「ここが、私の屋敷だ」
人間の背丈より遥かに大きい柵にはめ込まれた門をくぐった先で、羅衣源は私に囁いた。
「ここからは歩けるか?」
「う、うん……」
ぎこちなく頷くと、彼はそっと姿勢を低くした。地面に足が着いた私は、ようやく二足歩行に戻る。
正直、ここに来るまでずっと心臓が痛かった。バクバクと激しく脈打つ胸を押さえながらも、これで少しは落ち着ける。そう思えたのは、ほんの一瞬だった。
羅衣源に抱き抱えられたまま連れてこられた場所を見て、私は唖然とする。
「こんなにも、立派なんだ……」
そこは、帝が住む、街の中心にある屋敷で、広大な広さの土地と豪華な作りの建物があった。そして、周辺の庭ではまたも目を惹く施しがあった。
まず、中庭の半分が池だった。周囲を石で囲まれたその池では、水面に可愛らしい睡蓮が浮かんでいて、時折、鯉が跳ねては水柱を上げる。さらにはその池の上に朱色の橋がかかっており、水に囲まれた小さな島へ渡れるようになっていた。
また、ある一角では立派に育った松の木が数本、御神木のようにそびえ立っていた。そして木々の周りを、忙しなく翼を動かし続ける小鳥達が飛び交っている。
ここは日本国ではなく、もしや外国か、と、そう疑いたくなるほどの美しさに、私は目を休める暇もない。
帝の住む屋敷は、周囲を柵で囲まれているため、外から見ることはできない。よって、誰も知らないのだ。帝の暮らしも、屋敷の構造も、庭の様子も。
屋敷を見上げて視線を彷徨わせる私の顔を、羅衣源は覗き込む。
「気に入ったか?」
「はい。…ってそうじゃなくて!」
ぼーっとしていたあまり、彼のペースに乗せられそうになる。
(危ない危ない)
あまりの美しさに感動してなんとなく頷いてしまったけれど、私が住むとは決まってないもの。私はぼんやりとしていた頭を振って活性させる。
対して羅衣源は、何が面白いのかケタケタと笑っていた。
「いやいや、すまない。さぁ、行こうか」
そう言うなり、私の手を取って歩き出した。
「え、いや、ま、待ってって!」
いやだから私の意思も聞かずに連れていかないで欲しい。
慌てて叫んでも、彼の足は止まらない。本当に周りが見えていない人だ。彼にされるがまま歩かせられている私は、自分に近づいてくる屋敷を見上げた。
(本当に豪華で凄いな……)
比べてはいけないかもしれないけど、私の家なんかとは大違い。
段々と、渡り廊下からの声がはっきりとしてくる。
「ちょっと、そこ、しゃんとしなさい!」
「帝様がお戻りになるまでに終わらせろ!」
聞こえてくるだけで沢山の人がいることが伝わる。慌ただしい足音に、時折響く怒声。
(私、こんなところに入っちゃって大丈夫なのかな……?)
そんな心配をよそに、羅衣源は屋敷の中でも、最も広い寝殿に繋がる階段を登り、声を張り上げた。
「羅衣源が今戻ったぞ!」
その声にいち早く反応したのは、私よりも少し年上の女性だった。バタバタと足音を立て、柔らかに見える白い絹の裾をなびかせながら走ってくる。
現れた女性は、きっちりとお団子に結えられた髪と、これまたきっちりと着こなした涼しげな服装の姿を角から見せた。
早歩きで廊下を突き進んできたかと思えば、ピタッと止まって両手をへその位置に置き、恭しくお辞儀する。
「帝様、お帰りなさいませ」
「ああ」
「いかがでし……」
彼女は顔を上げて羅衣源を見、安堵の笑顔を作った後、隣の私を見て驚きの表情を露わにした。
「あの、そ、そのお方は……?」
「ああ、こいつはか」
女の人と目を合わせないように俯いていた私を、羅衣源は無理やり自分の元へ寄せた。私が迷惑しているのも知らずに。
しかし、女の人は私の表情よりも羅衣源の行動に驚いたらしく、目を見張っている。
「彼女の名は抄華。私の番だ」
羅衣源は満更でもない様子で告げる。私はそれを聞いた瞬間、彼の顔を見つめた。というよりは睨みつけた。
(番だなんて、そんなの決まってないし、承諾もしてないのに……!)
私はひどく動揺するが、それを聞いた彼女は歓喜の声を上げる。
「えっ、つ、番様が!その方ですか!」
瞳を輝かせ、口に手を当てて確かめるように羅衣源に問いかける。
「そうだ」
羅衣源がはっきりと頷くと、彼女はさらに慌てふためいた。でも、その行動には喜びが混じっているのがよく分かる。
「ああっ、ようやく見つかった!お告げのおかげかしら?本当に当たるのね。やっぱり凄いわ」
あまりにも彼女の口からポンポンと言葉が発せられるものだから、私は口を開けたまま静止する。
「まずはお父上様に報告かしら?それからお母様にもご報告を。あと妹君様も。あっ、その前に屋敷のみんなにも報告しないと……」
「凛音、落ち着け」
羅衣源が静かに言い放つと、凛音と呼ばれた彼女は夢から覚めるようにはっと我に返る。そして、顔を赤らめて縮こまった。
「私としたことが取り乱しました。すみません……」
「いや、いい。それよりも、抄華の傷の手当てを頼めるか?」
「えっ、お怪我をなされているんですか?それは大変!もちろんですとも」
私抜きで話を進めないでもらいたい。割り込んで止めたい気持ちもあるが、隙がない。
「ならば、宜しく。私は少し用を済ませてから行くから」
そして羅衣源はくるりと向きを変えて私と向き合う。
「と、言うわけだから凛音に着いていけ。私も、用が済めばすぐに行くから」
「は、はい……」
なんがどんどん話が進んでいってしまう。でも、ここまできて断る雰囲気もない。俯く私の手を、今度は凛音という女声が掴む。
「それでは、抄華様。どうぞこちらへ」
そうして私は再び連れられていくのであった。ほんと、今日は驚くことが次から次へとくる。
「ささっ、こちらでございます」
案内されたのは、障子と襖を使って仕切られた部屋。花の刺繍が施された襖を凛音が丁寧に開けると、そこは綺麗に整頓された内装が広がっていた。
化粧台、寝具、机、なんでも揃っていて、ここで生活できそうだ。広さも、たった一つの部屋なのに私の家全てを合わせたぐらいある。
(この部屋は一体なんなんだろう……)
そう尋ねようとしたのだが。
「あ、のっ……」
突然喉がキュッと閉じて、うまく声が出せなかった。
(あ、あれ?)
