時は平安。

 東方にある小さな国の民は、人ならざる者、あやかしとの共存を果たしていた。

 其の国を、日本国という。

 人や物や権力に溢れた国。海に囲まれたとても小さな離島でありながら、そこは宝石の如く光り輝いていた。雅な文化が栄え、人々は華やかな着物に身を包み、鮮やかな装飾品で自身を着飾り、豪華な食事に舌鼓を打つ。豪華絢爛、という言葉は日本国のためにあるように思えた。
 
 しかし、それは身分の高い貴族に限った話。

 光り輝く世界があれば、当然、闇の中でひっそりと生きる者もいる。というより、生涯目立つことはない身で暮らす庶民の方が明らかに多かった。

 庶民はもちろん、貴族のように贅沢はできない。生まれたときから仕事を与えられ、毎日汗水を流しながら命の灯火を繋いでいく。生まれた時から、彼らの運命はそう決まっているのだった。

 だが、例外はあった。それは女性だ。

 彼女たちは、生まれた家柄が永遠、というわけではなかった。自分の人生を、大きく変えることが可能であったのだ。

 何故か。

 その理由は、日本国が一夫多妻制だったからであった。男は好きな女を何人でも妻として娶って良い。また、女も好いた男をいくらでも夫として良い。そんなことが、世間一般で許されている時代。

 故に、日本国の男女は複数の相手と縁を結び、生涯を過ごした。妻夫が指の数ほどいるのは、最早常識と化していた。

 しかし、そんな時代背景の中でも、一人の女にしか愛情を注がなかった者がいたという。

 それは、日本国を統べる男、帝であった。

 仕来りたりなのか偶然なのかは誰も知る由もないが、帝となる男はたった一人の女しか妻として受け入れなかった。数多なる女の中から選びぬかれた者は、生涯帝の寵愛を受けながら生きると言われている。

 その女、つまりは帝の妻を、(つがい)と言った。

 この時代の女にとって、帝の(つがい)となることほどの名誉はない。その座は女たちにとって憧れの席であった。

 だが、帝が何を基準にして(つがい)とする女を選ぶのかは明確になっておらず、また時期も不明。

 よって日本国の女らは、何人もの自身の夫と時を過ごしつつ、日々自分を磨いていた。帝が(つがい)を選ぶ、その日を心待ちにして。

 
『今年 8月 この街の女より、帝が(つがい)をお選びになる』

 焼き付けるような灼熱の日光が、体を焦がそうと輝きを見せつける空の下。熱気を帯びた生ぬるい空気が、昼間の匂いを運んで漂う。

 汗が額にたらりと流れてくる中、私は立ち止まった。こんなにも暑い街の中に乙女の大群が集まっていた、その場所に。興味をそそられた私の足は、どうしてもその集団が気になってしまったらしい。

 それで、彼女達が騒ぎながら見ているものを覗いたら、こんな張り紙が目についたのだ。

 純白とも言える紙に黒々とした炭で書かれている字は、滑らかさもさることながら、包容力ある力強さが感じられる。

 帝。(つがい)。選ぶ。  

 そのひとつ一つの単語を読み取り、意味として頭の中で組み取る。直訳すると、帝が(つがい)を見つける、ということ。

 冷風も吹いていないのに、腕にぶわっと鳥肌が立つ。

 ー(つがい)

 それはつまり、帝の婚約者、妻のこと。古くから言われ続ける、帝が唯一愛する女のこと。
 
 一夫多妻制のこの時代に、1人の女しか選ばないのは帝だけだ。

 帝の(つがい)という存在は偉大であり、女が血眼で狙うものだった。

 帝は、庶民は愚か、貴族でさえ比べ物にならないほど立派な屋敷に住んでいると噂されている。豪華な衣装に身を包み、見た目も麗しい人だ、と。ならば、その傍らで添い遂げる(つがい)もまた、同じような暮らしができるだろう。

 数多なる女達にとって、帝の(つがい)になることは名誉なこと、憧れの存在だった。だが、帝が(つがい)を選ぶ時期は様々であり、選ばれる基準も明確にはなっていない。
 
 それはまさしく、謎でありながら雲の上の存在となる。

 故に群がる女達は皆、張り紙の文字を見てキャアキャアと黄色い声を上げているのだ。その歓声は、身を焦がすように光を照りつける太陽の熱をも押し返せる程。

「帝がついに(つがい)をお選びになるそうよ!」
「しかもこの街の中からですって!私たち、運がいいわねぇ〜」
「8月って、来週から始まるじゃないの!」
「いっけない。それまでに磨いておかなくちゃ」
「私だって」

 誰もが頬を赤く染め、帝の隣に立つ自分を想像して喜色の叫びを上げている。

(さほど浮かれていないのは、多分自分からぐらいだろうな)

 人混みの中に紛れて1人ぽつんと立っている私は、何となくそんな考えが浮かんだ。
 
 いや、私だって驚きはしてるし、興奮している思いもある。現にさっき、鳥肌だって立ったし、体は感情を素直に表していた。

 だって、あの帝が、あの国をまとめてくださる方が、(つがい)をお選びになるのだから。しかもそれが、私の住んでいる街からだと知ると、さらに胸のときめきが高まる。

 帝は、その座についてからしばらくして妻を迎え入れることが多い。
 
 丁度、去年に代が変わったから、(つがい)選びはそろそろだろうな、とは思っていた。
 
 帝の(つがい)に選ばれるのは、女にとってこの上ない、名誉なことなのだ。

 (つがい)となった女は、一生愛される。どころか、周りからも大切に扱われ、何不自由なく生活することができる。
 
 そんな噂が流れている。というよりかは、そうであるべきなのだ。
 
 (つがい)になる女は、夫を持っている者でも良い。ただし、もし夫を持つ女が(つがい)に選ばれた場合、夫とは別れなければいけない。

 だが、妻を差し出したということで夫にも何かしら帝からのいい待遇があるらしい。よって、自分の女が(みかど)に選ばれれば、夫も喜んで妻を差し出すと言う。

 だから、帝の(つがい)選びの時は、大抵家族全員で気合を入れるものだ。

 でも……。

(私は、旦那様がいないんだよね)
 
 自覚しているはずなのに、現実を改めて思い返すと、ズンっと体に鉛が乗っかったように重くなる。私は喜びを全身に出している女達とは一転、暗い空気を纏っていた。

 はぁ、と重い息が肺から吐き出される。

 妻。夫。縁。

 そんな言葉を聞いただけで、私の心はいつだって暗く沈み、疲れてしまう。

 何せ、私は生まれてから一度も、恋人ができたことも、夫を持ったこともなかった。そもそも、誰かに好いてもらったことがない。恋というものを知らなかった。

 理由は未だに分からない。性格が悪い子もないと思う。容姿がそれほど醜くもないと思う。特別欠けている部分があるとも思えない。

(なのに、何で私だけなの……?)

 周囲の人間や知り合い、友達はどんどん縁談を進めているというのに、何故私だけが取り残されているのか。お陰で両親にはすごく心配をかけている。

 今日だって、そうだった。

 私に合いそうな人を必死に探して、いい人を見つければ「どうかな、この人?」と毎度のように勧める。
 
 名前が載っている名簿だけを見ても分からない私は、大抵「うーん……」としか答えられない。
 
(その人に会ってみないと、どうかなんて分からないもの)

 そんな胸の内を話しつつ、私は両親の頭から縁談のことを消し去ることを目論む。

 しかし、結果は毎回逆効果。それならば、と親はその人を本当に連れてきてしまい、ほぼ無理矢理のお見合いになる。

 ただ、名前や顔を見るだけならいい。でも、お見合いとなると話をしなければならなくなる。

 問題はそこだった。
 
 人と話すのが苦手な私は、会話が繋がらないのだ。とりわけ、初対面の人とは。話そうとするも、喉が手で締められるように声は出なくなるし、まともに呼吸ができなくなる。
 
 特に病気とかではなく、生まれつきの性格みたいなものだと、みんなの結論がそれに至った。
 
 相手が無口な人だと余計に沈黙が目立って、音のない空間で時間が過ぎてしまう。また、話しかけてくれる人でも私が上手く受け答えできないからあっという間に会話を終わらせてしまう。
 
 結果、相手をつまらない思いにさせてしまったまま終わってしまい、連れてこられた人たちは帰ってしまう。

 そんな男の人の後ろ姿を、悲しそうに眺める両親の姿がいつも頭から離れなくなるのだ。

 しかし、両親は決して私を責めたりはしなかった。ふぅ、とため息をついて、私の方を振り返って、笑顔で言う。

 また頑張ろう、と。

 その言葉が、私の心に鎖を絡めた。

 分かってる。親は私のことを想ってくれているということを。

 でも、だからといって親に迷惑はかけたくないし、慰めてもらいたくもなかった。

 胸が張り裂けそうになった私は、また、こうして気分転換という現実逃避をしている。

 そんなこんな、私の問題で、私は夫ができないのであった。 
 
 正直、こんな不甲斐ない自分が情けない。変わりたい。変わって、普通の人として人生を生きたい、と何度願ったことか。
 
 強い意志はあるのに、どうしても会話ができない性格は治らなかった。恐らく、自分の努力ではもう、どうにもならないのだろう。

 自分の性格の悪さに腹が立つ。同時に、惨めに思えてくる。

(きっと私は、一生一人で暮らすんだろうな)

 今時、独り身の人間なんていない。誰かしら、相手は必ず見つけているのだ。それも何人も。相手のいない人間なんて、せいぜい私ぐらいだろう。

 私は両親の恥だ。

 目頭が熱を帯びたように熱くなる。私は慌てて目を擦った。
 
 こんな自分なんて捨てたい。

 でも、想いはどんどん溢れてきて、涙もその勢いに押される。

 私はきっと、誰からも愛されないんだ。

(こんなところで、泣いちゃダメなのにっ)

 悲しく、居た堪れない思いに押しつぶされそうになった私は、張り紙からそっと離れた。一粒の雫を、誰にも悟られないように落として。

 帝なんて、私には遠く及ばない存在。そして、その隣に立つ(つがい)もまた、私には関わりのない話だ。
 
 そんなことはもう、分かりきっている。

 だから、私には関係のない話だろうと思っていた。その時は。

 そんな、俯きがちに歩く彼女の上を、黒い嘴と葉の扇を持った、人型の生き物が飛んでいた。背に漆黒に近い色の羽を生やし、黒々とした瞳で張り紙に群がる女を見つめていた。

 それは、天狗と呼ばれるあやかしだった。

 空にあやかしが飛んでいたことを、そいつに観察されていたことを、誰も知る由はなかった。

 
         

