあるわけじゃないし、偶然だよ」
昔からウソをつくのが下手だったよね。
「思い出したの。大雅のお父さんは、小学二年生のときに亡くなっていることを。だからあの日、大雅は雨星にもう一度お父さんに会えるように、って願ったんだよね?」
「……それは」
「亡くなってしまったお父さんが転勤するなんてこと、ありえないと思う」
「ああ……」
ため息のような声を漏らす大雅の手を握った。
あたたかくて大きな手に願いをこめた。
閉ざしてしまいそうな心をどうか私に開いてほしい。
今、私は私の結論を言葉にする。
「大雅……病気なんだよね?」
大雅の顔や肩、腕から力が抜けていくのがわかる。
唇をかみしめた大雅が何度も首を横に振り、そして疲れたように目を閉じた。
やっぱりそうなんだ……。
「どう、して、わかったの?」
区切った言葉のあと、大雅は窓の外に目を向けている。
「どうしてだろう。記憶が戻った瞬間、体ぜんぶで理解した感じがする。大雅は私の記憶を戻しに来てくれた。それは、もうすぐ自分がいなくなるからだ、って……」
きっと、茉莉や伸佳は、大雅の病気のことは知らないだろう。
昔から大雅はこっそりと大きな計画を実行するようなところがあったから。
記憶の戻らない私に、大雅は計画を変更した。
ふたりの新しい思い出を作ることからはじめたんだ。
茉莉や伸佳もそれに倣って、昔の話をしなくなった。
おばさんや知登世ちゃんも協力をしているのだろう。
こんな大きな計画に協力するのなら、その原因も大きなこと。
それは、大雅の残り時間が少ないということ……。
「さすがだね。悠花は、人の本音がわかっちゃうところがあったからね」
うなずく大雅に私は今にも泣いてしまいそう。
「自分の人生の残り時間を知ったときはショックだった。毎日泣いたし、神様を恨んだりもした。でも、もう一度神様がチャンスをくれたんだって思えるようになったんだ」
そう言うと、大雅は迷うように私を見た。
「悠花のことが気がかりだった。それだけじゃない、離れてもずっと心配だったんだ」
「大雅は……なんの病気なの?」
「血液の病気なんだって。今の日本では治すことができないんだ」
なんでもないような口調で言うけれど、大雅はずっと苦しんできたんだよね。
「でもね、すごいことが起きたんだ。母さんが、僕の病気を専門に研究している名医に話をつけてね。それでアメリカに行くことになったんだよ」
泣いちゃダメだと思っても……やっぱりできなかった。
ボロボロと涙をこぼしたまま、私はうなずく。
「すごい……。じゃあ、本当のさよならじゃないんだね」
この壮大な大雅の計画の結末は、バッドエンドかもしれないと怯えていた。
「もちろん治る保障なんてないよ。でも、僕は悠花の記憶を戻せて満足しているんだ」
「大丈夫だよ。絶対に治るよ」
「そうだね」と大雅はほほ笑んだ。
「この間悠花を助けたときに、空の彼方に雨星を見た気がするんだ。神様が悠花の記憶を戻して、僕の命を救ってくれる……そう思えるようになった」
はあはあと息を吐きながら、これ以上泣かないように涙をこらえる。
雨星の意味はまだわからないけれど、大雅が言うならそんな気がしたから。
「そうだよ。きっと雨星がかなえてくれるんだよ。だから、私も信じる。大雅が戻ってくるまで待ってる」
そう言うと大雅はおかしそうに笑った。
「雨星のこと、まだわからないくせに」
「わからなくても信じるって決めたから。どっちにしても大雅は教えてくれないんでしょう?」
「戻ってこられたなら教えるよ」
私の好きな笑顔が目の前に咲いている。
きっと大丈夫だって、そう思えた。
私があの日、大雅と同じように雨星を見たかもしれないことは、内緒にしておこう。
