「本当に、賑やかさが戻ってる……!」
「だから言ったであろう?」
今朝とは打って変わって人で賑わう街並みに、私は唖然とした。
帝の道中が始まる前は人が皆生き絶えたように静まっていたのに、今ではそのことが嘘みたい。人が溢れ、音が溢れ、匂いが溢れている。これを賑わいと言わずして何と言うのだろう。
(なんて人が多いんだろう……。なんて賑やかなんだろう……)
忘れかけていた街の姿が蘇り、思わず感嘆の言葉を並べていた。この活気こそが、この街で最も誇れるものだろう、と私は思う。
「いつまでぼーっとしているんだ?」
はっと我に返ると、羅衣源の凛々しい表情が意外にも近くにあった。トクンと、胸は敏感に反応する。
「え、あ、ああっ、ごめん」
心臓が高鳴ったのを知られないように、私は両手を振って謝る。その仕草がおかしかったのか、羅衣源はキョトンとした後、表情を崩して微笑んだ。
「そうか。では行こう」
「う、うん」
私は羅衣源の腕に手を絡めて歩いた。こうした方が、ただの夫婦にしか見えないからいいだろう、と。
(まぁ確かに、私はいいとして羅衣源が怪しまれるのはまずいかもね)
夫婦を装えば、珍しさなんて欠片もないから人が寄ってくることはまずないだろう。
そんな思考を巡らせた私は、一周回って彼の腕を掴むことにした。
異性の腕に捕まって、増してや人の多い街の中を歩くなんて。私は内心緊張で壊れそうだけど、羅衣源は何処か嬉しそうにしている。
(ああっもう、今だけだからね、多分)
体中が熱を帯びている私の周りを、人々の声と食欲をそそる香りが包み込む。食器を売る性根逞しい女将さんの声や、揚げ餅の香ばしい匂いが飛び交っている。
好奇心のままに目をキョロキョロと動かしながら、店に並ぶ商品を物色する。
どれもこれも綺麗で、美味しそうで、心躍らせて、魅了されるような誘惑がとても多い。
だが、そんな店のものには目もくれず、羅衣源はただひたすらに前を見ながら進んでいた。
私は見えない彼の顔をじっと見つめた。彼は一体どこに行きたいんだろう、と疑問を抱きながら。
「ねぇ、羅衣源」
私は声をひそめて彼を呼ぶ。
「ん、なんだ?」
「どこへ行く気なの?」
私は尋ねてみた。が、羅衣源は口元を吊り上げて楽しそうに笑うだけだった。
「それは行ってからのお楽しみだ」
「えっ、教えてくれないの?」
「ああ、待っていろ」
「むー……」
勿体ぶった彼の言い方に、私の好奇心はますますそそられる。私は胸がモヤモヤとしたまま、人の間を縫って道を進んでいった。
彼の足は出店が立ち並ぶ道を通り過ぎ、ある一角で曲がる。
「えっ?」
驚きが無意識に声となって現れていた。
(こっちは高級な店が立ち並ぶ道だったはず……)
しかも、さっきのように道端に簡素な店を開いているのとは訳が違う、ちゃんとした建物を構えたお店。
私のような庶民は滅多にお目にかかれない場所だ。現に、この通りを見たことは愚か、ここを曲がったことさえなかった。
ぎゅっと、冷や汗で濡れた手をきつく握りしめた。私なんかがこんなところに来てしまって大丈夫なのだろうか。
流石に様子がおかしいと思ったのか、羅衣源が声をかけてきてくれた。
「どうした、抄華。大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」
即答する。もう心は破裂しそうなほどにバクバクとうるさかった。羅衣源に触れられる時とは違う動悸。これは完全に不安からの心臓の動きだった。
こっちの鼓動の方が激しすぎて、手を繋ぐだけで心臓が壊れそうだったのが嘘みたい。
「だってここは、私のような庶民が来ていい場所ではないじゃない」
「最初も言ったが、来る場所に身分など関係ないのではないか?」
「あなただからそう言えるの。私なんかがこんなところに来ちゃっていいの?怒られない?」
「そんなに気を張ることはない。私もついている。力を入れることなく、堂々としていればいいさ」
簡単に言うけど、私はそれが出来ないのに。
思わず突っ込みたくなるも、その気力さえ失せてきた。
そんな私の頭を、羅衣源はぽんぽんと優しい手つきで撫でる。
「もうすぐそこさ」
彼の優しげな声に、私の緊張も幾分か和らいだ。
再び手を繋ぎ、私と羅衣源は人気のない静寂が漂う道を進む。ただ静かなだけじゃない。何かこう、不思議な雰囲気がそこにはあった。うまく形容し難いけれども、普通の街とは違う何かが。
にゃぁん。
風が吹けば消え行ってしまいそうな声。猫が発するもの。それが、不意に耳に届いた。
(猫の鳴き声……?)