私は首を傾げて喉を抑える。もう一度声を発せようとしたが、無理だった。まさか、私の体質が出たのか。でも、なら何故。さっきまでは、羅衣源と何ともなく話せていたのに。
「あ、あのっ、こ、こは…?」
(ダメだ。やっぱり声が出ない……)
けれど、私が部屋中に視線を彷徨わせていたせいか、凛音は私の言いたいことが分かったらしく、にっこりと微笑む。
「ここは、帝様の番に選ばれた者に与えるお部屋なのですよ」
それを聞いて、私は気まずくなる。私は別に番と決まったわけじゃない。ただ、羅衣源がそう口にしているだけだ。
「さぁ、抄華様。お座りください」
そんな私の心情なんていざ知らず、凛音は私を座布団へ座らせる。しかも、何故か「様」付けで。
そして、いつの間に持っていたのか木箱を取り出して蓋を開けた。中には沢山の医療品が入っていた。どれも、高価で、庶民には手の届かないような物たちが。凛音は慣れた手つきで包帯と薬を取り出す。
「さっ、お怪我をしたところを見せてくださいませ」
私はこくんと頷いて、足を差し出した。人に見せようとして出したことなんてないから、少し恥ずかしい。どんな反応をされるんだろう、と内心緊張する。
すると案の定、凛音は私の足を見て顔をしかめた。それを見て、私はため息をつく。自分自身に。
(そうだよね、私の足なんて全く綺麗じゃないもの。きっと、凛音だって醜い足を見せられて嫌な気分になっているんでしょう)
だが、凛音が発した言葉は予想外だった。
「なんで酷い!抄華様の美しい足がこんなにも汚されるなんて!」
思わず突っ込みたくなった。その上、そんなにも取り乱すことじゃないでしょう。しかも、美しいだなんて、この場で使う言葉じゃない。
私はその言葉に恥ずかしく、だが少し嬉しさを感じた。
(分かってる。凛音はきっと、お世辞で言っているんでしょう)
でも、綺麗なんて言葉をあまりかけてもらっていなかった私にとって、お世辞だろうが何だろうが嬉しかった。
「すぐに手当しなくては」
凛音は慌てた様子で布に薬を染み込ませ、傷口に当てた。途端、ズキッとさ痛みが蘇ってきた。私は奥歯を噛んで、その痛みに耐える。私も、もう大人。当たり前だけど泣くなんてみっともない。
痛みを増幅させた薬は、しかし傷口を清潔にしてくれた。血が拭き取られた傷口に、凛音は丁寧に包帯を巻く。
「さぁ、これでもう大丈夫ですよ」
私の怪我は、あっという間に手当てされ、痛みも引いていた。
ありがとうございます。と、お礼を言いたかったのだが、私の喉は相変わらず声をうまく出してくれなかった。代わりにペコリと会釈する。
その思いも凛音は受け取ってくれたようで、優しく微笑んで「どういたしまして」と言った。そこに、丁度良く襖が開く音が響く。
「おお、手当は終わったか」
羅衣源だった。
「ええ、今、いたしましたので、すぐに治りますよ」
「助かった。感謝する」
「いえいえ、めっそうもない」
凛音は床に頭がつきそうなほど深くお辞儀し、急いで使ったものを片付ける。
「では、私はこれで」
羅衣源と入れ違いになるように、彼女は部屋の外へ出ていった。「ごゆっくり」と意味ありな笑みを残して。部屋は、私と羅衣源と二人だけの空間になる。
「凛音はああ言っていたが、怪我は大丈夫か?」
「はい。丁寧に手当てをしてもらいましたから」
と、そこまで言ったところではたと気づく。来た時と同じように、羅衣源と普通に会話できていることに。
喉を押さえて、自分の声帯が震えていることを確かめる。
(さっきのは何だったんだろ……)
喉が締め付けられた感覚が嘘のようだ。やっぱり、羅衣源が原因なのか。羅衣原といる時だけ、何の不自由もなく声が出せる。やはり、彼の持つ雰囲気の問題なのだろうか。
不思議だな、と改めて疑問として湧き上がる。そんな私に、羅衣源は笑いかけた。
「それならば良かった」
そして、私の近くに歩み寄ると、隣に腰を下ろした。
肩が触れそうなほどの近さに、私は反射的に体を動かす。しかし、その仕草が気に入らなかったのか、羅衣源は眉をひそめた。
「何故避ける?」
「いや、その……触れられることに慣れてないので」
適当にも程がある言い訳だ、と自分の考えのなさに呆れたが、羅衣源は以外にも理解してくれた。
「そうか……。ならば仕方あるまい」
そう呟き、程よい距離をとって羅衣源は私と向かい合う。
「それでなんだが。抄華……」
なんだか似たようなくだりが先ほどもあった気がする。と、私は身構えた。羅衣源は一呼吸置いた後、再び声を発する。
「もう一度言う。私の番になってくれぬか?」
「お断りします」
私は即座に答えた。やっぱりこの質問。今日だけで2回は繰り返している。
この返事は予想ていたのか、羅衣源はさほど表情を崩さなかった。しかし、どうにも納得できないと言った様子で質問を投げかけてくる。
「さっきから断ってばかりいるが、それは何故だ?」
「何故、と言われましても……無理なものは無理です」
「その無理な理由を聞きたいのだがな」
「それは、その……お話しすることはできません」
「そう、か。まさか、他の夫がいるからか……?」
「まさか。そういうわけではありません。元より、私には夫なんていませんし……」
自分自身で言ったにも関わらず、これを口にすると気分が暗くなる。改めて自分の惨めさが思い知らされて恥ずかしくなる。消えてしまいたい。
「夫がいない……?その齢で、か?」
「ええ。何度かお見合いもしたんですけど、すべて、私の体質のせいで……破談に」
「つまり、今まで男と縁を結んだことも、肉体関係を結んだこともないということか?」
「はい……」
(こんなことを聞いて、羅衣源はどう思うんだろう?)
