「いいえ。
私達が目立ちたいと思っていたのならいくらでも方法はあります。
ですが裏にいなければ成せないこともあるのです。
私は闇夜姫であることに誇りを持ち、日々を過ごしています」

宏弥と彩也乃の瞳が絡む。
宏弥が目を伏せて再度彩也乃を見てから隆士郎に顔を向ける。

「ようは皆さんとしてはあの佐東という方とは違い表立ちたくは無いと」

「その通りだ。そもそも私達の考えの方が普通なんだよ」

「では皆さんとしては僕に今後一切闇夜姫の研究をしないで欲しい、という要求なのでしょうか」

「いや、それは違う。
その事についてこちらからの願いを聞いて欲しい」

隆士郎の言葉に宏弥は特に表情を変えない。

「我々の要望は、今、闇夜姫や我々宵闇師が存在することを明らかにしないで欲しいという事。

君の研究からすれば今もこの現代に根付いているのだというのを研究結果として発表するのがベストであることはわかっている。
だがそれだけは勘弁して貰いたい。
可能であれば、斎王と同じようにあの古代だけ存在した、後はまだ未解明、として欲しいのが望みだ」

「無茶を言いますね」

少しだけ眉間に皺が寄ったのを正面に座る彩也乃は気がついた。

当然だろう、ずっと追いかけていた幻の蝶を見つけたのに、それは発表せずに古代に絶滅したとして欲しいというのだから。

研究者にあまりに身勝手な事を要求することはここにいる宵闇師は理解していた。
この要求により佐東側につかれるリスクももちろん考えた上での行動。
もしも宏弥がここで知ったことにより強行的に外に知らしめるとなるのなら、ある程度の脅しもやむなしとなっている。

彩也乃は静かに見守り、隆智は膝に置いた手にはいつの間にか汗がにじんでいた。

「善処はします」

どれくらい沈黙がこの部屋に続いただろう。
ようやく口を開いたのは宏弥だった。

だがその返答に隆士郎は警戒の色を目に浮かべる。

「善処、とは?」

「今すぐに外に知らしめると言うのはしないという事です。
僕はこれでも研究者ですので、発表するとなればそれなりの証拠を積み重ねなければなりません。
こんな場所で会って話しました、なんて突然の報告に価値はない。
スマートフォンも取り上げられ、音声や映像で何か残っている訳でもないですが、そもそもそんな画像は簡単に作れるのですからこの現代では意味を持ちません。

ですので当分は今まで通り書物や足で証拠を探していく、ということです」

「それは、今は猶予を与えるがその先は約束しないと言うことかな」

「そもそも西園寺さんはいつまで闇夜姫としているのですか?
僕の知識では既に辞めている年齢もありましたし、そもそも随時いるわけではありませんよね。
その頃にはまた状況も変わっているのでは?」

宏弥の追求に、やはり簡単にはいかないかというため息を隠しながら隆士郎は、

「君の予想通り随時闇夜姫がいる訳でもないし、退く年齢もまちまちだ。
彼女は今のところまだ退く年齢は決まっていない」

「ようは彼女の能力が衰え出すまで、と」

「もちろんいつまでも姫に不自由を強いるつもりはない」

「そうでしょうね」

隆士郎と宏弥のやりとりに隆智は苛立ってくる。
宵闇師は闇夜姫を生け贄にしていると宏弥に言われ、頭にくると供にそれが事実だとわかっている分、宏弥の言葉にイライラしてしまう。

そんな宏弥の手を真っ白な手が上から包み込み、知らずに俯いていた顔をハッと上げる。
彩也乃は目を細めて隆智を落ち着けようとしていることに気付いたことで、隆智は唇を真一文字にして軽く頷いた。

「朝日奈先生」

隆智から手を離し、彩也乃は静かに声をかける。

「今しばらく私達を今まで通りで過ごさせては頂けないでしょうか。
私達が全てを救っているなどとは思っておりませんが、まだ私達を頼りにする人々もいるのです。
先生が私達を研究して頂けている事は率直に言えば感謝しております。
どうか我々の我が侭をお聞き入れくださいませ」

そう言うと彩也乃は席を立って、宏弥に向かって深く頭を下げた。

「姫!」

隆智が音を立てて椅子から立ち上がり焦ったように声をかける。
だが彩也乃の隣にいる隆士郎も立ち上がって同じように頭を下げた。
隆智はそんな二人を見て手を握りしめると、宏弥の方を向いて頭を下げた。

