『今年 8月 この街の女より、帝が番をお選びになる』
焼き付けるような灼熱の日光が、体を焦がそうと輝きを見せつける空の下。熱気を帯びた生ぬるい空気が、昼間の匂いを運んで漂う。
汗が額にたらりと流れてくる中、私は立ち止まった。こんなにも暑い街の中に乙女の大群が集まっていた、その場所に。興味をそそられた私の足は、どうしてもその集団が気になってしまったらしい。
それで、彼女達が騒ぎながら見ているものを覗いたら、こんな張り紙が目についたのだ。
純白とも言える紙に黒々とした炭で書かれている字は、滑らかさもさることながら、包容力ある力強さが感じられる。
帝。番。選ぶ。
そのひとつ一つの単語を読み取り、意味として頭の中で組み取る。直訳すると、帝が番を見つける、ということ。
冷風も吹いていないのに、腕にぶわっと鳥肌が立つ。
ー番ー
それはつまり、帝の婚約者、妻のこと。古くから言われ続ける、帝が唯一愛する女のこと。
一夫多妻制のこの時代に、1人の女しか選ばないのは帝だけだ。
帝の番という存在は偉大であり、女が血眼で狙うものだった。
帝は、庶民は愚か、貴族でさえ比べ物にならないほど立派な屋敷に住んでいると噂されている。豪華な衣装に身を包み、見た目も麗しい人だ、と。ならば、その傍らで添い遂げる番もまた、同じような暮らしができるだろう。
数多なる女達にとって、帝の番になることは名誉なこと、憧れの存在だった。だが、帝が番を選ぶ時期は様々であり、選ばれる基準も明確にはなっていない。
それはまさしく、謎でありながら雲の上の存在となる。
故に群がる女達は皆、張り紙の文字を見てキャアキャアと黄色い声を上げているのだ。その歓声は、身を焦がすように光を照りつける太陽の熱をも押し返せる程。
「帝がついに番をお選びになるそうよ!」
「しかもこの街の中からですって!私たち、運がいいわねぇ〜」
「8月って、来週から始まるじゃないの!」
「いっけない。それまでに磨いておかなくちゃ」
「私だって」
誰もが頬を赤く染め、帝の隣に立つ自分を想像して喜色の叫びを上げている。
(さほど浮かれていないのは、多分自分からぐらいだろうな)
人混みの中に紛れて1人ぽつんと立っている私は、何となくそんな考えが浮かんだ。
いや、私だって驚きはしてるし、興奮している思いもある。現にさっき、鳥肌だって立ったし、体は感情を素直に表していた。
だって、あの帝が、あの国をまとめてくださる方が、番をお選びになるのだから。しかもそれが、私の住んでいる街からだと知ると、さらに胸のときめきが高まる。
帝は、その座についてからしばらくして妻を迎え入れることが多い。
丁度、去年に代が変わったから、番選びはそろそろだろうな、とは思っていた。
帝の番に選ばれるのは、女にとってこの上ない、名誉なことなのだ。
番となった女は、一生愛される。どころか、周りからも大切に扱われ、何不自由なく生活することができる。
そんな噂が流れている。というよりかは、そうであるべきなのだ。
番になる女は、夫を持っている者でも良い。ただし、もし夫を持つ女が番に選ばれた場合、夫とは別れなければいけない。
だが、妻を差し出したということで夫にも何かしら帝からのいい待遇があるらしい。よって、自分の女が番に選ばれれば、夫も喜んで妻を差し出すと言う。
だから、帝の番選びの時は、大抵家族全員で気合を入れるものだ。
でも……。
(私は、旦那様がいないんだよね)
自覚しているはずなのに、現実を改めて思い返すと、ズンっと体に鉛が乗っかったように重くなる。私は喜びを全身に出している女達とは一転、暗い空気を纏っていた。
はぁ、と重い息が肺から吐き出される。
妻。夫。縁。
そんな言葉を聞いただけで、私の心はいつだって暗く沈み、疲れてしまう。
何せ、私は生まれてから一度も、恋人ができたことも、夫を持ったこともなかった。そもそも、誰かに好いてもらったことがない。恋というものを知らなかった。
理由は未だに分からない。性格が悪い子もないと思う。容姿がそれほど醜くもないと思う。特別欠けている部分があるとも思えない。
(なのに、何で私だけなの……?)
