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その夜、愛梨はメッセンジャーアプリではなく、電話で直接紗雪に連絡を取った。
言い方がキツかったことを謝罪した後、それでも自分の言ったことが本心であると伝えた。結婚して家庭を守りたい。それが変わらない自分の夢であることを。
『でも、紗雪なりにわたしの心配をしてくれたところもあるんだと思う。それについては感謝してる』
愛梨がそう伝え終わると、紗雪はしばらくの沈黙を挟んだ後、「いや」と口を開いた。
『あたしが悪かった。たしかに今の時代って、多様性だとかなんだとか言って、いろんな生き方が肯定されるようになったけど……だからって、昔から続いてきた生き方を望む人の夢が、馬鹿にされていいものじゃないよね』
ごめん、と言ってくれた紗雪の言葉に、愛梨はこっそりと涙を流した。自分の伝えたかったことを、紗雪はちゃんと受け止めてくれた。それが本当に、嬉しかったのだ。
そして翌朝、登校した愛梨は、みのりと二人きりになる時間を見つけて、彼女にも自分の夢を伝えた。
ちょっとした懺悔のつもりだった。彼女は知るよしもないけれど、「なかったことにした」時間軸の中で、愛梨は彼女の夢を馬鹿にし、傷つけた。
そのせめてもの償いにと思って、みのりにも自分の本心をさらけ出すことにしたのだ。
てっきり、みのりも紗雪の最初の反応に近いものを返してくるものかと思っていた。しかし、彼女の反応は意外なものだった。
「え~! いいじゃん! 愛梨なら、絶対に良いお母さんになると思う」
そう言ってみのりは、朗らかに笑って応援してくれたのだ。
そうか。きっとこの子は、目先の流行だのなんだのにとらわれているのではなくて、ただ自分のやりたいことや好きなことに、正直に生きているだけなのだ。そしてその分だけ、他人の生き方にも寛容なのだ。
ずっと友人として付き合ってきたはずなのに、ようやく彼女の本質に触れられたような気がした。
その後、みのりが「ねぇねぇ、そしたらママ友配信者として一緒に活動しようよ~」などと言ってくるので、思わず笑ってしまった。
「そっか。良かったね」
紗雪やみのりとのことを報告すると、夏帆は地面を掘る手を止めないまま、そう言ってくれた。
今、夏帆の手には小さなスコップが握られていて、それで彼女の家の庭、その一角の地面を掘っているところだった。
「うん、よかった。すごいすっきりした気分」
夏帆の手によって穴がどんどん深くなっていくのを見ながら、愛梨は微笑んだ。ほんのすこし勇気を出して、本心をさらけ出すことで、友人たちと以前よりも素の自分で向き合えるようになったと思う。
「全部、夏帆のおかげ。ありがとね」
心からの感謝の気持ちを伝えると、夏帆はスコップを動かしていた手をぴたりと止めた。
「それは違う。私はほんのすこし、手助けをしたにすぎない。市川さんの中に、変わりたいっていう強い気持ちがあったから、変わったんだよ」
そう言って夏帆は、掘った穴を覗き込んだ。「これくらいでいいかな」と言って、促すようにこちらに視線を向けてくる。
愛梨はその穴に、ずっと握りしめていたガラス瓶をそっと横たえた。まだ色とりどりの薬が残されたままのガラス瓶。
けれど、愛梨にも夏帆にも、もうこの魔法の薬は必要ない。
穴の中に収められたガラス瓶を、夏帆は数秒間、見つめていた。祖母との思い出を、少しだけ振り返っていたのかもしれない。
それから、掘り起こしたばかりの土を、ゆっくりとガラス瓶の上にかぶせていった。愛梨はその様を、静かに見守っていた。
やがて土をかぶせおわり、元通り平らな地面になると、夏帆はその部分をスコップでぽんぽんと叩きながら、
「これでよし」
と言った。
「ねぇ」
立ち上がり、体を伸ばしながら声をかけると、夏帆が「ん?」と振り向く。
その顔に向かって、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべてやった。
「もう、『愛梨ちゃん』って呼んでくれないの?」
それを聞いて、夏帆はすうっと目を細める。それからくるりと愛梨に背を向けて、ひらひらと手を振った。
「やること終わったし、さっさと帰ったら?」
「あっ、ひどいなー!」
冷たい言葉に抗議の声を上げるも、髪の隙間から覗いた耳がほんのりと染まっていることに、愛梨は気が付いてしまった。夏帆は照れている。きっと、ものすごく。
そのとき、玄関のドアが開いた。
顔を出したのは、久しぶりに見る夏帆の母親だった。彼女はふたりを見て、驚いたように目を丸くする。
「なんか声がすると思ったら……愛梨ちゃん、久しぶりね~!」
「久しぶり、おばさん」
最後に会ったのはずいぶんと前だったにもかかわらず、夏帆の母親は一目で愛梨だとわかったようだ。以前と変わらない笑顔で、声をかけてくれる。
「なぁに、夏帆。スコップなんか持って」
「これは、まあ、お墓みたいなものを」
「お墓?」
夏帆の要領を得ない返答に首をかしげつつも、母親は「愛梨ちゃん、久しぶりにうちでお夕飯食べていかない?」と気さくに誘ってくれる。
夏帆の方を見ると、彼女も愛梨に目を向けていた。
「上がっていく?」
その誘いに、自然と顔がほころんだ。
──ああ、なんだか懐かしいな。こんなやり取り。
「うん、お邪魔します!」
消してしまいたい過ちや、変えたい過去なんて、いくらでもある。
それでもわたしたちは、常に葛藤しながら、前に向かって進んでいく。
今よりももっと、未来の自分を好きになるために。