「皆さん、頭を上げてください」

その声に頭を三人が上げると、宏弥も席を立ち上がっていた。

「僕は闇夜姫のおかげで進む道を見つけました。
ですので全て遮られてしまうのは受け入れられませんが、少なくとも今の段階では皆さんの気持ちを踏み弄るようなことはしないとお約束します」

宏弥の表情はやはり変わらず、隆智はもっと踏み込んだ約束を取り付けたいと口を開こうとしたのを隆士郎が気付き首を横に振る。

「朝日奈先生、ありがとう。
ある意味貴方は秘密を共有する仲間だ。
もう一つお願いするのなら、また不審な者が近づいてきたら隆智に教えて欲しい。
彼らが直接姫をターゲットにするような事は考えたくは無いが」

「それは西園寺さんに危害を加える可能性でしょうか」

再度皆座った後に、宏弥が緊張感のある声で尋ねたので隆智が、

「姫は満月と新月に祈りを捧げる。
その際姫は力を使われる分酷く疲れてしまうんだ。
それを回避したいと攫う可能性もある」

「書物では闇夜姫が危険を感じ取ってなどと書かれていましたがそうだったのですか」

初めて知った闇夜姫の知識に、自分が調べた今までの情報に書き加える。

「いや、昔、どれほど昔かはわからないがそういう時代もあったようだ。
ただ隆智も言ったように姫の負担になる。
恐らく長く務めて貰うために、一番効果を発揮するその二回になったのかもしれないが」

「学長も詳しくはご存じないのですか」

「君が探せないように、ほとんど闇夜姫について書物は残っていない。
口伝なんだよ、基本は。
時々秘密裏に側近か、闇夜姫と関わった者が書物にしたためてそれが出てくる場合もある」

「口伝では正確性が欠けていきますね」

「それよりも情報を外に漏らさないことの方が優先されたんだ」

視線を宏弥が彩也乃に向けると、彩也乃はにこりともせずに無表情で宏弥の視線を受け止めた。

いつも学園で出逢う彼女とは違う。
美しく、凜々しく、カリスマ性もある。
彼女が闇夜姫と知らされても、自分の心にある違和感は消えない。

「僕に対するご用はこれで終わりでしょうか?
終わりでしたら帰らせて頂きたい。
あの家に世依さんが一人で待っているのは隆智くんも心配でしょう?」

まさかの内容にわかりやすいほど隆智の表情が変わる。

何で目の前にあれだけ追う闇夜姫と宵闇師達がいるのに帰りたいなどと言うのか。
それも世依が待っているのが心配などと。

「良いんですか、世依よりも貴方には闇夜姫と話す時間の方が欲しいのでは無いんですか」

苛立ったような隆智に、宏弥は少しだけ口元を緩めた。

「ここは闇夜姫に質問する為に設けられた場所では無いでしょう?
あくまで僕を納得させるために出てきて貰ったのでしょうから。
それにこの学園にいるとわかったのです。
質問は今後させて頂ければ。
良いでしょうか、西園寺さん」

