次の講義は午後から。とりあえず個室に戻り、宏弥はオフィス用の椅子に腰掛ける。
西園寺彩也乃。確かにいかにもな学生だ。
そもそもこの大学に『闇夜姫』に関する手がかりが見つかるのではと確信していたものの、当人がいるというところまでは考えついていなかった。
いや、そもそも現代にいる、という事に宏弥は否定的だった。
現代でも斎王に関する儀式はある。だがあくまで形式的なもの。
しかしこれだけ人が増え、人の思いもマイナスに集まることを考えれば、今も『闇夜姫』が存在してもおかしくはない。
もしも古代のままを踏襲しているとなれば支援しているのは天皇家、ようは皇室。
だが現在、皇室財産は国に帰属していると憲法にも明記されている。
とても『闇夜姫』という制度を維持できるような費用を彼らが勝手に作り出せるとは思えない。
そこで可能性が高いのが『闇夜姫』を崇めている『宵闇師(よいやみし)』の存在。
彼らは言ってみれば陰陽師や密教僧と同じ立場だった。
『闇夜姫』の強い力を分け与えて貰い、宵闇師は魔を祓う仕事を生業としていた。
だが力をつけてきて表舞台に出てきた陰陽師とは違い、宵闇師は絶対的な保障と引き換えにあくまで裏方を担った。
目立たずに仕事をしてくれる彼らを引き入れたい貴族などはいたはずで、天皇の他にパトロンが複数いた方が立場は安定する。
「そうか。
もしも今存在するのならこのような大学はあまりに都合が良い。
ここに通うのは良家の子女。元々井月学長は政財界にもパイプが太い。
都内中心部、広大な敷地。
早稲田は珍しく密教系の寺も複数あってあの家の真裏もそうだ。
ここはもしかして、そもそも宵闇師の集う場所の可能性も高いのでは無いか?」
自分の持つ知識というカードを並び直し、宏弥は部屋に一つだけある窓から外に視線を移動させる。
ここで自分の求めているものと対面できるかも知れない。
手を見れば軽く震えていることがわかり、宏弥は口角を上げた。
こんなにも興奮している自分がいる。なんと楽しいのだろうか。
震える手を見ながら、急激に何かが変わっていくことに恐ろしささえ感じていた。
*********
丑三つ時。ようは午前二時。
森の中にある古い木で造られた建物は寺の本堂のような作りで屋根は瓦、いくつかの建物と廊下で繋がっている。
その最奥にある部屋の内部は十畳ほどのスペース。
その真ん中に一人の娘が立っていた。
身につけているのは黒一色の衣。
緻密に織られたその衣は、黒一色のはずが艶やかな奥深い色を出している。
袖は振り袖のように長いが衣は上と下で別れており、下は黒の袴が床につきそうな長さ。形だけ言えば平安時代の装束である狩衣に似ている。
服には一切飾りが無く、唯一娘の手には長い木の棒が握られていた。
その錫杖のような棒は娘の頭くらいまである。
上には目に水晶の入った金の鳳凰像が乗っていて、その口先には小さなベルのようなものを咥えており動かす度に高い音が鳴る。
この部屋には大きな大きなろうそくが二本だけ。
娘が軽々とその棒を動かす度に部屋に音が響き、それが外にも漏れ聞こえていた。
前に、後ろに、軽く娘が回転すると柔らかな髪が風に乗るように舞う。
その音が止み、部屋の外で待機していた男二人がタイミングを見て部屋の戸を外に向かって開いた。
「ご苦労様でございます」
目の前に現れた娘に五十くらいの男が深く頭を深く下げた。
「片岡」
娘に名を呼ばれた男は角張った顔を緊張させながらはい、と答える。
「奥様がご病気と聞きました」
落ち着いた声。
あの闇夜姫と言葉を交わす者は限られ片岡もその一人だが、闇夜姫と言葉を交わす時は恐ろしいほどの緊張感に襲われる。
宵闇師は闇夜姫を身体で心で、この人がその方なのだとわかってしまう。
それは宵闇師になるための最低条件。
そもそも宵闇師だけで魔は祓えるが、闇夜姫の祈りがあると無いとでは段違いに違う。
ある意味闇夜姫の力は彼らの能力を底上げする。
そんな闇夜姫の影響を強く受ける宵闇師、それはイコールの能力が強いという事を指し、より強く魔を祓えるのだ。
能力の高い者は姫の近くで仕事をすることが許され、片岡は当然のように力の強い宵闇師の一人だった。
「ご心配頂きありがとうございます。姫のお心を煩わせ申し訳ございません」
片岡の妻はガンということがわかり、既に入院している。
