*


「……きろ……おい……!」
「……ぅ……」
「起きろ……おい……!」
「うう……ん……」
「起きろって言ってんだ!」

 怒鳴るような呼びかけに、眠気という風船が弾け、ハッと目が覚める。

「ったく、ようやく起きたか」
「え……あ……あっ」

 目の前には見知らぬ男がいた。彼は短く舌打ちをして、苛立った様子で私を睨みつける。そんな男を前に脳は混乱した。

(誰……一体……)

 後ずさろうと足を動かすも、思い通りに下がれなかった。

(えっ……)

 見れば、手足が縛られていた。太い縄で解けそうにない。体をくねらせる私に、男は面倒くさそうに言う。

「逃げようとしても無駄だ。俺らは逃がさない。お前らは逃れられない」

 そして離れていく。視界が広がり、新たなものが目に映る。その光景に、私は声も出なかった。

 私がいたのは、広間のような部屋だった。窓も障子も見当たらないが、妙に明るい。床は木の板で、所々軋んだ音がする。

 さらに驚いたのは、私以外にも縄で拘束された女がいたこと。眠っている者、怯えている者、表情が抜け落ちている者、ざっと数えて十数人。

(一体、ここはなんなの……?)

 自分が何故ここにいるか分からない。ただ、何者かに連れ去られたということだけは覚えていた。

 私は帝の道中から離れ、人気の少ない街を歩いていたところで何者かに襲われたのだ。口元を抑えられた時に鼻をついた強烈な匂いを、私はまだ鮮明に覚えている。あれは睡眠薬の一種だろう。

(つまりは拐かされたというわけね……)

 帝の道中に行っていたらこんなことは起きなかったかもしれない、と不意に思っては自身の不運を恨んだ。

 これから私はどうされるのだろう。誘拐、と聞くと思い浮かぶのは身売りされるか犯されるかだった。いずれも最悪だ。

(ごめんなさい、お父さん、お母さん……)

 どこからどこまでも親不孝者の自分を育ててくれた親には謝罪しかない。

「おー、今年もたくさんいるなぁ」

 その時突然、唯一の出入り口である襖が開いた。そこから現れたのは、立派な着物を纏った男と、彼の後ろに付く黒服が数人。

 男は部屋を見渡す。

「ほーほー。中々良いものもあるじゃないかぁ」

 そう言った顔が邪悪に嗤う。身の毛がよだつ表情にヒッと息を呑んだ。幻想かもしれないが、彼の周りが一段と(くら)く見える。

(怖い……こいつが首謀者……?一体、何をされるんだろう……)

 自然と体が強張る。それは他の女も同じだった。その様子に、男は僅かに表情を和らげる。が、纏う空気は未だに悍ましい。

「そんなに怯えることはない。何も殺そうとしているわけじゃないんだからさ」

 そう言いながら、男は一番近い場所にいた女に歩み寄る。彼女はこの世の終わりかのような表情を浮かべた。

「い、嫌っ!来ないで……っ!」

 近い年頃の少女だと気づいた。彼女は必死に手足を動かして男から離れようとする。が、拘束されている身はあっという間に男に掴まれた。

「嫌だっ!離してっ!」

 少女は涙目で懇願する。それは肉食動物に捕食される寸前の小動物のようであった。
 
「大丈夫だ。俺はお前を殺したりしない。ただ」

 抵抗を続ける彼女の目の前で、男は拳を握って、掌を見せるようにそっと開く。少女は目玉が飛び出すのではないかと心配するほどに瞳を見開いた。

「お前の神力を、頂くだけさ」

 途端、男の手の内から真っ黒い煙が溢れ出した。それは瞬きする間もなく雲海のように広がり、部屋中に蔓延る。

「きゃぁーー!!」

 傍観者である他の女の叫び声が響く。男に捕まった少女は声すら出せずにいた。

 煙は少女の体を覆い始める。

「や、やだっ!やだやだやだ……!」
 
 身をよじるも気体には通じず、彼女の体は蝕まれていく。煙の一部が一本の糸のように集まり、叫ぶ少女の口に侵入した。

「……っ!」
「なっ、何あれっ!?」

 周りの女がまた叫ぶ。その間にも煙は少女の体内に入り込む。すると、彼女の心臓付近の部分に小さな光が見えた。煙はその光を絡め取り、少女の体から取り出す。

「あっ……ああ……」

 煙は少女の体を解放し、男の元へ戻った。そして、彼女の体から取り出した光の玉を手に入れる。

「ふん、こんなもんか。まぁ人間にしては良い方かな」

 意識を失い、ぐったりとする少女を床に置き、男は光の玉を飲み込んだ。

「ふーっ。さて、次は誰の番かな?」
 
 舌なめずりをしながら目を細める男に、いよいよ部屋中が恐怖に包まれた。鳴き声、叫び声、金切り声。それはまるで地獄絵図。

(何だったの……今の……?)

 この目で見た光景が信じられない。衝撃的な行動に理解ができない。驚きのあまり、私は声も出せなかった。

 少女の方に目を向ける。彼女は未だに目を覚ましていない。死んでしまったのだろうか、との不安が頭をよぎったが、呼吸はしているようだった。

 彼女が起きないのは、男が操っていた煙のせいだろうか。あるいは、男が飲み込んだあの光の玉が原因だろうか。

(あれは何だったの?)
 
 人間の体内から取り出したもの。まさか魂ではあるまい。しかし、取られてはいけないものだと言うことは何となく分かっている。

(どうにかして……逃げなきゃ……っ!)

 だが、手足の縄は簡単に解けそうにない。その上、もし自由が効くようになったところで出口は一つ。男には取り巻きもいる。すぐに捕まってしまうだろう。

「きゃーっ!やだっ、やめてっ!」

 考えを巡らせているうちにまた一人の女が捕まる。腕を掴まれ抵抗もままならない彼女に、男は容赦なく黒煙を放った。黒々とした煙は女の体を這い、体内から光る球体を取り出す。男はそれを飲み込み、用済みの女の体をどさりと落とす。その御技は、人とはかけ離れている。

「さーて、お次は誰だ?」

 笑みを讃えた男の呟きに、また一段と騒がしくなる。

 次は自分かも、と考えると背筋が粟立つ。

 心臓の鼓動が普段より桁違いに速くなった。息をしても上手く酸素を取り込めている気がしない。それは恐怖だった。いつ自分が襲われてもおかしくないという、逃れようのない恐怖、(おのの)き。

(もし、あの男に捕まったら……)

 私は、どうなってしまうのだろう。

 その時。

「おおっ、これはっ!?」

 新たな女に目をつけては、男が驚きの声を上げた。先ほどとは異なった様子に、空気は静まる。

「なんという力の大きさだ!人間では滅多にお目にかかれない!」

 男は喜んでいた。その目の前に座り込む女は今にも泣き出しそうな表情をしている。

「素晴らしい、なんと素晴らしいんだ!ああ、だが運命人にまでは匹敵しないな」

 ふと、違和感のある単語を男が呟く。

(運命人って何だろう……)

 聞き覚えのない単語。最早、そんな言葉が存在するのかさえ分からない。

「まぁいい。お前はあやかしの贄として売ろう!」
「えっ!」
「おい、こいつを連れて行け」

 男の掛け声と共に、控えていた黒服の一部が動いた。嫌がるその女を掴み、無理やり立たせては連れ去る。

「やだっ!やめて離して!」

 必死にもがくも、女は襖の向こうへと消えていった。
 
「勿体無いが、金になるなら文句言ってらんねぇからなぁ」

 さて、と男が振り向く。再び恐怖が湧き上がる。

「お次は誰のを頂こうかぁ?」

 狂気めいた笑顔に、また騒がしくなる部屋。

 倒れていく女、連れて行かれる女。異なる恐怖を見せつけられた女たちは最早正気は失せかけている。

 かくいう私も、その中の一人だ。もう何もかもが理解できない。

(私はどうなるんだろう……)

 連れて行かれるのか、この場で奪われるのか。いずれ訪れるであろうその未来を想像しては、体が震えた。

「さぁーて、次の女は……ん?」
  
 鼻歌を唄いながら周囲を見回していた男は、私と目が合った瞬間に動きを止める。そして、ニヤリと厭らしく口元を歪めた。

「お前にしよう」
「ひっ……!」

 狂った瞳に捉えられ、悪寒が走った。捕まっては行けない。速く逃げなければならない。分かっているのに、体は硬直したように動かなかった。

 男の手が私の顎を掴み、グイッと覗き込んでくる。私は必死に目を逸らした。

「ううーん……?お前は……」

 恐怖故か、このまま気を失いそうになった。だが。

「おおっ!!何ということだっ!」

 男の大声で意識が覚醒する。目の前の男は驚きと喜びを溶け合わせたような表情を見せる。

「素晴らしい……素晴らしいぞっ!こんなにも強い力、見たことない!」

 男はこれ以上ないほどに喜んでいた。何になのか、何故なのか、私でさえ状況が理解できない。

「ああ。ならばお前がかの運命人か!やっとだ、やっと見つけた。この日を何年待ち侘びたことよ!」

 再び、運命人。男の様子から察するに、それは凄いことらしい。が、詳しいことを知らない私にはさっぱりだ。

 なんて思っていると、男が強い力で肩を掴んできた。

「いっ……!」
「さぁ、一緒に来い」
「えっ……」
「お前は俺と一緒に来るんだ!そうすれば俺はより強大な力を得られる!全て俺のものになる!さぁ来いっ!」
「いやっ!」

 無理矢理連れ去ろうとする男。その力は男性ゆえなのか、情緒によるものなのか、とても歯が立たない。

(このまま……私は……)

 絶望のどん底に引き込まれる、その寸前ーー

 勢いよく襖が開け放たれた。

「ここにいる者、女を誘拐した罪で処罰する!」

 威勢のいい声と共に、白い軍服を着た男たちがなだれ込んできた。

「なっ、検非違使(けびいし)だと!?」

 軍服の男らは黒服を鮮やかに薙ぎ倒し、捕えられていた女たちを解放していく。

「くそっ!逃げるぞっ!」

 男はなお、私を離そうとしなかった。どころか、何が何でも連れ去りたい。そんな欲望が滲み出ている。

 しかし、彼の行方は阻まれた。

「おいおい、何処へ行く?」

 それは傘を被った男だった。凛とした声は、落ち着き払ってこの状況を見据えている。

「その女を解放しろ」
「やなこった。こいつは俺のものだ。こいつがいれば、俺はもっと強くなれる!」
「ほう。指示に従わないならば、こちらも相応の手段を取らせてもらう」

 そう言って傘の男は腰に差した剣を抜く。鋭利に輝く刀身に、私を連れ去ろうとした男は一瞬息を呑んだ。だが、元の様子に戻る。

「きゃっ!」

 男は私を放り投げ、傘の男に掌を向ける。

「こんなところでやられてたまるかぁっ!」

 先ほどと同様に溢れ出す黒煙。だが、傘の男は特に怯んだ様子もなく一歩踏み込んだ。

「ふっ、それで勝つつもりだったのか?」

 そして、一気に男との間合いを詰め、剣を振りかざす。

「がぁっ!」

 男は肩をざっくりと切られ、膝から崩れ落ちた。切られた場所からは、血液の代わりに黒煙が滝のように流れ出ていく。

 傘の男は剣を鞘に戻し、近くの軍服の男を呼んだ。

「こいつを署まで頼む。詳細を話してもらわねば」
「承知いたしました」

 拐かしの首謀者である男は、ぐったりとしたまま軍服の男に抱えられ、連れて行かれた。

「大丈夫か?」

 傘の男は私に駆け寄り、縄を切ってくれた。

「立てるか?」

 優しく手を差し伸べてくれる彼に、私は頷いてその手を取る。しかし、立ちあがろうとしたところで足に激痛が走った。

「ーっ!」
  
 裾を軽く捲ると、足から血が流れていることに気づく。おそらく、あの男に投げ出された時に付いたものだろう。

「足が怪我したのか?」
「あ……だい、じょう……」

 大丈夫です、と言いたかった。しかし、喉が閉まったように上手く声が発せない。

(またいつものだ……)

 声を出す代わりに頷いてなんとか立ち上がる。痛みは一時的なもので、歩けないほどではなかった。

 初対面の人、特に男性だと途端に声が出なくなってしまう。私の一番の悩み。

 だが、傘の男は私が恐怖で喋れないと悟ったらしい。口元を吊り上げ、目こそ見えないものの微笑んだ。

「落ち着け。もう安心していい」

 柔らかな声に、不思議と今まで強張っていた体の力が抜ける。ずっと張り付いていた恐怖も剥がれ落ち、心が軽くなる。

「怖かっただろう」

 私は首を縦に振る。

「こちらに来い。今から、奴らのことを話そう」

 傘の男は私を部屋の中央へと案内した。無傷の女たちも同じように一箇所に集まる。

 私たちの前に、白い軍服の男が立つ。

「この度は我々検非違使(けびいし)がいながら、このような事態になってしまい大変申し訳なく思う」

 詫びの言葉を述べて、男は頭を下げる。

「皆驚いたことであろう。話を聞けば、女が奴らの黒煙に襲われ、光る球体を奪われたとか」

 ざわめきが波紋のように広がる。それは、おそらくここにいる全員が目にした光景。

「あ、あれは一体何なんですか?何故、あんなことが……?」

 1人の女が声を上げた。それは、誰もが知りたがっていたこと。軍服の男は包み隠さず説明する。

「まず、貴方たちを襲ったのは、魔に落ちてしまったあやかしです」

 衝撃の一言に、私は耳を疑った。

「あ、あやかし……?」

「あやかしって、あの、特殊な力を持つ……!?」

 あやかしという生き物は、おそらく日本国の大半の人間が知っているだろう。それは神にも近い、特別な力を持って生まれる生き物。

「そのあやかしが魔という、簡単に言えば闇に呑まれてしまったのが奴らです。そして、奴らは皆さんの神力を吸い取っていました」

「し、神力……!?それって、あやかしだけが持つ特別な力のことじゃ……」
「わ、私たちがそんなものを持っているはずがないでしょう!?」
「いえ、稀に、僅かながら神力を持つ人間はいます。それが貴方たちです」

 はっきりと告げられた真実に、私は唖然とした。

(私が、神力を持っている!?)

 あり得ない。神力はあやかしが術を扱うために使う特別な力。人間が、増してや自分が持っているなど、夢にも思わなかった。

 それが喜ばしいことなのか、不吉なことなのかは断定できない。だが、この状況においては神力を持つということは不幸をもたらすとしか言いようがない。

「これから気をつけて下さい。今回のように、魔に落ちたあやかしが貴方たちを襲うことがあるので」

 軍服の男は鋭い目つきで警告する。あくまで自己防衛をしろ、ということらしい。

「それよりも、この事件のせいで帝の道中に行けなかったわ」

 1人の女が、そんな呟きを漏らした。襲われた恐怖ですっかり頭から飛んでいたが、今日は帝の(つがい)選びの道中がある。見る限り、彼女の着物は上等そうだ。このために用意したのだろう。

「私も」
「せっかく家族が着飾ってくれたのに……」

 女たちは次々と肩を落とす。何年も待ち侘びていた好機を逃した悔しさは計り知れない。

 しかし、そこに希望の光が舞い降りる。
 
「そのことならばご安心を。この事件は帝にも通っております。拐かされた女たちは優遇するように、との言伝も承っています」
「それは、どういうこと?」
「簡単に説明しますと、貴方がたは帝に会うことができます」

 大きく踏み出た提案に、「まぁっ」と多くの女が頰を紅色に染めた。彼女たちにとってはこれ以上ない、喜ばしい知らせだろう。

「で、では、帝と近くでお会いできるということ!?」
「はい」
「籠で通るのを見届けるだけではなくて!?」
「ええ。(すだれ)一枚を隔ててお会いすることができます」
「なんて幸運なことでしょう!」

 途端に女たちは笑顔になる。数刻前まで恐怖に絶望していたのが嘘みたいだ。

(それ程までに帝の道中に参加したかったのね)

 それは、私には理解できない感情。そして、これからも理解することはないであろう感情。

「それでは、付いてきて下さい」

 軍服の男の後を、私を除いた全員が嬉々として付いていく。その様子を、私は側から眺めるのみ。

「お前は行かないのか?」

 声をかけられて振り向くと、そこには私を助けてくれた傘の男が立っていた。はい、という代わりに頷く。

「そうか」

 それっきり、男は黙り込んだ。が、不意に顔を上げ、提案する。

「ならば、少し、私と街を歩かないか?」
「えっ……?」

 予想だにしない言葉だった。このまま帰してくれるとばかり思っていた。

「先程のこともあって心身が安定しないだろう。気晴らしに、どうだ?」
「あ……、の……」

 答えに詰まる。この男はつまり、2人で街を回ろうと言っている。異性と2人きり。それは私が恐れているものだった。だからと言って、優しさからの申し出を断るのは気が引ける。

 考えに考えを巡らせた挙句ーー。

 コクリと、首を縦に振る。

 すると男は、目こそ見えないものの微笑みを讃えた。

「良かった。では、早速行くとしよう」

 そう言うなり、私の手を取る。

「あっ……!」

 反射的に、その手を振り解いた。突然の行動に、男は驚いた様子を見せる。

「あ、ああ、すまん。見ず知らずの男に手を触れられるのは流石に驚くよな」
「あ……いえ……」

 我に帰り、自分がしたことに頭が真っ白になった。いくら驚いたとは言え、振り解くのは失礼すぎる。相手が命の恩人とも言える人なら、なおさらに。

「す、すい……ま……せん」

 声が掠れる。精一杯頑張ったつもりだけど、どうしても思うように喋れない。目の前の男はきっと、口を金魚のようにパクパクと動かしているにしか見えないだろう。

 そう思ったのだが。

「いや、私のほうこそ悪かった」

 男は詫びた。私の声はちゃんと届いていたらしい。優しい返事に、顔を上げる。不思議と胸の内が暖かくなった気がした。

「無理強いはしないが……よいか?」

 傘の男は再び私に手を伸ばし、許可を求める。私は戸惑ったが、なんとなく、この人は大丈夫だと思った。恐る恐る、華奢な手に自分の手を重ね合わせる。
 
 傘の男は口元を嬉しそうに綻ばせた。

「では、行こうか」
「は、はい……」

 傘の男に導かれて、私はようやく外に出た。たった少しの間だけ監禁されていたにも関わらず、太陽の眩しさが久しい気がする。

(ここは……)

 今一度、自分が出てきた場所を振り返った。それは、薄暗い路地に面した小さな家。壁も古びて障子は破れ、人が住んでいるようには見えない。

「周囲には空き家だと思わせていたらしいな」

 傘の男が呟く。

「誰も住んでいないと思わせることで、人間の警戒を解く。賢いものだ」
「……」

 見る限り、そこは普通の街。私の街とはさほど変わらない。そんなところで、あやかしが悪事を働いているのはやはり信じ難かった。

「さぁ、進もう」

 私と傘の男は路地を出て、人気の少ない道を選ぶ。未だな人はまばらにしか見られない。

 私は視線をそっぽに向ける。男は異性と手を繋いでいるのに、それが何でもないような雰囲気を出している。このような状況に慣れているのかもしれない。

 対して、私は違和感しかない。私は両親以外の異性に手を触れたことがなかった。この人の手は細い、なんて思ったけど、実際握られてみれば、私よりも一回りほど大きくがっしりとしていた。