私は辺りを見回す。すると、細い路地に入ろうとする尻尾を見つけた。猫、だと思った。しかし違う。私が知る姿とは少し異なっていた。
何せ、焦茶色の細い尾が二つもあったのだから。
「あ、あれって……!」
私は目を見開いた。いつか聞いたことがある。猫の見た目だけど、尾を二つ持った生き物がいると。それを、猫又というと。
「どうしたんだ?」
私の奇行に気づいたのか、振り返った羅衣源が訝しげに眉をひそめる。
「い、今、猫又を見たような気がして……」
「猫又?」
「そう!あやかしの、あの……」
「ああ、この辺りではよく見るな」
「そうなの!?」
あやかしをよく見る場所だなんて初めて聞いた。
「あやかしの世界と人間界の狭間の役割をすることもある。ここはそういう場所だからな」
「へぇ……」
ただ高級感が溢れるばかりじゃなくて、そんな神聖さも持ち合わせるなんて。つくづく、自分がいる場所に慄いた。
「まあ、気にせず歩くと良い」
「分かった……」
とは言いつつも、気にしないなんてできなそうだけど。
黒塗りの柱が目立つ建物や綺麗な硝子が嵌め込まれている店の横を通り過ぎ、いよいよ羅衣源の目的地に辿り着く。
「ここだ」
と羅衣源が言った先にあったのは、ハッキリとした朱色と金色に輝く入り口が眩しい建物だった。
私の住む方では一切見ることができないほどの豪勢な造り。その眩しさは、思わず目を閉じたくなるほど。そのぐらい、輝かしいのだ。
しかし、だ。そこは、ただ豪華で美しい見た目をしている、としか読み取れなかった。
「……ねぇ、ここってなんのお店なの?」
料理の香りもしないし、糸車の音も聞こえないし、人の声も響いていない。強いていうならば、不思議な雰囲気と、魂がざわつくような気配が漂っているだけ。
見た目だけでは、なんの店かは見当がつかなかった。
「何の、と問われると困るが……。物を売っている店ではない」
「……?」
物を売っていないのならは、何を売っているのだろう。いや、そもそも何かを売っているお店ではないのかもしれない。
物を売っているわけではない、と言われても選択肢はさほど絞られない。絵師や茶道教室のように、自身の才能を売る店も少なからずあるのだから。
想像を膨らませるも、どれもこれもなんか違う気がする。顎に手を当て考え続ける私を、羅衣源は面白そうに見ていた。
「そんなに気になるか?」
「まあ、そうね。こんな場所にあるお店なんだもの。気にならないわけがないわ」
「中に入ってみれば分かるさ」
そう言って、羅衣源は金箔が貼られた取手を握って、その扉を開けた。
「さあ、入ろう」
彼は右手を扉の奥へ差し向ける。まるで、御付きの者みたい。
帝の彼がそんな仕草をしているのに、私は吹き出した。
「ありがとう」
表情とは裏腹に、恐る恐る足を進める。
中は、薄暗かった。窓という窓がないため、外の光は一切差し込んでいない。そもそもこの建物の構造上、太陽の光を受け取る場所がないから当たり前か。
「どうした?」
「へっ?」
「ぼーっとしているから。大丈夫か?」
戸を開けていた羅衣源も中に入り、私が立ち止まっていることに気づく。
「あ、ああ……不思議な場所だなって」
「だろうな」
中に居る者も不思議だからな。そう羅衣源が呟いたのは気のせいだろうか。
「行くぞ」
彼は同じことを言って、私の手を取る。私はされるがままに、彼について行った。
ギギっと物体同士が擦れる音がしたかと思うと、バタンと派手に背後の扉が閉まる。唯一の光源さえも絶たれ、辺りは暗黒に包まれる。
振り返らなくとも思ってしまう。閉じ込められたのではないか、と。
もちろんそんなことはないはずなんだけど、こんな暗闇で勝手に扉が閉まったら不安が湧き上がるのは仕方ない。
闇に閉ざされた私たちは、仄かな灯りが灯る廊下を頼りに進んでいった。僅かながらにも足元を見ることができるのが救いだった。
歩いて歩いて歩いて、入り口さえも何処だか分からなくなってくる。長い、長い廊下。
私と羅衣源はひたすらに歩む。もう、入ってきた場所どころか、背後の道さえ小さく見えなくなっていった。
「ねぇ、これ、何処まで続くの?」
「だいぶ長い。気楽に歩け」
「う、うん……」
そう言われても、私の緊張は解けない。こんな暗く狭い道をずっと歩け、なんて正直気が滅入りそう。
羅衣源と一緒じゃなかったから途方に暮れていたかもしれない。
私は何の変わりもない羅衣源の歩幅に合わせて、何も考えずに足を動かして行った。
「わぁぁ」
ようやく終止を告げた細い一本道。そこが途切れた瞬間、私達は広々とした空間に出る。道は赤い絨毯で続いていたが、周囲にある物が幻想的な世界を生み出していた。そう、まるで異国のような。
炎の光の色を、水とガラスを使って変えている噴水。僅かなぼんぼりの明かりを受けてほんのりと光を帯びている大きな水晶。一本の茎が人間の背丈ほどまで伸び、大きな花びらを開かせている花々。
滅多に見れないものだけあって、私の興味はそそられる。桃源郷にでも来てしまったように錯覚する。
何もかもが美しい。それこそ、この薄暗い灯りさえも、物の長所を引き立てるために思えてきた。
「どうだ、気に入ったか」
視線を彷徨わせる私に、羅衣源は尋ねる。
「ここのものは、全て異国から取り寄せたものとこの国にあるものを融合して作られたんだ」
「素敵……」
言いたいことはもっとたくさんあるはずなのに、口から出てきたのはそんな一単語だけだった。代わりに、その一言に全ての想いを乗せる。
「ならば良かった」
心の底から安心したように、羅衣源は胸を撫で下ろす。抄華が怖がったらどうしようかと思った。彼の独り言が偶然にも聞こえ、その優しさに胸を打たれる。
私は自然と微笑んでいて、彼の体にピタッと自分の体を密着させた。さっきは少し不気味に思っていた館内も、慣れればお洒落な雰囲気の空間だと感じる。
私達は不思議なオブジェの横をどんどん通り過ぎていき、建物の奥へと近づいて行った。
やがて、他の部屋よりも一段と神々しく輝くところに着いた。とは言っても、やはり外ほど明るくはないが。
天井には、たくさんの加工されたガラスが吊り下がっていて、所々に置いてある蝋燭の灯りを反射してキラキラとしている。
部屋の中央の木製の板の上には四畳ほどの畳の間ができていて、私の腰くらいの高さまであった。畳の周辺には幾つもの水晶の玉が、台座に置かれて並んでいる。
そして、その畳の上、円状に並ぶ水晶の中心には、あぐらをかいて目を瞑った男の人が座っていた。
その人は首や腕に勾玉をふんだんに使った飾りを付け、朱色の着流しを着ている姿が妙に様になっていた。大昔の豪族と似たような姿だ。あるいは、時折見かけるまじない師か。
私達が目の前にいるにも関わらず、その男は起きる様子がない。と、羅衣源が私の一歩前に出た。そのまま男に近寄っていき、声をかける。
「おい」
「……」
「おい、起きろ」
「……」
「おい、目を覚ませ!」