 小川に流れる水の如く、いつの間にか時は過ぎて、もう夏という身を焦がす季節を迎えた8月。

 真っ青な空の下、華やかな街並みと、その中心を華やかに飾る人々の行列が、そこにはあった。

 街の中は、いつにも増して賑やかであり、煌びやかだった。特に、女達は。普段は色気のない和服のくせに、今日は誰もが派手な衣装を見に纏っていた。

 それは、一生に一度着ることができれば良いとされる、女たちの晴れ衣装。
 
 金や銀の眩い刺繍が施されている着物。目の覚めるような濃い色から淡い色に移り変わっていく袴。服を目立たせるために華やかさを引き出す色とりどりの羽織。さらに、髪には式典のような特別な時に付けるであろう、花や動物をかたどった簪が揺らいでいた。

 みんながみんな、揃って着飾って、輝いて、強気な表情を浮かべている。まるで自身を注目してほしいと言わんばかりの女子達の格好に、いつもと同じ落ち着いた着物を着た私はため息をついた。

(みんな帝に見られたいようだけど、何がいいのか…)

 今日はいよいよ、張り紙にあった帝が(つがい)を選ぶ日。だから、街がこんなにも騒がしいのだ。

 女子達は街の周辺に群がる。そして、その道の真ん中を通るのが、帝を乗せた牛車だった。

 派手な装飾が施された牛車の簾や小さな物見から、顔を隠した男性が垣間見える。

「きゃー、帝様!」
「どうかこちらを向いて!」
「こっちですの!」
「私を見て!」

 自分達の前を通るタイミングで、牛車に近い女達は声を上げ、帝の気を引こうとする。

 中にいる帝は声のする方をゆっくりと振り向いて、直後その口元に笑みを浮かべた。一瞬にして、その周辺が花に包まれたようなような雰囲気になる。

「きゃぁぁぁー!」

 たったそれだけの行動で、群がる女は紅い頬に手を当てて悲鳴に近い叫び声をあげた。

(煩い……)

 私は耳が痛くなるほどの騒音に顔を顰める。同時に、キラキラと輝く彼女達が遠い存在に感じられ、胸が痛む。

 自分とは違う世界に住むことを突きつけられたように思い、居た堪れなくなった私はその場を後にした。

 騒がしい帝の道中から外れて、人気があまり感じられない街へやってくる。あちらが賑わいでいた分、こちらはとても静かだった。

 稀に小石が転がる砂道。まばらに見える人の姿。

 普段なら出店が立ち並んでいて人通りが多いこの道も、今日は静まり返っている。やっている店なんてほんの僅かだし、歩いているのも男か小さな子供だけだ。

 そんな中を、女の私が独り、孤独に歩む。下を向きながら、行く当てもなく、ただふらふらと。

 そんな私を、周りにいる人、特に男達は物珍しそうに見てくる。

 それはそうだろう。ほとんどの女が帝の(つがい)の席を勝ち取るために着飾って道中に集まっているのに、私だけなんの飾りもなく静かな街を歩いているのだから。

 でも、私にはここの方があっている。あんな人混みの多い場所、私には場違いだ。

 ああいった所に居るのを許されるのは、美しく格式の高い人のみ。もしくは、人並みに誰かから愛される人。

(私みたいな、みすぼらしい女のいる場所じゃないんだから)

 沈んだ心持ちで角を曲がる。

 その刹那ーー、


 目の前から手が伸びてきた。


「な……っ!?」

 声を上げる間もなく、口元を布で覆われる。両腕も強い力で捕まれ、身動きが取れない。

 抵抗しようと呼吸をすると、突然視界が揺れた。猛烈な睡魔が何の前触れもなく私を襲う。

(な……に……?)

 僅かに開いていた瞳で伸びた腕の先を辿る。一瞬だけ目に映ったのは、私よりも頭一つ分は上であろう身長の二つの黒い影。彼らは言葉を交わしていたように見えたが、声は聞こえない。

 状況の理解もままならないたった数秒で、私は深い眠りに落ちた。


          *


「……きろ……おい……!」
「……ぅ……」
「起きろ……おい……!」
「うう……ん……」
「起きろって言ってんだ!」

 怒鳴るような呼びかけに、眠気という風船が弾け、ハッと目が覚める。

「ったく、ようやく起きたか」
「え……あ……あっ」

 目の前には見知らぬ男がいた。彼は短く舌打ちをして、苛立った様子で私を睨みつける。そんな男を前に脳は混乱した。

(誰……一体……)

 後ずさろうと足を動かすも、思い通りに下がれなかった。

(えっ……)

 見れば、手足が縛られていた。太い縄で解けそうにない。体をくねらせる私に、男は面倒くさそうに言う。

「逃げようとしても無駄だ。俺らは逃がさない。お前らは逃れられない」

 そして離れていく。視界が広がり、新たなものが目に映る。その光景に、私は声も出なかった。

 私がいたのは、広間のような部屋だった。窓も障子も見当たらないが、妙に明るい。床は木の板で、所々軋んだ音がする。

 さらに驚いたのは、私以外にも縄で拘束された女がいたこと。眠っている者、怯えている者、表情が抜け落ちている者、ざっと数えて十数人。

(一体、ここはなんなの……?)

 自分が何故ここにいるか分からない。ただ、何者かに連れ去られたということだけは覚えていた。

 私は帝の道中から離れ、人気の少ない街を歩いていたところで何者かに襲われたのだ。口元を抑えられた時に鼻をついた強烈な匂いを、私はまだ鮮明に覚えている。あれは睡眠薬の一種だろう。

(つまりは拐かされたというわけね……)

 帝の道中に行っていたらこんなことは起きなかったかもしれない、と不意に思っては自身の不運を恨んだ。

 これから私はどうされるのだろう。誘拐、と聞くと思い浮かぶのは身売りされるか犯されるかだった。いずれも最悪だ。

(ごめんなさい、お父さん、お母さん……)

 どこからどこまでも親不孝者の自分を育ててくれた親には謝罪しかない。

「おー、今年もたくさんいるなぁ」

 その時突然、唯一の出入り口である襖が開いた。そこから現れたのは、立派な着物を纏った男と、彼の後ろに付く黒服が数人。

 男は部屋を見渡す。

「ほーほー。中々良いものもあるじゃないかぁ」

 そう言った顔が邪悪に嗤う。身の毛がよだつ表情にヒッと息を呑んだ。幻想かもしれないが、彼の周りが一段と(くら)く見える。

(怖い……こいつが首謀者……?一体、何をされるんだろう……)

 自然と体が強張る。それは他の女も同じだった。その様子に、男は僅かに表情を和らげる。が、纏う空気は未だに悍ましい。

「そんなに怯えることはない。何も殺そうとしているわけじゃないんだからさ」

 そう言いながら、男は一番近い場所にいた女に歩み寄る。彼女はこの世の終わりかのような表情を浮かべた。

「い、嫌っ!来ないで……っ!」

 近い年頃の少女だと気づいた。彼女は必死に手足を動かして男から離れようとする。が、拘束されている身はあっという間に男に掴まれた。

「嫌だっ!離してっ!」

 少女は涙目で懇願する。それは肉食動物に捕食される寸前の小動物のようであった。
 
「大丈夫だ。俺はお前を殺したりしない。ただ」

 抵抗を続ける彼女の目の前で、男は拳を握って、掌を見せるようにそっと開く。少女は目玉が飛び出すのではないかと心配するほどに瞳を見開いた。

「お前の神力を、頂くだけさ」

 途端、男の手の内から真っ黒い煙が溢れ出した。それは瞬きする間もなく雲海のように広がり、部屋中に蔓延る。

「きゃぁーー!!」

 傍観者である他の女の叫び声が響く。男に捕まった少女は声すら出せずにいた。

 煙は少女の体を覆い始める。

「や、やだっ!やだやだやだ……!」
 
 身をよじるも気体には通じず、彼女の体は蝕まれていく。煙の一部が一本の糸のように集まり、叫ぶ少女の口に侵入した。

「……っ!」
「なっ、何あれっ!?」

 周りの女がまた叫ぶ。その間にも煙は少女の体内に入り込む。すると、彼女の心臓付近の部分に小さな光が見えた。煙はその光を絡め取り、少女の体から取り出す。

「あっ……ああ……」

 煙は少女の体を解放し、男の元へ戻った。そして、彼女の体から取り出した光の玉を手に入れる。

「ふん、こんなもんか。まぁ人間にしては良い方かな」

 意識を失い、ぐったりとする少女を床に置き、男は光の玉を飲み込んだ。

「ふーっ。さて、次は誰の番かな?」
 
 舌なめずりをしながら目を細める男に、いよいよ部屋中が恐怖に包まれた。鳴き声、叫び声、金切り声。それはまるで地獄絵図。

(何だったの……今の……?)

 この目で見た光景が信じられない。衝撃的な行動に理解ができない。驚きのあまり、私は声も出せなかった。

 少女の方に目を向ける。彼女は未だに目を覚ましていない。死んでしまったのだろうか、との不安が頭をよぎったが、呼吸はしているようだった。

 彼女が起きないのは、男が操っていた煙のせいだろうか。あるいは、男が飲み込んだあの光の玉が原因だろうか。

(あれは何だったの?)
 
 人間の体内から取り出したもの。まさか魂ではあるまい。しかし、取られてはいけないものだと言うことは何となく分かっている。

(どうにかして……逃げなきゃ……っ!)