 掴んだものは離さない。そう言っているような男の人の手が、私の手を包み込んでいる。柔らかな温もりがあって、不思議と安心できる手。

 こんな気分になったのは初めてだ。私はドギマギした気持ちで、男の人の横顔を盗み見る。

 相変わらず笠を被っているものの、影が落ちていない口元や、この人自体から発せられる雰囲気は静かで、柔らかく優しく、それでいて何処か不思議だった。
 
 思わず、その整っている見える部分の顔を見つめ続ける。すると、男の人は流石に視線に気づいたのか、「ん?」とこちらの方を向いてきた。

「あっ」

 私は反射的に顔を背け、視線を足下に落とした。

「どうかしたか?」

 後ろから声が聞こえたが、私はうまく口を動かせず、首を振ることしかできなかった。

「そう、か」

 私が恥ずかしがっていることに勘づいたのか、男の人はそれ以上触れなかった。

「……」
「……っ」

(気まずい……あまりにも気まずいすぎる……)

 沈黙というものが決して悪いものだとは断定できない。けれど、初対面に加えて異性ということもあり、空白の時間が居た堪れなく感じる。かと言って、会話を切り出す勇気もない。

 そんな私に気持ちを悟ったのか、傘の男はスッと手を離した。

「少し待っていてくれ」

 そう残して何処かへと彼は消える。何をしに行くのだろう、と首を傾げてその場に突っ立っていた。数分後、男はあるものを手にして帰ってきた。

「食べないか?」

 差し出してきたのは巾着のような見た目の唐菓子(からくだもの)だった。

「あ、あり……がとう……ござい、ます……」

 両手で受け取ると、ふわりと香ばしい香りが漂う。途端に空腹を覚え、いただきます、と心の中で呟いてそれを齧る。

「お……いしい……っ!」

 焦茶色の菓子は仄かに甘かった。僅かにも砂糖がまぶしてあるのだろう。出来立てなのか、まだ暖かい。軽い口当たりが食欲をそそる。止まらず二口目、三口目……と、気づけば食べ終えていた。

「あ……」

 我に返って顔が熱くなる。人前でこんなにも勢いよく食べることは行儀が悪い。しかし、傘の男はさほど気にしていなかった。

「口にあったのなら良かった」

 むしろ、嬉しそうだった。傘の男も唐菓子(からくだもの)をものの数口で平らげる。

「美味いな」

 コクリと頷く。唐菓子(からくだもの)なんて、口にしたのは久々だった。まだ舌に残る懐かしい味に胸が締め付けられる。

 食事をしたせいか、私たちを取り巻く空気が少し軽くなった気がした。

「この際に尋ねるのもだが……」

 不意に傘の男が口を開く。

「帝の御前、本当にお前は行かなくて良かったのか?」
「え、あ……はい……いい、んです……」

 私はわざとそっけなく答える。今朝の賑わいだ街の風景を思い出し、目を瞑った。

(あんなにも華やいだ場所、眩しすぎて行くことなんてできない)

 増してや帝の前だなんて、到底無理だ。

「そうか。……何故か、と訊いてもいいか?」
「……」
「無理に話されるつもりはない。だが、話した方が楽になる時もある」

 諭すように男は言った。その言葉に、何故か心の内の何かが溶けていくような感覚があった。心が軽い。今なら、自由な気がする。

「はい」

 あまりにも滑らかに声が出たことに、自分自身が驚く。

(声が……!この人となら、話せる)

 自分でも理由はわからないけど、この人になら話していいと、そう許せる。

「私にとって、帝は雲の上の人です。私みたいな人があそこに行くなんて、100年、早いですから」
「そうか?行くならば、誰だろうと関係ないと思うが」

 男の人は心底不思議そうに首を傾げた。嫌味も皮肉もない純粋なその仕草に、少しだけ胸の奥がチクリと痛む。

(きっと、あなたみたいな人には分からないんでしょうね)

 心の中で罵る。

「関係ありますよ。あそこに行っていいのは、人々に求められるような存在の人だけです」
「それを聞くと、お前がまるで人々に求められていないようだが……?」

 この人の言う通りだった。私は、誰かから求められることなんてない人間なのだから。

「その通りですよ。私は、誰にも求められない人間です」
「………」

 長い沈黙が流れた。お互い何も喋らない、気まずい雰囲気。私が一番苦手な空気感に、思わず男の人から顔を逸らす。

 本当に私はどうしようもないクズだ、と自身を嗤いたくなる。

(この人も、こんな自虐的な言葉を聞いて気を悪くしたんだろうな)

 言ってしまったことは後悔したが、もう遅い。だから、仕方ない。

 しかし、男の人が次に発したのは意外な言葉だった。

「それは、単なるお前の思い込みだろ?」
「へっ……?」
「誰が何処へ行こうと自由だ。身分など関係ない。そうではないか?」
「あ、いや、まぁ、そうかもしれないですけど、やっぱり無意識に差別とかしません?」
「うーむ、そんな気にしたことないがな……」

 それを聞いて私は心底驚いた。この人が言っていることは、あくまでこの人のみの考え。世の中の常識とは違うかもしれない。

 しかし、この人は明らかに身分が高そうだ。にも関わらず、差別という考えがなかったと言ったことが信じられなかった。

「あなたは自分より身分が低い者を見下したりしないんですか?」

 言い方は悪いが、素直な疑問から出た言葉だった。

 どんな答えかたをするんだろう、と待ってみると、その人はふっと息を吐いて言う。

「身分が高かろうが低かろうが、所詮人間は人間だ。そこに優劣はない」
「そうですか……」

 それを聞いて、私は自然と笑顔になっていた。心に穏やかなものが広がって、満たしてくれる。まるで、荒波が立っていた海が凪いだように。

 確かに、言われてみれば大したことないかも。今まで自虐していた自分がバカみたいだ。私は私なんだから、周りと比べる必要なんてないのかもしれない。

 男の人の話を聞いて、私の中の考え方が変わっていった。そんな私を、男の人はチラッと見て笑う。

「…やはり、お前は笑顔が似合うな」
「ん、今なんと?」
「いや、なんでもない」

 男の人はニヤついたままはぐらかした。

 気になるけど、まぁいっか。私は前を向いて歩き続けた。

 なんだか、さっきよりも街の静けさが気にならない。これはこれでいいと思えるようになっていた。

 私と男の人は歩く。落ち着いた雰囲気を纏う、特別な道を。

「なぁ」

 男の人が突然口を開いた。

「…?なんでしょうか」

 私は男の人を見て、首をかしげる。

 すると、彼は私の手をきゅっと力を入れて握った。右手がさらに熱を帯び、ドクンと脈が上がる。と同時に、私の全身を流れる血液の速度が速くなった気がした。

 ようやく引いてきていた赤みが再び増す。そんな私に、彼は口を開いた。

「やはりお前は……」
「あっ、ちょっと待ってくださいね」

 何かを言いかけた男の人の言葉を遮る。

「な、なんだ…?」

 突然私が声を出したことに驚いたのか、多少動揺した様子で尋ねてきた。

 しかし、私は視界に移ったものに意識が向いていて、その声が届かなかった。

 直後、男の人も私の視線の先を見据えて、あっと声を漏らす。

 私が捉えたのは、木の枝にかかった毱を取ろうとしている女の子だった。彼女は何度か跳ねて手を伸ばすが、小柄故に毱には遠く及ばない。

「少し、待っていてください」

 そう言って私は男の人の手を離して、女の子に駆け寄った。

「どうしたの?」

 私は彼女の背丈と同じ高さになるように屈んで問う。

 すると、その子はゆっくりと振り向いた。目に涙を溜めて、赤くした頬には透明な水が伝っている。とても可愛い子だった。

「毱がっ、木、に、ひっかかっ、ちゃった、の」

 そう言うと、ヒックヒックと泣き出した。目を両手で押さえて、透明な雫をポタポタと地面に落としていく。

 分かる、分かるよ。悲しいよね。

 そんな彼女の頭を、私は優しく撫でる。

「大丈夫。お姉ちゃんに任せて」

 そして立ち上がる。毱は見えるが、手が届くほどではない場所にかかっている。あれでは大人ですら手を伸ばしただけでは届かないだろう。

 ならば方法は一つだけ。私は着物の裾を腕まくりして、木に足をかけた。

 この木が楠の木で良かった。枝も幹も太くて丈夫だから、人一人体重をかけたところで折れる心配はない木だ。

 手は枝を掴んで、それからよっと体重を前に持ってきて、全身の力を右足に乗せる。

 木登りは得意だった。小さい時も、同じ年頃の子は登れない木を、私だけは動物のようにするすると登っていって、少し得意げになってたっけ。

 昔の思い出を懐かしみつつ、私はどんどん上に登っていき、あっという間に毱の所までついた。

「よいしょっと」

 毱は枝同士の間に軽く挟まっていて、手を使えば簡単に取れる。

 私は手に毱を抱えて、下を見下ろした。この高さならば、危なくはないかな。

 私は枝から手を離し、体を空に投げる。

「あっ!」「あっ!」

 驚いた二つの声が重なる。

(でも、私は大丈夫)

 重力に引かれる中、得意げな笑みを浮かべて余裕を出す。私は放り出された体を捻って、うまい具合に朝からストンと着地した。実は高いところ好きだ。だから、飛び降りることなんてへっちゃら。

 私は持っていた毱を女の子に渡す。

「はい、どうぞ」

 すると、その子は唖然としていた表情に笑顔を浮かべて、受け取った。

「ありがとう、お姉ちゃん!」

 そして、嬉しそうに何処かへ駆けていった。私はしばらく、彼女が消えていった道を眺める。

「お前、凄いな」

 背後から声が聞こえて振り向くと、あの人が立っていた。

「あんなにも木登りが上手い人間には会ったことがない。ひょっとして、猿か?」
「なっ!そんなわけ無いでしょう!」

 反射的に言い返す。自分でやっておいてなんだが、お笑いみたいだ。全力で否定する私の姿に、男の人は笑いを漏らす。

「はははっ、冗談だよ」

 もう、と私は息をついた。

(まぁ、あの子が喜んでくれたからいっか)

 そんなことを思っていると、男の人は笑うのを止め、しみじみとした雰囲気で言った。

「やはりお前は、優しいな」

 街でも、道でも、空でも無い、果てしなく遠い場所に焦点を合わせているような瞳で。

「それだけじゃない。お前は心も美しい」

 それを聞いて、私は不思議に思った。

(心も……?)

 なんでそんなことが分かるんだろうと。何故そう言えるのだろうと。疑問としてそれが脳裏に浮かぶ。そして、尋ねようとした。が、男の人が先に質問してくる。

「お前、名はなんと言うのだ?」

 今更名前?と思ったが、よく考えれば名乗っていなかった。

「私は……抄華(しょうか)です」
「抄華、か……。綺麗な名だな」

 男の人があまりにもサラリと言うので、それを聞いた私はなんだか嬉しいような、恥ずかしいような、むず痒い気持ちになる。

「ありがとうございます。それで。あなたのお名前は……?」

 私も尋ねた。すると、その人は一瞬、意味アリな笑みを浮かべて、頭の笠に手をかける。そしてそれを、するりと取った。顔にかかっていた影が消える。薄く白い布が彼の顔を撫でる。

 白い布の下から、相反した黒髪、そして見えなかった目元が現れる。

 影から出てきたその人の顔に、私は息を呑んで見つめた。声が出なかった、というよりかは出せなかった。

(ななっ、なんで、この人がこんなところに!?)

 それは、私が見たことのある顔だった。というか、知っていなければおかしいほど。だが、この人がいるはずない。そう、私の脳は否定する。

(だって、この人は……)

「私は第57代帝、羅衣源(らいげん)だ」

 涼しげな切長の瞳、漆黒の黒髪、色白の頰、その上整った顔立ちの男性が、そこには居た。
背後に昇る太陽が、彼の神々しさを増幅させている。

「み、帝様……っ!」

 私は信じられない様子で目の前に立つ男性を見つめた。いやいや、帝だなんて有り得ない。

 でも、私に柔らかい笑みを向けているのは紛れもなくこの国の帝。一度だけ、代替わりを祝福する行事で見たことがあった。あれだけ人を惹きつける力を持った人なんだから、間違えたり、他人の空似なんてことはないはず。

(えっ、ちょっと待って。じゃあ、私はずっと帝とお話ししていたということ!?)

 今知る事実に、私の心臓はこれまでにないくらい激しく脈打ち始める。

「ななっ、何故貴方様のようなお方がここに!?」
「お忍びでな」

 帝は素気なく答える。

(いやいや、お忍びって何よ。帝様が庶民と同じ場所にいるだなんてあり得るの?)

 しかし、それ以上の問題に気づくことがあった。

「貴方様がここにいるなら、あの、牛車に乗っていた人は……?」

 時間的に考えて、検非違使(けびいし)が助けに来た時はまだ帝の道中があったはずだ。

「ああ、あいつは私の部下である」
「……えっ?」
「牛舎には私の部下を乗らせている」
「ぶ、部下って……。つまりは、身代わりというわけですか?」
「ああ」

 そんなことをしていいものかと私は驚く。大勢の女の子たちが熱い視線を送っていた人物が、実は帝なんかじゃないなんて。

「あれ、で、でも、だったら拐かされた女たちに言ったことは……?帝の御前に案内するという、あれは……」
「あれも身代わりを用意している。なに、姿は見えないのだ。気づかれることはない」

 衝撃の事実を聞いてしまった。

「何故、そのようなことを?」
「それが決まりだからだ」

 帝は表情を変えずに淡々と説明する。

「我々帝が(つがい)を選ぶ時は、ああやって街に牛車を出す。しかし、その牛車に帝が乗ってはいけないのだ」
「な、何故ですか……?」

 私が恐るおそる訊くと、帝は口元を吊り上げ、怪しげな笑みを作った。

「あんな物に群がる女は、(つがい)になどなれない。何故なら、心が曇った者達だからだ」

 顔は綺麗なのに、言っていることはとても恐ろしく、威圧的であった。

「心が曇っているって、そんなの分からないじゃないですか」

 私は相手が帝だと言うことも忘れて反論する。

「人の心なんて、そう簡単には理解できないでしょう?」

 彼は私の言葉に目を閉じて聞いていた。

「確かに心の内全てを理解するのは無理かもしれん」

 が、すぐに瞳を開いて、漆黒の瞳孔で私を捉える。

「心が曇ると言うのは、私欲にまみれていると言うことだ。あんな場所に集まる奴らが、私欲にまみれていないわけ無いであろう」
「……っ!」

 さっきとは打って変わって、闇を携えた表情は毒を持つ鳥兜(とりかぶと)みたい。

 ぬっと顔を寄せて、怪しげな笑みに影を落としている帝の顔を、私は直視できなかった。怖い、という恐怖が背筋を走る。

 しかし、だ。

 帝が言う事は、確かにそうだ、と思わざるを得なかった。

 道中に群がっていた人は皆、自分を見て欲しそうにしていた。あれこそ、私欲と言えるだろう。

 それにしても、と目の前の男性を改めて眺める。帝の言い方の酷さに、私はさっきから驚かされっぱなしだった。さっきまで、とても優しい雰囲気の人だと思っていたのに。

 顔を曝け出した途端、まるで人が変わったかのようになった。綺麗な人ってこんなもんなのだろうか。

 疑問が次々と溢れてくる私の肩を、帝はそっと触れた。唐突で、体がビクッと反応する。

「な、なんですか……?」

 私は戸惑いつつ、見上げて帝に視線を向けた。彼はうっとりとした目つきをしていた。

「欲にまみれている奴らと違って、抄華、おまえは美しい」

 名前を呼ばれてドキッと心臓が跳ねる。そう言えば、さっきも同じことを言っていた気がする。

(帝が口にする美しさの基準ってなんたんだろう)

 そんなことを考えていると、帝のしなやかな指が今度は私の髪を撫でた。かと思うと、私を引き寄せて抱きしめる。

「ふぇえっ!」
「ああ、やはりお前だった。お前こそ、私の運命人だ。お前だけが、私の(つがい)にふさわしい」

 滑らかで、甘く、それでいて忘れられないような不思議な声で、帝は言った。

「……」

 私の思考は一時停止する。

(えっ、何急にこの人?というか、運命人って何のこと?)

 いや、それだけじゃない。

(今、この人、私のことを(つがい)って呼んだ?あの、帝の妻ってこと?私が!?)
 
 そんなわけ無い、と私の脳は否定する。すると、今さっきの声が蘇る。

『お前だけが、私の(つがい)にふさわしい』

 完全に、この人はそう言った。

「おい、大丈夫か?」

 帝の綺麗な顔が覗き込んできたことで、私の意識は戻った。

「えっ、いやいやいや!私が(つがい)に?そんなの有り得ません!」
 
 身振り手振りで、全力で否定する。だってそんなこと、天地がひっくり返ったってあるわけ無い。

 だが、帝は引かなかった。

「何故否定する?私が言っているからそうなのだ」

 あまりにも自信満々に言われるもんだから、私は叫ぶのを止めた。息を呑んで帝を見つめた私に、彼は涼しげな笑みを浮かべた。そして、徐おもむろに私の手を取る。

「やはり美しい。お前だ。抄華こそ、私が求めていた人だ。ようやく出会えた……っ!」

 彼の言葉に、私は目を丸くするばかり。
 
(何で、この人はこんなにも嬉しそうなんだろう?)

「出会えたって、私には何の取り柄もないですし、帝様と一緒にいる権利なんて……」
「私には分かる。抄華、お前は私の(つがい)になるために生まれてきた者なのだ」

 帝は私の言葉を遮った。妙に熱く、そして確信に満ちた声色で。

(どうしてこの人はそんなことが言えるんだろう?)

 理由を問いただしてみたかったけど、これ以上何も言えなかった。帝の表情が、とてつもなく美しく、儚く、そして凛々しかったから。

「なぁ。これから私の屋敷に来ないか?」

 またしても突然の誘い。

「お、お屋敷って……!私のような者が行ってはいけませんよ」
「そんなことはない。お前は私の(つがい)なのだから」
「そんな勝手に決めないで下さいっ!」

 勢いで叫んでしまったことに、我に返って慌てる。

「いや、その、私が(つがい)なわけないので……」
「いや、私には分かる。間違いなく、お前は私の(つがい)だ」

 どうやら彼の中でそれは決定しているらしい。私に反論の余地はないようだった。

「それに、抄華は怪我をしているだろう」
「あっ……」
「私が気がついていないとでも?」

 確かに足の怪我はまだ完治していない。歩いている際に時折ズキリと痛んでいた。

「どの道、私の屋敷に来た方が良いぞ」
「……分かりました」

 帝の強引すぎる誘いに、私はとうとう根負けして頷いた。すると、彼は満足したような笑顔を顔に浮かべる。

 そして、私の足元に屈んだかと思うと、いきなり私を抱き上げた。

「うわぁっ!」

 体が宙に浮く。背中と膝の裏に、温かい腕の感触がある。帝の手の中にいることに気づき、慌てて声をかける。

「な、何しているのですかっ!?」
「怪我した足で歩かせるわけには行かない」
「いやっ、大丈夫ですよ!先ほどまで歩いていましたから。大丈夫ですから降ろしてくださいっ」
「そうはいかぬ。私の大切な(つがい)なのだからな。あと、帝様とよそよそしく呼ぶのではなく、羅衣源と名で言ってもらおう」
「いえ、無理ですって!」

 こうして私は帝、羅衣源に抱き抱えられたまま、少々強引に屋敷へ連れて行かれた。

(ああっ!どうか誰にも見られませんようにっ!)

