宏弥が家に戻るとダイニングキッチンに隆智はいない。
おそらく世依の部屋にいるのだろうと、とりあえずアイスを冷やさなければと冷凍庫を開ければ宏弥の買ったアイスのストロベリー味が六個引き出しに整列している。
流石は隆智くんだと宏弥は心の中で白旗を揚げアイスを詰め込んだ。
「おかえり」
後ろから隆智が冷凍庫の引き出しを開けている宏弥に声をかけた。
そしてその手に持っているアイスを見てから宏弥を見れば、何とも情け無さそうな顔をしていた。
「世依さんがこのブランドのアイスを食べていたのは覚えていたんですがどれかはわからなくて全て買ってきてしまいました」
隆智が覗くと二つずつ入っていて何故か笑ってしまった。
「なんで二つずつ?」
「僕は興味が無かったので隆智くんと世依さんでと」
「わかってないな、世依なら三人皆で同じのを食べたいって言うよ」
「そう、ですね」
やはり大切な部分を見ていない。
宏弥は自分でも自分の不甲斐なさを痛感していた。
妙に肩を落としている宏弥を不思議に思いつつ隆智が、
「朝飯買ってきてくれたんだろ?なんか食おう」
わかりました、と宏弥も答え、とりあえず買ってきた物をテーブルに出し始めた。
買ってきたサンドイッチと、宏弥が煎れたコーヒーをテーブルに向かい合って二人で食べる。
しばらくして隆智が声をかけた。
「何でそんなに落ち込んでんの」
眼鏡を既に外している宏弥が指摘されたことに不思議そうな顔をした後苦笑いを浮かべた。
「もう二ヶ月以上こちらでご厄介になっているのに、色々気付いていないなと。
昨夜も世依さんは元気そうに思えましたし、病気なら何か好きな食べ物をと思い出そうとしてもアイスのカップをぼんやり思い出せたくらいで。
隆智くんはとてもしっかりしていて、ここに住んでいる以上見習わなければとしみじみ思っていました」
この男がこんなにも気持ちを話すのを聞くのは初めてでは無いだろうか。
それも本気で反省しているのを感じ、隆智も宏弥に少し歩み寄ることにした。
「なぁ、ここに親と離れて俺と世依だけが住んでいるっての、違和感あるだろ?」
「はい。疑問には思っていました」
だよな、と隆智が言うと、コーヒーを飲んでぼんやりとしたその目は視点が定まっていないように見える。
「親父から聞いてるだろうけど世依は俺の両親が引き取った。
苗字が違う事でわかるとおり井月家の養子にはなってない。
親父からすると井月家に世依を巻き込まないためって事だが、世依は小さい頃ころから賢かったし周りの空気を読んだ。
両親は実の娘のように可愛がっているけど、世依は実の娘じゃ無いとどこかで線を引いてる。
あいつは自分が苦しくても周囲を苦しませるくらいなら無理にでも笑うことの出来るヤツなんだ。
だから俺が先にここで暮らして、高校卒業したら世依をここへ引き取るような形にした。
少なくとも両親に気を遣うよりは俺との方が気心が知れているからね。
それを両親もわかってるから許してるんだよ」
「そうだったのですね」
隆智から初めて二人だけで住んでいる理由を聞いた。
大切な彼女を守るために、彼は力をつけ受け入れる場所も用意しておいたのだろう。
半端な愛情で出来ることではない。
隆智が世依を想う気持ちは、恋という枠をきっと越えているのかも知れない。
「凄いですね。お二人にはとても深い絆を感じます。
世依さんも隆智くんを心から信頼し、そして安心して側にいられるのが伝わりますから」
隆智がその言葉に照れるか否定するかと思いきや、サンドイッチの入っていたビニール袋をぐしゃりと手で潰す。
「そりゃそうだ。俺は世依に深い傷を負わせたから」
自嘲気味に暗い目をして笑う隆智を宏弥は初めて見た。
傷を負わせたのに彼女は信頼している。
傷はおそらく心にだろう。それなら、何故。
「宏弥さんってだいぶ俺たちの前では素直というか表情が出てきたよね。
何故って顔してるがよくわかる」
指摘に宏弥は自分がここで気を抜いているのだろうと自覚する。
本来の目的である『闇夜姫』を知るということにはあまり良くない手かも知れないが、彼ら、隆智と世依にはせめて出来るだけ素直でありたいと思う。
