8
誰もいない放課後の教室で、愛梨はひとり、呆然と立ち尽くしていた。遠くから、運動部の掛け声が聞こえてくる。それは、どこか別世界の音を聞くような心地をもたらした。
目の前には、乱雑にあらぬ方向を向いている机と椅子。そして、床に落下した鞄。ファスナーを閉めていなかったそれから、教科書やら手帳やら鏡やら、中身がこぼれ出ていた。
それを拾い上げないまま、愛梨はスカートのポケットに手を入れた。のろのろとした動作で取り出した、ガラスの瓶。
それをじっと見つめていると、静かな足音がひとつ、教室に近付いてきていることに気がついた。
愛梨がガラス瓶から教室のドアへと視線を移すのと、そこが開かれるのはほぼ同時だった。
「あれ。まだいたんだ」
さして驚いた様子もなく、平坦な声で彼女は言う。
……なんとなく。今、彼女が現れるのではないかという気がしていた。
「……夏帆」
力なく名前を呼ぶと、彼女は後ろ手にドアを閉め、そのまま歩み寄ってくる。
「……こんな時間まで、何してるの」
帰宅部のはずの彼女はいつもさっさと教室を後にする印象があったため、そのように尋ねると、
「今日、図書委員の当番だったから」
と返ってくる。
そうか、夏帆は図書委員だったのか。そういえば、委員会って他に何があるんだっけ……。
などとぼんやりと考えているうちに、夏帆がすぐそばまでやってきていた。
そして、乱れた机と椅子、床に落ちた鞄に目をやると、「なにかあった?」と尋ねてくる。
愛梨はうつむき、言葉少なに答える。
「……喧嘩、した」
「誰と?」
「……紗雪」
それだけを聞くと、夏帆は「拾うよ」と一声かけてから、しゃがんで床に散らばった愛梨の荷物を拾い始めた。
「薬、使うんでしょ」
愛梨がガラス瓶を手にしていることに気付いていたのだろう。当然そうするのだろうと思っているような口調で問いかけられ……けれど愛梨は、すぐにうなずくことができなかった。
「……それで、いいのかな」
愛梨のつぶやきに、夏帆の手が止まる。彼女がこちらを見上げているのがわかる。愛梨は魔法の薬を見つめたまま、ぐるぐると渦巻いている思考を整理するように、口を開いた。
「紗雪はね、アパレル系の仕事がしたいんだって。いずれ海外でも働きたいから、大学に行って英語とか経済学とかもしっかり勉強したいって言ってた」
他の友人たちが部活やら用事やらで先に帰ってしまった後、なんとなくそのままふたりきりで雑談をしている中で、そういった話になったのだ。
愛梨は紗雪の話を聞いて、素直に感心した。将来のことをしっかりと見据えて考えている。紗雪らしいと思った。
ただ、問題はその後だった。
「それで……紗雪は、わたしにも聞いてきたの。『愛梨は将来何がしたいの?』って」
特段、変な質問ではない。会話の流れで、愛梨にも尋ねてくるのは自然なことだ。みのりと一緒に進路希望調査票を書いていたときだって、同じようなことを聞かれた。
けれど愛梨は、紗雪の質問の答えをはぐらかそうとした。
明確な自分の夢と、それを叶えるための筋道を考えていると話してくれたばかりの紗雪に対し、「何も考えていない」と言うのは憚られたため、「叶えたいことはあるけれど、今はちょっと言えない」と曖昧に返したのだ。
「でも、それがかえって紗雪の好奇心を煽っちゃったみたいで……結局、はっきり答えてくれるまで解放してくれそうになかったから」
唇を噛む。そのときのやり取りを思い返すと、今でも胸に悔しさがこみ上げてくる。
「打ち明けたんだよね、わたしの夢」
未だにしゃがみ込んだままの夏帆に合わせるように、愛梨もその場にかがんだ。
──きっと、夏帆は。愛梨の夢を、馬鹿にしない。
そんな、甘えにも似た確信があった。
「わたし、さぁ……『お母さん』に、なりたいんだよね」
教室の床を見つめたまま、正直な心を告白する。