「悠花こそ、旅立つ前に告白の返事を聞かせてよ」
「それも元気に戻ってきたときにね。あまり早く答えると安心しちゃいそうだから」
「ひどい」
私たちは一緒にクスクス笑った。
それから、私の提案で茉莉と伸佳も呼び出した。
思い出話は尽きず、看護師さんに怒られるまで続けた。
――きっと大丈夫。
見あげた空は、遠く離れた場所で戦う大雅につながっているから。
雨星は、大雅に奇跡を起こしてくれる。
その日までうつむかずに私は生きていこう。
いつかまた会える、その日まで。
[エピローグ]
今日もこの町に夕焼けが広がっている。
夕焼け公園は春と呼ぶにはまだ寒く、日暮れもあっという間に終わるだろう。
今日の予報は曇りだったけれど、空には雲ひとつ残っていない。
天気予報は当たらない日が多い。
だからこそ、おもしろいと思える自分がいる。
高校の卒業証書を眺めてから筒のケースにしまった。
「悠花」
茉莉の声にふり向こうとすると、冷たい手で両目をふさがれてしまった。
「ふり向いちゃダメ、って約束したでしょ!」
「だって、茉莉が呼ぶから」
隣のベンチに座った茉莉は、ずいぶん大人っぽくなった。
メイクもうまくなったし、なにより髪がロングになっている。
卒業したよろこびより、別々の大学に進むことがさみしい今日だ。
「まもなく到着するって伸佳から連絡あったよ」
「ふふ」
「ニヤニヤしちゃって」
頬をツンツンする茉莉に、
「くすぐったいよ」
と体をくねらせる。
「雨星がどういう意味なのか、悠花はわかったの?」
茉莉が夕空を指さし尋ねた。
「ううん。まだわからない。ただ、雨が関係しているのはわかったくらい。今日、見られればいいなって思ってたんだけど、この天気だしね」
きれいな夕空は黄金色に燃えているみたい。
「いいじゃん。卒業式に雨なんて最悪だし」
公園の入り口で車が停車する音が聞こえた。
きっとタクシーだろう。
「まだふり向くなよ!」
一緒に乗ってきたのだろう、伸佳の声が聞こえた。
今日までずっとこの日が来るのを楽しみに生きてきた。
その日が来たならきっと緊張してしまう、とか、泣き出してしまう、とか。
頭の中では何度も想像してきたけれど、いざとなればうれしさしかないんだね。
「がんばってね」
耳元で告げると、茉莉は私から離れた。
ゆっくり私も立ちあがる。
「悠花」
やさしく私の名前を呼ぶ声が聞こえる。
ずっとずっと会いたかった彼が私を迎えに来てくれた。
「大雅、お帰りなさい」
ふり向けば、夕空の下に太陽みたいに笑う君がいたんだ。
私はこれから君に伝えよう。
長い告白の返事を。
明日からの私のことを。
未来のふたりのことを。
世界はふたりのために輝いているよ、今日も明日も、未来も。
【完】
「君がくれた物語は、いつか星空に輝く」
【第一章】
色をなくした世界から
スマホの画面に表示されている『完』の文字を確認すると、思わずため息が漏れた。
小説投稿サイトに載っている『パラドックスな恋』という作品を、もう何度も――ううん、何百回とくり返し読んでいる。
最初から全部読むこともあれば、好きなシーンのページだけ選ぶこともある。
当たり前だけど、今回もハッピーエンドでよかった。
安堵感と静かな感動は、今日から二学期がはじまるという憂鬱を少しだけ和らげてくれる。
そっと呼吸をしてみれば、この世界はなんて息がしにくいのだろう。
酸素の薄い空気は、吸うほどに気持ちを重くするようだ。
もう一度、エピローグだけ見直してみよう。
ページ数は頭に入っているから、一瞬でお気に入りのシーンまで私を連れて行ってくれる。
「悠花」
呼ぶ声に名残惜しく顔をあげると、後藤日葵が教室に入ってくるところだった。