「えぇ、何故なのだろうと疑問を抱いています」
そんな宏弥に隆智は穏やかな顔で笑った。
「でも残念。これは二人だけの秘密だからナイショ」
「なら仕方がありません。詮索は野暮ですね」
そうしてよ、と軽く笑って椅子から隆智が立ち上がる。
宏弥も立ち上がって、
「世依さんの様子を見に行くんですよね。ここは僕が片付けます。
お昼はおにぎりとお惣菜を買ってきましたので。
夜は世依さんの体調次第で決めましょう。うどんか何かなら出前も良いでしょうし」
隆智は、じゃそれでと言って、また飲み物などを持って二階に向かった。
彼女の様子はどうだろうか。
まだ苦しくて食事もろくに取れていないのではと心配になる。
様子を見に来たい。
見に行きたいが、自分が行って彼女が元気に振る舞おうと無理をしては意味が無い。
まだ彼女が弱っているときに近づいていいエリアには、まだ自分は踏み込んではいけないのだろうと理解する。
早く彼女の元気な顔が見たい。
「こういう依存はやはり怖いな」
慣れない感情に宏弥は苦笑をこぼし、テーブルの上を片付け始めた。
*********
七月、まだ大学は夏休みに入っていないが段々と学生の数が減ってきている。
日差しの照りつけた日中の暑さが夕方となった今も外には熱が籠もっているが、この会議室にはクーラーがしっかりと効いていて、そこに集まっていた男女数名が向き合うように椅子に座っていた。
ドアが開き、皆一斉に立ち上がると恭しく頭を下げる。
窓側一番奥に男が椅子を引いて娘を座らせ、男、蓮華学院女子大学学長の井月隆士郎はその横に座った。
「では定例会議を始めます」
皆椅子に座り、隆士郎の一番近くに座っていた娘が声をかける。
「現時点での宵闇師派遣状況、祓った際の報告などをまとめておりますので詳しくはお手元の資料をご覧下さい」
各自の前に置いてあるのは紙では無くタブレット。
そこに表や地図、報告書などが載っていた。
司会役の娘が話しながら、各々資料を見ていく。
「姫による満月、新月の祈祷が行われると、やはりその後は宵闇師達の能力が上がったことで効率的に祓えています。
先日は首相官邸に久しぶりに首相が住まわれるとのことで要請が来ましたが、姫の特別な祈祷により一切悪影響を及ぼす魔は全て祓い終えました」
「この表の五月のところですが、ここでは姫が行う月二回の祈祷以外に四回祈祷が行われました。
やはり月に六回は身体に大きな負担を強いて、姫は体調を崩されました。
以後基本二回、例外は二回までとしていますが、今後もこの回数を遵守して頂きたい」
守護者筆頭である隆智の言葉にほとんどの者が頷き、一部は答えを留保している。
そのメンバーを見て、
「今後大きな厄災を鎮める可能性が起きることを考えれば、姫には健やかでいて頂かなければいけないのではないか?
後は我々が動けば良いこと。それともこれ以上姫に負担を強いたいと言いたいのですか?」
「いや、まさか」
怒りを隠さない隆智に、隆士郎より年上の今年50歳となった男は焦ったように取り繕う。
その男を軽蔑のまなざしで隆智は見続け、男は誤魔化すように頬を引きつらせ笑顔を浮かべている。
「そういえば、ここに宵闇師を私的利益のために動かし、何度もその報酬を自分の懐に入れている方がいるとか」
司会をしていた娘がやんわりと宙を見ながら話し、そしてその視線を先ほどから引きつった笑みを浮かべる男、佐東に向けた。
佐東は表情を固まらせた後、ガタンと椅子を倒して立ち上がる。
「違う、違う!それは誤解だ!」
「宵闇師の私的利用は禁じられている。
我々が証拠も無く貴方に言うとでも?」
隆智が冷めた目でタブレットの画面を爪で叩く。
佐東がテーブルに置かれた自分のタブレットを見れば、先日有名企業の社長から宵闇師派遣の報酬をもらっている動画だった。
この現場にはもう一人関係者がいた。
その者が関係していなければ、このアングルでこれを撮影できるわけが無い。
佐東は横に座る長年の同僚を鬼のような目で見ると震える声で、
「お前、裏切ったのか」
「裏切った?裏切ったのは君だろう?