少々荒っぽく、羅衣源はその人の肩を揺さぶる。
「起きろと言っているだろう!」
「……んなぁ、ああっ?」
落ちていた瞼をゆっくりと上げて、その人の魂は覚醒された。
「何だ何だ?」
眠い目を何度か擦りながら、その人は大きくあくびをする。
そして、完全に起ききった瞳で私達を捉えた。先が吊り上がった目に、眉間に寄せられた皺、イカつい顔立ち。
私は一歩後ずさる。なんだか、この人からものすごい威圧感が出ているのを魂が感じた。
男は銀色の針のような視線を私に向ける。
「何だお前ら?」
訝しげな表情で訊いてくるその人に、私はどう答えるべきか迷う。と言っても、多分今の私では声すら出ない。
すると、羅衣源が頭の笠に手をかけた。
「私だ、羅衣源だ」
そのままするりと笠を取り、顔を露わにする。涼しげで、誰が見ても美しいと思うその顔を。
彼の咄嗟の行動に、私は慌てた。
「えっ、ちょっと、羅衣源!そんな気安く顔を曝け出していいの?」
「ああ、平気だ。それに、こいつは私の正体をすでに知っているからな」
「えっ……?」
私が戸惑いに駆られている間に、男は羅衣源をまじまじと眺めた後、目を細めた。
「久しぶりだな」
「そうだな。とは言っても、ついこの間にやってきたと思うが」
親しい口調で、羅衣源はその男に声をかけた。
彼の表情も柔らかさと口調から、二人は知り合いなのかもしれない。だから顔を見せることも躊躇わなかった。そう、私は察した。
対してその男も、表情ひとつ変えず、むしろ安心したように息をつくと、スッと音もなく立ち上がった。
そして、背中を反らせながら片足でとんっと地面を蹴って、体を宙に浮かせる。彼の体が地面から離れる。その男性は空中で体を後方に捻り、一回転する。
その瞬間、彼の体の形がぐにゃりと崩れた。
頭、胸、腰、足……と徐々に人間らしい形をこねくり回して別の姿へと変形していく。
たった数秒の変化を、私は目を見開いて見物した。
男の体が重力によって引かれ、すとんっと再び床に足がついた時、そこに人間はいなかった。いたのは、全体的に銀または白に近い毛、ふさふさの尾を9本も持つ狐だった。
「へ、き、狐!?」
さっきまで怖そうな男の人の姿は面影も残さずに綺麗さっぱりと消え、代わりに現れた艶やかな毛並みと金色に見える瞳を持つ、高貴な狐。
あまりの変化ぶりに、私は言葉が出ずに固まる。人間ではない生き物なんて、初めて見た。
先ほどの男性の半分の高さになった狐を、まじまじと見つめる私に、羅衣源は説明してくれた。
「こいつはあやかしなのだ」
「あ、あやかし……!?」
「ああ」
ーあやかしー
今の日本国において、その名を知らない人などいないだろう。
あやかしは、特殊な力を持った神聖なる生き物のこと。人間とは違う、どちらかというと神に近い領域のものと考えられている。
その理由は、人間にはない特別な力を持っているから。それは古代より人々の救済に働きかけていて、世界の動きに関係するとも伝えられている。
しかし、それ故にあまり姿を現さず、同じ世界にはいるがひっそりと暮らしていると言われていた。つまり、滅多にお目にかかれない。
私は本物を見るのは初めてで、本当にいたんだ、と不思議な気持ちになる。この見た目、この雰囲気は、やはり他のどの生き物とも違っていた。
「こいつは我々一族と深い関わりがあってな。先祖代々、帝の番がいつ現れるのかを占ってもらっている」
彼の言葉に、私は驚きを隠せるはずもなく口を手で覆う。
「抄華はあやかしとどのくらい会ったことがあるか?」
「一度もないわ」
「つまり、あやかしを見るのは初めてというわけか?」
「当たり前でしょう。いるかどうかさえ、私達は分からないのだから」
当たり前のように尋ねてきた羅衣源に少しばかり呆れる。きっと、帝である彼は一族から代々あやかしの存在を聞いているのかもしれない。
しかし、裕福ではない、むしろ貧しい私からすれば、そんなのおとぎ話だと思っていた。おそらく、庶民にとっては想像上の生き物になっているであろう。
「あやかしを、この目で見れるなんて……」
「ならば良かった。抄華にあやかしというものの存在を認識してもらえて」
しかも、と、感嘆する私に羅衣原は耳打ちした。
「こいつは、あやかしの中でも『九尾』というあやかしだ」
「えっ……」
嘘、と声を漏らしそうになり、慌てて再び口を押さえた。そうでもしないと、叫んでしまいそうだったから。
尾が9本だから九尾。それは知っている。
だから、この感情の高ぶりの原因はそれじゃあない。
「九尾って、あの、あやかしの中でも位の高い……?」
「そうだ」
羅衣源の力強い頷きに、とうとう頭が沸騰しそうになる。
九尾、位が高い。つまり、神にとても近い存在。
あやかしが持つ特殊な力を、人間は神力と呼ぶ。そして、あやかしの中では神力が強い、つまり神に近い順に正一位から正十五位までの位がついている。
正一位の上には神が、正十五位の下には人間がいる。そして九尾は、限りなく神に近い正三位の座にいるのだ。
そんなにも神聖な生き物が、私の目の前にいるなんて。私の食い入るような視線を感じたのか、九尾は目線を床に向けて、はぁっとため息をついた。
「そんなにジロジロと見るな、視線が刺さる」
「あっ、すみません……」
私はペコリと頭を下げながら謝罪をして、顔をプイと真横に向けた。その様子を見ていた羅衣源がお腹を抱えて笑い出す。
「いや、すまんな抄華。こいつはどうも恥ずかしがりでな」
「誰が恥ずかしがってる!気が散るだけだ」
「よく言うよな」
「黙れ人間が!俺をからかうな!」
九尾は吊り目をさらに鋭く細めて羅衣源に威嚇した。でも、それは本気で怒っているわけではなくて、照れ隠しをしているよう。
羅衣源もそれを分かっているのか、九尾に睨まれてもただ微笑んでいるだけだった。
「……それで、お前は一体何しに来たんだ?」
ひと段落したのか、九尾は息を切らしながら話題を変える。
「ああ、そうだな」
羅衣源も忘れていたことを思い出したような口調で手を叩いた。そして、背後を振り返って私を引き寄せる。
「わわっ!」
足元が狂った私を、羅衣源の柔らかな体が受け止める。爽やかで優しい匂いがふわっと鼻をくすぐった。
「ちょ、何、羅衣源?」
「お前、女を連れてきたんだな」
九尾が細い瞳で私を捉えた。自分の表面から奥深くまでを覗かれている気がして、背すじが粟立つ。
「こいつが私の番、抄華だ」
いきなり引っ張られるや否、羅衣源は突然紹介を始める。
「ちよ、ちょっと……!」
小声で訴えようとするも、もちろん彼には聞こえない。私なんて、あやかしに名を名乗る資格も視界に入れてもらう資格もない。そもそも、こんなみすぼらしい姿を九尾だって見たくないだろう。
しかし、意外にも九尾は私をじっと見つめ、一言言った。
「知っている」
それを聞いた私は、自分の耳を疑った。
(九尾のような神聖な生き物が、何で私なんかを知っているの?)