 私は炎の如く、全身が燃えるように熱かった。


          *

「くそっ!なんなんだよっ!」

 薄暗い路地にて、男が纏っていた黒服を脱ぎ捨てながら、苛立ち紛れに文句を吐いていた。

「久しぶりに若い女が手に入ると思ったのに」
「仕方ないさ、検非違使(けびいし)が来たからには撤退する他ない」

 他の2人も口元を覆う布を外しながら胸の内に膨らむ不満を呟く。

 彼らは先ほど、抄華らを拐かした組織の一員である。検非違使(けびいし)が押しかけ、首謀者である男が捕まったため逃げ出してきたのだ。

「あーあ、折角良い女が手に入ると思ったのに」

 怒り任せに、男は足元の足を蹴り飛ばした。それは、凄まじい勢いで飛んでいき、壁にぶち当たって焦茶の板にビシリ、とひびを作る。その力の強さは、人間には似ても似つかないほどだった。

「帝の道中があるってあいつに聞いたから、確かに色気ある女は多かったんだけどなぁ」

「今回はやけに数が多かったしな。おかげで10人ほど掻っ攫っても誰も気づきはしなかった」
「せっかく搾取できる好機だったのによぉ」

 男らは嘆く。彼らがこういった事件を起こすのは、今回が初めてではない。

 帝の(つがい)選びの道中には街中の女が中心の通りに集中する。誰もが帝に夢中で、身の危険など知らない。警戒が緩む女の中から、神力を持ち合わせていそうな者を選び、眠らせて運ぶ。それこそが彼らの仕事であった。

「それに今年は、強い神力の持ち主もいたじゃねぇか」

「ああ、あの女だな」

 男たちの脳裏に浮かぶのは、黒服を着た集団ーー天狗ーーに連れ去られて行った女。

「相当な神力を持っていたらしいぜ」

「ちっ。売り飛ばしていれば大金が手に入ったのに」
  
 その女も、結局は検非違使(けびいし)によって保護されてしまった。
 
「おしいなぁ」

 男は拳を握りしめ、壁を思いっきり叩く。ドンっと大きな振動が生まれ、壁がひび割れた。ヒッと、中から微かな人の声が聞こえてくる。

「それによ、あいつ、最後、なんの飾りもない地味な女を見て驚いてただろ?」

「そんなこともあったな」

「なんでだか分かるか?」

 尋ねられた2人は顔を合わせる。

「さぁ」

「あー、でもなんか言ってたな。ずっと探していたとか、ようやく見つけたとか。それに、運命人なんてことも言ってた気がする」

「運命人……?」

 その言葉に、1人の男は首を傾げた。

(運命人……?どっかで聞いたことあるな)

 と、男は思い出す。

 遥か昔、暦でその文字を見たのか。噂として流れたのを小耳に挟んだか。

「運命人……運命人……あっ!」

 男の頭の中で何かが光った。廃れていた記憶が鮮やかに蘇り始める。

「運命人は、あれだ。帝に次ぐ大きな神力を持った女のことだ」

「帝に次ぐ……?それって、ヤバいんじゃないか」

「ああ、滅多にいない、珍しい女だよ」

「まさか、それがあいつが言ってた……?」

「だろうな」

「じゃあ、そいつさえ手に入れれば……っ!」

 男が瞳を欲望で輝かすも、その光は一瞬にして失せる。

「いや、だがそいつは検非違使(けびいし)と共に帝の御前に行ったんだっけか」

 帝が居ては、女一人を連れ去るのも難しい。増してや護衛に検非違使(けびいし)がいるのだろう。状況は絶望的だ。

 その時、バサリと空から黒い花が舞い散る。共に降り立ったのは、男たちと同じく黒服を全身に纏った者。

 そいつは地面に足がついた瞬間、帯のように布がはらりと解けた。それらはそいつの足元に吸い込まれ、跡形もなく消え去る。

 烏のような黒い翼、底の高い下駄、山伏の服装。それこそ、そいつの真の姿。

 ーー天狗であった。

「おお、どうした」

 男は天狗に問う。するとそいつは片膝を付き、こうべを垂れた。その様子に、どちらの立場が上から一目瞭然である。

「ご報告がございます。先ほど、ぬらりひょんが仰っていた女についてですが……」

「ああ、丁度今、その話をしてたところだ。何か分かったか?」

 コクリと、天狗は首だけ動かした。ぬらりひょん、とは天狗らを指揮していたあの男。神力剥奪の力を持つ者のことである。

「どうやらあの女は、帝の御前には出向いてないようです。一部始終を見る限り、傘の男と共に街にいるかと」

「傘の男っつうのは……ぬらりひょんを討伐したあいつのことか?」

「はい」

「それも街に、か」

 ふむ、と男は顎に手を当てる。女が帝の御前に行かないのも不思議だが、傘の男と街にいるほうがよほど不自然だ。

 傘の男は何を考えているのか。そもそも、奴は何者なのか。あやかしを討伐できる人間だ。神力を持つに違いない。

 男で神力。それも、強力な。その条件に当てはまる人間は、男には一人しか思いつかなかった。

「帝か……」

「えっ?」

「あの傘の男、おそらく帝だ」

「み、帝……!?なんでまた、そんな話に?」

「帝は実際に道中には参加しない。それに、ぬらりひょんを切れるほどの神力を持つ。それは帝しか当てはまらないだろ」

「でも、そしたら……」

 いよいよ路頭に迷う。運命人と呼ばれる、強大な神力を持つ女を見つけたのは一遇の奇跡だ。しかし、女は今も帝と一緒にいるとなれば、手の出しようがない。
 
「どうすんだよ。あの帝だぞ?かなう筈がない」

 確かに、帝という存在は自分たちが太刀打ちできるような相手ではない。でも。

「いくら帝が連れていったと言えど、(つがい)にならなきゃあいつのものにはならねぇよ」

「そうだが……女が帝の(つがい)になる申し出を断るとでも思ってんのか?」

 男は頷く。確かに、彼の言い分は正しい。日本国の女にとって、帝の(つがい)とは最も名誉なことであり、全員が喉から手が出るほど欲しがる称号だ。それを断る考えなど、さらさらないだろう。

 しかし、男は、問題ない、と口元を歪めてもっと嬉しそうに、そして愉しそうに笑う。

「女に帝の申し出を断らせればいいんだよ」

「はっ?」

 訳が分からない、と一方の男は首を傾ける。

「断らせるって……」

「元はと言えば、運命人は帝の御前に行くことを拒んだ?おかしくないか?」

「それは……傘の男が帝だと知ってたんじゃないか?もしくは、明かされたか……?」

「いや、あいつが帝ということは、庶民は愚か、家族さえ知りえないさ」

「……」

「でも、断らせるったってどうすりゃいいんだよ?」

「毒には毒で、ならぬ、女には女だ。気の強い女どもを使って、あの気の弱そうな運命人を脅せばいい」

「なるほどな、そういう考えか……」

 ふむふむ、と男が言ったことを解釈し、二人は男と同じ笑みを浮かべる。どうやらようやく分かってきたらしい。

「それなら出来そうだな」

「だろ?あとは(つがい)にはならないことを理由に帝から運命人を引き剥がし、俺らのところに連れ込めばいい話だ」

「ったく、お前の考えることにゃいつも頭が上がらないねぇ」

 薄暗い路地で、3人の男は気味悪く笑い声を発した。彼らのいる場所の空気だけが澱んでいく。

「そうと決まれば早速行動をとらなきゃな。天狗、お前は運命人を見張っていろ。何かあれば念話(ねんわ)で伝えろ」

「承知致しました」

 深々と頭を下げると、天狗は再び黒い布を全身に纏い、翼を羽ばたかせて飛んでいく。

「肝心の女の脅し役の女はどうする?」

「狐女でいいだろ。(つがい)の座を欲しがってるし、何より俺らの仲間だからな」

「ああ。そうだな」

 と、頷いた男の体に異変が訪れる。

 肌の色が次第に黒みがかり、額の中央がバキバキと割れ始める。真っ黒に変色したそこから生えたのは、一本の角だった。

 3人は鋭く光る角と爛々と光らせた瞳で顔を見合わせる。

「愉しみだなぁ」




 その姿は、そう。






 世にも恐ろしい姿と雰囲気を纏った。







 鬼だった。

 







 
 
「ここが、私の屋敷だ」

 人間の背丈より遥かに大きい柵にはめ込まれた門をくぐった先で、羅衣源(らいげん)は私に囁いた。

「ここからは歩けるか?」
「う、うん……」

 ぎこちなく頷くと、彼はそっと姿勢を低くした。地面に足が着いた私は、ようやく二足歩行に戻る。

 正直、ここに来るまでずっと心臓が痛かった。バクバクと激しく脈打つ胸を押さえながらも、これで少しは落ち着ける。そう思えたのは、ほんの一瞬だった。

 羅衣源に抱き抱えられたまま連れてこられた場所を見て、私は唖然とする。

「こんなにも、立派なんだ……」

 そこは、帝が住む、街の中心にある屋敷で、広大な広さの土地と豪華な作りの建物があった。そして、周辺の庭ではまたも目を惹く施しがあった。
 
 まず、中庭の半分が池だった。周囲を石で囲まれたその池では、水面に可愛らしい睡蓮が浮かんでいて、時折、鯉が跳ねては水柱を上げる。さらにはその池の上に朱色の橋がかかっており、水に囲まれた小さな島へ渡れるようになっていた。
 
 また、ある一角では立派に育った松の木が数本、御神木のようにそびえ立っていた。そして木々の周りを、忙しなく翼を動かし続ける小鳥達が飛び交っている。

 ここは日本国ではなく、もしや外国か、と、そう疑いたくなるほどの美しさに、私は目を休める暇もない。

 帝の住む屋敷は、周囲を柵で囲まれているため、外から見ることはできない。よって、誰も知らないのだ。帝の暮らしも、屋敷の構造も、庭の様子も。

 屋敷を見上げて視線を彷徨わせる私の顔を、羅衣源は覗き込む。

「気に入ったか?」
「はい。…ってそうじゃなくて!」

 ぼーっとしていたあまり、彼のペースに乗せられそうになる。

(危ない危ない)

 あまりの美しさに感動してなんとなく頷いてしまったけれど、私が住むとは決まってないもの。私はぼんやりとしていた頭を振って活性させる。

 対して羅衣源は、何が面白いのかケタケタと笑っていた。

「いやいや、すまない。さぁ、行こうか」

 そう言うなり、私の手を取って歩き出した。

「え、いや、ま、待ってって!」

 いやだから私の意思も聞かずに連れていかないで欲しい。

 慌てて叫んでも、彼の足は止まらない。本当に周りが見えていない人だ。彼にされるがまま歩かせられている私は、自分に近づいてくる屋敷を見上げた。

(本当に豪華で凄いな……)

 比べてはいけないかもしれないけど、私の家なんかとは大違い。

 段々と、渡り廊下からの声がはっきりとしてくる。

「ちょっと、そこ、しゃんとしなさい!」
「帝様がお戻りになるまでに終わらせろ!」

 聞こえてくるだけで沢山の人がいることが伝わる。慌ただしい足音に、時折響く怒声。

(私、こんなところに入っちゃって大丈夫なのかな……?)

 そんな心配をよそに、羅衣源は屋敷の中でも、最も広い寝殿に繋がる階段を登り、声を張り上げた。

「羅衣源が今戻ったぞ!」

 その声にいち早く反応したのは、私よりも少し年上の女性だった。バタバタと足音を立て、柔らかに見える白い絹の裾をなびかせながら走ってくる。

 現れた女性は、きっちりとお団子に結えられた髪と、これまたきっちりと着こなした涼しげな服装の姿を角から見せた。

 早歩きで廊下を突き進んできたかと思えば、ピタッと止まって両手をへその位置に置き、恭しくお辞儀する。

「帝様、お帰りなさいませ」
「ああ」
「いかがでし……」

 彼女は顔を上げて羅衣源を見、安堵の笑顔を作った後、隣の私を見て驚きの表情を露わにした。

「あの、そ、そのお方は……?」
「ああ、こいつはか」

 女の人と目を合わせないように俯いていた私を、羅衣源は無理やり自分の元へ寄せた。私が迷惑しているのも知らずに。

 しかし、女の人は私の表情よりも羅衣源の行動に驚いたらしく、目を見張っている。

「彼女の名は抄華。私の(つがい)だ」

 羅衣源は満更でもない様子で告げる。私はそれを聞いた瞬間、彼の顔を見つめた。というよりは睨みつけた。

(つがい)だなんて、そんなの決まってないし、承諾もしてないのに……!)
 
 私はひどく動揺するが、それを聞いた彼女は歓喜の声を上げる。

「えっ、つ、(つがい)様が!その方ですか!」

 瞳を輝かせ、口に手を当てて確かめるように羅衣源に問いかける。

「そうだ」

 羅衣源がはっきりと頷くと、彼女はさらに慌てふためいた。でも、その行動には喜びが混じっているのがよく分かる。

「ああっ、ようやく見つかった!お告げのおかげかしら?本当に当たるのね。やっぱり凄いわ」

 あまりにも彼女の口からポンポンと言葉が発せられるものだから、私は口を開けたまま静止する。

「まずはお父上様に報告かしら?それからお母様にもご報告を。あと妹君様も。あっ、その前に屋敷のみんなにも報告しないと……」
凛音(りんね)、落ち着け」

 羅衣源が静かに言い放つと、凛音と呼ばれた彼女は夢から覚めるようにはっと我に返る。そして、顔を赤らめて縮こまった。

「私としたことが取り乱しました。すみません……」
「いや、いい。それよりも、抄華の傷の手当てを頼めるか?」
「えっ、お怪我をなされているんですか?それは大変!もちろんですとも」

 私抜きで話を進めないでもらいたい。割り込んで止めたい気持ちもあるが、隙がない。

「ならば、宜しく。私は少し用を済ませてから行くから」

 そして羅衣源はくるりと向きを変えて私と向き合う。

「と、言うわけだから凛音に着いていけ。私も、用が済めばすぐに行くから」
「は、はい……」

 なんがどんどん話が進んでいってしまう。でも、ここまできて断る雰囲気もない。俯く私の手を、今度は凛音という女声が掴む。

「それでは、抄華様。どうぞこちらへ」

 そうして私は再び連れられていくのであった。ほんと、今日は驚くことが次から次へとくる。
 
「ささっ、こちらでございます」

 案内されたのは、障子と襖を使って仕切られた部屋。花の刺繍が施された襖を凛音が丁寧に開けると、そこは綺麗に整頓された内装が広がっていた。

 化粧台、寝具、机、なんでも揃っていて、ここで生活できそうだ。広さも、たった一つの部屋なのに私の家全てを合わせたぐらいある。

(この部屋は一体なんなんだろう……)

 そう尋ねようとしたのだが。

「あ、のっ……」

 突然喉がキュッと閉じて、うまく声が出せなかった。

(あ、あれ?)

 私は首を傾げて喉を抑える。もう一度声を発せようとしたが、無理だった。まさか、私の体質が出たのか。でも、なら何故。さっきまでは、羅衣源と何ともなく話せていたのに。

「あ、あのっ、こ、こは…?」

(ダメだ。やっぱり声が出ない……)

 けれど、私が部屋中に視線を彷徨わせていたせいか、凛音は私の言いたいことが分かったらしく、にっこりと微笑む。

「ここは、帝様の(つがい)に選ばれた者に与えるお部屋なのですよ」

 それを聞いて、私は気まずくなる。私は別に(つがい)と決まったわけじゃない。ただ、羅衣源がそう口にしているだけだ。

「さぁ、抄華様。お座りください」

 そんな私の心情なんていざ知らず、凛音は私を座布団へ座らせる。しかも、何故か「様」付けで。

 そして、いつの間に持っていたのか木箱を取り出して蓋を開けた。中には沢山の医療品が入っていた。どれも、高価で、庶民には手の届かないような物たちが。凛音は慣れた手つきで包帯と薬を取り出す。

「さっ、お怪我をしたところを見せてくださいませ」

 私はこくんと頷いて、足を差し出した。人に見せようとして出したことなんてないから、少し恥ずかしい。どんな反応をされるんだろう、と内心緊張する。

 すると案の定、凛音は私の足を見て顔をしかめた。それを見て、私はため息をつく。自分自身に。

(そうだよね、私の足なんて全く綺麗じゃないもの。きっと、凛音だって醜い足を見せられて嫌な気分になっているんでしょう)

 だが、凛音が発した言葉は予想外だった。

「なんで酷い!抄華様の美しい足がこんなにも汚されるなんて!」

 思わず突っ込みたくなった。その上、そんなにも取り乱すことじゃないでしょう。しかも、美しいだなんて、この場で使う言葉じゃない。

 私はその言葉に恥ずかしく、だが少し嬉しさを感じた。

(分かってる。凛音はきっと、お世辞で言っているんでしょう)

 でも、綺麗なんて言葉をあまりかけてもらっていなかった私にとって、お世辞だろうが何だろうが嬉しかった。

「すぐに手当しなくては」

 凛音は慌てた様子で布に薬を染み込ませ、傷口に当てた。途端、ズキッとさ痛みが蘇ってきた。私は奥歯を噛んで、その痛みに耐える。私も、もう大人。当たり前だけど泣くなんてみっともない。

 痛みを増幅させた薬は、しかし傷口を清潔にしてくれた。血が拭き取られた傷口に、凛音は丁寧に包帯を巻く。

「さぁ、これでもう大丈夫ですよ」

 私の怪我は、あっという間に手当てされ、痛みも引いていた。

 ありがとうございます。と、お礼を言いたかったのだが、私の喉は相変わらず声をうまく出してくれなかった。代わりにペコリと会釈する。

 その思いも凛音は受け取ってくれたようで、優しく微笑んで「どういたしまして」と言った。そこに、丁度良く襖が開く音が響く。

「おお、手当は終わったか」

 羅衣源だった。

「ええ、今、いたしましたので、すぐに治りますよ」
「助かった。感謝する」
「いえいえ、めっそうもない」

 凛音は床に頭がつきそうなほど深くお辞儀し、急いで使ったものを片付ける。

「では、私はこれで」

 羅衣源と入れ違いになるように、彼女は部屋の外へ出ていった。「ごゆっくり」と意味ありな笑みを残して。部屋は、私と羅衣源と二人だけの空間になる。

「凛音はああ言っていたが、怪我は大丈夫か?」
「はい。丁寧に手当てをしてもらいましたから」

 と、そこまで言ったところではたと気づく。来た時と同じように、羅衣源と普通に会話できていることに。

 喉を押さえて、自分の声帯が震えていることを確かめる。

(さっきのは何だったんだろ……)

 喉が締め付けられた感覚が嘘のようだ。やっぱり、羅衣源が原因なのか。羅衣原といる時だけ、何の不自由もなく声が出せる。やはり、彼の持つ雰囲気の問題なのだろうか。

 不思議だな、と改めて疑問として湧き上がる。そんな私に、羅衣源は笑いかけた。

「それならば良かった」

 そして、私の近くに歩み寄ると、隣に腰を下ろした。

 肩が触れそうなほどの近さに、私は反射的に体を動かす。しかし、その仕草が気に入らなかったのか、羅衣源は眉をひそめた。

「何故避ける?」
「いや、その……触れられることに慣れてないので」

 適当にも程がある言い訳だ、と自分の考えのなさに呆れたが、羅衣源は以外にも理解してくれた。

「そうか……。ならば仕方あるまい」

 そう呟き、程よい距離をとって羅衣源は私と向かい合う。

「それでなんだが。抄華……」

 なんだか似たようなくだりが先ほどもあった気がする。と、私は身構えた。羅衣源は一呼吸置いた後、再び声を発する。

「もう一度言う。私の(つがい)になってくれぬか?」
「お断りします」

 私は即座に答えた。やっぱりこの質問。今日だけで2回は繰り返している。
 
 この返事は予想ていたのか、羅衣源はさほど表情を崩さなかった。しかし、どうにも納得できないと言った様子で質問を投げかけてくる。

「さっきから断ってばかりいるが、それは何故だ?」
「何故、と言われましても……無理なものは無理です」
「その無理な理由を聞きたいのだがな」
「それは、その……お話しすることはできません」
「そう、か。まさか、他の夫がいるからか……?」
「まさか。そういうわけではありません。元より、私には夫なんていませんし……」

 自分自身で言ったにも関わらず、これを口にすると気分が暗くなる。改めて自分の惨めさが思い知らされて恥ずかしくなる。消えてしまいたい。

「夫がいない……?その(よわい)で、か?」
「ええ。何度かお見合いもしたんですけど、すべて、私の体質のせいで……破談に」
「つまり、今まで男と縁を結んだことも、肉体関係を結んだこともないということか?」
「はい……」

(こんなことを聞いて、羅衣源はどう思うんだろう?)