私は金を貰ったことも無ければ、単に今まで君の取り引きに同行していただけだよ」
「人脈を作りたいから同行させてくれって言ったのは」
「ちゃんと証拠は残したい主義でね」
飄々と言うその男、後藤の胸ぐらに佐東が掴みかかった。
奥に座る隆士郎が片手を上げると部屋の隅に控えていたスーツを着た男二人が、佐東を羽交い締めにして後藤から引き離す。
やれやれと自分のスーツを直す後藤を鬼の顔で睨んでいたが、ハッとして奥に顔を向ければ、姫が悲しげな表情を浮かべて自分を見ていた。
それがいきなり自分の心に大きなダメージを負わせる。
愛する、尊敬する、絶対的な母に知られたくなかった自分の悪事を知られ、悲しげな顔をさせてしまった事への罪の意識は、恐ろしいほど佐東に襲いかかった。
「ひ、姫」
縋るように掠れた声で佐東が羽交い締めされながら声を出す。
闇夜姫は佐東のその目から逃げることはせずに、ただ悲しげな目で見つめていた。
「あ、あぁ、あぁぁぁ!!」
闇夜姫の目に耐えきれなくなった佐東は泣き叫ぶように声を上げ、その場に崩れ落ちた。
姫の隣にいた隆士郎が、
「佐東、これにより宵闇師としての地位資格を剥奪、追放とする」
冷たく、そして強い声に、佐東は項垂れたまま泣き続けている。
隆士郎が男達に命令をして、男達は引きずるように佐東を部屋から出そうとするが佐東は抵抗する。
せめてドアが閉まる前に再度姫の姿を瞼に刻みつけようと顔を上げた。
だが自分のすぐ前に恋い焦がれた姫が立っていた。
佐東は突然のことに、涙を流し口を開けたまま驚き固まっている。
酷い泣き顔の佐東へ姫は目線を合わすように身体を曲げ、そっとその涙に濡れた頬に手を伸ばす。
「貴方が今まで尽くしてくれたこと、私はとても感謝しています。
それは皆も同じ事。だからこそ悲しかったのです。それをわかってください。
どうか、息災で」
優しく頬を撫でれば、佐東は子供のように泣きじゃくりながら、ごめんなさいと繰り返し部屋を連れ出された。
ドアが閉まり、姫の横に来た娘がハンカチを差し出す。
自分の濡れた手を見た姫は、ハンカチを差し出した娘に首を振った。
「良いのです。いずれ涙は乾きます」
会議は終了し、部屋には一部の守護者だけが残っている。
既に外は暗く会議室のブラインドは下ろされて、鹿島というスーツ姿の女性がピンク色の紅茶が入った真っ白のティーカップを各自の前に配っていた。
「これはローズヒップですか?」
カップを手に取り香りを嗅いだ隆智の質問に、美魔女と呼ばれる鹿島がふっくらとした唇でふふっと笑う。
「ビタミンCが多く入っていてお肌にとっても良いの。ノンカフェインだから眠る前にもお勧めよ」
「参考にします」
姫の為に今度煎れようと考えながら真面目な表情で答えた青年に、鹿島は可愛いと茶化す。
「さて、例の件だが」
隆士郎の声に皆一斉に彼を見る。
例の件、それはここに残る守護者達だけ特別に調査を任されている件だ。
「まずは隆智からの意見を聞こう」
隆智は口元に少し手をあて思案顔になる。
「結論だけ言えば、わからない。ですね」
それだけ言った隆智に、隆士郎が軽く笑う。
それに気付きながら隆智は、
「一見ぼんやりしていそうで、観察眼の鋭い男です。
西園寺彩也乃が闇夜姫ではないか、というブラフを与えても、真偽を積極的に確かめようという感じは無いように見受けます」
隆士郎はそれを聞き、次に先ほどまで会議の進行をしていた長い黒髪の娘に意見を求めた。
「私の感触では彼は私が闇夜姫では無いと思っているようです。
彼が私を助けたときには、もしやこれをきっかけに近づいて聞き出そうとするのではと思いました。
ですがそんな素振りも無いので、奥手なのかと私から食事に誘ってみれば笑顔で断られたんですから」
「その話を聞いたときは驚いたわよ」
肩をすくめて話した西園寺彩也乃に、隣に座る鹿島が呆れた声を出す。
彩也乃の一番の仕事は『闇夜姫』の影武者だった。
