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教室に足を踏み入れた瞬間に、ざわりとした違和感が肌をなでた。
なんだろう、と何気なく教室の中へ視線を巡らせる。違和感の原因には、すぐに気がついた。
教室の後方、いつもと同じく愛梨と仲の良いグループで固まっている。
彼女たち全員の視線が、こちらに向けられていたのだ。
しかも、好意的ではない色を含んで。
(……え?)
戸惑いながら、自分の席に鞄を置く。
しかし何も思い当たることがないため、気の所為かな、と考え直して、彼女たちが集まっている方へと足を向ける。
そして歩みを進めるにつれて、先程の自分の違和感が思い違いではないという確信を深めていった。
彼女たちは棘を含んだ視線をこちらに向けたまま、愛梨には聞こえないほどの小声で何かをささやきあっている。
「……お、おはよう」
そんな友人たちに声をかけるのは、正直に言ってかなり勇気のいることだった。けれど、途中で引き返すのも不自然だったので、いつも通りに声をかけることにした。
常であればすぐに返ってくるはずの挨拶が、誰からも発せられない。代わりに誰かが、ふっと鼻で笑った気配がした。
どういうことだろう、と視線を巡らせた先で、みのりと目が合った。しかし、昨日の放課後までは全く変わった様子のなかった彼女は、不機嫌を顕わにした表情のまま、愛梨から目を逸らす。
「フツーに話しかけてきたことにびっくりなんですけど」
みのりに目を向けていると、別の友人が嘲笑するような響きでそう言った。グループの中で最もはきはきしていてリーダーシップもある、紗雪(さゆき)だった。
驚いて、彼女の方を見る。
「あれかな? ひょっとして自分が言ったこと忘れてるってやつ?」
蔑むような笑みを浮かべながら、愛梨には覚えのない言葉をぶつけてくる紗雪に、戸惑いが隠せない。しかし他の子たちには理解できているようで、小さな笑い声がいくつも発せられる。
「やば。言ったこと忘れるってババァじゃん」
「え、ババァだからああいう考えになるんじゃないの?」
「あ、そういうことー? 古いと思った」
テンポよく繋がれる会話についていけず、愛梨はただ立ち尽くす。目の前にいる本人を無視して、明らかに悪意を込めた言葉の応酬が続けられている。
「ちょ、ちょっと待って……。さっきから、何の話?」
何がなんだかわからないが、まずは状況を把握したい。思い切って割って入ると、彼女たちの目が一斉に愛梨に向く。
「マジで覚えてないんだ。引くわ」
「昨日自分が言ったこと、ちゃんと思い返してみたら?」
どういうことだろう、と愛梨は必死に記憶をたどる。昨日の放課後、このメンバーの中で最後に会ったのはみのりだ。そのときは、彼女の態度は普通だった。
その後は誰とも会話していない。……いや、待て。
(グループチャット……!)
その存在を思い出し、愛梨は自分の席へと引き返した。机の上に置いたばかりの自分の鞄をひっつかむと、そのまま教室を飛び出す。
誰のものかもわからない複数の視線と、予鈴の音を背中に受けながら、愛梨は逃げ出した。
あてもなく走り出した足は、勝手に非常階段へと向かっていた。息を切らしながらそこへたどり着いた愛梨は、堅いコンクリートの上に直に鞄を置くと、小刻みに震える手でスマートフォンを取り出す。
今日は寝坊し、起きたのがいつも家を出るぎりぎりの時間だったため、まだきちんとスマートフォンを確認していなかった。自分が寝落ちした後もグループチャットで会話が続けられていたことを示す通知がたくさん届いていたが、いつも通りのことなので、気にもとめなかった。
通知からアプリを立ち上げる。その瞬間、表示されたメッセージに、息が止まった。
『このグループには参加していません』
さらに画面の一番下には、「AIRIをグループから削除しました」という通知が出ている。