「おはよ。あいかわらず悠花は来るのが早いね」
「あ、うん。私、人ごみが……」
「苦手なんでしょ。もう百回聞いた。ていうか、今日から二学期なんて最悪。夏休みなんて一瞬で終わっちゃったし」
どすんと前の席に座る日葵。
『パラドックスな恋』のなかで言うと『茉莉』の役に当たるのが日葵だろう。
小説と同じで私とは幼なじみだし、性格はちょっと違うけれど名前はかなり似ている。
小説のなかでは色白だった茉莉。
一方、日葵はテニス部に所属しているので肌はあめ色に焼けている。
夏休みも部活三昧だったんだろうな。
子どものころからショートの髪は今も変わらない。
もう少し伸ばせば、茉莉に近づくのにな……。
そんなことを考えていると、日葵が呆れ顔を向けていることに気づいた。
「悠花の朝のスタンダードが出てる。またぼんやりしてるっしょ」
「え、そんなことないよ」
ごまかしても、長年のつき合いだからきっとバレてる。
「そんなことある。どうせまた『パラ恋』読んでたんでしょ」
「……うん」
スマホを操作し、『パラドックスな恋』の表紙画面に戻す。
中学三年生のときにたまたま見つけたこの作品を、私ほどくり返し読んでいる人はいないだろう。
「おんなじ作品ばっか読んでて、よく飽きないよね」
ひょいと私のスマホを奪うと、日葵は画面をサラサラとスクロールさせていく。
「電子書籍だっけ?」
「小説投稿サイトだよ。たくさんの小説が投稿されているなんてすごいよね?」
「ふーん。あたしは漫画のほうがいいけどなあ。そんなにおもしろいの?」
日葵が興味を持ってくれるなんて珍しい。
このチャンスを逃してはいけない。
「読み返すたびに新しい発見があるの。昔はわからなかった感情とかが、歳を取ってから理解できたりもするし」
「歳を取る、ってあたしたちまだ十七だし。あ、悠花は十六か」
「それでも色々気づかせてくれるってこと。日葵も一度くらい読んでくれてもいいのに」
これまで何度勧めても読書嫌いの日葵にその気はないらしく、小説投稿サイトすら検索してくれなかった。
案の定、苦い顔を浮かべてスマホを返してくる。
「冗談でしょ。そんな時間があったらほかのことするよ」
日葵は恋愛が苦手だと常々公言している。
ちなみに小説は読まないけれど漫画は別で、日葵の部屋には大量のコミック本が並んでいる。
ジャンルはヒーローもの、ホラーものなどが多く、恋愛ものはひとつもない。
「日葵は恋をしないの?」
「しないしない。時間の無駄だし。その作品もタイトルからして、どうせくだらない恋愛小説なんでしょ」
「ちが……」
「片想いがかなったとか、すれ違いでさみしいとか、どうせありきたりの話にきまって――」
「そんなことないもん!」
思わず大きな声を出してしまった。
ハッとして教室内を確認すると、まばらにしか登校していないクラスメイトたちは、夏休みの話題で盛りあがっていた。
「びっくりした。悠花が大声出すなんて珍しい」
「……ごめん」
シュンと肩をすぼめる私に、日葵はカラカラ笑った。
「まあ、あたしも好きな漫画は何回も読み返すけどさ。そこまで熱中するなんてよっぽどのことだね」
ちゃんと日葵にも、私の好きな小説のことをわかってもらいたい。
前傾姿勢を取り、日葵との距離を縮める。
「主人公の通うクラスに転入生がやって来るの」
「主人公が『悠花』って名前で同じなんでしょ。それも百回聞いたし」
「でね、主人公は忘れているけれど、転入生の男子って、実は幼なじみなんだよ。その男子の記憶を思い出すたびに、悲しい運命にまた一歩近づいていくの。具体的に言うとね――」
「わかったわかったって」
大げさに両耳を手で塞ぎ聞こえないフリをする。
日葵はいつもこうだ。