最後彩也乃に質問が飛んで、彩也乃は先ほどまで人形のような表情だったのが年頃の娘の表情に戻る。

「はい。先生とは一度ゆっくりお話ししたいと私も思っております」

横で困惑したまま何か言いたそうな隆智に隆士郎は苦笑いを浮かべる。

「そうですね。娘も一人で寂しいでしょう。
どうぞ帰って相手をしてやって下さい。
後藤」

その声に宏弥の入ってきた方のドアが開き、先ほど案内した男が頷く。

「朝日奈先生どうぞこちらに」

宏弥は頷いて立ち上がって頭を下げると隆士郎を見た。

「先ほど秘密を共有する仲間だと仰いましたね。
でしたら今度は本当のことを教えて頂ければと。
では失礼します」

そう言うと宏弥は部屋を出て行った。
ドアが閉まり三人はそのドアを見ていたが、隆智が椅子の背に身体をのけぞらせるようにして大きなため息をついた。

「盛大なため息ねぇ」

彩也乃が苦笑いして窘める。

「彩也乃もわかってるんだろ」

ムッとしたような顔に彩也乃は楽しげに笑う。

「なに?私が影武者と気付いているだろうって事?
それとも世依ちゃんに会いたいって言ったこと?」

「こらこら二人とも」

幼なじみの二人が言い合いになりそうなのを隆士郎が止める。

「早々簡単にはいかないだろうがきっと彼は私達に悪いようにはしないだろう。
これで優先すべきは佐東達だ」

隆士郎の言葉に、隆智と彩也乃は表情を引き締め頷いた。


都内のとある貸し会議室には男が十数名、女が三名ほど向かい合わせの席で並んでいる。
一番奥には佐東が座り、全員揃ったのを確認すると口を開く。

「ようやく守護代達が朝日奈助教に接触したようだ」

数名を除き皆ざわざわと顔を見合わせ言葉を交わす。
それを見ながら、

「姫は檻に入れられ、奴らの言いなりになっている。
姫の力がその者達に利用されていることすら、ご自身で気付いておられないのだ。
姫を我々の手で助け出し、奴らの洗脳から解き放たねばならない。
そうだろう、諸君!」

力強い佐東の声に、各々がそうだ、その通りだと声を上げた。
それを内心満足に思いながらも表情には出さずに佐東は続ける。

「決行の日は間近。
皆、奴らに悟られぬように。

そして松井」

はい、と松井大輝が幼そうな表情など一切感じさせない顔ではっきりと声を出した。

「お前には期待している。
いざという時は、わかっているな?」

「もちろんです。
僕が彼女を自由へと導いて見せます」

言い切った松井に佐東は頷く。

「皆、よろしく頼む。
我らが闇夜姫の為に」





*********



宏弥が二年向けの授業を終えると、西園寺彩也乃が教卓にやってきた。

あの秘密の部屋に呼ばれてからまだ一週間ちょっと。
彩也乃は綺麗な笑みで、

「先生、この後お時間はありますか?」

「何でしょう」

彩也乃は周囲にちらりと視線を向ける。
まだ生徒達が残っていて、おしゃべりは当分終わりそうに無い。

「ご相談したいことがあるのでお時間を頂けないでしょうか。
ここで聞かれるのは少しはばかれるので。
私はこの後時間はありますので先生に合わせます」

「わかりました。
僕もこの後講義はありませんから相談ブースに移動しましょう」

ありがとうございますと彩也乃はアーモンドアイを細めた。


棟を移動し、教務課などの入る棟へ移動する。
ここには進路相談の場所や、学生達が教員に質問する場所もある。
運良くパーティションつきのブースに空きがあったので、そこに二人は入るとテーブルを挟んで向かい合う。

ここには一応四名まで入れるだけの区画で、磨りガラスのようなパーティションで人影だけわかるような状態。
別に個室というわけでは無いので、声も大きくすれば外に筒抜けだ。

「相談内容をお聞きしても?」

宏弥が尋ねると、背筋を伸ばして座っている彩也乃がにこりと微笑む。

「先生が質問したいのを我慢されているのではと」

彩也乃がそう言って目を細めるが、宏弥はその言葉を聞いても特に反応しない。

「西園寺さんへの質問ですか?
特にありませんが」

彩也乃は意図が伝わって無いのかはぐらかされているのか判断できない。
仕方が無いのでもう少し踏み込んで話すことにした。

「もう一つの私について、お答えできることならお答えしようかと思ったんです」

「なるほど」

元々表情の乏しい人だとは思っていたが、ここまで食いついてこられないとやはり自分が影武者だとわかっていて反応しないのだろうか。

彼の闇夜姫への研究熱心さは守護代から報告を受けている。
佐東と接触した際もさっさと席を立って何か情報を聞き出すこともしなかったようだし、どうしてこうも反応が悪いのか彩也乃は納得がいかなかった。

「本当に先生は興味を持たれているのですか?」

業を煮やした彩也乃が面白くなさげに言うと、初めて宏弥の表情が少し崩れた。
口元を緩め面白そうに自分を見ているのに気付き、彩也乃は宏弥が思ったより性格が悪そうだと思えてきた。