私は恐怖と疑問を覚える。
しかし、そこであっと思い出す。
そういえば、さっき羅衣源が占いをして貰ったと言っていた。それで、九尾は私が番だということを知ったのかもしれない。それだと辻褄も合う。
そして、現にそうだったらしい。羅衣源は今度、私を見て九尾の方を指した。
「抄華、さっきも言ったが、こいつは代々皇帝の番になる者を占っている」
「うん、言ってたね」
「そのためこいつは、帝の番がいつ現れるのか、どんな人間なのか、いつ会えるのかを視ることができる」
流石はあやかし。占う内容も具体的で細かいな。
それなら、占い方も何か特別なのかもしれない。そう思った私の心を読んだように、九尾は説明をしてくれた。
「別に特別なことはせん。この水晶玉に神力を加えて見たいものを見ているだけだ」
九尾は白銀に近い真っ白な前足で、色とりどりの丸い石にポンっと触れる。
「それぞれの水晶玉には、それぞれ違うものが映る。幾重もの与えられた情報を読み解いて、そこから知りたいことを割り出す」
「こいつの占いのおかげで、私には運命人がいると分かった。それも、自身の近くに」
羅衣源は不思議な色合いの光を放つ玉を眺めながら、しみじみと言った。
私はふと疑問を浮かべる。
「近くに、と言うけれど、具体的な場所は知っていたの?」
「いや、そこまでは占えせんよ」
九尾が首を振る。
「水晶玉は細かくて街、大きくて国でしか場所を示さない」
「だったら、どうして私があそこにいると?」
「ああ、それはこれのお陰だ」
羅衣源は懐から何かを取り出し、手のひらを広げた。そこには、ちょこんとした可愛らしい薄紫色の花びらが乗っていた。
「これ、あの時の桔梗……」
男達に絡まれそうになった時、私と男の間を桔梗が裂いて漂ってきた光景が脳裏に蘇る。あの後すぐに、羅衣源が現れたはず。
彼の手に乗る花びらを見つめながら、私は記憶を辿っていく。
「よくこれが桔梗だと分かったな」
突然耳に滑り込んできた羅衣源の声。えっ、と顔を上げると、目を見開いて私を直視する彼がいた。
「私は言われるまで、花かどうかすら分からなかったというのに」
それを聞いて、私は思わず羅衣源を二度見してしまう。
(これが花だと分からない?)
聞き間違いかと思ったが、彼の表情を見る限りは事実。何の花か分からないならまだしも、花という認識すらできなかったと言う事実には耳を疑う。
あまりの驚きに言葉を失っていると、羅衣源の後ろからニヤリと口角を吊り上げた九尾が顔を覗かせた。
「驚いたろ?こいつ、花の知識が全くなかったんだよ」
「い、言うな九尾……!」
「何だよ恥ずかしがって。大丈夫だ。今知って良かったじゃねぇか」
「……っ!」
耳まで真っ赤に染めた羅衣源が口を押さえる。その姿に、九尾はますます面白がった。
「全く、屋敷にはあんなにも植物があるのだから、少しは学べ」
「こ、今度からするさ……」
いやいや、知識どころかまずは瞳も鍛えて欲しいものだ。ちゃんと植物を鑑賞してね、と私は静かに念を送る。
「まぁ、とりあえず……」
早くこの話題を終わらせたい、という魂胆が丸見えな台詞で締めくくり、羅衣源は無理やり話を戻した。
「この花が、私と抄華を巡り合わせたのだ」
妻の先ほどしかない小さな花びらを、羅衣源はこの上ない宝を見る目で眺める。花の知識はないって言ったくせに、正体を知った途端に愛でる彼に、私はふふっと笑った。
「じゃあ、私達にとって大切な花だね」
「ああ」
羅衣原は手のひらに乗る桔梗の花びらをそっと包み込んだ。脆いガラスを握りしめるように。
「この花は、九尾に貰ったものなのだ」
細めた瞳で、羅衣源は自分の拳を愛おしそうに見つめる。
「そうなの!?」
私は声を上げて、九尾を見た。九尾は黄金色に見える九つの尾をそれぞれ動かしながら首を縦に振る。
「ああ、まぁな。俺がここにある五つの水晶玉でそいつの番とやらを占った後、水晶玉から出る光が集まって出来たものだ」
それぞれ異なる色の光が水晶玉から一直線に伸び、全てが重なり合った光が一つの塊という形になって落ちてきたらしい。それが桔梗であり、羅衣源と運命人を引き合わせる力を持っていたという。
「これのおかげで、私はお前と出会えた。つまり、九尾のおかげで抄華と会えたのだ」
ということは、九尾は私達を巡り合わせてくれた恩人というわけか。このあやかしがいなければ、私たちは出会うことができなかったかもしれない。
私は九尾の前に立ち、深くお辞儀をした。
「私達を合わせてくださり、ありがとうございます」
何となくこうするのが一番だと思ったし、羅衣源と会えたおかげで救われたこともある。だからこれは、心からの感謝だった。
「ふん、礼などいらない」
九尾はー今なら分かるが照れた様子でーそっぽを向いて荒い鼻息をついた。
「……お前らが中妻まじくいれば、それで十分だ」
口は悪いくせに、心はとても優しかった。
「はいっ!」
さりげない気遣いが嬉しくて、私は勢いよく顔を上げる。そんな私の方に、羅衣源の手がポンと置かれた。
「私からも礼を言おう。お前のおかげで、私は抄華と出会えたのだ。感謝する」
「はっ。お前の感謝なんていつぶりかなぁ?」
九尾は嬉しそうに目を細めた。そして、
「おい、抄華とやら」
私の名前を呼んだ。
「はい、何でしょう?」
「こっちに寄れ」
言われるがまま、私は九尾に近づく。
「手を見せてみろ」
「手、ですか」
私はそっと九尾の前に自身の右手を持ってきた。九尾は差し出された手のひらを持って、じっくりと眺める。
「ふぅむ……」
あやかしといえど、流石は動物。握られた手の感触がふわふわとして心地よかった。温もりを感じる毛並みが気持ちいい。
「なるほど……分かった、ありがとう」
何度か頷いたあと、九尾は手を離した。そして、一度目を瞑ってから再び私と羅衣源を捉える。
「まぁ、困難もあるだろうが、頑張れよ」
九尾はその目に不安と優しさを宿らせて、声をかけた。