小説を読まないならせめてストーリーくらい聞いてくれてもいいのに。
「悠花って普段は大人しいのに、『パラ恋』のこととなると熱くなるよね」
「そんなこと……」
「そんなことあるある。もっとほかの子ともしゃべればいいのに」
「……あ、うん」
わかってるけれど、中学二年生のころから人とうまくしゃべることができなくなった。
誰かにしゃべりかけられたらそれなりに答えるようにしているけれど、会話を続けるのは難しい。
緊張するし、自分がなにを言いたいのかわからなくなって、泣きたいような気持ちがお腹から込みあがってくるから。
誰かが私の発言に注目している状況がなによりも苦手だ。
クラスでも気負わずに話しかけられるのは、日葵と笹川優太くらい。
ふたりは幼なじみで、『パラドックスな恋』とは違い、小さいころの記憶もちゃんと覚えている間柄。
でも、最近は優太とあまりしゃべらなくなったな……。
席を立った日葵がほかの女子に話しかけに行った。
「そっか……」
黒板に書かれた日付を見て改めて気づいた。
今日、九月一日は二学期の初日。
『パラドックスな恋』の第一章のはじまりも二学期がはじまる日。
しかも、主人公と同じで、私も窓側の席だ。
□□□□□□□
二学期がはじまると同時に、夏のにおいはどこかへ消えてしまったみたい。
朝というのにすでに暑く、登校中はセミの鳴き声もまだ聞こえている。それでも、体にまとわいついていた夏が体からはがれてしまった感じがした。"
□□□□□□□
くり返し読んでいるから、本文の一行目は頭に入っている。
夏のにおいってどんなにおいなんだろう。
これまで小説の世界に没入することはあっても、現実に試したことはなかった。
窓を開けると朝というのに熱い風がぶわっと髪を乱したので、慌てて閉めた。
夏のにおいについてはわからないけれど、この町にまだ夏が残っていることだけは理解できた。
やっぱり小説みたいにはいかないよね。
私もあの主人公みたいになれたらいいのにな。
「柏木さん、おはよう」
うしろの席の木村さんが声をかけてきた。
二年生になって同じクラスになった彼女は、隣の町から通っているそうだ。
木村さんをはじめ、ほとんどのクラスメイトは私のことを苗字で呼ぶ。
木村さんとは委員会が同じだけどあまり話をしたことがない。
「おはよう」
顔を少しうしろに向け、だけど目を合わすことができずボソボソと挨拶を返すのが精いっぱい。
「柏木さん、髪伸ばしてるの?」
「あ、うん……」
風で乱れた髪を戻して答える。
せっかく話しかけてくれたのに素っ気な過ぎると、頭をフル回転させた。
『小説の主人公みたいになりたくて肩まで伸ばしてるの』
これじゃあヘンだろう。
悩んでいる間に、木村さんは席を立ったみたい。
うしろのほうでほかのクラスメイトと話をする声が耳に届いた。
ホッとしたようなさみしい気もするような……。
離れてしまえば、木村さんの姿もちゃんと見ることができる。
夏休み前は長かった髪が短くなっている。
ああ、ちゃんと顔を見れば『髪、切ったの?』くらいは言えたかもしれない。
……ううん、たぶんムリだろう。
誰かに話しかけられるたびに体が固まってしまう。
あいまいな返事しか返せずに、視線も合わせられない。
日葵と優太以外のクラスメイトとも打ち解けたいのに、いざ話をしようとするとまるでダメ。
きっと暗い子だって思われてるよね……。
スマホの画面をスクロールし、小説を第一章の冒頭部分に戻す。
小説のなかの悠花は、いつだってキラキラしていてクラスの人気者。
一方、私はなるべく目立たないように時間をやり過ごしている。
あまりにも違いすぎる。
この日、主人公は幼なじみの茉莉と話をしている。