「ではお言葉に甘えて一つ質問しても良いですか」

既に宏弥の表情はいつも通り。
なのに質問をしてきたので、話せることならと余裕の表情で彩也乃は返事をする。

「仕事を辞めることになったら貴女は何をしたいですか?」

てっきり、どんな祈りをするのか、どうやって選ばれるのかなどを聞いてくるのかと思えば。
彩也乃はやはり読めない相手だと認識しつつ考えた。

「海外旅行に行きたいです」

「海外旅行ですか」

彩也乃の答えに宏弥が繰り返して先を促す。

「はい。
仕事があるので海外に行ったことが無いんです。
周囲は海外旅行の他にホームステイなどもしていて、それはずっと羨ましく思っていました。
ですから海外に行って色々な物を見たいですね」

「なるほど。
西園寺さんはとても好奇心旺盛のようなので、海外での刺激はとてもプラスになるでしょう」

「先生、何か言葉に棘があるように聞こえますが」

「そんなことはありません。
貴女はどうやら心の中に少年がいるように思えるので」

それには流石に彩也乃も目を丸くした。

子供の頃闇夜姫の影武者に選ばれた。
自分の身を守るために護身術も学んで、礼儀作法の教育も受けた。
それは幼い頃彩也乃は自分から立候補したから、そういう苦労もそこまでは感じなかった。
立候補した理由、それは面白そう、たったそれだけの単純な好奇心。

必然的に幼い頃から交流のあった隆智には、お前の中身は男だろうと言われ喧嘩になった事もしばしば。
そういうのを見抜いているのはごく一部。
それを言い当てられて、彩也乃は宏弥がやはり食えないと思うと同時にこの人なら彼女を支えてくれるのではと考えていた。

『やはり他人が気付かないところに気付く。
世依さんの隠している心を見つけてくれたら良いのだけれど』

影武者として苦労が無いわけじゃ無い。
でも選ぶことすら出来ずに世界に隠れ彼女は一人で立っている。
その事に比べれば。

ふふ、と笑った彩也乃は、

「先生、世の中言って良いことと悪いことがあります。
秘密にしていることを暴くのなら、その責任は取らなければなりませんよ?」

彩也乃は少しだけ身体を前にして、悪戯な笑みで宏弥に向ける。
大抵の男子がドキリとしそうなその表情と態度に、宏弥はとても優しい目をした。

「そうですね。
そうやって人を気遣う西園寺さんも素晴らしいと思います。
仕事とは言えあまり夜更かししすぎないようにして下さい。
他に相談はありますか?」

最初から勉強の質問や進路の相談では無いと見抜いていたのだろうと彩也乃は笑いながらいいえ、と言った。

ありがとうございました、とブースの外で彩也乃は頭を下げ、宏弥が先に出ていくのを見送ってからスマートフォンを鞄から取り出す。

『やっぱり私じゃ無いって確信してるわね。
隆智くんに注意喚起の連絡しておかなきゃ』

手慣れたように文字を入力する彩也乃の表情は、とても楽しそうだった。





*********



宏弥は寒さで目を覚ました。
仕事をしたまま机で突っ伏して寝てしまい身体が痛い。
置き時計を手に取って見ると三時、それも夜中だ。

風が強いのかガラス窓がガタガタ音を立て、裏の寺の木々が大きな音を立てている。
身体が揺れていると感じたのは風のせいだったのかと宏弥は息を吐いた。

数日前、東北を震源として大きな地震が起きた。
それは以前起きた大震災を彷彿とさせ、気象庁は今後一週間は非常に注意して欲しいと国民に呼びかけた。
その後も小さな地震が起き、今回もその余震かと思ったが風によるものだったようだ。

喉の乾きに宏弥はキッチンに行こうと厚手の上着を羽織り、そして静かに部屋を出た。

家の中は電気が付いていないので暗いのだが、玄関の磨りガラスから入ってくる光が思ったより明るい。
そういえばそろそろ満月だったかと宏弥は思い出した。

寝ている二人を起こさないように静かに階段を降りてキッチンに向かおうとして、小さな笛のような音が聞こえる。
それでどこからかか風が入ってきていることに気がついた。

『どこか窓が開いているんだろうか』

宏弥は月の明かりと段々目が慣れてきて、一階廊下奥、倉庫代わりの部屋のドアが少しだけ開いているようだ。
そこの灯りはついていない。
奥に小窓があったはずなので、そこが閉め忘れて開いているのだろうと静かにドアノブを握ってドアを開ける。