考えるまでもない。きっと、呆れてしまう。でも、そしたら私は解放される。
悲しくも、そうなることが一番だと思い、望む答えが羅衣源の口から出るのを待ったが…。
「なるほど、そうなのか。やはりお前は私の番のようだ」
「……へっ?」
腕を組んで頷いている彼が言ったのは、全く別の言葉だった。羅衣源は何故か一人で納得している。
予想だにしなかった反応に、私は面食らう。
(なるほど?何が?)
てっきり、可笑しいとかありえないとか言われるのだと思っていた。それは私の言葉をちゃんと聞いていたか心配になったほどに。それに、やっぱりとはどういうことだろう。
彼は言った。
「やはりお前は私の番だ」と。
(私に夫が出来ないことが、どうしてそれに繋がるんだろう)
私の脳内はこんがらがる。
「ど、どういうこと?」
溜まらず訊いてみると、羅衣源はピクリと体を震わせて私を捉える。一瞬目を伏せた後、申し訳なさそうな表情を見せた。
「ああ、すまない。いきなり言われても困るよな」
羅衣源は複雑な色合をした瞳で説明した。
「君はおそらく、帝の番になる運命を背負わされた人間だ」
「えっ、う、運命を……?」
「ああ」
羅衣源は深く頷き、しばらく目を瞑る。誰も声を発しない静かな世界の中で、私の思考は羅衣源の言葉で埋め尽くされた。
運命を背負わされた。
(つまり、元から私は帝の番になることが決まっていたってこと?)
でも、何故それが、私が夫がいないことと繋がるのか。
すると、羅衣源は私の心を読んだかのように、その運命の意味を説明してくれた。浮かない顔の彼に、嫌な予感が芽生える。
「帝の一族には必ず、運命人、さっき言ったように、帝の番になる運命を背負わされた者がいる。というよりは、その者と一緒に運命を背負っていくと言った方が正しいか…」
「運命人……。それはつまり、元々定められた運命を持っているってこと……?」
「そうだ。二人が通るためだけに一つの道が作られる。そのように、二人で一つの運命を歩んでいく。その二人として結ばれたのが、帝と運命人だ」
「ちょっと待って。だから何故、それが私の現状と関係があるの?」
尋ねると、羅衣源はああ、と瞳に闇を落として言った。
「運命人になると、帝以外の夫を持てなくなる人生になるのだ」
「……えっ?」
「しかもそれは、随分と昔から決まっている理なのだ」
帝以外の夫を持てない。言い換えれば、帝以外からは愛されない。故に、他の男とは縁を結べない。
(羅衣源が、あなたが言いたいのは、つまりそういうこと?)
「じ、じゃあ今まで私が誰にも見染められなかったのは……」
「お前が、運命人だったからだろうな」
羅衣源は静かに言い放った。諭すように、宥めるように。
そんな、と血の気が一気に引いていく感覚に陥る。初めて知る事実に、全身が氷のように凍てついて、感覚が失われていった。体がワナワナと震える。体温がどんどん下がって、纏わりつく空気が凍てついたものになる。
ー運命人ー
側から見れば、聞こえの良い言葉だろう。しかし、私にとっては耳障りでしかない。
(つまり、私は帝のせいで夫ができなかったってこと……?)
「あなたのせいで、私の人生はこうなったの?」
「そうだ」
否定もせず、躊躇うこともなく、彼は首を縦に振る。
(この一族に運命人なんてものを背負わされたばかりに、両親に迷惑をかけて、周りから馬鹿にされてきたの?)
「あなたのためだけに、私は馬鹿にされてきたの?」
「そうだ」
羅衣源は感情を乗せずに全てを肯定する。彼は全てを受け入れる覚悟をしたのだ、と気づくのにそう遅くはなかった。
自分は悪くなかったと分かった今、今度はその怒りが別のものへと移っていく。
(じゃあ……じゃあっ!一体、今まで私が受けたことはなんだったの!?)