私と羅衣源は顔を見合わせた後、九尾に向き直り笑顔を見せる。
「はい」
「分かっている」
お互いの声が重なった。言葉こそ違うものの、想いは一緒だ。
九尾もそれを感じ取ったのであろう、深く首を上下に動かす。
「それで、他にはあるのか?」
「いや、後は大丈夫だ」
「なら、気をつけて帰れよ」
「ああ。じゃあ、またな」
九尾にそんな助言をもらった私達は、くるりと踵を返して元来た道を戻った。独特な雰囲気と仄かに甘い香りが私達を包み込み、退路へ案内する。
長い直線をひたすら進み、出口で扉を開けたところで、私は振り返った。そして、ペコリと一礼してから、羅衣源と共にその建物を後にする。
外に出ると、目が眩むほどの日光が私達を照りつけた。さっきの暗闇に慣れていたから、この光はちょっと眩しすぎるな。
目の上に手で影を作り、私は空を見上げる。雲一つない快晴の空だ。遠くまではっきりと見え、宇宙まで透けそうなほど。
「行こうか」
そう言って羅衣源が手を差し伸べる。
「うん」
私は笑顔で頷いて、その手を取った。羅衣源が嬉しそうに微笑む姿を、私はしっかりと捉える。
数時間前までなら、絶対に握ったらなんかしなかった彼の手。でも、この手に触れることができるようになったのが運命だと思うと、何だか不思議な気持ち。
今この瞬間を過ごせることの幸せを噛み締めながら、私は羅衣源と共に再び足を動かした。
「だから言ったであろう?」
今朝とは打って変わって人で賑わう街並みに、私は唖然とした。
帝の道中が始まる前は人が皆生き絶えたように静まっていたのに、今ではそのことが嘘みたい。人が溢れ、音が溢れ、匂いが溢れている。これを賑わいと言わずして何と言うのだろう。
(なんて人が多いんだろう……。なんて賑やかなんだろう……)
忘れかけていた街の姿が蘇り、思わず感嘆の言葉を並べていた。この活気こそが、この街で最も誇れるものだろう、と私は思う。
「いつまでぼーっとしているんだ?」
はっと我に返ると、羅衣源の凛々しい表情が意外にも近くにあった。トクンと、胸は敏感に反応する。
「え、あ、ああっ、ごめん」
心臓が高鳴ったのを知られないように、私は両手を振って謝る。その仕草がおかしかったのか、羅衣源はキョトンとした後、表情を崩して微笑んだ。
「そうか。では行こう」
「う、うん」
私は羅衣源の腕に手を絡めて歩いた。こうした方が、ただの夫婦にしか見えないからいいだろう、と。
(まぁ確かに、私はいいとして羅衣源が怪しまれるのはまずいかもね)
夫婦を装えば、珍しさなんて欠片もないから人が寄ってくることはまずないだろう。
そんな思考を巡らせた私は、一周回って彼の腕を掴むことにした。
異性の腕に捕まって、増してや人の多い街の中を歩くなんて。私は内心緊張で壊れそうだけど、羅衣源は何処か嬉しそうにしている。
(ああっもう、今だけだからね、多分)
体中が熱を帯びている私の周りを、人々の声と食欲をそそる香りが包み込む。食器を売る性根逞しい女将さんの声や、揚げ餅の香ばしい匂いが飛び交っている。
好奇心のままに目をキョロキョロと動かしながら、店に並ぶ商品を物色する。
どれもこれも綺麗で、美味しそうで、心躍らせて、魅了されるような誘惑がとても多い。
だが、そんな店のものには目もくれず、羅衣源はただひたすらに前を見ながら進んでいた。
私は見えない彼の顔をじっと見つめた。彼は一体どこに行きたいんだろう、と疑問を抱きながら。
「ねぇ、羅衣源」
私は声をひそめて彼を呼ぶ。
「ん、なんだ?」
「どこへ行く気なの?」
私は尋ねてみた。が、羅衣源は口元を吊り上げて楽しそうに笑うだけだった。
「それは行ってからのお楽しみだ」
「えっ、教えてくれないの?」
「ああ、待っていろ」
「むー……」
勿体ぶった彼の言い方に、私の好奇心はますますそそられる。私は胸がモヤモヤとしたまま、人の間を縫って道を進んでいった。
彼の足は出店が立ち並ぶ道を通り過ぎ、ある一角で曲がる。
「えっ?」
驚きが無意識に声となって現れていた。
(こっちは高級な店が立ち並ぶ道だったはず……)
しかも、さっきのように道端に簡素な店を開いているのとは訳が違う、ちゃんとした建物を構えたお店。
私のような庶民は滅多にお目にかかれない場所だ。現に、この通りを見たことは愚か、ここを曲がったことさえなかった。
ぎゅっと、冷や汗で濡れた手をきつく握りしめた。私なんかがこんなところに来てしまって大丈夫なのだろうか。
流石に様子がおかしいと思ったのか、羅衣源が声をかけてきてくれた。
「どうした、抄華。大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」
即答する。もう心は破裂しそうなほどにバクバクとうるさかった。羅衣源に触れられる時とは違う動悸。これは完全に不安からの心臓の動きだった。
こっちの鼓動の方が激しすぎて、手を繋ぐだけで心臓が壊れそうだったのが嘘みたい。
「だってここは、私のような庶民が来ていい場所ではないじゃない」
「最初も言ったが、来る場所に身分など関係ないのではないか?」
「あなただからそう言えるの。私なんかがこんなところに来ちゃっていいの?怒られない?」
「そんなに気を張ることはない。私もついている。力を入れることなく、堂々としていればいいさ」
簡単に言うけど、私はそれが出来ないのに。
思わず突っ込みたくなるも、その気力さえ失せてきた。
そんな私の頭を、羅衣源はぽんぽんと優しい手つきで撫でる。
「もうすぐそこさ」
彼の優しげな声に、私の緊張も幾分か和らいだ。
再び手を繋ぎ、私と羅衣源は人気のない静寂が漂う道を進む。ただ静かなだけじゃない。何かこう、不思議な雰囲気がそこにはあった。うまく形容し難いけれども、普通の街とは違う何かが。
にゃぁん。
風が吹けば消え行ってしまいそうな声。猫が発するもの。それが、不意に耳に届いた。
(猫の鳴き声……?)