周囲の人間や知り合い、友達はどんどん縁談を進めているというのに、何故私だけが取り残されているのか。お陰で両親にはすごく心配をかけている。
今日だって、そうだった。
私に合いそうな人を必死に探して、いい人を見つければ「どうかな、この人?」と毎度のように勧める。
名前が載っている名簿だけを見ても分からない私は、大抵「うーん……」としか答えられない。
(その人に会ってみないと、どうかなんて分からないもの)
そんな胸の内を話しつつ、私は両親の頭から縁談のことを消し去ることを目論む。
しかし、結果は毎回逆効果。それならば、と親はその人を本当に連れてきてしまい、ほぼ無理矢理のお見合いになる。
ただ、名前や顔を見るだけならいい。でも、お見合いとなると話をしなければならなくなる。
問題はそこだった。
人と話すのが苦手な私は、会話が繋がらないのだ。とりわけ、初対面の人とは。話そうとするも、喉が手で締められるように声は出なくなるし、まともに呼吸ができなくなる。
特に病気とかではなく、生まれつきの性格みたいなものだと、みんなの結論がそれに至った。
相手が無口な人だと余計に沈黙が目立って、音のない空間で時間が過ぎてしまう。また、話しかけてくれる人でも私が上手く受け答えできないからあっという間に会話を終わらせてしまう。
結果、相手をつまらない思いにさせてしまったまま終わってしまい、連れてこられた人たちは帰ってしまう。
そんな男の人の後ろ姿を、悲しそうに眺める両親の姿がいつも頭から離れなくなるのだ。
しかし、両親は決して私を責めたりはしなかった。ふぅ、とため息をついて、私の方を振り返って、笑顔で言う。
また頑張ろう、と。
その言葉が、私の心に鎖を絡めた。
分かってる。親は私のことを想ってくれているということを。
でも、だからといって親に迷惑はかけたくないし、慰めてもらいたくもなかった。
胸が張り裂けそうになった私は、また、こうして気分転換という現実逃避をしている。
そんなこんな、私の問題で、私は夫ができないのであった。
正直、こんな不甲斐ない自分が情けない。変わりたい。変わって、普通の人として人生を生きたい、と何度願ったことか。
強い意志はあるのに、どうしても会話ができない性格は治らなかった。恐らく、自分の努力ではもう、どうにもならないのだろう。
自分の性格の悪さに腹が立つ。同時に、惨めに思えてくる。
(きっと私は、一生一人で暮らすんだろうな)
今時、独り身の人間なんていない。誰かしら、相手は必ず見つけているのだ。それも何人も。相手のいない人間なんて、せいぜい私ぐらいだろう。
私は両親の恥だ。
目頭が熱を帯びたように熱くなる。私は慌てて目を擦った。
こんな自分なんて捨てたい。
でも、想いはどんどん溢れてきて、涙もその勢いに押される。
私はきっと、誰からも愛されないんだ。
(こんなところで、泣いちゃダメなのにっ)
悲しく、居た堪れない思いに押しつぶされそうになった私は、張り紙からそっと離れた。一粒の雫を、誰にも悟られないように落として。
帝なんて、私には遠く及ばない存在。そして、その隣に立つ番もまた、私には関わりのない話だ。
そんなことはもう、分かりきっている。
だから、私には関係のない話だろうと思っていた。その時は。
そんな、俯きがちに歩く彼女の上を、黒い嘴と葉の扇を持った、人型の生き物が飛んでいた。背に漆黒に近い色の羽を生やし、黒々とした瞳で張り紙に群がる女を見つめていた。
それは、天狗と呼ばれるあやかしだった。
空にあやかしが飛んでいたことを、そいつに観察されていたことを、誰も知る由はなかった。
焼き付けるような灼熱の日光が、体を焦がそうと輝きを見せつける空の下。熱気を帯びた生ぬるい空気が、昼間の匂いを運んで漂う。