 考えるまでもない。きっと、呆れてしまう。でも、そしたら私は解放される。

 悲しくも、そうなることが一番だと思い、望む答えが羅衣源の口から出るのを待ったが…。

「なるほど、そうなのか。やはりお前は私の(つがい)のようだ」
「……へっ?」

 腕を組んで頷いている彼が言ったのは、全く別の言葉だった。羅衣源は何故か一人で納得している。
 
 予想だにしなかった反応に、私は面食らう。
 
(なるほど?何が?)

 てっきり、可笑しいとかありえないとか言われるのだと思っていた。それは私の言葉をちゃんと聞いていたか心配になったほどに。それに、やっぱりとはどういうことだろう。

 彼は言った。
「やはりお前は私の(つがい)だ」と。
 
(私に夫が出来ないことが、どうしてそれに繋がるんだろう)

 私の脳内はこんがらがる。

「ど、どういうこと?」

 溜まらず訊いてみると、羅衣源はピクリと体を震わせて私を捉える。一瞬目を伏せた後、申し訳なさそうな表情を見せた。

「ああ、すまない。いきなり言われても困るよな」

 羅衣源は複雑な色合をした瞳で説明した。

「君はおそらく、帝の(つがい)になる運命を背負わされた人間だ」
「えっ、う、運命を……?」
「ああ」
 
 羅衣源は深く頷き、しばらく目を瞑る。誰も声を発しない静かな世界の中で、私の思考は羅衣源の言葉で埋め尽くされた。

 運命を背負わされた。

(つまり、元から私は帝の(つがい)になることが決まっていたってこと?)

 でも、何故それが、私が夫がいないことと繋がるのか。

 すると、羅衣源は私の心を読んだかのように、その運命の意味を説明してくれた。浮かない顔の彼に、嫌な予感が芽生える。

「帝の一族には必ず、運命人、さっき言ったように、帝の(つがい)になる運命を背負わされた者がいる。というよりは、その者と一緒に運命を背負っていくと言った方が正しいか…」
「運命人……。それはつまり、元々定められた運命を持っているってこと……?」
「そうだ。二人が通るためだけに一つの道が作られる。そのように、二人で一つの運命を歩んでいく。その二人として結ばれたのが、帝と運命人だ」
「ちょっと待って。だから何故、それが私の現状と関係があるの?」

 尋ねると、羅衣源はああ、と瞳に闇を落として言った。

「運命人になると、帝以外の夫を持てなくなる人生になるのだ」
「……えっ?」
「しかもそれは、随分と昔から決まっている(ことわり)なのだ」

 帝以外の夫を持てない。言い換えれば、帝以外からは愛されない。故に、他の男とは縁を結べない。

(羅衣源が、あなたが言いたいのは、つまりそういうこと?)

「じ、じゃあ今まで私が誰にも見染められなかったのは……」
「お前が、運命人だったからだろうな」

 羅衣源は静かに言い放った。諭すように、宥めるように。

 そんな、と血の気が一気に引いていく感覚に陥る。初めて知る事実に、全身が氷のように凍てついて、感覚が失われていった。体がワナワナと震える。体温がどんどん下がって、纏わりつく空気が凍てついたものになる。

 ー運命人ー
 側から見れば、聞こえの良い言葉だろう。しかし、私にとっては耳障りでしかない。

(つまり、私は(このひと)のせいで夫ができなかったってこと……?)

「あなたのせいで、私の人生はこうなったの?」
「そうだ」

 否定もせず、躊躇うこともなく、彼は首を縦に振る。

(この一族に運命人なんてものを背負わされたばかりに、両親に迷惑をかけて、周りから馬鹿にされてきたの?)

「あなたのためだけに、私は馬鹿にされてきたの?」
「そうだ」

 羅衣源は感情を乗せずに全てを肯定する。彼は全てを受け入れる覚悟をしたのだ、と気づくのにそう遅くはなかった。

 自分は悪くなかったと分かった今、今度はその怒りが別のものへと移っていく。

(じゃあ……じゃあっ!一体、今まで私が受けたことはなんだったの!?)

 腹の奥から、いや、体全体が炎に包まれたように熱くなっていった。私の中で、大釜がぐつぐつ煮えたぎっているみたいだった。苦しみ、悲しみ、悔しさ。いろんな思いが絡んで、混ざり合って、私の心を支配していく。

「私は、私は……っ!」

 拳を強く握りしめる。それでも感情は止まらず、膨らみ続ける。

 思い出すのは、胸が押しつぶされそうな苦しみの中で生きていた毎日。もがきながら、ただ自身を呪って過ごした日々。

「今まで……ずっと……辛い思いをしてきたの……っ!」

 おかしくなりそうだった。体も心も、私と言う存在全てが、今は怒りという炎に侵されている。

「家族に迷惑かけて……自分のせいだって、思ってた……私自信が悪いって……」

 だけど、実はそうではなかった。その事実に、気がついてしまった。

 思わず立ち上がっていた。床に座る彼を、私は上から睨みつける。

「どうして……なんでよっ!なんで、こんなことになったの……っ!」

 どうか、彼が話したことが嘘でありますように。そう、心の何処かで願っていたに違いない。

 でも。

「本当にすまない、抄華。私なんかのせいでお前が辛い目に遭っていたとは。もっと早くに出会えればよかった」

 羅衣源は嘆いていた。俯いて、なんとも言えない表情を足下に向けている。彼は、まるで自分がやったことかのように、深く後悔していた。それは、残酷な事実を、相手が知らなかったことを告げた時にしかできない表情だった。

 分かってる。羅衣源は悪くない。
 分かってる。羅衣源のせいでも、誰のせいでもない。

 しかし、彼が謝る姿を見ても私の怒りは収まらなかった。むしろ、逆に蓄積されていく。そしてとうとう、爆発した。
 
 私の中の何かが、弾けて砕けた。空気の入れすぎた毱が破裂するように。ガラスが砕かれるように。

「あなたのせいだっ!」

 私があまりにも大きな声を出したから驚いたのだろう。羅衣源は声と連動するように体を痙攣させ、美しい瞳を私に向けた。ありえない、と言いたげな色を宿して。
 
 自分でも、こんな声が出せるものかと内心びっくりした。

(でも、もういっか……)

 ここまで来たら、もうぶつけるしか他にない。私は自分の心に掛けていた感情を抑えるための錠を開け、解放した。

「あなたのせいで私の人生は崩れた。あなたのせいでみんなに迷惑かけた。あなたのせいでっ!」

 喉の奥が熱い。まるで、火の玉を飲み込んで焼かれているようだ。目頭も、このまま燃えるんじゃないかと思うほど熱がこもっていた。  

「どうしてこうなったの!?私は何故こんな運命に生まれてきてしまったの!?望んだわけでもないのにっ!」

 そして、頭の中では言葉で表しきれないぐらいのひどい言葉が散乱していた。これを全部吐き出したら、どんなに気持ちいいんだろう。

 でも、そう思うのに全ての感情を目の前の相手にぶつけられないのも、私という人間の弱みだった。

 私はただ、目の前にいる男を睨み続ける。羅衣源は、そんな私をじっと見つめていた。

(何よ。言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない)

 羅衣源は一度瞳を閉じた後、ふうっと息を吐く。

「すまない」

 彼は静かな声で言った。

「私なんかのために、抄華に苦労させてしまって、本当に申し訳ないと思っている」

 彼はとても優しかった。散々当たり散らす私の言葉を、否定もせずに聞き入ってくれる。

 自分のせいじゃないはずなのに、罪悪感を抱えて頭を下げている。あなたがするはずじゃないことをしている、そんなことは私だって理解していた。

 だけれども、この胸の怒りの炎は消えることがない。むしろ、彼が謝れば謝るほど油を注がれたように炎は勢いを増してしまっている。

 項垂れる彼の姿を、私はじっと黙って見つめた。

「辛かっただろう、苦しかっただろう。心の傷がどれほどのものか、私は知っている」

 彼の声は優しかった。全てを包み込んでくれるようで。だが、それがまた、私の怒りの原因にもなる。

「知ったような口聞かないでよ!」

 どうせあんたみたいな人間には、私の苦労なんか分からないんだから。私の屈辱なんか、知る良しもないんだから。

「私の苦しみなんて、誰も理解できるはずがないっ!」

 もう限界だった。心も、体も、漂う空気感も。

「……ッ!本当に、すまない。全部、私のせいなのだ」

 お願いだから肯定しないで。少しは抵抗してよ。羅衣源の何もかもを受け入れる姿勢が、私の感情をさらに暴走させた。

(あなたが謝らないで。あなたのせいじゃないことは知っているから。だから、私を否定してこの高ぶりを止めてよ)
 
 自分だって、いや、むしろ自分に悪いところがあるのは理解しているはずなのに、受け止めてくれる人間がいると、どうしてもそっちに想いをぶつけたくなってしまう。

 そして、その相手は頭を下げたままだった。

(もう、無理)

 私の中で何かが割れた音がした。いや、正確にはヒビが入った。脆いガラスに足を投げつけられたみたいに。

(心が耐えられない……ッ!)

「もう、私に、構わないでっ!」

 精神の崩壊を感じた私は、そんな言葉を吐いて走り出す。

「あっ、待て……」

 羅衣源が止めようとするが、私はその手をすり抜けて部屋を飛び出した。そのまま、廊下を走り渡る。

 私が走り去った場所には、幾つもの透明な滴が落ちていた。私は涙でぐちゃぐちゃだった。溜め込んでいた思いが涙という形で放出され、絶え間なく溢れてくる。

 長い長い廊下には、たくさんの人たちが行き交っていた。彼らは泣きくじゃる私の姿を見るたび、驚きの声を上げていく。

「お、お前はなんだ!」
「侵入者か?」
「痛っ。気をつけてよ!」

 時折通りすがりの女中や役人とぶつかりながらもなお、私は走った。すみません、の一言さえ口からは出てこなかった。そして、途中でさっきも見た顔が視界に映る。

「し、抄華様……?」

 凛音だ。真っ白な布団を手に、目を見開いている彼女の姿を捉える。

「……っ!」

 そんな彼女の横を、私は風を切って通り過ぎた。

「しょ、抄華様!お待ち下さい!」

 背後から凛音の叫ぶ声が飛んでくる。焦った彼女の声が、私の耳にへばりつく。

 お願いだから、もう、私に構わないで。私は目頭を腕で押さえて、視界を狭める。視野が暗くなる。何も見たくない、何も聞きたくない。

 そのまま、私は寝殿から飛び降りるように出て、広大な庭を突っ切り、屋敷から逃走した。

 後ろは相変わらず騒がしい。でも、それも私には関係なくなる。

 これでいいんだ。と、自分に言い聞かせる。私はどんどん屋敷から離れていく。というりかは、羅衣源から離れるために逃げる。

 あいつは、私の人生を奪ったやつだから。あんなやつと、もう二度と会いたくない。

 私は涙を流したまま、もっと遠くへと足を進めていった。

 もう、屋敷の声は何も聞こえない。

 
「……ひっく……ううっ」

 見慣れた街の中を、私は泣きながら歩いていた。辺りには、まばらに居座る人々。何処からともなく香る食べ物の匂い。歌っているのか話しているのか分からない音の連続。

 全てがいつも通りだった。活気まで戻ってきているとは言わずとも、それは日常で見かける街の風景で間違いない。その中で私だけが、普段とあまりにもは違っていた。

「ふぅぅ……ひっく……」

 こぼれ落ちそうな涙と鼻水を抑制するのが精一杯で、とても表情や身なりに気がいかない。ずっと走っていた足は重いし、目は熱いし、体には疲労が溜まっている。走りっぱなしでは疲れたから、帝の屋敷から十分離れだ場所からは歩き始めた。

 目を擦るたびに手の甲が冷たい水で濡れていく。でも、不思議と手は熱い。まるで火を灯したようだ。それに、体の芯も。燃えるように発熱している。

 何より、心の中には感情の炎が燃え盛っていた。悲しみ、憎しみ、怒り。どれもこれも、自分と、あの羅衣源に向けての感情だった。

「…うぐっ……ふぅっ……」

 ようやく涙が収まってくる。目の熱が引いていく。脳内に、屋敷での出来事が蘇る。

『やはりお前は私の(つがい)だ』

 納得した表情で、しかし何処か曇った顔で羅衣源が言った言葉。

『運命人になると、帝以外の夫を持てなくなる人生になるのだ』

 視線を床に向け、悲しみを宿した表情で告げる羅衣源。

(そんな運命知らないよ。私の人生が、そんなものによって決まっていただなんて)

 私は濡れた自身の両手を眺める。白くて、細くて、力を加えればすぐに折れそうなほど脆い手。

 こんな手に、そんな重りが乗っているなんて信じられない。そもそも、考えられすらしない。酷い、あまりにも酷すぎる。残酷だ。

 私は目の前に出していた両手を胸に当て、はぁっと深く息をつく。心の中の悪いものを吐き出すように。そして、自分を恨んだ。

(なんで私が、運命人になんてなってしまったの?)

 私はただ、男性と縁を結べればそれでいいのに。家柄も、財産も、感情も、特別なものは何も求めない。ただ、家族という組織に入れてもらえればそれで良かったのに。

 帝と縁を結ぶだなんて、そんなこと、望んでない。願ってもない。そんな役目、他のお洒落な女達に渡せばいい。自分の境遇の悪さにつくづく呆れる。

「私って、運がないな……」

 そんな自分が大嫌いだ。こんな私、消えてしまえばいいのに。惨めさと、怒りを携えながら、ただ足が動くままに歩く。

「よう、ちょっといいかい」

 耳に残りやすい、危険な香りを漂わせる声が、背後から飛んできた。私はピタリと足を止め、踵を軸にゆっくりと振り返った。

「すまんなぁ、急に引き止めて」

 そこには、3人組の男がいた。男、とは言っても(よわい)は四十そこそこと見える。おじさん、と言った方が正しいかもしれない。

「な……ん……」

 声を出そうにも、やはり出なかった。羅衣源を相手にしている時のようには喋れない。

 代わりに彼らを睨みつけた。もちろん相手は初対面。何が目的で声をかけてきたのか、見当もつかない。何が起こるのか分からない中、とりあえず覚悟して彼らと向き合う。

 すると。

「ほう。そいつが噂の帝の(つがい)かい?」

 男達の背後から女性の声が飛んでくる。低く、それでいて色気のある、高圧的な声。

「えっ……」

 私は本気で驚いて、視線を彼らの後ろに向ける。

 そこには、濃い化粧と派手な着物、簪で着飾った女が3人、腕を組んで立っていた。しかし、貴族の娘のように高貴な雰囲気はなく、豪華なものを身につけた、と言ったほうが合う。

「そうだ、こいつだ。間違いねぇ」

 真ん中の男は振り向いてその女の人に言う。

「ふーん」

 女たちは私をジロジロと舐めるように見つめた。細長く鋭い目つきは、まるで狐のようだ、とも思える。射すくめるような視線に、私はなぜか緊張し、体が強張った。

(この人達の瞳、異様なほど鋭くて何だか怖い……)

「こんな女が、帝に、か……」
 
 唐突に女の人が呟いた言葉に、私は度肝を抜かれた。

(何で……何で私が帝といたことを知ってるの!?)