宵闇師の集まりなどでは世依では無く彩也乃が闇夜姫として出る。
宵闇師の能力を測るには本当の姫を見分けられるかが条件。
なので初めて呼ばれたときには、闇夜姫として立つ彩也乃の近くで侍女の一人として世依は並び、後でその時の話しを聞き能力を見極めていた。
「彩也乃ちゃんのお誘いなんて、大抵の男なら喜んで応じるでしょうに」
「彼は女性そのものに興味が無いのでは、と勘ぐりたくもなります」
段々拗ねるように話す彩也乃に、まぁまぁと鹿島がなだめた。
そんな女性陣のやりとりを見ながら、
「では彼が既に『闇夜姫』本人を見つけ、様子を見ている可能性は」
隆士郎の質問に隆智が難しい表情になる。
「それは無い、と思いたいのですが何せあの男なので。
隠して様子を見ている可能性も否定できないかと」
「私も彼は何を考えているのか掴めませんが、一つ気付いたことがあります」
一緒に数ヶ月住んでいると言うに隆智には断言も出来なければ、特にここで言うほど気づいたことも無かった。
だから彩也乃のその言葉に、何を自分は見逃していたのだろうかと緊張が走る。
「何度か授業後の教室を見たことがあるのですが、姫に対してだけ彼はとても穏やかな顔をするのです」
身構えていた隆智はきょとんとし、それは、と言葉を続けようとしたところを鹿島が、
「なるほど。彼は姫の本質を見抜いているのでしょう。
やはり侮れませんね」
「いや、ですからそれは違うのでは」
隆智が繕うように言うと、鹿島はテーブルに肘を突いて向かい側斜めに座る隆智に微笑む。
「隆智くんは近すぎるから見えなくなるって事も知っておいた方が良いわ。
彩也乃ちゃんがそんなことを言うんだもの、他の女学生とは随分扱いが違うのでしょうから」
「私が集めている情報の範囲ですが、彼は講義の質問には丁寧に応じますし、相手が女性だから甘くしようというタイプでは無いでしょう。
私を助けた一件で彼に対し好印象を抱いた学生も増え、アプローチもいくつかあったとか。
ですが誰にでも、僕は教員だからと一線を引いて断っているとのことです。
そこが良い、と静かにファンが増えているところが厄介ですね」
「彼、顔を隠しているけど実際はかなりの男前なんでしょ?
・・・・・・見たいわね」
「私も見たことが無いので一度水でもぶっかけて見てみようかと」
「鹿島さん、西園寺さん」
隆智がいつもの女子トークが始まりだしたのでため息をつきつつ注意すれば、二人は不満そうな顔をした。
彩也乃は一見上品で非の打ち所の無いお嬢様だが、実際の性格はかなりの男勝りで腕っ節も強く面白いことが好きな人間だ。
鹿島もそういうタイプなので、二人で穏やかなティータイムをしながら平然と下ネタで微笑むという事をするため、隆智としては近づきたくない。
彩也乃が失礼しました、と軽く咳払いして守護代と姫の方を向く。
「私は姫の影として動いておりますし、大抵の相手には偽ることが出来ました。
ですが彼にはそれが通用しないと考えておいた方が宜しいかと。
守護代としても姫に完全にたどりつかれる前に、彼に私を『闇夜姫』として引き合わせたいのでは?」
腕を組んでいる守護代の表情は変わらない。
隆士郎も彩也乃が言ったことは考えていることではあった。
だからこそ一体あの男がどこまで勘づいているか確認したかったのに、これだけのメンバーでも掴みきれない。
未だ地下の書庫について彼に開放をしていないが、そろそろ時間的に許すべきだろう。
そこでより『闇夜姫』と『宵闇師』について知り、彼は動くはずだ。
影武者に会わせればそれなりに今の状況を開示せざるを得ない。
どこでそれを行うべきか隆士郎は考えあぐねていた。
隣でただ黙ったままの姫に軽く視線を向けた隆士郎は、
「姫、彼をどう思われますか?」
直接的な質問に、他の守護者は固唾を呑んで姫の答えを待つ。
姫は一度目を伏せた後、目を開け座っている守護者を見渡す。
「彼はまだ、自分を知ることも必要なのではと思います」