手術を控えているが再発の可能性が高い。
仲間からはまずは宵闇師としての仕事を辞めて家庭を優先してはどうかと言われた。
だが宵闇師をしていることで優遇して良い病院に妻を入れられたのだ。それだけでもありがたい。
頭を下げたまま片岡が言うと、頭を上げて下さいという声におずおずと頭を上げれば、薄暗い廊下でろうそくの火に照らされた姫の表情は優しげだ。
「片岡、週末をもって貴方に宵闇師を降りて頂きます」
姫から宵闇師を辞めるように通告され、片岡は驚いた声を上げながら顔を上げた。
「お待ちください!私は」
「落ち着いてください」
たったその声だけにより一瞬で気持ちが落ち着いたものの、片岡はどう言えば良いのか言葉に窮していた。
ずっと宵闇師として仕事をすることに誇りを持っていた。
それも姫の側を任されてからは、この方を守らねばと強く誓った。それなのに。
「片岡、貴方は国を守るために一緒に闘ってくれました。
仲間も、そして私もどれだけ貴方に助けられたことでしょう。
ですが今貴方がしなくてはならないのは奥様の側にいて一緒の時間を過ごすことです。
奥様には貴方しかいないのですよ?」
片岡は黙ったまま姫の目を見ていることしか出来ない。
自分の何分の一かの年齢の娘は、不思議と母のような感覚を覚えさせる。
闇夜姫には慈悲を司る「観世音菩薩」の生まれ変わりというのは、こういう時に真実なのかもしれないと実感する。
宵闇師は働く対価をそれなり得ている。
だが闇夜姫は幼い頃からその立場に縛られ若い大切な時間を差し出している事に比べれば、宵闇師達には自分たちだけが大変だとはとても思えなかった。
それだけ宵闇師達の闇夜姫へ対する忠義心は基本強い。
そんな自分の事よりも人を愛するこの方にそのような気遣いをもらえたことは誉れだろう。
「ありがとうございます」
いい歳をして涙声で答えれば、闇夜姫がふふ、と笑う。
「奥様の快癒を心より祈っています。
また貴方に力を貸してもらうときが来るかも知れません。その際はお願いできますか」
「もちろんでございます」
片岡は姫の気遣いを無駄にしてはならないと、精一杯笑みを浮かべてそう答えた。
闇夜姫は着替えをする部屋に戻り侍女達によって着替えを済ませ、一人用の大きな椅子に座っていた。
侍女達から着替えが終わったことを知らされた、闇夜姫の『守護者筆頭』である隆智が部屋の外から声をかけ、どうぞという声に頭を下げて入ってきた。
『守護者』とは『闇夜姫』の最側近であり、姫のプライベートを含めサポートをしている。
守護者は老若男女十数名いて『守護者筆頭』の上、全てをとりまとめるのが『守護代』。
『宵闇師』の実質的トップになる。
「ほうじ茶でございます」
隆智が座っている姫の横に片膝を突くと一杯の温かい茶を差し出し、闇夜姫は礼を言って受け取ると香りを嗅いでからゆっくりと口に含む。
姫の肩の力が抜けたのを確認し、隆智は内心ホッとした。
彼女は明日も朝早くから大学の講義が入っている。
ただでさえ疲れているのだから早く休んで欲しいと急かしたい自分の気持ちを抑え込む。
「明日もお早いでしょう」
「はい」
「後は全てこちらが行います。どうぞ姫はお帰りになってゆっくりお休みください」
空になった器を受け取った隆智は、姫に名を呼ばれて返事をする。
「あの者をどう思いますか」
急に振られた話題。
片岡の件だろうか。
それを先に知らせておいたのは隆智だが、姫に諭され先ほど本人から感謝の言葉を聞いて終わっているはず。
ならおそらく。
「朝日奈という男のことでしょうか」
えぇ、と闇夜姫が頷くと、ふわりと髪が揺れ動いた。
「父、いえ『守護代』は食えない男だと言っておりました。
あの様子だと珍しく気に入ったようでしたが、俺にはとても」
「好きでは無い?」
楽しそうな声に隆智はわかりやすく嫌そうな顔をした。
「『闇夜姫』を面白おかしく公表されたのでは今まで我々が為してきたことを潰されてしまいます。
姫の心配となるようでしたら俺が」
「大丈夫ですよ。
守護代が気に入ったところを見るとそれなりの理由があるのでしょう。
それに、私も彼に興味があるのです」
にこりとそのようなことを言った姫に、隆智は思わず目を丸くし、そして緊張した表情に変わる。
それが何を意味しているのかわかり闇夜姫は安心させるように、