私は辺りを見回す。すると、細い路地に入ろうとする尻尾を見つけた。猫、だと思った。しかし違う。私が知る姿とは少し異なっていた。
何せ、焦茶色の細い尾が二つもあったのだから。
「あ、あれって……!」
私は目を見開いた。いつか聞いたことがある。猫の見た目だけど、尾を二つ持った生き物がいると。それを、猫又というと。
「どうしたんだ?」
私の奇行に気づいたのか、振り返った羅衣源が訝しげに眉をひそめる。
「い、今、猫又を見たような気がして……」
「猫又?」
「そう!あやかしの、あの……」
「ああ、この辺りではよく見るな」
「そうなの!?」
あやかしをよく見る場所だなんて初めて聞いた。
「あやかしの世界と人間界の狭間の役割をすることもある。ここはそういう場所だからな」
「へぇ……」
ただ高級感が溢れるばかりじゃなくて、そんな神聖さも持ち合わせるなんて。つくづく、自分がいる場所に慄いた。
「まあ、気にせず歩くと良い」
「分かった……」
とは言いつつも、気にしないなんてできなそうだけど。
黒塗りの柱が目立つ建物や綺麗な硝子が嵌め込まれている店の横を通り過ぎ、いよいよ羅衣源の目的地に辿り着く。
「ここだ」
と羅衣源が言った先にあったのは、ハッキリとした朱色と金色に輝く入り口が眩しい建物だった。
私の住む方では一切見ることができないほどの豪勢な造り。その眩しさは、思わず目を閉じたくなるほど。そのぐらい、輝かしいのだ。
しかし、だ。そこは、ただ豪華で美しい見た目をしている、としか読み取れなかった。
「……ねぇ、ここってなんのお店なの?」
料理の香りもしないし、糸車の音も聞こえないし、人の声も響いていない。強いていうならば、不思議な雰囲気と、魂がざわつくような気配が漂っているだけ。
見た目だけでは、なんの店かは見当がつかなかった。
「何の、と問われると困るが……。物を売っている店ではない」
「……?」
物を売っていないのならは、何を売っているのだろう。いや、そもそも何かを売っているお店ではないのかもしれない。
物を売っているわけではない、と言われても選択肢はさほど絞られない。絵師や茶道教室のように、自身の才能を売る店も少なからずあるのだから。
想像を膨らませるも、どれもこれもなんか違う気がする。顎に手を当て考え続ける私を、羅衣源は面白そうに見ていた。
「そんなに気になるか?」
「まあ、そうね。こんな場所にあるお店なんだもの。気にならないわけがないわ」
「中に入ってみれば分かるさ」
そう言って、羅衣源は金箔が貼られた取手を握って、その扉を開けた。
「さあ、入ろう」
彼は右手を扉の奥へ差し向ける。まるで、御付きの者みたい。
帝の彼がそんな仕草をしているのに、私は吹き出した。
「ありがとう」
表情とは裏腹に、恐る恐る足を進める。
中は、薄暗かった。窓という窓がないため、外の光は一切差し込んでいない。そもそもこの建物の構造上、太陽の光を受け取る場所がないから当たり前か。
「どうした?」
「へっ?」
「ぼーっとしているから。大丈夫か?」
戸を開けていた羅衣源も中に入り、私が立ち止まっていることに気づく。
「あ、ああ……不思議な場所だなって」
「だろうな」
中に居る者も不思議だからな。そう羅衣源が呟いたのは気のせいだろうか。
「行くぞ」
彼は同じことを言って、私の手を取る。私はされるがままに、彼について行った。
ギギっと物体同士が擦れる音がしたかと思うと、バタンと派手に背後の扉が閉まる。唯一の光源さえも絶たれ、辺りは暗黒に包まれる。
振り返らなくとも思ってしまう。閉じ込められたのではないか、と。
もちろんそんなことはないはずなんだけど、こんな暗闇で勝手に扉が閉まったら不安が湧き上がるのは仕方ない。
闇に閉ざされた私たちは、仄かな灯りが灯る廊下を頼りに進んでいった。僅かながらにも足元を見ることができるのが救いだった。
歩いて歩いて歩いて、入り口さえも何処だか分からなくなってくる。長い、長い廊下。
私と羅衣源はひたすらに歩む。もう、入ってきた場所どころか、背後の道さえ小さく見えなくなっていった。
「ねぇ、これ、何処まで続くの?」
「だいぶ長い。気楽に歩け」
「う、うん……」
そう言われても、私の緊張は解けない。こんな暗く狭い道をずっと歩け、なんて正直気が滅入りそう。
羅衣源と一緒じゃなかったから途方に暮れていたかもしれない。
私は何の変わりもない羅衣源の歩幅に合わせて、何も考えずに足を動かして行った。
「わぁぁ」
ようやく終止を告げた細い一本道。そこが途切れた瞬間、私達は広々とした空間に出る。道は赤い絨毯で続いていたが、周囲にある物が幻想的な世界を生み出していた。そう、まるで異国のような。
炎の光の色を、水とガラスを使って変えている噴水。僅かなぼんぼりの明かりを受けてほんのりと光を帯びている大きな水晶。一本の茎が人間の背丈ほどまで伸び、大きな花びらを開かせている花々。
滅多に見れないものだけあって、私の興味はそそられる。桃源郷にでも来てしまったように錯覚する。
何もかもが美しい。それこそ、この薄暗い灯りさえも、物の長所を引き立てるために思えてきた。
「どうだ、気に入ったか」
視線を彷徨わせる私に、羅衣源は尋ねる。
「ここのものは、全て異国から取り寄せたものとこの国にあるものを融合して作られたんだ」
「素敵……」
言いたいことはもっとたくさんあるはずなのに、口から出てきたのはそんな一単語だけだった。代わりに、その一言に全ての想いを乗せる。
「ならば良かった」
心の底から安心したように、羅衣源は胸を撫で下ろす。抄華が怖がったらどうしようかと思った。彼の独り言が偶然にも聞こえ、その優しさに胸を打たれる。
私は自然と微笑んでいて、彼の体にピタッと自分の体を密着させた。さっきは少し不気味に思っていた館内も、慣れればお洒落な雰囲気の空間だと感じる。
私達は不思議なオブジェの横をどんどん通り過ぎていき、建物の奥へと近づいて行った。
やがて、他の部屋よりも一段と神々しく輝くところに着いた。とは言っても、やはり外ほど明るくはないが。
天井には、たくさんの加工されたガラスが吊り下がっていて、所々に置いてある蝋燭の灯りを反射してキラキラとしている。
部屋の中央の木製の板の上には四畳ほどの畳の間ができていて、私の腰くらいの高さまであった。畳の周辺には幾つもの水晶の玉が、台座に置かれて並んでいる。
そして、その畳の上、円状に並ぶ水晶の中心には、あぐらをかいて目を瞑った男の人が座っていた。
その人は首や腕に勾玉をふんだんに使った飾りを付け、朱色の着流しを着ている姿が妙に様になっていた。大昔の豪族と似たような姿だ。あるいは、時折見かけるまじない師か。
私達が目の前にいるにも関わらず、その男は起きる様子がない。と、羅衣源が私の一歩前に出た。そのまま男に近寄っていき、声をかける。
「おい」
「……」
「おい、起きろ」
「……」
「おい、目を覚ませ!」