汗が額にたらりと流れてくる中、私は立ち止まった。こんなにも暑い街の中に乙女の大群が集まっていた、その場所に。興味をそそられた私の足は、どうしてもその集団が気になってしまったらしい。
それで、彼女達が騒ぎながら見ているものを覗いたら、こんな張り紙が目についたのだ。
純白とも言える紙に黒々とした炭で書かれている字は、滑らかさもさることながら、包容力ある力強さが感じられる。
帝。番。選ぶ。
そのひとつ一つの単語を読み取り、意味として頭の中で組み取る。直訳すると、帝が番を見つける、ということ。
冷風も吹いていないのに、腕にぶわっと鳥肌が立つ。
ー番ー
それはつまり、帝の婚約者、妻のこと。古くから言われ続ける、帝が唯一愛する女のこと。
一夫多妻制のこの時代に、1人の女しか選ばないのは帝だけだ。
帝の番という存在は偉大であり、女が血眼で狙うものだった。
帝は、庶民は愚か、貴族でさえ比べ物にならないほど立派な屋敷に住んでいると噂されている。豪華な衣装に身を包み、見た目も麗しい人だ、と。ならば、その傍らで添い遂げる番もまた、同じような暮らしができるだろう。
数多なる女達にとって、帝の番になることは名誉なこと、憧れの存在だった。だが、帝が番を選ぶ時期は様々であり、選ばれる基準も明確にはなっていない。
それはまさしく、謎でありながら雲の上の存在となる。
故に群がる女達は皆、張り紙の文字を見てキャアキャアと黄色い声を上げているのだ。その歓声は、身を焦がすように光を照りつける太陽の熱をも押し返せる程。
「帝がついに番をお選びになるそうよ!」
「しかもこの街の中からですって!私たち、運がいいわねぇ〜」
「8月って、来週から始まるじゃないの!」
「いっけない。それまでに磨いておかなくちゃ」
「私だって」
誰もが頬を赤く染め、帝の隣に立つ自分を想像して喜色の叫びを上げている。
(さほど浮かれていないのは、多分自分からぐらいだろうな)
人混みの中に紛れて1人ぽつんと立っている私は、何となくそんな考えが浮かんだ。
いや、私だって驚きはしてるし、興奮している思いもある。現にさっき、鳥肌だって立ったし、体は感情を素直に表していた。
だって、あの帝が、あの国をまとめてくださる方が、番をお選びになるのだから。しかもそれが、私の住んでいる街からだと知ると、さらに胸のときめきが高まる。
帝は、その座についてからしばらくして妻を迎え入れることが多い。
丁度、去年に代が変わったから、番選びはそろそろだろうな、とは思っていた。
帝の番に選ばれるのは、女にとってこの上ない、名誉なことなのだ。
番となった女は、一生愛される。どころか、周りからも大切に扱われ、何不自由なく生活することができる。
そんな噂が流れている。というよりかは、そうであるべきなのだ。
番になる女は、夫を持っている者でも良い。ただし、もし夫を持つ女が番に選ばれた場合、夫とは別れなければいけない。
だが、妻を差し出したということで夫にも何かしら帝からのいい待遇があるらしい。よって、自分の女が番に選ばれれば、夫も喜んで妻を差し出すと言う。
だから、帝の番選びの時は、大抵家族全員で気合を入れるものだ。
でも……。
(私は、旦那様がいないんだよね)
自覚しているはずなのに、現実を改めて思い返すと、ズンっと体に鉛が乗っかったように重くなる。私は喜びを全身に出している女達とは一転、暗い空気を纏っていた。
はぁ、と重い息が肺から吐き出される。
妻。夫。縁。
そんな言葉を聞いただけで、私の心はいつだって暗く沈み、疲れてしまう。
何せ、私は生まれてから一度も、恋人ができたことも、夫を持ったこともなかった。そもそも、誰かに好いてもらったことがない。恋というものを知らなかった。
理由は未だに分からない。性格が悪い子もないと思う。容姿がそれほど醜くもないと思う。特別欠けている部分があるとも思えない。
(なのに、何で私だけなの……?)