 だが、手足の縄は簡単に解けそうにない。その上、もし自由が効くようになったところで出口は一つ。男には取り巻きもいる。すぐに捕まってしまうだろう。

「きゃーっ!やだっ、やめてっ!」

 考えを巡らせているうちにまた一人の女が捕まる。腕を掴まれ抵抗もままならない彼女に、男は容赦なく黒煙を放った。黒々とした煙は女の体を這い、体内から光る球体を取り出す。男はそれを飲み込み、用済みの女の体をどさりと落とす。その御技は、人とはかけ離れている。

「さーて、お次は誰だ?」

 笑みを讃えた男の呟きに、また一段と騒がしくなる。

 次は自分かも、と考えると背筋が粟立つ。

 心臓の鼓動が普段より桁違いに速くなった。息をしても上手く酸素を取り込めている気がしない。それは恐怖だった。いつ自分が襲われてもおかしくないという、逃れようのない恐怖、(おのの)き。

(もし、あの男に捕まったら……)

 私は、どうなってしまうのだろう。

 その時。

「おおっ、これはっ!?」

 新たな女に目をつけては、男が驚きの声を上げた。先ほどとは異なった様子に、空気は静まる。

「なんという力の大きさだ!人間では滅多にお目にかかれない!」

 男は喜んでいた。その目の前に座り込む女は今にも泣き出しそうな表情をしている。

「素晴らしい、なんと素晴らしいんだ!ああ、だが運命人にまでは匹敵しないな」

 ふと、違和感のある単語を男が呟く。

(運命人って何だろう……)

 聞き覚えのない単語。最早、そんな言葉が存在するのかさえ分からない。

「まぁいい。お前はあやかしの贄として売ろう!」
「えっ!」
「おい、こいつを連れて行け」

 男の掛け声と共に、控えていた黒服の一部が動いた。嫌がるその女を掴み、無理やり立たせては連れ去る。

「やだっ!やめて離して!」

 必死にもがくも、女は襖の向こうへと消えていった。
 
「勿体無いが、金になるなら文句言ってらんねぇからなぁ」

 さて、と男が振り向く。再び恐怖が湧き上がる。

「お次は誰のを頂こうかぁ?」

 狂気めいた笑顔に、また騒がしくなる部屋。

 倒れていく女、連れて行かれる女。異なる恐怖を見せつけられた女たちは最早正気は失せかけている。

 かくいう私も、その中の一人だ。もう何もかもが理解できない。

(私はどうなるんだろう……)

 連れて行かれるのか、この場で奪われるのか。いずれ訪れるであろうその未来を想像しては、体が震えた。

「さぁーて、次の女は……ん?」
  
 鼻歌を唄いながら周囲を見回していた男は、私と目が合った瞬間に動きを止める。そして、ニヤリと厭らしく口元を歪めた。

「お前にしよう」
「ひっ……!」

 狂った瞳に捉えられ、悪寒が走った。捕まっては行けない。速く逃げなければならない。分かっているのに、体は硬直したように動かなかった。

 男の手が私の顎を掴み、グイッと覗き込んでくる。私は必死に目を逸らした。

「ううーん……?お前は……」

 恐怖故か、このまま気を失いそうになった。だが。

「おおっ!!何ということだっ!」

 男の大声で意識が覚醒する。目の前の男は驚きと喜びを溶け合わせたような表情を見せる。

「素晴らしい……素晴らしいぞっ!こんなにも強い力、見たことない!」

 男はこれ以上ないほどに喜んでいた。何になのか、何故なのか、私でさえ状況が理解できない。

「ああ。ならばお前がかの運命人か!やっとだ、やっと見つけた。この日を何年待ち侘びたことよ!」

 再び、運命人。男の様子から察するに、それは凄いことらしい。が、詳しいことを知らない私にはさっぱりだ。

 なんて思っていると、男が強い力で肩を掴んできた。

「いっ……!」
「さぁ、一緒に来い」
「えっ……」
「お前は俺と一緒に来るんだ!そうすれば俺はより強大な力を得られる!全て俺のものになる!さぁ来いっ!」
「いやっ!」

 無理矢理連れ去ろうとする男。その力は男性ゆえなのか、情緒によるものなのか、とても歯が立たない。

(このまま……私は……)

 絶望のどん底に引き込まれる、その寸前ーー

 勢いよく襖が開け放たれた。

「ここにいる者、女を誘拐した罪で処罰する!」

 威勢のいい声と共に、白い軍服を着た男たちがなだれ込んできた。

「なっ、検非違使(けびいし)だと!?」

 軍服の男らは黒服を鮮やかに薙ぎ倒し、捕えられていた女たちを解放していく。

「くそっ!逃げるぞっ!」

 男はなお、私を離そうとしなかった。どころか、何が何でも連れ去りたい。そんな欲望が滲み出ている。

 しかし、彼の行方は阻まれた。

「おいおい、何処へ行く?」

 それは傘を被った男だった。凛とした声は、落ち着き払ってこの状況を見据えている。

「その女を解放しろ」
「やなこった。こいつは俺のものだ。こいつがいれば、俺はもっと強くなれる!」
「ほう。指示に従わないならば、こちらも相応の手段を取らせてもらう」

 そう言って傘の男は腰に差した剣を抜く。鋭利に輝く刀身に、私を連れ去ろうとした男は一瞬息を呑んだ。だが、元の様子に戻る。

「きゃっ!」

 男は私を放り投げ、傘の男に掌を向ける。

「こんなところでやられてたまるかぁっ!」

 先ほどと同様に溢れ出す黒煙。だが、傘の男は特に怯んだ様子もなく一歩踏み込んだ。

「ふっ、それで勝つつもりだったのか?」

 そして、一気に男との間合いを詰め、剣を振りかざす。

「がぁっ!」

 男は肩をざっくりと切られ、膝から崩れ落ちた。切られた場所からは、血液の代わりに黒煙が滝のように流れ出ていく。

 傘の男は剣を鞘に戻し、近くの軍服の男を呼んだ。

「こいつを署まで頼む。詳細を話してもらわねば」
「承知いたしました」

 拐かしの首謀者である男は、ぐったりとしたまま軍服の男に抱えられ、連れて行かれた。

「大丈夫か?」

 傘の男は私に駆け寄り、縄を切ってくれた。

「立てるか?」

 優しく手を差し伸べてくれる彼に、私は頷いてその手を取る。しかし、立ちあがろうとしたところで足に激痛が走った。

「ーっ!」
  
 裾を軽く捲ると、足から血が流れていることに気づく。おそらく、あの男に投げ出された時に付いたものだろう。

「足が怪我したのか?」
「あ……だい、じょう……」

 大丈夫です、と言いたかった。しかし、喉が閉まったように上手く声が発せない。

(またいつものだ……)

 声を出す代わりに頷いてなんとか立ち上がる。痛みは一時的なもので、歩けないほどではなかった。

 初対面の人、特に男性だと途端に声が出なくなってしまう。私の一番の悩み。

 だが、傘の男は私が恐怖で喋れないと悟ったらしい。口元を吊り上げ、目こそ見えないものの微笑んだ。

「落ち着け。もう安心していい」

 柔らかな声に、不思議と今まで強張っていた体の力が抜ける。ずっと張り付いていた恐怖も剥がれ落ち、心が軽くなる。

「怖かっただろう」

 私は首を縦に振る。

「こちらに来い。今から、奴らのことを話そう」

 傘の男は私を部屋の中央へと案内した。無傷の女たちも同じように一箇所に集まる。

 私たちの前に、白い軍服の男が立つ。

「この度は我々検非違使(けびいし)がいながら、このような事態になってしまい大変申し訳なく思う」

 詫びの言葉を述べて、男は頭を下げる。

「皆驚いたことであろう。話を聞けば、女が奴らの黒煙に襲われ、光る球体を奪われたとか」

 ざわめきが波紋のように広がる。それは、おそらくここにいる全員が目にした光景。

「あ、あれは一体何なんですか?何故、あんなことが……?」

 1人の女が声を上げた。それは、誰もが知りたがっていたこと。軍服の男は包み隠さず説明する。

「まず、貴方たちを襲ったのは、魔に落ちてしまったあやかしです」

 衝撃の一言に、私は耳を疑った。

「あ、あやかし……?」

「あやかしって、あの、特殊な力を持つ……!?」

 あやかしという生き物は、おそらく日本国の大半の人間が知っているだろう。それは神にも近い、特別な力を持って生まれる生き物。

「そのあやかしが魔という、簡単に言えば闇に呑まれてしまったのが奴らです。そして、奴らは皆さんの神力を吸い取っていました」

「し、神力……!?それって、あやかしだけが持つ特別な力のことじゃ……」
「わ、私たちがそんなものを持っているはずがないでしょう!?」
「いえ、稀に、僅かながら神力を持つ人間はいます。それが貴方たちです」

 はっきりと告げられた真実に、私は唖然とした。

(私が、神力を持っている!?)

 あり得ない。神力はあやかしが術を扱うために使う特別な力。人間が、増してや自分が持っているなど、夢にも思わなかった。

 それが喜ばしいことなのか、不吉なことなのかは断定できない。だが、この状況においては神力を持つということは不幸をもたらすとしか言いようがない。

「これから気をつけて下さい。今回のように、魔に落ちたあやかしが貴方たちを襲うことがあるので」

 軍服の男は鋭い目つきで警告する。あくまで自己防衛をしろ、ということらしい。

「それよりも、この事件のせいで帝の道中に行けなかったわ」

 1人の女が、そんな呟きを漏らした。襲われた恐怖ですっかり頭から飛んでいたが、今日は帝の(つがい)選びの道中がある。見る限り、彼女の着物は上等そうだ。このために用意したのだろう。

「私も」
「せっかく家族が着飾ってくれたのに……」

 女たちは次々と肩を落とす。何年も待ち侘びていた好機を逃した悔しさは計り知れない。

 しかし、そこに希望の光が舞い降りる。
 
「そのことならばご安心を。この事件は帝にも通っております。拐かされた女たちは優遇するように、との言伝も承っています」
「それは、どういうこと?」
「簡単に説明しますと、貴方がたは帝に会うことができます」

 大きく踏み出た提案に、「まぁっ」と多くの女が頰を紅色に染めた。彼女たちにとってはこれ以上ない、喜ばしい知らせだろう。

「で、では、帝と近くでお会いできるということ!?」
「はい」
「籠で通るのを見届けるだけではなくて!?」
「ええ。(すだれ)一枚を隔ててお会いすることができます」
「なんて幸運なことでしょう!」

 途端に女たちは笑顔になる。数刻前まで恐怖に絶望していたのが嘘みたいだ。

(それ程までに帝の道中に参加したかったのね)

 それは、私には理解できない感情。そして、これからも理解することはないであろう感情。

「それでは、付いてきて下さい」

 軍服の男の後を、私を除いた全員が嬉々として付いていく。その様子を、私は側から眺めるのみ。

「お前は行かないのか?」

 声をかけられて振り向くと、そこには私を助けてくれた傘の男が立っていた。はい、という代わりに頷く。

「そうか」

 それっきり、男は黙り込んだ。が、不意に顔を上げ、提案する。

「ならば、少し、私と街を歩かないか?」
「えっ……?」

 予想だにしない言葉だった。このまま帰してくれるとばかり思っていた。

「先程のこともあって心身が安定しないだろう。気晴らしに、どうだ?」
「あ……、の……」

 答えに詰まる。この男はつまり、2人で街を回ろうと言っている。異性と2人きり。それは私が恐れているものだった。だからと言って、優しさからの申し出を断るのは気が引ける。