特に表情も無く言った言葉に、守護者達はわからないという顔をしたが、隆智だけが面倒そうな顔をして紅茶を飲んだ。
彩也乃達は帰り、今この会議室には守護代である隆士郎、守護者筆頭である息子の隆智、そして闇夜姫の三人だけ。
部屋の電気は最低限にしているので薄暗い。
窓の半分だけ上げたブラインドから外を覗くように姫は窓際に立っていた。
流石にこの時間にはキャンパスに人は誰もおらず、並んでいる外灯が寂しげに光っている。
「夏休みには少し戻ってくるだろう?母さんも寂しがっているし」
座ったままの隆士郎が、姫の少し後ろに立っている隆智に声をかける。
「まぁ少しは顔出すよ」
気のない返事に隆士郎は苦笑し、そしてそんな息子が全てに優先させる相手に、
「ところで本音を聞かせてくれないか」
と言うと、姫はゆっくり振り返り、座ったままの隆士郎に視線を向ける。
「朝日奈君を、世依としてはどう思っているんだい?」
『闇夜姫』と呼ばれるその娘、花崎世依はいたずらな笑顔を浮かべる。
先ほどまでの何もかも温かく包み込むような表情でただ皆の様子を聞いていた娘と同じとは思えないほどに、年相応、いやまだ高校生と間違いそうな幼い表情で隆士郎に答えた。
「面白い人だと思うよ。
出来れば私達の味方になって欲しいけどね」
「なるほど。そう思える人材か、世依から見ても。
同居させたのが吉と出るか凶と出るか」
「きっとそれは、私達次第じゃ無いかな」
隆士郎に世依は笑ってそう言った。
そんな様子を側で見ていた隆智はため息をつく。
「人畜無害そうに見えても相手はいい歳した男だぞ。
先日寝ぼけてた宏弥さんのスウェットを無理矢理脱がそうとしてたのを見たときには、血の気が引いたんだからな」
「ちょっと腹筋が見てみたかった」
あはは、と明るく笑う世依に、隆智は額に手を当てた。
そんな二人を見て、隆士郎は目を細める。
優しくお互いを思いやる自慢の子供達。
なのに自分たち宵闇師はまだ幼い二人に消えない傷を負わせ、その事により二人の絆はより強固になった。
きっと世依が望むなら、隆智はどんな事でも叶えようとするだろう。
そしてそんな隆智がわかっているから、世依は安心させるために隆智の側にいる。
『闇夜姫』の縛りが必要無くなったその時、二人はどうなるのだろうか。
隆士郎の願っていることはまた身勝手なものだ。
それを、あの朝日奈宏弥が壊しそうな気がしてならない。
それだけは阻止したいが。
「隆智、世依。二人は私達夫婦にとって大切な子供に違いないんだ。
寂しいから少しくらい実家に顔をだしてくれないか」
世依は隆智の側に行き、その腕に自分の腕を絡ませる。
「大丈夫。ちゃんと隆ちゃんと行くよ。おばさんによろしく伝えておいてね」
「あぁ伝えておくよ」
いつも通りお互い笑顔で子供達は会話をしている。
姫を守るための選択だったとは言え、おそらくそう遠くない将来状況は変化するのだろう。
まだ不確定な未来を考えても仕方が無い。
隆士郎は優しげな父親の顔で立ち上がり、大切な子供達に一緒に食事に行こうと声をかけた。
大学は夏休みに入り、キャンパス内の並木道からは五月蠅いくらいに蝉の大合唱が鳴り響く。
空からは一切の影を消し去るほどの強い日差しが降り注ぎ、そして容赦ない蝉の声が重なる。
どちらもが、感じる暑さをより増加させていた。
ただでさえ肌に悪い季節もあってか学生達は大学に来ても出来るだけ建物内にいて、外にどうしても出ないとならないときには日傘を差している。
普通の大学ではあり得ない光景だろうが、それこそお嬢様女子大と言われるゆえんの一つだろう。
キャンパス内には図書館やパソコンなどの仕える情報室、学生達の勉強エリアなどが入った棟があり、宏弥は学長の案内でその棟の地下にいた。
ここは関係者以外立ち入り禁止エリアになる。
ここの部屋にたどり着く途中の廊下や、このドアのある場所の上には複数の防犯カメラ。