「わかっていますよ。貴方が心配するような事ではありません」
「差し出がましいことを」
そう言いながら隆智が頭を下げた。
『闇夜姫』には禁忌がある。
その一つ、いや一番難しい『生娘のままでいる』ということ。
古い時代は寿命故に『闇夜姫』の任は短かった。
だが現代は長寿の時代。
一番若く美しい時期を本人の意思に関係なく背負わされた責務に費やさなければならない。
恋の一つや二つ経験し、そして恋人がいてもおかしくない大切な時期を、『闇夜姫』は一切排除しなければならなかった。
それはどれだけ残酷なことだろう。
それがわかっているから宵闇師達の忠義心も厚い。
そして守護者達は姫に無用な男から遠ざけつつも、出来るだけの自由を味あわせたい考える。
複雑そうな表情を浮かべる隆智に闇夜姫は視線を向けた後、自分の手元に目線を落とす。
「守護代から彼の話を聞いたときに、私は嬉しいと思ったのです。
斎王は歴史の中で短い間というのに未だ形式的になったとはいえ未だに引き継がれているものの、私の立場は未だ正式に続いているのに存在が完全に消えました。
そのような中を探し出してくれた、宵闇師含め私達を理解してくれるような気がして嬉しかったのです」
まだ若い姫の横顔があまりにも儚く見えて、隆智は奥歯を噛みしめる。
誰に知られない、大きな事情があるとはいえ存在が気付かれないことはまだ若い姫にはきっと寂しい。
わかっているが、彼女の仲間である自分たちではそこを満たすことはどうしても出来ないのだと隆智は痛感した。
だが恐ろしい。
自らを知って欲しいと願う純粋な姫と、あくまで研究対象としてしか姫を見ていないあの男。
夢を見ているかのような我らの姫が、あの男に傷つけられるのではと不安に駆られる。
「姫、おしゃべりはまた後日に。移動致しましょう」
隆智は話題を無理矢理終わらせ立ち上がると、姫に手を差し伸べる。
闇夜姫はそんなことを言った本意をわかったかのように頷いて、その手を取って立ち上がった。
「大丈夫だから。そんな顔しないで。ね?」
「・・・・・・悪い」
安心させるように闇夜姫が砕けた口調で話しかければ、隆智は情け無さそうな顔で答える。
自分の方が年上なのに、どうしてこうも彼女の前だと子供になってしまうのはまだまだ未熟な証拠。
それがわかった上でなお、守りたい相手だからこそ自分は努力し続けられる。
自分の手よりはるかに小さな手を壊さないように隆智は闇夜姫の手を取って、まだ外の光は差し込まない暗い廊下を燭台を持ちながら進んだ。
宏弥が今一限に行っている講義は二年次向け。
そこには昨日世依から話の出た西園寺綾乃も出席していた。
「「斎王」という言葉を聞いて現代だとどのような映像を皆さんは思い浮かべるでしょうか。
おそらくは、伊勢神宮へ皇族の女性が祭主となり天皇の祖先神と言われる天照大御神に参拝するところはニュースで見かけたのを思い出された方もいるかもしれません。
ただそれはあくまで斎王としてでは無く祭主として参拝するだけで、講義で皆さんの学んでいる斎王とは別の役割をしています。
そしてここで京都に住まわれていた方など疑問に思ったのでは無いでしょうか。
むしろこちらの方が現代では有名かも知れません。
それは葵祭です。
これはそもそも平安京の第一の守護神とされた賀茂神社、今の上賀茂神社と下鴨神社を含むのですが、そこにも九世紀初頭斎王は置かれるようになりました。
それを戦後になって葵祭として斎王、ここでは斎王代と言われますがその行列を復活させたのです。
よって当時は二人の斎王が存在したため「伊勢斎」、「賀茂斎」と呼び分けていました」
宏弥は話ながら自分から見て左側、三列目に座る学生が気になっていた。
それは西園寺綾乃。
彼女は最初こそノートに書き込んでいたが、そんなに時間も経たず額に手を当て俯きだした。
彼女を挟むように隣にいる友人達も、心配なのか小声で声をかけている。
「大丈夫ですか、顔が真っ青ですよ」
彩也乃は誰かに声をかけられ、ゆっくりと顔を上げる。
そこには教卓でピンマイクをつけて講義をしていたはずの、長い前髪に眼鏡をかけた教員が自分を見下ろしていた。
虚ろな目をして自分を見上げるのも辛そうな彩也乃を見て、宏弥は他の生徒に、
「皆さん、申し訳ありませんが講義はここまでとします。
あなた方は彼女の友人ですか?