熊谷直哉というクラスメイトといい感じになっている茉莉、そして転入生として山本大雅がやってくる。
「大雅……」
これまで何度その名前を口にしてきたのだろう。
大雅のような人が現れたら、って思うだけで、心のなかにある重い空気がふっと消える気がする。
小説のなかの大雅はイケメンなのにかわいらしくて、主人公のことを誰よりも想ってくれていて……。
実際にそんな人、いないことくらいわかっている。
それでも、学校でも家でも居場所がない私には、想像することくらいしか楽しみがないから。
『パラドックスな恋』の作者はITSUKIと記してある。
男性なのか女性なのかはわからないけれど、この物語を書いてくれたことに感謝している私だ。
小説投稿サイトにはたくさんの作品が掲載されているけれど、ITSUKIさんが書いた作品は『パラドックスな恋』だけ。
作品への感想もレビューも、書籍化希望リクエストも私はしたことがないけれど、ほかの作品も読んでみたいな。
勇気を出して、せめて感想だけでも送ってみようかな。
ギイと椅子を引く音に右を見ると、優太が席につくところだった。
昔は私よりも背が低かったのに、今では百七十六センチもあるそうだ。
部活はバスケ部で、これは小説でいうところの『伸佳』と同じ。
私が『パラドックスな恋』が好きでたまらないのは、取り巻く環境がなんとなく似ているからだ。
特に、主人公の悠花が私と同じ名前であること、幼なじみふたりが同じクラスなこと、高校二年生になったこと。
この三点により作品愛がさらに深まっている。
さらに今日が第一章と同じ二学期最初の日なんて、まさしく小説世界そのもの。
ふと、優太が横目でこっちを見ていることに気づいた。
校則に引っかからないように少しずつ茶色く染めている髪は、寝グセがついている。
前髪はサラサラとしていて油気がなく、鋭角の眉が間から主張している。
「つまんなそうな顔してんな」
「……え?」
夏休み明けで久しぶりに会ったというのに第一声がそれなの?
「見たまんまを言っただけ。つまらなさそうな顔をしてる」
もう一度言うと、優太は大きなあくびをした。
「そんなことないよ」
「あ、そう」
私になんてもう興味がないように、優太は通学バッグから教科書を取り出している。
私もまたスマホに目を落とす。
昔はなんでもしゃべれたのに、だんだんと私たちの距離は離れている。
日葵との距離だって同じだ。
小説のことしか話さない私のこと、きっと呆れているんだろうな……。
いつからか、私たちの関係は変わってしまった。
ううん、先に変わったのは私のほうかもしれない。
水面に石を投げ入れたときに立つ波紋のように、私の変化がふたりに広がっているとしたら少し責任を感じてしまう。
だからといって、自分を変えることなんてできない。
変えたいけれど、どうやっていいのかわからないから。
教室はまるで金魚鉢。狭い空間で酸素を求める私は金魚。
――やめよう。
二学期がはじまる今日という日に、暗い気持ちで過ごしたくはない。
チャイムが鳴ったあとすぐ、体育館に集まるようにと放送が入った。
現実世界では、オンライン始業式はない。
何年も世間を騒がせたコロナも、治療薬が認可されたおかげで規制はずいぶん緩まっている。
マスクをすることが標準だった時期はラクだった。
お互いの顔がよく見えなかったし、必要以上に話をしないことがいいこととされていたから。
体育館へ向かう長い列、だるそうな声、渡り廊下の湿った風。
なにもかもが心におもりのように圧しかかる。
いつから私は『今』を楽しめなくなったのだろう。
小説のなかにいる悠花がうらやましい。
この色落ちしている世界は、なんてつまらなくて悲しくて、苦しいんだろう。