五時間目の予鈴が鳴る。

 国語の担当教師中村先生は教室に来るのが遅いから、さほど急ぐ必要はない。陰口を叩かれるのなら、少しでも耳に入らないように遅れて行った方が良い。

 「さて、と!」

 穂花は突然カーテンを全開にし、ベッドの上に散らばったタブレットとペンを雑に鞄の中に詰め込んでいた。

 「あ、また!橘さん!タブレットは持ち込み禁止って何度も言ってるでしょ」

 立場上の注意なんてこいつには通用しない。ほら、穂花は悪戯っぽく笑っている。

 「今度先生の彼氏の似顔絵も描いてあげる」

 「もー、授業始まるわよ。早く二人とも行った行った」

 「はーい」

 「頑張んなさい。ほら、日野くんも一緒に行ったげて」

 「は、はい。失礼ました」

 まるで一緒に来たかのような言い方。新川先生だからまあ許してやらなくもないか。

 ぎりぎりまで遅らせて保健室を出発したのが功を奏したのか、幸い厄介な人間に遭遇することはなさそうだ。

 「私ね、新川先生にだったら何でも話せちゃうんだ」

 「僕らと年も近いし、話しやすいよな」

 「だよね。楓と世界目指してたことも話しちゃった。ごめんね」

 「別に良いけど、その言い方はちょっと語弊を生むと思う」

 「嘘じゃないよ」

 こうして横に並んで何気ない話をするのはいつぶりだろう。さっきまであれほど避けていたのに、結局僕は穂花を肩を並べて歩いている。

 関わるくらいなら、精一杯穂花の味方でいてあげれば良いのに、どうしてそれができないんだろう。いじめられている奴に手を差し伸べる優等生を演じれば良いだけなのに。

 演じるのが嫌なら、逆に利用すれば良い。生徒会委員としていじめを見過ごすことができないと言ってしまえば、堂々と穂花に関わることができるんじゃないのか。

 僕は一体、何を怖がっているんだろう。

 教室がある階へと戻ってきた。

 「戻りたくないなあ……」

 これ以上一緒にはいられない。

 「え?」

 弱音を吐くように穂花がポツリと呟く。

 さっきまで気丈に振る舞っていたくせに。

 「ねえ。一緒に授業サボっちゃう?」

 「何言ってんだよ。僕はもう戻るからな」

 「ちぇー。つれねー奴だなー」

 「あと一時間で終わりだろ。頑張れよ」

 「……」

 「穂花?」

 「……れない」

 「え?」

 「頑張れない……辛い……」

 ……何でだよ。

 今更どうしろってんだよ。

 本当は、もう少しだけ一緒に居てあげたい。

 やっと打ち明けてくれた穂花の側にいてあげたい。

 でも、もう遅い。

 僕は穂花と一緒にいるのが怖くて仕方がないんだ。

 階段を上がりきると、半強制的に優等生のスイッチが入る。

 「と、とにかく、今は授業に戻ろう」

 「うん……じゃあね」

 穂花の震えた声が耳の奥に残る。

 教室に戻ると、また何人かの視線を感じた。けれど、怒りというはっきりと名前の付いた感情はもう湧いてこない。ひどく疲れたのか、五時間目の授業の記憶は何も残っていなかった。

 放課後に穂花の教室を再び覗いてみたけれど、そこにはもう姿はなかった。

 すぐに帰ってしまったのだろうか。それとも、あの後本当に授業をサボったのだろうか。