では彼女の分の荷物も持って保健室までの案内をお願いします。
君、立てますか?」
「はい」
彩也乃ははぁ、と小さく息を吐きながら椅子から立ち上がるとふらりとよろけ、宏弥が彩也乃の細い肩を掴んだ。
自分の肩を簡単に覆う大きな手に、彩也乃は思わずびくりとする。
宏弥はおもむろにジャケットを脱ぐと、自分達と彩也乃の荷物を持ち戸惑っている女子学生二人に渡した。
「このままでは危ないので彼女は僕が運びます。
そこの君、僕が持ち上げたら彼女の膝にジャケットを掛けてください」
彩也乃が状況を飲み込めず言葉も発せ無いまま、宏弥は失礼と言って彩也乃を軽々と抱きかかえた。
側にいた友人がお姫様抱っこ!と声を出したのを無視しジャケットをかけるように言えば、慌ててスカートから出た彩也乃の足を隠すようにジャケットを掛けた。
彩也乃は自分にされていることをようやく理解して、困惑しながら先生と声をかける。
「恥ずかしいでしょうが我慢してください」
他の学生に再度声をかけ、一気にどよめく教室を後に、彩也乃の友人達がこっちですと彩也乃を抱える宏弥を先導する。
まだ講義中の教室もあるせいか、そこまで廊下に学生はいない。
宏弥が彩也乃を平然と運ぶ姿に、彩也乃の友人達はただ驚いていた。
猫背、何だかひ弱そうだし根暗そうと思っていた教員が軽々学生を運んでいるのだ。
後ろで荷物を持って歩く友人は、思ったより先生って背中が大きい、とドキドキしてしまっている。
運良く隣の棟だった保健室に運ぶ。
学生が声をかけてドアを開ければ、仕事をしていた女性の保健師が宏弥達を見て驚き、椅子から立ち上がった。
「すみません、彼女を寝かせたいのですが」
「え、えぇ、こちらのベッドにお願いします」
保健師が足早に真っ白なベッドの並ぶ一つに行き掛け布団をめくって、そこに宏弥は静かに彩也乃を横たえた。
真っ白なシーツに艶やかな黒髪が広がる。
だが彩也乃の顔色は悪いまま。
彩也乃は小さく呼吸を繰り返しながら、
「先生、ご迷惑を」
「そんなことは気にしないでください。まずは身体を休めて。
先生、後はお任せして良いですか」
横にいる保健師に宏弥が言うと保健師は笑顔を向ける。
「もちろんです。
西園寺さんは時折体調を崩してしまうんですよ」
「あまり詳しいことを僕が聞いてしまうのも。では失礼します」
保健師が彩也乃の個人的な事情まで詳しく話しそうなのを止めるため宏弥はそう言うと頭を下げて、学生に返して貰ったジャケットを持ち保健室を後にした。
「今日も寝不足?」
宏弥から婉曲的に注意された保健師がばつの悪そうな表情で、ベッドに横たわる彩也乃に声をかける。
「本を朝方まで読んでしまって」
申し訳ありませんと血の気の無い顔で謝る彩也乃に保健師は、ゆっくり寝ていなさいねと言ってカーテンを閉めた。
彩也乃の仕切られたベッドの外では、友人達が小声ながらもはしゃぐ声が聞こえる。
「朝日奈先生、彩也乃さんの体調不良に気付いて講義終わりにしたんです」
「そしてまさかのお姫様抱っこに私興奮しちゃって」
「二人とも落ち着いてって、私も朝日奈先生とは初めて話したけれどイメージとは違ったわ。
初めて生で見ちゃった、お姫様抱っこだなんて」
はしゃぐ学生を窘めているようで同じ輪に保健師も一緒になって興奮しているのが伝わる。
彩也乃は横たわりながらもその会話はしっかり聞こえていた。
学長から聞かされていた『闇夜姫』を研究している唯一の若い学者。
興味があったもののなかなか個人的に話すことは無く、そろそろ質問に行って話してみようかと思っていた。
そんな矢先にこんな事が起きた。
そして初めてだ、こんな事を自分にしてくれた人は。
