彼女の作ってくれたクッキーが食べたい。それは、毎年バレンタインデーにだけ作ってくれる特別なクッキー。甘いのが苦手な俺のために、純ココアを練り込んだハート型の甘さ控えめクッキーだ。
 同じように作っても、彼女と同じクッキーを作れる人は居ないだろう。何故なら彼女の愛情がクッキーに込められているから。
 誰も彼女を越えられるはずがない。毎年俺にだけそのクッキーをくれていた。
 それがもらえている限り、彼女との関係は続いていくと思ってた……。

 頬杖をつきながら、ボーッとしていると、スッと遠野が現れた。普段のように凛とした表情をしている。

「山井くん、早く委員会に行かないと遅れちゃうよ」
「えっ? ……あぁ、もう放課後なのか」
「何だか最近ボーッとしてること多いね。授業にも集中できてないみたいだし」
「まぁ、色々あって……」

 荷物をまとめ、話し合いが行われる部屋へと向かった。

 体育祭かぁ。理沙にかっこいいところを見せるチャンスだ。でも、俺の好きなテニスは種目に含まれないし……。

 俺の数歩前を歩く遠野は、先ほどと様子が変わり、何だか機嫌がいい。珍しく鼻歌なんか歌ってるし。

「何かご機嫌だね」

 俺がそう言うと、振り返って微笑んだ。

「ずっと欲しかったものが、やっと手に入るの」
「へぇ、それは良かったね。遠野の欲しかったものって?」
「身近にあるのに、なかなか手が出せずにいたもの!」
「それ、なぞなぞ⁉︎ 何だろう?」
「そんなことより、山井くんの欲しいものは何?」
「俺の欲しい物ねぇ……。好きな人と一緒に過ごせる時間かな」

 さっきまでニコニコしていた遠野が、急に無表情になった。その表情の変わり具合が恐ろしいほど急激で、俺は誤魔化すように笑った。

「冗談だよ! 今はクッキーが欲しい」
「クッキーって、お菓子のだよね? お腹空いてるの⁉︎」
「そうじゃなくて……、俺にとってクッキーは特別なんだよ」

 俺がクッキーの話をすると、義理で聞いてるかのような、つまらなそうな顔をしていた。そして、いつしか普段の凛とした遠野に戻っていた。

 気持ちが、委員会の話し合いモードに切り替わってるんだ、と思った。

 部屋に入ると、既に何人かの委員が席についていた。指定された席まで向かいながら、理沙が来てないか見渡した。

 恋をすると、どこに居ても好きな人を探してしまう。皆、こんなに健気なんだろうか?

 席についてしばらくすると、理沙と相澤が現れた。彼女の横顔を見ただけで、胸は高鳴り始める。

 体育祭の話し合いは順調に進んみ、あたりが薄暗くなってきた頃、委員会はお開きとなった。荷物をまとめていると、遠野が理沙達の元へと歩み寄る。そして、思いもしないことを話し始めたのだ。

「理沙ちゃん、おめでとう! 相澤くんと本当に付き合うことになったんでしょ⁉︎ この前は下駄箱の所でイチャイチャしてたし、雑誌にも大きく取り上げられてたの見たよ! 写真まで載っちゃって、すごいね」

 彼女は持っていた一冊の雑誌を開き、俺に見せてきた。差し出された雑誌に目を通すと、記事一面に相澤の熱愛に関して書かれていた。掲載写真はモザイク処理されているが、俺から見ると理沙だろうな、と容易に予測できる。

 何だこれ……⁉︎ この前、俺達にお礼のお菓子を買いに行った日の写真か……? 見た目によらず一途な相澤? ふざけんな。ドッグカフェでランチデートって……。

「前から理沙ちゃんと相澤くん、すごくお似合いだと思ってたんだ。二人が付き合ってくれて嬉しい! これからも勝手に見守るから、いつまでも仲良しカップルでいてね」

「それは違うの!」

 理沙が泣きそうな顔で必死に否定する。遠野が相澤に確認するように問いかけた。

「えっ、何が違うの? ねぇ相澤くん、本当は理沙ちゃんと付き合ってるんでしょ? 理沙ちゃんは、照れて誤魔化してるだけだよね?」

 皆が相澤を見つめた。そして、あいつは真剣な表情で俺を見て話し始めた。

「その雑誌のことは全部本当だよ。俺ら、付き合ってるからさ、理沙に手出さないでくれる? 山井くん」

 そう言って、あいつは理沙を後ろから抱きしめた。理沙は驚いたようにバタバタ動き、顔を横に向けた時、あいつが彼女の額にキスをした。

 どういうことだ? この二人、本当に付き合っているのか? キスも慣れたようにしてたし、理沙は本気で嫌がってたんじゃなくて、恥ずかしくて嫌がるるフリをしてたのか……? 俺だけが知らなかったんだ。

 遠野が興奮したように甲高い声を出す。相澤はそのまま理沙を抱きしめている。理沙の拒否反応が止まり、悲しそうな顔で俺を見つめてきた。

 何でそんな顔で俺を見るんだ? 俺のことを弄んで反応を見てるのか? ずっとそばに居て、理沙のことなら何でも分かる自信があった。でも今は違う。まるで理沙が、初めて会った見ず知らずの人に思える。

 遠野がいきなりパンッと手を叩いて話し始めた。

「男同士で話したいこともあるだろうし、私も理沙ちゃんと話したいから、ちょっと移動しようか!」

 そして理沙は、遠野に連れられて部屋を出て行った。静まり返った部屋には、無言のまま立ち尽くす俺と、いつもと全然違う雰囲気を出すあいつだけが残った。

 放心状態の俺に、あいつがゆっくり話し出した。

「この勝負、俺の勝ちだね。時間はたっぷりあげたでしょ? いくらでも告白するチャンスはあった。それを流したのは、山井くん、君の責任だよ」

 そう言って、あいつは初めて笑顔を見せた。拳を強く握りしめて黙ったままの俺を見て、あいつが続ける。

「俺なんかに、理沙を奪われて悲しい? 山井くんってさ、硬派に見えるけど、本当は手を繋ぐことさえできないただの臆病者だよね。そんなんじゃ、キスなんて一生できないんじゃない? プッハハハ……。そういえば、彼女が言ってたよ。『ただの幼なじみだよ』って。『全然、気持ち伝えてくれないし、自分ばかりが頑張るのに疲れた』ってさ」

 理沙がそんなこと言うわけ……。

「『もしかして理沙がそんなこと言うわけない』って思ってる? そんなの君の幻想だよ。理沙ってさ、ピュアそうに見えるけど、実はそうじゃないんだね。少し触れたらすごい積極的になってさ……。まぁ、そのギャップが可愛いんだけど。安心して、大事にするから」

 積極的……? そんな理沙、知らない。誰の話をしてるんだ? 

 笑いながら立ち去ろうする相澤の腕を掴んで睨む。

「何? 俺、男には興味ないから離せよ。責めるなら俺じゃない。何もできなかった自分だろ……。大丈夫だよ。理沙が居なくても、遠野さんが居るから。彼女、お前のことずっと好きだったみたいだよ! じゃあ、お幸せに」

 あいつは腕を振り解き、部屋を出ていく。部屋に独り残された俺は、自分自身に嫌気が差した。悔しくて、歯を食いしばり、声を我慢して泣いたのだった。