 考えに考えを巡らせた挙句ーー。

 コクリと、首を縦に振る。

 すると男は、目こそ見えないものの微笑みを讃えた。

「良かった。では、早速行くとしよう」

 そう言うなり、私の手を取る。

「あっ……!」

 反射的に、その手を振り解いた。突然の行動に、男は驚いた様子を見せる。

「あ、ああ、すまん。見ず知らずの男に手を触れられるのは流石に驚くよな」
「あ……いえ……」

 我に帰り、自分がしたことに頭が真っ白になった。いくら驚いたとは言え、振り解くのは失礼すぎる。相手が命の恩人とも言える人なら、なおさらに。

「す、すい……ま……せん」

 声が掠れる。精一杯頑張ったつもりだけど、どうしても思うように喋れない。目の前の男はきっと、口を金魚のようにパクパクと動かしているにしか見えないだろう。

 そう思ったのだが。

「いや、私のほうこそ悪かった」

 男は詫びた。私の声はちゃんと届いていたらしい。優しい返事に、顔を上げる。不思議と胸の内が暖かくなった気がした。

「無理強いはしないが……よいか?」

 傘の男は再び私に手を伸ばし、許可を求める。私は戸惑ったが、なんとなく、この人は大丈夫だと思った。恐る恐る、華奢な手に自分の手を重ね合わせる。
 
 傘の男は口元を嬉しそうに綻ばせた。

「では、行こうか」
「は、はい……」

 傘の男に導かれて、私はようやく外に出た。たった少しの間だけ監禁されていたにも関わらず、太陽の眩しさが久しい気がする。

(ここは……)

 今一度、自分が出てきた場所を振り返った。それは、薄暗い路地に面した小さな家。壁も古びて障子は破れ、人が住んでいるようには見えない。

「周囲には空き家だと思わせていたらしいな」

 傘の男が呟く。

「誰も住んでいないと思わせることで、人間の警戒を解く。賢いものだ」
「……」

 見る限り、そこは普通の街。私の街とはさほど変わらない。そんなところで、あやかしが悪事を働いているのはやはり信じ難かった。

「さぁ、進もう」

 私と傘の男は路地を出て、人気の少ない道を選ぶ。未だな人はまばらにしか見られない。

 私は視線をそっぽに向ける。男は異性と手を繋いでいるのに、それが何でもないような雰囲気を出している。このような状況に慣れているのかもしれない。

 対して、私は違和感しかない。私は両親以外の異性に手を触れたことがなかった。この人の手は細い、なんて思ったけど、実際握られてみれば、私よりも一回りほど大きくがっしりとしていた。

 掴んだものは離さない。そう言っているような男の人の手が、私の手を包み込んでいる。柔らかな温もりがあって、不思議と安心できる手。

 こんな気分になったのは初めてだ。私はドギマギした気持ちで、男の人の横顔を盗み見る。

 相変わらず笠を被っているものの、影が落ちていない口元や、この人自体から発せられる雰囲気は静かで、柔らかく優しく、それでいて何処か不思議だった。
 
 思わず、その整っている見える部分の顔を見つめ続ける。すると、男の人は流石に視線に気づいたのか、「ん?」とこちらの方を向いてきた。

「あっ」

 私は反射的に顔を背け、視線を足下に落とした。

「どうかしたか?」

 後ろから声が聞こえたが、私はうまく口を動かせず、首を振ることしかできなかった。

「そう、か」

 私が恥ずかしがっていることに勘づいたのか、男の人はそれ以上触れなかった。

「……」
「……っ」

(気まずい……あまりにも気まずいすぎる……)

 沈黙というものが決して悪いものだとは断定できない。けれど、初対面に加えて異性ということもあり、空白の時間が居た堪れなく感じる。かと言って、会話を切り出す勇気もない。

 そんな私に気持ちを悟ったのか、傘の男はスッと手を離した。

「少し待っていてくれ」

 そう残して何処かへと彼は消える。何をしに行くのだろう、と首を傾げてその場に突っ立っていた。数分後、男はあるものを手にして帰ってきた。

「食べないか?」

 差し出してきたのは巾着のような見た目の唐菓子(からくだもの)だった。

「あ、あり……がとう……ござい、ます……」

 両手で受け取ると、ふわりと香ばしい香りが漂う。途端に空腹を覚え、いただきます、と心の中で呟いてそれを齧る。

「お……いしい……っ!」

 焦茶色の菓子は仄かに甘かった。僅かにも砂糖がまぶしてあるのだろう。出来立てなのか、まだ暖かい。軽い口当たりが食欲をそそる。止まらず二口目、三口目……と、気づけば食べ終えていた。

「あ……」

 我に返って顔が熱くなる。人前でこんなにも勢いよく食べることは行儀が悪い。しかし、傘の男はさほど気にしていなかった。

「口にあったのなら良かった」

 むしろ、嬉しそうだった。傘の男も唐菓子(からくだもの)をものの数口で平らげる。

「美味いな」

 コクリと頷く。唐菓子(からくだもの)なんて、口にしたのは久々だった。まだ舌に残る懐かしい味に胸が締め付けられる。

 食事をしたせいか、私たちを取り巻く空気が少し軽くなった気がした。

「この際に尋ねるのもだが……」

 不意に傘の男が口を開く。

「帝の御前、本当にお前は行かなくて良かったのか?」
「え、あ……はい……いい、んです……」

 私はわざとそっけなく答える。今朝の賑わいだ街の風景を思い出し、目を瞑った。

(あんなにも華やいだ場所、眩しすぎて行くことなんてできない)

 増してや帝の前だなんて、到底無理だ。

「そうか。……何故か、と訊いてもいいか?」
「……」
「無理に話されるつもりはない。だが、話した方が楽になる時もある」

 諭すように男は言った。その言葉に、何故か心の内の何かが溶けていくような感覚があった。心が軽い。今なら、自由な気がする。

「はい」

 あまりにも滑らかに声が出たことに、自分自身が驚く。

(声が……!この人となら、話せる)

 自分でも理由はわからないけど、この人になら話していいと、そう許せる。

「私にとって、帝は雲の上の人です。私みたいな人があそこに行くなんて、100年、早いですから」
「そうか?行くならば、誰だろうと関係ないと思うが」

 男の人は心底不思議そうに首を傾げた。嫌味も皮肉もない純粋なその仕草に、少しだけ胸の奥がチクリと痛む。

(きっと、あなたみたいな人には分からないんでしょうね)

 心の中で罵る。

「関係ありますよ。あそこに行っていいのは、人々に求められるような存在の人だけです」
「それを聞くと、お前がまるで人々に求められていないようだが……?」

 この人の言う通りだった。私は、誰かから求められることなんてない人間なのだから。

「その通りですよ。私は、誰にも求められない人間です」
「………」

 長い沈黙が流れた。お互い何も喋らない、気まずい雰囲気。私が一番苦手な空気感に、思わず男の人から顔を逸らす。

 本当に私はどうしようもないクズだ、と自身を嗤いたくなる。

(この人も、こんな自虐的な言葉を聞いて気を悪くしたんだろうな)

 言ってしまったことは後悔したが、もう遅い。だから、仕方ない。

 しかし、男の人が次に発したのは意外な言葉だった。

「それは、単なるお前の思い込みだろ?」
「へっ……?」
「誰が何処へ行こうと自由だ。身分など関係ない。そうではないか?」
「あ、いや、まぁ、そうかもしれないですけど、やっぱり無意識に差別とかしません?」
「うーむ、そんな気にしたことないがな……」

 それを聞いて私は心底驚いた。この人が言っていることは、あくまでこの人のみの考え。世の中の常識とは違うかもしれない。

 しかし、この人は明らかに身分が高そうだ。にも関わらず、差別という考えがなかったと言ったことが信じられなかった。

「あなたは自分より身分が低い者を見下したりしないんですか?」

 言い方は悪いが、素直な疑問から出た言葉だった。

 どんな答えかたをするんだろう、と待ってみると、その人はふっと息を吐いて言う。

「身分が高かろうが低かろうが、所詮人間は人間だ。そこに優劣はない」
「そうですか……」

 それを聞いて、私は自然と笑顔になっていた。心に穏やかなものが広がって、満たしてくれる。まるで、荒波が立っていた海が凪いだように。

 確かに、言われてみれば大したことないかも。今まで自虐していた自分がバカみたいだ。私は私なんだから、周りと比べる必要なんてないのかもしれない。

 男の人の話を聞いて、私の中の考え方が変わっていった。そんな私を、男の人はチラッと見て笑う。

「…やはり、お前は笑顔が似合うな」
「ん、今なんと?」
「いや、なんでもない」

 男の人はニヤついたままはぐらかした。

 気になるけど、まぁいっか。私は前を向いて歩き続けた。

 なんだか、さっきよりも街の静けさが気にならない。これはこれでいいと思えるようになっていた。

 私と男の人は歩く。落ち着いた雰囲気を纏う、特別な道を。

「なぁ」

 男の人が突然口を開いた。

「…?なんでしょうか」

 私は男の人を見て、首をかしげる。

 すると、彼は私の手をきゅっと力を入れて握った。右手がさらに熱を帯び、ドクンと脈が上がる。と同時に、私の全身を流れる血液の速度が速くなった気がした。

 ようやく引いてきていた赤みが再び増す。そんな私に、彼は口を開いた。

「やはりお前は……」
「あっ、ちょっと待ってくださいね」

 何かを言いかけた男の人の言葉を遮る。

「な、なんだ…?」

 突然私が声を出したことに驚いたのか、多少動揺した様子で尋ねてきた。

 しかし、私は視界に移ったものに意識が向いていて、その声が届かなかった。

 直後、男の人も私の視線の先を見据えて、あっと声を漏らす。

 私が捉えたのは、木の枝にかかった毱を取ろうとしている女の子だった。彼女は何度か跳ねて手を伸ばすが、小柄故に毱には遠く及ばない。

「少し、待っていてください」

 そう言って私は男の人の手を離して、女の子に駆け寄った。

「どうしたの?」

 私は彼女の背丈と同じ高さになるように屈んで問う。

 すると、その子はゆっくりと振り向いた。目に涙を溜めて、赤くした頬には透明な水が伝っている。とても可愛い子だった。

「毱がっ、木、に、ひっかかっ、ちゃった、の」

 そう言うと、ヒックヒックと泣き出した。目を両手で押さえて、透明な雫をポタポタと地面に落としていく。

 分かる、分かるよ。悲しいよね。

 そんな彼女の頭を、私は優しく撫でる。

「大丈夫。お姉ちゃんに任せて」

 そして立ち上がる。毱は見えるが、手が届くほどではない場所にかかっている。あれでは大人ですら手を伸ばしただけでは届かないだろう。

 ならば方法は一つだけ。私は着物の裾を腕まくりして、木に足をかけた。

 この木が楠の木で良かった。枝も幹も太くて丈夫だから、人一人体重をかけたところで折れる心配はない木だ。

 手は枝を掴んで、それからよっと体重を前に持ってきて、全身の力を右足に乗せる。

 木登りは得意だった。小さい時も、同じ年頃の子は登れない木を、私だけは動物のようにするすると登っていって、少し得意げになってたっけ。

 昔の思い出を懐かしみつつ、私はどんどん上に登っていき、あっという間に毱の所までついた。

「よいしょっと」

 毱は枝同士の間に軽く挟まっていて、手を使えば簡単に取れる。

 私は手に毱を抱えて、下を見下ろした。この高さならば、危なくはないかな。

 私は枝から手を離し、体を空に投げる。

「あっ!」「あっ!」

 驚いた二つの声が重なる。

(でも、私は大丈夫)