今までも体調を崩した事はあったが先生自ら付き添ってくれることなど無く、それも初めて男性に抱えられた。
心の中に何だか温かいものを感じて戸惑う。これは一体。
いや、そんなことはどうでも良い。きちんと報告をしなくては。
段々重くなる瞼に抗えず、彩也乃は眠りに落ちた。
「って話題で持ちきりでって聞いてるの、世依ってば」
「ん?」
テラスで友人達三人とランチをしていた世依は友人の言葉に気の抜けた声を出した。
「だから朝日奈っちの話だよ」
「西園寺さんお姫様抱っこ事件でしょ」
「なんだちゃんと聞いてるじゃない」
呆れた友人に、はは、と軽い笑みを返す。
宏弥が講義を中止しわざわざ彩也乃をお姫様抱っこして保健室に運んだというのはあっという間に大学内に広がった。
元々目立つ彩也乃と、垢抜けない暗そうな新しい若手教員。
そのいかにもひ弱そうな宏弥が軽々彩也乃をお姫様抱っこしたというのは、女子学生達の何かをくすぐった。
「朝日奈っち、猫背だし顔良くわかんないし暗そうに見えるし運動とか一切して無さそうなのによく出来たよね。
そりゃ西園寺さんは細いから軽いだろうけど、お姫様抱っこって滅茶苦茶やるの大変で、それを歩きながらなんて凄いって」
「女子の憧れだよね、お姫様抱っこってさ。
でもなぁ、あの朝日奈先生じゃなぁ。
声は凄く良いんだけどなんか根暗そうで。これでイケメンだったら最高なのに。
タッパも何気に高そうじゃ無い、あの猫背伸ばせば」
友人二人が盛り上がっているのを、うん、そうだねぇと軽く世依は返す。
二人は知らないだろうけれど、あの人の顔は凶器なんだよ。
寝起き悪くて毎朝起こすのは私なんだよ、と彼の秘密を言ってしまいたい。
しかし知らなかった、そんな力のある男性だったなんて。
確かに手も腕も大きいなとは思っていた。
だけれど一緒に住んでいるのに知らないことを外から知らされたことが、何故か世依は面白くない。
「世依、全然食いつかないねこの話題」
「んー、どうせ綺麗な西園寺さんだから特別扱いしたんじゃないのとか思って」
拗ねたように言う世依を見て、友人二人が顔を見合わせる。
「なになに、世依ってば朝日奈っち狙い?」
「何でそうなるのよ」
「そうよねぇ、世依には隆智さんいるもんね」
「その話題飽きた」
もう恥ずかしがっちゃって!と友人達はきゃいきゃい盛り上がるのを、世依はため息をついてジュースを飲む。
隆智とは苗字が違うせいで昔からの友人達は、一緒に住んでいても実の兄弟では無い事とその事情を知っている。
そしてそんな隆智は子供の頃から優秀な上にあのルックス、井月家を継ぐ者として色々な物を背負っているのに、世依の大学卒業まではと側で面倒を見てくれていた。
彼女作って好きにクリスマスやお正月とかのイベントも過ごせば良いと伝えても、隆智の両親と世依の四人で必ず過ごしてくれる。
自分は彼らとは血が繋がっていない。
なのに最大限の愛情を注いでくれる。
文句を言うことなど何も無いけれど、世依の心の中にある小さくて深い穴は埋められていなかった。
「夏休みまでには彼氏作りたいな」
話題が既に変わっていることにようやく世依は気付き、ジュースを飲みきってズズッと音を立てる。
そんな世依を見て二人が呆れた顔をした。
「世依は相変わらずだね」
「理想が高いのもどうかと思うよ、隆智さんいるからそれで良いんだろうけど」
「だから違うって」
世依はこの歳にしては珍しく恋バナが苦手だ。
今まで彼氏がいたことが無く、いつも漫画やドラマで仕入れた知識のみで友人との話題を乗り切ってきたし、そんな恋愛をしてみたいと心から思っている。