 話していたところを見られたのかもしれない。でも、周囲に人はいなかったはず。それは、抱き抱えられていた時も。その上、羅衣源は傘を被っていた。私でさえ、傘を取るまでその状態に気が付かなかったほど。ならば、この人たちは何を根拠に私が羅衣源といたことを知ったのだろう。

 そう不思議に思っていると、女の1人が私に迫ってきた。

「あ、え、えっと……」

 とてつもない圧をかけてくる彼女達に、私は気圧される。これだったら男の方がまだマシかもしれない。

「お前、帝といたらしいねぇ」
「何、故……?」

 声を絞り出して私が恐る恐る尋ねると、女はふっと笑みを浮かべて、顎を後ろにしゃくった。

「あいつらが教えてくれたんだよ。帝がお前と一緒にいたって。傘を被った男だろ?」
「な……んで……っ!?」
「なに、あいつらは帝一族の仕来たりやら儀式やらにちょいと詳しくてね。帝は自ら道中には出ない。代わりに、街で(つがい)を探す、とね」
「だから帝らしき人物を見張ってもらったわけ。で、傘の男とあんたの姿を見つけたらすぐ報告してくれたの」

 ペラペラと喋り出す彼女たち。しかし、偽りを口にしているわけではなさそうだった。
 
「それで、貴方は本当に(つがい)になったのかしら?」

 真ん中の女が、顔をぐいっと引き寄せて尋ねてくる。美人に詰め寄られると、凄まじい威圧感を感じてしまうのは言うまでもない。

「あ、の、いや……」

 何か言おうとしたのに、喉が詰まって言葉が出ない。これは体質ではなく、ただ恐怖と威圧で声が出ないだけ。
 
 目の前の女はこれでもかと言うぐらい大きく見開いており、その中にみすぼらしい私が映っている。彼女らの瞳には、嫉妬、怒り、憎悪といった負の感情が渦巻いていた。

 どうしてこの人は、そんなにも帝の(つがい)になりたいのか。それに対する執着も嫉妬も、私には全く理解できない。

(あなたは沢山の男達に愛されているんでしょう?ならそれでいいじゃない)

 しかしやはり、彼女の欲は凄まじかった。愛される人ほど、願望は強くなるものだ。手に入るものが多ければ多いほど、人は次第に満足できなくなり、その先に手を伸ばす。

「私はね、誰よりも幸福な人生を送りたいの」

 彼女は私に、囁くように言う。恐らく、背後の女達に聞こえないように声をひそめているのだろう。あくまで他の二人も敵、というわけか。

「そのためには、誰もが羨ましがるようなものを手に入れなければいけない」

 だから、と女の人は怪しげで何処か悍ましい笑顔を作る。

「最高の位である、帝の(つがい)の座が欲しいのよ。なんとしても、ね」

 彼女は私から顔を離して、今度は他の2人にも聞こえるように言葉を発する。

「帝の(つがい)という最高の位が、お前みたいな人間に奪われてたまるものですか」

 彼女の後ろの女は、振袖を口元に当ててくすくすと笑う。私を、馬鹿にしたような表情で。それから、口を揃えて言った。

「お前を帝のお側に置かせるわけにはいかないのよ」

 ドスの効かせた声色で、人差し指と共に、その言葉を私に刺す。

(それ程までに、この人達は本気なんだ。本気で(つがい)に選ばれたいんだ)
 
 でも、だったらこの人達が運命人になれば良かった。私は心の中で悪態をついた。そして、すっと息を吸ってから、彼女達を見上げる。

「私は……(つがい)なんかじゃ、ない……」
「……はぁ?」

 彼女達は目を細めて苛立たしそうに声を漏らす。

「そんなわけないでしょ。あの男達が見たって言うんだもの」

 真ん中の女が私を睨みつけて言った。

 そんな凄みをつけて睨まないでほしい。元より、私は(つがい)ではないと言ってるのだから。

(あなた達はそれを聞いて喜ぶべきじゃない)

 しかし、次の瞬間、彼女がそう言った理由が明らかになる。

「お前、嘘をついて帝を奪う気なの?」
「そんなずるいこと、私たちが見逃すわけないでしょう」
「白状しなさい」

 なるほど、と1人納得する。つまりは私の言葉すら疑われてたというわけだ。

「嘘では、ない、です」

 確かに、誘われたりはしたけど。私は慎重に、彼女達を安心させる言葉を選ぶ。

「……断りました」
「はあっ?」
「断った?」

 少し後ろに立つ2人の女がありえないと言った口調でとっかかってくる。それを、前の女が手で静止した。そして、一度目を瞑った後、再び開けた瞳を私に向ける。

「それは何故?」

 女が試すような口調で訊いてくる。

(本当は分かってるくせに)

 だって、彼女の口角の端が、僅かながらにも吊り上がっているから。それに、私を一目見た途端で思ったのだろう。この女はあり得ない、と。

「私には、合わないから……」

 こんな私が、帝に選ばれる訳がない。それに、もし仮にでも(つがい)になったとしても周りに迷惑をかけるだけだし。私は(つがい)に相応しくない。帝の妻としての役割は果たせないだろう。

「だから、無理……」
「……それは事実か?」

 またも、1人の女が顔を覗き込んでくる。私は視線を合わせないよう下を向いた。そのまま、声を出さずにコクンと首を縦に振る。

「そうかそうか。……ふふっ」

 私の態度でそれが偽りではないと分かったからか、彼女は言葉の最後に喜色の笑い声を含めた。女の人達はそれぞれで喜びの声を上げる。

「ああ、ああ、そうなのね!これで帝の(つがい)になれる希望が見えたわ」
「私だって(つがい)になれるのね」
「帝の隣の座、私が取ってやるわ」

 さっきまで睨んだ表情しか見てこなかった女達が、突然笑顔で騒ぎ出すと、別の意味で恐ろしい。

「ああ、お前はもういいよ」

 情報を聞き出して用無しとなった私は、彼女たちに邪険に話の輪から追い出された。それを見かねた男達は声をかける。

「そいつ、もういらないか?なら、俺たちが貰うよ」
「ああ、いいさ。好きにしな」

 勝手な会話の成立により、私は男達に囲まれる。

「お前さぁ、拐かわされたんだろ?」
「……っ!?」
「そんな驚くなよ。俺たちからはなんでもお見通しなんだ」

 男は意味深に嗤った。

 あの女たちといい、彼らといい、一体何者なのだろう。私と一緒にいた人を帝と見抜いたり、私が今朝誘拐事件に巻き込まれたことを知っていたり。
  
 どうであれ、危険な人物には変わりなかった。正直、今すぐにでもここから逃げ出したい。だが、私を囲む3人は隙も何もなかった。

「しかもあやかしに。と言うことは、お前は神力を持っているわけだ」
「……」
「珍しいなぁ、人間の神力持ちなんて、滅多に出会えない。そりゃ、帝も喉から手が出るほど欲しくなるはすだよ」
「えっ……?」

 神力を持つから帝が欲しくなる、とはどう言う意味だろう。驚く私に、男はニヤリと怪しげな笑みを見せる。

「知らなかったのか?まぁ知る意味もないだろう。帝はな、神力を欲しがってんだよ」
「しん……りょく……っを?」
「ああ。だから自ら街に赴く。神力の強さ、清らかさは心の美しさだからな。帝がその目で(つがい)に相応しい女を見つけるわけだよ」
「そん……な……」

(じゃあ、羅衣源が私を(つがい)にしようとしたのは、神力目当て……?)

 それならば納得がいく。こんな見窄(みすぼ)らしい自分を、帝が愛してくれるなんて夢物語、早々に叶うはずがないのだから。

 運命人というのも、結局は帝に利用される運命なのだろう。きっと羅衣源は、愛なんかより神力という常人的な力に惹かれて私を見つけた訳だ。

「帝はお前の神力を使って力を得ようとしているだけなんだよ」
「……」

 男たちの言葉に頭がくらくらする。でも、そうなのかもしれない。いや、そうとしかあり得ない。
 
「でもよぉ、俺らだったらお前をちゃんと愛してやれるぜ」
「えっ……?」
「俺らなら、お前を力が目当てで縁結びなんざしない。お前を一人の女として見てやれる」
「ほ……んと……う……?」

 男たちが不気味に嗤っている時点で怪しいと思うべきだろう。だが、私の心は深く抉られていた。そのどうしようもない痛みは、自分を自分として扱ってくれる人を欲していたのかもしれない。

 だから、ふらふらと男の方に歩み寄っていた。

「さぁ、俺らと来いよ」

 そう言って、男は手を差し伸べる。それは甘美な誘惑で、私は虚ろなままその手を取ろうとした。

 しかし、優しい手が、私の肩を強く後方に引いた。

「えっ……」

 華奢で、それでいて頼り甲斐のある手が私の体をそっと包み、背中に柔らかいものを当てる。

(この温もり、この匂い、間違いない……!)

 気づいたら、私は羅衣源の腕の中にいた。

 男達が一斉に目を見開く。

「おまっ、いや、あなた様は帝の……!」
「羅衣源だ。私の(つがい)によくも手を出したな」

 怒りを瞳に灯した羅衣原が、そこにはいた。炎を奥深くに携えた表情の彼をそっと見上げる。

(何故、あなたはここにいるの?)

 私は屋敷から逃げてきたのに。あなたに、酷い言葉を沢山浴びせて逃げたのに。彼の心情が全く理解できなかった。

 いや、それよりも。

 荒い呼吸、汗ばんだ首筋、乱れた髪。明らかに、ゆったりと街の空気に触れていたわけではないことが読み取れる姿にも、疑問が膨らむ。

 もしかしたら、ここまで走ってきたのかもしれない。屋敷から飛び出した私を追いかけるために。ありえないけど、彼の状態がそれを物語っている。

 私は無意識に羅衣原の腕をぎゅっと握っていた。それに気づいたのか、彼は一瞬、私と目を合わせ、そして微笑む。羅衣源はもう一度男達を睨むと、厳しい口調で言った。

「何をしようとした」
「いやっ、特段、何も……ただ少し、その女が気になったまでで……」
「いいか。もう二度と、私の(つがい)に手を出すな。許すのは今回きりだ。次はもうないと思え」
「しっ、承知しました!」

 彼らは帝である羅衣源に頭を下げ、忠誠を誓う。そんな彼らの姿を、羅衣源は静かな瞳で見下ろした後、私を抱き寄せたまま踵を返した。

「行くぞ」

 彼は耳元で囁く。そしてゆっくりと元来た道を歩き始めた。

「お、お待ち下さい、帝様!」

 儚い声が、羅衣源を呼び止める。彼が振り返った先にいたのは、あの女達だ。私に向けた表情とはまるで違う。美しくありながら藁にもすがるような上目遣いで羅衣源を見つめている。それは、乙女そのものだった。

「どういうことですか?」
「と、言うと?」

 彼女は困惑した表情で彼を見つめる。

「何故、その女を連れていくのです?」
「こいつは、私の(つがい)だからだ」
「ですが、彼女自身が断ったと言っていたのですよ……?」

 女達は、質問を羅衣源に投げかけつつ、視線は私に向けて睨んでいた。話が違う、と言いたげな瞳で。私はまたも俯き、そして焦る。原因は、二つあった。

 一つは、女達に嘘をついたと思われていること。もう一つは、羅衣源の反応。私が(つがい)にはならないと聞いて、羅衣源はどう思うだろう。断ってはいるが、羅衣源はまだ諦めていない。それなのに、私が女達に言った言葉を知ったら怒るだろうか。

 そこで私は、はたと首を傾げる。

(何で私、こんなにも羅衣源のことを気にしているんだろう?)

 嫌われたり、叱られたなら、それはそれでいいじゃないか。だって、そうすれば(つがい)に選ばれることもない。私にとって、それはいいことのはず。なら、胸の内から湧き上がるこの感情は何だろう。

「そうか……」

 羅衣源は目を閉じて、静かに頷いていた。私は緊張した面持ちで彼の顔を見る。

「だが」

 キッと羅衣源は鋭い視線、そして怖いぐらい美しい笑みを見せた。朝露が垂れる美しい花と、鋭く尖ったつららを思わせる、そんな表情。

 羅衣源の顔を見た一同はひっと息を呑む。怯えた様子の彼ら彼女らに羅衣源は告げた。

「こいつが何と言おうと、こいつは、抄華は私の(つがい)だ。それは大昔から決まっていて、また、私の心もすでに抄華のもの」

 羅衣源は私を抱く力を強める。体を包む暖かさに、私の胸はドクンと脈打った。

「だから、こいつは誰にも渡さないし、私も誰か他の人間のものになる気はない」

 羅衣源の声は、透き通るように、しかし力強く私達の耳に届いた。

「……」

 周囲の人間は皆、彼の言葉に声を出すことができない。私を含め、誰もが沈黙を作っていると、羅衣源はその空気を消すように「それでは」と、さっきとは声色を変えて出た。

「私は抄華と共に、これで失礼するよ」

 えっ、私も、と驚く暇もなく、羅衣源に体を強く引かれたまま連れていかれる。

「あの、あれで大丈夫なの?」
「ああ、心配ないだろう。彼らの問いにもしっかりと答えたからな」

 そういう訳じゃないのに。私は恐る恐る後ろを見た。

「ひっ!」

 私は小さな叫び声をあげる。

(ヤバい、完全に睨まれてる)

 私の視界の先には、私と羅衣源を、特に私を恨めしそうに見つめる女達が立っていた。彼女達の視線がグサグサと刺さってきて、正直全身が痛い。

「ら、羅衣原、睨まれてるっ……」

 私はそっと告げた。が、羅衣源は何ともない様子で答える。

「だからなんだ?別に何かしてくる訳じゃなかろう」

 こんなにも私は焦っているのに、彼は涼しい表情で前を見据えている。

 そんな羅衣源には、雲一つない晴天と真夏の太陽がよく似合っていた。余裕の笑みを浮かべる彼を見ていると、何だかこっちまでその余裕っぷりがうつる。

 私はふっと顔の力を抜いて、前を見た。相変わらず、背中には尖った気配が纏わりついている。でも、さっきよりはマシになったかも。

 私と羅衣源は身を寄せ合いながら、変わらず静かな街並みを歩いた。
「……」
「……」

 無音を乗せた空気が、私達を取り巻いている。誰も何も入れないその空間こそ、私と羅衣源だけの、二人だけの世界。
 
 お互いに一言も言葉を交えず、ただ散歩を続ける。作られた砂利道を、ゆっくりと。しかし、決して二人きりというのが気まずいわけではない。ただ単にこの静かな二人だけの空間を味わいたいから。少なくとも、私はそう思っていた。

 帝がこんな真っ昼間に街を通って、庶民にバレたらどうするのだろう。なんて始めは心配した。しかし、ここは人通りの少ない道。現に今も、人影は見かけないから大丈夫だろう。

 それをいいことに、私は羅衣源と軽く手を繋いでいる。側から見れば、普通の夫婦に見えているかもしれない。
 
(なんだか、今朝の出会った時に戻ったみたい)

 でも、今朝とはっきり違うところがある。あの時は気まずかったこの沈黙は、今ならば心安らぐ、落ち着ける空気となった。

「……ねぇ、羅衣源」

 私は意を決してその沈黙を破った。自分から話しかけるなんて珍しい、と自分自身に驚く。

「なんだ?」

 彼は歩みながら整った顔を私に見せた。今も変わらずに綺麗な顔。意識しないと見惚れてしまう。夏、それも夜という時間帯が一番似合いそうなその表情を見つめながら、私は頭の中を整理する。

 私はどうしても知りたかった。理由を訊きたかった。

「なんで、私を追いかけてきたの?」

 何故こんな私のために走ってきてくれたのか。何故こんな私を助けてくれたのか。私には、どうしても理解できなかった。

 だが、彼はあっけらかんとした表情で「なんだ、そんなことか」と呟く。

「抄華が急に屋敷を飛び出していってしまったから、慌てたのだ」
「でも、連れ戻すなら使いでも送ればよかったじゃない」
「他人に任せられるようなことではない。お前は大切な存在だ。だから、この手で見つけ出したかったに決まっているだろう」
「……それは、私が(つがい)だからということ?」

 確かに、(つがい)は彼にとって、大切な存在であることは間違いない。それならば彼自身が探しに行くというのも頷ける。でも、それは運命によって定められたものであり、羅衣原自身が決めたものではないのだ。
 
「さっきの男たちに聞いたんだけど……帝は神力を欲しがるんだって?」
「……ああ」
「つまり、あなたは神力があると理由で私を選んだの?」

 だって、そうでなければ強大な侵略を持って生まれる運命人を探す意味にも頷ける。
 
「あなたは、私の運命人という神力を目当てで(つがい)として求めてるの……?」
「……神力目当て、という理由も、全く持って無いわけではない。だが……」

 そこまで言って、羅衣源は瞳を細めて、風に(なび)く私の髪をそっと掬った。

「私は、抄華、お前という存在自体が大切だと思ってる」

 彼は愛おしそうな表情で、私の髪をすーうっと撫でて、腰に落とす。彼が触れた髪が、パサっと私の頬を撫でた。彼の手つきは優しく、暖かく、心にじんわりと広がっていくような温もりがあった。

「私は抄華という人間を愛しているのだ。嘘ではない。これだけは、信じてくれ」
「……っ!じゃあ、もし私が神力が無かったら……?」
「それでも、お前は私の(つがい)には変わりない」

 彼の言葉に、私は声が出なかった。喉と目頭が燃えるように熱くなる。てっきり、私が運命人だから助けたのかと思っていた。でも、この人は違った。ちゃんと、私という個体を見てくれている。私という存在を理解してくれている。

 その事実が何よりも嬉しく、胸の底から温かな感情が湧き出してきた。

「そっ、かぁ……」

 視界がぼやける。目の前の景色が、水に溶かしたように滲む。私の瞳から、一滴の滴が溢れた。それは日光を反射しながら、羅衣原の腕にポトリと落ちる。彼は腕の水滴を見てから、私の背中をそっとさすった。

「すまなかった。私のせいでまた、抄華に迷惑をかけてしまったな」
「……ううん、そんなことない」

 私は手の甲で目を押さえながら微笑みを浮かべた。

「嬉しかった。あなたが来てくれて、すごく嬉しかった……っ!」

 自分自身が不思議だと思う。ついさっきまで恨んでいた相手に、感謝するなんて。でも、今の私は自分の心に正直でありたかった。

「羅衣源が来て、私はすごく救われた」

 だから、と涙で濡らした顔を上げる。太陽の光が目に当たって、彼の顔がぼやける。

「私こそ、ありがとう」

 多分、今の私は満面の笑みだ。それを証明するかのように、羅衣源は頰を赤く染め、少し照れたように口元を隠す。

「い、いや……。その、良かった」

 彼の戸惑っている表情を見るのは初めてで、私は思わず吹き出した。

「あはは、顔赤くなってる」

 指摘を受けた羅衣源はますます林檎に近い色になる。

「こ、これはっ、その、嬉しいからだ」

 羅衣源は目線を外してモゴモゴと喋った。そして、自信を落ち着けるように何度か深呼吸をしてから、元の冷静な雰囲気に戻る。

「とにかく、抄華の役に立てて良かった」

 その言い方がくすぐったくて、私はドキドキする。俯いて、でもまたお礼が言いたくなる。

「ほんとに、ありがとう……」

 先ほどよりは小さな声でも、羅衣源にはしっかりと届いたようだった。

「ああ」

 そして、羅衣源は私を抱き寄せる。今度は真正面から、胸の中に。

 私はされるがまま、彼の胸の中に顔を埋めた。爽やかで、それでいて優しい匂い。ほんわりとした熱を帯びる体。一定のリズムで音を立てる心臓。

 私は感覚を研ぎ澄まして、彼の全てに意識を傾けた。羅衣源もまた、痛くない程度の強い力で私を抱きしめる。

「私は抄華を心から愛してる」
「うん……」

 しばらく、無音の空間が続いた。でも、それは決して気まずいわけではない。むしろ、お互いを感じられる特別な時間。

 僅か数秒間が、とてつもなく長い時間に感じられた。

「なぁ、抄華」

 頭上で羅衣源が言う。

「何?」

 私はそのままの体勢で返事をした。

「少し、私と一緒に街の中心へ行かないか?」
「街へ……?」
「ああ、少し、お前と歩きたいと思ってな」

 私は彼から離れて、その誘いに首を傾げる。突然どうしたのだろう。

「それに、少しばかり、行きたい場所があるんだが、構わんか?」
「いい、けれども、街はきっと何もやってないよ。帝の、あなたの道中があったから」

 特に、店を構えている女たちは留守のはず。だが、羅衣源は心配いらないと首を横に振った。

「道中はすでに終わっている。だから、街のみんなも戻ってきているはずだ」
「そう?ならまぁ、いいけど……。まさかその格好で行くわけではないよね?」

 顔をさらけ出して歩きなんかしたら、街中大騒ぎになるに決まってる。

 私は不安になりながら尋ねた。すると、彼は案の定、笑いながら首を横に振る。

「いくらなんでもそんなことはしないさ。しっかりと忍んで行くぞ」

 それを聞いて、私はほっと胸を撫で下ろした。が、次の瞬間、その心配がまた膨らむ。

「忍んでって、どうするの?」

 今の彼は何も持っていない。それでどうやって顔を隠していくと言うのか。

 私の考えを読んだのか、羅衣源は安心させるように言った。

「心配はいらん。そのための用意を、丁度さっき頼んだところだ」
「……?」

(頼んだって、誰に?しかも何の用意なの?)