腹の奥から、いや、体全体が炎に包まれたように熱くなっていった。私の中で、大釜がぐつぐつ煮えたぎっているみたいだった。苦しみ、悲しみ、悔しさ。いろんな思いが絡んで、混ざり合って、私の心を支配していく。
「私は、私は……っ!」
拳を強く握りしめる。それでも感情は止まらず、膨らみ続ける。
思い出すのは、胸が押しつぶされそうな苦しみの中で生きていた毎日。もがきながら、ただ自身を呪って過ごした日々。
「今まで……ずっと……辛い思いをしてきたの……っ!」
おかしくなりそうだった。体も心も、私と言う存在全てが、今は怒りという炎に侵されている。
「家族に迷惑かけて……自分のせいだって、思ってた……私自信が悪いって……」
だけど、実はそうではなかった。その事実に、気がついてしまった。
思わず立ち上がっていた。床に座る彼を、私は上から睨みつける。
「どうして……なんでよっ!なんで、こんなことになったの……っ!」
どうか、彼が話したことが嘘でありますように。そう、心の何処かで願っていたに違いない。
でも。
「本当にすまない、抄華。私なんかのせいでお前が辛い目に遭っていたとは。もっと早くに出会えればよかった」
羅衣源は嘆いていた。俯いて、なんとも言えない表情を足下に向けている。彼は、まるで自分がやったことかのように、深く後悔していた。それは、残酷な事実を、相手が知らなかったことを告げた時にしかできない表情だった。
分かってる。羅衣源は悪くない。
分かってる。羅衣源のせいでも、誰のせいでもない。
しかし、彼が謝る姿を見ても私の怒りは収まらなかった。むしろ、逆に蓄積されていく。そしてとうとう、爆発した。
私の中の何かが、弾けて砕けた。空気の入れすぎた毱が破裂するように。ガラスが砕かれるように。
「あなたのせいだっ!」
私があまりにも大きな声を出したから驚いたのだろう。羅衣源は声と連動するように体を痙攣させ、美しい瞳を私に向けた。ありえない、と言いたげな色を宿して。
自分でも、こんな声が出せるものかと内心びっくりした。
(でも、もういっか……)
ここまで来たら、もうぶつけるしか他にない。私は自分の心に掛けていた感情を抑えるための錠を開け、解放した。
「あなたのせいで私の人生は崩れた。あなたのせいでみんなに迷惑かけた。あなたのせいでっ!」
喉の奥が熱い。まるで、火の玉を飲み込んで焼かれているようだ。目頭も、このまま燃えるんじゃないかと思うほど熱がこもっていた。
「どうしてこうなったの!?私は何故こんな運命に生まれてきてしまったの!?望んだわけでもないのにっ!」
そして、頭の中では言葉で表しきれないぐらいのひどい言葉が散乱していた。これを全部吐き出したら、どんなに気持ちいいんだろう。
でも、そう思うのに全ての感情を目の前の相手にぶつけられないのも、私という人間の弱みだった。
私はただ、目の前にいる男を睨み続ける。羅衣源は、そんな私をじっと見つめていた。
(何よ。言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない)
羅衣源は一度瞳を閉じた後、ふうっと息を吐く。
「すまない」
彼は静かな声で言った。
「私なんかのために、抄華に苦労させてしまって、本当に申し訳ないと思っている」
彼はとても優しかった。散々当たり散らす私の言葉を、否定もせずに聞き入ってくれる。
自分のせいじゃないはずなのに、罪悪感を抱えて頭を下げている。あなたがするはずじゃないことをしている、そんなことは私だって理解していた。
だけれども、この胸の怒りの炎は消えることがない。むしろ、彼が謝れば謝るほど油を注がれたように炎は勢いを増してしまっている。
項垂れる彼の姿を、私はじっと黙って見つめた。
「辛かっただろう、苦しかっただろう。心の傷がどれほどのものか、私は知っている」
彼の声は優しかった。全てを包み込んでくれるようで。だが、それがまた、私の怒りの原因にもなる。
「知ったような口聞かないでよ!」
どうせあんたみたいな人間には、私の苦労なんか分からないんだから。私の屈辱なんか、知る良しもないんだから。
「私の苦しみなんて、誰も理解できるはずがないっ!」
もう限界だった。心も、体も、漂う空気感も。
「……ッ!本当に、すまない。全部、私のせいなのだ」
お願いだから肯定しないで。少しは抵抗してよ。羅衣源の何もかもを受け入れる姿勢が、私の感情をさらに暴走させた。
(あなたが謝らないで。あなたのせいじゃないことは知っているから。だから、私を否定してこの高ぶりを止めてよ)
自分だって、いや、むしろ自分に悪いところがあるのは理解しているはずなのに、受け止めてくれる人間がいると、どうしてもそっちに想いをぶつけたくなってしまう。
そして、その相手は頭を下げたままだった。
(もう、無理)
私の中で何かが割れた音がした。いや、正確にはヒビが入った。脆いガラスに足を投げつけられたみたいに。
(心が耐えられない……ッ!)
「もう、私に、構わないでっ!」
精神の崩壊を感じた私は、そんな言葉を吐いて走り出す。
「あっ、待て……」
羅衣源が止めようとするが、私はその手をすり抜けて部屋を飛び出した。そのまま、廊下を走り渡る。
私が走り去った場所には、幾つもの透明な滴が落ちていた。私は涙でぐちゃぐちゃだった。溜め込んでいた思いが涙という形で放出され、絶え間なく溢れてくる。
長い長い廊下には、たくさんの人たちが行き交っていた。彼らは泣きくじゃる私の姿を見るたび、驚きの声を上げていく。
「お、お前はなんだ!」
「侵入者か?」
「痛っ。気をつけてよ!」
時折通りすがりの女中や役人とぶつかりながらもなお、私は走った。すみません、の一言さえ口からは出てこなかった。そして、途中でさっきも見た顔が視界に映る。
「し、抄華様……?」
凛音だ。真っ白な布団を手に、目を見開いている彼女の姿を捉える。
「……っ!」
そんな彼女の横を、私は風を切って通り過ぎた。
「しょ、抄華様!お待ち下さい!」
背後から凛音の叫ぶ声が飛んでくる。焦った彼女の声が、私の耳にへばりつく。
お願いだから、もう、私に構わないで。私は目頭を腕で押さえて、視界を狭める。視野が暗くなる。何も見たくない、何も聞きたくない。
そのまま、私は寝殿から飛び降りるように出て、広大な庭を突っ切り、屋敷から逃走した。
後ろは相変わらず騒がしい。でも、それも私には関係なくなる。