それは、自分がこのグループチャットから「弾かれた」ことを意味するメッセージだった。
「……どうして」
明確な拒絶を目の当たりにし、心臓が嫌なふうに大きく脈打つのを抑えられない。
グループから削除されると、それ以降のメッセージは読むことができない。しかし削除される前の履歴は読めるので、どのようなやり取りがあって自分が外されたのかはわかるはずだ。
画面を上にスクロールしていくと、愛梨に向けたものと思われる棘のある言葉がいくつも目に飛び込んでくる。それにいちいち心臓を刺されるような思いで履歴を遡っていくと、ようやくたどり着いた。
「……ああ」
思わず、ため息が漏れた。納得、後悔、沈痛。それらすべてを含んだ嘆息だった。
──〝やらかして〟しまった。
画面の中には、この出来事の発端となった愛梨の発言が表示されている。話題のカップル配信者で盛り上がっていたグループチャットに、突如波紋をもたらした石。
『正直言って、興味ないんだけど』
『わざわざ全世界に発信せずにプライベートでやってれば? って感じだし』
そして、極めつけとなったのは、このメッセージだった。
『みのりも、なんでこんなのに憧れてるんだろうな。実際になれたとしても、数年後には後悔してそう』
寝ぼけながらスマートフォンを見るもんじゃないな、と頭の中のどこか冷静な部分で思う。
自分はこれらのメッセージを、愚痴用のトークルームに書き込んだはずだった。ところが、グループチャットとそちらを何度も往復していたせいで、眠気に支配されてふわふわとした頭のまま、間違えて送ってしまったのだ。
「……終わりだ」
力なく階段に腰を下ろし、スマートフォンを握りしめたままうなだれる。本鈴が鳴ったものの、とても教室に戻るような気力は湧いてこない。
……これから、どうすればいいのだろう。
今まで仲良くしていたグループから弾かれ、教室でひとり寂しく席に座っている自分の姿を思い浮かべることができた。その惨めな想像に、喉元を冷たいものが滑り落ち、胃へと流れ込んでいくような感覚に陥る。
思考をシャットダウンしてしまいたくて、強く目を瞑った。
──そのときだった。
小さな靴音が、耳に届いた。
はっと顔を上げると、廊下へと続く入り口のところに、ひとりの女子生徒が立っていた。あまりにも意外な人物の登場に、愛梨は目を見開く。
「……」
喉に何かがつっかえたように、愛梨が声を出せないままでいると、彼女は一歩足を踏み出した。
一歩分、近くなった距離。
「……本鈴、鳴ったけど」
最初に口から出てきたのは、そんな言葉だった。すぐさま、
「そっちこそ」
と返ってくる。授業中の朗読や設問への回答以外で、彼女の声を聞いたのは久しぶりだな、と思う。眼鏡の下から、何を考えているのかよくわからない細い瞳が、こちらを見据えていた。すっきりとセンター分けにされた長い前髪の間から覗く顔に、感情らしい感情は浮かんでいない。
ここに来たのは偶然ではないのだろう。教室でのあのやり取りを、彼女もしっかりと聞いていたということだ。
心配して追ってきたとでもいうのだろうか。そうだとしたら、余計に惨めな気持ちになる。
視線をそらし、ひらひらと片手を振る。それが今の愛梨にできる、精一杯の強がりだった。
「わたしのことは気にしなくていいから。……夏帆(かほ)は戻りなよ」
その名前を口にするのも、ずいぶんと久々な気がした。その証拠のように、昔はあんなに何度も呼んでいた名前を声に出して呼ぶことに、妙な勇気がいった。
「今から教室戻るのも変でしょ。もう先生来てるだろうし」
淡々とした声でそう言うと、夏帆はごそごそとポケットをあさり始めた。
本当に、何をしに来たのだろう。胡乱な目で、彼女を見上げる。
ひょっとして、慰めにでも来てくれたというのだろうか。こんな……ずいぶんと前からろくに話すこともしなくなった、幼なじみのことを?