 重力に引かれる中、得意げな笑みを浮かべて余裕を出す。私は放り出された体を捻って、うまい具合に朝からストンと着地した。実は高いところ好きだ。だから、飛び降りることなんてへっちゃら。

 私は持っていた毱を女の子に渡す。

「はい、どうぞ」

 すると、その子は唖然としていた表情に笑顔を浮かべて、受け取った。

「ありがとう、お姉ちゃん!」

 そして、嬉しそうに何処かへ駆けていった。私はしばらく、彼女が消えていった道を眺める。

「お前、凄いな」

 背後から声が聞こえて振り向くと、あの人が立っていた。

「あんなにも木登りが上手い人間には会ったことがない。ひょっとして、猿か?」
「なっ!そんなわけ無いでしょう!」

 反射的に言い返す。自分でやっておいてなんだが、お笑いみたいだ。全力で否定する私の姿に、男の人は笑いを漏らす。

「はははっ、冗談だよ」

 もう、と私は息をついた。

(まぁ、あの子が喜んでくれたからいっか)

 そんなことを思っていると、男の人は笑うのを止め、しみじみとした雰囲気で言った。

「やはりお前は、優しいな」

 街でも、道でも、空でも無い、果てしなく遠い場所に焦点を合わせているような瞳で。

「それだけじゃない。お前は心も美しい」

 それを聞いて、私は不思議に思った。

(心も……?)

 なんでそんなことが分かるんだろうと。何故そう言えるのだろうと。疑問としてそれが脳裏に浮かぶ。そして、尋ねようとした。が、男の人が先に質問してくる。

「お前、名はなんと言うのだ?」

 今更名前?と思ったが、よく考えれば名乗っていなかった。

「私は……抄華(しょうか)です」
「抄華、か……。綺麗な名だな」

 男の人があまりにもサラリと言うので、それを聞いた私はなんだか嬉しいような、恥ずかしいような、むず痒い気持ちになる。

「ありがとうございます。それで。あなたのお名前は……?」

 私も尋ねた。すると、その人は一瞬、意味アリな笑みを浮かべて、頭の笠に手をかける。そしてそれを、するりと取った。顔にかかっていた影が消える。薄く白い布が彼の顔を撫でる。

 白い布の下から、相反した黒髪、そして見えなかった目元が現れる。

 影から出てきたその人の顔に、私は息を呑んで見つめた。声が出なかった、というよりかは出せなかった。

(ななっ、なんで、この人がこんなところに!?)

 それは、私が見たことのある顔だった。というか、知っていなければおかしいほど。だが、この人がいるはずない。そう、私の脳は否定する。

(だって、この人は……)

「私は第57代帝、羅衣源(らいげん)だ」

 涼しげな切長の瞳、漆黒の黒髪、色白の頰、その上整った顔立ちの男性が、そこには居た。
背後に昇る太陽が、彼の神々しさを増幅させている。

「み、帝様……っ!」

 私は信じられない様子で目の前に立つ男性を見つめた。いやいや、帝だなんて有り得ない。

 でも、私に柔らかい笑みを向けているのは紛れもなくこの国の帝。一度だけ、代替わりを祝福する行事で見たことがあった。あれだけ人を惹きつける力を持った人なんだから、間違えたり、他人の空似なんてことはないはず。

(えっ、ちょっと待って。じゃあ、私はずっと帝とお話ししていたということ!?)

 今知る事実に、私の心臓はこれまでにないくらい激しく脈打ち始める。

「ななっ、何故貴方様のようなお方がここに!?」
「お忍びでな」

 帝は素気なく答える。

(いやいや、お忍びって何よ。帝様が庶民と同じ場所にいるだなんてあり得るの?)

 しかし、それ以上の問題に気づくことがあった。

「貴方様がここにいるなら、あの、牛車に乗っていた人は……?」

 時間的に考えて、検非違使(けびいし)が助けに来た時はまだ帝の道中があったはずだ。

「ああ、あいつは私の部下である」
「……えっ?」
「牛舎には私の部下を乗らせている」
「ぶ、部下って……。つまりは、身代わりというわけですか?」
「ああ」

 そんなことをしていいものかと私は驚く。大勢の女の子たちが熱い視線を送っていた人物が、実は帝なんかじゃないなんて。

「あれ、で、でも、だったら拐かされた女たちに言ったことは……?帝の御前に案内するという、あれは……」
「あれも身代わりを用意している。なに、姿は見えないのだ。気づかれることはない」

 衝撃の事実を聞いてしまった。

「何故、そのようなことを?」
「それが決まりだからだ」

 帝は表情を変えずに淡々と説明する。

「我々帝が(つがい)を選ぶ時は、ああやって街に牛車を出す。しかし、その牛車に帝が乗ってはいけないのだ」
「な、何故ですか……?」

 私が恐るおそる訊くと、帝は口元を吊り上げ、怪しげな笑みを作った。

「あんな物に群がる女は、(つがい)になどなれない。何故なら、心が曇った者達だからだ」

 顔は綺麗なのに、言っていることはとても恐ろしく、威圧的であった。

「心が曇っているって、そんなの分からないじゃないですか」

 私は相手が帝だと言うことも忘れて反論する。

「人の心なんて、そう簡単には理解できないでしょう?」

 彼は私の言葉に目を閉じて聞いていた。

「確かに心の内全てを理解するのは無理かもしれん」

 が、すぐに瞳を開いて、漆黒の瞳孔で私を捉える。

「心が曇ると言うのは、私欲にまみれていると言うことだ。あんな場所に集まる奴らが、私欲にまみれていないわけ無いであろう」
「……っ!」

 さっきとは打って変わって、闇を携えた表情は毒を持つ鳥兜(とりかぶと)みたい。

 ぬっと顔を寄せて、怪しげな笑みに影を落としている帝の顔を、私は直視できなかった。怖い、という恐怖が背筋を走る。

 しかし、だ。

 帝が言う事は、確かにそうだ、と思わざるを得なかった。

 道中に群がっていた人は皆、自分を見て欲しそうにしていた。あれこそ、私欲と言えるだろう。

 それにしても、と目の前の男性を改めて眺める。帝の言い方の酷さに、私はさっきから驚かされっぱなしだった。さっきまで、とても優しい雰囲気の人だと思っていたのに。

 顔を曝け出した途端、まるで人が変わったかのようになった。綺麗な人ってこんなもんなのだろうか。

 疑問が次々と溢れてくる私の肩を、帝はそっと触れた。唐突で、体がビクッと反応する。

「な、なんですか……?」

 私は戸惑いつつ、見上げて帝に視線を向けた。彼はうっとりとした目つきをしていた。

「欲にまみれている奴らと違って、抄華、おまえは美しい」

 名前を呼ばれてドキッと心臓が跳ねる。そう言えば、さっきも同じことを言っていた気がする。

(帝が口にする美しさの基準ってなんたんだろう)

 そんなことを考えていると、帝のしなやかな指が今度は私の髪を撫でた。かと思うと、私を引き寄せて抱きしめる。

「ふぇえっ!」
「ああ、やはりお前だった。お前こそ、私の運命人だ。お前だけが、私の(つがい)にふさわしい」

 滑らかで、甘く、それでいて忘れられないような不思議な声で、帝は言った。

「……」

 私の思考は一時停止する。

(えっ、何急にこの人?というか、運命人って何のこと?)

 いや、それだけじゃない。

(今、この人、私のことを(つがい)って呼んだ?あの、帝の妻ってこと?私が!?)
 
 そんなわけ無い、と私の脳は否定する。すると、今さっきの声が蘇る。

『お前だけが、私の(つがい)にふさわしい』

 完全に、この人はそう言った。

「おい、大丈夫か?」

 帝の綺麗な顔が覗き込んできたことで、私の意識は戻った。

「えっ、いやいやいや!私が(つがい)に?そんなの有り得ません!」
 
 身振り手振りで、全力で否定する。だってそんなこと、天地がひっくり返ったってあるわけ無い。

 だが、帝は引かなかった。

「何故否定する?私が言っているからそうなのだ」

 あまりにも自信満々に言われるもんだから、私は叫ぶのを止めた。息を呑んで帝を見つめた私に、彼は涼しげな笑みを浮かべた。そして、徐おもむろに私の手を取る。

「やはり美しい。お前だ。抄華こそ、私が求めていた人だ。ようやく出会えた……っ!」

 彼の言葉に、私は目を丸くするばかり。
 
(何で、この人はこんなにも嬉しそうなんだろう?)

「出会えたって、私には何の取り柄もないですし、帝様と一緒にいる権利なんて……」
「私には分かる。抄華、お前は私の(つがい)になるために生まれてきた者なのだ」

 帝は私の言葉を遮った。妙に熱く、そして確信に満ちた声色で。

(どうしてこの人はそんなことが言えるんだろう?)

 理由を問いただしてみたかったけど、これ以上何も言えなかった。帝の表情が、とてつもなく美しく、儚く、そして凛々しかったから。

「なぁ。これから私の屋敷に来ないか?」

 またしても突然の誘い。

「お、お屋敷って……!私のような者が行ってはいけませんよ」
「そんなことはない。お前は私の(つがい)なのだから」
「そんな勝手に決めないで下さいっ!」

 勢いで叫んでしまったことに、我に返って慌てる。

「いや、その、私が(つがい)なわけないので……」
「いや、私には分かる。間違いなく、お前は私の(つがい)だ」

 どうやら彼の中でそれは決定しているらしい。私に反論の余地はないようだった。

「それに、抄華は怪我をしているだろう」
「あっ……」
「私が気がついていないとでも?」

 確かに足の怪我はまだ完治していない。歩いている際に時折ズキリと痛んでいた。

「どの道、私の屋敷に来た方が良いぞ」
「……分かりました」

 帝の強引すぎる誘いに、私はとうとう根負けして頷いた。すると、彼は満足したような笑顔を顔に浮かべる。

 そして、私の足元に屈んだかと思うと、いきなり私を抱き上げた。

「うわぁっ!」

 体が宙に浮く。背中と膝の裏に、温かい腕の感触がある。帝の手の中にいることに気づき、慌てて声をかける。

「な、何しているのですかっ!?」
「怪我した足で歩かせるわけには行かない」
「いやっ、大丈夫ですよ!先ほどまで歩いていましたから。大丈夫ですから降ろしてくださいっ」
「そうはいかぬ。私の大切な(つがい)なのだからな。あと、帝様とよそよそしく呼ぶのではなく、羅衣源と名で言ってもらおう」
「いえ、無理ですって!」

 こうして私は帝、羅衣源に抱き抱えられたまま、少々強引に屋敷へ連れて行かれた。

(ああっ!どうか誰にも見られませんようにっ!)