これでいいんだ。と、自分に言い聞かせる。私はどんどん屋敷から離れていく。というりかは、羅衣源から離れるために逃げる。
あいつは、私の人生を奪ったやつだから。あんなやつと、もう二度と会いたくない。
私は涙を流したまま、もっと遠くへと足を進めていった。
もう、屋敷の声は何も聞こえない。
人間の背丈より遥かに大きい柵にはめ込まれた門をくぐった先で、羅衣源は私に囁いた。
「ここからは歩けるか?」
「う、うん……」
ぎこちなく頷くと、彼はそっと姿勢を低くした。地面に足が着いた私は、ようやく二足歩行に戻る。
正直、ここに来るまでずっと心臓が痛かった。バクバクと激しく脈打つ胸を押さえながらも、これで少しは落ち着ける。そう思えたのは、ほんの一瞬だった。
羅衣源に抱き抱えられたまま連れてこられた場所を見て、私は唖然とする。
「こんなにも、立派なんだ……」
そこは、帝が住む、街の中心にある屋敷で、広大な広さの土地と豪華な作りの建物があった。そして、周辺の庭ではまたも目を惹く施しがあった。
まず、中庭の半分が池だった。周囲を石で囲まれたその池では、水面に可愛らしい睡蓮が浮かんでいて、時折、鯉が跳ねては水柱を上げる。さらにはその池の上に朱色の橋がかかっており、水に囲まれた小さな島へ渡れるようになっていた。
また、ある一角では立派に育った松の木が数本、御神木のようにそびえ立っていた。そして木々の周りを、忙しなく翼を動かし続ける小鳥達が飛び交っている。
ここは日本国ではなく、もしや外国か、と、そう疑いたくなるほどの美しさに、私は目を休める暇もない。
帝の住む屋敷は、周囲を柵で囲まれているため、外から見ることはできない。よって、誰も知らないのだ。帝の暮らしも、屋敷の構造も、庭の様子も。
屋敷を見上げて視線を彷徨わせる私の顔を、羅衣源は覗き込む。
「気に入ったか?」
「はい。…ってそうじゃなくて!」
ぼーっとしていたあまり、彼のペースに乗せられそうになる。
(危ない危ない)
あまりの美しさに感動してなんとなく頷いてしまったけれど、私が住むとは決まってないもの。私はぼんやりとしていた頭を振って活性させる。
対して羅衣源は、何が面白いのかケタケタと笑っていた。
「いやいや、すまない。さぁ、行こうか」
そう言うなり、私の手を取って歩き出した。
「え、いや、ま、待ってって!」
いやだから私の意思も聞かずに連れていかないで欲しい。
慌てて叫んでも、彼の足は止まらない。本当に周りが見えていない人だ。彼にされるがまま歩かせられている私は、自分に近づいてくる屋敷を見上げた。
(本当に豪華で凄いな……)
比べてはいけないかもしれないけど、私の家なんかとは大違い。
段々と、渡り廊下からの声がはっきりとしてくる。
「ちょっと、そこ、しゃんとしなさい!」
「帝様がお戻りになるまでに終わらせろ!」
聞こえてくるだけで沢山の人がいることが伝わる。慌ただしい足音に、時折響く怒声。
(私、こんなところに入っちゃって大丈夫なのかな……?)
そんな心配をよそに、羅衣源は屋敷の中でも、最も広い寝殿に繋がる階段を登り、声を張り上げた。
「羅衣源が今戻ったぞ!」
その声にいち早く反応したのは、私よりも少し年上の女性だった。バタバタと足音を立て、柔らかに見える白い絹の裾をなびかせながら走ってくる。
現れた女性は、きっちりとお団子に結えられた髪と、これまたきっちりと着こなした涼しげな服装の姿を角から見せた。
早歩きで廊下を突き進んできたかと思えば、ピタッと止まって両手をへその位置に置き、恭しくお辞儀する。
「帝様、お帰りなさいませ」
「ああ」
「いかがでし……」
彼女は顔を上げて羅衣源を見、安堵の笑顔を作った後、隣の私を見て驚きの表情を露わにした。
「あの、そ、そのお方は……?」
「ああ、こいつはか」
女の人と目を合わせないように俯いていた私を、羅衣源は無理やり自分の元へ寄せた。私が迷惑しているのも知らずに。
しかし、女の人は私の表情よりも羅衣源の行動に驚いたらしく、目を見張っている。
「彼女の名は抄華。私の番だ」
羅衣源は満更でもない様子で告げる。私はそれを聞いた瞬間、彼の顔を見つめた。というよりは睨みつけた。
(番だなんて、そんなの決まってないし、承諾もしてないのに……!)
私はひどく動揺するが、それを聞いた彼女は歓喜の声を上げる。
「えっ、つ、番様が!その方ですか!」
瞳を輝かせ、口に手を当てて確かめるように羅衣源に問いかける。
「そうだ」
羅衣源がはっきりと頷くと、彼女はさらに慌てふためいた。でも、その行動には喜びが混じっているのがよく分かる。
「ああっ、ようやく見つかった!お告げのおかげかしら?本当に当たるのね。やっぱり凄いわ」
あまりにも彼女の口からポンポンと言葉が発せられるものだから、私は口を開けたまま静止する。
「まずはお父上様に報告かしら?それからお母様にもご報告を。あと妹君様も。あっ、その前に屋敷のみんなにも報告しないと……」
「凛音、落ち着け」
羅衣源が静かに言い放つと、凛音と呼ばれた彼女は夢から覚めるようにはっと我に返る。そして、顔を赤らめて縮こまった。
「私としたことが取り乱しました。すみません……」
「いや、いい。それよりも、抄華の傷の手当てを頼めるか?」
「えっ、お怪我をなされているんですか?それは大変!もちろんですとも」
私抜きで話を進めないでもらいたい。割り込んで止めたい気持ちもあるが、隙がない。
「ならば、宜しく。私は少し用を済ませてから行くから」
そして羅衣源はくるりと向きを変えて私と向き合う。
「と、言うわけだから凛音に着いていけ。私も、用が済めばすぐに行くから」
「は、はい……」
なんがどんどん話が進んでいってしまう。でも、ここまできて断る雰囲気もない。俯く私の手を、今度は凛音という女声が掴む。
「それでは、抄華様。どうぞこちらへ」
そうして私は再び連れられていくのであった。ほんと、今日は驚くことが次から次へとくる。
「ささっ、こちらでございます」
案内されたのは、障子と襖を使って仕切られた部屋。花の刺繍が施された襖を凛音が丁寧に開けると、そこは綺麗に整頓された内装が広がっていた。
化粧台、寝具、机、なんでも揃っていて、ここで生活できそうだ。広さも、たった一つの部屋なのに私の家全てを合わせたぐらいある。
(この部屋は一体なんなんだろう……)
そう尋ねようとしたのだが。
「あ、のっ……」
突然喉がキュッと閉じて、うまく声が出せなかった。
(あ、あれ?)