少々荒っぽく、羅衣源はその人の肩を揺さぶる。
「起きろと言っているだろう!」
「……んなぁ、ああっ?」
落ちていた瞼をゆっくりと上げて、その人の魂は覚醒された。
「何だ何だ?」
眠い目を何度か擦りながら、その人は大きくあくびをする。
そして、完全に起ききった瞳で私達を捉えた。先が吊り上がった目に、眉間に寄せられた皺、イカつい顔立ち。
私は一歩後ずさる。なんだか、この人からものすごい威圧感が出ているのを魂が感じた。
男は銀色の針のような視線を私に向ける。
「何だお前ら?」
訝しげな表情で訊いてくるその人に、私はどう答えるべきか迷う。と言っても、多分今の私では声すら出ない。
すると、羅衣源が頭の笠に手をかけた。
「私だ、羅衣源だ」
そのままするりと笠を取り、顔を露わにする。涼しげで、誰が見ても美しいと思うその顔を。
彼の咄嗟の行動に、私は慌てた。
「えっ、ちょっと、羅衣源!そんな気安く顔を曝け出していいの?」
「ああ、平気だ。それに、こいつは私の正体をすでに知っているからな」
「えっ……?」
私が戸惑いに駆られている間に、男は羅衣源をまじまじと眺めた後、目を細めた。
「久しぶりだな」
「そうだな。とは言っても、ついこの間にやってきたと思うが」
親しい口調で、羅衣源はその男に声をかけた。
彼の表情も柔らかさと口調から、二人は知り合いなのかもしれない。だから顔を見せることも躊躇わなかった。そう、私は察した。
対してその男も、表情ひとつ変えず、むしろ安心したように息をつくと、スッと音もなく立ち上がった。
そして、背中を反らせながら片足でとんっと地面を蹴って、体を宙に浮かせる。彼の体が地面から離れる。その男性は空中で体を後方に捻り、一回転する。
その瞬間、彼の体の形がぐにゃりと崩れた。
頭、胸、腰、足……と徐々に人間らしい形をこねくり回して別の姿へと変形していく。
たった数秒の変化を、私は目を見開いて見物した。
男の体が重力によって引かれ、すとんっと再び床に足がついた時、そこに人間はいなかった。いたのは、全体的に銀または白に近い毛、ふさふさの尾を9本も持つ狐だった。
「へ、き、狐!?」
さっきまで怖そうな男の人の姿は面影も残さずに綺麗さっぱりと消え、代わりに現れた艶やかな毛並みと金色に見える瞳を持つ、高貴な狐。
あまりの変化ぶりに、私は言葉が出ずに固まる。人間ではない生き物なんて、初めて見た。
先ほどの男性の半分の高さになった狐を、まじまじと見つめる私に、羅衣源は説明してくれた。
「こいつはあやかしなのだ」
「あ、あやかし……!?」
「ああ」
ーあやかしー
今の日本国において、その名を知らない人などいないだろう。
あやかしは、特殊な力を持った神聖なる生き物のこと。人間とは違う、どちらかというと神に近い領域のものと考えられている。
その理由は、人間にはない特別な力を持っているから。それは古代より人々の救済に働きかけていて、世界の動きに関係するとも伝えられている。
しかし、それ故にあまり姿を現さず、同じ世界にはいるがひっそりと暮らしていると言われていた。つまり、滅多にお目にかかれない。
私は本物を見るのは初めてで、本当にいたんだ、と不思議な気持ちになる。この見た目、この雰囲気は、やはり他のどの生き物とも違っていた。
「こいつは我々一族と深い関わりがあってな。先祖代々、帝の番がいつ現れるのかを占ってもらっている」
彼の言葉に、私は驚きを隠せるはずもなく口を手で覆う。
「抄華はあやかしとどのくらい会ったことがあるか?」
「一度もないわ」
「つまり、あやかしを見るのは初めてというわけか?」
「当たり前でしょう。いるかどうかさえ、私達は分からないのだから」
当たり前のように尋ねてきた羅衣源に少しばかり呆れる。きっと、帝である彼は一族から代々あやかしの存在を聞いているのかもしれない。
しかし、裕福ではない、むしろ貧しい私からすれば、そんなのおとぎ話だと思っていた。おそらく、庶民にとっては想像上の生き物になっているであろう。
「あやかしを、この目で見れるなんて……」
「ならば良かった。抄華にあやかしというものの存在を認識してもらえて」
しかも、と、感嘆する私に羅衣原は耳打ちした。
「こいつは、あやかしの中でも『九尾』というあやかしだ」
「えっ……」
嘘、と声を漏らしそうになり、慌てて再び口を押さえた。そうでもしないと、叫んでしまいそうだったから。
尾が9本だから九尾。それは知っている。
だから、この感情の高ぶりの原因はそれじゃあない。
「九尾って、あの、あやかしの中でも位の高い……?」
「そうだ」
羅衣源の力強い頷きに、とうとう頭が沸騰しそうになる。
九尾、位が高い。つまり、神にとても近い存在。
あやかしが持つ特殊な力を、人間は神力と呼ぶ。そして、あやかしの中では神力が強い、つまり神に近い順に正一位から正十五位までの位がついている。
正一位の上には神が、正十五位の下には人間がいる。そして九尾は、限りなく神に近い正三位の座にいるのだ。
そんなにも神聖な生き物が、私の目の前にいるなんて。私の食い入るような視線を感じたのか、九尾は目線を床に向けて、はぁっとため息をついた。
「そんなにジロジロと見るな、視線が刺さる」
「あっ、すみません……」
私はペコリと頭を下げながら謝罪をして、顔をプイと真横に向けた。その様子を見ていた羅衣源がお腹を抱えて笑い出す。
「いや、すまんな抄華。こいつはどうも恥ずかしがりでな」
「誰が恥ずかしがってる!気が散るだけだ」
「よく言うよな」
「黙れ人間が!俺をからかうな!」
九尾は吊り目をさらに鋭く細めて羅衣源に威嚇した。でも、それは本気で怒っているわけではなくて、照れ隠しをしているよう。
羅衣源もそれを分かっているのか、九尾に睨まれてもただ微笑んでいるだけだった。
「……それで、お前は一体何しに来たんだ?」
ひと段落したのか、九尾は息を切らしながら話題を変える。
「ああ、そうだな」
羅衣源も忘れていたことを思い出したような口調で手を叩いた。そして、背後を振り返って私を引き寄せる。
「わわっ!」
足元が狂った私を、羅衣源の柔らかな体が受け止める。爽やかで優しい匂いがふわっと鼻をくすぐった。
「ちょ、何、羅衣源?」
「お前、女を連れてきたんだな」
九尾が細い瞳で私を捉えた。自分の表面から奥深くまでを覗かれている気がして、背すじが粟立つ。
「こいつが私の番、抄華だ」
いきなり引っ張られるや否、羅衣源は突然紹介を始める。
「ちよ、ちょっと……!」
小声で訴えようとするも、もちろん彼には聞こえない。私なんて、あやかしに名を名乗る資格も視界に入れてもらう資格もない。そもそも、こんなみすぼらしい姿を九尾だって見たくないだろう。
しかし、意外にも九尾は私をじっと見つめ、一言言った。
「知っている」
それを聞いた私は、自分の耳を疑った。
(九尾のような神聖な生き物が、何で私なんかを知っているの?)