ドアの上には長細い電子キーがついていて、指紋認証と暗証番号の二重構えに宏弥は中に置いてある物がかなり貴重な物だというのが予想できた。
「既に朝日奈先生の指紋は登録済みです。では先ほどお教えしたように」
学長の指示で宏弥は先ほど教えられたとおり、指をセンサーに当てると上の液晶画面に暗証番号を入力するように指示が出て数字を入力する。
するとその液晶画面に『11:09 朝日奈宏弥』というのが表示され、ガチャリとカギの開く音がした。
「さぁ、中へ」
宏弥が隆士郎に促されドアノブに手をかけドアを開けると、中は真っ暗だが涼しい風が内側からながれてきた。
すぐに天井の電気が付き、横を見ると薄い肌色のスチール棚がずらりと並んでいる。
棚の壁面にはハンドルがついていて、それを回すと棚が移動するというタイプだ。
部屋の所々に湿度計が配置され、書物を保管するのに適した湿度と温度を保つためにこの部屋は管理されていた。
手を後ろに組み、隆士郎がその棚の前を歩く。
「棚を見てわかるとおり、適当に資料を置いたような状態なので棚のラベリングも特に書いていない。
購入してはその辺に置くを繰り返しているので、一応手前の棚に置いてあるものが買った時期だけは新しいはずなんだが」
「凄い量ですね。ここは他の先生方で確認されていないのですか?」
「もちろんあるとも。
だけれど論文などに使用するためにはこの乱雑な世に出ているかわからないような書物から探すよりも国会図書館に行く方が良いだろうからね。
向こうからこういうのは迷惑だという雰囲気を感じたので、そのうち誰にも声をかけることはしなくなったんだ」
なるほど、と宏弥は呟く。
学生への講義、自分の勉強に研究発表や執筆、資料を探すのは当然だが、何のとっかかりも無いところを探すほどの時間は無い。
もちろん宏弥のように川から砂金が出るかもわからない場所でずっと砂を攫うような事をしている者達もいるが。
「ここにおそらく君の求める物の欠片でもあればと思うんだが、その為には読んでみなければね、この大量の書物を」
隆士郎は楽しげに宏弥に言うと近くにある作業用の椅子に宏弥を勧め、二人で味気ないテーブルを挟んで目の前に並ぶ棚を見る。
宏弥はここで尋ねようと思っていたことがあった。
この場所に学長から案内されたのは大学に勤め出して約四ヶ月後。
おそらくその間色々と見られていたのだろう。
ようやくここに連れてこられた。
それは学長からすれば最初よりは内側に招いて良いと判断したのだと宏弥は考えた。
だからこそ今日尋ねたい。
「学長、お聞きしたいことがあるのですが」
緊張も無くいつも通りの声で尋ねられ、隆士郎は何かな、と聞き返す。
「林田教授より、学長は学長の祖父君に『闇夜姫』の話しを聞いたことがあると僕の卒論などを読んで思い出したと伺いました。
そのお話をお聞かせ願えませんでしょうか」
宏弥の目はただ真っ直ぐ隆士郎の目を見ている。
ここで聞き出す、という強い意志が伝わる目。
この青年は、闇夜姫の守護者達皆が言うように腹の内のわからない男だ。
だがもの凄い熱量の炎を心の内に秘めているのも隆士郎は知っている。
それで火傷をするのは一体誰なのだろうかと、その目を見ながら思った。
「そうだった、忘れていたよ」
とぼけたように隆士郎が言うが、宏弥の目は一切その言葉を信用していない。
「だが幼い頃の話で、本当にそういう内容だったか自信は無いのだが」
「構いません。僕もそうですので」
思わず隆士郎がその言葉に反応してしまった。
そんなのは初耳だ。何が同じなのだろうか。
宏弥の表情は変わらない。
隆士郎は気持ちを落ち着かせ、
「初耳だよ。君も聞いたことが?」
先に質問したのは宏弥。だが隆士郎の方がこの言葉に食いついて先に聞きたいらしい。
ただその手に宏弥が乗る気は無かった。
「学長の記憶は曖昧のご様子。
僕が話したことで引きずられるなんてことは無いと思いますが、念のために先にお聞かせ頂けますか」