私は首を傾げて喉を抑える。もう一度声を発せようとしたが、無理だった。まさか、私の体質が出たのか。でも、なら何故。さっきまでは、羅衣源と何ともなく話せていたのに。
「あ、あのっ、こ、こは…?」
(ダメだ。やっぱり声が出ない……)
けれど、私が部屋中に視線を彷徨わせていたせいか、凛音は私の言いたいことが分かったらしく、にっこりと微笑む。
「ここは、帝様の番に選ばれた者に与えるお部屋なのですよ」
それを聞いて、私は気まずくなる。私は別に番と決まったわけじゃない。ただ、羅衣源がそう口にしているだけだ。
「さぁ、抄華様。お座りください」
そんな私の心情なんていざ知らず、凛音は私を座布団へ座らせる。しかも、何故か「様」付けで。
そして、いつの間に持っていたのか木箱を取り出して蓋を開けた。中には沢山の医療品が入っていた。どれも、高価で、庶民には手の届かないような物たちが。凛音は慣れた手つきで包帯と薬を取り出す。
「さっ、お怪我をしたところを見せてくださいませ」
私はこくんと頷いて、足を差し出した。人に見せようとして出したことなんてないから、少し恥ずかしい。どんな反応をされるんだろう、と内心緊張する。
すると案の定、凛音は私の足を見て顔をしかめた。それを見て、私はため息をつく。自分自身に。
(そうだよね、私の足なんて全く綺麗じゃないもの。きっと、凛音だって醜い足を見せられて嫌な気分になっているんでしょう)
だが、凛音が発した言葉は予想外だった。
「なんで酷い!抄華様の美しい足がこんなにも汚されるなんて!」
思わず突っ込みたくなった。その上、そんなにも取り乱すことじゃないでしょう。しかも、美しいだなんて、この場で使う言葉じゃない。
私はその言葉に恥ずかしく、だが少し嬉しさを感じた。
(分かってる。凛音はきっと、お世辞で言っているんでしょう)
でも、綺麗なんて言葉をあまりかけてもらっていなかった私にとって、お世辞だろうが何だろうが嬉しかった。
「すぐに手当しなくては」
凛音は慌てた様子で布に薬を染み込ませ、傷口に当てた。途端、ズキッとさ痛みが蘇ってきた。私は奥歯を噛んで、その痛みに耐える。私も、もう大人。当たり前だけど泣くなんてみっともない。
痛みを増幅させた薬は、しかし傷口を清潔にしてくれた。血が拭き取られた傷口に、凛音は丁寧に包帯を巻く。
「さぁ、これでもう大丈夫ですよ」
私の怪我は、あっという間に手当てされ、痛みも引いていた。
ありがとうございます。と、お礼を言いたかったのだが、私の喉は相変わらず声をうまく出してくれなかった。代わりにペコリと会釈する。
その思いも凛音は受け取ってくれたようで、優しく微笑んで「どういたしまして」と言った。そこに、丁度良く襖が開く音が響く。
「おお、手当は終わったか」
羅衣源だった。
「ええ、今、いたしましたので、すぐに治りますよ」
「助かった。感謝する」
「いえいえ、めっそうもない」
凛音は床に頭がつきそうなほど深くお辞儀し、急いで使ったものを片付ける。
「では、私はこれで」
羅衣源と入れ違いになるように、彼女は部屋の外へ出ていった。「ごゆっくり」と意味ありな笑みを残して。部屋は、私と羅衣源と二人だけの空間になる。
「凛音はああ言っていたが、怪我は大丈夫か?」
「はい。丁寧に手当てをしてもらいましたから」
と、そこまで言ったところではたと気づく。来た時と同じように、羅衣源と普通に会話できていることに。
喉を押さえて、自分の声帯が震えていることを確かめる。
(さっきのは何だったんだろ……)
喉が締め付けられた感覚が嘘のようだ。やっぱり、羅衣源が原因なのか。羅衣原といる時だけ、何の不自由もなく声が出せる。やはり、彼の持つ雰囲気の問題なのだろうか。
不思議だな、と改めて疑問として湧き上がる。そんな私に、羅衣源は笑いかけた。
「それならば良かった」
そして、私の近くに歩み寄ると、隣に腰を下ろした。
肩が触れそうなほどの近さに、私は反射的に体を動かす。しかし、その仕草が気に入らなかったのか、羅衣源は眉をひそめた。
「何故避ける?」
「いや、その……触れられることに慣れてないので」
適当にも程がある言い訳だ、と自分の考えのなさに呆れたが、羅衣源は以外にも理解してくれた。
「そうか……。ならば仕方あるまい」
そう呟き、程よい距離をとって羅衣源は私と向かい合う。
「それでなんだが。抄華……」
なんだか似たようなくだりが先ほどもあった気がする。と、私は身構えた。羅衣源は一呼吸置いた後、再び声を発する。
「もう一度言う。私の番になってくれぬか?」
「お断りします」
私は即座に答えた。やっぱりこの質問。今日だけで2回は繰り返している。
この返事は予想ていたのか、羅衣源はさほど表情を崩さなかった。しかし、どうにも納得できないと言った様子で質問を投げかけてくる。
「さっきから断ってばかりいるが、それは何故だ?」
「何故、と言われましても……無理なものは無理です」
「その無理な理由を聞きたいのだがな」
「それは、その……お話しすることはできません」
「そう、か。まさか、他の夫がいるからか……?」
「まさか。そういうわけではありません。元より、私には夫なんていませんし……」
自分自身で言ったにも関わらず、これを口にすると気分が暗くなる。改めて自分の惨めさが思い知らされて恥ずかしくなる。消えてしまいたい。
「夫がいない……?その齢で、か?」
「ええ。何度かお見合いもしたんですけど、すべて、私の体質のせいで……破談に」
「つまり、今まで男と縁を結んだことも、肉体関係を結んだこともないということか?」
「はい……」
(こんなことを聞いて、羅衣源はどう思うんだろう?)