 そう疑問を思っていた時。

「ようやく見つけましたぁー!」

 遠くから、よく通る大声が聞こえてきた。続いて、細かい砂の上を早足で駆ける足音も。

「えっ?」

 私が目を丸くすると、羅衣源は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「来たな」

 呟いて、右の脇道に視線を移した。私も彼に釣られてそちらを見る。

 道の遠く先に、とてつもない速さで進む人影があった。何て言ったって、その影の背後には凄まじい砂埃が立っているんだもの。

 豆粒ほどであったその影は、一瞬にして顔や姿がはっきり見えるようになる。

 その正体は、柿色の朝服を着た青年だった。茶色がかったサラサラの髪を左右に揺らし、細い腕を振りながら走ってきたその人は、私たちの目の前に来ると、立ち止まって膝に手を置いた。

「はぁ……はぁ……はぁ……」
「あ、あのー……」

 大丈夫かな、と心配しながら見ていると、羅衣源が呆れた笑顔でその人に言った。

千魏(せんぎ)、そこまで急がなくても大丈夫だったんだが……」
「いえ!」

 千魏と呼ばれたその人は汗だらけの顔を上げてニッコリと笑う。

「羅衣源様のご依頼ですので、遅れるわけにはいけません!」

 何の屈託もない千魏の表情に、羅衣源は肩の力を抜いた。はぁっ、と笑いながらため息を吐く。

「……全く」
「ははは」

 疲れた様子で笑う青年と、呆れた表情で笑う帝。対照的な二人の様子が、何だか微笑ましく、私は思わず吹き出した。

「ふふふっ」

 口元を押さえて声を出した私に、二人は注目する。不思議そうな瞳に見つめられて、私は笑いを堪えようとする。

「い、いや……その、すみません。お二人、仲が良いんですね」

 言われた二人は、顔を見合わせて、そして笑顔の花を咲かせた。

「まぁ、昔からの付き合いだからな」
「そうですね。15年ほどでしょうか?」
「そうだったな」

 羅衣源は目を細める。遠い昔の思い出を眺めるように。

 その姿に、私は改めて二人の付き合いの長さを感じた。

「でもまさか、こんないきなり女性を連れてくるなんて。かと思えば自分の(つがい)だって聞いたもんですから、目玉が飛び出るかと思いましたよ」
「そこまで驚くことではなかろう。お告げもあったし、いずれ見つける者だったのだから」
「いやー、そうは言われましてもね。羅衣源様が女性に興味を持つなんてことはさらさらにない……」
「あー、そこまでにしてもらおうか」
「あっ、もしかして照れているんですか?羅衣源様もようやくその年相応の男になりましたね」
「だから黙れと言っているだろう」

 軽口を叩き合う二人は、仲の良い兄弟のように見えた。身分の差なんて感じさせない接し方。おそらく、幼いからからずっと一緒だったせいだろう。

 羅衣源がこんな風に誰かと話すところは想像できなかったもんだから、私は面食らった。

 しばらく千魏と笑い合っていた羅衣源は、私の視線をに気づいたのか、こちらを向いてから「ああ」と何かを思い出すように言った。

「こいつは千魏。私の部下だ」
「どうぞよろしくお願いいたします」

 紹介された千魏は深々と頭を下げる。太陽に晒されてさらに色が薄くなったが茶髪がさらりと下に垂れる。顔を上げた千魏は、よく見ると整った顔立ちをしていた。

(なんだろう、羅衣源とはまた違ったタイプの人みたい)

 男前でカッコいい羅衣源に対し、千魏は可愛い系な感じがする。

「確か、あなた様が羅衣源様の(つがい)ですよね?」

 何処か楽しむように問われ、私は答えに口籠る。

「そうだ、抄華は私の(つがい)だ」

 代わりに答えてくれたのは羅衣源だった。彼は私の肩を寄せて千魏に言う。そして次は、右手を出して千魏を指した。

「そして抄華、この千魏は、帝の道中に、私の代わりに出た者だ」
「ええっ!」

 唐突な告白に、私は驚きのあまり声を上げた。

 対して千魏は照れたように頭を掻く。

「いやぁー、お恥ずかしいですが、籠に乗っていたのは紛れもない僕ですね」
「は、はぁ……」

 確かに、よく見ると口元や肌の色が道中で見た人とそっくりだ。ということは、帝だと思っていた女達が実際に声をかけていたのはこの青年だったわけか。

 事実を知った今、あの時の光景を思い出すと少し面白かった。あんなにも熱がこもっていた叫びの言葉を聞いていたのが、全くの別人だったなんて。

「羅衣源様ではなくて、がっかりしたでしょ?」

 千魏は笑顔を浮かべながら尋ねてくる。ここは本来、自分も悲しむべき場面だと思うが、千魏は全く持って気にしていないようだ。

「そうですね、驚きました」

 私は素直な意見を述べ、でも、と千魏をマジマジと眺める。羅衣源ほどには及ばなくても、十分に女性に好かれる人だと思う。普通に街を歩いていたら、女達に声をかけられる姿が目に見えてくる。

「あなたでも、嬉しい人は嬉しいと思いますよ」

 純粋にそう思ったから、言葉にした。ただそれだけ。

 しかし、千魏は思った以上に顔を赤くして、目を見開き、照れた様子を露わにした。

「あ、ありがとうございます……」

 顔の下半分を押さえたまま、そくさくと後ろに下がった。

(……なにか悪いこと言ったかな?)

 不思議に思っていると、嫉妬したのか暇だったのか、羅衣源が口を挟んできた。
 
「ところで千魏、例のものは持ってきてくれたんだろうな?」
「もちろんです!」

 千魏は顔色を元に戻し、背中に手を回して、何やら麦色のものを取り出す。

 それは、笠だった。先の尖った笠に、白く薄い布が付いている。私と羅衣源が出会った時、彼が被っていたやつだ。

「どうぞ」
「すまんな、助かる」

 羅衣源はそれを受け取り、被った。そして見えなくなった顔を私の方に向ける。

「どうだ、これで行けるだろう?」

 何の話、と思ったが、そう言えば街に行く話をしていたのを思い出した。

「え、あ、うん」

 頷くと、羅衣源も首を縦に振る。心なしか、嬉しそうな雰囲気だ。

「では、僕はこれで」

 私達のやりとりを見た後、千魏はそう言って去ってった。大量の砂埃を再び上げて。

 道の先が見えるようになった時、そこには真っ青な空しか見えなかった。

「では、行こうか」
「うん」

 姿を隠した羅衣源が私の前に腕を出す。私は自然な動きでその腕を取り、歩き始めた。

 人気が戻ってきた、賑やかな街へ向かって。


「本当に、賑やかさが戻ってる……!」
「だから言ったであろう?」

 今朝とは打って変わって人で賑わう街並みに、私は唖然とした。

 帝の道中が始まる前は人が皆生き絶えたように静まっていたのに、今ではそのことが嘘みたい。人が溢れ、音が溢れ、匂いが溢れている。これを賑わいと言わずして何と言うのだろう。

(なんて人が多いんだろう……。なんて賑やかなんだろう……)

 忘れかけていた街の姿が蘇り、思わず感嘆の言葉を並べていた。この活気こそが、この街で最も誇れるものだろう、と私は思う。

「いつまでぼーっとしているんだ?」

 はっと我に返ると、羅衣源の凛々しい表情が意外にも近くにあった。トクンと、胸は敏感に反応する。

「え、あ、ああっ、ごめん」

 心臓が高鳴ったのを知られないように、私は両手を振って謝る。その仕草がおかしかったのか、羅衣源はキョトンとした後、表情を崩して微笑んだ。

「そうか。では行こう」
「う、うん」

 私は羅衣源の腕に手を絡めて歩いた。こうした方が、ただの夫婦にしか見えないからいいだろう、と。

(まぁ確かに、私はいいとして羅衣源が怪しまれるのはまずいかもね)

 夫婦を装えば、珍しさなんて欠片もないから人が寄ってくることはまずないだろう。

 そんな思考を巡らせた私は、一周回って彼の腕を掴むことにした。

 異性の腕に捕まって、増してや人の多い街の中を歩くなんて。私は内心緊張で壊れそうだけど、羅衣源は何処か嬉しそうにしている。

(ああっもう、今だけだからね、多分)

 体中が熱を帯びている私の周りを、人々の声と食欲をそそる香りが包み込む。食器を売る性根逞しい女将さんの声や、揚げ餅の香ばしい匂いが飛び交っている。

 好奇心のままに目をキョロキョロと動かしながら、店に並ぶ商品を物色する。

 どれもこれも綺麗で、美味しそうで、心躍らせて、魅了されるような誘惑がとても多い。

 だが、そんな店のものには目もくれず、羅衣源はただひたすらに前を見ながら進んでいた。

 私は見えない彼の顔をじっと見つめた。彼は一体どこに行きたいんだろう、と疑問を抱きながら。

「ねぇ、羅衣源」

 私は声をひそめて彼を呼ぶ。

「ん、なんだ?」
「どこへ行く気なの?」

 私は尋ねてみた。が、羅衣源は口元を吊り上げて楽しそうに笑うだけだった。

「それは行ってからのお楽しみだ」
「えっ、教えてくれないの?」
「ああ、待っていろ」
「むー……」

 勿体ぶった彼の言い方に、私の好奇心はますますそそられる。私は胸がモヤモヤとしたまま、人の間を縫って道を進んでいった。

 彼の足は出店が立ち並ぶ道を通り過ぎ、ある一角で曲がる。

「えっ?」

 驚きが無意識に声となって現れていた。

(こっちは高級な店が立ち並ぶ道だったはず……)

 しかも、さっきのように道端に簡素な店を開いているのとは訳が違う、ちゃんとした建物を構えたお店。
 
 私のような庶民は滅多にお目にかかれない場所だ。現に、この通りを見たことは愚か、ここを曲がったことさえなかった。

 ぎゅっと、冷や汗で濡れた手をきつく握りしめた。私なんかがこんなところに来てしまって大丈夫なのだろうか。

 流石に様子がおかしいと思ったのか、羅衣源が声をかけてきてくれた。

「どうした、抄華。大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」

 即答する。もう心は破裂しそうなほどにバクバクとうるさかった。羅衣源に触れられる時とは違う動悸。これは完全に不安からの心臓の動きだった。

 こっちの鼓動の方が激しすぎて、手を繋ぐだけで心臓が壊れそうだったのが嘘みたい。

「だってここは、私のような庶民が来ていい場所ではないじゃない」
「最初も言ったが、来る場所に身分など関係ないのではないか?」
「あなただからそう言えるの。私なんかがこんなところに来ちゃっていいの?怒られない?」
「そんなに気を張ることはない。私もついている。力を入れることなく、堂々としていればいいさ」

 簡単に言うけど、私はそれが出来ないのに。
思わず突っ込みたくなるも、その気力さえ失せてきた。

 そんな私の頭を、羅衣源はぽんぽんと優しい手つきで撫でる。

「もうすぐそこさ」

 彼の優しげな声に、私の緊張も幾分か和らいだ。 

 再び手を繋ぎ、私と羅衣源は人気のない静寂が漂う道を進む。ただ静かなだけじゃない。何かこう、不思議な雰囲気がそこにはあった。うまく形容し難いけれども、普通の街とは違う何かが。

 にゃぁん。

 風が吹けば消え行ってしまいそうな声。猫が発するもの。それが、不意に耳に届いた。

(猫の鳴き声……?)

 私は辺りを見回す。すると、細い路地に入ろうとする尻尾を見つけた。猫、だと思った。しかし違う。私が知る姿とは少し異なっていた。

 何せ、焦茶色の細い尾が二つもあったのだから。

「あ、あれって……!」

 私は目を見開いた。いつか聞いたことがある。猫の見た目だけど、尾を二つ持った生き物がいると。それを、猫又というと。

「どうしたんだ?」

 私の奇行に気づいたのか、振り返った羅衣源が訝しげに眉をひそめる。

「い、今、猫又を見たような気がして……」
「猫又?」
「そう!あやかしの、あの……」
「ああ、この辺りではよく見るな」
「そうなの!?」

 あやかしをよく見る場所だなんて初めて聞いた。

「あやかしの世界と人間界の狭間の役割をすることもある。ここはそういう場所だからな」
「へぇ……」

 ただ高級感が溢れるばかりじゃなくて、そんな神聖さも持ち合わせるなんて。つくづく、自分がいる場所に慄いた。

「まあ、気にせず歩くと良い」
「分かった……」

 とは言いつつも、気にしないなんてできなそうだけど。

 黒塗りの柱が目立つ建物や綺麗な硝子が嵌め込まれている店の横を通り過ぎ、いよいよ羅衣源の目的地に辿り着く。

「ここだ」

 と羅衣源が言った先にあったのは、ハッキリとした朱色と金色に輝く入り口が眩しい建物だった。

 私の住む方では一切見ることができないほどの豪勢な造り。その眩しさは、思わず目を閉じたくなるほど。そのぐらい、輝かしいのだ。

 しかし、だ。そこは、ただ豪華で美しい見た目をしている、としか読み取れなかった。

「……ねぇ、ここってなんのお店なの?」

 料理の香りもしないし、糸車の音も聞こえないし、人の声も響いていない。強いていうならば、不思議な雰囲気と、魂がざわつくような気配が漂っているだけ。

 見た目だけでは、なんの店かは見当がつかなかった。

「何の、と問われると困るが……。物を売っている店ではない」
「……?」

 物を売っていないのならは、何を売っているのだろう。いや、そもそも何かを売っているお店ではないのかもしれない。

 物を売っているわけではない、と言われても選択肢はさほど絞られない。絵師や茶道教室のように、自身の才能を売る店も少なからずあるのだから。

 想像を膨らませるも、どれもこれもなんか違う気がする。顎に手を当て考え続ける私を、羅衣源は面白そうに見ていた。

「そんなに気になるか?」
「まあ、そうね。こんな場所にあるお店なんだもの。気にならないわけがないわ」
「中に入ってみれば分かるさ」

 そう言って、羅衣源は金箔が貼られた取手を握って、その扉を開けた。

「さあ、入ろう」

 彼は右手を扉の奥へ差し向ける。まるで、御付きの者みたい。

 帝の彼がそんな仕草をしているのに、私は吹き出した。

「ありがとう」

 表情とは裏腹に、恐る恐る足を進める。

 中は、薄暗かった。窓という窓がないため、外の光は一切差し込んでいない。そもそもこの建物の構造上、太陽の光を受け取る場所がないから当たり前か。

「どうした?」
「へっ?」
「ぼーっとしているから。大丈夫か?」

 戸を開けていた羅衣源も中に入り、私が立ち止まっていることに気づく。

「あ、ああ……不思議な場所だなって」
「だろうな」

 中に居る者も不思議だからな。そう羅衣源が呟いたのは気のせいだろうか。

「行くぞ」

 彼は同じことを言って、私の手を取る。私はされるがままに、彼について行った。

 ギギっと物体同士が擦れる音がしたかと思うと、バタンと派手に背後の扉が閉まる。唯一の光源さえも絶たれ、辺りは暗黒に包まれる。

 振り返らなくとも思ってしまう。閉じ込められたのではないか、と。

 もちろんそんなことはないはずなんだけど、こんな暗闇で勝手に扉が閉まったら不安が湧き上がるのは仕方ない。

 闇に閉ざされた私たちは、仄かな灯りが灯る廊下を頼りに進んでいった。僅かながらにも足元を見ることができるのが救いだった。

 歩いて歩いて歩いて、入り口さえも何処だか分からなくなってくる。長い、長い廊下。

 私と羅衣源はひたすらに歩む。もう、入ってきた場所どころか、背後の道さえ小さく見えなくなっていった。

「ねぇ、これ、何処まで続くの?」
「だいぶ長い。気楽に歩け」
「う、うん……」

 そう言われても、私の緊張は解けない。こんな暗く狭い道をずっと歩け、なんて正直気が滅入りそう。

 羅衣源と一緒じゃなかったから途方に暮れていたかもしれない。

 私は何の変わりもない羅衣源の歩幅に合わせて、何も考えずに足を動かして行った。

「わぁぁ」

 ようやく終止を告げた細い一本道。そこが途切れた瞬間、私達は広々とした空間に出る。道は赤い絨毯で続いていたが、周囲にある物が幻想的な世界を生み出していた。そう、まるで異国のような。

 炎の光の色を、水とガラスを使って変えている噴水。僅かなぼんぼりの明かりを受けてほんのりと光を帯びている大きな水晶。一本の茎が人間の背丈ほどまで伸び、大きな花びらを開かせている花々。