 私は炎の如く、全身が燃えるように熱かった。


          *

「くそっ!なんなんだよっ!」

 薄暗い路地にて、男が纏っていた黒服を脱ぎ捨てながら、苛立ち紛れに文句を吐いていた。

「久しぶりに若い女が手に入ると思ったのに」
「仕方ないさ、検非違使(けびいし)が来たからには撤退する他ない」

 他の2人も口元を覆う布を外しながら胸の内に膨らむ不満を呟く。

 彼らは先ほど、抄華らを拐かした組織の一員である。検非違使(けびいし)が押しかけ、首謀者である男が捕まったため逃げ出してきたのだ。

「あーあ、折角良い女が手に入ると思ったのに」

 怒り任せに、男は足元の足を蹴り飛ばした。それは、凄まじい勢いで飛んでいき、壁にぶち当たって焦茶の板にビシリ、とひびを作る。その力の強さは、人間には似ても似つかないほどだった。

「帝の道中があるってあいつに聞いたから、確かに色気ある女は多かったんだけどなぁ」

「今回はやけに数が多かったしな。おかげで10人ほど掻っ攫っても誰も気づきはしなかった」
「せっかく搾取できる好機だったのによぉ」

 男らは嘆く。彼らがこういった事件を起こすのは、今回が初めてではない。

 帝の(つがい)選びの道中には街中の女が中心の通りに集中する。誰もが帝に夢中で、身の危険など知らない。警戒が緩む女の中から、神力を持ち合わせていそうな者を選び、眠らせて運ぶ。それこそが彼らの仕事であった。

「それに今年は、強い神力の持ち主もいたじゃねぇか」

「ああ、あの女だな」

 男たちの脳裏に浮かぶのは、黒服を着た集団ーー天狗ーーに連れ去られて行った女。

「相当な神力を持っていたらしいぜ」

「ちっ。売り飛ばしていれば大金が手に入ったのに」
  
 その女も、結局は検非違使(けびいし)によって保護されてしまった。
 
「おしいなぁ」

 男は拳を握りしめ、壁を思いっきり叩く。ドンっと大きな振動が生まれ、壁がひび割れた。ヒッと、中から微かな人の声が聞こえてくる。

「それによ、あいつ、最後、なんの飾りもない地味な女を見て驚いてただろ?」

「そんなこともあったな」

「なんでだか分かるか?」

 尋ねられた2人は顔を合わせる。

「さぁ」

「あー、でもなんか言ってたな。ずっと探していたとか、ようやく見つけたとか。それに、運命人なんてことも言ってた気がする」

「運命人……?」

 その言葉に、1人の男は首を傾げた。

(運命人……?どっかで聞いたことあるな)

 と、男は思い出す。

 遥か昔、暦でその文字を見たのか。噂として流れたのを小耳に挟んだか。

「運命人……運命人……あっ!」

 男の頭の中で何かが光った。廃れていた記憶が鮮やかに蘇り始める。

「運命人は、あれだ。帝に次ぐ大きな神力を持った女のことだ」

「帝に次ぐ……?それって、ヤバいんじゃないか」

「ああ、滅多にいない、珍しい女だよ」

「まさか、それがあいつが言ってた……?」

「だろうな」

「じゃあ、そいつさえ手に入れれば……っ!」

 男が瞳を欲望で輝かすも、その光は一瞬にして失せる。

「いや、だがそいつは検非違使(けびいし)と共に帝の御前に行ったんだっけか」

 帝が居ては、女一人を連れ去るのも難しい。増してや護衛に検非違使(けびいし)がいるのだろう。状況は絶望的だ。

 その時、バサリと空から黒い花が舞い散る。共に降り立ったのは、男たちと同じく黒服を全身に纏った者。

 そいつは地面に足がついた瞬間、帯のように布がはらりと解けた。それらはそいつの足元に吸い込まれ、跡形もなく消え去る。

 烏のような黒い翼、底の高い下駄、山伏の服装。それこそ、そいつの真の姿。

 ーー天狗であった。

「おお、どうした」

 男は天狗に問う。するとそいつは片膝を付き、こうべを垂れた。その様子に、どちらの立場が上から一目瞭然である。

「ご報告がございます。先ほど、ぬらりひょんが仰っていた女についてですが……」

「ああ、丁度今、その話をしてたところだ。何か分かったか?」

 コクリと、天狗は首だけ動かした。ぬらりひょん、とは天狗らを指揮していたあの男。神力剥奪の力を持つ者のことである。

「どうやらあの女は、帝の御前には出向いてないようです。一部始終を見る限り、傘の男と共に街にいるかと」

「傘の男っつうのは……ぬらりひょんを討伐したあいつのことか?」

「はい」

「それも街に、か」

 ふむ、と男は顎に手を当てる。女が帝の御前に行かないのも不思議だが、傘の男と街にいるほうがよほど不自然だ。

 傘の男は何を考えているのか。そもそも、奴は何者なのか。あやかしを討伐できる人間だ。神力を持つに違いない。

 男で神力。それも、強力な。その条件に当てはまる人間は、男には一人しか思いつかなかった。

「帝か……」

「えっ?」

「あの傘の男、おそらく帝だ」

「み、帝……!?なんでまた、そんな話に?」

「帝は実際に道中には参加しない。それに、ぬらりひょんを切れるほどの神力を持つ。それは帝しか当てはまらないだろ」

「でも、そしたら……」

 いよいよ路頭に迷う。運命人と呼ばれる、強大な神力を持つ女を見つけたのは一遇の奇跡だ。しかし、女は今も帝と一緒にいるとなれば、手の出しようがない。
 
「どうすんだよ。あの帝だぞ?かなう筈がない」

 確かに、帝という存在は自分たちが太刀打ちできるような相手ではない。でも。

「いくら帝が連れていったと言えど、(つがい)にならなきゃあいつのものにはならねぇよ」

「そうだが……女が帝の(つがい)になる申し出を断るとでも思ってんのか?」

 男は頷く。確かに、彼の言い分は正しい。日本国の女にとって、帝の(つがい)とは最も名誉なことであり、全員が喉から手が出るほど欲しがる称号だ。それを断る考えなど、さらさらないだろう。

 しかし、男は、問題ない、と口元を歪めてもっと嬉しそうに、そして愉しそうに笑う。

「女に帝の申し出を断らせればいいんだよ」

「はっ?」

 訳が分からない、と一方の男は首を傾ける。

「断らせるって……」

「元はと言えば、運命人は帝の御前に行くことを拒んだ?おかしくないか?」

「それは……傘の男が帝だと知ってたんじゃないか?もしくは、明かされたか……?」

「いや、あいつが帝ということは、庶民は愚か、家族さえ知りえないさ」

「……」

「でも、断らせるったってどうすりゃいいんだよ?」

「毒には毒で、ならぬ、女には女だ。気の強い女どもを使って、あの気の弱そうな運命人を脅せばいい」

「なるほどな、そういう考えか……」

 ふむふむ、と男が言ったことを解釈し、二人は男と同じ笑みを浮かべる。どうやらようやく分かってきたらしい。

「それなら出来そうだな」

「だろ?あとは(つがい)にはならないことを理由に帝から運命人を引き剥がし、俺らのところに連れ込めばいい話だ」

「ったく、お前の考えることにゃいつも頭が上がらないねぇ」

 薄暗い路地で、3人の男は気味悪く笑い声を発した。彼らのいる場所の空気だけが澱んでいく。

「そうと決まれば早速行動をとらなきゃな。天狗、お前は運命人を見張っていろ。何かあれば念話(ねんわ)で伝えろ」

「承知致しました」

 深々と頭を下げると、天狗は再び黒い布を全身に纏い、翼を羽ばたかせて飛んでいく。

「肝心の女の脅し役の女はどうする?」

「狐女でいいだろ。(つがい)の座を欲しがってるし、何より俺らの仲間だからな」

「ああ。そうだな」

 と、頷いた男の体に異変が訪れる。

 肌の色が次第に黒みがかり、額の中央がバキバキと割れ始める。真っ黒に変色したそこから生えたのは、一本の角だった。

 3人は鋭く光る角と爛々と光らせた瞳で顔を見合わせる。

「愉しみだなぁ」




 その姿は、そう。






 世にも恐ろしい姿と雰囲気を纏った。







 鬼だった。

 







 
 
「ここが、私の屋敷だ」

 人間の背丈より遥かに大きい柵にはめ込まれた門をくぐった先で、羅衣源(らいげん)は私に囁いた。

「ここからは歩けるか?」
「う、うん……」

 ぎこちなく頷くと、彼はそっと姿勢を低くした。地面に足が着いた私は、ようやく二足歩行に戻る。

 正直、ここに来るまでずっと心臓が痛かった。バクバクと激しく脈打つ胸を押さえながらも、これで少しは落ち着ける。そう思えたのは、ほんの一瞬だった。

 羅衣源に抱き抱えられたまま連れてこられた場所を見て、私は唖然とする。

「こんなにも、立派なんだ……」

 そこは、帝が住む、街の中心にある屋敷で、広大な広さの土地と豪華な作りの建物があった。そして、周辺の庭ではまたも目を惹く施しがあった。
 
 まず、中庭の半分が池だった。周囲を石で囲まれたその池では、水面に可愛らしい睡蓮が浮かんでいて、時折、鯉が跳ねては水柱を上げる。さらにはその池の上に朱色の橋がかかっており、水に囲まれた小さな島へ渡れるようになっていた。
 
 また、ある一角では立派に育った松の木が数本、御神木のようにそびえ立っていた。そして木々の周りを、忙しなく翼を動かし続ける小鳥達が飛び交っている。

 ここは日本国ではなく、もしや外国か、と、そう疑いたくなるほどの美しさに、私は目を休める暇もない。

 帝の住む屋敷は、周囲を柵で囲まれているため、外から見ることはできない。よって、誰も知らないのだ。帝の暮らしも、屋敷の構造も、庭の様子も。

 屋敷を見上げて視線を彷徨わせる私の顔を、羅衣源は覗き込む。

「気に入ったか?」
「はい。…ってそうじゃなくて!」

 ぼーっとしていたあまり、彼のペースに乗せられそうになる。

(危ない危ない)

 あまりの美しさに感動してなんとなく頷いてしまったけれど、私が住むとは決まってないもの。私はぼんやりとしていた頭を振って活性させる。

 対して羅衣源は、何が面白いのかケタケタと笑っていた。

「いやいや、すまない。さぁ、行こうか」

 そう言うなり、私の手を取って歩き出した。

「え、いや、ま、待ってって!」

 いやだから私の意思も聞かずに連れていかないで欲しい。

 慌てて叫んでも、彼の足は止まらない。本当に周りが見えていない人だ。彼にされるがまま歩かせられている私は、自分に近づいてくる屋敷を見上げた。

(本当に豪華で凄いな……)

 比べてはいけないかもしれないけど、私の家なんかとは大違い。

 段々と、渡り廊下からの声がはっきりとしてくる。

「ちょっと、そこ、しゃんとしなさい!」
「帝様がお戻りになるまでに終わらせろ!」

 聞こえてくるだけで沢山の人がいることが伝わる。慌ただしい足音に、時折響く怒声。

(私、こんなところに入っちゃって大丈夫なのかな……?)