考えるまでもない。きっと、呆れてしまう。でも、そしたら私は解放される。
悲しくも、そうなることが一番だと思い、望む答えが羅衣源の口から出るのを待ったが…。
「なるほど、そうなのか。やはりお前は私の番のようだ」
「……へっ?」
腕を組んで頷いている彼が言ったのは、全く別の言葉だった。羅衣源は何故か一人で納得している。
予想だにしなかった反応に、私は面食らう。
(なるほど?何が?)
てっきり、可笑しいとかありえないとか言われるのだと思っていた。それは私の言葉をちゃんと聞いていたか心配になったほどに。それに、やっぱりとはどういうことだろう。
彼は言った。
「やはりお前は私の番だ」と。
(私に夫が出来ないことが、どうしてそれに繋がるんだろう)
私の脳内はこんがらがる。
「ど、どういうこと?」
溜まらず訊いてみると、羅衣源はピクリと体を震わせて私を捉える。一瞬目を伏せた後、申し訳なさそうな表情を見せた。
「ああ、すまない。いきなり言われても困るよな」
羅衣源は複雑な色合をした瞳で説明した。
「君はおそらく、帝の番になる運命を背負わされた人間だ」
「えっ、う、運命を……?」
「ああ」
羅衣源は深く頷き、しばらく目を瞑る。誰も声を発しない静かな世界の中で、私の思考は羅衣源の言葉で埋め尽くされた。
運命を背負わされた。
(つまり、元から私は帝の番になることが決まっていたってこと?)
でも、何故それが、私が夫がいないことと繋がるのか。
すると、羅衣源は私の心を読んだかのように、その運命の意味を説明してくれた。浮かない顔の彼に、嫌な予感が芽生える。
「帝の一族には必ず、運命人、さっき言ったように、帝の番になる運命を背負わされた者がいる。というよりは、その者と一緒に運命を背負っていくと言った方が正しいか…」
「運命人……。それはつまり、元々定められた運命を持っているってこと……?」
「そうだ。二人が通るためだけに一つの道が作られる。そのように、二人で一つの運命を歩んでいく。その二人として結ばれたのが、帝と運命人だ」
「ちょっと待って。だから何故、それが私の現状と関係があるの?」
尋ねると、羅衣源はああ、と瞳に闇を落として言った。
「運命人になると、帝以外の夫を持てなくなる人生になるのだ」
「……えっ?」
「しかもそれは、随分と昔から決まっている理なのだ」
帝以外の夫を持てない。言い換えれば、帝以外からは愛されない。故に、他の男とは縁を結べない。
(羅衣源が、あなたが言いたいのは、つまりそういうこと?)
「じ、じゃあ今まで私が誰にも見染められなかったのは……」
「お前が、運命人だったからだろうな」
羅衣源は静かに言い放った。諭すように、宥めるように。
そんな、と血の気が一気に引いていく感覚に陥る。初めて知る事実に、全身が氷のように凍てついて、感覚が失われていった。体がワナワナと震える。体温がどんどん下がって、纏わりつく空気が凍てついたものになる。
ー運命人ー
側から見れば、聞こえの良い言葉だろう。しかし、私にとっては耳障りでしかない。
(つまり、私は帝のせいで夫ができなかったってこと……?)
「あなたのせいで、私の人生はこうなったの?」
「そうだ」
否定もせず、躊躇うこともなく、彼は首を縦に振る。
(この一族に運命人なんてものを背負わされたばかりに、両親に迷惑をかけて、周りから馬鹿にされてきたの?)
「あなたのためだけに、私は馬鹿にされてきたの?」
「そうだ」
羅衣源は感情を乗せずに全てを肯定する。彼は全てを受け入れる覚悟をしたのだ、と気づくのにそう遅くはなかった。
自分は悪くなかったと分かった今、今度はその怒りが別のものへと移っていく。
(じゃあ……じゃあっ!一体、今まで私が受けたことはなんだったの!?)