そして気付いた。
小窓の方では無い、いつも食料品のストックが置いてある棚から風が吹いてきていることに。

宏弥がその棚に手をかけると簡単に横にスライドした。
そして一気に風が宏弥の身体を襲う。
目の前に現れたのは、薄暗いどこかに続く廊下だった。

宏弥はごくりと喉を鳴らす。
この先には恐らく自分の求める何かがある。
それを直感で感じていた。
だが、空気が違うのだ、この倉庫のような部屋と一歩先の廊下では。

自分には霊感など無いし、そういうものに意識をしたりもしていない。

『聖域』

この先の向こうはそうとしか思えないと宏弥は感じた。

小さな声が聞こえ、宏弥は急いで棚を閉めて倉庫を出ると近くの物陰に隠れる。
外の風の音が家の中まで聞こえるのに、宏弥には自分の心臓の音が酷く頭に響いていた。

何かが動く音がして、宏弥はあの棚が動いていることに気付き息を殺す。

「大丈夫か?」

聞こえてきたのは男の声。

「大丈夫。ただちょっと疲れたかな」

次に聞こえてきたのは若い女の声。
どちらも宏弥には聞き慣れた声だった。

「地震が起きてるからって無理する必要は無い。
あの時のことを今も背負う必要なんて無いんだ」

隆智が必死にも思えるように声をかけている。

「でも少しでもやらなきゃ」

「今日で二日連続だ。
満月も近いし流石に身体を休めてくれ。な?」

宏弥に聞こえるのは風の音と風が窓を叩く音だけ。
しばらく沈黙が続いていたようだが、階段の上がる音が聞こえる。
そしてドアが閉まる音がして、再度階段を降りてくる音に宏弥は外に出ようとした身体を再度潜めた。

誰かが近くを通り倉庫の部屋に入っていくと棚を動かす音がした。
しばらく宏弥は様子をうかがっていたがその後動きは無い。

再度あの棚に行ってみるといつも通りの位置に戻っていた。
おそらく隆智が通ったのだろうと宏弥は考えた。
気遣っている彼女を部屋に戻し、自分は仕事に戻ったと考えるのが妥当だ。

キッチンに行き、電気もつけずに冷蔵庫から一本自分用のペットボトルを持って何事もないように宏弥は部屋に戻った。




やっと部屋に光が入り出す。
宏弥はほとんど眠れずに朝を迎えた。

予想はしていた。
突然の答え合わせに出くわしたものの、驚いてはいない。
反面疑問は湧いてくる。

以前理事長が言っていたのは、新月と満月の祈祷。
なのに昨日はどちらでも無い。
二日連続で祈祷をしていた事を心配していた点を考えると、本来そういうことはしないのだろう。
ならイレギュラーなことが起きているということだ。

宏弥は身体を起こし、長い前髪を書き上げてため息をついた。
コーヒーでも飲んで目を覚ました方が良い。
宏弥はのそりと立ち上がって部屋を出た。

キッチンに居たのは隆智。
まだ朝七時前だがタオルやスポーツドリンクを用意している。

「おはようございます。
もしかして世依さん、熱を出しているんですか」

宏弥が隆智に声をかけると、おはようと言った後、そうなんだよと答える顔は疲れが出ていた。

「隆智くんも疲れているようじゃ無いですか。
もしかして熱が」

「いや俺は無いよ。単に寝不足」

宏弥に答えながらも隆智は手を動かしている。

寝不足と言うには顔色は良くない。
出来れば宏弥としては看病を変わって隆智に寝ているように言いたいが、きっとそれは許されない。

「ならせめて朝食を僕が作ります。
簡単なものになりますが」

隆智はその申し出に安心したような顔で、

「助かるよ。
とりあえず世依に薬飲ませてくる」

隆智はそう言うと用意した品々を持ってキッチンを出て行った。

宏弥は以前のことを思い出す。
世依が熱を出し、甲斐甲斐しく隆智が看病していたときのことを。

闇夜姫は万能では無い。
祈祷は非常に力を使うとされている。
おかげで宵闇師達の能力は上がるし、そもそも闇夜姫が出てくる時点で状況は切迫しているか悪いのだ。

二日連続で祈祷した、それがおそらく体調を崩した原因だろう。
最初は彼女じゃ無いと思っていた。
段々と彼女じゃ無ければ良いと思うようになり、それは真実から目をそらしていることも自覚していた。