周囲の人間や知り合い、友達はどんどん縁談を進めているというのに、何故私だけが取り残されているのか。お陰で両親にはすごく心配をかけている。
今日だって、そうだった。
私に合いそうな人を必死に探して、いい人を見つければ「どうかな、この人?」と毎度のように勧める。
名前が載っている名簿だけを見ても分からない私は、大抵「うーん……」としか答えられない。
(その人に会ってみないと、どうかなんて分からないもの)
そんな胸の内を話しつつ、私は両親の頭から縁談のことを消し去ることを目論む。
しかし、結果は毎回逆効果。それならば、と親はその人を本当に連れてきてしまい、ほぼ無理矢理のお見合いになる。
ただ、名前や顔を見るだけならいい。でも、お見合いとなると話をしなければならなくなる。
問題はそこだった。
人と話すのが苦手な私は、会話が繋がらないのだ。とりわけ、初対面の人とは。話そうとするも、喉が手で締められるように声は出なくなるし、まともに呼吸ができなくなる。
特に病気とかではなく、生まれつきの性格みたいなものだと、みんなの結論がそれに至った。
相手が無口な人だと余計に沈黙が目立って、音のない空間で時間が過ぎてしまう。また、話しかけてくれる人でも私が上手く受け答えできないからあっという間に会話を終わらせてしまう。
結果、相手をつまらない思いにさせてしまったまま終わってしまい、連れてこられた人たちは帰ってしまう。
そんな男の人の後ろ姿を、悲しそうに眺める両親の姿がいつも頭から離れなくなるのだ。
しかし、両親は決して私を責めたりはしなかった。ふぅ、とため息をついて、私の方を振り返って、笑顔で言う。
また頑張ろう、と。
その言葉が、私の心に鎖を絡めた。
分かってる。親は私のことを想ってくれているということを。
でも、だからといって親に迷惑はかけたくないし、慰めてもらいたくもなかった。
胸が張り裂けそうになった私は、また、こうして気分転換という現実逃避をしている。
そんなこんな、私の問題で、私は夫ができないのであった。
正直、こんな不甲斐ない自分が情けない。変わりたい。変わって、普通の人として人生を生きたい、と何度願ったことか。
強い意志はあるのに、どうしても会話ができない性格は治らなかった。恐らく、自分の努力ではもう、どうにもならないのだろう。
自分の性格の悪さに腹が立つ。同時に、惨めに思えてくる。
(きっと私は、一生一人で暮らすんだろうな)
今時、独り身の人間なんていない。誰かしら、相手は必ず見つけているのだ。それも何人も。相手のいない人間なんて、せいぜい私ぐらいだろう。
私は両親の恥だ。
目頭が熱を帯びたように熱くなる。私は慌てて目を擦った。
こんな自分なんて捨てたい。
でも、想いはどんどん溢れてきて、涙もその勢いに押される。
私はきっと、誰からも愛されないんだ。
(こんなところで、泣いちゃダメなのにっ)
悲しく、居た堪れない思いに押しつぶされそうになった私は、張り紙からそっと離れた。一粒の雫を、誰にも悟られないように落として。
帝なんて、私には遠く及ばない存在。そして、その隣に立つ番もまた、私には関わりのない話だ。
そんなことはもう、分かりきっている。
だから、私には関係のない話だろうと思っていた。その時は。
そんな、俯きがちに歩く彼女の上を、黒い嘴と葉の扇を持った、人型の生き物が飛んでいた。背に漆黒に近い色の羽を生やし、黒々とした瞳で張り紙に群がる女を見つめていた。
それは、天狗と呼ばれるあやかしだった。
空にあやかしが飛んでいたことを、そいつに観察されていたことを、誰も知る由はなかった。