腹の奥から、いや、体全体が炎に包まれたように熱くなっていった。私の中で、大釜がぐつぐつ煮えたぎっているみたいだった。苦しみ、悲しみ、悔しさ。いろんな思いが絡んで、混ざり合って、私の心を支配していく。
「私は、私は……っ!」
拳を強く握りしめる。それでも感情は止まらず、膨らみ続ける。
思い出すのは、胸が押しつぶされそうな苦しみの中で生きていた毎日。もがきながら、ただ自身を呪って過ごした日々。
「今まで……ずっと……辛い思いをしてきたの……っ!」
おかしくなりそうだった。体も心も、私と言う存在全てが、今は怒りという炎に侵されている。
「家族に迷惑かけて……自分のせいだって、思ってた……私自信が悪いって……」
だけど、実はそうではなかった。その事実に、気がついてしまった。
思わず立ち上がっていた。床に座る彼を、私は上から睨みつける。
「どうして……なんでよっ!なんで、こんなことになったの……っ!」
どうか、彼が話したことが嘘でありますように。そう、心の何処かで願っていたに違いない。
でも。
「本当にすまない、抄華。私なんかのせいでお前が辛い目に遭っていたとは。もっと早くに出会えればよかった」
羅衣源は嘆いていた。俯いて、なんとも言えない表情を足下に向けている。彼は、まるで自分がやったことかのように、深く後悔していた。それは、残酷な事実を、相手が知らなかったことを告げた時にしかできない表情だった。
分かってる。羅衣源は悪くない。
分かってる。羅衣源のせいでも、誰のせいでもない。
しかし、彼が謝る姿を見ても私の怒りは収まらなかった。むしろ、逆に蓄積されていく。そしてとうとう、爆発した。
私の中の何かが、弾けて砕けた。空気の入れすぎた毱が破裂するように。ガラスが砕かれるように。
「あなたのせいだっ!」
私があまりにも大きな声を出したから驚いたのだろう。羅衣源は声と連動するように体を痙攣させ、美しい瞳を私に向けた。ありえない、と言いたげな色を宿して。
自分でも、こんな声が出せるものかと内心びっくりした。
(でも、もういっか……)
ここまで来たら、もうぶつけるしか他にない。私は自分の心に掛けていた感情を抑えるための錠を開け、解放した。
「あなたのせいで私の人生は崩れた。あなたのせいでみんなに迷惑かけた。あなたのせいでっ!」
喉の奥が熱い。まるで、火の玉を飲み込んで焼かれているようだ。目頭も、このまま燃えるんじゃないかと思うほど熱がこもっていた。
「どうしてこうなったの!?私は何故こんな運命に生まれてきてしまったの!?望んだわけでもないのにっ!」
そして、頭の中では言葉で表しきれないぐらいのひどい言葉が散乱していた。これを全部吐き出したら、どんなに気持ちいいんだろう。
でも、そう思うのに全ての感情を目の前の相手にぶつけられないのも、私という人間の弱みだった。
私はただ、目の前にいる男を睨み続ける。羅衣源は、そんな私をじっと見つめていた。
(何よ。言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない)
羅衣源は一度瞳を閉じた後、ふうっと息を吐く。
「すまない」
彼は静かな声で言った。
「私なんかのために、抄華に苦労させてしまって、本当に申し訳ないと思っている」
彼はとても優しかった。散々当たり散らす私の言葉を、否定もせずに聞き入ってくれる。
自分のせいじゃないはずなのに、罪悪感を抱えて頭を下げている。あなたがするはずじゃないことをしている、そんなことは私だって理解していた。
だけれども、この胸の怒りの炎は消えることがない。むしろ、彼が謝れば謝るほど油を注がれたように炎は勢いを増してしまっている。
項垂れる彼の姿を、私はじっと黙って見つめた。
「辛かっただろう、苦しかっただろう。心の傷がどれほどのものか、私は知っている」
彼の声は優しかった。全てを包み込んでくれるようで。だが、それがまた、私の怒りの原因にもなる。
「知ったような口聞かないでよ!」
どうせあんたみたいな人間には、私の苦労なんか分からないんだから。私の屈辱なんか、知る良しもないんだから。
「私の苦しみなんて、誰も理解できるはずがないっ!」
もう限界だった。心も、体も、漂う空気感も。
「……ッ!本当に、すまない。全部、私のせいなのだ」
お願いだから肯定しないで。少しは抵抗してよ。羅衣源の何もかもを受け入れる姿勢が、私の感情をさらに暴走させた。
(あなたが謝らないで。あなたのせいじゃないことは知っているから。だから、私を否定してこの高ぶりを止めてよ)
自分だって、いや、むしろ自分に悪いところがあるのは理解しているはずなのに、受け止めてくれる人間がいると、どうしてもそっちに想いをぶつけたくなってしまう。
そして、その相手は頭を下げたままだった。
(もう、無理)
私の中で何かが割れた音がした。いや、正確にはヒビが入った。脆いガラスに足を投げつけられたみたいに。
(心が耐えられない……ッ!)
「もう、私に、構わないでっ!」
精神の崩壊を感じた私は、そんな言葉を吐いて走り出す。
「あっ、待て……」
羅衣源が止めようとするが、私はその手をすり抜けて部屋を飛び出した。そのまま、廊下を走り渡る。
私が走り去った場所には、幾つもの透明な滴が落ちていた。私は涙でぐちゃぐちゃだった。溜め込んでいた思いが涙という形で放出され、絶え間なく溢れてくる。
長い長い廊下には、たくさんの人たちが行き交っていた。彼らは泣きくじゃる私の姿を見るたび、驚きの声を上げていく。
「お、お前はなんだ!」
「侵入者か?」
「痛っ。気をつけてよ!」
時折通りすがりの女中や役人とぶつかりながらもなお、私は走った。すみません、の一言さえ口からは出てこなかった。そして、途中でさっきも見た顔が視界に映る。
「し、抄華様……?」
凛音だ。真っ白な布団を手に、目を見開いている彼女の姿を捉える。
「……っ!」
そんな彼女の横を、私は風を切って通り過ぎた。
「しょ、抄華様!お待ち下さい!」
背後から凛音の叫ぶ声が飛んでくる。焦った彼女の声が、私の耳にへばりつく。
お願いだから、もう、私に構わないで。私は目頭を腕で押さえて、視界を狭める。視野が暗くなる。何も見たくない、何も聞きたくない。
そのまま、私は寝殿から飛び降りるように出て、広大な庭を突っ切り、屋敷から逃走した。
後ろは相変わらず騒がしい。でも、それも私には関係なくなる。
これでいいんだ。と、自分に言い聞かせる。私はどんどん屋敷から離れていく。というりかは、羅衣源から離れるために逃げる。
あいつは、私の人生を奪ったやつだから。あんなやつと、もう二度と会いたくない。
私は涙を流したまま、もっと遠くへと足を進めていった。
もう、屋敷の声は何も聞こえない。