彼女はどんな気持ちで自分と接していたのだろう。
必死に隠れこの時代まで闇夜姫と宵闇師を続けている者達の存在を暴こうとする人間を。

だからこそ今弱っている彼女に近づくのは彼女も、そして彼も嫌だろう。
宏弥は頭を振ると、まずは朝食を作る為に冷蔵庫を開けた。




翌日朝、キッチンで世依が隆智特製パンケーキを食べていると宏弥が現れた。

「おはよー」

「おはようございます。体調はいかがですか?」

「ばっちり!」

「朝からパンケーキ食いたいって言い出すほど元気だよ」

隆智が呆れながら焼きたてのパンケーキを一枚皿に載せる。
小さいサイズとはいえこれで三枚目、世依は焼きたてのパンケーキにたっぷりはちみつをかけて頬張っていた。

「宏弥さん、パンケーキならすぐ焼けるけど」

「是非そちらを。世依さんが幸せそうな顔で食べているので絶品なんでしょうね」

「単に高い粉使ってるだけだよ」

「世依、お前は世の中で料理をする人達に謝って回れ」

すみませんでした、とパンケーキの残った皿を奪われないようにしながら世依が隆智に謝っている。
それを見て宏弥も安心してしまった。

目の前で口喧嘩をしている世依と隆智。
それを見る宏弥にはもう、それがただ闇夜姫と宵闇師には見えなかった。


「明日まで出張が入った」

朝食中かかってきた電話に出た隆智がテーブルに戻ると渋い顔で報告してくる。

「大丈夫だよ、もう体調戻ったし」

「何言ってるんだ、昨日まで熱があったんだぞ」

「今日は講義休んでゆっくりするよ」

世依の言葉に隆智は信用できず不安な気持ちになるだけだ。
明後日は満月。
その祈祷まで身体を休めて欲しいが、タイミング悪く出張が入ってしまった。
いつもなら他に任せるが今回ばかりはそうはいかない。
タイミングの悪さに頭が痛くなりそうだ。

「隆智くん」

額に手を当てていた隆智が顔を上げて宏弥を見る。

「僕は今日昼過ぎに講義が終わりますし、後はここに戻ってきますよ。
仕事はここでします。
食事も凝った物は出来ませんがきちんと三食世依さんに食べさせるので」

エプロン姿の隆智はその提案に驚くことも無く、やはりホッとしたような表情になった。

「そう言ってもらえると俺も安心して出張できるよ。
別に手作りじゃ無くて出前か弁当買ってくれば良いんだし」

「わかりました。
定期的に隆智くんに世依さんの状況伝えますから」

「あのー、そこの二人で赤ん坊の面倒見るようなやりとりは」

何だかお荷物状態の世依が溜まらずに口を挟むと、隆智が呆れた顔をする。

「それだけ朝から食べられてるからといってその後どうなるかわからないだろ。
俺が見張ってないと菓子しか食ってない時がざらなんだから」

「お菓子くらい良いじゃ無い」

「栄養が偏る。野菜も取れ」

わざとらしいほど頬を膨らませている世依に、隆智は呆れながら説教を続けている。
きっと端から見れば仲の良い兄妹だろう。
彼らがもう一つ背負う物を知ってしまっても、やはり宏弥にとってこの家で同居を許してくれた若者二人だという認識は変わらない自分に少し安堵する。

『彼らの方が自分などよりよほど人間が出来ているな』

二人は宏弥がある種敵のような存在だとわかって中に招き入れた。
どんな理由があったにしろ、特に世依の安心を脅かすような真似を自分はしたくない、そんな気持ちは確かにある。

「隆智くんは世依さんが心配なだけです。
隆智くんも全くお菓子を食べるなとは言ってないんですから、まずは三食取って身体を休めて、そして適度にお菓子を食べる、でどうですか?」

「どうですかって」

隆智が宏弥の提案に呆れ気味に声を出すが、その表情は最後は笑いに変わっていた。

隆智としてはお互い立場がわかった上でのやりとり。
先日彩也乃から宏弥は影武者だとわかっていて興味が無いと連絡があった。
恐らくもう宏弥は闇夜姫が誰か気付いているのだろう。