私は恐怖と疑問を覚える。
しかし、そこであっと思い出す。
そういえば、さっき羅衣源が占いをして貰ったと言っていた。それで、九尾は私が番だということを知ったのかもしれない。それだと辻褄も合う。
そして、現にそうだったらしい。羅衣源は今度、私を見て九尾の方を指した。
「抄華、さっきも言ったが、こいつは代々皇帝の番になる者を占っている」
「うん、言ってたね」
「そのためこいつは、帝の番がいつ現れるのか、どんな人間なのか、いつ会えるのかを視ることができる」
流石はあやかし。占う内容も具体的で細かいな。
それなら、占い方も何か特別なのかもしれない。そう思った私の心を読んだように、九尾は説明をしてくれた。
「別に特別なことはせん。この水晶玉に神力を加えて見たいものを見ているだけだ」
九尾は白銀に近い真っ白な前足で、色とりどりの丸い石にポンっと触れる。
「それぞれの水晶玉には、それぞれ違うものが映る。幾重もの与えられた情報を読み解いて、そこから知りたいことを割り出す」
「こいつの占いのおかげで、私には運命人がいると分かった。それも、自身の近くに」
羅衣源は不思議な色合いの光を放つ玉を眺めながら、しみじみと言った。
私はふと疑問を浮かべる。
「近くに、と言うけれど、具体的な場所は知っていたの?」
「いや、そこまでは占えせんよ」
九尾が首を振る。
「水晶玉は細かくて街、大きくて国でしか場所を示さない」
「だったら、どうして私があそこにいると?」
「ああ、それはこれのお陰だ」
羅衣源は懐から何かを取り出し、手のひらを広げた。そこには、ちょこんとした可愛らしい薄紫色の花びらが乗っていた。
「これ、あの時の桔梗……」
男達に絡まれそうになった時、私と男の間を桔梗が裂いて漂ってきた光景が脳裏に蘇る。あの後すぐに、羅衣源が現れたはず。
彼の手に乗る花びらを見つめながら、私は記憶を辿っていく。
「よくこれが桔梗だと分かったな」
突然耳に滑り込んできた羅衣源の声。えっ、と顔を上げると、目を見開いて私を直視する彼がいた。
「私は言われるまで、花かどうかすら分からなかったというのに」
それを聞いて、私は思わず羅衣源を二度見してしまう。
(これが花だと分からない?)
聞き間違いかと思ったが、彼の表情を見る限りは事実。何の花か分からないならまだしも、花という認識すらできなかったと言う事実には耳を疑う。
あまりの驚きに言葉を失っていると、羅衣源の後ろからニヤリと口角を吊り上げた九尾が顔を覗かせた。
「驚いたろ?こいつ、花の知識が全くなかったんだよ」
「い、言うな九尾……!」
「何だよ恥ずかしがって。大丈夫だ。今知って良かったじゃねぇか」
「……っ!」
耳まで真っ赤に染めた羅衣源が口を押さえる。その姿に、九尾はますます面白がった。
「全く、屋敷にはあんなにも植物があるのだから、少しは学べ」
「こ、今度からするさ……」
いやいや、知識どころかまずは瞳も鍛えて欲しいものだ。ちゃんと植物を鑑賞してね、と私は静かに念を送る。
「まぁ、とりあえず……」
早くこの話題を終わらせたい、という魂胆が丸見えな台詞で締めくくり、羅衣源は無理やり話を戻した。
「この花が、私と抄華を巡り合わせたのだ」
妻の先ほどしかない小さな花びらを、羅衣源はこの上ない宝を見る目で眺める。花の知識はないって言ったくせに、正体を知った途端に愛でる彼に、私はふふっと笑った。
「じゃあ、私達にとって大切な花だね」
「ああ」
羅衣原は手のひらに乗る桔梗の花びらをそっと包み込んだ。脆いガラスを握りしめるように。
「この花は、九尾に貰ったものなのだ」
細めた瞳で、羅衣源は自分の拳を愛おしそうに見つめる。
「そうなの!?」
私は声を上げて、九尾を見た。九尾は黄金色に見える九つの尾をそれぞれ動かしながら首を縦に振る。
「ああ、まぁな。俺がここにある五つの水晶玉でそいつの番とやらを占った後、水晶玉から出る光が集まって出来たものだ」
それぞれ異なる色の光が水晶玉から一直線に伸び、全てが重なり合った光が一つの塊という形になって落ちてきたらしい。それが桔梗であり、羅衣源と運命人を引き合わせる力を持っていたという。
「これのおかげで、私はお前と出会えた。つまり、九尾のおかげで抄華と会えたのだ」
ということは、九尾は私達を巡り合わせてくれた恩人というわけか。このあやかしがいなければ、私たちは出会うことができなかったかもしれない。
私は九尾の前に立ち、深くお辞儀をした。
「私達を合わせてくださり、ありがとうございます」
何となくこうするのが一番だと思ったし、羅衣源と会えたおかげで救われたこともある。だからこれは、心からの感謝だった。
「ふん、礼などいらない」
九尾はー今なら分かるが照れた様子でーそっぽを向いて荒い鼻息をついた。
「……お前らが中妻まじくいれば、それで十分だ」
口は悪いくせに、心はとても優しかった。
「はいっ!」
さりげない気遣いが嬉しくて、私は勢いよく顔を上げる。そんな私の方に、羅衣源の手がポンと置かれた。
「私からも礼を言おう。お前のおかげで、私は抄華と出会えたのだ。感謝する」
「はっ。お前の感謝なんていつぶりかなぁ?」
九尾は嬉しそうに目を細めた。そして、
「おい、抄華とやら」
私の名前を呼んだ。
「はい、何でしょう?」
「こっちに寄れ」
言われるがまま、私は九尾に近づく。
「手を見せてみろ」
「手、ですか」
私はそっと九尾の前に自身の右手を持ってきた。九尾は差し出された手のひらを持って、じっくりと眺める。
「ふぅむ……」
あやかしといえど、流石は動物。握られた手の感触がふわふわとして心地よかった。温もりを感じる毛並みが気持ちいい。
「なるほど……分かった、ありがとう」
何度か頷いたあと、九尾は手を離した。そして、一度目を瞑ってから再び私と羅衣源を捉える。
「まぁ、困難もあるだろうが、頑張れよ」
九尾はその目に不安と優しさを宿らせて、声をかけた。
私と羅衣源は顔を見合わせた後、九尾に向き直り笑顔を見せる。
「はい」
「分かっている」
お互いの声が重なった。言葉こそ違うものの、想いは一緒だ。
九尾もそれを感じ取ったのであろう、深く首を上下に動かす。
「それで、他にはあるのか?」
「いや、後は大丈夫だ」
「なら、気をつけて帰れよ」
「ああ。じゃあ、またな」
九尾にそんな助言をもらった私達は、くるりと踵を返して元来た道を戻った。独特な雰囲気と仄かに甘い香りが私達を包み込み、退路へ案内する。
長い直線をひたすら進み、出口で扉を開けたところで、私は振り返った。そして、ペコリと一礼してから、羅衣源と共にその建物を後にする。
外に出ると、目が眩むほどの日光が私達を照りつけた。さっきの暗闇に慣れていたから、この光はちょっと眩しすぎるな。
目の上に手で影を作り、私は空を見上げる。雲一つない快晴の空だ。遠くまではっきりと見え、宇宙まで透けそうなほど。
「行こうか」
そう言って羅衣源が手を差し伸べる。
「うん」
私は笑顔で頷いて、その手を取った。羅衣源が嬉しそうに微笑む姿を、私はしっかりと捉える。
数時間前までなら、絶対に握ったらなんかしなかった彼の手。でも、この手に触れることができるようになったのが運命だと思うと、何だか不思議な気持ち。
今この瞬間を過ごせることの幸せを噛み締めながら、私は羅衣源と共に再び足を動かした。