「はい」
その一声とともに目の前へと差し出されたものに、目を瞬かせる。
手のひらより少し大きいくらいのサイズの、ガラス瓶だった。そして、透明なそれの中には、色とりどりの小さな円盤のようなものがいくつも入っている。形状は、ラムネに近かった。
甘いものでも食べて落ち着け、ということだろうか。
「ありが……」
礼とともに手を伸ばそうとして、しかし愛梨が触れる直前で、夏帆はそのガラス瓶を引っ込めてしまった。
思わずいらっとして見上げると、夏帆は相変わらずの淡々とした様子で、
「ごめん。先に説明が必要だった」
とよくわからないことを言ってくる。
「は? 説明?」
愛梨が眉をひそめると、夏帆はうなずいて手の中のガラス瓶を軽く振ってみせた。中に入ったラムネのようなものが瓶にぶつかり、しゃらしゃらと小さな音を立てる。
「これ、ひょっとしたら今の市川さんの助けになるかと思って」
……いつからか愛梨のことを下の名前で呼ばなくなった彼女は、そう言ってガラス瓶を見つめた。
「魔法の薬なんだ」
さらりと、当たり前のことを告げるかのように、夏帆は言った。
まるで「明日は天気だよ」とでも言うような声音だったので、愛梨はその言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「え、ま……何?」
「魔法の薬。昔、おばあちゃんからもらったの」
彼女の祖母は、確か自分たちが小学生の頃に亡くなっているはずだ。けれどもっと幼い頃、夏帆とともに何度か会いに行ったことがある。いつも柔和な笑みを浮かべていて、とても優しい人だったと記憶している。
「……あれ?」
そこで、先日見た夢がふっと頭の中に蘇ってきた。
そうだ、あれはただの夢ではない。実際にあった出来事。まだ自分たちが小さかったとき、小さな動物の人形を使っておままごとをしていたときの思い出だ。
あのときも、夏帆は「おばあちゃんがまほうつかい」だと言っていた。
……まさか彼女は、未だにそれを信じているというのだろうか。
「疑ってるね。まあ、当然だと思うけど」
愛梨の心を見透かしたように、夏帆が言う。
「そりゃそうでしょ。だって……何? 魔法の薬? あり得ないでしょ」
「あり得てしまうんだな、それが」
夏帆がコルクの蓋を瓶口から引き抜くと、きゅぽっと心地の良い音がした。ガラス瓶を傾け、そこから一粒だけ、その〝魔法の薬〟とやらを取り出してみせる。
手のひらを出すよう促されたので、懐疑心を拭えないまま差し出した。取り出された一粒が、愛梨の右手にころんと渡る。
「この薬の効果はね、時間を巻き戻すことができるの」
半信半疑だったにもかかわらず、夏帆のその説明を聞いたとき、心臓がどきりと跳ねた。
──もし。
もし、昨日の夜に戻れるとしたら?
そうしたら、誤ってグループチャットに愚痴を書き込むなんて事態を回避できる。グループの和を乱さず、いつも通りの日常に戻れる。
手のひらに載った薬を握りしめ、夏帆の顔を見上げた。相変わらず表情に乏しい顔が、静かに愛梨を見つめていた。
「使い方は、簡単。これを噛み砕くときに、戻りたい時点を強く念じるだけ」
未だに、胡散臭さは拭えない。それでも。
握りしめていた拳を開き、そこに載った小さな粒を人差し指でつまみ上げる。
「……変なもの、入ってないでしょうね」
「それはわからない。成分はおばあちゃんしか知らないから」
しれっとした答えに、少しだけ怯む。
「ちょっと!」
「でも、これまでに何度か試した私がこうして元気で生きてるんだから、大丈夫なはず」
そう言って夏帆は、力こぶを作るようなポーズを取った。元気であることのアピールだろうか。よくわからないが。
「……試したこと、あるんだ」
「うん。だから言える。魔法は、本物だよ」
視線が交わる。感情を灯さない凪いだ瞳は、嘘をついているようには見えなかった。
指先でつまんだ薬を、再び手のひらの上に戻す。
数秒間、じっと見つめて。それから。
「……」
すぅっと息を吸い込んだ後、錠剤を飲むようにして、その〝魔法の薬〟を口へと放り込んだ。
まぶたを閉じて、夏帆がつい先ほど言ったことを思い返す。
(戻りたい時点を、念じるんだっけ)
昨夜、眠りに落ちる前の自分を思い返した。眠くなってからではアウトだ。もう少し前、ベッドに入ったぐらいの時間に。
(戻って……!)
眉間に皺を寄せて、強く願う。そうしながら、奥歯で薬を噛み砕いた。
途端。つむったまぶたの裏側が、白んでいくのがわかる。
「それじゃ。二回目の今日でまた会おう」
──意識が途切れる間際、夏帆の声が聞こえた。