だが隆智が一緒に暮らしていて見る宏弥は世依を、そして自分すらも大切にしようとする人間だとわかった。
最初はもっとドライで踏み込まない人間かと思ったのに。
今は世依の心身が最優先。
隆智は宏弥に世依を託すことにした。


「では僕は講義がありますので。
鍵は閉めていきますから寝ていて下さいね。
お昼は何が良いですか?買ってきますから」

リビングのソファーでクッションを抱え横になっていた世依に宏弥が声をかける。
世依は身体を起こして、

「お弁当でいいよ、大学で売ってるやつ」

「わかりました。他に必要なのがあったらメール下さい」

「ごめんね」

世依が上目遣いに謝る。
女ならではの誘いというのではなく、子供が怒られるのを不安そうにしている顔だ。
それを見て宏弥は慣れたように世依の頭を撫でる。

「隆智くんが心配します。
少ししたらベッドで寝て下さい」

「はぁい」

再度宏弥は頭を撫でて家を出て行った。
玄関の鍵がかかる音を聞き、世依はため息をつく。

「完全に子供扱い。失礼しちゃう」

きっと自分は彼の理想の闇夜姫にはほど遠い。
こんな私がそうだとして、彼は呆れないでいてくれるだろうか。

世依は自分でもよくわからない感情に、うなり声を上げながらクッションを抱きしめた。



満月も過ぎたある日、宏弥は世依に食事へ誘われた。
どうやら隆智が不在の間面倒を見てもらった事へのお礼らしい。
宏弥は必要無いとやんわり断ったが、実際はそれにかこつけた気になる店に行きたいというのが本音だとわかり、宏弥は隆智の了解を得て二人で食事に行くことにした。

『TAKATA BOKUSYA』
穴八幡宮から早稲田大学に向かう道にあるイタリアンの店。
ここは歴史が古く、昔はミルクや軽食を出す場所だったが今は窯焼きのピザなどを出している。

ドアを開けると床には小さなタイルが敷いてあり、そこに大型犬が道を阻むように寝そべっている。
店員は慣れたようにそちらの通路は使わずに道路沿いのテーブル席に二人を案内した。

「友達があの番犬に近寄ったら唸られたんだって。
撫でたいんだけど撫でさせてくれる雰囲気じゃ無いよね」

ちらちらと少しだけ鼻先の見える犬を世依が見ているが、その顔はとても残念そうで宏弥はこれが一番の目的だったのでは無いかと思えた。

二人で違うピザを頼み、宏弥はウーロン茶、世依はオレンジジュースを飲んでいる。

「お酒飲んで良いのに」

「僕は下戸ですよ」

考えてみれば家で宏弥がお酒を飲んでいることが無かったことに気付いた。
隆智は缶ビールを時々飲んでいるが、二人で飲んでいるとこも見たことが無い。

「へー。
もしかしてお酒で失敗したことある?」

「学生時代にありますね。
渋々ゼミの合同飲み会に連れて行かれて先輩に飲まされて」

世依はマルゲリータを頬張りながら目を輝かせて聞いている。

「とある教授のカツラを取ってしまいました」

ぶほ、と世依が思い切りむせた。
そしてテーブルを掴み身体を丸めながら必死に身体を震わせている。

「な、なんでそんなことに」

「トイレに行こうと立ち上がったら酒がかなり回っていたようでふらついたんです。
自分では壁に手を突くはずだったんですが、目測を誤って近くの頭に手が」

目測、と笑いのツボに入ったままの世依が絞り出すように言う。

「怒られなかったの?」

「その場の空気が凍ったことは覚えています。
そしてその教授の講義を取っていたんですが落とされましたね、全て出席して試験もそれなりに出来ていたはずが」

世依は声を上げて笑わないように必死に堪えていたが、流石に我慢できなくなってテーブルをバシバシ叩く。

「おもしろ!
宏弥さんにもそういう面白エピソードがあったなんて!」

「まぁ若気の至りです。
世依さんもお酒が飲めるようになったら自宅で自分の許容量を確認した方が良いですよ。
先人からのアドバイスです」

世依は宏弥の言葉にそっか、と言って笑っている。
そしてひとしきり笑うとオレンジジュースを飲んで息を整えた。
それでもまだ目には涙が浮かんでいる。

「私の場合はそういう飲み会に参加することは無いだろうから関係無いかな」

「どうしてですか?」

世依は笑って、

「私は、駄目だから」

そう言うと、世依は違う話題を話し始めた。

宏弥も何故とまた聞くことも無く世依の話しを聞いている。
宏弥は彼女が自由をどれだけ制限されているのかその片鱗を見た気がした。
彼女は諦めている。
いや、受け入れているのだろうか。