 そんな心配をよそに、羅衣源は屋敷の中でも、最も広い寝殿に繋がる階段を登り、声を張り上げた。

「羅衣源が今戻ったぞ!」

 その声にいち早く反応したのは、私よりも少し年上の女性だった。バタバタと足音を立て、柔らかに見える白い絹の裾をなびかせながら走ってくる。

 現れた女性は、きっちりとお団子に結えられた髪と、これまたきっちりと着こなした涼しげな服装の姿を角から見せた。

 早歩きで廊下を突き進んできたかと思えば、ピタッと止まって両手をへその位置に置き、恭しくお辞儀する。

「帝様、お帰りなさいませ」
「ああ」
「いかがでし……」

 彼女は顔を上げて羅衣源を見、安堵の笑顔を作った後、隣の私を見て驚きの表情を露わにした。

「あの、そ、そのお方は……?」
「ああ、こいつはか」

 女の人と目を合わせないように俯いていた私を、羅衣源は無理やり自分の元へ寄せた。私が迷惑しているのも知らずに。

 しかし、女の人は私の表情よりも羅衣源の行動に驚いたらしく、目を見張っている。

「彼女の名は抄華。私の(つがい)だ」

 羅衣源は満更でもない様子で告げる。私はそれを聞いた瞬間、彼の顔を見つめた。というよりは睨みつけた。

(つがい)だなんて、そんなの決まってないし、承諾もしてないのに……!)
 
 私はひどく動揺するが、それを聞いた彼女は歓喜の声を上げる。

「えっ、つ、(つがい)様が!その方ですか!」

 瞳を輝かせ、口に手を当てて確かめるように羅衣源に問いかける。

「そうだ」

 羅衣源がはっきりと頷くと、彼女はさらに慌てふためいた。でも、その行動には喜びが混じっているのがよく分かる。

「ああっ、ようやく見つかった!お告げのおかげかしら?本当に当たるのね。やっぱり凄いわ」

 あまりにも彼女の口からポンポンと言葉が発せられるものだから、私は口を開けたまま静止する。

「まずはお父上様に報告かしら?それからお母様にもご報告を。あと妹君様も。あっ、その前に屋敷のみんなにも報告しないと……」
凛音(りんね)、落ち着け」

 羅衣源が静かに言い放つと、凛音と呼ばれた彼女は夢から覚めるようにはっと我に返る。そして、顔を赤らめて縮こまった。

「私としたことが取り乱しました。すみません……」
「いや、いい。それよりも、抄華の傷の手当てを頼めるか?」
「えっ、お怪我をなされているんですか?それは大変!もちろんですとも」

 私抜きで話を進めないでもらいたい。割り込んで止めたい気持ちもあるが、隙がない。

「ならば、宜しく。私は少し用を済ませてから行くから」

 そして羅衣源はくるりと向きを変えて私と向き合う。

「と、言うわけだから凛音に着いていけ。私も、用が済めばすぐに行くから」
「は、はい……」

 なんがどんどん話が進んでいってしまう。でも、ここまできて断る雰囲気もない。俯く私の手を、今度は凛音という女声が掴む。

「それでは、抄華様。どうぞこちらへ」

 そうして私は再び連れられていくのであった。ほんと、今日は驚くことが次から次へとくる。
 
「ささっ、こちらでございます」

 案内されたのは、障子と襖を使って仕切られた部屋。花の刺繍が施された襖を凛音が丁寧に開けると、そこは綺麗に整頓された内装が広がっていた。

 化粧台、寝具、机、なんでも揃っていて、ここで生活できそうだ。広さも、たった一つの部屋なのに私の家全てを合わせたぐらいある。

(この部屋は一体なんなんだろう……)

 そう尋ねようとしたのだが。

「あ、のっ……」

 突然喉がキュッと閉じて、うまく声が出せなかった。

(あ、あれ?)

 私は首を傾げて喉を抑える。もう一度声を発せようとしたが、無理だった。まさか、私の体質が出たのか。でも、なら何故。さっきまでは、羅衣源と何ともなく話せていたのに。

「あ、あのっ、こ、こは…?」

(ダメだ。やっぱり声が出ない……)

 けれど、私が部屋中に視線を彷徨わせていたせいか、凛音は私の言いたいことが分かったらしく、にっこりと微笑む。

「ここは、帝様の(つがい)に選ばれた者に与えるお部屋なのですよ」

 それを聞いて、私は気まずくなる。私は別に(つがい)と決まったわけじゃない。ただ、羅衣源がそう口にしているだけだ。

「さぁ、抄華様。お座りください」

 そんな私の心情なんていざ知らず、凛音は私を座布団へ座らせる。しかも、何故か「様」付けで。

 そして、いつの間に持っていたのか木箱を取り出して蓋を開けた。中には沢山の医療品が入っていた。どれも、高価で、庶民には手の届かないような物たちが。凛音は慣れた手つきで包帯と薬を取り出す。

「さっ、お怪我をしたところを見せてくださいませ」

 私はこくんと頷いて、足を差し出した。人に見せようとして出したことなんてないから、少し恥ずかしい。どんな反応をされるんだろう、と内心緊張する。

 すると案の定、凛音は私の足を見て顔をしかめた。それを見て、私はため息をつく。自分自身に。

(そうだよね、私の足なんて全く綺麗じゃないもの。きっと、凛音だって醜い足を見せられて嫌な気分になっているんでしょう)

 だが、凛音が発した言葉は予想外だった。

「なんで酷い!抄華様の美しい足がこんなにも汚されるなんて!」

 思わず突っ込みたくなった。その上、そんなにも取り乱すことじゃないでしょう。しかも、美しいだなんて、この場で使う言葉じゃない。

 私はその言葉に恥ずかしく、だが少し嬉しさを感じた。

(分かってる。凛音はきっと、お世辞で言っているんでしょう)

 でも、綺麗なんて言葉をあまりかけてもらっていなかった私にとって、お世辞だろうが何だろうが嬉しかった。

「すぐに手当しなくては」

 凛音は慌てた様子で布に薬を染み込ませ、傷口に当てた。途端、ズキッとさ痛みが蘇ってきた。私は奥歯を噛んで、その痛みに耐える。私も、もう大人。当たり前だけど泣くなんてみっともない。

 痛みを増幅させた薬は、しかし傷口を清潔にしてくれた。血が拭き取られた傷口に、凛音は丁寧に包帯を巻く。

「さぁ、これでもう大丈夫ですよ」

 私の怪我は、あっという間に手当てされ、痛みも引いていた。

 ありがとうございます。と、お礼を言いたかったのだが、私の喉は相変わらず声をうまく出してくれなかった。代わりにペコリと会釈する。

 その思いも凛音は受け取ってくれたようで、優しく微笑んで「どういたしまして」と言った。そこに、丁度良く襖が開く音が響く。

「おお、手当は終わったか」

 羅衣源だった。

「ええ、今、いたしましたので、すぐに治りますよ」
「助かった。感謝する」
「いえいえ、めっそうもない」

 凛音は床に頭がつきそうなほど深くお辞儀し、急いで使ったものを片付ける。

「では、私はこれで」

 羅衣源と入れ違いになるように、彼女は部屋の外へ出ていった。「ごゆっくり」と意味ありな笑みを残して。部屋は、私と羅衣源と二人だけの空間になる。

「凛音はああ言っていたが、怪我は大丈夫か?」
「はい。丁寧に手当てをしてもらいましたから」

 と、そこまで言ったところではたと気づく。来た時と同じように、羅衣源と普通に会話できていることに。

 喉を押さえて、自分の声帯が震えていることを確かめる。

(さっきのは何だったんだろ……)

 喉が締め付けられた感覚が嘘のようだ。やっぱり、羅衣源が原因なのか。羅衣原といる時だけ、何の不自由もなく声が出せる。やはり、彼の持つ雰囲気の問題なのだろうか。

 不思議だな、と改めて疑問として湧き上がる。そんな私に、羅衣源は笑いかけた。

「それならば良かった」

 そして、私の近くに歩み寄ると、隣に腰を下ろした。

 肩が触れそうなほどの近さに、私は反射的に体を動かす。しかし、その仕草が気に入らなかったのか、羅衣源は眉をひそめた。

「何故避ける?」
「いや、その……触れられることに慣れてないので」

 適当にも程がある言い訳だ、と自分の考えのなさに呆れたが、羅衣源は以外にも理解してくれた。

「そうか……。ならば仕方あるまい」

 そう呟き、程よい距離をとって羅衣源は私と向かい合う。

「それでなんだが。抄華……」

 なんだか似たようなくだりが先ほどもあった気がする。と、私は身構えた。羅衣源は一呼吸置いた後、再び声を発する。

「もう一度言う。私の(つがい)になってくれぬか?」
「お断りします」

 私は即座に答えた。やっぱりこの質問。今日だけで2回は繰り返している。
 
 この返事は予想ていたのか、羅衣源はさほど表情を崩さなかった。しかし、どうにも納得できないと言った様子で質問を投げかけてくる。

「さっきから断ってばかりいるが、それは何故だ?」
「何故、と言われましても……無理なものは無理です」
「その無理な理由を聞きたいのだがな」
「それは、その……お話しすることはできません」
「そう、か。まさか、他の夫がいるからか……?」
「まさか。そういうわけではありません。元より、私には夫なんていませんし……」

 自分自身で言ったにも関わらず、これを口にすると気分が暗くなる。改めて自分の惨めさが思い知らされて恥ずかしくなる。消えてしまいたい。

「夫がいない……?その(よわい)で、か?」
「ええ。何度かお見合いもしたんですけど、すべて、私の体質のせいで……破談に」
「つまり、今まで男と縁を結んだことも、肉体関係を結んだこともないということか?」
「はい……」

(こんなことを聞いて、羅衣源はどう思うんだろう?)

 考えるまでもない。きっと、呆れてしまう。でも、そしたら私は解放される。

 悲しくも、そうなることが一番だと思い、望む答えが羅衣源の口から出るのを待ったが…。

「なるほど、そうなのか。やはりお前は私の(つがい)のようだ」
「……へっ?」

 腕を組んで頷いている彼が言ったのは、全く別の言葉だった。羅衣源は何故か一人で納得している。
 
 予想だにしなかった反応に、私は面食らう。
 
(なるほど?何が?)