少しだけ低くなった宏弥から一切逃がさないというようなものを感じ、隆士郎は諦めて自分から話をすることにした。
「聞いたのは父方の祖父からだ。
祖父の友人が病に倒れ医者にも見放された。
そこで噂に聞いていたある人に救いを求めた。
来たのは男だったらしく、その男の祈祷で病はみるみる良くなった。
男が言うには呪詛をかけられていたらしい。
病に倒れた友人は仕事で成功していて妬まれていた。
男は、もしも不正に手を染めてばかりの者なら依頼を受けはしなかったと彼らに言った。
どうやら男は祓い屋のような仕事をしていたようだが、その男がこう言ったそうだ。
この世の厄災がこれで済んでいるのは『闇夜姫』が在るからこそだと」
この地下の書庫は外界から遮断されたように外から音が聞こえない。
急に静かになった部屋に、エアコンの稼働する機械音だけが広がっている。
宏弥は表情を変えずに隆士郎を見ている。
先を聞きたい、という目であることを理解し、
「私は子供の頃にこれを聞いた。
そして、穢れ無き姫に助けて貰うには心の正しい人でいなければならいとも言われた。
だから子供ながらに、あぁこれは悪いことをすると呪われて苦しくなって、そういう人間には綺麗な闇夜姫は助けてくれない、だからよい子でいるようにと諭しているんだ、と思った。
感覚としては、地方でよくある天狗に攫われるぞとかそういうものの類いと思って聞き流したんだ。だからとっくに忘れていた。
まさかそれを研究している人間がいるとは思わなくてとても驚いたよ」
隆士郎の言葉は嘘と真実が混ぜられていた。
そもそも井月家は闇夜姫に仕える一族。
幼い頃から闇夜姫の話しを聞いているのは当然だ。
それをさもおとぎ話、子供への諭しとしてという形で話してみた。
さて、彼はどうでるのだろうか。
宏弥は時々相づちを打ちながら聞いていたが、聞き終わってしばらくは隆士郎の様子を見るようにずっと黙っていた。
その沈黙に耐えかねたのは隆士郎だった。
「どうしたんだい?君ならてっきり質問攻めしてくるのかと」
不思議そうな隆士郎に宏弥は目を伏せる。
「失礼しました。
闇夜姫の資料を探し色々旅もしましたが、闇夜姫について話をする人に会うことなど私と学長含めて四つの事例しか今まで無いので感慨深くなっていました」
「ここにその半分があるというのは確かに不思議な話だ。
今度は私にも君の話しを聞かせてくれるかな」
宏弥は話しを聞いて内心興奮しているのだろうか、それとも真実かどうか判断しようと冷静に見ているのか。
どうなのかわからないほど宏弥の表情は変わらない。
「わかりました。僕の方があまり内容の無い話になりますが」
「構わないよ」
「聞いたのは父の母、僕の祖母になりますが、その祖母が自分の母が幼かった頃の話を昔してくれました。
ここでは子供、としておきますが、子供が夜の道に迷い真っ暗の中彷徨っていると、黒の着物に提灯を持った一人の女性が声をかけてきたそうです。
帰りなさいと言われ帰り方がわからないと子供が言うと、その女性は子供の手を引いて歩き出すのですが子供は嬉しくて沢山話しかけました。
子供が別れ際女性に名を尋ねると『闇夜姫と呼ばれている』と言った後、子供は目を覚ましたのです。
子供は実は三日三晩高熱に冒され、もう助からないのではという状況での生還でした。
祖母は、その人がいなければ貴方はいないのよと笑って言っていましたが」
余韻を残すように宏弥の声が止まる。
隆士郎はその話しを聞き、おそらく事実なのだろうと思った。
その子供の親族が病について宵闇師に祈祷を頼み、違う場所で祈祷していた姫と子供が繋がったのだろう。
子供や宵闇師など、時々姫とシンクロするような場合がある。
確かにその時その子供が死んでしまっていれば宏弥はいない。
「不思議な話だ。
なるほど、それで子供ながら闇夜姫に興味を持ったんだね」
