その頃、ふと思い出すように気がついたことがある。人は学校に通う。小学校、中学校。それから高校、大学あるいは専門学校までも。

 ドラマ、小説、映画。あちこちで、みんな少しでも優秀な高校へ大学へ進もうと勉学に励んでいる。もちろんジャンルにもよるけれど。

しかし学校でなくとも、みんな、どこかしらで高みを目指している。ふと、ああそうか、と思い出すように、閃くように、気がついた。

 ——人は、仕事をするために学校にいくんだ。

 じゃあどうしてそうまでして仕事をするの? 生きるため。

 途端に怖くなった。勉強ができなくては生きていけないのだとわかったから。仕事をしなければ、生きていけない。学校も職場も、いいところに入らなければじょうずに生きていけない。

 ふと湧きあがったまま消えないで頭の奥にこびりついた考えに、震えるような恐怖を感じた。ちゃんとしなくてはいけない。賢くないといけない。そうでなければ、この世界では生きていけない。

 黒板に文字が並ぶ音を聞きながら、私は窓の外へ視線をやった。校門から昇降口までの間に、まるでそうしたことには意味なんてないとでもいうように一本だけ植えられた桜が、薄紅の花弁と新緑の葉とを織り混ぜて彩った枝を風にふわりゆらり揺らしていた。

 全部、嘘なのに。

 怖くて悲しくて、消しゴムを載せた手のひらをぎゅっと閉じた。

 全部嘘なのに、どうしてこんなにも残酷なのだろう。所詮は嘘でしかないのに、それでもいいから、この世の中は完璧な人間を求めるの? 勉強ができます。このことにはプロフェッショナルを名乗れるほどの知識や技術があります。

人間の本当のところなんて、そんなことよりももっとずっと深いところにあるはずなのに。

不純な動機で得た知識と技術を、この世は欲するの? ああそうか、この世の中は嘘しか知らないんだ。だから、本当のことなんて求めない。嘘で満足できるんだ。それゆえに、どうしようもなく残酷なんだ。

うまくやってやるという不純な動機を極め、どこかやけになって知識と技術を吸収する。そういった人が欲しいんだ。これが好きだから、こういう自分になりたいから、そういった純粋な動機では、ものは極められないし、じょうずには生きていけない。

少し汚れてしまったくらいの人の方が、きっと強いんだ。割り切りとか諦めとか、そういうものを理解しているから。

 ああ、敬人——。

 彼は、この世の中でじょうずに生きていけるのだろうか。きっと、誰よりも純粋で、綺麗な心を持った彼。きっと、好きという感情を大事にして生きていこうとするだろう。そしていつか、深い傷を負うのだ。

なにも知らないまま、見るもの全部を好きなままだから。いっぱいのものを見せてくる世界への恐怖も薄れてしまった今、彼はどうしようもなく無防備で純粋だ。

 ああ、敬人。なんてかわいそうな敬人。なんて綺麗で、なんてこの世界に向かない男の子。

 ああ、敬人、敬人——。