目の前で明るく自分のピザを催促する世依に、宏弥はピザを渡しながら胸の中でわからない感情が燻っていた。




「美味しかった!あの犬には最後まで触れなかったのは残念」

「また機会があればチャレンジすれば良いですよ」

店を出て歩道を二人並んで歩く。
この時期にしてはさほど寒くなくて、食事を終えて歩くには冷気が心地良い。

世依が店を出る前にトイレに行って帰ってくると、宏弥が会計を済ませてしまっていた。
驚いた世依が財布を開くが、それを宏弥が手で覆って鞄にしまうように言い、世依は渋々従った。

「私が奢るって言ったのに」

「では今度何か奢って下さい」

「何食べたい?」

今度、という宏弥の言葉に世依の声が知らずに明るくなる。
歩いて信号にぶつかった。
そこは穴八幡宮の前の交差点。
宏弥は指を指して、

「気になってたんですよね、あの鯛焼き屋」

穴八幡宮の信号を挟んで対面にある鯛焼き屋には、もう夜八時近いというのに人が並んでいる。
寒いせいもあって温かな鯛焼き屋はとても人気のようだ。

「今から買いに行く?」

「今はお腹がいっぱいですので。
世依さんは食べたいですか?」

「ドルチェも食べたしお腹いっぱい。
じゃぁ今度奢るね。

ねぇ、せっかくだし穴八幡宮にお参りしていこうよ。
今なら空いてるよ」

「良いですね。行きましょうか」

信号は青。
二人は信号を渡り、穴八幡宮の大きな鳥居をくぐった。
目の前の階段をゆったり上がり出す。

「そういえばこれ知ってる?
鯛焼きには天然ものと養殖ものがあるんだよ」

急ななぞなぞに宏弥は真面目に考える。

「養殖は例えば冷凍品を温めるだけとか?」

真面目な顔で答えた宏弥に、世依は嬉しそうな顔をする。

「不正解!
正解は、焼く個数。
養殖ものはたこ焼きみたいに一気に大量に焼くヤツで、天然ものは一つずつ型で焼くの」

自慢げに話す世依に、宏弥の口元が上がる。

「なるほど。勉強になります」

そうでしょう、と嬉しそうに話す世依を見ているのに、ふと過ってしまう。
彼女のもう一つの顔が。


階段を昇りきり、奥に進むと一人だけ年配の女性とすれ違っただけ。
あの夏の日の活気など嘘のようにここは静かだ。

二人で拝殿まで行き、さい銭を入れて手を合わせる。
形だけで済ませた宏弥より、世依の方が先に顔を上げていて宏弥は意外に思った。
こういうのは女性の方が必死に神頼みするイメージを持っていたからだ。

「早いんですね」

宏弥は思わず言葉にしてしまった。
きょとんとした世依の表情が、寂しげな物に変化する。

「頼むことがシンプルだから」

そう言って背を向けると砂利の上を世依が歩き出す。

夜の境内は治安を考えてそれなりの外灯が付いている。
二人以内誰もいないここには、下の道から聞こえる車の音よりも、世依が砂利を踏みしめる音の方が大きく宏弥には聞こえた。

「世依さん」

明るい電灯の下を歩いていた世依が立ち止まる。

宏弥はもう黙っていることが出来なかった。
もっと自分は我慢が出来て、いやもっと冷めている人間だと思っていたのに。

「世依さん、貴女は、闇夜姫、ですね?」

ゆっくりと、むしろ自分を落ち着かせるかのように宏弥は問いかけた。

急に世依の頭上を照らしていた外灯が、ジジッと音を立て瞬く。
そしてぷつりと灯りが消えた。

世依の身体を照らしていた灯りが消え、世依はゆっくりと振り返る。
どんな表情を見せるのか。
泣いてしまうのか、怒ってしまうのか。

だが宏弥に向き合った娘の表情は、菩薩のように穏やかな笑みを浮かべていた。