そんなことを話す度、世依はまだお子様と友人達に笑われるので気が付けば苦手意識が出来ていた。
「お、噂の朝日奈っち!」
宏弥がキャンパスを小さなコンビニ袋を下げ、猫背で歩いている。
既に噂を知っている学生達が宏弥を見ているが、本人は気付いていないのかスタスタと教員棟に向かっていた。
『少し前まで誰も朝日奈さんのこと気にしてなかったくせに』
そう思った世依は、あれ、と思う。
何でそう思うのだろう、何だかまるでそれが面白くないと思っているかのようだ。
きっと家族のように過ごしているから何だか変な気分なのだろう、世依はそうだと納得しながらも、遠ざかっていく背中を眺めていた。
*********
「聞いたよ!お姫様抱っこ事件」
隆智による手作りハンバーグを食べながら、向かいに座る宏弥に明るく世依が声をかけた。
今日のハンバーグは和風ソースで、刻んだ大葉をジューシーなハンバーグと口に入れれば良い香りと肉汁が広がる。
「何だよそれ」
「隆ちゃんの知り合いの西園寺綾乃さんを、朝日奈さんがお姫様だっこして保健室に運んだんだよ。
それが起きたのが一限の講義だったのに、お昼には大学内に知れ渡ってたみたい。
友達なんて大興奮で話してたよ、根暗そうで体力無さそうなあの朝日奈先生がって」
元気に話す世依の話を聞いた隆智が、不審そうな顔で宏弥を見る。
宏弥は家にいるときは伊達眼鏡もしていないし、前髪もクリップで横に留めているので顔はしっかりと出ている。
視線に気付いた宏弥が、
「講義の途中からかなり辛そうだったので。
歩けそうなら彼女の友人達に付き添いを任せようかと思ったのですが、その場でふらついて倒れそうになったので仕方なく」
「西園寺さんなら思わずそういうことしたくなる気持ち、わかるよ」
「別に花崎さんや隆智くんだったとしてもそうしますよ。
隆智君はさすがに背中に背負う形でしか運べそうに無いですが」
世依の茶化しに真顔で返されて、世依は思わず言葉が出なかった。
隣でスープを飲んでいる隆智は、絶対に俺を背負うなよと宏弥に注意している。
「そういや西園寺さんと接してみて、闇夜姫かもしれないって思った?」
世依の不意の発言に隆智の目が鋭く宏弥に向けられる。それを宏弥はすぐに感じ取った。
それに気付かないふりをして淡々と話をする。
「わからないですよ。
宵闇師は闇夜姫との深い絆でお互いがわかるなどという事が書かれていた書物もありましたが、それが正しいのなら宵闇師では無い僕にはわかりません」
「宵闇師って何?講義でやってないよね?」
「出来れば今後少しくらい触れたいと思ってますが、闇夜姫を信仰する術者、とでも定義づければ良いでしょうか」
「宗教なの?」
「ある意味そうなのかもしれません。
闇夜姫という生贄を差し出している張本人達ですが」
無邪気に質問する世依にそれに答える宏弥。
それを黙って聞いていた隆智も、最後の言葉に思わず箸を強く握りしめた。
冗談では無い。
俺たちは彼女を生贄だなんて思ってはいない。
だが実際そうであることもわかっている。
子供の頃から縛って、恋を禁じ、夜遅くに力を使う祈りを捧げさせては消耗させる。
残酷なことを強いているとわかっているが、自分たちではどうにも出来ない。
出来るのはただ守って、姫のしたいことを出来るだけさせてあげること。
おそらく一番の願いは叶えてあげることは出来ないけれど。
「隆智くんはどう思いますか?」
急に話題を振られたが隆智は動揺すること無く、
「あのさ、二人が会話している単語、そもそも俺良くわかってないんだけど」
「あれ?そうだっけ?」