 滅多に見れないものだけあって、私の興味はそそられる。桃源郷にでも来てしまったように錯覚する。

 何もかもが美しい。それこそ、この薄暗い灯りさえも、物の長所を引き立てるために思えてきた。

「どうだ、気に入ったか」

 視線を彷徨わせる私に、羅衣源は尋ねる。

「ここのものは、全て異国から取り寄せたものとこの国にあるものを融合して作られたんだ」
「素敵……」

 言いたいことはもっとたくさんあるはずなのに、口から出てきたのはそんな一単語だけだった。代わりに、その一言に全ての想いを乗せる。

「ならば良かった」

 心の底から安心したように、羅衣源は胸を撫で下ろす。抄華が怖がったらどうしようかと思った。彼の独り言が偶然にも聞こえ、その優しさに胸を打たれる。

 私は自然と微笑んでいて、彼の体にピタッと自分の体を密着させた。さっきは少し不気味に思っていた館内も、慣れればお洒落な雰囲気の空間だと感じる。

 私達は不思議なオブジェの横をどんどん通り過ぎていき、建物の奥へと近づいて行った。

 やがて、他の部屋よりも一段と神々しく輝くところに着いた。とは言っても、やはり外ほど明るくはないが。

 天井には、たくさんの加工されたガラスが吊り下がっていて、所々に置いてある蝋燭の灯りを反射してキラキラとしている。
 
 部屋の中央の木製の板の上には四畳ほどの畳の間ができていて、私の腰くらいの高さまであった。畳の周辺には幾つもの水晶の玉が、台座に置かれて並んでいる。

 そして、その畳の上、円状に並ぶ水晶の中心には、あぐらをかいて目を瞑った男の人が座っていた。

 その人は首や腕に勾玉をふんだんに使った飾りを付け、朱色の着流しを着ている姿が妙に様になっていた。大昔の豪族と似たような姿だ。あるいは、時折見かけるまじない師か。

 私達が目の前にいるにも関わらず、その男は起きる様子がない。と、羅衣源が私の一歩前に出た。そのまま男に近寄っていき、声をかける。

「おい」
「……」
「おい、起きろ」
「……」
「おい、目を覚ませ!」

 少々荒っぽく、羅衣源はその人の肩を揺さぶる。

「起きろと言っているだろう!」
「……んなぁ、ああっ?」

 落ちていた瞼をゆっくりと上げて、その人の魂は覚醒された。

「何だ何だ?」

 眠い目を何度か擦りながら、その人は大きくあくびをする。

 そして、完全に起ききった瞳で私達を捉えた。先が吊り上がった目に、眉間に寄せられた皺、イカつい顔立ち。

 私は一歩後ずさる。なんだか、この人からものすごい威圧感が出ているのを魂が感じた。

 男は銀色の針のような視線を私に向ける。

「何だお前ら?」

 訝しげな表情で訊いてくるその人に、私はどう答えるべきか迷う。と言っても、多分今の私では声すら出ない。

 すると、羅衣源が頭の笠に手をかけた。

「私だ、羅衣源だ」

 そのままするりと笠を取り、顔を露わにする。涼しげで、誰が見ても美しいと思うその顔を。

 彼の咄嗟の行動に、私は慌てた。

「えっ、ちょっと、羅衣源!そんな気安く顔を曝け出していいの?」
「ああ、平気だ。それに、こいつは私の正体をすでに知っているからな」
「えっ……?」

 私が戸惑いに駆られている間に、男は羅衣源をまじまじと眺めた後、目を細めた。

「久しぶりだな」
「そうだな。とは言っても、ついこの間にやってきたと思うが」

 親しい口調で、羅衣源はその男に声をかけた。

 彼の表情も柔らかさと口調から、二人は知り合いなのかもしれない。だから顔を見せることも躊躇わなかった。そう、私は察した。

 対してその男も、表情ひとつ変えず、むしろ安心したように息をつくと、スッと音もなく立ち上がった。

 そして、背中を反らせながら片足でとんっと地面を蹴って、体を宙に浮かせる。彼の体が地面から離れる。その男性は空中で体を後方に捻り、一回転する。

 その瞬間、彼の体の形がぐにゃりと崩れた。
頭、胸、腰、足……と徐々に人間らしい形をこねくり回して別の姿へと変形していく。

 たった数秒の変化を、私は目を見開いて見物した。

 男の体が重力によって引かれ、すとんっと再び床に足がついた時、そこに人間はいなかった。いたのは、全体的に銀または白に近い毛、ふさふさの尾を9本も持つ狐だった。

「へ、き、狐!?」

 さっきまで怖そうな男の人の姿は面影も残さずに綺麗さっぱりと消え、代わりに現れた艶やかな毛並みと金色に見える瞳を持つ、高貴な狐。

 あまりの変化ぶりに、私は言葉が出ずに固まる。人間ではない生き物なんて、初めて見た。

 先ほどの男性の半分の高さになった狐を、まじまじと見つめる私に、羅衣源は説明してくれた。

「こいつはあやかしなのだ」
「あ、あやかし……!?」
「ああ」

 ーあやかしー
 今の日本国において、その名を知らない人などいないだろう。

 あやかしは、特殊な力を持った神聖なる生き物のこと。人間とは違う、どちらかというと神に近い領域のものと考えられている。

 その理由は、人間にはない特別な力を持っているから。それは古代より人々の救済に働きかけていて、世界の動きに関係するとも伝えられている。

 しかし、それ故にあまり姿を現さず、同じ世界にはいるがひっそりと暮らしていると言われていた。つまり、滅多にお目にかかれない。

 私は本物を見るのは初めてで、本当にいたんだ、と不思議な気持ちになる。この見た目、この雰囲気は、やはり他のどの生き物とも違っていた。

「こいつは我々一族と深い関わりがあってな。先祖代々、帝の(つがい)がいつ現れるのかを占ってもらっている」

 彼の言葉に、私は驚きを隠せるはずもなく口を手で覆う。

「抄華はあやかしとどのくらい会ったことがあるか?」
「一度もないわ」
「つまり、あやかしを見るのは初めてというわけか?」
「当たり前でしょう。いるかどうかさえ、私達は分からないのだから」

 当たり前のように尋ねてきた羅衣源に少しばかり呆れる。きっと、帝である彼は一族から代々あやかしの存在を聞いているのかもしれない。
 
 しかし、裕福ではない、むしろ貧しい私からすれば、そんなのおとぎ話だと思っていた。おそらく、庶民にとっては想像上の生き物になっているであろう。

「あやかしを、この目で見れるなんて……」
「ならば良かった。抄華にあやかしというものの存在を認識してもらえて」

 しかも、と、感嘆する私に羅衣原は耳打ちした。

「こいつは、あやかしの中でも『九尾』というあやかしだ」
「えっ……」

 嘘、と声を漏らしそうになり、慌てて再び口を押さえた。そうでもしないと、叫んでしまいそうだったから。

 尾が9本だから九尾。それは知っている。

 だから、この感情の高ぶりの原因はそれじゃあない。

「九尾って、あの、あやかしの中でも位の高い……?」
「そうだ」

 羅衣源の力強い頷きに、とうとう頭が沸騰しそうになる。

 九尾、位が高い。つまり、神にとても近い存在。

 あやかしが持つ特殊な力を、人間は神力と呼ぶ。そして、あやかしの中では神力が強い、つまり神に近い順に正一位から正十五位までの位がついている。
 
 正一位の上には神が、正十五位の下には人間がいる。そして九尾は、限りなく神に近い正三位の座にいるのだ。

 そんなにも神聖な生き物が、私の目の前にいるなんて。私の食い入るような視線を感じたのか、九尾は目線を床に向けて、はぁっとため息をついた。

「そんなにジロジロと見るな、視線が刺さる」
「あっ、すみません……」

 私はペコリと頭を下げながら謝罪をして、顔をプイと真横に向けた。その様子を見ていた羅衣源がお腹を抱えて笑い出す。

「いや、すまんな抄華。こいつはどうも恥ずかしがりでな」
「誰が恥ずかしがってる!気が散るだけだ」
「よく言うよな」
「黙れ人間が!俺をからかうな!」

 九尾は吊り目をさらに鋭く細めて羅衣源に威嚇した。でも、それは本気で怒っているわけではなくて、照れ隠しをしているよう。

 羅衣源もそれを分かっているのか、九尾に睨まれてもただ微笑んでいるだけだった。

「……それで、お前は一体何しに来たんだ?」

 ひと段落したのか、九尾は息を切らしながら話題を変える。

「ああ、そうだな」

 羅衣源も忘れていたことを思い出したような口調で手を叩いた。そして、背後を振り返って私を引き寄せる。

「わわっ!」

 足元が狂った私を、羅衣源の柔らかな体が受け止める。爽やかで優しい匂いがふわっと鼻をくすぐった。

「ちょ、何、羅衣源?」
「お前、女を連れてきたんだな」

 九尾が細い瞳で私を捉えた。自分の表面から奥深くまでを覗かれている気がして、背すじが粟立つ。

「こいつが私の(つがい)、抄華だ」

 いきなり引っ張られるや否、羅衣源は突然紹介を始める。

「ちよ、ちょっと……!」

 小声で訴えようとするも、もちろん彼には聞こえない。私なんて、あやかしに名を名乗る資格も視界に入れてもらう資格もない。そもそも、こんなみすぼらしい姿を九尾だって見たくないだろう。

 しかし、意外にも九尾は私をじっと見つめ、一言言った。

「知っている」

 それを聞いた私は、自分の耳を疑った。

(九尾のような神聖な生き物が、何で私なんかを知っているの?)

 私は恐怖と疑問を覚える。

 しかし、そこであっと思い出す。

 そういえば、さっき羅衣源が占いをして貰ったと言っていた。それで、九尾は私が(つがい)だということを知ったのかもしれない。それだと辻褄も合う。

 そして、現にそうだったらしい。羅衣源は今度、私を見て九尾の方を指した。

「抄華、さっきも言ったが、こいつは代々皇帝の(つがい)になる者を占っている」
「うん、言ってたね」
「そのためこいつは、帝の(つがい)がいつ現れるのか、どんな人間なのか、いつ会えるのかを視ることができる」

 流石はあやかし。占う内容も具体的で細かいな。

 それなら、占い方も何か特別なのかもしれない。そう思った私の心を読んだように、九尾は説明をしてくれた。

「別に特別なことはせん。この水晶玉に神力を加えて見たいものを見ているだけだ」

 九尾は白銀に近い真っ白な前足で、色とりどりの丸い石にポンっと触れる。

「それぞれの水晶玉には、それぞれ違うものが映る。幾重もの与えられた情報を読み解いて、そこから知りたいことを割り出す」
「こいつの占いのおかげで、私には運命人がいると分かった。それも、自身の近くに」

 羅衣源は不思議な色合いの光を放つ玉を眺めながら、しみじみと言った。

 私はふと疑問を浮かべる。

「近くに、と言うけれど、具体的な場所は知っていたの?」
「いや、そこまでは占えせんよ」

 九尾が首を振る。

「水晶玉は細かくて街、大きくて国でしか場所を示さない」
「だったら、どうして私があそこにいると?」
「ああ、それはこれのお陰だ」
 
 羅衣源は懐から何かを取り出し、手のひらを広げた。そこには、ちょこんとした可愛らしい薄紫色の花びらが乗っていた。

「これ、あの時の桔梗……」

 男達に絡まれそうになった時、私と男の間を桔梗が裂いて漂ってきた光景が脳裏に蘇る。あの後すぐに、羅衣源が現れたはず。

 彼の手に乗る花びらを見つめながら、私は記憶を辿っていく。

「よくこれが桔梗だと分かったな」

 突然耳に滑り込んできた羅衣源の声。えっ、と顔を上げると、目を見開いて私を直視する彼がいた。

「私は言われるまで、花かどうかすら分からなかったというのに」

 それを聞いて、私は思わず羅衣源を二度見してしまう。

(これが花だと分からない?)

 聞き間違いかと思ったが、彼の表情を見る限りは事実。何の花か分からないならまだしも、花という認識すらできなかったと言う事実には耳を疑う。

 あまりの驚きに言葉を失っていると、羅衣源の後ろからニヤリと口角を吊り上げた九尾が顔を覗かせた。

「驚いたろ?こいつ、花の知識が全くなかったんだよ」
「い、言うな九尾……!」
「何だよ恥ずかしがって。大丈夫だ。今知って良かったじゃねぇか」
「……っ!」

 耳まで真っ赤に染めた羅衣源が口を押さえる。その姿に、九尾はますます面白がった。

「全く、屋敷にはあんなにも植物があるのだから、少しは学べ」
「こ、今度からするさ……」

 いやいや、知識どころかまずは瞳も鍛えて欲しいものだ。ちゃんと植物を鑑賞してね、と私は静かに念を送る。

「まぁ、とりあえず……」

 早くこの話題を終わらせたい、という魂胆が丸見えな台詞で締めくくり、羅衣源は無理やり話を戻した。

「この花が、私と抄華を巡り合わせたのだ」

 妻の先ほどしかない小さな花びらを、羅衣源はこの上ない宝を見る目で眺める。花の知識はないって言ったくせに、正体を知った途端に愛でる彼に、私はふふっと笑った。

「じゃあ、私達にとって大切な花だね」
「ああ」

 羅衣原は手のひらに乗る桔梗の花びらをそっと包み込んだ。脆いガラスを握りしめるように。

「この花は、九尾に貰ったものなのだ」

 細めた瞳で、羅衣源は自分の拳を愛おしそうに見つめる。

「そうなの!?」

 私は声を上げて、九尾を見た。九尾は黄金色に見える九つの尾をそれぞれ動かしながら首を縦に振る。

「ああ、まぁな。俺がここにある五つの水晶玉でそいつの(つがい)とやらを占った後、水晶玉から出る光が集まって出来たものだ」

 それぞれ異なる色の光が水晶玉から一直線に伸び、全てが重なり合った光が一つの塊という形になって落ちてきたらしい。それが桔梗であり、羅衣源と運命人を引き合わせる力を持っていたという。

「これのおかげで、私はお前と出会えた。つまり、九尾のおかげで抄華と会えたのだ」

 ということは、九尾は私達を巡り合わせてくれた恩人というわけか。このあやかしがいなければ、私たちは出会うことができなかったかもしれない。

 私は九尾の前に立ち、深くお辞儀をした。

「私達を合わせてくださり、ありがとうございます」

 何となくこうするのが一番だと思ったし、羅衣源と会えたおかげで救われたこともある。だからこれは、心からの感謝だった。

「ふん、礼などいらない」

 九尾はー今なら分かるが照れた様子でーそっぽを向いて荒い鼻息をついた。

「……お前らが中妻まじくいれば、それで十分だ」

 口は悪いくせに、心はとても優しかった。

「はいっ!」

 さりげない気遣いが嬉しくて、私は勢いよく顔を上げる。そんな私の方に、羅衣源の手がポンと置かれた。

「私からも礼を言おう。お前のおかげで、私は抄華と出会えたのだ。感謝する」
「はっ。お前の感謝なんていつぶりかなぁ?」

 九尾は嬉しそうに目を細めた。そして、

「おい、抄華とやら」

 私の名前を呼んだ。

「はい、何でしょう?」
「こっちに寄れ」

 言われるがまま、私は九尾に近づく。

「手を見せてみろ」
「手、ですか」

 私はそっと九尾の前に自身の右手を持ってきた。九尾は差し出された手のひらを持って、じっくりと眺める。

「ふぅむ……」

 あやかしといえど、流石は動物。握られた手の感触がふわふわとして心地よかった。温もりを感じる毛並みが気持ちいい。

「なるほど……分かった、ありがとう」

 何度か頷いたあと、九尾は手を離した。そして、一度目を瞑ってから再び私と羅衣源を捉える。

「まぁ、困難もあるだろうが、頑張れよ」

 九尾はその目に不安と優しさを宿らせて、声をかけた。

 私と羅衣源は顔を見合わせた後、九尾に向き直り笑顔を見せる。

「はい」
「分かっている」

 お互いの声が重なった。言葉こそ違うものの、想いは一緒だ。

 九尾もそれを感じ取ったのであろう、深く首を上下に動かす。

「それで、他にはあるのか?」
「いや、後は大丈夫だ」
「なら、気をつけて帰れよ」
「ああ。じゃあ、またな」

 九尾にそんな助言をもらった私達は、くるりと踵を返して元来た道を戻った。独特な雰囲気と仄かに甘い香りが私達を包み込み、退路へ案内する。

 長い直線をひたすら進み、出口で扉を開けたところで、私は振り返った。そして、ペコリと一礼してから、羅衣源と共にその建物を後にする。

 外に出ると、目が眩むほどの日光が私達を照りつけた。さっきの暗闇に慣れていたから、この光はちょっと眩しすぎるな。

 目の上に手で影を作り、私は空を見上げる。雲一つない快晴の空だ。遠くまではっきりと見え、宇宙まで透けそうなほど。

「行こうか」

 そう言って羅衣源が手を差し伸べる。

「うん」

 私は笑顔で頷いて、その手を取った。羅衣源が嬉しそうに微笑む姿を、私はしっかりと捉える。

 数時間前までなら、絶対に握ったらなんかしなかった彼の手。でも、この手に触れることができるようになったのが運命だと思うと、何だか不思議な気持ち。

 今この瞬間を過ごせることの幸せを噛み締めながら、私は羅衣源と共に再び足を動かした。
 

 
          *

 抄華と羅衣源が去り、元の静けさが戻ってきた建物内にて、九尾は至る所に視線を彷徨わせていた。ここは自分の建物だ。だから、物珍しそうに内装を眺めているわけではない。考え事をしていたのだ。

 ついさっきまで目の前にいた、抄華という女について。

「あいつの手……」

 九尾は差し出された抄華の手のひらを思い出す。彼女の手は、色白で、皺もなく、とても綺麗だった。そう、綺麗だったのだが。

「あの邪気の量は、尋常じゃない。一体どこから……?」

 九尾は見えない何かを睨みつけるように目を細めた。グルル、と歯を立てて唸りが響く。

 そう、九尾には視えていたのだ。抄華が見せた手に、僅かながら強い邪気が纏わりついていたことを。

 先ほどの光景を思い出す。彼女の手を覆うように付いた、赤紫色の煙。毒々しく、ずっと見ていると胸騒ぎがしてくるような色。

 本来、人間に邪気が憑くことなどまずない。人間事態が邪気を操ることはなく、それができるのはあやかしのみだからだ。

「あれは、おそらく鬼のものか」

 あやかしは、神力の強さでどんな奴がその神力を使ったか分かる。また、神力が使われた目的も。

 普通、神力は白に銀色が霞みがかっているような、見えないほどの色をしている。それは、当たり前の色。浄化されている正常を表す。人々に平等な幸せをもたらす、自然な神力の証だ。
 
 しかし、あやかしの中には、稀に神力を悪い方向に使うものがいる。例えば、人を呪ったり、不幸を与えたり、逆に自分にだけ幸福が来るようにしたり。

 そんな風に扱われた神力は、抄華の手に纏わり付いていたように悍ましい色に変わってしまうのだ。それこそが邪気。

 昔は見なかった変色だが、ここ最近、人間が増えると共に汚染された神力もまた、増してきていた。

 そこから察するに、邪気のほとんどは人間を目的に扱われてきたのであろう。
 
「世の中、落ちぶれたもんだ……」

 昔はこんなことなどなかったのに。人間は清く信仰深い生き物で、あやかしもまた、世の中のために生きていた。その理が今、朽ちかけている。

 九尾は体をくねらせてその姿を変貌させながら、悲しみを携えた瞳で呟く。

 そやがて、人間の見た目になると、ふぅっと深くため息をついた。心の奥底の感情を吐き出すように。そして、再び頭上を見上げる。

 こんな汚れた世界でも、力を変えぬものや、神聖なものは残っている。例えば、帝の祓い技や、清め技。

 帝の一族は、代々受け継がれた、邪気に対抗する技を持っている。それは一族の血に刻まれ、継承することが掟だった。帝の一族の力だけは、後世に絶対的に受け継がれるだろうと見える。

 羅衣源も、例に漏れずその力を持っている。先祖から続く祓いと清めの技を、彼はすでに習得しているのも知っていた。

 あやかしの九尾であるからこそ感じられる彼の偉大な力に、今は縋る他ない。

「まぁ、あいつならば何とかできると思うが」

 九尾ならぬその男は足を組み直す。手を両膝の上に置き、周囲の水晶玉を一つずつ見回した。

「頼んだぞ、羅衣源」

 そして、また目を瞑って瞑想を始めた。彼の周りに漂う神聖な雰囲気が強くなる。甘さと妖しさを思わせる香りが濃くなる。そして、彼のあやかしである匂いが薄まっていった。

 代わりに、他のあやかしの匂いが高まる。濃密な神力の香りに、人間の姿となった九尾は片目を開いた。

「まさか……」

 嫌な予感がした。いや、これはもう予感ではなく前触れか、と彼は考え直す。

 九尾が座る畳の前で、窓も付いておらず空気も入れ替わっていないのに、つむじ風が起きた。円を描くように吹き出す風は、次第に色が付いた煙と共に回り始める。

 そして、風が止んだ時、そこには猿と虎と狸、そして蛇が混ざったような生き物がいた。

「やはりお前か、(ぬえ)