納得したような隆士郎に対し宏弥はそうだとも違うともわからない曖昧な表情をしている。
この話そのものが嘘だろうか。
所詮はどちらも又聞き。
聞き間違い、覚え間違いだと言えばそれまでだ。
あまりここで詮索するのは得策では無いと考えた隆士郎は、おもむろに腕時計へ目線を向けた。
「そろそろ次の予定に向かわなくては」
隆士郎が椅子から立ち上がり、出口に向かうのを宏弥も付き添う。
「先に話しておいたとおりこの棟自体が閉まっても君の指紋でドアは全て開けられる。だから君の都合の良いように出入りして構わない。
ただ息子達が心配するだろうからあまり遅い時間までは遠慮して欲しいね」
「隆智くんの手料理を取り上げられるのは辛いのできちんと話します」
そうだね、と隆士郎が目の横に皺を寄せて笑う。
「あと、調べるついでに片付けてもらえると助かるかな、もちろん出来る範囲で構わないが」
「むしろそれが真の目的でこの大学に呼ばれたのではと林田教授と話していました」
「まさか本来の目的がバレていたとは。流石は林田さんだ」
笑い声を上げ、楽しげに宏弥を見た。
「君の欲しいものが見つかることを祈っているよ」
既に閉まった味気ないドアを見て、宏弥は再度中に戻る。
ずらりと並ぶ無機質な棚には、本当に欲しいものがあるのだろうか。
もしも隆士郎が自分を警戒しているなら、見つかるとしても核心に迫る物を置いているはずは無いだろう。
それでも。
宏弥は自分の中でゾクゾクとする感情に気付きつつ、スマホにアラームをセットして宝の山かそれともただの砂なのかわからないその中に、一歩踏み出した。
*********
今夜は新月。
祈祷する場所には闇夜姫が独りこもり、祈りを捧げている。
夏になり、夜も時折蝉の啼く声がこの森のような場所ゆえに音がより響く。
そのような中でも、シャン、シャンという高く透明な音が漏れ聞こえ、男はじっとその音に耳を傾けていた。
戸を開ける宵闇師は二名。
それなりにその職をこなし、この場所を任されるのはいわゆる名誉職として位置づけられていた。
ずっと姫の様子を外で見守り、もう一人の宵闇師と呼吸を合わせ戸を開く。
中から澄んだ空気が柔らかな風に乗るように、前の廊下で片膝を突き頭を下げている者達の身体を通っていく。
『なんて心地良いのだろう』
心が安心で満たされる。
魔を祓う仕事は穢れを被ることもあるが、そういうものを一瞬にして姫のまとう清らかな何かで洗い流してくれているかのようだ。
姫が黒い着物姿で音も立てずに木の廊下を歩き出す。
その少しだけ斜め前を戸を開けた二人がろうそくの灯りで足下を照らし、他二名の男達はそれから少し離れて後ろを守るようについていく。
許しも無く顔を上げ直接姫を見ることは無礼とされ、付き添う宵闇師達は頭を少し下げたまま歩くのだが、男はどうしても我慢できずに顔を上げる。
前には柔らかな髪をなびかせる娘。
着物に焚きしめた香の甘い香が風に乗って男にたどり着き、それを惜しむように味わう。
闇夜姫は慈悲を司る観世音菩薩の生まれ変わりとされ、宵闇師にとって心のよりどころであるとともに無条件に惹きつけられる存在だった。
自分とそんなに年齢差の無い娘の背中を、男は熱い目で見続ける。
男にとって、彼女はただの闇夜姫としてではなく、ずっと想う相手でもあったのだ。
そろそろ着替えるための部屋に着くというところで、不意に闇夜姫は歩みを止める。
そして闇夜姫は少しだけ振り返ると、その男を見た。
薄暗い廊下で、姫の目が何もかもを映し出す水晶のように光る。
男は下心を見抜かれた気がして思わず一歩下がってしまった。
静まりかえっている廊下。
誰も口を開かない。
だが戸を開け闇夜姫を先導する任を負う二人は、男に不審そうな目を向ける。
男の背中には暑さからでは無く、じっとりと冷や汗が流れていた。
何か言うべきだろうか。
しかし、と考え焦っていると、闇夜姫は顔を背けまた前を向き歩き出す。
男は胸を撫で下ろし、その後を着いていった。