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『あいりはおかあさんね』
 柔らかな手が、エプロンをつけた小さなうさぎの人形をつまみ上げる。
『かほちゃんは? おねえさんうさぎにする?』
 床には他にもいくつか人形が並べられている。ネクタイを締めたうさぎの人形と、それよりも少し小さなサイズの、それぞれズボンとスカートを穿いたうさぎの人形が一体ずつ。「かほ」と呼ばれた少女は、悩むように首をかしげていた。
 それから視線を滑らせ、おもちゃ入れの中に目を向けると、「あ」と声を上げた。
『かほ、これにする』
 そう言っておもちゃ入れに手を伸ばした彼女は、中から黒い猫の人形を取り出した。
『くろねこさん?』
『うん。くろねこさんは、〝つかいま〟だから』
 よくわからない言葉に、今度は「あいり」が首をかしげる番だった。
『つかいま?』
『そう。まじょといっしょにいるんだよ』
 まじょ、と「あいり」は最近絵本で見た三角帽子の魔法使いの姿を思い出した。驚きと、それからほのかな期待に小さく声を上げる。
『ひょっとしてかほちゃんもまほうがつかえるの? だからくろねこさんにするの?』
『ううん、かほはつかえない。でも、おばあちゃんがまほうつかいなんだ』
 近くに住んでいる「かほ」のおばあちゃんには、「あいり」も何度か会ったことがある。「かほ」がおばあちゃんのことを大好きだということも、知っていた。
『だから、かほもいつかまほうつかいになるんだ。おばあちゃんから、まほうのつかいかたをべんきょうするの』
 それでね、と「かほ」は続ける。

 そこで、夢から覚めた。

 * * *

 カーテンの隙間から差し込む淡い日差しに、緩やかに眠りの淵から引き上げられる。
 枕元のスマートフォンに手を伸ばして時間を確認すると、目覚ましをセットした時刻の少し手前だった。
 指先でロックを解除すると、眠りに落ちる直前まで参加していたグループチャットの画面が表示される。自分が寝落ちしたあともしばらく会話は続けられていたようだが、いつも通りの雑談ばかりで、特に重要そうな内容は残っていない。
 のっそりと体を起こし、顔にまとわりつく長い髪をかきあげる。指に引っかかる感触に、小さく眉に皺を寄せた。SNSで話題だと友人に薦められて、少し前から新しいトリートメントを使い始めたのだが、どうやら自分には合っていないらしい。せっかく、それなりに高い金額を払って購入したのに。こんなことなら、もっと別のことに使えばよかった。
 前に染めてからずいぶんと時間の経ったミルクティーブラウンの髪を指先でいじっていると、設定した時刻通りにアラームが鳴る。それを素早く止めると同時に、階下から母に呼ばれた。
「愛梨(あいり)ー! 起きなさーい」
 その声に「起きてるー!」と返すと、愛梨は学校へ行く準備をするため、ようやくベッドから抜け出した。

「愛梨! おはよー」
 教室の前の扉から入ると、いつもつるんでいる友人たちが後ろの方で固まっていた。軽く手を上げることで挨拶を返し、自分の席へと向かう。
 机の上に鞄を置いてから、賑やかにしている教室の後方へと足を向けたところで、ふと窓際の席へと視線が向いた。
 前から四列目にぽつんと座り、文庫本に目を落としている眼鏡の少女。センター分けにされて伸ばされた長い前髪が、簾のようにその俯いた横顔を覆い隠している。
 賑やかな朝の教室内で、静けさを保ったそこの空気だけが、少し浮いているようにも感じられた。
 しかし、誰もそのことを気にしていない。数人ごとにグループを作って会話している周囲も、そしておそらくは文庫本を読んでいる少女自身も。
「……」
 彼女に気を向けていたことすら悟られまいとするかのように、愛梨はすぐに目を逸らし、はしゃいだ声を上げている友人たちの方へと向かっていった。
「愛梨、昨日寝落ちしたっしょ」
 友人たちの輪に加わるなり、ひとりがからかうように指摘を飛ばしてきた。図星だったので変にごまかすこともせず、「あー、バレてた?」と返すと、友人たちからも笑い声が上がった。
「いっつも寝落ちするじゃん」
「いやいや、普通に寝るわ。何時だと思ってんの」
 他愛もない会話を笑い飛ばす。
 いつものメンバー、いつもと変わらないやり取り。陰と陽で分けるなら、ここは陽だ。居心地の良いこのグループが愛梨は好きだったし、ここにいると安心できた。

 ──だからこそ、白いシャツに一点ついた染みのように、どうしても目を惹かれてしまう。
 ひとりでも平気そうにしている〝彼女〟の存在に。