 九尾はため息をつく。鵺は笑い声を上げながら体をくねらせた。

「久しいな、九尾よ」
「ここへ何しに来た」
「来た?いやいや、わしはずっと前からここに居たぞ」

 ずっと前、という言葉に九尾は眉をひそめた。

「ずっと前、だと?」
「ああ」

 鵺は頷き、顔角を上げながら部屋を飛び回る。

「いやはや聞いたぞ聞いたぞ!とうとうあの帝に(つがい)が現れたらしいな!」
「それも聞いていたのか」

 となれば、羅衣源と抄華が入ってきた時に感じた不思議な気は鵺によるものだったのか、と今更ながらに気づく。

「いやあ、実に面白いのう。あの女嫌いで、女に見向きもしなかった帝と運命を共にする女が現れるなんて。しかも見てみればあの通り!まるで仲睦まじい夫婦ではないか!」
「まあ、それはお前のいう通りだな」

 二人の姿は、九尾から見ても一目瞭然だった。

 羅衣源は今まで、数多なる女に詰め寄られ、交際や結婚を申し込まれていた。が、全て断ったと聞いている。

 それは、相手が(つがい)ではないという理由だけではないだろう。

 欲に目が眩み、帝の妻という地位を自分のものにしたいがために結婚する。そんな、自分勝手な生き方の女が、彼の周囲には多かった。その性格に難色を示し、以来女嫌いになったとも考えられなくない。

「それにしてもめでたやめでたや。これで国に良い兆しが差すといいのう」
「そうだな。だが、思うように上手く事は運ばないだろう」

 (つがい)の存在は確かに偉大だ。人間の中で唯一神力を持った者。そして、結ばれた相手の神力をも強めてくれる存在。神力が強まれば、国を守る力も強まる。すると、日本国の平和も長続きする。芋づる式に良いことが起こるのだ。

 それ故、(つがい)一人が、この国の運命を握っていると言っても過言ではない。番つがいは、国にとっても、帝にとっても、なくてはならない者である。

「それにしてものう、それにしてものう」

 鵺は相変わらず、喋りながら天井を張っていた。勇ましい虎の手足で弾む体は茶色い狸という、なんともチグハグした光景に少々眩暈が襲ってくる。

「見たか九尾。あの(つがい)に巻きついていた、ただらぬ邪気を」
「ああ、見たとも」
「随分と多くの邪気に囚われておったな。一体どこで憑かれてしまったのか」
「……」

 彼女は何処から邪気を拾ってきたのだろう。それは、九尾の中でも解決することができない疑問だった。

「近頃のあやかしはあまり人間に姿を見せぬからのう。珍しい事じゃ」
「それは普通のあやかしの話だろう」
「ほう」

 鵺が動きを止め、興味深そうに細めた瞳で九尾を見下ろす。

「普通の、か。ならば、魔落ちの奴らは違うとでも?」
「違うさ」

 九尾は睨みつけるような表情で鵺を見る。だが、滲み出る怒りは鵺に向いておらず、別の生き物に向けられているようだった。

「魔落ちしたあやかしは、逆に人間との接触を好む。ああいう奴らは大抵、人間目的だからな」
「ふむ、なるほどな。人間を自身の望みのために利用する、というわけか」
「それがあいつらのすることだ」

 魔落ちしたあやかしは、自身の欲望のために力を使う。体が朽ち果てようと、神力が穢れようと、それに気づかず暴走を進める。九尾たち普通のあやかしからすれば、それは悍ましい行動だ。

「にしても、この国も随分と落ちぶれたのう」

 鵺がまた、天井を這いずり始める。どうやら常に動いていないといけない性分らしい。

「太古の昔、あやかしは人のために尽くし、人はあやかしのために尽くしておったのに」
「時代が変わったんだ。昔ほど人間は信仰深くなってねぇよ」

 そう、昔は魔落ちのあやかしなどあり得なかった。あやかしと人間は共存し、お互いのために生きていたようなものだったから。

 しかし、近年になってその秩序が乱れている。

「人間はどんどん欲深くなる。にも関わらず、面倒なことや都合のいいことは見て見ぬ振りをする。一体なんだというのだ」
「しょうがねぇ。人間は生活が便利になればなるほど、その快適さに溺れ、欲求が膨らむんだろうよ」
 
 例えば、灯り。大昔、人間は木と木を擦り合わせて起こした火を、唯一の光と崇めていた。だが、今となっては布に油を染み込ませ、そこに火を付けることで灯りを長持ちさせている。風邪の影響等で火がすぐに消えるということはなくなった。

 例えば、食事。それこそ、火を扱って間もない時代は、命懸けのものだった。自ら編み出した道具で獣を狩り、その肉を火にくべて食らう。狩りはうまく行く時と行かないときがあり、特に冬は食べ物にありつけず餓死する者が多かった。

 ところが今は、生産という技術を学び、自分たちで食物を作り、蓄えるようになった。さらには、焼くという行動だけでなく、煮る、蒸す、漬ける等の調理法を編み出し、調味料というものまでを生み出してしまった。

 人間の進化というのは恐ろしい。たった数十年で様々なことが変わってしまうのだから。いや、変えていってしまうのだから。

 それ故に、心が満たされる条件も変わる。今までの贅沢が当たり前になると、それ以上のものを求める。そして、それがありきたりになるとまたその上を目指す。まるで終わりのない階段を登っているようだ。

「人間ってのは、大きな力を秘めている。それこそ、俺たちが知り得ることのないほどな。そして、何処までも自分勝手だ」
「ほぉー、やはりお年寄りはなんでも知ってるのう」
「誰が年寄りだっ!」

 九尾は大口を開けて鵺を威嚇した。しかし、相手は呑気に笑うのみ。

「はて、九尾は何年生きておったか」
「ざっと3000年だな」
「ほう、やはり年寄りではないか」
「お前に言われたくはねぇな!お前こそいくつなんだよ」
「わしは2500年ほどじゃ」
「大して変わらねぇじゃねぇかよ」

 たかが500年。あやかしの寿命は人間とは比べ物にならないほど長い。よって、たった数100年の差などないに等しい。九尾はそう思ったのだろう。

「それに、あやかしは生きた年数も大切だが、何より神力の強さが最も重視されるんだ」

 だから、いくら長生きといえど、力がなければ意味がない。経験に見合った神力を蓄えていなければ、意味がないのだから。

「そんな悲しいことを言うでない。わしはお前の力を信じとるぞ、九尾」
「へいへい、お前に信じられたところで嬉しくもなんともねぇからな」
「相変わらず照れ屋じゃのう」
「だから違うっつってんだろ!」

 あやかし同士の言い争い。それは決して危険なものではなく、むしろほのぼのとしていた。

「ったく、お前が来るとろくなことがない。とっとと帰れ」
「ひどいのう。せっかくの話し相手になってやったのに」

 鵺は嘘が張り付いた涙を流しながら、静かに地面へと降り立つ。

「でもいいものが見れたわい。これからあの帝と(つがい)がどんな運命を辿って行くか楽しみじゃ」
 
 空を見上げるように鵺は首を上げ、にっと三日月型に口端を吊り上げた。とても嬉しそうに見えながら何処か不気味さを感じる、不思議な笑みを。

「まさか見てるだけなわけねぇよな?」
「ほっほっほ、まさかな。だが、わしはあまり手助けが得意ではない」
「むしろ襲ってそうな気がするしな」
「それは聞き捨てならんが……、わしはあやつらが本当に救いを求めている時だけ手を差し伸べよう」
「その言葉が嘘じゃねぇといいけど」

 
          *

 
 私と羅衣源は、炎の如く熱を帯びる日光に照らされている道の真ん中にいた。ひんやりとした空気を醸し出していた建物内から一転、焼け付くような灼熱の太陽の匂いが鼻をつく。

(夏がこんなにも暑かっただなんて)

 最近の猛暑に慣れてしまったためか、これまでの熱気は、さほど熱いとは感じなくなっていた。建物から出てきて、日光に晒されたことで、改めて夏の熱気を目の当たりにする。夏は暑いのが当たり前なのに、暑く感じなくなってしまっていただなんて、あやかしと出会った次に不思議なことだと、私は密かに思った。

「こんな近くに、まさかあやかしが居ただなんて」

 私はチラリと振り返って、さっき入った建物を見た。いつ見ても、圧倒されるオーラを放っている。そこには、近づけないような見えない何かが漂っているよう。豪華な作りで近寄り難い場所だったけど、今となっては別の意味で入るのを拒むかもしれない。

「驚いたか?」
「うん、すごく驚いたよ。まさかあやかしに会えるなんて。しかも、高位の九尾に」
「だろうな」

 予想通りの反応と言わんばかりに、羅衣源は表情一つ変えずに淡々としている。すると、彼は私の耳元に顔を寄せて、そっと囁いた。秘密を打ち明ける子供の如く。

「実はな、この通りはあやかし通りと言われているんだ」
「あやかし通り……?何故?」
「この通りにある店全てをあやかしが経営しているからだ」
「……えっ?この辺りって、ここ一帯ということ?」
「ああそうだ」

 一瞬、羅衣源の言ったことが理解できなかった。言葉を意味として捉えるのに、少しばかり時間がかかる。

 私の瞳が映しているのは、人気が少ない、豪華絢爛な店が立ち並ぶ大通り。感覚を研ぎ澄ますと、確かに普通の店とは違う何かがある。それがもしや、あやかしの気配だというのか。
 
 あの一つ一つにあやかしがいるなんて考えられる訳がない。目を白黒させている私を見て、羅衣源はケタケタと声を上げていた。

「はははっ!何もそんなに驚かなくても良いだろう」
「なっ!あなたは分からないかもしれないけど、私にとっては信じられないのよ!」

 顔に熱が集まっていくのが感じられたが、それでも言い返したかった。今度は恥ずかしさで体の体温が上昇する。

(あなたと私は違うんだから)

 ふんっ、と彼から顔を逸らすと、羅衣源も流石にやりすぎたと思ったのか、声を止めて謝る。

「すまんすまん。純粋な反応が、あまりにも愛おしくてな」
「何それ……」

 照れ隠しのように見える表情で言われると、さっきまでの怒りも失せてきた。

「……別に、いいよ」

 私は俯いたまま言う。だって、羅衣源があんな風に笑うのは珍しくも何ともなくなったから。今日出会ったばかりなのに、彼については沢山のことを知っている。今思えば、何だか不思議でおかしい。それこそ、運命なのかもしれない。

「あなたがそう思っていることも、分かってるから」
「そうか……」

 羅衣源はそう呟いた後、突然口を閉ざした。無言の彼を不思議に思って、私は顔を上げる。いつもなら、また別の話題で盛り上がるのに。

 すると、羅衣原源は今までとは打って変わって、沈んだ空気を纏って口を開いた。

「その、抄華は、あいつを、九尾をどう思った?」
「えっ、どう思ったって?」
「そのままの意味だ。その……抄華はあやかしをどう思っているんだ?今朝のこともあった故に……」

 その言葉にはどこか不安そうな想いが隠れていた。どう思われているか不安で仕方がないという想いが。

「うーん、そうだね……」

 彼の胸の内を察した私は、彼に笑顔を向けた。頭の中で言葉を選びながら、この気持ちを表す。

「それは驚いた、けど。でも、全然怖くないし、むしろ優しかったから……よかった」

 建物の奥に佇んでいた九尾の姿を浮かべる。あやかしは、気高く、私達なんか相手にしてくれないような生き物かと思っていた。自分が上だと自覚し、人間を見下すようなものかと勝手に想像していた。それに、今朝の出来事から私たち人間を襲うものだと知り、少しだけ、恐怖を抱いていた。

 でも、違う。あやかしは、九尾は思いやりを持っていて、人間に優しく手を差し伸べてくれるものだった。それに、私と羅衣源を巡り合わせてくれたというのにも驚いた。

 しかも、まさか帝の(つがい)を占っていたとは。帝の人脈の広さにも、あやかしの心優しさにも胸を打たれた。私は自然と微笑む。心の底からの穏やかな感情が全身に広がる。
 
「九尾は……あやかしはとても優しい」
「そうか。抄華がそう言ってくれて嬉しい」

 見れば、羅衣源も優しい笑みを浮かべていた。多分、私があやかしについてどう思っているのか、どんな印象を抱いたのか気になったんだと思う。何でかは分からないけど。

「これから抄華にも何かと関わるだろうから、良い生き物だと思えてもらってありがたいな」

 羅衣原は表情ひとつ変えず、平然とした様子で言った。

(それってやっぱり……)

「私が(つがい)になると決まっているような言い方ね」
「だってそうだろう。いつまでそう言ってる」

 彼の甘い表情、甘い声が心にじわじわと沁みる。お前は私のもの、と言わんばかりの顔を見せて、口の端を吊り上げる。整った顔立ち故に、純粋な笑顔よりも少し悪意と私欲が混じった表情の方が魅力的に見えるのは私だけだろうか。

 トクントクンと、心臓がやや早く鼓動し始める。

「お前は私の運命人。つまり、誰が何と言おうと抄華は私のものだ」
「何それ。勝手に決めないでよ」

 あからさまな否定をするも、私は自信に満ち溢れた羅衣源によって強引に腕を引っ張られ、胸の中で抱き止められる。羅衣源の温もりと優しい匂いに触れると、拒んでいた心が溶かされるような気がした。

(……やっぱり、この人は強引だ)

 女の子の扱いを知らないのか、胸をときめかせるのは知ってるくせに、こう行動に出ると少し下手だ。

 でも、私も私で、不思議と彼の不器用さが悪い方向には見えない。むしろ、こんな一面さえ心臓は敏感に反応する。

 私は彼に抱きしめられていると気づいてもなお、突き飛ばしたり拒否したりはしなかった。羅衣源の手の温もり、心臓の鼓動、柔らかな息遣い。何もかもが心地よい。

「抄華、もう一度言う」

 頭の上から羅衣源の声が降ってくる。さっきとは打って変わって、真剣さがありながらも、何処か緊張も帯びた声だった。

「私の(つがい)になってくれぬか?」
「……」
「私はお前と、生涯共に居たい」

 一体、今日限りで何度、(つがい)の申し出を受けただろう。その度に断りを入れているのに、それでも諦めない芯の強さが彼の性格だとは十分理解できた。

 縋るように私をまっすぐに見つめてくる彼の瞳。見ているこっちが吸い込まれそうだった。
最初の私ならば、すぐに返事を返していたかもしれない。無理だ、と。でも、今の私に、すぐ断る勇気はなかった。いや、これは勇気ではないのかもしれない。

 これを逃して仕舞えば、彼はもう私を求めなくなるんじゃないか。二度と。そして、諦めの表情で他の女性を選ぶんじゃないか。

 そんな未来を予想すると、どうしても心の何処かで、寂しいという感情が芽生えてしまっていることに気づいた。私は自分の胸に問いかけるように、心臓の上で拳をキュッと握る。

(私は……どうしたいんだろう?)

 質問を質問で返されることが一番厄介だと知っているのは、私の心だけだ。

 いや、違う。もうとっくに、ほんとは分かってた。私の心は決まっていたんだと思う。羅衣源の申し出を断りながらも、何処かでは受け入れることを考えていた。

 だから、そう。

 私は羅衣源に惹かれたんだ。

(私は、彼が好き)

 仕草も、表情も、匂いも。一つ一つの言葉でさえも。胸がときめくって、そういう意味なんだ。

(今まで、恋というものを、好かれるということを知らなかった私でも、こんなにはっきりと感じ取れるものなんだ)

 私はゆっくりと目を開く。すぐ前に、羅衣源の顔がある。

 綺麗な顔を、そんな不安で歪ませたらダメだと、そう、彼に言ってあげたい。でも、今はもうちょっとこの表情を見ていたい。この表情が、私の言葉を聞くことでどう変わるのかを。

「私は……」

 口を開くと、彼が息を呑む。覚悟した様子で口をキュッと結んだ彼は、表情を硬らせた。そして静かに、ただひたすらに、私の言葉の続きを待っている。

 スッと息を吸って、言葉を紡ぎだそうとした、その時だった。

 突如として、私の周囲を赤紫色の煙が取り囲んだ。

「きゃぁっ!」
「なんだこれはっ!?」

 反射で私達は離れてしまう。それをいいことに、赤紫色は私達の間にするりと割り込んできた。

 何処からともなく現れたその煙は、すぐに膨張して空の光を遮る。たった今まで見えていた建物、道、太陽、そして羅衣源の姿を隠してもなお、増え続ける。

「なっ、何!?」

 明らかな異変に取り乱し、視線を彷徨わせる。濃煙は、あたりの景色をあっという間に包み込み、私の視界を奪った。この煙は一体どこからやってきているのか。見たことのない色に染まり、鼻につくような独特の匂いが漂っている。

 さっきまで見えていた街並みが見えない。一寸先は愚か、伸ばした自分の手さえ目視することはできなかった。もちろん、さっきまで隣にいた羅衣源の姿も確認することすら望めない。

 謎の煙幕の中に、独りぼっち。私はまさしく今、その状況下にいた。不安と恐怖が、胸の奥から激しく湧き上がってくる。

「ど、どうしよう……怖いよ」

 私は自分の体を抱いて、うずくまった。

 その時。

「抄華!」

 煙の中から、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
私は弾かれるように立ち上がる。それは間違いなく彼の声だった。

「羅衣源、どこ?」

 私は声が出る限り叫んだ。首を懸命に動かして、あの安心する彼の姿を見つけようとする。が、やはりこの濃煙には何も映らない。  

「抄華、何処だ!」

 しかし、はっきりと羅衣源の呼びかけは耳に届いている。

「羅衣源、私はここ!」

 煙に巻かれないように、かき消されないように力の限り叫ぶ。彼が来るという、希望を信じて。

 でも、待つことはできなかった。煙の匂いずっと嗅いでいると、頭がくらくらとしてきた。それになんだか意識がだんだんと薄れ、視界がぼやけてくる。

(これ、今朝の……っ!)

 そのことに気がついた頃は、時すでに遅し。

 白んでいく世界の中で、私はもう声を出すことを許されなかった。意味のない声帯の代わりに、心が叫びを言葉にする。

(羅衣源……。羅衣源、来て……)

 私は気力を振り絞って再び願う。

「羅衣源、私を助けて……」

 しかし、私の願いが聞き入れられることはなかった。消えそうな意識の中で思う。

(……バカだな、私)

 ようやく彼に寄せる想いが分かったのに。こうなるんだったら、もうちょっとでも早くに素直になれば良かった。意地なんか張らずに、彼に寄り添えばよかった。

 きっと、彼の愛を受け入れなかった罰なんだ、これは。嘆いたって、後悔したって仕方がないんだと思う。

 それでも、悔やみきれなかった。こうなるだなんて、思っても見なかった。

 美しい顔立ちの彼が脳裏に浮かび上がる。優しく、強さも持ち合わせている彼の温もりが、一瞬手に蘇った。だが、それもすぐに消える。満開の花がすぐに散るように。

「羅、衣源……」

 愛しい彼の名をもう一度呼んで、私の意識は闇に被られた。