 てっきり、可笑しいとかありえないとか言われるのだと思っていた。それは私の言葉をちゃんと聞いていたか心配になったほどに。それに、やっぱりとはどういうことだろう。

 彼は言った。
「やはりお前は私の(つがい)だ」と。
 
(私に夫が出来ないことが、どうしてそれに繋がるんだろう)

 私の脳内はこんがらがる。

「ど、どういうこと?」

 溜まらず訊いてみると、羅衣源はピクリと体を震わせて私を捉える。一瞬目を伏せた後、申し訳なさそうな表情を見せた。

「ああ、すまない。いきなり言われても困るよな」

 羅衣源は複雑な色合をした瞳で説明した。

「君はおそらく、帝の(つがい)になる運命を背負わされた人間だ」
「えっ、う、運命を……?」
「ああ」
 
 羅衣源は深く頷き、しばらく目を瞑る。誰も声を発しない静かな世界の中で、私の思考は羅衣源の言葉で埋め尽くされた。

 運命を背負わされた。

(つまり、元から私は帝の(つがい)になることが決まっていたってこと?)

 でも、何故それが、私が夫がいないことと繋がるのか。

 すると、羅衣源は私の心を読んだかのように、その運命の意味を説明してくれた。浮かない顔の彼に、嫌な予感が芽生える。

「帝の一族には必ず、運命人、さっき言ったように、帝の(つがい)になる運命を背負わされた者がいる。というよりは、その者と一緒に運命を背負っていくと言った方が正しいか…」
「運命人……。それはつまり、元々定められた運命を持っているってこと……?」
「そうだ。二人が通るためだけに一つの道が作られる。そのように、二人で一つの運命を歩んでいく。その二人として結ばれたのが、帝と運命人だ」
「ちょっと待って。だから何故、それが私の現状と関係があるの?」

 尋ねると、羅衣源はああ、と瞳に闇を落として言った。

「運命人になると、帝以外の夫を持てなくなる人生になるのだ」
「……えっ?」
「しかもそれは、随分と昔から決まっている(ことわり)なのだ」

 帝以外の夫を持てない。言い換えれば、帝以外からは愛されない。故に、他の男とは縁を結べない。

(羅衣源が、あなたが言いたいのは、つまりそういうこと?)

「じ、じゃあ今まで私が誰にも見染められなかったのは……」
「お前が、運命人だったからだろうな」

 羅衣源は静かに言い放った。諭すように、宥めるように。

 そんな、と血の気が一気に引いていく感覚に陥る。初めて知る事実に、全身が氷のように凍てついて、感覚が失われていった。体がワナワナと震える。体温がどんどん下がって、纏わりつく空気が凍てついたものになる。

 ー運命人ー
 側から見れば、聞こえの良い言葉だろう。しかし、私にとっては耳障りでしかない。

(つまり、私は(このひと)のせいで夫ができなかったってこと……?)

「あなたのせいで、私の人生はこうなったの?」
「そうだ」

 否定もせず、躊躇うこともなく、彼は首を縦に振る。

(この一族に運命人なんてものを背負わされたばかりに、両親に迷惑をかけて、周りから馬鹿にされてきたの?)

「あなたのためだけに、私は馬鹿にされてきたの?」
「そうだ」

 羅衣源は感情を乗せずに全てを肯定する。彼は全てを受け入れる覚悟をしたのだ、と気づくのにそう遅くはなかった。

 自分は悪くなかったと分かった今、今度はその怒りが別のものへと移っていく。

(じゃあ……じゃあっ!一体、今まで私が受けたことはなんだったの!?)

 腹の奥から、いや、体全体が炎に包まれたように熱くなっていった。私の中で、大釜がぐつぐつ煮えたぎっているみたいだった。苦しみ、悲しみ、悔しさ。いろんな思いが絡んで、混ざり合って、私の心を支配していく。

「私は、私は……っ!」

 拳を強く握りしめる。それでも感情は止まらず、膨らみ続ける。

 思い出すのは、胸が押しつぶされそうな苦しみの中で生きていた毎日。もがきながら、ただ自身を呪って過ごした日々。

「今まで……ずっと……辛い思いをしてきたの……っ!」

 おかしくなりそうだった。体も心も、私と言う存在全てが、今は怒りという炎に侵されている。

「家族に迷惑かけて……自分のせいだって、思ってた……私自信が悪いって……」

 だけど、実はそうではなかった。その事実に、気がついてしまった。

 思わず立ち上がっていた。床に座る彼を、私は上から睨みつける。

「どうして……なんでよっ!なんで、こんなことになったの……っ!」

 どうか、彼が話したことが嘘でありますように。そう、心の何処かで願っていたに違いない。

 でも。

「本当にすまない、抄華。私なんかのせいでお前が辛い目に遭っていたとは。もっと早くに出会えればよかった」

 羅衣源は嘆いていた。俯いて、なんとも言えない表情を足下に向けている。彼は、まるで自分がやったことかのように、深く後悔していた。それは、残酷な事実を、相手が知らなかったことを告げた時にしかできない表情だった。

 分かってる。羅衣源は悪くない。
 分かってる。羅衣源のせいでも、誰のせいでもない。

 しかし、彼が謝る姿を見ても私の怒りは収まらなかった。むしろ、逆に蓄積されていく。そしてとうとう、爆発した。
 
 私の中の何かが、弾けて砕けた。空気の入れすぎた毱が破裂するように。ガラスが砕かれるように。

「あなたのせいだっ!」

 私があまりにも大きな声を出したから驚いたのだろう。羅衣源は声と連動するように体を痙攣させ、美しい瞳を私に向けた。ありえない、と言いたげな色を宿して。
 
 自分でも、こんな声が出せるものかと内心びっくりした。

(でも、もういっか……)

 ここまで来たら、もうぶつけるしか他にない。私は自分の心に掛けていた感情を抑えるための錠を開け、解放した。

「あなたのせいで私の人生は崩れた。あなたのせいでみんなに迷惑かけた。あなたのせいでっ!」

 喉の奥が熱い。まるで、火の玉を飲み込んで焼かれているようだ。目頭も、このまま燃えるんじゃないかと思うほど熱がこもっていた。  

「どうしてこうなったの!?私は何故こんな運命に生まれてきてしまったの!?望んだわけでもないのにっ!」

 そして、頭の中では言葉で表しきれないぐらいのひどい言葉が散乱していた。これを全部吐き出したら、どんなに気持ちいいんだろう。

 でも、そう思うのに全ての感情を目の前の相手にぶつけられないのも、私という人間の弱みだった。

 私はただ、目の前にいる男を睨み続ける。羅衣源は、そんな私をじっと見つめていた。

(何よ。言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない)

 羅衣源は一度瞳を閉じた後、ふうっと息を吐く。

「すまない」

 彼は静かな声で言った。

「私なんかのために、抄華に苦労させてしまって、本当に申し訳ないと思っている」

 彼はとても優しかった。散々当たり散らす私の言葉を、否定もせずに聞き入ってくれる。

 自分のせいじゃないはずなのに、罪悪感を抱えて頭を下げている。あなたがするはずじゃないことをしている、そんなことは私だって理解していた。

 だけれども、この胸の怒りの炎は消えることがない。むしろ、彼が謝れば謝るほど油を注がれたように炎は勢いを増してしまっている。

 項垂れる彼の姿を、私はじっと黙って見つめた。

「辛かっただろう、苦しかっただろう。心の傷がどれほどのものか、私は知っている」

 彼の声は優しかった。全てを包み込んでくれるようで。だが、それがまた、私の怒りの原因にもなる。

「知ったような口聞かないでよ!」

 どうせあんたみたいな人間には、私の苦労なんか分からないんだから。私の屈辱なんか、知る良しもないんだから。

「私の苦しみなんて、誰も理解できるはずがないっ!」

 もう限界だった。心も、体も、漂う空気感も。

「……ッ!本当に、すまない。全部、私のせいなのだ」

 お願いだから肯定しないで。少しは抵抗してよ。羅衣源の何もかもを受け入れる姿勢が、私の感情をさらに暴走させた。

(あなたが謝らないで。あなたのせいじゃないことは知っているから。だから、私を否定してこの高ぶりを止めてよ)
 
 自分だって、いや、むしろ自分に悪いところがあるのは理解しているはずなのに、受け止めてくれる人間がいると、どうしてもそっちに想いをぶつけたくなってしまう。

 そして、その相手は頭を下げたままだった。

(もう、無理)

 私の中で何かが割れた音がした。いや、正確にはヒビが入った。脆いガラスに足を投げつけられたみたいに。

(心が耐えられない……ッ!)

「もう、私に、構わないでっ!」

 精神の崩壊を感じた私は、そんな言葉を吐いて走り出す。

「あっ、待て……」

 羅衣源が止めようとするが、私はその手をすり抜けて部屋を飛び出した。そのまま、廊下を走り渡る。

 私が走り去った場所には、幾つもの透明な滴が落ちていた。私は涙でぐちゃぐちゃだった。溜め込んでいた思いが涙という形で放出され、絶え間なく溢れてくる。

 長い長い廊下には、たくさんの人たちが行き交っていた。彼らは泣きくじゃる私の姿を見るたび、驚きの声を上げていく。

「お、お前はなんだ!」
「侵入者か?」
「痛っ。気をつけてよ!」

 時折通りすがりの女中や役人とぶつかりながらもなお、私は走った。すみません、の一言さえ口からは出てこなかった。そして、途中でさっきも見た顔が視界に映る。

「し、抄華様……?」

 凛音だ。真っ白な布団を手に、目を見開いている彼女の姿を捉える。

「……っ!」

 そんな彼女の横を、私は風を切って通り過ぎた。

「しょ、抄華様!お待ち下さい!」

 背後から凛音の叫ぶ声が飛んでくる。焦った彼女の声が、私の耳にへばりつく。

 お願いだから、もう、私に構わないで。私は目頭を腕で押さえて、視界を狭める。視野が暗くなる。何も見たくない、何も聞きたくない。

 そのまま、私は寝殿から飛び降りるように出て、広大な庭を突っ切り、屋敷から逃走した。

 後ろは相変わらず騒がしい。でも、それも私には関係なくなる。

 これでいいんだ。と、自分に言い聞かせる。私はどんどん屋敷から離れていく。というりかは、羅衣源から離れるために逃げる。

 あいつは、私の人生を奪ったやつだから。あんなやつと、もう二度と会いたくない。

 私は涙を流したまま、もっと遠くへと足を進めていった。

 もう、屋敷の声は何も聞こえない。