「昔からずっと……結婚して、子ども産んで、美味しいご飯を作って、家の中きれいにして、旦那や子どもの帰りを待つっていう……そういう、『お母さん』になりたかったの」
アニメやマンガ、ドラマや映画の中で見る、優しくてきれいで、家族のために頑張る「お母さん」に憧れた。
けれど、それを打ち明けたときの紗雪の反応は。愛梨が、恐れていたものだった。
愛梨の話を聞いた紗雪は、眉根を寄せ、片方の口の端を引きつったような笑みの形に歪めながら、「え、マジで言ってる?」と聞き返してきた。
『専業主婦になりたいってこと? いくらなんでも考え方が古すぎない? 見てる世界が狭すぎるっていうかさぁ……今どき、結婚せずに仕事する女の人だって当たり前なのに。結婚に縛られすぎじゃない?』
紗雪の言葉は、愛梨の夢を全否定するものだった。
考え方が古い。結婚しない人だって珍しくないこの時代に。今どき、専業主婦なんて。
……きっと、そう言われるのだろうとわかっていた。だから、誰にも自分の本当の夢を打ち明けずにやってきたのだ。
流行に敏感でおしゃれな友人グループの中に、「お母さん」になるのが夢だという子がいるなんて、誰も思っていなかっただろう。
けれど、夏帆は。愛梨の話を笑うことなく、ただ静かに相槌を打ってくれていた。
「……なんかさぁ。紗雪のその言葉聞いて、頭に血が上っちゃって。キレちゃったんだよね」
──わたしがどんな夢を抱こうが、わたしの勝手でしょ。紗雪に、わたしの夢を馬鹿にする権利あんの?
かっとなった勢いのまま、愛梨はそのように口走っていた。紗雪は一瞬、何を言われたかわからないというように固まった後、盛大に顔をしかめた。
そして、
『なにキレてんの。キモい』
低い声でそう吐き捨てると、苛立ち任せといったふうに机を蹴り飛ばし、その拍子に落下した愛梨の鞄には目をくれることもなく、足早に教室を去っていった。
愛梨は動けず、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。そうしているうちに、夏帆が教室に入ってきたというわけだ。
そこまで話し終えた愛梨が黙り込むと、「それで」と夏帆が口を開いた。
「どうして、薬を使うのをためらってるの? 時間を遡れば、喧嘩を避けることだってできるんだよ」
夏帆の問いかけに、愛梨はピンク色のネイルで彩った爪を、ガラス瓶の表面につき立てた。
夏帆の言う通り、時間を巻き戻して今日の放課後はさっさと帰るようにすれば、紗雪との衝突は避けられるだろう。そうして明日からもまた、平穏な日常を送っていける。
……けれど。
「だって……だってさぁ。わたしが紗雪にぶつけた言葉、そのまま自分に返ってくるんだよね」
愛梨が、魔法の薬を使うきっかけになった出来事。
あのとき愛梨は、みのりの夢を馬鹿にした。本当はみのり自身に伝えるつもりがなかったとはいえ、心の中で思っていたことに違いはない。
「あのとき、わたし、自分の保身のために時間を巻き戻したんだよ。みのりを傷つけたとか、そういう後悔じゃなくて。グループから外されるのが怖くて、嫌で……自分のことしか考えてなかった」
声が震える。勝手に視界が滲んで、スカートにぽたぽたとしずくが落ちていった。
自分が傷ついたことで、初めて人を傷つけたことに気が付くなんて。
なんて、愚かなのだろう。
「そのことに、やっと気付いて……そんな自分が、すごく卑怯に思えて、嫌で……」
いつまで逃げ続けるのだろう、と思ってしまった。
本音を伝えて、否定されたら巻き戻して。そうして今度は当たり障りのない自分を演じて、平穏を保つ。
いつまでそうやって、自分を偽り続けて生きていくのだろう。
上位グループだなんだと言われるが、常に周りの反応をうかがいながら仲間外れにされないようにと怯えている自分が、本当はずっと……嫌いだった。