「父さんから宏弥さんが闇夜姫とかいう斎王に似たのを研究してる変わった人、というのは事前に聞いただけでそっちはさっぱりだ。そんな俺にどうしろと」
「すみません、授業や質問で花崎さんには話していたのでてっきり隆智くんにも全て通じている気持ちでいました」
「いや無理だから」
困ったように弁解する宏弥は、話ながらも隆智を観察している。
わかるわけ無いだろ、と世依に突っ込んでいるが、先ほどから違和感を抱いていた。
宏弥はこういう小さな違和感を抱けば正解だと思っている。
となるとやはり彼も闇夜姫を知っているのだろう。
知っている上で知らない振りをしている、おそらく父親である学長と同じく。
だが世依は違うだろうと宏弥は思っていた。
以前から闇夜姫に興味を持ったと質問に来る。
どうも本人曰く、おとぎ話のお姫様を新しく知ったようで面白いらしい。
確かに彼女の目はキラキラとしていて、知りたいという欲求が溢れているように思えた。
「あ、そうだ、朝日奈さん」
世依がデザートのリンゴをフォークに刺して宏弥に尋ねる。
「私も下の名前で呼んじゃ駄目?
もちろん学校では言わないけど、家の中だとここだけ苗字呼びでなんか嫌なんだよね」
子供っぽい顔で世依は言うと、恥ずかしいのか宏弥に視線を合わせようとしない。
宏弥は、彼女の育った環境を考えれば苗字で家の中で呼ばれるのは自分だけ除外されているような気持ちがして落ち着かないのかも知れないと納得した。
「もちろん構いませんよ。では世依さん、で」
「えー別に呼び捨てで良いよ、宏弥さんの方が遙かに年上だし」
「それだと隆智さんの呼びかけと同じで混乱するでしょう」
「声くらい聞き分けられるよ」
宏弥からすると先ほどから世依の横で殺気立っている隆智を刺激したくないのだが、嬉しそうな世依を前に宏弥としてはどの選択肢をとるべきか悩む。
「わかりました、その件はいずれ」
ケチ!と世依は宏弥にむくれているが、隆智がわかりやすいほどホッとしている姿を宏弥は当然に気が付いていた。
おそらく隆智は世依に妹という感情では無いものを持っているのだろう。
俗に言う『恋』というシロモノを。
だが宏弥にはおそらく隆智の抱いている『恋』という感情がいまいち理解できなかった。
仕組みとしては、知識としては知っていてもそれだけ。
その好奇心を満たすために女性と交際した経験はある。
だが宏弥の恋人は気付いてしまう。
自分は相手から研究対象としてしか見られていないのだと。
手を繋いでも、キスをしても、身体を重ねても、恋人が宏弥に求めていた本当のものに気づく事は出来なかった。
「ねー、宏弥さんて恋人いるの?」
「今はいませんね」
「って事は過去にはいたんだ」
口角を上げた宏弥に世依は大きな目をよりまん丸にした。
「へー驚き。
宏弥さんってそういうの興味無いかと思ってた。
あ。あれかな、性欲解消?
それとも、研究対象?」
世依!と驚いた顔で説教をする隆智を、世依は面倒そうにあしらっている。
だが宏弥は聞いてきた世依の目に一瞬釘付けになった。
意志の強い、全てを見透かすような目。
学長や自分のような相手の裏を読もうとする目では無い。
もしかしたらこの幼そうに見えて無邪気な彼女は、もっと奥深い何かを持っているのではと思う。
『何故だろうか。
きっと闇夜姫としてのイメージに合うのは西園寺綾乃、彼女だと思うのに、本当に求められる何かは世依さんの方が持っているように思えてしまう』
不思議に、知りたい、という気持ちが沸き出している。
ただ彼女の中にあるのは光だろうか。
むしろ闇に近くは無いだろうか。
いつものように兄弟のようにじゃれている隆智と世依を見ながら、宏弥は何食わぬ顔でお茶を飲んだ。