「二回目の失敗の話だけど」
愛梨がしゃくりあげる声の隙間を縫うようにして、夏帆が静かに切り出した。一瞬、何の話かわからず、思わず顔を上げて目を瞬かせる。
けれど、すぐに思い出した。この前公園で言っていた、過去に二回だけ、時間を巻き戻してもどうにもならないことがあったという話。確か、二回目は薬の力を使う前にやめたということだったが、先日はその詳細までは教えてもらえなかった。
「中学二年生の頃だった。ひとりで下校しようとして昇降口を出たときに、校門のあたりが賑やかなことに気付いたんだ。そっちに目を向けたら……愛梨ちゃんが、たくさんの友達に囲まれて楽しそうに笑ってた」
懐かしい呼び名に、小さく吐息がこぼれ落ちた。
夏帆は追憶を辿っているのか、眼鏡の向こう側で目を伏せている。
「私はその時、どうしようもなく過去が恋しくなった。愛梨ちゃんと毎日のように、人形遊びをしたり、お絵かきをしたり、自転車に乗ったりして遊んでた、あの頃に」
そして、逸る気持ちのまま自宅に駆け戻った夏帆は、机に大事にしまっていた魔法の薬を取り出した。
時間を巻き戻せば、愛梨との仲を再構築できるかもしれない。自然と距離ができてしまったこの現実を変えて、変わらず仲良くしている“今”にたどり着けるかもしれない――。
「そう思いながら、薬を一粒手のひらに載せたとき。わからなくなったの」
『わからなくなって』。この前も、夏帆はそう言っていた。
「……何が?」
愛梨の問いかけに、夏帆は視線を落としたまま、
「どこまで戻ったらいいのか、が」
と答えた。
「喧嘩をしたわけじゃなかったし、引っ越しをして物理的に離れたわけでもない。ただなんとなく、いつの間にか距離ができていったんだ、私達。それってさ、どこかひとつの時点に巻き戻したところで、その後の関係を変えられるものなのかなって」
自然とそうなったってことは、なるべくしてそうなった気がしちゃって。
ぽつりと、夏帆はそう言った。
──ああ。わたしは本当に、気が付くのが遅すぎる。
どうして、夏帆がひとりでも平気そうだと思えたのだろう。
寂しかったはずなのだ。離れていった幼なじみとの仲をどうにかしたいと、何度も思い悩んだはずなのだ。
たくさん考えて、それを乗り越えて、ここまでやってきただろうに。
愕然とする愛梨の顔をちらりと目だけで見上げた後、夏帆は珍しく眉間に皺を寄せた。
「ほんとは、明かすつもりじゃなかった、こんなこと。重いし」
でも、と夏帆は続ける。
「私は、時間を戻しても『どうにもならないこと』があるってわかったから、逆にその中でどう進んでいくかを考えなきゃいけないんだって、思い直すことができた。そうしたら少し楽になったから、そのことを愛梨ちゃんにも知ってもらえればと思った」
夏帆が顔を上げる。まっすぐに視線が交わる。
「今が苦しかったら、魔法の薬を使ってもいいと思うよ。それで楽になれるんだったら。でも、それで解決できないと感じてるなら、解決してはいけないと感じてるなら。変えていかなきゃいけないんだと思う」
「変えて……」
「そう」
──君は、何を変えたいの?
そんな風に、尋ねられた気がした。
「わたしは……」
また目の前が滲んできて、それを手の甲でいささか乱暴に拭った。アイメイクが崩れたかもしれないが、そんなの今更だ。
「わたしは、自分を変えたい」
周りに合わせて、偽って、取り繕って、いつだって本音を隠してばかりの自分を変えたい。
それは、はっきりと自分の胸にある、願いだった。
愛梨の言葉を聞いた夏帆は、柔らかく目元を細める。久しぶりにはっきりと目にした、彼女の笑顔だった。
「うん」
優しくうなずく夏帆の声に、不思議と勇気が湧いてくるような気がした。
教室に差し込む夕日が、愛梨の握りしめたガラス瓶に、きらりと反射していた。